2015年1月23日金曜日

小説等を読んで勉強する方法。注意深く念入りに。

※この記事は投稿日の3週間前に書きました

「小説を読むことが勉強」とだけ書けば、いかにも滑稽じみているだろう。
例えるなら藪医者の治療や民間療法を推すようにアテにならなさそうだ。
もちろん漠然と小説を読むこと、文字をただ音に捉え茫洋と浮かべることを、勉強と呼べば「驕り」であると私も頷ける。
無為に読むだけなら、ゲームなどの遊戯に耽溺するほうが有意義となる。

しかし、国語や英語の教科書等を思い出して頂きたい。
何か文章が書いてあれば、学ぶべき要素がページの隅か、後続のページに載っていたはずである。
並びに、教師の存在によって効率よくそれを学べる。
私がやってることはこの平凡な授業の形態を、ただ一人、己を師と定めて行う必要がある。

即ち、小説や文学作品、ネット上の学術ページの一字一句を脳内で咀嚼し、語義の不明なものは検索などして語義を反芻する。
師がいて成り立つであろう一連の動作が、ただ一人、便利なPC等を持つだけで可能だが、その真価を自力で見出すことは易くない。
私の学び方は驕りどころか、寧ろ学校などで受動的に教わることよりも困難且つ高度なのだ。
ここまでの情報は、2014年11月9日の当メモ帳記事にも詳しく書いている。



もう一つ言えば、私が語学の勉強をする大きな目的は、ネット上での創作活動の・・・
以前どこかで書いたので省略(と言いつつ、どこで書いたのかも、1時間以上探してみたが見当たらない上、この記事でそれを何となく後述してるや)。
私の学び方は更にその「勉強目的」にとても適合している。
大概の人間は学問など所詮学歴の取得を経て就職の布石にするなどに終える。
私は明確に利用する必要性があって、学ぶ意欲を固持している。

そこで本家の去る2015年元日の記事「モラトリアム」だが、このように今の志を以後、いつまで続くか分からなくとも尊び、研鑽を続けて参ろう。
間断なき挑戦で以て自ずと答えが見えてくるのではないか。

これからも何かのサイトを閲覧しつつ、この勉強法を維持して語彙を増やそう。
・・・・・・この記事を書いていてあまり調子がいいと思えない。
そりゃあそうだよ、こっち系の無味乾燥記事は侘しいもんだし、2014年大晦日の記事「メタル道」などのファンタジー領域でないと色々引き出せないしね。

そう、この高度な日本語+変な英語・ギリシャ・ラテン系を摘むことが第一に至高。
創作に求める言語的価値は実用性より芸術性、音楽の曲名などで要する私にとっては日常会話に不可欠な凡庸学習よりも、奇抜な英単語等を気ままに学んでいたい。



本家ブログ、2015年1月24日の記事に掲載予定の文章
『優れた小説・文学作品を、ただストーリーのみ噛み砕いて読み進め、「1回読んでポイッ」ではいけない、繰り返し幾度となく念入りに読み直して「心肝に染めよう」ということに念を押している、この精神で以て読むことが勉強。小説のみならず、上記「日蓮大聖人」の御書等は、日蓮正宗然り、創価学会然り、その他おのおのの信徒が個人のサイト上で掲載していて、無宗教の者でも尊き教えに触れられる。これらもまた読み耽って「心肝に染める」気概で行こう。』



追記:2015年5月3日
研鑽に用いるスキルで、ネットにおいては「検索」に関わる技能が肝要だ。
それについて当記事では書きそびれたようだ。
2015年4月中に投稿した動画のリンクを載せる。
動画本体のみならず説明文をも「心肝に染める」気概で読み合わせよう。
引用符やアスタリスクなどを用いた高度且つ簡易な検索技能について少し触れている。
http://www.youtube.com/watch?v=Imn5ReTeM2c



追記:2016年11月5日
たまたま過去記事を見返す作業に当たっている中で当記事に辿り着いた。
当記事では具体的なスキルを示すことが目的であるので、以下からの文章は少し無関係となろうが、一応、記しておく。
仏教徒は、何事からも学び取ることができる。
「学習」とは、教育機関によるお膳立てと道具の拵えのみによって成立するものではない
妙法蓮華経法師功徳品の「六根清浄(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が清浄になる)」を感じ取った。
法師功徳品の取意としては、法華経を聴聞・信解・受持する人は、「六根清浄」となり、十界のあらゆる音声も香りも、その良し悪しを問わず、全て聴こえたり嗅げたりするなど、身体の五感や、思考と感情が絶倫になる。
この「六根清浄」の真意は以下のようであろう。

仏教徒は、どんな言葉や、小説・漫画という文学作品からも仏教の善悪を感じ取り、心に深く念じる(小説・漫画とかアニメとかドラマとかを見すぎてはかえって俗世の善悪に囚われて道心が薄れるのでほどほどに)。
どんな他人の発言・振る舞いからも仏教の善悪を感じ取る。
その仏教徒が善と思ったことは「爪の垢を煎じて飲む」ようにして素直に取り入れ、悪と思ったことは「人の振り見て我が振り直せ」というように自己の反省と努力の糧とする。
これが六根清浄の真意であり、広大なる功徳と称されよう。
清浄となった六根それぞれの説明に、色声香味触法といった事物を、その事物として正しく見る「如実知見」の境地が説かれている。
仏教徒が得た「何事からも学び取ることができる」功徳は、私の説明の通りである。


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