2015年3月8日日曜日

「宗祖・教祖の誰に興味があるか」を軽口で述べることは畏れ多い

今日も日蓮大聖人の御書など色々読んでいた。
すると、とある御書に「いぶせく」と、形容詞「いぶせい」の連用形が使われていた。
元々何の意味があるかは知っていても、どの時代に使われていたかなどは「情報が出そうにない」という意識から、それ以上の検索は怠っていたため、この御文を拝して感動した。
改めて検索して、万葉集などに「いぶせくも」と歌に用いられていたそうだ。

大聖人の御書、ひいては宗教関連の書物は今日にも多く伝えられている。
真筆の書や古い写本は少なかれど、近代には印刷技術も進んで多くの人間に元に文字が写された本として残され、現代においてはインターネット等で各サイトに無料で公開されている。
中でも御書を拝読することは、言語訓練にもってこいである、そう唱えたいが、それは信心してる人並びに大聖人様に何とも畏れ多い表現で、聖典を信心と違う方向で尊ぶのは「悪しく敬う」ことにならないだろうか。
よって、今まで本家ブログでも当メモ帳でもこれは推奨してこなかった。



それについて独り思索に耽っていた最中、1ヶ月ほど前にとある書き込みをFacebook上で見たことを連想させた。
東京都70代男性Aと、京都府男性Bのやりとりで、Bさんが「西本願寺は近所だが知らない寺」と言えば、Aさんは「最近は法然と親鸞に興味があります」と返していた。
何ということか、宗祖・開祖と強く仰がれる師について「最近は~興味がある」などと軽口で言えたものか。
このAさんは数年前まで日蓮について学んでいた経緯も含めると、日蓮・法華経にとっての讎敵、念仏の高僧に翻意したことなど、まともに勉強したならば有り得るべきはずもない。
例え相手の言葉に追従する意図であっても、私なら他の表現に置き換えている。

日本の浄土教方面の信者であっても、これには唖然とするのではないか。
安易に「興味の対象」なるものが移ろうことを自ら発露するのは、宗教的に見れば無節操の沙汰。
本気で信心を行う者達には蔑視されるパターンである。
興味が逸れても、本人の心情なので余人に何の関係もないことではあるが、この心境の変化を口に出すのは違う話となる。
相手の話に合わせるために引き合いに出すのもナンセンスということである。
※西本願寺というのも、浄土真宗ことに本願寺派で全国から信者の尊敬を集める総本山だが、それを軽々しくも「近所で知らない」と卑下するようBさんの発言も厚顔無恥。

詮ずる所、私も無宗教であるが、信徒の気質などを存じ上げている者ならば、これは口を憚ることだ。
私自身、日蓮サイドだと主に正宗で、某法華講員や顕正会関連の動画、その他創価学会も含めた諸々の機関紙や信徒のサイト等をネットで読み漁っているわけだが、このような方法は「信者の気質」を知るのに無宗教者では最も簡単な手段である。
何か、そのような現代でも信仰の中心に据えられた人物について、ただの歴史上の偉人と同一視して、どこかの出版社やメディアの巨視的に扱った出版物・サイト等のみで学んだだけだと、信者にどう崇められているかなど知る由もない。

今後、双方の信者は「Aさん、次はどの宗祖に興味が向くの?」と目を光らせることだろう。



ついでに、「崇める」という言葉についても一考の余地あり。
念仏サイドでは、法然・親鸞はあくまでこの「娑婆世界に生きた凡夫」の中でも「聖人」の格を以て信者に尊敬されている人物。
念仏サイドの最上の存在は「阿弥陀如来」であり、「南無阿弥陀仏」の名号を称える。
日蓮サイドでは、日蓮は御在世の頃に「釈尊・法華経」を信じることになっているが、入滅~後の世には「日蓮・南無妙法蓮華経」を「釈尊」より上位か同位に移して信心するようにしている。
朝・夕の勤行で最も一般的な「妙法蓮華経方便品」に対して「如来寿量品」では主に「自我偈」の部分(偈というのは整然とした文字数で区切られた「仏教の歌」)の読経がされているが、この偈の前にも色々書かれている。
この経では釈尊は「世尊」と呼称されている。

それぞれ、宗祖を「崇め」ているのかは私にはよくわからない。
大聖人の御書では、自身や釈尊を「崇む」という意味では用いたことは殆どない。

キリストやムハンマド(マホメット)であっても、神の存在や教えを説いたり、救世主として、或いは預言者としての振る舞いをしたが、信者からの神格化を求めたものではない。
教団によっては、それらの教祖を神と同格かそれ以上に持ち上げる場合もあるが、カルトと看做される場合も多い。



0 件のコメント:

コメントを投稿

当ブログのコメント欄は、読者から、当ブログ記事の誤字・脱字の報告や、記事の話題に関する建設的な提案がされる、との期待で解放されていました。
しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。