2015年12月25日金曜日

類聚(5) ~ 「修辞」篇

*横野要文類聚 第五篇・前節*
言(ことば)にあや有り、以て意義量り難し。
若し人、之(これ)を聞きては、或は瞋(いかり)を為し、或は心に渡らす。


横野要文類聚(よこのようもんるいじゅ)

今回のテーマは「修辞」である。
言辞を修飾する、ということであろうか。
修辞技法には多種多様あるが、私の要文がそれをいかに奏効しているかは実際に読んで感じられたい。
過去に「ニシテ表現」なる名称で、修辞技法の一種を提唱した記事があり、こちらも参照されたい。
※2015年6月以降の月別記事数"6"を揃える目的で、かなり低い完成度のまま投稿します、どうか追々内容の充実されんことを。






その言葉は耳朶を打ちつけ、胸中を穿つこと、さながら雷鳴のごとく、強靭な矢に射抜かれるごとくであった。…2015/10/25

寡黙朴訥にして能く指示をこなしていながら、親には何も伝わらないわけです。…2015/10/22

当記事注: 緒言にもリンクした、いわゆる「ニシテ表現」はこれである。



ともあれ、かの時代にあって、かかるアンチクライスト・アイコノクラストの暴言は、聖職者からの罵声を浴び、敬虔な信者からの瓦石を被ること免れ難き所業ではないか…2015/06/21

解説:「かの○○にあって、かかる(斯様な)××は」と似ている表現を続け、更には「○○からの××があり、△△からの□□は免れ難い」といった少し古風な冗長反復表現を使うが、先の「アンチクライスト」という思想は、非物質の「罵声」に通じ、「アイコノクラスト」という行為は、物質的な「瓦石(がしゃく)を被(こうむ)る」ことに通じ合う。「思想・非物質⇔行為・物質」すなわち、思想の因は罵声の果、行為の因は被石の果という、非物質・物質の対極構造をなしている。ところで、なぜ聖職者が罵声のみ浴びせるといえば、聖職者が末端信者のような暴行をすると顔が汚れ手を汚しかねないから自重しているのである。また、敬虔な信者が投げる石は、クラストされたアイコンの破片である。なお、アイコノクラストを語源ギリシャ(ローマ字)でいうと"Eikonoklastes"となる。



「理と事」の例を挙げると、例えば誰かの理に適った思考があるとして、その人がその内容を事細かに言葉で表せないとしても、確信を持っていれば要点だけ「私はしっかり論"理"的に考えた末、"事"実としてはこうなると断言できる」と話せるのだ。その弁が理に適った答えであるかは、実際に起きることを確認すれば明らかとなる。私が理を噛み砕いて説明をする中で、仮に思考が錯乱して言葉が詰まるような状態となったとしても、平静を取り戻して「事実確認」の旨を頼めばよい。事実に符合する理論であるなら、その正当性が事実に反映される。「事実確認」に念を押すことが実は、最も理を噛み砕いた表現になるのだ。「百聞(理)は一見(事)に如かず」という有名なことわざに、「理と事」の差がよく表れる。正しい理論の場合は如実に事実の形として出るが、稀にどんな理を尽くした計算をしても、事実の形が異なる場合があることもある。「理と事」の他の例だが、(後略)…2015/06/03


0 件のコメント:

コメントを投稿

当ブログのコメント欄は、読者から、当ブログ記事の誤字・脱字の報告や、記事の話題に関する建設的な提案がされる、との期待で解放されていました。
しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。