若明恵房見題目法門
明恵上人という方(1173-1232)は、華厳宗の僧侶であって中興の祖とも評されるが、実際には禅や密教の修行を多く行われた。
禅も密教も、奈良仏教・南都六宗である日本の華厳宗では本来あまり関わりがないが、明恵上人などの持戒持律の僧は宗派の別を嫌わない傾向があるためであろうか、後述するように専修念仏を弘めた法然上人のことですら、「選択集」を読むまでは慕っておられたのである。
上人のお山である栂尾(とがのお)も華厳道場から密教道場に変わった後、明治以降は真言宗に改宗してしまい、名実共に密教道場と化している。
明恵上人は法然上人の弘める浄土門「専修念仏」の義を峻烈に責めた「摧邪輪」を、法然上人の死後に著された(法然の死が建暦2年=1212年の1月で、摧邪輪は同年12月著)。
元々明恵上人は、むしろ法然上人を徳ある僧として慕っておられ、念仏の邪義については押し並べて「浅智の信者が法然上人の名を借りて言うところのデタラメ」とばかり思われていた。
法然上人の死後になり、いわゆる「選択本願念仏集」という著述作をワクワクとした気持ちで紐解き、お読みになったところ、愕然とされた。
上人はその内容に自身の理念と相反したものを読み取られ、初めて法然上人自体への軽蔑を懐き、「正しい仏法に背く邪義」としてこれを糾弾された。
法理の上からは、伝統・正統の教義を否定した邪義を摧き、更に、世間の人心を乱す悪法は悉く「選択集」から出ていることを事実の上から喝破された、というところであろうか。
私は上人の「摧邪輪」に眼福を得ない身であるため、このように勝手な想像をする。
「摧邪輪」には華厳教義がどれほどあるか、教示を仰ぐものである。
日蓮大聖人もまた、法然上人の弘めた「専修念仏」の教義を木端微塵と言えるほどに摧かんと、多くの御書において、経文などを援用した法理上からも、世間にもたらした害悪と念仏者の悪臨終(善導和尚の「自殺・七日苦しむ」臨終について疑義あり)、朝廷による念仏停止(ちょうじ)の宣旨(せんじ)などの事実上からも、徹底的に「念仏無間(地獄)」を訴えられた。
日蓮大聖人は、念仏破折の書「念仏無間地獄抄」の中で、「かかる邪道に賢者は随わない」として、「明慧房・実胤大僧正(三井寺長吏の公胤)・隆真法橋(定照の書「弾選択」に加筆した人物と創価学会の講義や辞典にある)」らが、書を著して論難したことを示されている。
このうちの「明慧房」はすなわち明恵上人のことである。
さて、日蓮大聖人の立正安国論など多くの御書では「聖人や善神は国を捨て去る、悪鬼は国土や寺社に入り乱れる」ということが説かれおり、立正安国論の場合は主に専修念仏が国内に蔓延する世相を念頭に置いている。
一方の明恵上人の摧邪輪においても、この「善神捨国・悪鬼入国」ということを説いてあるそうで、インターネット上に2つほど情報が見られた(1・2)。
片や日蓮宗の人で、とても広く大聖人の教義や所説に穿った見解(信仰上望ましくない情報)を示す人であり、片やネットにしばしば見る、個人的な読書研究をしている人である。
彼らの情報に感謝を申し上げたい。
自力教と他力教
仏教とは、「自力」による成道を目指すものか、「他力」による救済を求めるものか。
自力も他力も必ず、凡夫である自分の肉体も精神も愚かで穢れている、と自覚するところから、清浄にして徳の高い存在へ昇華すべく、仏道を志す。
ただし、ここからが「自力」の実践的修行と「他力」の信仰的修行(信仰も実践の一種だがここでは便宜上分ける)の相違点が生じてくる。
世間で言うと、自力修行は滝に打たれるとか座禅を続けるとか断食するとかであり、他力修行は仏や菩薩を念じて名号「なんまいだー or なまんだーぶ」などを唱えるものである。
他力本願、自分を「弱い凡夫・拙い凡夫」と割り切り、一所懸命に厳しい修行に明け暮れて一生を過ごすことは不可能だから、阿弥陀仏という救世主を崇めてその名を称える念仏による救い(極楽浄土に往生)を求めていく、それが浄土宗の念仏である(法然の書に"他力本願"の語は出ず、親鸞もあまり使わなかったが、法然以降の弟子から徐々に使われ始めたことが分かる)。
この原義からいえば、信仰による現世利益に対して「他力本願」などと言うのではない(巷間ではもっぱらそういった人頼みの意で用いられている)。
仏教の目的すなわち本願である「六道輪廻転生や生死を離れる」ために、厳しい修行をするよりも、尊い存在を信じ唱えて徳を積む修行についてのみ「他力本願」と言うのである。
特に法然上人の生きた時代が、世に「末法」、すなわちお釈迦様が滅度して2000年、その尊い教えまでもが消えて人々も機根(成仏の才能)が弱くなるという時代に当たると、当時の日本国中で騒がれたために、「自分では厳しい修行(聖道)による成仏は不可能」という理念を第一に、法然上人とその弟子は「南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われる」専修念仏を強く弘めていった。
ただ、この教えを拡大解釈して「厳しい戒律がいらないし、阿弥陀仏を貶めないなら、何してもいいんだ!」と思った多くの徒・弟子たちが悪さに狂奔してしまったから、伝統宗派の僧侶などが朝廷に訴えて、朝廷は念仏を制限した(制限しながらも朝廷は法然ら念仏の高僧を一応「末弟の悪行は彼らの不本意」として擁護している)。
明恵上人は、その法然上人が「菩提心を発する(発菩提心)必要は無い、念仏修行には要らない」としたことを最も大いなる「過ち」とし、「摧邪輪」において強く指弾した。
法然上人自身が何とか戒律を持っているようにしていても、その弟子たちが悪い行いをするのは、法然上人の邪義によるものだと、明恵上人は選択集を読んで痛感したそうである。
摧邪輪では、とある大乗経典に「お釈迦様は阿難に神通力をもってこのような未来世を見せました。僧侶が子供を膝に乗せ、隣に奥さんがいたり、僧侶がさまざまな悪い行いをしている光景です。阿難は、これ以上そんな非法を見せないでほしいことを訴えました。」と書かれていることを示している。
この経典に言われたことは、法然上人の弟子の一人である親鸞上人が実際に妻子を持ち「非僧非俗」と嘯いたように、法然門下に事実として現れているのである。
明恵上人は、日本の僧侶の必然的堕落を経文より予見し、摧邪輪に引用されたのであろう。
禅
現代日本では「禅」と聞いて人々が想像するものは多種多様を極めていよう。
よってまず語義から釈していきたいが、「禅」の一字は「禅那」の略である。
「禅那」はサンスクリット語"dhyāna, ディヤーナ"を音写したもので、「禅(禪)」の一字を取って「禅定」などの単語ができた(dhyānaは動詞語根√dhyaiの名詞化で本来は考える・想うことを意味する)。
この「禅定」とは、宗派ごとにきらいがある言葉ではなく、仏教で普遍的な言葉である。
ましてや「禅宗」の専売特許ではない。
この「禅定」というものは、平たく言えば「精神集中の境地」である。
その境地というものが、私のように修行足らざる身で体感できるものではないから、何とも言辞に表しがたいけれど、「悟り」を目指す仏道修行者が通過点とすべき境地といえる。
そして、禅宗が言う禅は「座禅」であるが、この「座禅」とは、その「禅定」を座ることにより得ようとする修行法である。
1時間、2時間、在家でも1日3時間以上に渡って座禅を続ける人もいるが、伝説的な極致においては足が鬱血して腐ってしまうくらい続けることもある。
それがいわゆる「ダルマ」大師様であろう、なぜ置物のダルマに足が無いかといえば、達磨大師の「座禅を9年間と絶やさず続けて足を腐らせた」逸話に起因している。
それは余談であるが、禅宗の「禅」は、「座"禅"で"禅"定を得る」ことに由来していると言えよう。
そもそも「禅宗」という呼称は、範囲が広いもので、特定宗派の名称ではない。
ビジネスの会社を「商社」とは言っても、「商社」という名で法人登記したような会社が存在しないことと同じであろう。
よって、日本では「臨済宗・曹洞宗・黄檗宗」といった宗派がこの「禅宗」カテゴリに含まれる。
明恵上人が壇越に示した修行法
冒頭にあるよう、明恵上人は密教も禅も実践される方であるが、ここまでの原案(全てでない)を書いた2015年12月から替わって、2016年1月以降の調査では、なんと日蓮大聖人の法華経の本尊と題目によく似た修行法を、在家の人に示されていたという。
今まで、明恵上人といえば、某真言宗寺院の持戒僧「かくおう」さんが目指す、禅・密教ほか戒律の実践などの修行ばかりと思われたところ、ほかにも独自の修行法があったのだ。
それが、「三時三宝礼」といい、三時(1日3回の意)に三宝へ礼拝するものである。
一枚の紙の真ん中に「南無同相別相住持仏法僧三宝」と、上人が導き出した仏法僧の三宝に対する讃嘆を書き、周囲に菩提心の異名(実叉難陀の八十華厳経より)を並べ書きした「三宝礼の名号本尊」に向かって菩提心の名号を唱える、といった、まさに大聖人の南無妙法蓮華経の御本尊・御題目そのものである(本尊・題目については私の勤行実践動画が分かりやすい)。
大聖人に先んじてこのような修行法(礼拝の作法)を編み出し、弟子あるいは壇越に示されたということはとても衝撃的であった。
明恵上人の信者にも、様々な階級や貧富の差があるため、多少その方法をするのに困難(仏像を家に置けないなど)な人に、形式をやや崩してもその信仰の利益は等しくあろうことを教示されている(ほかの難しい修行が出来なくてもこの信仰だけで利益がある、とまで語られる)。
当時の人々の機縁に合わせた「易行」の教理を垣間見よう。
といった情報をインターネットで確認した(活字の本の複数に載っているとして出典あり)。
これが日蓮大聖人の題目法門の原型であると見る人もいる。
仏教を学ぶと、「南無妙法蓮華経を唱えることでのみ功徳を得て成仏できる、という思想は南無阿弥陀仏で利益があり浄土に往生できる思想と似ている」と思う人が多い。
だが、大乗仏教・信仰の奥義を究めれば、蓋然的にこの日蓮大聖人・明恵上人のような形式に達するものではなかろうか。
また、この明恵上人を尊敬している「かくおう」さんは、この明恵上人の信仰修行をご存知でいるか、その場合どう捉えているか窺いたく思う。
ここで、たまたま本題にあるよう「明恵上人が法華題目の法門を見た場合どう思われるか」ということを考え直すこととなる。
この題を定めた2015年12月16日当時は、「かくおう」さんが言うような持戒持律の聖なる行を専らにしている僧侶の姿が、明恵上人の偶像として私の中に成立していた。
念仏を始めとした信仰の形式は厭っている印象があったが、やはり本来法然上人を慕われた明恵上人は、その専修念仏のような信仰の形式には否定的でなかった可能性も言える。
私は日蓮大聖人に対して専修念仏の信仰修行形式に影響がある可能性を今まで思っていたが、実際には明恵上人から受けた影響が強いかもしれない。
この点で、もし明恵上人が日蓮大聖人の題目御法門を知られたら、法華曼荼羅に向かって法華題目を唱える「唱題」の修行については、何らかの同調をせられようことを愚見する。
ただし、大聖人が信徒より供養されたお酒を飲まれたこと(病の治療あるいは寒い身延の山を過ごす手段)や、末法無戒(末法は法華経を受持することのみが唯一の持戒)の思想については、「不飲酒戒」を深き思慮より固く持たれる明恵上人にとり、反発されるであろう。
大聖人も、末法の衆生には五戒から具足戒まで持戒持律という行法が難しいばかりか功徳も無いことを、経文・論文の所説と世相を読み取り、深き思慮の末に説かれたことと拝察するが、法然上人と同じように明恵上人が指弾するところとなろう。
また、明恵上人は「正・像・末(三時)」の法理を時代区分の一説として認めるも、それに託けた上での極端な末法思想を認めていないようである。
一方で、若し明恵上人の本尊と菩提心名号信仰が広まることがあれば、大聖人は涅槃経の「願作心師、不師於心」文をひいて破折されよう。
私の信仰について綴る。
物質的に恵まれない私が、模造の十界曼荼羅を入手できたことは、法華経に言う「如渡得船」のような喜びであるが、やはり仏壇から取り出して自室にお遷しするのは何か罪悪感がある(最初は仏法守護としてこれを勇んで行っていた)。
在家は「仏間」という特別な空間に曼荼羅や仏像などの本尊を置くように、生活の場として料理までするこの部屋に、扉も無いカラーボックスに安置することは形式的に誤りがあるのであろうか。
なお、明恵上人は臨終に際し、病床を仏像と曼荼羅で飾り上げたということは比較的知られる事跡(伝承?)である。
さながら自室に美少女フィギュアを飾ってアニメポスターを掲げる人、さながら自室に軍艦や戦闘機の模型を飾って国旗や軍旗を掲げる人のようにも思ってしまう。
さぞ、満足な臨終となって成仏に向かったことであろう。
日蓮大聖人が臨終に臨むにあたっては、いわゆる「臨滅度時本尊」をお掛けになったことが有名である。
最後に、明恵上人は「阿留辺幾夜宇和」において「涅槃を求めて一人山林で過ごしている僧侶は道心あるように取り繕うだけの誑惑だ!僧侶は僧伽の中で過ごして互いに非法を制しあってこそ菩提が優る(取意)」と仰せられている。
これは「閑居求道者(けんご・ぐどうじゃ)」を僭称する私への厳誡として、重く受け止めておかねばならない。
孤陋の私は、心の日蓮大聖人・釈尊・諸仏・諸菩薩・諸大弟子より、常にお叱りを受けたく思う。
いよいよ道心を堅固に、菩提心を倍増し、真理への階梯を突き進んでいこう。
初版20151216
※文中の通り、12月中の未熟な調査に対して、1月2日以降はグッと進んだこともあって、12月記述には情報不足・不完全極まる部分も多くあり、記事内で玉石混交となっている。
明恵房高弁 是聖房蓮長 法然房源空
追記2018
2017年に浄土真宗の僧侶が運営していると宣言されている「資料集」サイトに、明恵上人の摧邪輪(巻上・中・下)が公開されていることを知った(拝読した)。という、その旨を示す。
http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E6%98%8E%E6%83%A0/index.html
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