2019年4月6日土曜日

母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門

表題のようなテーマから、言語音声と音楽メロディの調和を考えることが、2017年以降の私の個人的な課題となっている。
2019年以降、2017年に私が投稿した音楽動画の数々は、続々と2周年になっている。
それら音楽動画のうちの楽曲には、表題のようなテーマに基づいて付けられた日本語歌詞があるので、説明とともに公開しようと思う。

当記事は、表題のようなテーマにならった一つの理論・仮説を説明する。
「楽語共調(がくごきょうちょう、シンフォネディ 英語 symphonedy, ラテン語 symphonoedia, συμφωνῳδία 造語 of σῠν- + φωνή + ἀοιδή cf. symphoniacomoedia)理論 theory (または仮説 hypothesis)」と呼ぼう。
私は今まで、漠然と「母音 (vowel) の広狭 (?) と音階(後に呼称変更→音高 pitch) の上下 (?) は規則的な関りが強いほど主観的に良い聴こえとなって調和し (harmonize)、歌の魅力を損じないようになる」と仮定してきたが、2019年3月以降、理論化することにした。
そうして、新たに母音の特徴や、音声の道理を学ぶ必要が出てきたので、それを詳細にまとめた。



●日本語の基本的な5母音の特徴

その導入として、日本語の基本的な5母音 (5 vowels) から説明する。
参考までに、「5母音でない言語」であるフランス語やイタリア語は「え(エ)」に相当する音を /e/ (é 非円唇前舌半狭母音) と /ɛ/ (ê, è 非円唇前舌半広母音)として微細に区別(弁別)するが、そういった外国語発音の事情は当記事で基本的に紹介しないこととする。
それと別に、学問用語(術語)の英語における名称は頻繁に併記する。
また、発音の厳密な区別を示す場合に、国際音声記号 = IPAによる音素 (phoneme / /括り) や音価 (phone [ ]括り) を併記する(初心者の方はこれを知らなくても理論の趣意が分かる)。

日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音(以下、五音)のために、言語発音全般の母音の特徴による二分(にぶん dichotomy)か三分(さんぶん trichotomy)をする必要がある。
日本語のための「二分ないし三分」であり、外国語の事情を介すると、当然、より詳細になるが、当記事の問題でない。


言語発音全般の母音の特徴で
日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音を示す図
右図は日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音を言語発音全般の母音の特徴で示している。見ようにはX-Y-Z 3 dimensions, 三次元である。立体図形で再現できる。以下に値 (value) を書いておくが、あくまでも日本語の国語学的な最小限 (minimum) のスケールにした。外国語などと比較して科学的絶対性を求めるならば、数値はもっとプラス・マイナス両方向に大きくとられてもよい。

横軸X = 舌の前後の程度を二分(稀に三分)す 値-1, (0,) +1
縦軸Y = 口の広狭の程度を三分す 値-1, 0, +1
色相Z = 唇の円さを二分(稀に三分)す 値-1, (0,) +1



まずは、発音時の口の広狭の程度(口唇や口腔の舌などで摩擦音・阻害もとい阻碍系の子音 obstruent が生じない範疇)=広さ(英語圏では舌の高低による観点で高さ heightという)によって、三分をしよう。
「あ」が広い音 (open vowel)、「い・う」が狭い音 (close vowels)、「え・お」が広い音と狭い音の中間の音 (mid, open/close-mid vowels)である。
このように、広い音、狭い音、中間の音の三分がある。
熟語にすると、広母音(こうぼいん ひろぼいん)・狭母音(きょうぼいん せまぼいん)・中央母音(ちゅうおうぼいん)である。
位置の高低によって低母音(ていぼいん low vowel 広母音)、高母音(こうぼいん high vowel 狭母音のこと)ということもある。



続いて、舌の位置の前後の程度 (backness) がある。
「舌の位置」とは、あくまでも舌尖や舌端といった「子音をなす(作る)部分」以外の最高部である。
前側に舌の最高部が位置して発せられる音=前舌母音(ぜんぜつ- front vowels)には「い・え」が挙げられる。
後側に舌の最高部が位置して発せられる音=後舌母音(こうぜつ- back vowels)には「う・お」が挙げられる。
「あ(広い母音)」については前舌と後舌の中間 (central) の位置で発するということ(IPAで ä 非円唇中舌広母音)が音声学の一般的な見解であるが、前舌と後舌のどちらで発することもよい。
念のために注記しよう、もし「う」の音を前舌の位置で発すると、フランス語の"u"やドイツ語の"ü"や古代ギリシャ語のΥ υ(ウプシロン、ユプシロン。現代ギリシャ語ではイプシロンでイの音に変化ずみ)の発音に似た、「日本語話者がどのような状況でも発することの無い母音」 [y] となる。



続いて、唇の円さ (roundedness) がある。
円い唇で発せられる音=円唇母音(えんしん-)には「い・え」が挙げられる。
円くない唇で発せられる音=非円唇母音(ひえんしん-)には「う・お」が挙げられる(他の呼称では平唇母音 へいしん-)。
「あ(広い母音)」については円唇と非円唇のどちらで発することもよいが、後舌の時に円唇にすると、イギリス英語(特にRP発音)における"hot /hɒt/"の"o [ɒ]"、いわゆるホットのホにある母音オ [ɒ] と同じ発音になり、日本人の耳でもオ(お)の音に聴こえるので、基本的に非円唇で発するとよい。



う段音価の母音「う」は唇の円さや舌の前後位置が中間的とされ、その程度も話者や状況によって多様であるように分析されている。
状況による「う」の音の差異は、代表的に言われる例が語中で ɨᵝ 、語頭と語末で ɯ̟ᵝ が現れるということであり、前者 (補助記号ぬき: ɨ)は舌の位置から言えば「中舌母音(ちゅうぜつ-)」である。

(過去記事引用・前略) 現代日本のウ音は音素として/ɯ/と表記されるが、実際の現代人発音は/ɯ/平たい唇・/u/円い唇よりも中間的であり、極端な唇の動きとならない。
この場合、IPAで音価として[u̜] (uの下にC字記号で円唇が弱まったもの"less rounded")や[ɯ̟] (ɯの下に十字で後舌がやや前になったもの"advanced")や[ɯ̈] (ɯの上にウムラウト記号で後舌が中央寄りになったもの"centralized")や[ɯᵝ] (ɯに上付きβで平たい唇・非円唇の程度を抑えたもの"compressed") (他に [ɨᵝ] と [ÿ] と [ɯ̟ᵝ])として現代日本のウ音の代用表記がされる。
 - https://lesbophilia.blogspot.com/2018/03/fricativization.html#artifoot

(過去動画説明文引用・前略) 語中ウと語末ウは ɨᵝ と ɯ̟ᵝ で区別されることがある
 - https://www.youtube.com/watch?v=fC70wNfVZn4


いわゆる日本語の「五十音」は「あ段・い段・う段・え段・お段・ん」で構成されており、「ん」以外は「あ・い・う・え・お」五音を伴って発せられる。
五十音のうちの音は、音声学的に「モーラ (mora 拍) による発音 (moraic)」とみなされ、私も2014年以降、そう呼んでいる。
このモーラが、日本語のうちの音の、言語的な意味を得る最小単位である。
「か(カ ka)」や「ゐ(ヰ うぃ・ウィ wi 井戸の井も昔はこの発音)」などは1つのCV音節(CV = consonantとvowelの頭字語。音節 syllable)であり、1モーラでもある。
モーラの観点では、「ん」や「っ (促音・長子音 gemination、小さいツ)」や「ー (長音、長音符)」も1モーラとして数える(e.g. カッターは4モーラ、キャットは3モーラ。英語の cutter は2音節、 cat は1音節)。
「ん (撥音 moraic N, 成節鼻音 syllabic N/nasal)」については、状況によって音節主音=1音節となりえるし、日本の音楽では「ん~♪(例えば"永遠"という中国語からすると2音節 yǒng yuǎn になる語句を"えーい、えーんー"のように4音節相当でされるような発音)」として長く伸ばす発音も多い。
ここまで、日本語の伝統に基づく立場で「あ・い・う・え・お」の母音順を用いたが、「広狭・前後・円非円」という音韻論・音声学による分析で「あ・え・い・お・う (a, e, i, o, u)」の母音順に変えて話す。





●母音の科学的な意味で本質的・客観的な特徴は如何

あ・え・い・お・う五音は、音響学的に・聴覚的にどのような特徴があり、人間に認知されるか、科学的絶対性に近い立場でも考証したい場合は、以下のように実験する。
まず、あ・え・い・お・う五音を発するとき、それ自体は個別言語イントネーションや日本語のピッチアクセントが反映されないよう(いわゆる平板の状態で頭高・中高・尾高を制御)にし、録音する。
その音声を視覚的に表示する手段が有る。

音声波形 (waveform) は、音声信号に対応した2D波形である。
X軸に時間、Y軸に音の大きさもとい音の信号の振れ幅を示す。
それのみでは、当記事の目的による実験に適していなかろう。
今回に、私はこれを用いない。

スペクトラムアナライザ (spectrum analyzer) は、音声信号に対応した2D音声視覚化の形式の一つである。
一般に何通りか系統の違いはあるが、私の使用できるものは同系統の2つである(過去動画に紹介済み、ちなみにAviUtlの"音声波形表示"にはスペクトラムアナライザ相当のType3, 4, 5がある)。
X軸に周波数、Y軸に音の大きさもとい音の信号の振れ幅を示す。
時間の次元に対応すべく前の時間の折れ線グラフを薄い色で重ねるものもある。
この実験に用いるべきかどうかは使用者の目的性や感性による。
今回に、私はこれを用いない。

スペクトログラム (spectrogram) は、音声信号に対応した3D音声視覚化の形式の一つである。
X軸に時間 (time 単位は秒 sec.)、Y軸に周波数 (frequency 単位はヘルツ Hz)、色の濃淡(Z軸でも可)に周波数の振れ幅 (amplitude 単位はデシベル dB) を示す。
これを実験に用いてみよう。

以下、スペクトログラムを表示できるソフトの一つ Praat のスクリーンショットが2点ある。
サンプルの音声としては、2019年3月16日に私が自ら録音した「あ・え・い・お・う」A, Bである。
音声を聴きたい場合は、2019年4月6日YouTube動画も参照。

Praat より 一。
スペクトログラムは下部
(上部は音声波形)。
次に解説画像
「あ・え・い・お・う」を発した音声のうち、A = 現代日本語のピッチアクセントがついたものと、B = 平坦に発したものとを比較してみると、ピッチアクセントの有無という差がA・B範囲内の各母音間にあることが表示されていないと判断できる。
スペクトログラムの画面において、「い」の音には「い」の音たる特徴がどのようにあるかといえば、同じく狭母音である「う」の音の発音時間内の周波数帯域と振れ幅とを見比べることで分かる。
振れ幅が強い部分(色が濃い部分)のうち最も周波数の低い領域に注目しよう。
「い」は上下に開いて振れ幅の強い帯域があり、「う」は詰まって振れ幅の強い帯域がある。
また、「い」は、広母音たる「あ」の音(日本語でのそれ)と比べて下側=低い周波数の帯域に振れ幅の強さが見られる。
どの子音(/k/や /t/や /n/など)を発しても、その後に「い」や「う」や「あ」の母音発音が0.3秒間であれ1秒間であれ伴うならば、それらの母音発音の特徴が確実に看取できるであろう。

Praat より 二。
「振れ幅の強い帯域」の見た目は、時間のY軸上に見られる「ピーク (peak 頂点)」であり、言語音声において発音を特徴づけているものを「フォルマント (formant)」と呼ぶ。
自然界の様々な音声には同じ時間(Y軸)上のピークが複合的に見られる (e.g. 倍音 overtone) が、音声学としてはX軸の下=周波数の帯域の低い方から2つのフォルマント = F1, F2 に注目する。
母音音声は、F1, F2の値 (value) の差が、先述の「口の広狭・舌の前後・唇の円さ」という調音方法によって明確であるものとして扱うことができる。

英語版Wikipedia - Formantに載る"Catford, J. C. (1988)"の情報から近似する音を示そう。
日本語の「い」近似音 [i] はF1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz)
日本語の「う」近似音 [ɯ] はF1 = 300 Hz, F2 = 1390 Hz (差異 1090 Hz)
日本語の「あ」近似音 [a] はF1 = 850 Hz, F2 = 1610 Hz (差異 760 Hz)
これは平均値"average vowel formants"として載せられているものであり、個々の話者や状況による変異はあるとしても、先述のようにF1とF2の値の差が特徴的であるとして信頼できる。

参考までに日本語の「う」の唇の円さを高めた西洋言語にあるような円唇後舌狭母音 [u] は F1 = 250 Hz, F2 = 595 Hz (差異 345 Hz)であって、 [i] F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) とは、狭母音共通の特徴として「低い周波数の帯域 F1 の強い振れ幅」が見られる。一方でその上隣の帯域に強い振れ幅を持つ F2 は、いわゆる極北、最右翼とでもいえるくらい乖離する。これは、「え・お」のような中央母音や中舌母音などを介すれば、数値が反比例していると感じられる。ほか、参考までにイギリス英語RP発音"hot /hɒt/"の"o" 円唇後舌広母音 [ɒ] は F1 = 700 Hz, F2 = 760 Hz (差異 60 Hz)であってF1, F2の差異が自然言語の音声として最小クラスであり、音名として対義語尽くしの非円唇前舌狭母音 [i] とは正反対である。

他にいろいろと示したいことはあるが、それは学習者各位の自由でよいとし、そろそろ音楽の話題に入ろう。





●音高の上下あるボーカルフレーズ、その対応する歌詞

ボーカルフレーズを構成する「音(小さい単位)」とは、元の楽譜やMIDIデータだと音符もといノート (note) と呼ばれるべきであるので、そう呼ぶ。
先述の「モーラ (mora)」の発音が、日本語の楽曲において最低でもノート1つ分を持つ。
イメージしやすく言えば、楽譜に歌詞が書いてあること(小学校の音楽の教科書で五線譜にのる音符ごとに対応した歌詞の字が書かれている状態)を思い返せばいい。
これは、仮に言語音声が1モーラ相当で声(母音など音節主音)を長く発して音高の上下があるとき、もう1つノートをその音高にも配置することで、2つ以上のノートを持つことになる。

音高・ピッチ (pitch) の上下とは、端的に言えば、一般的な「音階・スケール (scale) =異なる音高を持つキー (key, keys) の並び」の範疇においてノート (notes) が高いところ・低いところに移動してゆくことであり、「上下 (up-and-down)」とは周波数やMIDIのピアノロールに見られるような、数値や視覚表現での上下である。
視覚表現としてMIDIのピアノロールを私は多用するので、私がそう表現することについて留意されたい。
それについてもどのようなものか私の投稿作品(先の記述に挿入されたリンク他YouTubeのSundarknessチャンネル投稿動画など)から知るとよい。

以下から理論や実例を示すが、『あくまでも「メロディの美醜(好悪・好き嫌い good-and-bad)」の客観的な基準は存在しないものの多くの人が「共通主観性」で好むであろうと思われる特徴を合理性や数学的・科学的な考え方で求めたもの』、と理解していただきたい。
当記事で言うような主観性とは「人生における音楽的経験」などに依存して各々が持ち合わせている音楽的感性(楽器・調律・ジャンル・声色などに対する好悪)とその自意識とである。
良いか悪いかは、各々の主観性で判断するとよろしい。



原則的な事項がある。
母音の広狭ないし中間(中央)は、そこに絶対的な「こういう印象」が求められるかといえば、スペクトログラムや科学的技術の手段で特徴を明かしてから「広母音は明るい (bright)、狭母音は暗い (dark)」と判断できそうである。
しかし、必ずしもそうでない可能性を知るべきである。
「明るい・あかるい"akarui"、高い・たかい"takai"」の「あか"aka"、たか"taka"」は、「あ・か・た」という広母音モーラの語幹による形容詞であるからといって、本質的に「広母音とそれによるモーラ発音は印象が明るくてピッチが高い」と、確定できるものでない。
日本語話者の間では、彼らの共通主観性のうちに、広母音や狭母音についての認識の傾向を見いだせるかもしれないが、それさえも不確実に思う。
広母音も狭母音も、一者のみを用いる言葉は必ずしも多くない(2モーラ語に限って/a/, /i/ や動詞終止形や動詞連用形由来など以外にも鈴"suzu", 冬"fuyu", 己・斧"ono", 事・琴"koto"など同じ母音で揃うものが多いが、/e/ え段は動詞連用形由来や複合語や畳語以外で語源的に揃わない)。
もし広母音か狭母音か中央母音といった何かしらの母音のモーラのみで1曲の歌詞(最低50モーラ以上)を構成するならば、発音と歌詞の意味とに違和感があろう。

いずれにせよ、私はそれらの相対性について、感じ取ってもらいたい。
一に、狭母音モーラから広母音モーラになる動きや、広母音モーラから狭母音モーラになる動きといった、異なる母音同士の移動。
二に、広母音モーラの連なりや、狭母音モーラの連なりといった、同じ母音同士の連続。
これら相対性の効果を把握すべきである。
曲の中で用いられる歌詞の発音に、曲調(イメージ・雰囲気)と一致があるか不一致があるか、しぶとく観測する必要がある;面倒に思っても。
そうして得た知見に基づき、改めて巧く歌詞の中で反映することが表題のようなテーマである。

表題のようなテーマにおいて想定する作詞行為は、先にメロディアスな(キャッチーな)ボーカルフレーズが作られている場合に「後から歌詞を付与すること」である。
もし作詞が先にあってボーカルフレーズが後に作られるならば、メロディのノートの音高の上下が作詞者の思うような言語発音に近くされるだろうし、現代日本語のピッチアクセントやイントネーションが反映されやすい。
英語の洋楽では多めにそういう系統の楽曲 (cf. 英語歌詞自作曲"Eradicated") があるし、日本語であってもラップ (rap, hip hop) のようなものであればこの傾向があるので、これは注意しておく。
ただし、仮に作詞が先にあっても、そのボーカルフレーズにおけるノートは、母音の広狭に合わせた音高の上下に配置することもよい。



「母音の広狭と音高の上下」の基本を簡潔に言えば、広母音モーラが相対的に音高・ピッチとして高いノートであり、狭母音モーラが相対的に音高・ピッチとして低いノートである。
曲調(イメージ・雰囲気)によっては、適宜に反することもよいと思うが、基本的にこれを意識しておく。

・・・、という仮説の概要がこのように2017年以降に考えられてきたが、当記事を執筆している2019年3月になってから、その「フォルマント (formant)」 F1, F2 から母音の特徴を見出す術を知り、その裏付けが取れた。
母音の広狭はあくまでもF1に関連するものであり、F2の存在を加味するならば舌の前後についても考慮できる。
「い」の音(近似 [i])は既に示されるように、F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) であり、実は高い音に当てることもできる。
これは後述の「2017年3月10日>交差点」における「つかり↑、ぱたり↓」という歌詞の「り"ri"」同士の異なりや、「2017年4月24日>曲名未定」の「はれとき↑どき、あめのひ↑には…」という歌詞の「とき"toki", のひ"nohi"」の両者が「お o」モーラから連なる「い i」モーラが突きあがるような音高で発せられることなど、私が「良い印象(少なくとも聴いた感じの違和感が少ない印象)」として捉える部分から例示できる。
「い」の音の二面性は当該楽曲を説明する項で再考しよう。



まず、主に長調楽曲に多いような、明るい(明朗な)印象の楽曲に合う例を示す。
世間の音楽界にも見出しやすい傾向だと私は捉えている。

出だしが弱起 (Auftakt; anacrusis) の場合で音高が著しく上下しない範囲では、ノートが単数であれ複数であれ、狭母音(close系)か中央母音(mid系)が良い。
また、複数であるとき、音高が著しく上下しない範囲では、たとえ広母音(open系... 日本語では「あ段」のみ)であってもそれのみを使う場合は母音の広狭の相対性を生じないので、用いて可である。
弱起から小節の頭の音に繋がる場合に、その単数のノートに当たる歌詞の母音は広母音が良い。
これは相対性により、雰囲気の開きや明るさ(明朗さ)を出す意図である。

出だしが小節の頭か中腹よりも前の場合には、その単数のノートに当たる歌詞の母音は広母音か中央母音が良い。
たとえ狭母音で始めても、時間的に0.6秒以内(4分の4拍子にテンポ BPM 100以上で4分音符より短いような状態)の場合に次の音が広母音であれば、明るさや上昇のムードがある。

・・・、このように説明する形式も良いが、以下から表題に言うような「実験の意図で作詞された楽曲」を示してそれに随って説明するほうが良いと思う。



手始めに、簡単な音感のテストをしてみよう。
下記リンク先の動画の0:39~から流れるマリンバ(木琴の一種)によるフレーズで、当記事の理論にいうような母音の広狭に関して、読者各自が試すとよい。
https://www.youtube.com/watch?v=qhrGuEFp8ok
このフレーズ(BPM 204のテンポで4分の3拍子で4小節に収まる)を構成する音楽は、音符・ノートにして4分音符と8分音符のみである。
4分音符を「〇ん」、8分音符を「〇」と表記するが、この〇には、た行の各1モーラのみを用いる。
途中にフレーズの休止があるが、タンバリンが背後で鳴っているので、それも4分音符「ちっ」で併記する。

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 とんたんたんてんとんたんとん。(ちっちっ。)
 とん・(8分休符・)とんとんてんたんてん・(8分休符・)てんてん。 (後略、最後の小節に残り4分音符2つで次のフレーズの弱起に相当する)
上記フレーズのカナ表記におけるモーラの母音の広狭・前後 (roundness and backness) と、ノートの音高の上下とに、どれほど違和感を覚えるであろうか?
全体的に違和感を覚える人にとっては、この理論によって付けられる歌詞が好まれないかもしれない。
音高の上下にきっちりと対応した母音の広狭・前後の歌詞は、3種の母音のみの場合にこのように表現されるので、私であっても些細な違和感を覚えながら、記した。

もう少し私の感性や記憶が定着させた印象に近づけて記したものも、載せてみる。
 とんたんてんたんとんたんとん。(ちっちっ。)
 たん・(8分休符)・たんとんてんたんてん・(8分休符・)てんてん



2017年3月10日に、私は「『街の子』をイメージした楽曲2つ」という動画を投稿した。
http://www.youtube.com/watch?v=A_93d_RwunQ
「交差点」という名の楽曲は、そこでの2曲目として公開された。
「交差点」はAメロ・Bメロ・サビでワンコーラス分を構成し、それで終わる、短めの楽曲である。
その楽曲のための作詞を、2018年12月2日に行った。

「交差点」のための歌詞は、韻 (rhymes) の踏み方・押韻 (rhyming) を何通りか持っている。

当該楽曲が"街女人・つじさゆり"のテーマでもあるので、その人物キャラクターに由来する特徴づけがあることよる押韻がある。
いわばキャラソンの役割が兼ねられており、「う」や「い」のような狭母音の頻度が高いことによる"街女人・つじさゆり"の身の上に感じられる「不自由・抑圧」のような印象を与える。
「その昼 sonohiru、下がり sagari、わたし watashi」
「傾く katamuku、日差し hizashi、見たり mitari」
「道行く michiyuku、つかり tsukari、ぱたり patari」

「う(円唇)・い(非円唇)」は、共に狭母音であるとしても、西洋言語発音にならえば円唇・非円唇の相違性=唇の円さの動きが典型的に現れる音であるため、個性的である。
ただし、日本語の言語の音声としては、先述の通り、「う」の音の唇の円さが中性的である。
声楽の人は、はっきりと西洋流に円唇発音にすると思われる。
そのような「う」と「い」との違いは、唇の円さを意識しながら発音をして自ら確認するとよい。
「交差点」歌詞で、「う」と「い」との押韻が多いことも、私がその意識から作詞しているためである。
この日本語が合うポップス楽曲に西洋言語発音が望ましいか、好みが分かれそうだが、それについても各々の主観性で判断するとよい。

また、人名"さゆり"に関連づけて歌詞のフレーズの語末モーラが「-り -ri」に占められる場合が多い(e.g. 見たり mitari、つかりぱたり tsukari-patari、ぴたり止まり pitari-tomari、そうゆらり souyurari; so'oyurari)。

サビは、いくらか長いノート(音符)や休みのある部分(楽譜で休符が伴う部分)が「-お -o」のモーラで終えられる。
言語上の韻ばかりを示しても本題とかみ合わないので、その脚韻あるモーラ相当の音楽のノートが、前のノートと比べてピッチ・音高もとい半音 (semitone, key) がいくつ上がったか・下がったかを併記する。
「今日も kyo'omo (moは符点2分音符・上2半音)」
次のフレーズまでに「また mata」、「行く yuku」があるが、広母音や狭母音モーラでそれぞれ揃えられている。
「ひごろ higoro (roは符点2分音符・上1半音)」
「何がどこで起きても nanigadokode'okitemo (moは4分音符・上2半音、次に8分休符。途中のdoは符点4分音符で少し長い)」
「私は私だけずっと watashiwawatashidakezutto (早口。toは符点8分音符・上2半音、次に8分休符)」

以下は、尾母音が先にある (-ino, -eno) 2モーラ分の押韻となる。
「道の michino (noは符点4分音符・上2半音)」
「すみの sumino (noは全音符・下4半音、次に2分休符)」
「誰の dareno (noは2分音符・上1半音、次に4分休符)
「求めの motomeno (noは4分音符・上9半音、次に8分音符)」



2017年4月24日に、私は「心が弾むハードコア・パンク系の自作曲・オリジナル曲 (3曲)」という動画を投稿した。
http://www.youtube.com/watch?v=nDxFB6IWhUw
名称が付けられていない一楽曲(後に「ハレマジェット」)は、そこでの2曲目として公開された。
それはAメロ・Bメロ・サビでワンコーラス分を構成し、アウトロのギターソロの後で終わる、短めの楽曲である。
その楽曲のための作詞は、2017年4月中、部分的であれ、既に行われていたろう(cf. 2017年4月23日にその楽曲が先行公開された動画の内容に歌詞の一部分が表示される)。

頭韻などを試した。
1番Aメロの各句の頭がi-a-i 「日差し hizashi」、「ひかり hikari」である。
その歌詞のモーラの母音が狭い→広い→狭い (i-a-i) という動きが、音階のうちのノートの低い→高い→低い(下げ→上げ→下げ)に対応している。

閲するに、当該楽曲はほとんどC5 (楽器チューニング基準音を440 Hz = C4 AまたはA4とすればそれよりも高い) の音域で発せられており、「ソプラノ soprano」級である。
最も高いところでは、C6 G (G6, 88鍵ピアノで2番目に高いソの音)に達している(歌詞では「吹き消すの」の「け ke」)。
C4, C5, C6という時のCとは、国際的な基準の代表的な一種による。88鍵ピアノで1番目のC = ド、和名ハによってC1を呼び、そのオクターブ相当のCは"C1 C"である。4番目のCが有る領域のCは"C4 C"であっていわゆる中央ハ (Middle C) である。私が主に用いるMIDIシーケンサーのソフトでこの音程・音高・キーの呼称が用いられているので2012年以降の私も認識を同じくする。この方式ではC-1 Cが0番目と数えられ、中央ハ = C4 Cは60番目、チューニング基準音の440 Hz = C4 Aは69番目となる。MIDIでの最高部が127番目でC9 Gである。cf. wp:Scientific pitch notaton
これをその音域のままに言語発音で歌うことは、成年の人々のうちでも女性歌手、特にプロのソプラノ歌手でないと困難であろう。成年男性である私は、1オクターブ下げないと(オク下でないと)歌えない(DAWソフトなどでピッチ調整をすれば別の話。それではUTAUのような音声合成ソフトの音源も作れる)。
そもそも男女問わず人間の言語音声をPraatで色々と見直すと、そのピッチは普通の状況で70 ~ 300 Hzのみが現れている。女声の楽曲でさえそのフレーズは、高音を意図しないで作曲された場合に400 Hz (C4 A = 440 Hzの場合にC4 G相当の高さ) を超すことがあまり無いことも、個人的な調査で分かった(オペラとかのシーンは専門外なので調べないが一応C6領域は有り得るそう)。もう少し手持ちの音声ファイルを調べると、某百合系ボイスドラマ作品のアテレコと思しき音声リストのうちで女児を想定したキャラクターの言語音声から、600 Hz以上が頻繁に観測された。想像上の女児(作中での年齢設定はともかく口リ系)でもあれ実在の女児でもあれ、500 Hz以上 (cf. C5 C = 約523.25 Hz) の言語発音は有り得ることも付記する。この後、喘ぎ声(嬌声)を調べたが、言語音声と関係が無いのでさしおく。
vowel vowels identify identifying identified cognition 母音 識別 認知

そこで言いたいことがあるが、このような(C6以上)高い音域になると、人間の耳では母音ごとの区別が不明確になるであろう。
当記事の理論の例外事項として、このことが考慮されるべきである。
当該楽曲の歌詞に話題を戻そう。

サビの歌いだしはBメロの末から弱起として始まり、「晴れ時々雨の日には」という歌詞である。
「はれと(弱起)き↑(小節の頭)どき、あめの(弱起)ひ↑(小節の頭)には…」と書き直す。
「とき"toki", のひ"nohi"」の両者が「お o」モーラから連なる「い i」モーラが突きあがるような音高で発せられている。
音高が高いのに「い」の音=狭い音・狭母音が用いられているが、聴いた感じでは違和感が無い。
なぜであろうか?
それは、「い」の音が狭母音であると同時に前舌母音 (front vowel) であってフォルマントの見方におけるF2が高い周波数で発せられており、ボーカルフレーズのノートが前のノートよりも高いとしても共鳴するようであると言える。
cf. 先の表"average vowel formants" F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz)
「い」のみならず、同じ前舌母音の「え e」の音についても高低を選ばず使える側面があると思われる。
しかしまた、同じ前舌母音だからといっても、口の広狭が広いほどF2の周波数の値は下がっている(F1との差異が中和されている e.g. [e] 差1910Hz, [i] 差2160Hz)という、別の側面もある。



種々に検討すると、たとえ日本語では微細な区別なき「あ a」の音(外来語のためのア段カナの原語は多用な異なる発音。アメリカ英語のGA発音だけでもア段カナに対応する4種類の音素 /æ, ʌ, ɑ, ə/ の区別がある)であっても、歌詞発音のためには舌の前後・唇の円さといった区別を駆使する必要があるかもしれない。
すなわち、一般的に非円唇中舌広母音 [ä] である「あ」も、前後のノート音高の相対性により、低音としての「あ」を非円唇後舌広母音 [ɑ] にしたり、高音としての「あ」を非円唇前舌広母音 [a] にするといった、音高に「あ」を相似させるための弁別と発音訓練とである。

当記事の理論の高度な実現のためには、日本語歌詞の歌い手(歌手)にも高度な発音の知識と技術とが要求されよう。
ただし、基本的には「あ・い・う・え・お」の5母音の音素 (phoneme) と識別される現代日本語発音で検証されるべきである。



●外国語へ楽語共調理論を応用することの是非

外国語へ楽語共調理論を応用することは、それも日本語との差異を考慮しつつ、おおよそ同じように説明が可能であろう。
この理論に関連する日本語との差異とは、既述の通り、音素 (phoneme) として弁別される母音の数が日本語の「あ・い・う・え・お」という5母音よりも明確に多い言語や、4母音(4種類の母音)よりも少ない言語(e.g. 古典標準アラビア語 3母音 /a/, /i/, /u/ および長母音)がある。
当記事では、主な要素を詳述しないでおくが、今までの話題と関連する事柄から一つだけ説明しよう。

当記事ではしばしば「弱起 (Auftakt; anacrusis)」という音楽用語を用いてきた。
過去記事で説明済みなので、2種類の語義をそこで参照するとよい。
2種類の語義とは、音楽用語としての弱起と、それよりも古い時代からある韻律論としての弱起とである。
「強勢 (ストレス stress) としてのアクセント (accent)」を持つ言語のうち、教会ラテン語(Ecclesiastical Latin 俗ラテン語 Vulgar Latin)・イタリア語・スペイン語といった語中でアクセントが出やすい言語において、韻律論における語義を発揮し得るように感じる。
3音節語の1音節目はほぼ必ず「強勢としてのアクセント」が伴わない。
1音節目が母音のみである場合は、イタリア語"opera"がオペラやオペーラではなくオーペラとなるように1音節目に強勢としてのアクセント(+長母音化)がある。古典ラテン語でも"opera (女性単数の名詞。opusという男性名詞の複数形の方ではない)"は1音節目にアクセントがあるとしてWiktionary英語版に載っている。古典ラテン語アクセントについてしばしば「3音節以上の単語は1音節目が長母音(韻律論の観点では長音節"long syllable"・重い音節"heavy syllable; 梵語 guru"でもある)で2音節目が短母音(韻律論の観点では短音節"short syllable"・重い音節"light syllable; 梵語 laghu"でもある)であればそこにアクセントが付与される」といった説明がされるが、これは短母音のみで構成されているにもかかわらず、1音節目にアクセントがあるというか?

私が作詞した"Dominus Immensus"は古典ラテン語だが、そのサビの歌い出しを例示しよう(ラテン語歌詞サビは音声として2019年3月現在は未発表なので動画の改訂版を待つこと)。
それは"Immensa phaenomena sunt"であり、"Im-"は音楽用語としての弱起部分となり、"-me-"は1小節目についた主音 (tonic) となる。
the anacrusis notes "I-" = F (ファ), "-m-" = G# (ソのシャープ),
the tonic note "-me-" = A# (ラのシャープ、なおAメロ歌い出しの"dominus..."も同じ音のオクターブ違い)
インメ~エンサ~、パエノメナ、スント。
しかしまた、これが韻律論としての弱起でもある。
言語学的に、古典ラテン語でも教会ラテン語でも、"immensa (男性形: immensus)"の語は、"-me-"という2音節目にアクセント(古典ラテン語のアクセントはストレス強勢かピッチ高低か学問的に未決だがどちらでもよい)があるという。
"Im-"は閉音節1つであるが、それを構成する2つのノートは、次の"-me-"主音ノートのピッチよりも低いので、音高の上下としては下から上へ(低から高へ)と推移している。
また、狭母音と鼻音(日本語学で言う撥音)の構成から、中央母音(中母音 mid vowel)へと推移している。
"Dominus Immensus"は、そのボーカルフレーズにおいて原典の障礙尊者自説偈の梵語であれ、後の古典ラテン語歌詞であれ、"-me- (-mē-)"の長母音(韻律論の観点では長音節"long syllable"・重い音節"heavy syllable; 梵語 guru"でもある)発音が、心地よいものと、私は感じている。

このような具合で小節の主音であるノートを発音する音節主音・母音は、弱起の時のよりも広めの母音が良く、強勢としてのアクセントを有する言語であれば、そこにアクセントが置かれるようであると、心地よいようなことが有り得る。
改めてこの理論について注意すると、先にメロディアスな(キャッチーな)ボーカルフレーズが作られている場合に後から歌詞を付与することが、理論の適用対象として望ましい。
それに加えて、この理論の科学的合理性で論じられた「主観的な美醜・善悪」を逆利用して「意外性・滑稽さ」というものを表現することも構わない。






起草日: 2019年3月16日

関連する投稿
2018年11月29日: モーラ発音の日本語の高低アクセントと音節発音の英語の抑揚を比較する
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2018年12月5日: MIDIピッチベンドで音楽の周波数を調整するための数式 (440 → 432 Hzでの例)
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主観性ということを私は主張したが、この自覚には、社会科学の統計のような手法以外にも心理学のような発想で認知プロセスが自覚される必要がある。
また、認知プロセスの自覚のためには、先に物質的な存在について解明される必要がある。
そうでなければ「この曲or絵は人(私or他人or民衆)が良いと思うから(by myself; itself, themself; themselves)良いんだ」という簡単な循環論法を了承できる。
そして、世間の人が各々の価値観によって美醜 (good-and-bad) や善悪 (good-and-evil) などを分別して他の見解を排除するようなことは、この限りであると、私は懐疑的に捉えている。

音楽や美術の作品は、現に聴いたり見たりできるものである。
よって、認知プロセスや主観性を人間が自覚するために、物質的な存在についての深い理解が必要だ、という前提がある。
ちょうど、過去に私が宗教学で得た知見と同じであろう。
宗教の教義は、特に仏教やキリスト教で、多くの譬喩(比喩)・たとえ話・メタファーが用いられる。
ここでは、アヴァダーナといわれる人物同士の物語(ストーリー)による譬喩ではなく、自然界の事物・物質的な存在の道理を用いた譬喩を指す。

私がすぐに思い浮かべる例は、仏教にある「琴(vīṇā 弦楽器の一種)の弦を張るとき、固すぎても緩すぎても良い音色が出るようにならない。ちょうどよい張り方(不急不緩)で良い音色が鳴る」という譬喩である。
パーリ語仏典では経蔵・増支部6.55経"Soṇasutta"にあり、漢訳仏典では中阿含経123経「沙門二十億経(CBETAから引用)」などにある。
これは琴を奏でることのできる人物「二十億 (パーリ名はソーナ soṇa) という名の沙門」のために釈尊(仏さま・ブッダ)が説かれた譬喩であり、琴の音色の良し悪しはいくらか客観性に準じている。
いわゆる調律、チューニング (tuning)には、音の周波数 ** Hzとして数学的に解明できる音階の道理を知っても知らなくても、音階のバランスのための適切な弦の張り方をせねばならない。音色の良し悪しは主観性によるとしても、数学的に音の周波数の関係性(ピアノならば中央のラ音が440 Hzの時に1オクターブ高低は880 Hz, 220 Hzという等倍・等分である)は言えるので、「科学的な意味で客観的(共通主観性の範疇)」である。

これが「琴の弦と同じく、修行者はその人の相対性における厳しすぎる修行(原語では精進 vīriya)を始めても易しすぎる修行を始めても良い結果が得られない。あなたはあなたの相対性でちょうどよい修行を…」という、人の精神の主観性のための譬喩に用いられている。
これは当然、仏道修行の心得を説いたものであって、私が芸術理論のモットーのように用いることはおこがましい。
琴の譬喩(琴のたとえ)の漢訳仏典には、やはり仏道の目的性とその果報が示されている。その人物「二十億(ソーナ)という名の沙門」は悟りの後に「色聲香味 身觸亦然 愛不愛法 不能動心 (見た目・音声・香り・味・手触りなどで欲望や憤怒などを起こす事物は私の心を動かすことができない)」という頌(じゅ、うた)を唱えている。額面的に、美術や音楽といった芸術の目的性とは正反対である。逆説的に、「戦争と平和」のごとく表裏一体であろう。

“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, kusalo tvaṃ pubbe agāriyabhūto vīṇāya tantissare”ti?
“Evaṃ, bhante”.
世尊告曰:「沙門!我今問汝,隨所解答。於意云何?汝在家時,善調彈琴,琴隨歌音,歌隨琴音耶?」
尊者沙門二十億白曰:「如是。世尊!」

“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo accāyatā honti, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti kammaññā vā”ti?
“No hetaṃ, bhante”.
世尊復問:「於意云何?若彈琴絃急,為有和音可愛樂耶?」
沙門答曰:「不也。世尊!」

“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo atisithilā honti, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti kammaññā vā”ti?
“No hetaṃ, bhante”.
世尊復問:「於意云何?若彈琴絃緩,為有和音可愛樂耶?」
沙門答曰:「不也。世尊!」

“Yadā pana te, soṇa, vīṇāya tantiyo na accāyatā honti nātisithilā same guṇe patiṭṭhitā, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti kammaññā vā”ti?
Evaṃ, bhante”.
世尊復問:「於意云何?若彈琴調絃不急不緩,適得其中,為有和音可愛樂耶?」
沙門答曰:「如是。世尊!」

“Evamevaṃ kho, soṇa, accāraddhavīriyaṃ uddhaccāya saṃvattati, atisithilavīriyaṃ kosajjāya saṃvattati. Tasmātiha tvaṃ, soṇa, vīriyasamathaṃ adhiṭṭhaha, indriyānañca samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī”ti.
世尊告曰:「如是。沙門!極大精進,令心調亂;不極精進,令心懈怠。是故汝當分別此時,觀察此相,莫得放逸。」

一応、私にとって発想の原点が宗教学にあることを知られたい。
たとえ自然科学分野であっても、精神性からのインスピレーションが偉大な発見や発明に繋がるという事例(逸話)が科学史に種々求められることも、比較参照するとよい。

私が美術や音楽の「主観的な美醜」を解明するならば、先に客観性を考究したほうが良いことは、宗教教義や教説から得た一つの学問前提である。
今後も、この方面で多角的な研究が進められるとよい。
美術関係では「二次三次相対互換の理論」の客観性の側面による考察(当該記事追記欄を参照)を望んでいる。

これら、「主観的な美醜」に先立つ客観性を認知して、クリエイターたちが作品を作るならば、現時点の人類の共通主観性に広く適合した作品になる。
しかし、いつかは定式化する、マンネリ化する、慢性化する、形骸化する事態がある。
柔軟な者たちは、事前に察知して予防し、新しい可能性の開拓にも繋げてゆく。

少し芸術(音楽・美術)の歴史を振り返ってみよう。
19世紀後半から第二次世界大戦の開戦前まで、西洋美術においては写実性から遠ざかる流行 (impressionism?) や、感情表現の濃い画風 (expressionism?) が強まった。
第二次世界大戦の後、一部の西洋人は「楽器と聴衆を目の前にしながら演奏しない音楽」や「作品の掲示されない展覧会」といった「空虚さ・虚無の美」についての実験的な (experimental) 芸術を行った。
または、観る者と作る者とが一緒にいて実演されてこそ作品であるとする思想(パフォーマンス系 performance)の音楽や美術が構想されていた。

私は、それらも認知したうえで、現時における通念上の理想的な音楽や美術を追及している。
簡明な例は、キャッチーなメロディーに心を弾ませるリズムの楽曲や、美麗な風景に美少女のような人物がいる絵画である。
これは私個人の童心にも関わることであるから、当然、世代や人種や経済層(貧富)などの違いでいくらでも好き嫌いを分かつ結果がある。
世間のうちでは、「流行とそれに対する便乗」のような精神性による美醜・善悪の価値判断さえ有り得て、それも主観性のうちではあろう。
しかし、そういう社会的状況の一例を除き、人間史である程度普遍性のある「共通主観性」を説明することができる。
「私が良い(美い・善い)と感じるもの(何ものたりえる可能性のある事物、それだけではゼロ・空虚な存在 object)」に、どれほど人類で普遍的に良いと感じ得る特徴を見出せるか、追求してゆこう。

認知プロセスと認知客体に関しては、他にも五何法(十如是)の説などが私にとって印象深くあった。
萌えの典籍「注三萌義(段・十如是)」も参照されたい。
唯仏如来知一切法"sarvadharmānapi tathāgata eva jānāti"。①何等法"ye ca te dharmāḥ" ②云何法"yathā ca te dharmāḥ" ③何似法"yādṛśāśca te dharmāḥ" ④何相法"yallakṣaṇāśca te dharmāḥ" ⑤何体法"yatsvabhāvāśca te dharmāḥ"。
①~⑤→何等 云何 何似 何相 何体"ye, yathā, yādṛśā, yallakṣaṇā, yatsvabhāvā"。



追記
2020年3月11日に『楽語共調理論の拡大, 反対の仮想–反例, 自己反証』という続編の記事を投稿した。


3 件のコメント:

  1. 横野真史さん、今生きていて更新できる状況にあるなら記事なり何かしらを出してくれ。
    こっちは何かあったのかと心配でたまらない。
    これまで日記だけは定期的にここに掲載していたのにそれもなくなってしまっては、私も心配せざるを得ない。

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  2. 愛智の精神 https://www.blogger.com/profile/14461141142339059253 さんへ
    いくつかの作業の途中に、私はいます。当ブログで今月に2つの記事を投稿する予定が有ります。任意の月が、その間に投稿数0のままで終えられない限り、私の活動の停滞を案じる必要はありません。

    私は、他の長期間失踪している人々を認知しますが、彼らには干渉しません。自ら(再帰標識 reflexive marker 自分で自分の)智に利することを目的とする限り、過去の聖人を拝するように黙って見ます。この記事の目的は何でしたか?私によって他者の智が有ることはありません。また智を愛するらしい者が直接に私とその周辺の智について利することが無いことを改めて私は感じたので、当ブログでコメントを受け付けることを望まなくなりました。私もとい横野真史によって当人自身の智が利せられることを欲する人は、これからも私のことを見ればよいと思いますが、多くの人はその必要も無く、他の場所や機会に自ら智に利することを求めることが妥当です。

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  3. 雀の涙ほどの情け・慈悲でもう少し書いておきます。突然(俄然・唐突)現れた人が、まだ、その場限りの適切な話題提供や既存の話題に意見を出すことは望ましくありますが、「くれ」だの「心配」だのと言い出す人には「あんた誰?」「貴様は何様なのだ?」と感じる人もいると思います。私の平等の心と理法とによれば、それは有り得ませんが、これは社会的な見地で言わねばなりません。たとえ長年に一方が他方を見守ってきたつもりであっても、インターネットならばもっと交流の形跡や意思の相似が明らかにできます。

    インターネットには様々な目的で活動する人がいます。あたかも小学校の教師と児童とのような関係などが、一定の目的性・人生経験を有した年代の人同士では、俄かにできるはずはありません。あたかも小学校で児童同士の社会的交流をするような場にしたい人も、そうはいません。俄かに発生した空虚な馴れ合いは、それをしたい人の間でのみ有り得ます。誰が何の目的でインターネットで活動し、または適切(適度・適当)な交流を用いるか、はっきりとしている人には、それ相応の振る舞いが必要となります。この観点で、私の活動は私の目的に適合しても、他人は理論値1万人に1人(動画閲覧者・ブログ閲覧者などから)として適合しませんでした。この種の話題を2015年以降、幾度と繰り返してきましたが、もうモグラ叩きのようなことはするまいと、その度に思います。

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当ブログのコメント欄は、読者から、当ブログ記事の誤字・脱字の報告や、記事の話題に関する建設的な提案がされる、との期待で解放されていました。
しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。