2018年12月5日水曜日

MIDIピッチベンドで音楽の周波数を調整するための数式 (440 → 432 Hzでの例)

MIDIのピッチベンド(Pitch bend)で特定の周波数を再現する方法を考えた。
ここでは、インターネットで讃嘆されることのある 432 Hz (432ヘルツ)を再現しよう。
そもそも、現代の音楽のチューニング基準は 440 Hzであるとされ、それはMIDIキー (a.k.a. Scientific pitch notation)でいうと C4ラ (音名"la"のこと 英語: A; A4 日本語: イ)であるということを念頭に置く必要がある。
つまり、普段の音楽が一般的に440 Hzであり、それに対して432 Hzという別の基準の音楽もあるということである。
それは楽器のチューニングにおいて、その C4ラ を432 Hzにして実現されることとなる。
DTMで音楽制作をする場合の手短に音を432 Hzに変える手段を、私は望んだ。
ここでは、MIDIで簡単に432 Hzを再現する方法を説明しよう。

方法の説明 (数式の求め方)

440 Hz と 432 Hzの数値上の差は8である(1st: 440 - 432 = 8)。
ピッチベンドは8191 ~ 0, -1 ~ -8192の数値で構成される。
この+-値は、キー(ピアノ鍵盤相当、半音)でいえば上下2つ分の音の差(全体で4つ分)が有ると定義される(ソフト等の使用環境にもよるらしいが一般的にデフォルトではキー2つ分=2半音という、ここではその前提)。
i.e. ピッチベンド -8192 = キー -2


キー -2は、周波数440 Hzの置かれた C4ラ (la 英語: A 日本語: イ)から数えて2つ下の C4ソ (sol 英語: G 日本語: )である。
その C4ソ の周波数は 391.995...という無理数らしく、ここでは四捨五入して392 Hzとする。
周波数440と392は絶対数48の差が有る(2nd: 440 - 392 = 48)。
先ほどの周波数440と432の整数は8の差が有ることを思い返し、両者の割り算をしたいが、ここでは8を48で割り、0.16666... という数値を求めた(3rd: 8 / 48 = 0.16666...)。
これをキー-2 = ピッチベンド -8192に掛け算をすることで、私は周波数 432 Hz を再現するピッチベンドを近似値として -1365に定めた(4th: 0.16666 * 8,192 = 1,365.27872...)。

以上の如く、周波数 432 Hz の音楽をMIDIで再現したいときはピッチベンドで-1365 (または微調整で -1366)を指定すればよい、と結論付けておく。

(440 - 432) / (440 - 392) * 8192 = 1365.27872... ≈ 実用の整数-1365





検証①
計算結果の数値をピッチベンドに適用し、その音声を録音するか、音声ファイルに出力する。
何らかの波形編集ソフトで「スペクトラムアナライザ(スペクトラムアナライザー)」などを用いて具体的に周波数を確認してみるとよい。



こちらは、そのようにピッチベンド値 -1365を指定して実際に再生された音楽の、音声比較動画である。
ソフトウェアはPraatであり、スペクトログラムで音声を視覚化(可視化)している。

「人間の認知機能の主観性(subjectivity of cognition)」を重んじる立場から言えば、ただ従来に440 Hzとされる何らかの音楽を主に聴いた人が、その人の感性の差によって、432 Hzとされる何らかの差異に好印象を覚えたり悪印象を覚えたりするくらいのことと私は考えている。
だから、もし臨床実験をして432 Hzに良い健康的効果(癒し効果など)が確認されたという客観的な統計結果が取れても、それを解釈することに関しては客観的な善悪が問えないと私は考えている。
現今の世間では、432Hz癒し云々・440Hz悪魔云々・440Hzナチス云々という説(1, 2)があり、かつまたそれらが陰謀論の扱いを受けている。
一応、主観性を重んじる立場であるからこそ、この音楽動画を示すことをしておく。
実験音楽"Experimental music", 認知音楽学"cognitive musicology", 音楽神経科学"neuroscience of music"の趣旨についても考慮する。



検証②
A = 432 Hzであるときの他の音高の周波数を書いているページが外部にある。
こちらを客観的情報の一例として比較してもよい。
https://pages.mtu.edu/~suits/notefreq432.html

※2018年12月18日にWaveToneというソフトをダウンロードした。当記事の目的に関連した説明のみをする。これは任意の音楽ファイル(wav, mp3, ogg等)を開く際に「基準周波数」の値を指定することで、そのソフトの画面内のピアノロールにキーごとの周波数の値(小数点第二位まで)がピアノロールより上のバーに表示される。このソフトの「基準周波数」という項目は、そこに入力された周波数の値がC4ラ (ソフト内ではA4)であることを意図している。各自で任意のピッチ基準のキーごとの周波数が調べたい場合、このソフトを参考に用いてもよい。



背理法による裏付け?



備考: ピッチベンド -8192(どの環境であれピッチベンドの最も低い数値)がキー -2 (-2半音)でない環境での計算のためには、適宜にその分のC4ラの下の音を用いて計算する。つまり、仮定的な記号で数式を示し直すと、
1st: 440 - H = h →
2nd: 440 - M = m (このmの数値はhよりも高くあらねばならない)→
3rd: h / m = d →
4th: d * 8192 = P となる(あくまでも近似値なので実際に用いる数値は四捨五入か当人聴覚で適切な整数に調整)。



備考: もしピッチベンドの両端がキー2つ分のみである人が、キー2つよりも外の周波数(392 Hz未満と494 Hz以上)が基準値である音楽を作りたい場合、音楽全体のMIDIノートのキーの位置を近いところへずらす(これは普通の作曲プロセスで転調のための作業に同じ)かキー設定を変える必要がある。基本的に、キー1つ分よりも狭い周波数が基準値である条件においてその計算を行う。要するに、440 Hzから見た432 Hzとは、キー0.32ほど下の音であり、それは普通の楽器の「1オクターブを構成する12個のキー」で鳴らし得ない音であり、MIDIのピアノロールもそう作られていないから、ピッチベンド-1365 (先の仮定記号P)という近似値を求めた。



備考: MIDIで440 Hzよりも高い周波数が基準値である音楽を作りたい場合、それに必要なピッチベンドも + (正)の数値となる。その場合、先の仮定記号のうちh, mはそれぞれ-hと-mとなるが、そのまま割り算をすれば負の数同士の割り算が正の数になるという中学校一年の数学で習ったような話の通り、dそのものとなる。後は、ピッチベンド8191 (0を1と同じように数える方法では厳密にマイナス時と同じく8192でなくてはならないとも考えられる)に掛け算を行えば、Pの数値が出るので、この場合も近似値を求めつつ、正の数字のまま用いる。例えば444 Hzを望んで主要部と同じ計算方法(この場合はキー2つ上のC4シ = 英語: B 日本語: の周波数の近似値をMに当てる)を試すと、606.74...という数値になったので、606か607を適宜に用いればよい。



備考: A = 440 Hz よりも1オクターブ低い音(C3ラ = A3)の周波数は220である。かつ、「検証②」に示されるサイトのページ内には、A432 (432 Hz)よりも1オクターブ低い音(C3ラ = A3)の周波数は216 Hzである。これらはC4ラ = A4 であったときの周波数8の差が、半分の4になるなど、整数の差が等分になっている。オクターブ差は、1オクターブ高い場合が同様に等倍である。無理数の場合も、オクターブの差がある分に、欠けた端数以下まで等分や等倍となる。例として、C3ド (英語: C 日本語: ハ)は 261.6255... Hzだが1オクターブ低いと130.8127... Hz、1オクターブ高いと523.2511... Hzである。それらは実際にそうやってA = 440Hzにチューニング・調律された楽器の音を鳴らして測定しつつ、それらの音が適切な和音を鳴らした際に不協和音にならないことを聴覚で確認した上で、数学的な道理をも鑑みて学問的に決定された数値と考えてよい。



他の参考事項
・1オクターブを構成するキーの周波数に適用された十二平均律・2の12乗根 (twelfth root of two)
・キー4つ離れ(5度)やキー6つ離れ(7度)の位置でノートを重ねてパワーコードを鳴らすこと



雑学: 432 Hz を良いものとして推奨する論調は、数秘術 (numerology) の一種から出ているかもしれない。比較の材料に「ソルフェジオ周波数 Solfeggio frequencies (日本語訳書にレオナルド・G・ホロウィッツ著「ジョン・レノンを殺した凶気の調律A=440Hz」 ISBN 978-4198633431がある)」のドグマ・教義 (1, 2) がある。英語タイトル The Book of 528: Prosperity Key of Love "2. 528, John Lennon and the Church of Satan" (ISBN 978-0923550783)。 「自然物としての音」または「デジタルな信号の配列から出力される音」が別個である場合に、432という規則的に見える数字列や174-285-396, 417-528-639, 741-852-936といったアナグラム数字列を当てても、医療的に有益な効果 (benefits) があるとは言えない。先述の通り、「癒し」などの効果を求めるにも、「もし臨床実験をしてそれが確認されたという客観的な統計結果が取れても、それを解釈することに関しては客観的な善悪が問えない」し、原因の積極的な解明や説明は、既に実証されたと医学界で承認される方法に比べて困難である。せいぜい「効能書き」を見た個人にプラシーボ効果 (placebo effect) があるのみではないか?他の事項については「ツッコミ」をしないでおく。





起草日: 20181021

当記事の途中(検証①)においても埋め込み表示してある動画は、当記事の内容の補強として投稿された。
https://www.youtube.com/watch?v=Pn9bFeIhdLE

関連記事
2014年10月5日: MIDIにおいて再生時間を算出する数式・公式のメモ
https://lesbophilia.blogspot.com/2014/10/midi.html

後年の追記
キー key の意味をカラオケ的な感覚(ネット上の用例の曖昧な認識)で理解していたり、ピアノ鍵盤の白鍵・黒鍵 (keyboard with white keys and black keys) の類推をしたり、という私の誤用が見受けられる。
カラオケ的な「キー 」であっても、これは調や移調のためのシステムに関して言われるようである。
括弧で「半音」とも併記しているが、こちらのみが一義的に正しい、と修正したい。
他の音楽用語に詳しくない諸氏にも、改めて正しく覚えていただきたい。

2018年11月4日日曜日

半母音、響音(鳴音・共鳴音) YとWに関する考察 (やわらかさ)

表題のYとWとは、その音がなぜ日本語に"YaWarakai (やわらかい 柔らかい・軟らかい soft), YoWai (よわい 弱い weak)"という語の音として表れるかといえば、自然言語の道理によるものと考えられる。
それら語句の発生から現代まで同質の"y"(弁別される音素)が保たれているという条件下であれば、それが証明し得る。
「やわらかい"YaWarakai"」は語幹形・古代日本語に直すと「やはらか"YaParaka"」となるように見られれば、既に異質の音に変化していると思われようか。英語"SoFt"は無声摩擦音のSとFが使われる点でこれも柔らかそうな印象である。印欧祖語としてはF音がP音になるように考えられがちであるが、ドイツ語などのゲルマン語派以外に同根語は無いので、印欧祖語の"soft"を求めるための比較・証明はし得ない。なお、「やわらかい」の対義語は「かたい"KaTai" 硬い(漢字音はKō, Gō, QN: ngạnh, MC:/ŋˠɛŋH/) 堅い(漢字音はKen, QN: kiên, MC: /ken/) 固い(漢字音はKo, Ku, QN: cố, MC: /kuoH/)」である。「かたい"KaTai"」のK・Tの音は、英語"hard"という単語と同じゲルマン語のH音=軟口蓋摩擦音 [x] から印欧祖語のK音が推定される言語学で推定された印欧祖語 *kert- にも使われる(この印欧祖語の類義語に *kret- があるが意味は「強い・賢い」関連である cf. 梵語kratu)。なお、日本語「かたい」と英語"HarD"には、「難い=難しい・しづらい"DiffiCult"」の意味も共通する。「かたい"KaTai, HarD, KerT"」という単語から、自然な言語感覚で、たしかに「ゴツゴツ・コツコツ"GoTuGoTu, KoTuKoTu"」とした「かたさ"KaTasa, HarDness"」が想定できる。無論、K・Tの音が有ればその単語は単純論理によってみな「かたい"KaTai, HarD"」という意味になるというわけでない(cf. 高い"TaKai")。

一つの傍証として、当記事ではYとWが「半母音、響音(鳴音・共鳴音)」であるという点について示す。
これに際して、YとWのみならず、五十音「あかさたなはまやらわ」の「やらわ」として最後部に列せられる「ら」音=LとRについても「半母音、響音(鳴音・共鳴音)」であるという点について示す。



Y, W, L, Rの音声学的な位置づけ

[ ] カッコで国際音声記号=IPA単音・音価表記をする(当記事で多用することに注意)。
Y (他言語異字: J I): 硬口蓋接近音 [j] (ドイツ語・スペイン語では有声硬口蓋摩擦音 [ʝ])
W (他言語異字: V U): 両唇軟口蓋接近音 [w] 両唇接近音 [β̞] 唇歯接近音 [ʋ] (多くの現代ヨーロッパ言語では有声唇歯摩擦音 [v] ただし歴史的に有声両唇破裂音 [b] の音変化の場合がある)
L: 歯茎側面接近音[l] 歯側面接近音 [l̪] ("lateral" 他に多く異音あり)
R: 反舌接近音 [ɻ] 歯茎ふるえ音 [r] 歯茎はじき音 [ɾ] ("rhotic" 他に多く異音あり)

これらを当記事で「半母音、響音(鳴音・共鳴音)」と扱うが、簡潔に語義の注釈をする。
シクシャーに基づいた音韻表
by Manomohan Ghosh (1938)
「半母音」の根拠を、私は古代インド音声学・シクシャー(शिक्षा śikṣā)の典籍の記述に求めた。
そこに半母音は"antaḥstha (またはantastha, īṣat-spṛṣṭa, duḥspṛṣṭa)"と呼ばれ、その該当する音として日本語「や・ら・わ」行に当たる"IAST: ya, ra, la, va (Dev. य र ल व)"が挙げられている(タイッティリーヤ・プラーティシャーキヤ1.8節および対応する2.40-43節、パーニニーヤ・シクシャー38詩"īṣan..."など)。
シクシャーは古代インドで「6つのヴェーダーンガ(六論・ヴェーダ関連学問)」の1つであり、音声学的な考察や分類の明確さが近代の西洋における言語学に影響を与えた。日本には平安時代以前から「式叉論」の漢語名称で伝わっているが、その名称は古代インド音声学を指すものとして認知されなかった。5世紀ころの中国人・嘉祥大師吉蔵さんの百論疏など、中国・日本の文献に「式叉論、直訳の意味は学論(英語圏でも"learning"などと訳す)、詳細には六十四能法がある」と注釈されているが、「六十四能」の詳細を誰も語らない。2018年10月13日に私がその「不明事項」を文献学的に検証して出した「インドに原点・原典があり言語発音の種類を指す」という結論を、過去記事に追記した。式叉論に興味のある方は、参照されたい。
なお、英語で「半母音」は"semivowel"であり、音声学用語としてはY系の硬口蓋接近音 [j] やW系の両唇軟口蓋接近音 [w] 両唇硬口蓋接近音 [ɥ] 軟口蓋接近音 [ɰ] に限られる。
これらは接近音"approximant"の内でも、狭母音 [i], [y], [ɰ], [u] と他の母音を連ねて発音するなどしたイ+ア=ヤ [ja]、ウ+イ=ヰ・ウィ [wi] のようであるため、その音声学用語・狭義の半母音"semivowel"と定められる(イ+ア=ヤ [ja] という見解は平安時代の悉曇の「悉曇要訣: 乃至 य ya 字はイア (i + a) なること亦た勘文有り」や江戸時代の国学の「字音仮名用格」にも見られる)。

「響音(響き音・ひびきおん・きょうおん)」とは、英語"sonorant (sonorants)"の訳語である。
この概念については、日本語版Wikipediaの記事名で「共鳴音」とされ、日本の音声学の論文でも「共鳴音」・「共鳴性("sonority"からの訳語)」といった訳語が用いられるが、「共」という字は"consonant"のcon-という接頭辞を想起させるために紛らわしく余分である。
中国語版Wikipediaの記事名「響音」や、別の日本語論文らの「鳴音」という、それを用いた方がよいと考えるため、私は「共鳴音」という語を主に用いず、併記のみした。
響音としての性質"sonority"がある音を音声学では響音と呼ぶ(その英語での名称は既に記された"sonorant"以外に"resonant"、古くはソナント"sonant"とも)ならば、当記事で説明されるY, W, L, R系のみならず、M, N=鼻音の系統も挙げられる(過去記事にも記したがそれらは実際に話される言語の内でも「成節子音」という子音と合わせる母音的に用いられる・音節主音として用いられる特徴を持つ e.g. チェコ語・スロバキア語・スロベニア語などスラブ語)。

当記事で、私は外国語の日本語カタカナ(カナ)表記を、以下のようにする。
W(V U)字は慣習的にワやヴァと私は綴るが、上記の音価の違いは言語ごとに意識されたい。
ドイツ語のJa-やスペイン語の-lla (同一言語内の方言差あり)などは、一般的な日本語のヤ・ジャと異なるが、私は既成事実化した綴りでヤ・ジャなどを適宜に用いる(実際の発音・音価としては異なっても音素としては同一言語内で割と区別可能・排他的で類似するので気にする必要も無いが)。
その他の字とその発音に関することも、慣習的・慣用的・慣行的なカタカナ表記にするが、常に何の音価(IPA 音声学の記号を用いることのできるもの)であるか、意識されたい。
なお、当記事の随所で、カタカナ表記自体の話題も行われる。





Y (他言語異字: J I)

ラテン文字Y字は、ギリシャ文字「ウプシロン Υ (小文字 υ)」に由来し、古典ラテン語では円唇前舌狭母音 [y] (イのように舌が前に来るウ音であって古代ギリシャ語のΥ字の発音。古代ギリシャ語からの借用語に限られる)のために用いられた。
古英語(文献は"Beowulf"など)でも、当の母音 [y] とその長音 [yː] の音価となるが、現代英語のY用法=ヤ行音・硬口蓋接近音 [j] のためにはG字(ġとも)または Ȝ "yogh"を用いていた(同時に当時は他の音のためにもG, Ȝ字が混じって使われた)。
後の中英語や近代英語初期には、イの音 [i] のために用いられた(母音 [y] の音変化 [i] や子音 [j] の表記に用いるなどした経緯もあって相変わらず混じりが多い)。
現代の英語における文字の名称は「ワイ /waɪ/」であり、日本語でもそう呼ぶ(同じ半母音のW音が現れて置き換わった名前であり混ぜこぜ cf. 英語vowel フランス語voyelle)。
当記事では、あくまでも現代英語や日本語ヘボン式ローマ字などでヤ行音・硬口蓋接近音 [j]のために既成事実化して用いられる子音・半母音としてのYとして説明する。
紛らわしさを回避する場合は [y] のような表記(何度も示す通りIPAの音価表記であってこれは円唇前舌狭母音を示す)によって区別している。
「硬口蓋」の音"palatal"と硬口蓋化した音が、「やわらかい音」の代表であると私は当記事で語りたい。後述のスラヴ語学の用語「軟音」も参照されたい。「やわらかい音・軟音」は「口蓋"hard palate"」で発せられる。その「硬」という字が「口蓋」に掛かっている通り、「口蓋"palate; roof"」という調音部位が物理的に硬い部分・軟らかい部分に分かれていることを示す。反対に、「口蓋"soft palate"」という名称の調音部位もあるが、これが一般的なK音・カ行音(硬・かたい"Katai")無声軟口蓋破裂音 [k] "voiceless velar stop; plosive"などを有している。

日本語の学問で「拗音」と呼ばれる音のうち、「開拗音」は「きゃ・にゃ」など「小文字や行(ゃ・ゅ・ぇ・ょ。ぇは母音としてのぇと区別する)」を用いて示された硬口蓋化の音(IPAでは [ʲ] の字が付される)を指す。
ヘボン式ローマ字など、一般的なラテン文字表記では子音字と母音字とに"y"を介して"kya, nya, rya"と綴られるが、「じゃ」という有声歯茎硬口蓋破擦音は"ja"と綴られる(もっと翻字的な"jya"とする者も稀にいる)。
日本漢字音のうち比較的古層のものは呉音であるが、それらのうち語頭が硬口蓋化歯茎鼻音 [nʲ] の発音の字は、中古音ともSino-Japaneseとも呼ばれる音で硬口蓋鼻音 [ɲ] (中古音の学者たちは歯茎硬口蓋鼻音 [ȵ] とする)が想定される。
その字は「に・にゃく・にゅう・にょ・ねん(例は二・若・柔・如・然)」などが当たる。
それが漢音では「じ・じゃく・じゅう・じょ・ぜん」といった、音素「ざ」行/z/となる(歯茎鼻音のナン・ナム発音の字は男=ダン・ダムとなるなど類例があるがそれは鼻音・破裂音の互換であるため別の現象と考えた方がよい)。
現代日本語で「柔軟=じゅうなん"jūnan" (仏教読経: にゅうなん"nyūnan"」と発音する言葉も、修正主義・合理主義的に呉音でいえば「にゅうねん"nyū'nen" (i.e. にゅうにぇん"nyū'nyen" 中古音やSino-Japaneseとしては/ɲiu.ɲen/となろう)」と読まれるべきものである。
現代中国語普通話でも、同じ子音系統の発音で"róuruǎn (拼音 Pinyin による)"と読まれる。
つまり、「柔軟(にゅうにぇん"nyū'nyen")」は、軟らかそうな印象の子音が頭に付く音節を2つ重ねた熟語である。
当記事のR字の項目でも、この系統の漢字音について再び記す。なお、この日本語学問で開拗音といわれる発音のうちSino-Japaneseで硬口蓋鼻音 [ɲ] のような発音だった漢字は、二人称の代名詞「汝・你」や状態の代名詞・指示代名詞「爾(尔・尓)・若・然」などに見られる。その仔細はシナ・チベット語族の学問に任せよう。そこではシナ・チベット祖語の再構語(二人称代名詞・単数形 *na-ŋ)が提案されている。当記事冒頭に「よわい"YoWai"」という和語の字を挙げたが、これも漢字の「弱い・」は漢音「じゃく"jaku"」に対して呉音「にゃく"nyaku"」がある(中古音の例→ 鄭張 /ȵɨɐk̚/ 王力 /ȵʑĭak̚/ cf. 蒟蒻の"蒻 ニャク nyaku")。「柔軟・軟弱」の3字の同一性は、ベトナム語の国語"Quốc ngữ"表記だとみな語頭nh- (硬口蓋鼻音 /ɲ/)であること nhu, nhuyễn, nhược が直接根拠になる。

そのように、発音が状態そのものを指す言葉を「自己言及"self-reference"・自己整合語"autologisch, autonym"」ともいう(後者は日本語インターネットだと英語"Autological word"から翻訳されたWikipedia記事が発祥であり、活字の日本語文献で説明されたことは無い)。
これぞ「ふにゃふにゃ"funyafunya"」、「やわらか"yawaraka"」発音である。
冒頭にも「やわらか」ということに関して同じように説明していたが、「にゃ」と「な」のどちらの方が柔らかい・軟らかい・柔軟だと感じるかは、人の言語感覚で多少の差異があろう。
「柔軟」も、その極端な発音に変えるならば、「にゅうにぇん(じゅうじぇん)」か「ぬーなん(なお軟の"なん"発音は辞書的に慣用音とされる)」となるが、どちらの方が柔らかいと感じるは、人の言語感覚で多少の差異があろう。
ここでは古代からの言語感覚の実例を示すことができたらば、それでよいと思う。
擬態語「ふにゃふにゃ」の音は母音の連なりによって動的な印象が付与される。"u-a-u-a"という母音の連なりは"口を意識しながら発音してみると実感できるように、狭い母音・広い母音の移動である。もし「ふにゃふにゃ」という擬態語の実物があるならば、それが「ふにゃふにゃ性」を失っている時、多少の音変化を伴って「ぼなぼな"bonabona"」とでも表現できる。現代日本語の慣用句(オノマトペ系)「有耶無耶(うやむや"uyamuya")」と「もやもや・ぼんやり"moyamoya, bon'yari"」を比較されたい。

ヤ行音・硬口蓋接近音の音素 /j/ を有する言語のうち、オランダ語など一部の言語ではY字でなくJ字を用いる。
オランダ語では、条件異音・強調発音として有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] が現れる。
有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] は、標準の音素として同じゲルマン語派のドイツ語 j や、イタリック語派ロマンス諸語のスペイン語 y に用いられている。
音韻学的に少し説明したいことは、「接近音」というものが有声音のうちで最も閉鎖性(インド音声学・梵語でいう接触"sparśā, spṛṣṭa")が弱い=子音性が少ない(半母音"antaḥstha"または"duḥspṛṣṭa")が、その発音の閉鎖性を少しだけ強めると、そのような有声摩擦音になる。
この点で、それらの言語は、「強めの発音」を行った際にヤ行音・硬口蓋接近音の音素 /j/ が異音として有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] になるものか、新たな音素として有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] に変化して既成事実化したものか、ということになる。



Y系の音はロシア語などで「軟らかい"soft ru: мягкий... [ˈmʲæxʲkʲɪj]"」とされる (on Slavic languages)

一方、外国語では印欧語族(インド・ヨーロッパ語族)のスラヴ語派(スラブ語派)の多くの言語に、日本の拗音>開拗音と同じような「軟音"soft consonants"」がある。
キリル文字を用いる場合は、「Ь (軟音符または軟音記号"soft sign") IPA: [ʲ]」に表される。
日本の開拗音といえば、音声学で硬口蓋化"palatalization"による発音"palatalized"を指すが、スラブ語学ではそれらを"softening (柔らかくすること)", "sofetened (柔らかくなった音)"と称するようである(典拠不詳)。
キリル文字において、軟音の発音は「Ь」以外に、平仮名の「や・ゆ・よ(ゃ・ゅ・ょ)」に相当する「軟音系の母音」とみなされた「Я Ю Ё (ya, yu, yoまたはia, yu, yo)」も用いられる。
「軟音」という語を「硬口蓋化した発音」として用いることは、スラヴ語学に限定される。音声学で「軟音(対義語: 硬音)」というと、これは別の概念を指す点に留意されたい。また、「Ь」字は古代教会スラヴ語で"front yer"として前舌・狭母音の弱母音 [ĭ] を示していた字だとされ、初めから軟音・硬口蓋化を示す字だったわけでないことを留意されたい。似た字形に「Ъ (硬音符または硬音記号"hard sign")」があり、これは軟音・硬口蓋化でないことを示す字だが、先と同様に古代教会スラヴ語で"back yer"として後舌・狭母音の弱母音 [ŭ] を示していた字だとされる。

日本語の「や・ゆ・よ」とロシア語など東スラヴ語群の「Я Ю Ё (ya, yu, yoまたはia, yu, yo)」とは、文字単体の場合に音声学では硬口蓋接近音 /ja, ju, jo/ として扱われるであろう。
日本語と東スラヴ語とにおける硬口蓋接近音が、なぜ母音「あ・う・お (a, u, o)」しか無いかといえば、「い・え(i, e)」は前舌母音(front vowels)として発せられる音であって硬口蓋接近音の硬口蓋化の音と発音の仕組みが似ているためである。
そのため、現代日本語で通常は「いぃ(ゆぃ yi)・いぇ(ye)」を発しない(イェス"yes"とかイェール"Yale"のような外来語か再建された古代日本語ヤ行音くらい)し、キリル文字にも「Я Ю Ё」を主に用いて"yi, ye"系の音の字を用いない。
yi発音 /ji/ はウクライナ語 Ї が有り、ye発音 /je/ はロシア語・ベラルーシ語(2語は異音としてのみ)・ルシン語 Е が有るが、使用(および異音出現頻度)が限定的である。
南スラヴ語群のうちのブルガリア語に関しても、英語版Wikipedia記事に「イェ /jɛ/ から エ /ɛ/に変わること」が示される。
スラヴ語派は、キリル文字を使わない言語も多くあり、それらにおける「軟音」の有無や多寡も別途検証されたい
例としては「鹿"deer"」を意味する言葉に、チェコ語jelen スロヴァキア語jeleň ポーランド語jeleń セルボ・クロアチア語jèlen/јелен (セルボ・クロアチア語のみ南スラヴ語群で他は西スラヴ語群)などがあり、語頭が硬口蓋接近音 [j] のイェレン発音であるが、スラヴ祖語(*(j)elenь リンク先に東スラヴ語群のロシア語оленьなど諸々の例あり)ないし印欧祖語(*h₁el-)ではその音が無かったと推定されている。

「Y発音・ヤ行音(音声学的に特定すれば硬口蓋接近音)」が「やわらかい(軟らかい・柔らかい)」ということは、外国語・西洋言語の中でも言われることが確認できた。
記事の本題・仮説のための一つの根拠としよう。



備考: 中世~近世日本語「あ・い・う・え・お」は"a, i, u, ye, wo"?

先のスラヴ語のうち、一部は印欧祖語・スラヴ祖語でエ系統だったものが現代までにイェ系統になっている言語(チェコ語・ポーランド語など)が確認された。
また、その一方でイェの発音が消失したか条件的に現れる・方言に残っているらしい言語(ロシア語・ウクライナ語・ブルガリア語など)も確認された。
日本語はというと、国語学者・言語学者の一部は中世(ここでは平安後期~戦国時代)や近世(江戸時代)に「あ行=あ・い・う・え・お」が"a, i, u, e, o"ではなく、"a, i, u, ye, wo"のようなものだったと考えている。
そのような雰囲気を私は感じていた(誰々の説かは不確か)ので、当記事の執筆に際して江戸時代の国学の書を見直した。

本居宣長さんの「字音假字用格(もじごゑのかなづかひ)」に「アヤワ三行の差別を明らかにすべきだ」、「オの字はア行であってヲの字はワ行だ(i.e. ア行の"オ o"が"ヲ wo"の音で発せられることは誤り)」、「(梵語への漢字音写について)梵語の長ウ(ū ऊ)と短オ(o ओ この悉曇学でいう短オはグナであって長オはヴリッディau औ)とを混同して空海はどちらにも『(新字体: 汚 簡体字: 污 ネット複製には汗と誤植される)』という同じ字を当てる。(中略) ウとオの区別もできない者にオとヲの区別など不可能だ。インド人の宝月(Ratnacandra)から梵語を学んだ慈覚(円仁さんのこと)は『(平仮名お・片仮名オの原形)・』などの字でア行オを正しく表現した。当時の日本人が正しく学べば正しくオとヲの区別をできたはずだ」という見解が示されていた。
なお、彼は中国・日本におけるア行オの誤った漢字音写の例として「」の他に「」などを挙げてもいるが、現代中国語ピンインでwuとかyuとか中古音・反切の頭音で羽とか雲とか汪とかのようにy系もw系も有るし、於や奥などもそれぞれy系やw系と相互に表現し合う傾向にある。母音についてもo系とu系は「都・図・頭(呉音がu系 漢音がo系)」に代表される相似性がある。時代ごとに異なる反切などが示された韻書・字書の見方を誤って論ずると、循環論法になりかねない。これは本題と逸れる。彼がどう漢字音を認識していたかは、興味のある方が別途考察すればよい。
これら記述が示唆することは、18世紀のころに「ア行オ /o/=音声的にヲ [wo] でワ行オ /wo/と同じ」だったことである。
また、ア行エ"e"とヤ行エ"ye [je]"との混同を示す書に大矢透さんの「古言衣延辨證補(明治40年作という)」があり、そこに「万葉集など上古には阿也(ア・ヤ)二行のエ音を分別して仮名(漢字音写)で記していた」とし、ア行エが「衣(音を借る) 得(訓を借る)」・ヤ行エが「延・要(音を借る) 江(訓を借る)」などであるとしてその詳細が示されていた(その元の話題は奧村榮實・奥村栄実さんの「古言衣延辨」でそちらにも同様の説がある)。
こちらの方は、古典における万葉仮名・など和語漢字音写の区別に関する話題が主立っていて中世や近世の日本語の音価の比定には向かないが、参考までに例示した(なお、後者・大矢透さんの書に「空海さんの時代にも別の音であることが常識的に認識されていて『いろは歌』に"越えて ko-ye-te"のみあってア行エが載らないことから彼は『いろは歌』作者でない」という話も書かれる。彼はア行エとヤ行エが区別されない時代のエ音素の音価を [e] ではなく [je] の方に定めていたと分かる)。

JAPONIAE INSULAE DESCRIPTIO.
(Flickr and Wikimedia commons)
他に、室町時代・安土桃山時代・戦国時代のあたりの新ラテン語(c. 1500-)の日本地図や、日葡辞書などを参照するとよい。
地図のうち"IAPONIAE (JAPONIAE) INSVLAE (INSULAE) DESCRIPTIO."には、令制国の名前など主要な地名が記されており、伊豆"Hizu", 和泉"Hizumi"といった語頭H字が現代フランス語"h aspiré, h muet"と同じような彼らのラテン語発音によって無音のままに付けられていたような表記があるので、この語頭H字を有字無音(黙字)として読んでもらいたい。
その上で「越後"Hiechigo"」は、発音を示すと「いぇちご"Iechigo Yechigo *jechigo"」だったと読み取れる(越前"Hiechigen"・越中"Hietchu"も同様)。
ヤ行の音の比較のためには「大和"Hiamato"」、「伊予"Iyo"」がある。
ただし"Fechi Iouoxima"のIoはジョであって八丈島(現代ローマナイゼーション"Hachijō-jima")を指し、その南の"Iasima"は八つの島=八島(やしま Yashima)で伊豆大島と八丈島の間にある島々(伊豆諸島の一部)を指すと思われる(この地図に描かれた状態としては現代のそれらと大分異なるようだが当時の西洋人が少ない伝聞などから製図したためであり当記事の話題に関しない cf. 1720s J.C. Scheuchzer日本地図"Fatsisio. I")。
「越」の字は、字音仮名遣いで「ゑつ"wetu"(そもそも字音仮名遣いは初めに江戸時代の国学者が宋以前の韻書・反切などを参照して既存の仮名遣いを修正して整備したもの)」であった(cf. 説文解字・広韻: 王伐切・わうばつ→わつ"watu" 南"Vietnam" QC: Việt Nam)。
このワ行エ"we"のヱ(ゑ)の語頭w-が、中世にはア行エ"e"・ヤ行エ"ye"との区別を失い、すべて"ye [je]"に変化(合流)したということになる。

現代に語頭がオ音である単語に「奥州・近江・尾張・隠岐(字音かな→あうしう・あふみ・をはり・おき)」があるが、それぞれ"Villoxu, Vlloumy, Vlloari, Vuoqui"と、語頭の音の同一・別異を問わずに綴りが不揃いである(しかも後述のW = V, Uの項目やLの項目に示されたラテン語・ロマンス諸語の道理を知らねば綴りの意図が想定しづらかろう)。
それであっても、当時のオ音素は、その音価が語頭V字(U, Wに相当)であることからワ行オ"wo [β̞o, wo]"であったと示唆する(気になる例は大"ō historical: ofo"長母音が反映されていない大隅"Osumi"と大五島?"Ogoto" 豊後"BVNGO = Bungo"と書かれた九州島とその周辺にある)。

これらの情報や、私が未だ示していない情報など(e.g. 日蓮大聖人御書・真蹟遺文 ほかカナ文字の写本類 近世の外国語文献 cf. enwiki: Japanese yen#Pronunciation and etymology)から、確かに中世~近世の日本語に"a, i, u, je , wo (極端な場合はa, yi, wu, ye, wo)"がア行の音であったという説を肯定できる。
中世や近世の日本語で、ある程度の地域・期間にア行のエが"ye"で、オが"wo"ということも、単なる母音よりも強めに発して接近音にした方が良いように感じられたか。
これらの時代の特殊な状況下には現代のハ行音価=喉音系・声門摩擦音 [h] (近似するものに軟口蓋摩擦音 [x])によってア行を発すること(ha, hi, hu, he, ho)もできたろう(先のフランス語など中世ヨーロッパ言語の有字無音hを比較。中古音などにおける一部漢字音はh語頭らしいものが呉音でア行の仮名にされることもある)。

以上のように、中世~近世の日本語のア行エ・オの音価が [je] , [wo] だったとして、江戸時代の後期や明治時代には"e, o"のような母音に推移(移行・変化)しきる。
ただし、[wo] だけは助詞「を"o, wo"」で限定的に(i.e. 条件異音として)現れる。
後に外来語を受けてイェ・ウォとして、「五十音から失われた音(音素phoneme, 単音phoneどちらも)」を発する機会が多少増える([ji, wu] も、ごく稀にイィ(ユィ)・ウゥ(ヲゥ)と表記される)。





W (他言語異字: V U)

ラテン文字W, V, U字および先述のY字はみな、究極的にギリシャ文字「ウプシロン Υ (小文字 υ)」に由来し、それはまたセム語派の文字「ワウ(waw またはワーウ wāw, フェニキア文字ではY字形)」に由来するという。
500年以上前までのヨーロッパでは、多くの場合にV字形のラテン文字大文字が、母音U (ウ)と子音V (ヴ、ワ)のいずれにも用いられた事実がある。
ヨーロッパ言語の地域で広く用いられてきたラテン文字の始祖ともいえる言語のラテン語のV字は、古典ラテン語(近現代に再建された発音)が母音Uに加え、子音カタカナ「ワ」で表される音=接近音である。
それよりも後世の教会ラテン語のV字子音は、カタカナ「ヴァ」で表される音=有声摩擦音である。
厳密には、前者が両唇軟口蓋接近音 [w] で、後者が唇歯有声摩擦音 [v] である。
つまり、歴史的にはより古い前者が「ワ [wa]」系統で、より後世の後者が「ヴァ [va]」系統である。
単語例は現代ラテン文字で"Vulgata, Vulgāta (古くはVVLGATA)"と綴られる単語を前者で「ウルガータ(wuルガータ)・ウルガタ」ということ、後者で「ヴルガタ」というようなものである。
なお、教会ラテン語で完全にV字ワ系の発音 [w] が絶たれたのでなく、qu-の語句"qui, equus (i.e. 古い表記でQVI, EQVVS)"などに [kw] として残っている(古典ラテン語発音は唇音化 [kʷ] か接近音付与 [kᶣ] で微妙に違う)。
なお、Q字の名称は日本語で「キュー kyū [kʲɨᵝː]」、英語で /kjuː/ と発音されるが、この用法からすれば「クウー /kwuː/ [kʷuː]」と発音されるべきものである(cf. オランダ語・フランス語 ク /ky/ スペイン語 /ku/)。
教会ラテン語発音は、インターネットで探せば多く聴いて確認できる。YouTubeでは"Pater noster qui es in..." https://www.youtube.com/watch?v=PyWBaIEkZ7w (教会ラテン語の統制機関と関連するカトリック教会・ローマ法王による発音)などがある。古典ラテン語発音は、世間の研究者によるものが確認できる。私も自作歌詞の歌唱をしている

インド系言語において、V字= व は、ヴァとワのどちらも歴史的に発音されたと私は見ている。
一般的に、サンスクリットであれパーリであれ他のプラークリットであれ、V字単語が漢語(中古中国語・主に1世紀~唐とそれ以前)ではB系の音の漢字に音写される。
例えば「毘(呉音: び"bi")」は、沙門"sa: Vaiśravaṇa pi: Vessavana"・瑠璃(瑠璃・流離)"sa: vaiḍūrya pi: veḷuriya 元素ベリリウム鉱物berylL/R音位転換"・盧遮那"sa: Vairocana pi: Verocana (パーリ経蔵・相応部11.8経によると阿修羅の名=盧闍那だが中部49経には virocana 単に輝く・光を放つという意味の形容詞も載る)"と音写に使われる。
この「毘」は、B字・BH字 ब भ 単語の音写にも使われる。
同様に阿濕"sa: aśva"(馬を意味する語だがわざわざ音写している場合は人名中に用いられるもの)の「婆(呉音: ば"ba")」といった字も、V字・B字・BH字単語の音写に使われる。
一部漢訳仏典で「婆」はP音梵語の音写に使われることもある(e.g. 後述ヴィパッサナーもといヴィパシヤナーの音写例である毘婆舎那 Trad. 毗婆舍那)が、元の梵語発音者や口語発音の系統に依存するものである。また、現代中国語で「毘(毗) Pinyin: pí」・「婆 Pinyin: pó」はP音外来語の音写にも使われるが、現代中国語は無声音・有声音の区別が薄いためであり、ここでは関係ない。当記事では以後にも「口語発音」のような同語異音現象や、古代と現代の同型言語の差異について、筆者が注意点を示したり、筆者が意識しても注意点を示さなかったりするので、いずれのことも読者が注意すべきである。音声学や歴史言語学自体が言語発音の客観性と主観性について、適宜にすべきものである。
これらは西暦1世紀~10世紀のインド・中央アジアの人物が、インド系言語のV字発音をワ系統でなくヴァ系統で発していたことを示唆する(一部でバ系統に合流することも考えられる)。

漢語の仏典で以上のV字インド系言語・梵語が「毘」や「婆」というヴィ・ヴァやビ・バを思わせる字が使われてきたことに対し、現代のインド・東南アジアでインド系言語(典礼言語としてのサンスクリット語やパーリ語)のV字は、ワ発音である。
イーシュヴァラ(īśvara 神、シヴァ、漢訳・漢語仏教圏でいう自在天)を「イーシュワラ(英語圏でもIshwaraなどとラテン文字表記される)」と、IASTでのV字をワ発音のカナ表記にする。
マハーヴァンサ"mahāvaṃsa"をマハーワンサ、テーラヴァーダ"theravāda"をテーラワーダと通称することを始め、東南アジア人が主体となっている上座部仏教(特にミャンマー・スリランカの流れ)の語は、IASTでのV字をワ発音のカナ表記にする。
ただし、ヴィパッサナー瞑想の「ヴィパッサナー"vipassanā"」などは北米で普及した流れを受けてIAST翻字上Vである字をヴァ発音にする英語発音で日本に伝わった経緯があるか、英語風の発音にしたい人がV字(シンハラ文字 ව デーヴァナーガリー व など唇歯接近音 [ʋ] とみなされるワのような音)をヴァ発音にした経緯があろう(現代東南アジアに合わせるならばVヴィパッサナーはWウィパッサナーになる。一方でオウム真理教ラオス遠征動画 on Youtube - 29:46 ヴィパッサナー発音や29:26 バーヴァナー"bhāvanā"発音はヴィパッサナ、パヴァナと聴こえる)。

先述の単語のうち、"aśva (男性主格単数aśvas, aśvaḥ)"は「馬」を意味するサンスクリットであり、その発音をカタカナに示せば「アシュヴァ、アシヴァ」または「アシュワアシワ」となるが、同じく先述のラテン語"equus"も「馬」を意味し、その発音をカタカナに示せば「エス、エクゥス、エクウス(エkwuス)」となる。
二語"aśva, equus"は印欧祖語における同根語であり、サンスクリットのś字の音はシャタ (śata) がラテン語ケントゥム (centum) となるようにK (C), Q字の音と置き換わることが多い(cf. ケントゥム・サテム説)。
これら"śva, quu"は、ともにW発音の方がしやすく、V発音の方がしづらいことは、今、この文を読む者が発音すれば確実に分かるであろう(後述の「モスクワ・マスクヴァ」に関する注釈も参照)。
音声学的に定式化した理論としては、二重子音のうちの先の音が無声音ならば後の音も無声音であると発音しやすいということである(日本語・漢語の鼻音による連濁は先の音が鼻音=有声音ならば後の音も有声音であると発音しやすいという現象を示す)。
「後の音による無声音化現象」は、あくまでも例示だが、英語describe ラテン語describoが接尾辞-tion, -tioが後ろに接することによってb→pとなる事実(en: description, la: descriptio)に現れる。

ただし、接近音も標準的に有声音(声帯の振動を伴うもの)である。
つまり、[swa, kwa] 発音と [sva, kva] 発音のどちらが発音しやすいかとは、その発音者の能力・感覚(主観性)に依存するということであろう(cf. イスラエルの国歌"Hatikvah"ハティクヴァ)。

なお、過去の日本でクワもといクヮ音=拗音のうちの合拗音(唇音化"labialization"の音"labialized" [ʷ] または [w] 付き二重子音)は、漢字音として発音されていたことが認められる(字音仮名遣いクワ・クヰ・クヱ・グヱなど。字の例は花・華・歸・外など)。
二重子音の無い日本語のうちにも、クヮとかキャといった音であれば二重子音とも取れるような音が有り得ることとなる(唇音化・硬口蓋化した音 [kʷa] [kʲa] に定めれば二重子音でない)。
何であれ、ヤ・ワ音、Y W音の半母音たる性質を、私は感じる。

インド言語の話をしていたので、それに関する「半母音たる性質」について一つ補足しよう。
サンスクリットなどに見られるサンディ(連音・連声)の例として、母音イで終わる単語の次に母音で始まる単語が来れば、そこはヤ行の音となり、母音ウで終わる単語の次に母音で始まる単語が来れば、そこはワ行の音となる現象が挙げられる。
この現象も、古代インドの音声学において半母音"antaḥstha"のうちにY W音が含まれる根拠ではなかろうか(それでは同じくその半母音のうちに含まれるL, R音がどのように半母音の性質を持っているかといえば、当記事で後に考察される通りである)。



続いて、日本語のワ行音・わ字(ワ・和)の話をする。
古代日本語の音素(および歴史的仮名遣い)は万葉仮名などによって推定・再建される。
冒頭に※注釈で示されたよう、「歴史的なハ行音素の変化である古代日本語*pa (パ 音価を理論上想定すると無声両唇破裂音 [pa])→上古日本語*fa (ファ 音価を理論上想定すると無声両唇摩擦音 [ɸa])→中世日本語*wa (ワ 音価を理論上想定すると両唇接近音 [β̞a])というハ行転呼」によるものは、古来からのワ行音と区別されるべきである。
ハ行転呼は、語中のものが主要である。
参考までに、名詞の例には「岩(いは"ipa, iɸa, ifa iwa")」・「家(いへ"ipe, iɸe, ife, iwe, 中世後期: iye? 現代: ie")」などがあり、動詞の例には「言ふ・言ひ・言へ・言はば(いふ・いひ・いへ・いはば ip-, iɸ-, if-, i∅-)」=四段活用ハ行などがある。
原則的に、語頭ワ行音はハ行転呼に由来するものでないと思われる(i.e. 語頭ハ行音はハ行転呼の対象でない)。
語頭ワ行音の例として、「分(わく・わかる・わける)、割る、悪(わるい・わるし・わろし)、井(ゐ)、酔(ゑふ)、尾(を)・居り」が挙げられる。
万葉仮名などから推定された古代日本語に、ワ行音が語中に現れづらいとすれば、ワ行音は半母音の性質があると観測できる。
そのことは、和歌において句中の母音が字余りで許容されるという道理(cf. 国学者見解)・エリジオンを比較されたい。

ただし、ワ行の音が語中に現れる例も少しあり、名詞の例には「声(こゑ"kowe" 現: こえ"koe" 結合辞: こわ"kowa")」・「故(ゆゑ"yuwe" 現代: ゆえ"yue")」・「青(あを"awo" 現代: あお"ao")」があり、形容詞の例には「弱し(よわ-"yowa-", 記事冒頭にも記される)」がある。
中でも、動詞「うえる(植える・飢える・餓える"ueru")」の文語体終止形「うう *uwu (連用形: うゑ) (実際にこの終止形がそういう万葉仮名で文献に載っているかどうかは未検証)」=下二段活用ワ行について(据えるも同系。用ゐる・率ゐるは上二段活用ゐる複合動詞なので除く)、かなりイレギュラーだという印象を私は覚える。
語頭わ行の動詞であっても、文語体終止形「ゑふ *wepu (いろは歌に連用形・名詞化"ゑひもせす"とある)」が現代に「よう(酔う"you, yō")」となっており、かなりイレギュラーだという印象を私は覚える。ただし、後でそれを少し考え直し、その歴史的な音変化を推定すると /wepu/ → /wefu/ → /jefu/ → /jewu/ → /jou/ (よう you)として理に適うようでもある(その後に英語版Wiktionaryの「酔う」項目を見て同じような推定が載っていることを確認した)。
半母音・母音の性質について、このことに重要な示唆が含まれようか。
つまり、断定できないほど古代=原初からその日本語の語句の語中にワ行音があったか(世間の言語学者か在野研究者が各々ウラル語とかアルタイ語とかオーストロネシア語とかオーストロアジア語とかドラヴィダ語とかシナ・チベット語とか扶余語とかと日本語の起源・祖語を探る対象にあるような当時の外来語・借用語ということも有り得て若しそうならばそのまま受容されたか)、断定できないほど古代=原初には異なる音価だったかということであり、当記事では音韻論の上からの判断材料だけを示しておく。



続いて、ドイツ語ラテン文字におけるV・W字の話をする。
V(ファウ)字はファ系統=Fの音(無声唇歯摩擦音 [f])のみを発する(e.g. 前置詞von)。
ただし、"Verb, Vakuum"のようなラテン語由来の語句はヴァ系統=Vの音無声唇歯摩擦音 [v] だという。
W(ヴェー)字はヴァ系統発音だが、フォルクスワーゲン (Volkswagen)のようにsという無声音が直前にある時はワ発音となるような異音が有ろう。
そうなると、ハーケンクロイツ異称の元ネタであるインドのスヴァスティカをスワスティカ (Swastika; Svastika स्वस्तिक) と、ヘブライ文字の記号であるシュヴァー (Schwa; š’vā שווא / שְׁוָא‎) をシュワーと発音すべきであろう。
そこで、Google翻訳の音声合成機能を用いて聴いてみると、やはり「フォルクスワーゲン、スワスティカ、シュワー」という発音を私が聴きとれたので、このようにW字 [v] が直前の無声音s (歯茎摩擦音 [s]) やsch (後部歯茎摩擦音 [ʃ])による条件的な異音 [w] (または [ʋ])として発せられると分かる(反例? cf. ツヴァイ"Zwei [t͡sʋaɪ̯]" シュヴァルツ"Schwarz [ʃʋaʁts]" IPA音価表記は接近音 [ʋ] だがWiktionary添付音声はヴァ音に聴こえる・後述の仮名表記問題>インド言語も参照)。



続いてロシア語キリル文字におけるV・W字の話をする。
в(ヴェー)字はヴァ系統・ファ系統がある。
ヴォルゴグラード・トヴェリ"Волгоград, Тверь"というヴァ系統の地名や、スラヴ系言語の人名なんとかフスキー、都市名なんとかフスクなどに用いられる(過去記事)。
ほか、酒の名であるウォッカ"водка"はヴァ系統(ヴォトカ→[ˈvotkə] Wiktionaryで発音ファイル付き)だが、日本語では慣習的にワ(ウァ)行のカナ表記を用いる。
ロシアの首都は通称「モスクワ」だが、キリル文字Москва́をロシア語読みすると、マスクヴァ [mɐˈskva] に近い。
モは強勢アクセントが置かれてマとして口の開きが広めの母音を伴う(Росси́яをロシアでなくラスィーヤといいрусскийをルースキーでなくてロースケイ≒露助というが如し)。
ワは実際の発音がヴァ系統となるが、音声学的理由が見当たらない。
理由とは、前後の音の相対性が挙げられ、それは必ずしも同じ道理が存したり同じ原因から同じ結果が起こるわけでない=「各言語ごとのクセがある」ということである。
先述ドイツ語は無声音Kとの調和によるスヴァ→スワという変化が観測されたが、ロシア語は無声音S (с)との調和によるクヴァ→クワ法則が適用されないのかもしれない。
しかし、それは先のインド言語に見るように、時代や地域が変われば別の話でもあろう。
すなわち、Москва́を現代ロシア語「マスクヴァ」のように発音せず、日本語カナ「モスクワ」に近い発音をするロシア語話者が別地域・別時代にいることも有り得る。
ただし、日本語カナ「モスクワ」はМосква́を翻字的に表記しただけで、実際の「モスクワ」に近い発音をするロシア語話者に由来した表記でないともいえる。
所詮、学問の仮説とは、ある一面に基づく真っ当な思考でいくつも理由(既に認知する事実とその推定)の挙げられる空虚なものである。
また、それを検証して合意が得られれば、当面、真実のように扱われて次の推定や仮説がいくつもされる。
言語学では、事実の例が少ない事柄・インフォーマント情報の不明瞭な事柄でさえ、学者が断定的に論ずることが多い(cf. 過去記事に載る神山2000における成節流音など)ので、過去の発音情報の整理と実在話者の発音例のデータベース化とがされて必要に応じて閲覧できればよい。



備考: YとWの発音は古代ギリシャ語(紀元前5世紀アッティカ方言など)に有ったか?

不思議なことに、半母音YとWが、古典ラテン語(文字上は古層のラテン文字に無し)とサンスクリットには有っても、古代ギリシャ語(古代ギリシア語)にはその発音がされない。
古代ギリシャ語の「イデアー(イデア)"idea ἰδέα"(動詞εἶδονに関連。見た目、転じて哲学概念にも・女性名詞)」の同根語(印欧語根*weyd-)に、サンスクリットの「ウィディヤー(ヴィディヤー)"vidyā विद्या"(語根√vidより。目に見える事柄についての知性・知識のこと、ヒンドゥー教ではより神聖な概念に、大乗仏教では五明などの学問の名に、仏教全体では無明"avidyā, pi: avijjhā"のように否定接頭辞を付けても用いる・女性名詞)」やラテン語の「ウィデオー(ヴィデオ)"video" (見る・動詞・能動態・直説法・一人称・単数)」がある(英語の「ワイズ"wise"」も関連する)。
この「イデアー(イデア)」は、ヘレニック祖語で*widéhā (ウィデハー)と再建される。
現代ギリシャ語ではβ(ベータ)字が本来のB発音 [b] からV発音 [v] に変化して一般的に発音されるし、また外来語借用(cf. サナレス Σαγιονάρες)で有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] がある。
しかし、英語のY W [j, w] 日本語のヤ・ワに近似する音は今も無いか、条件異音として有り得る程度と思われる。
よしんば、これらが現代ギリシャ語に有るとても、古代ギリシャ語に有ったと考えづらいが、ここでは有ったという可能性も考察しよう。

例えば、古代ギリシャ・小アジアの地名イオニア Ἰωνία (紀元前1300年代のヒエログリフにエジプト学再建音 /iːuːni ɑːʔɑ/ となる語が有ってイオニアを指すという・かつ"a hapax legomenon")は、古代ペルシャ語(古代ペルシア語)でヤウナ"Yauna 𐎹𐎢𐎴"、中期インド・アーリア語 MIA のパーリ語でヨーナ"Yona" (中部93経など。サンスクリットのヤヴァナorヤワナ"Yavana"はヨーナ=ヤウナからのBack-formation)、ペルシャ語・アラビア語・ヒンディー語でユーナーン"Yūnān یونان यूनान"というので、逆に考えると、古代ギリシャの一部地域・時代においてもイオニアをヨニャとかヨニア(長母音を考慮すればヨーニャー)とかと読んでいたことを推定できる(ちなみに1世紀ごろのユダヤ系ローマ人フラヴィウス・ヨセフスはイオニア人の祖先を聖書の人物「ヤーワーン יָוָן Yāwān, Yavan, Javan」に託したという)。
しかし、その直接の肯定的根拠や否定的根拠は何も無い。
イオニア Ἰωνία の古代ギリシャ語アッティカ方言の再建音は/i.ɔː.ní.aː/ イオーニアーである。
古典ラテン語ではI字がY発音(日本でいうキリスト教祖イエス・イエズスは古典ラテン語でイェースス"Iēsus, Yesus"とでもいえ再建された古代ギリシャ語ではイエースースないしイエスス Ἰησοῦς /i.ɛː.sôːs/ 聖書ヘブライ語ではイェーシューア יֵשׁוּעַ‎ yēšū́aʿ だとかと云々)のためにも用いられたので、その古代エジプトに端を発するというイオニア様の発音が正しく伝わらなければ、ヨニャ様の発音がされることも有り得る。
ただし、イオニア様は4音節で、ヨニア様は3音節でヨニャ様は2音節であり、サンスクリットのヤワナは3音節でパーリ語のヨーナは2音節であるなど、音節の韻律の詩を擁する文化において同じ語が方言間・話者間で音節数が合わないと、問題が生じる。韻律の便宜上に連音(サンディ)の有無を決めることや単語の音節数を意図的に減らす・増やすことは古代インドでも古代ギリシャでも観測されるが、方言間・話者間で固定的に異なる音節の同義語があることは違う。例えばサンスクリットのhṛdayaに相当する語はどう訛っても3音節のまま(e.g. パーリhadaya アパブランシャhiaa हिअअ 後者は実際のMIA口語に有り得るか不明 cf. ヒンディー語 hiyā हिया アッサム語 hia হিয়া)であり、背景にその「音節の韻律の詩を擁する文化」を私は感じる(ただし2音節サンスクリットārya, 3音節パーリariyaのような例外も多い そのまた例外2音節パーリayyaもある)。
所詮は音素として定式的な発音をみなし得ても、過去の話者のどの程度の人々がそのような発音をしたとか、別の発音をしたとかということの一端を示すに過ぎない。
一応、ここで、I字=イ音が、ヤ行音・Y音・硬口蓋接近音、もしくは開拗音・上付きj音・硬口蓋化音と成り得ることを示した。

ラテン語・サンスクリット・古英語はYとWが有るので、印欧祖語もYとWが有る(e.g. *yū́ *weǵʰ-)と言語学において推定されている。
古代ギリシャ語に、YとWが基本的に無いとしても、非常時には有り得るか話者個人レベルでは有り得るか、より古いミュケーナイやヘレニック祖語では有り得る可能性も付記する。
2018年10月27日、「ドイツ語ラテン文字におけるV・W字の話」に書こうとしたことを示す。ラテン文字Fはギリシャ文字「ディガンマ Ϝ (δίγαμμα またはワウ Ϝαῦ ウアウοὐαῦ)」に由来するがそれも先述のセム語派の文字ワウ"waw"に由来するという)。このディガンマは音素 /w/ だったというが、後述の「備考: YとWの発音は古代ギリシャ語(紀元前5世紀アッティカ方言など)に有ったか?」で語られるように、古代ギリシャ語の語彙には基本的に無いので、何らかの外来語・借用語のために用いられたろうか?なお、その(アッティカ方言)古代ギリシャ語よりも古いミュケーナイ・ギリシャ語に用いられた線文字B"Linear B"においては wa, wi, we, wo の4つの音節文字があり、その音韻論にも音素 /w/ が承認されていることを留意されたい。
サンスクリット"Yavana"がパーリ"Yona"のような口語からのBack-formationであるという例示については反例もある。サンスクリットの接頭辞"ava- (下へ・下の)"はヴェーダにもあるとして、その複合語アヴァターラorアワターラ"avatāra"は後世のパーリでオーターラ"otāra (相応部20.8経など)"となる(反例かどうか未決だが文献学者らが議論しているものとして比較されたいもの→観音菩薩の「観」・アヴァローキタorアワローキタ"avalokita"が西暦5世紀以前に作られた像の碑文カローシュティー文字・ガンダーラ語と思われる語句"oloiśpara"、サンスクリットのアヴァダーナ"avadāna"がパーリのアパダーナ"apadāna")。種々の例について、一応参考にされたい。



備考: "Y, W"系統に見る接近音と摩擦音の仮名表記問題

当記事で既に出された話題を、改めておさらいしよう。
一言いえば、接近音は多くの場合に(標準的に)有声音(声帯の振動を伴う)であるから、その接触・接近・閉鎖性が強まると有声摩擦音になる。

インド言語のIASTで"v"となる字・音素の発音は、主に有声唇歯摩擦音 [v] と唇歯接近音 [ʋ] に聴こえ、そのためにカタカナ表記ではヴァ行とワ行に分かれるという問題がある。
既述の通り、"v"となる字・音素の音価は、古代インド音声学・シクシャーに"dantoṣṭha (歯-唇のこと), antaḥstha"であり、そのために西洋音声学などで唇歯接近音 [ʋ] に音価を定める。
通念上、接近音として「ワ」に近い音である唇歯接近音 [ʋ] も、話者によっては「ヴァ」のように発せられるか、聴く者によってはますますそのように聴き取られるかもしれない。
また、理論的に「狭母音イは広母音アよりも接触・接近・閉鎖性が強まるので有声摩擦音になりやすい(dvaはドゥワのように発するがdviはドゥヴィのように発する者もいる)」ともいえる。
母音を発する際の関係部位の広さ・狭さは、例えば「舌の前後位置によって歯擦音化・硬口蓋化を起こしやすくなる現象(e.g. 古代日本語ti→現代日本語chi 古典ラテン語ti→教会ラテン語tsi・ロマンス諸語shi ただし二重子音stiは歯擦音化しない)」と同じように、子音の音価をも変える現象を起こす性質(自然言語を用いる民族が各々の発しやすい子音発音に変える)があると考えてもよい。
判断を困難にする例が「古代日本語tu→現代日本語tsu」という無声歯茎破裂音 [t] が狭母音たるuを受けて破擦音化 [t͡s] することである(du, tsuも同様)。
これについては「わ行う(ワ行ウ) /wu/ が日本語から無くなったことは接近音たるウ音の性質が話者にも聴く者にも紛らわしさを生じるし、古代よりこの音を持つ語彙(植える・植う uwuなど)が少なかったからだ」という説明から演繹して「た行う(タ行ウ)=つ /tu/ も同様だ」と単純に結論付けることが可能である(要するに相対性の観点で何か別の条件を示して中性化する)。

インド言語の /v/ 音素の聴こえ方の同様の例は、ヤ系統Y音にもある。
ドイツ語の"j"が「ヤーパン"Japan"」としてヤ行に表記されるも、日本語のヤ行が硬口蓋接近音 [j] であることに対してドイツ語の"j"が有声硬口蓋摩擦音 [ʝ]であるとするならば、これはジャ行にも表記できる。
スペイン語 -lla も、スペイン本土に対するメキシコ・アメリカ大陸などと発音の差を生じていて「有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] ジャとヤの中間の音」のように説明されることが日本語版Wikipediaの記事「トルティーヤ(同じ綴りのスペイン語トルティージャも参照)」、「ジェイスモ(より日本語のジャ=有声歯茎硬口蓋破擦音 [ɖ͡ʐ]に似た音である有声歯茎硬口蓋摩擦音 [ʑ] の話題もある)」などに見られる。

一般世間(日本語領域)で外国語を表記する際、現状ではその言語に既存の「慣習的・慣用的・慣行的なカタカナ(カナ)表記」を参照して援用する(複数候補が有ればよりポピュラーなもの)しかないが、ここに示されたような音声学の音価を認知している者は、その人にとっての類音のカナを妥協レベル(筆者が稀に行うようなアイヌ文字用の小書きカナなどを用いない一般的な綴り)で用いることとなる。
言語学と、一般言語使用における慣用性・寛容さについて、過去記事(2017年5月10日)でも言及した(衒学的なことは相手によってとても歓迎されるがとても憎まれることもある。後者を厭う場合は学問知識は無窮・無上で真実は不可得・空と他者への自慢は空虚という真の自己満足=悟りの慈悲にすることができるので一般人に教える時は慣用的・寛容的なカナ表記ができる)。
どうしても何らかの特殊な発音や発音体系の言語をカナ文字で表記したいときは、Unicodeの何らかの領域(Katakana Phonetic ExtensionsKana Supplement)を探すなど適宜にする。言語学・音声学方面の話題においては、特定言語のために整備されたラテン文字転写"transcription"か翻字"transliteration"か国際音声記号=IPAを用いて過度に説明せずにおけば、それも一つの処置となる(説明を求められたらば当記事のような長い説明を用いる)。





L

Lには母音や先述のY, Wにも似たソノリティ"sonority"があるので、響音"sonorant"であり、半母音のようでもある。
そのため、サンスクリット(事実上一語kḷpta कॢप्तのみ)やスラヴ系言語には、成節子音L /l̩/ がある(IAST; ḷ またはl̥)。
このことは、読者がLの音=歯茎側面接近音 [l] の調音部位・調音方法で母音を伴わずに「ウーー(ルーー lll)」とでも発してみれば、肉体的に実証できよう(なおサンスクリットの la ल はシクシャーで歯音"danta"と言われることから歯側面接近音 [l̪] だとする見解もある)。

一般的な英語学では、"able, -able -ible"の語(フランス語経由・後期ラテン語由来)にある l が成節子音Lである(音素表記としては /bl̩/ など)とされるが、Lの側面接近を維持した音というよりも、母音とほとんど変わらない音である。
英語のL字は前後の音の相対性によって変わりやすい。
世間に見られる慣用カタカナ表記では、先に挙げた"able, -able -ible"がエイブル・-アブル・-イブルとされがちだが、母音の音にされたものに「アンビリーバボー "unbelievable"」がある。
この-アボーと同系の慣用カナは「アップル⇔アポー"apple", ピープル⇔ピーポー"people"」などがあり、みな語尾の-leが「オー(より似せてオゥ)」の音にカナ表記がされる。
これらのほか、"milk, feel, animal, vowel, bold, world"にある l は、"Dark L"と呼ばれるもので、音声学では軟口蓋歯茎側面接近音 [ɫ] に定められ、英語(および多くの主要言語)でこれが語頭の発音となることは無い。
ついでに、"milk, feel"を2種類のカナ表記にすれば「ミルク⇔ミゥク(ミォク)、フィール⇔フィーョ(フィーォ)」となる。

ロマンス語の一部においては、"ll"の綴りがラテン語・イタリア語のような長子音 [lː] でなくなっている。
例えば、古典ラテン語で"mille"と綴られてイタリア語"mille" ミッレと発せられるような音は、フランス語"mille" ミル、スペイン語・ポルトガル語"mil" ミルのように変化している。
更には、スペイン語の-illa, フランス語-ille がトルティーヤ"tortilla [toɾˈtiʎa] 墨・米 [t̪orˈt̪iʝa]"(スペイン料理)・ミルフィーユ"mille-feuille [mil fœj]"(フランス菓子)・マルセイユ"Marseille [maʁsɛj]"(フランス都市)・ヴェルサイユ"Versailles [vɛʁsaːj]"(フランス都市)などとカタカナ表記をされるように、「laのようなLっぽさ」が無い発音となっている。
具体的にスペイン語の-illaの-ヤは-iʎa (子音ʎは硬口蓋側面接近音)またはメキシコ系-iʝa (子音ʝは有声硬口蓋摩擦音)となり、フランス語の-illeの-ユは-**j (子音jは硬口蓋接近音)となっている。
フランス語の-illeは、日本語のヤ行の子音・Y音素と同じ音価(硬口蓋接近音)に変わっているので、LとYの類似性を窺うことができる。

英単語"palm"と"salmon"は、それぞれカナで「パーム」、「サーモン」となるし、IPA表記や一般的な発音例で見ても /pɑːm/(UK) /pɑm/(US), /ˈsæmən/ となるなどエル発音を思わせない。
前者の単語は、語源のラテン語で"palma"とあり、「手のひら (palm of the hand)」と「アブラヤシの木 (palm tree)」を意味することは共通語源のものとして辞書に定義される。
この単語の語形は、それと別の語源である意味も与えられており、それは"parma"(パルマ、盾の一種)からの派生である (一辞書の説明に collateral とあるが傍系形容詞 collateral adjective のことではない、この段落に紹介される単語は全て名詞) とされ、なぜか l と r とが置き換わる現象が発生しているようである(過去に実際にパルマ盾を指して"palma"と綴る文献が、いつどれほど多かったかについては未調査)。


こういった点を挙げれば多岐にわたるが、これだけでもLが「半母音、響音」の性質を備えた=事実の例に見えるような発音例があると理解できる。
過去記事および動画説明文に私は「どの学問や議論にも言えることを一つ書くと、どこにどういう事実があると見出せば論者たちは一喜一憂したり、その事実認識を証拠として論議が繰り返されるのであろうが、私は確かに掴んだ手掛かりを世俗中の頼りとし、精神的な迷いを捨てることで、世俗中の目的(現世的な願望・学問や芸術)が達成されてゆくことを期す」と書いた。
Lという字とその発音の事実相を挙げて分析するほど、空"emptiness"の真理が現れる。
すなわち、Lという概念と名称が無く、当然、本質"essense"・客観的存在"objective existence"も無いということである。
なおトルティーヤ・ミルフィーユ(-lla, -lle)云々の話題や、「本質」ということは当ブログ2015年9月7日の記事にも書いてある。当記事で「(何の音と字であれ)本質"essense"は無い」と書いたことは色々な理由が言えるし、既に記されてもいる。当時は「"J"の字が本質的に"I, Y"などイ・硬口蓋接近音だ」と捉えていたが、要するに、それであっても学問的に考察すれば、ラテン文字・ギリシャ文字・セム語派の文字・エジプトのヒエログリフというようなものの各々の発生経緯を分析すれば、学問的にも「最古の本質」ということは相対的なもの(価値判断のできる人類"Homo sapiens"が必要に応じた用いたもの)であって絶対的なものとみなすことはできず、「本質"essense"」がナンセンスとなるという「空の真理が現れる」という話である。

ただし、これは哲学の話題の記事でなく、言語学的な考察をすべき記事なので、その点を1つ言い直そう。
印欧祖語=インド・ヨーロッパ祖語とその末裔の言語の関係性に興味のある人は、おおよそ、このLの原初の発音(想定上の最初の印欧語話者グループの標準的な音価)を歯茎側面接近音 [l] と信じるであろう。
これについて直接の肯定も否定もできないが、仮説や信仰の範疇で私も歯茎側面接近音 [l] とみなし、信じている。
以下、R字とその発音に関しても先に結論を出すと、その原初の発音を私は歯茎ふるえ音 [r] とみなし、信じている(ただし近頃はインド音声学の考察を深めながら複数のヨーロッパ言語を鑑みて反舌接近音[ɻ] か 歯茎はじき音[ɾ]だとも考えることも多い)。





R

Rには母音や先述のY, Wにも似たソノリティ"sonority"があるので、響音"sonorant"であり、半母音のようでもある。
そのため、スラヴ系言語やサンスクリットには、成節子音R /r̩/ がある(IAST: ṛ またはr̥)。
スラヴ系言語にある成節子音Rは、チェコ語・スロバキア語の早口言葉"Strč prst skrz krk IPA: [str̩t͡ʃ pr̩st skr̩s kr̩k]"が分かりやすい。
興味のある方は、当該Wikipediaほか、YouTubeなど多くのサイトで発音を聴けばよい。
現代のインド人らによるサンスクリット・ヴェーダ系の成節子音Rの口頭での発音の例を聴きたい方は、筆者が2018年4月23日に投稿した動画を参照されたい(それら音声転用の他に筆者による実践の音声がある)。
https://www.youtube.com/watch?v=rs7Mvis6-TA

ソノリティのことは、読者がRの音=歯茎ふるえ音 [r] の調音部位・調音方法で母音を伴わずに「ルルル rrr」とでも発してみれば、肉体的に実証できよう。
Rの音価は各言語・個人レベルで様々に異なる部分もあるが、英語の接近音R=反舌接近音 [ɻ] (他に歯茎接近音 [ɹ] 後部歯茎接近音 [ɹ̠] など)の調音部位・調音方法で母音を伴わずに「ウーー rrr」とでも発してみれば、肉体的に実証できよう。
ふるえ音Rや接近音Rは、みなソノリティがある。
フランス語・ドイツ語に見られる有声口蓋垂摩擦音 [ʁ] やふるえ音 [ʀ] も同様。後者を持続させるならば、いびきのように口蓋垂(のどちんこ)を鳴らす状態を持続した発音となる(その音を顕著にして練習し続けるとグロウル・デスボイスのように喉を傷める恐れがある)。ただし、はじき音"flap consonants"の類はソノリティが破裂音と変わらない印象である。

サンスクリットとインド・アーリア語派の最古のヴェーダ語にある成節子音R = IAST: ṛ (Dev. ऋ)は、パーリ語だとa, i, uのいずれかに変化する。
以下、その例をサンスクリット(ヴェーダ)→パーリの順に挙げるが、併記されたカタカナは慣用的な表現であり、音声学的な正確さに基づくものでない。
サンスクリタ"saṃskṛta"→サンタ"saṅkhata"
フリダヤ"hṛdaya"→ダヤ"hadaya" (後世のプラークリット・アパブランシャ: アア"hiaa" हिअअ )
フリダヤ・ハダヤという「心・心臓"heart; cardia καρδιά"」を意味する言葉はラテン語corやヒッタイト語kerなどによって印欧祖語で*ḱḗrと再建されており、斜格系で*ḱr̥d-という成節子音Rが現れるとみなされている。ヴェーダと同じインド・イラン語派の古典「アヴェスター」のアヴェスター語ではzərəd, zarəδaiia ザラザヤのような発音で介音がある。ヴェーダ系以外に成節子音が見られないことと現代スラヴ系言語の成節子音が後世の転訛によるものという前提から「印欧祖語に成節子音(l, r, n, m)は無い」とみなす学者もいる。なお、動詞語根や過去分詞にある成節子音Rはそれを原形とみなした際にグナ音"a"やヴリッディ音"ā"に子音 r が続く形にもなる(e.g. 「死ぬ √mṛ」 ムリタmṛta →マラナmaraṇa →マーラヤティmārayati cf. 漢梵兼語: "danmatsuma" 英語murder, ラテン語由来英語mortal)。
プリティヴィー"pṛthivī" (プリトゥヴィー"pṛthvī"とも)→タヴィー"pathavī"
シ"ṣi"→シ"isi"(パーリ語からの漢訳文献・善見律毘婆沙: し)
グリドラ"gṛdhra"→ッジャ"gijjha"
プリタグジャナ"pṛthagjana"→トゥッジャナ"puthujjana" (サンスクリット仏典とパーリ仏典にそれぞれの語形で載っているが前の語幹の単語のヴェーダ語源は少し異なるかも i.e. पृथक् pṛthak系 पृथु pṛthu系)

このようにパーリ語では、サンスクリットやヴェーダ語の成節子音Rが次の音節の母音と同じものに変化する傾向が強いため、「母音調和"vowel harmony" (フィンランド語とかトルコ語とか韓国語とかの接辞が顕著な膠着語系統ための用語なので普通はこう用いない cf. 母音交替"apophony")」が強いと考えられる。
その母音調和が有り得るか不明瞭となる音変化に グ・ヴェーダ"ṛg-veda"→イルッベーダ"irubbeda" があるが、それはパーリ三蔵(律蔵・経蔵・論蔵)のうちに無くて5世紀以降のブッダゴーサ"Buddhaghosa"よりも後のパーリ復注ティーカー"ṭīkā"に初めて現れる単語なので、紀元前(BCE)からインド・アーリア語派の古い口語として存在するパーリ語に本来は有り得ない語形と考えてよい。そうなると先例グリドラ"gṛdhra"→ギッジャ"gijjha"はなぜ成節子音が単独で"i"に変化したかといえば同様の話がされる過去記事に反舌Rと硬口蓋音との関連を示唆して説明した。しかし、他にも類例があるであろうし、それが押し並べて同じ説明で通用するものと限らない(cf. トリティーヤ"tṛtīya"→ティヤ"tatiya")。要はイレギュラーな音変化も方言学的に許容される必要があるし、もし客観的な理由を求めるならば特殊な経緯が考えられる。
サンスクリットやヴェーダ語の成節子音Rは音素 /r̩/ と表現できても、近代(主に19世紀)にインド各地のバラモンたち(西部や南部やベンガル地域など)はそれぞれどう発しているかという報告が不足しているし、パーリ語以外のインド・アーリア語の口語における音変化も詳らかでないため、その音価が2000年以上前はいかなるものであったか、判断が困難である。
ただ、パーリ語における音変化を見て、私はRの接近音・響音たる性質"sonority"を感じている。

英語学における一見解として、"better"の語にある r が成節子音Rの音素 /r̩/ であるというが、実際の発音・音価はR音性の母音([ɚ, ɑ˞] など)である。
その音価は英語のR発音自体が反舌接近音 [ɻ] (他に歯茎接近音 [ɹ] など)であることに関連しているので、スラヴ系言語やサンスクリットの成節子音Rとは音韻構造も聴こえも全く異なる。
英語のR発音は、同様に日本語のラ行(主に歯茎はじき音 [ɾ])や西洋言語古典風の発音に多いR音(歯茎ふるえ音 [r] ルラァ的なもの・いわゆる巻き舌)とかなり異なる。

先述のサンスクリットの成節子音Rは「ルルル(無母音で続けて発する)」というような歯茎ふるえ音 [r] か反舌ふるえ音のようなもの(サンスクリットのR字・R音素自体は反舌はじき音 [ɽ] などでもよいがはじき音"flaps"にはソノリティが乏しくて現代ヒンディー語のような ऋ /ɾi/リ発音(子音に付く場合はクリ कृ)でないと母音的に用いることが困難)だと私は考えてきたが、最近は英語的な接近音に近い音ではないかとも考えている。
なぜならば、今までも説明されたように、インド音声学シクシャー・日本悉曇学などで多くの書に半母音系統"antaḥstha"として"ya, ra, la, va य ल व"が挙げられ(ただし安然「悉曇蔵 (大正蔵2702 V. 84)」はva音素を唇系の摩擦音系統"ūṣman"として分類する)、そこに र R字 (repha रेफ)・R音素が含まれるためである。
かつ、そのR字について、調音部位が反舌"mūrdhan (JBud. 舌頭 en: cerebral)"であるとしている。
シクシャー・悉曇学に定義されたサンスクリットR字の調音部位が"mūrdhan"で音の種類が"antaḥstha"であるということは、そのまま理解すると「反舌・半母音"semivowel"(接近音"approximant")」となる。
これらの説は、古くからの伝承であって当時から音素を整然と区分していても、その音価は必ずしも詳細に読み取ることができない(ただし1000年以上前の地球上の文明にこれほど詳細に言語発音が説明されたことは無い点で有り難くもある)。
色々な推測・憶測ができてしまうため、サンスクリットR音素の音価の判断が困難である(後の「なお①」も参照)。
したがって、サンスクリット=ヴェーダの成節子音Rの音も、英語的な接近音かスラヴ系と同じふるえ音か、判断が困難である。



備考: 反舌接近音(そり舌接近音) [ɻ] の特殊性

アメリカ英語などでは、R字が語頭にあるか・母音を伴っている時、反舌接近音 [ɻ] で発せられる。
このR音に似た音を日本語で探すならば、「ら行」音よりも、「わ行」音に近い。
ほとんどの日本語話者は「わ行」音を両唇接近音 [β̞] か両唇軟口蓋接近音 [w] で発しているが、極一部の日本語話者が常に・特定の日本語話者が稀に、わ行音を軟口蓋接近音 [ɰ]で発すれば、それがR反舌接近音 [ɻ] に近いと言える。
現代中国語で語頭がピンイン r 字の発音 [ɻ] [ʐ] は、歴史的にみな語頭が硬口蓋鼻音 [ɲ] だった(それはただ音素だともいえて音価としては複数の異音 [nʲ] [ȵ] も有り得る)と考えられる(本"nit-pon, ri-ben"=ニッポン、ジーペンかリーベンのようなもの)。
そのことは過去記事でも示されているが、ここにIPA音価で歴史的な音変化を示すと [ɲ] (ニャ系) → [ȵʑ] (ジャ系、prenasalized?) → [ʐ] (ズャ系統だが一部話者は反舌接近音 [ɻ]) となる(日本の呉音⇔漢音や広東語音⇔閩南語音の比較をすれば明解であるし、自ら発音して音ごとの類似性を触覚で感じても理解しやすい)。
更に、二・児(兒)・爾(尓)といった字は er化 (R音性母音 [ɚ])となる(爾・尓字 ěr は現代で外来語のɚ・無母音L・R音写に用いられる→アイルランド"Ireland 爱兰" アルバニア"Albania 阿巴尼亚" しかしアルメニア"Armenia"は亚美尼亚で用いられず。他に語尾-l, -r音 ソウル"Seoul 首" 語尾-rは英語・ドイツ語・オランダ語・フランス語などで参照。他の使用例1, 2 これらは色々な例外も見られた)。
朝鮮語では近代まで [ɲ] 系統だったものが現代朝鮮語・韓国語 [j] (ヤ系統Y音だがyi音はヤ行イが現代日本語に無いように [∅] 無子音、いわゆるイルボン 일본 ilbon)となる(cf. タイ語 ญี่ปุ่น yîi-bpùn 広東語Jyutpin粵拼 jat6 bun2  [jɐt˨ pun˧˥])。
これらは「広義の硬口蓋音(反舌音もこのうちでイ音のみ無子音のようにも成り得る)」を移動してきた、正常な音変化と考えてよい。
「正常な」とは、「自然な・標準的な・規則的な・推定しやすい」という言い換えもできる。それは、この東アジア広域(気候の差が多少あっても構わない)の言語だと蓋然的に言えるのであって少し場所や文明が変わると、そういった蓋然性による推定が通用しないこともある。

反舌接近音 [ɻ] の特殊性により、現代言語におけるR字の作用から歴史的な音変化を窺う。
ノルウェー語とスウェーデン語はRの字がSの前にあるとき、Sが無声歯茎摩擦音 [s] でなく無声反舌摩擦音 [ʂ] となる。
ノルウェー人の自称は「ノシュク"norsk"」であり、この「シュ"rs"」が無声反舌摩擦音 [ʂ] となっている(口語の名称もニーノシュク"nynorsk"という…発音例は現地語の何らかの動画音声を参照すればよい)。
このノルウェー語・スウェーデン語(ゲルマン語派)のほかには、ポーランド語(スラヴ語派)の"sz"に加え、その有声音 [ʐ] たる"rz"もある(英語版Wikipedia - Polish phonologyには破擦音も示される)。
余談だが、二重字"digraph"のうちrで始まるものは非ラテン文字の言語(アボリジニ系など)の反舌音の子音に用いられる傾向があることは、アメリカ英語の反舌Rやノルウェー語・スウェーデン語・ポーランド語の"rs, rz"表記から影響を受けて近現代に出来たと考えてよい。要するに、ノルウェー語・スウェーデン語"norsk"はノルド"nord"的な同根語からして本来は二字一音でなく子音の連結であってゲルマン祖語*nurþrazに繋がるものであり、後世に非ラテン文字の言語で二重字"rs, rz, rt, rd, rn"などで反舌音が示されても伝統的にラテン文字系統を用いてきたかノル・スウェと成立経緯が全く異なるということである。ポーランド語の"sz, rz"は"rzeka"がロシア語"река"などに比較的できるようにノル・スウェと成立経緯が異なる。

その更なる余談だが、先例のうち、ノルウェー語"rs"とポーランド語"rz"とが一部の方言において、反舌音でない「変わったR音」で発せられる。ともに、「上より無声歯茎ふるえ音 [r̝̊] (voiceless alveolar raised non-sonorant trill)」になる例がある(前者の方言はオスロ以北の各地、後者の方言はワルシャワ以北の各地)という。また、後者の方言には「上より有声歯茎ふるえ摩擦音 [r̝] (voiced alveolar fricative trill)」になる例があるともいう。

去年まで、筆者は「無声反舌摩擦音 [ʂ] が中国語普通話(Pinyin: sh)やインド・アーリア語派やドラヴィダ語族(主にタミル語以外)などのインド地域の言語に有ってヨーロッパには無い」と思っていた。
参考までに、中国語漢字音の反舌音(捲舌音 ㄓ ㄔ ㄕ ㄖ)のうちの無声反舌摩擦音 [ʂ] は「・数 shǔ (ㄕㄨˇ cf. 呉音: シュ 漢音: ス 慣用音: すう 他にサクのような同字異音異義もshuòで反舌音)」が例になる。その中古音・上古音は‹ srjuX › , /*s-roʔ/ (バクスター・サガール式。Xは上声トーン記号)となる。前者の時の r は前の s と合わせて無声反舌摩擦音を表す(cf. カールグレン式 /ʂi̯uX/)が、後者の時の r は二重子音・響音・流音としての r であるという。簡単にカナ表記すると、前者はシュ(反舌音)で後者はスロ(二重子音)、ということになる。つまり、現代の漢語学問・音韻学の人は、推定された上古音の時代に r が二重子音として発音され。それらが「數」のような反舌音の漢字となった(ただし逆に反舌音の漢字""など全てが上古音で二重子音 r を有していたわけでない)と考えている。上古音再建案の事実性はともかく、学者の思考にさまざまな条件要素が伴っていることは確認できた。反舌音の発生経緯に後世の条件依存があるという意味で、英語の反舌接近音やノルウェー語などの反舌摩擦音の考察の一助にされたい。

なお①、サンスクリットもといヴェーダ語以来のインド言語ではR音 IASTで"r, ṛ (普通の子音と成節子音)"が何らかの位置にあるとき、次の子音"t, th, d, dh, s, n"は反舌音"ṭ, ṭh, ḍ, ḍh, ṣ, ṇ"になる。
これは反舌音の連声・連音・サンディの現象である(同器官的子音"homorganic consonant"があるので同器官化"homorganization"とも記したいがそのような用語は使われていないそう→同化"assimilation"という)。
この現象は、母音と唇系の音がある場合も有効であり、その例は"karaṇa (√kṛ + na)"や"pariṇāma (pari + √nam)"や"brāhmaṇa (√brah + na)"である。
このR音を、私にとって従来に考えられた歯茎ふるえ音 [r] や反舌ふるえ音 [ɽ͡r] や反舌はじき音 [ɽ] ではなく、反舌接近音 [ɻ] の方が自然ではないかと近頃の私は考えている。
サンスクリット「ドリシュティ"dṛṣṭi"」やパーリ語「ディッティ"diṭṭhi"」(ともに単語の意味は「見解」でパーリ語の単語からはヴェーダ・サンスクリットの成節子音R "ṛ"が消えて"i"となるが化石的に反舌T "ṭ"が長子音・有気音で現れる)あたりを発音して検証すればよい。
なお②、スウェーデン語・ノルウェー語の通常の r は、音価が歯茎ふるえ音 [r] 歯茎はじき音 [ɾ] 反舌はじき音 [ɽ]など多種あり、ポーランド語では歯茎ふるえ音 [r] のみとされる(中国語ピンイン r は先述の通りに反舌接近音 [ɻ] と 有声反舌摩擦音 [ʐ])。

この「備考」は、Rが半母音たる立場を兼ねているという「本題」を外れているものだが記される。
一つ言い直せば、サンスクリット=ヴェーダの成節子音Rが「ふるえ音」としてソノリティを有するよりも、英語R発音や他の半母音Y・Wのような「接近音」としてソノリティを有している可能性が、往古(パーリ語などBCE中期インド・アーリア語の口語発生のころ、ヴェーダ伝承への考察次第ではもっと早い古インド・アーリア語のころ)にあったことを示唆しておくが、なお①を書いて以後に考え直して「kとs二重母音はkṣでないとならない法則(e.g. vakṣyati)」や「語末-sの語幹が後続の音によって-ṣや-rや-ḥなどで現れる法則の内にṣがあること(e.g. nis→niṣprapañca, dyaus→dyauṣpitā 某書47によると語末-sの前の子音や母音の条件が主要という)」などを私は顧みた。







起草日: 2018年10月5日

当記事では、半角カッコ内に限定して"c. (circa 頃・~年ごろ)"とか"cf. (confer 比較せよ・参照せよ)"とか"e.g. (exampli gratia 例のために・例えば)"とか"i.e. (id est それは~である・すなわち・つまり)"といった略語表現(abbr., abbreviation)を用いている。
一方で"etc. (et cetera ~と他plural・その他)"を用いていない(これに相当する日本語の「など」および視認性の上で漢字の「等」を適宜に用いる)。
これらの略語の元であるラテン語を理解した上でこれらを便利だと思って多用したが、日本語の代替表現が用いられるべき場面では適宜にそれを用いた。
その略語表現以外の略号の類としては言語名en, ja, pi (パーリ語"Pali"のことでインド系学問ではplとされやすいし私も過去記事でそうする。当記事は世界的な範囲のためポーランド語"Polish"と混同を避ける意図でISO 639-1に準じた)や文字名Dev.や伝統宗教JBud.などがある。
当ブログで未曽有のようであるから、ここに上の如く断っておく。

また、当記事では、音韻論的に不明瞭・不確実な事柄を示す際、筆者の見解や感覚を客観的事実のように扱うべきでないため、「筆者・私」という言葉を主語にして表現した部分がある。
何らかの学者論文や活字出版物などでは、その主観性を自覚しない論者が客観的事実のように記すこともある(古代言語に関する見解を記した活字出版物の内容がネット上に引用されつつ読者側から指摘されている例→1, 2)。
読者に相応のメディアリテラシーが有れば「あくまでも論者の理由や前提によって求められた見解・視点・主観にすぎない」と判断できる(大概の学者もそれで暗黙の了解は有るから断定的に記す者もいよう)が、多くの一般人はそうでないので、私は一般人向けにその措置を取った。

↑の注意事項を記す以前に、↓の後書きを書いた。

日本の自称の名である「やまと"Yamato"」と、漢字で当てられた「大和(8世紀の好字二字令)」・「邪馬台国(台は臺とも壹とも)」・「倭(委、和)"Wa"」ということも、現代にヤ行・ワ行の音素で認知されている。
ヤ行・ワ行、Y W音、半母音に関する研究をすることで、これらの名が文献上に現れるようになった時代の発音や、想定上の最初の時の発音などを想定する一助になるかもしれない。
今の私からは、特にこれらの名に関する言語学的な言及をしないでおく。
それらは音声学・言語学のみならず、文献学的な考察や地理学的な前提も必要であるからである。
いわば、当記事も文献的には直接に原本・写本・碑文などを当たった検証がされずに論考を載せているし、大概この学問分野は一般的な校訂本などに信頼が置かれて研究がされている。
先進的・先鋭的な研究においては、複数分野の垣根を超えている・複数分野の手法を兼用している・相互依存にあるということについて留意されたい。



関連記事: 2015年に私が示したY, W, L, Rへの類似見解

2015年6月16日投稿「B H V W、準じてF Pの互換性 & Vから派生したU W
2015年9月7日投稿「呉音では濁音となる漢字・鼻音の後でも連濁しない漢字(天など)」 (脚注5と脚注終了以後)



備考: 実験音声学との関連
(この備考を書くまで私は分野名を「実証音声学(実証的な音声学)」と記憶していた)

2018年11月11日5時に、私は [a, ja, wa, la, ɾa, ka, sa, ta, pa, kɾa, sɾa, tɾa, pɾa, kɻa, sɻa, tɻa, pɻa] の発声とその録音を行った。
発声の録音データ(発音データ)は、当方の録音環境(特に使用機器の品質)の関係で、音量を上げると声ミュート時における環境音・ノイズが聴こえる。
それを音声波形・スペクトログラムとして(Praatという専用ソフトウェアを用いた)視覚化・表示し、簡単な説明画像を作った。
作業の途中で、変更事項がある。当該音声をステレオからモノラルに変換し、スペクトログラム表示の案を捨てて音声波形表示だけにした。それらの変更事項を付記する。

音声付きの動画→https://youtu.be/qhrGuEFp8ok
母音"vowel" [a] (以後の子音類はこの母音とのCV~CCV音節で発音される)
響音"sonorant" [ja, wa, la, ɾa]
阻害音"obstruent" [ka, sa, ta, pa]
二重子音"double consonant"(阻害音と歯茎はじき音"alveolar flap") [kɾa, sɾa, tɾa, pɾa]
二重子音(阻害音と反舌接近音"retroflex approximant") [kɻa, sɻa, tɻa, pɻa]

ちなみに、私が日本人として母音/a/音素を発しているため、厳密な音価・単音としては中央母音の [ä] となっているかもしれないが、この発声・録音・視覚化の行為の目的に反することでないので、気にせずによい。
ちなみに、当記事の話題・本題と離れるが、「破裂音の特徴についてPraat画面の図と音声データとを示しながらこの項目よりも詳細に説明した記事」がインターネットに見られたので、参考までにURLを載せる→https://sites.google.com/site/utsakr/Home/praat/vot



備考: 音楽制作との関連

MIDIシーケンサーのピアノロール方式の「打ち込み(sequence 作曲手段)」をしている時、伴奏楽器パートでもボーカル代用楽器パートでも「ゴーストノート」の打ち込みを、私は適宜に用いている。
ゴーストノートは二重子音"double consonant (doubled consonant)"の発音を思わせる。
その時の考えは、このようである。
「ゴーストノートの内に普通の一音の導入として用いられるものがある。それは1小節の先頭に置かれるべきか、または、その前の小節の末尾に置かれるべきか (小節でなくとも1小節を192等分したMIDI目盛りにおける4分の4拍子は3, 6, 12, 48が1つの区分として同様に考えられる)」
「二重子音の内に"kr"が有る。これは1音節の先頭に"kr"同時に発せられるべきか、または、その前の音節の末尾に"k"が発せられるべきか (同じ二重子音でも破裂音の連なり-ktなどは…、三重子音scr, -ncrなどは…)」

ゴーストノート 二重子音 三重子音 MIDI
"doctrina"はdoc-tri-naとなる (vs. do-ctri-na, doct-ri-na)
ラテン語歌詞を書いて自ら歌った"Dominus Immensus"の、その歌詞のシミュレーションのためにボーカルパートを打ち込む際には、かなりこのことを思った。
私が何を思って創作や研究をするということは、言語学や音楽の主題と関連しないが、これらを行う人が参考までに見ると良かろうと思い、少し記した。



2018年10月10日水曜日

Bloggerを利用する目的について再確認

当ブログのヘッダー領域(ボディの内)に「2014年5月、Bloggerが検索仕様の観点で如何に優位性を持つか確認する目的で開始した。学術的と冠したブログ名にたがわぬ記事をメモ感覚で随時投稿する(2017年現在は詳細なノートと化している)。衒学的な内容に加えて身辺や私情を主題に論理を展開することが当ブログの個性である。学問と別に宗教的な話も多い。当ブログの学問関連に不正確な情報が古い時ほど含まれるので、慎重に確認されたい。」とある。
当記事では、「2014年5月、Bloggerが検索仕様の観点で如何に優位性を持つか確認する目的で開始した」という部分を、私がBloggerを利用し始めた時の目的であると再確認し、その検証を行いたい。



Bloggerのアクセス解析については、管理画面の統計ページで任意の期間における様々なアクセス数が見られる。
任意の期間における記事別のアクセス数や、ブログ全体の国別アクセス数が確認できる(世界地図に国の色の濃淡でアクセス数が示される機能がある→2018年の途中から反映されなくなる)。
その統計ページにより、当ブログがさまざまな海外からのスパムアクセスに遭っていることを長年(2014年から2018年現在まで)に観測してきた。

例1. リファラースパムによる何らかのアクセス
例2. 2014・15年ころのいくらかの記事(1, 2など)を中心に大量アクセス (1と異なってリファラーが不明な例も多いので彼らの宣伝行為などが達成されないはず→スパマーの無駄な努力か)

これらによる具体的な被害・損失ということは、無い。
ただ単にアクセス解析の純度が落ちたり、余分なリファラーや事実の伴わないアクセスによる記事別アクセス数の偏りが生じることで、私の統計を眺める際のストレスなどが増えることを問題視している。
要するに、私はただ学問や芸術や生活記録などを私の目的に沿って行う以上、アクセス解析は正常に行われずとも損失にならないが、アクセス解析・統計情報を見ることには個人の精神的満足(世間でいう自己満足)が関係するので、その点を私は問題視している。
率直に言って「スパムアクセスによる偏った統計結果は不愉快」である。

2018年現在、一般的に検索からアクセスされやすい記事は2014・15年の記事(先の12のほか3, 4など)ばかりであり、言語学や宗教学など人文科学の知見が優れた・検証可能性の高い2017年以降の記事(e.g. 1, 2, 3)については検索アクセスを実感できない。
そのように、私の意思では後者の記事の方を見てもらいたいと思うし、学問興隆や世間での学問知識の流布という観点でも後者の記事の方を見てもらいたいと思う。
音楽関連の活動・「音楽館ブログ」記事のうちでは、2015年に「某サイト投稿者」に関して書いた記事が「メタル 作曲」とか某バンド名(その記事内で一度比較程度に名前を引き合いに出したにすぎず瑣末)といったワードで最も多くのアクセス数を稼いでいたが、これらの検索ワードでその記事が検索結果上位に出たところで、検索ユーザーの満足を得させられようも無い(about 1 PV per 1 UUという惨状)し、ブログ執筆者も「当てが外れた・不公平のこと・期待される検索ワードと無関係」と思うので、誰もGoogleの仕様を喜ばない。
この「顛倒・あべこべ」なGoogle検索結果や、ブログ読者の動向のままでは、私のブログが世間の役に立つことは決して無かろう。
学問の道における次世代の人々が生まれることも無くなろう。

もしGoogleのサーバーかコンピューターかAIかボットかクローラーか何かが昔と比べて優れている・改善している」ならば、どういう前提・観点で「改善している」と言明できるか、疑問である。
良質な文章・画像・HTMLや、学問的に価値があって現状のインターネットに類似情報がほとんど無いようなものでも検索結果上位に行かないという「検索アルゴリズム」が、昔と比べて優れていることになる。
しかし、一般通念でそれは有り得ない。
例えば、「BloggerはGoogle直轄であって検索結果で有利(検索エンジン最適化・SEOで有利)」という見解が、世間で長年に聞かれてきた。
当記事では、そういった見解の反証を示す必要がある(反証・アンチテーゼによって止揚・アウフヘーベンを目指す)ので、書かれている。
当ブログの管理から、そういった見解を検証することができた。
BloggerのGoogle検索エンジンにおける優位性は、一部の人(SEO系の人)がインターネットで誇張しているか、Google直轄だからという安易な理由付けで検証を不十分のままに優位性を断定したか、と結論を出しておこう。
Google検索エンジンには「ユーザーエクスペリエンス」という曖昧で主観的な概念(専門家でもその定義や理論・見解の構築に大きな相違がある)がほとんど関係しないことになる。



※そういえば、Bloggerで記事を投稿すると、直後にその記事にアクセス数1が加算(「すべての投稿」画面における「表示回数」より確認)されるが、それがGoogle検索エンジンのクローラー"crawler"であることを証明できない。かえって、Bloggerのその記事自体が検索結果に表示されづらい(その記事の投稿年月によって属せられた月別アーカイブのページが優先される)ことから、無意味なアクセスがされたか、アクセス数1が何の実体も無い虚構の数字と推定される(Blogger管理画面ではそのアクセス数を表示回数と呼称するが、記事のパーマリンクのような個別ページの表示回数を指すものであってトップページや月別アーカイブページでの表示回数を含まない)。1記事にしか一致しないキーワードの検索結果はその記事のページを検索結果に表示する方が合理的かつ検索ユーザーの期待に合うのに、稀な場合は月別アーカイブのページが優先されて検索結果に表示される。



Googleはいつまでも言葉だけの「検索アルゴリズム」なるものが不平等・不正のままで賛美することになる。
それについて日頃、私がGoogle検索をする当事者としての立場においても思い続けている。
何らかの大手サイトよりも、そのコピーサイトが、優先して検索結果に表示されるような事象は目に余る(後述)。
また、何らかの一般的なワードの「二重引用符=ダブルクオーテーションマーク=ダブルクォーテーションマーク完全一致検索」を行っても、有用性のある特定のサイトの情報が検索にヒットしないことも多い。
検索にヒットするサイト・ページとは、内容が類似していないのに「最も的確な検索結果を表示するために、上の 20 件と似たページは除外されています。検索結果をすべて表示するには、ここから再検索してください。」の扱いで除外されるか、最悪の場合は、それで「再検索」をしてもヒットしない。
これは、高度な検索スキルを持つユーザーの不満にしかならないが、現状は解決策が無い。
解決策の一例としてインターネットに示される「URLのある位置に &filter=0 を加える」というものは、先の「再検索」と全く同じ結果にしかならないので、全く解決策でなかった。

cf.
『活動の本分はマイペースながらも為せてると自負してるが、アクセス数の存在に囚われ、冷酷にも私の心がこもったコンテンツは相応に見られず新投稿の度に流される。検索からのアクセスも望めなくなってるのは、このブログのアクセス解析で如実に。Bloggerの解析はお粗末だけど、Livedoorは「生ログ」というアクセスログ付きだから信頼性が高い。なのでAnalyticsとかWebmasterまで手を出さねばならない。そう思ったけど、最近はそれらGoogle公式の解析ツールは利用してなかった。この文章を書いてから、そんなことを思い出すことになる。結局Google公式の解析ツールだってLivedoorの生ログに類する機能はない。Googleは訪問者のIPやUAなどをセキュリティとして秘匿したいのだろうか。 - 2014年12月20日ブログ記事
http://masashi.doorblog.jp/archives/41880200.html 』

『メモ帳の運営サービスの"Blogger"のアクセス数計測は不明・曖昧な点が多いため、元々信用度は薄かったが、今尚もこの点を訝っている。気を揉む私が間違いなのだろう。 - 2015年04月14日ブログ記事
http://masashi.doorblog.jp/archives/43608504.html 』



それでは、「何らかの大手サイトよりも、そのコピーサイトが、優先して検索結果に表示されるような事象」について記述しよう。
例えば、YouTubeやWikipediaやYahoo!知恵袋のようなサイトがコンテンツや情報の発信源であるとき、それらよりもそのコピーサイトを優遇する・検索結果上位に表示するという現象である。
いくらかの場合には、発信源のサイトが検索結果に表示されるに値する情報を有していても、その検索結果に表示されない。

YouTubeの動画の埋め込みをして説明文を複製したコピーサイトは数多く見られ、YouTubeに投稿された動画のページよりも、そのコピーページの方がGoogle検索結果に優先して表示されることが割と見られる(その傾向にある動画は再生回数が100より少なくて検索した時に比較的近い時に投稿されたもの)。
YouTubeコピーサイトは、www.findclip.net や Zaclip.com や Keclips.Com や Showclipaz.com や ShowTodayTV.com や www.dlmusicas.pw (DL Músicas)などが数多く見られ、YouTube上における一部の動画のページがこれらにおけるコピーコンテンツよりも優先されない現状を観取する。
なぜ一部の動画のページにおいては「Google直轄たるYouTube上のコンテンツ」の方が優先されないか、甚だ疑問である。
クローラーの怠慢どころか狂乱である。

検索アルゴリズム 検索エンジン Google
2018年11月4日に"YouTube" "コピーサイト" (元の文字列)で検索した結果をここに示す。
Googleが彼ら自身に関する問題の「はぐらかし」を意図して
「無関係・無意味な検索結果」を表示するようになったと思われる。

Wikipediaコピーサイトは、Wikiwand, Weblio, goo Wikipedia, ユニオンペディアなどがあるほか、2008年6月ころの日本語版Wikipediaコンテンツのミラーサイトも見られた。
例(2018年以降は関連ページみな404) http://www.ammanu.edu.jo/wiki1/
(日本語版Wikipedia内はもちろん、外部サイトでもこのサイトが話題にされていた12。1を要約: 中東のヨルダンにアンマン大学という大学があり、ウィキペディアのミラーサイトのようなものを公開している。そこにミラーされた版は2008年の版らしく、2015年からこのサイトがGoogle上に現れるようになった。Google検索でかなり上位にランクされている。なぜGoogle先生公認になっているのか。 以上要約)
他サイトの例→https://wiki.upupming.site/ (中国語で维基百科镜像站点) 他にhttp://access.cimav.edu.mx/系Centro de Investigación en Materiales Avanzadosによる日本語版Wikipediaミラーサイトも見られたが、私がGoogle検索からアクセスした時点ではNot Foundが出る。

Yahoo!知恵袋の投稿物(質問&回答)をコピーしたサイトは、2014年以降に「偽ブランド コピーブランド」の広告が堂々と出ているようなサイトなどが多く見られていた。
それは、他のQ&Aサイトである「教えて!goo」と「OKWave」などが提携してコンテンツを共有していた状況(2018年現在は提携が解消されている)と異質である。

コピーサイト群の中には、自動で(勝手に)新しいタブなどを開いて広告サイトを表示したり、「偽ウイルス検出画面」を表示してセキュリティソフトの購入を促すようなページを表示するパターンもあった。
コピーサイトというものの本質・目的性(なぜ作られたかということ)そのものが、そういうスパム的なものであると見てよい。
不正な広告収入のみならばまだしも、当該サイトを偽装してログイン情報を入力させる手口=詐欺も有り得る(それを裏サイトで売買するか偽装サイト運営者が直接ログインするか)。
Googleは、そのような悪質サイトを優先して表示して「検索アルゴリズム」云々を誇り得るか?
2018年現在、「SSL化をしていない=セキュリティの弱いサイトの検索順位が落ちる傾向にある」という噂(検証不足・統計不足の噂なので脅迫観念による場合もある)が定着しており、実際にGoogleは彼らが開発するブラウザ"Google Chrome"でもSSL化をしていないサイト(http)を表示している際のアドレスバーに「保護されていない通信」という長い文字列を載せてまで当該サイト利用(クレジットカードの情報を入力するな等だが私はそもそもそういう金がらみインターネット利用をしないのでユーザーのニーズに対して不平等)への警戒を促しているが、それよりも他に力を注ぐべきことがあると私は思う。

繰り返すが、コンテンツや情報の発信源のサイト(本家)よりも、ぽっと出のコピーサイト(いわゆるパクリのサイト)を優遇する理由がどこにあるか、Google社員や盲目的Google信者(私も広義のGoogle信者であるからこそ盲目的な・妄信的な・もしくは名ばかりの信者たちを嫌う)に問いたい。
もし彼らが「検索アルゴリズムが機能している」と言うならば、コピーサイトをコピーサイトだと認定するための「知能・経験」がGoogleのサーバーかコンピューターかAIかボットかクローラーか何かには、無いということになる。
あるいは、コピーサイトを優遇するシステムに切り替えたということになる。
そのように「検索アルゴリズムが機能している」とすれば、果たしてその検索エンジンがユーザーの要求に適合するものか、考え直してほしい。

または、心あるサイト運営者がそういう検索エンジンを信頼し続けられるか?
または、有能なライター・クリエイターたちが安心してインターネット上でコンテンツを供給し続けられるか?
ある人が「アクセス数が確実に増えるか見積もり程度に得られる」と予期してコンテンツ(高いユーザーエクスペリエンスなど綿密に練られたWebサイト)を公開し、その認識に符合する結果を得ないならば、その人は意欲を失う。
その人は一喜一憂の泥沼に嵌り、悪循環に陥る。
結果を求めた努力をする人に、それ相応の見返りが無い世の中には、不調和が生じるであろう。
強い欲望が叶わないと強い失望を招くし、その人が次にどのようなことをするかといえば、なかなか好ましいことでなかろう。
心ある人たちの心が無残に傷つけられることを、私は憐れんでいる。
インターネットの文化は2000年代~2010年代前半に発展し続けても、2010年代後半には停滞し、2020年までには衰退が起こってもおかしくない。
もしくは、従来に無い新しい秩序=優れた編集や適時の言論が無くなって形骸化した・飽和化したコンテンツか商業的な行為が主要となる秩序が形成されるであろう。



Further reading
Google Japan Blog: 「これからの 20 年にむけて ~ より良い検索を目指して~ (2018年9月27日)
https://japan.googleblog.com/2018/09/search20.html

ITmedia NEWS: 「Google+」の一般向け終了へ 個人情報関連バグ発見と「使われていない」で (2018年10月9日)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1810/09/news049.html
※当ブログ「2018年7月の日記メモ」記事の導入部に追記された話題と関連

個人ブログおよびTwitter: ストリートビューが逆走する (2018年10月15日)
https://backy0175.at.webry.info/201810/article_2.html
※上リンク先で、Google地図ストリートビュー機能における栃木県小山市2018年8月撮影画像について「クリックした方向と逆の方向へ画面が進む」現象が挙げられている。私が埼玉県の各所で2018年8月撮影画像のエリアを利用すると、この現象が看取された。その問題のみならず、ストリートビュー2018年8月撮影画像のエリアではタイムマシン機能が利用できなくなっている(いずれも当方がPCブラウザ版を利用した場合のこと)。Googleは「人間の心」もしくは「真っ当な思考力」を各サービス・機能ごとに失いつつあると思われる(つまり不出来のAIか何かに作業をさせて「業務効率化 ドヤッ or ドヤァ or フフン」という状態にあり、これはMicrosoftほか多くのIT系企業に現れてきた傾向だと私は推定している。ITにおける帝国主義または愚民化または群集心理または同調圧力のような風潮はどこまで進むか悲観視されるべき)。





起草日: 2018年9月24日

以下から、従来に記録の取られていた「技術関係の問題」を示す。
今までの10年来に起こっていたろうものもあるが、2018年現在に改善を見ない。
Bloggerの基本的な開発は、長年に止まっているものと推定できる(ここ3年程度で見られる変化は一部ページのマイナーチェンジのみ)。
「古いシステムは危険だ!」という集団ヒステリー(およびそれに便乗したインターネット文化遺産の破壊行為)がインターネットに起きているので、Bloggerのお先も長くはなかろう、と私は悲観視している。



Blogger 技術関係の問題




2016年7月14日にPicasaとGoogleフォトに関する操作(BluestacksでAndroid版アプリも使用)をしている折に当・学術的メモ帳の画像URLが更新されたことにより画像ディレクトリが失効し、既に各記事のHTMLに記載されるURLでは画像が表示されなくなる事態が発生した。
アクセスの多い記事など、一部記事では画像を復活させておいたが、多くのメモ帳内記事、特に日記メモ記事は画像が表示されない状態にある。
当日の日記メモを以下に掲載する。
8時20分以降は、色々とGoogleのサービスに関して様々な操作を行い、今もPicasaで管理されているBloggerの画像を何とか別の手段で管理できるようにならないか探っていた。Googleフォトの問題は過去の投稿の通りである。上策はPicasaからGoogleフォトへの移動だが、これは現状手段がないし、怠慢Google開発者がするはずもない。極め付きは、サービス終了予告を何度も延期したり5月1日が最終的な確定日時であったのに今もBloggerでアップした画像はPicasaに保存され、Picasaウェブアルバムでの管理もできるし、逆に「PicasaとGoogleフォトのデータ移動をできるよう準備している"Soon"」と書きながらいまだにそのページが設けられていない。良くも悪くも怠慢の極みである。

そうして操作する折、9時30分ころか、Bloggerで表示する画像のURLが失効し、HTMLにはその失効URLのまま残され、画像が表示不能となった。やはりGoogleらしい。虚脱感ばかりで怒りも悲しみもない。所詮そんなものであるGoogleが良かろうと悪かろうと、私には喜怒哀楽もなくなっている。一応、別途アルバムのURLを押さえてあり、ここで画像のURLを再取得して一つ一つ記事HTMLの画像URLを置換すれば元に戻せるが、本格的な実行は未定である。処理すべき画像枚数は200枚超に登る。

上に引かれた日記メモ(2016年7月14日)の情報はあくまでも当時のことであると留意されたい。





例: 1700 x 2000の画像 (小)
Bloggerにアップロードした画像を貼り付ける際、サイズ変更ができて「小 - 中 - 大 - 特大 - 元のサイズ」という5段階がある。
そのうちの「元のサイズ」は、事実にそぐわないものであり、縦幅か横幅が最大1600 pxに制限されている。
その画像URL中には"s1600"という文字列が見える。
s1600 という文字列を s0 に変更すれば事実として「元のサイズ」=制限の解かれた表示となる。
https://productforums.google.com/forum/#!topic/picasa/0BTbZYZiG4I

右に例示される画像は、このプレビュー状態において「小(s200)」=最大200 px である。
「元のサイズ(s1600)」= では最大1600 pxであるが、事実として「元のサイズ(s0)」であると、アップロード前の原寸大・オリジナルサイズの1700 x 2000 pixelsとなる。
そういうわけで、大きめのサイズの画像をアップロードする際には、「HTML」モードの編集画面を開き、画像URLの"s任意数"を s0 に変更しよう。



三之一

bloggerはHTMLのアンカーanchor(ページ内移動、<div or p id>や<a name>)機能で、「作成モード」画面では余計な情報が入るという異常な仕様が往時より問題視されているが、お粗末Google社員らはいつまでも解決する気が無いと思われる。
以下リンク2点は、報告の例。
1. http://blogging.nitecruzr.net/2010/07/anchor-links-and-post-editor-compose.html
2. https://productforums.google.com/forum/#!topic/blogger/s8pXF3C25Gg;context-place=forum/blogger

問題視されている事象とは、「作成」モードでは行えないページ内アンカー挿入(<a href="#任意">)を「HTMLモード」で行い、再び「作成」モードに戻ると、アンカー挿入要素に余計な情報(<a href="https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=100****************&amp;pli=1#任意"> における赤文字範囲)が入るということである。
現状では、その機能を用いたい場合にユーザーが「HTMLモード」のみを用いるしかない。

ご覧の方が、今すぐに確認できる「悪しき事象」がある。
上の「ほかのテスト」部分は、<a>属性を用いて作ってある。
アンカー機能と無関係である場合も、 href="https://www.blogger.com/null" が意に反して挿入されている(<a>属性にはもれなくhrefリンクを自動挿入する仕組みらしい)。

三之二

<div id="test3" onclick="obj=document.getElementById('test3b').style; obj.display=(obj.display=='none')?'block':'none';">
<a  style="cursor: pointer;"><span style="color: blue;">ほかのテスト (クリックすると展開)</span></a></div>
<div id="test3b" style="clear: both; display: none;">
ああ、クリックで表示されるべき文章領域、ああ。<br /></div>

上のソースコードで、任意の文字の展開・収納"expand, collapse"を行いたくとも、Bloggerではできない。
つまり、上のソースコードのうち<a style="cursor: pointer;">の部分=a要素において、Bloggerのシステムが勝手にダミーのhref属性 (href="https://www.blogger.com/null")を挿入するためである。
https://www.blogger.com/null などというURLは「Not Found Error 404」という無内容の表示がされるだけ・Blogger自身がページを作っていない(2014~2018年現在)にもかかわらず、なぜそんなページのURLを挿入したがるかといえば、理由を求むべからず。





2018年8月に私は、bloggerブログ閲覧をするとの画像imageが横幅width (縦長なら縦幅heightが?) 512px (512 pixels)で強制的にプレビューpreviewされて本来のs0とかs320のリンク(画像ページ、ディレクトリdirectory)に到達できないことが確認できた。
リンクとは、詳細に https://数字.bp.blogspot.com/12ケタ文字列/11ケタ文字列/11ケタ文字列/40ケタ文字列/sサイズ数/画像名.jpg であり、この問題ではその画像リンクと別に512px画像ページへ閲覧者がアクセスさせられる。
ソースsource表示ではリンク改善されていないと分かるが、ユーザーにとっての簡便性(アクセシビリティaccessibility)が低下する。
解決のための情報は、現況インターネット上に期待できない(関連情報は12。そこで載る<img expr:src=’data:post.firstImageUrl’ expr:srcset=’sourceSet(data:post.firstImageUrl, [128, 256, 512])’ /> という文字列は当方"HTML の編集=テーマを編集"ページで確認できなかったので当然誰かが希望して新たに載せるための文字列であり私の話題と無関係)。
あんまり、従来からの不十分システムを改善せずに無駄な改悪だけするならば、いい加減に本家ブログと同じ"Livedoor Blog"へ移行すべきである。

何も解決策が無いと思われたが、後年、閲覧者側の自助努力で行えるものを見出した。
URLを比較すると:
正常なリンク https://数字.bp.blogspot.com/12ケタ文字列/11ケタ文字列/11ケタ文字列/40ケタ文字列/sサイズ数/画像名.jpg
に対して、問題のリンクは「sサイズ数/」を欠いているのみの違いがあると分かるので、この部分を「s0/」など任意のサイズ数値を入力してアクセスすればよい。






ブログ記事のプレビューをすると、自分のブログ上に仮想表示された対応記事のプレビューが見られる(左上にリボン状の"Preview"が目印になる)。
しかし、そのようなブログサービスで普遍的な機能であっても、Bloggerのみはページ内の要素を何も操作できない。
テキストのコピー・アンド・ペーストはもちろん、リンクのクリックさえもできない。
ただし、右クリックによるメニュー表示と ショートカット (e.g. [Ctrl + a]) は無意味ながらに有効である。
この現象の原因について、ページ内全体に及ぶダミー空白があることを私は想定した。
Adblock Plusなどのブラウザ拡張機能 (extension; アドオン add-on) の「要素をブロック」を用いて当該範囲のどこでもクリックすると、"example***.blogspot.com##.blogger-clickTrap.singleton-element"がブロックされる(この要素はwww.blogger.com/static/v1/widgets/*********-widgets.jsから呼び出されていた)。
これにより、普通にページ内の要素を操作することが可能となる。
なんとも「行う意図が謎めいている」仕様もとい仕掛けである。




予備事項の記録

2015年9月分の日記メモまとめ記事の導入部に、「続きを書く追記の編集」機能がBloggerに無いことと海外サイトが日本的な機能を実装する期待の極めて薄いことが記される。
https://lesbophilia.blogspot.com/2015/10/plus-september-2015.html

2016年5月10日の日記メモおよびその注釈に、一時的なアクセス不具合に関する見解やGoogle公式ブログ系サイトに関する観測が記される。
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/06/plus-may-2016.html#10

2016年2月18日の本家ブログ記事の末尾「最新メモ帳更新一覧」に、パーマリンク未設定である際の文字列自動検出と更に融通の利かない仕様に関する観測が記される。
http://masashi.doorblog.jp/archives/46807012.html

2015年9月7日のメモ帳ブログ記事の末尾に、当ブログ自体(Bloggerでの運用の如何を問わない立場として)の目的性を説いている「他人のためを思って他人たちの勉強に役立てようと、こうして記事にまとめて投稿する。学術的メモ帳であるから、自分の知識などを形に留める目的でもある」。
https://lesbophilia.blogspot.com/2015/09/blog-post.html#artifoot



七(後年)
Googleの任意の解析サービスに登録した状態で、検索結果に自分のブログの記事が表示されると「このページはモバイルフレンドリーではありません」と警告メッセージが添えられていることがある。
私のBloggerブログは問題ないが、そうなる場合もある。
その原因はGoogleのクローラー crawler が勝手にURL末尾 ?m=0 となっているページをクロール crawl してインデックス index するからである。
"m"はmobileであり、"0"は技術バイナリにおける否定・打消しの意味であるから、モバイル表示の無効・拒否が実現される。
スマートフォンなどのモバイル環境でパソコン PC用の表示を望む場合に使うものを勝手にクロールしている。
当然、モバイルデザインかレスポンシブデザインを持つサイトでも「モバイルフレンドリー」ということでなくなる可能性を持つ。

cf.,
末尾に?m=0なし「このページはモバイル フレンドリーです このページは、モバイル デバイスでの使い勝手に優れています」 https://search.google.com/test/mobile-friendly?utm_source=gws&utm_medium=metaline&utm_campaign=notmobilefriendy&id=Zl2FYWpPNW-FFvRLm0wFYA
末尾に?m=0あり「このページはモバイル フレンドリーではありません このページは、モバイルデバイスでは使いにくい可能性があります」 https://search.google.com/test/mobile-friendly?utm_source=gws&utm_medium=metaline&utm_campaign=notmobilefriendy&url=https%3A%2F%2Flesbophilia.blogspot.com%2F2018%2F10%2Fpurpose-of-using-blogger.html%3Fm%3D0

Blogger = Googleが天井に唾を吐き、彼ら自身に唾が跳ね返るような暴挙ではなかろうか?
巨大企業で部署が違うにも、Bloggerという自分たちの運用するサイトの仕様くらいは自覚的に把握してほしい。



八(後年)
2020年5月10日ころに「2019年5月中の日記メモ」記事 (2019-06-09) の内容が、何らかの過去の版–リビジョン (a revision, revisions; WordPressでの用語) のようになっていた。
この場合、「中途作業」の部分がまるまる残ってしまっている状態である。
当然、本来の最新版に戻すすべがBloggerに無いのでバックアップの取られたデータ blog-03-23-2020.xml から手動で戻す。
2020年5月18日に、他の日記メモ記事も一部の範囲でそうなっているようであると気付いた。
不条理な異常現象が起こるような変更を、Bloggerはしたのであろうか?
あえて言えば、最後の安全バックアップとこの現象の間の時期に、日記メモ記事を下書き状態にすること(2020年4月20日)を私はしたので、日記メモ記事のみが大きい被害を持っていると仮定すれば、その下書き状態にして再公開することがBloggerのシステム的に「初公開の直前の版を復活させる」という謎の現象を起こす原因となったと思われる。
つまり、下書き状態にする行為は、Bloggerのシステムでは「内的に存在する最後の下書きの版に戻す」ということでもあろう。
こんな下書き版の隠蔽と不可解な発現は明らかな欠陥であろうが、今まで私も他のユーザーも気づかなかったであろう。
ヘルプフォーラム help forum らしいもの (Blogger Help Community と呼ばれる) は、不条理現象調査の役に立たないことが通例である (draft や revisions などで検索, "Unfortunately Blogger does not keep page or post revisions"といった見解が見られる)。



九(後年)
新しい編集インターフェースについて、先に「英語圏サイト https://www.peggyktc.com/2019/12/blogger-update-mobile-friendly-posts-themes.html 2019年9月の管理画面の更新–アップデート update が、私には2020年5月11日にあった」とコメントを当記事に行った。
この編集インターフェースで、[ctrl + f] または [F3] (a shortcut key/keys to search in text in the current page) でページ内検索をすると、一定文字数の範囲しか検索しない。
つまり、長文ではページ全体の検索ができない作りである。
悪しき「似非シンプル弊害」の一種である。
Bloggerが参考にしたと思しきブログ・ホスティング・サービスWordPress.comのUIでは、このような結果とならない。
解決法には、他のサイトのテキスト入力欄にコピー&ペーストを行ってからページ内検索をすることが挙げられる。

なお、このページ内検索方法で他のサイトがどうか比較する。
無限スクロールのPC版Twitterユーザーページで最上部から少しの範囲しか検索しない。
無限スクロールのPC版Facebookで問題なく全体から検索する。

2018年9月9日日曜日

日本語「いかにいわんや(何況)・ましてや」と梵語・ラテン語・英語の共通点

尊者自説偈(萌集記)の2句目に見られるフレーズ"kaḥ punarvādo"および異版の"kimaṅga punaḥ"と、その訳語「いかにいわんや(何況)」に関する考察を行う記事。

"kaḥ punarvādo (元kaḥ punarvādaḥ)" कः पुनर्वादो は、疑問文であり、主に反語表現として用いられるフレーズである。
このフレーズで一つの副詞句"adverbial phrase"を形成していよう。
尊者自説偈では、このフレーズが、後続の"me muniḥ (我が牟尼である)"に掛かっている。
そこでは「我が聖(牟尼)が~について劣るであろうか?(疑問文・反語表現)」=「いわんや(前句の一切"sarvadharmā"よりも・増して)我が聖(牟尼)の〔前句の不可量"aprameya"〕なることをや」または「言うまでも無く(前句の一切"sarvadharmā"よりも・増して)我が聖(牟尼)は〔前句の不可量"aprameya"〕について尚更である」と意味する。

※語の原形を用いて詳細に説明すると、kas 疑問代名詞・男性単数主格、punar 不変化詞、vādas 名詞・男性単数主格=先行vādasに一致させられている。直訳で「何か・復た・言うこと」。日本語の「…言えば更なり(ただし世間では"言わずもがな"がその用法で定着した)」と似る。ほか、後述の"kimaṅga punaḥ"は、同様にkim 疑問代名詞・中性単数主格、aṅga 名詞中性主格=先行kimに一致させられている、punar 不変化詞。直訳で「何か・支え(一応の意味だが詳細を後述)・復た」。こういった語句の構成で、特定の意味としての用例がある。後述の古代ギリシャ語など西洋言語とも似るので、その詳細を本記事で考える。



尊者自説偈の元の漢文に、当該箇所は「何況我大聖」とある。
これを訓読すると「何に況や我が大聖をや」となるが、更に現代語で直訳すると「どうして(なぜorどのように)言うべきであろうか・我が大聖のことを」となろう。
※「何に→いかにorいかにぞ→どのように→どうして」、「況や→いわんや・言わんや(言おうか)→言う+助動詞「ん・む」推量形≒義務形→言うべきであろうか(言う必要があろうか)」という意味論的"semantic"な解釈がある。稀に「何をか況や」という訓読も見られるが、それは別の慣用句「何をか言わんや(何を言おうか?何を言いたいか?=あなたが言いたいことは何なのか?)」と混同した近現代の誤訓読であり、原文の漢語・梵語の意味に合わない。
※「いわんや」の「や」は疑問の係助詞であるから、「いかに況や~を」で終える方が合理的(形式的理論に則っている)だが、況フレーズ訓読に限って「いかに況や~をや」として疑問の終助詞「や」を付けるという疑問助詞「や」の重複がされる。もし日本語の語順に合わせたならば「いかに~を況や」とされたろう。なお、無関係の慣用句「何をか言わんや」も疑問助詞「か」と「や」との重複がされる。言語を用いる者の語感に任せて重複が好まれたと思われる。

"kaḥ punarvādo (元kaḥ punarvādaḥ)" कः पुनर्वादो は、サンスクリットの仏典に見られる。
それは、漢訳経典で「何況(かきょう、かこう Pinyin: hé kuàng, ZZ式上古音: /*ɡaːl hmaŋs/)」と訳されることが多い。
Saddharmapuṇḍarīka Sūtra と二つある漢訳(1. 竺法護 2. 鳩摩羅什)、法華経譬喩品"Aupamyaparivarta"
Saddhp_3: anenāpi bhagavan paryāyeṇa tasya puruṣasya na mṛṣāvādo bhavet | kaḥ punarvādo yattena puruṣeṇa prabhūtakośakoṣṭhāgāramastīti kṛtvā putrapriyatāmeva manyamānena ślāghamānenaikavarṇānyekayānāni dattāni, yaduta mahāyānāni
1. 隨其所樂許而賜之。適出之後各與大乘。以故長者不爲虚妄。究竟諸子志操所趣。故以方便令免患禍。況復貯畜無量寶藏。以一色類平等大乘賜子不虚。
2. 世尊。若是長者。乃至不與最小一車。猶不虚妄。何以故。是長者先作是意。我以方便令子得出。以是因縁無虚妄也。何況長者。自知財富無量。欲饒益諸子等與大車。

同じく法華経法師品"Dharmabhāṇakaparivarta"
Saddhp_10: bahujanapratikṣipto 'yaṃ bhaiṣajyarāja dharmaparyāyastiṣṭhato 'pi tathāgatasya, kaḥ punarvādaḥ parinirvṛtasya ||
1. 如來現在有聞斯典。多有誹謗。何況如來滅度之後。
2. 而此經者。如來現在。猶多怨嫉。滅度後。
※「猶、況」の虚辞"Syntactic expletive"・相関"correlative"似の構文は、現代中国語でも「尚且、何況(簡体字→何况)」の形で継承される。日本語でも形式的に「~でさえ○○(だから・なのに)、~はなおさらだ」という言い方で用いられる。

Vimalakīrtinirdeśa Sūtra と三つある漢訳(1. 支謙 2. 鳩摩羅什 3. 玄奘)、維摩経見阿閦仏品"Abhiratilokadhātvānayanākṣobhyatathāgatadarśanaparivarta"
Vkn 11.8: teṣam api satvānāṃ sulabdhā lābhā bhaviṣyanti, ya etarhi tathāgatasya tiṣṭhato vā parinirvṛtasya vemaṃ dharmaparyāyam antaśaḥ śroṣyanti | kaḥ punar vādaḥ, ye śrutvādhimokṣyante pratyeṣyanty udgrahīṣyanti dhārayiṣyanti vācayiṣyanti paryavāpsyanty adhimokṣyanti pravartayiṣyanti parebhyaś ca vistareṇa saṃprakāśayiṣyanti bhāvanāyogam anuyuktāś ca bhaviṣyanti |
1. 在在人人聞是法者快得善利。聞是語不好信。 (支謙による古訳なので参照された原典が後世のものとかけ離れた内容だったか彼の訳の特徴が出たかと考慮すべし)
2. 其諸衆生若今現在若佛滅後。聞此經者亦得善利。況復聞已信解受持讀誦解説如法修行。
3. 其諸有情若但聞此殊勝法門。當知猶名善獲勝利。何況聞已信解受持讀誦通利廣爲他説。況復方便精進修行。 (最後の"況復"は"ca"を意訳したものと見られる)

Kāśyapaparivarta (-sūtra) と四つある漢訳(1. 支婁迦讖or支謙 2. 失訳者名 3. 失訳者名 4. 施護)
KPV.125: dharmato 'pi tathāgataṃ na samanupaśyati kaḥ punarvāda rūpakāyena
1. 於佛法亦不著。何況常著色。(訓:仏法に於いて亦た著せず。何に況や常に色に著するをや)
2. 如法者。不見如來有色身。(訓:如法とは如来を見ざるなり。況や色身あるをや)
3. 以正法身尚不見佛。何況形色。(訓:正法身を以て尚お仏を見ず。何に況や形色をや)
4. 於彼法身如來明了通達。無其見取。亦不言論色身離欲。(訓:彼の法身に於いて如来は明了に通達して其の見取無し。亦た色身を言論せず欲を離る)
※漢訳の4(漢文の区切りは大正蔵のままにして掲載・訓読)について2点、気になる。まず、梵文や他の訳3つと意味が異なる。次に、恐らくpuna訳語と思しき箇所が「亦=また・api; ca系」であって「復=また・puna系」でないことである。例のフレーズ訳語は亦不言論に加えて亦不論量亦不議論ともされていて一定でないが、「亦」がpunaに対応した用い方は一貫する。
※チベット語で"ལྟ་ཅི་སྨོས (lta ci smos)"という「何況」は後で説明するが、上掲文のチベット版は"de de bźin gśegs pa la chos ñid du yaṅ mi lta na gzugs kyi skur lta ci smos"とある。



例のフレーズは、ヴェーダ・バラモン系の聖典には見られない。
類義フレーズ"kimaṅga punaḥ" किमङ्ग पुनः の方は、ヴェーダ・バラモン系の聖典にも見られる。
このうちの"kimaṅga"は、サンスクリットの辞書にも紹介される
アプテ説"(aṅga अङ्ग is) used with kim किम् in the sense of 'how much less', or 'how much more;' śaktirasti kasyacidvideharājasya chāyāmapyavaskandituṃ kimaṅga jāmātaram ṃv.3; tṛṇena kāryaṃ bhavataśvirāṇāṃ kimaṅga vāghastavatā nareṇa" モニエル=ウィリアムズ説"aṅga अङ्ग ind. kim aṅga, how much rather!" シャブダサーガラ?説"aṅga अङ्ग (-कत)¦ r. 10th cl. (aṅgayati अङ्गयति)  1. To mark. 2. To count. See aṅka अङ्क"
※以上3説において、IASTとデーヴァナーガリーとを筆者が便宜的に併記した。太字boldも一部に筆者が便宜的に付与した。
※"kimaṅga"における"aṅga"の意味は、いまいち掴めなかったので、中性疑問代名詞"kim"と結びつけられて慣用句・イディオム化したものかと解釈してきた。そこで、より強引に解釈したい。もしaṅgaがaṅka(数"number"など)に関連する単語ならば、kimaṅgaは後述ラテン語"quanto magis" 英語"how much more"のように数・数える行為・多寡・増減・分量・量性"quantity"に関する意味である。ただし、未だにkimaṅgaは2語のサンディ形なのか不変化複合語・隣近釈(avyāyībhāva)なのかも判然としないことや、aṅgaをaṅkaに関連させるならば「aṅkaはパーリ語で数に関する用例が無かろうこと・印欧語の同根語=古代ギリシャ語ὄγκος, ラテン語uncusにも数に関する意味が無かろうこと」から、疑問が残る。加えて、aṅka, ὄγκος, uncusは幾何学的かもしれない曲線"curve", 線"line"の意味を含むとされるが、ユークリッド原論の3言語版(IAST込みラテン文字やギリシャ文字の計1,000,000字以上が対象)にも全く現れない。

"kimaṅga punaḥ"を用いた仏教以外の文献を示す。
ラーマーヤナ 5巻60章3節 (同書は全体でも他に4巻26章13節のみ)
avaśyaṃ kṛtakāryasya vākyaṃ hanumato mayā |
akāryam api kartavyaṃ kim aṅga punar īdṛśam ||
英訳の例: The words, though improper of Hanuma who had accomplished his task, are to be obliged certainly by me. Wherefore then, moreover, on such an occasion? (件の何況や英語"how much more"とはかなり意味が違う)

他に用例だけ確認できるページを示す。
Bhāmatī (P.73, Wikisource) "kimaṅga punaḥ kartumityarthaḥ"
Tantravārtikam (P.233, Wikisource) "kimaṅga punaḥ satyavacāṃ"
※前者はVācaspati Miśraの作で、後者はKumārila Bhaṭṭaの作で、いずれも7世紀以後のヒンドゥー教界隈の作である。後者は特に、仏教に言語・文法的な批判をした人物である(英語版Wikipediaによる)とされるので、この"kimaṅga punaḥ"が何況の意味で用いられているならば仏典から影響を受けて用いたものと考えることができる。

aṅgaやvādaを欠いた文(婆羅門系聖典~仏典などサンスクリット全般)も示す。
pravadyāmanā suvṛtā rathena dasrāv imaṃ śṛṇutaṃ ślokam adreḥ |
kim aṅga vām praty avartiṃ gamiṣṭhāhur viprāso aśvinā purājāḥ || - リグ・ヴェーダ1巻118章3節
英訳の例: With your well-rolling car, descending swiftly, hear this the press-stone's song, ye Wonder-Workers. How then have ancient sages said, O Aśvins, that ye most swiftly come to stay affliction?
※4ヴェーダを全て調べても僅かにkim aṅgaが見られるのみ。古ウパニシャッド類には見当たらない。

svabhāvato vidyamānaṃ kiṃ punaḥ samudeṣyate - 中論24:22偈(頌)A句 (偈・8音節にすべく虚辞的にpunaḥを加えたろうと思ったが三枝訳では「自性(固有の実体)として現に存在しているどのようなものが,さらに再び生起するであろうか」と意味を取る)
若苦有定性 何故從集生 - 鳩摩羅什による漢訳 (この什訳中論に何況という語が4回出るが例の梵語フレーズに基づく訳ではなかった)

sūkṣmo hi cittacaittānāṃ viśeṣaḥ |  sa eva duḥparicchedaḥ pravāheṣv api tāvat kiṃ punaḥ kṣaṇeṣu | - 倶舎論2:24頌に対する注釈の一部分
心法差別最細難可分別。於相續尚難知。何況刹那中。 - 真諦による漢訳
諸心心所異相微細。一一相續分別尚難。一刹那倶時而有。 - 玄奘による漢訳 (梵語にはkiṃ punaḥ, kaḥ punaḥおよび-punar形など複数見られたが、その漢訳は他の疑問詞である場合が多かった)

※チベット語で"kaḥ punarvādaḥ"や"kimaṅga punaḥ"の訳語はལྟ་སྨོས་ཀྱང་ཅི་དགོས (ワイリー式: lta smos kyaṅ ci dgos)だという(何らかのサイト説)。シナ・チベット語族なので中国語の疑問詞「何"ka"」などに類似する発音の語句が有るかと期待したが、無かろう。語順も日本語や漢語とかなり異なる。用例は根本説一切有部毘奈耶雜事"'dul-ba phran-tshegs-kyi-gshi"にある→rnam par shes pa dang bcas pa'i lus la lta smos kyang ci dgos (豈況其餘含識之類) このほかལྟ་ཅི་སྨོས (lta ci smos)という類例もあり、用例は寶篋經"dkon mchog ca ma tog"にある→chos kyi rnam grangs gzing dang ʼdra bar shes pa rnams kyis chos nyid kyang spang bar bya na chos ma yin pa lta ci smos. (世尊説譬喩經言。當除所欲法於非法耶 別の訳:能知我法如筏喩者。法尚應捨況復非法)



サンスクリットの仏典とは、詳細に言って「仏教混交サンスクリット"Buddhist Hybrid Sanskrit, BHS"」を用いた仏典である。
件の"kaḥ punarvādo "は、サンディ(連音)の特定条件で語尾-aḥが-oとなった結果に有り得る形であり、より元の形は"kaḥ punarvādaḥ"となる。
仏教混交サンスクリットでは、多くの場合に-oで現れる。

釈尊在世より何らかのプラークリット(アルダマーガディーのような)で用いられたと思われる。
パーリ語(プラークリットの一種)の仏典には訛り発音で"ko pana vādō"とある(パーリ語にはpanaとpunaとが混在しているが何況フレーズにはpanaのみを用いている。pana, punaは共にサンスクリットpunaḥと同源であると見られる)。
Rūpaṃ, bhikkhave, aniccaṃ atītānāgataṃ; ko pana vādo paccuppannassa. - 相応部22.9経"Kālattayaanicca sutta"
諸比丘、過去・未來色尚無常。況復現在色! - 雑阿含経・第79経

※参考までに漢訳阿含経典を引用する。それらの原典はスリランカ系上座部仏教が伝承するパーリ語仏典ではなく、別の上座部仏教が伝承するガンダーラ語(ガーンダーリー)や他のプラークリットや仏教混交サンスクリットの経典であったと推定されるが、それら非パーリ語仏典に同様のフレーズがあることを漢訳から想像できる。

ye kira, bho, pāpakāni kammāni karonti te diṭṭheva dhamme evarūpā vividhā kammakāraṇā karīyanti, kimaṅgaṃ pana parattha. Handāhaṃ kalyāṇaṃ karomi kāyena vācāya manasā. - 中部130経"Devadūta sutta"
確認可能な漢訳経典の全てに当該フレーズの対応箇所が見当たらなかった。ここで意訳すると「ああ、犯罪者(criminal=罪人sinner)は現世でさえ刑罰を受ける。いかに況や来世をや(況してや来世は尚更だ)?私は三業の善をなそう」(paratthaは「来世に(他の場所に"in another place; elsewhere"・後の時に"hereafter")」という副詞なので「来世においてをや」と訳したほうがよいかも)。

Imehi nāma, bhante, aññatitthiyā ācariyassa ācariyadhanaṃ pariyesissanti, kimaṅgaṃ panāhaṃ āyasmato ānandassa pūjaṃ na karissāmī. - 中部52経"Aṭṭhakanāgara sutta"
尊者阿難。梵志法律中説不善法律尚供養師。況復我不供養大師尊者阿難耶。 - 中阿含経・第217経



「況」を「ましてや・まして」と読むこと・西洋言語について

仏典に見られるこのフレーズ"kaḥ punarvādo"と、その漢訳「何況」の日本語・訓読「何に況や(いかにいわんや 旧仮名:-いはむや -いはんや)」と"kaḥ punarvādo"とは、疑問文・反語表現・動詞「言う(√vadに由来するvāda)」の3点が共通する。

「況(状況を意味する)」単体では、日本語で「況してや(ましてや)」と読まれる場合もある。
管見の限りでは、古代から近代にかけて(19世紀までの1500年以上もの間)、この語は日本でほとんど用いられなかったろう。
「いわんや」の「や」は、元々「何に況や」のように「何に・いかに」と対応した疑問の助詞「や」が連なった形式であるが、疑問文・反語表現でない現代に副詞として用いる「ましてや・況してや」は、疑問の助詞「や」が形骸化していよう。
恐らく、古語には有り得ない形式か用法である。
現代語における普通の肯定文では「adv. ましてや」よりも「adv. まして」とした方が妥当となろう。
文語体では「何に況や」と書いて「いかにましてや」と読めなくもない。

「ましてや・まして~」はサンスクリット"kaḥ punarvādaḥ / kimaṅga punaḥ"と同様に用いられるラテン語"quanto magis; quantus"と「まして(増して・量が増える・多くなる・大きくなること)」という「分量・量性"quantity"」に関する意味合いが共通する。
"magis (後述の英文にある"more"という単語と同じで形容詞の比較級を作るためにも用いる)"に対しては「ますます」という相対性の表現が、より似る。
「ましてや"magis, more"」系は、「いわんや"-vāda √vad"」系と明らかに異なっている。
※なお、「いわんや"-vāda √vad"」系の英語には"to say nothing of" (他にラテン語mens, menito由来の英語イディオム接続詞"not to mention"も同義語)というフレーズがあるが、疑問文・反語表現でない(逆説的であり"apophasis"とされる)。それは否定表現なので日本語「~は言うまでもない」、「~はもちろん=勿論(論ずる勿れ)」が似る。類義語"let alone (~はおろか)"は「いわんや」と「ましてや」のどちらの系統でもない。

そのラテン語のフレーズがウルガータ・聖書類にある場合、元の七十人訳=ギリシャ語(コイネー、古代ギリシア語)は"πόσῳ μᾶλλον (他アリ)"、英訳では"how much more"となる。
※古来、和語(やまとことば)として「まして~」という副詞的な表現が有ったろうか?漢字「況(さんずい+兄)(辞書12 簡体字:况 古くは𡶢?)」の原義は「寒水也(寒水"cold water"、説文解字より)」または「水が流れる様子・水が増えてゆく様子」を示すそうであり(123)、「まして~」の「増す」という意義は漢字・字義の解釈から来ていると考える方が妥当である。その場合は、漢語=梵語からの漢訳「何況」の方に"quanto magis, πόσῳ μᾶλλον, how much more"と共通する意味論的考察を加えたほうがよいかもしれない。余談だが、「」といった字も「況」のように「いわんや」と読み下すそうである(漢籍での用例"在物尚然,矧於臣子。")。
ルカ11:13(la) εἰ οὖν ὑμεῖς πονηροὶ ὑπάρχοντες οἴδατε δόματα ἀγαθὰ διδόναι τοῖς τέκνοις ὑμῶν, πόσῳ μᾶλλον ὁ πατὴρ ὁ ἐξ οὐρανοῦ δώσει πνεῦμα ἅγιον τοῖς αἰτοῦσιν αὐτόν. (マタイ7:11とほぼ同内容)
KJV Luke 11:13 If ye then, being evil, know how to give good gifts unto your children: how much more shall [your heavenly] Father give the Holy Spirit to them that ask him? ( [ ] 内は原語に無い訳補)
※現代中国語の和合本 CUV 路加福音では「你們雖然不好、尚且知道拿好東西給兒女。何况天父、豈不更將聖靈給求他的人麼。」と、同義語反復がされる。新標點和合本 CUVNP 路加福音では「你們的天父豈不更…」と、「CUV: 何况」が省かれる。

ピレモン1:16(la) οὐκέτι ὡς δοῦλον ἀλλὰ ὑπὲρ δοῦλον, ἀδελφὸν ἀγαπητόν, μάλιστα ἐμοί, πόσῳ δὲ μᾶλλον σοὶ καὶ ἐν σαρκὶ καὶ ἐν κυρίῳ. (両語の間にδὲ とある例)
KJV Philemon 1:16 Not now as a servant, but above a servant, a brother beloved, specially to me, but how much more unto thee, both in the flesh, and in the Lord?

申命記31:27(la) כִּ֣י אָנֹכִ֤י יָדַ֙עְתִּי֙ אֶֽת־מֶרְיְךָ֔ וְאֶֽת־עָרְפְּךָ֖ הַקָּשֶׁ֑ה הֵ֣ן בְּעֹודֶנִּי֩ חַ֨י עִמָּכֶ֜ם הַיֹּ֗ום מַמְרִ֤ים הֱיִתֶם֙ עִם־יְהֹוָ֔ה וְאַ֖ף כִּי־אַחֲרֵ֥י מֹותִֽי׃
 (旧約聖書を参照したくてこれを見つけた。当該箇所 וְאַ֖ף כִּי 翻字例wə-’ap̄kî。このほか箴言11-31一サミュエル23-3などに見られたものの、三者みなギリシャ語七十人訳(Δευτερονόμιον, ΠαροιμίαιΒασιλειών Α')では例のフレーズが見られない)
KJV Deuteronomy 31:27 For I know thy rebellion, and thy stiff neck: behold, while I am yet alive with you this day, ye have been rebellious against the LORD; and how much more after my death?

マタイ6:30(la) εἰ δὲ τὸν χόρτον τοῦ ἀγροῦ σήμερον ὄντα καὶ αὔριον εἰς κλίβανον βαλλόμενον ὁ θεὸς οὕτως ἀμφιέννυσιν, οὐ πολλῷ μᾶλλον ὑμᾶς, ὀλιγόπιστοι; (πολλῷはπόσῳと違って"how"の意味を持たないが疑問文・反語表現のままである)
KJV matthew 6:30 Wherefore, if God so clothe the grass of the field, which to day is, and to morrow is cast into the oven, [shall he] not much more [clothe] you, O ye of little faith?

他の参考:複数の日本語訳聖書 (日本語版Wikisource所載。戦前のもの・文語体に「いわんや」形の訳例が少し有り。書・章・節に基づいて比較せよ)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8
英語版Wiktionary - Appendix:Ancient Greek correlatives (古代ギリシャ語の相関代名詞)
https://en.wiktionary.org/w/index.php?oldid=42376143



当然、話題にある言葉(日本語・漢語・英語・ラテン語・ギリシャ語、特に日本語)は慣用句・イディオム化していたり、翻訳・訓読の便宜上に翻訳借用"calque"がされたか、造語がされたものであり、それ以上に歴史を深読みできない。
疑問点を示そう。
「いかにいわんや・まして~」は漢文訓読以前から日本語に似た言い回しが有って翻訳借用がされたか?
上代に漢訳経典の原語・梵語(いかにいわんや 言うこと・vāda一致)や、近代に英語・ラテン語などの西洋言語(「まして~」 ますます・magis一致)を見て日本語で造られたか?(「まして~」は※注釈されたように漢字「況」の原義に由来する可能性もある)

また、以下のように、比較言語学や歴史言語学の観点でより多くの研究が望まれる。
印欧語と異なる中国や日本はもちろんセム系諸語など世界中の言語に固有の表現で同様の言い回しは有るか?
そうでない場合は(特定言語のみに固有だったとして)、いつ翻訳借用や造語がされたか?

日本語における漢文訓読には、どれほど梵語の知見が含まれたか?
そうならば、訓読の決定版成立(早くて10世紀ころ、遅くて江戸時代)までに影響を及ぼしたか?
また、そうならば、梵語の知見は在日中国人・中央アジア人・インド人(例は法道菩提僊那)などによってもたらされたか、最澄・空海・円仁など(彼ら以前の遣隋使や彼ら以後の安然・円覚など)によってもたらされたか?
誰が?いつ?どのように?どのくらい?…。




起草日: 20180708 (原案: 20180625)

当記事の要点については、漢語「況」には恐らく無い意味の「言う・増す」という和語が、「いわんや・ましてや」という形で訓読語・訓読みに現れる点で、訓読を行った古代日本人が梵語"kaḥ punarvādaḥ, kimaṅga punaḥ"の意味を何らかの経緯で知っていたか、偶然に原語の道理を心得たか(その場合はラテン語"quanto magis"を含む)、という仮説である。
ただし、「増す」の意味は調査中に「水が増える様子」という原義を確認できたので、漢語における翻訳行為・旧来の用法の再検証の余地がある。
その上で、より明確に検証されるべく、「印欧語と異なる世界中の言語に固有の表現で同様の言い回しは有るか?そうでない場合は、いつ翻訳借用や造語がされたか?」といった比較言語学や歴史言語学の観点による研究が進められる将来性(今から私たちが実現するもの)を示した。
インターネットには膨大な文献があるので、解読能力や解読意欲のある人は、日本語の比較言語学的な・歴史言語学的な研究のために用いて可である。

※漢語「何況・況復」が二字漢語(シナ・チベット祖語に時期が比較的近い古代漢語にあった2音節語)だと推定する学者もいるようだが、既述の梵語関連の理由で私は否定する。一方で「固有の表現で同様の言い回しは有るか?」という観点で肯定できる。ついでに気になって「何況」が古い漢籍に出るか調べたところ「何況一國之事 (楚辞・九弁、楚辭・九辨)」に見られた。なお、中期朝鮮語・ハングルの古い資料である「諺解」系に、漢語経典の重訳が載っているようである。当方で確認できた例は大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經・卷第四「欲何因縁取夢中物 況復無因本無所有」→능엄경언해 (楞嚴經諺解)4巻 (https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=111304&page=122および123)である。古ハングルは当方で表記困難なので示さないが、似た文字で「하물며 ᄯᅩ (翻字: hamulmyeo sto 前3文字は先に挙げられた聖書の文に対する朝鮮語訳でも使われる)」がある。この楞嚴經諺解による「○復」の解釈について学者某は「それら文献は当の2字漢語を1語化したものとみなさずに逐字的に読んでいる」とする。

もし漢訳仏典の訓読において梵語に基づき作られた語句であると証明できれば、いわば「仏教和語・仏教風日本語"Buddhist Hybrid Japanese"」が存在することになる。
その概念・名称を用いる時に注意すべきことは、一部の仏教徒が仏典の訓読文を知って教団の中で「まさに知るべし!(漢語"当知"に由来)・豈~んや」といったフレーズを用いたりすることについてまで適用すべきでないことである。
ちなみに、私がラテン語で作詞した際、その歌詞の日本語訳に「今昔混交日本語(英語にするとModern-Classic Hybrid Japaneseか)」という名称を用いたことがある。
その文面が難解のようでも、印欧語や訓読語の道理を得ている時に読めば、おそらく原語を想像しやすい一面がある。
ただし、私が作った歌詞の本来のイメージを詳細に伝える目的もあるので、結果的に色々な言語表現が混雑しただけであるともいえる(複数言語や宗教教義を若年にして短期間で学んだ結果)。



当記事の話題の言葉の起源に関して、上記の後書きも加味しながら、結論をまとめよう。

日本語の「いかにいわんや~をや・まして~」は翻訳借用"calque"起源である。
中国語の「何況」は彼らの中で発生した言葉であり、尚且つ翻訳にも用いられた。
梵語(古~中期インド・アーリア語≠サンスクリット)の"kaḥ punarvādo" および"kimaṅga punaḥ"は彼らの中で発生した言葉である。
英語の"how much more"は翻訳借用"calque"起源である。
ラテン語の"quanto magis"は翻訳借用"calque"起源である。
コイネー・ギリシャ語(Koine Greek)の"πόσῳ μᾶλλον"は不明であるが、ヘブライ語からの翻訳に用いられた。
聖書ヘブライ語(Biblical Hebrew) の וְאַ֖ף כִּי は彼らの中で発生した言葉である(もしくはヘブライ語と同じアフロ・アジア語族セム語派のより古い言語から存在する)。
チベット語の"ལྟ་ཅི་སྨོས"は不明であるが、サンスクリットからの翻訳に用いられた。
中期~現代朝鮮語(Modern, Middle Korean; 韓国語) の"하물며"は不明であるが、漢語とキリスト聖書一言語からの翻訳に用いられた。
これらは意味の共通点と相違点とが検証され、類似の派生語と比較・対照され、詳細に区別されよう。



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