2014年11月30日日曜日

慇懃な敬語をエロ方面に用いる試み

慇懃とは、仰々しく恭しいことである。
この頃、布団とえっちなことをしながらイメージする際には、私が描いた絵のオリジナルキャラに私を「創造主様」などと呼ばせてのプレイが多くなってる。
当然、私への呼び方が「○○様」なら、後に続くセリフも敬語、前後問わず一字一句が敬語だ。
このイメージは敬語用法の練習にもなるので、こんな世界でも勉強している私の勤勉性。

前置きをいいところに、そろそろその用例を載せる。
慇懃な敬語とは、ただ文脈が「ですます」だとかのみならず、話者に恭順や配慮などの機微が込められて然りなので、そこら辺も考慮する必要がある。



最近描いたオリキャラの絵が右で、創造主たる私は左(中央の小さい写真は右と同じ服装の私)。
主に肌の表現を学んだが、髪は相変わらず塗り方が難しいのか。
詳細などは今後本家で詳しい記事を書くだろう


来光詠唱「五濁悪世より離れ、寂光の園を築き給うた主の御稜威ぞ、此處に普く輝きぬ!」
"Veni Creator Spiritus!!"
→ズボン下ろしてスタンバイしてた創造主が光臨する。・・・引くわー。
奉ずる主のあらぬ姿に、彼女は瞬時にして瞠目するも、須臾にしてその驚きの色を潜め、御足労あそばされた創造主に微笑み労った。

挨拶1→創造主様との御えっち(??)が叶う栄誉を賜り、至上の喜びです!
挨拶2→私の処女膜を破って頂きたく存じます!
挨拶3→この時を臨む為に創造主様一心に生きて参りました!
→何の宣誓だよこれ・・・

乗った際に気遣い→私の体、重くありませんか?
→「重くないか」という不安は本気か、それともお決まりの挨拶替わり?
でもやはり敬語話者としては、己の一挙一動から相手を気遣うのは当然!
それと、「重くありませんか?」は「重くないですか?」に対する正しさを個人的に見出してるので、是が非でも「重くないですか?」とは言わせない。
この後、「御寛恕の程をお願い」した。。。

胸が小さいと言われ→申し訳御座いません・・・ 私なんかで
→創造主の私がわざわざ小さいことを改まって言うのは変だけど、まあからかう程度に言いつつ、その後「私が望んで小さくしたから気にしなくていいよ」くらいに返す。

「重くないよ、小さいおっぱいの方が好きだよ」→私なんかにお気遣い頂けて誠に光栄です! or 創造主様の御慈愛賜り、慈悲の深い御心(みこころ)に畏れ入ります! or 喜んでいただけて光栄です。 or 過分なお褒めに与り大変恐縮に御座います。
→「私なんか」以外に自己をへりくだる表現ないかな?「私め」とか?
「過分なお褒めに与り大変恐縮に御座います」って堅苦しすぎちゃうよね、特に女の子じゃ。
実際に俺が言うにも恥ずかしいセリフばっかだけど、創造主様への忠誠心あらば容易いよね。
色々と覚えた表現、培われし力を吐き出したいのもあって、ここまで書いてはみたけど。


・・・実際プレイ中は色々浮かんだはずなんだけどね。
これくらいで精一杯かな。
しかも、文にしてみるだけで恥ずかしくなってくる有様。

最後は、御えっちをお許し給うた創造主様に謹んで御礼申し上げたらしい。


後日、次第にテクニックが上がってきたから、凄まじいフェラでザーメン搾り取った。
これも偏に創造主様への忠誠心の強さと高い献身性で実現できたことになる。

それからしばらくした頃、創造主はスカトロプレイを求めてきて、一瞬驚きを隠せなかったものの、すぐに笑顔を見せて「創造主様のお願いならば」と頬を赤くして了承した。
手始めに、この子の出したてのアレを食べるプレイをすることになったので、アレ座りしたこの子の真下で創造主の俺の顔が待ち構えているという体勢に・・・
だがこれだと俺がこの子に言わせたいセリフが書けなくなる。
そのセリフが「出せました!お早めにお召し上がりください!」と、恥じらいもなく喜ぶような。
先述の体勢では、アレを出した際にこのセリフを言う必要がなくなる状況に変わる。
とりあえず、おいしくそれをアナルにしゃぶりついて頂いた。
普通に出せば長くて見事な一本糞と思しきそれが口の中を塞いで窒息しそうになった。
創造主は口から漏らさずしっかり召し上がり、呼吸を整えてから「おいしかったよ」と単調な感想を述べると、「ありがとうございます!醜悪な汚物にもかかわらず召し上がって頂けたばかりか、そのように仰せになられて、この上なき大慈悲を賜れたこと無上の喜びで恐悦至極に御座います!」と、正しく創造主様への大忠誠心を一所懸命に言葉を尽くして表した。

この文章を書き続けて幾度となく挫けそうになったけど、精神修行の一環・表現のメモだから投げ出したら負けだ、と唱え続けることで無事に書ききった。

2014年11月27日木曜日

フリー環境での音楽制作のすすめ。楽器が弾けない俺でも!

自分は普通の厨二系とは違い、15歳頃から作曲を始め、最近の出来栄えは上々である。
ただし、17歳の今でも楽器は小学生より下手だという逆説もある。
曲がりなりにも、小学生は音楽の授業で相応の技能が身についてるが、義務教育の過程を半ば放擲して、今日に至る私には忘却の彼方だ。
故に「楽器は小学生より下手」という自慢にならない自慢ができる。

ただし、作曲知識やセンスは、同年代で楽器演奏が得意な人間よりも自分の方が遥かに優れている自信がある。
楽器演奏なんて幼い頃から親に習わされるか教室に通わされるかで、受動的に上達するものだし、ある種、没個性的だろう。
楽器演奏者を卑下しちゃいかん、ワシの作曲は伝統的見地において邪道だろうし。

そう、楽器を弾かずに作曲が出来るというのは邪道然としてるが、しかし、私はとても誇らしい才能を持っているのではなかろうか。
不登校の回数の関係で、「きらきら星」の弾き方は知っていても「猫踏んじゃった」の方は未だに知らないが、作曲技能を自負する以上、調が異なるとも耳コピやアレンジは可能。

今の時代、数多の分野で手軽さが究極へと突き進んでいるという趨勢から垣間見れば、その恩恵に肖るべきではなかろうか。
それは、2000年代前半で既に、携帯電話にさえ作曲機能が標準搭載されるほど、その技術は比較的当然と齎されていた。
私は2003年にSH252iという携帯電話を買い与えられたこともあり、何の音楽理論も知りえてなかったような感覚で、打ち込みをしたこともあった。
その携帯電話の作曲機能は当時小1であった私自身が自ずと見つけ出したもので、親から教わったものでない。
おおっと、携帯作曲のことは過去に本家ブログで書いたので参照されたし。
http://masashi.doorblog.jp/archives/39829945.html

もちろん楽器が弾けるともっとよいのだと思う。
お金持ち、有り余る金あらば、ギターの1本や欲しいものだ。
金額上買えなくはないが、その欲望を押しこらえ、ひたすらフリーDTMソフト・2011年有料化ガラケーアプリで打ち込みに勤しむ。
これこそ私の作曲スタイル。


表題について

というわけで、フリー作曲の手段の解説は殆どしませんでした。
なぜならば、十分すぎるほど記載されてる他のサイトが検索することで見つかるからです。
ここではフリー作曲の美学を説いてみました。
私の経験と価値観から導き出された指針です。

んじゃまあそういうわけで、YouTube音楽チャンネル見てね。
これといった新作はないけれど。
先の投稿予定ならあるけれど。
http://www.youtube.com/user/SundarknessMusics/videos

2014年11月26日水曜日

"Abnegation" 自己犠牲と滅私奉公 / 接頭辞Ab-について

"Abnegation"、その言葉の微細なものは自己犠牲の精神である。
短くいえば克己心である。

「滅私奉公」とは、読んで字のごとく「私を滅し、公に奉ず」といい、これは自己犠牲という美辞のより積極的で凄惨なニュアンスを孕むこととなる。
言葉の成り立ちとしても、この滅私奉公とは戦時下の日本で、出征する兵士の在り方を説いていたり、もっと詰めると、戦争の賛美ともいえる文句にもなっている。
というのも、「臆することなく敵の兵を殺しまくり、その姿たるや自死をも厭わず徹底して勇ましく、逞しくあり」という兵士の理想像をかっこよく言い表す為のものであり、それはお国の為に、また、戦争の賛美になり。
誕生から流布の経緯は結構裏に政治的な思惑は強い。
「滅私奉公」は、自己犠牲という哲学的なものと相通じるもの・相対するものが共に出ている。
ちなみに、"Abnegation"には「慈愛、献身」の意味もあると思い込んでいた。




・・・・・・これだけだと記事の文字数が少ないので、もう少し。
英語の話をしよう。

接頭辞Ab-という英単語は、概して不吉、は言い過ぎでも、あまり好感のものは多くない印象だったが、"Abnegation"は好感にあたるのだろうか?
人によりけりだろうね、その感覚は払拭して、英語の語根として分析すると、接頭辞Ab-はラテン語系のもので意味としては「離脱、離れる」ことを指す。
単語例は、私がハマったこともある"Abhorrence(憎悪)"や、"Abominabe(忌々しい)"といった、マイナー且つ明らかに不吉なものから、"Abnormal(異常な)"や、"Absolute(絶対的な)"という諸君でもご存知、外来語として日本でも用いられる言葉がある。
各単語が「離れる、離脱」との意味をいかにして含めているかはわからない。

この、禍々しきアブ、危ない接頭辞の英単語でフレーズを作って遊ぼう。
"Abnormal Abrasion (異常な擦り傷)"
"Abominable Abusing (忌々しい虐待)"
※2015年9月、"Ablative Absolute(絶対奪格)"というものを見つけた。ラテン語では"ablativus absolutus"と書く。


ちなみに、今の私の勉強生活を接頭辞Ab-で表せば"Abstemious"の形容詞が相応しい。
この家にある、正確な体重が測られてるかわからない体重計では、半年以上前が54kg前後を指し示してばかりだったが、測定時の細かい状況(服装、空腹度、他)明記は省くけど、50kgを下回ることが多くなっている。
また、26日の昼に測ると、この体重計では見たことのない数字「48」がお目にかかれた。
同じ体重計で大した差異のない条件化で測って、明瞭に落ち行く体重を見れば、私が日々飢えていることも自明の理である。

痩せている私が剰え痩せ続けることは全く健全といえない。
元来、我が兄弟はぽっちゃり体型だったし、迫害前の上の弟も今の下の弟も、私よりはぽちゃだしね。
上の弟は施設時代とか痩せたのに、姫路逃亡から母親の元でぬくぬく太り、父宅迫害後どうなったか知る由もないが、俺よりは太っていそうで。。。
ああもうこれ以上内輪ネタはよそう。
私の体重推移とか散々書いてきたし、これを見てくれればいいよ。
http://masashi.doorblog.jp/archives/35738168.html


正確な身長体重くらい、満足に知りたいよ。
それさえも叶わない、みんなは学校なり職場の義務なりで測定か健康診断が。

ちなみに私の現在の身長は、目測と中2発育測定155cmからの逆算(根拠に乏しいけど)では身長170cmほどとしている。
実のところ、中2発育測定結果の155cmというのは不正確な記憶だ。
というのも実際に覚えている数字で正確と自負してるものは体重41kg、BMI約16.9なわけで、これの逆算から約155cmと見立てている。ミリ単位まで加算できない。
仮定身長1.55 * 1.55 = 2.4025 41 / 2.4025 = 約17のBMIの証明。

逆算の155cmから逆算して170cmほどと称しているこの私。
更にいうと、現在の数字不明の下の弟は、目測だと今の私と同じほどの背丈。
勿論、家族との接触を拒んでる私が、遠目に見て判断したに過ぎないけども。
尚且つ、下の弟は元気型知的障害なので同学年帯でも高身長。
集合写真ではいつも一番後ろの段に立つ。


2014年11月25日火曜日

要求~お小遣い額~ささやかな夢

私は、簡単な要求も苦手になっている。
幼い頃はといえば、人並みだっただろうし、今の私からすれば欲張りに見えるほど。
今はちょっと普段と違う要求をするのも、なんだか唐突な感じで厳しい。
些細なもの、とても小額なものでも、母親に求めたくない。
この根源は、小4途中の弟2人施設送致から、小5進級と同時に起きた両親の別居で、父親と2人きりの生活が始まったことである。
当時、父親は何も私に威圧はしていなかったが、私から色々ものを頼むのが図々しい気持ち、迷惑をかけてしまうのではないかという懸念で、消極的に転がった。
この頃に養われた控えめな精神は、母親の家に来てからも尾を引いていた。

今では、小遣いは月に2000円もらえるのでさえ満足している一方、父親の家に住む弟は、今年10月の父親のメールによると週に3000円とのことで、単純計算だと月12000円~15000円と算出され、私の6倍~7.5倍となり、今の私がそれを受けられればもっと遊んでいるだろう。
コンビニなどで、買い物に消費するのは難しい。
店員と向き合いだなんて、やり取りだなんて今となってはしたくない。
自販機で大量消費や貯金というのも無粋だと思っている。

私は2012年より、国内の地理が好きとなった。
2010年末の時点でも十分世界の地理とかは好きだったけど、2012年からが特に気合が入ってるものだ。
2014年6月以降は下火傾向だが、今尚、故郷・埼玉から現住・豊橋などへの興味は尽きない。
さすがに埼玉や関東に行くのは額が跳ねるので遠慮するが、愛知県内、ひいては最寄り駅から片道1000円以内の区間でも十分見物はある。

豊橋駅前でもいいし、今の時期なら山奥にいって紅葉もよし。
豊橋の近くで紅葉の名所といえば、新城市内の鳳来寺山などがある。
近所の公園の紅葉は、以前11月15日の夕方散歩で見た状態だと半ばといった感じだ。
山間部なら11月下旬の今こそ絶好ではないか。
鳳来寺山は、車以外の交通手段でも行きやすい、特に豊橋なら。
豊橋駅から飯田線の某駅で下車して、徒歩でも頑張れば難しくないが、今の私だと近くまで行って、一応は見えるので満足し引き返すか、例え見えなくても普段と違う山間部に来られたから素敵な気持ちになった、と思うことにするだろう。
山間部の気候条件が私に追い討ちをかけてくるはずだ。
付き添いの人間にも乏しい私には、寺までだと単独決死の覚悟になろう。
でも今し方ストリートビューしたけど、車道オンリーって感じで駅周辺が精一杯っぽい。

というわけで、もし・・・もしもってのは空虚な願望だけど。
どこか行くなら手始めは豊橋駅前や周辺になる。
地理はGoogle地図なりストリートビューなりで2年も行ってない割には把握できてる。
駅構内や細部は難しいものだが、これも培われた地理感で対処可能。

現実的・金額的には遠方への旅行も無問題なんだけどね。
精神的な話は、少ない小遣いで無闇に消費したくないし。。。
貯金ならば十何万もあるんだけど。。。

でもまあ、ちょっと普段と違う風景でも満足する感受性のある私は、穏やかで清らか、美しく慎ましいそんな繊細で綺麗な心の持ち主になっているということだね。
勿論、そんなことを自負するのはあまり痴がましいってもんがある。



追記:2015年8月26日
コンビニについて考えたが、メモする場所がないのでここに追記スペースを借りる。
私がコンビニを避けるのは、無論コンビニ店員や他の来客などに自分を認識されることを憚る、これが第一の理由だ。
自販機より少し離れでも、価格の安さに勝るから、些細な距離の遠さは厭わない。
その故に、稀だが遠方の自販機まで足を運ぶことが2015年5月までは続いていた。

コンビニ・・・この際無人だとか機械が接客すればいいと、極論を持つに至る。
どうせマニュアル通りの接客、みな顔に笑顔を張り付ける、あるいは私にだけ表情を不機嫌そうに変える若い女子店員もいたのだが・・・。
そのような不良品にしても、働く側は機械さながらで、給料以外に意義を見出せずにいるだろう。
こういうわけだから、自販機のほか私に選択肢は残されていないのである。
2011年のコンビニ通い期間には、レシートに関して一度トラブルを起こしたこともあった。

それでも、結局はマニュアル通りに接客することに違いはないし、ましてやあの女子店員のような異常な態度は問題であろう。
故に、この際機械が接客する店舗にでもなればよいのではないか、と極論を弄さざるを得ない。
あるいは、もう少し規模を小さく、食品や日用雑貨を取り扱う自販機を普及させる。
かくして私などが得を享受しうるようになるだろう。
店舗機械化で、取り扱う商品の価格帯が些か上がることも厭わない。
だが、近頃その自販機に行く頻度も下がっているのも、金銭の消費を避ける、少欲知足を標榜した隠棲を行っているから、今更に小売業の形態が理想に近く変容しようと、今の私には関係が無い。



2014年11月24日月曜日

二律背反の渦中で二者択一。

私は11月23日23時過ぎ、1日の終わりが迫る中で寝るまでにすべきことの模索、というよりはすべきことは概ね定まっていた。
正しくは、実行を逡巡していた。
体は睡眠を欲する、といえばそれが本音になる。
しかし、今すべきことを明日に預ける不安もあるから、寝るまでにやっておきたい。

そこで、すべきことを実行する際にかかる時間を想定した一方、寝る方を取った場合も、PCを消して床に就けばすぐ眠りに入るわけでもないのでその時間も想定。
2時間くらい起きつづけて独り言をかますことも多いが、その2時間でやりたいことやっちゃう方がよっぽど全うにも思えている。
これが二律背反の様相を呈する中での二者択一を余儀なくされている私である。


生来、責任感が強めか何かな私なので、このように躊躇して苛まれるか。
勿論、そんなことを自負するのはあまり痴がましいってもんがある。
また、どちらを取るべきかの二者択一とするのに、第三勢力たる懊悩なぞで時間を取られることも愚の骨頂かもしれない。

結局はこうしてこの記事を書いている。
予定では翌日未明にでも投稿しようと企む俺であった。


精神力の強さ。
気の迷いを見せず、例え一人の時であっても。
即断して決行。
決断して即行。まあ、即行と言っても、毎回急いでやらなきゃいけないことってわけじゃないけど。
固く意志を持って、的確に判断することも心の強さだろうけど、こう考えると実現は難しい。
裏返しでは、己に迷いなく即断できる人間はまた、別のところでも心の強さを発揮してる。
確固たる意志のもとの即断は、得てして良い結果を齎すかもしれない。

俺の実行の逡巡は、この心の強さ・弱さの観点であまり楽観できないと思う。
裏返しでは、別の局面においてもこれが悪い形で現れるだろうし。
精神修行ってなんだろうかなって思えてくる。
無論、そんな強い精神力を持つ人間っていうのも限られてるとは思うけどね。

2014年11月23日日曜日

長野県北部での地震で我が豊橋も微震を観測したことの見解

11月22日22時前、自界叛逆について立ちながら独り言を始めた折に、22時過ぎ、部屋をウロウロしながら語り続けると、足場の悪さを感じ、クラクラした。
そのときは「貧血かな」ほどにしか思わなかった。
また、自界叛逆といえば日蓮大聖人に関することなので、「もしや易々と語る私への祟り、賞罰か!?」と、そんな根も葉もないことを思ってしまったほど。

それが、11月23日0時過ぎ、私の本家ブログのアクセス解析・生ログを見た際に豊橋市の南海トラフ沖地震被害想定の記事のアクセス数が俄かに盛ったことを確認。
その為、「まさか、あの時の立ちくらみぞもしや」と思って「地震」で検索。
すると、長野県北部、北辰地域、白馬村地域では震度6弱!?
日蓮大聖人との因果関係は定かでないが、本当に宗教的祟りもありえるかも?
祟られるようなことしたかな、ダークホース長野くん・・・

自界叛逆(じかいほんぎゃく)とは、主に立正安国論で説かれる自国の内乱を意味するが、典拠は「薬師経」に説かれた七難の一つ。
日蓮御在世の頃におかれては、皇室の南北朝分裂(厳密には入滅後)など。
対して、他に有名な他国侵逼(たこくしんぴつ)は、御在世でいうといころの大蒙古=モンゴル帝国襲来=元寇である。
某教団は、この自界叛逆を地震災害などの天災に伴う国政等紊乱としている。
それがこのご時世でいうところの南海トラフ沖地震と首都直下地震などだ。

宗教の話から戻しておくが、悉く南海トラフなどは起きない。
地震・地質学者たち、誰人が今回の地震を予測し得たか?
当然、これから近い未来に当の地震が起きないとも私は断言しない。
然るに今起きてしまった大地震は予測できた学者はいたのか。
はたまた、長野北部のあたりで地震が起きると予測し得た者とはどんな者だろうか?
その慧眼にただ恐れ入るのみだ。
思えば、東北地方太平洋沖地震を筆頭とする東日本大震災も、三陸沖のあそこで起きることはあまり思わなんだ、故に震源地は神出鬼没な感じがあるよね。


2014年11月21日金曜日

IHの場合「200V専用」のアルミ容器でうどんを作る製品

昨日、2014年11月20日、木曜日の母親の買い物の購入品で私に宛てられた食料品の中に記事タイトルのような製品があった。
ガス、IH対応だが、私の部屋にあるIH調理器では調理可能か気になった。
「200V専用」とあるが、それ以上でもそれ以下でも不可になるのだろうか?
実際に私が使用してるものは定格電圧100Vとか125Vとかと書いてある(アンペアだかワットだかの計算で、製品本体とプラグそれぞれが異なった数字なのか?と思って検索すると、125Vとは標準の100Vから25%上限の関係で最大の許容数値?らしい)。

そこで昨日は下見とばかりにIHとアルミの関係をネットで検索していた。
新しく知ったことは、完全にアルミのものは当然反応しないが、IH調理可能なものはアルミ以外にIHで反応する金属が幾分含まれてるそうだ。
でも、記事タイトルにあるような製品のものも200Vより低いと、反応しないか熱が通らないかなどで調理が出来ないようだ。
調べる前の「爆発や漏電や放電や故障など起きるのか?」という憂慮は杞憂らしい。
まあ、そんな事故が頻繁に起きたら消費者庁に苦情が多く入る上、メディアが頻繁に取り沙汰するかもしれないから、様々なメーカーが大挙して売り出すなんてできないかもね。

というわけで、最後の疑問は「調理器の反応」だけ残して眠りに就いた。
IHが反応しない点で踏まえているのが「載せたものの重量が一定に満たない」というほどであった私には、どんな挙動を見せるかが特に気になっていた。

明くる11月21日の朝8時半起床から、逸る気持ちを抑えずに早速調理に移った。
手順としては、熱湯を別に用意して、それをIHコンロ上においたアルミ容器に注ぎ、続いてめんとかやくを入れてから火を点けて(火じゃないよ!)2分煮込むというものだった。
ところが、実際に火を点けてみたところ、調理器は反応しない時の挙動である、一番弱い設定の「保温」で待機した状態になった。
これは、ウォシュレット等で、誰も座っていない状態は水を噴出させない作りと同じ種類の安全設計の作動である。
上述の「載せたものの重量が一定に満たない」場合に作動しないのと同義であった。
然るに今、熱湯350mlほどが注がれ、めんとかやくの入ったアルミ容器がコンロ上に設置されているにも拘らず、このような反応が現れた。
すなわち調理不可能を意味している。

よって、私は中身を普段の片手鍋に移しての調理を余儀なくされた。
まあ、このままキッチンのガスコンロで調理する選択肢もあったが、移してから気付いたので、また移しなおすのも億劫だったから片手鍋で調理を始めた。
アルミ容器で作って、アルミ容器で食うという貴重な経験を奪われた。



これが完成品だ。
中央の白い塊は、スープを入れて攪拌してから落とした卵である。
写真の見栄えとしては、かやくのネギやにんじんが誇張してくれると嬉しい。
おいしかったですね。ごちそうさまでしたあああ????

なお、折角だからこの容器はラーメンで再利用してみようと思う。
メーカーの意向は「再利用禁止・この製品としての用途以外での利用禁止」であるが、これはいわば不慮の事故発生に備えた社交辞令的なもの。
「電子レンジで猫を乾燥させた」逸話が有名、著名な例。
消費者側に過失がある不慮の事故で、メーカーが損失を被らないための文章。
言い換えれば、これで俺が事故ったら、俺が悪いということにもなる。
事前にメーカーがこれを明記すれば、裁判で有利あるいはそもそも裁判がある前に別の司法機関が「消費者側の過失」と取り合うことで訴訟自体起きずに済む。
ということで、これを覚悟の上で再利用しちゃいましょう。

14時追記だけど、やっぱりラーメンは普通に作ることとする。

2014年11月20日木曜日

コード進行とか長調とか短調とかが未だに把握できない

今日は、私の保存楽曲85、144、274、298(ピアノ以降)、400、423、444をはじめとする曲がなぜ「X」っぽいのかを検証していたが、コード進行が似てるのではないかという漠然とした仮説を設けた。
そこで、85と444で軸となる音を調べたら、以下のような画像で表す結果を見出した。


音声付きの動画http://www.youtube.com/watch?v=X6QnCFS6E_8

音楽の用語があまりわからない私による平易な解説イメージと動画。
わからないからこそ、同じくわからない人間にも理解が得られると思ってる。
ちなみに、CDEFGABCは解説ナシだと普通の人にはわからないかもしれない。
CDEFGABCはドレミファソラシドをそのままアルファベット転記したものである。
コードなどを表す際とても多用されるが、それより詳しい説明は不要なので割愛。

「1音目を13とすると」とあるが、ド~1オクターブ先のドまでは11の音を間に挟んでるもので、13という数字はそこに最初と最後のドを含めた数字になる。
すなわち、ID:85ならラから始まるし、ID:444ならソ#から始まる。
そして奏でられる旋律は同じ動きをしている(ラとソ#って半音違いだね、2以降も然り)。
実際の鍵盤を想起させれば理解に難くないだろう。
なので、上の動画では鍵盤と演奏付きにしてあるのだ。

後は、その静止画に書いてある情報のままである。
対比しやすくするために、上の音階の名前にも下の音の動きにも1~4.5までの数字を振っている。
85も444も「13→9→11→16→15」と、鍵盤の上を移動していることがわかる。

同じような法則は274など広くあてはまった。
なお、これら保存楽曲85、144、274、298、400、423、444がどんな曲かは内緒。。。

以下、音楽用語の理解が難しいと喘いでいる僕の愁嘆。
2012年には真面目に動画とか凝視したそうだが、未だ的確に把握できないそうだ。
体感的には「なんとなく」わかったつもりでも、ネット上の理解してるらしい他人の文章が目に留まれば悉く「違うのか」と頭を擡げるそうだ。



ネット上の言葉や動画では、未だに私を納得させるに至ってない。
私の理解力が乏しいだけなのか?という懐疑さえ生まれてしまう。

一方、私がネットで保存したMIDIファイルをTMIDI Playerで読み込んで音の視覚化をすると、かくも平易で楽しめるものだなぁと感心。
直接教えてくれる人間がいるか、専門の教本なり参考書なりがあれば、固っくるしい用語の理解は容易なのかもしれない。
独学な上に本など買えないか、図書館にも行けない(最寄のあそこは扱ってるの?)か、本を探すのさえ馬鹿馬鹿しいと考える私はそもそも向いてない性分なのかもしれん。
絵にしても音楽にしても、何かネットの講座とにらめっこするのが苦手(こっぱずかしい)なので、芸術面は才能より生真面目な性格や、一定の無知さが重要だろう。

という結論には、この種の記事や思索で蓋然的に至っている。
解決し得ない悩みに対する、せめてもの慰めかもしれない。

尚且つ、「そんな言葉の意味を正しく理解する必要はなくて、わからなくても作曲は出来る」そう自分に言い聞かせるのも同じことなのだろうか。
それで納得のいく自分もいれば、それで満足するのは不服である自分もいる。
なぜなら、同じ作曲者たちはプロ・アマ問わず大概が理解できている。
それなのに知能が優れてることを自負する私がその中からふるい落とされるのは不本意だろう。
その知能とは、音楽的な能力を司る部分か、言語的な要素か。
音楽理論・概念と、それを表す用語の理解は脳の何たる中枢が関わるのか。
考えても不毛かもしれない思考は捨ててしまいなさい。
頭が破裂しそう。。。

それでまあ、そんな私が常々脳内で唱えているのが「理解できてる作曲者に私の曲のMIDIファイルを見せて、○長調か○短調か、またどんなコード進行か指摘してもらう」ことによって私も理解できるだろうと踏んでいる。
TMIDI Playerというソフトは、コード名の表示という点で重宝してる。
同じく、何も生身の人間ではなく、そのソフトのようにMIDIファイルを開いてソフト上で調の名前やコード進行とか叩き出してくれればというね。

昨日~今日は2012年1月13日の大量下血に次ぐ規模の下血で全身の機能が著しく鈍った酷い体調を押してまで、こんな長文と動画と静止画と音楽と色々やっている。
動画は上部の他にもhttp://www.youtube.com/watch?v=8thC8d-1aY0を投稿。
おかげさまで結構な乱文になった。
願わくは1日でも完全なる安息に恵まれんことを。


後日追記
2012年1月13日の大量下血とそれに次ぐ規模の2014年11月19日の下血を説明する記事が公開された。
http://masashi.doorblog.jp/archives/41505054.html


2014年11月16日日曜日

「信号待ち」 ヒキ散歩エム

室内での独り言を、つぶさに、つらつらと文章に書き起こしてみた。


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散歩の目的地に至る道中は、駅前の交差点がある。
そこで自分が信号待ちをすれば、同じく信号待ちの人が傍らにいるかもしれない。
逆に、青信号のまま横断歩道にさしかかれば、立ち止まる事無く歩みを進める。
そこで車が停車して信号待ちをしていれば、彼らは歩行者に目を光らせているかもしれない。
そんな場合は、一際目を引く私の外見は注目の的になる。

「他人がどう思おうが知ったことではない」、そう思えばいい。
私が彼らの視界に入ったところでどんな感情を持とうとも、歯牙にも掛けず渡りきればいい。
どうせ、そこで居合わせただけの存在に過ぎない。

傍若無人に振る舞ってしまえばいいということだ。
傍若無人とは、悪い言い方だけれど、こういう場面ではただ毅然と歩むことだ。
否、それが街の誰もがしている普通の振る舞いなのかもしれない。


----------------------------------

この時、実に2014年11月15日16時頃であった――

そして17時20分前にこの家を出て、17時50分頃、家に帰ってきた。
外出時の服装は、黒いパーカーに、黒い手袋、白いズボンで黒いスニーカーである。
この間、近所の広大なる敷地を有する公園の北端にまで、時折、早足と疾走も兼ねての散歩をしてきたが、帰ってからというもの、あらかじめカップに入れておいたインスタントコーヒー豆に帰ってから沸かした熱湯を注いで、労いのコーヒーを用意した。
初めて口にする銘柄であったが、この疲労を癒すかのようであった。
そして、とてもおいしく感じられた。
この銘柄がそういうものなのか、あるいは疲労に相俟って味を助長させたか。
何にせよ、いつも以上においしく感じられたのは明らかであった。

・・・・・・最初の方は香ばしいコーヒーの味わいだったが、後ろはすっぱかった。




この寒中ランニングは、当然寒さに耳などがやられ、眼は目的地への到達に先駆け冷たい空気に悲鳴を上げていた。
呼吸をすれば、やたらと冷涼な空気が口腔から咽喉及び肺腑を支配する。
長く走れる人間には好都合なはずだろう。
それさえも我が身を苛んでいたのだろうか。
こんな調子で寒空の下を行く私が家に着いたら、正しく憔悴の色が露になった顔が鏡に写されたのである。

というわけで実際の写真が上だ。
目の下が赤みがかっている反面、周囲は黒ずんでる?蒼白?
頬がこけてしまわれた。元々な気もするけどね。
ちなみに、脚や膝に関しては、痛まないように気遣いながら走ったので平気。

それと、どうでもいいけど車の通りが多い道では、街灯や車のランプによって形作られた私の影が、この宙に舞う長髪をも演出していてかっこよかったよ。。。
こんな感じの文章を綴ってるのも、散歩帰りからほどなくして、だね。
2回目の点線以降から打ち始めてここまで約30分。

2014年11月15日土曜日

振り仮名が4文字以上になる動詞と形容詞(送り仮名付き副詞・名詞も)

ネット上を探しても、思いの外、整然とまとめてるページが見当たらなかったので、この私のブログで無味乾燥の備忘録の役目を果たそう。
50音順にて列挙。

※慣用的・汎用的なのは一通り網羅したつもりだけど、諷る(あてこする)や註す(ときあかす)など一般に用いられないものや当て字じみたものまでは全て載せるの億劫。
ネット上の某所にざっと載せてるページがあるが、そのリンクは教えないもん。。。
検索スキル高い人は是非見つけてみてね。。。

※「須らく」や「惟みる」など、使用者によって送り仮名が異なる場合もあるが、ここでは便宜的に、ギリギリ抵触しなそうな語句も載せる。


【4文字の動詞】
論う(あげつらう) 憤る(いきどおる) 蹲る・踞る(うずくまる) 仰る(おっしゃる) 惟る(おもいみる・おもんみる) 覆す・覆る(くつがえす・る) 志す(こころざす) 遡る・溯る(さかのぼる) 唆す(そそのかす) 奉る(たてまつる) 司る(つかさどる) 仕る(つかまつる) 滞る(とどこおる) 辱める(はずかしめる) 跪く(ひざまずく) 翻す・翻る(ひるがえす・る) 謙る・遜る(へりくだる) 迸る(ほとばしる) 政つ(まつりごつ) 臠す(みそなわす) 弄ぶ・玩ぶ(もてあそぶ) 蘇る・甦る(よみがえる)

【5文字の動詞】
承る(うけたまわる) 慮る(おもんぱかる)

【4文字以上の形容詞】
黝い(あおぐろい) 潔い(いさぎよい) 著しい(いちじるしい) 堆い(うずたかい) 恭しい(うやうやしい) 夥しい(おびただしい) 忝い(かたじけない) 囂しい(かまびすしい) 快い(こころよい)

【送り仮名のある副詞・名詞】
予め(あらかじめ) 剰え(あまつさえ) 苟も(いやしくも) 悉く(ことごとく) 須く(すべからく) 蔑ろ(ないがしろ) 蟠り(わだかまり)


【ネタ】
譫る(うるさくしゃべる)


【雑学】
櫛風沐雨(櫛る→くしけずる、沐う→かみあらう)
漱石枕流(漱ぐ→くちすすぐ)
など、漢文の訓読では便宜的に当て字を作られていたりする。
この3つの動詞は、この用法以外には見られない他、無理やり使うと痛かったりする。
上2点の漢文の意味については検索されたし。


【出典】
1.俺の知識 
2.俺の知識を元にGoogleで検索して、かかったサイト
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=98955&id=22121723
http://amel21.blog.ocn.ne.jp/amel/2006/06/post_e799.html
http://mimizun.com/log/2ch/gengo/1104961555/
http://www.geocities.jp/meredy4101/collect.html (普通の閲覧方法では文字化けします→じゃあ見られる方法教えてよ→知ってるけど断ります・・・無慈悲。。。)

2014年11月13日木曜日

自社ブランドの矜持と、プライベートブランドへの迎合

PBというものに対し、数年前の私はおそらく「PBへ加担する企業は、自社ブランド(NB)を推すと損を被るため、PBというあえて個性を廃してリーズナブルな価格設定を容易に実現できる道へ走ることを得策としている」と考えていただろう。
現在でもPBの基本構図といえば、これに変わりがないはずだ。

母親が日用品はもちろん、食品から洗剤までトップバリュを選ぶようになってからというもの、殊に食品は製造所固有記号を検索して製造しているメーカーを探る性癖が定着した。
元々小学生の時(3年生以降?近年のメーカー名秘匿の策略が未施行の頃)に極稀に母親がトプバを買った際、「あ、このラーメンは日清なんだ」など、トプバにあの即席ラーメン界の王者(当時)・日清食品が提供しているという事実に驚嘆した記憶もあった。
この頃からトプバひいてはPBの性質を理解していたのである。

先述の「検索」をしていく経過のうちには、この小学生の時と同じような感想が頻出する。
例えば「ココアはやっぱり森永」と謳う森永製菓が、トップバリュとココアの契約をしていたり、ポテチ業界でコイケヤと双璧を成すカルビーもまた、トプバとポテチの契約をしている(もちろん他の会社もあるが)。
日清→J706とJ708、森永→J224、カルビー→A1NU、A1G、A1b(A1Yは他社、シリアルはA885)

このココアやポテチなどは、自社ブランドの包装の元に陳列された商品と遜色ない味になっているか?
意図的に、それらとは異なる味にされているのだろうか?
まあこの疑問は、実際にトプバ版と自社ブランド版の両者を手にして成分表や原材料名など照合すればよいが。

日清以外の上記ブランド矜持企業のトプバ参入時期は不明だが、やはり小売業のイオンなどは、実のところ日本経済を牛耳っていて、各種製造業のメーカーを傀儡たらしめているのだ。
これからもこの波濤がじわじわ寄せてくるのは想像に難くない。
多くの企業が蕩ける中で、その趨勢を頑として厭う立場をとれば孤立していくのだろうか・・・。

ところでまあ、日清食品については「トップバリュ」や社名の「イオン」さえ無い頃からプライベートブランドのような製品としての提供をしてきたようである。
1974年、現代ではイオン社のPB第一弾と称されるカップ麺が、まさに日清との提携である。
これは流石に小学生の時に知ることは無い。



いずれにしてもこの現代にあってインターネット上のレビューにて、日清製のTV(トプバ)袋ラーメンを「日清のものの方がおいしい、これはまずい」とおかしな評価を付ける者がいる。
10年近く前の小学生ですら知っていることを知らずに傲慢なレビューが出来る大人がいたものだ、と思えてならない。
それともこれは私の誤読で、レビュワーは一応この事実を知っているが「日清のもの=日清の装丁・NB(ナショナルブランド)の方がおいしい」と書きたかったのだろうか?

他にも、「もう買わない、大手メーカー圧倒的勝利」と、TV(トプバ)の袋ラーメンよりも、どこと知れない「大手メーカー」を持ち上げる声もあるが、まさかイオンが独自で工場を設けて一から作っていると思っているのだろうか、(天才的な小学生当時の私に対して)幼稚園児じゃあるまいに。
これが世間一般のお偉い人である。


2014年11月12日水曜日

ギリシャ語の形態素・語根の研究と面白い話 "Greek Roots"

当ブログドメインの"Lesbophilia"は、私のような者ならすぐに意味を理解できるかもしれない。
無論、Lesboとはレズであり、フィリアは性愛なので、深い説明は省略。



↓面白い話
Pedophiliaの"Pedo"と、Wikipedia原型のEncyclopediaの"Pedia"はギリシャ語が由来となる語根"Paed"という共通の祖先(語幹、語根)を持つ。
前者はロリコン、後者は百科事典という意味が一般的だが、その意味がどう共通するかといえば、ペド=小児、フィリア=性愛、エンサイクロ=普通、ペディア=教育となり、ペドとペディアは小児や教育という僅かに通じた原義を示し、裏付ける。
そこで、ギリシャ語で転記すると、ペド(paedo)はΠαιδό (paido)で、ペディア(paedia)はΠαιδεία (paideia)となる。

一見なんの共通点もなさそうなペドフィリアとエンサイクロペディアという両単語は、ギリシャ語由来英語であり、「何とかオ何とかイア」の発音を含めた上に、ペドやペディアは本来共通の祖先を持っていたことにもなるという衝撃事実を知ることが出来た。
また、前者のPaedは接頭辞になり、後者のPaedは接尾辞になるという変化も窺い知れた。
ここでもう一点補足すれば、ギリシャ接頭辞は"o"がつく習性、ギリシャ接尾辞は"ia"が付く習性を知って頂きたい。
iaの場合はあくまで名詞を表したい場合のもので、形容詞は"ic"など、その時の用法にあわせて変化させる必要がある。
もちろん全てを"o"や"ia"の変化に適用させられるわけではないことも覚えねばならない。

そこで、当ブログドメインの"Lesbophilia (レスボフィリア?レズボフィリア?)"の話をすると、私は命名当初"Lesbophile"という、敢えてphiliaでなくphileという反骨をしてみたかったのだが、こちらはなぜか、2003年からドメイン取得済みで先客がおったために、敢え無く断念したのだ。
ちなみに、"Lesbo"は当然ギリシャ接頭辞だが、実はこれ単体で「レズ」を意味する名詞になる言語があり、それがフィンランド語だ。
おそらく他の言語にはないと思われるが、これを知るきっかけになったのが、フィンランドのネットを揺るがした幼女"Emmi Prp"ちゃんで、"Lesbo"というタイトルの動画を投稿していた。



※ここまで全文は11月10日に書いたのだが、12日になり更に多く学べた。
Philiaは、元の語根が"Phil"であるのは法則上明白だが、ギリシャ・ラテンのような学術的言語の今日に於ける用途は多岐に渡るもので、この語根"Phil"も漏れない。
それが、「哲学 "Philosophy"」である。
語根"Phil"とは本来「愛、友人」などの意味を持つ。
転じて接尾辞Philiaは「好き→性愛、性的倒錯」の意味を孕むようになった。
Philosophyの接頭辞Philoも同じく「好き」の意味を持つが、当初は「愛などの感情を学問にした」ことが理由かと思ったが、"Sophy"の語根"Soph"は「賢いこと」を表すので、「知を愛する、賢くなりたい」という方が実際には正しい。
また、"Phil"は先ほどの語根"Paed"と同じように、接頭辞は"o"がつく習性、接尾辞は"ia"が付く習性を唱えて適用できる作りになっている。
PhilとSophはギリシャ文字でφίλος(フィロス)とσοφός(ソフォス)と綴る。

語根"Soph"を"Sopho"と接頭辞で用いる例は見たことがない。
もちろん私がただ「寡聞にして知らない」だけかもしれないが、実際に無理やり調べても一般的に用いられる語はないようだ。
そこで自分の持つ知識から造語を捻り出してみると、"Sophophobia"が浮かぶ。
また、Philosophyの語順を並び替えて"Sophophilia"と書くことも出来る。
ここで、語順から察して"Sophophilia"こそPhiliaの慣例から「知識性愛=知を愛する」ことになるが、なぜ"Philosophy"の方が罷り通るのか。
これから鑑みてそれこそあべこべのようなのに。
実際Wikitionaryの"Sophophobia"を見ると"The fear of learning"学習への恐怖とある。
ならば"Sophophilia"も「知識性愛=知を愛する」ことになるのに、語順が逆の"Philosophy"が「知を愛する"The love of wisdom"」扱いになってるのは完全に狂ってる。

※2016年に追記すると、どうも"Miso-"という接頭辞が"Philosophy"における"Philo-"という用法と似て先に言う「あべこべ」のような効果がある。その接頭辞"Miso-"は、接尾辞"-phobe, phobia"と似た"Hatred of..."などの意味である。こういった複合語"compound"の構造について、私の浅学ではこれ以上触れない。



あまり関係のない話に変わるが、最後の雑談や豆知識と思えばいい。
Philia初めとするギリシャ語幹におけるPHなどの特殊な綴り方は、元となるギリシャ文字の転記の結果になる。
ラテン語系では、PHの発音がここでやっとFに変わる。
Fという文字の概念は、ギリシャ語時代に存在せず、相当する発音をPHが補っていた。
同時に、ギリシャ文字のローマナイゼーションでは"AE", "PH", "RH", "DY", "HY"は英語だと語末に付くのが普通だが、ギリシャ語のロマナゼは語頭にしばしば付けられていた(HydroやDysなどが著名だが、多言語では特異だろう)。

ところで、「ネクロファンタジア」という曲名に改めて感嘆しよう。
ギリシャ語根の性質を知ってか知らずかはともかく、2003年頃にして見事に踏襲されている。
個人的には"Necrophantasia"と"ph"で綴りたいが、一般的には"Necrofantasia"と"f"で綴られる。
それは前のボスキャラテーマ"Necro-Fantasy"の文字列の影響かもしれないが、あるいはもしZUN氏公式見解というなら、これに従わねばならないのであろう。


2014年11月11日火曜日

最近の片手なべ料理


10月31日 普通のラーメン+具材

食材 即席ラーメンと卵1つと豚肉・もやし
調理の流れは説明を割愛。




11月10日 思いつきチーズリゾット(おかゆって言えばいいじゃない!)

俺の部屋の食材 
・9日に炊いたご飯(適量) ・ハーフベーコン(2枚)
キッチンより調達
・味噌(適量) ・鰹節(適量) ・料理用の溶けることが売りのチーズ(適量) ・お好みの調味料(適当に選んでガラムマサラが気付けば俺の手に・・・)

簡単に手順の説明 - 適度、適量、フィーリング。
1.ベーコンを適度に切って焼く。 2.ベーコンを引き上げたら水を張り加熱して、温まったところでご飯を投入。 3.茹で続けてある程度ほぐれてきたら、味噌や鰹節を投入。 4.丁度いい味わいを見極めたら、チーズを投入する。 5.ベーコンを飾って完成。

作るも食べるも一緒だよ、の精神で片手なべのまま頂いてください。

食べ終わった感想「チーズが足りないね。チーズのとろける感じを楽しみたいならもっと入れれば、太ることを気にせず『これでもか!』とばかりにぶち込んでしまおう。あと、冷凍食品のブロッコリーの存在を思い出してしまったが、これは使うべきだった。色どりって奴ね。それと、調理中からの疑問で、トマトケチャップとか入れてもいいんじゃないかという気がした。」



食後の一品「自分で剥ききったリンゴ」
感想「甘くておいしかったよ。でも、一人で1個を短時間で食べきったから途中でウンザリしてきたよ。それと、動画撮影中に残ってたリンゴはすぐに酸化で変色し始めたね。」
実際に食した動画 http://www.youtube.com/watch?v=t-xsnPI528g

2014年11月10日月曜日

苦手な菓子についての見解

食料の供給は母親の週1~2の買出しに一任している、と言いたいのだが、飲み物など足りない気分を補う場合は自分で自販機に赴く。
それで今部屋にある菓子といえば、数週間前の親の買い物から残ってるガムと、1週間前の清涼菓子と名称の欄に記入されてるものである。
私が苦手とする菓子は「飴やガムなど」と認知しているが、清涼菓子の類いは、この「など」に含まれているものの、適切に言い表せずにいた。
そこで好きな菓子と苦手な菓子の法則を見出すことにした。

好きな菓子は、真っ先に浮かぶのがチョコレートの系統のもの("系統"であるから、板チョコなどはこの限りでない)、続いて色々。
またも「色々」などという曖昧な表現でつかえる。
苦手な菓子といえば上記の通りになる。


思索の結果、好きな菓子は「何かしら飲み物に合うもの」と断定した。
苦手な菓子はそれに反するものである。

チョコレート系はじめ、好きな菓子といえば牛乳や紅茶に緑茶、コーヒー、場合によって炭酸飲料に合う事がある。
緑茶は和菓子で、炭酸飲料はポテトチップス系のスナック菓子を指す。

苦手な菓子は上に挙げている飴やガム、清涼菓子など飲み物と一緒に食べることは想定されていないし、俺としても口に合わない感想を持つはずだ。
個別に非を挙げれば、飴やガムは長時間口に残して、溶かすなり噛むなりを意図しているわけで、俺はその味が長く残ることに不快感があるのだろう。
この故に飲み物で流したい考えを持ったのだろう(飲み物の味は良しと出来る)。
残る味に歯が溶けそうな感覚が不安のようだ。

だからといって、特にガムのほか「清涼菓子」などで多く使われるミント系の味も好まない。
あの味が舌に残るとしばらく何も食べたくなくなるが、その故に歯磨き粉などに使われる面もあろう、夕食後に歯を磨いてすぐ食べだしてしまうことを防ぐなど。
もちろん、歯磨き粉はガムと同様「口に残る」ような味わいを排除すべく、ミントが使われることこそ目的と見られる。

また、それらの一部で甘味料を主体とした甘みも苦手か。
これは一部炭酸飲料にも合致するが、やっぱり飲み物は別腹(別舌)っぽい。
甘味料といっても多種あるが、例えばガムには多くキシリトールが配合され、飲み物(炭酸飲料等)では・・・検索。
口に残りやすい甘味料というのは、とある炭酸飲料に多く使われ、夜飲んで朝起きても舌に残っているものだ(甘い夢が見られそう!?)。


もう一度結果に振り返れば、菓子は飲み物で流したいという願望があるのだろう。

2014年11月9日日曜日

身辺の事象を文学調に綴る秘術

以前は、身近なことを歌に詠んでみせようという記事を書いた。
今回の試みに従い、以下で、およそ1時間前=11月9日4時前の一件を表す。


「琥珀色の液体が杯に注がれた。芳醇な香りは俺の周囲に漂う。口を付け、一気に呷る。舌から喉へ、液体だというのに焼けるような刺激が迸る。直後、俺が咳き込んだのは言うまでもなかった。一段落した頃合に、空気を貪る。それ以後は喉に痰が絡んだ如くであった。」


ツイッターばりの140文字未満で表すとこうなる。
冒頭の文面は、いつかの「久遠の時」の様相を呈しているか。
「迸る」の意味を、なんとなく誤用している気がしなくもないけどね。

琥珀色で、芳醇な芳香を放ち、それでいて咽喉が焼ける感覚の液体の正体とは?
勿論、17歳たる私はそんな法を破る真似は一切しておらず。
恐ろしや、恐ろしや。


私は数日前より、全部で110話ほどあるが未だ完結しておらず、2年ほど前から更新が止まっている小説を見始めた。
膨大な話数のみならず、1話あたり平均15,000文字あると見られ、文字数のカウントをすれば20,000を超す話もある。
これが更新分では110話ほどあるというのに、未だ完結に遠いのだから驚きだ。
近年は、ネットで長期間活動していて途絶え、何も告げぬまま失踪する者も相次いでいるので、この作者はもう帰って来ないかもしれない。
足跡を辿れば、1年半まで自前のBBS上にて書き込みや応援メッセージ等への返答はしていたようだが、それも音沙汰なし。
この状況とこのネットご時世も相俟って、復帰を期待することは、私にはできない。
それでも一通り読んでみたい欲は沸いているのである。

この小説を読破するのも勉強の一環にあるが、これに疑問が沸く者もいるだろう。
小説を読む程度なら確かに、多くの人間に出来るだろうが、まずこの長い小説を面白くとも退屈であろうとも読みきるという精神訓練、続いて難解な語句の頻発にも検索という対処法を用いて解決させ、語義を頭に叩き込む。
これで十分に勉強や訓練となりうるのだ。
特に私には丁度いい。
成果は今のところ、己の知る内にて実感できている。

精神訓練というのは、身を削る難点もある。
視力が著しく落ちたり、ページ画面を睨むわけだから色が目に焼き付く。

反面、言語的な部分は向上が期待できる。
難解語句や言い回し、表現など未知のものから、既知ながら忘れかけていたものまで網羅されているので、いずれも俺の脳の活性化に繋がる。
普通の人ならばこれに至らず、漠然と読むに終始するか。

ただ、前の記事にも書いた通り、疲れてる俺がこれをやってもあまり頭に入らないのではないかという疑念もあるし、疲労に拍車をかける弊害となれば問題だ。
俺はずっと迷いがある。一日くらい休息を得てもいいとね。
昨日も小説を読む以外に絵を多めに描いたりした。
この文章を猛烈なスピードで打ってる今、両腕に疲れがのしかかる。
座り続けでケツがぁ、食事後の胸焼けまで襲い掛かる(いつものこと)。
斯くしてこの文章は4時50分頃から5時半過ぎに書き終えた。



オマケの追記だけど、その私が読んでる小説で面白いところを特筆すれば、性的な描写や情景と、キャラ外見を表す記述の性的誇張が一切ないところだね。
キャラ間の恋愛感情の類の描写も見られない。
一部キャラの回想に故人のキスや、歓楽街で水商売の客引きシーンとかがあるくらいだ。
女性キャラの美しい容姿を表す際も、髪型と髪色や瞳の色、服装などに留める。
性的暴力や誘惑だとか、風呂系とか、夜這いっぽいのとかは有り得ない至って硬派な文学って感じがある。エロは棲み分けてる?
近年の作品なら概してえっちぃのがあるし、いわばお色気あって然りなわけだから、そんな「工口なくして人気なし」を謳う作品達とはまた一線を画する。
そんなどうでもいいことに着目するというのがねぇ。

もう一点は、長いゆえかは知らんが、誤用や誤字や誤変換の散見で、これを見出して脳内で照らし合わせるのも勉強の一環になってると思った。
俺って捻くれてるのかね、普通の評価してないよね。。。きっと。

2014年11月6日木曜日

勉強のしすぎが災いして目の充血が酷い

最近疲れているのか、頭が冴えないという意識ばかり俺を苛んでいた。
この5日ほどは自身の能力への懐疑や、ひいては多くのことにも悲観視気味でいた。
1日くらいのんびりしてもいいと慰めたかった。

右目が痛む。PC生活なんて長年の慣れっこではないのか?
この頃は勉強に没頭していたのかもしれない。
やはり焦燥感があったのか、思いつめていたのかもしれない。
休みを適度に挟むべきだとなんども呵責していたのに、体は言うことを聞かない。
休息こそが怠慢で、休息こそが遅滞なのだとばかりであった。

俺はやはり働きすぎるきらいがある。
真面目に勉強を頑張りすぎていた。
この、高度日本語や英語などの言語、その他さまざまなこと。
1日でも休みを挟むことが著しい減速たりえるのではないかとは杞憂なのだろうか?

逆に勉強しても言葉が頭に入らなくなってきてるのは、食生活が悪いのか就寝時間が乱れてるのか、はたまた頭の使いすぎによる疲弊なのか?精神衛生か?
睡眠時間であれば、7~10時間ほどの適量を取っている。
就寝時間の乱れとは、寝始めるタイミングと、その規則性の維持である。
例えば、毎日夜10時に寝てるよ~とかが好ましいという意味である。
1ヶ月という、長くも短い時間を見晴らせば、私は朝であれ昼であれ夜であれ夜中であれ、寝ている場合がある、それを乱れと呼ぶ。
私の就寝とは、規則性を問う必要がなかったり、尚且つその時次第で順応させねばならないため、寧ろ規則性を廃す、撤廃させる方が生活体系に適合しているのだ。
いつ寝るかどうかっていう問題は、別に今に始まらず数年以上前からこうだろうけど。

目の話だが、もともと充血の傾向にあったのだが、やはりもう少し労わらねば。
もとあった憂いと、今の状態の相乗効果で、不安が膨れ上がった気がする。

2014年11月5日水曜日

宗教の教えを基盤に確立する組織

大きな主題には、大前提を説く者がおり、更にそこで肯定的・否定的な意見が衝突する。
これは宗教の大教祖が究極の教えを説いて、それを学んだ・惹かれた後世の人間が細かい解釈を見出すのだが、更にそこでその解釈に賛同する者から、反発する者もいるのだ。
要するに、この原則にのっとりたい。
今日の日本でも宗教と異なる主題において、多くはネット上では音楽にしても何かの作品にしても、細かい階層のなかで派閥が形成されており、それぞれの主張が唱えられている。
ネットのあたかも誤りが正しいかのような強弁が散見されていて、そんな中で真理を見出した私が道理を尽くしての教えを確立したいのだ。

と書いておいたが、何の教えを確立させたいかといえば、ある事象についてだ。
不肖横野真史、齢十七の若くて青い獅子である。眠れる獅子、獅子奮迅。
あるお偉い方は19歳に修行を始め、四十余年の説法を経てより究極の教えを説いた。
17で探し始めるならば前途有望であろうか。
青いとかって書いたけど、好きな色は赤と黒である。

邪見の卑しい者達の我見が跳梁跋扈しており、それは短絡的であった。
今の私はまだ勉強が足りない身であるが、道理を尽くして説き伏せられる。

回りくどかった。ある事象とは、同一視されがちな「ニート」の存在である。
私は17歳ニートにして引きこもりだが、研鑽の邁進を怠らない。
私のように若いニートたちが今も日本のどこかで苦しみ悶えながらも学んでいるのだ。

ニートは概して無気力であるとか、バカであるとか、他にあたかも主体性がない人間のように例えられたり、斯様な讒言が蔓延しているものの、反面私のように精神的・金銭的な協力者や支援者なく、ただネットなど最低限の勉強道具のみの状況下で、細い生命線で、崖っぷちの研鑽を続ける者もいるのだ。
云わば慢性的に無気力だとかの讒言はオールドタイプで、以前も書いた「私の定義におけるネイティブニート」では合致しないし、あまり一括りに容易な評価は避けるべきだ。
当事者を騙るか、あるいは当事者だとしてもニートの全てがそうであるとか、ニート歴が長いと一様にこうなるとか、それはその人がただそういう人間なだけである。
私にも一時的に無気力気味な時代があったが、2013年から正義(しょうぎ)に目覚めた。
また、私のような正しい道を行く者を私は増やしたい。
同志の存在を確認しあって、共に自信を持って邁進できるようなネットを築きたい。

某寮だとか職業訓練校だとか更生施設だとかは、社会通念に準じたばかりの画一的人生を与えるに過ぎない。
私のように数々の不条理や不遇を受けて生きながらえた若き者には不要なので、ネットがあるならば情報の取捨選択、慧眼で見抜いて邪念を振り払い、須く研鑽に邁進すべし。
道筋は、学問でも絵や音楽のような芸術でもなんでもよい。
各々の価値・魅力・個性を醸成し得るものを自身の趣向に適うものを選べばいい。
私の母親は未だに画一的人生を望もうとするが、それなら幼い頃からその線を徹底すればよかったのに、との一言に尽きる。
私は頭が良い上で主体性を持ち、邪見を払い除けることはできるが、上の弟は私と同じ中卒無職でも、生き方から育ち方が大きく異なるため、同種のものではない。

まあこの話は置いてね、新たに正しい教えを説きながら、邪義を唱え流布するネットの愚者を徹底的に諫めて破すことは、あたかも宗教の成立(立教)や宗派の分裂(分派)のようである。
宗教について学んでいると、様々な事象が宗教に当てはまっているように思う。
また、正しい教えを説くと怨嫉が巻き起こるという仏法の定理を忘れてはならない。
第六天の魔王や三類の強敵だとかのあたりである。
私の思想の台頭以前から悪鬼の跋扈が起きているのは何故か?

ひとまず、「ニート研鑽連盟」だか"Neet Educational Association"だか、何かしら命名?
準ずることは、教義理念の固持であり、平易でシンプルに表すべきで「一に誤った認識を正すこと、二に研鑽に努めること」などであろうか。
思想体系は「ニート化の奨励や助長ではなく、私のような状況に陥り普通の道が難儀な同志の苦しみの心を済度し、学問や芸術の道を共に研鑽して開花させようという現代的ネット組織」とする。
教義や教団の確立、そして教祖とは威厳や偉大さが見えるものだ。
私はそんな歴史上のあらゆる教祖たちと肩を並べるか、今後数十年だけでもそんな風格やカリスマ性を維持できるだろうか。
この事象は現代日本社会ほど狭い範囲にしか適用されないだろう。
故にそんな短期間でも割と長いはずだ。
そんな人間たりえる素質を持っているか。



※いつもだと寝る時間に半ば混迷状態でこの文章を書いてて、雑多になった気がする。
今日も魔の障りで、やろうとしてた目的を捨ててしまいかけたが、典型的な天魔か強敵などが修行を妨げるために誑かしてきたに過ぎないので、眼中に置いてはいけない。

2014年11月3日月曜日

謙遜と嫌味の区別 - 自己紹介で自分を謙る表現の御法度

自虐のつもりが、不特定多数への中傷になりえる。

自分を謙って「○○しない××な人間」や「○○だから××」と言うことは、一見謙虚のようだが、そういう表現の仕方は、同じ「○○しない人」や「○○な人」も、「××」へ一緒くたに該当させるので、私は控えるようにしているか、そういう表現を見たときはいい気分がしない。
自分が思っている範囲外に、不快感を与えていることには気付けない。
俺が読者を不快にさせたい時に意図して変なことを書くことはあっても、このようなことは有り得ない。

他に、「私は△△が下手です」と言ってる割に上手だったり、「私は△△に関して弱いです」と言ってる割に強いというのも、自虐のつもりが、多くの人に対する自惚れ表現になってる。
平易に言い返せば「お前より上手いやつなんて逆に少ないぞ」ということだ。
そんな人が能力の謙遜をしても、嫌味にしか聞こえないだろう。
「自分なんて大したことない」と容易に自己評価することが、かえって反感をかうだろう。

前1例を言い換えれば、その自虐が相手に向けられた際、分かりやすくなるということだ。
例えば「お前は○○しない××なヤツなんだ」や、「あんたって○○だからいつまでも××なんだ」のように書いてみれば、あたかも人格否定のような罵言となるのだ。
これで分かるとおり、あまり安易な自虐は止すべきだろう。
何であれ〇〇と××に、本質的な因果関係は無いし、科学的な証明ができないにもかかわらず、言葉を用いる当人の価値観で勝手に因果関係が断定されている。

それら2例の自虐表現を用いる人間は、この点の他にも、相手に不快感を与える表現を、知らず知らずの内に平然と用いることが多いため、諸君も言葉遣いに注意を払うべきだ。
自分を謙って紹介する場合は、特に前1例のように何かの要因を絡めた上で「自分はダメな人間性の状態」、のような表現を避けるべきである。
特に見ている誰かを傷つけるかどうかは、臨機応変に考えて言葉を選ぶ必要がある。
発言者がどんな人間であれ、私の感情としてそれらの表現は全てが一様に腹立たしい。
以上、17歳自称言語学者。

慇懃無礼 へりくだる 嫌悪感 表裏一体 紙一重 真理 自覚 日本語 レッテル貼り 短絡的



以下、後日追記となる。
例えば筆者、横野真史は「17歳・中卒・B型埼玉生まれニート(あとハゲあり)」である。
ここからストレートに表現する。
「17歳の若造ですが~若輩ですが~」あたりはよくあるへりくだり方だとしても、「17歳中卒のバカで~す」とか「B型だからだらしない奴です」とか「埼玉生まれでダサくてゴメンね」とか「ニートでどうしようもないんです」などと自ら口に出すことなどは考えもしない。
このような自己紹介の仕方は、へりくだることで自分への評価を上げるどころか、頭の悪さを露見させ、かえって評価を素で落としかねない。
また、B型以外の血液型の人が自分の非を並べて「B型っぽい○型」等と言うことも、学生やフリーターなどニートでない人がニートを自称して「ニートのような怠け者」だとかと自己紹介することも同様に、見識ある人間からは嫌悪を蒙るのみである。
単に発言者自身が背負っている汚点を、別の概念に転嫁しないでほしい。

「17歳=若い≒未熟」、ということはよくある口上で通るとしても、それ以後の肩書き群がそのまま諸々のマイナス評価に繋がるなら、偏狭な感情に起因するものであろう。
上記のような「○○=××」も「非○○=××」という等号不等号の図式は必ずしも成立しない。
風評の一元で物事を捉える人が特にその状況に置かれて、そういう自己紹介をするということが多いようであるから、それらのサイト(SNSなど)に入り込む気は起きないものである。
ただ、たまたま虎穴に入って虎の子を得たように、こういった記事を作られる。

2014年11月1日土曜日

険悪な会話に倦厭する俺。

今日は昼頃に宅配便の人が来たようだが、どうも母親は出ずに弟が代わりに対応したところ「ママはトイレ」などのことを言って追い払ったようだ。
これに対し母親は「そんなことを言うな」「普通に受け取ればいい」「私がいなくても受け取ることは出来る」と激怒した。なんか最近も前例があった気がするけど。

夕方に、追い返された配達が改めて来て、母親は応対の開口一番に「すみません」などの詫びをこめていた。
その後、また別のものが届いて母親は弟に対応の練習をさせたのだが、弟は混乱してしまい、かなり焦って業者到着~応対・受け取りまでに2分ほどかかってしまった。
応対までは、母親が弟へ応対の催促をする大声と、恐れてパニックに陥る弟の大声で阿鼻叫喚そのものであった。

こんなことなので今日は母親は機嫌が悪いのか、18時をまわったころ、弟の別件(干していた洗濯物のこと)でまたもキレて叱っていた。
その数十分前も別件でキレていたような。。。

こんな険悪で、殺伐とした会話をひっきりなしに聴かされていい気はしない。
そう思う俺であった。


弟=知的障害持ちで現在中学2年生。
思えば、俺も小3くらいの頃に同じようなことがあった気がする。
母親が風呂に入っている旨を伝えて、相手を追い払ったとかね。

今日はこのこともあって、母親が俺に「私や弟の代わりに出てもらえないか」という風に聞いてきたが、当然俺が対面とか弟とは違う理由で嫌なので断った。
2度聞いてきたが、2度とも断った。
同じような聞きかたじゃ変わらないよ。
例えば「誰も出られなければ、母親はネットショッピングが出来なくなる」、「誰も出られなければ、母親はずっと再就職できない」などの理由を付け足してくれれば、もう少し考えるんだけど。


ちなみに、配達物のひとつは、みかんである。
19時前にダンボールを開封したようだが、19時過ぎみかんを食べ始める前からまた争い始めたので、会話内容を書き起こす。

弟「お母さんの友達をねぇ、殺すことを考えた!」
中略
母「お母さんの友達だとかそんなことはどうでもいい!みかんをおいしく食べたい!休ませて!」

「ママに友達なんているわけないじゃない」というネタの絵を、10月30日描いた矢先に、また弟は「お母さんの友達」云々と喚いた。
母親も、最初からおりもしない「友達」について触れられて、複雑な気持ちが・・・というか、母親の感情になんの繊細さもないしそれは有り得ないか。
友達なんていない、という私の意見の記事は本家ブログにもある。
http://masashi.doorblog.jp/archives/40201560.html

誰にでも友達はいるわけじゃないし、弟にとっては「特別支援学級の子はみんな友達」なのだろうが、放課後や休日に互いの家に招いて遊ぶような友達を俺は見たことがない。
また、10月30日に描いたとする絵は、またの機会に本家で載せるだろう。

11月18日の記事に載せた→http://masashi.doorblog.jp/archives/41358141.html