2018年4月20日金曜日

キリスト教の縁起観 (一神教聖書と仏教経典の創造論・起源説を中心に)

当記事は2018年2月10日に投稿された記事の一部分を基に、再構成して投稿する。

まず、簡潔に「縁起」の語義釈…。
「縁起」とも「因縁生」とも表現される概念の名称は、梵語: pratītya-samutpādaの漢訳表現である。
pratītyaについて、「縁」とも「因縁」ともいうが、漢訳経典における新訳と旧訳(くやく)との差である。
旧訳経典では、因縁という漢訳語が、単に"pratītya"部分を指すのみならず、別の用語である"hetu-pratyaya (因と縁=異なる概念どうしの並列複合語)"を指すこともある。
そのため、新訳経典では、混同を避ける意図もあって"pratītiya"を、単に「縁」と表現するようになったろう。
samutpādaについて、これはsam-ut-√padという3つの形態素を示し得るような「生じること=発生・生起」という意味があり、「縁"pratītya"」に接続して名詞-動詞由来名詞の複合語(従属複合語・格限定複合語・依士釈 tatpurusha)を形成するので、「縁起」とも「因縁生」ともいう。

ともあれ、筆者の方針では、「縁起・因縁生」という2種類の表現を、同義語として用いる。
「十二支縁起(支"aṅga"込みの表現)・十二因縁(旧訳の表現)」も同義語として用いるが、「縁起・因縁生」に対する「因縁」は別概念として、明確に使い分ける。

「縁起・因縁生」ということは、本文を読む中で次第に理解されると思うが、別途、詳しく知りたい人は、Googleで検索したり、Wikipediaや辞書系サイトをご覧になるとよかろう。
または、パーリ語経典や中論の翻訳・解説などが、確かな聖典を頼りにする手段としてよかろう。
ページ「リンク集・智慧の聖典」に、良質・適切なサイトが載る。
http://lesbophilia.blogspot.com/p/blog-page_6.html

以下から、当該過去記事の文章を、本記事の為に改良して掲載する。
当該過去記事においては、引用領域"quotation"内の注釈が長いものでも徹底して載せられていたが、ここでは主要な説明文として扱う。





キリスト教の神"the God"は、「形式的な多神=心の所造・所変(心によって作られた・変えられた)=被造物"creature"(仏教でいう有為法 saṃskṛta)」ではなく、「創造神・絶対的な創造主・造物主"creator (作者 kartṛ)"」である。
換言すれば、心そのもの=能造・能変なるものこそ、永遠不滅・絶対なるものとして示される。
※つまり、能造・能変なるものは心・神であり、大乗仏教でいう三身の「報身」や、唯識派でいう「三ある能変の識=意識・末那識・阿頼耶識」となる。心・神が永遠不滅・絶対なるものとして、大乗仏教でいう三身の「法身」や、中国・日本宗派(主に天台宗・日蓮正宗系)でいう「第九識・阿摩羅識(唯識派の流れを汲む法相宗では阿頼耶識が清浄になった大円鏡智を指す)」である。三身でいえば、法身・報身の意義を兼ねて「境智冥合」でもある。三身のうちの応身は、所造・所変なる心の外境(げきょう)・神の被造物となる。三身一体の教義では外境・虚妄の有為法が真理の具現として仏に等しく、三位一体のキリスト教(主に西方系)でも人の子イエス・キリストの出現によって被造物たる人間の原罪(後述)が無くなったとする。
中論の観四諦品・華厳経の唯心偈などのように「因縁生・縁起・空・唯心(物心一如・融通としての唯心義)」の意義に通じる。

以下に、聖書および仏典の該当する記述をまとめて載せよう。

まずは聖書!!
ヨハネによる福音書"John"1章1-3節 (latin): 1 Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος. 2 Οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν Θεόν. 3 πάντα δι' αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὃ γέγονεν. 「1 原初において言(ことば・ことだま)"the word"があった。言は神"God"と共にあった。言は神であった"la: Deus erat Verbum"。 2 これ(=言 男性代名詞Λόγοςに対応 la: hoc中性代名詞)は原初において神と共にあった。 3 万事万物万象は"All things, la: omnia"それ(=言)によって"by him, la: per ipsum"造られたもの"la: facta (omniaと同じく中性複数形主格)"である。それ無きところでは被造物も何一つとして造られなかった"la: factum est nihil quod factum est"。」
※ラテン語で、3節の「被造物」は"facta, factum"とあるが、ギリシャ語では"γέ = ge"の文字列の語彙となっており、創世記"γένεσις, genesis"に関連付けられる。gen, 生命ということはすなわち神の所行であるから、所行=所生=所造=被造物とラテン語訳者が理解したろう。

ローマ人へのパウロ書"Romans"1章20-25節 (latin): 20 τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτοῦ ἀπὸ κτίσεως κόσμου τοῖς ποιήμασι νοούμενα καθορᾶται, ἥ τε ἀΐδιος αὐτοῦ δύναμις καὶ θειότης, εἰς τὸ εἶναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους... 「不可視なるもの"invisible"すなわち永遠の力"eternal power"と神性"divinity"とは、天地創造"creation la: creatura"以来、被造物"creature, things that are made, la: facta"において知られる。(それを否定したがる)彼らは弁解し得ない…」 (後略・21-25節)
※ラテン語で、20節の「被造物」は"facta"とあるが、25節や8:19-22節などのものは"creaturae"系(格変化を伴う)であった。"creātūra (教会: クレアトゥラ 古典: クレアートゥーラ)"は「創造すること」という行為そのものと「創造された物」という受動的なものといった、どちらの意味にもなる。精神作用とその対象とを包含する「三萌義」に似る。主な見分けは、単数形"singular"と複数形"plural"との差に見出せる。ちなみに、古代ギリシャ語で「kから始まる創造者・被造物にあたる語」は、同ローマ書より復元すると"κτίστης, κτίσις"である。

しばし注釈

原初とか天地創造とかといった表現は、仏教の因縁法・十二因縁(十二支縁起)だと無始無終に当たろう。
その場合、神・テオス"Θεὸς"は無明・行・識に当たり、言・ロゴス"Λόγος"は以後の有(概念や言語表現)までに当たる(残る生・老死は一切の被造物か)。
より踏み込むと、能造の神と所造の言とが融通しているといえる。
キリスト教の一神論は、仏教の十二因縁と比べて説明不足であるが、要旨は仏教のように「一切は因縁によって生じる」ということとなる(定冠詞を伴った"ὁ Λόγος, the Word"は別に検証の余地があるが、それは記事の話題を外れる)。


Γένεσις (Genesis - chapter 1)
1:24 Καὶ εἶπεν ὁ Θεός· ἐξαγαγέτω ἡ γῆ ψυχὴν ζῶσαν κατὰ γένος, τετράποδα καὶ ἑρπετὰ καὶ θηρία τῆς γῆς κατὰ γένος. καὶ ἐγένετο οὕτως. 1:25 καὶ ἐποίησεν ὁ Θεὸς τὰ θηρία τῆς γῆς κατὰ γένος, καὶ τὰ κτήνη κατὰ γένος αὐτῶν καὶ πάντα τὰ ἑρπετὰ τῆς γῆς κατὰ γένος αὐτῶν. καὶ εἶδεν ὁ Θεός, ὅτι καλά. 1:26 καὶ εἶπεν ὁ Θεός· ποιήσωμεν ἄνθρωπον κατ᾿ εἰκόνα ἡμετέραν καὶ καθ᾿ ὁμοίωσιν, καὶ ἀρχέτωσαν τῶν ἰχθύων τῆς θαλάσσης καὶ τῶν πετεινῶν τοῦ οὐρανοῦ καὶ τῶν κτηνῶν καὶ πάσης τῆς γῆς καὶ πάντων τῶν ἑρπετῶν τῶν ἑρπόντων ἐπὶ γῆς γῆς. 1:27 καὶ ἐποίησεν ὁ Θεὸς τὸν ἄνθρωπον, κατ᾿ εἰκόνα Θεοῦ ἐποίησεν αὐτόν, ἄρσεν καὶ θῆλυ ἐποίησεν αὐτούς.


Aggaññasutta (パーリ仏典。某・英訳は"A Book of Genesis"と銘打つ)
2. Rasapa­tha­vi­pātu­bhāva - Ekodakībhūtaṃ kho pana, vāseṭṭha, tena samayena hoti andhakāro andha­kā­ra­timisā. Na candimasūriyā paññāyanti, na nakkhattāni tārakarūpāni paññāyanti, na rattindivā paññāyanti, na māsaḍḍhamāsā paññāyanti, na utusaṃvaccharā paññāyanti, na itthipumā paññāyanti, sattā sattātveva saṅkhyaṃ gacchanti.

「ヨハネ1:2 言は神と共にあった」という元ネタは旧約聖書の創世記"Genesis"に看取される(言・ロゴスは文字通りに載らないが要旨は看取されるということ)。
創世記1~3章の創造神話も、概念・事物の認識に基づく心の作用という描写として解釈し得る。
例として天地や植物などを次第に造るが、これは創世記が説かれる対象の人々の納得しやすいものを挙げた結果と思われる。
人間は物心のついた時から既に認識されない万物が有って後に名前も付随し、それらを知った時には全て名前ある事物が想起され得るから、創世記の説は科学的原因や人類史における言語の発生や個人の人生における五蘊のプロセスといった実質的なものを飛ばした上での縁起が示されている。
普通に読解すると、肉体ある人間よりも先に家畜という属性を持つ動物"κτήνη (複数形クテーネー 単クテーノス)"が生じる (1:25, ヘブライ語ではהַבְּהֵמָה֙) など荒唐無稽・眉唾話のようだが、だからこそ心の真実を示そうとした譬喩と解釈し得る。
パーリ仏典アッガンニャ経"Aggañña Sutta"(漢訳は長阿含の小縁経など4つあり梵文はAgrajña Sūtra)では、無始以来の生滅を繰り返す世の起源ごとに光音天より来た"sattā (複数形)"=人々・衆生がいて「"sattā"という唯一の名称"saṅkhya"(名・呼称は事物の認識の概念より生ずるもの)があった」と説かれるが、これも個人の一生・因縁観(縁起観)に基づいている側面を見受ける。
後の話も、どちらも神や衆生が名によって事物を分別したことが明示されるという共通点がある。



Γένεσις (Genesis - chapter 3)
3:5 ᾔδει γὰρ ὁ Θεός, ὅτι ᾗ ἂν ἡμέρᾳ φάγητε ἀπ᾿ αὐτοῦ, διανοιχθήσονται ὑμῶν οἱ ὀφθαλμοὶ καὶ ἔσεσθε ὡς θεοί, γινώσκοντες καλὸν καὶ πονηρόν. (中略、καὶ εἶπε Κύριος ὁ Θεὸς τῷ...) 3:16 καὶ τῇ γυναικὶ εἶπε· πληθύνων πληθυνῶ τὰς λύπας σου καὶ τὸν στεναγμόν σου· ἐν λύπαις τέξῃ τέκνα, καὶ πρὸς τὸν ἄνδρα σου ἡ ἀποστροφή σου, καὶ αὐτός σου κυριεύσει. 3:17 τῷ δὲ Ἀδὰμ εἶπεν· ὅτι ἤκουσας τῆς φωνῆς τῆς γυναικός σου καὶ ἔφαγες ἀπὸ τοῦ ξύλου, οὗ ἐνετειλάμην σοι τούτου μόνου μὴ φαγεῖν, ἀπ᾿ αὐτοῦ ἔφαγες, ἐπικατάρατος ἡ γῆ ἐν τοῖς ἔργοις σου· ἐν λύπαις φαγῇ αὐτὴν πάσας τὰς ἡμέρας τῆς ζωῆς σου·

Aggaññasutta (2. Rasapathavipātubhāva - 3. Candimasūriyādipātubhāva)
Atha kho, vāseṭṭha, aññataro satto lolajātiko: ‘ambho, kimevidaṃ bhavissatī’ti rasapathaviṃ aṅguliyā sāyi. Tassa rasapathaviṃ aṅguliyā sāyato acchādesi, taṇhā cassa okkami. Aññepi kho, vāseṭṭha, sattā tassa sattassa diṭṭhānugatiṃ āpajjamānā rasapathaviṃ aṅguliyā sāyiṃsu. Tesaṃ rasapathaviṃ aṅguliyā sāyataṃ acchādesi, taṇhā ca tesaṃ okkami. Atha kho te, vāseṭṭha, sattā rasapathaviṃ hatthehi āluppakārakaṃ upakkamiṃsu paribhuñjituṃ. Yato kho te, vāseṭṭha, sattā rasapathaviṃ hatthehi āluppakārakaṃ upakkamiṃsu paribhuñjituṃ. Atha tesaṃ sattānaṃ sayaṃpabhā antaradhāyi. 

苦の因縁の始まり(縁起)は、共に説かれる。
前者で神の作った男女人が「神より食べるなと命じられた樹の実」を食べて目が見え・善悪(καλὸν καὶ πονηρόν he: טֹ֥וב וָרָֽע׃)の分別が生じたとする(その後は男女人や女を唆したヘビが神の裁きを受けて現世のように不自由な身となる=原罪が与えられる)。
後者で衆生が「"rasapathavī"(現代訳に味土、漢訳経に地味、梵文にpṛthivīrasa、注釈書アッタカターではrasāという神話的な事物の女性名詞と扱って"ラサーという名の大地"とし学者某はrasāがrasaラサ=味・汁という一般名詞の語源であるという趣旨の説と見る。たしかにリグ・ヴェーダでもラサー川というものが出てくるのでそういった民族史の観点でも根拠がある)という色・味・香あるもの」を指で食べて渇愛が生じたとする(その後はrasapathaviを貪って食べ続けると光音天からの性質が失われる)。
いわゆる性悪説のように見えるが、信仰・修行によれば、現世で原罪が赦される・罪業が消滅する。
これらは仮設原罪・仮設罪業であり、一歩進んだ教理で本来は寂滅(本不生)といい、本覚・性善説ともなる(無善無悪・無記・中道、参考: 中論17章・観業品)。
原罪有り・赦し有り、と知ることは人間の特権らしい。
昇天も堕獄も「(ごう・わざ・すること)"karma, opera, work"」に基づくので、一神教は神が人間を作って人間に世界を統治させたとして業の重みを持たせた。
人が自ら堕獄してはならぬように道徳的な教え・戒"pl: sīla"・律法"gr: νόμος"や「愛の実践(隣人愛)」を説いた。

「ヨハネ1:3 彼無きところでは被造物が一つも造られなかった」とは、動物や他人の心の因縁が自身には感受されない・量りようもないという意義を示す。
動物や他人の肉体に心の因縁が無ければ、彼らにとっての心の被造物=概念や感情などが造られるといえない。
例えば、「他人が自分を恨んでいるor好いている」とかという詮索は実証されず(もし科学的に脳波を分析してデータに出しても信用するかは当人次第)、たまたま世俗においてそう看取し得るのみ。
因縁の法を知るならば、畢竟、自己の信仰や修行が大事であろうという。
同時に、現世の方便として他者との論議や他者への尊重がある。
更に、仏・菩薩や宗教家は、自己の信仰や修行を超えて他者へ積極的な教化をするので、他者から見て尊い。
他者の心=神性は量りようもないが、しかも心=神性を尊重して自他ともに神の救いを得させる者がイエス・キリストであり、自他ともに心の因縁や多神教の神・梵天や色界禅などを超越した悟りを得させる者が釈迦牟尼仏である。

心=神性"divinitas, divinitās"、心=無明即法性"dharmatā"・仏性"buddhatā"。
個人の心の神性・因縁法を過去のキリスト教団・正統派の中で説けば異端視されてしまう。
部派仏教に対する大乗仏教のように「秘密の教え・内証の理」となる。
みだりに説けば多くの人の信仰を破る恐れがあるし、自己の心が解脱しないうちは言葉に心が蔽われて自ら解脱や昇天を妨げる。
古代・旧約聖書の時代から、あえて説かれない心の真実は、賢人たちの内に知られていたろうが、みな釈尊の悟り(無上覚)には及ばなかったろうか。



次に仏典!!
中論・(24章)観四諦品18-19偈「もろもろの因縁の(=が・主語の助詞)法を生ずれば(生じるので)、我(龍樹菩薩)は『即ちこれ無(空性"śūnyatā")なり』と説く。また『これ仮名なり』と為し、またこれ中道の義なり。未だ曽て一法として因縁より生ぜざるは有らず。是の故に一切法は、是の空ならざる者無し。(衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義 未曾有一法 不從因縁生 是故一切法 無不是空者 yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe | sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā || apratītya samutpanno dharmaḥ kaścin na vidyate | yasmāt tasmād aśūnyo hi dharmaḥ kaścin na vidyate ||)」 
※一神教における神とは、空・心の因縁の異名であって仮名(けみょう)であり、創世記などでは人格があるように描かれているが、それも仮説的・比喩的なものと解釈し得る。実際、心の業(意業)ということは擬人化できるので、仮に人格を与えられるが、信仰の究極において真実はそうでないと知られよう。

十地経・第六・現前地(or十住経、のち華厳経に十地品として収められる)「三界に有らゆるは唯だこれ一心のみなり。如来ここに於いて分別して十二有支を演説したまうも、みな一心に依る。(三界所有、唯是一心。如來、於此、分別演説十二有支(十二因縁)、皆依一心。 tasyaivaṃ bhavanti| cittamātram idaṃ yad idaṃ traidhātukaṃ | yāny api imāni dvādaśabhavāṅgāni tathāgatena prabhedaśo vyākhyātāni tāny api sarvāṇy ekacittasamāśritāni |)」

六十華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品「心は工みなる画師の、種々の五陰を画くが如く、一切の世界の中に、法として造らざるは無し。心の如く仏も亦た爾り。仏の如く衆生も然り。心と仏と及び衆生と、是の三に差別無し。…(心如工畫師 畫種種五陰 一切世界中 無法而不造 如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別 諸佛悉了知 一切從心轉 若能如是解 彼人見眞佛 心亦非是身 身亦非是心 作一切佛事 自在未曾有 若人欲求知 三世一切佛 應當如是觀 心造諸如來)」
※心"citta"を絵師"citta-kāraka"に譬える元ネタはパーリ相応部22-100経や雑阿含267経にあって俱舎論にも"skt: citrakṛtyavat (真諦訳: 譬如畫色與壁 玄奘訳: 如壁持畫)"と紹介される。漢訳経典にある心の原語はcittaだが、類義語に意"manas (パーリ語主格でmano)"があり、そちらが原語の時もある。例えばパーリ語ダンマパダは冒頭の偈に"Manopubbaṅgamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā(漢訳法句経・出曜経: 心為法本心尊心使)"等とあり、心(意"manas")による善因善果・悪因悪果(善悪なんらかの意思・想念によって発言・行動=業があって心が善悪の結果・苦楽を自ら得る)を説く。後の「chāyāva anapāyinī (漢訳法句経・出曜経: 如影隨形)"」という喩えを見ると、心こそが本体であって物質的な物事は本体に従う影でしかないともいえる。一神教は一切法・現象の大局的な本源を神=心に求めても、神は涅槃の如くに苦の報いを受けない点で、因果関係は仏教と似ない。やはり法身・応身としての神が渾然一体らしい。

注釈・妄心と真心との区別

因縁法として心は神と呼べる。
修行の果報としても心は神と呼べる。
因果倶時となろう。
しかし、現世に苦を受ける状態として心は「被造物に付随した抽象的性質に過ぎないもの」となり、聖書で「心"kokoro, cor, καρδία, heart"」というと、ネガティブな文脈に現れる(一例は先のローマ書1:21 ἀσύνετος αὐτῶν καρδία = 無理解な・彼らの・心。"主のみこころ"などという場合の"こころ"は"意思"を意味して原語が"voluntas, θέλημα, will"となる)。
しかも悪魔・サタンの温床とすらなりえる。
「裏切り者のユダ」もまたサタン"Satan, Satanas, σατανᾶς"に入られたと聖書に扱われている(ルカ22:3ヨハネ13:26)。
心は神とするにも、心の在り方や視点によることとなろう。

当の華厳経唯心偈や「心是仏(般舟三昧経)・是心作仏(観無量寿経)」といった言葉の多い大乗仏教でも、やはり「願作心師・不師於心(大乗涅槃経)」や「謂己均仏(摩訶止観)」として心の悪の一面を誡める。
十地経の「唯一心」も、「真心」でなく「妄心(十二因縁の無明に関連するもの)」を示した言葉であり、妄心だからこそ一切の事物が欲望によって不浄に顕現するという誡めを説く。
聖書だとエレミヤ書17:9に心が万事において最も邪悪・欺瞞であって詩編53:1-3に無神論と罪(sin)の関係が言及がされ、マタイ15:19に具体的に「殺人ないし偽証・冒涜といった悪行の根源は心だ(精神"mind"でなく解剖学的な心臓"cardia"を意味するとも当時の科学的見解より考えられる)」とイエスさんが説く。
心には一元性も多面性もあり(しつこく言うが一即多・多即一・無一無多、摩訶止観所説の一心三観の意義に通じる)、十界互具(仏の一界と他の九界の互具、先述の因果倶時)といった呼び方もできる。



以上のように、仏典・聖書の記述より、共通点を示した。
とはいえ、仏教とキリスト教の相違点もまた、数多くある。

教義上、能造たる神(=唯心偈での心など)が、被造物(所造・つくられたもの・有為法)に対して「絶対的相対」となっている点であり、唯識派の教義でも、そういった「能・所を分けること"grāhyagrāhakavikalpa"=能執・所執を分別す」を虚妄分別"abhūtaparikalpa"と呼んでいる(弥勒による頌への世親菩薩による注釈書・中辺分別論"madhyāntavibhāgakārikābhāṣya")。
「能執・所執」とは、執着を行う心(唯識教義では意識・末那識・阿頼耶識という能変3つ)と、執着を受ける事物のことを指すが、ひいては「行為者とその受動的なもの全般=主体・客体」を指すと解釈し得るし、心を観る修行者が修行の過程で「能執たる心を過度に嫌う(または能造たる心を過度に尊ぶ)」といった見解に陥りやすいことを牽制している。
大乗仏教の真理に近い立場では、そういった「能所(=主体・客体=行為者・受者)」に関する分別・差別が許されない。
空の教理に寄せても、「非空・非不空」と何重にも否定して「是名中道義」と、中立性を示す(中論22章・観如来品では空も非空も不可説で青目釈には非空非不空すら「不応説・説くことができない」とする)。
無論、方便"upāyakauśalya"・仮名"prajñaptir upādāya"として、物事における一応の差別・前提的な差別・仮説的な差別を示すことは、釈尊・諸仏の教化において有り得る。



キリスト教の神・唯一神についても、固着した概念・名称としての神を否定せねば、当然、神の真実を見失い、「神という名の無形被造物(虚妄・虚構の神)」を心で拝んでしまう。
それにより、日常生活や宗教行為の多くで顛倒・障碍を生むこととなろう。
その末に、キリスト教の修道の目的を見失う恐れもあり、神・主のみこころに背いて終わる。
無論、方便としては、信仰修道におけるある段階まで、その姿勢でも問題が無かろうが、くれぐれもその姿勢のままに一生を終えてしまわないようにすべきである。

やはり、キリスト教は方便・仮名の意義に欠いてセクト主義的な差別性が強いところに注意すべきである。
それが、日本の文化系学者たち(一部)が「二元論・二項対立(唯物論・唯心論のようなもの)」として忌み嫌うキリスト教の教説で、随所に現れたろう。
キリスト教や同じく一神教のイスラム教の歴史で、顕著に発露し、禍根を残した。
※日本の文化系学者たち(一部)の見解は、彼らの思想に基づいてキリスト教を蔑む意図の主張をしたか、単なる浅学に基づいた偏見だと看取される(彼らもまた二元論者ではないか?真如・空において二元論者は無だが。仏教精神で大事なことは自分の思考や言動を注意して自覚すること)。キリスト教でも、「正しい信心のある人(仏教でいう真面目な修行者・八正道の人)は他者を蔑まない」という一元的立場があり、ルカ18章に譬喩(アヴァダーナ的なもの)を以てイエス・キリストさんが説示する。キリスト教における不戯論・無諍とは、正しい信仰修道の果報であろうから、教祖イエス・キリストは方便において差別的教義を多く用いた。志向された真実は、仏教の教理と同じく無差別平等であろう。「因縁(阿含)・空(般若)・唯心(十地・華厳)」を引き合いに出して先述した。言葉が異なるものの、もし真実を唯一のものとすれば果報もまた同一である。方便・法門は一ならず。aneka, anāna, advaya...

歴史上、キリスト教団・教派は、小乗仏教・説一切有部に対する大乗仏教のような無差別・平等の教理を強調するということが無かった。
イエス・キリストさんも、大乗の目線で見るならば、聖書に伝わるどんな教説・所行であれ、方便であって本当は心が平等のようだったかもしれないが、他人および諸法は憶測・推量に限られる。
※今でこそ、ローマ法王・教皇・フランシスコ1世さんなどが融和的に説教をなさるものの、自分たちの教義は「臭いものに蓋」という扱いをしているような違和感を覚える(和平・平和について積極性があっても"無セクトという名のセクト主義"や"積極的融和姿勢に基づく分離対立"が伴いそう)。異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者などが主にキリスト教では救われないと扱われるが、それは形式的なものから蓋然的に精神性が推定されるのみであると同時に、自分たち信者が現世で信仰を守る方便となる。もし心が正直であれば、異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者も確かに神性=心の真実に通じて救いもあろう、といえる。フランシスコ1世さんはそのことを知ってか知らずか、誰でも救われるという旨を説く。しかし、キリスト教が積極的に、そのヒューマニズム・宗教多元主義的な主張をし続けると、自ら修道の足元を崩す恐れもある。今のカトリック教会に温かい目を向けよう。

私がキリスト教の神やイエス・キリストさんのお振舞を語っても、推量の域を出ない。
誰がどう、聖書の記述に則っても、言葉・言語表現・想像の域を出ない。
いずれも、心の因縁による副産物・所産=被造物・有為法としての神やイエスであり、真実の神やイエスを説くことはできない。
仏教でも、心は実に「不可得・不可説」である、と私が過去記事および「萌えの典籍」に多く綴ってきた。
真実は、信仰や修行が専心された結果に智慧があって柔軟・正直・清浄な心において見られるもの(自我偈・般舟三昧経など)であろう。
しかも、何であれ世俗の事象は「因縁において自分のもの」でしかない(真実においては無我・無我所、無非我・無非我所…だが)。
その点で、他者に説き示すことは、実に困難である。
※先に引用されたローマ1:20節に「不可視なるもの(性質・形容詞→抽象名詞)"ἀόρατα en: invisible la:invisibilia "」とあることも、その「不可得・不可取・不可思議・不可説、言語道断心行処滅」のことを指すかもしれない。「不可視ないし不可得・不可説(=真実)」とは、単に電波やX線のような不可視の物理的存在でもなく、心・精神のような五感(五官)を通して認識されない性質・作用の実体(行動や脳波検査などで推定できることは別問題)でもない。それが一神教の法身的な神性"divinity θειότης (divinitas 法性dharmatā)"や報身的な力(作用)"power δύναμις"である。応身的な神や現世の報いは、創世記などの聖書文面や、現世に顕れた縁起・虚妄(個人の認識を前提とする形而下のもの)となることになるが、法身の神を知る手掛かりとして、信者は尊ぶ必要がある。私による理解は大乗仏教に基づく。なお、ローマ書に偏ってもよくないので、神性という言葉を他に探した。コロサイ書2:9に少し異なるギリシャ語形で"Θεότητος"とあり、神性がキリストの身に充満して宿っており、信者も彼のもとで(ἐν αὐτῷ 所有代名詞・対格)神性が満たされているとし、人間の伝統(世俗の習慣)"παράδοσιν"に基づいた空虚な哲学"φιλοσοφίας"に依るべきでないという。依憑仏説莫信口伝(法華秀句の説だが増支部カーラーマ経はより徹底的で教祖・師匠の説についても形式的な信用を推奨しない)・依法不依人・依義不依語のように。固着化したユダヤ教・バラモン教(祭祀)や、ギリシャ哲学・六師外道といった思想哲学を排斥してキリスト教・仏教の立場が明確に示された。そういった教説は、行者・信者の解脱や昇天のような宗教的目的を達成するために用いられるという前提条件において正論だが、それを知らない人からは「上座部仏教も大乗仏教もキリスト教も教祖権威主義だ」と誤解される。



言語表現への拘泥により、衆生の心の顛倒が直らず、誤解や執着を生じさせて「神という名の無形被造物」・「悟りという名の迷い」が起こる恐れがある。
いわゆる虚無主義や極端な本覚思想が、現代的に槍玉に挙げられる。それも、中論など大乗の進んだ教義の目線からすれば、みな寂滅であって顛倒も執着も真如の無・空となるが、同じく中論(24:11偈・蛇のたとえなど)や大智度論(巻第十八・塩のたとえなど)に説かれるよう、空相を妄取すべきでない。
上座部系の仏教であれ大乗仏教であれキリスト教であれイスラム教であれヒンドゥー教であれ神道であれ、現世の苦の自覚があるか、宗教的な行為(修行・信仰・祭祀・儀礼などの行為全般)に義務感がある場合、自分たちが知り得る教説の如くに行ってゆくことが第一となろう。

奉ぜられるものが「一神・神性」であれ、「真心・仏性」であれ、無常の"anitya"有為法"saṃskṛta"・朽ちる"corruptible la: corruptibilis"被造物"creature la: creatura; factus中性単数factum"に執着すると、苦"duḥkha, angustia"の報い"vipāka; phala, merces"を受け、神や心の真実を見失うという教説は一致する。
各々の教説を信ずれば、各々の教説に相応する果報がある。
その意義を、キリスト教徒も仏教徒も他の宗教信者も無神論者も無宗教・現代日本の一般人も、理解し、各々の目的とする物事を見つめ、見失わず、一生懸命に生きてゆくことが肝要である。



サンスクリット サンスクリット語 聖書 sanskrit bible romans
仏教徒におなじみの用語をサンスクリット版・新約聖書で確認



起草日: 20180110
上記の日付は、元の記事に基づく。
当記事は、その「復習記事」として2018年4月を期して投稿される。

元の記事の末尾では、一神教の神と仏教の縁起観に関する真理の側面を学ぶことができる自作の文章を多く引用して載せてあるので、それについても参照されたい。



さて、今更になるが、当記事や元記事はご覧のように、宗教的目的(昇天・往生・解脱・涅槃・成仏など)を全面に押し出した前提で論が展開されている。
故に、創造神話などを語るにしても、現代の科学的見解や進化論や社会科学的事実をほとんど交えないでおいた。
一神教教義や創造神話を、自然科学的知識や社会科学的事実(=科学的見解全般)に結びつけることを「創造科学"Creation science"」と呼ぶそうである(より原理主義であれば科学的見解を否定して創造神話やモーセやイエスの事跡を実話として強調する場合もある)。

創造科学の説は、現代人の中でも一神教に興味ある人や一神教に理解を持ちたい人を速やかに納得させるための便宜的説明によかろうが、それ以上の価値を私は感じない。
私も、小中学生のころは神話や民間伝承やフィクション作品について事象を科学的見解との融通を図る思考回路があったものの、今はほとんど顧みなくなった。
一神教聖書(タナハ・セプトゥアギンタ・ウルガータ、新旧テスタメント)が「なぜ永く信じられ、なぜ世界に流布したか」という背景からしても、近現代の科学的見解との融通を図るようでは、信仰と布教との時空的根拠の答えが得られない。
ましてや、モーセやダビデやイエスや使徒などに帰せられる一神教聖書の編纂者や説教者の意図よりかけ離れてしまう。

一神教教義や創造神話には、自然科学的知識や社会科学的事実と符合するものとそうでないものとが混在している。
しかし、それも、自然科学的知識や社会科学的事実を知る現代人の知能が結びつけようと試みた結果に過ぎない。
※人間がこの一生で得てきた知識は「畢竟、神のものであり神の思し召しである」という見解によれば、宗教と科学との辻褄を合わせることも、必然的な流れとなるかもしれない。英語"Earth"は元々「地(地の性質)・地面・大地・大陸(ラテン語"terra"は渇いたものという意味に由来する)」を指していたが、現代は"The Earth"として定冠詞を付けられるべきものとして「地球(青と緑の球体・太陽を周る惑星の一つ。ラテン語"terra"は天動説の時代にもThe Worldの意味があったが地球の意味はない)」を指す。定冠詞の無い"Earth"は単なる「地」とも現代の「地球」とも意味が取れるが、古典の英訳などでは当然前者の意味であるが、後者で解釈する人がいる。現代人のアイデンティティや世界観は、自然科学の通説に乗じており、宗教信者もほとんど同じ環境で育ったならば古い言葉にも現代と同じ意味で解釈することがある。
また、創造神話に科学的見解に近似するもの(例1: 神は天地・地における陸と海・植物・動物・人を次第に造った=地球誕生~生物の進化 例2: アダム・エバよりノア・セムに至るまで人類の言語には差別が無く発音も語彙も等しかった=歴史言語学)があったところで牽強付会である。
創造神話と科学的見解との近似があることは、仏典でいう「虫が木材を食い破ってたまたま字になるようなこと(如虫食木偶得成字)」である。
その「木材を食べる虫」は字を書きたかった意図が無いように、モーセやダビデやイエスや十二使徒などに帰せられる一神教聖書の説教者や編纂者は ―私が推し量るべきでないが― 科学的な説教をしたい意図は無かろう(もちろん世の起源を知りたい人へ物質的事実認識に通じそうな便宜的説明をすることで理解を促す意図は有り得る)。
聖書での創造説も仏典での起源説・輪廻転生も、物質的な科学と何ら関係が無いとすれば、それらが進化論・大陸移動説・地動説を否定することも無いし、信者はその信仰と現世的な思考とが相容れないことも無い。

そもそも、どの学問や議論にも言えることとしては、どこにどういう事実があると見出せば論者たちは一喜一憂したり、その事実認識を証拠として論議が繰り返されるのである。
少なくとも、宗教(特に個人の修道の立場)ではそういった世俗的な対立を離れるよう説くと、当記事の本文にも明白に示されていよう(過去記事も参照)。
創造科学などの論議や主張は、どこまで煎じ詰めても「科学における迷信・宗教における迷妄」であり、イエス・キリストさんが有名な「主の祈り」にあたる発言の直後に「盗まれやすい地上よりも天国に財を蓄えよ。2人の主を持つことは誰にもできない、なぜならば心で一方を愛して一方を憎み、行動では一方に親しんで一方を軽んじねばならないから(マタイ6章19-24節より要約、持つこと=心で執着することと解釈し得る。マルコ10章21-25節ルカ18章22-25節には財産に執着する人物を見た上でイエスが金持ちは神の王国に行き難いと説く)」と譬えたように、科学的見解によって宗教説話を神の意思(本文中の"みこころ voluntas, θέλημα, will")に適った実話として信じることはできないし、信仰もまたそのようである。
実話の実話たる所以は、話を聞く者の明かし切れない種々の因縁(本文を参照)による。
信仰者の智慧が浅いとき、二つの理解(二股をするような不純な心)は二重苦として彼を悩ます。
しかし、それは聖者たちが神を知る智慧に依って真に融通することができるし(マルコ10:27ルカ18:27"人にできないことも神にとってはできることだ Τὰ ἀδύνατα παρὰ ἀνθρώποις δυνατὰ παρὰ τῷ Θεῷ ἐστιν."という意味にも通じる)、私であっても聖者たちを通じて「文字上の理解」をし得た。
二つの理解(仏教でいう二諦四悉檀も同様)を兼ね備えながら、二つの心(世俗的理解を妄信する心と世俗的執着を厭離する心)とはならず、そうして聖者は「一意に一心に」現世をお行きになるものである。

創造科学などの論議や主張は無益のようであるが、さすがに現代人に対して一神教教義を納得させる一手段とはなろうから、そういう観点で論議を進めて布教に用いたい人は用いればよい。
人の用いよう(目的性・価値判断)によって「ゴミの山(と既成概念や多数決によって認識されていたもの)も宝の山に変わる道理(新しい価値観や特殊な人物によって逆転すること、真理においては物事の価値は最初から存在しないし最初という点すら存在しない)」はあるから、是非とも、各々が金科玉条のように論や説を用いてほしい。
そういう化他の目的性により、智慧の高い仏・菩薩は論争をしても悪業を積まない(真理においては誰彼が何をする・何をされるといった能動性も受動性も表現されない)。
ただし、世俗に心が繋がれたままの私は常に悪業を積む(悪魔崇拝者のように)。

宗教・科学・哲学(など)の特徴および仏教との共通点・相違点について、過去記事に語ったことがあり、そちらも参考までに読まれたい。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/07/What-Buddhism-is-not.html

2018年4月8日日曜日

日本語の複合語とパーニニ梵語文法との関係 サマーサ"samāsa (六合釈・六合釋)"とは

過去記事「語源考証の試案」の復習を目的に、そこより抜粋したものを校正して投稿する。

別の過去記事にも述べられた、インド言語学由来の「六合釈(ろくがっしゃく 漢音:りくかっしゃく)」による複合語解釈法である。
梵語・サンスクリット文法家パーニニ"Pāṇini"の述作「アシュターディヤーイー"Aṣṭādhyāyī"(および注釈"Kāśikāvṛtti")」に示され、中国・日本では梵語学・悉曇学において伝えられた。
漢語の仏教圏で、梵語訳語としての漢語を理解する際に重宝された解釈法である。

六合釈(六合釋・殺三磨娑)"ṣaṭsamāsa"の6つの用語 (pl=パーリ語名称。パーリ文献のByākaraṇa系の書 - AbhidhānappadīpikāṭīkāBālāvatāraなどによる)
相違釈・相違釋"dvandva pl: dvanda" 連結複合語 Copulative compound (itaretaraという語の場合は並列複合語 Enumerative compound)
依主釈・依主釋(依士釈・依士釋)"tatpuruṣa pl: tappurisa" 限定複合語 Determinative compound
持業釈・持業釋"karmadhāraya pl: kammadhāraya" 同格限定複合語 Appositionally defined compound
帯数釈・帶數釋"dvigu pl: digu" 数限定複合語 Numeral determinative compound
有財釈・有財釋(多財釈・多財釋)"bahuvrīhi pl: bahubbīhi" 所有複合語 Possessive compound
隣近釈・隣近釋"avyayībhāva pl: avyayībhāva" 副詞的複合語(不変化複合語) Adverbial compound
※何らかの日本語や漢語や英語の複合語に当たった際、多様な解釈ができてしまうことがあるので、文脈を検討しながら、この六合釈に則った判断をするとよい。上から順に検討するとよい。日本語では通念上、「山川」は「山と川」=相違釈"dvandva"に解釈し、「山寺」は「山の寺」=依主釈(依士釈)"tatpuruṣa"に解釈する。ギリシャ語由来のラテン語→英語の複合語"philosophy, haemophilia"なども同様に依主釈で、"phil-"の位置が異なっているが、それによって意味が変わることは無い。ギリシャ語系の複合語はphil-とかlog-のような形態素=結合辞"combining form"が各々定式的に位置を占める傾向にある・その例外もある(英語版Wikipedia - Classical compoundにその記述があるが元はConcise Oxford Companion to the English Language 1998からの転載)。

元の記事では、漢文訓読のために日本語において作られた「互い(+に)」を例に取って副詞と動詞由来名詞の複合語だとする説明した。
当記事では、六合釈に基づいた日本語の複合語解釈を語った部分を抜粋し、校正して投稿する。





日本語では、多くの複合語が並列複合語・相違釈"dvandva"や限定複合語・依主釈(依士釈)"tatpuruṣa"に当たる。
その意義は日本語版Wikipedia - 複合語の記事にも、「並列関係」や「従属関係」として載る。
例として、姓名はその極みである。
英語版Wikipedia - dvandvaで「山川"yamakawa"」という複合語を相違釈の例として挙げてあり、「山の川」という意味ならば「やまがわ"yamagawa"」と連濁するが、「山!川!」のような並列関係=対立=平等の状態では、連濁しないことが通常である。
「山と川」という2つの語句が象徴的に風景全般を表すという(いわゆるメトニミー"metonymy"の一種でありシネクドキ"synecdoche"ともいう)。
慣用的に「善悪(ぜんまく、ぜんあく、善と悪"good and evil 英語と同じヘブライ語 ט֖וֹב לָרַ֛ע ギリシャ語 Acc.καλὸν καὶ πονηρόν)」が道徳観念"morality"全般を表すことと似る。

筆者のペンネーム「横野(よこの Yoko-no)」は、依主釈で「横の野・横にある野・よこしまの(邪悪な)野」と解釈できる(姓名に用いられる野字・埜字は語源的に問うと当て字のようであろうが)。
ちなみに、「動詞: 横切る(切るは当て字っぽい)」は「副詞: 横に + 動詞: きる(撥音便省略連濁: ぎる)(よぎる・すぎる・すごすという動詞も似た語源となる)」という複合動詞である。
※「横切る・よぎる・すごす」は五段活用(現代口語)・四段活用(文語・古語)だが、「すぎる」は昔に「すぐ=過ぐ」という終止形を用いたように上一段活用(現代口語)・上二段活用(文語・古語)であるので、同一視できない問題もある。よって、「似た語源」程度の認識でよい。例えば、腕を大きく動かす動詞は、「薙ぐ・殴る」が五段活用であり、「投げる」が下一段活用(現代口語)であることから類比・類推して容認できよう。往古に同根であったかの根拠は、現代の学問で断定できない面がある。「横切る・よぎる・過ごす」及び「過ぎる」は、みな「通過する(英: pass)」という意味のある同根語が想定できると思えばよい。Proto-Japonic verbal root *kiɾ-
サンスクリット・パーリ語の「接頭辞ati (過ぎて) + 動詞語根√i (行く)」は「よぎる・通過する・超過する」という意味の複合動詞であり、ati √iの過去分詞"atīta अतीत "は「形容詞: 過去の 名詞: 過去・過ぎ去ったこと(英: pastに比較)」を意味する(同格限定複合語・持業釈"karmadhāraya"と思ったが違うか)。
依主釈は、前後の形態素(語根・語幹など)が依存関係にあるものを指す(梵名tatpuruṣa自体が"tat彼の + puruṣa人"=あるじorしもべという意味になるので漢語では依主釈という)。

動詞の連用形の名詞化と、その前に動詞の目的語を付随したものが多くある。
「窓拭き=目的語の名詞: 窓 + 動詞の連用形の名詞化: 吹き」は、「①窓を拭くという行為"deed, act"」と、「②窓拭きの行為者"agent"」と、「③雑巾のような、行為の達成に用いられる道具"instrument"」の3つのいずれにもなる。
もしも別途にそれぞれの意味を明示したければ、「①窓拭き-作業 ②窓拭き-屋さん ③窓拭き-ツール」のように後続の言葉で補う。
梵語でも、行為者や所持者の意味を明示するために「-क -ka」で補うことがある。
また、「人殺し cn: 殺人(①-罪 ②-者 ③-刀など)」"homicide"といった、動詞・目的語"verb-object, VOまたはobject-verb, OV"構造の複合語はみな、依主釈に当たる。

この整然とした・弁別的な複合語解釈は、梵語・サンスクリットは元より、現代の英語にも適用できるので、形式的英語学習者・会話オンリーの人であっても注意深く学べば、一切の言語の学問的道理・発生プロセスに通達する。
こういった複合語の名詞は、様々な意味を持つ場合があり、先述の「窓拭き」の窓は「窓を・・・対格"accusative case"」であるが、「拭き掃除」の拭きは「拭き=拭く行為によって・・・具格"instrumental case"」である。
ほか、「尻拭い」という言葉もまた「窓拭き」と同じ3つの意味を見出せるが、英語で"ass-wipe (尻拭い→トイレットペーパー→クソヤロウ)"という表現が、"bahuvrihi compound"であると英語版Wiktionaryに載っている
"bahuvrīhi"=所有複合語・有財釈とは、過去記事にも詳述した通り、"bahu-vrīhi"のままでは同格限定複合語・持業釈"karmadhāraya"で「多くの-米」という意味だが、実際にはその所有者「多くの米を持つ者=金持ちの人」を指すことである。
例えば、英語で「ホワイトカラー"white-collar"(白い襟)」という言葉も「白い襟の服を着た者=事務員」という意味となって同様である。
いったん、「多くの米=それが単に存在するのでなく誰かの目的によって所持されている=その人は金持ち」や「白い襟=その服が単に存在するのでなく誰かの目的によって着られている=その人は事務員(オフィスワーカー)」として言葉が成立すると、以後は、金持ちが多量の米穀を財産として保有しない・オフィスに白い襟の服(ワイシャツ)着用者がいない状態でも「ヤツはバフヴリーヒ"bahuvrīhi"だ!"They are white-collars!"」と呼ばれる。

古代インドと同じ言語感覚による複合語が、現代アメリカなどにも発生することは、面白い。
当事者の身体に付随したものの例で、古代ギリシャ語「ὀκτώπους (いわゆるオクトパス)=八つの足-を持つもの=タコ・蛸」や、日本語「ふとっぱら"futoppara"=大盤振る舞いの人」があるが、外的所有物でない点で有財釈と似て非なるものと区別されるべきかと思う。
事務員が「ホワイトカラー・白い襟の服」を着ることも、事務員としての当事者にとって身体そのものである点で、実は、有財釈と似て非なるものか。
それらは「広義の有財釈」として区別してみたい。



※パーニニの述作「アシュターディヤーイー"Aṣṭādhyāyī"」は、「8つの章(数詞aṣṭa=8)を設けて(具格のように用いるべく私が付した)考察する(動詞語根√dhyā)説("-説"とは事物を示すために名詞化接尾辞・準体助詞として私が付した)」と解釈できる。中国の文献においては「八分毘伽羅論(八分=aṣṭaの訳)」と呼ばれた。婆藪槃豆法師傳に「馬鳴菩薩は是れ舍衞國・婆枳多(大正蔵の本の誤植か底本の誤写で正しくは娑枳多・サーケータ"Sāketa"か)の土の人なり。八分毘伽羅論および四皮陀(4つのヴェーダ)・六論(6つのヴェーダーンガ)に通じ、十八部(インド外道学問全般の十八大経で通常4ヴェーダ・6ヴェーダーンガを包括)を解す」とある。また、記事後記のように、毘伽羅論とは、vyākaraṇa ヴィヤーカラナ=インド言語学の名称である。ヴィヤーカラナは多義的な言葉だが、一応、ここではインド言語学・梵語学を指す。パーリ語の蔵外文献でもbyākaraṇa ビヤーカラナの区分に複数の文法書がある。





起草日: 20180206
上記の日付は、元の記事に基づく。
当記事は、その「復習記事」として2018年4月を期して投稿される。



元の記事では、パーニニ文法における複合語(サマーサ"samāsa")解釈と日本語における訓読語との関係性に言及した。
パーニニさんを端緒とした梵語・サンスクリットの文法学は、「声明論・聲明論(しょうみょうろん、毘伽羅論"Vyākaraṇa"、言語学全般の名称、五明 Pañcavidyāという学問総称の一カテゴリとしても用いられる)」として古代日本・上代日本に知られていたと推定できるので、その方面の研究が進むことを期した。
現今の宗教学や言語学で、深く言及されない梵語文法と日本語(和語)文法との関係性であるが、今後は、そういった仏教の文化的影響を鑑みた研究が必要となろうと考える。
歴史的脈絡や蓋然性があることを、私自身が実感しており、宗教学者(仏教学者)をはじめとした人々が証明してゆくべきである。

元の記事の随所に、そういった要素を記した。
「たがいに」造語当時(広く見て7~11世紀)の日本で、おそらく学問の人や僧侶・宗教家といった智者が梵語学(玄奘三蔵門下の法相宗系か密教悉曇系か法道菩提僊那のような中央アジア・インド系渡来僧の直伝か)の文法概念を学んでいた可能性がある。

パーニニの漢字表記・音写は「波爾尼波膩尼波儞尼(はにに"modern: Hanini, ancient: Panini")」がある。
「玄奘三蔵は婆羅覩邏邑(村名・都市名、大正蔵の本の誤植か底本の誤写で正しくは娑羅覩邏・シャラートゥラ"Śalātura"か)に至り、波爾尼仙(パーニニ仙人)の窣堵波(ストゥーパ)を見た」という記録が、大唐西域記などに載る(ちなみに英語版Wikipedia - Salaturaは塔"stūpa"でなく像"statue"だと記しているがそこに引用される1904年の学者による英訳は"tope"と訳していて相互に異なるし一次資料たる漢語原文が載っていない)。
こういった玄奘三蔵の門下には、法相宗開祖の基(き、慈恩大師窺基)などがおり、一切経音義の玄応をはじめとした多くの学僧が梵学に長けていた(同名の書の著者である慧琳は後述の密教関係の人で不空三蔵の弟子とされる)。
玄奘三蔵訳経論や法相宗の釈書などには、先の梵語複合語理解・六合釈の用語が多用されている(個人的に感心したもので成唯識論T31-19b妙法蓮華経玄賛T34-658cなどがある)。
日本の南都六宗に関する史実が立証されているように、それらの漢語典籍が7世紀以後の日本にも多く伝えられたことは確実である。

その時期以前であっても、中国・朝鮮・インド・中央アジア・南アジア系の僧侶が、梵語知識や文法概念を多かれ少なかれ伝授したろうことは推定できる。
特に中国(漢民族らしい)以西の地域出身者が日本に渡来した可能性について、「波斯・破斯(はし"modern: Hashi, ancient: Pashi or Pachi")」という「ペルシャ"Persia"=現代のイラン付近とされる地域」からの渡来人が奈良時代などに存在したことはよく知られる(正確な事実は学問的に未確定)ので、いわんやインド・中央アジアをやである。
学問的に未決の事象にも敷衍すれば、梁書・巻五十四において「扶桑国」を語った項目に「其國(=扶桑国のこと)有沙門慧深(えじんorけいしん)來至荊州、説云 (中略) 罽賓國嘗有比丘五人、游行至其國(=扶桑国のこと)、流通佛法經像」とあり、この「扶桑国」を日本列島の一部地域と見ても見なくとも、梁(中国)より東の「倭国」よりも更に(梁→倭国→文身国→大漢国という)東に位置する「扶桑国」に「罽賓国(同書で西北諸戎に分類される渴盤陁国朅盤陀"Khabandha"=現在のタシュクルガン地域の南に接しているとする)」というインド・中央アジアに位置する国より比丘(僧侶)が遊行したと伝承される以上、中間に位置する「倭国」とされる日本列島にインド・中央アジア系の比丘が遊行したという類推も可能である。
※罽賓国は「けいひん」と読まれるが、より正確な呉音では「かいひん*kaipin, kaibin」か「けひん*kepin, kebin」となろう。一般にカシミール"Kashmir, skt: Kaśmīra"の音写だとする。この漢語音写はプラークリット経由と思われ、プラークリット復元形は*kejbirとなろう。硬口蓋系J/SH互換や両唇音系P/B/M互換の法則や「安息(あんそく・あんさく・あるさく)アルサク 𐭀𐭓𐭔𐭊 アルサケス的N/R対応」などによる。
梁書の扶桑国(地在中國之東…)」に関しては参考までに考慮してほしい。
学問的に未決の事象であって正確性に疑問の持たれた伝承であっても、多少の推定に用いることが可能であると、私は考える。

伝承や学問的事実から、様々な推定・仮定ができた。
しかも、伝教大師最澄・弘法大師空海や、慈覚大師円仁・智証大師円珍・安然さんなどの時代となれば、言うまでもない。
彼らはもはや、密教が中国に伝えられて以後に入唐したり(前4人はみな入唐僧として名高く他に宗叡などがいるが詳細が不明瞭)、日本で相承された密教を学んだりもしてきており、そういった密教関連の悉曇学においては、当然、パーニニ文法に端を発する梵語学・声明論に関与する。
元の記事と当記事の本題である「(6種類の)複合語解釈=六合釈(ろくがっしゃく、りくがっしゃく)・六離合釈"ṣaṭsamāsa"(殺三磨娑)」や、梵語における「8つの格変化(パーニニ文典では7つ=七例句が示されたので後世に発展したものか)=八転声(八囀声、はってんじょう、はちてんじょう)"vibhakti, kāraka"」など、梵語学習での常識になったと見られる。
上記の用語に関して、相当する概念の説明に必ずしも文字列が完全に一致した状態で用いられないが、細かく分析すれば、中国・日本の法相宗・華厳宗(唐の法蔵さんなど)・真言宗(密教・密宗)の書に多く確認できる。

江戸時代・18世紀に至ると、日本国内で様々な思想・哲学・宗教が相競って合理主義的な学説(大乗非仏説論・古神道・国学など)を主張するようになる。
中でも国学者(本居宣長・その弟子・その他もろもろ)が比較言語論・比較文化論に秀でており、悉曇・梵字・インド音韻学・中国音韻学(インド悉曇に影響を受けたものとしての等韻学など)を理解した上で、日本語の発音の優位性を誇示した(漢字三音考奈萬之奈などを過去記事でも紹介、民族主義プロパガンダ的な向きが本居宣長さんにも平田篤胤さんにもあったが問題視しない)。
その渦中で仏教徒も慈雲尊者飲光や法幢さんなどが西洋インド学に先駆けた梵語研究や文献研究を示した。

いずれにしても、日本語が外国の文物に触れて発展する途上で訓読語などを整備する際、「7~11世紀ころに生きた学問(学門)の人や僧侶・宗教家などの智者たち」は、パーニニ文法に端を発する梵語学の理解に基づいた造語をした、と私は結論付け、学問的に提案する。
梵語学の理解に基づいて日本語(やまとことば)・中国語(漢語)・サンスクリット(梵語、ほかパーリ語などプラークリット)・ギリシャ語・ラテン語、ひいては英語をはじめとしたあらゆる言語について日本人が研究できるようになるとよい。

サンスクリット詩の連声(連音、サンディ"saṃdhi")には韻律規定(チャンダス"chandas")や歌いやすさを考慮して柔軟な有無が見られ(連声が固定的規則としてあるのでなく歌いやすさの相対性で連声となる)、日本の古代和歌(万葉集など)でも句中の字余り母音重複の単音化について柔軟な有無が見られる(二重母音が合わさって一音・1モーラ=1拍となることも固定的規則としてあるのでなく句の拍数を考慮した読みやすさの相対性で単音となる。この現象は本居宣長さんの字音仮字用格という書にも示される「歌に五もじ七もじの句を一もじ餘して六もじ八もじによむことある、是れ必中に右のアイウオの音のある句に限れること也。古今集より金葉詞花集などまでは此格にはづれたる歌は見えず。 自然のことなる故なり(萬葉以往の歌もよく見れば此格也)」ついでにこれを引用した論文1, 2も参照されたい)。
詩歌の音韻にも、サンスクリット(同様にパーリ語)と日本語の間の共通性について参考にすることができる(インド音声学・音韻論は式叉論・シクシャー"śikṣā"、先の韻律・チャンダスは漢語音写で闡陀論となる)。
過去の歴史的経緯や学問的価値や今後の展開など、様々に沃野の広さが感じられる。

※日本古文の特徴的な語法・文法に「○○(名詞)な(助詞・目的語)××(動詞・連用形、カ変とサ変では未然形)そ=否定要求表現」、「係助詞か・や=疑問形係り結び」といったものがある。それについて、中国語やサンスクリットとの類似性を見出すこともできるが、深く言及しないでおく。また、サンスクリット詩は韻律規定に見合った自由な語順があり、現代日本語で倒置法の一種として受け入れられる語法もよい。SVO型・前置詞の特徴が強い英語よりも、サンスクリット・日本語は基本的なSOV構造に制約されない場合が多く、ヴェーダ詩・古代和歌からも看取できる。私が音楽方面の創作をする際、古代日本語や現代日本語に見られる自由な一面を用いて「メロディを乱さない歌詞」を作りたいと思う。



追記: 2018年10月13日

「式叉論(学論)・六十四能法」の謎の解明

シクシャー शिक्षा "śikṣā"は、古代インドで「6つのヴェーダーンガ(六論・六皮陀分・ヴェーダ関連学問)"vedāṅga"」の1つであり、音声学的な考察や分類の明確さが近代の西洋における言語学に影響を与えた。
日本には平安時代以前から「式叉論(十八大経の一つ。十八大経に四吠陀=4ヴェーダと六論=6ヴェーダーンガと八論=後世ヒンドゥー教でいう4ウパヴェーダと4ウパーンガの18を含む)」の漢語名称で伝わっているが、その名称は悉曇学の流れと関係しない(i.e. 近代インド学が入るまでの日本ではインド音声学がシクシャー=式叉の名で認識されなかった)。
「式叉論」は5世紀ころの中国人・嘉祥大師吉蔵さんの百論疏などや、それらを参照した日本人の諸々の文献に「直訳の意味は学論(英語圏でも"learning, study of skill"などと訳す)、詳細には六十四能法がある」と注釈されているが、「六十四能」の詳細を誰も語らない(DDBなど辞典サイト類もそれを語らない)。
もし語る者がいても、大智度論の巻第二に「言四違陀經中治病法・鬥戰法・星宿法・祠天法・歌舞・論議難問法。如是等六十四種世間伎藝」とあることに結び付けよう。
その「世間伎芸(技芸)」とは、英語版Wikipedia - Shikshaに"Shiksha literally means "instruction, lesson, study, knowledge, learning, study of skill, training in an art"."とあることと同じようにシクシャーという語の原義(√śikṣ 学、便宜的に名詞化接尾辞「論」を付けて「学論」と漢訳された)を示唆していると考えてよい(後で考察し直す)。

今年に入ってから私は当記事のような話題でシクシャーがなぜ「インド音声学」の名であるか、インドのうちの既成事実とその説明のみならば納得できたが、日本・中国における「式叉論」の知名度の低さ(悉曇学が江戸時代の国学者の関心を得ていたことに比して実質0。式叉論を標榜した漢語文献の存在も実質0)や、「六十四能」という語のみで音声学を思わせない説明のされ方に疑問を覚えていた。
それら疑問についてどれほど調べても、インターネットで他人による説明(活字の複製を含む)は見られなかった。
2018年10月13日に筆者は、そういった「不明事項」の解決に至るような検証・推定をした。

まず、シクシャー文献の一つ「パーニニーヤ・シクシャー"Pāṇinīya Śikṣā"」の1930sにおける英語翻訳・注釈を参照する。
引用: That speech-sounds in Prakrit and Sanskrit are sixty-three or sixty-four, according to their origin, has been said by Brahman (Svayambhū) himself. (中略。前翻訳、後注釈) The expression tri-ṣaṣtiś catuḥ-ṣaṣtir vā shows how the author of these spurious verses felt a difficulty over the meaning of the first two couplets of the PŚ. and could not say for certain whether 63 or 64 letters were meant by Panini. - Manomohan Ghosh. 1938. 筆者注: 意味と解釈は後述。
太字でハイライトしたように、翻訳文に"That speech-sounds in Prakrit and Sanskrit are sixty-three or sixty-four"、注釈文に"63 or 64 letters"とある。
シクシャー文献に"64 (六十四 catuḥṣaṣti-)"という数詞が載っている証拠を捉えた。
また、漢語「能」は「能作・可作(することができる、せねばならない等の意味)」と関連して原語が"kāra (カーラ、原義は「なすこと」、多様に使用される語句)"であると推定した。
kāraは、例えば"hakāra"でハ音またはハ字・ハ音素 ह を指すように、字や音素の概念を示す。
私はsixty-fourとkāraとを合わせることで、「六十四能」という漢語名称の原語(梵語名称)はあくまでもヴェーダ=古インド・アーリア語の発音に関する意味であると推定した。
「ヴェーダ発音はヴェーダを読む前に正しく学ばれるべきものだ (語根√śikṣ = 学ぶ)」という原義の意味から「学論」ともいう(cf. 英語版Wikipedia - Shikshaに載るタイッティリーヤ・ウパニシャッドの1:2詩 cf. パーニニーヤ・シクシャーの1-2詩 cf. 翻梵語という書に式叉歌羅尼・しきしゃからに*śikṣākaraṇiという梵語が「学・可作」として説明され、これは式叉摩那という女性出家者=五百戒ともいわれる男性よりも厳しい戒律を持つ比丘尼になる前に2年ほど戒律に関して学ぶ・訓練すべき者のことを指す cf. 仏教用語の三学=戒・定・慧は梵語でシクシャー"sa. śikṣā, pi. sikkhā")。

ただし、その"64 letters"とも言われる64の字・音素の内訳は不明である。
参考までに般若経典(注釈書の大智度論にも示される)の四十二字門には、阿字 "a अ "から若字"jña ज्ञ " 乞叉字"kṣa क्ष "までインド言語観念の字・音素が挙げられる。
それが密教や悉曇学に継承される五十字などともいう。
サンスクリット・ヴェーダ語で63や64という計数は、母音(a ā ai i e aḥ ṛ ḷ अ आ ऐ इ ए अः ऋ ऌ など)の他に jña ज्ञ , kṣa क्ष (cf. ラテン文字 X ギリシャ文字 Ξ) のような二重子音字"biconsonantal letters"などの二重音字"digraph"が一字のように扱われるインド言語観念を含ませて達成できそうである。

とりあえず「六十四能」という漢語名称のうち「64」という数詞がインドの典籍にあることと、それがヴェーダーンガのシクシャー文献の扱う主題と同じように「言語発音」を示すことは証明し終えた。
Quod Erat Demonstrandum. (証明せらるべきこと有り、過去にも未来にも)
以下に、別の疑問点について付記しよう。

大智度論の巻第二(放牛の譬喩)に、その翻訳者の鳩摩羅什さんがシクシャーにあたる言葉を「六十四種世間伎藝」としたことは、六論(ヴェーダーンガ)・八論(後世ヒンドゥー教では4ウパヴェーダと4ウパーンガに分かれた)を暗示するヴェーダ学問の脈絡であった。
※大智度論自体の梵語原典は不詳だが、その放牛の譬喩の「牛を飼う者が身につけるべき11の支(アンガ"aṅga")と同じように比丘が身につけるべき11の法(ダンマ"dhamma")がある」という説法の趣旨は鳩摩羅什訳の仏説放牛経(大正蔵0123 V. 02)パーリ経蔵・中部・33経"Mahāgopālaka Sutta"にも説かれる。しかし、大智度論巻第二で「六十四種世間伎藝」という言葉が載る話の脈絡は、それら経典に見られない。菩薩の「方便」として鳩摩羅什さんか大智度論作者とされる龍樹菩薩が補ったとも考えられる。
しかし、「六十四種世間伎藝」という言葉を用いた彼の思考において、このヴェーダ発音の学問たるシクシャーを示唆するインドの語句(catuḥ-ṣaṣtiḥとkāra)へ理解が不足していたためか、または別の概念を指していたためか、それは証明しようもない。
前者である場合も、鳩摩羅什さんに梵語を教えた人々や彼の出身地・亀茲国とされる地域の慣習に「śikṣāは六十四種ある世間伎芸のこと」という認識が定着していた可能性もある。

先に引用したパーニニーヤ・シクシャーのManomohan Ghoshによる翻訳・注釈にも、「パーニニーヤ・シクシャーの作者(パーニニの理解の如くに説く"pravakṣyāmi pāṇinīyaṃ mataṃ yathā"という人)は63と64のどちらがパーニニさんによって示された字数・音素の数であったか分からなかった」という趣旨が記される(韻律のために言葉を補ったともパーニニさんとされる古の賢人がどちらも説いたとも原文を解釈できるが)。
その63と64という数詞が出る詩節はパーニニーヤ・シクシャー全体のうち第3詩であり、第1-2詩"Now I shall give out the Śikṣā according to the views of Pāṇini. In pursuance of the traditional lore, one should learn it with reference to the popular and the Vedic languages. Though words and their meaning are well known, yet these are not within the knowledge of persons intellectually deficient, (hence) I shall dwell once more on the rules regarding the pronunciation of words. (第1-2詩の英訳文)"が作者自身にとって難解だったとかと記される。
引用範囲よりも後には、カウティリヤのアルタ・シャーストラ(Artha Śāstra 実利論)を紀元前3世紀ごろとみなした上で、そこに"63 letters"のみを示すと記される。
次にアグニ・プラーナ(Agni Purāṇa, 略号AP.)というプラーナ文献をパーニニーヤ・シクシャーよりも後世の西暦8世紀ごろの作だとみなした上で、そこに"vakṣye śikṣāntriṣaṣṭiḥ syurvarṇā vā caturādhikāḥ (triṣaṣṭiḥは63)"と述べられて先の第1-2詩が難解であるように捉えていたと記される。
1-3詩は他の文献群(pañjikāなど複数の作品群をrecensionsと代名詞的に呼んでいる)にも載っていると Note 2. に記されるが、インターネットにその3詩(IAST表記・校訂本)は何ら検索に掛からない(文献群の各個の校訂本がインターネットに公開されない・論文での引用なども無いか)。
それで「他の文献群がアグニ・プラーナの説を用いたか独自に説いたか分からない」と記されるが、それらの文献のどういう説を指しているのか、私は分からない。
何となく、私は日本語で説明を記したが、自信(私自身の理解への信頼)があまり無いため、英語のできる人はご自身で検証するとよい。
どちらにしても、何らかの文献はインターネットだけでの検証が困難な状況に違いない。


2018年4月1日日曜日

Google+ 2018年3月中の日記メモ

月前半は、母親が一時的に勤務していたこと(期間中は本業・薬剤師としての復職かと思ったが研修っぽい)に関する記録をしている。
そして、27・28・29・30日には蜂・ハチの話題をしている。
3月29日には写真5点・映像1点を携帯電話内蔵カメラで撮影して翌日に動画投稿をした。

メモ記入日の一覧 (日付をクリックして移動)
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2018/03/01

本日3月1日は2時9分に目覚め、4時0分に起床した。8時32分に母親が発車して外出した。母親の部屋にあるメモ書きによると、母親は当地・豊橋市内の大国町と絹田町(先月27日メモに記録された薬剤師関連の用事による)のほか、イオンでの買出しを目的としている様子である(11時にイオンに行って14時30分に帰宅予定だとも書いてある)。10時17分より風呂(シャワシャン)の準備を始め、11時12分に自室へ帰った。本日はムーミンカップ満杯相当の2杯分の緑茶を飲み、カフェインパワーによって14時4分からトイレへ入り、長めのいびつな一本糞を排出した。



2018/03/02

本日3月2日は0時56分に起床した。前日の母親は22時前に帰宅した様子であるが、件のメモ書きは虚偽の内容である。豊橋市内の目的地ではなく浜松市内に行き、20時台にイオン豊橋南店(店内のマクドナルド)に立ち寄りながらも、弟が兼ねて希望していた買出し行為ということをしなかったようである。本日の母親は9時半に外出した。本日に件のメモ書きの予定が実行されるか?弟の部屋を覗くと「お母さんは朝8:00に起きるべきだ。3月2日(金)」と、朝の時間を阻害されたくないらしい趣旨の手紙(母親にまだ提出されていない様子)が、彼の机の上に置いてあった。(母親の勤務の無い時期における)普段ならば、朝6時~11時などバラバラの起床をする母親だが、前日や本日は、当然母親が早起きの傾向にあり、弟の登校に関する動向に干渉が伴う。



2018/03/03

本日3月3日は2:50の第四アラームに目覚め、2時54分に起床した。前日の母親外出も22時ころの帰宅らしく、2時59分まで本人が風呂場にいた。3月1日の14時台と3月2日の18時台に、日本郵便の配達員による「ベネッセからの配達物(弟のための進研ゼミ受講らしいと2月27日に小耳に挟んでいた)」は配達の完了がされなかった。前者は家に私のみがおり、後者は2階の弟が「2度目の呼び鈴を鳴らされてから駆け足で降りて玄関でガタガタとしてから」ドアを開けると、配達員が「配達の車(ワゴン車・バン)」の中に去っていたらしく、弟はドアを開けたまま佇んで終わった。

この事柄について、母親に私は聞かれたが、結局、母親が日頃の不満をぶつける展開となり、母親が問題に関して私に解決法を求めるということがない。母親の話は、本末転倒か?あるいは、一度の問題が末端であり、端緒として日頃の不満を話すことが本題か?いずれにしても、ベネッセもとい進研ゼミ受講など、また、クズ親クズ母親の動向となる。弟には、たった一度で「家庭教師」の訪問を止めさせたことが2016年8月にあった。社会福祉法人の作業所・施設通所も、2か月前に野暮な理由で辞めたばかりである(2017年6月18日ころは母が同伴・7月1日ころ以後は送迎車による・2018年1月12日に辞める発言を記録)。ちなみに、「受講」といえば、母親自身の「心理カウンセラー」が短期間で停止された経緯も連想される。



2018/03/04

本日3月4日は1時15分に起床した。



2018/03/05

本日3月5日は2時48分に起床した。5時55分より便意のためにトイレへ入り、長い一本糞(黒コロッ糞を多く固めてできたようなもの)を排出した。



2018/03/06

本日3月6日は2:10の第一アラームに目覚め、2時13分に起床した。前日と本日は母親が朝8時30分過ぎに発車して外出した。11時25分より風呂(シャワシャン)の準備を始め、洗濯機の作動(洗濯物は枕カバー1つと部屋の中央部にたたまれた布団に掛かるマイクロファイバー的な毛布1つ)を並行し、12時34分に自室へ帰った。



2018/03/07

本日3月7日は4時2分に起床した。シリアルをムーミンカップ2杯分に食べ、コーヒーをムーミンカップ3分の1程度に飲み、5時44分より便意のためにトイレへ入り、小中サイズのもの複数個を排出した。最初の1個が出て、続けざまに出るものにおいて直腸が「ズッ!」と擦れ、排出後のアナルを拭うと多めに血が付着していた。1分おきに3度拭ってもはっきりと付着が見られた。

8時30分に母親が発車して外出した。前日、風呂に入った日であり、最も表に着られる上下服2点を洗わない方針でいたが、その日のうちに著しく汚す経緯があったので、本日9時台より上下服2点の洗濯を行った。今月はできる限り洗濯をしてゆきたいが、一昨日は一日中大雨であった。本日もまた、16時ころから風が強まってきた。風による振動が、押入れ内で感じられる。明日(木曜日)も大雨でないにせよ、雨が降って土曜日まで続くという気象予報がある。



2018/03/08

「母親の部屋のカレンダー(古紙にコピーされたような作り)」。写真撮影は2018年3月6日。

本日3月8日は2:10の第一アラームに目覚め、2時13分に起床した。「木曜日=3月8日に母親が外出しなかろう」と、母親の部屋のカレンダーの状態より認知していた通り、本日は母親が外出しない。この度は、再就職したものと確定したが、現状、私へ母親から一言も告げられていない。今までの独自調査による。



2018/03/09

本日3月9日は2:10の第一アラームに目覚め、2時40分に起床した。8時33分に母親が発車して出勤した。以後、特別な必要性が無い限りは記録しない。11時7分より風呂(シャワシャン)の準備を始め、12時7分に自室へ帰った。



2018/03/10

本日3月10日は2時8分に起床した。起床の直前、弟が1階リビングで無意味にTVを見始めたが、2時10分には彼が2階へ上がった。



2018/03/11

本日3月11日は3時57分に起床した。9時ころに母親が買出しか何かの目的で外出したろうが、それには早すぎる。別の目的を兼ねるにしても、母親の帰宅はとても遅く、21時半となった。ちなみに、前日(3月10日・土曜日)の母親は23時過ぎに帰宅した。22時台後半に浜松市西区志都呂町のファミリーマートで肉まん一つを買っていたようであり、このことと3月2日メモに記録済みの事柄より母親の職場が豊橋市内でなく浜松市西区志都呂町付近にあると推定できる。



2018/03/12

本日3月12日は3時51分に起床した。本日の母親は7時ころから動向があっても外出せずに、9時を過ぎた。もし前日(3月11日・日曜日)が勤務日であったならば、「前日が休みであるとする母親の部屋のカレンダー情報」は信頼性が損なわれる。13時以降、無理な食い方をしたり、15時以降にムーミンカップ8分目程度のお茶を淹れてカフェインを摂取し、18時54分に尿意と便意を兼ねながらトイレへ入って小さめのものをそこそこ排出した。



2018/03/13

本日3月13日は2:10の第一アラームに目覚め、3時9分に起床した。本日の母親も、8時までに外出する雰囲気を見せながらも外出せずに、9時を過ぎた。前日16時に弟が帰宅して彼が2階に上がった際に母へ「明日から仕事?」と尋ねる声が聴こえたが、この際に母親の話し声に「身と耳とを欹てておくべき」であった。本日9時台に砂糖多めのインスタントコーヒーコーヒー1杯を淹れて飲み、10時40分より便意のためにトイレへ入り、コロッ糞5つを排出した。この頃の空は、快晴のはずだが薄らと濁っており、花粉の影響を感じてしまう。快晴でない日は、強風と雨があった(今月5日・9日)。14時20分からもトイレで中長サイズのものを1本ずつ排出した。



2018/03/14

本日3月14日は1時25分に起床した。1時44分よりゴミ出し・自販機通いの外出をした。この頃は日中の最高気温が15度を超えて本日も明日も20度前後となる予報だが、反面、朝方の冷え込みは12月ころと変わらず、最低気温が3・4度などとなる。この外出において、母親の車に霜が降りていたことも、寒暖差の激しさ(湿度の多さに対する寒さ)を示す印となる。

5時30分より便意のためにトイレへ入り、小さめのもの4つほどを排出した。トイレットペーパーに血が付着した。10時45分に母親が発車して外出した。祖母入所福祉施設関係かと思われ、12時20分に帰宅した。



2018/03/15

本日3月15日は5時59分に起床した。10時45分に母親が発車して外出した。母親の部屋のメモによれば、恐らくは本日も前日も、歯科医院に行っていたようであり、本日は精神科医院にも行く様子である。11時7分より風呂(シャワシャン)の準備を始め、12時4分に自室へ帰った。私が自ら(古い漢語用法: 自分で自分の=反射態のような再帰動詞にする副詞)長い髪を乾かしている最中、12時14分に母親がいったん帰宅して玄関で何かして後に再び発車した。

13時43分に再び母親の車が家の前に着いた。母親は買出しに行っていたが、前兆は12時台に「母親が買出しに行く際はイオンで資源回収ボックスに投入するために牛乳パックを持ち寄ること」の形式で確認されていた。買い物頻度を狭めたということは、弟の食糧確保目的などが考えられるので、また母が何かの用事で家を空けるようになる可能性がある。3月12日18時ころに弟が1階リビングで母親に「次の買い物はいつ?」と尋ねていたことにも根拠を求められる。今私が書いていることは、あくまでも、見解へ理由を結びつけるためである。一応書くのみであり、事実は不明である。19時14分から20時半までも母親が車で外出していた。



2018/03/16

本日3月16日は、日をまたいで起き続けている。4時前より便意のためにトイレへ入り、中サイズのものを中心に多く(7個ほど)排出した。6時ころより、シャットダウンした状態のPCの前で足を折りながら寝て(寝落ちするという習慣が無いこの数年では稀な寝方)9時半ころに起床した。15時41分に母親が、おそらくどこかの診療所(母親の部屋にあるメモには4つほど歯科医院の名称が書かれている)へと発車して外出した。17時前・弟の風呂を出て後の独り言の不可解さ不愉快さ、17時50分ころ・母帰宅す。18時50分まで、部屋が暗いままに姿勢を固めて勉強に集中して2時間半を経て便意のためにトイレへ入り、小中サイズのもの3個を排出した。



2018/03/17

本日3月17日は4時57分に起床した。



2018/03/19

本日3月19日は3:20の第5アラーム直後の3時20分に起床した。それ以前のアラームも、形跡からして鳴って手動で止められたろうが、記憶が無い。15時50分より母親が徒歩で外出し、17時半ころに帰宅した。18時20分に家の前に配達トラック(ワゴン車・バン)らしきものが停車し、母親がにわかに2階から1階に降りて間もなく2階に戻る階段にいる時に呼び鈴が鳴らされ、弟に受け取りを頼んだ。



2018/03/20

本日3月20日は3時13分に起床した。5時17分よりトイレへ入り、太くて長めのものと中サイズのものとを1つずつに排出した。



2018/03/21

本日3月21日は夢精によって1時8分に起床したが、夢精の要因たる夢を見る前から意識があったろう。単にレム睡眠的な夢見状態だったかは、明確に区別できない。換言すると、一時的な不覚という展開で性的な夢を見たのだろうか、元々夢の中だったかは、明確に区別できない。夢の中で「一瞬だけならば夢精に陥らなかろう」という楽観的予測を取っていた。どういう夢だったかといえば、全裸で自ら(古い漢語用法: 自分で自分の=反射態のような再帰動詞にする副詞)勃起状態のものを咥えており、「夢精しないように急いで写真を撮ろうとした」シーンで夢精した。

本日は祝日であり、最高気温9度程度の雨の日の中で、8時台から弟が「ドンキホーテいく」などとして外出したが、彼が13時前に帰宅して後の14時30分台より、母との喧嘩が始まった。原因は、お小遣いの使い方に関する意見の衝突である。ドーナツを多く買ったとかどうとか、とも聴かれた。今年に未だ見られなかったような強めの争いとなった。弟が母に物で脅したり、荒い物音を立てるなど、今年に未だ見られなかった。弟は14時ころに母親から「多めに(と聴こえた)」抗精神病薬を飲まされていたが、薬剤の即効性はともかく、結局、このような様子となった。弟の抗精神病薬については、前日に弟が近場の調剤薬局へ2度(12時0分前の学校帰宅時と15時0分ころ)母によって行かされて新しく受け取ったばかりである。ついでに書いておくが、私は何も争いに関与せず、生まれてこのかた抗精神病薬も向精神薬も飲んでいない。15時5分より便意のためにトイレへ入り、少量のコロッ糞を排出した。16時10分ころ、母親が弟に話したことは、これから買出しに行くとのことであり、17時3分より母親が発車して外出した。間もなく風呂(シャワシャン)の準備を始め、18時7分に自室へ帰った。18時58分に母親の車が家の前に着いた。



2018/03/22

本日3月22日は1時55分に起床した。8時20分より便意のためにトイレへ入り、前日より少し多くコロッ糞を排出した。



2018/03/23

本日3月23日は2時49分に起床した。15時39分に母親が歯科医院へと発車して外出した。発車の直前より、弟が2階で騒がしくバタバタと移動したり、物音を立てるなどをしだして継続する。



2018/03/25

本日3月25日は2:40の第三アラームに目覚め、2時44分に起床した。16時48分より便意のためにトイレへ入り、コロッ糞を4度に排出した。



2018/03/26

本日3月26日は4時27分に起床した。



2018/03/27


本日3月27日は2:10の第一アラームよりも前に目覚め、2時10分に起床した。起床前から弟が2階で騒がしかったが、3時50分ころに彼が1階に降りてテレビを付けてリビングに居座る間も、意味不明な鈍い強い物音を立てていた。その他に彼が意味のある行為をせず、4時4分に彼が2階へ戻った。

本日は8時台より、しばしば窓枠を中心に掃除を行ってきた。母親や弟に関して都合がよいと判断できれば、網戸の水撒き・清掃をしようと考えた。11時37分より網戸の水撒き・清掃を実行し始めた。何となく、先の時間に蜂・ハチらしい姿が見えていたので、玄関ドアを開ける際から警戒した。I家は男性二人が外出中のようで、軒先にI家の高齢女性がいる。私が水撒きを始めた途端に、案の定、スズメバチが出現し、私は警戒しながら素早く後退した。地面にホースが投げ出され、左足のサンダルが脱げた。水撒きは当然中止する判断をし、後片付けのためにしばらくハチの様子を窺った。結局、元々恐れていた「1年前のような悪夢(厳密には2017年6月10日の出来事)」が、そのままに再現された。その当時の「蜂のように見られた大きい虫」も、今回のスズメバチ(去年に我が家宅に営巣したものと同種・同サイズ)も、何か水気を好んでいたように感じられる。まだ暑い夏には程遠いものだが、蜂に遭遇することへ今年も大いに警戒すべきである。

12時54分に母親が買出しへと発車して外出した。13時31分より風呂(シャワシャン)を始め、14時28分に自室へ帰った。16時20分に母親の車が家に着いた。



2018/03/28

本日3月28日は5時1分に起床した。12時30分より便意と尿意とを兼ねてトイレへ入り、コロッ糞3個を排出した。トイレにいる間、母親が2階から1階へ降り、その際に2階にいる弟へ母親が「ハチに気を付けて」という言葉を発していた。蜂の存在からいえば、今は冬を越したどころか夏に入ったことと等しい。去年の夏期(梅雨~11月末)に私が外出した例がほとんど無いよう、今の私にとっては虫の存在に対する意識が夏と冬とを分けている。ただし、未だにコバエや蚊を見ない。去年俄かに現れ続けたフナムシのようなシミ(初確認は2017年1月21日)も見かけていない。



2018/03/29


本日3月29日は2:10の第一アラームに目覚め、2時15分に起床した。前日の2時20分台から弟が1階リビングに居座り、スパゲッティを茹でて食べる様子があったが、本日は2時10分台から弟が1階リビングに居座り始めた。彼は3時20分ころに2階へ上がり、私は3時35分よりゴミ出し・自販機通い・夜桜の花見のための外出をした。雲は一点も見えない空模様で、寒さは前日昼の温暖な状態(前日2018年3月29日に3月の過去最高を更新した地域が全国に複数あるという報道があるがどうもそういう報道が多い傾向にあるのも仰々しい)と比べれば、やはり強めである。冬期と同じような重ね着・防寒具装着をした(ただしマスクは無し)。帰宅から10分以内に、鼻水が出やすくなっている状態を自覚した。風邪や花粉症らしいものと思わないが、「外アレルギー(外気アレルギー、外出中に種々の原因を想定できるアレルギー)」的なものとも考えづらい。5時9分より便意のためにトイレへ入り、小サイズのもの7つを排出した。

自室の或る方角の窓に飛来して雨戸の裏側に止まった「例の蜂」…12時44分撮影写真

6時32分より、自室の或る方角の窓へのホース放水清掃を始めた。その他、清掃行為に1時間ほどを掛けた。終始、長袖Tシャツ等の春の装いではひんやりとするような温度環境であり、作業後は指先などが豆のようなぷっくら硬化に至った。11時47分、自室の或る方角の窓(清掃されたもの)の網戸に、羽音を立てながらスズメバチ(27日のものと同種・同サイズ)が接近する様子を確認した。やはり、今年もスズメバチの動向に付き合う必要がありそうである。12時40分には、スズメバチがより長く網戸の付近で滞空しているように感じた。彼の状態を探ろうと、私は網戸に接近して調べ、スズメバチが雨戸(シャッター)の裏を這う様子を確認した。1分後には窓枠の橋を経由してガラス窓の面に移動し、ガラス窓を這ったり飛び上がるなどする様子を確認した。彼の状態を動的・静的な洞察で確認したが、針は目視できない。シャッターチャンスであり、動画を撮影する発想もあり、実行した。さて、今までは仮説的にスズメバチだと記してきたが、動画編集に際してインターネットで蜂・ハチの種類に関する調査をしていると、これはスズメバチに似た色彩のアシナガバチである可能性が浮上した。その特徴を知りたい人は、私の投稿動画などによって確認できる。





2018/03/30

本日3月30日は2時7分に起床した。本日は弟が午前中に2度外出し、13時31分に2度目の帰宅をした際、2階の母親が何やら弟の機嫌を悪くする言葉を発したらしく、にわかに弟が「うるせー!」と言って物を破壊した。ガラス製品の大破するような音であった。母親がふざけた気持ちで再び声を発し、弟は「こんな家出て行くよ!」と言って母親がそれを促し、彼が家を出て行った。その1分後に母親が階段ないし1階の廊下・リビングを掃除し始めた。その間のグチグチ小言は、従来ほど酷くない。私が母によってちりとり・ブラシ・ゴミ袋のために3度呼び出された。母親は破壊された物より飛散された液体が石油のような臭いだと言っていたが、私にも正体が分からない。何らかの化学的な油類の臭いだと感じるし、人体に有毒な可能性も感じる。人体に反応してか精神的な原因か知らないが、母親が軽くせき込んだりもした。私が自室の換気のために窓を開けると、あの蜂・ハチ(スズメバチorアシナガバチ)の羽音が聴こえた。交差する窓と窓の間の領域で存在が確認され、危険を感じた。

14時9分にクズババアがダラダラと私を呼び、私が「はい」と返事しても何も言わないのでもう一度大声で「はい!!」と言い直すと、母親が「なんでそんなに優しくないの?」などと言ってきた。続いて、母親が本来の意思である「いつ弟が帰ってくると思う?」という野暮な質問をしてきた(2017年8月6日の出来事を引き合いに出しながら)。どこまでも愚物である。自分で追い払うような原因を作ったろうに、どうしてそんな質問ができるか?母親自身の反省をすべきであろう。自ら(古い漢語用法: 自分で自分に=反射態のような再帰動詞にする副詞)問うべきことがあろう。家を不必要に汚す元凶は、いつも母親自身である。15時を過ぎても母親が1階の問題のエリアを移動し続ける足音が聴こえ、呪いの人形が動き回る様を感じた。すさまじい怨念を見せられ、私は悪鬼に虐げられるようだ。「愚かなる母よ、全ての子供から嫌われるような原因を自省しましょう。子供たちに愛されるカアチャンになりましょう。慈悲あるガキンチョより」18時18分、弟は帰宅せず・母は2階で大人しい状態にあり(18時23分に1階へ降りたが)、私が1階の廊下へ出ると、白い痕跡が見えた。それで、今までの「化学的な油類」という所見を否定し、「ペンキのようなもの」や「文房具の修正液」などを思いつくに至る。



2018/03/31

本日3月31日は2時48分に起床した。玄関に弟の靴が見え、私が眠っている間(前日20時以後か)に帰宅した様子である。12時ころ、それまでのコーヒー1杯分のカフェインの影響で強まった便意のためにトイレへ入り、小中サイズのもの複数個を排出した。