2017年7月21日金曜日

時間 "kāla, samaya, 迦羅・三摩耶" と仏教 (仏教の時間論)

時間は、人間の生活の規則性の維持や、現在・過去・未来を想定するための道具として作られ・用いられる。
その基準は、地球に住む我々が太陽と月の在り方から1日=約24時間とか、1年=約365日と導き出しており、人類史上の多くの文明でおおよそ共通している。
だからこそ、文明の中では絶対的な基準であるが、天文学など専門分野では絶対的なものと考えられず、過去の日本など旧暦では「閏月(2・3年に一度ある)」が設けられたし、現代も「うるう年」と称して2月29日(4・5年に一度ある)を設け、今年1月も「うるう秒」が設けられるなど、人為的に変更が加えられる。
生活に執着している人は、時間が絶対的なもの(客観的存在)だと考えがちであり、現代の若い人は、特にゲーム類やTV番組企画などにある「制限時間」という概念が頭に焼き付いている。
もし「時間は絶対的なものでない(正確でない概念)」と彼らが言われれば、「うるう年」などがあるからこそ時間は正確で絶対的に正しいと主張したくなろうが、私は「うるう年」を設けて柔軟に対処するからこそ100%の絶対性が無く、柔軟に対処してようやく99%、99.999%のようだと説く。
個人の精神や人生が「時間」に拘束されるべきでない。
※精神的努力のために時間に則って規律の取れた生活をする努力をする私は何者か?

しかし、生物の体は、営々と繰り返される惑星の動き・地球環境のもとで進化を遂げてきた。
生命的な時計・・・いわゆる体内時計と表現されるような機能を有しており、そのような機能の作用が、日の出に目覚めて日没後に眠ること(夜行性の動物は夜型の生活をする・微生物は眠らない・朝に咲く花もある)など、様々な生活リズムを作る。
人間は精神を有し、今の人類の文明が進んでいるので、本能からズレた生活リズムを心で受容し、体で実行する。
このように見ると、「時間」には、普遍的妥当性のある人間の概念・数字としてのものと、それぞれの規則性から演繹できるが実際には言葉にしがたいものとがあるように見られる。



「世間でいう仏教の開祖」である教主釈尊は、科学的な話などを文字通りお知りかはともかく、「時間」の絶対性・相対性・善悪ということをご存じであろう。
修行者のためには、「不非時食戒(正午以降は食事しないように禁じる・持斎)」を行わせた。
「不非時食戒」は、インドの既存の風習に似たようなものがあったかもしれないが、いずれにせよ在家信者が六斎日などに持つ八斎戒の中の一戒であり、出家僧侶が日々に持つ戒でもある。
特に出家修行者の集団(僧伽・僧団)は、在家信者からの布施を多くもらうと在家信者の生活が苦しくなるし、在家信者の村に何度も僧侶が出入りして乞食(こつじき・托鉢)をしてきては手間となり、在家自ら僧侶に赴いて供養する場合でも頻度が多くては時間が失われる。
僧侶の修道にも、煩悩を染みつかせたり、時間を削るなどの患い・煩いが生じる。
出家・在家を問わず、様々な煩わしさが付きまとう。
宗教の維持としても、在家の人が多く布施したり乞食の僧侶を頻繁に目にしたりすると、在家の人の信心が薄れたり(街や村を俗人と同じように僧侶が居続けては尊敬する気持ちが薄まる)出家の人が教団の形(衣食住が安定する形式)を固着させる弊害が懸念される。
つまり、相互の思いやりが大切であり、以下の教説では釈尊が出家僧侶に対し、他者の恩恵をもらうことを弁えよと教える(布施・供養を受けて当然だという考えを持たないよう蜂と花の関係や農家と家畜の関係に譬えて説く)。
如蜂採花但取其味不損色香。比丘亦爾。受人供養取自除惱。無得多求壞其善心。譬如智者籌量牛力所堪多少。不令過分以竭其力。 (たとえば蜂さんは花の色香を壊さないで蜜を取るよ。比丘は節度を守って供養を受けようね、多く求めて在家の人の良心を壊さないでね。たとえば牛さんを作業に使う人が賢ければ、牛さんの力を思いやって酷使しないようにするよ。大正蔵12, p1111・佛垂般涅槃略説教誡經)

譬如蜂採花 不壞其色香 比丘行乞食 勿傷彼信心 若人開心施 當推彼所堪 不籌量牛力 重載令其傷 (前略 比丘が乞食をするときは在家の人の信心を傷つけないように彼らが精一杯出してくれる量を多めに見てあげようね。たとえば普通の牛さんが重い荷物を載せられると運ぶのが辛いでしょ。大正蔵4, p48・佛所行讃)

蜜蜂のたとえが法句経・ダンマパダにある→Yathāpi bhamaro pupphaṃ, vaṇṇa­gandha­mahe­ṭhayaṃ; Paleti rasamādāya, evaṃ gāme munī care. (Khuddaka Nikāya, Dhammapada, Pupphavagga 50偈 前3偈)

また、眠ってよい時間として「中夜(午後10時~翌午前2時)」の間に限定し、初夜(日没~午後10時)も後夜(翌午前2時~夜明け)も修行せよと説く。
これは、仏遺教経・仏所行讃など涅槃の教えにあるが、般泥洹經・法顕漢訳大般涅槃経・長阿含経およびパーリ長部の大般涅槃経には説かれない(パーリ語の中夜は漢語と意味が通じる語句"rattiyā majjhimaṃ yāmaṃ"だがパーリ涅槃経に見当たらなかったし語句があっても仏遺教経・仏所行讃の話とは異なろう)。
鳴く虫がいない限り、夜は静かな時間帯であり、観想に最適であるから修行すべきであろう。
ある「戒律意識高いです!」という僧侶は、「健康の面で8時間睡眠がもてはやされるが仏教徒としては怠け者だ・5時間で足りる」と話していた。
また、修行や学問に熱心な人は「止暇断眠」を肝に銘じているであろう。
不眠不臥というべき極端な修行を行う場合もある(噂によれば比叡山の千日回峰行の堂中修行に9日間ある)。

修行の道念があって仏の教説を知って信心が深い人は、ふと横になった途端「起きよ」という声(仏の声・梵音声・大音声)がして手を引っ張られる感覚になるに違いない。
是非とも、仏道修行者はそうあるべきである。
眠りたいならば慚愧の正念を持つ(慚恥の服は諸の莊嚴に於いて最も第一と爲す)。
汝等比丘。晝則勤心修習善法無令失時。初夜後夜亦勿有廢。中夜誦經以自消息。 無以睡眠因縁令一生空過無所得也。當念無常之火燒諸世間。早求自度勿睡眠也。諸煩惱賊常伺殺人甚於怨家。 (乃至) 不出而眠是無慚人也。慚恥之服。於諸莊嚴最爲第一。慚如鐵鉤能制人非法。 (大正蔵12, p1111)

朝中晡三時 次第修正業 初後二夜分 亦莫著睡眠 中夜端心臥 係念在明相 勿終夜睡眠 令身命空過  時火常燒身 云何長睡眠 煩惱衆怨家 (乃至) 無術而長眠 是則無慚人 慚愧為嚴服 慚為制象鉤  (大正蔵4, p48)

Uṭṭhahatha nisīdatha, ko attho supitena vo; Āturānañhi kā niddā, sallaviddhāna ruppataṃ. (後半は「矢に射られた人は眠気があろうか?」と訳す=後者の時火常燒身・云何長睡眠に相当)
Uṭṭhahatha nisīdatha, Daḷhaṃ sikkhatha santiyā; Mā vo pamatte viññāya, Maccurājā amohayittha vasānuge. (Maccurājā「死の魔王」=両経の「怨家」に相当)
Yāya devā manussā ca, sitā tiṭṭhanti atthikā; Tarathetaṃ visattikaṃ, khaṇo vo mā upaccagā; Khaṇātītā hi socanti, nirayamhi samappitā. (Khaṇātītāはしばしば「空しく過ごす」と訳せられる=両経の令一生空過や令身命空過に相当。以上はKhuddaka Nikāya, Sutta Nipāta 2.10 前3偈)

このように、時間という概念は空虚でも生活に根付いているし、太陽と月と地球の動き(日月と地)は生きている限り平常に動いていると知られる(予測しがたい天変地異・天体の異常が無い)ので、そう信じることで無駄な疑念を持たずに修行できるよう、「尊いお釈迦様」が人々に教えた。
「尊いお釈迦様・仏様・偉大な人」の言葉であれば、裏切られないし、修行が進んだ者は事実(認識)が教えに反した結果であっても、後悔や憎悪を強く生じることはない。
極端な例を挙げるが、月が地球に接近して磁場や河川が狂い、または月が衝突して地球が半壊し、または太陽が大爆発を起こすとしても、世界は本来寂滅か一切皆苦であると知るので、釈尊・仏を信じた後悔や憎悪は起きようがない。
そもそも、そういった事象すら憂慮する必要も無く、心身共に、仏の言葉に寄り添うことになる。

私はそのような信仰が得られているし、得られていないとも言えるが、「不非時食戒・中夜に眠ること」については意識している。
2016年からの傾向として、午後は食事を少なくし、夕方などは「体調のテスト」目的を持たない限りは食べない。
夜は20時ころに就寝して翌日の午前2時に起きる(昼夜夜昼逆転自在な生活を変えたときが2015年8月19日)。
このように、在家信者として最善の道を心掛けている(中途半端と言うこともできる)。
眠る際の心掛けは、眠る前に不必要な遊び(〇〇いじり)をしたり眠りを楽しもうと思ってはならないことであり、このことを「心を端(ただ)して臥(が)せ(臥すとは横になって眠らないことか実際に眠ることかどうかは文字通りに不明・眠りに関する行為がある経文や戒律を参照すれば眠ってよいと思われる)」と仏は教戒せられる。
私としても2015年以後は、遊びとしての携帯電話いじりを控えたり(翌日の生活予定や翌日に行うべき作業のメモを携帯で行うことは必要と判断する)、性的な戯れ(寝床でのオナニーは2015年以後一度もしない・布団と戯れること)などを多く減らすことになったが、中途半端のようであり、できることならば仏の念によって「心を端して眠る」ようにしたい。



以上のことは、先に言う通り「修行者のため」という、仏が方便で用いた「時間・習慣」である。
この「世俗法・仮名(けみょう)」を離れた真理において、仏教ではどう説明するか?

Monier-Williams: 上は梵→英p1164 (ISBN: 8120800656), 下は英→梵p804 (ISBN: 8120804546)

多くの経典の冒頭に定型文(お決まりのフレーズ)のように用いられる「如是我聞。一時…"skt: evaṃ mayā śrutam. ekasmin samaye..., pl: evaṃ me sutaṃ. ekaṃ samayaṃ..."」という言葉について、大智度論の巻第一に詳細な説明がされている。
これを参照するに、「時」とは、梵語・サンスクリット語で一般に「迦羅"kāla・カーラ"」と、「三摩耶"samaya・サマヤ"」とがある。
「如是我聞一時」の「時」とは、サンスクリット語・パーリ語の"samaye(処格?), samayaṃ(対格?)"の部分に当たり、主格の"samaya"に直す。

「迦羅」とは、一般的な時間を意味している。
そのような「時間」という概念が、「現在・過去・未来」など様々な虚妄分別などに繋がるので、この語を経典の冒頭に用いないようである。
大智度論の同巻には、先述の「不非時食戒"akālabhojanaまたはvikālabhojana"」の話もあるが、その名称の中にも"kāla"の文字列が見え、ここでは世俗法・仮名に順って"kāla"を用いているとの説明がある。
仮想問答「問うて曰く、若し『時(kālaとして)』無くんば、云何(いかん)が時食(じじき)"*kālabhojana"を聴(ゆる)して、非時食"*akālabhojana"を『是れ戒なり』と遮したもう。答えて曰く、我れは先に已(すで)に説けり、世界の名字の法に『時(kālaとして)』有るも実の法に非ず、と。汝は応に難ずべからず。亦た是れ毘尼"Vinaya"中に結ばれたる戒法にして、是れ世界中の実なるも、第一の実の法相に非ず。 いわゆる二諦=世俗諦・第一義諦の観点で分別している)」 (後略)

大智度論といえば、龍樹(ナーガールジュナ)菩薩が摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)を注釈した書として鳩摩羅什三蔵が漢語へ翻訳し、現代までに日本・中国の仏教で支持を受けた書である。
同じく、その龍樹菩薩が論じて鳩摩羅什三蔵が訳した「中論(漢訳は青目による釈つき)」には「観時品」があり、サンスクリット語においては"kāla (迦羅)"を用いてこれを破せられた。
"kāla (迦羅)"に関する執着というものが、外道・部派仏教に根付いていたのかもしれない。
観時品の釈と偈文「問うて曰く、歳・月・日・須臾等の差別有るが如く、故に知んぬ、『時(kālaとして)有り』と。答えて曰く、時(kālaとして)の住まることは得べからず、時(kālaとして)の去ることも亦た得がたし、時(kālaとして)若し得べからざれば、云何が時(kālaとして)の相を説かん。物(bhāva、当記事の本文中や先の問いにあるよう太陽や月などの存在)に因るが故に時(kālaとして)有らば、物を離れて何ぞ時有らん、物は尚お所有無し(cana bhāvo、それら存在すら語感や知能の認識・時間的変化の現象から存在が想定される事物であって実在しない)、何に況んや当に時(kālaとして)有るべけん。」(後略)



「三摩耶」とは、サンスクリット語の語根などから解釈すると"sam- (接頭辞)"が「同じ・等しい・ともに」という意味であり、"-aya"が「行く」という意味の"√i"の変化した形である。
近代の仏教学者・インド学者も、三摩耶"samaya"の解説に「倶(とも)に行く"coming together"」という直訳を用いたりもする。
接頭語の"sam-"とは、阿耨多羅三藐三菩提という単語の「三菩提"sambodhi, sambuddha"」の「三」が「等しい」の意味であるから、「三菩提」は「等覚」と訳せられる。
「三藐"samyak"」にも"sam"の文字列があるが、単語としては"saṃskṛta"や"saddharma"のような「正しく・完全に」という意味の副詞であって三菩提の"sam"とは異なろう。
「阿耨多羅・三藐三菩提」は「無上・正等覚(正しく等しい覚)」と訳せられる。

今、少し冗長な例を以て"sam- (同じ・等しい・ともに)"の意義を説明したが、「三摩耶"samaya"」とする場合には、どのように"sam-"が活きているかを説く。
「同じ・等しい・ともに」のうち、三番目の「ともに(一緒に)」の意義は、集会などを意味するわけで、集会のタイミングということを「時(回想されたもの)」と表現する。
これは「僧伽"saṃgha・サンガ"」という有名な単語の接頭語に同じであり、「僧伽(僧団)」の原義は「集まり・集団」なので三摩耶"samaya"と似る。
経典の冒頭の定型文のうちの「一時"ekasmin samaya"」であれば、「とある集会の時」という意味ありであり、常にこのような「実体が想像されそうな『時』の概念」を想起させない表現にしている。
一般的なサンスクリット語辞書には「時刻・時点」という説明が出ているかもしれないが、「時刻・時点」とは、前述の用法から発展した語義なのか、釈尊および龍樹菩薩在世からそういう意味があったのかは不明である。
一例として、「梵→英 (モニエル=ウィリアムズ)」1164pでは数ある語義のうち、「機会」という意味合いを説明してある"appointed or proper time, right moment for doing anything, opportunity, occasion, time, season"。
「英→梵 (モニエル=ウィリアムズ)」804pでは"time"に当たるサンスクリット語をデーヴァナーガリーで"काल‍ः, स‍म‍य‍ः "と綴る(末尾コロンのような文字をヴィサルガとして表記したがkālaḥ, samayaḥとして想定されているかは不明)。

迦羅と三摩耶に関する概説を示したが、龍樹菩薩ならびに悟りの人々と学者たちが「迦羅"kāla"」という表現についてどう考えているかは、中論の観時品大智度論の巻第一(うち終盤)における「時」の説明に預ける。
彼らにこのような理解があるから、そのような理屈が示されている。
なお、前者を「実時」、後者を「仮時」、と説明することもあり、「実時(実際に存在する時間の法)」という言葉の理解が、先述のように虚妄分別の原因となりかねないという。
結果的に「迦羅"kāla"」が仏教においては、「時食・非時食」というような「時(kāla)=午前・正午以前(対義語の非時はakāla, vikāla)」という意味に限定して用いるようである。





起草日: 20170522

本文前半(仏教における世俗法・世俗諦としての時間を説明する一連の項目)で、またしても大乗経典(漢訳経典)とスッタ・ニパータの共通性を示すこととなった。
仏遺教経・仏所行讃は共に日本・中国で多く参照された経緯がある。
両経の「睡眠」に関する仏の教誡は、現代日本に流布するスッタニパータの331~333(2章10経"Uṭṭhāna")と語彙がよく似ている箇所があることを念頭に置いて本文で引用した。
過去記事で大智度論などに見るスッタ・ニパータの教説を何度も紹介してきたが、このように「スッタ・ニパータ(部派仏教所持の衆義経・義足経)」として伝来せずとも、意義としては伝統的に日本・中国に浸透していたと見られる。

仏遺教経について文献学的に見ると、仏所行讃から分離した「加上説(上に加えて説く・説の追加)」ではないかと思う。
本文に引用した仏所行讃の偈は「大般涅槃品第二十六」のものであり、これは仏本行経(巻第七の大滅品第二十九)にも同様の箇所が見られた。
仏所行讃と仏本行経は名も似ており(大正蔵原本の注記には漢訳仏所行讃の別名が仏本行経であるとか漢訳仏本行経の異名が仏本行讃伝とある)、「品」の構成に差はあるが、原初はサンスクリット"Buddhacarita"であり、普及するにあたって漢訳までに内容が増えたり減ったりした部分があるのではないかと考える(かなり怪しい個人的見解)。
仏遺教経の内容としては、まず釈尊最後の直弟子「須跋陀羅(一般にパーリ語でスバッダ)」を度したという前置きがあり(須跋陀羅についてある人は釈尊滅後に阿羅漢果を得たと言うが何の仏伝に基づくか不明。仏所行讃仏本行経では釈尊の涅槃よりも先に「雨が小さな火を滅ぼすように涅槃に入った」とする)、続いて比丘たちへ大乗・小乗を問わない普遍的な道理などがシンプル且つ詳細に説かれている。
釈尊の実際の涅槃に際して似たような発言はあった(世が無常だから懈怠なく修行せよという教示は代表的)と考えてよいとしても、多くは馬鳴菩薩(アシュヴァゴーシャ)の慈悲心がお説きになったものであろうか?

仏所行讃自体、サンスクリット"Buddhacarita"の二十八品分で発見されていないので、この「大般涅槃品第二十六」に相当する箇所が馬鳴菩薩のサンスクリット語でどう表現されていたか判断できない(チベットにも中央アジアにも無いものか?)。
漢訳のように二十八品分が残るチベット語訳の、英訳版は無い(漢訳の英訳版はある 1 2)。
この経の注釈書は、インドのヴァスバンドゥ・世親(天親)菩薩の書として「遺教経論」があり、真諦三蔵が訳した(真諦三蔵は他の世親菩薩の書も多く訳した)。
仏遺教経と、インドで撰述されたはずの遺教経論について、梵語の本があるという話が確認されないので、曖昧な情報認識であるから「仏遺教経は仏所行讃から分離して教説を追加して整えたもの」という線を推量するのみである。
経典としてはそうであるとし、教説としては釈尊のものと考えてよい(内容の全編について世の文献学者としては「涅槃の夕べの最後の説法かどうかは判断しがたい」とする)。



続いて、当記事の起草日に近い2017年5月25日の日記メモから、一部抜粋をして載せる。
以下の記録内容は、本文前半における睡眠に関する話の補足ともなろう。
8時20分に排尿してから押入れで「痔のような腫れ(当記事注: 痔・痔ろう・ニキビ・褥瘡のようで10cm超ある・20170527動画(0:38~45)に写真例示)をかばう静養」を取ることにした。この際の独り言は「衆生は心の病を抱えている!心の病は坐って治療に励め!体の病を兼ねたらば寝て治せ!ただし寝る時も『綱渡り』の気持ちでいよ!気を抜けば足元は揺らぎ、地獄の釜や針の山に落ちる。綱を外れたときは掴んで離さないようにして何としても立ち直る。そのように注意して望みなさい」と。横になる・臥すと、数分後には眠気が増える。正念を保っていれば魔の入る余地がないことは仏説の通りだが、私はゆるみが多い。睡魔に襲われて追い払うごとに頭が痛む。お茶・コーヒーのカフェインは、やはり私が眠くなる時間帯における眠気を増やす行為へ歯止めをかけることができない(そもそも真の健康法を説く私は食品の効果・栄養を気にして記録を取っても依存しない)。カフェインを摂らないで午後を過ごしても、19・20時以後の就寝時は全然眠れないという顛倒現象は当たり前となっている。この間も母親は1階リビングでテレビを見たり、2階でバタバタと動くが、どう物音が鳴ろうと眠気は変わらない。このような時間が20~30分続いたのか、1時間以上続いたのか知らない。私が押入れを出た時刻は9時40分以後である。

睡眠に関する補足は、萌えの法門からも少し言及したい。
仏所行讃や仏遺教経に加え、律蔵にも「明相」という表現が見える。
明相とは、仏所行讃において睡眠時に忘れてはならないものとして説かれ、律蔵では睡眠時に忘れてしまうものとして説かれる。

「中夜端心臥 係念在明相」
「亂意睡眠(らんにずいめん)有五過失。一者惡夢。二者諸天不護。三者心不入法。四者不思惟明相。五者於夢中失精。是爲五過失。」

「明相」、それはまさしく、萌道においては、修行者が頂戴した「好色萌相」と考える。
甘美なる睡魔に屈して萌相もとい明相を見失ってはならない!
萌相を想う・念う人は、適度に睡眠を取っておきたいが、私のような5・6時間睡眠か、もっと短時間にできるような努力があってもよいと思われる。
昼夜に道念を絶やさず、想うべき相を失わない、そんな閑居求道者に私はお会いしたい。

・・・この「明相」とは、しっかり四分律などを披見すると「未出」といった表現に関連する。
つまり、「太陽・日の出」や「太陽の動きによって明るくなる状態」を指す可能性もある。
「明相を念にかける・思惟する」といった表現であれば、「世俗的時間を把握せよ・起きてからすべきことを忘れるな」ということか?

今更、パーリ経蔵を見直すとガナカ・モッガラーナへの教説(中部107経)に"rattiyā majjhimaṃ yāmaṃ dakkhiṇena passena sīhaseyyaṃ kappeyyāsi pāde pādaṃ accādhāya sato sampajāno uṭṭhānasaññaṃ manasikaritvā"があり、これは「中夜端心臥 係念在明相」の原意に通じている可能性がある。
この箇所の和訳はネットで「1. 夜の中分には右脇により獅子の如く足に足を重ね、念あり、正知あって、まさに起きるべしの想を常に作意しつつ臥せ」、「2. 夜の中更には、足の上に足を置き、正念正知のまま、起き上がる思いを作意しながら、右脇にて獅子臥をなし」、「3. During the middle watch of the night, lie down on the right side in the lion posture, foot resting on foot, mindful, clearly conscious, reflecting on the thought of getting up again」とあった。
こういった教説は、漢訳四阿含や漢訳律やパーリ経蔵に多く見られるようである。
「明相」という漢語は、瞑想などで思惟すべき対象(そのうち明るいものといえば仏様)を指すのではなく、「明るくなる状態」や派生した意味を包括する単語だと考えられる。
このように眠らないようにして臥せ、「明相の正念」を持つようにする必要が求められている。

現代の科学とか脳科学の方面では、横になって目を閉じただけでも睡眠効果が7割(または8割)得られるという話が聞かれ、科学的な噂はともかく、悟りの人・悟りに近い人・道心が堅固な人などは、心身共にそれで足りてしまうかもしれない。
悟りや道心とは、四諦の道からいえば苦を逃れた果報やその意欲や、菩薩の道からいえば智慧を得た果報やその意欲を指す。
どれであれ、私は悟りに遠く、道心が欠如しているので、指を咥えて眺める状況にあろう。
しかし、こうして学んだだけでも、今の私にやる気が沸いた気持ちである。
科学的な噂も含め、睡眠時間が確保できない・不眠症だという人々の心のケアにも繋がろうか、と思う(眠れないと自覚した悩みによる悪い精神の悪循環を一時的に止められる)。
「最低3時間、5時間、7時間は眠らないと不健康!」という主張は、それが出来る人のポリシーに留め、出来ない人々はこれらの説や発想を用いてほしい。
私は私で、「硬き褥に臥して思いぬ」という精神を大事にしようと思った。
これは、「押入れの中で横になりながら眠らずにいると良いアイデアが浮かぶ」ことを示すフレーズであり、私が2015年から幾度と発している(同年1月の和歌: かたきしとねにふせておもひぬ)。



【煩雑さを厭って本文中に挿入しづらかったネタ】
悟った人・阿羅漢果を得た人・無漏・無学の人が、どのように夜を過ごしているかといえば、全く想像がつかない。
睡眠時に射精することを、現代は「夢精」といい、仏典では「夢精出・於夢中失精」の語が見える。
小乗の説で、煩悩を尽くした阿羅漢の人は坐ったまま眠らないか横臥したまま正念を保つから、性的な夢を見ず、夢精しないらしい。
しかし、いわゆる大衆部の祖「大天(マハーデーヴァ)」は、彼が阿羅漢を自称しながらも夢精したという経緯を弟子(大天に仕えているのでザーメン汚れ袈裟を洗濯していた)に問われ、阿羅漢も天魔の作用によって夢精するという見解を示した(異部宗輪論「余所誘・ほかのものにさそわれること」=阿毘達磨大毘婆沙論「天魔所嬈・てんまになやまされる、夢失不淨・むせいする」)。
どちらにせよ、有学(学ぶことが有る=学び足らない)の人は性交や自慰を禁じた生活を送ってしっかり眠ると、夢精することは有り得る。

律蔵には、自慰・オナニー・マスターベーションなど故意の射精を禁じる「故出精戒"śukravisṛṣṭir, śukravisarga"」があり、僧残法"saṃghāvaśeṣa"という大勢(20人以上)の比丘への懺悔によって僧団に残してもらえる比較的重い罪に該当する。
律蔵は夢精について赦すようで、比較的重い罪「故出精(故意の射精)」にも相当せずに済む。
※律蔵の規定に厳密な比丘衆は今時いるか?僧伽・サンガというものが現存しているか?
無論、先の説にある正念を保っている人に憧憬・尊敬を懐くならば、夢精を自省すべきではある。

2017年7月10日月曜日

仏教はなぜ仏教か?宗教・科学・哲学・倫理・道徳との類似点・相違点、中道と解脱

仏教について、世間では「科学的・合理的だ!」とも、「宗教・オカルトだ!」とも聞かれる。
話を聞けば、的を射ているものから、当ての外れたものまであり、諸説に断定的な肯定も否定もしない私が、肯定と否定とを駆使して仏教が何であるか、中立的な立場で「宗教・科学・哲学・倫理・道徳」と仏教の類似点・相違点を慎重に検証し、続いて修行者の立場で積極的に述べてみたい。



目次 (テンプレートの元)


●概説

仏教とは、宗教・科学・哲学・倫理・道徳、いずれでもあり、いずれでもなく、いずれでなくもない。
教主釈尊・仏がたまたま、これらの良い点を摂取・折衷した教えを説いて仏教と称するのでもない。
端的に仏教を仏教たらしめるものを問えば、四諦の法輪による「苦が滅びる道」が定義できる。
たとえ、仏教がどんな色でどんな味つけをされても、「苦が滅びる道」の目的意識と、その教義理念「中道"middle way, madhyamā"」を外れることはない。

真理はどこまでも説明可能だが、一言では足りず、一億の言葉を尽くしても説明されきることはないように、どのような分野の学問や思想をいくら混ぜても仏教とはならないが、逆に仏教はどのような学問や思想、職業や芸術などをも包括できる。
「仏教」という区別・認識もまた、何らかの定義で説かれた概念に過ぎず、実際は「真理そのもの」とも「真理に至る道」とも、何とでも言い換えられるので、本来は言葉という手段に制限されず、どう表現のしようもない。
「仏教"Buddhism, Bukkyo"」という言葉を言語学的に解釈するならば、2つの意義がある。
1. 「仏 बुद्ध"Buddha" = 覚者 … 覚める बोधति"bodhati"の過去分詞」=そう認識される「釈迦牟尼仏」に説かれた「教え・教義"Doctrine, Dharma, Vacana"」
2. その仏(釈迦牟尼仏)とその所説を「信じる主義・宗教"Religion, Śāsana"」
以上の2つとなるが、それでは「仏の教え"1. Buddha's doctrine"が何であり、どのように信じること"2. Religion of Buddha"が成立するか」を、よくよく考察しておきたい。

当記事では、まず宗教・科学などの分野を個別に論じて仏教との類似点・相違点を示し、続く本論に於いて様々な譬喩で説明し、「中道」の理念を釈尊のスッタ・ニパータと、龍樹菩薩の大智度論などの記述から説明したい。
私は日蓮大聖人の法門を奉じているが、今回のテーマは五重相対でいう「内外相対(内道と外道の対比)」であるから、「阿含時」以来の伝統的な見解を折衷する。
私自身も、日蓮大聖人の甚深の法門を正しく理解するための前方便(下準備)として、よく学んでおきたく思う。


●例を取って弁駁す


【科学・数学など
例えば、鏡やディスプレイの画面は平坦に見えるものであっても複数の材質の層があり、その表面は分子の集まりだとすれば微細な凹凸がある(20170308投稿記事・類似の説あり)。
眼球には複数の構造があって角膜や水晶体(レンズ)が立体的である。
視覚の像(網膜から得られた信号)や鏡の像などはみな平面的な二次元であり、視覚の構造や鏡の構造などは立体的な三次元であるから、絶対的に二次元・三次元という認定ができなくなり、二次元・三次元とは、ある場合の仮定のための概念に過ぎないと知る。
こういった見解は「空の悟り」に近い。
※仮定のための概念でしかないならば会話も不要になって思考が空虚になる。当然、修行者は思考や言語を捨てるべきでない。仏など大慈悲の人も悟りの世界から「離れずに離れて」思考や言語を用いて教化する。思考や言語が空虚ながらにも重要であるという中道・中庸である。

また、人間を一つの生命というが、空気中・水中などのウイルス・雑菌などの微生物は体内に取り込まれて生存しているし、胎児の時から多くの菌が主に大腸にあるなど、一つの身に多くの生命が取り込まれている(寄生虫やシラミがいることもある)。
それを排除しても、「生命活動の主体」は皮膚・体液・臓器・脳などのどこにも無く、ただ先天性も後天性も無く知能・精神が自己の生存や他者の生存を知って生命の概念を認定するのみである。
これは空のみならず、無我・不浄・苦の悟りにも通じるが、それらの思考のみで慈悲などの心が生じたり、冷静な判断力を得る効果や悪い感情を抑制する効果があるとは言えない。
無常の悟りも、高度な科学的分析の果てに有り得るが、同様に精神への影響はさほどでもないばかりか、無我・無常の見解への執着を生じる恐れもある。

科学も数学も、物事を数字に換算するが、それは、どこまでも「言葉と言葉に定義された物事とを知る者自身や、理解が共通する他者」が意思疎通をすることのために行う。
例えば、1つと想定されたコップがあり、それと同じ形・絵柄のコップもう1つを隣に置けば、2つと想定でき、これが"1 + 1 = 2"という数式となり、道理として肯定できる。
しかし、そのコップがどうして「同じだ」と言えようか?
部分的に傷が付いていると気付けば同一性を見失う人がいる。
例えば、キズやシミが付いていると認識された商品を販売しない店がある(つまり商品価値としてキズやシミが付いている商品は他の商品と「見栄えや安全性が等価でない」という点で販売者にとっての同一性が失われたことになる。無論単に販売しないことには別の感情に基づく要因など種々に想定できるが与えられた命題と関係ない話)。
しかも、工業的に大量生産されたコップでも、分子レベルで分析すれば多くの微細な差異が有ろう。
実生活での計算とは、「おおよそ・テキトー」な感覚で、「これは同じだ」と「仮想」しているに過ぎないが、このように仮想した範疇では、どう傷が付いていても、サイズや絵柄が異なっていても「同じコップだ」と想定することができる(基準が曖昧な子供などは同一性と相違性が混沌としているし見た目の話をすると視覚障害者に不親切でもある)。
その延長が科学や数学だが、高尚な学問理解・知識に対する執着を起こした際の道徳的な矯正が存在しないので、仏教と異なる(科学者や数学者は真面目で冷静な印象があるが)。

次に、コップの中に水が入っているとしよう、世間では80mlとか80ccとか80gとかと単位を付けて数値化するが、普通のリットル換算では80mlも80ccも80gも"0.08L"である。
単位が変わっても数値が同じままのこと(80ml = 80cc)があるし、単位が変わったことで数値も変わること(80ml = 0.08L)があるし、単位を置き換えることが通じないこと(ml ≠ Wなど)もある。
その水の体積や質量や重量をどのように表現しても、コップの中の水は無数のH2O(天然水・水道水などに混ざるミネラル分などの不純物を考慮しない)が集まっており、体積は温度によって変化しやすいし、常温に置けば瞬間ごとに気体・水蒸気として遊離する。
真理においてコップごとに同一性は無いが、もし同一性を言いたいならばコップと名付けるものはみな同一のコップであるし、コップの中の水をどう数値化して複数個用意したところで同一性は無いが、数値化した範疇=想定の範疇で同一性が認められる。
定義をして名称を付ける行為は、水の入ったコップに「80mlの水」とか「2017年1月1日0時に汲んだ水道水」とか「この水、飲まないで!」と多種多様にラベルが付けられるよう、人の都合・人の目的・人の便宜のために行われるのみであり、真実には空虚である。
このように「想定・概念・名称・数値」の世界に生きている分野が科学や数学であり、その世界では計算や実験を成功させるための厳密な定義が重要となる。

科学・数学は、何らかの理屈が仏教に共通しても、真理において「算数(さんじゅ)」などの法を否定する仏教の理に適っていない。
いくつか私が例示した事柄を、科学者や数学者の誰かが覚っても、彼らの分野において無関係な見解であるから、素直に受け入れられないか、頭の片隅に置き去りにされよう。
また、そう覚って「想定・概念・名称・数値」の世界を区別し、そこから離れようとする人々が哲学の界隈にいるが、哲学も後述する理由で仏教と異なる。
科学も数学も哲学も、大事な「修行と証果」に欠いているので、仏教と異なる。


※近頃、仏教と、物理学・量子力学などの科学が「同じ一元論である」とする見解が蔓延っている。恐らくは華厳経など一部の大乗経典の説(華厳なら一即多・多即一・事事無礙法界・因陀羅網などとE=mc2や超弦理論)の影響が大きい。一元論を、方便とすれば「言語道断心行処滅」の真理に至るかもしれないが、言葉や理論として執着すれば悟りから離れる。釈尊も龍樹菩薩も「空・シューニヤ"Śūnya"(インド数字のゼロに同じ)」を説いており、中論で「不一不異(または不一不多)」と形容する。同一でも別異でもないというのに、一元性を殊更に強調すると陥穽を伴う。見解への執着で慢心を起こす危険性を孕むし、聞いた人々も満足感に耽溺する。もし教説・見解への執着を自覚できた人は、中論1824章大智度論巻第一、スッタ・ニパータ4章(主に9経12経)などをよく読み、「第一義諦・第一義悉檀」の意義をよく留意して念ずべきである。ある意味で真理は一つだが、上っ面の認識ではその真理を見なくなる。中論・大智度論を深くお読みであった南岳大師・天台大師の一心三観(萌え和讃5首目の脚注で説明)を行えば、なおよし。多元を一元とも称し、真実は一元でも多元でもないが、どちらかのようにも見える。多くの科学者にとっても、何らかの科学分野の定説か学説か何かが仏教教義に牽強付会で用いられることは「そのような見解の学者がいるか、そのような仮説を吹聴しているか」と捉えるであろう。

※酸素は人の生存に必要だが、多いと過呼吸になって死なせ、燃焼すれば人を殺す。物事は、置かれた状況や価値判断など挙げきれない多くの因縁の結果にのみ、必ず善悪が分かれる。こう言っても龍樹菩薩の第一義にとって語弊がある。物事自体に浄・不浄、苦・楽の原因などが無いと説く(中論23:8-9偈)。酸素や水は、善か悪か無記か?いずれでもあり、いずれでもない。水の認識すら、物質H2O(水素と酸素の化合物)という人や、無味無臭無色透明の液体という人や、泥まじりのものしか見ないという人(一部のアフリカなど)もいる。水の用い方は千差万別になる。水中で呼吸できない生物に対する拷問にも使える。つまり、水は億の善と億の悪を有するが、それは無い。一色一香無非中道。中道を空と説き、十二因縁など「無明・価値判断の因縁」を空と説く(中論24:18偈)。物も心も人も、それらの関係性も、「是皆寂滅相(中論23:15偈)」であることを知る必要があると思う。

※「我が身並びに一切は『四大 mahābhūta・四界 dhātu』と称されるものの集まり(四大所成)」であるように四念処の身念処(界方便観・界分別観)で教えるが、それは科学よりも古代ギリシャ以来の自然哲学と似た見解であろう。そこから、「欲界を離れる」こと(いわゆる煩悩から離れること)を志すならば、それはエピクロス主義のような哲学(快楽主義)であるし、体系的な教義と三宝帰依があれば仏教の修行法である。科学的と思われそうな知識が瞑想などの修行に援用されても、単に援用である。それでさえ、部派仏教も龍樹菩薩も「修行者は異なる悪業を持つ者たちであり、みな形式的に同じ修行をすれば一部の者はかえって悪業を強める(異なる病気を持つ者たちが同じ薬を飲めば一部の患者には強い副作用がある)」と説く(対治悉檀などの説)ように、必ずしも科学的である必要は無い。カガク・カガクと言う一部の仏教徒は、古代ギリシャの自然哲学などを学んだ方がよいかもしれない。

【思想・哲学
言葉というものを、言葉が通用する基準の中で種々に思索をしている分野が、哲学や思想である。
物事をばらばらに分けて見る・分別をし、理論や概念を多く生み出す。
その理論や概念で支えた見解は、時として心の苦しみを和らげるかもしれないが、かえって悩みを多く生む。
「これが正しい!これが真理だ!」と、概念に概念を固めることが倒錯・顛倒であると、仏教は真諦(勝義諦・第一義諦)の上で説く。
なぜ人が作り出した概念を組み合わせて真実を計ろうとするか?
尤も、それで満足し、事実に於いて諸々の執着を離れて涅槃に入るならば、一つの仏道の目的の成就ではあろう。

しかし、実際は釈尊が在世より予知せられた通り、現代までの仏教教団の歴史が論争・諍論の本源となっていて涅槃の道を絶やしてしまうことを体現し、龍樹菩薩が中道の意義を以て破折せられた。
故に、釈尊のスッタ・ニパータと、その所説に影響を受けたと考えられる龍樹菩薩の中論・大智度論などでは、特定の概念などについて肯定的に取り上げなかった。
大智度論は建前として摩訶般若波羅蜜経の注釈書なので、大概は「般若波羅蜜(六波羅蜜のうち般若=智慧に関するもの、智慧の完成を意味するとされるが単語の用法としては限定的)」の法を称賛するが、それは「無諍法」として機能している状態にのみ表れる。
更に進み、巻第百(大智度論の最後の巻)では「般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而も法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説いて大菩薩能く受用す。譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」として「般若波羅蜜が秘密(真理の法を示していて小乗の人が知らないこと)・最勝(最も優れていること)」という主張を自ら抑制している。
釈尊も龍樹菩薩も、どういう立場でどう説法せられても、様々な衆生に種々の方便・譬喩などを用い、種々の修行法を示された。
究極としては、偏狭に一説を奉じた原理主義・セクト主義を助長しないように自ら過去の所説を否定するような言い回しもある。
後に詳述するスッタニパータ4章9経と大智度論巻第一では「仏様はどのような見解"Diṭṭhi"戒律"sīla"生活"jīva"や、それによる転生(例: 天界に生まれる、解脱する)があると説くのか?仏様が『これを説く(断言する形で何かを説く)』ということはない」とする。

何であれ、多くの哲学は、言葉・概念の構築によって思考・論議を行うなどしてその結論に真理があると考える(その哲学を疎ましく感じて龍樹菩薩のような卓見を示す哲学者もいるようだが→ヴィトゲンシュタインとかハイデッガーなど?ともに1889年生まれのドイツ語名の人)。
言葉は、言語の形ですら文化・習慣・宗教が反映された限定的なものであり、普遍的な意義のあるものとしても、相対的な物事を示す道具に過ぎず、99%以上の説明を尽くすことができても100%や0%を実現することがない。
思考の結果として発した言葉は、みな正論であるが、何らかの定義・道理を前提(命題)としている場合に限る。
そのように「一理ある」からこそ全体に適うことはないと推して知るべきで、その智慧こそが最も真理に近く、仏教が目指さんとする真理も、「論争」を主題とした場合、このようである。
哲学や、多くの宗教など、みな往々にして異なる真理を奉じてしまうならば、既に真理を自ら絶やしたことになる(異なっている現象をそのまま如実に見れば真実でもあろう・私が真実を限定すると真理から離れる)。
これもスッタニパータ4章の随所に説かれ、龍樹菩薩も大智度論巻第一に引用していることは過去記事に私が紹介する通りである。
※究極的にはどんな主張も、主張の中身を言語の法として理解するのではなく、主張が発せられた縁起を見れば、それで真理に通じるのかもしれない。これをまた「人の世の常」と端的に表現する、真理の一端である。

「形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理」
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html

【倫理・道徳(政治)など
仏教を標榜する教説といえば、法句経(ダンマパダ)の「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教(七仏通戒偈と天台大師が名付け一般認知される)」であろう。
そのように悪をなさず、善を行うことで、自然と心が清まることが諸仏の教えであると説く。
これを現代の価値観で額面通りに取ると、一般的な道徳(勧善懲悪)そのものとなる(もちろん偈としての意味はそうでない)。
道徳といえば、恐らく学校教育でも、国語や道徳の教科書に「雨ニモマケズ」や「蜘蛛の糸」などが載っており、どちらも仏教から影響を受けた作品である(前者: 常不軽菩薩、後者: 謎のお釈迦様)。
教科書に載っていないとしても、仏教の道徳性ということを考える際、世間一般に伝える場合はこの2作品を例に取るかと思う。
後述するよう、他者への寛容・親切心という消極性のみならず、能動的に自己犠牲というような利他主義・奉仕精神の積極性が求められてもいる(大乗仏教との親和性が見られる)。

倫理、道徳。その目指すところは、健全な人間関係・社会の実現というものか。
現代文明の大勢は、民主主義・人権尊重・人道主義・自由主義、そして多様文化や宗教多元主義である。
既にいくらか健全さがあるからこそ、より良い健全さを願って倫理や道徳を重んじようとする人もいる(あるいは利益や保身のために振る舞う偽善もあろうが)。
仏教団体の維持も、共産主義者(例: ポル・ポト、中共、ほか社会主義・国家主義)や異教徒からの迫害がよほど強くなく、民衆の信心が保たれる時代と場所において有り得ている。

理想的に健全な社会とか文明とか、世界平和は、多くの修行者の成長(解脱など)と仏教の流布の結果にありえるかもしれないが、仏教の流布で必ずしもそうなるとは、誰も断定できない。
仏教徒はなおも論争を好んで派閥内の分裂を多々起こしてきたように、人間関係ですらギクシャクしてしまうことが歴史的経緯・現代の教団(ただし大勢としてリベラル思想・ヒューマニズムを重んじて仲直りをしようとする)に明らかである。
しかし、教団同士の問題はどうであれ、個人レベルで解脱した人は別の方面でいたろう。
仏の在世にすら自殺で死を目前にするも自殺意思を別問題にして涅槃に入ったゴーディカ(相応部"SN, Saṃyutta Nikāya"4-23経)・ヴァッカリ(同22-87経)尊者などがいる。
仏教と、倫理・道徳とは、教えも目的も似ているが、明らかに異なっている一面がある。
理想的に健全な社会とか文明とか、世界平和は、副次的な結果として有り得ても、仏教が目指すところではない(あえて言えば維摩経や法華経でいうように元から平和な世界=悟りの教理として娑婆がそのまま仏国土・浄土・常寂光土と呼ばれる)。

修行について、菩薩の布施行や四摂法などを見ると、慈善事業や社会奉仕活動のように思われる一面もあるが、あくまでも自身の解脱や他者を仏道へ導く方便・一手段に過ぎず、それ自体は美徳と言われない(通俗的に見て尊い行為かもしれないし心が清らかであれば功徳かもしれないが)。
布施といえば、六波羅蜜では一番初めにあり(パーリ語経典で10挙げられているものも同様)、まず自分の無駄なものを捨てるとか、物質的な執着を最低限まで減らすこと(俗世からの出離とも)に意義があり、そうして「持戒(戒の原語"śīla, sīla"は道徳的な習慣という意味がある)」などで自身を守り、忍辱・精進・禅定というように修行を積むものである(布施には法施といって物質的なものに限らない側面もある・化他行の一種)。
道徳の理論や思考などにおいては、「公平無私」といっても、自他の我・アートマンを排除しない上でのみ成立しているし、その範疇を出ることがないので、「無我」を説く仏教の教理とも異なる。
何度も繰り返すよう、仏教とは目的が異なっているので、教義にもその結果として類似点と相違点が表れる。

菩薩や仏の慈悲とは、教理にあるような無我や空の悟りによって偉大であり(過去記事)、そのように自己の仏教的な悟り("仏教的な"とは語弊がある・この悟りはそのまま世俗に通用して哲学・科学にも相違しない)や、最低限の理解が求められている(三縁の慈悲の説など)。
これを言い換えて「忘己利他・慈悲之極 (伝教大師の山家学生式)」とも言うが、「空の悟り」から一旦離れ、悟りの心のまま「仮の世間」に出た立場「自他の我・アートマン」が前提である。
絶妙に「空・仮」を使い分ける仏・菩薩の「中道」の智慧による慈悲は、堅固であって絶大である。

【宗教】
仏教とは、当記事の冒頭に説明するよう、現代人の一般認識は西洋の"Buddhism"に対応する訳語として用いられている。
"Buddhism"としては「仏 बुद्ध"Buddha" = 覚者 … 覚める बोधति"bodhati"の過去分詞」=そう認識される「釈迦牟尼仏」に説かれた「教え"Doctrine, Dharma"」というよりも、その仏・所説を「信じる主義・宗教"Religion"」という意味合いの方が強い。
「宗教"Religion"」とは、西洋の概念であり、その目線から様々な部派・宗派を包括する名称として「仏教"Buddhism"」が提唱されたと考えてよい。
ブッダ बुद्ध"Buddha"が梵語である場合、バウッダ बौद्ध"Bauddha"は梵語のヴリッディという規則に従って仏教徒の名詞や仏教に関するものの形容詞(英語のBuddhistと同じ)になる。

「宗教」全般は、説いても説けない・認知しても認知できないはずの客観的真理・絶対的真理・存在(形而上学的云々)が有ることを信じ、その補助となる教説および教祖を信じる場合が多い。
その真理・存在や、教説と教祖とを信じること=信仰は、一般の信徒から施される金銭として表れ、宗教団体の維持や宗教家の修道(修行)を補助している。
戒律の厳しい仏教団体(サンガなど)はその場しのぎの衣食を乞い、所属者(僧侶)は金銭を持たない(触れていけない決まりがある)はずだが、現代にはほぼ存在しない(東南アジア・スリランカの上座部仏教の大勢も同様)。
この形態は広範な布教に現れているので、宗教は日本古来の神道など家系や土着性を重んじている「祭祀(おまつり)・崇拝」の方面と区別されることもある(祭祀を朝鮮語でチェサ"jesa"とも呼んで似たような文化性が見られる)。

※神道などの「祭祀」は、自己・家族・村落などが本意であり、よそのものには融通が利かないから、「宗教」と異なって広範な布教が出来ないが、神道に限っては明治以後の近代化によって既成宗教の影響で海外への流布を目論んだ経緯もある(日本書紀「掩八紘而爲宇」を根拠とする近代の八紘一宇思想で天照・天皇の御稜威が日本国に限らず世界に普く及ぶという理解に基づく)。宗教の道徳性・勧善懲悪は、高尚なる教祖とその教説への信仰において成立するわけだが、神道の場合は具体的な聖典に欠いており、教祖も存在しないが、ある程度の時代は日本書紀・古事記に基づいて神武天皇の実在を前提とし、戦時中は天皇陛下を現人神として崇めていたので、宗教性がある(世界宗教や土着信仰の中間とも言えようか・一国型宗教)。明治以後に泡沫の如く発生した新興宗教の中には、仏教やキリスト教などから影響を受けた「超宗教・諸教同根」の団体も多く、これらは紛れもなく「祭祀」ではなく「宗教」と分類する(実際に本来の神道にある氏子という発想が薄れていて俄かに発生した神秘的な教祖やその家族などに利益が集まって本来の神道と異なる)。なお、インドの祭祀と思われる婆羅門・ブラーフマナ・バラモン教と呼ばれるものは、アーリア人(印欧祖語から派生したと推定されるヴェーダ語・サンスクリット語を用いたインド・アーリア人)のセンスが効いたヴェーダの教えであって「宗教」である(ヴェーダ以前の祭祀は不詳)。

仏教団体のスタンスも、そういった一般的に宗教と呼ばれるものの形態によって布教があり、維持があるし、多くの教団は現代国家の「宗教法人格」を取得している以上、自ら宗教の立場を肯定し、国法を順守していることになる。
さて、当然、このような教団の形態や、信仰の性質は、紛れもなく宗教そのものであるが、だからこそ「教団の形態・信仰の性質」の観点での宗教性を確認するのみであり、教義の方面まで他の宗教との共通性があるかは断定できない。
ひとまず、一般認知される「仏教」は宗教であり、信奉のある集団もまた多くの例が宗教団体であることは確定した。

教理についていうと、先に「説いても説けない・認知しても認知できないはずの客観的真理・絶対的真理・存在(形而上学的云々)が有ることを信じる」という話をしたが、一般的にその例は「世界の発生・自己の前世・死後の世界」などである。
人々を導く上でモーセにせよイエス・キリストにせよ、釈尊にせよ、みな説明の必要があったろう。
キリスト教など一神教・啓典の宗教と、仏教がどう異なるかといえば、因果応報による六道輪廻(または五道)の話がよく引き合いに出されるが、説明を略す。
そのような因果応報とか善悪業報とか、輪廻転生とか、実在としての六道といったものは、相手を選んで随時、釈尊が説くことはあったろう(いわゆる対機説法)。
人の心の状態としての六道(喜びは天界のようだ・人々は地獄のように苦しむ)という表現もあるが、どのような意義の教説であれ、様々に説き、ある時は肯定し、ある時は否定する。
この性質がパーリ語経典(スッタ)・阿含経典(アーガマ)にせよ、大乗仏教にせよ、よく現れている。
後述のスッタ・ニパータ4章9経と大智度論巻第一の教説や、過去記事にも説明した「四悉檀」の意義や、部派仏教の論蔵・大乗の般若経典・中論にある「二諦」の意義をよく考慮すべきである。

各人の立場で取るべき信仰・教義があり、これを(生死の大海・三途の川の)洲"dīpa, dvīpa"とも筏"kulla, kola"ともいう。
「取る」ということは「捨てる」場合もある。
それは、「能動的に捨てるもの」として「筏のたとえ"Kullūpamaṃ, 中部経蔵・マッジマニカーヤの22経など、中阿含経では阿梨吒経に載る"」が著名である。
※同中部22経や阿梨吒経は先に「毒蛇のたとえ」が説かれる。毒蛇を捕まえるために中腹を掴んだが蛇の頭が手に噛みいてきて苦しみを受ける者Aと、毒蛇に対して道具で制して頭を上手く掴んで噛みつかれずに済んだ者Bがいる。仏の教説を聞く場合も、表面的な理解のせいで論争したがって苦しむ者Aと、正しく理解して自他の解脱の役に立たせる者Bの二者がいることを説く=どんな教義でもその人が迷うことも悟ることもあるという。善悪の二面性=一如=無(不一不異)にも通じる。どんな教義にも善悪の二面性があることを言えば、どの宗派の教義・修行でも正しく理解して実行すれば解脱(涅槃・成仏・往生)を得られるということになる。しかし、この高尚な道理ですら「修行せずとも成仏できる」とか「仏教じゃなくても悟りを得られる」などと気が変わる恐れがある。どの宗派でもよいと理解するからこそ、既に信心を決めた人々は、当然、自分の宗派が自分に最適だと信ずべきであり、無宗教の人・困っている人に勧めよう。まさに正法。

能動的に捨てずとも、修行して解脱の徳の高い者は、無意識に執着を離れているかもしれない。
このように、スッタ・ニパータ・阿含など小乗仏教・上座部仏教系の諸経から、大乗仏教の経・論まで、「客観的真理(真諦・勝義諦・第一義諦とも)」に近い方面では基本的に一貫した見解のようである(この一面を現代人が仏教は合理的だとか他の宗教と異なるとかドグマが無いとかと称賛する)。
「中道」の立場で言い直せば、「真理に通達した見解がある=それは見解と言えない=見解と言えなくもない」となる。
教義や教祖(教団における目上の人・法蠟の高い僧侶・在家信者に対する僧侶などを含む)に対する信仰が、あくまでも「目的のための手段」というスタンスを説明し、解脱などの目的を成さんとする時にはブッダ様とそのダルマ(ダンマ)にも執着してはいけないとする(複数の宗派の信仰においては仏様への信仰と関係のない雑念や未練を断って成仏や往生を念じよと説く)。

当然、私を始めとした多くの現代人は未熟者であり、心も脆弱であろうから、釈尊やあらゆる所説、並びに諸々の大徳や現代の宗教指導者を信仰・尊敬すべきである(ブッダ・ダルマ・サンガの三宝の一体性を考える)。
先の六道輪廻などの教理についても吟味し、信仰とまでいかない哲学的合理性でも何でもいいから、肯定的に見ておくべきである。
今までに論じてきた内容を総括して言えば、他宗教に無い仏教ならではの教義の特徴が中道の理解である。
本論からも深く「中道」について考証するが、興味のある方は「論争・アートマン(本質・エッセンス)」をテーマにした過去記事も参照されたい。
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/10/heretical-dogmas.html

※なお、仏教における「説いても説けない・認知しても認知できないはずの客観的真理・絶対的真理・存在」とは、そういった「世界の発生・自己の前世・死後の世界」という大層なテーマを設けずとも、般若経典や中論や、多くの大乗経典では、万物自体が万物であって万物でない、認識できて認識できないような「中道・真如実相・言語道断心行処滅・不可説・不可得」のものとして説明する。どのような存在・非存在・想定された事物であれ(自己・他者・仏・我が心・行為…)、みな寂滅の相であるという教理(中論23:15偈)であり、特別なテーマを要しない。



●総括・本論


仏教とは、宗教・科学・哲学・倫理・道徳(ほかのカテゴリーとして医療・健康・文学・芸術・音楽・スポーツなども挙げられる)、いずれでもあり、いずれでもなく、いずれでなくもない。
唯物論でも唯心論でもあってなく、どちらでなくもない。
性善説でも性悪説でもあってなく、どちらでなくもない。
教主釈尊・仏がたまたま、これらの良い点を摂取・折衷した教えを説いて仏教と称するのでもない。
※唯物・心論については、仏教でも物を物として分析し、心を心として分析する二元性を見るが、更に物心一如(または色心不二)といい、物と心の元々が一如とも言えない無・無相という。性善・悪説については、菩提の性善・煩悩の性悪のいずれも説く中道である。二論二説みな空虚な定義で議論を促進するに過ぎず、机上に留まる。

ある道理や基準に則って物事を見たとき、現代でいう宗教的な見解・科学的な見解・哲学的な見解や、唯物論・唯心論などという区分に当てはめるが、仏教はただ真如を説こうとする(真諦)か、真如が何であるかを理解させるまでの方便を説いた(世諦)に過ぎない。
むしろ、余(ほか)の宗教・科学・哲学などがたまたま仏教の教説に似たというべきであるが、互いに模倣した・影響を受けたなどとも考えるべきでない(邪見を持つべきでない)。
釈尊は、悟りの内容を智慧と慈悲とによって明示せられた、と私は信じており、その結果として宗教・科学・哲学・倫理・道徳や、唯物論と唯心論や、性善説や性悪説に類似する点も含まれたのみである。
更に私は、この意義を「中道」と説く。
たとえ、仏教がどんな色づけ・どんな味つけをされても、中道を外れることはない。

つまり、仏はお一人であり、お一人でなく、お一人でなくもない。
真実の法は唯一であり、唯一でなく、唯一でなくもない。
この「そうである、そうでない、そうでなくもない」という三者は、常に「ある道理において」という理解が前提にある。
例を挙げれば、「(ある道理において)仏はお一人であり(歴史上の釈尊)、(ある道理において)お一人でなく(信仰上の諸仏や一切衆生悉有仏性)、(ある道理において)お一人でなくもない(釈尊も諸仏も実在と言えない・真実には仮名ケミョウあるのみ)…」、あらゆる物事"sarvadharma"についても同様に考察できる。
仏と、仏に説かれた法とは甚深微妙であり、稀有殊勝であり、帰依すべきである。

目の見えない人(盲人)たち(群盲・衆盲)に大きい象を触らせる例え話・譬喩がある。
彼らは当然、象の姿を見たことが無い上で、「象」がどのようなものかと考える。
鼻を触った者は「象は立派な大蛇のようだ」と言い、しっぽを触った者は「ぞうさんって細いね」と言い、脚を触った者は「象は樹の幹のようだ」と言い、脇腹を触った者は「ゾウとは岩なのか?」と言い、牙を触った者は「象牙そのものだ(象と象牙は同一だ)」と言う。
目が見える者ですら、象は人間やほかの動物と比べてとても大きいと言ったり、世界に比べれば同じちっぽけな存在だという。
みな、一面的な道理とその思考の中では正しいが、そのために、普遍的真理・ありのままの真実を曇らせる言い方に陥っている。

龍樹菩薩の論法は、全て空の雲が水の粒の集まりが見えるのみであって「雲そのもの」という実体がないようなものと打ち破り、雲のあるがままに燦然たる太陽を明かすものである。
地球に我らが生存する限り、雲を払って太陽を明かしても、水の粒の層(大気圏)は晴れきることがない。
地球とは心が捉えた外界、我らとは心そのもの、雲とは貪瞋癡という三毒の煩悩であり、太陽は悟りである、人は呼吸をするから常に水蒸気が発されるが、これに譬えた。
人が世に生きていれば煩悩・業・苦があり、悟ったとされる仏や菩薩もまた凡夫を教導するにあたって意識・言語・修行などの三業を用いているが、仏・菩薩は速やかに涅槃に入られる。
凡夫もまた、本来は無我であれば、煩悩・業・苦と呼ぶべきものも無であり(中論23:3偈「無我諸煩惱・有無亦不成」)、仏・菩薩と凡夫とは「毫釐の差別も無し(中論25:20偈)」である。
これも中道の要義である。

真実の仏法は円満であり、我々の見る教理はいびつな円のようである。
円とは不思議なもので、数学の円周率をどこまで計算しても求められないように、円満の中道を実現したくとも円周率のように100%を求めきれない。
完璧な円・完全無欠の円は存在せず、円周率は無理数(むりすう"Irrational number")の代表例(万物自体当記事で詳述のように一杯の水=無数の分子で構成されるように無理数だがこれはメタ数学的な話である)となるが、世間の事物ならびに仏法もまた不可数(ふかしゅ"innumerable, uncountable"、華厳経入法界品や大智度論など)である。
だからこそ、円周率は"3.14"という、ほどほどの慣用的なものを算数の授業に用いるわけで、仏教徒も借り物の真理(主観的真理)を現世に活かさねばならない。
※より簡略的なものにはπ(パイ)がある。仏教では「南無」の言葉などがこれに当たる。

宗教と思ったらば宗教、科学と思ったらば科学、哲学と思ったらば哲学、倫理・道徳と思ったらば倫理・道徳、それらのイートコドリと思ったらばそれらのイートコドリと思う。
思い込まない・執着しないことを目的に、そう思って意業を慎むということである。
迷妄はそのまま真実であることが大乗の極理となるが、迷いと悟りという仮の区別さえつけづらなくなった私は、狂乱してすでに正気でないかもしれない。
さらっと邪説を唱えているかもしれない。

今、端的に仏教を仏教たらしめるもの(エッセンスといえば語弊があるが)を言えば、まず小乗以来、四諦(苦あり・苦の因縁あり・苦は滅ぶ・苦を滅ぼす手段あり)の初転法輪による「苦が滅びる道」が定義できる。
苦を滅ぼす・輪廻からの解脱という目的を掲げた仏道があるが、この「道」の認識こそが仏教を仏教たらしめるものである。
その「道」に資する教えは、みな仏教、覚者"Buddha"の教えである。
人々は、その教えの中の一つや二つを見て、宗教・哲学・科学・倫理・道徳のいずれかに似ていると主観的価値判断を種々になしている。
先に言う、目の見えない人々・目の見える人々が、大きな象を種々に形容したように。

象 可愛い 怖い 可愛 可恐
拾主「於汝意云何?象者…可愛耶?可怖耶?」 尊者「二倶不然!」

もし、この象という概念が「暴れるもの」と認識されていれば、「象」の名を聞くだけで人々は怖じ恐れる(概念を頭に思い浮かべるだけでも同様)。
暴れ象でなく、「可愛い象さん」という甘美な思い出のみあれば、象が暴れる可能性を考えずに安心しきってしまう。
「象」は、怖いものか?愛らしいものか?
どんな判断であれ、恣意的な認識・感情が伴うものであれば、みな虚妄であり、真実ではない。
小賢しさも愚かさも迷妄であり、結果的に苦を結実する。
「象」が、幸せの根源だとか不幸の根源であるはずがないように、どんな物事にも「浄・不浄」「愉快さや不快さ」の根源が存在しないと悟ることは大乗の理想でもある。

ちなみに私は、小さな虫すら、部屋で見ると恐怖を覚える。
「人間の住み処にいてはならない存在が自室にいることは怪異(けい)である」という恣意的な価値判断がある(人間の住み処という想定も世俗的な妄想)。
暗闇で蛇のような影を見て恐れることも、影の正体が単なる縄であると知って恐れを消すことも、蛇(怖いもの)や縄(怖くないもの)の価値判断(妄想・顛倒)に基づいているから迷妄である、と説かれる仏教において、修行者を自負する私が不埒の極みである。

※唯識・瑜伽や法相宗などを中心に「蛇縄麻(だじょうま)の喩え」として有名であるが、これは摂大乗論(漢訳2種どちらも)に出ているものであり、麻に言及しないものとして楞伽経(漢訳2種どちらも)がある。「蛇縄麻の喩え」は唯識・瑜伽・法相宗の方面で「三性"trisvabhāva"=遍計所執性(縄を見間違えて蛇と思い込む状態)・依他起性(縄と知って縄を真実だと執着する状態)・円成実性(縄は真実の存在でなく麻糸の集まりで造形されたものを縄と知って全ての執着を無くした状態)」の説明に用いられる譬喩である。仏教も、宗教・科学・哲学・倫理・道徳など何らかの分野に似るが、いずれかであるとか、いずれかの良さを持ったする何かだとする見解に執着すべきでなく、仏教をどう説明しても仏教とならない「円成実性"pariniṣpanna"」の立場(中道)を知らねばならない。縄は麻糸の集まり・我が身並びに一切は四大と称されるものの集まりであり、五蘊のプロセスで縄とか麻糸とか肉体とか四大とかという概念・物事を見聞き・認識・分別していること・・・みな円成実性=都無・実有・中道ではないか!!一色一香無非中道!と、こういった主張にも拘泥・執着すべきでない。例えば、折角手に入れた宝珠・水晶玉=中道真如仏教が、曇って最後には砕けてしまうであろう。



さて、仏教らしい研鑽をする者でも、例えば仏教学者は、「名(名目)」としてのみ仏教である。
仏教学という学問は、これまた学問の範疇にあり、仏教そのものではない。
先述の「道」、つまり、苦を滅ぼすことや解脱することを目的とした「道」の意識が無く仏教を学ぶならば、仏道修行者でも仏教徒でもなく、単なる「学者さん」になる。
学位の取得などを目的としていることもある、学問の人である。
一方、僧侶の姿をしていても、「社会!シャカイガー!」とばかり「法話」をする人もいる。
世界平和を夢想する倫理・道徳の人である。

日蓮大聖人の御書から言葉を借りると、辛口ではあるが「但だ名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者」や「法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし。法師と云う名字をぬすめる盗人なり」であろう。
「道」の自覚の有無で、仏教か否かは明確に決まる。
※そういった学者さんやお坊さんが実際に解脱を目的とした「道」における一手段・方便として学問なり社会貢献なりをしているつもりならば、もはや私は容喙できない。そもそも他人の心をみだりに推し量るべきでないが、説明のために記した。

無論、「道」というからには、自覚と教えに加え、修行すること(行)、果報を得ること(証)が重要になる。
些細なことからでも行動し、その結果を確認してゆくように、反省と努力を絶やさない。

なお、解脱という目的についても、どのような修行などが有効であるかといえば、一般に「戒・定・慧」の「三学」が重要であるとする。
しかし、それら三学とその中身(五戒や止観など)や、六波羅蜜などに拡げて考えても、その経典の中では強く奨励することもあろうが、教理の究極においては、必ず解脱を成すとは説かない。
これは、スッタニパータ4章9経に説かれ、大智度論巻第一に「阿他婆耆経(摩犍提の偈)」の名で説明がある。
スッタニパータの当該箇所では、釈尊が、娘を嫁がせに来たマーガンディヤ(大智度論では摩犍提)という在家の人から「(あなた釈尊は)あらゆる王が愛して求めた美女(彼の娘を指すか不明)を求めずに、どのような見解"Diṭṭhi"戒律"sīla"生活"jīva"や、それによる転生があると説くのか?」と問われ、「『これを説く(断言する形で何かを説く)』ということが彼(Tassa, 有って無い自己と諸の覚者を仮想した=釈尊ご自身)にはない」として説明した。
つまり、そういった「見解・戒律・生活(=教義や修行法)」の形式が「必ずこうであれば解脱する(suddhiṃ・清らかになる)」と説くことがない、という意味である。

多くの宗派の教義では、その宗派の修行法を、「解脱=涅槃・成仏・往生などの目的を達成する有効な手段」として主張し、唯一の大道と宣言することもあるが、それは主観的真理の確信において肯定される。
実際の中道の立場では、どのようなものでも、言葉にするならば肯定的な断定ができない。
釈尊と龍樹菩薩は、中道の立場に於いて説く場合、「それ(上述の教義や修行法)・それでないこと」を提示しながら、更に「それ・それでないこと」をも全否定せられた。

龍樹菩薩は、大智度論巻第一において、その説(厳密には少し異なる)を、多くの経典の最初にあって阿難尊者の発言と信じられる「如是我聞"evaṃ mayā śrutam (パーリ語: evaṃ me sutaṃ)" (このように私は聞いた)」の「如是(このように…)」に関連付けている。
つまり、「如是我聞(別の訳に我聞如是や聞如是もあるが)」とは、阿難尊者が「このように聞いた」ということであり、「私はこう聞いた(我聞之)、私が"このようなこと"を聞いた(我聞如是)」という断定が伴わない微妙なニュアンスを持っている。
阿難尊者など阿羅漢が「こうだ!絶対こうなんだ!」という断定の表現を使うはずはなく、梵語でいう"evam"、漢語でいう「如是」という語は極めて重要であることを、龍樹菩薩が示されている。
解脱は、物事の束縛から解放・脱出した境地であり、何ものにも制約(束縛)されないことをあえて言葉の制約下に表現した単語であるが、実際について、学問・見解・戒律・修行法などに制約されてはいけないし、そもそも制約されるはずがない。

確かに千ないし千二百五十ないし無数の阿羅漢は、仏の教導のもとに解脱したか、そうであると信じられてはいるが、現今の仏教団体に解脱の可能性が制約されることは、本当に「解脱」と考えるべきか?
それでも、修行者たる私は、釈尊という仏を尊敬し、諸仏の教えと自己の仏性とを信じねばならない。
これもまた、「(修行者の目線にとっての)仏教(の一面)」であるから。

※解脱は不可思議であろう。仏教学者の見解を受けた人々はしばしば「形而上学的な輪廻・解脱・涅槃のことについて釈尊は説明をやめて沈黙したんだ!(十四無記の説)」とばかり強調する。あえて中道の意義によって説明するならば、龍樹菩薩の中論「自・他・共・無因」の区別法に則った天台宗の「四性計」がある。解脱の成就とは、理論・教義・絶対神などの他力によるものでなければ、修行などの自力によるものでもなく、その両方の調和・折衷(他の教えを聞いて自分で考えて修行)という共力によるものでもなく、何もせずに成就する(そもそも最初からしている)無因力によるものでもない。何らかの原因は解脱の結果からいくらでも求められるが、自力・他力・共力・無因力のどれかに限定などできないし、安易に推量してもならない。これを「不可思議」というので、秘密主義というものでもない。いずれでもあり、いずれでもない、円満・中道である。私の所説を素直に理解できれば解脱の土壌を耕せている。

スッタニパータ・般若経典・中論・大智度論など、釈尊・龍樹菩薩は、悟りの立場で「否定的な中道」と「あえて仮名(けみょう・仮に名付けること)する」という論理を示してきたが、更に深まった大乗経典=法華経・維摩経・華厳経・涅槃経などでは不染不浄の娑婆世界をあえて「浄土(法華経・維摩経の"Buddhakṣetra"を鳩摩羅什三蔵がしばしば浄土と訳した)」と名付け、天台宗などで依正不二・常寂光土とも説くようになり、萌えの法門で清浄萌土の譬喩に援用する。
このように「仮名」の意義から、「積極的・肯定的な中道」となった(悟りの人・信心の深い人以外が見ると誤解を招く危険性があるので大乗が秘密の法門であるともいう)。



本題に関して仏教を真実の立場で説明するならば、やはり相手の「仏教はこうだな」と思うところ(宗教・科学・哲学・倫理・道徳のいずれかを想像)を推量して粉砕することに始まる。
それが龍樹菩薩らしい「中道(否定的なもの)」の論法である。
相手の「仏教はこうだな」と思うことを許容したいならば、それ以外のことについても例示して肯定すると、それも「中道(肯定的なもの)」の一類である。
その際は先述の「如是我聞」のごとく、「(ある場合は)宗教のようだ・(ある場合は)科学のようだ」といった、断定的でない表現(推量表現)を用いると、より良い。

何よりも、修行者であれば「苦集滅道(声聞・小乗の場合)」や「皆成仏道(菩薩・大乗の場合)」に則った教えを奉じることが、修行者の「主観的真理」に適った「仏教」ではなかろうか。
パーリ経蔵において相応部(サンユッタ・ニカーヤ)56-31の経"Sīsa­pāvana­sutta"は、仏自身が説いた教えは「苦・集・滅・道」の四諦に則ったものであってそれ以外の何物でもないことを、「手に取った葉っぱ数枚(四諦に則った教え)」と、「背後の林の樹々の葉っぱ(それ以外のこと)」に譬えている。
これは、仏自身が「仏教"Buddha's doctrine, Dharma, Teachings"とは何か?仏教はなぜ仏教か?」を示した教説と拝す。







起草日: 20170428

原案は起草日の前日就寝時に録った音声である。
動画として投稿し、以下に埋め込みプレーヤーとリンクとを掲載する。


http://www.youtube.com/watch?v=ACOa22TWnXo

上掲動画の説明文には、本題にある四句分別のような表現について注釈している。

注釈: 「①これである、②これでない、③これであってこれでない、④これでなくもない」という類の論理は「四句分別」の一種かと思われる。その前提で音声ファイルを添付したメールにはこのような一文を添えた「(半角カナ打ちのものを校正→)このような四句分別をし、さらに言語を離れたものが仏教だが、そうともいえない。客観性に近づいて言えば、それこそ仏教の真理に通じるが、修行者の主観性も尊重すべきである。つまり、『いずれか一つである(仏教はカガクテキだ! or サイコーのテツガクだ!等)』と仮に信じてもよい。それが菩提の道の灯火となるならば(菩提の道の灯火=三途の川の洲"dīpa"とも筏"kulla, kola"ともいう)。」

最も仏教の「妙」といえるものは、何か?
無執着とされる境地もまた「不可得」であり、常に反省(止揚)を続けて「形式的教義"Doctrine"」に囚われて囚われない境地がそれである。
形式的教義を超越すること、その手段=方便が形式的教義であり、このような境地は「最妙」であり、「醍醐味」ともいう。

私はあくまでも「内外相対」を明確にすべく「四諦・四仏知見」に基づいた全ての教えを仏教とし、「中道」の論理を用いたが、仏教の「醍醐味」は、常に正念を保って善悪を自覚し、反省の努力を続ける人から学ばれよう。
改めてそれは「無執着・不可得・中道」の「事実相(五感で認知・世俗的価値判断できること)」といえる。
仏教はその「事実相」を示す教えを含み、仏はその教えを説いた事実相の本人である、と信仰をしてやまない私である。



上掲動画の音声は、携帯電話のバッテリーが切れそうな警告を携帯電話が強制表示したために、録音が途切れた。
携帯電話・バッテリー切れの現象は2016年以後に顕著な現象であり、ときどき日記メモ(16/01/0116/03/12後半など)に記録する。
充電器・充電コードの半壊状態は2014年からであろうが、最初の記録は2015年11月「日記メモ啓発月間中の本家ブログ」の記事のうち、11月17日分のもの(前日メモとして載る)であろう。
この現象は、2016年末より某サイト・携帯電話アプリ作曲を控えるようになった経緯に大きな影響を与えた(2016年末まで2ヶ月間・適度に携帯作曲をしていたが当時も不便さを多く感じていた)。
ちなみに2016年末から、某サイトにかわってYouTube音楽チャンネルの動画投稿を本格化した。

上掲動画の説明文には、動画中にも確認できる充電切れ現象について説明している。
携帯電話のバッテリー劣化・充電器の不安などは過去の日記メモで幾度と説明しており、この音声が途中で切れている状態も、バッテリー劣化・充電器の不安によって電池残量が不十分であるためである。
それでも、この日の独り言の概要は、音声の中でまとまった。
途切れた箇所も、上手く要旨を留めた。

2017年7月2日日曜日

Google+ 2017年6月中の日記メモ

6月7日の日記メモ…配達受け取り関係のメールが私の眠る前日23時7・8分の計2度に送られた。
5月30日に行った母との会話が発端であり、私が「"非常時における"配達受け取りの恒久的な補助」として合意したが、この内容を逸脱した6月6日11時の母の急な依頼も仕方なく承認して実行した。そんな同日、私が眠っている23時7・8分の計2度に無恥なメールが届いた。懸念した通りに箍が外れる放縦さである。

要点のまとめ 
・母が復職せずに家にいる間の「暇つぶし・欲求満足」であるネットショッピング利用を私が助ける道理はないが、やられた結果を拒絶する気はないので受け入れる
・私は私の「毒を飲む」精神の修行として活かせるだろうが、母の立場を鑑みると本人がますます放縦・放逸な人間になる。悪の自覚・反省をしてもらいたいが、後述の理由あって私は黙る
・家の中で騒がしい運動をにわかに行うが、散歩は稀であるし、外での楽しみが持てず、家で大人しく過ごせない(テレビの影響で「食べ放題」に行くことを散歩と称した5月31日)・もし母が家で大人しく過ごせない気質の「昭和ばあさん」(2階の空き部屋の家具などを動かして音を立て続ける行為が常態化している・あらゆる物音は昼夜を問わず小さくしようという気遣いが無い)であれば、復職すべきである→困難
・もし母が物を買いたがるなど物欲が旺盛で、物質的な満足しか無い俗人ならば、職業や交友関係を持つべきである→困難
・結局昭和ばあさんなので、1階リビングで「くだらないテレビ(6月8日の母の独り言)」番組を見たり、家の中でせわしなく掃除などをして掃除することを誇ってみたりして頑迷さを強め(家を掃除して自身の心を汚して他人の心を荒す本末転倒の人・12月8日メモより)、部屋ではネットショッピングサイトを眺めたりFXや株式を軽く楽しむ(5月8日: 株価の数字に大喜び)くらいしか、楽しみが無い(弟は母親といる時間が心地悪くて母親との会話が険悪になると仕事の再開を求める発言もする)
・母親はいずれの問題にも自覚が無いし、もし諭せば「忠言耳に逆らう・一笑に付す・非民主主義・利己主義」の如く突っぱねてしまう
・2015年3月のカフェ関連に見られるよう、物を買わないと家で過ごせず、物を買っても落ち着かない可哀想な(可哀=哀れむべき)人…6月28日にも「孝子が今なおも強盛に慈悲・憐憫を垂れる必要がある」と同じ意味を綴った
http://masashi.doorblog.jp/archives/43067503.html
http://lesbophilia.blogspot.jp/2015/09/ruiju2.html#unawareness

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2017/06/01

本日6月1日は、2:10の第一アラームに目覚め、2時14分に起床した。前日の就寝は20時50分台と、遅い方であったから、このような早い起床は睡眠時間の短さを示し、本日の活動に悪影響を及ぼす懸念を持ってしまう。ともすると、19時台就寝で3・4時前まで眠ってしまうこともあるというのに(例として先月24日26日)。

前日からの予定で、母親がAmazonで注文した商品を受け取る話を再び12時過ぎに母親から話され、母親が1階の洗面所にいる12時20分にヤマトの配達員(ワゴン車・バンの類)が来て速やかに応答した。その後も母親は1階リビングなどで家事か何かを続けていたが、12時40分から不満げな独り言が聞こえ始めた。そして殺虫剤スプレーを発射する音も混ざった。11時台に私は配達受け取りのリハーサルのようなことをしていたが、その際にシバンムシらしい全長1mm程度の昆虫をインターホンの横で見かけたが、どう関係するか。

13時10分台、母親が自室のふすまをノックして話しかけた。最近のお決まりで、私がふすまを開ける必要のない話でも、開けないと話したがらないようであり、開けてやるしかない。用件は、最近線香などを買ったりして葬式仏教に関するメモも見られる母親であるから、仏壇の本尊不在について知っており、私の部屋に御本尊・仏具類があるのではないかという。2014年5月に再婚新婚の叔母さんY夫婦が仏壇を当地へもたらし、線香をあげず鈴を打たない母親が2015年5月に仏壇を処分するという情報を小耳に挟んで以来、御本尊などを自室に預かってきた。今は2年に至る。私は包み隠さず事実を伝え、返してほしいならば返すという意思を示しても、母親はくどくどと返してほしい考えを繰り返し言った。「魂入れの供養(開眼供養)がされているものだから」と。話を終えた1分後、2階の空き部屋(前・祖母、元・上の弟の部屋)のテーブルに御本尊・鈴・数珠を置いてきた。毎日、私が行う勤行は、自室でやる場合は御本尊を眼前にせず、鈴を打たずに行うこととなる。

当記事注爺さん(九蔵さん)の遺影(大小各1点)がいつからか所在不明になっている。 2016年中のいつまでであったか、存在を確認していた。



2017/06/02

本日6月2日は、2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラーム以後の2時22分に起床した。



2017/06/03


本日6月3日は2:10の第一アラームが鳴った様子はないが、時刻確認をしたときは2時11分であり、2時15分に起床した。前々日の就寝時と前日の起床時に、それぞれ1錠ずつ非刺激性便秘薬を飲んだが、前日中の効果は無く、前日の就寝時に(効果が薄い製品の方の)非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲んだ。本日は漸次便意などを感じたが、3時40分台はにわかにチョビ漏らしを起こしそうな異常発現があったので、トイレに入って糞水状態のものをチョロチョロ、ブワッ!と排出した。

4時20分から、前日からの予定で、アジサイの様子見と空き缶ゴミ捨ての外出を行った。風が強く、晴れていて冷え込んだ早朝である。アジサイはほぼ満開状態であり、空き缶のゴミの際に公園の敷地内の植物も見た。9時過ぎから母親と弟が徒歩で「クリニック」とされる場所へ外出し、弟が16時前、母親が16時40分に帰宅した。



2017/06/04

本日6月4日は2:50の第四アラーム以前にも目覚めたろうが、このアラームではっきりと意識を得て30秒以内に起床した。前々日の就寝時に飲んで極端な効果発現のあった非刺激性便秘薬最低用量3錠の効果の残りを、感じない。あれはほとんど水分であるから、本日も排便が必要であり、かつ、2日連続で便秘薬・下剤の類を飲むわけにいかないので、前日就寝時や本日起床以後には服用しないでいる。本日は4時台から7時までにムーミンカップ2杯分の緑茶を飲み、毎朝の粥には「出がらしの茶葉」を添加した。10時台と14時台にコーヒーをムーミンカップ1杯ずつ飲んだが、カフェインパワーは頼りない。こうしてフラストレーションが溜まりゆく。15時台からは排便の念を保とうとし、16時30分前からのトイレで結実した。硬めのコロッ糞や硬めの小サイズのものの排便をした。



2017/06/05

本日6月5日は、まず0時台半ばに目覚めて時刻確認をしたが、早すぎる時間帯なので再度眠り、続いて2:10の第一アラームに目覚めて30秒以内に起床した。「念」ということに関して前日の就寝時に「係念在明相(念を係けて明相を在く)」ということを念頭において寝た。そのように翌日の予定などを強く思うとき、目覚めが良い・早く起きられる経験が人生に多かったわけで、前の家での経験(深夜の番組を見る予定を目覚まし時計・テレビの予約起動に託したが予定時刻の数分前に目覚めた等)は元より、日記メモでもアラームが鳴る数分前や1分前に目覚めるという記録が多かったが、近頃は一度も無い。記録の例は2016年3月26日メモと、その脚注にある。

3時台に便意によってトイレへ入り、排便した(17時台の回想・追記のために未詳)。4時32分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時33分に自室へ帰った。9時20分から母親が発車した。10時50分頃から衣類・タオル類を洗濯機に入れて作動し、11時30分から干し出した。



2017/06/06

本日6月6日は2:10の第一アラームに目覚めたようだが記憶は薄く、2:20の第二アラーム以後の2時25分に起床した。

11時過ぎから、母親の要求を色々と聞かされ、最近合意した「郵便・配達の受け取り」という件(5月30日に初めて実行・メモには伏す)も、母親は手を空ける余裕があるのに私を不必要に動員させた。私と配達員の前に現れて私の応対に横槍を入れてくるので、母親がいる方を振り向く時に私が髪で顔を隠したり、配達員に向き合う時に髪を除けて顔を露わにするなど、不必要な挙動を増やすはめになった。母親が不在の時に対応するということで合意し、それ以外の時に濫りに私を用いるとポテンシャルが落ち、合意した内容の履行が不能になりかねない(母親を想って自己の準備を忘れ髪をまとめてから配達に応じるという準備の習慣が身に付かない)。忙しくない癖に忙しいと主張したり、忙しいはずが無駄な干渉をする母親である。また、この家を購入した当初から1階和室にあって(後に一人で家出から転居した)私が2階に移動した「ガスファンヒーター」を私に運ばせたが、わざわざ私に尾行した。私を2階にまで誘い込んでやらせるならば、忙しいはずの母親が自ら行う方が早く済んだ。全て矛盾の極みである。

「忙しいとは怠け者の遁辞である」として心の余裕がない母親が遁辞として用いる可哀想な口癖である。私への過干渉は自他の不利益を生むと学ばず、箍が外れて過干渉に至っている放逸ババアである。せめて忙しそうに家事や本日の買出し準備をしておればよいのに。私は、前日の音楽動画投稿に代表される、色々な期限付き(自己制約)の作業に手を動かしているので、「母親は元々無駄な指示・要求を弟に課して争いを生む人間である」と知って応じるべきでないながらに慈悲・孝心で応じている。改めて呆れてしまう。12時52分から母親が発車した。17時20分ころに母親が帰宅し、その5分以内に弟が学校で用いる衣服に関して、弟の処置に母親が激怒し、母親と弟の口論などが1時間以上に渡って続いた。母親が片付けるべき購入物は、その間、所定の位置(キッチンの床)から動くことが無かった。母いわく「お肉とか野菜とか腐っちゃう!」

当記事注: 自分でインターネット通販などを利用している母親が、家にいて忙しくもない癖に配達の受け取りを私に頼む理由は何か?後日(2週間ほど後)、母親が本音をこぼした。「受け取りが苦手」と。そんなに内向的・閉鎖的になりつつあるか?「尻拭い」を嫌う精神である。口だけはいつまでも上等に諸悪の根源であるのに、なぜ悪でないことを自ら行わないのか?



2017/06/07

本日6月7日も、前日の就寝時(20時55分)から「係念在明相」の実践があり、色々と好悪の条件がある中で、1度目の目覚めが0時20分台である。早すぎる時間帯と判断して意識を保ったまま横臥し、浅い睡眠にも入ったろうが、続いて1時20分台に時刻確認をして1時24分に起床した。なお、前日は活動時間も長かったわけだから、就寝時には疲れが溜まっており、軽い金縛りを含んだ恐怖経験も発生した。科学的なメカニズム(2016年8月9日メモ)は中学生のころからはっきりと認知しているので、すぐに解くこともできたが、そのように念を保っても「魔」が入るスキがあったと考察できる。悟りの人でないと、禁欲する(不故出精の修行をする)中に念を保っても夢精する可能性もあろう。私が「明相」として念にかけた(懸念した)事柄は、外出と雨降りの予報である。1時59分から外出し、自販機に通ってゴミ箱にペットボトル2点を捨てて3点の飲料を購入した。帰路に車で帰宅する者1名と遭遇したほか、遠くの県道あたりで改造バイク(暴走族というよりも単独)のエンジン音が鳴り響いていた。

前日就寝以後である23時7分と8分、母親が例の通り「1度で済ませられない雑多なメール」を送ってきた様子であり、合意内容に相違した配達受け取りの話であった。なまじ合意内容が有るから要領を得ない人であると不快に思うが、頼み事自体を拒む意味はない。合意内容とは別の理由で拒む理由はあるが、現状は特に母親に相談しないでおく。前日の就寝時に飲んだ下剤1錠は、中途半端な違和感を下腹部に残したまま時間が経ち、本日14~16時台に来るとされる配達員を待つ。14時4分に配達と思しき車が到達し、頭にタオルを巻いて髪を隠したが、急ごしらえである。事後に自分の頭の「タワー状態(髪のボリュームが昇天ペガサスとなってタオルを支えている状態)」を見て笑いを禁じ得なかった。配達員は5月30日と同じ人であったから、この姿を見せると、かえって恥ずかしい結果である。

15時40分台からトイレへ入り、硬めのものの少量のみを排便した。16時15分に家の前に着いた弟が独り言を発して立ち止まり、玄関に入ると「バスト!ウエスト!チンコオッパイ!悪いけどうちはお母さんいなくても幸せだよ、ケンカ・・・」と声を発していた。18時7分からも、トイレへ入って軟らかめのものを排出した。前回と今回と、外見はかなり黒い。



2017/06/08

本日6月8日は、2:50の第四アラーム直後に起床したので、それ以前も意識があったが、アラームの記憶は乏しい。かわりに、以前の時間帯の時に、舌・右肩・左ひざなど全身に痺れや痛みが生じていたと記憶する。「前々日の就寝時に飲んだ下剤1錠の効果残余」と、本日4時台から飲んだムーミンカップ満杯の緑茶などで便意が漸次強まり、5時55分からトイレへ入り、前日のものと似た性質のものを排便した。

8時53分からPCを離れて押入れに入り、最初の2分は枕など寝具をずらしながら横臥した。あの中綿が多めの枕を使うと、首の負荷が強くて良くなく、PC時に敷いて用いる座布団の方が枕に適している印象であった。続いて、枕を坐具として姿勢を正しながら坐る。1階リビングは毎朝の通り母親がテレビを付けているので、不本意ながらに耳栓を着けた。どこのサンガが俗の郷里で坐禅などを修行するか?結果的に1時間半に及んだようである。結跏趺坐に徹しながら、手を法界定印・釈迦仏像の印・降魔の印などと適宜変えた。坐る際は様々な思惟・虚空に相を浮かべるなどしたが、念が保ちづらい。「坐りながら睡眠時の夢のように記憶などの錯綜が起こる現象」が10~20度も発生した。睡魔が強盛の印象である。臀部患部・痔のような腫れについては、先月以来の再発傾向にありながら、問題外とした。



2017/06/09

本日6月9日は、2:10の第一アラームに目覚めて2時14分に起床した。9時43分に母親が「3時(午後)まで帰らない、市役所・銀行など・・・」という旨を私に告げて9時48分から徒歩で外出した。

17時45分に母親が帰宅した。すぐに風呂に入りたがる母親だが、そのまま20分近くは弟ともめていた。母親は風呂から出て2階にいる19時前から2階で母親が弟に何か指示を出したが、1階と2階を何度も移動する弟である。母親がコップと冷蔵庫かどこかにあるお茶を持ってくるように弟へ指示を出したようだが、コップを誤り、お茶と称される物(緑茶の葉っぱなどではなく冷水で出したノンカフェインのものか?)の所在を知らない弟が困惑している。次第に両者が声を大きくしてきたが、特に母親が怒気を含ませている。19時10分ころに一旦収まったが、その後も「ご飯抜き!」と母親が攻撃し続ける。本日の母親は、約8時間の徒歩としては遠距離の外出をしていたが、その自負が、傲慢さを養い、弟を使わせて横着な態度を取ってもよいという慢心の所行をした。当然「しつけ・教育」などと表現できる態度・行為でない。



2017/06/10


本日6月10日は、2:40の第三アラームの30秒以内に起床した。当然それ以前のアラームで目覚めていたろうが、記憶していない。目覚めたとき、すぐに起きられないにしても、その時の自分は記憶を残す努力くらいをしてほしいと思う。前日19時40分ころに下剤1錠を飲み、5時45分から便意のためにトイレへ入って出しづらい普通の硬さのもの数本を排便した。母親が持っていた予定では、本日8時半~9時には弟を家の前に待たせて車で外出するようだったが、実際に彼らが発車した時刻は9時17分となった。9時過ぎに母親から洗濯物の処理を任されたので、彼らの発車3分後に行った。

11時3分から外で自室窓への放水を行った。最初は大きい虫が家の敷地内に飛んできて、フェンス類に止まったりしたが、近づいてきたので水で牽制すると、地面に止まったり、飛び上がって近づいたりを繰り返してきた。数年ぶりに触れる、この家のホースの扱いに少し難があったので、かなり困惑した。仏教徒ならば「自然・アリノママ」を重んじてスルーしておくべきか。能動性・身業を慎まねばならない。まあ動揺する心(意業)が行為の主体であれば、身業は受動的でしかないが。虫の外見は一目で蜂・ハチのように見えなかったが、近づいてくるごとに蜂のように見えた。家の傍の通りは往来が無かったり、近隣の家で子供の声がした。屋内に戻る際の私は、通りの先に向かいT家の主人らしいTシャツ・作業着ズボンの男性を見たが、彼に似た外見の男性はよくいる。私が家の中に入ってから確認すると、やはりT家の前を素通りしていったので他人の空似である。12時30分前に一旦、彼らが荷物を置くことを目的に帰宅し、12時36分に再度彼らが発車した。私の料理・母親が買い与えたパン屋のパンなど、固形物を短時間で胃に収めたので便意が強まり、14時17分からトイレに入って長めの一本糞を出した。



2017/06/11

本日6月11日は2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームの直後に起床できたが少し押入れに留まり、2時25分に起床した。2時50分、PCそばのカラーボックスから、例のフナムシみたいな虫「シミ」が忽然と現れた(この家でシミを初確認したのは2017年1月21日の1階トイレ)。チョロっと動いては止まる。前日の就寝時、今年初めて窓を開放して寝たわけだが、それだけで侵入・闖入されたとしたらば、恐ろしい。実は前日も、放水作業の2時間後に窓を開けたところ、1mm程度の小さいクモの子の存在を自室で確認し、畏れながらに殺めた経緯がある。この全長1.5cmのシミも同じ運命である。もうやめてほしい。かの冬でも梅雨の今も、2017年は異様な発生率となっている。壁を這う様子は初めて見たが、カラーボックスの存在が間接的に役に立った今回のような特定条件が無い限り、シミにとって不可能のようであると過去の例から考える。



2017/06/12

本日6月12日は2時30分ころに起床し、PCを起動するにあたってまず70分以上Windows 10 Creators Updateが続き、パスワード入力が更に10分以上続いたが、過去にもこういった長時間を要するアップデートはあったが、それはよいとして、アップデート後は色々細かい部分に改悪が見られた。IEブラウザは適宜用いることを過去にも幾度と記したが、IEブラウザのタブにEdge起動アイコンが増えて必要項目の枠を削ってある。文字入力の際に「全角かな」や「半角英数」など入力モードを切り替えるごとに画面中央にそれを行ったという表示「あ」や「A」が現れるが、そんなことはタスクバーのアイコンで確認できる(ディスプレイサイズ・解像度の高い人向けのつもりか?)。かな文字など一つ打つのみで予測候補が出たが、今までは3文字で出ていた。文字入力に関してはIMEのプロパティや詳細設定の項目で直した。傲慢・強権的・非民主主義的なマイクロソフトさんらしい横暴さが多い。例えば"Wireless Display Media Viewer"というアプリは、起動して何も利用できないが、アップデートで標準搭載しているのでアンインストールできないが、Microsoft公式はこの失敗を鑑みて「スタートメニューから除去する作業」をしていると回答している。当然、そんな雰囲気に見えない。私がPCで利用する一部ソフトも、正常な動作ができなくなっているか、一時的な障害が発生しているので、色々と様子見を要する。

4時42分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時31分に自室へ帰った。何らかのソフトは、件の"Creators Update"の2017年4月から不具合を確認して最新版をリリースしたりしているので、私も最新版への更新を行った。12時12分に母親が外出する声掛けを行い、12時16分から発車した。17時39分に母親の車が家に着き、先に弟が家の中へ入り、その2分以内に母親が家の中へ入った。



2017/06/13

本日6月13日は1時4分に起床したが、短い睡眠時間に何度も目覚めた経緯がある。まず前日は20時42分から就寝を始め、21時20分ころまでに浅い睡眠に入りかけたが、母親が1階で立てた物音などの影響で意識がはっきりとした。耳栓を着けて寝るも、23時台に目覚めて0時5分に時刻確認をした時も再度眠った。0時50分台にまた母親が1階玄関で独り言を続けながら物音を立て続けたり、リビングのドアをすさまじい音で閉めるなど、ババア特有のはばからない異常行動が見られた。これは久々のことである。このように、短時間で何度も目覚めたという経緯がある。

9時40分ころから10時20分ころまでうつ伏せ姿勢で寝た。11時2分から母親が買出しへと発車した。前日19時40分ころに非刺激性便秘薬最低用量3錠より少ない2錠を飲んだが、大した効果発現が無い。



2017/06/14

本日6月14日は、まず目覚めた時刻確認が1時44分であり、起床せず、続いて2時4分の時刻確認から1分以内に起床した。アラームや他人の物音の影響が無くて早い目覚めであるということは、当然「係念在明相(6月5日・7日メモ参照)」の類である。2時16分から、ゴミ出し・自販機通いの外出を行った。



2017/06/15

本日6月15日は2:10の第一アラームに目覚め、2時15分に起床した。前日20時過ぎに下剤1錠を飲み、本日は便意が薄いながらに4時50分から最初の排尿を行い、トイレに滞在したまましばらく便意に集中して苦しさを伴う排便を行った。やや硬めで小さめのもの数個である。5時46分からは、やや強め便意・腹痛のためにトイレへ入り、長い一本糞のほか、中・長サイズのもの数個を排出した。6時30分ころからも便意のためにトイレへ入り、普通の硬さ・普通のサイズらしいもの複数個を排出した。10時前からも便意のためにトイレへ入り、軟便をそこそこ排出した。10時42分、母親が自室ドアをノックし、私へ「祖母の居る施設に物品を届ける」という目的で外出する旨と12時ころに宅配業者が来る旨を話した。12時30分にヤマトの配達のワゴン車(バン)が家の前に着いた。配達員Yの動きよりも遅れない程度に私が応答する際の威儀を脳内で確認し、微々たるミスに留めて行動を終えた。配達物は「組み立て式テレビ台」というが、またしても元・弟や祖母の住んだ空き部屋を飾り立てるために購入したか?



2017/06/16

本日6月16日は、日々の予定を期している3:58のアラームに目覚め、即座に起床した。前日の就寝時(20時50分ころ)に第一~第四アラームの設定をOFFにし、3:20の第五アラームは滑り止めとしてONのままであったのに、残念無念、失念である。「不係念不在明相」である。

近頃の母親は、平日の8時ころ~10時半まで、1階に居座り、主にこの地域で8時15分~10時30分(厳密には10時20分ころ)に2枠(1作ずつ)放送する「日本語吹き替え・歴史もの・韓国ドラマ」を見ている。平日の母親は毎日これをきっちりと見る習慣がある。家事などをしないで視聴し、CMの度に声を上げながらガタッと動いてCM中に母親の私事を済ませようとしたり、その2枠が終わろうとするエンディングの瞬間にTV・テレビを消して2階に上がるなど、不気味である。なお、この2枠のCMの頻度は著しい。更に言うと、以前の母親が見るドラマ番組は、再放送の時代劇やサスペンスばかりであった。

母と弟が夕食を取るか、まだ調理段階と思われる18時台のある時、弟が母親の指示を聞き返して「だから○○だってゆってるでしょ!」と俄かに激昂した(いきなりキレる)。「話をしっかりと聞かないでいる弟」に嫌気がさしたというが、あんまり突然であって奇怪に感じる。



2017/06/17

本日6月17日は2:10の第一アラームに目覚めたろうが、間もなく眠りに戻っていて記憶が乏しく、2:40の第三アラームの1分後に起床した。とある果物の冷凍食品は6月13日に母親が買い与え、翌日に開封してほとんど食べ、本日は7時ころに数グラム程度の少量をかじり、数十グラム程度のものを炭酸飲料に漬けて冷蔵庫に放置し、10時40分以降に別の「料理余し」と共に飲んだ・食べた。11時40分ころから「条件反射的な食中毒(または事前に食中毒の懸念を持ったためのプラシーボ効果か)」の腹痛が強まり、12時0分からトイレへ入って排便した。臭いが強く、感触が最初は普通であって排出過程で軟便となった。12時10分ころに再びトイレへ入り、下痢を排出した。

16時57分、排尿を目的に自室を退出すべくドアを開くと、部屋の前にパンツ2着が置かれている様子を目にした。臭いが新品ならではの工場臭さがあるが、何の説明もなく置かれる不条理は母親特有である。また「タンスの肥やし」となるものを無言で買って渡してきたか?と思いつつサイズ確認をすると、LLである。パンツの種類はボクサーブリーフであるから、弟に渡すものなのかもしれないが、色々不明瞭な点や余計な判断材料が付きまとう。誰が、どういう意図でここに置いたか不明だが、何にせよ、不条理である。階段に沿った低い壁にパンツ2着を置いて誰かの反応を待つと、17時24分に母親が1階へ降りて来た。弟が置き間違えたのではないか、と思われる発言をした。弟にしても母親にしても、どんな理由でこのパンツ2着を私の部屋の前に置いたのやら。



2017/06/18

本日6月18日は、2時0分過ぎに目覚めて時刻確認をし、2:10の第一アラームを待ってから2時11分に起床した。2時50分ころから自販機通いの外出をした。4時48分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時53分に自室へ帰った。8時50分ころから母親と弟が、毎週の予定となったらしい作業所通いを始めるため、発車した。今回も、6月10日のように「喫茶店でモーニング」の朝食を取ると思われる。9時40分に彼らの車が家に着いた。パンを買ったようだが、前回のときのパン屋(喫茶店持ち帰りではない?)のパンではなく、セブンイレブンのパンである。その後、数十分、彼らが2階でドタバタと動く最中の会話で、3時(15時)ころにクリニック云々以外、外出予定が聴こえない。今回のフェイク外出は何であったか?作業所はそもそも日曜日・月曜日が休業のはずであり、前回の彼らは土曜日に出ていたわけだから、作業所は有り得ない印象が元々あったが、案の定そうであろう。この日曜日に作業所が弟など外部の者を「受け付けられる・受け付けられない」のどちらにせよ、推理しがたい。

当記事注: 2017年7月以降の日記メモでは、この「作業所」について「社会福祉法人・福祉施設」といった呼称で記録を取る。



2017/06/19

本日6月19日は1時台前半に目覚めて時刻確認をし、1時45分に起床した。11時58分に弟が俄かに1階へ降りて来た。月曜日の今だというのに、で、2分以内に彼は2階へ戻った。前日20時半ころに下剤1錠を飲んだが、本日は漸次便意が強まり、3時21分からトイレへ入って下痢を排出した。4時28分から弟が1階へ降りてリビングのTVを付けて料理か食事を始め、5時ちょうどに2階へ上がった。

13時0分ころ、母親が外出の宣言してから買出しへと発車した。13時20分、所用で2階に上がり、13時23分に1階へ戻ろうとするとき、E家に車が着いた。誰が運転しており、誰が乗り合わせているか様子を窺い、まずは運転席の真後ろに若い男性(御主人?)を確認した。1分後に確認すると、運転席の人物が女性(奥さん)であると分かる。ほか、長く大声を発するタイプの子供1人の同乗を確認した。15時47分、保健所のKさんから電話が入った。母親による保健所への直接の通告から、20日が経過した今日のことである。体調はどうか、生活はどうか、といういつも通りの質問(仏教でいえば「少病少悩ですか」)のほか、母親の様子について質問を受けた。母親の心情(母親の目的・理想と相違する事実)、私の保健士訪問に関する姿勢などについて、私が理路整然と説明した。やはり訪問を当面しないでおく替わりに、私への定期的な電話による「生存確認」をするという。

17時20分過ぎに母親の車が家に着き、16時台に帰宅して風呂を終えて2階にいた弟が即座に1階リビングに来て待機し、数分後に母親が1階リビングの窓の前に至ったが、2人の会話が始まるや、弟のカーテンの扱いについて怒り出し、弟を2階に戻るよう催促し、替わりに私を呼び出して荷物の移動を頼んできた。この後の母親はカーテンの件に執着して弟を叱り続けた。17時57分、母親が私を呼び出し、受け取り済みの品物を更に渡そうとしてきたので「もう受け取ってあるけど、追加ですか?(原語ママ)」と尋ねた。直後に母親がテレビを付けると、「はつ~かさんじゅうにっち♪ごぱーせんと、おっふっ♪」というトラウマ音声が鳴っていた。本日19日の母親は、当然イオン行きであった。ちなみに、本日の母親は8時台に韓国ドラマの視聴をしない珍しい事態であり、しばらく2階でクリーナーによる清掃をしてから9時半以降に1階で、炊飯器に0.8合分ほど残る飯と、インスタントラーメン1杯などを食べた様子であり、キッチンに「油揚げ麺」の切れ端が1つ落ちていた。


当記事注: 6月19日に母親を見た印象…某漫画において一度だけ登場する僻地の店主と目つき・口元・体型・歩き方などそっくりであると。5月29日メモと合わせて読むと、より想像しやすかろう。

2017/06/20

本日6月20日は2:10の第一アラームに目覚め、2時18分に起床した。目覚めの直後や起床数分後までは弟と思しき足音・物音が2階や1階に移動するなどで鳴り続けた。12時26分、自室のふすまを母親がノックしたので即座に返事し、直後の母親の言葉がよく聞き取れなかったが、一言だけだったので外出の合図と考えた。12時33分に母親が発車し、15時ころに帰宅したが、やはりどういう目的の外出で何をしてきたか不明である(今月だと6月5日が該当するかもしれないがもっと本日に近い日にもケースがあろう)。

14時台に母親が帰宅した。16時台、風呂を出て以後の弟は狂ったテンションで1階リビングにて笑いながら独り言を続け、2階に上がって以後も自室で足音を荒く立てたり、窓の外へと大きめの声を放ち続けた。17時56分、俄かに彼の自室で彼がすさまじい足踏みを4回行った。私の自室の壁も揺れる。



2017/06/21

本日6月21日は、まず1時45分に目覚めの起床確認をしていたが、早すぎるので起床しなかった経緯がある。2:10, 2:20, 2:40のアラームを手で停止し、起床しようと思った時には2:50の第四アラームが鳴り出した。間もなく起床した。なお、前日の就寝時に関する「携帯電話半角カナ打ちメモ」があるので、校正して記す。「19時54分就寝、母は珍しくこの時間帯(19時以後)にテレビを見ないでいたようだが、それはそうと、私が押入れで就寝する5分前から2階の弟の部屋で母とお投与の大きな声の会話が聴こえており、弟の破壊的な物音が炸裂し続けた。私が押入れに入って数分後、彼らの争いが止んで間もなく母親が1階に降りてきてテレビ視聴に逃げ込んだ。(母親は)気の小さく、騒がしい人である。(母と弟は)天井を隔てたモンスターたちである。仏教徒を自負する私は、よく彼らの悪を学んで自分のことと思っておきたい」

本日は起床時からそこそこの雨が降っており、4時台後半は、「母が習慣的に開けっ放しにするキッチン窓」からキッチン内に雨が吹き込んでいたので、閉じておいた。本日の弟が登校していないことを11時ころに知った。なおも強い雨が続く。当地・豊橋を横断する梅田川の氾濫危険水位を超したという情報を、愛知県が10時30分に発信したらしい。13時ころには雨が止んで空が明るんできた。



2017/06/22

本日6月22日は、まず1時40分台に目覚めの時刻確認をしたようだが、記憶は薄く、続いて押入れの中で意識を保ったまま過ごし、2:10の第一アラームを経て2時13分に起床した。前日の就寝は21時過ぎであったが、20時0分ころに非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲んでおり、本日は起床以後の便意が4時台に強まってトイレで軟便を出した。どうも、拭う紙の色合いや直腸の残便感が異様であったが、次第に「血の色・血の溜まり」と分かった。下血状態であり、このまま再び血が直腸に溜まる恐れもある。

15時11分から、それまで長い時間続いていた便意や、「大腸内に傷があると想定される事象」に起因する大腸の違和感などが強まって耐えられないので、トイレへ入った。まず、「大腸内に傷があると想定される事象」を荒さないよう、慎重に排便し、長い一本糞をひり出した。肛門を拭った紙に血がはっきりと付着しているが、排泄物の外見には血の影響が顕著でない。一旦、水を流し、続いて数本の中サイズの糞を排出した。



2017/06/23


本日6月23日は、最初の目覚めの時刻確認が-1時57分(前日23時57分)であり、続いてもう1度アラームまでに目覚めたかもしれないが、記憶が確かでない。確かな記憶は2:40の第三アラームに下ってしまい、2時41分に起床したといえる。5時までに、そこそこ食べ応えのあるものを私の中程度の分量で食べ、ペットボトル緑茶を150ml以上飲んだと思われ、6時前から便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞を排出した。

本日は3時ころに弟の動きがあり、6時台後半に弟が朝食シリアルを食べたりゴミ捨てを行った様子だが、彼は登校していない。前日の弟は、学校で同学年の男子生徒1名と喧嘩をしたらしく、彼は「常習的な顔芸」が他者に不快感を与えたことに原因があると認知している。前日の夕食時に、母親に対して「明日(本日23日のこと)は学校に行かない」という考えを話していたが、このような顛末である。なお、玄関には中日新聞が置いてある。購読を始めたかどうかは不明である。

11時30分前から2階で母・弟が外出を始めそうな動きを見せ、母親が1階に降りると、俄かに「はい!」という声が聴こえた。電話音声かインターホンか不明だが、相手は豊川特別支援学校の教員であるらしい。すぐにこれはインターホン越しの客と分かる。閲覧者にとって紛らわしい経緯を話すと、9時台、見知らぬ老人が訪問した際、インターホンの電源を母親が落としたようであり、現在の数分前に私がインターホンの電源を入れ直した。しかし、この客への応答の際、インターホンの呼び鈴の音が聞こえていないにもかかわらず、母親はどのように客に応答したか?色々と不明瞭であるが、閲覧者にはますます不可解な文章となっていよう。さて、この客は、去る2016年6月に自宅へ教員が緊急訪問したうちの、腹が出た60代ほどの男性と同一人物に見える。客が屋内に入って2階に移動してから、玄関を確認すると、客のものらしい靴が2足見られた。男性教員2名となれば、人員の異同もあれ、1年前の2名と同一の可能性もある。11時52分に彼らが家を退出した。10分後には母・弟が昼食を取りに徒歩で外出した。

当記事注: 中日新聞の件については、届くことがこの日限りであった。配達員が稀に気まぐれで我が家に投函する行為があり、今回はその程度であったろう。



2017/06/24

本日6月24日は2:40の第三アラームに目覚め、1分後に起床した。このような速さで起きられるということは、先に鳴った記憶がほぼ無いアラームから影響を受け継いでいるためと考えてよい。3時2分から自販機通いの外出を行った。4時46分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時46分に自室へ帰った。8時59分から母親が弟を連れ、例の通り「喫茶店のモーニング」へと発車した。11時59分に彼らが載る車が家に着き、弟が即座に家の中に入って2階に上がって再び外に出てから、3分ほど弟の作業に関する打ち合わせを両者がしていた。



2017/06/25

本日6月25日は、2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラーム以後の2時23分に起床した。前日の就寝は20時40分台と遅い上に寝つきが悪く、21時台後半か22時前後に入眠したと考えられる。睡眠時間にして5時間未満となろうが、この数字としてはあまり短い印象でない。道心ある比丘たちを思えば、この睡眠時間が短いこともない。

7時3分ころ、ふいに揺れを感じたので「あっ、揺れた」と呟いた。tenki.jpの地震リスト"earthquakeページ"は、一見して当地・愛知県っぽく見える関西(淡路島が知多半島で大阪が渥美半島)の画像が写っていたが、これは本日2時5分らしい。もし今の揺れが、雨風ではなく地震に因るならば、数分後に反映されると思い、トイレに入ってリロードすると、tenki.jpのアクセス不具合を確認した。ただごとではないが、数十秒後にケロッとアクセスできた。画面に「地域未詳・震度5強」が現れた。画像は岐阜・愛知県境を中心とした東海地方である。7時2分の観測データらしい。よく見ると、震源地は長野県南部(南信地域・王滝村や木曽町といえば御嶽山が近い)であり、M5.7で「深さ:ごく浅い(10kmよりも浅い)」浅発地震にもかかわらず、広島から千葉までの広域で震度1を観測したらしい。飛んだ能登半島の北部に震度4の地点もある。なお、当地・豊橋の個人的な地震記録は本家ブログ2013年3月18日記事に追記される。

本日の雨が15時ころには止んできた様子だが、母・弟はいつになく静かな様子である。普段の狂った足音・物音・掃除の音などは、聴こえないでいる状態が顕著である。17時前から、弟による何らかのものの扱いについて母親が不満げに指摘し、両者の争いが顕在化してきた。17時過ぎから両者が1階に降り、母親が料理の準備を始めるにも、両者の喧嘩がヒートアップし、17時26分には弟が手を上げて母親に素手で攻撃した印象がある。こういう時、母親は狂って反撃する傾向はあるが、今回は「はさみを持って脅す」に留めたようである。全て彼らの会話音声から確認する。ほか、弟のトイレの仕方について、未だに解決していない問題(立ち小便とかトイレの手洗い機能とか)があるらしいことを母親が話し、再び2階(2階のトイレ)に舞台を移ったりもした。母いわく「(弟は)2階のトイレ(を)使わないでくれる?」



2017/06/26

本日6月26日は2:40の第三アラーム以後の2時42分に起床した。それまでのアラームにも目覚めたろうが、すぐ眠りに戻っており、起床までの間に悪夢を見た。善い・好い念による快い夢とかは、経験が極少ない。この悪夢は、登場人物自体とその関係性が険悪なるのみならず、私が激怒して他者に傷害を加える描写が痛々しい。潜在的な悪い念や感情が多いことを発露していると考える。4時41分からゴミ出しを行った。外は曇り空、路面はおおよそ渇いており、道中は「維持可能な全力疾走」を行った。ごみ集積場に他のゴミが未だ置かれていなかった。

前日の就寝時(20時過ぎ)に下剤1錠を飲み、本日は6時ころから漸次便意が強まり、7時31分からトイレへ入って軟便や下痢気味のものなどを排出した。13時28分から母親が買出しへと発車した。いつも通りに母親が1階リビングの窓の鍵(固定)を解く際、前回6月19日の一悶着を回想して「バカ〇〇(弟の名前)」云々と呟いていた。16時20分台、母親の車が家に着いた。



2017/06/27


本日6月27日は、2:20の第二アラームで目覚めたろうが、加えて2:40の第三アラームにも起床せずに意識を昏々とさせたまま、2:50の第四アラームの3分後に起床した。近頃、左ひざ(左膝)を意識する。前回の風呂(シャワシャン)以来、小6から着ている「上下セット部屋着」の下半身(ボトム部分)を今年初めて着て着続けている。左ひざのスベスベ具合が右ひざより著しいと感じる。精査すれば、毛の生え方の差があるためであると知る。左ひざの周辺は極めて毛が少ない・細い。本日17時台には、膝の付近の毛は「根元が単に細いからではなく実際に白くなっている」と思った。大中小の毛を1本ずつ抜いて写真を撮った。しかし、生えている状態の毛に対する光の当て方を変えると、黒い系統の色(これも条件によるが端的に言えば暗く透け気味の焦げ茶色)であると判明し、やはり単に毛の根元が細いためであると考えた。左ひざの股方向に痒みを覚えて虫刺されらしい部分も見当たった。そのほか、本日は下書き状態の本家ブログ絵の練習記事に「冷蔵庫の冷気による空気の移動とか、窓を開放した状態で室内に流れ込む空気の移動により、すね毛の類がそよぐ感覚がある」と記しもした。



2017/06/28


本日6月28日は変な夢を見てから意識を得て10分以内には2:10の第一アラームが鳴った。2時14分に起床したが、この際、携帯電話を充電器に設置するという前日就寝時からの予定を、暗闇の中で実行しようとした。充電器については過去に2つある固定部分の「手前から見て右のもの」が壊れて瞬間接着剤アロンアルファで何度も直し、ここ3年間は安定していた経緯がある。今回はまず、その「手前から見て右のもの」が壊れ、次いで反対側のものも壊れた。壊れたことを正しく言い直すと、その部分が外れたということであり、充電器自体の充電機能は問題ない。携帯電話の上に「おもり」となるものを載せれば、一応固定できるが、ますます不便である。単に充電コードから直接充電してもよかろうが、コードもコードで長らく「触らぬ神に祟りなし」ともいえる状況であるから、不用意に扱えない。「おもり」の利用で充電できるうちは、こうするしかない。ここ最近は瞬間接着剤アロンアルファが見当たらないので、以前のような修理ができない。

2016年4月16日メモにいうイヤホンA」の接続部分・・・これもすでにL=左側の被覆が数年前に破けて瞬間接着剤アロンアルファで直した経緯があるが、数ヶ月前には右側の被覆が同様に破けてプラスチック向けボンドで何度も直した経緯があり、今は安定しているが、これも一時的処置に過ぎない。貧しく固陋の身として色々と困窮している。物を壊さぬように慎重な扱いを期していたのに、このザマである。仏教を学んで正念を保っているのに、このザマである。若年性認知症・鬱などの傾向が近頃に顕著な印象だが、その自覚があっても変えがたい現状がある。反省してもしきれない。

19時30分台から弟が1階に降りて10分以上トイレにおり、その後2階に上がってから母親が弟を捕まえてトイレの扱いに関する難癖をつけ始めた。風呂での所作をも責めていた。「トイレまっきっき・おしっこと汗とうんちの臭いが・・・、黄色いスポンジ、石鹸は・・・」云々と。しかも「あんたが不潔な衣類を洗濯に出すから洗濯槽が汚れる・洗濯物が汚れるってお兄ちゃんがすごい怒っていたよ(弟に対して2度同じことを強調した)」などという誇張表現に私が母と過去にやり取りしたことを変えて弟に心理的な切迫をした。母親の悪業が彼の怒りを惹起した。知的障害を持つ弟がブチぎれる一幕があり、今回はすさまじい轟音が2階の随所で聞かれた。母親も負傷したとかという様子である。自分で足をくじいたという類なのか、直接弟の危害を受けたか不明である。母親が1階に避難して以後も10分以上、弟が2階で暴れ続けた。彼は「お母さんなんてきらいだ!臭くなんてない!」などと口にし続けていた。「洗濯物が汚れる」云々という母の発言は、祖母がらみの話題で母親から切り出して私が反応したに過ぎず、何も私の発言でない。

あんまり看過できないので、2人が離れたままである20時10分ころから弟に言葉をかけに行った。4分ほど、空間を隔てて話をした。要点は「トイレなどを臭くするのは人間として仕方がなく母親も弟も同じこと・何かにつけて臭いクサイと連呼する母親の心が一番臭い(穢土の依正不二、心の臭さが言動に現れて他者に不快感をもたらす)と俺は思う・洗濯物が汚れる原因を君だとは考えたことが無い・あの人は大袈裟に言って人を非難したがる人」と。最後に「片付けの邪魔をしたね、おやすみ」と言って私は自室に帰った。時折、このように言葉を交わすならばちょうどよい。私が弟に接触していない状況は長年の既成事実である上に母親が私の言葉を大仰な表現で我田引水して弟を責めるから、ますます私のイメージが悪化してしまう。状況を著しく変えて過干渉になっても問題があると危惧するので、今が維持しやすい在り方である。この裏で母親は、1階リビングで音楽番組を見ながら呑気に口ずさんでいる。怒る時は怒って頑迷固陋な言葉しか使えない人であるのに。自覚・反省・努力という道を未だに得ない母親こそが、仏・菩薩が悲しむべきものの至りである。孝子が今なおも強盛に慈悲・憐憫を垂れる必要がある。

当記事注: 母親の「おしっこと汗とうんち」云々を弟に向けて言って怒らせることは、大智度論巻第一・対治悉檀の箇所を想起させる。「不淨觀思惟。於貪欲病中名爲善對治法。於瞋恚病中不名爲善。非對治法。所以者何。觀身過失名不淨觀。若瞋恚人觀過失者。則增益瞋恚火故。(不浄観の思惟は、貪欲病中に於いて名づけて善き対治法と為すも、瞋恚病中に於いて名づけて善と為さず・対治法に非ず。所以は何んとなれば、身の過失を観るを不浄観と名づけ、若し瞋恚の人、過失を観れば則ち瞋恚の火を増益するが故なり。)」つまり、エセ薬剤師・ペーパー薬剤師の母親は、「良薬によって衆生の病を対治する」という仏の良医の徳が無い。仏の良医・医王・薬王という立場の比喩は諸経に見られる。「慈悲大醫王 無上智良藥 療治眾生苦 如何忽遠逝(仏所行讃)」、「如醫善方便 為治狂子故 實在而言死 無能說虛妄(妙法蓮華経)」

過去記事の追記にこう書いた。「そのニュース記事に載る統計結果の通りならば、一定数、知的障害児の抗精神病薬服用習慣はあるようである。悲しいことに母親は薬剤師でありながら、心の良薬を施す慈悲も徳も無い」http://masashi.doorblog.jp/archives/38384984.html#tsuiki2

より後の追記: 2017年7月には、私の発言の要領を得ない弟が「シネシネ鳥」と化した。該当月の分の日記メモまとめ記事に付録として記録される。http://lesbophilia.blogspot.com/2017/08/plus-jul-2017.html#furoku



2017/06/29

本日6月29日は、2:10の第一アラームに目覚め、1分以内に起床した。前日20時34分に就寝を始めた経緯からすると、ここ数日のケースでも睡眠時間が浅いこととなる。前日メモの経緯もあって、入眠もしづらく、21時以後となったろう。いわゆる「部屋に毒蛇が潜んでいると分かっていて迂闊に眠れはしない。退治しないで眠る者は慚愧が無い」という仏教の比喩が浮かぶ。これは「心の中の煩悩」を「部屋に潜む毒蛇」に譬えたものであり、一方では煩悩の火が常に家を焼いているようだとも譬える。自己に内在するもののたとえ話だから、他者を縁とした自己の悩みに用いることは適切でないと考える。

前々日と前日には、それぞれムーミンカップ適量のコーヒー1杯を飲んでいたが、排便に至る効果が無く、前日20時台に下剤1錠を飲んだ。本日は3時55分からトイレに入り、下痢を中心とした排便を行った。5時30分からも、危険な便意によってトイレへ入り、少量の下痢を排出した。12時52分まで10分ほど意識を保ちながら横になっていた時に、母親が外出する宣言と配達物受け取りを頼んできた。12時54分に母親が発車した。14時9分に母親の車が家に着いたが、母親が車を出て3分ほど家の周辺をうろついていた。

15時過ぎに風邪薬(パブロンの何か)1錠を飲んでみた。動機は、軽度で慢性的な喉・鼻の違和感の一時的改善を期待したことにある。このような風邪薬の服用は何年ぶりか?1度に2錠という指定は、身に余る効果を危惧するので1錠に減らして飲んだ。16時台には眠気が異様に増幅した。16時40分から20分程度横になろうと思った。最近よく意識する「師子臥(または獅子臥。典拠は仏典の経・律にある。枕など寝具を用いない。右わきを下にして両足を重ねる寝方)」を取ると、深い眠りを抑制できる。それでも、今回の眠気の強さのために、17時20分まで回り込んだ。多少の痺れを感じる。この風邪薬は1日3回という用法を示しているが、症状の強い者(本気の療養を必要とする者)を想定していてこのような睡眠効果を含めたのではないか?



2017/06/30

本日6月30日は、まず1時50分台に目覚めの時刻確認をしていた記憶があり、起きる意思も有ったろうが、そのまま横になった。2:10の第一アラームなどは記憶に無く、気付けば2時28分であり、起床した。2時台、特に調理作業をしない私であったが、母親が2度・弟が1度1階に降りて来た異常な時間となった。4時40分過ぎから風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時33分に自室へ帰った。