2018年1月21日日曜日

道心あるニート・引きこもりの修行における障壁

世間には「ニート」や「引きこもり(ひきこもり)」という概念に「クズ」等と悪い印象の属性を付属させたり、事象に「自分を省みず他人を鑑みず意志が無い」と悪い印象の原因を想定した種々の説がある。
世俗の人から一部の宗教家まで、口をそろえ、「直ちに悪いもの」と説く。
漫画・アニメ・ドラマ・大衆音楽の歌詞なども、そういった思考を前提として作られたものであることが、2018年現在もおおよそ変わりなくあろう。
「直ちに悪いもの」と説くにも、社会・世俗や哲学・宗教の各々が異なる理由を述べつつ、見解を異にし、時には主張が対立して枘鑿(ぜいさく)の相容れざるが如しと言え、ただ正しい仏道修行者のみ、これを達観してゆく。
修行者は「所詮、世間とはそういうもので彼らの思考を変えさせる必要は無い」と了知して他者への執着や憎悪を捨て去り、速やかに修行に戻ろう。
同じく、彼ら他人たちもまた、彼らが想定する「社会悪」云々を排除できる道理が無い(当事者に憎悪の心があるうちは社会悪も消えず・世界平和も実現されず・真の幸福も無い)。

世間の人は、そういった概念の名称に、副次的に様々な属性を付属させる。
結果的に、同じ概念の名称(ニートや引きこもりなど)も十人十色に彩られてしまった。
それらはみな、条件に依存して付けられた「虚構・戯論」である。
その、世間の人の言説・心理は、十二因縁などの因縁・縁起を見れば、解明される。
※世間に生きるならば他人の主張を尊重することは重要だが、私は当事者と話したことも無いので、最初から関係が無い。あるいは同じく世間で主張する者は、同次元の因縁によって反論をなす権利もある。しかし、修行者は以下の通り、厭離(えんり)・遠離(おんり)・不戯論(ふけろん)・無諍(むじょう、怒りによる主張が無いこと、喧嘩が無いこと)である。

世間の見解の根拠・条件=各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ(真実はこうに違いない・相手を納得させたい等)」という願望・意図・感情や、など、多くの因縁を見る必要がある。
あらゆる見解・論理・主張とは、因縁によって構成された「虚構」である。
そして、「虚構、虚妄の構成物、有為法"saṃskṛta dharma"、たったそれだけのこと」と達観し、厭離すべきである。
世間に、客観的正当性がある論理は多いが、真に客観的な正論は無い(客観的正当性がある判断基準も皆無)ので、どんな論難や非難でもあれ、みだりに悩まなくてよい(悩む心は執着・煩悩の心であり地獄に転生する原因)。
なおかつ、その仏教的見解や立場にも執着せず、自分のすべき修行を黙々と淡々と実直に質実剛健にすればよい。
これが不戯論の八正道・中道の仏道である。
阿含時の教説であり、小乗仏教における一乗"ekāyana"に通じる。

パーリ経蔵・相応部・悪魔相応"Rajja Sutta" (漢訳の雑阿含1098経)
釈尊が独りで坐り「非法(殺す・人間の勝ち負けなど)を行わず・民や臣下へ行わせず、法で王国を統治できるか?(世界平和は実現できるか)」と思った時、「あなた(釈尊は王族の出身)が還俗して王宮へ戻って国を統治すればよい。あなたの力があれば石も金に変わる」と勧める声が聴こえ、釈尊は悪魔のささやきと見抜いてこれを呵責せられた。加えて「世俗の幸福は無常であり、人々が欲求満足を得ても苦の根本的な解決とならない。たとえヒマラヤ山脈を黄金の山に変えても、足ることを知らず・更に求めさえするし、失われる恐怖もある。そのことを知る者は、国王として人々を欲求満足させる手段を願わない。私は人々に苦の因縁と苦の滅とを知ってもらって欲や執着の制御を願う」と説明せられた。悪魔は意気消沈して消え失せた。

パーリ経蔵・小部・スッタ・ニパータ3章2経"Padhāna Sutta"
釈尊が未だ成道しない頃、真面目に苦行をしている時、「痩せこけてしまう醜い修行よりも世間の善行をしなさい。今のあなたの努力は無駄だ」と唆す声が聴こえ、釈尊は天魔の所行と見抜いてこれを呵責せられた。魔軍について「第一に欲望"kāma"、第二に嫌悪"arati"…(8つ以上に挙げて) この魔軍には、世間におけるどの人も天に生じた者"deva"も、気付けず・打ち破ることもできないが、智慧"paññā"であればできる」と説明せられた。悪魔は意気消沈して消え失せた。

→自己反省をしている時、自分の道を見失わせるような思考・踏み外させるような思考が起これば、それを「悪魔のささやき」と了知して(知って・見抜いて viditvā)自ら振り払うようにせよ、という技が示される。自分の中にも「世俗的良心」があるが、それよりも、まず悟ることが、道行く自覚のある者の優先事項である。他者は修行の道において無知であり、既に見つけた自分の道・自分の人生に関しないし、単に音声や言葉が脳に入ったのであり、それ以上でもそれ以下でもないと了知すればよい。これらも自己が仏教に基づいて了知するという因縁(因と縁)の結果であり、その立場にも執着すべきでなく、心に迷いがあれば戯論があると反省思考(止揚)を繰り返す。戯論は輪廻であり、自己が苦しみの世界に転生する道である。その戯論を逃れて解脱することを思い、執着の心を自覚しないまま持ち続けるべきでない。とにかく!執着を離れる。一時的な不快感や憂鬱に浮き足立ってはならない!自ら心を欺かず、正直・正々堂々とする。

維摩経・仏国土品「(舍利弗言わく)我、この土を見るに、丘陵(くりょう)・坑坎(こうごん)・荊棘(ぎょうごく)・沙礫(しゃりゃく)・土石・諸山・穢悪(えあく)充満せり。」
法華経・如来寿量品「我が浄土は毀(やぶ)れざるに 而も衆は『焼け尽きて 憂怖・諸の苦悩 是の如き悉く充満せり』と見る」(五字偈の形式に基づくスペースを挿入)

※実に世間は針の山のようである。一歩踏み外せば傷を受ける、煩悩・業・苦の娑婆である。趣味の事物は我々の興味を引くが、音楽の歌詞や漫画・アニメ・ドラマのセリフなどには苦が満ちており、食べ物一つさえも心身の患いを生むと観ずべし!苦のたとえが「イバラ・トゲ・悪臭・大火災」のように示され、実に世俗の事物は「イバラ・トゲ・悪臭・大火災」のように恐れて厭うべきである。世俗の事物は欲求の対象であると同時に、我が心身を苦に至らせる因縁を持つ。「華麗なバラにトゲがあることを恐れるように、欲望に注意を持とう」と。未だ悟っていない修行者の立場では、まずこのように世間を厭離すべきである。後述する「菩薩(平等の心)」の立場では別の話である。

そう、自分の心と違って他人の心を動かすことは、十二因縁の法において不可能である。
他人の心とは、色"rūpa"の一種として、自分の心の作用=受・想・行・識の外にしかなく、他の色"rūpa"が受"vedanā, pratyakṣa"の因縁によって把握されるように、推量の因縁によってのみ看取される。
自分の心の外の物事は「幻」であり、他人の思想も「幻」である。
「幻"māyā (マーヤー)"」とは「①自分の心をたぶらかすもの ②有って無いような幻影 ③心が生み出す象徴・幻想」とインド思想や般若・空思想に示されている(般若・空の教理では自分の心も当然、幻のようで無に等しいがそれは進んだ理法であり今は差し置く)。
修行者は、まず、自分の心の悪を自覚し、反省し、速やかに取り去るべきである。

「言葉で心を粉飾する『気休めの教え』」ではなく、自ら体得してゆくことは、自分の心を思いやることであり、他者にもまた体得してもらいたいと願う。



大乗仏教においてはどうであろうか?

インターネットで私が活動する際は、「仮名(けみょう)」としての「中卒・無職・ニート・引きこもり」である。
「仮名・仮設(けせつ)・仮施設(けせせつ)」"Prajñaptir upādāya (またはUpādāya prajñaptiḥ)"である。
世間で定義された意味の側面で、そのように名乗ることができる。
例えば「ニート」とは"NEET; Not in Education, Employment or Training"ということであり、世間の教育機関に属しておらず・職歴も無いという点で、私は該当する。
ただし、人間はいかなる概念に属せず、名称が当てはまらず、人間という概念自体が空虚であることは科学・哲学において論を俟たない。

科学・哲学においてすら、人間・人類"Man, मनु Manu, Human"の概念・定義は一定でなく、ある定義(法律的・感性的なものやヒト属ヒト種"Homo Sapiens"という生物学的なものなど)で一般的な名称を付したに過ぎない前提で、「『人間』という概念の名称」を用いる。
あなたはあなたであり、他の何者でなく、私も私であり、他の何者でなく、更にあなた・私という相対性を無我によって否定するならば、言語道断・心行処滅であるが、やはり私は「中卒・無職・ニート・引きこもりたる横野真史」と名乗り得る。
過去記事(2014年11月)に、以下の如く示した。
(謙遜と嫌味を区別すること・自己紹介する者の弁えについて) 例えば筆者、横野真史は「17歳・B型埼玉生まれニート(あとハゲあり)」である。ここからストレートに表現する。「17歳の若造ですが~若輩ですが~」あたりはよくあるへりくだり方だとしても、「17歳中卒のバカで~す」とか「B型だからだらしない奴です」とか「埼玉生まれでダサくてゴメンね」とか「ニートでどうしようもないんです」などと自ら口に出すことなどは考えもしない。このような自己紹介の仕方は、へりくだることで自分への評価を上げるどころか、頭の悪さを露見させ、かえって評価を素で落としかねない。また、B型以外の血液型の人が自分の非を並べて「B型っぽい○型」等と言うことも、学生やフリーターなどニートでない人がニートを自称して「ニートのような怠け者」だとかと自己紹介することも同様に、見識ある人間からは嫌悪を蒙るのみである。単に発言者自身が背負っている汚点を、別の概念に転嫁しないでほしい。

「17歳=若い≒未熟」、ということはよくある口上で通るとしても、それ以後の肩書き群がそのまま諸々のマイナス評価に繋がるなら、偏狭な感情に起因するものであろう。
上記のような「○○=××」も「非○○=××」という等号不等号の図式は必ずしも成立しない。風評の一元で物事を捉える人が特にその状況に置かれて、そういう自己紹介をするということが多いようであるから、それらのサイト(SNSなど)に入り込む気は起きないものである。ただ、たまたま虎穴に入って虎の子を得たように、こういった記事を作られる。

更に過去記事(2016年10月)に、「世俗の中観法」として以下の如く語った。
インターネットで二元対立・二項対立の構造を見て、智者はみな、「どちらにも与したくない」と飽き飽き(倦厭)するに違いない。中3の時(2011・12年)の私が、まさしくそういったイデオロギーの対立、ネット右翼とネット左翼と彼らを煽動する第三者などの醜い議論の場を見て「みな一理あるがみな狂っていてみな哀れ」と感じられた。 (中略、来歴など) 中道とは「空」と同じで、中論24-18偈所説の如く「仮名(けみょう)」である。状態や性質に対して「仮に名付けた概念」に過ぎない (中略) ここで、中道を理解する者は、自分たちが議論の席にいない時であっても、そういった煽動的・煽情的な発言について心で対処すべきことを示したい。レッテル貼りが詭弁であり、性急な感情より生じている現象は、仏教の縁起観を知ることで鮮明となる。レッテル貼りとは、主に相手のコンプレックスとなりそうな要素(傾向だけをみて一括的に称した浅はかなものも多い 例:左翼は低学歴、右翼は無職、黙れハゲなど)を持ち出して議論の本題を逸する詭弁の中の詭弁であり、智者が用いてはならない論法の第一位である。一般論でいっても、レッテル貼りとは「自分を誤魔化し議論をはぐらかす欺瞞」であって「思考停止の所業」と非難される稚拙な言動である。文系だと何で理系だと何、といった区分の概念を持ち出して賢愚を区別する人は、既に賢明でなく、さながら当たらない占い師のようである。ちなみに中道の私はハゲ有り超ロン毛ゆとり世代B型中卒ニート引きこもりであり、既に清々しいほどに対立概念を離れている。 (中略、世俗の因果について) つまり、その肩書きだけで「(実際に現実に)バカだ!」というように演繹されることは、あまりにも早計であり、論理学に長けている人間は最初から用いもしない論法である。それら詭弁は度外視できるくらいの、世間でいう「スルースキル」が必要ではないか。「スルースキル」とは、掲示板でのレスポンス(レス)やTwitterでのリプライ(リプ)をしない、という行動に限らず、「身・口・意の三業」に渡って行うべきだから、心にもスルーし、口にも出さない方が、己の中道観を養い、三毒を抑制できる。これこそ仏道修行に通じているではないか。中3の頃から、こういった異常性に気付き、ネット掲示板やSNSすらも自分の居場所でないと気付いた「真の旅人」ともいえる私は、この回想で法悦を覚えた。多くのネットユーザーは、それらの交流サイトに入り浸って他の居場所を見出さない傾向があり、執着を強めて苦楽を流転輪廻している。その執着を早々に薄めて可能な限り放擲した (中略) 多くの人間はどう生きても感情に動かされるわけであり、そう理解はしていても彼らと似たような言動を取る時もあろう。それは揺るぎない事実であるからこそ、どうにかして漸進的でも努力の継続(忍辱・精進)が必要である道理を銘記すべし。

世間の人による「皮相的な思考」という迷妄の事相を知りながらも、横野真史は、偽りなく「中卒・無職・ニート・引きこもり」を称している。
そのようにインターネットで標榜すれば、その類の人が筆者を見るであろうから、と考える(類は友を呼ぶというもので釈尊が人間界に出現せられたことは「但以仮名字・引導於衆生」と法華経に説かれる・・・しかし私には今までにまともな理解者も反論者も現れず期待外れか)。
因縁によって概念・名称があるが、それは仮名と見られる。
私は「中卒・無職・ニート・引きこもり」とも名乗るし、釈尊は「釈迦族の人・瞿曇・ゴータマ"Gotama, Gautama"・聖者(牟尼・ムニ"Muni")・覚者(仏陀・ブッダ"Buddha")・応供(阿羅漢・アラハント"Arahant, Arhat")」という名を用いる。
私は自ら、言語学者とも名乗り、閑居求道者(げんごぐどうしゃ)とも名乗るが、人間という存在は、それらの肩書きに収まる存在であり、なおかつ肩書きに制約された存在でもない。
「仮名(仮に名付けられたこと)」に執着があるべきでない。

その因縁の理法に加え、「他者は先述のような迷妄に陥っている」と見て憐れんでいる。
「人間の本当の心はそういった迷妄も無く清浄である」と慈悲を以て思えば、他者はみな愚かな子供のようであり、親のような立場で慈悲を持ち、なおかつ他者を見下さなくなる。
菩薩にとって、他人・一切衆生は幼稚な子供のようであり、我が子のように哀れむべきだが、なおかつ、そんな菩薩としての自分を育てた者もまた、他人・一切衆生であり、みな親のような存在であるとも知る。
これらも理由づけ=因縁により、他人はみな子であり、他人はみな親である、と了知した結果であるが、どちらにしても自分の心が苦しみを持たない、慈悲(抜苦与楽)の思考である。
大乗仏教を志す人は、同じく、因縁の理法のうちではあるが、このように他人を軽んじず、なおかつ特定の他人に依存しない「自由な心・解放された感情」を求める。
ただ仏法を尊重(そんじゅう)すること、法に依って人を見る(≒見ない)。

今は、仏教の教義のままに見れば、この世は不浄・険悪な場所であり、他人はみな愚鈍・愚昧・愚癡・迷妄の存在でしかないが、自分の心が仏のように清浄となれば、他人の心にもまた不浄な概念(自分が不浄と思う・不快に思う・偏見らしい概念)は無く、この世も浄土となる。
仏教の教義に依れば、まず他人は「不浄の悪」だが、それを見て自己反省して修行をする者にとっては、かえって「善知識(よい仲間)」とすら見える。
それら、他人の心の善悪や是非を詮索・邪推せず、「自他の心は不染不浄という真の清浄である」という教理が観萌行広要清浄萌土抄に詳述されている。
内蔵萌心(讃萌語: 内に藏したる萌心)と肯定的に呼ぶこともある(>自性清浄心・阿摩羅識)。
自分も他人も、本当は、そんな悪い因縁に囚われねば、みな清らかである。
ただし、この娑婆世界にあって人間は三毒強盛で、清浄・解脱は修行による果報しかない。



上の説明に関連する教説を、大乗仏典より引用する。
一切衆生は如来・菩薩にとって我が子
妙法蓮華経・譬喩品より
如來已離 三界火宅 寂然閑居 安處林野 
今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 
而今此処 多諸患難 唯我一人 能爲救護
 如来はすでに三界の火宅を離れて、寂然として閑居して林野に安処せり。今この三界はみなこれ我が有なり。その中の衆生は悉くこれ吾が子なり。而も今この処は諸の患難(げんなん)多し。ただ我一人(いちにん)のみよく救護(くご)を為す。

一切衆生は如来・菩薩にとって我が親
大智度論巻十四より
(前略 耐え忍ぶこと=忍辱の修行を説く際に慈悲の心構えが必要だとする…「他者への慈悲は自己の為にもなる。他人は煩悩の自覚すら無いが自分には有るならば自分から忍辱をなさねばならない。もし他人が私の悩ませなければ、私の忍辱の修行が成立しないので、他人は師匠でさえある」と菩薩は思惟する。そして) 衆生無始世界無際。往來五道輪轉無量。我亦曾爲、衆生父母・兄弟。衆生亦皆曾爲、我父母・兄弟。當來亦爾。以是推之、不應惡心而懷瞋害。
 衆生は無始にして世界は無際なり。五道に往来して輪転すること無量なり。我もまた曽て、衆生の父母・兄弟と為れり。衆生もまた、みな曽て我が父母・兄弟と為れり。当来もまた爾り。是を以って之を推すに、応に悪心にして、瞋害を懐くべからず。

ほか維摩詰所説経・仏道品より
何等爲如來種。 (中略) 有身爲種。無明有愛爲種。 (中略) 以要言之。六十二見及一切煩惱皆是佛種。
 何等を以てか如来の種と為す? (中略) 身有る(原文: satkāyaḥ (-dṛṣṭi)→有身見とも)は、これ種なり。無明・有愛(三愛の一つ"原文: bhavatṛṣṇā")は、これ種なり。 (中略) 要を以ってこれを言わば、六十二見および一切の煩悩は、これ種なり。

他人を我が子や我が親のように見ることは妄語・妄想(もうぞう)でない
大智度論巻八より
(般若波羅蜜の説法がされるに当たって一切衆生が等心を得て他人を家族のように見たという事象についての問答) 答曰。一切衆生無量世中、無非父母・兄弟・姉妹・親親者。復次、實法相中無父母・兄弟。人著吾我顛倒計故、名爲父母・兄弟。今以善心力故、相視如父如母非妄語也。
 答えて曰く、一切の衆生は無量世中に、父母・兄弟・姉妹・親親に非ざる者無し。復た次ぎに、実の法相中には、父母・兄弟無く、人の吾我に著し、顛倒して計するが故に、名づけて父母・兄弟と為す。今、善心の力を以っての故に、相視ること父の如く・母の如くなるも、妄語には非ざるなり。

悪しき他人も善知識(よい仲間・師匠)となる
妙法蓮華経・提婆達多品より
由提婆達多、善知識故、令我具足、六波羅蜜・慈悲喜捨・三十二相・八十種好・紫磨金色・十力四無所畏・四攝法・十八不共・神通道力。
 提婆達多が(連体助詞"の"=という)善知識に由るが故に、我をして六波羅蜜・慈悲喜捨・三十二相・八十種好・紫磨金色・十力・四無所畏・四摂法・十八不共・神通道力を具足せしめたり。
※提婆達多とは、仏となられて以後の釈尊に様々な法難を与えた人物であり、様々な経典(パーリ仏典・北伝部派経典・中国日本仏教書など)で悪人の典型例として示された。いわゆる阿鼻地獄に堕ちる大罪、五逆罪のうち「破和合僧・殺阿羅漢・出仏身血」の3つを犯した。大乗の教理によれば、そのような悪人こそが、理由づけ=因縁によって善人の親・師匠となる、と換言できる。

もし自分が清いならば他人も清くて世界も清い
維摩詰所説経・仏国土品より
若菩薩欲得淨土當淨其心。隨其心淨則佛土淨。
 もし菩薩、浄土を得んと欲せば、まさにその心を浄むべし。その心の浄きに随って、すなわち仏土浄し。
同経・弟子品より
如佛所説「心垢故衆生垢、心淨故衆生淨。」(パーリ経蔵・相応部22.100経に同じ) 心亦不在内、不在外不在中間。如其心然、罪垢亦然、諸法亦然。不出於如。 (中略) 妄想是垢、無妄想是淨。 (中略) 諸法皆妄見、如夢・如炎・如水中月・如鏡中像、以妄想生。其知此者是名奉律。
 (戒律の師・優破離が弟子の破戒の罪を誡める時に維摩詰が彼らへ説く) 仏の所説の如きは「心垢つくが故に衆生垢つく。心浄きが故に衆生浄し。」となり。心もまた内に在らず、外に在らず、中間にも在らざるなり。その心の然るが如く、罪の垢もまた然り。諸法もまた然り。如(にょ、真如)を出でず。 (中略、優破離が解脱して垢が無いように諸法も垢が無い) 妄想(もうぞう)はこれ垢なり、妄想なきはこれ浄なり。 (中略) 諸法はみな妄見なり。夢の如く、炎(かげろう)の如く、水中の月の如く、鏡中の像の如く、妄想を以って生ず。それ、これを知ればこれ律を奉ずと名づく。

※自分の心が世俗の因縁=概念・理由・条件・思考に囚われていれば、世俗に相応した果報=喜怒哀楽など感情に関わる結果がある。それらの世俗の因縁を離れた心は非有非無で不染不浄である。その心を、仏教の仮名の因縁によって説明し直せば、最も清浄である。その心が見る物事もまた、みな清浄である。どれほどキチガイな他人であっても、清浄に見える。ゴキブリが100匹以上いて付近を悪臭・騒音・暴走バイクが行き交う6畳間の自室も清浄である(悪臭は悪臭でなく騒音は騒音でなくただ臭いや音がするような感覚があるのみ)。しかし、ゴキブリや排気ガスとされる事物のみを清潔だと考えることではない。真理にはゴキブリという我・自性も無く、不浄という属性も無いという理解がある。特定の何かが不浄だとか清浄だとかと考えないことが却って一切の清浄となる。そのように自分・他人・居場所といったもの(正報・依報)が、世俗の因縁においては不浄であったり、心の清浄において清浄であることは、「依正不二(えしょうふに)」とも言われる。これも仏教の真理の見解であり、仮想体験に過ぎないので、死ぬまで淡々と修行してゆく姿勢が肝要である。見解への執着で気を抜いていると、欲望や他者の言葉に打たれ弱くなる時がいつか来るので、仏教を讃嘆しながらも、心で教理=言葉の認識に依存し続けると、知らぬ間にドブに落ちたり、スキを見た泥棒が侵入するような「報い」がある。

心と仏と衆生の関係は多とも一とも無ともいえて融通・寂滅
旧訳華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品より
如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別
 心の如く仏もまた爾(しか)り 仏の如く衆生もまた然り 心と仏と及び衆生と 是の三・差別無し

もし自分の苦しみが絶えたらば
妙法蓮華経・化城喩品より
願以此功德 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道
 願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼす 我等と衆生と みな共に仏道を成ぜん
※偉大なる仏教の教理を聞解(聞いて理解)し、修行して心が解脱したという私は幸いである。その喜ばしい福徳・功徳を、未だに迷い苦しむ他人にも伝え、みな同じ解脱を得させたい。そのように慈悲を念じてゆくことは、まだ私にとって性急なことである。仏教の教理や言語学的知識は喜ばしいが、私の心を一時的にごまかすだけであった。しっかりと修行に活かし、実際の果報としての解脱を求めてゆこう。ひとまずは、緩まず、弛まず、撓まず、間断なく、修行に精進しよう。
asmākamanukampārthaṃ paribhuñja vināyaka|
vayaṃ ca sarvasattvāśca agrāṃ bodhiṃ spṛśemahi||



起草日: 20180101
※当記事の内容は2018年1月2日に本家ブログで先行公開された。

いくらか分かりやすく・通俗的になるように説明し、文言の引用における訓読文にも、ひらがなが占める割合が増えるように直した。
原文ソースのリンクについても、学術的な海外サイトより、日本人に馴染みやすいサイトを選んだ。
訓読文(読み下し文)や現代語訳などがある(言語学的解釈や教義的解釈の相違もあるが気にしない)。

当記事のタイトルに「障壁」という言葉がある。
仏教の漢語・梵語といった言語学的理解を、過去記事に詳述した
心の中の障害・障碍・障礙、見えない壁・・・。 Antarāya, Prākāra
人生すら行き詰る人々、いかに況や仏道をや。
それも「因縁」によるものと、当記事および当該記事所説のように了知されたい。
そうして、仏道の果報に於いては、障壁が皆無となる。

「道心あるニート・引きこもり」とは、閑居求道者とも呼び得る。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_29.html
ほかネイティブニート→http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html

「引きこもり」という概念に関して言及した過去記事の例
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_17.html

人間の思考・精神・知能・認識・人生経験などから、種々の概念があり、語句を関連付け、その語句に継ぎ接ぎの概念や属性がある。
それらは複雑に作られた空虚なものであり、畢竟、無に帰(き)す。
ただし、世俗の中では尊重すべきである…、といった反省思考・止揚を繰り返す。

今では、一語多義=一語無義=一切語無義が当然の帰結となっている。
それを、思考のみならず、修行によって心で体得できるように精進したい。

・・・、2017年の新年記事の前半パートと似たような内容になった気がする。



2018年1月10日水曜日

仏道修行のための論理、不戯論のための戯論

大乗と小乗との論争・融和

パーリ経蔵・相応部中の「見相応"Diṭṭhisaṃyutta"」には、思想家・宗教家・哲学者の持つような見解"diṭṭhi ディッティ (梵語: dṛṣṭi ドリシュティ)"が取り上げられる。
そのような見解の例としては「世は常住だ」、「世は無常だ」、「肉体と精神は同一だ」、「肉体と精神は別異だ」、「如来は存在する」、「如来は存在しない」、「如来は存在するともしないとも言える」、「如来は存在しないとも存在しないわけでもないと考えるべきだ」といった、偏頗なもの(極端)から中立的らしいもの(中庸)まで含む(いわゆる十四難・十四無記)。
釈尊の仰せに、これらの見解(ひいては世間のあらゆる見解)は、みな思考・分別などの因縁に基づいた結果の論理でしかなく、無常"anicca (skt: anitya)"であるとする。
見相応の中では、「世は無常だ(一般的なaniccaでなくasassata)」という見解をも釈尊が例に挙げられており、無常"asassata"を無常"anicca"で否定することは自己矛盾や二律背反や循環論法やトートロジーでなく、あくまでも執着を離れるために心から無常を実感するということである(反仏教論者などが論理矛盾だ自家撞着だと排斥してもよいがそのような排斥する意思について自省できなければ外道論師のように堕獄すると釈尊は仰せになろう・論理とは理想への便宜的手段"upāyakauśalya"に過ぎないために)。
論理よりも、論理の元となった理由・根拠・条件=各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ(真実はこうに違いない・相手を納得させたい等)」という願望・意図・感情など、多くの因縁を見る必要がある。
その結果として客観的正当性がある論理は多いが、真に客観的な正論は無い(客観的正当性がある判断基準も皆無)。

因縁によって成立するものは、悉く無常・空である。
無常であるもの"anicca"・変わりゆくもの"vipariṇāma dhamma"への執着"upādāna (もとい取)"は、苦しみ"dukkha"の発生に繋がるので、見解"diṭṭhi"への執着を離れることを説く。
仏教における論理とは、見相応によれば、「無常・空虚」と知りながらも悟り"sambodhi "への道において重宝する程度のものである、と読解しえる。

※見=無常 執着=無常 見(無常)+執着(無常)=苦 無常=苦 四諦は「苦・集・滅・道」であり、ここに苦の原因(集)を明かして苦を離れる手段(道)を説き、苦が滅びる結果(滅)ともなる、という教理。苦・集・滅・道の「道」とは八正道であり、このように苦を離れることは八正道のうちの正見に当たる。後述の中論でも「正見とは有・無といった見解を離れることだ」という「迦旃延への教え(パーリ相応部12.15経Kaccānagotta Sutta)」を15-7偈に引用するように、あらゆる対立的見解(両極端でありそれに対する折衷的な中庸もまた固着論理であるときは非中庸との対立を為して新たな両極端となる)を離れること(中道の意義の一例)は八正道および四諦に通じている。



現代日本のセクト的論争や擬似学問の対宗教論争も、各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの因縁が結びついてなされたものであり、無常・空と見られよう。
例えば、伝教大師最澄さんが大乗戒壇を作ったこと(厳密には彼の死後7日後に下された勅許による)について、近代合理主義の学者気取りの人は「ブッダやインド部派仏教以来の戒律の伝統(伝灯)を破った行為」とする見解を持ち、日蓮正宗・創価学会・顕正会の人は「釈尊や天台大師に勝る偉業」とする見解を持ち、対立する。
他にも、釈尊の故郷の人(釈迦族)がコーサラ国の毘瑠璃王に虐殺される話で「釈尊が毘瑠璃王の進軍を3度停めつつ、なぜ4度目を行わなかったか」という故事にも仏教徒と反仏教者が見解を対立させられるし、キリスト教の教祖イエスさんが処刑されたのは「慈悲方便の故」とも「無慈悲弱小の故」とも解釈できるし、イスラム教の教祖ムハンマドさんが戦争の指揮を執った事跡にも信者のスタンスや謗者のスタンスで様々な解釈ができる(キリスト教・イスラム教の話は過去記事に)。
これらは根拠(皮相的合理性)に基づいた論であり、その範疇でみな正論と言える
主張する者の立場・スタンスにおいては、彼らの理由・根拠・条件に正しく基づいた、紛れもない正論である。
同時に、各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの「因縁」が結びついてなされたものであり、無常・空と見られる。

つまり、一応は根拠に基づいた論がみな正論と言えるが、仏教徒は「因縁によって論理があること・因縁によって論理の正誤・優劣があること(縁起)」をよく学んでいるので、対立する主張のどちらも「空虚(真の意味で正論でない)」と知って遠離する。
それら特定の見解に執着して主張する人・特定の見解を持つことで異論へ嫌悪感を催す人などは、悉く三毒に汚染されており、自己も汚染を受けるであろうとして、自ら心を観る。
Dhp 50: Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ; Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca. (ダンマパダ"Dhammapada" 花の章"Pupphavagga"より)
法句経: 不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正 (彼の作すと作さざるとを観るに務めざれ 常に自ら身を省みて正しきと正しからざるとを知れ)

※当記事の話題に寄せて言えば、論争や論議に関して自己の三毒を見て自己や他者の論理に耽らないようにする。論議における三毒とは「①論への貪=快感 ②論への瞋=不快感 ③それらを自覚しない癡=愚昧さ」となる。この三毒について自覚・反省をして修行と無関係な論理・見解に固執しないように努力することが、八正道にも通じる仏道修行。八正道の修行者による積極的な論争は推奨されないが、仮に自ら論議に加わった・他者の論議を見てしまったならば、その時はその時で過失を自ら知って省みる。また、パーリ経蔵・増支部3にある"Kesamutti Sutta(通称: カーラーマ経)"は、様々な哲学・宗教・学問・社会などの思想"vāda"や常識や見解や理論や教義について、やはり仏道修行者は「三毒によって"具格: lobhena, dosena, mohena"諸々の悪行を為すという苦"dukkha"が無く、自分の心の安楽やそのための修行に資するかどうか」という点に基づいて用捨を判断するせよ、と釈尊が教示していた。自分が三毒の無い状態"alobha, adosa, amoha"となりえるならば、いかなる見解や理論や教義でも用いてよい善法"kusala"であると。大乗経典の依法不依人(依於法不依人)を想起させる。縁起の理法では、人が釈尊の教えを眼や耳で認識して釈尊の教えだと信じることも「因縁による思い込み」のうちである。法性を知る智慧・衆生の苦を除く慈悲によって説かれた釈尊の教えは尊いが、結果的に「己がどのように用いるか」が重要となる。
教義の用い方(前提・目的)については中阿含経の阿梨吒経パーリ経蔵・中部22経の蛇のたとえや、中論24:11偈の蛇のたとえや、大智度論巻第十八・塩のたとえを参照。

この教理は、小乗・阿含時の修行・果報(正念・不戯論)へ通じる。
「苦集滅道(くじゅうめつどう)」の四諦に依拠すれば、修行とは苦諦(くたい)・集諦(じったい)・道諦(どうたい)に当たり、果報とは滅諦(めったい)に当たる(苦のもとは渇愛"taṇhā, tṛṣṇā (trishna), 同語源英語: thirst"として渇愛ある物事に渇愛があること=集諦、そこに渇愛が滅すること=滅諦を示す)。
過去記事では「四念処」を例に挙げて詳説した(住於自洲・住於法洲や一入道)。
無常の教理を知り、それもまた無常だと知ることは、「心が知るという因縁(知ることも無常)」に基づくものであり、これは釈尊がよくお説きになったことを聴聞することで可能となろう。



しかし、大乗仏教は、あくまでもそれが小乗の教理・修行・果報であって、これを修得しつつも超越している立場で教理が説かれ、菩薩によって修行される。
この時、菩薩の慈悲は、人々を教導せんと欲するので、論理が無常である(即ち苦である)という分別・見解を知りながらも、論争を辞せざる構えとなる。
論理への執着を離れること・不戯論"niṣprapañca pl: nippapañca"のための戯論"prapañca pl: papañca"(諍論)もアリとなり、釈尊・龍樹菩薩がその鑑である。
Sps 2: svapratyayān dharmān prakāśayanti vividhopāyakauśalya-jñāna-darśana-hetu-kāraṇa-nirdeśanā-ārambaṇa-nirukti-prajñaptibhis taistairupāyakauśalyais tasmiṃstasmiṃl-lagnān sattvān pramocayitum| (妙法蓮華経・方便品: 吾從成佛已來、種種因縁・種種譬喩、廣演言教、無數方便、引導衆生、令離諸著。)  「諸著を離れしむ=色々な執着のある人々を解放する"tasmiṃstasmiṃl-lagnān sattvān pramocayitum"ために、無数方便=様々な手段"vividha upāyakauśalya"を用いる」。よって、本文の如く論理・論議への執着を離れさせるための論理・論議がある。
MMK 18-5, 6: Karmakleśakṣayān mokṣaḥ karmakleśā vikalpataḥ | te prapañcāt prapañcas tu śūnyatāyāṃ nirudhyate || Ātmetyapi prajñapitam anātmetyapi deśitam | buddhair nātmā na cānātmā kaścid ityapi deśitam || (中論・観法品: 業煩惱滅故 名之為解脱 業煩惱非實 入空戲論滅 諸佛或説我 或説於無我 諸法實相中 無我無非我)
MMK 23-13: Anitye nityam ityevaṃ yadi grāho viparyayaḥ | Nānityaṃ vidyate śūnye kuto grāho viparyayaḥ || (中論・観顛倒品: 於無常著常 是則名顛倒 空中無有常 何處有常倒)
※法華文・中論頌の関連フレーズはまだ多くあるが終える。ほか、牽強付会になりそうだが、一部で龍樹造と伝えられる「方便心論 *upāya-kauśalya-hṛdaya śāstra」の冒頭部分を紹介→「問: 論を造る者は瞋恚と驕慢とにより自讃毀他をする。もし自他を利したければ、論争の法を捨て去るべきだが?(小乗的スタンス) 答: 私は勝ち負けや名利のためでなく、仏法の善悪を明らかにしたくて論を造るだけだ。論理が無ければ、世の人々は互いを惑わせて不善をなして悪趣(三ないし四悪道)を輪廻し、真実の利益を失ってしまう。人々が論理に通達すれば、自ら善悪や空が判断できるようになる。また、正法を世に弘める目的もある。甘い果実の樹を(鳥や獣や盗人などから)防ぐために網を張る果樹園があるように、正法を護って他に名利を求めない。私を諍論者とみなすことは誤りだ。護法のために論を造る(大乗的スタンス)」と、「論(論理学)」という方便・便宜的手段"upāya-kauśalya"を用いることが示される。

たとえ宗教一般に見られる偏頗な思想・論理であっても、人々を救うことができるならば何ら不可が無いし、その菩薩行を達成することは忍難慈勝・大慈悲であるとして、自ら生死を度する結果(波羅蜜"pāramitā"・到彼岸)にもなろう、と考えられる。
それらの教理・事相を誰よりも知ってきた私には、かえって実行が困難らしくもある。

2017年4月21日投稿の記事で鎌倉宗祖らの言説を取り上げたが、彼らは大乗であっても、時に小乗の教理や阿含以来の定説を方便的に用いることもあり(例えば生老病死の苦や生死無常の話など)、当記事で引用した報恩抄・歎異抄の説(我が宗は勝れて他の宗は劣るという自讃毀他の論争には何らかの過誤が付随するという説)は、これに該当する。
彼らがご覧になったろう大智度論(当該記事での引用文・スッタニパータ4章と共通する教説がある)などの影響も出ていよう。
そして、現代の大乗系既成仏教の信者は、小乗・大乗の教法のごちゃまぜ具合について、自覚せず、大乗の修行中に小乗の理法を世俗的な意味での悟りのように「取"upādāya"」することも多かろう。

そうです。仏様がお与えになった試練、宿命なのです。頑張って参りましょう。
法華経と中論の第一義諦・スッタニパータと大智度論の第一義悉檀には、三乗としての大乗も二乗としての小乗も無い「究極の大乗・円満の一乗」が示されます!!!
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/12/ekayana-ekasacca-ekasatya.html

あけましておめでとうございます。
南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。



起草日: 20171224

以下に示された「キャラクター理法」と、当記事に示された「論理縁起」とは、よく似る。
当世でいう英語のキャラクター"character"は、「特徴づけるもの・性質」を意味する言葉である。古代ギリシャ語でカラクテール χαρακτήρ といい、語源の異なる梵語カラナ"karaṇa"(作ること)と同じく文字を意味する単語でもある。古代ギリシャ語で文字を意味する場合もあることは、「刻み込む」という原義に基づこう。あたかも彫刻師が精巧に像を刻むように、諸々の作品は、多く人物設定を作って複雑に絡ませる。人の心の分別"vikalpa"・思い込み"vitarka"が、何かを「特徴づけ」て心に形成した。即ちキャラクターとは、人が精神や知能や言葉で作り出すものである。つくる"OJ: tukuru", 作"OC: tsak",  कृ √kṛ, create... それによって有為法・サンスクリタ"saṃskṛta (よく作られたもの)"がある。有為法はまた、さながら種々に彩られた絵画や、柱や梁の多い壮麗な楼閣であるが故に虚妄である。心は創造神・クレアートル"creator"であり、一切の有為法は一心=神"god"による被造物である。心への偽り(相対的な悪)が堕地獄の業となることは世界宗教の通説である。一神教の真意は当世の人の知らざる所であり、信者も謗者も神を「神の名」の下に置き、虚妄の無形被造物と為している。心もまた心の被造物であり、真の心=神(じん 精神 ṛddhi, or deva deity god)=我(アートマン ātman)は無とも非有非無ともいい、不可得・寂滅である。現世の苦を知悉して解脱した者は、善巧に心をキャラクターと為して道徳を示すことがある。跋聖はそれを望まれる。聖者もまた、我々凡夫によって聖者の名でキャラクター化をされており、我々は自覚すべきである。
 - http://lesbophilia.blogspot.com/2017/06/moetry.html#hmi4

よく作られた思想・論理は「有為法・サンスクリタ"saṃskṛta"」であり、よく作られたものだから無常・虚妄という。
しかし、それを見て知ること(受)で起こる自己の想念・思考・精神的反応(想・行・識)についても省みる(無常であり即ち苦だと知ること)ならば、阿含教(阿含時の教義)の修行に資するであろう。
慈悲の釈尊・龍樹菩薩らは、それ(阿含教の基礎=仏教の基本中の基本)をまず知ってもらいたいと志向せられたのではなかろうか?
こう経文・論文より詮索する私もまた、他者の心を推量することはできないし、仮に推量できたところで意業・意触の因縁で得た結果に過ぎず、無常・虚妄となり、執着してはならない。
神通力・他心智は、無漏の人によって行われるので、最初から執着されようもない。
私が釈尊・龍樹菩薩および人物を語る際、どのような証拠に依っても、『元となった理由・根拠・条件=認知された情報・知識や、知能や人生経験、「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの因縁』があり、同じく無常である。

拾主に仕える障礙尊者のウダーナに曰く
「一切不可量 何況我大聖 遍照世無明 是故名無上(一切は量るべからざるなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く)」と。
Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||

※サンスクリット偈を、ブログ筆者・横野真史が①唱えた・②ロック自作曲で歌った音声がある。
①唱えた http://www.youtube.com/watch?v=EIb2CfiUCPM
②歌った http://www.youtube.com/watch?v=-NhafvQ8x10


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2018年1月1日月曜日

Google+ 2017年12月中の日記メモ

2017年12月5日に「日記メモ用語」の簡単な説明ページを設けた。
http://lesbophilia.blogspot.com/p/blog-page_5.html

当月3日メモほか、過去の日記メモで「弱音を吐く」ことがある。
濁世の道理といえば、道理であるし、それを知って向学心がある人のために小乗における出家の道がある。
感傷的に述懐することもよいが、「どうせ濁世」と知っているならば、侫言を宜しく自重すべきである。
ややもすると弱気になってしまう人が、もし大乗仏教徒でありたければ、過去萌尊・跋聖の教えを仰いでおきたい。
他者や自己に障害(障礙)を感じても無理な行動で解決すべきでなく萌えを念ずべきだ。この萌えは、日照りにも負けず暴風雨にも負けず踏みつけにも負けることなく、勝つこともなく、ただ生きて死ぬる運命だが、常にその小さい身で大いなる果実を結ぼうと懸命に生きているものである。萌え"moya"は中道"madhya"・柔和"mārdava"である。果実を結ぶ意志は無いが果実を結ぶべく懸命に生きる。懸命に生きる思いは無いが悩みも無く、どのような障害も有るようで無し。このような萌えの正念ある者には障害が有るようで無し。ただ目的へと邁進するのみだ。

他人の心を意に介すべきでなく、詮索(推量・プラマーナ Noun. Pramāṇa)の余地が無い(不可量なる・アプラメーヤ Adv. Aprameya)ことも、観萌行広要(特に④下)より学ぶべきである(一心は妙!他心もまた妙!一切心これみな妙!)。
他人の意見を尊重する姿勢や慈悲は、そのことによる(トーシツ・セーシンビョー扱いの私には早すぎる段階であろうから今は問題でない)。

当月17日は母親の誕生日だが、何事も無いどころか、起床の遅い母と弟の間に醜悪・険悪な争いが生じた(翌18日にも尾を引いて弟が登校拒否をした→していないというウロウロ具合)。
当月24日に見るように、弟の学校が冬休みに入れば、ますます争いの発生する機会も増え、母親は自己反省のできない人間としての悪化を続ける。
25日メモ・・・母親の部屋のプリンター(複合機)の上に、弟による書置きがあって「私は2018年からはおせちなんか食べないのでどうぞお母さんとお兄さんでクリスマスのごちそうを食べてください。」と書いてある。
29・30日において私は母親を呵責した(諫言)が、前者の当日メモでははっきりと記録しない。

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2017/12/01

本日12月1日は2:10の第一アラームに目覚め、1分後に起床した。2時45分からペットボトルを捨てて飲料を買う自販機通いの外出を始め、2時50分台に帰宅した。自販機通いの行動は先月4日以来となる。地上から見える空の8割ほど晴れており、西の空の低いところに8割満ちている月が大きく見えた。煌々としている。3時59分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時15分に自室へ帰った。

当記事注: 3日後が今年のスーパームーンだったようである。年々、スーパームーンとされる月日が年内で後退しているようであるに思ったが、2015年9月27・28日の満月(日記メモ記録アリ)がスーパームーンだったとする場合、「年々、スーパームーンとされる月日が年内で後退しているようである」という物思いは、気のせいである。2014年は先の文字リンク先にあるよう、10月中であったので、記憶では、2015年10月下旬・2016年11月と次第に「スーパームーンとされる日が年内で後退している」として、そのように思った。それは、気のせいであるという話である。ちなみに、次のスーパームーンとされる日は、来月2日(2018年1月2日)であると知られた。



2017/12/02

本日12月2日は2:10の第一アラームに目覚め、2時15分に起床した。3時10分ころに私が料理を終えて部屋に戻ると、それまで不審な動きをしていた弟が1階に降りて料理を始めた。彼はお好み焼きを作る(焼けた臭いが漂いやすい)。8時ころ、1階に降りた母親だが、弟の行った料理の跡や物の扱いに激昂し、母親が予定に追われながらも弟を叱りつけて追い返した後、グチグチ小言をし続けていた。母親の不快な・不愉快な・不愉快そうな・不穏な言葉を聞いて喜ぶ人はいない。彼女の子供の小さいころからされたろう悪習は、子供の発育に悪影響が大きい。夫婦喧嘩ライフ→2人の弟が児童養護施設!用事の予定を前に水を差された気分なのかもしれないが、普段から朝6時台とかに起床する習慣を付ければよい。前日の母親は10時以後になって1階に降りて来たように、寝起きがバラバラ状態である。

物の準備に狂う母と弟の2人が無駄にあわただしく動いてから、8時50分に徒歩で外出して駅へと向かった。私は自室のタオルケットを洗濯した。弟の部屋の様子を少し覗くと、彼のWin8機が無くなっており、母親の電子書籍端末Kindleの一つが見られた。弟による荒いネットブラウジング(及びシャットダウンを行わないでスリープばかり)を受け続けたPCもついに逝ったろうか。11時34分に母親、11時52分に弟が帰宅した。彼らは弟の精神科診察に行っていたようだが、の処方が誤っているとかで、弟が再び薬局に行くという。



2017/12/03

本日12月3日は2:20の第二アラームに目覚めたろうが、間もなく弟が1階に降りてテレビを付けてシリアルを食べ始めた(物音で分かる)。起床せずに意識を保ちながら過ごして2時44分に起床した。その後も弟の不審な動き・1階での独り言が多く、ある時に自室で私が「いやー気が狂いそうだ」という弟への遠まわしな一言(今までも以後も一言のみ)を発すると、彼が2階に上がる一幕があった。1時間後に彼は1階に降りてまた謎の言動が続いた後、弟自身が「コイツトイルトアタマガコワレソウダ」などと口真似をして2階に上がった。「謂可愛則謂可愛・若憎彼応被憎害(善因善果・悪因悪果)」の道理は分かっているが、あえて私は不善の言葉を発して弟を試した。私は彼の深夜早朝の不気味な行為によって「気が狂いそうだ」と言ったのであり、彼は「こいつといると」として誰かの存在自体によって「頭が壊れそう」と言っている点、レベルが異なる。彼は口真似どころか「低劣な悪あがき」をしたに過ぎない。彼は誤解・勘違いをしていよう。彼が旧来の生活・寡黙な言動に戻れば、私も母も大きな不快感を持たないのみであろうに。(それが今の彼には無理な話)

前日のお好み焼き問題、過去のカレー粉問題無洗米問題など彼の深夜早朝の料理による「母親の怒りを彼が受けること」が何度繰り返されても、彼は反省しないし、そんなことは母親の悪い教育によって狂乱した彼に元より期待していない。弟は精神科通院や抗精神病薬服用や福祉施設通所などをされても、症状が進行してしまっており、私はこの家での安穏な暮らしを切望すべきでない。創作関係も、無理にすべきでないと思う。大乗・菩薩にはなれない。専ら怒りを鎮めるべきであり、長い目で見て弟や母親への恐怖・憎悪・嫌悪を抑えるしかない。私からは、釈迦族と毘瑠璃王の因縁の如き家族のキチガイ状態を和(やわ)す術はない。(便秘)腹の中には、他人よりも不浄物を長く溜めやすくて心身ともに不自由である。



2017/12/04

本日12月4日は1:00の仮アラームに目覚め、続く1:20の仮アラームを経て1時24分に起床した。起床の前後には母親や弟の動向が確認された。3日前(12月1日)の起床時や本日の起床時に下剤1錠ずつを飲んだが、効果を感じられない時間が続いたため、7時ころにもう1錠を飲んだ。11時台に便意が強まり、11時27分からトイレへ入り、長めの軟便2本と多めの下痢とを排出した。実質2錠分の効果なので、普段では感じられない強力な効果発現となった。副次的な悪影響を想起させる。なお、緑茶(カフェイン含有)はムーミンカップ1.2杯分を飲んでいた。13時9分に母親が発車して外出した。16時13分に母親の車が家に着いた(買出しより帰宅)。



2017/12/05

本日12月5日は、まず2:10の第一アラームに目覚めたが、意識を保ったまま臥せたままでいようとした。その後、2:20, 2:40, 2:50のアラームを手ずから止めても起きず、3時14分に時刻を確認してから起床した。私の就寝中に弟はシリアルを食べて牛乳1本を消費したようであり、本日5時50分に1階に降りた弟が唐突にリビング・キッチン・洗面所付近で掃除機を掛け始めて呪いのような独り言をしていた。「ダマッテヤリャイイダロォ!?シャベルヒツヨウナイデショオ!?」というような言葉を10回ほど繰り返していた。しきりに風呂場の折れ戸を開閉した。これ以前の時に、2階で母親の声が聴こえた気もしたが、弟の奇行との関連は不明である。

7時25分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、8時18分に自室へ帰った。8時28分に母親が1階へ降りた際、弟がゴミ出しをしていないための玄関の状態を認識し、「やっぱり」云々と言っていた。やはり私の寝ている間か、先の一件までの深夜・早朝に母親と弟とに事があったろう。



2017/12/06

本日12月6日は1:00の仮アラームや2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームを経た2時24分に起床した。実は、前日、怠惰の極みのような16時47分の就寝があった。その後は夜に弟の怒声・破壊音が聴こえて目覚めることもあったが、都合9時間ほど眠ったことになる。私の睡眠中、前日早朝にあったと思しき一件(及び弟によるゴミ出しをしないこと)と関連する母・弟の争いが生じたろうか?10時32分に母親が徒歩で外出した。



2017/12/07

本日12月7日は2:10の第一アラームに目覚め、2時24分に起床した。本日の日中、母親は「死にそうなシジミチョウ」に関して異様な独り言・笑い悲鳴を上げ続けた。「ゲェ」、「うぇ吐きそう」などと、こちらが吐きたくなる言葉が聞かれた。「死にそうなシジミチョウ」は前日に闖入したらしく、弟の帰宅以後に母親が2階(階段?)で発見したようである。19時台に何らかの配達(額縁入りの絵のレプリカ・・・2015年10月31日の2点をはじめ先月にも1点買っていたが目的不明、クズ奢侈ババア)があって玄関ドアが開く以前のことであるから、母親本人の帰宅時か弟の帰宅時に闖入したと思われる。チョウ・蝶(またはガ・蛾)の闖入は2011年の自室ほか、2016年11月17日の1階廊下など、私の目撃例がある。



2017/12/08

日12月8日は1:00の仮アラームに目覚めて意識を保ちつつ、2:10の第一アラームがOFFの状態であって2時14分に時刻確認をしてから起床した。



2017/12/09

本日12月9日は2:10の第一アラームに目覚め、2時15分に起床した。8日の起床後に下剤1錠を飲んだが、効果が感じられないため、同日18時0分前後にも下剤1錠を飲んだ。前日の就寝時に腹部の違和感が強まりはしたが和らぎ、本日は腹部の違和感が少なく、食事における緑茶のカフェインなどの影響もあまり感じられないまま、5時台にガムを一つ噛んだ。6時10分から腹痛を伴う便意のためにトイレへ入り、先が硬めの軟便をムリムリズルルと多く排出した。2分後にも、その6割ほどの量の軟便を排出した。10時10分台にも軟便排出を行った。15時20分からも軟便排出を行った。



2017/12/10

本日12月10日は2:10の第一アラームに目覚め、2時12分に起床した。



2017/12/11

本日12月11日は2:10の第一アラームに目覚め、2時28分に起床した。2時40分台、母親が2階で「小型の掃除機・電動クリーナー・ハンディクリーナー(紫外線UV?赤外線?対ダニ云々のアレ・2014年ごろ購入)」らしいものを使用している音が伝わり、すさまじい足踏みによる1階の床への振動が伝わった。夜中に立てるクリーナーの吸引音・ゴロゴロ音も足音も、バケモノさながらである。怪獣・物怪(もっけ)・モンスターの極みである。

3時台、舌で上顎・左奥歯を触れると、謎の硬い感覚が得られた。紛れもなく、新しい歯が生えているという現象である。上顎・右奥歯にはまだ無い(指で強く圧すと何となく新しい歯の感覚が得られる)。いわゆる「親知らず(智歯 wisdom tooth)」というものであるが、抜歯が必要な事態は有り得るだろうか?時折、盲腸(虫垂炎)などがあったらどうしようかと考えることもあったが、心身がやつれ気味の昨今でこのような事態に直面すると、(不運の連続は)憂慮すべきで(仏教徒としては当たり前だから)憂慮すべきに思わない。正しく生えるか、最初は違和感があっても慣れるならばよかろう。植物のようにエネルギーの奪い合いもあろうか?ちなみに、「親知らず」という言葉は、「親の心子知らず」ということわざのように、俗語的で、意味が不明瞭である。「親(乳歯)を知らずに生える歯」なのか?「親(肉親)が知らないうちに生えてくる歯」なのか?実際は後者の意味らしい。古文・文語体では簡単な構文に格助詞「が」を用いないので、「親知らず(親不知)」はこの範疇にある。しかし、「親の心子知らず」という俗語は、「を」と「が(は)」といった格助詞が付いていないので、格変化のあるサンスクリットやラテン語やギリシャ語と比べて意味が不明瞭である。無論、サンスクリットやギリシャ語も、複合語は格変化を伴わない形語幹で構成されるなどして、解釈が困難な場合もあり、六合釈を鑑みる必要がある。

6時47分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、7時46分に自室へ帰った。11時6分に母親が発車して買出しへと外出した。17時0分ころに弟が帰宅して20分後に母親が帰宅した。母親と弟のやり取りにおいて弟がキレ出し、暴れはしなかったが、かなりイライラとしている彼が1階と2階とを行き来し、「(買われたばかりの菓子について)不味そうだから食わん!何も食わん!」(母:夜中勝手に食べるのもやめてねー)「この家のモン全部まずそうだから食わねーよ!朝も昼も晩も!」「小遣い出すな!お年玉もイラン!」などと発言した。18時58分に弟が1階へ降りた際、「オメーに見せたいものがある」として母親に手紙を見せつつ、すぐに彼自身が音読してみせた。それに曰く「チョコもせんべいも食わん、まずいのは味じゃない、カロリーと脂肪分が多いから(精神的にまずい・精神衛生に悪い)」等という。「クリスマスなどゴミだ、お前の誕生日(12月17日)パーティーなどやめろ、毎年つまらん!」ともいい、母親は、ケーキとか寿司とかフライドチキンとか中華バイキングとかびっくりドンキーとか(今後に予定したそうである)と言い出し、彼に全部やめることを提案した。実際、母親がどうするか・弟の決心が固いかなど、この薄っぺらいやり取りで決まるとは思えない。



2017/12/12

本日12月12日は2:10の第一アラームに目覚め、2時20分に起床した。



2017/12/13

本日12月13日は2:10の第一アラームに目覚め、2時14分に起床した。前日18時ころに下剤1錠を飲み、本日は漸次便意を高めて6時35分にトイレへ入り、中・長サイズ1本ずつの排便をした。11時37分からもトイレへ入り、長めのもの1つなどを排出した。



2017/12/14

本日12月14日は2:10の第一アラームなどで何度も目覚めたが、起床は2時40分台となった。13時0分ころに母親が発車して外出し、17時過ぎに帰宅した。



2017/12/15

ココラフロント 豊橋駅前 豊橋市 豊橋市市街地 クレーン 再開発
中柴町交差点の歩道橋での撮影。動画→http://www.youtube.com/watch?v=G5LERGTXP7A

本日12月15日は2時54分に起床した。12時39分から、国道259号線を歩く外出を始め、15時5分に帰宅した。今回の公表ルートの起点は高師駅前であり、北へ行き続けて何らかの地点で引き返すものである。愛知大学北端の高師口交差点歩道橋・2つの陸橋(跨線橋)・柳生橋などで引き返す想いが起こりつつ、進み続けて市街地の中柴町交差点の歩道橋に至り、中心市街地のココラフロント・タワーマンション数棟・タワークレーンなどを確認して帰路についた。豊橋市庁舎は愛知大学北端の歩道橋で見られたが、中柴町交差点の歩道橋では近距離に中層ビルが重なって見えなかったりする。もし、最終目的地たる西八町交差点ないし豊川の橋まで歩いていたらば、エネルギー不足で倒れ伏していたかもしれない。今回は何も買わず、飲料・食料の持参も無かったので、終始に及んで飲み食いをしなかった。服装は、髪を隠すニット帽(帰宅時の静電気が髪を乱して結着する)・本革手袋・マスク・長袖シャツ(内に冬用肌着1枚)・中2以来穿いている当時の母遺品レディーススキニージーンズ(帰宅後に腹部への圧迫がすさまじかった・脱ぐ際に靴下の厚みが影響して力が悪く加わって最下部がビリッと裂けた)・ブーツである。マスクは奏功したろう。手袋は帰路において汗ばむことになった(それを理由に脱いだりすることは行く道に無かった・携帯電話の操作や髪形の調整において度々脱いだ)。帰路において左足裏に1個、また1個と、小石が紛れ込んで撒き菱のようとなり、帰宅まで耐えた。痛みといえば、起点より数百メートル地点で関節痛があったようだが、よくあることとして大した尾を引くことも無く(1500mなど持久走で最初の200mほどで胸が痛んでも走るうちに忘却されるなどが好例)、帰宅まで大きな関節痛が生じなかった。疲労による筋肉痛はあり、明日には爆発的に発生する懸念がある。何はともあれ、12月に入ってから食事量が増えて放逸だと自認していた私が、こういう形でエネルギーを使用できて、吉日かと思う。このような経験を通して来年5月までに西八町交差点付近まで歩いて行ければよい。

帰宅以後「脱ぐ際に靴下の厚みが影響して力が悪く加わって最下部がビリッと裂けた」というスキニージーンズ

ほか道中に関して・・・横断歩道代わりの地下道が2か所、歩道橋が2か所、巡回中のパトカーが4台(うちバン=ワゴン車?が3台)、確認された。12時台でも15時前でも、主に高校生の徒歩・自転車での往来が多めに見られた(パン屋とされる店舗に制服姿の女性2名が見られたが同様に2015年10月6日の散歩とする記事にも記録する)。豊橋鉄道渥美線・24か所の踏切の非常ボタンが押される事件というものが今年にあったが、そのうちの一例と見られる某踏切のバーが新装されていた。斜めに上げ下げするものでなく、垂直方向に上げ下げする仕様であり、見た目もツヤツヤのピカピカである。高師口交差点歩道橋より愛知大学前駅へ延びる閉鎖通路はアクリル板が荒廃しているが、穴あきは縦二段の下のものに限られている。飲料自販機については、某カード店のものが格安ブランドを取り扱っていて珍しかったが、設置場所の関係でシャッターが閉まる時間帯は利用できなかろうか。紅葉については、ボチボチ残るものもある程度で、みな落ち切っている。落ち葉について、高師緑地の近辺はイチョウの葉・手のひら大のカエデの葉・3つに分かれた小さめのカエデの葉・桜(ソメイヨシノ)の葉などが見られた。愛知大学・259号線沿いではイチョウの葉に加えて縮んだようなアジア品種カエデ(イロハカエデ)の葉などが見られた。

手のひら大のカエデの葉たちが側溝や路傍にたまっている光景が100mほど続く
・・・だが周囲は松の木ばかりで本体のカエデらしき樹が見当たらない



2017/12/16

本日12月16日は2:10の第一アラームに目覚め、2時40分に起床した。



2017/12/17

本日12月17日は、2:10の第一アラームに目覚め、2時14分に起床した。母親の誕生日に当たるが、当人は起床が遅く、弟が8時ころから10時台まで外出して風呂に入るなどしても動向が見られない。11時10分台に弟が1階で食事しようとする時に母親が2階の弟の部屋のドアをノックして声を発した。弟が1階にいる合図を送ったが、母親は彼の言葉に揚げ足取りをした(いつものこと)。それから両者の機嫌が損なわれ、別の話題で口論が起き、弟が激怒したり、母親を脅迫したりした。弟は「キライダ!お前なんか死ねばいい!こんな家…」といういつものセリフを発し、母は「出て行けばいい」といういつものセリフを発した。いつになく本気になって外出準備する弟だが、準備最中にわざわざ母親の部屋の壁を刻んだとかというし、母親は顔洗いなどをして呑気で気持ちが悪い。弟が1階に降りてわざわざトイレに入ったり、母親が「出て行くならトイレ使うな(笑)」と言い出す。また、母親は出て行かせるという癖に、細かい問答を持ち込む(弟の家出、どこへ行くか→埼玉・父の家、どの方向へ行くか分かっているか・どう行くか→電車・金が無かろうというようなもの。母親の部屋のどこを壊した云々など。言葉に揚げ足を取るなど)。冷静っぽい声で互いに話し出す。どうせ、両者とも、「出て行かせる・出て行く」という発言は本気じゃないし、仮に人から「本気じゃないだろ・冗談だろ」と言われても意固地に本気ぶるような人間性だが、やはりそんな大層なことなどしない。無反省で何度もこんなことを繰り返す。笑えもしない、クズ親子のやり取りである。色々な事情で弟を家出させたくないなら、無駄・エセ躾・エセ教育の「出て行け」発言など、母親はすべきでない。彼らの気持ちが悪い猿芝居で、気分が良くなる他人はいない。



2017/12/18

怒鳴り声が聴こえ、母と弟の口喧嘩・弟による破壊的な物音の発生などがあった。弟は学校に行くとか行かないとかと言い直し続け、母親からのゴミ出し指示を受けたり受けなかったりとしていたが、彼はゴミ出しを始めた。7時0分に母親が1階に降り、数分で2階に上がり、弟が帰宅した。登校をしない様子であり、私の本日の風呂(シャワシャン)予定は不明瞭となる。明日に下剤1錠による排便があらば、明日のうちにも私が風呂(シャワシャン)を行うことは有り得ないと見る。弟にとって「大嫌い」な母親より離れられる機会(学校へ通うこと)を、彼自身が放棄する意味は何だろうか?天気なども鑑みて8時2分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、9時8分に自室へ帰った。弟の様子を窺うが、まず玄関に靴が無く、2階の部屋から気配を感じられないので、外出しているかもしれない。もしかしたらば7時台の時点で登校した可能性がある。14時29分に母親が買出しへと発車し、18時過ぎに帰宅した。



2017/12/19

本日12月19日は0時40分台に目覚め、1時48分に起床した。起床直後に下剤1錠を飲み、3時以後に「ムーミンカップ満杯ではまだ濃い分量の茶葉の緑茶」を淹れて7時までに飲み切り、飲み切るまでに漸次に便意が強まる。7時3分からトイレへ入って黒い・硬いコロッ糞をそこそこ排出した。クリスマスも過ぎずにトイレでおせち料理(丹波黒豆)を拵えたという。排出時に直腸は裂けそうな痛みを小さく伴ったが、トイレットペーパーに血の付着が無い。11時50分ころからも、それまでの食事・紅茶のカフェインパワーの影響による(instrumental case)便意より(=から ablative case)トイレへ入り、黒く・硬く小さいものを排出した。漸次に大きさが増し、大きいものでは、少しだけ柔らかくなった硬くて長いものがあった。近頃は4~6日に1度、少量の排出をして再び4・5日過ぎて少量の排出をするというループであり、時には多く堆積して然り。よって、本日は茶や牛乳などのカフェインパワーや乳糖パワーや、条件反射やプラシーボ効果(思い込み作用)により多い排便を期している。時に願うことは、小食でありながらに3日1度の適量な排便が数分間で行われるとよいと。15時40分台からもトイレへ入って先の3分の2程度の量を排便した。



2017/12/20

本日12月20日は2:10の第一アラーム以前に目覚め、2:10の第一アラームが鳴った直後に起床した。



2017/12/21

本日12月21日は1時40分に起床した。



2017/12/22

本日12月22日は1時38分に起床した。



2017/12/23

本日12月23日は1時30分に起床した。起床後に下剤1錠を飲み、朝・昼と腹痛が続き、13時58分から便意のためにトイレへ入った。ワイン瓶からコルクが抜けるような硬めの糞を排出し、続けざまに軟便・下痢をブバーッ!と排出した。その後も、大量のガス排出や、チョロチョロジョーッ!と糞水を放出した。



2017/12/24

本日12月24日は2:10の第一アラームに目覚め、2時28分に起床した。16時台、母親が弟の発言に基づいて論難していた。弟は、母が作るらしい料理か何かについて「カロリー云々」として食べたくないことを言い(この時以前にも一度言おうとした彼は強いエゴ母親に後にしてとあしらわれた)、母は深夜早朝における弟のお好み焼きなどの料理行為こそ「高脂肪・高カロリー(炭水化物の塊)にマヨネーズやケチャップやソースをかけまくって不健康」と責めた。弟は無意味に「ごめんなすぁい」と連呼しつつ、母親が弟を別れさせた。母親は口が悪く、やたらと大きな声で弟を非難する独り言を続け、2階にいる弟が怒りを増幅した。母親は先の時に「夕食を食べないせいで夜中とかに変な料理をしたがるのをやめて夕食をちゃんと食べなさい」と言ったのに、今は「今日も明日も夕食を作らない」などと翻意した発言をする。結局、弟はどうなってしまおうか、無反省ババアの悪が悩ましい。母親の悪しき口業は、母親自身の過失を覆い隠して見なくなるばかりか、他者に聞かれて争いの火種となっており、何度母と弟の争いが生じても、悪循環・悪化の一途を辿るのみである。



2017/12/25

古代ギリシャの石碑かな?解読、おねがい!

本日12月25日は2:10の第一アラームに目覚め、2時16分に起床した。3時40分ころから風呂(シャワシャン)の準備を始め、4時40分に自室へ帰った。

当記事注: 当メモの添付画像は「私は2018年からはおせちなんか食べないのでどうぞお母さんとお兄さんでクリスマスのごちそうを食べてください。」と書いてある、「弟による書置き」である。私が12月25日10時0分に、母親の部屋のプリンター(複合機)の上で発見した。クリスマスの件は事前に、ケーキの注文予約をキャンセルしたという話が母親の口より聞かれ、おせちの注文予約も同様である。おせちは、後12月27の母の買出しにおいて材料が買い揃えられ、12月31日に母親が器に盛った。



2017/12/26

本日12月26日は0時48分に起床した。起床直後に下剤1錠を飲み、午前中は断続的な腹痛や腹部の違和感などがあるものの、大した効果発現は無く、午後にも少々の便意や張りらしい感覚があるのみで、排尿目的でトイレに入ったところで(誘発現象としての)便意の増幅も無い。



2017/12/27

本日12月27日は0時45分に起床した。1時21分にゴミ出しをする直前、E2家に車が停まり、男性が出てE2宅の中に入って行った。本日の起床直後に下剤1錠を飲んでも、中途半端な腹痛が主立っていて5時台にそこそこの量の緑茶(元々ムーミンカップいくらか分を飲んでいて同じ茶葉の残り分)を一気に飲み(ムーミンカップ満杯でやや濃いほどの量の茶葉も食べる)、漸次便意を強め、5時30分台にトイレへ入り、長めのものなど普通の硬度のものの後に軟便を排出した。6時40分ころからもトイレで下痢気味のものを排出した。12時5分に母親が買出しへと発車した。13時前からもトイレへ入り、少しばかりの下痢気味の軟便を排出した。私が食べた物に由来するのか、腸の問題に起因するのか、色がとても悪く見える。17時48分に母親の車が家に着いた。



2017/12/28

本日12月28日は2:10の第一アラームに目覚め、2時26分に起床した。前日の19時ころに到着した「母親が頼んだ品物」は、佐藤食品の鏡餅3点(例年では1つ)と10本以上のJINROマッコリである。後者は、最近母親がにわかに飲み始めているものである。本日、某ニュースサイトで『韓国 「マッコリ」輸出 7割減 「イメージ戦略に失敗」』という見出しが躍った。母親は今年以後に韓国ドラマを見たがる(本年6月16日メモなど複数の記録あり)など、韓国寄りの傾向が出ていたが(2013年以後に母親がキムチなどを買わないでいる傾向は維持される)、心身共に韓国寄りになりたがる迷走ぶりは訝しく思われる。何より疑問であることは、アルコール飲料を貪る行為・心情である。母による酒類のニワカ飲みは、ウイスキー系や缶ビール系(発泡酒)など、色々な変遷があり、私が過去の日記メモやブログ記事に多くの記録を取った。母は気分によってワインや日本酒など、異なるものを飲む人である。



2017/12/29

本日12月29日は2:10の第一アラームに目覚め、2時31分に起床した。15時0分前に母親が2階で弟に話しかけて数分以内に、彼らの喧嘩が発生した。弟が怒鳴り、私の部屋の真上の領域で大きな物音(足踏みで床を強く鳴らす音)を断続的に立てまくる。母親も叱りつけて応戦したり、「げんこつ(ゲンコツ・拳骨)」云々といって実行した様子も感じられた。なお、本日は午前中に母親が弟へ「最近配達受け取りしてくれるご褒美」という口実付きで3000円を渡し、弟が14時ころまで外出していた。彼らの争う直前、母親は空き部屋における仏壇への線香を具えていた(鈴・リンの音が鳴って10秒後に母親が弟へ話しかけたことが発端)。その後も弟が吠え続けたり、母親が1階で独り言をするなどといった険悪な状況が続く。母親は言葉で心を自ら覆い隠し、他人の主張を遮る悪癖がある。こんな者は自己反省をせず、同じ愚行を繰り返す(悪道輪廻)。無慈悲の親によって行われる「子供へのシツケ・キョーイク(躾け・しつけ・教育)」は、親自身を苦しめる結果になる(悪因悪果)。母の行為は、ことごとく印欧語の「中動態(サンスクリット反射態)」の動詞・再帰動詞となって報いる。1時間が経っても、母親は骨折したとかと喚きながら弟に家事をさせたり、その都度、激しい衝突をするなど、救われない人である。



2017/12/30

本日12月30日は1時50分に起床した。前日の母・弟の争いの余波は本日もあった。18時台においては、母親が今更に母親自身の部屋の異常に気付いて憤慨し、弟を責める口調でアレコレと独り言を大声で発していた。「弟が家を壊しまくって仕事が増える」とかという。心の乱れ・言葉の乱れ・物の乱れ、家を壊す張本人は、母である。弟の暴力なのではない。過去の日記メモやブログ記事でも多く述べた事柄である。この母親は、人に見出し得ない過失までをも、妄りに見出す。自ら心に、他人の非のみを生じてやまない。時に私は、母親に一石を投じると、母親はかえって無駄言で心を覆い隠し、且つは笑ったりと狂人にも似る。慈悲により、母の平静・安静を得させようと思っているのに、私が変な主張をしているとか、「親(優越・善)VS子供(下劣・悪)」の対立妄想を押し付けてくる。後の母親は、ますます言葉を乱してしまった。弟の事柄に関して「バカ!」等の取り乱した愚痴が凄まじい。

私の説法は、聖人の如き獅子吼・鶴の一声とはならない。愚物には「猫に小判・焼け石に水・糠に釘・暖簾に腕押し・馬耳東風」、どころか裏目に出てしまう。良薬は口に苦し、忠言は耳に痛し。母親はこのような愚物であると、元々知っていたから、私が母親にしないできた。誤解なく、自己の安楽のために信じられれば、まさしく「あなたの信仰があなたを救う"Your faith has healed you (make you well, saved you)"・自ら彼岸に度す」という結果となろうに。



2017/12/31

本日12月31日は2:10の第一アラームに目覚め、2:20, 2:40のアラームを経た2時49分に起床した。前日の起床直後に下剤1錠を飲んだが終日効果は無く、その19時台に下剤1錠を飲み、本日は僅かな便意と「腸と神経が通う部位に針金が刺さる微々たる痛み」とを感じた。5時10分ころからトイレへ入り、排便すると、物の出は苦しくなくも、紙への血の付着は近頃の他の例(11月2・20日など)よりも多い。9時20分台にもトイレへ入って排便をしたが、血は先の余波という程度の付着のみである。

13時0分前後、母親が優しそうな・ご機嫌らしい声で弟に声を掛けた割に、少し弟が母親の指示と異なる行動(子供によくある小さなミス・過失)をしただけで声を荒げて激怒しだした。大晦日も、大掃除しようがしまいが、心は雑然として乱れた有様である。弟は怯えた声で返答するような状況である。私は動画編集作業によって、ずっとPCの前で作業せねばならず、本当は耳栓を着けたまま押入れに籠っていたかった。母親の付けているTVドラマの音ですら苦痛なのに、母親の狂乱声をも聴かせられるとは、作業に障害が多すぎる。母親は同じ話題を、思い出すたびに大声で不満らしく言葉にしており、アレな病気と変わらない。弟へ「暴力はダメだよっつってんのに!!(無関係な過去のことを思い出して発する)」という言葉を発するその舌が、斧のように母親自身を切り裂くように見えてならない。頭に至って「頭破作七分(saptadhāsya sphuṭenmūrdhā ※sphuṭenは√sphaṭの反動態・三人称・単数で頭"mūrdhan 単数主格"が自ら割るということ pl: muddhā phalatu sattadhā)」である。母親と弟が20分以内に解散し、珍しくグチグチ小言・独り言が無い。13時46分には今までの沈黙を破ってTVがCM中であるのど何の前触れも無く、母親が10秒ほど笑った。18時19分からもトイレへ入って柔らかく長いものの排出をした。

当記事注: スッタ・ニパータ3章10経や相応部梵天相応9-10経に見られる「人生舌斧偈(対コーカーリカ説・過去に幾度と取り上げた12)」はウダーナヴァルガにも見られた。puruṣasya hi jātasya kuṭhārī jāyate mukhe | yayā chinatti hātmānaṃ vācā durbhāṣitaṃ vadan ||