2017年9月21日木曜日

梵語と漢語 度・量・推・測・計 「物をはかる"mita (ミタ)"」と「心をはかる"pramāṇa (プラマーナ)"」

「支度(したく)、忖度(そんたく)、度量(たくりょう・どりょう)」?
「思い量る?推し量る?計測する?計る?測る?」

「度」を「ド "do"」と読む人が一般的に多かろうが、この字音「ド(清音でト)」は本来「わたる・わたす(渡とほぼ同義)」という意味がそなわっており、仏教では「得度(とくど、わたるをえる)・済度(さいど、すくいわたす)・度脱(どだつ、わたりぬける)」などと用いる。
一方、「忖度(そんたく sontaku)」という語が政治の話題などでしばしば聞かれるよう、「はかる・はかり」という意味は「タク"taku"」と読む。
「支度(したく shitaku)する」という表現は、行動の前の準備を意味するが、元々は行動前の計画・見積もりであって「計る・量る・図る(はかる)」意味に通じる。
現在に「度」は、「ド」の字音で「はかる・はかり」という意味に用いられている。
用例は「気温は何度(なんど)か?摂氏32度だ」、「度合いが大きい」という具合である。
当然、「何度・度合い」という表現は、本来「タク=はかる・はかり」の字音の意味合いである。

仏教で、数字に「度」が接する語句に「六度(ろくど)」というものがあるが、これは「六波羅蜜」の波羅蜜が"pāramitā (パーラミター)"という「(彼岸pāraに)わたる・わたす」という意味で「度」の訳を当てたものである(six-paramitasで六度という訳)。
やはり、仏教など伝統的な用例で「度(ド)」という字音は「わたる・わたす」という意味合いに尽きる。

一字で字音の種類が異なって意味も異なる漢字といえば「悪(オ"ʔo"・アク"ʔak")」や「易(イ"yi"・漢音エキ"yek"呉音ヤク"yak")」などがある(2015年9月7日記事・脚注2)。
「悪・易」の二字は、「度」のように入声音・韻尾-k (-ク・-キ)の有無の違いがある。

※「度」は中国語普通話でdoとduo(ともに拼音表記)という2種類の発音があるが、後者duoは「卓・托(タク tak)→卓"zhuo"、托"tuo"」という音の変化と同じで入声音-k発音の欠落による。その「度"duo"」における意味が「(物・心とも)はかり(中華サイト説明: 计算,推测:忖度。揣度。)」というものであり、前者doは現代日本語と同じ「度合い(中華サイト用例: 義1に尺度・義2に高度・義3に角度・義11に再度など)」とあり、説文解字では「法制也。徒"t音"・故"oまたはu音"・切」として「法制度の度・タク系入声音でない」ということを強調していた。「わたる・わたす」の意味が確認しづらいが、カッコ注釈の中華サイト説明では動詞「度過 (度过,越过)"pass"」として載っていた。「度過・過度」、上限を超すということは「数のはかり」に通じ、「渡る・わたる」ということにも通じるかと思うが、このままでは「ド(清音でト)発音=わたる・わたすの意」という説は萎縮してしまう。

「度量(たくりょう)」とは、妙法蓮華経方便品に「尽思共度量 不能測仏智」と出ており、梵語原典では"yathāprameyaṃ mama buddhajñānam"とある。
yathāprameyaṃ (ヤタープラメーヤン)の中に"pramā प्रमा = pra- (前に・前方へ) + √mā (動詞語根・はかる=推量・予測などの意味合い)"がある。
「度量」の異なる原語らしい→"pramāṇaṃ, √grah, sumāpita, parigaveṣyamāna"
現代の日本語で「度量」は「どりょう」と読み、「心の大きさ・懐の広さ」みたいな「心のはかり(タク)」という意味で用いているが、本来は「たくりょう」と読むべきことであろう。
先述の通り「度(ド)」という字音は「わたる・わたす」という意味で用いるためである。

※孫子の兵法にも「一に曰く度(たく)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝 (軍形第四)」とあり、もちろん「度(たく)・量(りょう)」とも、何かを「はかる」意味となる。度と量との意味の違いは何か?「度」は先の※注釈や後の※注釈にあるよう「尺度」の意味が強く、「尺(ものさし)」による視覚的な大きさなどを「はかる」という意味か。ここでの「量」は数に通じるものか。世の解釈では、そのように「場(戦場・国土?)の広さ・距離を度る」、「物(武器や兵糧?)の多さを量る」とするらしい。戦闘前の計算・計画段階で、優れている人は初めから勝利が決定していると。この軍形篇の前は「謀攻」という名であり、それも「謀(む・ぼう)、謀る・はかる」という日本語になる。

※「わたる・わたす」の「度(ド)」については梵本法華経に「度脱"vineṣyati (vi- +  √nī導く・)"」、「為度○○故"vinayārtha (vinaya教育・規律 + artha目的 = ○○を教え導くために…"」などが載る。この梵語"√nī"を用いることは、誰かが能動的に「(彼岸に・真理の世界に)わたる」ということではなく、釈尊の能動性が誰かを「(彼岸に・真理の世界に)わたす」ということとなる。「わたす」は他動詞であり、法華経の「度(ド)」には釈尊の威力(いりき)が籠められているようである。「度(ど)す」という訓読サ変動詞は、自動詞と他動詞とが曖昧だが、法華経での「度す」とは主に他動詞であり、如来"tathāgatha"が衆生"sattva"を「わたす(救う・済度する・救済する)"vineṣyati"」ということになろう。ちなみに自動詞「わたる(越える・通過する・克服するともいう)」は√tṝという語根の"tarati"があり、その使役形=「わたす」であれば"tārayati"やパーリ語"tāreti (tāresiはアオリスト?)"などがある。いわゆるアバターavatar・アヴァターラavatāra (ava- + tārati ti省きで名詞化)とは、化身と意訳するが「下に越すもの=降りて来るもの」ということである。下界に降りた者は神の化身ということで「ゴータマ・ブッダはヴィシュヌのアヴァターラ=化身だ」とヒンドゥー教徒が信じる。仏教でのアヴァターラは、釈尊が成道前に降ろした魔軍のことを指すであろう。

「度」の字には、このように2つの字音(ドorタク)によって異なる意味がある。
そのうち、後者「はかる・はかり」ということについては、漢語「度(動詞)」でも日本語「はかる」でも「心をはかる・物(数や大きさなど)をはかる」という細分化を問わないようである。
しかし、サンスクリット語だと明確に「物をはかる」ことは"mita मित  (ミタ)"と呼び、「心をはかる」ことは"pramāṇa प्र‍मान‍  (プラマーナ)"と呼んでいる(仮定)。
動詞語根は、前者√mitと後者√māである(記事の流れとして後に否定する仮説)。

※記事末尾に"mita"と"pāramitā (パーラミター)"の"mitā"との相違性について記した文章を載せる。また、「度」の「尺度(測量するもの)」としての漢語使用が維摩経に出ている。支謙・鳩摩羅什の二訳に「非度所測(度の測る所に非ざるなり)」と。梵語では"tulayituṃ"とある部分に「尺度」の意味を持つ動詞語根√tulや名詞tulāが含まれている。なお、以下の話題に関連しそうな「非意所圖(意の図る所に非ず)」という一節が、「非度所測」の前にある。こちらは"acintya (不可思議)"のような"cintayituṃ"として梵語にある。梵語を引き合いに出すとキリがない。漢語でも、表題に「図(圖・はかる)」の字を加えなかったが、今はこのように雑多な注釈を以て語ってしまう。



度・量・推・測・計 = 「はかる」・・・何を?


さて、記事の表題にあるよう、「はかる・はかり "mita" or "pramāna"」という意味を持つ漢字の数種について漢訳仏典を中心に考察しよう。
先ほどの"pramāna"もとい"pramā = pra-  + √mā"の√māという動詞語根は、主に「量」と訳されており、漢訳仏典の漢詩・韻文・偈の便宜上「度量(たくりょう)」などとも訳することが上記の例(尽思共度量 不能測仏智)である。
√māを含む梵語・サンスクリット語句ならび漢訳語句を挙げると「anumāṇa・比量」、「apramāṇa・非量・無量」などがある。
いわゆる「四無量心」という語句も"apramāṇa-citta"と表現され、「4種類の『はかりきれない心』」を意味する(4種類とは慈・悲・喜・捨のことだが無量について解釈を変えると慈・悲・喜・捨の心が瞑想などの修行によって無量といえるほど大きい状態・平等・普遍であることを意味する)。
心ではかれないことを"apramāna"といい、物をはかれないことを"amita"というようだが、「無量光」という漢語は"amitâbhā (阿弥陀仏amitābhaに用いる)"と"Apramāṇâbha (第二禅の光音天に準ずる無量光天apramāṇābhaに用いる)"と分かれる。
√māと√mitの相違性は先述の通りであり、サンスクリット語の「(物か心を)はかる」という意味が別の単語同士であるが、似た意味合いで曖昧に捉えられている可能性もある。

なお、"pra- प्र-"という接頭辞は、先にカッコ注釈があるよう「前に・前方へ」という意味であり、英語の接頭辞"pre-"や源流ラテン語の接頭辞"prae-"もまた「before (時間的なものin time), in front (空間的なものin front)」という意味で同じである。
アーリア言語もとい印欧祖語"Proto-Indo-European, PIE"には、同様の接頭語が"per-"とある。
おお!"Proto-Indo-European"の"proto- (ギリシャ語πρωτο-もといπρός)"も、接頭辞"prefix"も、接頭辞pr-でみな意味が一緒のようではないか!
インド・アングロ・アーリア民族万歳!梵英一如!(ナ〇ス風の危険思想?)

上まで「量」について話したが、一点の補足をすると「量が多い・少ない」という時の「量」は「物・数のはかり」ということであり、「はかる」という概念の即物的なパターン(事物・形態)となる。
江戸時代以降の商業主義的な庶民文化の高まりによる俗化の影響が大きいと思われる(気温何度の度などは明治以後の西洋文化・訳語の影響か)。

妙法蓮華経・如来寿量品に「校計(ぎょうけ)」という言葉がある
「校」とは会意形成文字であり、「交(爻)」字の影響で「校正・校訂」という場合に「くらべる」という意味があり、「計(はかる)」と結び付けられる(よって校量という語もある)。
これは原文だと「諸善男子(kulaputrāḥ)。於意云何(tatkiṃ manyadhve)。是諸世界(te lokadhātavaḥ)。可得(śakyaṃ)思惟(kenaciccintayituṃ vā)校計(tulayituṃ vā)知(upalakṣayituṃ vā)其數(先の動詞に反応した目的語の挿入)不(いなや?と疑問形を作る)。※-yituṃは不定詞を表すか?」となろう。
上の漢文引用でカッコに南条ケルン本の梵語ラテン文字を併記したが、他には「校計」というよりも「校(upalakṣayituṃもといupalakṣayati)」に「計知(けち)其數(tulayituṃもといtolayati)」と考えられる。
どうであれ、寿量品「校計(計)」の語を含む漢文については、元の梵語に√mit (mita)"や√mā (pramā)の語句が確認できなかった。
ちなみに、"tulayituṃ"または"tolayitum"という語句は、先の※注釈にある維摩経(支謙・鳩摩羅什の二訳)にある「非度所測(度の測る所に非ざるなり)」の「度(これもタク発音か)」と同じである。
当記事に関連するGoogle検索で「計度(けたく)」という言葉の存在も知った、これは「計(ケ・はかる)・度(タク・はかる)」の二字が一語を為している。

計算の計といえば、「計画する」という熟語にも含まれる。
当記事で既に、「支度」や「孫子兵法における度量」の説明に「計画」という言葉を用いた。
「計画」の「画()」とは、「が」や「え(ゑ)」と読む(上古音g→中古音w, ɦ, h置換)字であり、「えがく」という動詞や「えがかれたもの=絵()」の意味を持つ。
「計画(かく・くゎく・わく)」という場合は「」の旁である「リ、りっとう」部分を省いた俗字としての「畫(画)」か、混同したものであり、別の字と考える(画が作=サ・サクや易=イ・エキのような二音二義の字ということも有り得なくはないが)。
その「劃」もまた「計」のように「はかりごと(計策・謀)」の意味合いがあるとするが、部首の「りっとう」が、刃で傷つけて印をつける・分かつとか、筆を用いるさま(えがく行為)に当てられたようである。
計画行為の表現としての字と考えると、「はかる・はかり(推量など心の行為)」に通じよう。
何であれ、「画(畫・劃)」のカク系発音(入声音-k)は「はかる・はかり」に通じる意味と思う。
なお、サ行変格活用の動詞・サ変動詞「画す」といえば「カクす」と読み、「一線を画す」とは「一線を書いて分ける」という意味となろうが、「一線をえがく」の意味では「ガす・エす」と読めなくもない。


√mit と √mā の正体・・・誤解だった?


最後になるが、√mitの"mita"も、√māの"pramāna (pramāṇa)"も、頭の子音(韻頭)がMであり、実は同語源と考えるべきではないかと思う。
当記事よりも先に「十喩(大品般若経など所説)」に関する記事を起草したが、その十喩のうちに「化」というものがある。
「化(け)」とは、「何かが化けたこと」・・・、幻のようなものであるが、十喩を注釈した大智度論(巻第六)によれば心が変化(へんげ)したもの(所変)らしい。
心が、現実性に則った想像をすることも、非現実的な想像をすることも、「心如工画師」というように自由自在であるから、三つ目の人や四つ腕の人(自然の事物に無い)も生まれる。
その「化・変化心」ということの結果(所変)を、大智度論が「一身能作多身、多身能作一。石壁皆過、履水、蹈虛、手捫日月。(水が火に変わる・石が金に変わる=魔法も錬金術もある)」と説明している(類似する教説が長阿含経の自歓喜経・阿摩昼経・堅固経パーリ長部の沙門果経にある)。
大智度論では「十四変化心」として、四禅の初禅に二つの変化心があって第四禅までに一つずつ増える(2 + 3 + 4 + 5 = 14)というものを説明するが、仏教で梵天(単一の神ブラフマー・宇宙原理ブラフマンでなく住処と住む者全般の名であり住む者を梵天衆とも呼ぶ)が初禅の天であるように、仏教の神様たちの一部は四禅に代表される心の中に住んでいるようである(神道で物や人が神となる、応神天皇に合せられた八幡神やナニナニ権現なども心の変化の一種であろうから仏教の護法善神信仰になじむ)。
いわゆる仏教経典で原始仏典でも大乗経典でも登場する「神通力・神変」ということの根拠と成り得る(子供騙し・おとぎ話ではなくそういった心の因縁の理法を踏まえている)。
有名なオウム真理教の尊師・麻原彰晃が、坐禅しながら空中浮遊(例の写真)・幽体離脱(アニメ、サティアンにいながら外の信者を監視)することも、似たようなシーンや神通力(神足通・他心通など)が仏教経典に登場するわけだが、それらも、心の因縁の法から説かれる(オウムの場合は信者の心を掴む手段による創作の意図が強いか)。

少し煩雑な説明をしたが、その「化」とは、梵語で"nirmāṇa, nirmita"となるように見ている。
おおお!!!接頭辞nir-を省けば、ミタちゃん√mitとマーナちゃん√māに変化するぞ!
接頭辞nir-は"nis"の音変化(両唇音vやmの前にあることが条件か?)であり、離れること(vi-と似る?)や外へ(pra-に似る?)を意味するの場合と、後の単語を否定形にする場合とがあるようで、"nir- + √mā"から成る単語は前者を適用して「作る」という意味を持つ。
√māとは、「心をはかる」として心の内で思うことだから、接頭辞は後者の"nis- 変化nir-(心の外へ・心を離れて)"で、「心の外に作って他人に見せる」という意味を持つと思われる。
それが「化(け)」や「化作(けさ)」という漢語にも成り得よう。
不明確な調査と所見だが、一応、√mitと√māとが日本語の 「はかる、物をはかる・心をはかる」と同じような意味を持つ・似た用法がある言葉だと思ってよいことを付記する。

おっといけない、まだあるようだ。
英語の"meter (ミター、メーター、メテル、metre, mètre メートル)"とは「計測する・はかる道具や基準」だが、サンスクリット語の"mātra (マートラ)"も「尺度・計量する物」として同義である。
この"mātra"も、文字通り、√mitや√māと関連する語であろう。
"mātra"もまた、日本語の「ただ・・・だけ」という表現のように使われ、華厳経・十地経(十地品)の「唯心」も"citta-mātra (ただ心のみ)"という("te cittamātra ti traidhātukamotaranti api cā bhavāṅga iti dvādaśa ekacitte"、楞伽経大乗荘厳経論などにも確認)、日本語も「○○ばかり」という表現があるよう、「はかり」の意味が「ただ・だけ」という意味と同じように用いられている。
うおおおおおおおおお!!はかり!マー!ミタ!マートラ!マートゥラ!マーㇳラ(小書きト字)!
「○○ばかり」とは、「はかり得るほどに少ない(数えられるほどに少ない)」ということであり、サンスクリット語でも「√māマーできるほどに少ない」ということとなる。

ここまで文章を書いて気付いた・・・「√mitという動詞語根は存在しない」と。
辞書サイト類を調べて再確認した。
"mita"とは√māの過去分詞・形容詞であり、"amita"ならば阿字否定形で「はかることができない・はかりしれない・無量の・無限の」という形容詞となる。
「はかりしれない」という対象は、物・数・心などの区別は無かろう。
ちなみにパーリ語の"pāli: amata"はサンスクリット語でいう「アムリタ"amṛta"」、「不死の・死なない」を意味し、甘露という意味合いもある(私見だが甘露は後から転じて生じた語義)。
「不死」という文字通りの意味合いは英語の「イモータル"immortal"」に相当する。
ラテン語由来mortalやmurderは、サンスクリット語の"mṛta"と同語源(印欧祖語でmr̥tós)である。
なお、この√mṛから派生した"mṛta"も過去分詞や転じた形容詞である。

以上。ああ!阿阿!
-ita (-ṛta)は過去分詞および転じた形容詞・中性名詞だとして、-na (-ṇa)の格変化だかにつき、識者の意見を乞う。
おおっと!独逸瑜伽行者!ドイツのヨーガーチャリヤ!ヨーガ・グル!ヨーグルト!?
彼"Sukadev Bretz"氏ではなく"Oliver Hahn"氏の"Nomen Actionis"講義が簡素明解である。
-na (-ṇa)という接尾辞らしきものは、主に中性名詞を作るようである。

インド系言語のローマ字表記"IAST"に用いられるn系(鼻音)各字はどのような音素・音価か?
n = 一般的なナ行音で歯茎音のN (京都・ハーバード式 Harvard-Kyoto: n)
ṇ = そり舌音のN (Harvard-Kyoto: N、そり舌の子音の名称をインド音韻学でmūrdhan・頭に由来するcerebral・大脳とするが一般的な言語学ではretroflexと呼ぶ。-naと-ṇaは同じ言葉だが"r"もそり舌の子音として扱われるので-naが同器官化してṇaとなる。pramāṇaやbrāhmaṇaのように間にm唇音が介しても同器官化して-naが-ṇaとなる)
ñ = ニャ行音で硬口蓋音のN (Harvard-Kyoto: J)
ṅ = 鼻濁音ともいう軟口蓋音のN (Harvard-Kyoto: G、サンスクリット単語例はśṛṅgaなどkやgの軟口蓋破裂音の前にある。パーリ語では同じ条件の時に接頭辞saṃ-がsaṅ-に替わるなどして多く用いられる。skt: saṃghaとpl: saṅghaの違いがあるように)



起草日: 20170728

起草日の数日以内に「一語一慧(いちごいちえ)」なる集中記事投稿プラン(短くて1か月間、長くて1年間)を構想したこともあるが、当記事のようなボリュームで本家ブログに毎日投稿することは考えづらい。

本文に関連しているが、本文中に載せられないような話題に関する文章は以下である↓
話題『"mita"と"pāramitā (パーラミター)"の"mitā"とはどちらも「度(タク・ド)」?』
・・・おやおや、"pāramitā (パーラミター)"の後部"mitā (ミター)"とは、「度(タク)」に当てられそうな意味合いだが、この"mitā"はどういうわけか、「わたる・わたす」と一致しているようではないか。
サンスクリット語でも、漢語「度」の二音二義の如く、「はかる・はかり」と「わたる・わたす」が類似するように取られているか?
"pāramitā"とは、形態素の分析からして、語源説がいくらかあるようである。
①pārami-tā →parama- (形容詞) 「最高の」+tā (抽象名詞を作る接尾辞)で「完成」
②pāram-itā →pāram (中性名詞) 「彼岸に」+itā (動詞√i-「行く 」 の過去分詞ita の女性形)で「到彼岸(彼岸に到る)」。
①・②の、どちらが良い意味か?修行のための意味合いが成立しやすいか?
私は判断しがたいが、例えば般若心経の咒(真言)「ギャーテーもといガテー・ガテー・パーラガテー」にある「pāragate = 彼岸に行く・達する」の語句からして、後者の意味合い「彼岸に到る・わたる(六波羅蜜=六度というように漢字の度とも訳す)」が伝統的に支持される。
①・②のどちらをとっても、"pāramitā"の後部"mitā"に、"mita (はかる 記事執筆中: 過去分詞「はかった・はかられた」の形容詞や名詞化「はかったこと・者」)"という単語は関連しないと思われる。

なお、"pāra (彼岸・向こう岸)"については本文中にもある印欧祖語・語根接頭辞"per- (to front, to go overとも)"の諸語句と関連しており、"pramāna"の接頭辞pra-と同語源のように思う。
ギリシャ語プロトとか英語ファースト(first, フィルスト、ピルストphirst, pirst、ほらプロトそっくりじゃないか!p/f置換の発生、ともに両唇音)などもみな同語源のようであろう。
似た意味に"from"や"before, therfore, forward (for, fore)"などという英単語もあり、いずれも(ゲルマン祖語などを介して)印欧祖語接頭辞per-に同じ。
"pramāna"と「因明(仏教論理学)」で関連の深い"pratyakṣa (プラトヤクシャ・プラティヤクシャ・プラテャクシャ・現量と訳する場合は更にpramānaを付随する)"の"prat-"も、"prati प्रति"として同じ。

※波羅蜜の語源説は上述以外にもパーリ仏典などから考察してもよい。主にアビダンマッタサンガハや論蔵・アビダンマで十の波羅蜜が説かれていると記憶する。その大元は経蔵にあるかというと、小部・クッダカニカーヤ内の仏種姓経 (ブッダヴァンサ"Buddhavaṃsa")に見られる。十波羅蜜は"Dasa pāramī "である。paramatthapāramīという部分もあり、paramattha (= paramārtha 最高の真理・真諦・勝義)と接続している点は「①完成」の説と関連しそうである。また、パーリ語辞書(英語を参照)は上座部の解釈に依っているはずであり、その上でパーリ語"pāramī"を completeness; perfection (「①完成」の説に該当)と記している。「完成・完璧」という意味を踏襲した場合、般若波羅蜜は「智慧の完成」というよりも同格限定複合語・持業釈"karmadhāraya"として語順を替えた「完璧な智慧(布施・持戒といった残りの波羅蜜も同様)」として訳することもできる。果たして波羅蜜は、上座部において「①完成」なのか「②到彼岸」なのか、アビダンマなりティーカーなりアッタカターなりから読解できる人は挑戦していただきたい。学者よ!識者よ!

※先に印欧語根から解釈しもしたが、英語"perfect"の接頭辞per- (ラテン語に共通)もサンスクリット語"pāra, para, parama, pari"といった語句と同様に「外側・外れる・通過する・他の」の意味合いが含まれ、「最高のこと"parama"」・「彼岸"pāra"」・「完成する・完璧なこと"perfect, perfection"」という三種の語は、みな同種のようにも思う。

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