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2022年7月10日日曜日

道徳教材、教科書に必要な題材とその演出方法の提案(死刑囚、虐待、孤児、受刑者、教授関係)

「道徳教育」のために時間割の一部を現状と同じくあてるのであれば、教えてもらいたい題材がある。
これらが道徳教育において教えられない限り、時間割から排除したほうがよい、とさえ私は思う。
時間割から道徳が削除された場合、IT(情報技術)の基礎知識でも実技スキルでも、教えてやりなさい。
主に小学校高学年から中学校の範囲で想定される内容である。

「証拠に基づく西洋的で高度な道徳教育」が完全無欠であることはないし、常に流動的に正しさを求めてこそ、評価できる。旧来の慣習と、伝統的に保持された宗教は、そこが西洋的なものと違っている。

人間、「あくなき追求」のみが出発点、通過点、終着点のすべてを補完するのだ。



2.2 にて掲載される画像の一部分&小さいリサイズ
目次



必要な題材:

1. 死刑囚も獄中にいるとはいえ、一人の人間として生きているし、人権侵害があれば裁判もでき、その事例 *1 *2 がある。その人間的な表現。

*1… NHK News Web - "死刑執行 “当日直前の本人告知は違法” 死刑囚2人が国を提訴" https://www3.nhk.or.jp/news/html/20211104/k10013334801000.html

*2… 宮崎家族3人殺害事件、奥本章寛。 色鉛筆で描いた絵などを販売して遺族への補償にあてていたそう。

:法的根拠の引用もする。死刑制度を廃止しているEU加盟国などとの比較。死刑制度が現在でも機能しているアメリカ合衆国の一部の州などが、どう運用しているかも比較する。死刑制度を存続させるならば、当然、「くず人間スクラップ」みたいな考えを民衆に起こすような運用をすべきでない。運用方法を、立法のみならず第四の権力たるマスメディアもよく考慮せねばならない。これはニンゲン、ヒト (Homo sapiens sapiens) のみならず、動物愛護にも及ぶ。まず人間どうしの殺し合いの考えを無くさないと、他の脊椎動物(主に小動物)、節足動物(主に害虫)、植物に対する人間的に必要な殺害行為以外の殺害行為を無くすこともできない。また、死刑囚の人間らしさが分かると、一般人が「拘置所は人型ゴミ不良品の処理場」みたくとらえて「死刑判決を受けて死にたい」などと供述するような凶悪犯罪を起こそうと思わなくなることを、私は期待する。とはいえ、現在学齢期を過ぎた「旧世代」たちは、私ほどの全分野学習(分野ごとの歴史を含む)をしていない限り、これからもこんな調子であろう。

;動物愛護と動物の福祉 (animal welfare) を言うのであれば、当然、高度な道徳教育が優先される。ヴィーガンは動物の商品的地位(食肉、酪農、皮革、毛皮、ペットショップ生体販売など)を徹底的に排除する信念を持つが、インドのヒンドゥー教徒が行うような菜食主義は、明らかにそれと別物である。インドのナガランド州のディマプル で小児性愛の囚人を引きずり出してリンチ殺人に加担する約1万人の集団もいる (2015 Dimapur mob lynching)。ヒンドゥー教徒のうち、「牛の自警団」が、イスラム教徒ムハンマド・アクラクに「お前は子牛を屠殺した。家に牛肉があるだろう」と言いがかりをつけ、集団で家に押し寄せ、肉(実際はヤギ肉)があるのを確認して私刑を行い、1人死亡、1人負傷の事態を起こす者がいる (2015 Dadri lynching)。インドには独特な 牛の自警行為による暴力 (cow vigilante violence) という犯罪の類型があり、主にイスラム教徒が多数殺されてきた。日常的に、インド菜食主義者もこういうことに加担し、警察などに黙認されているものもあるのでは?"Vegetarianism and Cow Protection" by Krishna.org vs. "India highlights dark side of vegetarianism" by Pallavi Aiyar (在日インド人。Medha Michikaという菜食主義を主張する在インド日本人とは真逆)。菜食主義で自身及び他者の宗教的な美徳に資するどころか、悪用してモラハラと人権侵害をする者は多い。獄中でモークシャ mokṣa मोक्ष のアルタ artha अर्थ を達成するつもりか?また、明治以降の日本では近代化などがされるうちに在来種のトキ、ニホンオオカミを絶滅させた。タンチョウ(ツル属の種 Grus japonensis)は北海道以外の日本の野生で絶滅した;釧路湿原で再発見される前には国内どこでも絶滅したものとさえ思われていた。日本で伝統的な仏教菜食主義が道徳性をはぐくむ、という証拠は無い。教え方を優先せずに、形式的な慣習どまりでいるからである。関東大震災でのデマによる在日朝鮮人へのアグレッシブな私刑も、同様である。20世紀まで、白人が有色人種(主にアフリカ系、黒人)に私刑 (lynching リンチ) を加えて吊るし上げにするようなことはアメリカ合衆国で多く行われていた。証拠に基づく西洋的で高度な道徳教育が無いと、いくらでも、人間を含む脊椎動物にそういうことができてしまう。「証拠に基づく西洋的で高度な道徳教育」が完全無欠であることはないし、常に流動的に正しさを求めてこそ、評価できる。旧来の慣習と、伝統的に保持された宗教は、そこが西洋的なものと違っている。

;宗教に関連した、「教誨師」の存在についてはご自由に。





2. 家庭内で虐待され(構図は、実母と再婚相手もしくは内縁関係の夫でもなんでもよい)、学校でも孤立している児童生徒が、児童相談所の一時保護にあうが、しっかりとその後の人生に希望を持つだけの何かがあり、たとえ「中卒」もしくは「高卒」で、ただちに就業できない心理状態 (PTSDなど) でも、人間的な生き方が保障されている、という小さな幸せの話。

;ゆっくりと就業への努力もする。障害者雇用かどうかはここで考察しない。ただし、同様の実例があればそれを取材し、ノンフィクションで描写するという方法もある。

;児相一時保護と養護施設送致さえ受けない児童の中には、小学校や中学校などの学齢期、義務教育期間にさえ満足に通学できない状況がある。事情はいろいろとあるが、日本人の若年層でそういう結果になった人は、相当重い病気や障害があったこと、または家庭事情に原因がある。養護施設+高卒だと進路は「新卒採用」になりやすいので、もう少し、人間性を強調したければ、非人間化 (dehumanization) の餌食にされる中卒以下の学歴の方が説明に向いている。

;私的な意見になるが、埼玉県白岡市で多数の弟や妹を育てるヤングケアラーが虐待死したような例では、道徳教育で説明のつけられようもない。

;「国民の三大義務」と解釈されるうちの一つ「勤労の義務」は精神規定、倫理義務であり、罰則は無い。その点が「納税の義務」とは全然違う。この義務は、過去の政党「社会党」が提案した所産である。また、「働かざる者食うべからず」とは、聖書のパウロの書簡 (2 Thessalonians 3:10 ὅτι εἴ τις οὐ θέλει ἐργάζεσθαι, μηδὲ ἐσθιέτω. 趣旨: キリストのように神の福音を弘めるための良い行動をせよ・それを望まない者は食べない方がよい) を"Кто не работает, тот не ест"=「働かない者、その者は食べない」などとしてロシア帝国やソビエト連邦の憲法 (それぞれ1918年、1936年) に載せたことが普及のきっかけである。そのような条文はソ連崩壊までに削除されているし、そのような偏った社会主義者たちこそ、すでに淘汰されている、という歴史的事実がある。このようなことを知らずに、同様の思想に支配されるのであれば、その日本人たちこそ日本国憲法を身に体した生き方のできない反社会的な思考の持ち主であり、歴史を学ばずに自滅を望むことになる。そうであるうちは、社会正義を行う私の就労可能な賃金労働職場が日本世間のどこにあるのか?私は私の仕事に務めている。仏教における釈尊(ガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダッタ)もまた、それにより、食べる。過去記事およびスッタ・ニパータ1章4経、相応部7.11経、漢訳の雑阿含経98経を参照せよ。「国民の三大義務」は解釈用語に過ぎず、憲法自身はそれを言わないが、日本人の間で浸透し、人権と市民権の必須条件とさえ誤解している。労働できない赤ちゃんと寝たきり老人の不当な殺害には、後述のように懲役5年以上の実刑判決が下される。第11条「基本的人権の享有を妨げられない」のほうが先だからである。日本国民は「三大義務」の詭弁ロジックにより、「労働して納税する怠け者」、「『崇高な理想と目的を達成すること』(日本国憲法前文より)と社会を改善する努力を欲しない愚か者」に変わったのである。





3. 上の2と同じように、何らかの孤児の希望ある人生。

;通称「赤ちゃんポスト」(baby hatch) とキリスト教、ヨーロッパなど諸外国の例に対する比較。実話(運用事例と孤児個人のストーリー)を求める場合、日本国では、熊本市周辺に多い。「こうのとりのゆりかご」と特別養子縁組。ホスピタリズム (hospitalism) が関係するかの検討。

;身体的な性別が女性の人による産み落とし、その一歩進んだ乳児殺害行為の問題点。是枝監督「捨てる (『ベイビー・ブローカー』 Broker, 2022 film)」どころか、手ずから殺しているのがいる。有名な例では、神戸市から東京に出て港区のイタリア公園(汐留イタリア街のそば)で殺すようなことをする個人がおり、明らかな犯罪(殺人と死体遺棄罪、懲役5年の判決)である。そういう人がそうせざるを得なかった家庭や学校などの社会状況に対する批判。これこそ「社会が悪い、社会のせい」の代表例。時代の変化に能動的に社会が対応しないと、その中の個人の逸脱と犯罪心理に相当するものが助長され、無駄に犯罪者=逸脱者が増える。これが社会病理である。科学的な個人主義が、そのためには薬である。およそ「子供の私物化」をする親(保護者、特に生みの親)は、自殺念慮を懐くとき、一家心中(無理心中)を招く。それらの親は子供の人権を忘れて将来への身勝手な悲観視により、可能性を捨てさせる。この人権侵害の極みも、日本国社会がそれら子供じみた親たちに決断させているも同然である。

この記述が記された後の投稿物:NHK News Web - "“赤ちゃんポスト” 開設15年 預けられた男性が語る「家族」" 2022年6月8日 11時55分 (最終更新) 「熊本市の宮津航一さん(18)」 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20220608/k10013660621000.html (特別養子縁組の例、血縁関係に無い「親、家族」のもとで愛情を受け、大学に進学したという結果)

;投稿予定の動画の説明文に「Google検索エンジンは一方的に『親を罵る、親不孝の子供が不良品、愚の骨頂なのだ』という匿名投稿を見せたがるが、不良品という言葉で責めるくらいしか施す能力のない社会(日本語世界)こそが不良品なのだ」ということを私は記している。尊属殺でも卑属殺でも、殺人が悪ではあるが、それら殺人犯個人を責めても社会全体から同様の個人が育つ現象が終わる道理はない。漸進的な問題解決の努力を欠き、弱者=犯罪者予備軍をいじめることしかできないままでいる、未熟なシャカイジンたちが、今の日本国を構成している。自覚し、改善への努力をせねばならない。この題材3による教材においては、子殺しの話題を盛り込む程度で足りる。





4. 刑務所での刑期を終えて身寄りのない無職者となっても生活保護などの社会保障(公的扶助)で人間として生存権が守られ、不足なく生きられるという方法の提示。

;刑務所はただの豚箱ではないし、社会的去勢を行うための機関でもない。一般的には、そういうほうで認識されている。とはいえ、どう否定的な認識を拭っていても、家の近所に刑務所があると、受刑者が脱走したりするのではないかと不安に感じる人も多い。万が一でもありうるが、実際、脱走というのは刑務所の機能を持った比較的監視の緩い施設(現実の例として松山刑務所 大井造船作業場がある;受刑態度のよい模範囚が多い)で起こりやすい。

;生活や人間関係(体罰、DV問題を含む)の悩みがあれば、自治体(典型的には役所)の福祉部・福祉課や、児童相談所や、保健所や、警察などの行政機関に相談して支援を求める方法を教示する。社会の設計が何のためにそうなっているか、人権と合わせて考えさせる。

;衣食住の充実が標準レベルになってからでないと、社会復帰は到底不可能だという人が多いはずである。前科者でなくとも、ワーキングプアを含む独身の社会的弱者が労働能力を発揮するには、そういう条件が必要であろう。社会保障で心身を整えてから、やっと就職活動などを行うのに足りてくる。とはいえ、元・受刑者はそういう「社会的な支援を募る」ことでさえ、必要性を自覚できなかったり、道筋をつけて計画的に行動するスキルに欠いていたりする場合が多いとのことである。そうなると、刑期のうちにそういう教育が必要になる。後々、懲役刑と禁固刑(禁錮刑)は統合されて拘禁刑としたうえで、何かしら改善する、と日本国の立法では聞かれている(2022年5月時点)。

;嫌な相手の存在を実際に殺してまで自分の憂さ晴らしをする、もしくは相手を殺して自分も死ぬ方法を社会が黙認してはならない。他方、自殺は、あくまでもゴーディカ尊者、ヴァッカリ尊者、ポール・ラファルグの夫婦みたく、何かしら目的を達成してから自決する、という「尊厳あるもの」(しかし大衆に見せびらかすべきでもない=その人の心の中で尊厳死という理想像を完成させる)にしてほしい。責任逃れや苦しみからの逃避の手段として自殺をすることは、「個人の自由」とか「自己責任」以前に、社会が強要しているような空気が原因である。自殺を自由として放任する社会こそ、責任逃れしている。その空気を社会側が作ってはならない。社会の方が変わらないと、これら個人は「勝手に自殺したんだ」と処理される。これからも、悪い大人の手本として児童生徒は思考の片隅に自殺を選択肢として残すことになる。自発的安楽死 (voluntary euthanasia, VE; 積極的安楽死) についてもヨーロッパ (特にスイス)やカナダの法制度化された実例および医療行為として運用の実例を参考にせよ。普通の自殺に比べて安楽死に関しては自殺ほう助や他殺の側面に焦点があてられる。ALS患者嘱託殺人事件(2019年11月発生、2020年7月逮捕)は、死んだ患者の主治医ではない2人の医師が行ったが、うち山本は医師免許を不正に取得した(韓国で医師免許を偽装し、日本での国家試験受験資格を不正に取得してから合格して医師免許を取得した)と2021年に発覚した。しかも、同年、山本のみならず、大久保と山本の母親は、山本の父親を何らかの方法で殺害したという嫌疑で追起訴されている。これら実行した医師2名の行動から、今の日本国で行われたものとしての自発的安楽死は、社会正義よりも社会不正の側に位置している。容疑者2名は都合の悪い他人を殺したり、金目の他人を殺したのだ、という評価が現状である。「死ぬ権利」とか「本人の希望と同意に基づく安楽死」は、一見して甘美で未来的に見えても、まだまだ精神文化の劣った日本では安楽死法制化など早い、ということである。スイスやカナダのように高レベルな人道水準に教育された人材が増えてから議論してほしい。それと、医療従事者の大多数は人を殺すことに関与したいと思わないであろうし、予期しない人の死は関係先の迷惑となる点(賃貸物件での孤独死や自殺はその一例)からも、医療ロボット(殺人ロボット)の実用化や、高度なデジタル化に伴う情報伝達の的確さと迅速さの向上も同時に求められる。

;2022年1月、東京大学医学部(前期課程は教養学部)現役合格を望んだ愛知県名古屋市・東海高校の2年生が東大本郷キャンパスの共通テスト会場で受験生2人を含む3人を切りつけて負傷させた。犯行に及んだ本人は「死のうと思った」と述べた。同月、埼玉県ふじみ野市の民家でも、66歳男性の攻撃により、医療関係者3人が死傷する事態となった。44歳の医師は死んだ。犯人は凶器で自殺する意図があったが、成功していない。12歳当時の芦田愛菜(後に医学部志望)、王貞治の言葉として「努力は必ず報われる。報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とは言えない」と吹聴した。今の日本国では、抜け駆け努力に成功しても、事件被害者として廃人や犠牲者にならざるを得ない状況が現実に起こる。そもそも、順天堂大学医学部や東京医科大学医学部は女子と三浪以上の浪人生の受験生が不合格になるような操作をした(順大いわく「女子はコミュニケーション能力が高いが後で男女差が解消される」とジェンダーギャップの意味不明な弁明)などで裁判になっていたりと、せっかくの努力が不当に評価されない人の多い現実がある。そういう言葉を信じて受験勉強をするのは人の勝手であっても、日本国の現実にある問題を覆い隠し、社会を不幸にさせている。客観的にそのような「努力と成功の公式」は無い。何が「実らない努力は無い」と?裏口入学までしろと?私は公立中学校不登校からの卒業により、受験戦争などつゆほども知らないが、大卒学士号の両親のあの顛末からしても、児童生徒を抜け殻のような大卒学士号に憧れさせるくらいならば、もう少し人間的な理解を持ってほしいと思う。医学部不正入試の被害者、殺された医師たち、怨念の強い高校生は、ごく少数の「能天気受験生」の踏み台となる。それらの凶悪事件の犯人が出所した後で、どういう気持ちで生きてゆくことになるか?凶悪犯罪者のうちには、裁判前の保釈段階で自殺した人(渋谷区の吉田和人、傷害致死の被告、2022年没;中学不登校の彼を「無職ひきこもり」と世間が噂しても職歴あり、2階子供部屋に住む、自閉症と同様に風景の変化を嫌う、メガネ短髪ぽっちゃりという特徴は私と全く違う;日本では社会的弱者に「俺はクズなんだ!」と自覚させて自殺を誘導する人権侵害が多い)さえいる。絶望的な今の日本国において、何も人間として心の支えを得られることは無い;普遍的な道理を学んで尊ぶ者を除く。それが得られる日本国であれば、どれほど美しいものかと私は思う。

;この記事の大部分が書き終わった2022年6月12日、大阪市西成区のあいりん地区の近況と「高齢男性」について日記メモに記すと、私はCNNで"This elderly man with Alzheimer's killed his granddaughter. He says he doesn't remember" という記事が公開されているのを見た。日本の刑務所の囚人には高齢者が多いとのこと(後述の毎日新聞報道例に「法務省の統計では、11年に刑務所に入った受刑者のうち65歳以上の高齢者は8%、知的障害が疑われる人は22%を占める」とあるが、調査年月2011年の矯正統計調査を指すはず;そちらは同年新受刑者のうち65歳以上の者は約7.95%、約21.7%なのでそのまた四捨五入すれば同じ数値になる;2020年の調査は同じ基準で約12.89%になる)。知的障害再犯と裁判例の判決も、結局は、保護者(後見人もか)のいない知的障害者たちが高齢化していることを示唆している。30年以上前に菅直人の秘書を務めていたという山本譲司 氏の説(著書は『累犯障害者』など)が有名で…、なんか日蓮正宗系の民主党員を思い出したが、この方とは別人の山村明嗣 氏である。別人の山村氏には、日蓮大聖人の御書のひとつ「立正安国論」からもじった『行動あるのみ 〜安国の為に立つ〜 対談×菅直人・江田五月』という著書がある。山本氏の説にある受刑者個人の例(常習累犯窃盗罪に当たる)は、毎日新聞報道例「成年後見人:NPO、60代受刑者の出所後支援 名古屋」とそっくりなものがある。名古屋刑務所出所者の後見人となった「名古屋成年後見センター」の理事長 石川徹 氏と山本氏は、異口同音に「福祉が届いていれば、行き渡っていれば、再犯しなかったろう(趣旨)」と言っている。石川氏は実務者というか著者の側面もあり、山本氏が彼の著書『成年後見人へのそなえ』に「推薦のことば」を書いたことがある。翌日、日本の参議院で「拘禁刑」を導入する刑法改正案が可決された。拘禁刑は地域社会になじんで自立できるようになることを意図するとしても、累犯障がい者のためには、財政面での負担が大きい(後見人に加え、最低限度の生活に必要な暮らしサポート、身元保証人のような仕組みが必要なため)。なお、CNNが報道している福井のアルツハイマー症、認知症の犯罪者は、孫娘 (granddaughter) を殺したというものであり、高齢者や障碍者の累犯とはかなり事情が異なる。

;「保護司」の存在についてはご自由に。





5. 教師も一人の人間なので、何か落ち込んでいそうなことがあれば、それを機敏に察知した生徒が助け舟を出し、励ますなどし、「一方的に教える・教えられる関係」を超えた「互いを人間として尊重する関係」(教えながら教わるという双方向性の考え方を含む)としてやっていく話。

;「どんな顔して生徒に教えられるのよ」とつっこみが入るかもしれない。教師が持つ教師用指導書で、的確に指導方法を示してある必要がある。

;教え子の私物化、未成年者に対する性的搾取(売春買春、強制わいせつなどの性犯罪)を私は問題視している。「教育上、有意義だと思った」という強弁(言い訳)は、おためごかしのモラルハラスメントおよびセクシャルハラスメントである。性犯罪の事由で東京都教育委員会(都教委)、東京都の教育庁に関連する教師の懲戒免職や逮捕自殺というのが、今年3から5月に、相次いでいた。東京都のほうで監視と把握と調査がうまかったのかといえば、定かでない。もし全国の中でそうであっても、まだ不十分である。数年経って気づかれるケースもあった。潜在的には東京都にピンポイントでその種類の教師が増えるだけの精神公衆衛生上の問題があった、と事情を疑いたい。学校教師の人手不足に対して、教員免許なしでも赴任できるという制度があるそうである。「小手先の制度改革」である。それだけ実現してくれるならば、それもよいが、ソフト面にあるこの問題点を精査して具体的な教員養成の改革をしてもらわないと、状況は倫理道徳的に改善されることがない。逆に、不祥事を起こした教員の汚職を隠蔽し、ずっと着任させたままにすれば、当然、児童生徒の健全な育成に悪影響を及ぼすことが考えられる。面白いことに、現行の教員免許法では、懲戒免職となっても3年経てば免許の再申請ができるということを問題視して一部の保護者達から、「性犯罪の教師を二度と教壇に立たせるな」と署名が寄せられたというのである。これは2021年、各都道府県の教育委員会による「拒否権」の法改正があったことで一段落したが、実際にそれが行使されるかは3年を過ぎない現状で不明である。いじめ自殺の際に情報を不明確にしたりする市町村の教育委員会も多く、閉鎖的な共同体の一種であるというイメージが拭えない。小手先の制度改革くらいしか図られず、人々が精神的にオトナにならない。シューショクでもケッコンでも、それは完成された人格の終着点であるはずはないのに、まだ過信する者が多い。完成された人格までの通過点ですらない。人間、「あくなき追求」のみが出発点、通過点、終着点のすべてを補完するのだ。どうりで「成長をあきらめた国」などと言われるわけだ。日本国で社会全体の責任意識による正しい教育ができないうちは、人のいがみ合いの泥沼で自滅に進むだけになる。





ほかには、以下のようなものを想定する:

・労働災害の悲しみと、自由な転職
;判定される典型的な労働災害の例には、3つある。肉体労働者の物理的な事故、時間外労働による過労からの心身の損失、職場の人間によるいじめやパラハラによる心身の損失。これら3つの類型のうちでから一つを選び、労働災害に遭った人が、そういう職場から離脱し、再就職または異業種への転職を行うような柔軟さを説明する。決して、その職場への忠誠心や職業気質への愛着ということに固執しない。欧米では「企業戦士」が怠け者と見られる場合 (loyalty vs. laziness) がある。忠誠ということを肝に明示して所属しながら労働するのは自由だが、全ての人にとってそれだけが最善とは限らない、と教える。柔軟に生き、自己実現を目指す道が見いだされる社会について説明されるか、有権者の民主的努力で実現されることを私は期している。

・自己反省=正しい意味での「自分の殻に閉じこもる」方法(内省、瞑想)ことによる社会的個人の自己実現方法
;自分の足元のぐらついた一般社会人の多いこと、それが社会貢献の基礎なのではなく、社会崩壊の一要素になることの自覚、反省、努力が大人たちに求められているが、子供にも子供なりに、そういう残念なオトナにならないための教育が必要である。
;そもそも「自分の殻に閉じこもる」という言葉と、「自己満足」という言葉のネガティブな用法や、侮蔑の意味に言葉を使う習慣からして、シャカイジンたちは、反省すべきでは?どんな言葉でも、もっとポジティブに使うことを含めて教育されるほうが望ましい。日本国民の、他国民に比べて、(複数の情報源によれば) 学生と若者の自己肯定感 (self-esteem) と自己効力感 (self-efficacy) と社会的な使命感と愛国心を上げたいのであれば、そういう努力がオトナ側でされてほしい。

・各種障害や疾病を持った人に対する、身近な気構え、対応方法、コミュニケーションの工夫
;これは、私が望んでいるというよりも、いくらかの患者とか当事者とかの団体が主張していることの受け売りに当たる。私のほうでは、詳述しない。





題材についての問題点:

・法令の条文などを引用したり、国際的に比較してまで法律的な考えを育もうとすると、「公民」の授業みたくなる。そのためか、公民権の内容が大いに盛り込まれている。
;私は教訓や知恵に満ちた古今東西の、ないしローカルな歴史を反映したものとして法律を受け止めている。法律が時代とともに更新されるのはもちろんであるが、現時点でも良いものは良いので、児童生徒がそれを理解できるだけの参考材料が提示されることが後学のためになる。
;仏教の律 (vinaya) は、一つ一つの律の項目にストーリーが付属する。仏弟子たちが実際に直面した問題から、それらの律の項目が制定された、という「因縁」が示されている。法律も、そこまで特定の物語が求められないでも、実際の経験から反映されたものが条文である。倫理的な条文についてはさらに多くの歴史や知見が関わっていると同時に、憲法を考案する人(インドでのアーンベードカルや日本でのGHQなど)の理念による影響も強い。

・道徳的な内容なのかといえば、かなり難がある。それまでの道徳教材の内容に比べると、哲学と法学がまさってしまう。

・希望とは、各々の持ちようである。一部の児童生徒から見ると、2, 3のそれは鼻で笑う(ださい)客体になる。
;それを逆手にとる必要もある。何があるかわからない世の中で、ただ「精神的に他人ベッタリなデレデレさん」としてではなく、その人自身の苦しみにならない方法の例として、僅かばかりでも希望を失わずに生きる方法があることを忘れないでもらいたい。そうでないと、小さな失敗で「うわあああ!」と逆上し、衝動性で破壊や殺人などの凶暴な行動になりかねない。一人でもその被害者と加害者を増やさないためには、この教育が欠かせない。私はその被害と加害との二項関係を離れることを中学生の時にしたにすぎず、侮蔑的に「自分の殻に閉じこもる」ということをした覚えはない。なので、今後とも自殺や他殺などの挙に出るつもりはない。2014年・佐世保市・高校生殺人事件(もなみ事件)の父親が弁護士であるが、その人物は事件を背景に自殺した。法曹が「法律読みの法律知らず」とは情けない。武士の社会における「責任とり、忠誠の切腹」を私は否定しないが、現代法治国家の法律専門家がこの体たらくである。先述の通り、目的を果たしてから自殺する、ということの真逆である。それは誰からも命じられていない「責任のがれ自殺」であるが、日本国の人は弱者囲い込みをしていたのだし、社会が悪いと分かる。現代日本人たちは自ら不幸を作りかねない状況に置かれたが、教育こそ、その原因を離れさせる手段の根幹である、と私は確信している。義務教育の期間が最も影響力が大きい点で、学校という閉鎖的な社会空間での監視と是正の方法の確立も必要ではあるが、ひとまず、教師と生徒とを隔てない「人格教育 (character education)」を私は期待している。私自身は十分に自己教育をしている。



演出方法と表現技法

どんな題材を取り扱っていようとも、「つまらない」「いやいや習っても使い時がない」と思われるようでは、難しい設計図(組み立てには難解で手のつけようもない)や高級料理のレシピ(食材の調達不能)と変わらなくなる。
そこで、私は演出方法について一計を案じよう。

例えば、今の児童生徒たちおよび、「大人になってもいくらか童心のある人たち」が一生、バイブルのように受け止めるためにも、挿絵にはなじみやすい絵柄を採用する。
萌えの典籍(文学作品、觀萌私記など多数)で色々と、2018年以前の私の考え方が表現された。
絵柄の特徴として、アパレル界隈から私は「甘辛mix(甘辛ミックス)」と呼んでいる。
私の創作物の中に、そのときどきの私の考え方がある。
例えば、以下の簡易作成画像や、萌えの典籍や、音楽動画などが、具体例を持っている。



「ジェンダーギャップ」と「合理的配慮」など、自己批判と疑問と簡易説明を、画像中に記した。 □

私の絵の参考(A440の音楽再生での音楽イメージ絵)、このうち唯一の男性外見人物がリアル系の画風で
女性外見人物と大きく隔たりがあるのは、ジェンダー平等から離れて新たな弊害を生むというのであれば、再考。 □







起草日:2022年5月24日

私は「総合芸術」、「総合科学」、「総合宗教」として多くの分野の知見を集成させ、歴史と不可分なものとして研究をしてきた。
この「道徳」についても、できる限り多くの知見を応用しているし、福祉とも関連させている。
福祉には医学もつながっており、私自身は精神病理学という曖昧模糊なものとして嫌ってきた分野にさえ、今年からは、神経科学や生理学や化学を応用することで客観的な把握に努めた。
精神症状を持つ人の福祉ということも、私の道徳の近くにある。



2021年10月3日投稿『行政における個人主義の重要さ、私の行動による確認』という記事で、滋賀県大津市に頻発する子供どうしの暴力犯罪による死のうち、当時の最新事例を説明する中で、当記事に思うような「教育」の特徴を念頭に置いていた。

今回のケースは、兄妹の母親を含む家族に問題がある。
幼い妹の世話を兄が強いられ、ヤングケアラー(介護の対象は障害者の親、高齢者の祖父母に限られない)となっていた。
同時に、地域社会全体の問題とも言えなくはない。
ローカルなところでは、そこに適した形で、もっと、先述の「教育」が大事である。
私はここで、その「教育」の監修をしないが、中学以降が特に具体性を持ってもらい、個々人のばらつきはあって当たり前なので、全体の水準ができるだけ上げられ、もし非行に誘う生徒がいても、他の人たちが「私は嫌だ」「私はともかく、あなた自身、それをして悪い結果になる可能性を考えているか?」「どうしてもやりたいか?」と意見を言ったり、各自の反省が可能になるだけの状態になってほしい。
これは「嫌だという気持ちの自覚がある。誰かの被害はまわりまわって自分にも悪影響がある。個人と社会の相乗効果は大きい」という、私の個人主義のような考えで補強される。
児童相談所、児童養護施設、孤児院の子供たちも、それに対して有効に異なる程度の教育で、平等にある。



起草日以後における「動的な変形道徳 (dynamic transformative morality)」=生きる人間の応用道徳

同年7月8日11時、安倍晋三さん(元総理大臣、現役の自民党 衆議院議員)が最新の参院選に関連して奈良市での演説をしていると、銃撃を受け、亡くなった。
人物評として、在任中に「森友学園、加計学園、桜を見る会(モリカケ桜)」でお友達や身内を喜ばせたくても、かえって当事者や関わった多くの人を不幸にさせた顛末(犯罪者の烙印を押したいのではなく実際に近畿財務局の赤木俊夫の自殺や籠池夫妻の長期拘留や黒川弘務の任期延長で不幸にさせたことと多数の国民の政治不信や政界の停滞を招いていた禍根が大きい)は無残と言うほかないが、それが命を奪われる理由ではない。
彼のTwitter @AbeShinzo は、くしくも「三大義務」の詭弁ロジックを唱えていたと私が知る「小野田紀美」の応援に行った、というツイートが最終更新である。
彼の政治活動で良かった部分を挙げるとすれば、私は結果重視でないので、首脳外交の積極性と、神道や憲法に関する本人なりの理念で行動していたことを挙げる。
※結果や実績だけを褒めることは難しい。外交に限って言うと、ロシアのプーチン大統領からは手玉に取られていたのと、韓国とはBBCら欧米メディアが好んで報道したような2019年の不買運動などの軋轢が生まれた、という結果の悪が連想される。彼の首脳外交の何が良いかと言うと、「積極的平和外交」を評価するものでない。ドナルド・トランプ、松山英樹と埼玉県川越市霞ヶ関カンツリー倶楽部でゴルフをプレイする間、彼がバンカーにすっころんだり、イランで大統領らと会談するために滞在する間、ホルムズ海峡の日本とノルウェー船籍の貨物船にドンパチされたりしても、愚直で、ひるまなかったメンタリティが良い。2020東京大会を告知する「安倍マリオ」(スーパーマリオは、USJにその専用エリアが開かれる計画においてコロナ第一波によって延期されたという因縁つき)も象徴的である。その道筋が示されても、首相職の前任者や後任者がどれほど上手く行えるのかを考えると、彼以上に上手く行うのは困難である。

彼には、身を賭して日本国民に伝えたかったことがある、と私は哲学と道徳から主観的に読み取った。
それは「『美しい国』落ちぶれ、日本 (Japan) は国際的に見て醜悪汚穢(ugly and dirty)になっている、と国民は自覚をして然るべき反省と努力を行え;それが次世代のための『美しい国、日本』を作る道なのだ」、そういうことである。
世界各国の政財界有名人からの弔意が、記憶の鮮明であるうちに亡くなった安倍氏へ、数多く示されても、普遍的価値に当たる人権の著しい侵害を行っていない日本国の内政について各国首脳は言及できない。
私はあくまでも日本国民であり、「美味しい話」ばかりに喜ばず、道徳の主観性と同時に科学の客観性を総合的に分析してこの項目を記したい。

国内に、銃による暴力 (gun violence) が意識される情勢(暴力団員の犯行を除いて民間人だけでも1月 ふじみ野市、6月 豊中市の自殺)において、「日本人が最も動いてしゃべる姿を目にした人物」が1回の散弾銃の攻撃(先行の1回は外れ)を受けて次の瞬間「血の詰まった人形」に変わった出来事は、あまりにも衝撃的である。
さっきまでしゃべっていた人が、目の前で倒れ伏して動けなくなるおそろしさ。
「次の瞬間」というのは、初期の報道で私が見た映像からは、実際に当たった1回の散弾銃の攻撃によって地面に倒れ伏したと見えたことである。
※散弾銃1回あたり銃弾の数は多いので、首に2ヶ所、左肩に1ヶ所、損傷し、心臓に達した傷もある;シャツにも血痕があった。先の外れの直後に、背後にいた容疑者の方へ振り向いた後であり、正面から銃弾を受けたろう。銃撃のケースが多い米国では、公人がいる状況で異様な爆発音があった場合、訓練されている本人がすぐかがむか、周囲の人が「伏せろ! (Get down!)」と叫ぶものである。また、かばったりタックルしたりして要人を守る。現場の広範囲を映した映像を見て真っ先に驚いたことは、そのとっさの危機対応について現場が0点だったことである。「平和ボケ」と言うつもりはないが、痛恨である。東京2020大会の重い役職に就いていた森喜朗の女性差別扱いされた発言の際、周囲で女性も含めて非難の声を上げることがなく追従笑いしていたのとそっくりで、日本の環境が犯罪者と不祥事を助けることを象徴しているように見える。プロのカメラマンの映像は、外れた1回の時点ですぐ位置が下がったので、わずかな人は自分の身を守る行動をした。9日に公表された司法解剖の結果によると、NHKいわく死因は左の上腕部から入った1発の銃弾が、左右の鎖骨の下の動脈を傷つけたことによる失血死と。
どうも、一部の声によれば、その1回を受けて少しの間、受け答えができた、とも。
NHK News Webで最初の一報(当日11時30分ころ)があった1時間以内(12時8分)に「心肺停止」(現場の人が感覚が狂っていない限り、その言葉は死亡と同義)と伝わったことで、私には「これはすでに屍だ」と分かった。
そうと私は分かっていても、一般SNSユーザー、インターネットの人たちと違い、そういう不確実な情報(流言飛語、デマ)を発信していない。
一応は妻の安倍昭恵さんが搬送先の病院に来るまで医療スタッフが「懸命の治療(大量輸血、蘇生措置)をしています」という演技を行い、午後4時57分に病院に到着した昭恵夫人が彼の近くで落ち着くと、彼の死亡が宣告されるような流れ(午後5時3分)であったろう。
いわゆる「看取ることができた」という人倫上の配慮である。
多くの銃暴力と違って自作の銃 (improvised firearm) が道具であっても、人をみだりに傷つける犯行とその目的の所持自体が悪である;犯行目的で作られた原点が実際の凶器の性質になり、役目が果たされてしまった。
だから、当記事に言う道徳教育など、西洋的に進歩的な教育ができていなければ、宗教的な確信犯 (便宜ドイツ語: ein religiöser Überzeugungsverbrecher; 日本語以外でこの用語は定着していない) とは違った「しなくてよい殺人」をする国民が後を絶たない。

「自覚、反省、努力」を、安倍信者と安倍アンチの双方および全国民は、しっかりとできるのか?
それが彼によって遺された課題である。
彼がただ犬死したのではない、として顕彰する名目を私は設定した。
奇遇にも、7月5日付で「選挙とテロ」を示唆する文章を書いており、7月7日の日記メモのうちで載せていた:

今回の参院選(第26回参議院議員通常選挙)について(当月5日筆):前の愛知県議補選では期日前投票を行った。今回、期日前投票をせず、投票日にも投票しない。インターネット自他否定合戦が絶えずあって日本人の互いの幸福を破壊する状況を止められる政党がいない(政策を掲げる党がいない)と絶望することと、世界的に見られる期日前投票はクズだ Vote Early, Vote Foolish という同調圧力を悲しむことから、民主主義的に棄権したい。逆アンカリング佐倉綾音さん主演の愛知選管アニメ企画(先月28日メモ)は、因果関係にならない。世帯主が宣誓書を破棄して私が入手できない状況が、大きいきっかけであったので、投票日に、天気が良くて投票したい候補者や政党があるという気持ちがあれば、投票する(家の状況が軟禁状態で、もともとどう意欲があっても日曜日は投票に行きづらい事情がある;夏は帰宅後に風呂に入りたいなど、軟禁状態では難しい)。世間がやかましく主張する「若者からの投票率」を上げるには、決済アプリのポイントが入るとか、そういう施策が考えられる。地域によっては投票に伴う「選挙割」や「商品券」配布をし、事前にお店の参加を募っている。結局、事前の意識調査で「前回(3年前)と有意差なし」ということであれば、投票日の悪天候で選挙に行かないという人の多さから投票率が下がっても、何でもない。事前の意識調査の段階で、投票したいという回答が前回と同じ実施期間の同じ方法で(ただしサンプルが同一人物たちである必要はない)有意に増えた場合は、ようやく意義がある。「私は努力していても、政治に対する一票は、努力のしるしにならないし客観的な効果は皆無だから投票しなくてよい」という考えの人でも、事前の意識調査でその結果が分かれば「今回ならば投票してもよい」と選挙を前向きに考える。このためには、日本国が西洋的教育(主権者、公民権)を向上させ、教育者も政治家も汚職しないか、汚職腐敗への認識と社会的な批判が受けられやすい状態(民主主義の進歩)にならねばならない。日本国民は、出版社と言論機関と報道機関も含めて自己批判と社会批判の双方が下手であるから、今更、そんな期待は無理であり、西洋的教育の向上による長期的で漸進的な変化が精いっぱいである。その無理な期待をする人は、致命的なテロリズムや、激甚災害の頻発(三災七難)によってのみありうると考えよう。

最後の一文が、たまたま、この事件に重なる内容である。
「今の日本国の状況から蓋然的にそういうこともあろう」、として私は記していた。
とはいえ、「致命的なテロリズム」とは、2015年のフランス・パリ同時多発テロ事件のように無差別殺傷と宗教信念犯行 (religious belief violence, violent behavior) の特徴で想起されやすい。
もし犯人が個人的な不満によって(つまりテロではない、政治的な意図が無い)安倍晋三というとても有名な人物(現存する日本国民と日系人の政治家では最も有名)を攻撃したのであったとしても、普通に考えて政治的な悪影響の大きい時期である。
選挙運動に関連した演説中の攻撃であったために、初期の段階で与野党の各政党の党首と幹部が口をそろえて「民主主義への挑戦、決して許されない」という趣旨の意見を述べていた。
言い換えれば、この一文が言いたかったことの一部は、日本国が道徳を重んじないで「国家という名の巨大個人 (macro-individual, superindividual) における社会病理」が重症化するにつれ、「テロ」と政界で評価するできごともあり、政治活動が今までよりも厳重で自他の委縮を招くものになることを意味する。
今回の事件は、時間が経つにつれ、「暗殺 (assassination)」と理解されるようになった。
近年、雑誌系メディアなどで人気の高まっている「ひろゆき」氏も、この事件の後、彼自身の「無敵の人」概念とともに、「そろそろ蔑ろにされた人々に向き合うべきか」(1, 2) と言っている。
2022年4月17日投稿『主体の認知性質が客体の亜属性に同化する現象とレイシズム、エイブリズム差別構造』でも、私は「無敵の人」を紹介した:

SDGs「誰ひとり取り残さない」("No one left behind", "No one will be left behind" or "Leave No One Behind" LNOB)とある。
ひろゆき「無敵の人」(2008年、秋葉原通り魔殺人事件の加藤智大がきっかけの概念)と言われる。
どういうことについてであれ、誰かが「取り残された」と思い、「無敵の人」となって凶悪犯罪を起こすことが無いように、誰もが自由と責任を健全に行うことのできる社会の維持に努めてもらいたい。
文明全体、もしくは日本国に限る場合でも、その土地の人々が不幸な傾向があるのに、誰かが抜け駆けしたり、地方どうしの人口の争奪戦に勝者が出ても、そんなことでは共倒れに繋がるだけであり、SDGsでもなんでもない。
「誰ひとり取り残さない」人権状況の改善をして誰もが各々の立場を尊重して活躍できるようにしないと、地獄への特急列車に人々は相乗りして一人残さず堕獄する。

今回の一件で投票率は上がるのか?
→多かれ少なかれ、日本の政治について国民が考える機会は得られるが、結果として投票率そのものが今回の一件で上がるかは不明である。
事件を受けて投票所と開票所の警備増強が指示されており、投票所さえ同様のリスクで怖いと思う人もいる。
前回3年前は、投票日に各地で大雨であったこともあり、今回の投票日の天気が悪くない限り、微増する可能性はある。

去年8月(小田急線の切りつけ事件と硫酸攻撃)から確定している日本国の醜悪な状況が改善されるには、将来の選挙で私が言うような教育の問題点を、しっかりと論点として定められるだけの方向に進むかどうかである。
公約、マニフェストにおいては、小手先の格差是正を掲げるのみならず、社会的弱者メンタルヘルスの尊重を重視する政策が盛り込まれる必要がある。
それをせずにいる旧民主党系の「国民の生活が第一。」とか、「いまこそ生活安全保障が必要です」などというスローガンは、荒唐無稽に過ぎない。
今回の件でも、容疑者家宅捜索するにあたり、爆発物など危険物の存在から、近隣住民の避難が求められるなど、決して安倍氏一人の死にとどまらない多大な影響があった。
奈良市も、市民のメンタルケアのために3人の人材を起用して事件専用の電話相談ホットラインを開設した。
多くの土地で凶悪犯罪者が散発することで、確かに個々の地域社会から声にならない怨嗟が巻き起こっている。



以下、記事投稿後にも、加筆:

暗殺者・山上徹也の語る「母親の家計圧迫から家庭が崩壊し、統一教会 (the Unification Church) に因縁をつけて犯行を計画した」という彼自身の背景が本心であれば、金遣いの荒い「親」(前時代個人にとって神のような存在にして個人主義の大敵) 1人の逸脱によって一国を震撼させる事態が発生したことになる。
くしくも、東アジア人(日本、韓国、中国)の好きな「家族主義」を思わせる名前が、統一教会の現在の名称「世界平和統一家庭連合 (Family Federation for World Peace and Unification, FFWPU)」になっている。
「勝共連合」を含めて統一教会の教祖・文鮮明の設立した組織が、安倍晋三の父・安倍晋太郎とその義父・岸信介のときにも大なり小なりつながりがあった(『週刊現代』99年2月27日号の言う古屋が晋太郎から勝共推進議員のセミナーに誘われたとする内容、および岸信介と文鮮明の友好的な面会&握手写真)、とする陰謀論抜きの一部事実が承認される場合、父の代から受け継いだ「親の業 (karma, 原意:行い)」も、彼の広い人脈と友好の「束」に含まれ、この悲劇の引き金となったことであろう;数字にも表れ、晋太郎と晋三は同じ67歳で死没した。
いみじくも「統一」、「家庭」という彼らの自負は本当である;現代に適合しない家族主義(個人主義にとっては、血縁上の親子であっても個人間の尊重が必要であり、支配の二項関係を可能な限り薄めねばならない)への偏重が引き起こすものとしては。
現代に適合しない家族主義へのアンチテーゼは、かくも凄惨な現実で提示されており、日常的には「毒親」だの「親ガチャ (parent gacha)」だのと世間がトキシックな親 (toxic parents) 概念を罵っている。
この事件について、子なし安倍夫妻の「国民を我が子とする」政治に対する「親不孝 (filial impiety)」、「反逆罪」、または「孤独な狂人による孤立した事件 (isolated incident by a lone lunatic)」などと思わないでほしい。
この項目で私は触れないでいるが、「政教分離」に関する陰謀論と現実運用に関しても統一教会と日本会議と自民党には説明責任が求められそうである。
遠い将来、「集団ストーカー (gang stalking)」といった多くの陰謀論の対象になっている創価学会(国内最大の新興宗教、支持対象の政党が与党に所属している)にも、過去の折伏大行進と公明政治連盟(後の公明党)から今までの社会的悪評についての説明責任 (accountability アカウンタビリティ) が求められそうである。
※自民党による改憲案の第24条1, 2, 3項 (一 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。など) は、現代と次世代とにおける家族の多様性に逆行するものとして批判されている。日本国憲法の改定は、例えば同じ第24条に同性婚(自由な婚姻)の可能な状態に変更したり、同時に民法の三親等内の扶養義務を無くするといったことが、今の子供たちの成人後に適している;家族の助け合いとか労働とかは、産み落とされた子供にまで適用されるべきでないが、そこまで強いられるおそれがある。参考までに、現行のドイツ憲法 Grundgesetz für die Bundesrepublik Deutschland (1949) 第6条は、家族と婚姻は国家から大いに保護され、さらには国家が親による子供への義務的な養育を監視し、子供の人権を重んじること(ネグレクトなどのおそれがあれば国家が家族から子供を引き離すこと)を規定している。貧困の親を国家が応援してあげつつ、養育できないと判断される親を戒めるものである。子を授かることは尊さ以上に、責任がある。「こども庁→こども家庭庁」改名問題からしても、自由民主党 (LDP, the Liberal Democratic Party in Japan) を私は、もはや家庭民主党 (Family Democratic Party) とでも呼びたくなる。埼玉県議会の自民党系県議がリベラルな方向で主導していたのも、まるで一時的な目くらましに思えてしまう。巷に聞かれる老々介護と不審な木造家屋炎上事故は、声にならない声の憤怒に燃え上がり、要介護者を巻き込み、その人自身を焼き殺したことに等しい。政治がどう強権的になっても、民意までは改造人間にでもされていない限り、統御できる道理がないことが軍事クーデター後のミャンマー(民間人2,000人以上死亡)などの諸外国の現実を見ても、分からない人たちには分からないようである。とはいえ、実際、今の日本国民(労働納税の怠け者)は状況の冷静で客観的な分析と、成長を願う希望による努力が著しく乏しいので、有事の際に抗議の声を上げるのは期待できない。

凶悪犯罪企図者へ:人は、どんな境遇でも、私のように自由な、芸術と学問の個人主義リベラルアーツ(2019-07-15記事)をできるように心が教育されていないとならない、そういうことも改めて考える。
それは主に、私のような「就労不能だが社会福祉を受けられず、実家にいるしかない」境遇にある人のために向けられていた。
同時に、賃貸物件で独居する人でも、長期失業を見込む場合、財産が減る間、生活保護受給(山上のように車を持っている場合は基本的に売る必要がある)を念頭に置き、ゆっくりと再生すればよいし、就労を目指すこともすればよい、という生活モデルを当記事でも2019-07-15記事でも示していたわけだが、まだまだ世間に認知されていない。

当記事でも法務省の矯正統計を参照しているように、「凶悪事件、凶悪犯罪」と一般に見られている刑法犯(人物、新受刑者が対象)は統計上、「2020年(令和2年)」付のものまでを見ると、減少していることを私は知っている。
短期的には、統計期間が「2020年」である限り、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の自粛と緊急事態宣言の下での行動制限と強い自粛意識(回数が増えるごとに弱まる)において国民の行動が大きく制限されたタイミングに重なり、多くの罪名で新受刑者と認知件数が減った。
長期的なものとしては何が減るかといえば、よくある親族、友人、恋人の間でのトラブルや不満による殺人、ライフスタイルの変化から酔っ払い暴行、防犯カメラとドラレコ普及による意識変化による多くの罪名…、などが考えられる。
知能の高い人は、警察の捜査技術が向上していると知っており、暴力を成功させたうえでその犯罪が認知されないか犯人確保につながらないという「完全犯罪」は、現代で相当に困難であると知っており、よほどの怨念や自信が無いと凶悪犯罪をしたいと思わない。
それら「昔ながらの凶悪犯罪」が減ったところで、現実の2021年(令和3年)以降、「無敵の人」や「ローンウルフ型 (lone wolf attack)」(必ずしも1人だとは限らない)が目立っていることは、明らかである。
しかも、京王線車内切りつけ放火 (Internet Archive: 1, 2)、大阪北新地ビル放火、安倍銃撃などはBBC, CNNホームページのトップに報道されるほどにショッキングであるわけで、ほかの先進国でもそうそう起こらない「レアな種類の攻撃犯罪」が日本国で多発している、と日本を外の国から見ても感じられる。
米国でのちょっとした銃乱射で2人ほど人が死んでも(特に被害者が加害者の身内である場合)、その国以外で注目されないのに、日本での死者ゼロの車内切りつけ事件2つ(小田急線車内切りつけを含む)は、Wikipediaで多くの言語版の記事になっているほど("August 2021 Tokyo stabbings"は5, "October 2021 Tokyo attack"は10; "2021 Osaka building fire"は15, Assassination of Shinzo Abeは46)、世界市民の目にも強い嫌悪感である。
Wikipedia普及以降、日本で1から3人ほど人が殺される事件が発生しても、英語版、中国語版、韓国語版など限られた数の言語版があれば多いほうなので、これらの例は尋常でない。
また、日本国で京王線ジョーカーのような恐怖報道、衝撃的な映像が撮影され、世界のメディアでも好んで取り上げられていることは、道徳上の危機である。
単純な統計にだけとらわれず、総合的に見たうえで私は危機感を発信している。
社会的影響力のある事件の傾向からしても、今は今でタイムリーに変化しており、私もそれを読み取ってこそ有効な道徳教育がある、としてこの記事を記した。
そもそも、田舎でも都会でも安心して生活できるように、凶悪犯罪はもちろん、日本人たちの自殺したくなる身の上を解消してゆく努力は大事である。
有力者たちが、眼中に置かないうちは悪化の一途をたどる、と私は何度でも警告しよう。


2021年2月10日水曜日

自ら使用を制限する対象:真実、危険

「真実(しんじつ、シンジツ;繁体字:真實, 英語: truth)」、「危険(きけん、キケン)」という2つの語句は、現代の場合、感情に糊塗された文脈や政治レトリックで用いられることが多い。
私の場合、この2つをどのように用いるか、内心にガイドラインがある:

・専門用語
;好例として:語句「真実」であれば、論理学および宗教文献。語句「危険」であれば法律、行政および産業。
;「危険」という文字列は、それだけで目を引くもので、題名や謳い文句などに用いて多くの人の注意を向かせつつ、内容や詳細は羊頭狗肉であることも多い。日本におけるナガミヒナゲシ (Papaver dubium) を「危険外来生物」と表現する人の創作物は、バイアス–偏見がけ (biasing/biassing, to bias 他動詞) の好例である。専門用語であれば、何を前提にそう言うか、定義を明白にしやすいので、その限りの信頼をおくことができる。

・文献および発言の引用と、その一時的なニュアンスや定義での参照的二次使用
;この場合は感情的文脈や政治的レトリックなど「悪しき用例」と同じ定義でも、それ自体でないため、私は利用できる。
;キリスト教聖書や神学にあるような「真実 (ラテン語: veritas)」(1611 KJV John 8:32 "And ye shall know the truth, and the truth shall make you free." 他の翻訳も定冠詞 definite article "the" 付きだがラテン語は当たり前としてコイネー・ギリシャ語写本も定冠詞なしで"ἀλήθεια"とのみ、日本聖書協会の口語訳は「真理」)は「専門用語」の例にも相当する。ただ、普遍的真理の方面なのか一時的事実の方面なのか、閲覧可能テクストの文脈で原意を察する必要がある。
;仏教典籍にあるような「真実 (パーリ語、サンスクリット語: bhūta)」(鳩摩羅什訳妙法蓮華経「如来誠諦之語」大正蔵9巻42頁b段、梵語写本IAST表記"tathāgatasya bhūtāṃ vācaṃ"; 法華経や関係典籍:無量義経「未顕真実」大正蔵9巻383頁b段、立正安国論「法華真実の妙文」創価御書 p.17ほか)は「専門用語」の例にも相当する。cf. スッタ・ニパータ4章に頻出するsacca (パーリ語、相当するサンスクリット語: satya), 法華経方便品にある uttamārtha (鳩摩羅什訳「世尊法久後 要当説真実」大正蔵9巻6頁a段、梵語写本IAST表記"ananyathāvādi jino maharṣī cireṇa pī bhāṣati uttamārtham"); これらはみな異なる語彙が原語に見られるし意味合いも各々異なるが、ここで詳述しない。普遍的真理の方面なのか一時的事実の方面なのか、閲覧可能テクストの文脈で原意を察する必要がある。
;多くの日本人は何らかの作品にある「真実は一つ」というキャッチフレーズを連想しやすい。当記事では特に解釈しない。

いずれにしても、「真実」や「危険」という2つの語句は、無反省に自然な感情で用いることを、文章中に私はしないと思われる。
理性的レトリックやジョークの意図であるならば、それと分かる方法を私自身は用意する必要がある。
文章以外であれば、結局、目の前の人を助けるなどの意図で「そこは危険だよ!」とか、「あなたに真実を教えてあげよう」という形で使用できるが、当記事の扱う領域でない。



例文1:真実という言葉の多くの用例は表面の真実を示し、深奥の真実を隠す。
例文2:危険だとみなすことをする論者に、思考の危険さがある。

仏教または宗教音楽の創作として、上記2つの例文から偈(げ, サンスクリット語: gāthā; 韻文、詩 verse, poem の一種)を作って歌詞にでもするとよい。

話はずれるが、上のキリスト教聖書引用は「自由」が言及されるが、その後の文では自由と奴隷(隷属)の一体性(一者における二面性とも)が記されており、欲に基づく行為=罪はイエス・キリストにとっての自由では全くないことが説かれている。
誰かしらの引用文に「自由は奴隷である"Liberty is slavery" (ある例では古代ローマのキケロー Cicero というが"Libertas est servitus"は格言のように省略されて原典を探しづらい"lorem ipsum"連想キケロ引用と思われ、別の例では小説家ジョージ・オーウェル George Orwell の作品『1984年』中の風刺的な真理省 Ministry of Truth の3つのスローガンに含まれる;後者は政治好きの英語教育者Tがドヤ顔で引用するには難しいもの)」などということも、こういう宗教によくある反対の言い方(自然と超自然、此岸と彼岸=この世とあの世;仏教の中論でいう世俗諦と真諦のようなもの)に近い。
彼らの神が性質として何であるかはここで論じないが(セクト的なのか無実体なのか cf., 2018-04-20記事)、単純にこの言葉の彼らにおける妥当な解釈が気になる人は聖書解説の文献 (comment, commentary, commentaries) を見ればよい(信じるかはともかく)。
「危険」な引用には、ご注意を。
詭弁?思うことをしても学ばないのは、則ち殆し(危し)?



月平均40,000文字以上になると推計される私の日記メモでは、「真実」という単語の最後の使用例が2016年6月中の日記メモである。
当記事の話は、2016年の当時に対しても如実に真実を言っている、というか、事実を言っていると私は「誓う」。
以下は2016年6月24日の内容の抜粋である:

14時40分台、母親から唐突にふすまをノックされ、声を掛けられた。返事をしても大したことは言わないので、何かを受け取る用件だと察し、その旨を面倒に思いながら聞き、実物を受け取った。受け取ったものは6月22日に公示された参議院選挙の投票券らしき紙である。母親も「投票券」としか言わない。この紙にアレコレと「真実です」と誓える情報を記入し、投票所の立候補者かどこかの箱に投票すると思われるが、こういったことは何の説明もしてこず、母は投票権を渡すだけであった。時間が経ってから見直すと、その「真実です(上記は、真実であることを誓います)」の部分の記入欄は単に期日前投票を行う理由などを示す「宣誓書」の記入欄であった。実際は、この手渡された投票券をそのまま立候補者かどこかの箱に入れると思われる。いや、これは投票券ではなく単なる整理券であるとも見ている。まあ、去る6月20日に投稿した記事で「投票しない」理由などが書かれる通り、そもそも投票しない私であるから、一応確認はしてもそこまでで終わろう。


この文章での用法は、当記事でいう「・文献および発言の引用と、その一時的なニュアンスや定義での参照的二次使用」に相当する。
この当時にも私は、宗教的信条により、「真実 (truth)」には特権的な意味を持たせる以外に自発的な使用をしなかった、と再確認できる。
宗教的な、哲学的な、形而上学的な文脈で言われたものはブログ内で検索すればたくさん見られる。
「事実 (fact)」の強調として「真実 (truth)」を言わず、また、真実の同義語としての「実際/實際」を用いずに、現代文の副詞 (adverb)「実際に/は (in fact, actually, really)」に限らせる(時期によって名詞「実態」の同義語の場合もある)。






起草日: 2020-11-19

ことば、言葉、コトバのファッションらしいものを、私は学んできたろう。
例の「ファッション的な無意味」という著書の英語名称 Fashionable Nonsense に私が影響された部分もある。
宗教学で、言葉の様々な用い方(言辞柔軟、ごんじにゅうなん)を私は学び、自由をわきまえてジョーク的に用いるにも精神的に奔放でありはしない。
著述の時間がこの起草の月やその前月などは少なかったので、著述の行為では当たり前に思われることをわざわざテーマにした。

雑談になるが、語学はファッションと同じように、任意の学習対象言語の「こなれ感」が重要である。
また、私は作曲を行うので、音楽の和声–ハーモニー (harmony) や展開に関しては「ヌケ感/抜け感」が重要である。
こういったことを私はよく思う;作曲したり、作文したり、他者の作品を鑑賞しながら。
こういったファッションやおしゃれの要素を実際に行使する場面は、必要に応じる。
メタファッションの自由な考えでは、ファッション文章やファッション音楽のセオリー抜きでもファッション文章など(科学論文や行政文書もそう見える)が作られると言える。

2018年6月11日月曜日

語源考証の試案「はかない(はかなし)」・梵語(由来の漢語)の日本語への影響

和語「はかない・儚い"hakanai, OJ: *pakanachi"」の語源を考察する
はかない=はかりが無い…これに2つの語義を想定して成立の順序を仮定する
語義①「おろかな(浅はかな?)」 語義②「無常な」



まずは、「はかる」という意味を持つ漢語や、漢訳仏典の元の梵語(サンスクリットなど古代~中期のインド系言語)を確認したい。
漢語・梵語、特に法華経(妙法蓮華経)や維摩経などの漢訳仏典が上代日本語・文化の成長に大きく寄与したという前提(聖徳太子述とされる7世紀前半の法華義疏など)に基づく。
筆者による過去記事を要約する。
度・量・推・測・計(および図・画・劃・謀・慮)  「物をはかる、心をはかる」
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/09/hakaru-mita-pramana.html

現代日本で「度」は「ド "do"」の字音で「はかる・はかり」という意味に用いられているが、「忖度(そんたく sontaku)」という語が政治の話題などでしばしば聞かれるよう、「はかる・はかり」という意味は本来「タク"taku"」と読む。
同じ読み方の語句「度量(たくりょう)」とは、妙法蓮華経方便品に「尽思共度量 不能測仏智」と出ており、梵語原典では"yathāprameyaṃ mama buddhajñānam"とある。
yathāprameyaṃ (ヤタープラメーヤン)の中に"pramā प्रमा = pra- (前に・前方へ) + √mā (動詞語根・はかる=推量・予測などの意味合い)"がある。
「度量」の異なる原語→"pramāṇaṃ, √grah, sumāpita, parigaveṣyamāna"
現代の日本語で「度量」は「どりょう」と読み、「心の大きさ・懐の広さ」みたいな「心のはかり(タク)」という意味で用いているが、本来は「たくりょう」と読むべきことであろう。
先述の通り「度(ド)」という字音は「わたる・わたす」という意味で用いるためである。

※孫子の兵法にも「一に曰く度(たく)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝 (軍形第四)」とあり、もちろん「度(たく)・量(りょう)」とも、何かを「はかる」意味となる。度と量との意味の違いは何か?「度」は先の※注釈や後の※注釈にあるよう「尺度」の意味が強く、「尺(ものさし)」による視覚的な大きさなどを「はかる」という意味か。ここでの「量」は数に通じるものか。世の解釈では、そのように「場(戦場・国土?)の広さ・距離を度る」、「物(武器や兵糧?)の多さを量る」とするらしい。戦闘前の計算・計画段階で、優れている人は初めから勝利が決定していると。この軍形篇の前は「謀攻」という名であり、それも「謀(む・ぼう)、謀る・はかる」という日本語になる。

※「度」の「尺度(測量するもの)」としての漢語使用が維摩経に出ている。支謙・鳩摩羅什の二訳に「非度所測(度の測る所に非ざるなり)」と。梵語では"tulayituṃ"とある部分に「尺度」の意味を持つ動詞語根√tulや名詞tulāが含まれている。なお、以下の話題に関連しそうな「非意所圖(意の図る所に非ず)」という一節が、「非度所測」の前にある。こちらは"acintya (不可思議)"のような"cintayituṃ"として梵語にある。梵語を引き合いに出すとキリがない。漢語でも、表題に「図(圖・はかる)」の字を加えなかったが、今はこのように雑多な注釈を以て語ってしまう。

先ほどの"pramāna"もとい"pramā = pra-  + √mā"の√māという動詞語根は、主に「量」と訳されており、漢訳仏典の漢詩・韻文・偈の便宜上「度量(たくりょう)」などとも訳することが上記の例(尽思共度量 不能測仏智)である。
√māを含む梵語・サンスクリット語句ならび漢訳語句を挙げると「anumāṇa・比量」、「apramāṇa・非量・無量」などがある。
いわゆる「四無量心」という語句も"apramāṇa-citta"と表現され、「4種類の『はかりきれない心』」を意味する(4種類とは慈・悲・喜・捨のことだが無量について解釈を変えると慈・悲・喜・捨の心が瞑想などの修行によって無量といえるほど大きい状態・平等・普遍であることを意味する)。
「無量光」という漢語は"amitâbhā (阿弥陀仏amitābhaに用いる)"と"Apramāṇâbha (第二禅の光音天に準ずる無量光天apramāṇābhaに用いる)"とに分かれる。

妙法蓮華経・如来寿量品に「校計(ぎょうけ)」という言葉がある。
「校」とは会意形成文字であり、「交(爻)」字の影響で「校正・校訂」という場合に「くらべる」という意味があり、「計(はかる)」と結び付けられる(よって校量という語もある)。
これは原文だと「諸善男子(kulaputrāḥ)。於意云何(tatkiṃ manyadhve)。是諸世界(te lokadhātavaḥ)。可得(śakyaṃ)思惟(kenaciccintayituṃ vā)校計(tulayituṃ vā)知(upalakṣayituṃ vā)其數(先の動詞に反応した目的語の挿入)不(いなや?と疑問形を作る)。※-yituṃは不定詞を表すか?」となろう。
上の漢文引用でカッコに南条ケルン本の梵語ラテン文字を併記したが、他には「校計」というよりも「校(upalakṣayituṃもといupalakṣayati)」に「計知(けち)其數(tulayituṃもといtolayati)」と考えられる。
どうであれ、寿量品「校計(計)」の語を含む漢文については、元の梵語に√mā (pramā)の語句が確認できなかった。
ちなみに、"tulayituṃ"または"tolayitum"という語句は、先の※注釈にある維摩経(支謙・鳩摩羅什の二訳)にある「非度所測(度の測る所に非ざるなり)」の「度(これもタク発音か)」と同じである。
当記事に関連するGoogle検索で「計度(けたく)」という言葉の存在も知った、これは「計(ケ・はかる)・度(タク・はかる)」の二字が一語を為している。

計算の計といえば、「計画する」という熟語にも含まれる。
当記事(元記事)で既に、「支度」や「孫子兵法における度量」の説明に「計画」という言葉を用いた。
「計画」の「画(畫)」とは、「が」や「え(ゑ)」と読む(上古音g→中古音w, ɦ, h置換)字であり、「えがく」という動詞や「えがかれたもの=絵(繪)」の意味を持つ。
「計画(かく・くゎく・わく)」という場合は「劃」の旁である「リ、りっとう」部分を省いた俗字としての「畫(画)」か、混同したものであり、別の字と考える(画が悪=オ・アクや易=イ・エキのような二音二義の字ということも有り得なくはないが)。
その「劃」もまた「計」のように「はかりごと(計策・謀)」の意味合いがあるとするが、部首の「りっとう」が、刃で傷つけて印をつける・分かつとか、筆を用いるさま(えがく行為)に当てられたようである。
計画行為の表現としての字と考えると、「はかる・はかり(推量など心の行為)」に通じよう。
何であれ、「画(畫・劃)」のカク系発音(入声音-k)は「はかる・はかり」に通じる意味と思う。
なお、サ行変格活用の動詞・サ変動詞「画す」といえば「カクす」と読み、「一線を画す」とは「一線を書いて分ける」という意味となろうが、「一線をえがく」の意味では「ガす・エす」と読めなくもない。

英語の"meter (ミター、メーター、メテル、metre, mètre メートル)"とは「計測する・はかる道具や基準」だが、サンスクリット語の"mātra (マートラ)"も「尺度・計量する物」として同義である。
この"mātra"も、文字通り、√māと関連する語である。
"mātra"もまた、日本語の「ただ・・・だけ」という表現のように使われ、華厳経・十地経(十地品)の「唯心」も"citta-mātra (ただ心のみ)"という("te cittamātra ti traidhātukamotaranti api cā bhavāṅga iti dvādaśa ekacitte"、楞伽経や大乗荘厳経論などにも確認)、日本語も「○○ばかり」という表現があるよう、「はかり」の意味が「ただ・だけ」という意味と同じように用いられている。
「○○ばかり」とは、「はかり得るほどに少ない(数えられるほどに少ない)」ということであり、サンスクリット語でも「√māマーできるほどに少ない」ということとなる。




以下より、当記事の本題に入る。
語義①・②とその成立の順序を仮定する。

①「おろかな(愚かな・痴かな・癡かな)」・・・鎌倉時代などは後述②と同じく、この意味での用例が多い。
例: かしこき者(賢者)も、はかなき者(愚者)も… (創価学会・日蓮大聖人御書全集の検索結果も参照)
なぜ賢いことの対義語として「はかなし(はかり無し)」と言われるか?

はかり=思考能力
はかり無し≒無智・思考能力が無い(無いとは少ないの言い換えであり英語でいう接頭辞non-やun-よりも接尾辞-lessのような意味に近い)、浅はかである(はかりが浅い、思慮が浅い、浅慮な)

よって、「はかない」とは、「はかり無し≒思考能力なし(少なし)→おろかなり」、「はかなき者≒思考能力なき者(少なき者)→おろかもの」という終止形・連体形で用いられる言葉である。

※ここでの対義語「賢い・かしこい・さかしい」という言葉の方の意味を示さず、現代的語義や辞書的語義に委ねた。

※「はかない(文語終止形: はかなし)」の派生形で、「はかなむ・儚む」という動詞もある。もし「はかりが無い」に「はかない」の語源を求めると、「無い(文語終止形: 無し)」を「形容詞語幹 + む」という動詞にする例が見られないので「はかりが無い→はかない」という語源説に疑問が付随するであろう。

※「はかない」には「果無い・果敢無い」という当て字もある。語義的には「頼りない(結果を得られる期待がない)、果敢さが無い(勇敢でない)」という点で「おろかな」という語義に通じてはいる。後述の「無常な」とも、私が説明する意味と異なる点で通じる。しかし、音韻的には当て字の域を出ない。果(歴史的仮名遣い: くゎ 中古音/kuaX/Xは上声)の字には日本と大陸との漢字音のH/K置換を適用することはできないことと、仮に果の字をH音に置換しても古代日本語におけるハ行=P音(無声両唇破裂音)→F音(無声両唇摩擦音/ɸ/)理論では通用しないこととにより、音韻論の観点では考えづらい。ただし、もし日本の古文献・古文書(奈良~平安時代)に、そういう表記例が有れば、別途考察の余地がある。上代・古代の日本人がア音のみをとって「はか(現代: haka 古代: *paka *ɸaka; phaka; faka)」に「果敢(歴史的仮名遣い: くゎかむ 中古音: kuakam  シノジャパニーズ: kwakam 語尾N音省き)」と当て字することは有り得たかもしれないが、それも現状は推定の域を出ない。音韻論をおおよそ抜きにして語義由来の当て字をすること(母音a連なりなど音韻に理由を託することもできる)は有り得るかもしれないが、私は否定的に見る。漢文の訓読においても「無果」に対して用いられなかろう。漢籍・仏典のいずれも「無果」という表現があっても、文意に当てはまらない(もし無因に対する意味での形容詞や名詞や無果樹のような複合語形態素であれば梵語でaphalaだがそれを訓読して和語「はかない」とはしがたい)。

※「はかばかしい(進捗がよいこと)」という語が源氏物語などに使われ、「はかどる(捗る)」という意味に通じる。これは「計略・計画(=はかり)通り」という点で、「はかる」と同根語に当たる。当て字に「捗々しい・果々しい」がある。後者の「果」による当て字は「結果を得られる見込みがある」という意味に基づこう。当の源氏物語など中世の書には、「はかない」と「はかばかしい」が色々な意味にも用いられるが、それらについては読者が各自に検討すればよい(その多義性は当記事の考証を妨げるものでないと分かる)。

※別の語源説もある。「はか」を複合語の形態素・結合辞・語幹として「墓(はか)、後世にいう『バカ(馬鹿・莫迦、あるいは梵語mogha モーガ音写の謨迦の転訛発音 ボキャ、仏教呉音モッカ、漢音バッカ)』」や「空虚なもの」とする。恐らく彼らは「なし」という部分については否定表現でなく、「少なし(すくな+し)」の「-なし」と同様に捉えているか、「な+し」が別の何かとして捉えていると思う。そういった説は、それ以上に文献学・言語学的な説明がされづらく、別の文学的理解や思想的理解に基づいてされたものであり、それはそれでヒューマニズム的によい。それで彼らが魅力的に思った日本の思想や歴史や情報を思い合わせて古代日本人の思想を詮索するが、言語学における語源考証と関係が無いので語源説としての信頼性が無い。いわゆる通俗語源・民間語源"folk etymology"である。無論、人文科学においても疑似科学じみたものが逆に定説を覆して史実や科学的事実に符合することも否定しないでおくが、当記事の語源考証案より外れるので話を終える。



②「無常な(つねない、常なること無し)」・・・仏教漢語である「無常」の通俗的な意味(和歌などに愛好されるような感傷的なもの)に対応する日本語表現として平安時代以降に顕在化したろうか?
例: 桜が散った、誰かが死んだ、はかないことだ。(もみじが散った、草花が枯れたといった表現が和歌に多くあり植物と人の身と我が身との置換・比喩であって類推を促進する)
このことも、なぜ「はかない(はかり無し)」と言われるか?

はかり=量り、思考の対象・物質的思考の通用する範囲(はかるという動詞は元の記事のように梵語で√māとなり派生語にマートラ"mātra (〇〇ばかり…)"がある。印欧祖語*meh₁-の観点では英語に派生語のメーター"meter, metre"やメジャー"measure"などがある)
はかり無し=無量(過去分詞アミタ"amita"、過去分詞アプラミタ"apramita"、動名詞アプラマーナ"apramāṇa")≒不可量(動形容詞アプラメーヤ"aprameya")=不可思議(動形容詞アチンティニーヤ"acintanīya"、アチンティヤ"acintya")=無常(アニティヤ"anitya")
※アミタの単語例は、無量光仏や無量寿仏と呼ばれる阿弥陀仏・阿弥陀如来(あみだ、アミターバーamitābhāまたはアミターユスamitāyus)の名の音写が、著名である。
※和語「はかり」は、量・計・測といった漢字を用いるので具体的な測定基準や道具=meter, measure的なものが存在し、そのことを指すという論者もいるが、そういった測定基準や道具なども人間の思考・精神に基づいて決まったものである。原意としては和語の「はかる」も漢字の量・計・測なども、客観的な基準の無い思考や認識などで判断する行為にも用いられる。
※括弧内に過去分詞や動名詞や動形容詞と注記をしてあるが、慣用的な観点での名称である。いずれも、動詞語根に由来した言葉であって「準動詞・分詞」と呼ばれ、形容詞にも名詞にも用いられるし、その上での格変化などもする。

→儚いこと=思いがけないこと?
思う(これも多義的だが考えることも思うことの内となる)=判断基準がある状態で思考する行為、量り=そうして思う・考える・量ること。
それが無きものとされる=思いがけない=量りが無い。
「はかない・儚い」とは、より詳細に探究すると「思いがけず早く(桜が散った・人が死んだ)」といったような意味合いであろう。
「本来、日本語とは多義性や曖昧さがあってこそ美しい・高尚だ(非論理性や非合理性の一面を称賛する)」と考える文学者などがいるわけであり、それをあえて私は重複表現で明確にしなおし、解明を試みている。
それには、日本人が文献を残す以前より関わってきた漢語や梵語翻訳漢語(仏典を通した漢語)などを見てゆく必要もあろう。

謎の思考回路「はかり無し=無量=アミタ→アプラミタ→アプラマーナ→アプラメーヤ→アチンティニーヤ→アチンティヤ→アニティヤ=無常」
これらの梵語も、元の記事で言及されているので、確認されたい。
梵文法華経や梵文維摩経(ほか梵文阿弥陀経2種も)などに梵語としての原語があることも紹介しているし、私が紹介した部分とは別の箇所より原語を見つけることも可能である。





最後になるが、この検証をする前から「はかない」とは、もともと和語(やまとことば)として存在しなかったのではないか?という疑問があった。
改めて、最古の和歌集である万葉集(8世紀)にはそもそも「はかな…(-し、-き、-む)」という綴りが「見れば悲しも(みれはかなしも)」のような表現にしか確認できず、「はかなし」語句が見られない。
要するに、「②に見られた仏教由来の梵語翻訳漢語の和語バージョンが『はかない』であり、①は派生語でないか?」という結論である。
この考察をする前から、実は、そういった仮説を持っており、一応①の意味を先に紹介したが、やはり万葉集などの古い文献を調べても用例を発見できないことで「はかりが無い→はかない」の語源説について信頼性が生じた。

音韻論的にも「はかり+無し」は、りが省かれる道理がある。
「はかり無し・はかりなし→はかなし」とは、見ての通りに「り」が省かれているが、「り」はラ行もとい流音であって世界言語でr・l音が二重子音によく用いられるような発音のしやすさがあり、日本語では土佐日記(10世紀)の「あらざるなり→あらざんなり→あらざなり(る脱落) 類例: 見えざなるを」に見られるような無音化が生じやすい(土佐日記原本で字が付されなかっただけで発音上は母音を伴わないr音やn音があったかもしれない)。
同じように「はかりなし」も「はかなし」として無音化・脱落(除去・削除"deletion")が生じることは想像しやすい(こちらも最初期には母音を伴わないr音やn音が発音に介在したろうか 9世紀ころを想定して *fakannachi [ɸakan.nat͡ɕi])。
「り」および「な」は、共に歯茎音(舌尖と歯茎とで調音されるもの)であり、歯茎音が連続する点でも、「り」の無音化・脱落が生じやすかろう。
あるいは意図的に「り」を発音しなくなったパターンがあるにしても、様々な観点で「はかりが無い→はかない」の語源説は受け入れられよう。



はかるべからざる「はかなし」!

「はかない」自体、その語源について私自身の"1. 量り 2. 図り 3. 計り 4. 測り"が及ばず、多くの者による"5. 諮り"がされても、知り得ない言葉であるかもしれない。
はかなし、無量、不可量、はかるべからず、というところである。
神さま・上さん(ご先祖)の智慧を、現代人の浅知恵で、はかるべからず(-べからず、とは可能形・推量形・義務形・命令形のいずれの否定形で取ることができるがここでは可能形の否定となる)。
物事・他人・神を自分の知能によって量るならば、自分の知能・肉体・精神と思われるものもまた量られる(他人より・神より・魔より・・・)ということで、仏教徒・キリスト教徒はぜひ自ら誡めて頂こう。

なぜキリスト教徒?
先述の量・量り・量ること√māの梵語と同根語(印欧祖語*meh₁-)の古代ギリシャ語"μέτρον (メトロン metron 英語でいうメジャー measure)"が、キリスト教・新約聖書でも同じ意味に用いられるからである。

マタイによる福音書 7:1 Μὴ κρίνετε, ἵνα μὴ κριθῆτε. 7:2 ἐν ᾧ γὰρ κρίματι κρίνετε κριθήσεσθε, καὶ ἐν ᾧ μέτρῳ μετρεῖτε μετρηθήσεται ὑμῖν.
汝等は他人を裁くな(2人称複数形・能動態=他人などの目的語が潜在・命令法・否定)。汝等が(他人より・神より)裁かれぬためである。汝等が裁くというその裁き(判断行為)によって汝等が裁かれる結果があろう。あなたが量るという量り(判断基準)によって汝等の(量りの)ために(2人称・所有代名詞・為格)それが量られる結果があろう(3人称・受動態・直説法・未来時制)。

※学問の向上を期してコイネー・ギリシャ語に基づく逐語訳+訳補とした。宗教信者に告ぐ!今の私のような姿勢に習っても宗教の功徳を増すことは無かろう。むしろ学問に対する執着・依存によって信仰を離れる恐れの方が強いことに留意されたい。

※ギリシャ語Μή (メー mḗ)とは強意の否定形(禁止)を作る不変化詞であり、梵語にもमा (マー mā)という強意の否定形(禁止)を作る不変化詞があり、同根語(印欧祖語*meh₁-)である。「量る」の動詞語根√māとは似た発音でも関係が無い。強意の否定形(禁止)の言葉は、漢語の「莫(呉音マク ~なかれ)(同系に勿・毋など)」が同じm発音の字で通じる(広東語音や韓国語音や上古音/*maːɡ/なども同じ)。



自分の価値判断基準・現世の心(相対性・世俗の善悪に囚われた罪深いもの)が寛容で平等であり、どのような悪をなした他人に対しても自分が赦すならば、自分もまた神の赦しを得て救われるということである。
この「神」とは、世間一般にいう色んな神(三身でいう応身)や創世記などに見られる人間的な神(三身でいう応身)やモーセらに啓示をした神(三身でいう報身)と、日本語での呼び名が同じでも真実が異なる(もっといえば不一不異だろうが)、仏教でいう「法身・空(=不空・非不空)・真如・寂滅・不可得」の神であることを過去記事に詳述した。
時に神=心(潜在意識よりも深層にあるor非有非無)は、我らの顕在意識を苛むが、それも神=心の慈悲の作用と知って修行すべきであるという示唆がある。
マタイ7:2でその理法は、「他者に対する量り」を信者へ誡めるために説かれたが、ルカ6:38では逆に「他者に対する量り」を善なるものと変じて用いよと勧めており、善悪二面性が見える(マルコ4:24-25にも同様のフレーズが見えてすぐには理解しづらかったが後者の善の一面を示しているように感じた)。
萌えの典籍でいう「謂可愛則謂可愛・若憎彼応被憎害(善因善果・悪因悪果)」の偈のようである。
また、現代語で説かれた観萌行広要(4下)に「真に平等の心で観れば、彼は我を好く、とか、彼は我を嫌う、といった主観的な推量・判断を行わないで済む。平等というか素直な心で観る時、『このキャラは私をリアルで見たらキモイと思うに違いな』」といった妄想・邪推を生じないどころか、観られる萌えキャラ(所観)と観る人の心(能観)の両者が融通して一円を結ぶようでもある」とある。
「量り」に関する教説について修行者が念を持つ(忘れないで心掛ける)ならば、日常生活における他者への詮索を自ら抑えるようになる。
「様々な量り(全ての思考)を奔放に(放逸に)するならば悪業となって地獄に落とされる(=自ら堕ちる)報いがある」、というような感覚となることが必定である。
一瞬一瞬の思考に注意してゆく努力を決意し、仏教の在家修行者や大乗仏教徒や一般キリスト教徒は、みな世俗的な意味で善の「量り=意業」をする必要がある。

この「法身・空(=不空・非不空)・真如・寂滅・不可得」の神の心は平等であり、一部の人々によるキリスト教もとい一神教への「無慈悲な神」という批判も当たらなくなる。
人間が無慈悲の心で神を量れば、神もまた無慈悲で人間を赦さないものとなる。
有名な「主の祈り」には、「私たちが他人の罪を赦すように、あなた(神)も私たちの罪をお赦しください(原典ではマタイ6:12)」とある。
日本語・仏典の漢語・梵語の感覚と同じように、ギリシャ語・英語をも読めるので、向学心のある方々は是非とも、インターネットで新約聖書をご覧になってほしい。



起草日: 20180324

「はかり」復習記事として、この記事を編纂した。

さて、「はかるべからず」という語句・概念が示される尊者自説偈および和讃ヴァージョンの「歌われた音声」を聴いていただきたい。

Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||

「一切不可量 何況我大聖 遍照世無明 是故名無上 (一切は量るべからざるなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く)」

ブログ筆者・横野真史によって唱えられた音声と、ロック自作曲で歌われた音声
偈の唱えられた音声 0:24 http://www.youtube.com/watch?v=EIb2CfiUCPM
偈の歌われた音声 0:42 (和讃は1:08) http://www.youtube.com/watch?v=-NhafvQ8x10
偈の歌われた音声Re 0:03 http://www.youtube.com/watch?v=lIQSNxBe2Co
偈の歌われた音声+ラテン語 0:01 http://www.youtube.com/watch?v=5lhVZ3Ctiro


上の動画: ラテン語で書かれた"Dominus Immensus"もまた不可量の概念を説く。

尊者自説偈は、当記事の学問的・世俗的・物質的で形式的な有為法に対する浅薄な「はかり(量・計)」を前提として「はかるべからず」と表現した偈(詩歌)ではないが、当記事の「はかる」という概念の名称について、より深遠な理解を得る為に聞くことが望ましいと思う。
仏教に造詣の深い人や解脱への志を持つ人は、どのような気持ちで「はかない、無量だ、不可思議だ」という言葉を用いたか、感じ取る能力が得られよう。
以下に尊者自説偈の元ネタの物語(因縁ばなし・ごゆいしょ)より抜粋する。

(前略・ある時に障礙尊者がシュードトピアを離れてイデオフォノトピアで修行していたが、拾主に自身を巨大化させる神通力を見せて体長が千倍ほどにまでなって止まった。その折、いつの間にか輸提尼=イデオフォノトピアの住人が尊者よりも優れた神変をしていたと知る) この時の尊者は、輸提尼の手に対して蚊のような大きさであった。尊者の思惟すらく、「諸法は夢の如くにして、三千大千世界も唯だ一身の毛孔の内に摂まるが如きものなり。而も毛孔の外に復た無辺の土あれば一切は思議すべからざるなり」と。是の如く、禅における慢心を自ら誡めた。拾主や輸提尼の神力は量るべからざるものであるとも知った。

2018年4月20日金曜日

キリスト教の縁起観 (一神教聖書と仏教経典の創造論・起源説を中心に)

当記事は2018年2月10日に投稿された記事の一部分を基に、再構成して投稿する。

まず、簡潔に「縁起」の語義釈…。
「縁起」とも「因縁生」とも表現される概念の名称は、梵語: pratītya-samutpādaの漢訳表現である。
pratītyaについて、「縁」とも「因縁」ともいうが、漢訳経典における新訳と旧訳(くやく)との差である。
旧訳経典では、因縁という漢訳語が、単に"pratītya"部分を指すのみならず、別の用語である"hetu-pratyaya (因と縁=異なる概念どうしの並列複合語)"を指すこともある。
そのため、新訳経典では、混同を避ける意図もあって"pratītiya"を、単に「縁」と表現するようになったろう。
samutpādaについて、これはsam-ut-√padという3つの形態素を示し得るような「生じること=発生・生起」という意味があり、「縁"pratītya"」に接続して名詞-動詞由来名詞の複合語(従属複合語・格限定複合語・依士釈 tatpurusha)を形成するので、「縁起」とも「因縁生」ともいう。

ともあれ、筆者の方針では、「縁起・因縁生」という2種類の表現を、同義語として用いる。
「十二支縁起(支"aṅga"込みの表現)・十二因縁(旧訳の表現)」も同義語として用いるが、「縁起・因縁生」に対する「因縁」は別概念として、明確に使い分ける。

「縁起・因縁生」ということは、本文を読む中で次第に理解されると思うが、別途、詳しく知りたい人は、Googleで検索したり、Wikipediaや辞書系サイトをご覧になるとよかろう。
または、パーリ語経典や中論の翻訳・解説などが、確かな聖典を頼りにする手段としてよかろう。
ページ「リンク集・智慧の聖典」に、良質・適切なサイトが載る。
http://lesbophilia.blogspot.com/p/blog-page_6.html

以下から、当該過去記事の文章を、本記事の為に改良して掲載する。
当該過去記事においては、引用領域"quotation"内の注釈が長いものでも徹底して載せられていたが、ここでは主要な説明文として扱う。





キリスト教の神"the God"は、「形式的な多神=心の所造・所変(心によって作られた・変えられた)=被造物"creature"(仏教でいう有為法 saṃskṛta)」ではなく、「創造神・絶対的な創造主・造物主"creator (作者 kartṛ)"」である。
換言すれば、心そのもの=能造・能変なるものこそ、永遠不滅・絶対なるものとして示される。
※つまり、能造・能変なるものは心・神であり、大乗仏教でいう三身の「報身」や、唯識派でいう「三ある能変の識=意識・末那識・阿頼耶識」となる。心・神が永遠不滅・絶対なるものとして、大乗仏教でいう三身の「法身」や、中国・日本宗派(主に天台宗・日蓮正宗系)でいう「第九識・阿摩羅識(唯識派の流れを汲む法相宗では阿頼耶識が清浄になった大円鏡智を指す)」である。三身でいえば、法身・報身の意義を兼ねて「境智冥合」でもある。三身のうちの応身は、所造・所変なる心の外境(げきょう)・神の被造物となる。三身一体の教義では外境・虚妄の有為法が真理の具現として仏に等しく、三位一体のキリスト教(主に西方系)でも人の子イエス・キリストの出現によって被造物たる人間の原罪(後述)が無くなったとする。
中論の観四諦品・華厳経の唯心偈などのように「因縁生・縁起・空・唯心(物心一如・融通としての唯心義)」の意義に通じる。

以下に、聖書および仏典の該当する記述をまとめて載せよう。

まずは聖書!!
ヨハネによる福音書"John"1章1-3節 (latin): 1 Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος. 2 Οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν Θεόν. 3 πάντα δι' αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὃ γέγονεν. 「1 原初において言(ことば・ことだま)"the word"があった。言は神"God"と共にあった。言は神であった"la: Deus erat Verbum"。 2 これ(=言 男性代名詞Λόγοςに対応 la: hoc中性代名詞)は原初において神と共にあった。 3 万事万物万象は"All things, la: omnia"それ(=言)によって"by him, la: per ipsum"造られたもの"la: facta (omniaと同じく中性複数形主格)"である。それ無きところでは被造物も何一つとして造られなかった"la: factum est nihil quod factum est"。」
※ラテン語で、3節の「被造物」は"facta, factum"とあるが、ギリシャ語では"γέ = ge"の文字列の語彙となっており、創世記"γένεσις, genesis"に関連付けられる。gen, 生命ということはすなわち神の所行であるから、所行=所生=所造=被造物とラテン語訳者が理解したろう。

ローマ人へのパウロ書"Romans"1章20-25節 (latin): 20 τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτοῦ ἀπὸ κτίσεως κόσμου τοῖς ποιήμασι νοούμενα καθορᾶται, ἥ τε ἀΐδιος αὐτοῦ δύναμις καὶ θειότης, εἰς τὸ εἶναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους... 「不可視なるもの"invisible"すなわち永遠の力"eternal power"と神性"divinity"とは、天地創造"creation la: creatura"以来、被造物"creature, things that are made, la: facta"において知られる。(それを否定したがる)彼らは弁解し得ない…」 (後略・21-25節)
※ラテン語で、20節の「被造物」は"facta"とあるが、25節や8:19-22節などのものは"creaturae"系(格変化を伴う)であった。"creātūra (教会: クレアトゥラ 古典: クレアートゥーラ)"は「創造すること」という行為そのものと「創造された物」という受動的なものといった、どちらの意味にもなる。精神作用とその対象とを包含する「三萌義」に似る。主な見分けは、単数形"singular"と複数形"plural"との差に見出せる。ちなみに、古代ギリシャ語で「kから始まる創造者・被造物にあたる語」は、同ローマ書より復元すると"κτίστης, κτίσις"である。

しばし注釈

原初とか天地創造とかといった表現は、仏教の因縁法・十二因縁(十二支縁起)だと無始無終に当たろう。
その場合、神・テオス"Θεὸς"は無明・行・識に当たり、言・ロゴス"Λόγος"は以後の有(概念や言語表現)までに当たる(残る生・老死は一切の被造物か)。
より踏み込むと、能造の神と所造の言とが融通しているといえる。
キリスト教の一神論は、仏教の十二因縁と比べて説明不足であるが、要旨は仏教のように「一切は因縁によって生じる」ということとなる(定冠詞を伴った"ὁ Λόγος, the Word"は別に検証の余地があるが、それは記事の話題を外れる)。


Γένεσις (Genesis - chapter 1)
1:24 Καὶ εἶπεν ὁ Θεός· ἐξαγαγέτω ἡ γῆ ψυχὴν ζῶσαν κατὰ γένος, τετράποδα καὶ ἑρπετὰ καὶ θηρία τῆς γῆς κατὰ γένος. καὶ ἐγένετο οὕτως. 1:25 καὶ ἐποίησεν ὁ Θεὸς τὰ θηρία τῆς γῆς κατὰ γένος, καὶ τὰ κτήνη κατὰ γένος αὐτῶν καὶ πάντα τὰ ἑρπετὰ τῆς γῆς κατὰ γένος αὐτῶν. καὶ εἶδεν ὁ Θεός, ὅτι καλά. 1:26 καὶ εἶπεν ὁ Θεός· ποιήσωμεν ἄνθρωπον κατ᾿ εἰκόνα ἡμετέραν καὶ καθ᾿ ὁμοίωσιν, καὶ ἀρχέτωσαν τῶν ἰχθύων τῆς θαλάσσης καὶ τῶν πετεινῶν τοῦ οὐρανοῦ καὶ τῶν κτηνῶν καὶ πάσης τῆς γῆς καὶ πάντων τῶν ἑρπετῶν τῶν ἑρπόντων ἐπὶ γῆς γῆς. 1:27 καὶ ἐποίησεν ὁ Θεὸς τὸν ἄνθρωπον, κατ᾿ εἰκόνα Θεοῦ ἐποίησεν αὐτόν, ἄρσεν καὶ θῆλυ ἐποίησεν αὐτούς.


Aggaññasutta (パーリ仏典。某・英訳は"A Book of Genesis"と銘打つ)
2. Rasapa­tha­vi­pātu­bhāva - Ekodakībhūtaṃ kho pana, vāseṭṭha, tena samayena hoti andhakāro andha­kā­ra­timisā. Na candimasūriyā paññāyanti, na nakkhattāni tārakarūpāni paññāyanti, na rattindivā paññāyanti, na māsaḍḍhamāsā paññāyanti, na utusaṃvaccharā paññāyanti, na itthipumā paññāyanti, sattā sattātveva saṅkhyaṃ gacchanti.

「ヨハネ1:2 言は神と共にあった」という元ネタは旧約聖書の創世記"Genesis"に看取される(言・ロゴスは文字通りに載らないが要旨は看取されるということ)。
創世記1~3章の創造神話も、概念・事物の認識に基づく心の作用という描写として解釈し得る。
例として天地や植物などを次第に造るが、これは創世記が説かれる対象の人々の納得しやすいものを挙げた結果と思われる。
人間は物心のついた時から既に認識されない万物が有って後に名前も付随し、それらを知った時には全て名前ある事物が想起され得るから、創世記の説は科学的原因や人類史における言語の発生や個人の人生における五蘊のプロセスといった実質的なものを飛ばした上での縁起が示されている。
普通に読解すると、肉体ある人間よりも先に家畜という属性を持つ動物"κτήνη (複数形クテーネー 単クテーノス)"が生じる (1:25, ヘブライ語ではהַבְּהֵמָה֙) など荒唐無稽・眉唾話のようだが、だからこそ心の真実を示そうとした譬喩と解釈し得る。
パーリ仏典アッガンニャ経"Aggañña Sutta"(漢訳は長阿含の小縁経など4つあり梵文はAgrajña Sūtra)では、無始以来の生滅を繰り返す世の起源ごとに光音天より来た"sattā (複数形)"=人々・衆生がいて「"sattā"という唯一の名称"saṅkhya"(名・呼称は事物の認識の概念より生ずるもの)があった」と説かれるが、これも個人の一生・因縁観(縁起観)に基づいている側面を見受ける。
後の話も、どちらも神や衆生が名によって事物を分別したことが明示されるという共通点がある。



Γένεσις (Genesis - chapter 3)
3:5 ᾔδει γὰρ ὁ Θεός, ὅτι ᾗ ἂν ἡμέρᾳ φάγητε ἀπ᾿ αὐτοῦ, διανοιχθήσονται ὑμῶν οἱ ὀφθαλμοὶ καὶ ἔσεσθε ὡς θεοί, γινώσκοντες καλὸν καὶ πονηρόν. (中略、καὶ εἶπε Κύριος ὁ Θεὸς τῷ...) 3:16 καὶ τῇ γυναικὶ εἶπε· πληθύνων πληθυνῶ τὰς λύπας σου καὶ τὸν στεναγμόν σου· ἐν λύπαις τέξῃ τέκνα, καὶ πρὸς τὸν ἄνδρα σου ἡ ἀποστροφή σου, καὶ αὐτός σου κυριεύσει. 3:17 τῷ δὲ Ἀδὰμ εἶπεν· ὅτι ἤκουσας τῆς φωνῆς τῆς γυναικός σου καὶ ἔφαγες ἀπὸ τοῦ ξύλου, οὗ ἐνετειλάμην σοι τούτου μόνου μὴ φαγεῖν, ἀπ᾿ αὐτοῦ ἔφαγες, ἐπικατάρατος ἡ γῆ ἐν τοῖς ἔργοις σου· ἐν λύπαις φαγῇ αὐτὴν πάσας τὰς ἡμέρας τῆς ζωῆς σου·

Aggaññasutta (2. Rasapathavipātubhāva - 3. Candimasūriyādipātubhāva)
Atha kho, vāseṭṭha, aññataro satto lolajātiko: ‘ambho, kimevidaṃ bhavissatī’ti rasapathaviṃ aṅguliyā sāyi. Tassa rasapathaviṃ aṅguliyā sāyato acchādesi, taṇhā cassa okkami. Aññepi kho, vāseṭṭha, sattā tassa sattassa diṭṭhānugatiṃ āpajjamānā rasapathaviṃ aṅguliyā sāyiṃsu. Tesaṃ rasapathaviṃ aṅguliyā sāyataṃ acchādesi, taṇhā ca tesaṃ okkami. Atha kho te, vāseṭṭha, sattā rasapathaviṃ hatthehi āluppakārakaṃ upakkamiṃsu paribhuñjituṃ. Yato kho te, vāseṭṭha, sattā rasapathaviṃ hatthehi āluppakārakaṃ upakkamiṃsu paribhuñjituṃ. Atha tesaṃ sattānaṃ sayaṃpabhā antaradhāyi. 

苦の因縁の始まり(縁起)は、共に説かれる。
前者で神の作った男女人が「神より食べるなと命じられた樹の実」を食べて目が見え・善悪(καλὸν καὶ πονηρόν he: טֹ֥וב וָרָֽע׃)の分別が生じたとする(その後は男女人や女を唆したヘビが神の裁きを受けて現世のように不自由な身となる=原罪が与えられる)。
後者で衆生が「"rasapathavī"(現代訳に味土、漢訳経に地味、梵文にpṛthivīrasa、注釈書アッタカターではrasāという神話的な事物の女性名詞と扱って"ラサーという名の大地"とし学者某はrasāがrasaラサ=味・汁という一般名詞の語源であるという趣旨の説と見る。たしかにリグ・ヴェーダでもラサー川というものが出てくるのでそういった民族史の観点でも根拠がある)という色・味・香あるもの」を指で食べて渇愛が生じたとする(その後はrasapathaviを貪って食べ続けると光音天からの性質が失われる)。
いわゆる性悪説のように見えるが、信仰・修行によれば、現世で原罪が赦される・罪業が消滅する。
これらは仮設原罪・仮設罪業であり、一歩進んだ教理で本来は寂滅(本不生)といい、本覚・性善説ともなる(無善無悪・無記・中道、参考: 中論17章・観業品)。
原罪有り・赦し有り、と知ることは人間の特権らしい。
昇天も堕獄も「業(ごう・わざ・すること)"karma, opera, work"」に基づくので、一神教は神が人間を作って人間に世界を統治させたとして業の重みを持たせた。
人が自ら堕獄してはならぬように道徳的な教え・戒"pl: sīla"・律法"gr: νόμος"や「愛の実践(隣人愛)」を説いた。

「ヨハネ1:3 彼無きところでは被造物が一つも造られなかった」とは、動物や他人の心の因縁が自身には感受されない・量りようもないという意義を示す。
動物や他人の肉体に心の因縁が無ければ、彼らにとっての心の被造物=概念や感情などが造られるといえない。
例えば、「他人が自分を恨んでいるor好いている」とかという詮索は実証されず(もし科学的に脳波を分析してデータに出しても信用するかは当人次第)、たまたま世俗においてそう看取し得るのみ。
因縁の法を知るならば、畢竟、自己の信仰や修行が大事であろうという。
同時に、現世の方便として他者との論議や他者への尊重がある。
更に、仏・菩薩や宗教家は、自己の信仰や修行を超えて他者へ積極的な教化をするので、他者から見て尊い。
他者の心=神性は量りようもないが、しかも心=神性を尊重して自他ともに神の救いを得させる者がイエス・キリストであり、自他ともに心の因縁や多神教の神・梵天や色界禅などを超越した悟りを得させる者が釈迦牟尼仏である。

心=神性"divinitas, divinitās"、心=無明即法性"dharmatā"・仏性"buddhatā"。
個人の心の神性・因縁法を過去のキリスト教団・正統派の中で説けば異端視されてしまう。
部派仏教に対する大乗仏教のように「秘密の教え・内証の理」となる。
みだりに説けば多くの人の信仰を破る恐れがあるし、自己の心が解脱しないうちは言葉に心が蔽われて自ら解脱や昇天を妨げる。
古代・旧約聖書の時代から、あえて説かれない心の真実は、賢人たちの内に知られていたろうが、みな釈尊の悟り(無上覚)には及ばなかったろうか。



次に仏典!!
中論・(24章)観四諦品18-19偈「もろもろの因縁の(=が・主語の助詞)法を生ずれば(生じるので)、我(龍樹菩薩)は『即ちこれ無(空性"śūnyatā")なり』と説く。また『これ仮名なり』と為し、またこれ中道の義なり。未だ曽て一法として因縁より生ぜざるは有らず。是の故に一切法は、是の空ならざる者無し。(衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義 未曾有一法 不從因縁生 是故一切法 無不是空者 yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe | sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā || apratītya samutpanno dharmaḥ kaścin na vidyate | yasmāt tasmād aśūnyo hi dharmaḥ kaścin na vidyate ||)」 
※一神教における神とは、空・心の因縁の異名であって仮名(けみょう)であり、創世記などでは人格があるように描かれているが、それも仮説的・比喩的なものと解釈し得る。実際、心の業(意業)ということは擬人化できるので、仮に人格を与えられるが、信仰の究極において真実はそうでないと知られよう。

十地経・第六・現前地(or十住経、のち華厳経に十地品として収められる)「三界に有らゆるは唯だこれ一心のみなり。如来ここに於いて分別して十二有支を演説したまうも、みな一心に依る。(三界所有、唯是一心。如來、於此、分別演説十二有支(十二因縁)、皆依一心。 tasyaivaṃ bhavanti| cittamātram idaṃ yad idaṃ traidhātukaṃ | yāny api imāni dvādaśabhavāṅgāni tathāgatena prabhedaśo vyākhyātāni tāny api sarvāṇy ekacittasamāśritāni |)」

六十華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品「心は工みなる画師の、種々の五陰を画くが如く、一切の世界の中に、法として造らざるは無し。心の如く仏も亦た爾り。仏の如く衆生も然り。心と仏と及び衆生と、是の三に差別無し。…(心如工畫師 畫種種五陰 一切世界中 無法而不造 如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別 諸佛悉了知 一切從心轉 若能如是解 彼人見眞佛 心亦非是身 身亦非是心 作一切佛事 自在未曾有 若人欲求知 三世一切佛 應當如是觀 心造諸如來)」
※心"citta"を絵師"citta-kāraka"に譬える元ネタはパーリ相応部22-100経や雑阿含267経にあって俱舎論にも"skt: citrakṛtyavat (真諦訳: 譬如畫色與壁 玄奘訳: 如壁持畫)"と紹介される。漢訳経典にある心の原語はcittaだが、類義語に意"manas (パーリ語主格でmano)"があり、そちらが原語の時もある。例えばパーリ語ダンマパダは冒頭の偈に"Manopubbaṅgamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā(漢訳法句経・出曜経: 心為法本心尊心使)"等とあり、心(意"manas")による善因善果・悪因悪果(善悪なんらかの意思・想念によって発言・行動=業があって心が善悪の結果・苦楽を自ら得る)を説く。後の「chāyāva anapāyinī (漢訳法句経・出曜経: 如影隨形)"」という喩えを見ると、心こそが本体であって物質的な物事は本体に従う影でしかないともいえる。一神教は一切法・現象の大局的な本源を神=心に求めても、神は涅槃の如くに苦の報いを受けない点で、因果関係は仏教と似ない。やはり法身・応身としての神が渾然一体らしい。

注釈・妄心と真心との区別

因縁法として心は神と呼べる。
修行の果報としても心は神と呼べる。
因果倶時となろう。
しかし、現世に苦を受ける状態として心は「被造物に付随した抽象的性質に過ぎないもの」となり、聖書で「心"kokoro, cor, καρδία, heart"」というと、ネガティブな文脈に現れる(一例は先のローマ書1:21 ἀσύνετος αὐτῶν καρδία = 無理解な・彼らの・心。"主のみこころ"などという場合の"こころ"は"意思"を意味して原語が"voluntas, θέλημα, will"となる)。
しかも悪魔・サタンの温床とすらなりえる。
「裏切り者のユダ」もまたサタン"Satan, Satanas, σατανᾶς"に入られたと聖書に扱われている(ルカ22:3やヨハネ13:26)。
心は神とするにも、心の在り方や視点によることとなろう。

当の華厳経唯心偈や「心是仏(般舟三昧経)・是心作仏(観無量寿経)」といった言葉の多い大乗仏教でも、やはり「願作心師・不師於心(大乗涅槃経)」や「謂己均仏(摩訶止観)」として心の悪の一面を誡める。
十地経の「唯一心」も、「真心」でなく「妄心(十二因縁の無明に関連するもの)」を示した言葉であり、妄心だからこそ一切の事物が欲望によって不浄に顕現するという誡めを説く。
聖書だとエレミヤ書17:9に心が万事において最も邪悪・欺瞞であって詩編53:1-3に無神論と罪(sin)の関係が言及がされ、マタイ15:19に具体的に「殺人ないし偽証・冒涜といった悪行の根源は心だ(精神"mind"でなく解剖学的な心臓"cardia"を意味するとも当時の科学的見解より考えられる)」とイエスさんが説く。
心には一元性も多面性もあり(しつこく言うが一即多・多即一・無一無多、摩訶止観所説の一心三観の意義に通じる)、十界互具(仏の一界と他の九界の互具、先述の因果倶時)といった呼び方もできる。



以上のように、仏典・聖書の記述より、共通点を示した。
とはいえ、仏教とキリスト教の相違点もまた、数多くある。

教義上、能造たる神(=唯心偈での心など)が、被造物(所造・つくられたもの・有為法)に対して「絶対的相対」となっている点であり、唯識派の教義でも、そういった「能・所を分けること"grāhyagrāhakavikalpa"=能執・所執を分別す」を虚妄分別"abhūtaparikalpa"と呼んでいる(弥勒による頌への世親菩薩による注釈書・中辺分別論"madhyāntavibhāgakārikābhāṣya")。
「能執・所執」とは、執着を行う心(唯識教義では意識・末那識・阿頼耶識という能変3つ)と、執着を受ける事物のことを指すが、ひいては「行為者とその受動的なもの全般=主体・客体」を指すと解釈し得るし、心を観る修行者が修行の過程で「能執たる心を過度に嫌う(または能造たる心を過度に尊ぶ)」といった見解に陥りやすいことを牽制している。
大乗仏教の真理に近い立場では、そういった「能所(=主体・客体=行為者・受者)」に関する分別・差別が許されない。
空の教理に寄せても、「非空・非不空」と何重にも否定して「是名中道義」と、中立性を示す(中論22章・観如来品では空も非空も不可説で青目釈には非空非不空すら「不応説・説くことができない」とする)。
無論、方便"upāyakauśalya"・仮名"prajñaptir upādāya"として、物事における一応の差別・前提的な差別・仮説的な差別を示すことは、釈尊・諸仏の教化において有り得る。



キリスト教の神・唯一神についても、固着した概念・名称としての神を否定せねば、当然、神の真実を見失い、「神という名の無形被造物(虚妄・虚構の神)」を心で拝んでしまう。
それにより、日常生活や宗教行為の多くで顛倒・障碍を生むこととなろう。
その末に、キリスト教の修道の目的を見失う恐れもあり、神・主のみこころに背いて終わる。
無論、方便としては、信仰修道におけるある段階まで、その姿勢でも問題が無かろうが、くれぐれもその姿勢のままに一生を終えてしまわないようにすべきである。

やはり、キリスト教は方便・仮名の意義に欠いてセクト主義的な差別性が強いところに注意すべきである。
それが、日本の文化系学者たち(一部)が「二元論・二項対立(唯物論・唯心論のようなもの)」として忌み嫌うキリスト教の教説で、随所に現れたろう。
キリスト教や同じく一神教のイスラム教の歴史で、顕著に発露し、禍根を残した。
※日本の文化系学者たち(一部)の見解は、彼らの思想に基づいてキリスト教を蔑む意図の主張をしたか、単なる浅学に基づいた偏見だと看取される(彼らもまた二元論者ではないか?真如・空において二元論者は無だが。仏教精神で大事なことは自分の思考や言動を注意して自覚すること)。キリスト教でも、「正しい信心のある人(仏教でいう真面目な修行者・八正道の人)は他者を蔑まない」という一元的立場があり、ルカ18章に譬喩(アヴァダーナ的なもの)を以てイエス・キリストさんが説示する。キリスト教における不戯論・無諍とは、正しい信仰修道の果報であろうから、教祖イエス・キリストは方便において差別的教義を多く用いた。志向された真実は、仏教の教理と同じく無差別平等であろう。「因縁(阿含)・空(般若)・唯心(十地・華厳)」を引き合いに出して先述した。言葉が異なるものの、もし真実を唯一のものとすれば果報もまた同一である。方便・法門は一ならず。aneka, anāna, advaya...

歴史上、キリスト教団・教派は、小乗仏教・説一切有部に対する大乗仏教のような無差別・平等の教理を強調するということが無かった。
イエス・キリストさんも、大乗の目線で見るならば、聖書に伝わるどんな教説・所行であれ、方便であって本当は心が平等のようだったかもしれないが、他人および諸法は憶測・推量に限られる。
※今でこそ、ローマ法王・教皇・フランシスコ1世さんなどが融和的に説教をなさるものの、自分たちの教義は「臭いものに蓋」という扱いをしているような違和感を覚える(和平・平和について積極性があっても"無セクトという名のセクト主義"や"積極的融和姿勢に基づく分離対立"が伴いそう)。異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者などが主にキリスト教では救われないと扱われるが、それは形式的なものから蓋然的に精神性が推定されるのみであると同時に、自分たち信者が現世で信仰を守る方便となる。もし心が正直であれば、異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者も確かに神性=心の真実に通じて救いもあろう、といえる。フランシスコ1世さんはそのことを知ってか知らずか、誰でも救われるという旨を説く。しかし、キリスト教が積極的に、そのヒューマニズム・宗教多元主義的な主張をし続けると、自ら修道の足元を崩す恐れもある。今のカトリック教会に温かい目を向けよう。

私がキリスト教の神やイエス・キリストさんのお振舞を語っても、推量の域を出ない。
誰がどう、聖書の記述に則っても、言葉・言語表現・想像の域を出ない。
いずれも、心の因縁による副産物・所産=被造物・有為法としての神やイエスであり、真実の神やイエスを説くことはできない。
仏教でも、心は実に「不可得・不可説」である、と私が過去記事および「萌えの典籍」に多く綴ってきた。
真実は、信仰や修行が専心された結果に智慧があって柔軟・正直・清浄な心において見られるもの(自我偈・般舟三昧経など)であろう。
しかも、何であれ世俗の事象は「因縁において自分のもの」でしかない(真実においては無我・無我所、無非我・無非我所…だが)。
その点で、他者に説き示すことは、実に困難である。
※先に引用されたローマ1:20節に「不可視なるもの(性質・形容詞→抽象名詞)"ἀόρατα en: invisible la:invisibilia "」とあることも、その「不可得・不可取・不可思議・不可説、言語道断心行処滅」のことを指すかもしれない。「不可視ないし不可得・不可説(=真実)」とは、単に電波やX線のような不可視の物理的存在でもなく、心・精神のような五感(五官)を通して認識されない性質・作用の実体(行動や脳波検査などで推定できることは別問題)でもない。それが一神教の法身的な神性"divinity θειότης (divinitas 法性dharmatā)"や報身的な力(作用)"power δύναμις"である。応身的な神や現世の報いは、創世記などの聖書文面や、現世に顕れた縁起・虚妄(個人の認識を前提とする形而下のもの)となることになるが、法身の神を知る手掛かりとして、信者は尊ぶ必要がある。私による理解は大乗仏教に基づく。なお、ローマ書に偏ってもよくないので、神性という言葉を他に探した。コロサイ書2:9に少し異なるギリシャ語形で"Θεότητος"とあり、神性がキリストの身に充満して宿っており、信者も彼のもとで(ἐν αὐτῷ 所有代名詞・対格)神性が満たされているとし、人間の伝統(世俗の習慣)"παράδοσιν"に基づいた空虚な哲学"φιλοσοφίας"に依るべきでないという。依憑仏説莫信口伝(法華秀句の説だが増支部カーラーマ経はより徹底的で教祖・師匠の説についても形式的な信用を推奨しない)・依法不依人・依義不依語のように。固着化したユダヤ教・バラモン教(祭祀)や、ギリシャ哲学・六師外道といった思想哲学を排斥してキリスト教・仏教の立場が明確に示された。そういった教説は、行者・信者の解脱や昇天のような宗教的目的を達成するために用いられるという前提条件において正論だが、それを知らない人からは「上座部仏教も大乗仏教もキリスト教も教祖権威主義だ」と誤解される。



言語表現への拘泥により、衆生の心の顛倒が直らず、誤解や執着を生じさせて「神という名の無形被造物」・「悟りという名の迷い」が起こる恐れがある。
いわゆる虚無主義や極端な本覚思想が、現代的に槍玉に挙げられる。それも、中論など大乗の進んだ教義の目線からすれば、みな寂滅であって顛倒も執着も真如の無・空となるが、同じく中論(24:11偈・蛇のたとえなど)や大智度論(巻第十八・塩のたとえなど)に説かれるよう、空相を妄取すべきでない。
上座部系の仏教であれ大乗仏教であれキリスト教であれイスラム教であれヒンドゥー教であれ神道であれ、現世の苦の自覚があるか、宗教的な行為(修行・信仰・祭祀・儀礼などの行為全般)に義務感がある場合、自分たちが知り得る教説の如くに行ってゆくことが第一となろう。

奉ぜられるものが「一神・神性」であれ、「真心・仏性」であれ、無常の"anitya"有為法"saṃskṛta"・朽ちる"corruptible la: corruptibilis"被造物"creature la: creatura; factus中性単数factum"に執着すると、苦"duḥkha, angustia"の報い"vipāka; phala, merces"を受け、神や心の真実を見失うという教説は一致する。
各々の教説を信ずれば、各々の教説に相応する果報がある。
その意義を、キリスト教徒も仏教徒も他の宗教信者も無神論者も無宗教・現代日本の一般人も、理解し、各々の目的とする物事を見つめ、見失わず、一生懸命に生きてゆくことが肝要である。



サンスクリット サンスクリット語 聖書 sanskrit bible romans
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起草日: 20180110
上記の日付は、元の記事に基づく。
当記事は、その「復習記事」として2018年4月を期して投稿される。

元の記事の末尾では、一神教の神と仏教の縁起観に関する真理の側面を学ぶことができる自作の文章を多く引用して載せてあるので、それについても参照されたい。



さて、今更になるが、当記事や元記事はご覧のように、宗教的目的(昇天・往生・解脱・涅槃・成仏など)を全面に押し出した前提で論が展開されている。
故に、創造神話などを語るにしても、現代の科学的見解や進化論や社会科学的事実をほとんど交えないでおいた。
一神教教義や創造神話を、自然科学的知識や社会科学的事実(=科学的見解全般)に結びつけることを「創造科学"Creation science"」と呼ぶそうである(より原理主義であれば科学的見解を否定して創造神話やモーセやイエスの事跡を実話として強調する場合もある)。

創造科学の説は、現代人の中でも一神教に興味ある人や一神教に理解を持ちたい人を速やかに納得させるための便宜的説明によかろうが、それ以上の価値を私は感じない。
私も、小中学生のころは神話や民間伝承やフィクション作品について事象を科学的見解との融通を図る思考回路があったものの、今はほとんど顧みなくなった。
一神教聖書(タナハ・セプトゥアギンタ・ウルガータ、新旧テスタメント)が「なぜ永く信じられ、なぜ世界に流布したか」という背景からしても、近現代の科学的見解との融通を図るようでは、信仰と布教との時空的根拠の答えが得られない。
ましてや、モーセやダビデやイエスや使徒などに帰せられる一神教聖書の編纂者や説教者の意図よりかけ離れてしまう。

一神教教義や創造神話には、自然科学的知識や社会科学的事実と符合するものとそうでないものとが混在している。
しかし、それも、自然科学的知識や社会科学的事実を知る現代人の知能が結びつけようと試みた結果に過ぎない。
※人間がこの一生で得てきた知識は「畢竟、神のものであり神の思し召しである」という見解によれば、宗教と科学との辻褄を合わせることも、必然的な流れとなるかもしれない。英語"Earth"は元々「地(地の性質)・地面・大地・大陸(ラテン語"terra"は渇いたものという意味に由来する)」を指していたが、現代は"The Earth"として定冠詞を付けられるべきものとして「地球(青と緑の球体・太陽を周る惑星の一つ。ラテン語"terra"は天動説の時代にもThe Worldの意味があったが地球の意味はない)」を指す。定冠詞の無い"Earth"は単なる「地」とも現代の「地球」とも意味が取れるが、古典の英訳などでは当然前者の意味であるが、後者で解釈する人がいる。現代人のアイデンティティや世界観は、自然科学の通説に乗じており、宗教信者もほとんど同じ環境で育ったならば古い言葉にも現代と同じ意味で解釈することがある。
また、創造神話に科学的見解に近似するもの(例1: 神は天地・地における陸と海・植物・動物・人を次第に造った=地球誕生~生物の進化 例2: アダム・エバよりノア・セムに至るまで人類の言語には差別が無く発音も語彙も等しかった=歴史言語学)があったところで牽強付会である。
創造神話と科学的見解との近似があることは、仏典でいう「虫が木材を食い破ってたまたま字になるようなこと(如虫食木偶得成字)」である。
その「木材を食べる虫」は字を書きたかった意図が無いように、モーセやダビデやイエスや十二使徒などに帰せられる一神教聖書の説教者や編纂者は ―私が推し量るべきでないが― 科学的な説教をしたい意図は無かろう(もちろん世の起源を知りたい人へ物質的事実認識に通じそうな便宜的説明をすることで理解を促す意図は有り得る)。
聖書での創造説も仏典での起源説・輪廻転生も、物質的な科学と何ら関係が無いとすれば、それらが進化論・大陸移動説・地動説を否定することも無いし、信者はその信仰と現世的な思考とが相容れないことも無い。

そもそも、どの学問や議論にも言えることとしては、どこにどういう事実があると見出せば論者たちは一喜一憂したり、その事実認識を証拠として論議が繰り返されるのである。
少なくとも、宗教(特に個人の修道の立場)ではそういった世俗的な対立を離れるよう説くと、当記事の本文にも明白に示されていよう(過去記事も参照)。
創造科学などの論議や主張は、どこまで煎じ詰めても「科学における迷信・宗教における迷妄」であり、イエス・キリストさんが有名な「主の祈り」にあたる発言の直後に「盗まれやすい地上よりも天国に財を蓄えよ。2人の主を持つことは誰にもできない、なぜならば心で一方を愛して一方を憎み、行動では一方に親しんで一方を軽んじねばならないから(マタイ6章19-24節より要約、持つこと=心で執着することと解釈し得る。マルコ10章21-25節・ルカ18章22-25節には財産に執着する人物を見た上でイエスが金持ちは神の王国に行き難いと説く)」と譬えたように、科学的見解によって宗教説話を神の意思(本文中の"みこころ voluntas, θέλημα, will")に適った実話として信じることはできないし、信仰もまたそのようである。
実話の実話たる所以は、話を聞く者の明かし切れない種々の因縁(本文を参照)による。
信仰者の智慧が浅いとき、二つの理解(二股をするような不純な心)は二重苦として彼を悩ます。
しかし、それは聖者たちが神を知る智慧に依って真に融通することができるし(マルコ10:27・ルカ18:27"人にできないことも神にとってはできることだ Τὰ ἀδύνατα παρὰ ἀνθρώποις δυνατὰ παρὰ τῷ Θεῷ ἐστιν."という意味にも通じる)、私であっても聖者たちを通じて「文字上の理解」をし得た。
二つの理解(仏教でいう二諦や四悉檀も同様)を兼ね備えながら、二つの心(世俗的理解を妄信する心と世俗的執着を厭離する心)とはならず、そうして聖者は「一意に一心に」現世をお行きになるものである。

創造科学などの論議や主張は無益のようであるが、さすがに現代人に対して一神教教義を納得させる一手段とはなろうから、そういう観点で論議を進めて布教に用いたい人は用いればよい。
人の用いよう(目的性・価値判断)によって「ゴミの山(と既成概念や多数決によって認識されていたもの)も宝の山に変わる道理(新しい価値観や特殊な人物によって逆転すること、真理においては物事の価値は最初から存在しないし最初という点すら存在しない)」はあるから、是非とも、各々が金科玉条のように論や説を用いてほしい。
そういう化他の目的性により、智慧の高い仏・菩薩は論争をしても悪業を積まない(真理においては誰彼が何をする・何をされるといった能動性も受動性も表現されない)。
ただし、世俗に心が繋がれたままの私は常に悪業を積む(悪魔崇拝者のように)。

宗教・科学・哲学(など)の特徴および仏教との共通点・相違点について、過去記事に語ったことがあり、そちらも参考までに読まれたい。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/07/What-Buddhism-is-not.html

2018年2月10日土曜日

俗世間の「神さま」と日本・インドの神"deva"とキリスト教の神"deus"の有無論

目次 (テンプレートの元)


1.1 (#folk1)

俗世間でいう「神・かみさま」を、子供たちは俗世間に定義された範疇で存在を否定し、同時に、神道やヒンドゥー教など多神教の「神・天"kami; ten, देव deva"」や、キリスト教の「神"θεός theos; deus"」などについても「神・かみさま」の言葉を摘まんで同一視して存在を否定する。
日蓮正宗・創価学会・顕正会といった宗教団体は、キリスト教(ユダヤ教・イスラム教を含む一神教全般)の「神」を徹底的に否定し、日本・インドの神々(天照大御神・梵天など)とは別物だという主張を大前提とする。
他の既成仏教でも、セクト主義的な立場ではキリスト教の神を否定する(人権・ヒューマニズム・宗教多元主義の立場では神のことを取り上げずにキリスト教の道徳的な一面を褒める)。
一般世間では、科学的見解を受けてあらゆる神"god; deity"の称号のある信仰対象とその伝承"tales; myths"を迷信として斥けつつも、各々の祈り"prayer; wishes"を兼ねながら宗教施設(神社・寺院・教会…)への参拝や祭り(祭祀・祭礼・儀礼)への参加をする場合が多い。

さて、筆者は生まれてこのかた「無宗教」であると同時に、小6のころより宗教に興味を持ったが、段々と唯物論・合理主義の傾向を強めて「世俗的な定義における神」を否定するに至った。
これは「神」の名が、「世俗と宗教とを分けない現世利益思考の俗人」によって顛倒して取られた「ニセ神さま」に用いられたものを否定したのであって、直ちに「無神論」となるわけでない。
様々な宗教で異なった定義のある「神」について、小中学生のころの私は分別をしきっていなかったが、興味を持つ一面もあったので、「無神論"atheism"・非無神論"anatheism"・非非無神論"ananatheism"…」であったろう、と回顧する。
物事の定義次第では、大概の日本人も、現世利益思考の範疇を出ていないので、みな「無神論に似た何か=非無神論・非非無神論…」となる。
その、中庸じみた「無神論に似た何か」は「不可知論"agnosticism"」と呼称される場合もあるが、同じく「非不可知論"anagnosticism"・非非不可知論"ananagnosticism"…」となるかもしれない。



日本の神は日本の神で存在するという論証ができる。
古代より現代まで、人々は何を思って神・天"kami, ten"を信じたろうか?
根拠は、已に見え、今に示され、当に理解される。
論者各々の定義によって、存在が論証され、且つ存在が否定されもする。
論理学者らがどう結論するとも、この二面性・二律背反は伴いやすい。
智者は他説を知って他説への執着も憎悪も無くし、己が信仰を自ら守るべきである。

インドの神はインドの神で存在するという論証ができる。
古代より現代まで、人々は何を思って神・天"देव deva"を信じたろうか?
根拠は、已に見え、今に示され、当に理解される。
論者各々の定義によって、存在が論証され、且つ存在が否定されもする。
論理学者らがどう結論するとも、この二面性・二律背反は伴いやすい。
智者は他説を知って他説への執着も憎悪も無くし、己が信仰を自ら守るべきである。

キリスト教の神はキリスト教の神で存在するという論証ができる。
古代より現代まで、人々は何を思って神・天"θεός theos, deus"を信じたろうか?
根拠は、已に見え、今に示され、当に理解される。
論者各々の定義によって、存在が論証され、且つ存在が否定されもする。
論理学者らがどう結論するとも、この二面性・二律背反は伴いやすい。
智者は他説を知って他説への執着も憎悪も無くし、己が信仰を自ら守るべきである。



1.2 (#folk2)

俗世間における「神・かみさま」信仰は、物質的な側面への期待と、自己の精神の問題とを混同して「(欲望の心にとって)よい結果であれば神はいる」とか「(欲望の心にとって)悪い結果であれば神はいない」といった一喜一憂の感情に基づいたものである。
その信仰ならざる信仰は、禍福に左右される立場である。
あらゆる神は、客観的世界=我々の五感(仏教でいう六根=眼耳鼻舌身意)に基づく物質的実在・現象(仏教でいう六境=色声香味触法)を操る力は無い。
故に、俗人の顛倒のままに神へ祈っても、期待通りの効果は無い。
俗人の顛倒によって「良い結果であれば神はいる」とか「悪い結果であれば神はいない」といった一喜一憂の感情=無常の物事への執着による苦がある。
※一喜一憂の感情とは、現代日本でも「刹那主義」と呼ばれるような感情であり、仏典では「心・意・識というものは須臾(=刹那)に転変して生滅を繰り返す。たとえば猿が樹の間を飛び回って枝を一つを掴んでは一つを放すようなことである(雑阿含経やパーリ相応部)」と喩えられ、よく表現が一致する。
顛倒の祈りによる幸福というものは定まらず、有るようで無く、勝ち組になることも無い。

しかし、神への祈りを「生宣り"inori"、命"inochi"、生き=息"iki、breath"=プラーナ"prāṇa प्राण"、プシュケーψῡχή、プネウマ πνεῦμα」といった要領で行えば、あらゆる場面において幸福に至って定まり、世俗的な勝ち負けの無い「真の勝ち組」となる。
神への祈りとは、心(精神)の揺るぎない誓いである。
この点で、仏の異名「至福の人・世尊・バガヴァーン"bhagavān"」や、「勝者・ジナ"jina"(またはヴィジャヤvijaya)」といった語句の仏教における意味が成立する。
路上や森林や肥溜めや墓場などで静かに端坐せられる仏は、人々によって「世尊」とも「沙門(寂静の人・修行者)」とも「比丘("bhikṣu, 印欧同語源begger"乞食)」とも「浮浪者」とも見られる。
世間の人は、そういった修行者を「負け犬!」と蔑む場合があるが、勝ち負けの心・愛憎の心の無い仏はどこで寝食をなすとも、真の勝者であると称えられよう。
それが、仏典によれば、インドにおける神々の称賛を博したことでもある(ただし神々を最高のものとして奉じるヒンドゥー教などの立場では異端・ナースティカの説と扱われる)。

さて、修行者はどんな場面にあっても苦の無い真の幸福を志向することとなるが、それでは世間の「臥薪嘗胆(薪に臥して胆を嘗める・辛酸苦渋・艱難辛苦)の努力」は、仏道修行とどう異なるものか?
世間の「臥薪嘗胆の努力」は、形だけ仏道に似せられても、魂胆が異なる上に、理想とする結果も異なる。
「煩悩に基づく苦が滅すること」や「智慧によって成仏すること」などを修行の果報とする仏道とは、比較にならない。
世間の欲(稼ぎたい・モテたい・世間的な苦=欲求不満を形式的に満足させたい等)を叶えても、畢竟苦の道にあるという理解や、自己の心の根本的な問題への自覚を伴わない行為は、たとえば着地を考慮せずに空を飛ぶように、結果として苦しい空中浮遊のまま=輪廻か、不意の墜落=堕地獄にしかならない。
仏道の果報・涅槃とは、そもそも生死・輪廻の空なることを知り、不生不滅であって最初から空を飛んでもいないので地面に落ちる苦も懸念も無く、換言すれば永遠に空を舞うことでもある(寂滅とも常住ともいう)。
俗人の意志を遂げる精神は尊くもあり、努力の姿勢は見習われるべきでもあるが、くれぐれも、現世の苦を自覚する者は世俗の欲について貪りがあるべきでない。

また、「他者に頼らない・寄生や依存をしない・神頼みをしない(世間でいう他力本願の否定)」という主張が世間に見られるが、これも仏道修行の姿勢と似て非なるものである。
世間における主張は、「金銭的な自立・独立・独り立ち(世間の情けに基づくものか・カリを作りたくない等)」ということを指したり、無理な自己負担を指したり、あるいは誰かが他者を突き放す際の口実であったりと、欲望にまみれた世界の相対性を出ない。
現代日本仏教徒の間では「自灯明法灯明」というフレーズが人口に膾炙しているが、この世間の主張と混同されている場合が多い。
「自灯明法灯明」もとい「自洲"attadīpa"に住み・法洲"dhammadīpa"に住み・他洲"aññadīpa"に住まず」とは、単なる精神論でなければ、金銭的な自立を指して釈尊は仰せになったのでもない。
具体的に、この仰せは自分の心身の問題(諸法)を常に意識し、今のありかたを如実に知るという「四念処(四念住)」のことである(過去記事に詳述)。

こうして法に依って(教説や道理に基づいて)自ら心身を調御する者は、仏教における天・神の守護が有る、ということとなる。
その場合、現世での延命も、副次的に保証され得るという見解がある(物質的に他者へ依存して乞食で身を養う比丘にとっては死活問題)。
後述するキリスト教でも、自分の欲望や憎悪といった精神的な問題を克服して信仰を正しく守る者もまた、神・聖霊の加護が有るといえよう。
精神が欲望や憎悪に蔽われる時、神の王国への門扉が閉じられる。
教えを理解して修道がある彼らには、多神であれ一神であれ、神が実に存在することとなる。
神の名や、意義(en: God, Devine, Deity, Divinity la: Deus, Deitas, Divinitas gr: Theos sa: Deva, Devata, Sura, Asura ir: Daeva, Ahura ja: Kami 漢訳仏典で神通力もとい精神"ṛddhi"の意味も)は多くあれ、古来より現代まで信仰する人々は、一つの真実を志向していたに違いない。
多神即一神、一神即多神、一神即一心・・・




1.3 (#folk3)

さて、この世を支配する神がいて、その神が人の運命・宿命をも司り、最初から人間が自ら人生などを変えることはできない、という見解が、古代インドやギリシャや現代日本にある。
それらの見解も、自然界の事象・人間の精神などを見た「因縁(認識・感情・思考など)の結果に唱えられたもの」でしかないが、固く信じれば心が楽になる者・行動が積極的になる者もいよう。
それはそれでよいし、そういう気持ちで神などにお祈りをする者もいるかと思う。
ここで、「神は心そのもの(見ようには悪魔にもなる)」という私の一見解(これも因縁の結果に過ぎないが)に基づいた、日記メモ文章を載せる。

1月8日の日記メモ「諸天善神の守護・三宝の加護」
 母は弟への不平不満・憎悪・瞋恚の炎で口(口業)を煮やしてグチグチ小言の音を立てている。人々の希望と不満(喜悲怒など)という日常的に繰り返す感情は、楽を求める心と苦を厭う心に基づく。しかし、その自覚はされづらい。仏は、あらゆる感情や欲望の因果性を超えた、精神の法則を知っている。
 去る1月6日に母は一人で「神宮前駅」まで電車を利用したようであるから、熱田神宮にお参りしたろう。母は、そこで何を祈ったか?家内安全か?金運上昇か?他者への不満に基づく呪い事か?願い事も呪い事も、何であれ、楽を求める心と苦を厭う心に基づく。神社で何を祈るとも、日々に・時々刻々に楽を求める心と苦を厭う心に関して自覚があり、意識されていれば、自分が苦しまない行動が適宜に行われる。神社で祈って「心のお守り」が得られる人は、生活の苦しみも直ちに除かれる。「お守りの形をした物質的存在」は、期待される効能(ナントカ安全・ナンタラ成就など)の認識があって時折目にせねば、「心のお守り」としての作用に至らない。また、諸天善神による守護とは、自ら心を守ることでもある。心・意思・意志・意識を守ることを「念」とも呼び、仏法僧という三宝による加護でもある。三宝による加護があることは、苦しみが除かれる利益に至る。今の母親のような人にお参りされても、神は悲しむ。仏も悲しむ。そう思える、日本仏教徒である。されば、仏教徒は、対象が神であれ仏であれ菩薩であれ、祈り(生宣り・命の叫び・生きる望み)・願掛けを自ら為すならば、自ら背かずにいてもらいたい。願いを捨てない心は、自身が尊ぶ対象の存在を離れることが無く、その守護を受ける。

神社・仏閣などに参詣・参拝して祈願する利益は、以上の通り、精神論・観念論の一種となるが、その現実的利益は、結果的に有無を問うことができる。
過去の有名人・偉人・神格化された人などに託された利益であり、他者がその利益にあずかっているという伝承や風説を聞けば、多くの人が喜んで信じ、崇めたり敬ったりする(聖人所説への信用は事実に比するもの=聖教量"āgama-pramāṇa"という見解が仏教論理学・因明学にある。例えば子が親の言葉を全て事実として信じることと同じ)。
その結果、世間では「(願いが叶ったからという条件で)神はいる」とか「(願いが叶わなかったからという条件で)神はいない」などといった分別を行う。
この点で、もし願いが叶って心が晴れ晴れとすれば、神が威光を以て人を照らすようなものと感ぜられ、人の期待に沿った神というものの実在性が当人において証明される。
そうして、その利益の顕れた場所は吉祥であり、霊験あらたかな聖地となるに至る(神社のみならず聖都エルサレムや教祖説法地のサールナート・メッカなど)。

その場所で、やる気・道心・目的意識というものを起こし、以後にも忘れずにいられるならば、実によいことである(功徳・福徳・服運というもの)。
聖地巡礼やお遍路といった行為においても、同様である。
俗に言うパワースポットも、信仰心こそがパワースポットたらしめるエッセンスである。
そうでなければ同じ地球上の等質な土地でしかない。

ただし、努力の結果として「即物的な願望の成就がなされなかった」という事実認識があった時、落胆してはならない。
それが、まさしく神に己が見放された(=心が自ら心を見放した)瞬間である。
この故に、真に神を奉じたければ、見返り(世俗的利益)を重視すべきでない。
※神即心、心即神、他離即自離、自離即他離、受動性・能動性一如・能所不二。この理は古代インドのヴェーダ・ウパニシャッド的な梵我一如に通じる。だが、仏教では、そういった見解を知ろうと知るまいと、固執しないことを説く。また、世俗の願望は刹那的な楽としかならず、無常の事物への執着は解脱に至らないという価値判断があり、解脱などを目的にして修行をする人にとって、最初から神と心との相関性は問題とならない。ただし、日本では仏教僧侶(持戒持律の人も・・・かえって無戒的な親鸞さんが神祇不拝を唱えたくらい)が日本の神々を敬って礼拝した事跡が多い。

なお、日蓮大聖人は、乙御前御消息に妙楽大師湛然さんの「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し(止観輔行伝弘決・巻第八)」を引用して「人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ」と仰せである。
冒頭に挙げた日蓮正宗系では、彼らの読む観念文(かんねんもん)に「諸天晝夜常爲法故而衛護之(諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す) 」(天・神による護法はパーリ語経典以来ある)という妙法蓮華経・安楽行品の文が載る(創価学会の御祈念文からは2015年に除かれた)。
彼らが指す「諸天(善神)」とは、インド以来の梵・釈・日・月(ぼん"Brahma"・しゃく"Śakra, Indra"・にち"Sūrya"・がつ"Soma; Candra")、日本の天照・八幡(てんしょう・はちまん)などである。
みな南無妙法蓮華経の三宝(仏宝=日蓮大聖人 法宝=本門の本尊 創価では彼らの御本尊 僧宝=日興上人ないし歴代法主上人 創価では信者全員)に帰依しており、三宝や修行者を守護する力用(りきゆう)を持ち、諸天の本地はみな釈迦如来だとする(諫暁八幡抄: 教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや)。
更に、釈迦如来・多宝如来の本地は南無妙法蓮華経である、とされる。
南無妙法蓮華経も、畢竟「一心・妙」であると、彼らの依拠たる日蓮大聖人御書に説かれている。
※私による観萌行広要の動画⑤説明文に総勘文抄・日女御前御返事などを引用した。他にも関連説多し。文献学ではその説の御書について中古天台本覚思想の流れだとか日興門流の写本が伝えられて真蹟が無いとして偽撰扱いをするが文献の存在は事実なので提示した。



2.1 (#dei1)

日本・ギリシャ・インドに見る多神教

現代学問的に「多神教(多神を崇拝すること・土着信仰や民間信仰も)」と分類されるものは、多くが「物質的存在」や「性質・法則」に基づいて名前があり、人格や神格のようなものを付して成立した神を有している(擬人化とも)。
「物質的存在」とは、単一の生命と見られる植物・動物や、象形として一個体と見られる山・海などであり、それらをそれらたらしめる神聖な性質・霊的なものを名付けて表現するか、事物の名のままに神・霊的存在と扱う(擬人化)。
「性質・法則」とは、自然現象としての音・風・火・発生・維持や、心・感情・精神作用・知性はもちろん、神聖さ=超自然的なこと・自由自在などである。
日本・ギリシャ・インド、様々にそういった事物に基づく神が多く見られる。

そのために、多くの神が並立したり、上下関係を抱えたり、人間の尊敬のありようによって神ごとの関係性の変異(ある時代・ある地域で最高の神だったものが別の時代・別の地域で別の神のしもべになったり神より下等の霊的存在になったり)なども生じる。
神ごとに、どんな由緒があるのであれ、個人の心に応じた存在(応化"nirmāṇa")であり、客観的な可視性(いわゆる目に見えること)は無い。
ただ、そういった性質・作用を、現象や感情変化によって看取でき、相応の名前を以て、人々により、認識されている。
事物を尊重する精神性の現れであり、人々の道徳に関連する。

この点を捉えると、より心の真実を追究して「仮の名前ある唯一の神(いわゆるヤハウェとかアッラーフとかという)」を示した一神教は、多神教に対して優れていることとなろう。
一つの信仰を正しく守る、という筋道が浮き彫りとなる。
イエス・キリストさんやムハンマドさんが多神教を卑下する理由もここに存していると考えてよい。

※「神が多く存在するならば心の真実からして相容れない」という見解だろうが、仏教では後述するように融通して一即多・多即一といえ究極的には一も多も無で寂滅である。仏教では、あらゆる神々・霊的存在(デーヴァやデーヴァター)が仏を敬うという立場にある(一部の夜叉・阿修羅・魔などはそうでないとも説くからパーリ仏典アーターナーティヤ経"Āṭānāṭiya Sutta"で毘沙門天がそれらによる修行者への妨害行為より守護すると誓う)。そういった多神ありきで一神の優越性が問えるところ、多神は絶対悪で否定されるべきものと扱った一神教は、その信者たちが歴史の随所で慢心や憎悪に基づく大規模な事件を起こした。もしイエス・キリストさんあたりが、釈尊のように多神・民間信仰の神からも尊敬を受けているというスタンスであったらば、後のキリスト教団やムハンマドさんなどにも差別的主張が減ったか、あるいは歴史における伝道拡大も無かったかもしれない。歴史に対する仮定の話は詮無い話であるが、しみじみと思う。ただし、キリストさん・ムハンマドさんには、神と扱われずとも聖霊とか天使とかの恩寵はあったと伝えられる。



2.2 (#dei2)

また、多神教の神のうちには、元々現世で生きていた人間であったりするものもある(祖霊崇拝とは区別される場合がある)。
日本の神道には、歴史上実在した誰彼が神社に祀られていることがよく認知される。
先に日蓮正宗系の話もしたが、彼らや祖師・日蓮大聖人にとって日本の神の中でも重要視されて御本尊に尊名が載る存在は「八幡神(八幡大菩薩・正八幡)」であり、これも「元は応神天皇として日本の歴史に実在した人間であった」と一般的に認知されて信仰されるものである(諫暁八幡抄: 今謂く八幡は人王第十六代・応神天皇なり 神国王御書: 第十四仲哀 八幡大神父也 第十五神功皇后 八幡大菩薩母也 第十六応神天皇 今八幡大菩薩也)。
※学問において「本来の八幡神は応神天皇と別もの」とされるが、後述の梵天のように実在人物が習合・神格化される歴史的事実は確かにある。民間信仰とは、そうであり、次第にそれが正統派となる傾向もまた、歴史の中に看取し得る(僅かな強者の作為性と多くの民衆心理が関わる)。
現代日本でも、そういった伝統的な事象と似て非なる現象として、特定の分野に長けた人や、有り難い行為をした人について「〇〇の神さま・神様」とか「神(形容詞的・副詞的な接頭辞)〇〇」とか「女神」とかと称えることがある(ただし神の名称に限らず他の尊い名称…"達人"などを用いることも多いためその同一カテゴリとして"神"と称する発想の人もいよう)。

インドの場合、現況のヒンドゥー教のブラフマー(単数形でブラフマ)は単体の神だが、古代インドや仏教の梵天・ブラフマーは、現世で修行などをしてブラフマンを得て(梵我一如を成して)梵天界・ブラフマローカへ往生した「元・人間」である。
現世の努力によって一人が「高尚なもの」と人々によって見られ、人々から称賛され、人々によって歴史的に名が伝えられる。
その称賛の中には、「人ならざる人(人なるが故に人ならず)」という「玄妙なる精神性」がある。
梵天へ往生することとは、伝統的な婆羅門・ブラーフマナにおいて梵我一如の達成であろう(ブラーフマナ"brāhmaṇa"の名声に関する釈尊における理解は過去記事)

パーリ仏典に見られる「サナン・クマーラ"Sanaṅkumāra"」という梵天が「仏教以前よりあるとされる教え」に登場していたことは、私が過去記事に何度も示してきた。
つまり、チャーンドーギヤ・ウパニシャッド7章で「サナト・クマーラ"Sanatkumāra"(パーリ語で訛る前の発音)」として登場し、仏道修行と同じような教理・修道論を唱えた。
チャーンドーギヤ・ウパニシャッドとは、パーリ経蔵・長部13(長阿含26経)の三明経(及び注釈書のティーカー)に「チャンドーカ」というサーマヴェーダを奉じているヴェーダ学派の派閥名があり、チャンドーカ派の語源と推定されるサーマヴェーダ系奥義書である。
それに加え、後世のマハーバーラタ3章183節でサナトクマーラが「クシャトリヤ優位説」を述べ、これはパーリ経蔵・相応部・梵天相応6.11経や長部3・アンバッタ経でもサナンクマーラによる似たような主張が見られ、四ヴァルナ(通称カースト)のうちのクシャトリヤについて言及することも多い。
よって、サナトクマーラは仏教以前より、古代インドで信仰されてきた「神・ブラフマーとなった人間」だったと考えてよい(梵天相応では他にトゥルー"Turū"などの元人間と見られる梵天が登場。バカ"baka"・婆迦・婆伽は大智度論・巻第三十四にも過去世の福徳で長寿の梵天となったので常住の邪見を生じたと紹介される)。
※サナト・クマーラとは「永遠に"sanat"子供である"kumāra"」という意味で、「一生に渡って無垢な子供(童子の貞潔)」の清浄の徳を示すと思われる。修行者は、まさしく不純異性交遊が無いから純真無垢である、と解釈できる。先の三明経に説かれる梵天往生(生梵天)のように、離欲(いわゆる独身)・無執着・慈悲のままに一生を精進すれば、梵天界で永遠さながらの久しい寿命を得よう(そう定義された信仰をする人々にとってそれが事実であって目的である)。なお、当記事では非伝統的な神智学におけるサナト・クマラを取り上げない。
より後世には、プラーナ文献において単一・創造神ブラフマーの意思より"mānasā"生じた4人の子、「チャトゥルサナ(バーガヴァタ・プラーナ भागवतपुराण 3章12節などに名が列挙される)」の一人として「サナトクマーラ」がおり、元人間(ヒンドゥー教の人は恐らくチャーンドーギヤ7章の時点でナーラダ仙に現れたブラフマーの子だったと解釈していよう)という雰囲気は失せたが、「梵行・ブラフマチャリヤをする修行者たち」という設定があり、やはり仏道修行のような現世の努力が見られる。

梵語クマーラの音写は、中国・日本で「鳩摩羅天(くまらてん、倶摩羅天、拘摩羅天)」として見られるが、鳩摩羅天自体は、梵天たるサナトクマーラ(サナンクマーラ)と関係が無いかもしれない。
※「鳩摩羅天」の梵語の名「クマーラ」は、一説で大自在天(イーシュヴァラ"īśvara"・いわゆるシヴァ)の子たるスカンダ"skanda"の異名といい、サナトクマーラとの関連性を見出しづらい。スカンダは初めに、マハーバーラタ(歴史上は釈尊滅後の述作とされる)でアグニ(妻はスヴァーハー)の子として登場した。古代のリグ・ヴェーダ5章2節におけるクマーラの語は、その「アグニの子にしてクマーラの異名を持つスカンダ」と関連付けられるが根拠は薄い。龍樹菩薩の大智度論巻第二には、視覚表現されたクマーラ=スカンダ(異称MuruganやKārttikeya)が孔雀に乗っている描写と同じように「鳩摩羅天・・・孔雀に騎る」と紹介されている。より後世のヒンドゥー教シヴァ派でシヴァ(漢語でいう大自在天)の子という見解ができたようであり、それ以後の流れとして中国や日本に伝えられたろう。中国密教に至ってはスカンダの音写名を誤った結果(建駄→違駄→韋駄)に、道教と習合して韋駄天が生まれ、孔雀に乗る姿でなくなった。話を戻すが、例のチャーンドーギヤ7章の最後にも人間・サナトクマーラが「スカンダ"skanda (√skand 跳ぶ者 "the Leaper")"と呼ばれている bhagavān sanatkumāraḥ | taṃ skanda ity ācakṣate |」と明かされる。奇妙な偶然であろうか?
「鳩摩羅天」は、パーリ仏典に伝わる説の漢訳経典(四阿含)に見られない。
パーリ語・サナンクマーラ登場経典のうち、梵天相応6.11経に当たる雑阿含経1190経は娑婆世界主梵天王=サハンパティという別の梵天に置き換わり、ほかの漢訳経典でもサナンクマーラ以外の名の梵天に置き換わる傾向にある。
※クマーラは子供・童子の意味である。関連性が不明な教説として長部18経に「サナンクマーラ梵天が自己を化作して五髻"pañcasikha"ある童子"kumāra"の容姿になる」シーンがあり、漢訳長阿含経4経・闍尼沙経に「大梵王即化作童子頭五角髻(仏説人仙経: 大梵王以童子形於彼勝會忽然出現頭有五髻色相具足)」とある。
日本へ伝えられた「鳩摩羅天」には、それら古代インド信仰・仏教興隆・ヒンドゥー教展開という三大潮流における「種々サナトクマーラ人格」が看取されない。

ともあれ、インドの神・デーヴァとされる者のうち、日本の神道のように「元は人間であった」という例が確認できたといえよう。
初め古代インドでは明らかに「ブラフマンを得た元人間(ウパニシャッド的な梵我一如の達成者 or 仏教的な離欲慈悲の修行者)たる多ブラフマー」であったが、後世ヒンドゥー教では「創造神たる単一のブラフマー(元人間たるサナトクマーラ梵天の名はその4人の子のうちに収められた)」となっているため、ここの峻別は必要になるかもしれない。
歴史書・伝承、古代インドにかつて存在した「第五のヴェーダたるイティハーサ・プラーナ "itihāsapurāṇa"(現在あるプラーナ文献とは別物)」の類が確認できないか、他にも説明されない現状は推測に留まるが、おおよそ歴史学・宗教学・民俗学的に承認し得るかと思う。
※イティハーサプラーナは噂のチャーンドーギヤ7章で「第五のヴェーダ"itihāsapurāṇaṃ pañcamaṃ vedānāṃ"」として説明される。サナトクマーラを尊師"bhagava"と仰ぐナーラダが学んだ物事の例示のうちに示された。その記述は英語版Wikipedia - Fifth Vedaにも引用される。

※さて、世界の主宰・創造神・造物主というと、パーリ仏典ではパジャーパティ"pajāpati"という名があり、パーリ注釈書によれば他化自在天"nimmitavasavatti..."(第六天)の主のことをいい、ブラフマーでない。パジャーパティは、リグ・ヴェーダでいうプラジャーパティ"prajāpati"のことである。学説においてリグ・ヴェーダ末期に編纂されたという第10章に頻出する名である。ヴェーダ以後のプラジャーパティとは、ブラーフマナ文献でブラフマーを指すようになる。古代インドの或る時期や或る地域ではプラジャーパティとしてのブラフマーが強勢であったろうが、マハーバーラタ述作のあたりにはヴィシュヌやシヴァの立場も強くなる。仏教書でも、龍樹菩薩の中論・青目釈・巻第一や大智度論などに、大自在天(マヘーシュヴァラ、シヴァ)や韋紐天(ヴィシュヌ)が一切を生み出したという説が紹介され、最高原理ブラフマンとか創造神ブラフマーにあたる創造説・万物根源説が無い。ただし、同じく大智度論・巻第十では一梵天王が「私は諸の梵天を作った」というように表現されており、ブラフマン擬人化ブラフマーの祖たる一梵天がいることを示唆するようである。龍樹菩薩在世(西暦2世紀)~鳩摩羅什翻訳(西暦5世紀)の間にはインド広範に「創造神(=破壊も自由自在)はヴィシュヌorシヴァ(ルドラ・マヘーシュヴァラといった呼称を含む)」という見解が定着したと思われる。ヴェーダ学派・婆羅門の間で創造神の立場が三つ巴状態となった時期は、龍樹菩薩より以前であろう。この三つ巴状態において、トリムールティ"trimūrti"として三神一如の立場が表明されたろう。ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァ、神格や名称は異なっても、ヴェーダ学派の相互の神の信奉者の主張は似てしまっており、別に仏教徒やジャイナ教徒のような「ナースティカ」が存在するならば、ヴェーダ学派間の見解を統合すべきであり、新たな統一神を設けてもならないと考えたろう。ヴェーダ・ウパニシャッド以来、最高原理が唯一無二であること"Ekamevādvitīyam (英訳: ...is one only, without a second)"に変わりはないのだから、トリムールティという形式的教義を俟たずとも、本来・諸神一体であろう。ヒンドゥー教の調和的トリムールティの明確な記述はクールマ・プラーナ"kūrma puraṇa"に多く見られる(tistrastu mūrtayaḥ proktā brahmaviṣṇumaheśvarāḥなど)。学説で、日本における古事記・日本書紀の編纂(8世紀)までに天照大御神が最高神と位置づけられて全国やおよろずの神々を承認しつつも下位に置いたことや、後述する西洋一神教が他の神々を斥けてただ一神のみ有りとしたこととは、別の個性が感じられる。

※記事投稿後の追記で恐縮だが、パーリ仏典・長部24経のパーティカ経"Pāthika Sutta"(漢訳は長阿含の阿㝹夷経)には、沙門婆羅門のうちに梵天による創造説・自在天"Issara (īśvaraのパーリ語)"による創造説があるとして、釈尊が認知を示し、それを代弁し、尚且つそれらの創造説(他にもいろいろ紹介される)に執着していないという教説がある。釈尊在世から、自在天・イーシュヴァラ(シヴァ)による創造説などが認知されていたことの傍証として参照できる。

インドの神・天・デーヴァ"deva"ということは上の通りであり、仏教の経典にも登場し、現代の日本・中国・東南アジアなど多くの地域の寺院や宗教施設で、それぞれの祭祀・信仰の内に取り込まれている。
それは過去記事(2016年9月11日記事では主に上座部仏教圏を対象とした)においても語ったので省略する。
最後に、仏教の一見解を大智度論巻第二より要約・補足したもので示す。
(前略、仏陀は一切智と称されるが「天の神々もまた一切智だと称えられる」という問答。彼らが一切智であるはずはないとする) 天の神々は様々な芸術・文学に表現されるが、みな武器を手にしている。(芸術・文学は人間の心の所産であり)彼らはみな力の弱さを覚え、(作者たる人間の)心が不善で怯えているから武器を執る。彼らは苦を自ら除く術が無い。(元々芸術・文学は人の心の現れなのでその当事者たる)人間は、彼らを恭敬しただけで現世の憂いが晴れることが無い。人により、彼らを敬わずにいても、現世の快楽を妨げない。当に知るべし!虚誑にして実事無きことを!世間の衆生は業の因縁で輪廻がある。徳の因縁で天に転生し、半端なものは人となる。智者(文脈的に智者は覚者・仏陀"Buddha"を指す)は天の神々に依らない。 (中略) 仏(現世に現れた覚者)のみが仏の名にふさわしい存在であり、修行者は仏のみを敬って師とすべきである。天に事(つか)えてはならない。
※天の衆生は存在し、自ら転生できるとしても、敬う対象とすべきでない、とのこと。仏の三十二相についての尊い意義は大智度論でも随所に説かれるが、三十二相もまた修行者個人の因縁(法を聞く・思惟する・仏を敬うなど)の結果だと説かれるので「天の神々の武装・荘厳の容貌と変わらないのではないか?」と思われそうだが、それはそうかもしれない。修行者の功徳のための仮説・世俗諦であり(大智度論巻第二十九)、ついには無相・法身という真実を知り得るので、正統な仏教において三十二相は尊重される。



3.1 (#god1)

一神教(主にキリスト教)

キリスト教の神は、それら「形式的な多神=心の所造・所変(心によって作られた・変えられた)=被造物"creature"(仏教でいう有為法 saṃskṛta)」ではなく、「創造神・絶対的な創造主・造物主"creator (作者 kartṛ)"」である。
換言すれば、心そのもの=能造・能変なるものこそ、永遠不滅・絶対なるものとして示される。
※つまり、能造・能変なるものは心・神であり、大乗仏教でいう三身の「報身」や、唯識派でいう「三ある能変の識=意識・末那識・阿頼耶識」となる。心・神が永遠不滅・絶対なるものとして、大乗仏教でいう三身の「法身」や、中国・日本宗派(主に天台宗・日蓮正宗系)でいう「第九識・阿摩羅識(唯識派の流れを汲む法相宗では阿頼耶識が清浄になった大円鏡智を指す)」である。三身でいえば、法身・報身の意義を兼ねて「境智冥合」でもある。三身のうちの応身は、所造・所変なる心の外境(げきょう)・神の被造物となる。三身一体の教義では外境・有為法が真理の具現として仏に等しく、三位一体のキリスト教(主に西方系)でも人の子イエス・キリストの出現によって被造物たる人間の原罪(後述)が無くなったとする。
中論の観四諦品・華厳経の唯心偈などのように「因縁生・縁起・空・唯心(物心一如・融通としての唯心義)」の意義に通じる。

以下に、聖書および仏典の該当する記述をまとめて載せよう。
ヨハネによる福音書"John"1章1-3節 (latin): 1 Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος. 2 Οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν Θεόν. 3 πάντα δι' αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὃ γέγονεν. 「1 原初において言(ことば・ことだま)"Word"があった。言は神"God"と共にあった。言は神であった"la: Deus erat Verbum"。 2 これ(=言 男性代名詞Λόγοςに対応 la: hoc中性代名詞)は原初において神と共にあった。 3 万事万物万象は"All things, la: omnia"それ(=言)によって"by him, la: per ipsum"造られたもの"la: facta (omniaと同じく中性複数形主格)"である。それ無きところでは被造物も何一つとして造られなかった"la: factum est nihil quod factum est"。」 ※ラテン語で、3節の「被造物」は"facta, factum"とあるが、ギリシャ語では"γέ = ge"の文字列の語彙となっており、創世記"γένεσις, genesis"に関連付けられる。gen, 生命ということはすなわち神の所行であるから、所行=所生=所造=被造物とラテン語訳者が理解したろう。
ローマ人へのパウロ書"Romans"1章20-25節 (latin): 20 τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτοῦ ἀπὸ κτίσεως κόσμου τοῖς ποιήμασι νοούμενα καθορᾶται, ἥ τε ἀΐδιος αὐτοῦ δύναμις καὶ θειότης, εἰς τὸ εἶναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους... 「不可視なるもの"invisible"すなわち永遠の力"eternal power"と神性"divinity"とは、天地創造"creation la: creatura"以来、被造物"creature, things that are made, la: facta"において知られる。(それを否定したがる)彼らは弁解し得ない…」 (後略・21-25節) ※ラテン語で、20節の「被造物」は"facta"とあるが、25節や8:19-22節などのものは"creaturae"系(格変化を伴う)であった。"creātūra (教会: クレアトゥラ 古典: クレアートゥーラ)"は「創造すること」という行為そのものと「創造された物」という受動的なものといった、どちらの意味にもなる。精神作用とその対象とを包含する「三萌義」に似る。主な見分けは、単数形"Singular"と複数形"Plural"との差に見出せる。ちなみに、古代ギリシャ語で「kから始まる創造者・被造物にあたる語」は、同ローマ書より復元すると"κτίστης, κτίσις"である。

※原初とか天地創造とかといった表現は、仏教の因縁法・十二因縁(十二支縁起)だと無始無終に当たろう。その場合、神・テオスは無明・行・識に当たり、言・ロゴスは以後の有(概念や言語表現)までに当たる(残る生・老死は一切の被造物か)。より踏み込むと、能造の神と所造の言とが融通しているといえる。キリスト教の一神論は、仏教の十二因縁と比べて説明不足であるが、要旨は仏教のように「一切は因縁によって生じる」ということとなる(定冠詞を伴った"ὁ Λόγος, the Word"は別に検証の余地があるが、それは記事の話題を外れる)。「言は神と共にあった」という元ネタは旧約聖書の創世記"Genesis"に看取され、創世記1~3章の創造神話も概念・事物の認識に基づく心の作用という描写として解釈し得る。例として天地や植物などを次第に造るが、これは創世記が説かれる対象の人々の納得しやすいものを挙げた結果と思われる。人間は物心のついた時から既に認識されない万物が有って後に名前も付随し、それらを知った時には全て名前ある事物が想起され得るから、創世記の説は科学的原因や人類史における言語の発生や個人の人生における五蘊のプロセスといった実質的なものを飛ばした上での縁起が示されている。普通に読解すると、肉体ある人間よりも先に家畜という属性を持つ動物"κτήνη (複数形クテーネー 単クテーノス)"が生じる (1:25, ヘブライ語ではהַבְּהֵמָה֙) など荒唐無稽・眉唾話のようだが、だからこそ心の真実を示そうとした譬喩と解釈し得る。パーリ仏典アッガンニャ経"Aggañña Sutta"(漢訳は長阿含の小縁経など4つあり梵文はAgrajña Sūtra)では無始以来の生滅を繰り返す世の起源ごとに光音天より来た"sattā (複数形)"=人々・衆生がいて"sattā"という唯一の名称"saṅkhya"(概念)があったと説かれるが、これも個人の一生・因縁観に基づいている側面を見受ける。後の話も、どちらも神や衆生が名によって事物を分別したことが明示されるという共通点がある。苦の因縁の始まりは、前者で神の作った男女人が「神より食べるなと命じられた樹の実」を食べて目が見え・善悪の分別が生じた(その後は男女人や女を唆したヘビが神の裁きを受けて現世のように不自由な身となる=原罪が与えられる)とし、後者で衆生が"rasapathavī"(現代訳に味土、漢訳経に地味、梵文にpṛthivīrasa、注釈書アッタカターではrasāという神話的な事物の女性名詞と扱って"ラサーという名の大地"とし学者某はrasāがrasaラサ=味・汁という一般名詞の語源であるという趣旨の説と見る)という色・味・香あるものを指で食べて渇愛が生じた(その後は"rasapathavi"を貪って食べ続けると光音天からの性質が失われる)とし、共に説かれる。いわゆる性悪説のように見えるが、信仰・修行によれば、現世で原罪が赦される・罪業が消滅する。これらは仮設原罪・仮設罪業であり、一歩進んだ教理で本来は寂滅(本不生)といい、本覚・性善説ともなる(無善無悪・無記・中道、参考: 中論17章・観業品)。原罪有り・赦し有り、と知ることは人間の特権らしい。昇天も堕獄も「業(ごう・わざ・すること)"karma, opera, work"」に基づくので、一神教は神が人間を作って人間に世界を統治させたとして業の重みを持たせた。人が自ら堕獄してはならぬように道徳的な教え・律法や「愛の実践(隣人愛)」を説いた。

※「彼無きところでは被造物が一つも造られなかった」とは、動物や他人の心の因縁が自身には感受されない・量りようも無いという意義を示す。動物や他人の肉体に心の因縁が無ければ、彼らにとっての心の被造物=概念や感情などが造られるといえない。例えば、「他人が自分を恨んでいるor好いている」とかという詮索は実証されず(もし科学的に脳波を分析してデータに出ても信用するかは当人次第)、たまたま世俗においてそう看取し得るのみ。因縁の法を知るならば、畢竟、自己の信仰や修行が大事であろうという。同時に、現世の方便として他者との論議や他者への尊重がある。更に仏・菩薩や宗教家は、他者へ積極的な教化をするので、他者から見て尊い。他者の心=神性は量りようも無いが、しかも心=神性を尊重して自他ともに神の救いを得させる者がイエス・キリストであり、自他ともに心の因縁や多神教の神・梵天や色界禅などを超越した悟りを得させる者が釈迦牟尼仏である。心=神性"divinitas, divinitās"、心=無明即法性"dharmatā"・仏性"buddhatā"。個人の心の神性・因縁法を過去のキリスト教団・正統派の中で説けば異端視されてしまう。部派仏教に対する大乗仏教のように「秘密の教え・内証の理」となる。みだりに説けば多くの人の信仰を破る恐れがあるし、自己の心が解脱しないうちは言葉に心が蔽われて自ら解脱や昇天を妨げる。古代・旧約聖書の時代から、あえて説かれない心の真実は、賢人たちの内に知られていたろうが、みな釈尊の悟り(無上覚)には及ばなかったろうか。

中論・(24章)観四諦品18-19偈「もろもろの因縁の(=が・主語の助詞)法を生ずれば(生じるので)、我(龍樹菩薩)は『即ちこれ無(空性"śūnyatā")なり』と説く。また『これ仮名なり』と為し、またこれ中道の義なり。未だ曽て一法として因縁より生ぜざるは有らず。是の故に一切法は、是の空ならざる者無し。(衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義 未曾有一法 不從因縁生 是故一切法 無不是空者 yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe | sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā || apratītya samutpanno dharmaḥ kaścin na vidyate | yasmāt tasmād aśūnyo hi dharmaḥ kaścin na vidyate ||)」 ※一神教における神とは、空・心の因縁の異名であって仮名(けみょう)であり、創世記などでは人格があるように描かれているが、それも仮説的・比喩的なものと解釈し得る。実際、心の業(意業)ということは擬人化できるので、仮に人格を与えられるが、信仰の究極において真実はそうでないと知られよう。

十地経・第六・現前地(or十住経、のち華厳経に十地品として収められる)「三界に有らゆるは唯だこれ一心のみなり。如来ここに於いて分別して十二有支を演説したまうも、みな一心に依る。(三界所有、唯是一心。如來、於此、分別演説十二有支(十二因縁)、皆依一心。 tasyaivaṃ bhavanti| cittamātram idaṃ yad idaṃ traidhātukaṃ | yāny api imāni dvādaśabhavāṅgāni tathāgatena prabhedaśo vyākhyātāni tāny api sarvāṇy ekacittasamāśritāni |)」
六十華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品「心は工みなる画師の、種々の五陰を画くが如く、一切の世界の中に、法として造らざるは無し。心の如く仏も亦た爾り。仏の如く衆生も然り。心と仏と及び衆生と、是の三に差別無し。…(心如工畫師 畫種種五陰 一切世界中 無法而不造 如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別 諸佛悉了知 一切從心轉 若能如是解 彼人見眞佛 心亦非是身 身亦非是心 作一切佛事 自在未曾有 若人欲求知 三世一切佛 應當如是觀 心造諸如來)」 ※心"citta"を絵師"citta-kāraka"に譬える元ネタはパーリ相応部22-100経や雑阿含267経にあって俱舎論にも"skt: citrakṛtyavat (真諦訳: 譬如畫色與壁 玄奘訳: 如壁持畫)"と紹介される。漢訳経典にある心の原語はcittaだが、類義語に意"manas (パーリ語主格でmano)"があり、そちらが原語の時もある。例えばパーリ語ダンマパダは冒頭の偈に"Manopubbaṅgamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā(漢訳法句経・出曜経: 心為法本 心尊心使)"等とあり、心(意"manas")による善因善果・悪因悪果(善悪なんらかの意思・想念によって発言・行動=業があって心が善悪の結果・苦楽を自ら得る)を説き、後の「chāyāva anapāyinī (漢訳法句経・出曜経: 如影隨形)"」という喩えを見ると、心こそが本体であって物質的な物事は本体に従う影でしかないともいえる。

※因縁法として心は神と呼べる。修行の果報としても心は神と呼べる。因果倶時となろう。しかし、現世に苦を受ける状態として心は「被造物に付随した抽象的性質に過ぎないもの」となり、聖書で「心"kokoro, cor, cordis, καρδία, heart, hṛdaya"」というと、ネガティブな文脈に現れる(一例は先のローマ書 ἀσύνετος αὐτῶν καρδία = 無理解な・彼らの・心。"主のみこころ"などという場合の"こころ"は"意思"を意味して原語が"voluntas, θέλημα, will"となる)。しかも悪魔・サタンの温床とすらなりえる。「裏切り者のユダ」もまたサタン"Satan, Satanas, σατανᾶς"に入られたと聖書に扱われている(ルカ22:3やヨハネ13:26)。心は神とするにも、心の在り方や視点によることとなろう。当の華厳経唯心偈や「心是仏(般舟三昧経)・是心作仏(観無量寿経)」といった言葉の多い大乗仏教でも、やはり「願作心師・不師於心(大乗涅槃経)」や「謂己均仏(摩訶止観)」として心の悪の一面を誡める。十地経の「唯一心」も、「真心」でなく「妄心(十二因縁の無明に関連するもの)」を示した言葉であり、妄心だからこそ一切の事物が欲望によって不浄に顕現するという誡めを説く。聖書だとエレミヤ書17:9に心が万事において最も邪悪・欺瞞であって詩編53:1-3に無神論と罪(sin)の関係が言及がされ、マタイ15:19に具体的に「殺人ないし偽証・冒涜といった悪行の根源は心だ(精神"mind"でなく解剖学的な心臓"cardia"を意味するとも当時の科学的見解より考えられる)」とイエスさんが説く。心には一元性も多面性もあり(しつこく言うが一即多・多即一・無一無多、摩訶止観所説の一心三観の意義に通じる)、十界互具といった呼び方もできる。

とはいえ、仏教とキリスト教の相違点が数ある。
教義上、能造たる神(=唯心偈での心など)が、被造物(所造・つくられたもの・有為法)に対して「絶対的相対」となっている点であり、唯識派の教義でも、そういった「能・所を分けること"grāhyagrāhakavikalpa"=能執・所執を分別す」を虚妄分別"abhūtaparikalpa"と呼んでいる(弥勒による頌への世親菩薩による注釈書・中辺分別論"madhyāntavibhāgakārikābhāṣya")。
「能執・所執」とは、執着を行う心(唯識教義では意識・末那識・阿頼耶識という能変3つ)と、執着を受ける事物のことを指すが、ひいては「行為者とその受動的なもの全般=主体・客体」を指すと解釈し得るし、心を観る修行者が修行の過程で「能執たる心を過度に嫌う(または能造たる心を過度に尊ぶ)」といった見解に陥りやすいことを牽制している。
大乗仏教の真理に近い立場では、そういった「能所(=主体・客体=行為者・受者)」に関する分別・差別が許されない。
空の教理に寄せても、「非空・非不空」と何重にも否定して「是名中道義」と、中立性を示す(中論22章・観如来品では空も非空も不可説で青目釈には非空非不空すら「不応説・説くことができない」とする)。
無論、方便"upāyakauśalya"・仮名"prajñaptir upādāya"として、物事における一応の差別・前提的な差別・仮説的な差別を示すことは、釈尊・諸仏の教化において有り得る。



3.2 (#god2) キリスト教の神・唯一神についても、固着した概念・名称としての神を否定せねば、当然、神の真実を見失い、「神という名の無形被造物(虚妄・虚構の神)」を心で拝んでしまう。
それにより、日常生活や宗教行為の多くで顛倒・障碍を生むこととなろう。
その末に、キリスト教の修道の目的を見失う恐れもあり、神・主のみこころに背いて終わる。
無論、方便としては、信仰修道におけるある段階まで、その姿勢でも問題が無かろうが、くれぐれもその姿勢のままに一生を終えてしまわないようにすべきである。

やはり、キリスト教は方便・仮名の意義に欠いてセクト主義的な差別性が強いところに注意すべきである。
それが、日本の文化系学者たち(一部)が「二元論・二項対立(唯物論・唯心論のようなもの)」として忌み嫌うキリスト教の教説で、随所に現れたろう。
キリスト教や同じく一神教のイスラム教の歴史で、顕著に発露し、禍根を残した。
※日本の文化系学者たち(一部)の見解は、彼らの思想に基づいてキリスト教を蔑む意図の主張をしたか、単なる浅学に基づいた偏見だと看取される(彼らもまた二元論者ではないか?真如・空において二元論者は無だが。仏教精神で大事なことは自分の思考や言動を注意して自覚すること)。キリスト教でも、「正しい信心のある人(仏教でいう真面目な修行者・八正道の人)は他者を蔑まない」という一元的立場があり、ルカ18章に譬喩(アヴァダーナ的なもの)を以てイエス・キリストさんが説示する。キリスト教における不戯論・無諍とは、正しい信仰修道の果報であろうから、教祖イエス・キリストは方便において差別的教義を多く用いた。志向された真実は、仏教の教理と同じく無差別平等であろう。「因縁(阿含)・空(般若)・唯心(十地・華厳)」を引き合いに出して先述した。言葉が異なるものの、もし真実を唯一のものとすれば果報もまた同一である。方便・法門は一ならず。aneka, anāna, advaya...

歴史上、キリスト教団・教派は、小乗仏教・説一切有部に対する大乗仏教のような無差別・平等の教理を強調するということが無かった。
イエス・キリストさんも、大乗の目線で見るならば、聖書に伝わるどんな教説・所行であれ、方便であって本当は心が平等のようだったかもしれないが、他人および諸法は憶測・推量に限られる。
※今でこそ、ローマ法王・教皇・フランシスコ1世さんなどが融和的に説教をなさるものの、自分たちの教義は「臭いものに蓋」という扱いをしているような違和感を覚える(和平・平和について積極性があっても"無セクトという名のセクト主義"や"積極的融和姿勢に基づく分離対立"が伴いそう)。異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者などが主にキリスト教では救われないと扱われるが、それは形式的なものから蓋然的に精神性が推定されるのみであると同時に、自分たち信者が現世で信仰を守る方便となる。もし心が正直であれば、異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者も確かに神性=心の真実に通じて救いもあろう、といえる。フランシスコ1世さんはそのことを知ってか知らずか、誰でも救われるという旨を説く。しかし、キリスト教が積極的に、そのヒューマニズム・宗教多元主義的な主張をし続けると、自ら修道の足元を崩す恐れもある。今のカトリック教会に温かい目を向けよう。

私がキリスト教の神やイエス・キリストさんのお振舞を語っても、推量の域を出ない。
誰がどう、聖書の記述に則っても、言葉・言語表現・想像の域を出ない。
いずれも、心の因縁による副産物・所産=被造物・有為法としての神やイエスであり、真実の神やイエスを説くことはできない。
仏教でも、心は実に「不可得・不可説」である、と私が過去記事および「萌えの典籍」に多く綴ってきた。
真実は、信仰や修行が専心された結果に智慧があって柔軟・正直・清浄な心において見られるもの(自我偈・般舟三昧経など)であろう。
しかも、何であれ世俗の事象は「因縁において自分のもの」でしかない(真実においては無我・無我所、無非我・無非我所…だが)。
その点で、他者に説き示すことは、実に困難である。
※先に引用されたローマ1:20節に「不可視なるもの(性質・形容詞→抽象名詞)"ἀόρατα en: invisible la:invisibilia "」とあることも、その「不可得・不可取・不可思議・不可説、言語道断心行処滅」のことを指すかもしれない。「不可視ないし不可得・不可説(=真実)」とは、単に電波やX線のような不可視の物理的存在でもなく、心・精神のような五感(五官)を通して認識されない性質・作用の実体(行動や脳波検査などで推定できることは別問題)でもない。それが一神教の法身的な神性"divinity θειότης (divinitas 法性dharmatā)"や報身的な力(作用)"power δύναμις"である。応身的な神や現世の報いは、創世記などの聖書文面や、現世に顕れた縁起・虚妄(個人の認識を前提とする形而下のもの)となることになるが、法身の神を知る手掛かりとして、信者は尊ぶ必要がある。私による理解は大乗仏教に基づく。なお、ローマ書に偏ってもよくないので、神性という言葉を他に探した。コロサイ書2:9に少し異なるギリシャ語形で"Θεότητος"とあり、神性がキリストの身に充満して宿っており、信者も彼のもとで(ἐν αὐτῷ 所有代名詞・対格)神性が満たされているとし、人間の伝統(世俗の習慣)"παράδοσιν"に基づいた空虚な哲学"φιλοσοφίας"に依るべきでないという。依憑仏説莫信口伝(法華秀句の説だが増支部カーラーマ経はより徹底的で教祖・師匠の説についても形式的な信用を推奨しない)・依法不依人・依義不依語のように。固着化したユダヤ教・バラモン教(祭祀)や、ギリシャ哲学・六師外道といった思想哲学を排斥してキリスト教・仏教の立場を明確にした。そういった教説は、行者・信者の解脱や昇天のような宗教的目的を達成するために用いられるという前提条件において正論だが、それを知らない人からは「上座部仏教も大乗仏教もキリスト教も教祖権威主義だ」と誤解される。



言語表現への拘泥により、衆生の心の顛倒が直らず、誤解や執着を生じさせて「神という名の無形被造物」・「悟りという名の迷い」が起こる恐れがある。
いわゆる虚無主義や極端な本覚思想が、現代的に槍玉に挙げられる。それも、中論など大乗の進んだ教義の目線からすれば、みな寂滅であって顛倒も執着も真如の無・空となるが、同じく中論(24:11偈・蛇のたとえなど)や大智度論(巻第十八・塩のたとえなど)に説かれるよう、空相を妄取すべきでない。
上座部系の仏教であれ大乗仏教であれキリスト教であれイスラム教であれヒンドゥー教であれ神道であれ、現世の苦の自覚があるか、宗教的な行為(修行・信仰・祭祀・儀礼などの行為全般)に義務感がある場合、自分たちが知り得る教説の如くに行ってゆくことが第一となろう。

奉ぜられるものが「一神・神性」であれ、「真心・仏性」であれ、無常の"anitya"有為法"saṃskṛta"・朽ちる"corruptible la: corruptibilis"被造物"creature la: creatura; factus中性単数factum"に執着すると、苦"duḥkha, angustia"の報い"vipāka; phala, merces"を受け、神や心の真実を見失うという教説は一致する。
各々の教説を信ずれば、各々の教説に相応する果報がある。
その意義を、キリスト教徒も仏教徒も他の宗教信者も無神論者も無宗教・現代日本の一般人も、理解し、各々の目的とする物事を見つめ、見失わず、一生懸命に生きてゆくことが肝要である。



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起草日: 20180110

うだつの上がらない昨今の精神状態に加え、同日は動画制作作業も兼ねながら、同日中に8,000文字程度(引用された典拠の文を含む)をメモした。
この日は午前1時台起床で22時前就寝である(普段は2時台起床で19時ころ就寝)。
※最終的に、当記事は以上で20,000文字を超えた。

一神教に関する説について、注釈などが雑多に入り混じっているため、後に記事の話題が無くなったとき、別途「整理された記事『一神教と因縁観』」として投稿してもよいと思う。
どこの国の神でも、一神教の意義における神でも、心の真実・因縁・空・精神の象徴として究極的には同義化するようであり、そのことは普通の学問的研究(憶想・分別)の領域で知り得ない。
宜なるかな、中論4章8-9偈は、梵文と鳩摩羅什漢訳版とで解釈が異なると文献学者・論理学者に主張されるが、これも同じことである。
「空によって(梵文: śūnyatayā)」も、「空を離れて(漢訳版: 離空)」も、論理は同一線上にしかなく、論理の依拠・因縁たる概念・名称も、同じことに過ぎない。
多神より一神を推定するのであれ、一神ありきで多神ありと主張するのであれ、悟りの人にとっては不一不異(不一義不異義)である(無論、学問の人はこの真理性を形而上学的だとみなして学術の領域より除く)。
ほか、本文中にリンクとして原文・典拠を示した記述が多く有るが、それ以外に、本文中の内容と多少の関連記述を以下に設置しよう。

仏典における神・魔について
「萌集記 イデオフォノトピア遊行の事 四会の注釈」より抜粋
注釈: なぜ仏典には、人間に不可視のはずの諸天(いわゆる神・天使・天子)や悪魔が登場し、現世の人間たちと場を共にし、人間たちと言葉を交わすことになるか?諸天も悪魔も、不可視の作用から名を設けられており、当然姿形は無いし、目で見られることも無い。宗教では外界の事物や現象や精神作用などに名称や容姿や性格を付けており、現代世間のフィクション作品はその延長として想像されたものである。諸天とは人の感情の快楽に通じるものや、本人が主観的に快楽を得ずとも世人が徳と感じる行動などの権化である。悪魔とは人の感情の苦痛に通じるものや、本人が主観的に苦痛を得ずとも世人が罪と感じる行動などの権化である。世間の漫画・アニメ・ドラマ等でも善の自己(良心による呵責)と悪の自己(欲望による汚染)とを心に想定して「天使と悪魔」に擬人化する。

 例えば、釈尊が成道せんとする時に悪魔は妨害せんとし(直前に受けた乳かゆ供養の食事による快楽や長時間の坐禅に徹することによる食欲・睡眠欲や肉体の苦痛などに心が奪われることは魔障であって魔軍が責めるようなもの)、釈尊が成道した時に諸天は徳を讃える。イデオフォノトピア本文は三会に於いて梵天勧請のエピソードを紹介していて同様である。摩訶迦葉尊者が主導した大阿羅漢衆の経典結集もまた、一切の善悪が絶えた中で再び萌(きざ)した善の心・慈悲・菩薩の心に依るものであり(大智度論巻第二には迦葉が諸天より「当に大慈を以て仏法を建立すべし」と勧請を受けたとし阿含系の仏般泥洹経巻下にも「吾等が慈心、四阿含を写す」とある)、同様である。菩薩精神は釈尊や仏滅後の迦葉・阿難尊者にも顕れたと。梵天・梵住は無瞋・無執着にして慈悲深い処という教説が長阿含経・パーリ長部の「三明経"Tevijjasutta"」に有る。梵天は大変に幽かで奥深い処であり、「見ないことで見られる境地」といえる。その信仰で、梵天・帝釈・四天王・浄居天(大自在天maheśvara)による仏法守護の意義も、第六天魔王による仏法壊乱の意義も成立する(みな非有非無・仮名・自分の心の出来事だから)。

 また、釈尊が涅槃に入って世を去るならば、悪魔は欣喜雀躍し、諸天は色界下位の者が有漏の仏弟子と共に歔欷悲泣し、色界上位・無色界の者が無漏の阿羅漢と共に世の無常を観る。経典の世界に起こる諸々の異変・天変地異も、「その時の阿難尊者(ほか経典編纂者)の心のあらわれ」を表現する。これらの現象を釈尊が語った場合は、心の相を示して縁起の理法を気付かせようとする方便である。萌えの典籍でも、当然「化(け)」たる存在が、善ならば徳を讃えたり、悪ならば悪を重ね、様々に仏法を示現する。地獄も天国も心の住処、「依報(えほう)」である。そこに住む心、「正報(しょうぼう)」は、どのような心か?清浄萌土抄*によって仏教の仏国土・浄土思想と「依正不二」が解き明かされる。

 ともあれ、我々は、経典の文字通りに読解すべき信仰がある。文字通りとは、つまり、業によって死後にも天界や地獄などへ赴くと信ずべきである。釈尊がシッダールタ王子としてお生まれになったり、菩提樹の下で悟りを得られたり、衆生済度のために法をお説きになったりすると、その場に花が咲き乱れる(華が雨る)などといった現象を、文字通りに信ずべきである。釈尊の涅槃の折に、草・花・樹が枯れて雷霆霹靂が世を震わせるといった現象を、文字通りに信ずべきである。それは、やはり、心と向き合う結果を得て、縁起の理法を観ることとなる。どのように地獄や天国(天界)といった六道(修羅道を除くと五道)を流転輪廻するか?十二因縁(十二支縁起)にある心の因縁(心の存在・認識・作用など)が、地獄や天国といった六道を流転輪廻する。悪い行為を悪い行為と自覚して悪い気持ちを生じ、善い行為を善い行為と自覚して快い気持ちを生じる分別は善悪の業報を示し、縁起の理法を観る。最後には善悪概念・苦楽を断じ、六道・須臾刹那の転変・生死を滅し、流転輪廻を止めて還滅・解脱となる。言葉としては、それだけ。

きざみこまれた、カラクテール・キャラクター。つくられた、サンスクリタ・クリーチャー。(やや学術・やや民間語源説)
「本萌譚 異伝④」より抜粋
拾主の注釈『当世でいう英語のキャラクター"character"は、「特徴づけるもの・性質」を意味する言葉である。古代ギリシャ語でカラクテール χαρακτήρ といい、語源の異なる梵語カラナ"karaṇa"(作ること)と同じく文字を意味する単語でもある。古代ギリシャ語で文字を意味する場合もあることは、「刻み込む」という原義に基づこう。あたかも彫刻師が精巧に像を刻むように、諸々の作品は、多く人物設定を作って複雑に絡ませる。人の心の分別"vikalpa"・思い込み"vitarka"が、何かを「特徴づけ」て心に形成した。即ちキャラクターとは、人が精神や知能や言葉で作り出すものである。つくる"OJ: tukuru", 作"OC: tsak",  कृ √kṛ, create... それによって有為法・サンスクリタ"saṃskṛta (よく作られたもの)"がある。有為法はまた、さながら種々に彩られた絵画や、柱や梁の多い壮麗な楼閣であるが故に虚妄である。心は創造神・クレアートル"creator"であり、一切の有為法は一心=神"god"による被造物である。心への偽り(相対的な悪)が堕地獄の業となることは世界宗教の通説である。一神教の真意は当世の人の知らざる所であり、信者も謗者も神を「神の名」の下に置き、虚妄の無形被造物と為している。心もまた心の被造物であり、真の心=神(じん 精神 ṛddhi, or sura deva deity god)=我(アートマン ātman)は無とも非有非無ともいい、不可得・寂滅である。現世の苦を知悉して解脱した者は、善巧に心をキャラクターと為して道徳を示すことがある。跋聖はそれを望まれる。聖者もまた、我々凡夫によって聖者の名でキャラクター化をされており、我々は自覚すべきである。サンスクリタとしての仏・如来は、三身のうちの「応身・ニルマーナカーヤ"nirmāṇakāya"」であり、我々の業・カルマ"karma"や行・サンスカーラ"saṃskāra"に応ぜられた相となり、個々人で異なり現る。この時、仏は萌えキャラとして応現せられる。応身を知ったならば、法身・報身を知ることで仏の威徳を知る。経説より心を学ぶように、応身より法身・報身を知る。それは仏の慈悲に通じ、己が慈悲を養う。諸仏・諸萌はみな歓喜せられよう。注釈が長くなって愧じ入る』
当記事注: 宗教語源説"religious-etymology"は宗教の醍醐味ともいえる。聖典の編纂者・説法者らの知る語彙のみで不足はない。聴聞者の信仰や修行に資することが期された。萌えの法門の立場と、既成宗教の説を同時に示した文章は、雑萌喩 (六)である。和讃→「花の名たれか言ひ初むる 物に名づくる心とは いつにもほとけ居りぬらし 名をもちゐるは人のわざ」

萌えの典籍中にあるブラフマー"Brahmā"語源説
「萌集記 三会」より抜粋
拾主のたまわく「古の能耕心田師、菩提樹の下に於いて始覚あり。衆(もろもろ)の魔軍を破りて仏土は空無の清涼となれるも、時に慈悲心を観ず。師の思惟したまわく『三界の一切苦を度せんと欲するも何んが妙法を以て鈍根の衆人に教うべき。言語の法は能く諸の顛倒を生ず。譬えば人有りて毒蛇を摒除(びょうじょ)せんに、把むこと難くして還って毒苦を受くるが如し』と。爾の時に梵王(ブラフマー)及び諸天、合掌礼拝して彼の前に現れて説法を請ず。梵王の告げたまわく『唯だ願わくは世尊、人が間にして塵垢の微薄なる者あれば此れが為に法を説きたまえ。応に大悲を垂れたまうべし、然らば言語の法は能く諸の善根を生ぜん』と。当に知るべし、是の如き梵天衆、師の慈悲の応現なり。この故に慈悲并びに喜捨の四つをば梵住"Brahma-Vihāra"と名づく。又た、梵の義は固有名詞の余(ほか)に清浄の義あり(梵行"Brahma-Carya" 梵音等)。清浄は是れ萌えの真如の体なり。往古に於いて原義(語根*bʰerǵʰ-)は長ずること"grow, to rise, become high, to swell"なり(攝萌敎脚注)。長ずることは是れ若芽の萌え"bud"に異ならず。是の如く能耕心田師、慈悲心より萌えを観じて衆人に説きぬ。自ら萌土を養い、他の善根をも生ぜしめん」

当記事注: このほか、觀萌私記・末・攝萌敎の現代語注釈では、サンスクリットの語根"√bṛh"を例に取って語る。そこでは、萌えとブッダとブラフマーということの類似性をも説明してある。いずれにしても、日本語やインド言語の動詞語根があり、その名詞化であるという言語学的共通点があるし、原形の動詞の意味が類似する。人の名称の元は行為に基づく、という語源説は本記事にも例示された仏典・アッガンニャ経"Aggañña Sutta"(漢訳阿含で小縁経など)にも見られる。過去記事(2017年11月20日)で、ブラーフマナ"Brāhmaṇa"の言語学的語源と、パーリ語経典における原形の考証をする際、この教説を参照した。

フィクション人物のリアル応現と、歴史的実在人物の実在性について "fiction and fact (先のヨハネ1:3のfactumとヨハネ1:3・ローマ1:20のfactaは男性単数主格factusの格変化形で英語fiction, ラテン語fictioに似た意味がある。ラテン語で別に中性単数主格factumで英語factと同義の単語があり、どちらも中性名詞としては同じum形の第二変化で分別をつけがたい。英語のfictionもfactも対義語のようだが元は神の被造物として虚構"fiction"でも事実"fact"でもあり非実非虚という真理性・二面性に基づいた派生語のようである)"
「本萌譚 異伝④」より抜粋(本文も注釈も原文中のもの)
 拾主はここまでの話を終えて補足せられます。「かの萌尊・跋聖の、このご説法は、いわゆる『萌風』の教示である。慈悲を持ちながら、空・無我の理法を知ることで菩薩行を毅然となし得るという道理である。萌風に関して、キャラ無我・ストーリー虚妄と知りながら菩薩の像(心の像・偶像・観念)を勧めるという彼の願望を述べ、聴聞者に実行を求めた」尊者は直ちに問いを発しました。「跋聖さまに弟子がいらっしゃるとして、実際に所説の萌風の物語をお作りになった方はいらっしゃいましたか?」拾主は少し黙せられてからお答えになります。「当世に菩薩精神を感じられる素敵な物語があれば、それだと思ってよい。当世に無いならば、跋聖の弟子と考えられる人がいても誰も作らなかったろう」尊者は、「さて当世に、そのような作品がございましたか?」と思いながら、返答をしました。「・・・、今を生きる私たちが正しく行動せねばなりませんね」と。意味深長な拾主の言葉の意義を得た尊者は、使命感が高まりました。

注釈: 釈尊・釈迦牟尼仏・瞿曇悉達多太子、ガウタマ・シッダールタ・ゴータマ・ブッダ"Gautama Siddhārtha, Gotama Buddha"は実在したか?現在に経として伝わる所説を説かれたか?説かれたと思うならば、既に説かれている。過去の事をどう想定しても、全て実在のはずが無いが、「これは事実・あれは虚構」と人は浅薄な基準から分別する。経の諸説を疑えば、(経が示すところの)仏法への信頼を失う。それはなぜなのか?心の因縁により、釈尊も諸経も実在するし、実語が有る。経の意義を汲み取るから、信ずべき仏説となる。「仏は実在したか?経や法は実語か?」という議論・思考は既に滅んだ。その議論・思考に心が著(じゃく)するならば慧眼(えげん)を破る。法華経・如来寿量品と中論・観如来品の所説の如し。かくの如く解(げ)せば、ただ信心と修行とが肝要である。ここでの尊者は、既に戯論寂滅の位につき、心服随従し、菩提心を発している。「当世に事実が無いと思うならば過去世にも事実が決して無い・・・、現世の我らがどうあるべきか?」尊者は拾主の亡き後に「歓喜奉行の人(素直な心で実行する人)」となる、ということが尊者名義談に示される。