2017年3月23日木曜日

「念」による端正(たんじょう)な顔の利益 ~ 色心の相応



色心の相応(便宜上の呼称)について

「色法」・「心法」の色心二法が相い応じること、ここでは世間でしばしば取り沙汰される顔つき(顔貌・人相)が心や想像に影響される現象(相呼応すること)を様々な面で論じる。

さて、仏教の瞑想である「止観」の「観」では、心身の状態に「念(気を付ける・注意深くすること・前々回記事を参照)」を置く。
姿勢や呼吸などの有様を意識し続ける(数息観・武士の修道・現代ヴィパッサナー瞑想・マインドフルネス瞑想など)。
止観の「観」とは、サンスクリット語で"Vipaśyanā (ヴィパシヤナー)"といい、「分けて見る」と直訳するが、この「見る(観る)"paśyati"」とは「(知能・精神で)捉える」というニュアンスの√dṛśの現在分詞であり(概念で構築された見解のことを√dṛśから"dṛṣṭi"ドリスティやパーリ語"diṭṭhi"ディッティと呼ぶ)、視覚的に「見る」という"look"に通じる√lok "lokate (ローカテー)"の意味ではない。
つまり「分けて見るVipaśyanā」とは、普段の、心の思いや体の行いがある自分とは、分けられた立場の自分が「(知能・精神で)見る・捉える」という意味である。
私は、呼吸などの意識に集中できない人間であり、実践的な「観」の修行をしていないが、日頃、一挙一動(行住坐臥の四威儀など)を擬似的に客観的視点(一応の客観・前回記事既述)から見ることで抜かりの無い行動を意識している。
日常生活では些細なミス(失念)も多く、思い通りにゆきづらいが。

そのように威儀が整っている人が「(世俗的な意味でも)顔つきをよくしたい」と願うならば、顔も整ってゆく。
表情が冴えて頬は垂れず、口角も下がらず、目つきは明朗として彫りも深くなる。
歯のかみ合わせの悪い人が良くなったり、一重まぶたの人が二重まぶたに変わるであろう。
人(先天性・年齢など)によって限界は異なろうが、可能な範囲で変わったり維持されることは有り得る。
・・・忌憚なく書いておきたいが、そういう「願い」を仏教的に捉えると「卑しい!」とか「邪(よこしま)な執念だ!」とか「臭い奴の所行だ!」と思う人がいるのではなかろうか。
そういう「願い」が無いような人でも、念が保たれるならば、自然と同様な顔つきとなる。
この「心の在り方が一挙一動・表情などに通じて顔貌に作用する」という道理に基づいて人の顔を見れば、普段から意識が薄いような人の顔を見抜くことができる(実際のことは断定しないが)。
念・意識がありすぎた表情でいると「慢性便秘に腸捻転を起こしたようなツラしやがって!」とからかわれる。

様々なスポーツの選手たちは大概、顔つきがよい(精悍な)のかもしれないが、知識に裏打ちされた部分が少ないと、スポーツ選手であっても抜けたような顔つきとなる(日本人の一部は海の向こうの○○半島の人のような顔になる場合も多い・それは生まれつきかも)。
また、子供の時に可愛らしかった顔(美醜のセンスに基づく)の子・・・私の下の弟などもそうだが、大人になるまでに顔の力が抜けて生来的・親譲りの顔の美しさが失われる場合もある。
それも、先述のような「意識・念」に欠いて遊びほうけるなど、物事の「客観視(便宜上の客観を言う・前回記事既述)」を行わない人生の中で後天的要因として起こり得る。
「大人になるまでに人間はみな往々にしてそうなるものだ」というのではなく、同じ大人でも、目の大きさとか目の開き方に差異があるよう、子供のころは同じように丸るくて大きい目・円らな瞳であった子供同士でも、育つ過程に「自己への客観視・客観的な自我意識・反省思考」の多寡があれば、それに割と応じた顔の成長・発達がある、と言いたい。

これは「一生スケールの進化論」であるから、普通の進化論で言えば、あるヘビの種族が高山に住んでドラゴンに進化するものと、ジャングルに住んで大トカゲに進化するものとがあるとしよう。
人類の共通祖先と仮定するホモ・サピエンスが、各種ネグロイドとなる場合と各種コーカソイドとなる場合と各種モンゴロイドになる場合などがあることも、突然変異の場合を除き、住む土地や同時に住まった同種の個体との相関性で変化が有り得ている。
普通の人間を例に挙げると、似たような子供、極端に言えば双子であっても、当然発育環境や、短期間の「意識・念」の在り方で顔の変化は有り得てしまう。
可愛らしい顔であった下の弟知的障害を持つ彼は、まさしく、同じ兄弟ながらに生き別れたり、顔とは別の先天性を原因として、可愛らしさを失う結果を得た事実をありありと教えてくれる。

横顔に分かりやすい顎の後退・アデノイド(下顎の頤を指す)の人は、先天的要因によってアデノイドであるよりも、後天的に鼻呼吸を意識しなかった(口呼吸)の結果(念が薄い果報)であると思うべきである。
人によって限界はあっても、今は日頃の努力で、可能な限り顔つきを矯正することができる。
資本主義・物質文明においては好き勝手に美容整形・外科手術などを行えるであろうが、よほど酷い事故に遭ったなどという状況でない限り、「自然性」を重んじる人間的な発想から、日頃の努力の積み重ねによって顔つきの改善を願うべきである。
時として得られないものもあろうから、その努力が成される人こそ、得られないものは得られないとして明らかに諦めることができる。

それも人間の内面の進歩として喜び、その時、真の意味で「良い顔」が得られよう。
この「良い顔」とは、人に対して卑屈にならない心で、ありのままに顔を見せられる、という意味である。
今は上手く振る舞えない人であっても、いいや、人に見せられない間に努力を、思う存分、気にせずに積み重ねればよろしい。



個人的な経験など

思えば、私は小学生のころにTV番組で「モデルやアイドルの顔写真を見つめるなどの自己暗示でモデルやアイドルのような顔になる」という道理にうなずく時があった。
限界や程度の差こそあれ、色々な世間の在り方から、蓋然性のある話だと認めるに至った。
疑似科学云々、ということは問題とならない。

当時認識していた世間の例を挙げると、とある生物の分野を研究する学者が、対象が獣一般でもサルでも魚でも、顔がその対象の生物と似ていたりする。
人間が認識するその生物の顔つきが人間の認識し得る範囲で似た特徴を備えて人間の顔に現れた。
その生物に接したり写真を見続けたり頭に思った結果である。
また、飼っているペットと似たような顔つきの飼い主も、リアルなりテレビなりで確認されたろう。
これはマンガのネタではなく実際にいくらか見られた。
それは飼い主が似た顔のペットを選んで飼った(無意識的・意図的のどちらも)という経緯も考えられようが、似ることの先・後がどちらにせよ、飼い始めてから更に似るようにもなる。
それらの「不確実な認識・経験のみを根拠に断定した」というのではなく、経験を基に情報への信頼を持ったということを言いたい。

また、中学生の時は誰よりも人目を気にして学生生活を送っていた(それも中2の12月までだが)。
例えば、少しでも笑いを浮かべるとキモがられるのではないか、など、心と表情とを御していた(実際に微笑みなどを浮かべた結果あまりしゃべらない同級生らに陰口などをされた経験が数度)。
そのように周囲の人間を「気にしすぎ」ていた。
冒頭にいうような「念」を保つことが多かった(今ほどの理解が無いことに加えて厨二的な憧れのために死んだような顔つきを思って過ごすことが多かったので目つきは良いといえない)。

様々な経験が幼少から重なってきたところ、インターネットの情報の取捨選択と摂取によって裏付けられていった。
決して「妄想を強めて取り返しのつかない偏頗な妄信に至った」ということではない。
私の顔・・・オレの顔を見ても信じられないのか!!(写真後掲)



現在の私の体は、善悪の業を反映しやすい。
仮に設けられた仏のエッセンス」のためであろうか?
2013年ころは頬杖をつく習慣(主に左手・左頬)があり、頬杖を多くつけば頬骨が出るようになった。
その習慣をやめると、1週間~1か月と思われる期間の内に引いていった。
このように骨格レベルでも、変化しやすい場合がある(部位・年齢・個人差などがある)。
悪い習慣をやめなければ「形状醜陋(ぎょうじょうしゅうる)」になる、という恐怖の作用をなす「仮設エッセンス(心の中の仏様のおさとしよ!)」を感じている。

少し甘いものを甘いものとして口に含んで食べると、肌が感応して痒くなり、顔や頭皮にニキビ(毛嚢炎?)が発生する。
甘いものを食べるということを止めずにニキビを対処するにはどうするかといえば、困難な話である。
私に発生するニキビの原因の一つや二つが判明しているならば、できることから行ってゆこう。
仏教的には、行わないことを行うということであり、甘いものを食べるということをやめればよい。
その方が仏道にとってもよいのかもしれないが、例えば母親から受ける食物について、全ては食べておきたい。
例えばおかゆに甘いものをぶち込むことで味覚に知覚される甘さを薄めると、おかゆの方が不味くなってしまう恐れがあるから、甘いものならばコーヒーなどを供して食べたいものである。
コーヒー・茶・牛乳などで中和されても、ニキビが発生するわけだから悩ましく思う。



経典に説かれた美醜の果報

記事タイトル「端正(たんじょう)」や、対義「醜陋(しゅうる・しゅる)」の語は、多くの経典などに載る。
主に、何らかの因縁の果報を説く時に用いられる言葉である。
自著・觀萌私記に連なる著作に「清浄萌土抄」があり、「抄」と名付けているため、何らかの仏教書の引用文が載っている。
この「清浄萌土抄」には、経典ではないが大智度論(うち巻九十三所載の浄仏国土品、般若経典浄土品の注釈)を引いて萌土の衆生の相貌を示してある(大智度論は般若経典の注釈書であり該当部分は元の経典と関連した部分であるから実質的に経典と同様であるとも言える)。
また、萌土とは萌えの報土であるから、報身の萌えも応身の萌えも平等に萌相(萌えの相)と萌心(萌えの心)があるし、萌相に個性的な違いがあっても個性として尊重される心の平等さも説いてある。
※本文の新字体や"眾・緣"繁体字表記を旧字体に直しておく。
此の土の敎主・萌報身、願を發して言わく「我が國土の衆生は端正(たんじょう)なること華の如く、身の相は嚴淨(ごんじょう)にして醜陋(しゅうる)有ること無からしめん」と。
・・・佛家・大論云: 或有菩薩雨諸華香、幡蓋・瓔珞以爲供養。復作是願「令我國土衆生端正如華、身相嚴淨、無有醜陋」。如是等種種好色因縁。
(乃至) 群萌は萌報身の等しく愛すべき所なれば群萌の間にも差別の心無し、柔和圓滿なりと云うべし
(乃至) 其の土の萌類、女人の不淨なる孔を持たず。長じて聲・形の差ある耳(のみ)。是れ雌雄男女の別に似るも無きが如し。故に佛家の大論も經を引きつつ釋して男女相をば「菩薩は是の如き麁業の相を遠離す」と説きたまえり。本の身男子ならば陰藏相を得。この故に佛家の大論も陰藏相の因縁を明かして「多く慚愧を修めて邪婬を斷つに及びたり」と説きたまえり。
諸の彼等の、形の差別は前世の名殘にして、心に優劣の分別を持たねば差別を生まず、唯だ色・聲の境に依りて區別する印(しるし)なり。
大智度論は竜樹菩薩(龍樹)の撰述かどうか、という論議について、毎度の通りさしおいておく。
竜樹菩薩に仮託した別人の書であるとしても、紛れもなく空観に優れた人の言葉であろうし、方便として仏国土の衆生の「端正・厳浄・好色」を言っている側面はあろう。
特に、「端正・厳浄・好色」の基準は、当時のインド(および広義の中央アジア)あるいは中国の美的センスの上での表現というよりは、色々な人にそれぞれある美的センスを踏まえた上で、それらを超越した基準ではないかと考えられる。
つまり、「仏国土の衆生は端正であって端正ではない(端正でなくもない)」のであろう。
仏国土の衆生の心において人の外見などに対して「端正・厳浄・好色」という言葉が浮かぶような価値判断(分別)の心が無い境地を、あえて逆に「端正・厳浄・好色」の身・相を有していると喩えていると考えられる。
隠喩というか逆喩というか、一種の譬喩・レトリックであると私は考えている。
竜樹菩薩の中論の見解に則れば、「端正」と「端正でないもの=醜陋」という相が共に確認されてそれぞれの名称・語句が成立するわけだから、仏国土にはそういった名称・語句は最初から無かろうが、あくまでも名称・語句のある娑婆の立場で方便として説いていると、私は言いたい。

しかしまあ、他の様々な方便・方等の仏説経典に、善人とされる者の「実際的に端正な身・相」のことは説いているであろうし、反面、悪業の果報が「形状醜陋」ということも説かれていよう。
結局、この大智度論などに見る浄土の御利益みたいな教説は、譬喩の一種と理解してもよいし、額面通りに実際の功徳の果報・御利益として信じてもよいのではないか。
理解する人・信仰する人の修行に役立てば、どちらも功徳になるものと思う。
読む人に「仏国土・浄土のメルヘンチックな理想」と実体視して捉えてもらっても、空観を極めた人にとっては「ひとまず(方便だから)それでよい」と理解できる。
そう一般人が実体的に捉えると「オカルト・有り得ない」と思いかねないわけだが・・・。

※善業・功徳の果報ということは、上の清浄萌土抄の引用文に「女人の不浄なる穴を持たず」とか「男子ならば陰蔵相を得」とあり、同じく大智度論を参照している。後者の陰蔵相もとい仏の三十二相について、一つ一つの因縁(どのような善業の故に相を得たか)を明かした記述が大智度論の巻第十一と巻第二十九にある。三十二相を具える因縁は、主に布施行と関連しているようである。また、ある説における三十二相とは、仏の慈悲の象徴ともされる。三十二相を具えた姿を借りて心を表現する姿・・・、世間でも人柄の良さと内面の人格を結びつける場合があるが、仏教ではこういった方便の教えにおいて多く採用されていよう。思えば好色萌相が慈悲の象徴という位置づけも、全く同様である。可愛いキャラから、優しい心を見通して自己に反映すべきである。



仏教徒・宗教の人

背後の写真・・・2017年1月1日6時36分30秒撮影、前面の絵・・・2017年1月6日に描いた

一般の中高年・老年に比べて僧侶の顔は若々しく、凛々しいという傾向が見受けられる。
新興宗教などにいる熱心な信徒・在家信者らもこの傾向がある。
同じ太っている人間でも、僧侶の顔は肌つやがよくてあまり垂れず、目もはっきりとしている(太っているという自我意識に悩まされない精神性の反映か・太って醜いことを不必要に悩むと泥沼でますますそのような顔に変貌する)。
特に僧侶の顔は、凛々しさのみならず、温厚さも兼ね備えている場合は多い。
「何らかの念」による業の果報と考えてよい。
それは「心の中の仏様・仮設エッセンス」に違いない。

美しい顔であっても、仏・菩薩ではなく、魔・修羅の現れという二面性があるから、内心が修羅のような人が表に良い顔つき・人相を現すことも有り得る。
怒りの果報として人相が悪く崩れるのではなく、かえって凛々しさが増す場合もあろう。
とはいえ、僧侶には一般人よりも念が保たれて顔つきの良さが見られる傾向に、一点の疑問もない。
あくまでも傾向であるが、一見、老年と分かる顔つきの僧侶でも、同年代の中では溌溂としている「事実」を見受けられる。
「真の健康法」を語った記事も、こういった「事実」を念頭に置いて書いている。
インターネット仏教関係の専門的で詳細な情報を載せているHP・ブログ運営者は、出家僧侶・在家居士・学者さんなど60歳以上の者が多く(むしろ50歳以下はごく稀にしか見かけない)、70代の方もよく見かける。

どこかの機関の統計にも、僧侶・牧師など宗教家(聖職者)の長寿ぶりが示されたりする、ということを伝えたいが、これについても読者をして疑わしめる例示となろうか。
つまり、「私の記憶は正しいか」、「統計自体は存在して記憶通りであるとして統計の信頼性は高いか」、「統計に集計手段や集計結果に誤りはないか」といった疑問が生じるであろう。
ああ、ろくに画像や統計などの根拠も示せないが、2017年1月現在19・20歳である私の言葉として信じてほしい。
人間不信が蔓延する世の中にはしたくない。
もっとも、そう願う人間の初期段階として信頼を得られる言動を心掛けるべきであるが・・・。
気になる方は各自で検索などしてご確認をされたい。
「宗教家 寿命」や「宗教 長寿」などで検索すれば、先の「真の健康法」を語った記事にも通じた理由を挙げているようなページ・書籍がヒットするであろう。

単純に「金満」とか「有閑階級」というような理由に限ることは無いし、そんな演繹はできない。
僧侶・宗教家以外で、金満や有閑階級の他の職業の人が、必ずその理由だけで長寿となるかどうか、少し考えれば分かる。
僧侶は(少なくとも一般人と比べて)行いがよく、全体の傾向として人柄もよく(人によって欺瞞・慢心・欲望などを秘めているにしても関係はない)、形は大概にして優れた人間であることを否定できないので、顔つき・人相もよく、寿命も延びる。
顔つき・人相のよさを判断する基準は後天的・現世的な一面もあろうが、觀萌私記の讃萌語・内蔵萌心義に語るよう、「優しい心を現したような顔」、つまり人の生来的・本能的な感覚もあろう(進化論に則れば人の顔の特徴が動物よりも特徴的であることは高度文明を築ける知能・社会性などの傍証に明らかであるため)。
是非とも、宗教家は様々な面で「自然」を重んじて人格に富んだ人々であり続けてほしい。
現代の物質文明が衰亡の憂き目を見なければ、100年後には人工的長寿と美貌を備えた改造人間(現代も同じようなものだが)で世間が溢れかえるはずだが、それまでは何とか「自然(Natureとかジネンとか)」の大切さを身口意に渡って世間へ説き続けてほしい。

真に努力ができる人とは、宗教を学んで行う人々にほかならず、世間の望みは「叶った」と自ら思い込んだ瞬間に努力を放棄する儚いものでしかない。
不断の努力(精進)を人々に念じてもらうべく、仏様・仏陀・如来・世尊・釈尊・釈迦牟尼仏は、命ある限りは終わりのない夢と希望を一切衆生に与えてくださった(慢心を起こして修行を手放す者もいるが)。
物質文明が衰えずに改造人間が溢れかえれば、大した個人的な努力(ほとんどの勉強・趣味・労働など)が必要なくなることは想像に難くないからこそ、個人的な努力を死ぬまで持ち続けられる宗教信者こそが「智・美・勤(世俗のものであっても)」などの徳を示してゆける。
人生と仏道は同義であり、中身はみな「自覚ありきの反省、反省ありきの努力」に尽き、間断なく行われて道に始まりも半ばも終わりも有って無いようなものである。



二次三次相対互換と色心の相応

いつも通り、先に断っておく事項があり、「2012年8月から私は或る基準においてアニメの視聴をしていない」。
私という閑居求道者が言うのであるから、アニメのみならずゲームのプレイなども推して知るべし
ただ好色萌相・萌え絵を尊んで自ら顕す所存である。


「二次三次相対互換」の理論は過去記事の通りだが、これは、先の色心の相応を理解して顔つきの改善を実現した人間が絵を描いた場合に実感できるであろう。
腕がある人は、その絵に対しても、如実に顔の理念を表すこととなる。
自著である「觀萌私記」にも、「兩萌相應…」、「~我心此芽倶開華」といった色心不二の萌えの「果報(結果として蓋然的に起こること)」として、「絵の柔和な相貌が人に通じること」や「人の萌心によって自在に柔和な相貌の絵が描けること」を示してある。
心の念が自身の顔つきにも、絵心・顔を描く際のセンスにも影響するという、有り難い御利益が説かれているわけである。
「相対互換・相対的互換性」という語は、そのように三次元の人間が三次元に準じた二次元の絵の顔を描くのみならず、二次元の絵を想った三次元の人間が影響されて三次元の人間の顔にも反映されるという点を示しており、觀萌私記はこの意義を重ねて説いた書であった。

また、過去記事に幾度と語った「仮設エッセンス」とは、仏教徒であれば仏・菩薩の個人的なイメージが生活の中で脳裏に現れ続けて少欲知足などが実現され、先述の通り、僧侶のように顔つきも整ったり、世俗的・人間の本能的なセンスにおける良い顔となる。
この「仮設エッセンス」は、オタク系の人であれば美少女を中心とした二次元のキャラクターが挙げられる。
ここで私が指す美少女の二次元キャラクターは、時代による面もあろうから、主に10~30代前半の人が好むものを想定する。
「色心の相応」というか、「想念(心)が顔(色)に反映する」ということとなる。

彼等は常に二次元キャラクターのことを意識して生きているとすれば、顔つきも二次元キャラクターらしく幼い・童顔と言われる顔になりやすいであろう(精神レベルも幼いと言うつもりはない)。
いわゆる「永遠の○○歳(○○の例は18歳が多い」といった自己紹介で、「心のときめきは10代(or それ以下)のまま!」ということを標榜する人々は、顔つきも10代くらいの状態が長続きしやすいかと思う(別の問題で若くして健康疾患や記憶障害などを起こさないように注意)。
たまたま目にするインターネット上で、オタク系イベント(同人・某動画サイト・アニメ・ゲームなど)会場に足を運んだという人が「中高生みたいな顔の人も20代・30代だった(当事者の顔以外の要素に20代・30代と確認が取れる様子があったかどうか)」という感想を述べていたりする。
またしても曖昧な記憶で書くが、児童ポルノ所持(頒布の罪状もか?)で逮捕された30代男性であったか、インターネットに流布しているテレビ映像のキャプチャー画像に写る顔は、とても「ピュア」な印象であり、その童顔ぶりのために顔が写った画像が流布しているのであろう。



ところで、海外ネット事業・コンテンツ関係者(主に20~40代の人)の顔つきは、どうも目つきが冴えなかったり、瞳の焦点が合わないようであったりと、同じ国の一般人と比べて「抜けている」という印象が多く感じられる。
言うなれば「シンプソンズ」などを視聴し続けた影響であろうか。
仮に日本のアニメ・ゲーム類に造詣が深くとも、日本のオタク系とは素が異なるので、似たようなオタク系やナード・ギークの類であっても、結果が異なってしまう。
例えば、植物の種(リアル人種・リアル住所など)は異なるので、同じ土地(インターネット)にて同じ太陽と雨の恵み(アニメ・ゲーム類が主要)を受けても、異なった草木に育つ。
また、何らかの数字を3で掛ける時、掛けられる数字が2や5や8など異なっていれば、6や15や24といった異なる計算結果があることと同じであろう。
それは、あくまでも小さな例ではあるが、そのように、日本人と海外の人とでは、似たような立場・似たようなコンテンツに触れても、顔つきの傾向に多少の異同が生じるようである。

しかし、日本好き(取りも直さず中韓を含めたアジア好き)の海外の人は、髪型やメイクなどは芸能・アニメ系の影響で日本人になじみやすい外見である場合が多い。
日本の芸能やアニメなどを好まない白人などは、髪型やメイクが日本人の好みに合わないというか、日本の街中で顔を写すと明らかに「浮く」雰囲気がある。
もし日本の芸能やアニメなどを好む白人がいれば、年月をかけるうちにセンスも外見も日本人に同化してゆこう。
近頃の海外の文化は、顔が写る写真も、各種音楽も、ウェブサイトも、みな意味や趣向が不明瞭のようで興味がわかない。
それは、日本人の文化であっても似たような傾向が出ている。
過去の絵の練習記事に、こう記した。

古典的マヨネーズ娘(当記事注: 当該記事所載の絵の人物)はやや目が大きいリアル系であり、前髪は中央で左右に分けるか、全て上げて留める。
現代でも西洋人、白人は素が綺麗で可愛いかもしれないのに、日本人の感性ではガッカリというか、ビミョーに感じてしまう理由は、髪型に大きい要因があると2011・12年ころに気付いた(無論、目の周りや口紅などのメイクにも影響はあるが、ここでは論外)。

現代の日本の女子らは適度な長さに前髪をカットして下ろしているが、西洋人の女性らはかなり伸ばした前髪を常時中央から左右に分けるか、全てワックスで上げるなどし、額をビロ~ンと見せつけている(男性的なショートヘアの人も多いが、ここでは論外)。
私から美的に云々しないが、少なくとも、その豪快なインパクトを日本のヤングたちは敬遠しやすい。
逆に西洋人らは、前髪が額や目にかかると煩わしくて真似をしたくなかろう。
この2011・12年ころ、同時に、日本好き(取りも直さず中韓などアジア好き)の白人らは前髪を日本人の感性にも受容される雰囲気にしている事実に気付いた、というよりは、その気付きありきで先述の気付きがあろう。
更に同時に、日本のアニメや漫画の特に萌え系などで、「なんか違う白人」の美少女キャラクターが多いと思える点も、この理論が適用される(リアル西洋人の前髪と比べて日本の白人美少女キャラクターの前髪は日本人の感性に適うよう成立している)。
もっとも、日本人美少女(美男子)キャラクターであっても、リアル日本のティーンエイジャーらはアイドル系(男女不問)でもなければ、結局みんな(以下略)。

逆に、日本で洋楽が好きな人とか、白人が多いメタル・ハードコア系のバンドが好きな人は、白人らしい顔つきになる場合も多い。
この説明は省く。
おおよそ説明の済んでいる意識や念という精神作用の反映であると言いたい。
実際の白人であるとか、黒人音楽であれば黒人と交流のある人もいようか。
後は、メタラー属性も兼ねている私の顔写真でおおよそ察してもらいたい。



起草日: 20170115

過去にも、二次三次相対互換の話など、断片的に書いてきた、事実と道理が、当記事所説の「色心の相応」である。
一つの記事の主題に掲げてまとめることは始めてとなろうが、なかなか十分にまとまっていない印象である。
断片的に書いてきた情報が上手く回収できない歯痒さを感じる。
例えば、「ある事実・道理を確かに過去に語った」という前提で、その事実・道理に関する記述を各ブログや動画説明文から探すが、不十分な程度にしか見当たらない場合や、全く見当たらない場合がある。
また、「ある事実・道理を恐らくは過去に語った」という前提では、その事実・道理に関する記述を見つけづらい懸念があって発見の可能性を放棄する場合もある。
多くの記事で、このような問題に直面したり、その問題を回避するようなことがある。

関連・当記事の投稿の事前に告知した動画「萌相條勘注 (8:35より)」
http://www.youtube.com/watch?v=O4DLkQQOkik


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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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