2017年3月15日水曜日

一理ある、全ての思考と言葉 「一面的な道理としては紛れもなく正論だが・・・」

ある時から、私は全ての「①思考」および「②結論」と「③その言葉」について「一理ある」と認められるようになった。
その言葉を発するまでのプロセス①・②の段階によほどの狂いが無いならば、③その言葉は紛れもなく正論である。
「ある一面においては道理である」ということで「一理ある・正論」と認められる。
どのような意見も、前提によほどの不可解な狂いが無いならば、みな尊重できるということである。

しかし、「ある一面においては」正しいのであって「より俯瞰的・客観的な道理に依って意義が尽くされた言葉であるか」を問えば、全く認められない。
発せられた言葉は、ある定義に基づいた見解であり、感情を伴っている場合もある。
それを主観とすれば別の定義や感情から客観することができる。
この「客観」とは、別の視点で見直すことであり、「反省の思考(止揚とも?)」と呼ぶ。
物事は、人の取りようで善にも悪にもなり、狭隘にも一者のみを見て断定せず、その性質を見極めて善悪を包括した上で、自分にとっての善悪の一面を論じられれば最もよい(基本の思考は中立的にするが意見を出す場合は自分の価値判断に少し寄ること、みなが多少異なる意見を提出しつつ協調しあうことは仏教の中道・日本の和の思想・十七条憲法の第十七条や民主主義の理想に通じる)。
こうして思考が成熟して意義が尽くされてゆくであろう。

しかし、それもまた、同じように別の視点で客観することができるから、新しい客観的見解も主観的見解となり、再び別の視点で見直すことができ、客観は客観でなくなる。
物事はどこまでも、客観的に論じられはしない。
命がある限りには、限りなく物事を煎じ詰めることができるが、故に「完璧に客観すること」などはできない。
人間が人間である限り、無限ループ「輪廻」に留まる。
※この探求・輪廻の果てに解脱もあろうか、輪廻がないならば解脱という概念も生じない。

譬えて言えば「蟻が人を仰ぎ見、人が飛ぶ鳥を仰ぎ見るが、太陽はその全てを照らし見ている。人類が人工衛星や宇宙船を飛ばして銀河の果てを遠く見ても、広大な宇宙には際限が無い。認識可能な範囲の宇宙の外は、有って無いようであり、時間の果ても有って無い。こう思えなければ人間の知ることには限界があるし、こう思っても限界の諦念がある。こう思わないことでやみくもに限界を知らない追求もできるし、こう思うことで限界を気にしない自由な思考にもなる。どちらを取ってもどちらも有り得てどちらも有り得ない。戯論寂滅である」と。
過去の大徳は、真に客観することはできないという戯論寂滅の上から、現世の命のある限りに現世のならいとして教化や修行を続けられた「事実」がある。
潔いではないか。真の客観性は「有って無い」と諦めて(明らめて)涅槃入寂の間際まで(主観性を奉じる)聖人として振る舞われた。



一般世間における「客観性」とは何であろうか?
「その見解がどれほど大勢の者に認められるか」が、一応の客観性であり、次いで一応の正当性を決定する基準となる。
それが民主主義・多数決原理とも呼ばれ、一応はそれでよいかと思う。
一応は、一応は。
先ほどの哲学的定義を受け止めると、過去記事にいう「客観的真理に基づいた人生(石ころのように動かず語らず考えず)」を送らねばならないので、人間的智者の便宜上は、そうしてよかろう。

Wikipediaに載せるべき情報も、その一般的見解(常識)・学界に認められた見解(定説)・大手メディアに報道された物事が第一に優先され、その正誤や実否はともかく、一応は容認される。
これがWikipediaの「中立性・中立的な観点 "Neutral point of view"」であろう。
中立を重んじるWikipediaの方針が「真に客観的な視点など証明できない!哲学の常識だ! "There's no such thing as objectivity. Everybody with any philosophical sophistication knows that."」と批判を受けても、私と同じような理解で反論しているようである(2017年1月14日参照)。
客観性にも分類があり、般若経典や中論にある「真諦・俗諦(通称)」の理解が適用できる。
真諦による客観性は言葉にできない、言語道断心行所滅・不可説"Ineffable"である。
Wikipediaでは、融通が利くように世俗上の中立性・客観性を受け入れていることとなる。
俗諦の意義を以て「中立性・客観性」の仮名を付している(故に真の中立や客観は成立しない)。

Wikipediaとは、どのようなことをすべき場所であろうか?
Wikipediaはあくまでも大衆に認知された「検証が可能な客観的な根拠・典拠のある情報」を「ウェブ百科事典」として集積する場所であり、論理・学問を極める場所ではない。
個人の学びの参考にはなっても、学びの最先端とすべき場所ではない。
たとえ「独自研究」こそが公的な見解や大衆に認知された情報と比べて正確・正論であっても、Wikipediaというサイトの場は、上記の如く目的を異にしているので載せるべきでない。
つまり、以上の例からすると、Wikipediaは民主主義的客観性に則った世俗的サイトである、と結論できる(編集の方針は互いに尊重・協調するとかという相互の自由を保障する自由主義や、完璧は実現不可能だが完璧を目指して記事の質の向上を努力を心掛ける宗教らしい一面もあるが本題と逸れるので割愛する)。
この段落は極めて「筆者の独自研究」であるが、筆者たる私は大いに確信を持っている。

反面、大衆に認知される事実とか世俗的客観性とかは、時代ごとに変化する。
従来の定説が覆る場合も有り得る。
よって、古い記述に大幅な変更を要する場合はノートページを利用して意見を提出したり、議論をすることもできる。
少数意見であっても汲み取られる場合もあることは、また民主主義の一面であろうか。
Wikipediaには、学界でも見解が異なる事柄(未確定事項・科学から歴史問題までさまざま)の記事では、複数の異なる見解があることを示していくつか紹介する場合もある。
「著名な」学者さん・専門家などの「権威のある」言葉・見解であれば、その学者さんのものと証明できる出典(検証可能性のあるもの)を明記して載せる。



起草日: 20170114

関連記事(?)
2015年8月17日 - 「引きこもり」について一元的な見方しかできない世間・・・質素な閑居について
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_17.html
2016年10月21日 - 事実認識の相違、思想や意見の対立でヘイト感情…世俗上の中観法
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/10/heretical-dogmas.html

さて、世人の悩ましい問題を例に取ってみよう。
オウム真理教について世間が好むことのある話題は、「幹部は高学歴が多い」とか「社会の底辺の受け皿」などという趣旨のものである。
創価学会に対しても同様に「幹部は東大卒・創価大卒などエリートなどで固められている(全体主義的)」とか「貧困・病苦の人の救済や地方出身者をターゲットとした布教で成長した」と世間の人や仏教徒までもが主張している。
これらは或る時代における傾向や、ある極端な傾向の一部分を取り上げた言葉である。
一方のみを唱えると、人に偏った印象を植え付けようから、偏頗である。
仏教徒がもしもこんな主張をするならば、「中道」の文字だけ知って思考に染みつくこともない点で、相対的には外道の極みとなる(相対的には外道の極みと言ってもその偏向的な主張をしている人物の一面を捉えて私が表現する)。
極端な思考をしかも主張するならば、その慢心の箍が外れてしまおうから、ゆめゆめ、仏教徒は三業を慎まれたい。

続いて、こういう例も挙げる。
良い家系・親の人は、大概、学問・武術・芸術などに秀でていたりするし、民主主義国家でも親子で大統領・首相経験(世襲・民主主義下の実質的貴族)のある例は非常に多い。
世間の人は、往々にして二極の立場で彼らを捉える。
且つは手放しにベタ褒めし、且つは親の七光りだとレッテルを貼って非難する。
どちらもひがごと・僻見である。

ベタ褒めする者はかえって批判したい対象を念頭に置いた底意が見え、レッテル貼りで非難する者は露骨な悪意がにじみでている。
彼ら、優れた家系の優れた末裔も、家系(家柄・血筋)という外的な先天的要因と同時に、個々人の幾ばくかの努力といった条件の満足で、世間的に認められた才能がある。
条件の満足とは、多岐にわたる先天的要因・後天的要因・時間的要因・空間的要因などに著しい欠陥・欠損・欠落がないことをいい、ある面が優れるほどに世間的に認められる可能性も高まる(盲聾者は盲聾者なりに、五体不満足は五体不満足なりに名を挙げた人がいるが、これも様々な要素の満足の結果である)。
この「先天的要因・後天的要因・時間的要因・空間的要因」に細かい定義の説明を要しない。
後天的要因の一つをとっても、努力という内的後天性と、周囲の人間関係の得失という外的後天性などに分類される上に、100%外的後天性や100%内的後天性というものもありえないためである(内外の要素は多少通じて1%~99%まで有り得るのみで100%それだけということはない・起草日の3日前の日に起草した記事にも語る)。

それが、どういうお家に生まれたか、という外的先天性に重きを置いて語る人がいるのであろう。
小学生の時は、テレビに出演する子役なり、優れた子供なりについて「どうであれ親の条件が第一だ」と憎悪を含ませながら思いもしたが、それはそうとしても、実際に子供個人で優れている部分も認められた。
だから、無批判なベタ褒めも、レッテル貼りの非難も正当でなく、妥当でない。
悪い感情に基づいて言われたもの(推量断定・推断はできないが)であれば、その陥穽が必ず伴っていると仏教徒は考えるべきである。

個々人に先天的・後天的な善悪の要因があって当たり前である。
どちらかの傾向が例によって分かれるのみであって「程度の差」である。
必ずどちらの性質も、多かれ少なかれ存在するし、片方が存在しなければもう片方も存在しないと思うべきである。
つまり、相互依存(共依存)の道理にならうべきであり、深く論ずべき事柄ではない(戯論寂滅)。

否定も肯定も、その時に認められるものは、適宜行えばよいということは中立的民主主義国家の政治思想にも繋がる。
記事の本題に寄せて言えば、「手放しにベタ褒めすること」も、「レッテル貼りで非難する」ことも一理あるが、故に共に一面的であり、故に両極端(二辺)である。
人権思想に基づいて言えば、個々人の個性や努力を否定せず、今の在り方をただ、富裕層にも貧困層にも平等に認め、施すべき物事を施せばよいわけである。
全ての人に成長が見込めるように、という発想が現代的な政治思想の原理であるから、他人を貶める意図で肯定や否定を行うと、誰かの成長を停滞させるか退行させることになりかねない。
良い家系の子でない≒ベタ褒めされない側の心に良い影響を生まず、良い家系の子である=親の七光りと嫌われる側の心にも良い影響を生まない。
一般人は感情に基づいて極端な見解を起こすから、ジレンマが生じる。
ジレンマの解決は、私のような仏教思想が肝心である。

まず第一に自分の欲望などを抑えれば、ジレンマもトリレンマも漸次緩和されるが、無論、「欲望を抑えて生きるなんて息苦しいことをせず、自殺願望を起こして自殺すれば全てが速やかに解決される」という虚無主義的な極論を言わない。
また、「仏教思想を学ぶことで他の時間が削られるという問題が生じる」と言われれば、もはやお終いである。
何を取っても多少のジレンマがあるが、自分が容認できれば全て収まると思うべきである。
仏教を学んで少欲知足に生きることは、私の主張として推奨する。
最も尊い「減少(欲望と欲望に伴う行動の抑制など)」が、最も健全な「増加(精神の成長・食物と資源の保持など)」・発展に置き換わることを信じてやまない。


11 件のコメント:

  1. このコメントは投稿者によって削除されました。

    返信削除
    返信
    1. このコメントは投稿者によって削除されました。

      削除
    2. >親御さん
      そうですね、それだけでは良いことの成立が有り得ないという旨が記事の後半に書いてあるはずですが。
      コメントを見たくなく、返信をすべきでないというのが長年のスタンスですし、こういった内容は実際に一言も加味すべきでありませんが、見たならば少しでも返信しようと悩んで前回・今回と返信します。

      >明日にでも自活する能力
      あなたのおっしゃる「自活」とは、世俗的生活のことでしょうか?
      それならば多くの一般人ができていますし、私にはかえって不向きのものとして出離したことは2015年以前の記事で幾度と説明しています。
      社会のしがらみに束縛されている多くの一時的ニート・引きこもりの人は喜んでも、私には何の励みにもならない言葉です。
      釈尊はクシャトリヤ(刹利)という王族階級出身で、迦毘羅衛の王太子でしたが、出家して道を求めました。
      私は釈尊が出家せられた経緯とは異なりますが、このような方ですら道(世間の苦から解脱する道・人を導き入れる道)を求めて世間の生活や名誉や財産を捨てます。
      世間の善業を勧める自己の想念を、悪魔ナムチ(ナムチー)に譬えて自ら打ち破る話がスッタニパータにあります。
      あなたのようなナムチのような言葉で「たぶらかし」を行う人は多くいます。
      現代、世俗の道にしか多様性は認められませんか?
      個人主義の時代でも、まだこのことに疎い人が多いようで、現代日本人は社会のしがらみ・妄執が強いようです。
      個人主義・人権尊重ということは、仏教の伝統的な在り方(原始仏教のサンガ・中世日本の遁世など)によって完成に近づきます。
      あなたはあなたとして世俗に処して生きてよいですが、一応の御理解を願います、2015年2月の記事を例示します。
      2015年02月11日 『社会のしがらみ「妄執」から深奥より解脱、涅槃。』
      http://masashi.doorblog.jp/archives/42623613.html

      私から、あなた様に「出離だ!」とは訴えませんし、私の文章や思考に対する高度な理解を促す気にはなりません。
      理解したいならば、あなたの気持ちから理解するのみです。

      削除
    3. このコメントは投稿者によって削除されました。

      削除
    4. このコメントは投稿者によって削除されました。

      削除
  2. 個人的なメモ
    私は人の言葉の一部分をつまみあげ捉える性質を、未だ正しきれていないように、仏道修行が未熟である。
    伝教大師最澄さんは修学の折、「六根相似の位」に至らない限りは世間に顔を出さないことを誓った。
    今の私は母や、保健士2名など少数の人間と関わることこそあれ、それ以上は不用意に交流を広げられない。
    世間に顔出しなど、うかつに出来はしない。
    この私が社会に通用するなどという一般人サマの授記はありがたいようだが、到底喜べず、嫌う意思もなく、用いるべきでない。
    法華経における来世成仏の授記は、修行が進んで信心の純粋堅固な弟子にされたように、諸々の煩悩に振り回される状態が改善されないうちは精進が欠かせない。

    返信削除
    返信
    1. このコメントは投稿者によって削除されました。

      削除
  3. このコメントは投稿者によって削除されました。

    返信削除
  4. このコメントは投稿者によって削除されました。

    返信削除
  5. このコメントは投稿者によって削除されました。

    返信削除
    返信
    1. 中観派の真似の二重否定の真理性(背理法とか帰謬論証とか)を漂わせなくてよいです、過去記事にいくらでも同じ意義を書いてまいりました。
      だから信仰や主観性・主観的真理を重んじている話もあります。
      怠慢の私なので、記事の例は1つだけ示します。
      2017年1月6日 『本来的・本質的に「優しい心・思いやり」が人間に備わっている事の理の論証 ~ 2つの真理』
      http://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/caritas-generis-humani.html

      また、中論関係は、この記事でわざわざ記しませんでした。
      毎記事、龍樹菩薩の言葉を引いても偏ります。
      しないでいると、あなたのようなウジ虫かボウフラ(私の今の主観です・いつもそうとは言いません)が沸くんですね。
      過去にもYouTubeで「日本時間」と明記せずに動画撮影時刻を書いたら、サーバ時差の仕様に気付かない人がサイト側の投稿時刻表示の方が前日になっていて私の表記を誤記ではないかと言う人もいました。
      私の怠慢のために、毎度書く必要のないことを省けば、あなたやある人など、そこを狙い撃ちします。
      そういうコメントは、さながら悪魔夜叉魑魅魍魎であり、人として扱えません。
      他人とは、信頼しても、いつもそうでした。
      「そもそも知らないので信頼の有無もない人々」が、いきなりそういう指摘をします。

      削除

当ブログのコメント欄は、読者から、当ブログ記事の誤字・脱字の報告や、記事の話題に関する建設的な提案がされる、との期待で解放されていました。
しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。