2016年6月20日月曜日

「19歳・閑居求道者」的政治観 ~ 仏教徒はどう投票すべきか?

今月22日に公示される第24回参議院選挙では、私のようないわゆる未成年者も、18歳以上であれば投票の権利を有しているから、投票が行えるらしい。
無論、閑居求道者たる私は、投票所へ足を運ぶことが無かろう・・・。
加えて、為政者の思惑が「主権拡充(他の民主国家の水準に合わせる)」か「政治の改善(若者に政治の関心を持たせる)」どちらであるかは不明だが、政治家の愚昧さは小手先の制度改革があったところで変わることも無かろうため、私に投票の意欲は沸かない。
しかし、多くの未成年者や、元より有権者である人々が誰も当記事を熟読しないとしても、一応、私の政治観を披瀝した方が良く思っているため、少々、開陳しておく。

前置きを挟むが、誤解なく捉えていただきたい言葉は「世法即仏法*1」であり、逆に仏法も世法に還元できる「仏法即世法」は、一種の道理である。
第二次大戦後の世界(主体は国際連盟UN)が欺瞞的平和に向けて「人権尊重・民主主義・人道主義」を掲げてきたが、これは仏教の教義にも通じる「中道」や、生命の尊厳を平等に認めるよう、世界中の知的階級の総意が自然と仏教に似てくることから「世法即仏法」の実相が窺えよう。
実際、穏健で平和志向であるから、主に先進国同士の軍事衝突が起きず、70年を過ごしてきた。
無論、そんな「人権尊重・民主主義・人道主義」で「世界平和」となるには不十分である。
また、私のように仏教を学んでいれば、世間の問題や、科学的知識など、一見仏教とは無関係な方面に対しても、的確な判断や、比較的正しい見解ができる現象をもって「仏法即世法」の実相が窺えよう。

「閑居求道者」は、何事にも仏教の中道の思想や自然性・漸進主義といった思考を踏襲する。
「閑居求道者」の思想を無理やり異称で表現すれば「さすらいびと・自由人・冒険者」である。
そのような境地を、現代の議会制民主主義の文明に置き換えてみよう。



【強いて現状を変更せず・善悪を認めて執着せず】

仏教徒は政治について思い煩う必要はないし、いわゆる「無党派」を恥じずともよい。
基本的には、現体制を維持する穏健な立場で、与党(及び擁立の候補者)に投票する。
現体制のままでも、自覚があれば緩やかに状況を改善することは出来る(その理想は何であっても出来るが、程度によって困難な度合いも変わる)。
自分(及び全有権者)にとって問題と思える事態が起きれば、その時に対処すればよいし、そもそもそのような事態は、最初から起こらないものと思えばよい。
仮に問題が有って世間に発覚しない場合でも、単なる一般人が詮索せずともよい。
悪事があればいつかは公に露呈しよう(天網恢恢・疎にして漏らさず)。
広い心・無量の心をもってどの政党が与党であろうと、その善悪を認めよう(ここでいう善悪の定義は個々人の思い思いでよいが無理に定義すれば社会通念上のものを指す)。
時間と空間に渡って普遍であり、分けず隔てず。

どんな人間も政党も、完璧なものはないし、汚点はあるし、仮に今は汚点がない場合も(最初は無垢でも)いつかは汚点を作る(私的なところで既に悪事に手を回している者さえいる)。
与党の政党も野党の政党も、「完璧はない(永遠もない)」という絶対的道理には外れない。
大した善悪がないまま短命に終われば、最初から何も言えない。
正当も不正も、清浄も不浄も必ずあるわけだから、それを認める前提は必要である。
「この政党や思想では絶対にいけない」という安易な軽蔑や、「この政党や思想ならば絶対に正しい・政治や経済を改善してくれる」という過度な期待などは捨てた方がよい。
端的にいえば、潔癖思想(衛生観念)やセクト主義(派閥主義)は捨てた方がよい。

細かい長所や短所を、誇大に取り上げては悪癖となり、己の思考が歪んでしまう。
政治家は自党の宣揚のために自党の政策の長所や、与党ならば野党、野党ならば与党の短所や汚点や過誤を責めるが、それは政争と称する今の彼らの仕事の一環である。
政治家でない多くの民衆・一般人らは、殊更に支持・不支持の論拠を強調せずともよい。

無論、一般国民の間の政治議論も全くの無意味とは言わない。
インターネットでも様々な政治議論があり、ある種の「直接民主制」に通じているが、それは現代社会の一面でしかなく、ましてや仏教徒が政治の些細な問題を論っても空しい。
仏教徒は、誰彼を嫌わず、温かい目で万事、静観していればよく、よほどの事態でもない限りは心を動かさずにいるべきであろう。
例えば、因縁あってカピラ城の釈迦一族を滅ぼそうとしたコーサラ国の毘瑠璃王と軍勢に対し、釈尊が道中に座り込んで引き返す暗示をされたように泰然としつつ、3度の撤退をしてなおも毘瑠璃王の恨みが止まず、釈尊は両者の深い因縁を知ったときに彼らを強いて制止しなかったように「自然」へ随う(ちなみに両族とも釈尊の信者)。
この故事は四分律や増一阿含経など(コーサラ国王の名は琉璃王・流離王などと記載)に見る。

仏教を学んだはずが、「安倍は悪魔・アベ暴走」とかと口走る輩も多い。
そんなに安倍政権が憎く、危険と思うか?政治への不満に怒りを燃やすか?
安倍さんの10%への消費増税は、大規模な災害や金融危機などの不測の事態が起こらない限り、予定通り実行する意向を見せ、一見頑なに見えたが、熊本の大地震やG7の会合を経て再延期が発表されたよう、彼は時局に応じて腹を割る決断もできる(その良し悪しはともかく)。
政局は未だ火急の事態にあらず。



このように理解しながらも、思考放棄に陥らず、事大主義的な投票行為や、惰性の投票行為とはならないほどに思考を維持できる者は、この政治観を踏まえて投票すべきである。
どうしても、その政党の過去の汚点(所属する政治家の不祥事・可決された忌まわしい法案・外交での弱腰による失敗など)が拭いされないという潔癖思想の強い者は、好きに敵対政党を支持すればよい。

中道の境地を志す者には、よい言葉を残す。
私は仏教を信奉して禅宗は嫌うものの、禅宗などで尊ばれる「菜根譚」から紹介する。
風、疎竹に来たるも、風過ぎて竹、声を留めず (風來疎竹、風過而竹不留聲)」と。
また、中阿含経にいわく「愼みて過去を念ずること莫れ、亦た未來を願うこと勿れ。過去の事・已に滅したり、未來も復た未だ至らず (根本分別品・温泉林天經第四・跋地羅帝偈)」と。

このような無為自然・中道の境地を、今すぐでなくともよいので、学んで知らねばならない。
ゆっくりでよい、着実に堅実に、いつかは・・・、「漸進主義」である。
つまづいても虚心坦懐に反省し、努力のため立ち直ればよい(これまた難しかろうが)。

人間は正当も不正も、清浄も不浄も持ち、誤りは絶対ある反面、改善の可能性も有している。
政治家や政党であっても、過去に汚職や失敗などを重ねているが、それを隠さず、それでいて強く悔いず、素直に認めて反省と努力の改善ができるはずではないか。
もっとも、それが出来れば、の話である。

しかし、それが政治家や政党に出来ようと出来まいと過度に期待せず、また、最初から「無理に決まっている」と決めつけず、ほのかに信じてあげればよい。
こういった「甚深微妙・玄妙深絶」の境地において考えられる人々が、日本に2割くらいでもいるならば、残りは愚民のままでもよい。
賢愚の差別を認めて「」を生み出す。
ご覧の「あなた」、そう、「あなた」がまともに思考を維持できる人間であれば、その2割の賢人となるべきである。



みんなが一様に、漸進主義や中道の思想から与党に投票しても、議会制民主主義として成立しづらくなる。
邪悪なる共産党・カルト公明党(と世間に言われる)、これらも強ちに排除する必要はない
かといって盛んに支持する必要もない。
人間の禍福とは個々人の思い思いによるし、人々の中の幸福とも不幸ともいえる結果が訪れようと、もはや結果論であるから、強く原因を責めず、また強く幸福を望んでもならない。
先に引用した「愼みて過去を念ずること莫れ、亦た未來を願うこと勿れ」という中阿含経のフレーズはこの意(こころ)である、と再度説示する。

賢愚の共存は、いつか大いなる調和となって緩やかに改善に向かおうことをほのかに信じる。
そうするうちに、今まで方便として語った「民主主義」なども全て「用済み」となり、世界中に真如の法である仏法が普く流布されようことをほのかに願う。
閑居求道者の願う世界平和とは「天皇陛下の『和』による八紘一宇の政治、人類への仏教広宣流布・受持」に基づいていなくてはならない。

「乃往(そのかみ)の 大和(やまと)の心に 生きつれば 右と左の 隔ても消えつ ("ゲンダイのニホン"に対比して"いにしへのみずほ"とか"そのかみのやまと"と呼べば面白い)」
「イデオロギー上の真正中道・仏法と世法の融即イデオロギー」



ここまでは綺麗な話で続けられたが、ここからは少し細かい事例などに穿って書こうと思う。
当然、与党への投票や、自治体の首長を決める選挙の場合、与党が擁立する候補者ならみな支持すればよいわけではない。
こういった事例は、投票したければしっかりと吟味した方がよい。
それでも、よほど酷い政策や酷い思想が見られない限りは、支持の集まる候補者に投票してよいと考える。
その「酷い政策・酷い思想」の基準は、投票権を行使する者たちの判断に任す。
仏教の思想を踏襲しつつ、世間に関する知識を些かでも有していれば、自分の選んだ候補者が醜態を晒すこともなく、不本意とはならない。
そう確信すべきである。

政党の政策や方針についても、例えば憲法改正*2や外国人参政権など様々な議論がある。
これも、各自で良し悪しを吟味し、更にその政党による実現性の有無も推定して投票の判断を行えばよい。
仏教の思想を踏襲しつつ、世間に関する知識を些かでも有していれば、自分の選んだ候補者が醜態を晒すこともなく、不本意とはならない。
そう確信すべきである。

余談だが、最近、政治資金などの不正という、影の悪行が露呈した舛添都知事は、2014年の都知事選挙がある前から、不適任の印象を私は持っていた。
それが、猪瀬・前都知事の功績である2020年東京オリンピック関連に、様々な問題(ザハ案の新国立競技場撤回・アレ服装盗作・エンブレム盗作・ABCDエンブレム欺瞞選定・出来レース審査)を起こし、最後には自身の馬脚を露すという、稀に見る悲惨な東京都知事であった。
オリンピック競技会場の既存施設活用については良案だったかもしれないが(ザハ案切り捨ては別問題)、自分が豪奢でいるのに都政で倹約を求める(庶民派を気取る?)となれば、実に自己矛盾も甚だしく、認めづらい(舛添さんの政治資金問題の論点は"公私混同"だが)。
政治家は常に、遁走する手段を持って行使できる。
東京の大舞台を自ら汚し、汚職の発覚を問わず、五輪までには任期を終えて跡を濁し得る。

程度の低い話題になったが、ここでは、必ずしも与党やその候補者へ投票すれば適切であるとは言えない例を挙げて念を押したかった。
無論、個々の政党や政治家がどうなろうと、また、それらが何をしてきて政治や経済が少しばかり乱れたところで意に介する問題ではないし、私自身も容喙の意思はない。
今後の選挙などで、自分たちが投票できる候補者などがみな期待しづらい者たちであれば、否みな期待が出来ようと出来まいと、投票したければここまでの原理に倣って「強く軽蔑せず強く期待せず」投票すればよいし、そもそも意欲が沸かなければ、私のように投票しなくてもよい。

大事なことは「あれに投票して後悔した・投票に行かなくて後悔した」というように、己の判断に後悔が生じないことである。
投票を行うも行わないも、権利を行使するも放棄するも、相応の覚悟を持って判断できれば、現代に生きる在家の仏教徒として一番正しい選択であろう。



脚注 (2016年7月8日設置)
*1・・・原文は天台大師の摩訶止観の一節「若深識世法即是佛法(若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり・元は金光明経・原文未見)」であり、これを略した「世法即仏法」の形で広く用いられる。この直後には儒教の五行や五常と、仏教の五戒とを付会し、結論として、世法・外道の教え(世法薬・世間法藥)では一時的な救いしかできないと説く。やはり、後生善処は仏法に依るべきである。

禅宗系の在家信者(70歳以上)がインターネットで、この「世法即仏法」の著しい俗用をしていた。中世の日本にいた禅宗系の僧侶(半臨済・半曹洞?)の教説に倣っているようである。社会での労働が徳を積んだり、執着を断つにふさわしいとする。一理あるかもしれないが、実際にはそんな好青年や労働者など現代社会にいるであろうか?魔訶止観の原文の続きの所説に見る通り、そんな俗事一辺倒で仏道が成るはずはない。俗事一辺倒で徳を積む発想は、共産主義の「唯物教」であり、外道に過ぎる。この方は、天台大師のお言葉であることを隠し、その禅僧を専らに扱っていた。そもそも禅宗系は、戒律に背いて「作務」という農耕や労働を是認している(その作業着を作務衣といいこれも非法不如法で僧侶の衣服でない)。かかる「座禅教」は非仏教の外道に類す。中道の上では、世俗も仏道も完璧には切り離せないが、あの教説は、「正」の道である俗事に、「傍」の教えとして仏法が補助するという、本末転倒に陥っている。

日蓮大聖人が「仏法は体の如し、世間は影の如し。体曲れば影ななめなり(学会御書 992p)」と仰せのように、世法は後の話である。俗人は往々にして「煩悩即菩提」などの不二を表す仏語を俗悪に解釈し、己の三毒を肯定して仏道に背いてゆく。堕於悪道中・堕在泥梨の悪業を生む禽獣である。他の仏教教団でも「シャカイで証明」とか「シャカイがー」といったスタンスで「世法即仏法」の語を悪用する者は、所詮、社会での御利益を仏道に対して望んでいる不純な輩であろう。世法と仏法は通じ合う一面もあるが、完全なイコールではない。而二不二の義を知るべし。また日蓮大聖人は、かかる俗悪禅宗に対して「只だ不二を立てて而二を知らず謂己均仏の大慢を成せり(学会御書 489p)」とも仰せられたのである。禅宗が外道の性質を持っている点も、別の見地から「仏教には経論にはなれたるをば外道と云う(学会御書 152p)」とも仰せであり、これは「不立文字」の教義(およびナンタラ禅師の禅語だとかの語録に偏重している顛倒)を呵責している。禅宗は思い上がりの教義ばかりでまさに「謂己均仏」の増上慢・外道である。

*2・・・※後日別途記事投稿※ 無論、仏教徒には改憲とか護憲の論議自体が無用であるが、少々綴る。まず私は既成事実化している現行の日本国憲法の無理な改正を推進しないが、したい勢力が大勢ならば好きに改憲をすればよい。今の自衛隊の位置づけを正当化する範疇ならば改憲に問題はない(自民党の改正草案の全てを肯定できないため改憲の範囲に更なる議論は必要であろう)。改憲をしたからといってよほどの政権の暴走は民主主義の現代文明下で有り得ないと信じる。「護憲」の語については多義的である。「立憲主義」は都合よく用いられる。護憲とは、現存説や有効論がある大日本帝国憲法への護憲か、現行の日本国憲法への護憲かといえば、大概は後者である上に、専ら「憲法9条 (憲法第九条)」に念頭を置いているところ、偏狭な定義が多いようである。今時の立憲主義は、日本国憲法を以て不磨の大典(貞操観念)とし、なかんずく第九条を金科玉条としている。

現行憲法9条の原義である、自衛隊を含んだ完璧な武力の放棄はどうであろうか?憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とは、空虚な観念論である。例えば、密林に猛獣がいないと過信してターザンのような生活を望むも、無防備・軽装のまま猛毒の蛇や蜂などに攻められかねない危険性がある(無論、回避したり彼らの攻撃性を煽らない行動を取ればよいが実際は困難を極めよう)。また、「"平和を愛する諸国民(観念偶像)"を信頼して自存自衛を決意する(取意)」とは、浄土真宗の他力本願とそっくりである。皮肉にも、「他力本願」の俗用を嫌う浄土真宗の一部僧侶が、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の四十八願と日本国憲法が共通している、といった妄言を吐いている。こんなことでは「日本の防衛は他力本願ではいけない(取意)」という昔の閣僚の発言に抗議などできなかろう。現行の日本国憲法の立場も浄土真宗の宗旨も「他力本願」が是であろうし。

広宣流布、仏国とならないうちに、観念的な平和憲法は空理空論である。武力の放棄は最終目的であって「いつか」は「今」ではない。坊主・・・仏教徒であれば、真面目に布教し、広宣流布を遂げてから平和憲法の理想を実現すべきである。平和憲法を全否定しないが、安易な肯定もしない。率先した武力放棄による「急進的平和運動」は実現性がない。時宜に随って変化する世俗の法制度の在り方くらいで一国乃至全世界の平和の実現を願うなど、仏教徒の発想ではない。

本文中の釈尊御在世の故事(釈迦族と毘瑠璃王の話)を再度確認されたい。虐殺的な闘争も不可避であったし、いくら慈悲を以て教導しようとも、毘瑠璃王の瞋恚を制御できなかった。世界中の核軍縮はオバマ大統領の鼓舞でさえも進展が見られず(彼は実行力に欠く)、日本国で仏教の教団が形骸化する中、武力や軍備の放棄をすれば、仏法は元より世法においても日本国を根無し草と成さす。修行者の今生は、断ちがたい煩悩との付き合い方が重要な課題である。国家もまた、しばらく荒れている世界に処する上で、軍備と付き合うべきであろう。娑婆に完璧な清浄は有り得ない。過激な平和主義者は、常楽我浄の四顛倒の幻想を捨てられずにいる。

*3・・・インターネットでは様々な憶測が飛び交う。それらの例を、当記事では取らないでいた。詮索はよくない。本文の冒頭「為政者の思惑」にしても、例えば18・19歳という拡大された新有権者らは、インターネットの影響で右傾化があり(SEALDsとかいう茶番団体は虚勢)、その他は事大主義的で無知のため、けだし自民党(連立与党)に投票する、そう現政権が判断している可能性もあるといえる。しかし、そんな邪推を書くわけにはいかない。冒頭にはもっともらしく「民主主義の観点での主権拡充」か「主に若年層の政治への関心の向上」という点のみを取り上げた。

ここであえて話すと、例えば「陰謀論」はよく聞かれる。公明党と創価学会の歴史的経緯や、自民党の主要な閣僚議員が日本会議・神社本庁に所属しているという情報は客観的事実とし、中にはクリスチャン(キリスト教徒)だとかカトリック(キリスト教の一派)だとかフリーメイソン(ユダヤ系)だとかという単語との関連も挙げられている。また、集団的自衛権(安保法制・蔑称で戦争法案など)・秘密保護法・TPP・慰安婦合意などはアメリカの後ろ盾が囁かれる。その一方で、安倍首相を偏執の軍国主義者・ネオナチとも揶揄している人がいる。安倍首相一人に対してすら、特定集団の陰謀とかアメリカの使い魔とか偏執ネオナチとかと相容れない表現が当てられている。また、民主党(民進党)や共産党や社民党が中国共産党や朝鮮総連の言いなり・手先であるとはよく言われる。マスコミ(テレビ・新聞・雑誌)などは金に釣られてあっちこっちに流動していると罵られる。

みなピンキリがあり、ものによって客観的事実であるとしても、それらは基本的に排除して「中道」を考えてもらいたい。しかし、ある程度は加味して「中道」を考えてもらいたい。曖昧かと思われようが、日々に「中道」を思っていれば、理解できる日は遠くなかろう。政治家は畢竟すべて欺瞞的であり、敷衍すれば物事も全て「空」なるものと思う。しかし虚無主義や厭世思想にも陥らず、「諦らかに」物事を判断すべきである。素直な心こそが仏法の中道である。「非有非無」の判断は最も執着が無く、苦しまないながらに有益な思考である。心における無上の処世術であり、それが後生を度する功徳となるから、龍樹菩薩は中論で「若し俗諦に依らずんば第一義を得ず。第一義を得ずんば則ち涅槃をも得ず」と説かれた。



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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
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