2017年3月23日木曜日

「念」による端正(たんじょう)な顔の利益 ~ 色心の相応



色心の相応(便宜上の呼称)について

「色法」・「心法」の色心二法が相い応じること、ここでは世間でしばしば取り沙汰される顔つき(顔貌・人相)が心や想像に影響される現象(相呼応すること)を様々な面で論じる。

さて、仏教の瞑想である「止観」の「観」では、心身の状態に「念(気を付ける・注意深くすること・前々回記事を参照)」を置く。
姿勢や呼吸などの有様を意識し続ける(数息観・武士の修道・現代ヴィパッサナー瞑想・マインドフルネス瞑想など)。
止観の「観」とは、サンスクリット語で"Vipaśyanā (ヴィパシヤナー)"といい、「分けて見る」と直訳するが、この「見る(観る)"paśyati"」とは「(知能・精神で)捉える」というニュアンスの√dṛśの現在分詞であり(概念で構築された見解のことを√dṛśから"dṛṣṭi"ドリスティやパーリ語"diṭṭhi"ディッティと呼ぶ)、視覚的に「見る」という"look"に通じる√lok "lokate (ローカテー)"の意味ではない。
つまり「分けて見るVipaśyanā」とは、普段の、心の思いや体の行いがある自分とは、分けられた立場の自分が「(知能・精神で)見る・捉える」という意味である。
私は、呼吸などの意識に集中できない人間であり、実践的な「観」の修行をしていないが、日頃、一挙一動(行住坐臥の四威儀など)を擬似的に客観的視点(一応の客観・前回記事既述)から見ることで抜かりの無い行動を意識している。
日常生活では些細なミス(失念)も多く、思い通りにゆきづらいが。

そのように威儀が整っている人が「(世俗的な意味でも)顔つきをよくしたい」と願うならば、顔も整ってゆく。
表情が冴えて頬は垂れず、口角も下がらず、目つきは明朗として彫りも深くなる。
歯のかみ合わせの悪い人が良くなったり、一重まぶたの人が二重まぶたに変わるであろう。
人(先天性・年齢など)によって限界は異なろうが、可能な範囲で変わったり維持されることは有り得る。
・・・忌憚なく書いておきたいが、そういう「願い」を仏教的に捉えると「卑しい!」とか「邪(よこしま)な執念だ!」とか「臭い奴の所行だ!」と思う人がいるのではなかろうか。
そういう「願い」が無いような人でも、念が保たれるならば、自然と同様な顔つきとなる。
この「心の在り方が一挙一動・表情などに通じて顔貌に作用する」という道理に基づいて人の顔を見れば、普段から意識が薄いような人の顔を見抜くことができる(実際のことは断定しないが)。
念・意識がありすぎた表情でいると「慢性便秘に腸捻転を起こしたようなツラしやがって!」とからかわれる。

様々なスポーツの選手たちは大概、顔つきがよい(精悍な)のかもしれないが、知識に裏打ちされた部分が少ないと、スポーツ選手であっても抜けたような顔つきとなる(日本人の一部は海の向こうの○○半島の人のような顔になる場合も多い・それは生まれつきかも)。
また、子供の時に可愛らしかった顔(美醜のセンスに基づく)の子・・・私の下の弟などもそうだが、大人になるまでに顔の力が抜けて生来的・親譲りの顔の美しさが失われる場合もある。
それも、先述のような「意識・念」に欠いて遊びほうけるなど、物事の「客観視(便宜上の客観を言う・前回記事既述)」を行わない人生の中で後天的要因として起こり得る。
「大人になるまでに人間はみな往々にしてそうなるものだ」というのではなく、同じ大人でも、目の大きさとか目の開き方に差異があるよう、子供のころは同じように丸るくて大きい目・円らな瞳であった子供同士でも、育つ過程に「自己への客観視・客観的な自我意識・反省思考」の多寡があれば、それに割と応じた顔の成長・発達がある、と言いたい。

これは「一生スケールの進化論」であるから、普通の進化論で言えば、あるヘビの種族が高山に住んでドラゴンに進化するものと、ジャングルに住んで大トカゲに進化するものとがあるとしよう。
人類の共通祖先と仮定するホモ・サピエンスが、各種ネグロイドとなる場合と各種コーカソイドとなる場合と各種モンゴロイドになる場合などがあることも、突然変異の場合を除き、住む土地や同時に住まった同種の個体との相関性で変化が有り得ている。
普通の人間を例に挙げると、似たような子供、極端に言えば双子であっても、当然発育環境や、短期間の「意識・念」の在り方で顔の変化は有り得てしまう。
可愛らしい顔であった下の弟知的障害を持つ彼は、まさしく、同じ兄弟ながらに生き別れたり、顔とは別の先天性を原因として、可愛らしさを失う結果を得た事実をありありと教えてくれる。

横顔に分かりやすい顎の後退・アデノイド(下顎の頤を指す)の人は、先天的要因によってアデノイドであるよりも、後天的に鼻呼吸を意識しなかった(口呼吸)の結果(念が薄い果報)であると思うべきである。
人によって限界はあっても、今は日頃の努力で、可能な限り顔つきを矯正することができる。
資本主義・物質文明においては好き勝手に美容整形・外科手術などを行えるであろうが、よほど酷い事故に遭ったなどという状況でない限り、「自然性」を重んじる人間的な発想から、日頃の努力の積み重ねによって顔つきの改善を願うべきである。
時として得られないものもあろうから、その努力が成される人こそ、得られないものは得られないとして明らかに諦めることができる。

それも人間の内面の進歩として喜び、その時、真の意味で「良い顔」が得られよう。
この「良い顔」とは、人に対して卑屈にならない心で、ありのままに顔を見せられる、という意味である。
今は上手く振る舞えない人であっても、いいや、人に見せられない間に努力を、思う存分、気にせずに積み重ねればよろしい。



個人的な経験など

思えば、私は小学生のころにTV番組で「モデルやアイドルの顔写真を見つめるなどの自己暗示でモデルやアイドルのような顔になる」という道理にうなずく時があった。
限界や程度の差こそあれ、色々な世間の在り方から、蓋然性のある話だと認めるに至った。
疑似科学云々、ということは問題とならない。

当時認識していた世間の例を挙げると、とある生物の分野を研究する学者が、対象が獣一般でもサルでも魚でも、顔がその対象の生物と似ていたりする。
人間が認識するその生物の顔つきが人間の認識し得る範囲で似た特徴を備えて人間の顔に現れた。
その生物に接したり写真を見続けたり頭に思った結果である。
また、飼っているペットと似たような顔つきの飼い主も、リアルなりテレビなりで確認されたろう。
これはマンガのネタではなく実際にいくらか見られた。
それは飼い主が似た顔のペットを選んで飼った(無意識的・意図的のどちらも)という経緯も考えられようが、似ることの先・後がどちらにせよ、飼い始めてから更に似るようにもなる。
それらの「不確実な認識・経験のみを根拠に断定した」というのではなく、経験を基に情報への信頼を持ったということを言いたい。

また、中学生の時は誰よりも人目を気にして学生生活を送っていた(それも中2の12月までだが)。
例えば、少しでも笑いを浮かべるとキモがられるのではないか、など、心と表情とを御していた(実際に微笑みなどを浮かべた結果あまりしゃべらない同級生らに陰口などをされた経験が数度)。
そのように周囲の人間を「気にしすぎ」ていた。
冒頭にいうような「念」を保つことが多かった(今ほどの理解が無いことに加えて厨二的な憧れのために死んだような顔つきを思って過ごすことが多かったので目つきは良いといえない)。

様々な経験が幼少から重なってきたところ、インターネットの情報の取捨選択と摂取によって裏付けられていった。
決して「妄想を強めて取り返しのつかない偏頗な妄信に至った」ということではない。
私の顔・・・オレの顔を見ても信じられないのか!!(写真後掲)



現在の私の体は、善悪の業を反映しやすい。
仮に設けられた仏のエッセンス」のためであろうか?
2013年ころは頬杖をつく習慣(主に左手・左頬)があり、頬杖を多くつけば頬骨が出るようになった。
その習慣をやめると、1週間~1か月と思われる期間の内に引いていった。
このように骨格レベルでも、変化しやすい場合がある(部位・年齢・個人差などがある)。
悪い習慣をやめなければ「形状醜陋(ぎょうじょうしゅうる)」になる、という恐怖の作用をなす「仮設エッセンス(心の中の仏様のおさとしよ!)」を感じている。

少し甘いものを甘いものとして口に含んで食べると、肌が感応して痒くなり、顔や頭皮にニキビ(毛嚢炎?)が発生する。
甘いものを食べるということを止めずにニキビを対処するにはどうするかといえば、困難な話である。
私に発生するニキビの原因の一つや二つが判明しているならば、できることから行ってゆこう。
仏教的には、行わないことを行うということであり、甘いものを食べるということをやめればよい。
その方が仏道にとってもよいのかもしれないが、例えば母親から受ける食物について、全ては食べておきたい。
例えばおかゆに甘いものをぶち込むことで味覚に知覚される甘さを薄めると、おかゆの方が不味くなってしまう恐れがあるから、甘いものならばコーヒーなどを供して食べたいものである。
コーヒー・茶・牛乳などで中和されても、ニキビが発生するわけだから悩ましく思う。



経典に説かれた美醜の果報

記事タイトル「端正(たんじょう)」や、対義「醜陋(しゅうる・しゅる)」の語は、多くの経典などに載る。
主に、何らかの因縁の果報を説く時に用いられる言葉である。
自著・觀萌私記に連なる著作に「清浄萌土抄」があり、「抄」と名付けているため、何らかの仏教書の引用文が載っている。
この「清浄萌土抄」には、経典ではないが大智度論(うち巻九十三所載の浄仏国土品、般若経典浄土品の注釈)を引いて萌土の衆生の相貌を示してある(大智度論は般若経典の注釈書であり該当部分は元の経典と関連した部分であるから実質的に経典と同様であるとも言える)。
また、萌土とは萌えの報土であるから、報身の萌えも応身の萌えも平等に萌相(萌えの相)と萌心(萌えの心)があるし、萌相に個性的な違いがあっても個性として尊重される心の平等さも説いてある。
※本文の新字体や"眾・緣"繁体字表記を旧字体に直しておく。
此の土の敎主・萌報身、願を發して言わく「我が國土の衆生は端正(たんじょう)なること華の如く、身の相は嚴淨(ごんじょう)にして醜陋(しゅうる)有ること無からしめん」と。
・・・佛家・大論云: 或有菩薩雨諸華香、幡蓋・瓔珞以爲供養。復作是願「令我國土衆生端正如華、身相嚴淨、無有醜陋」。如是等種種好色因縁。
(乃至) 群萌は萌報身の等しく愛すべき所なれば群萌の間にも差別の心無し、柔和圓滿なりと云うべし
(乃至) 其の土の萌類、女人の不淨なる孔を持たず。長じて聲・形の差ある耳(のみ)。是れ雌雄男女の別に似るも無きが如し。故に佛家の大論も經を引きつつ釋して男女相をば「菩薩は是の如き麁業の相を遠離す」と説きたまえり。本の身男子ならば陰藏相を得。この故に佛家の大論も陰藏相の因縁を明かして「多く慚愧を修めて邪婬を斷つに及びたり」と説きたまえり。
諸の彼等の、形の差別は前世の名殘にして、心に優劣の分別を持たねば差別を生まず、唯だ色・聲の境に依りて區別する印(しるし)なり。
大智度論は竜樹菩薩(龍樹)の撰述かどうか、という論議について、毎度の通りさしおいておく。
竜樹菩薩に仮託した別人の書であるとしても、紛れもなく空観に優れた人の言葉であろうし、方便として仏国土の衆生の「端正・厳浄・好色」を言っている側面はあろう。
特に、「端正・厳浄・好色」の基準は、当時のインド(および広義の中央アジア)あるいは中国の美的センスの上での表現というよりは、色々な人にそれぞれある美的センスを踏まえた上で、それらを超越した基準ではないかと考えられる。
つまり、「仏国土の衆生は端正であって端正ではない(端正でなくもない)」のであろう。
仏国土の衆生の心において人の外見などに対して「端正・厳浄・好色」という言葉が浮かぶような価値判断(分別)の心が無い境地を、あえて逆に「端正・厳浄・好色」の身・相を有していると喩えていると考えられる。
隠喩というか逆喩というか、一種の譬喩・レトリックであると私は考えている。
竜樹菩薩の中論の見解に則れば、「端正」と「端正でないもの=醜陋」という相が共に確認されてそれぞれの名称・語句が成立するわけだから、仏国土にはそういった名称・語句は最初から無かろうが、あくまでも名称・語句のある娑婆の立場で方便として説いていると、私は言いたい。

しかしまあ、他の様々な方便・方等の仏説経典に、善人とされる者の「実際的に端正な身・相」のことは説いているであろうし、反面、悪業の果報が「形状醜陋」ということも説かれていよう。
結局、この大智度論などに見る浄土の御利益みたいな教説は、譬喩の一種と理解してもよいし、額面通りに実際の功徳の果報・御利益として信じてもよいのではないか。
理解する人・信仰する人の修行に役立てば、どちらも功徳になるものと思う。
読む人に「仏国土・浄土のメルヘンチックな理想」と実体視して捉えてもらっても、空観を極めた人にとっては「ひとまず(方便だから)それでよい」と理解できる。
そう一般人が実体的に捉えると「オカルト・有り得ない」と思いかねないわけだが・・・。

※善業・功徳の果報ということは、上の清浄萌土抄の引用文に「女人の不浄なる穴を持たず」とか「男子ならば陰蔵相を得」とあり、同じく大智度論を参照している。後者の陰蔵相もとい仏の三十二相について、一つ一つの因縁(どのような善業の故に相を得たか)を明かした記述が大智度論の巻第十一と巻第二十九にある。三十二相を具える因縁は、主に布施行と関連しているようである。また、ある説における三十二相とは、仏の慈悲の象徴ともされる。三十二相を具えた姿を借りて心を表現する姿・・・、世間でも人柄の良さと内面の人格を結びつける場合があるが、仏教ではこういった方便の教えにおいて多く採用されていよう。思えば好色萌相が慈悲の象徴という位置づけも、全く同様である。可愛いキャラから、優しい心を見通して自己に反映すべきである。



仏教徒・宗教の人

背後の写真・・・2017年1月1日6時36分30秒撮影、前面の絵・・・2017年1月6日に描いた

一般の中高年・老年に比べて僧侶の顔は若々しく、凛々しいという傾向が見受けられる。
新興宗教などにいる熱心な信徒・在家信者らもこの傾向がある。
同じ太っている人間でも、僧侶の顔は肌つやがよくてあまり垂れず、目もはっきりとしている(太っているという自我意識に悩まされない精神性の反映か・太って醜いことを不必要に悩むと泥沼でますますそのような顔に変貌する)。
特に僧侶の顔は、凛々しさのみならず、温厚さも兼ね備えている場合は多い。
「何らかの念」による業の果報と考えてよい。
それは「心の中の仏様・仮設エッセンス」に違いない。

美しい顔であっても、仏・菩薩ではなく、魔・修羅の現れという二面性があるから、内心が修羅のような人が表に良い顔つき・人相を現すことも有り得る。
怒りの果報として人相が悪く崩れるのではなく、かえって凛々しさが増す場合もあろう。
とはいえ、僧侶には一般人よりも念が保たれて顔つきの良さが見られる傾向に、一点の疑問もない。
あくまでも傾向であるが、一見、老年と分かる顔つきの僧侶でも、同年代の中では溌溂としている「事実」を見受けられる。
「真の健康法」を語った記事も、こういった「事実」を念頭に置いて書いている。
インターネット仏教関係の専門的で詳細な情報を載せているHP・ブログ運営者は、出家僧侶・在家居士・学者さんなど60歳以上の者が多く(むしろ50歳以下はごく稀にしか見かけない)、70代の方もよく見かける。

どこかの機関の統計にも、僧侶・牧師など宗教家(聖職者)の長寿ぶりが示されたりする、ということを伝えたいが、これについても読者をして疑わしめる例示となろうか。
つまり、「私の記憶は正しいか」、「統計自体は存在して記憶通りであるとして統計の信頼性は高いか」、「統計に集計手段や集計結果に誤りはないか」といった疑問が生じるであろう。
ああ、ろくに画像や統計などの根拠も示せないが、2017年1月現在19・20歳である私の言葉として信じてほしい。
人間不信が蔓延する世の中にはしたくない。
もっとも、そう願う人間の初期段階として信頼を得られる言動を心掛けるべきであるが・・・。
気になる方は各自で検索などしてご確認をされたい。
「宗教家 寿命」や「宗教 長寿」などで検索すれば、先の「真の健康法」を語った記事にも通じた理由を挙げているようなページ・書籍がヒットするであろう。

単純に「金満」とか「有閑階級」というような理由に限ることは無いし、そんな演繹はできない。
僧侶・宗教家以外で、金満や有閑階級の他の職業の人が、必ずその理由だけで長寿となるかどうか、少し考えれば分かる。
僧侶は(少なくとも一般人と比べて)行いがよく、全体の傾向として人柄もよく(人によって欺瞞・慢心・欲望などを秘めているにしても関係はない)、形は大概にして優れた人間であることを否定できないので、顔つき・人相もよく、寿命も延びる。
顔つき・人相のよさを判断する基準は後天的・現世的な一面もあろうが、觀萌私記の讃萌語・内蔵萌心義に語るよう、「優しい心を現したような顔」、つまり人の生来的・本能的な感覚もあろう(進化論に則れば人の顔の特徴が動物よりも特徴的であることは高度文明を築ける知能・社会性などの傍証に明らかであるため)。
是非とも、宗教家は様々な面で「自然」を重んじて人格に富んだ人々であり続けてほしい。
現代の物質文明が衰亡の憂き目を見なければ、100年後には人工的長寿と美貌を備えた改造人間(現代も同じようなものだが)で世間が溢れかえるはずだが、それまでは何とか「自然(Natureとかジネンとか)」の大切さを身口意に渡って世間へ説き続けてほしい。

真に努力ができる人とは、宗教を学んで行う人々にほかならず、世間の望みは「叶った」と自ら思い込んだ瞬間に努力を放棄する儚いものでしかない。
不断の努力(精進)を人々に念じてもらうべく、仏様・仏陀・如来・世尊・釈尊・釈迦牟尼仏は、命ある限りは終わりのない夢と希望を一切衆生に与えてくださった(慢心を起こして修行を手放す者もいるが)。
物質文明が衰えずに改造人間が溢れかえれば、大した個人的な努力(ほとんどの勉強・趣味・労働など)が必要なくなることは想像に難くないからこそ、個人的な努力を死ぬまで持ち続けられる宗教信者こそが「智・美・勤(世俗のものであっても)」などの徳を示してゆける。
人生と仏道は同義であり、中身はみな「自覚ありきの反省、反省ありきの努力」に尽き、間断なく行われて道に始まりも半ばも終わりも有って無いようなものである。



二次三次相対互換と色心の相応

いつも通り、先に断っておく事項があり、「2012年8月から私は或る基準においてアニメの視聴をしていない」。
私という閑居求道者が言うのであるから、アニメのみならずゲームのプレイなども推して知るべし
ただ好色萌相・萌え絵を尊んで自ら顕す所存である。


「二次三次相対互換」の理論は過去記事の通りだが、これは、先の色心の相応を理解して顔つきの改善を実現した人間が絵を描いた場合に実感できるであろう。
腕がある人は、その絵に対しても、如実に顔の理念を表すこととなる。
自著である「觀萌私記」にも、「兩萌相應…」、「~我心此芽倶開華」といった色心不二の萌えの「果報(結果として蓋然的に起こること)」として、「絵の柔和な相貌が人に通じること」や「人の萌心によって自在に柔和な相貌の絵が描けること」を示してある。
心の念が自身の顔つきにも、絵心・顔を描く際のセンスにも影響するという、有り難い御利益が説かれているわけである。
「相対互換・相対的互換性」という語は、そのように三次元の人間が三次元に準じた二次元の絵の顔を描くのみならず、二次元の絵を想った三次元の人間が影響されて三次元の人間の顔にも反映されるという点を示しており、觀萌私記はこの意義を重ねて説いた書であった。

また、過去記事に幾度と語った「仮設エッセンス」とは、仏教徒であれば仏・菩薩の個人的なイメージが生活の中で脳裏に現れ続けて少欲知足などが実現され、先述の通り、僧侶のように顔つきも整ったり、世俗的・人間の本能的なセンスにおける良い顔となる。
この「仮設エッセンス」は、オタク系の人であれば美少女を中心とした二次元のキャラクターが挙げられる。
ここで私が指す美少女の二次元キャラクターは、時代による面もあろうから、主に10~30代前半の人が好むものを想定する。
「色心の相応」というか、「想念(心)が顔(色)に反映する」ということとなる。

彼等は常に二次元キャラクターのことを意識して生きているとすれば、顔つきも二次元キャラクターらしく幼い・童顔と言われる顔になりやすいであろう(精神レベルも幼いと言うつもりはない)。
いわゆる「永遠の○○歳(○○の例は18歳が多い」といった自己紹介で、「心のときめきは10代(or それ以下)のまま!」ということを標榜する人々は、顔つきも10代くらいの状態が長続きしやすいかと思う(別の問題で若くして健康疾患や記憶障害などを起こさないように注意)。
たまたま目にするインターネット上で、オタク系イベント(同人・某動画サイト・アニメ・ゲームなど)会場に足を運んだという人が「中高生みたいな顔の人も20代・30代だった(当事者の顔以外の要素に20代・30代と確認が取れる様子があったかどうか)」という感想を述べていたりする。
またしても曖昧な記憶で書くが、児童ポルノ所持(頒布の罪状もか?)で逮捕された30代男性であったか、インターネットに流布しているテレビ映像のキャプチャー画像に写る顔は、とても「ピュア」な印象であり、その童顔ぶりのために顔が写った画像が流布しているのであろう。



ところで、海外ネット事業・コンテンツ関係者(主に20~40代の人)の顔つきは、どうも目つきが冴えなかったり、瞳の焦点が合わないようであったりと、同じ国の一般人と比べて「抜けている」という印象が多く感じられる。
言うなれば「シンプソンズ」などを視聴し続けた影響であろうか。
仮に日本のアニメ・ゲーム類に造詣が深くとも、日本のオタク系とは素が異なるので、似たようなオタク系やナード・ギークの類であっても、結果が異なってしまう。
例えば、植物の種(リアル人種・リアル住所など)は異なるので、同じ土地(インターネット)にて同じ太陽と雨の恵み(アニメ・ゲーム類が主要)を受けても、異なった草木に育つ。
また、何らかの数字を3で掛ける時、掛けられる数字が2や5や8など異なっていれば、6や15や24といった異なる計算結果があることと同じであろう。
それは、あくまでも小さな例ではあるが、そのように、日本人と海外の人とでは、似たような立場・似たようなコンテンツに触れても、顔つきの傾向に多少の異同が生じるようである。

しかし、日本好き(取りも直さず中韓を含めたアジア好き)の海外の人は、髪型やメイクなどは芸能・アニメ系の影響で日本人になじみやすい外見である場合が多い。
日本の芸能やアニメなどを好まない白人などは、髪型やメイクが日本人の好みに合わないというか、日本の街中で顔を写すと明らかに「浮く」雰囲気がある。
もし日本の芸能やアニメなどを好む白人がいれば、年月をかけるうちにセンスも外見も日本人に同化してゆこう。
近頃の海外の文化は、顔が写る写真も、各種音楽も、ウェブサイトも、みな意味や趣向が不明瞭のようで興味がわかない。
それは、日本人の文化であっても似たような傾向が出ている。
過去の絵の練習記事に、こう記した。

古典的マヨネーズ娘(当記事注: 当該記事所載の絵の人物)はやや目が大きいリアル系であり、前髪は中央で左右に分けるか、全て上げて留める。
現代でも西洋人、白人は素が綺麗で可愛いかもしれないのに、日本人の感性ではガッカリというか、ビミョーに感じてしまう理由は、髪型に大きい要因があると2011・12年ころに気付いた(無論、目の周りや口紅などのメイクにも影響はあるが、ここでは論外)。

現代の日本の女子らは適度な長さに前髪をカットして下ろしているが、西洋人の女性らはかなり伸ばした前髪を常時中央から左右に分けるか、全てワックスで上げるなどし、額をビロ~ンと見せつけている(男性的なショートヘアの人も多いが、ここでは論外)。
私から美的に云々しないが、少なくとも、その豪快なインパクトを日本のヤングたちは敬遠しやすい。
逆に西洋人らは、前髪が額や目にかかると煩わしくて真似をしたくなかろう。
この2011・12年ころ、同時に、日本好き(取りも直さず中韓などアジア好き)の白人らは前髪を日本人の感性にも受容される雰囲気にしている事実に気付いた、というよりは、その気付きありきで先述の気付きがあろう。
更に同時に、日本のアニメや漫画の特に萌え系などで、「なんか違う白人」の美少女キャラクターが多いと思える点も、この理論が適用される(リアル西洋人の前髪と比べて日本の白人美少女キャラクターの前髪は日本人の感性に適うよう成立している)。
もっとも、日本人美少女(美男子)キャラクターであっても、リアル日本のティーンエイジャーらはアイドル系(男女不問)でもなければ、結局みんな(以下略)。

逆に、日本で洋楽が好きな人とか、白人が多いメタル・ハードコア系のバンドが好きな人は、白人らしい顔つきになる場合も多い。
この説明は省く。
おおよそ説明の済んでいる意識や念という精神作用の反映であると言いたい。
実際の白人であるとか、黒人音楽であれば黒人と交流のある人もいようか。
後は、メタラー属性も兼ねている私の顔写真でおおよそ察してもらいたい。



起草日: 20170115

過去にも、二次三次相対互換の話など、断片的に書いてきた、事実と道理が、当記事所説の「色心の相応」である。
一つの記事の主題に掲げてまとめることは始めてとなろうが、なかなか十分にまとまっていない印象である。
断片的に書いてきた情報が上手く回収できない歯痒さを感じる。
例えば、「ある事実・道理を確かに過去に語った」という前提で、その事実・道理に関する記述を各ブログや動画説明文から探すが、不十分な程度にしか見当たらない場合や、全く見当たらない場合がある。
また、「ある事実・道理を恐らくは過去に語った」という前提では、その事実・道理に関する記述を見つけづらい懸念があって発見の可能性を放棄する場合もある。
多くの記事で、このような問題に直面したり、その問題を回避するようなことがある。

関連・当記事の投稿の事前に告知した動画「萌相條勘注 (8:35より)」
http://www.youtube.com/watch?v=O4DLkQQOkik


2017年3月15日水曜日

一理ある、全ての思考と言葉 「一面的な道理としては紛れもなく正論だが・・・」

ある時から、私は全ての「①思考」および「②結論」と「③その言葉」について「一理ある」と認められるようになった。
その言葉を発するまでのプロセス①・②の段階によほどの狂いが無いならば、③その言葉は紛れもなく正論である。
「ある一面においては道理である」ということで「一理ある・正論」と認められる。
どのような意見も、前提によほどの不可解な狂いが無いならば、みな尊重できるということである。

しかし、「ある一面においては」正しいのであって「より俯瞰的・客観的な道理に依って意義が尽くされた言葉であるか」を問えば、全く認められない。
発せられた言葉は、ある定義に基づいた見解であり、感情を伴っている場合もある。
それを主観とすれば別の定義や感情から客観することができる。
この「客観」とは、別の視点で見直すことであり、「反省の思考(止揚とも?)」と呼ぶ。
物事は、人の取りようで善にも悪にもなり、狭隘にも一者のみを見て断定せず、その性質を見極めて善悪を包括した上で、自分にとっての善悪の一面を論じられれば最もよい(基本の思考は中立的にするが意見を出す場合は自分の価値判断に少し寄ること、みなが多少異なる意見を提出しつつ協調しあうことは仏教の中道・日本の和の思想・十七条憲法の第十七条や民主主義の理想に通じる)。
こうして思考が成熟して意義が尽くされてゆくであろう。

しかし、それもまた、同じように別の視点で客観することができるから、新しい客観的見解も主観的見解となり、再び別の視点で見直すことができ、客観は客観でなくなる。
物事はどこまでも、客観的に論じられはしない。
命がある限りには、限りなく物事を煎じ詰めることができるが、故に「完璧に客観すること」などはできない。
人間が人間である限り、無限ループ「輪廻」に留まる。
※この探求・輪廻の果てに解脱もあろうか、輪廻がないならば解脱という概念も生じない。

譬えて言えば「蟻が人を仰ぎ見、人が飛ぶ鳥を仰ぎ見るが、太陽はその全てを照らし見ている。人類が人工衛星や宇宙船を飛ばして銀河の果てを遠く見ても、広大な宇宙には際限が無い。認識可能な範囲の宇宙の外は、有って無いようであり、時間の果ても有って無い。こう思えなければ人間の知ることには限界があるし、こう思っても限界の諦念がある。こう思わないことでやみくもに限界を知らない追求もできるし、こう思うことで限界を気にしない自由な思考にもなる。どちらを取ってもどちらも有り得てどちらも有り得ない。戯論寂滅である」と。
過去の大徳は、真に客観することはできないという戯論寂滅の上から、現世の命のある限りに現世のならいとして教化や修行を続けられた「事実」がある。
潔いではないか。真の客観性は「有って無い」と諦めて(明らめて)涅槃入寂の間際まで(主観性を奉じる)聖人として振る舞われた。



一般世間における「客観性」とは何であろうか?
「その見解がどれほど大勢の者に認められるか」が、一応の客観性であり、次いで一応の正当性を決定する基準となる。
それが民主主義・多数決原理とも呼ばれ、一応はそれでよいかと思う。
一応は、一応は。
先ほどの哲学的定義を受け止めると、過去記事にいう「客観的真理に基づいた人生(石ころのように動かず語らず考えず)」を送らねばならないので、人間的智者の便宜上は、そうしてよかろう。

Wikipediaに載せるべき情報も、その一般的見解(常識)・学界に認められた見解(定説)・大手メディアに報道された物事が第一に優先され、その正誤や実否はともかく、一応は容認される。
これがWikipediaの「中立性・中立的な観点 "Neutral point of view"」であろう。
中立を重んじるWikipediaの方針が「真に客観的な視点など証明できない!哲学の常識だ! "There's no such thing as objectivity. Everybody with any philosophical sophistication knows that."」と批判を受けても、私と同じような理解で反論しているようである(2017年1月14日参照)。
客観性にも分類があり、般若経典や中論にある「真諦・俗諦(通称)」の理解が適用できる。
真諦による客観性は言葉にできない、言語道断心行所滅・不可説"Ineffable"である。
Wikipediaでは、融通が利くように世俗上の中立性・客観性を受け入れていることとなる。
俗諦の意義を以て「中立性・客観性」の仮名を付している(故に真の中立や客観は成立しない)。

Wikipediaとは、どのようなことをすべき場所であろうか?
Wikipediaはあくまでも大衆に認知された「検証が可能な客観的な根拠・典拠のある情報」を「ウェブ百科事典」として集積する場所であり、論理・学問を極める場所ではない。
個人の学びの参考にはなっても、学びの最先端とすべき場所ではない。
たとえ「独自研究」こそが公的な見解や大衆に認知された情報と比べて正確・正論であっても、Wikipediaというサイトの場は、上記の如く目的を異にしているので載せるべきでない。
つまり、以上の例からすると、Wikipediaは民主主義的客観性に則った世俗的サイトである、と結論できる(編集の方針は互いに尊重・協調するとかという相互の自由を保障する自由主義や、完璧は実現不可能だが完璧を目指して記事の質の向上を努力を心掛ける宗教らしい一面もあるが本題と逸れるので割愛する)。
この段落は極めて「筆者の独自研究」であるが、筆者たる私は大いに確信を持っている。

反面、大衆に認知される事実とか世俗的客観性とかは、時代ごとに変化する。
従来の定説が覆る場合も有り得る。
よって、古い記述に大幅な変更を要する場合はノートページを利用して意見を提出したり、議論をすることもできる。
少数意見であっても汲み取られる場合もあることは、また民主主義の一面であろうか。
Wikipediaには、学界でも見解が異なる事柄(未確定事項・科学から歴史問題までさまざま)の記事では、複数の異なる見解があることを示していくつか紹介する場合もある。
「著名な」学者さん・専門家などの「権威のある」言葉・見解であれば、その学者さんのものと証明できる出典(検証可能性のあるもの)を明記して載せる。



起草日: 20170114

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2015年8月17日 - 「引きこもり」について一元的な見方しかできない世間・・・質素な閑居について
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_17.html
2016年10月21日 - 事実認識の相違、思想や意見の対立でヘイト感情…世俗上の中観法
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/10/heretical-dogmas.html

さて、世人の悩ましい問題を例に取ってみよう。
オウム真理教について世間が好むことのある話題は、「幹部は高学歴が多い」とか「社会の底辺の受け皿」などという趣旨のものである。
創価学会に対しても同様に「幹部は東大卒・創価大卒などエリートなどで固められている(全体主義的)」とか「貧困・病苦の人の救済や地方出身者をターゲットとした布教で成長した」と世間の人や仏教徒までもが主張している。
これらは或る時代における傾向や、ある極端な傾向の一部分を取り上げた言葉である。
一方のみを唱えると、人に偏った印象を植え付けようから、偏頗である。
仏教徒がもしもこんな主張をするならば、「中道」の文字だけ知って思考に染みつくこともない点で、相対的には外道の極みとなる(相対的には外道の極みと言ってもその偏向的な主張をしている人物の一面を捉えて私が表現する)。
極端な思考をしかも主張するならば、その慢心の箍が外れてしまおうから、ゆめゆめ、仏教徒は三業を慎まれたい。

続いて、こういう例も挙げる。
良い家系・親の人は、大概、学問・武術・芸術などに秀でていたりするし、民主主義国家でも親子で大統領・首相経験(世襲・民主主義下の実質的貴族)のある例は非常に多い。
世間の人は、往々にして二極の立場で彼らを捉える。
且つは手放しにベタ褒めし、且つは親の七光りだとレッテルを貼って非難する。
どちらもひがごと・僻見である。

ベタ褒めする者はかえって批判したい対象を念頭に置いた底意が見え、レッテル貼りで非難する者は露骨な悪意がにじみでている。
彼ら、優れた家系の優れた末裔も、家系(家柄・血筋)という外的な先天的要因と同時に、個々人の幾ばくかの努力といった条件の満足で、世間的に認められた才能がある。
条件の満足とは、多岐にわたる先天的要因・後天的要因・時間的要因・空間的要因などに著しい欠陥・欠損・欠落がないことをいい、ある面が優れるほどに世間的に認められる可能性も高まる(盲聾者は盲聾者なりに、五体不満足は五体不満足なりに名を挙げた人がいるが、これも様々な要素の満足の結果である)。
この「先天的要因・後天的要因・時間的要因・空間的要因」に細かい定義の説明を要しない。
後天的要因の一つをとっても、努力という内的後天性と、周囲の人間関係の得失という外的後天性などに分類される上に、100%外的後天性や100%内的後天性というものもありえないためである(内外の要素は多少通じて1%~99%まで有り得るのみで100%それだけということはない・起草日の3日前の日に起草した記事にも語る)。

それが、どういうお家に生まれたか、という外的先天性に重きを置いて語る人がいるのであろう。
小学生の時は、テレビに出演する子役なり、優れた子供なりについて「どうであれ親の条件が第一だ」と憎悪を含ませながら思いもしたが、それはそうとしても、実際に子供個人で優れている部分も認められた。
だから、無批判なベタ褒めも、レッテル貼りの非難も正当でなく、妥当でない。
悪い感情に基づいて言われたもの(推量断定・推断はできないが)であれば、その陥穽が必ず伴っていると仏教徒は考えるべきである。

個々人に先天的・後天的な善悪の要因があって当たり前である。
どちらかの傾向が例によって分かれるのみであって「程度の差」である。
必ずどちらの性質も、多かれ少なかれ存在するし、片方が存在しなければもう片方も存在しないと思うべきである。
つまり、相互依存(共依存)の道理にならうべきであり、深く論ずべき事柄ではない(戯論寂滅)。

否定も肯定も、その時に認められるものは、適宜行えばよいということは中立的民主主義国家の政治思想にも繋がる。
記事の本題に寄せて言えば、「手放しにベタ褒めすること」も、「レッテル貼りで非難する」ことも一理あるが、故に共に一面的であり、故に両極端(二辺)である。
人権思想に基づいて言えば、個々人の個性や努力を否定せず、今の在り方をただ、富裕層にも貧困層にも平等に認め、施すべき物事を施せばよいわけである。
全ての人に成長が見込めるように、という発想が現代的な政治思想の原理であるから、他人を貶める意図で肯定や否定を行うと、誰かの成長を停滞させるか退行させることになりかねない。
良い家系の子でない≒ベタ褒めされない側の心に良い影響を生まず、良い家系の子である=親の七光りと嫌われる側の心にも良い影響を生まない。
一般人は感情に基づいて極端な見解を起こすから、ジレンマが生じる。
ジレンマの解決は、私のような仏教思想が肝心である。

まず第一に自分の欲望などを抑えれば、ジレンマもトリレンマも漸次緩和されるが、無論、「欲望を抑えて生きるなんて息苦しいことをせず、自殺願望を起こして自殺すれば全てが速やかに解決される」という虚無主義的な極論を言わない。
また、「仏教思想を学ぶことで他の時間が削られるという問題が生じる」と言われれば、もはやお終いである。
何を取っても多少のジレンマがあるが、自分が容認できれば全て収まると思うべきである。
仏教を学んで少欲知足に生きることは、私の主張として推奨する。
最も尊い「減少(欲望と欲望に伴う行動の抑制など)」が、最も健全な「増加(精神の成長・食物と資源の保持など)」・発展に置き換わることを信じてやまない。


2017年3月8日水曜日

物質的自然法則と「念」の在り方の一考

観萌行広要に「人間の性質として悪の側面もあり、いくら善良な念を保とうとも諸行無常の故に薄れてしまい、対比して煩悩や愚癡の(心の)悪魔が顕在化するため、仏教的理解の利剣・破邪の剣を片手に携えねばならない」と書いた。
そもそも仏教用語の「念"smṛti, sati"」とは、簡単に言えば、何らかの意識を保持して忘れないようにしたり、注意すること・気を付けること(気が付くこと・気づきではない)を意味する言葉である。
ここでは、観萌行大要の原文に示されている何らかの「善良な念(萌相や萌義に対する喜びなど)」を指している。
念という精神の状態と作用の完璧な維持は不可能であることを前提に、その精神の状態と作用が崩れつつある時は智慧によっていくらか元に戻す手段を説明している。

科学ではエントロピー増大則があり、自然現象としては刻々と変化してゆくという法則を免れられないから、人間が手を加えることで修正ができることを説明する。
無論、分子レベルで100%同一のものに戻すことなどは不可能であろう。
数字・理論で構成されたコンピューターの世界であれば、情報を擬似的に変化させつつ、擬似的に戻すことができ、理論上は100%同一のものに戻せる。
例えば、ある人がモニタ画面・ディスプレイにR = 255, G = 255, B = 255の真っ白画面を表示させ、それをR =0, G = 0, B = 0の真っ黒画面に変化させ、再びR = 255, G = 255, B = 255に戻すことは、それで理論上、100%白の画面を100%黒の画面に変えて戻すことが成立している。
しかし、モニタ画面に出力されたものとしては、液晶・ブラウン管の構成物質や発された光などの条件が微細に異なっているため、この観点で100%同一のものでない。
ましてや、そのようなものを人間の目を通して捉えたものとしては100%になることはない。

物事に「100%」を言う場合、ある一面についてを指すものでしかないと思ったほうがよい(アルコール度数0%ビールとか果汁100%ジュースという製品の表示も"許可表示"であって実質的数値とは言いづらい)。
100%云々については「理と事」について語った記事の通りである。
90%や、99%や、99.999...%の再現ができても、物質の分子レベルの在り方や時間上の同一性を問うた時、どうしても100%になることはないという。
基本的に「100%」という表現は、そういった厳密な定義や微細な条件を排除した便宜上のものであるが、大概の場合は、そういった観点での100%か否かを気にしないであろう。
物事の予知(予測)において「確率は0%だ、100%だ」といった断定も、ある特異な条件(人の死・地球崩壊など)を排除した場合に言われる推量・推断の域を出ないと留意すべきである。

コンピューターの世界の中(理論上)では永遠に変化なく存在させられる情報も、本体が変質したり壊れたり、情報を利用する人間が脳内で捉えた情報や人間自身が死ねば存在は無も同然であるから、永遠に変化なく存在することは無い(半永久的であるという)。
昔のゲームはシンプルであるから理論の要素が極めて高かったわけだが、2Dのドット絵にせよ3DのCGにせよ、「止まらない噴水」があるとし、その水は理論(プログラム)から生じてモニタに出力された「幻」なわけだから、水源無くしてひたすら幻が生じ続けている。
この水の形をした幻は、ゲーム内に「停止スイッチ」などが存在しない限りは止められず、噴水の部分が破壊可能なオブジェクトでなければ破壊されることもなく、永遠に水が流れ続ける。
噴水の部分が破壊されても、ゲームによっては、破壊されたところからも何らかの設定で水が湧き続けることとなる(この場合は水のグラフィックを別に設けて破壊に応じて消えないようにしている例と噴水の下に水源を想定している例とがある)。
ゲームの世界では、滾々と幻の水が生じ、延々と流れ続ける(有始無終?)。
私がゲームの世界の住人ならば、固定的な実体「我・自性・アートマン」か絶対的な法則が有るとみなすであろう。
それはまさにコンピューター理論がその「実体・法則」となろうが、それすらも本体となるソフトウェアやハードウェアのどちらかに問題があれば成立しなくなり、ある意味では「人有我・法無我」のようである。



話を戻す。
仏教でも諸行無常(行=心行を含む)を説き、心の念は壊れやすく、どうあっても保ちがたいもので、世間の実相に顕在的な法則であるものだが、仏教の理解で半永久的(生命が維持される範囲内)に持続させられる利益が説かれる。
非常に難しいことではあるが、仏教を学んだり実践する努力で、その崇高な境地を目指してよい。
霊長類が現生人類(猿人・原人・ヒト属ヒト種)へ進化することによって知識や欲望や感情を得て意思から種々の行動を比較的自由に行える能力を得たように、個人も仏教の理解によって自由な心の境地が得られるとよい。
そこで、「仮設エッセンス」の価値も成り立つ。
努力の継続=修行の精進とは、仏教知識のみならず、仮設エッセンスも重要である。
観萌の行・萌えの法門においては仏教の理解と、「内蔵萌心の自覚・持続(仮設エッセンスに相当)」を要している。

平等の心が泰然として据わった時、仮設エッセンスも忘却されて泰然自若の姿が出来ているのかもしれないが、それは仙人もどきであり、大乗仏教ではあまり理想的でないかもしれない。
人間として生きている間の悟りは、たとえ終生揺れない悟りであるとしても絶対的とは言えず、「仮」の域を出ない(先ほどの100%の考察と類義)。
仏・菩薩のように、力の限りに法を説き続けてゆこう。
よくよく慢心を制御しながら。

心に誓ったことも保ちづらく、仏教の知識というもののありがたみさえも損なわれやすい自分は、常に恐ろしく感じる。
せっかく感動した・歓喜した教えにも、「自分が記憶・認識し続けるもの」としては誤解・顛倒が伴っているのではないか、という悪い「疑い」が起こってしまうときがある。
正念を失っている状態であろうか。
それが一過性であり、すぐに智慧の心を目覚めさせたい。



起草日: 20170111

仮設エッセンスが念として作用し、念が日常生活の中に生きることを説明した過去記事がある。
およそ、仏教徒の生活・仏道は、各々異なりがあるとしても、そのような念が活きており、八正道を行くための杖となろう。
諸々の所作、一挙一動、五感に捉えた物事の全てが仏を意識させ、四念処と呼ばれるような想起がある。
http://lesbophilia.blogspot.jp/2016/09/blog-post-20.html

2017年3月2日木曜日

Google+ 2017年2月中の日記メモ

Google+が1年ほど前から公開していた新デザインに、2017年1月上旬に強制移行したことにより、日記メモを載せる項目の仕様が変更された。
「○日前」などと表記し、投稿日時が表示されていないため、まとめる際に日付がはっきりしなくなった(HTMLのソース内に"date"の要素も確認されない)。
先月中は対策を取らなかったが、今月からは日記メモの冒頭で日付を記す対策を取り始めた。

例…旧: 本日は○時×分に起床した → 新: 本日○月×日は○時×分に起床した

これは毎日きっちりと記す必要が無いが、できる限り意識のある日に行っている(行わなかった日があっても後から修正することをしないでおいた)。

メモ記入日の一覧 (日付をクリックして移動)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28



2017/02/01

本日2月1日も1時台に目覚めたろうが、やはり2:10の第一アラームが鳴るまで起きる気にならず、それでいて前日1月31日と異なって2:20の第二アラーム以後の2時23分に起床する結果となった。怠惰というものである。4時過ぎから、恐らく前年9月以来となる紅茶を飲んだ。当時はアールグレイだったが今回はダージリンである。イギリスの茶屋の名称を冠する同銘柄は「原産国名: 中国」から「原産国名: インド」に変わった様子である。それはそうと、紅茶(淹れた量は別として飲んだ量はムーミンカップ9分目に当たる)のカフェインパワーにより、6時過ぎに硬めの小中サイズのものの複数個を排便した。10時30分ころからも中サイズのものの複数個を排便した。10時44分に母親がお仕事へと外出した。

11時台からも紅茶を1杯強の分量の茶葉を用意し、随時入れて飲んだ。15時台から仄かな腹痛が起き、15時半ころには強めに感じられながらも作業(複数の下書き記事と既存記事の加筆修正や音楽動画の編集など)に向かい続け、15時51分から便意も混ざってきたためにトイレへ入った。結果は下痢であった、それも近頃の下痢の少なさに比して多めである。臭いも下剤1錠の効果が強すぎた時のものとよく似ているが、前日は下剤も非刺激性便秘薬も飲んでいない。原因は食事(肉・野菜類の加熱の程度)による中毒症状や行為(本日は2度2階バルコニーに出た)による感染症など、いくらでも考えられるが、それだけで下痢の結果は考えづらい。カフェインパワーの影響にしては極端であるし、どれでもないし、どれでも有り得そうなので、結論を出さない。16時10分過ぎからも下痢を出すためにトイレへ入ったが、数分以内に弟が帰宅した。

19時過ぎ、1階リビングに出て寝る前の水汲みをすると、それまで1時間ほど1階で料理と食事をしていたであろう弟の、食べたものの臭いが漂っていた。ソースの臭いであり、流し台には水切りの道具も有ってインスタントの焼きそばと分かる。それでいて前日に母から時間差で渡されたヨーグルトを丸々一つ400g分を食べたようであるが、彼の舌だとシュガー類を多めに消費したであろうし、炊飯した形跡もあるから、血糖値は凄まじかろう。どうも様子のおかしなことに、流し台に置かれた小さいゴミ袋にはいくつもの粉末ソースのゴミが見られた。そこで、大きい燃えないゴミ袋を見ると、塩の袋(残りの量が少なかった元は数百グラム)とスパゲッティの袋もあるなど、これらも短時間のうちに食べたか?燃えるゴミのものには菓子の包みが多く見られ、他に使用済みティッシュペーパーも多く、なぜかシャープペンシルの芯も5・6本ほど見られた。リビングのある場所にシャープペンシルの芯のケースがあったが、その場所にケースが見当たらなく、ゴミ箱にも見当たらない。弟は普段、シャープペンシルを使わないというのに、何の目的であったろうか。1階リビングに置かれた学校向けの連絡帳には、「缶詰と焼きそばとパスタ(スパゲッティ)とご飯を食べた、おいしかった」という旨が記されているが、無論、鉛筆で書いた文字である。ただバカ食いするだけならば「豚野郎」で済むが、どうも、とんでもない悪さを犯しているようである。せいぜいバカ食いに留めてほしく憂慮する。その後も弟は、2階の彼自身の部屋でゴンゴンと物音を立てるなど、凶悪ぶりが顕著である。私は「すさまじいな」と独り言を発して気分をごまかす。19時45分に母親の車が家に着いたが、その後も2階の弟の部屋とは別の空間で狂ったような物音が鳴り続け、19時51分に母親が家に入った。



2017/02/02

本日2月2日は、まず1時10分ころに目覚めて意識を保ったまま過ごし、30分ほどしてまた眠ったろうが、2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームを契機に起床した。



2017/02/03

本日2月3日は、2時13分に起床したが、2:10の第一アラームが鳴る前から少し考え事をしていた。夢と同じようなものであるから起床して間もなく内容を忘却している。1階リビングでバラエティ番組みたいなニュース番組をみたいなテレビ番組を見ていたらしい母親が2時50分に2階へ上がった。「お仕事」がある本日としては恐ろしい生活である。

10時45分から母親が発車し、直後に炊飯(食器洗いほか料理)・洗濯・風呂(シャワシャン)の準備などを始めたが、どうも洗濯に使う洗剤を切らしているらしく、未開封のものも見当たらないため、洗濯を断念した。一日中快晴となろうに。11時54分に自室へ帰った。



2017/02/04

本日2月4日は、2:10の第一アラームに目覚めて2:20・2:40のアラームも聴いて止め、2時46分に起床した。13時46分、先週土曜日(1月28日)と同様に母親が「お仕事」へと発車した。18時17分に母親から電話が入ったが、内容は察しがついた。本日の外出までに母親は弟に対して洗濯物に関する話をしていたが、この時間までに数度弟に電話を入れても弟は電話機の操作を誤って出られないのであろう。私に尋ねてくることが想像され、実際に母親はそのことを話してきた。ほか、水曜日か木曜日に母親と弟の会話で、本日土曜日の帰りにはマクドナルドを手土産として買ってくると予て小耳に挟んでいたが、そのことも告げられた。母親に指示された洗濯物については日中に弟が学校で着るジャージが干されている状態を確認していたが、今も干されたままであるから、これを取り込んだ。厚手のジャージを洗濯ばさみのみで止めるには心もとないという母親は、ジャージのズボン(ボトムス)を物干し竿に貫通させていた。19時20分ころに母親が帰宅した。



2017/02/05

本日2月5日は2時24分に起床した。前々日に飲んだ非刺激性便秘薬最低用量3錠は前日中に狂った腹の鳴りを催す程度の作用であり、コーヒーを2度飲んでも排便に至らなかったが、本日は前日に母が買ったマクド品のうちのコーラを少量飲んだり、コーヒーを少量すすって便意が強まり、ようやく排便に至った。出したものはやや長い中サイズ2本である。

18時台に配達があった。最近は配達に関する記録を取っていないが、例えば前々日(金曜日)は母親が風呂に入っている20時台に配達があるも、母や弟は応答できなかった。同じ配達物と思しきものはその翌日になって再度配達(配達員は女性Yと記憶)され、家にいるよう指示されていた弟が受け取った。前年のような恵方巻ではなく、簡素な小包であった。本日18時の配達物については、20時前にリビングに出てみると、配達物の伝票か何かの紙があった。西友のネット通販利用らしいが、過去に一度確認をしている。前回も今回もトイレットペーパーが配達物に含まれる。軽い物でも嵩張って大きいため、ネット通販に任せたくなろう。他には除草剤1つや米10kg袋の2つや私には分配されない菓子類2点がある。



2017/02/06

まず前日は夢精した直後の23時46分に一度起きてパンツを穿きかえて再度就寝し、本日2月6日は2:10の第一アラームに目覚めて2時11分に起床した。先の夢精を受けて早い段階でオナニー射精を行う必要性を考え、4時過ぎになってようやく行った。先の夢精もこの射精も精液の質がドロッとしていた。本来だとプルプルとした状態の塊のようなものが出来ているはずである。オナニー射精は今後、性的快楽を副次的価値ともみなさず、度外視して行うべきである。萌えについて自ら「婬欲熾盛にては何でか萌相好かるべき」と釈する所である。

本日は弟の特別支援学校も近所の小学校も、たまたま振替休日のようであるから、弟も向かいT家の子ら(+よその子)も、9時台に家の出入りがあった。11時30分に母親が、弟との外出の準備で一度家の外に出て数分ほど車内にいたか。その後、断続的にちょこまかとした母親の出入りが続いたが、11時49分から2人が発車した(一連の動きでは弟に所持金2000~3000円を持つように呼び掛けていた)。発車の手前にひどくエンジンをうならせる行為が2度あった。彼らが家を去る直前から夢精パンツほかタオル2点の洗濯準備を始め、洗濯機を作動したときは以後のことである。16時1分に弟だけが徒歩で帰ってきたが、母親は外出先で買い物へと向かったのであろうか。19時15分に母親の車が家に着いた。



2017/02/07

本日は2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームは記憶になく、2:40の第三アラーム直後の2時41分に起床した。10時38分から母親が家を出たが、その後は家の周囲に数分留まってから徒歩で外出したろうか?11時30分過ぎに家の周囲に戻ってきた母親が車のドアを開閉したりホースを持って移動する様子が見られ(目的は不明)、11時44分に家の中に入った。

本日の朝6時ころから喉・胸・肩・横隔膜にかけて広範囲で痛みが発生した。体が裂けそうというか、パーツが外れそうな感覚であり、骨が突き出るようにも思える痛みである。無論、神経が痛んでいるだけであって大した物理的原因はないと思われるが、それにしても不可解である。最近の寒さを鑑みて連日、謎の運動を行ったためか?前日に普通の環境で放置して"少し"舌や唾液で壊れやすく変質した非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲んだためか?本日のヨーグルト食いが原因か?といったように、単一の要因を断定できないと考えられるし、ほか通常では有り得ない原因(感染症・その他)で発生したとも考えられる。いつもの一過性の身体異常であろう。「過去に類例を見ない異常」という点が過去に類例を見るポイントである。時間が経過してゆくと、痛みが胸を中心としてきて呼吸に不快感を生む。そのような中でも音楽の編集などを行うなどいつもと同じように作業し、食事も行う。しばしば、自分の体に合わない負担をかけているのではないかとも思うが、元々脆弱な我が身である以上、今更に顧みる問題とならない。

17時17分に保健所のSさんから電話が入り、2月20日・月曜日はどうか、と聞かれ、前回訪問時に伝えた「水曜日か金曜日のどちらかが望ましい」という旨を伝え直した。Sさんは再度予定を調整すると言って電話を終えた。17時27分に再度電話が入り、3月3日・金曜日・(午後)1時半という話になった。ささやくような声で話し続けたため、体調が悪いどうか聞かれて肯定したが、風邪か・熱があるかどうか聞かれた際は否定した。風邪の自覚症状は現在も感じない。これまでの食欲も、2016年5月7日から2日間あったような不振状態ではない。



2017/02/08

本日2月8日は2時5分に起床した。前日は早起きの予定を組み、一計を案じた。前日の就寝時、私の寝る押入れの外に携帯電話を置いてアラームが鳴った際に私が昏睡状態・無意識的にアラームを停止してそのまま惰眠を貪ることのないように期した。結局、アラームが鳴りもしないタイミングに意識がピンピンとしてしまい、早めに起きた。最初の目覚めは私の感覚だと1時半ころではないか。2時40分からゴミ出し・自販機通いの外出を始めた。ある家の窓に西の空に浮かぶ大きめの月が反射して見えた。2つの自販機で買い物するにあたり、右の手袋を外して作業する時間が長めに重なったため、右手が霜焼けしかけた。

母親は私に洗濯物の指示を出してから10時40分に「お仕事」へ発車した。本日は風呂(シャワシャン)を行う予定できたが、色々な事情を考慮して辞そうと思う。前日の就寝前に下剤1錠を飲み、本日はコーヒー1杯を12時以降に淹れて2度に分けて飲んだが、15時5分から便意のためにトイレに入って中サイズなど複数個のものを排便した。



2017/02/09

本日は2:10の第一アラームに目覚め、2時11分に起床した。起床直前から便意を自覚したが、PCのスイッチを入れて間もなく耐えがたくなり、トイレでは十数分かけて軟便を多めに出した。今更に下剤の効果が強く発現したか?下剤使用に特有の、臭いや、糞の中の細かいものの紙への付着などを確認する。前日、やりたければ仮眠を取ってもよいと思っていたがせず、本日は10時50分からやってみた。最初30分は2度浅い睡眠に入って目覚めた。その後はやや深く眠ったらしく、不覚にも、12時10分を過ぎた。例の如く(16/10/30メモなど)、身体の異常(今回は左足の極端な痺れ)を発生している。



2017/02/10

本日2月10日は2:10の第一アラームや2:20の第二アラームに目覚めたことはあろうがアラームが鳴ったこと自体の記憶は薄く、2時10分台や2時30分台に時刻確認をしたのみで、2:40の第三アラーム直後に起床した。4時22分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時10分に自室へ帰った。

10時43分に母親が「お仕事」へと発車したが、その前に洗濯物に関する指示が予想通り下された。例の洗濯機の異常(前年12月1・2日メモ以後)が原因で12時40分台までに7回ほど洗濯のやり直し作業を行い、12時48分にようやく「ロック音」が聴こえてまともな動作に戻ったか。一連の以上の最近の例は「脱水」を行う前の段階で発生したが、今回は「脱水」の前の「すすぎ」を行う前の段階で発生したものだが、私の作業では「すすぎ」を行わずに脱水させている。本日は朝方から、私が後の曇り空を懸念し、今まで晴れていたが、いざ干し出す際に曇り始めてしまっては困る。



2017/02/11

本日2月11日は複数のアラームに目覚めたろうが、実際の起床は2:50の第四アラーム以後の2時56分と記憶する。前日の就寝前に非刺激性便秘薬最低用量3錠ではなく4錠を飲んだ。最低用量3錠より多い錠数は始めてであり、就寝中に腹部の違和感はあったが、本日はずっと少しの便意も無い。本日はチョコ系菓子2種(前日の母が帰りに買ったもの)のうち少量(弟は午前中に同じ商品2種を全部食べ切った)とともにコーヒー1杯を飲んだりもしたが、そのようである。12時台に一定の食感のあるものを食べている中で腸の動きが高まり、12時37分から結果的に「ピッ」と漏らした感覚がある。なぜ非刺激性便秘薬の効能は中途半端且つ極端であろうか。まともな作用は最初期(12月27日メモに記録する12月26日就寝前)のみであった。トイレに入ってからパンツの被害範囲を確認するも、問題と捉えられる状態ではなかった。そして、少量の水っぽい下痢を無理やり圧し出した。ひり出した。



2017/02/12

本日2月12日は2時20分台に起床した。13時台に前日の12時台と似たような食事をしているとまたも少量の便意を伴って「ウン漏らし・ビチャ風味」に似た現象が起きる。トイレに入ってからパンツの被害範囲を確認するも、パンツへの被害は皆無である。少量の水っぽい下痢を出した。16時50分から17時28分まで「トイレ禅・便座禅・便座坐禅」とでもいうべき時間を過ごした。便座で姿勢を動かさずに体内の活動に念を置いて居続ける。トイレの室内の寒さで冷えたフローリングに足を悪くさせ、頭部が貧血に暗みそうである。その中で脱糞は2度あり、どうにか一件落着としたい。無論、この糞は不条理らしく、軟らかいものと言いづらい(少量の水っぽい下痢の直後が固めのクソってクソじゃん!?)。2日連続、水に糞の成分が少し混ざった程度のものばかり排泄してきたなかで、今はこういうものである。

当記事注: トイレ禅云々は、サマタ・パヴァナに関連しよう。



2017/02/13

本日2月13日は2:10の第一アラームに目覚めて6分後の2時16分に起床した。前日就寝時に携帯電話の第一・第二アラームが鳴らす音楽を変えた。新しくアラームに設定された2曲はともにYouTubeで未発表の楽曲である。未発表とはいうが、今後も発表するとは考えない。近頃はSundarknessチャンネルでポコポコと投稿しているので、勢いが続けばいつかは投稿するかもしれない、とのみ付記する。なお、従来の2曲のうち第一アラームのものは「須臾にして(略)」動画の1曲目であり、第二アラームのものは過去に歌う動画をアップロードしたものの曲である。12時10分から母親が買出しへと発車し、17時20分台に帰宅した。



2017/02/14

本日2月14日は2:10の第一アラームに目覚めて2:20の第二アラームを経た2時22分に起床した。第一アラームが鳴る前から意識があり、何らかの考え事をしていた。前日の就寝より1時間ほど前の19時ころに下剤1錠を飲んだが、本日の4時19分からトイレに入って下痢を排出した。6時過ぎからも硬めのものの排便をした。

本日は9時ころから母親がテレビを見たり掃除機をかけるなどして1階に長居する中、断続的にテレビを消して2階に上がる様子があったが、それらは数分程度の短時間である。12時20分ころに佐川急便の配達が来る直前に2階に上がったが、受け取るために再度1階に降り、それからはまたしばらく降りてくることが無くなった。今回の佐川の配達物は近頃に見かけない大きさのものであり、立てかけられた状態の高さが140cm程度に見える。箱には「トレース(台?トーレス?)」と書いてあり、組み立て式の机類であろうか。どういう用途で母がこれを購入したかは想像がつかない。13時過ぎから再度1階に居座り始め、10分後には配達物の箱に手を出し始めた。中に発泡スチロールか何かが詰まっていてこれがバラバラにほぐれたらしく、またも掃除機を掛けるなど騒々しかった。

それはそうと、本日はそのように母親が1階にいる時間が多く、絵や音楽の方面の作業よりも、連日行っている語学や宗教の研究を進めることとなった。一部に関して例を出すと、デザインテストブログ下の記事に「萌えの法門」の話題があり、随時「清浄萌土抄」の注釈部分に追記を行っている。今回の追記は萌えの法門にリンクしない仏教の調査であり、語学・文献学・教学など種々の情報の入手と、その理解と整理とには、いささか困難が伴う。



2017/02/15

本日は2:10の第一アラームに目覚めたものの起きずに2:20の第二アラームも過ごし、2:40の第三アラームが鳴ってから起床する気分になって2時41分に起床した。いつも、この点で奔放な印象がある。3時15分から自販機を目的に外出し、3時22分に帰宅した。道中は小走り・早歩きに努め、自販機で使用した金額は520円である。

10時44分から母親が「お仕事」へ発車した。間もなく風呂(シャワシャン)や洗濯の準備を始め、11時40分に自室へ帰った。母親の昨今の「お仕事」における帰宅は、おおよそ私の就寝以後であり、20時以前の例はほぼ無い。本日はまだ就寝しない20時11分に母親の車が家に着いた。



2017/02/16

本日2月16日は2:10の第一アラームで頓にして目覚めたが、その時は第二アラームと錯覚していた。2時17分に起床した。母親から唐突に、話しかけられて自身の外出の件の次に16時までに洗濯物を取り込むようにと頼まれ、間もなく15時12分に母親が発車した。突然であり、どういう目的の外出かは不明である。19時42分に家に母親の車が着き、間もなく母親が家の中に入った。独り言や「ただいま」などの声も発せられず、行動する。



2017/02/17

本日2月17日はまだアラームが鳴らないとき、にわかに携帯電話に手を掛けて時刻確認をすると2時7分であり、その1時間ほど前から断続的に意識があった。起床は2:10の第一アラーム以後の2時12分である。前日・前々日の就寝時は共に、非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲み、本日は便意があるようなないような状態でも2時40分ころからトイレで下痢を出した。



2017/02/18

本日2月18日は2:10の第一アラームに目覚めてから6分ほど考え事を続け、後のアラーム設定をOFFにしてから少し気を失いつつも2時22分に起床した。前日も非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲み、本日の4時30分ころから普段より濃いコーヒー1杯を口にしていた影響で、5時50分台から便意により、トイレに入って長い一本糞などを排出した。まともな外見の糞が久々に出た印象である。9時45分から母親が発車したが、本日も「お仕事」の際にいつも来ている私服であるので、「お仕事」なのか。前の土曜日(2月11日)は「お仕事」の外出はなく、その前(2月4日)やそのまた前の土曜日(1月28日)の「お仕事」の外出は午後のことであった。

11時半前から淹れたコーヒー1杯のカフェインパワーに依っても便意を催し、12時20分前からトイレで小サイズ数個や長めのもの1個などを排出した。以前、コーヒーを短時間で一定の多さで飲むと体の調子が狂うことを記したが、本日は快適である。快便のためであろうか。悪い副作用が抑えられて期待する効能が発現するとは、体の気まぐれ具合に呆れてしまう。



2017/02/19

ニュークイック 豊橋カルミア

本日2月19日は2:10の第一アラームに目覚めて起床せずに考え事を挟むも、やはり意識が緩慢になってきたころに2:20の第二アラームが鳴り、2時21分に起床した。さて、長らく近所ネタの記録をしない昨今、少しだけ綴ってみたいことは、11時40分台に排尿のため、トイレに進む廊下で家の外から子供の声がした。E2家の屋内から聴こえる印象であったが、実際はK邸の敷地の前に発生源があった。子供と母親らしき人物と、どこかのおばさんの3人が見えた。排尿を終えて再確認すると3人の姿が見えない。その後どうなったか不明だが、自室に帰ってからも子供の声が聴こえ、今度こそはE2邸の方向かと感じる。

14時10分台から母親が徒歩で外出した。弟の食べるシリアルも牛乳も、ほぼ空の状態であるので、少なくとも、何らかの食品を買う目的はあろう。事前の会話で弟に食事を控える呼びかけをしていた経緯から推測している。17時9分、排尿目的でトイレに入ろうと立ち上がったタイミングで母親が家のドアを開け、買ってきたものを玄関に置いていき、再度家の外に出た。一時的に荷物を家の中に置いて別の作業をするのであろう。弟も風呂から出てきそうな様子であるから、早めにトイレの出入りをして用を足した。トイレに入る直前に弟が風呂場の引き戸を開ける音がした。17時13分に母親が家に上がった。



2017/02/20

本日2月20日は2時24分に起床した。弟がまだ登校しない7時20分過ぎに母親が1階に降りる珍しい事態があり、8時台後半に2階に戻った母は、再度、9時過ぎに1階に降りて9時40分に2階に上がった。10時台にも1階に降りてきて掃除機を掛ける様子があるなど、当然、本日は「お仕事」の外出があるわけではない。

11時20分台に少しキッチンに所用があったが、キッチンに居る間に母親が1階に降りてきてリビングに進入してきたが、逐一無駄ごとを垂れていた。母親が私に背いて立ちながらテレビを眺める、横を通過して部屋に戻る時、これまた髪の毛が落ちたなどと喚き出した。頭で思っておけばよいこと、そもそも見なくてよいことを見て口に出すから、たちが悪い。無視しているとどうせ、すぐに止むから気味が悪い。なので論難してから、髪の毛を拾ってやった。これが菩薩の尊い振る舞いである。言うべきことを言いつつ、虚心坦懐に善行を為す。菩薩が功徳を積むための「福田」はどこにでもあるから、母親は尊くて尊くない存在である。拾う際にも無駄に「殴らないでよ!」などと被害妄想癖を発露し、拾う最中にも無駄ごとを連ねていたが、論難の時以外は終始、無言に徹する私である。13時50分ころから母親が買出しへ発車し、17時12分に母親が乗る車が家に着いた。



2017/02/21

本日2月21日は2:10の第一アラームが鳴る前から目覚めており、これが鳴って停止させた直後に起床した。前日の就寝前に非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲んでいたが、本日4時以降のコーヒーの相乗効果で4時40分前からトイレで排便した。コーヒー飲用は前日・前々日にせず、3日ぶりという。

本日の3時台に部屋で、あの1月21日に見たムシと同じ形状・同じサイズの虫とおぼしき影が見え、死んでいるのか脱皮した皮なのか不明だが、身の毛もよだつ思いでティッシュに包んで処理したが、この原因が何か言おう。3時台の時は色々と原因を思い浮かべ、闖入した時期も想像したが、いずれも有り得ない面が強い。原因として有り得ても、闖入した時期を想像すると私に今まで気づかれなかった潜伏期間の長さや、一睡の間であれば、フナムシみたいなフォルム(シミ?)で実際に1月21日の個体は移動速度が遅かったのだし、矛盾まみれとなる。弟の登校以後に1階リビングに出た際、雨戸が閉じられている光景を目にした。前日に風が強く、母親が1階リビングの雨戸を閉じたろう。この特殊な闖入事態の原因は、この特殊な光景と重なった私である。母親が雨戸を閉ざすスキに、風を逃れて窓枠に留まっていたこの虫が家へ闖入し、不可解なことに私の部屋へ入ったか。よほどのスパイ意識が無いと、これも有り得なかろう。私の部屋のふすまの隙間を介して部屋に闖入したとすれば、家具やすきまの細さなど障害が多い上に部屋の奥に到達することが有り得ようか。ほかは前日母親が買出しから帰宅し、例の通りあの1階リビングの窓を経由して荷物を家の中に入れたことも訝しい。窓枠で雨宿りしていた彼奴が闖入し、私が荷物を受け取る際、袋に付着して一気に私の部屋に紛れ込んだか?どうであれ、母親は本日10時30分台に初めて1階リビングに降りて雨戸を開放するに至った。



2017/02/22

虫 生け捕り 生捕り

本日2月22日は2:20の第二アラームに目覚め、1分後に起床した。本日4時以降のコーヒーのカフェインパワーにより、5時34分から便意のためトイレへ入ってコロッ糞6個ほどを出した。10時37分から母親が「お仕事」へ発車した。11時前から淹れたコーヒーのカフェインパワーにより、11時50分からもトイレでコロッ糞を2つほど出した。6個、2つ、うん。12時過ぎ、母親から未然に聞かされていたのか、ヤマト配達員Yが来て呼び鈴が鳴らされた際、速やかに2階の弟が反応して受け取りを行った。配達物の箱は、Amazonのもの1つ、極めて大きいタイプであった。なお、本日の弟は特別支援学校の休日にある。17時20分、絵を描いている最中、後方右側から右手にかけて羽虫の類が飛来してきたので瞬時に恐れを押し込めて左手で抑えつけた。ショックで痙攣していた虫を様子見して写真を撮ったあと、ゴミ箱に生きたまま落とした。この虫が復活しても構わないつもりで行った。2日連続部屋で虫に遭遇することは心地よくない。



2017/02/23

本日2月23日は最初の目覚めのときに1時55分の時刻確認をし、2:20の第二アラーム直後に起床した。今月に入ってから猫の声が度々聴かれ、前日も17時ころに貓2匹ほどがE家敷地内の方から「ウワーオ!」みたいな声を10分程度発し続ける状態が続いた。本日は起床以後、雨が降り続けている中、4時10分ころに外から猫の狂った声や雨音とは異なりそうな物音が家の近くから鳴ったように聴こえた。4時18分からは「グァー」などとカラスのような声を数度発し、「ウマーウ!マーオ!オハヨー!」と続けながら私がPCに向き合う方向の右から正面方向へ移動して横切り、どこかへと過ぎた様子である。5時7分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時50分までに自室へ帰った。



2017/02/24

スウェット 腰紐 こしひも 裁縫

本日2月24日は1時40分台に目覚めて時刻を確認していたようであるが、その時刻を正確に覚えていない。2:10の第一アラームを聴いた覚えもなく、2:20の第二アラーム以後の2時23分に起床した。前日の19時20分ころに下剤1錠を飲んだが、本日は4時40分ころからそれまで続いた腹痛に便意が加わったためにトイレへ入り、コロッ糞8個ほどを排出した。トイレットペーパーには少し血のような筋が見えた。6時10分前からもトイレへ入り、中サイズのもの6個ほどを排便した後、軟らかさの増したより長いもの4個ほどを排便した。

10時15分頃からスウェット下半身2点の腰紐を通す箇所の裁縫を始め、10時40分台に母が「お仕事」へ発車した。10時55分から濃い灰色のスウェットの上下(こちらの下は先に裁縫を終えた)とタオル1点を洗いに出した。11時17分におおよそ必要な裁縫の作業を終えた。今履いている薄い灰色のスウェット下半身に関しては、4か所を縫って修繕した。作業の最中(主に10時台において)、比丘は自ら裁縫をして袈裟(糞掃衣・ツギハギの衣・在家の人のボロ衣を縫い合わせる)を作ることや、修繕することを頭に浮かべた。その行為に「縫衣(ほうえ)」、「縫治(ほうじ)」といった表現がある。釈尊在世より比丘が行っていたようで、経・律・論・釈などに広く見られようか。日本では既に「分業」状態であったろうから、あまり袈裟を作ったり治したりという行為はなかったろう。官僧・貴族僧ともいうべき人は、絢爛・華美な衣などを賜り、丁重に扱うというかあまり破かずに済んだろうし、破けても専門家が修理(修治)することとなろう。

13時40分前からインスタントコーヒー1杯を淹れて飲み、まだ3分の1ほど残している段階の13時50分過ぎから便意の高まりのため、トイレへ入り、中サイズ程度で不揃いの大きさのものの複数個を排便した。17時48分からもトイレで多めの排尿をする中で下痢が出たので、更に16分ほどトイレに留まり、断続的に下痢を排出した。20時12分に母親の車が家に着いて帰宅したが、玄関に入って1分後に「ハンコ忘れちゃった~」「ほんとくやしい」「行ったり来たりメンドくさい」といった言葉を連ね始めた。何の話題かは不明である。



2017/02/25

本日は2:10の第一アラームが鳴って1分以内に、必要があって飛び起きた。再度押入れに戻って横になりながら、そのまま眠らずにいるか、携帯電話で某サイト曲漁りをしながら考えた末、2時22分に起床した。5時0分ちょうどに弟が1階に降りることがあり、けだし前日母が買ってきたアイス類を目的としていようが、その裏でいつも通りに朝の略式勤行を行った。彼の精神と行動が乱れたらしく、プラスチックゴミのアイス袋を、燃えるゴミの袋に投じていた。

10時23分、弟のメールアドレス(11桁の電話番号@docomo)から「件名: おはよう 本文: 出掛けます。」というメールが入った。5分以内に弟が実際に出かけた。色々と厄介な臭いが漂う。母に送るつもりのメールであったか?SMSではなく、弟のメールアドレスから私のメールアドレスに届いたものであれば、いつの間にやら私のメールアドレスが弟に伝わったと考えられる。私が手ずから弟のスマートフォンをいじってメール機能を使用して写真の送信を行うにも、入念に後を消しているし、最後に使用した日は半年以上前であろう。盛んにそれを行った時期も、弟がスマートフォンを一度破壊した8月25日以前である。そもそもYahoo!メールや携帯電話宛に行ったことがほとんどで、私の携帯電話のメールアドレス宛にメールを行ったこともない。母親が何らかの理由で弟に与えたと思うしかない。10時39分、母親からのメールが届き、種明かしがあった。「さっきのメールは、○○(弟の名前)のスマホからのテスト送信です。○○にメールのやり方を教えていました。」という。件名まで添えることは普段の母親はしないが、弟でもしないであろうし、メール自体、母親が打ったものとみてよい。本日はまだ母親の動きを感じないか、7時台に一度、1階に降りたかもしれない程度である。



2017/02/26

本日2月26日はまず0時52分に受診したメールによる着信音で目覚めた。弟のメールアドレスから「件名: 現在寝ています。 本文: いい夢を見てます。」と、気味が悪い。また母親が弟のフォンを借りてメールを送り付けている。ところで、着信音に目覚める直前のときは、浅い睡眠にあったのか、考え事をしていた。目覚めた直後のときは、起きながらする考え事のようにも思えたが、3分もすると泡が消えたように考え事が記憶から消えた。具体的な言葉を思い出そうとすると、水中の泡を掬おうとするようなくらいに、不可能である。夢と同じ原理であり、ここでの考え事や、近頃のメモにある起床する以前の考え事の一部は、夢と同じよう、いわゆる「レム睡眠における脳による記憶の整理」であろうか。こういう経験の利点や希少価値を挙げようにも、母親の異常性に発端するから喜べない。何が「いい夢」だろうか。起きるには早い時間であるから、眠りに戻る。再び目覚めた時刻は2:10の第一アラームのときであり、2時13分に起床した。

5時22分から外出を始め、5時30分ころに帰宅した。空は雲が一つもなく、肉眼では20個ほどの星が確認できた。この時間帯の外出で雲が目立たない場合に思うことは、金星のような星が空の低い位置に見えることであり、本日は西南西のあたりに見えた。調べてみると、今冬の明け方は、西の南西から西にかけて見えるようであるが、それ以上に調べる手段や、確信する手がかりもない。ところで、今回の外出は略式勤行の後に水分補給をせずに行い、道中は小走りのように移動したから、帰宅後は渇いた喉の皮膚組織(粘膜?)がくっつきそうな感覚であった。日頃、「外形的手段たる水分の摂取」が多いと、内的で生来的な保水機能を失いやすくなるから、今後とも用心深くありたい。「真の健康法」記事を参照せられたし。



2017/02/27

本日2月27日は2:10の第一アラームに目覚め、2時13分に起床した。13時14分から母親が買出しへと発車した。母親はなぜか1階リビングの窓を全開にしたままであり、網戸だけを閉じておいた。16時20分ころに母親が帰宅した。年金に関する手紙について記録は、取らないでもよい。了件。



2017/02/28

本日2月28日は2:10の第一アラームに目覚め、2時13分に起床した。前日の就寝以後、1時間ほど眠れないような状況があった。眠れても短時間で起きることもあったか。また、本日の場合にも0時台に一度目覚めた印象がある。前々日の就寝時に非刺激性便秘薬最低用量3錠を服用して前日はムーミンカップ換算でコーヒー2~2.5杯分を飲んだが、大した便意は無かった。前日の就寝時に下剤1錠を飲み、本日は前日に母親が買ったリンゴ(米国産?) やヨーグルトを貪り、毎日のおかゆ調理をしていると、便意が強まり、3時10分からトイレへ入った。最初は一定の硬度のものが、すぐ下痢として多く出た。5分程度で終えた。ところで、以前も記録したが、ヨーグルトの整腸作用というものは実感があまりなく、今回や以前の記録時(2016年10月22日)のようなプラシーボ効果とか条件反射のような比較的短時間での効能が実感しやすい。今回や以前の記録時や、または記録にもない時などがどういう原理で発生しているか。