2016年10月21日金曜日

事実認識の相違、思想や意見の対立でヘイト感情…世俗上の中観法

インターネットで二元対立・二項対立の構造を見て、智者はみな、「どちらにも与したくない」と飽き飽き(倦厭)するに違いない。
中3の時(2011・12年)の私が、まさしくそういったイデオロギーの対立、ネット右翼とネット左翼と彼らを煽動する第三者などの醜い議論の場を見て「みな一理あるがみな狂っていてみな哀れ」と感じられた。
理論面と感情面とを上手く分別できないと、主張の正誤・人の善悪を判断する基準が乱れることになり、この当時はその点が不明瞭であったため、俄かには確信できなかった。
2011年、すでに私は他人との積極的雑談や議論をしなくなりつつあり、2012年以降からネットの政治議論やその他の雑談全般を嫌うようになった(アニメを見なくなった経緯とも関連する)。
私の政治的な思想遍歴については「思考区分による社会思想の分析」という記事の1.1に詳しい。
以降、2chのスレッドではROM専か、書き込んでも単発で連投をする程度しかしないでいた。
俗悪な言い方では「チキン」となってしまうが・・・。

「ヘイト感情」という表現は、ヘイトクライムとかヘイトスピーチという昨今巷でも聞かれるようになった語彙に関連付けている(私の過去曲の名前に"Hatred (ヘイトリッド)"という単語が含まれる)。
ヘイトクライムについては、身近な人間関係から起こる感情(憎悪など)を発端とした傷害・殺人事件もそうだが、今年の国内で大規模なものに相模原の障害者施設の入所者殺傷事件(私見を述べた既存記事追記欄)があり、広げれば政治・宗教などの思想に基づく確信犯(テロリズム)もある。
また、政府が行うヘイトスピーチの規制は、国際連合(国連・UN)等の指摘に因るものと見るが、その実際に起きている物事の対症的な処置・封殺行為では、ヘイト感情に起因する行動を起こす者の悪い感情(憤怒・瞋恚・驕慢・憍慢)を増長しかねない恐れがある。
対症的な処置であっても、目先の問題(騒音被害や特定外国人への人権侵害)の解決がされるか国連に恭順な姿勢を伝えられるならば、それでよいという魂胆であろうが・・・。



「中道」による自他の平和の確立(龍樹菩薩・釈尊)


中道を示した龍樹(竜樹)菩薩による「大智度論」の巻第一では「私が信じる仏法は真実で、他の仏法は虚構だ、という頑固な主張が言い争いの本源である(我法眞實餘法妄語。我法第一餘法不實。是爲鬪諍本。)」と説かれる。
悪い論争が発生する原理を端的に説いてある。
まず、自分が信じるものを揺らぎなく信じる精神は大切であり、仏法においても重要な精神である。
不信ばかりで疑いを起こし続ける懐疑論者の姿勢のままだと、修行がままならない。
しかし、同時に、信じているものに関して思考を偏狭にして排他的な主張を行ってもならない中道を知る。
※ここでは大智度論が龍樹さんに仮託して他人が撰述した論書であるという学説を差し置く。

自分の考え方があり、また、異なる考え方というものもある。
異なる考え方を論争で対立する派閥と仮に想定し、これを相対させる。
そして、自分がその相対させた仮想の敵に勝たせて自分の考え方の正当性を誇示する(他人に言わず自分の中で認定するのみでも同じ)。
仮想の敵に勝てない場合でも、何とか自分の考え方の正当性を別の方向で作り上げようとするが、その中で仮にその考え方が正当であると立証されても、論者自身の心の問題が膨れる副作用があろう。
また、そのような場合、相手の非に論点をすり替えたり、非難をし続けて相手の論理のレベルを自分と同格かそれ以下に落とす試み(後述のレッテル貼りなどを含む)もされているが、もはや「泥んこ遊び」である(冒頭の智者が厭うこと=身口意の三業が愚人と同じく泥にまみれること)。

こういった人同士の言い争い(泥んこ遊び)では、悪い感情(憤怒・瞋恚・驕慢・憍慢)を増長させ、最終的に心からの理解がないまま、離散となるか、一方的な強制服従などがされる。
個人的な思索に、自分の心の中で自分と仮想の敵の論争があって自分を勝たせても、自分が負けそうで別の考えによって正当化しても、「心が歪む」結果になりかねず、異なる考え方をアレルゲン・病原体として排除するような思考回路を強めてしまう。
その悪い感情を後にも引きずるならば、仏教においては成仏や解脱が叶わない。
三悪道・四悪道に堕ちてしまう原因ともなるから、やはり中道の精神は自他の抜苦与楽や三業の抑制に重要なものとなる。
世間の哲学として見れば、世界平和の原理もここに立脚している。
外典(外道の典籍)にも「小人の過つや必ず文る(論語: 小人之過也必文)」や「君子は豹変し、小人は面を革む(易経: 君子豹変・小人革面)」といった言葉もあるが、やはり仏教徒は心からの自覚・反省が大事であり、そうして自尊と尊他(他への尊重)が真に自他の安寧を生み、仏道を進ませてゆくのであろう。

釈尊もまた、テーラワーダ信者にはおなじみの「スッタニパータ(パーリ経蔵の小部にある"経集")」の第4章で、大智度論の所説と同じ意義を述べ、論争を超えた存在を讃えた。
中村元氏の訳では「796: 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を『最上のものである』と考えて、それよりも他の見解はすべて『つまらないものである』と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。」とある。
論争の派閥を作ったり、派閥に与したりしてはならない教示もある(同訳の800や912)。
この中村元氏の訳における796乃至803や、824乃至914が、こういった意義を述べた範囲となる(パーリ語のソースはSnp 4.5 Paramaṭ­ṭha­kasutta以降)。
思えば、同じく「大智度論」の巻第一に何らかの経典の偈3つを引用して漢訳者の鳩摩羅什三蔵が「衆義経("Sutta nipāta"経集とほぼ同義の名称)」としているが、この偈3つもスッタニパータ(Snp 4.12 Cūḷabyūhasutta)と同様の内容であった(大智度論: おのおの自ら見に依り、戯論して諍競を起こし… 中村Snp 878-881: めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い…)。



世に「どっちもどっち」「お互いさま」「喧嘩両成敗」「争いは同じレベルの者同士でしか発生しない」という言葉がしばしば見られるが、これは個々の事例に対して気休めレベルに言わず、常にそういう性質があると理解して自身の肝に銘じた方が良いものと考える。
仏様のお立場に比べれば、我々人類は単なる凡夫であり、有情の生命は欲望から悪い感情まで全てを具えているため、みな平等に低レベルの存在である。
しかし、我々が仏教を知って学ぶならば、この捨てがたい欲望と悪い感情とを徐々に除いてゆけ、解脱を成し遂げる可能性もある。
そういった生来の、善悪とも自覚して努力せねばならない。

先のような仏教徒が理解する「中道」の心を持っても、その中道を押し付けたために中道ではない人々と争うようならば、それは中道と言えなくなってしまう。
いわば「中道VS非中道・反中道」であり、この中道は「有名無実・名ばかりの中道」に過ぎない。
宗教に関連付けると、既成の宗教は何らかの対立の歴史があり、現在進行中のものもあろう。
それらも互いの憤怒と慢心が原因であり、対立感情を強めて協調性にも欠け、和の心が無いようなものであり、中道ではない。
しかし、それらを「愚劣な抗争である」と無宗教の人が感じて「宗教なんかいらない・宗教は時代錯誤・宗教は・・・」と言ってしまえば、当然彼らの心に憤怒と慢心を起こしているから、彼らもまた中道ではない(既成宗教VS反宗教という二極の対立構造)。

賢者は宗教に同化せず、しかし宗教を蔑視せず、「脱宗教しかし順宗教」くらいの中立が良い。
特に現代の世俗に生きるうちの賢者は、そうであらねばならない(政治記事でも綴った通り多くいても日本の人口の2割程度でよい)。
既に宗教に所属している者でも、いわゆる「宗教多元主義」の人は、外において他の宗教を尊重し、内において己の宗教を正しく進行して実践している(外で争いを生まず内で自尊を保つ)。
我々が持っている選択肢は、教団に入信するとか、宗教排除を訴えるとかという二極の選択肢のみではない。
そういった両極端な考え(辺見・偏見とも)にとらわれる者がカルト教団(とされる本人が苦しむ場所)を遍歴し、そう思えば反旗を翻して目を真っ赤にして牙をむき出しにして宗教批判に転じてしまうから、当事者の精神的な境界も極端の状態にある。
このような愚昧の者たちを見れば見るほど、中道の尊さが理解できよう。

※中道とは「空」と同じで、中論24-18偈所説の如く「仮名(けみょう)」である。状態や性質に対して「仮に名付けた概念」に過ぎないから、中道を尊ぶにしても、中道という「仮に名付けた概念」自体を尊んで「中道の派閥意識」を作ったり、中道を標榜する派閥を作っては元も子もない。中道とは相対的な変化が当たり前で、常に柔軟なものである。仏教教団が夥しく分派した結果は、既成の党派を嫌う過度な中道意識が原因である。先述の通り、中道とされるものが「中道でないもの」との対立を起こすならば、既にそれは「有名無実の中道」であり、中道と名付け直すに値しない。

論争の派閥(党派)にせよ、宗教の団体(宗派)にせよ、たまたま所属したり分類される必要がある場合はそれでよいが、自ら所属したり作り出そうとする必要は無ければ、かえって所属することを極度に嫌う必要も無い。
必要性を理解していないからこそ、そういった、どこに所属している・どこにも所属していない、という「形式」にとらわれ、極論に陥り、脱却も超越も叶わない。
私が話す通り、中道の境地は柔軟であり、中道の思考は柔軟であると分かる(それほど繊細な判断力や精神性がある人間でないと「面倒くさい」ものだが)。

※「排中律」という考え方がある。文字通り、中間の発想や立場を排除する考え方である。対立事項のどちらかが正しいと論証されれば矛盾が無くなるという論理だが、これは仏教と大いに相違する近世の西洋哲学らしい概念である。物事、特に人間が絡む場合は矛盾が発生しやすい。それを受容せずにどちらか一方が正しいと思い込む発想が論争や衝突や戦争の原因であろうに。そういった世界的な矛盾を受容し、折衷か二重否定か超越のいずれかによって中道を立てることで多くの物事は穏便に収まるか、より自然な進歩を遂げる。ごく世界的な学問である科学や数学は、二元論および唯物論の立場で研究しても構わない。後述する「レッテル貼り問題」は、現代日本人の排中律じみた思考に根本原因があると説いている。現代日本人は中道に遠い。



我(アートマン)について ~ 「有り・無し」の両辺を超える


※一般に理解が困難であって難しく感じる人は読み飛ばしてよいが中道の理解には重要

仏教にある、概念としての「我」は、サンスクリット語やパーリ語"ātmán, atta (アートマン、アッタ)"の漢訳語であり、日本で一般的に認識される霊魂や、霊魂のように前世や来世を一貫する精神体(霊的実在・本質ともいう)などを指す(英語では単にSelfやSoulと訳するほかIdentityやEssenceとも訳す)。
仏教以前からのヴェーダの教え、バラモン教(ブラーフマナ)などはこの「我」を肯定した教義が根幹にある。
諸行無常と言われる「万物の変化」の中で、普遍の実体や変化自体を生じている主体があるのではないか、という見解を「我見」ともいう。
この「我(真我)」が、生命の輪廻転生(人間に生まれるとか動物に生まれるといった)を行うかどうかについて、一般的に仏教では否定されると認知される。
我が身の生死も、輪廻も、日常の様々な出来事も、科学における宇宙も、その発生は説明しきれないほど多くの原因の相関性(因縁)で結果がある。
そういった結果から「こういう原因があるのではないか?本源的な我(または創造神など知り得ない外界の存在)があるのではないか?」と誤って推量することを、仏教が排斥している。
原因も結果も、「既にある・あったと認識された物事」と「過去にあった・将来にあろうと推定する物事」を基にして自己の思考から割り出すのみである(仮想に過ぎないということ・例として燃料から火が出て火から煙が出る様子を見れば分かる・燃料だけで火が維持されることはないが燃料が無くても火が出ることはない・火から出る煙があっても煙がみな火から出るわけでないし火がいつも煙を生じるとは限らない)。
物事は「ただの物事」であって原因と結果などを問えないし、無理やり結びつける愚癡の思考は貪欲・瞋恚の肯定ができ、自分の主張を正当化したり悪行を進めることになる。

特に、仏教を「内道」たらしめる要素が、「我」の否定にあり、「我」を肯定する教えはみな外道である、といった認識も根強い(反対に物質だけで人体や世界が構成されていて死んだら終わるという見解の思想家が釈尊在世にいて彼らも六師外道と称されたように外道の一種である。我を肯定する"常見"の宗教も唯物論的な"断見"の思想も両極端な外道であるという)。
四法印の一つ「諸法無我」という言葉の「我」も、その"ātman"・霊魂としての「我」であり、これを否定する教義である。
しかし、実際、「我」自体を完璧に否定することが完全に良いかといえば、中道の意義においては慎重になる。

上座部仏教(小乗仏教と呼ばれた教団の後身)の経典(何の経典かは忘れた)での釈尊は、或る時は「我あり」と説き、或る時は「我なし」と説く。
対告衆(説法の聴聞者)の心にある迷いの見解や偏った見解を矯正する慈悲のために「言辞柔軟」の説法を行っている。
釈尊のそういった、一見して「二枚舌」と思われそうな「我」に関する説法について、弟子が疑問を投じ、釈尊がそのように理解を求めたという経典もある(何の経典かは忘れた)。
また、龍樹菩薩はこの事実を中論の第18章の6, 8の偈に説かれた(諸佛或説我 或説於無我 諸法實相中 無我無非我 乃至 一切實非實 亦實亦非實 非實非非實 是名諸佛法)。
「日和見」という言葉はその時の多数派に従う中立性を意味するが、釈尊はその逆の立場を取り、偏りを無くそうと中道に導いたわけである(立場なき立場を立場と私が呼ぶ)。

ほかに上座部仏教の経典の相応部「無記説相応・阿難経"Abyākatasaṃyuttaṃ - 10"」には、釈尊が中道・無記の立場により、とある修行者に「我」の有無を質問された際に沈黙したという話がある(経典の名に"無記, Abyākata, Avyākata"とある"無記"とはこの沈黙を指す言葉)。
その修行者に「有る」と「無い」のどちらかを答えても、彼がその答えに執着して迷妄に陥るであろうと推測して沈黙したという御判断を、釈尊は阿難尊者に話した。
そもそも「我」が有るとか無いとかは、娑婆に生きる我々凡夫が実感できる事柄でないし、それを釈尊など大徳は慮っておられるから、有り・無しを大衆に断言することもなかったろう。
一応の教義で「諸法無我」を第一としつつ、逆のことも言えるが、真実がどちらと断定できないしどちらでもよいから大衆に断言できない(説法の相手によって我の有と無と沈黙とを選ぶのみ)。

いわゆる「輪廻転生」説には2つの見解があり、1つは現世の「我が身(肉体と精神の結合=五蘊仮和合=地水火風が空によってたまたま肉体となって識を得ている状態)」の心が地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界のような境地に変化をする状態を説く見解と、もう1つは世間で一般認知される前世や現世や来世の「我が身」の生きる状態を指す見解とがある。
後者の見解は、「我」とか「霊魂」のようなものを想定しないと理解しづらいし、一般世間ではそういった霊魂を想定して輪廻する・転生する・生まれ変わる、と捉えるので、多くの仏教学者(修行者ではない)が否定している教義である。
一応、そういった見方の教義によって「来世の修行では遅いんだ!」と修行者に現世での一所懸命・一生懸命の修行を決意させるための方便としては良いのであろうし、ある種の仏教における「我」の肯定ともいえる。
私がこう理解する上では、この際「我」が有るという見解や「我」が無いという見解は、問題でなくなっているので、この教義での悩みも起きなくなったであろう。
中道を極めると「非我、非無我、非非無我・・・」と言うしかないし、実際に思惟を繰り返してこう至るし、仏弟子の歴史にも無我に関する紆余曲折があったので有我・無我の見解の双方を認めることで争いも苦しみも無くなるし、それらを全て踏まえたこの見解が悟りの境地に近く、「戯論寂滅」なのであろう。
釈尊も龍樹菩薩も、これが真意と私は拝察する*脚注
執着や怒りや苦しみを離れ、執着や怒りや苦しみを生まなくするための慈悲が根源であるから。



実際の議論に際して ~ 傍観者であっても


さて、中道という思想や、「和」の心を以て自尊を第一ながらに相手をも尊重する心が、自分の心に苦しみの因子(悪い感情)を起こさず(最初は苦しい忍従かもしれないが漸次改善される)、他人との間に争いや諍いを起こさないと分かったろう。
ただし、正常な範囲での議論は必要となる。
人間だれしも誤りはあるから、互いにある程度は疑問を投げかける必要はある。
それに固執して強調すると互いの心が波立って対立になったり、悪い結末も考えられるから、疑問を投げかけたり意見する側には多少の制御が必要である。
相手にも何らかの執着というか、信念がある場合は、それを掻き乱さない心遣いを持って接する。

また、疑問や意見を受ける側は、せっかく意見を受けたのだから、どのような人によるどのような内容の疑問や意見であっても、多少は考慮すべきである。
そのような原理が民主主義の現代文明に生きている。
国連(国際連盟・UN)やEU(欧州連合)やホワイトハウスの方針は好例であり、日本の一般的な企業でも、内実はともかくとして「お客様の意見を大事にします」とか「どのような御意見もお受けします」と言ったり、「お客様の声」といったコーナーを設けるWebサイトや店舗なども多くあろう。
徳の高い者は、上下の隔たりを自己の価値判断から最大限に排除している(完全な排除ではない)。

そして、そのような自他の平等を持つ者が、多くの意見を見聞きしており、例えば聖徳太子の別名である「豊聡耳(とよとみみ)」とか、複数人の言葉がはっきりと聞き取れるという逸話などは、その徳を顕した「たとえ話」として好例である。
だから、慈悲や徳を意識する者は、一応、どのような人によるどのような内容の疑問や意見であっても、聞き入れるくらいの器量が必要である。
もちろん、全ての意見に同意して己の主体性を無くする意味は無い。
和の真髄を得た聖徳太子は、恐らく、論語の「君子は和して同ぜず」という言葉と同じ境地に居られたことと拝察する。
人の意見に完全に同意せずとも、和の心を以て聴き、理解や尊重はしておいてほしい(知能と精神を持つ同じ人間なのだから、という発想が人権・人道思想の原理でもある)。



さて、リアルでもネットでも、冒頭のように人との雑談も議論も有り得ない私が言うには白々しい話であったが、それは度外視してよい。
なぜならば、インターネットで傍観者として見ていても、意見の対立と、それに伴う感情的・差別的発言(憤怒や嘲笑による誹謗中傷・罵詈雑言・レッテル貼りなど)は、行う本人の気分を一時的に紛らわせても、言われた本人や、それ以上に、そういった情景を目の当たりにする私には不穏当である。
ここで、中道を理解する者は、自分たちが議論の席にいない時であっても、そういった煽動的・煽情的な発言について心で対処すべきことを示したい。

レッテル貼りが詭弁であり、性急な感情より生じている現象は、仏教の縁起観を知ることで鮮明となる。
レッテル貼りとは、主に相手のコンプレックスとなりそうな要素(傾向だけをみて一括的に称した浅はかなものも多い 例:左翼は低学歴、右翼は無職、黙れハゲなど)を持ち出して議論の本題を逸する詭弁の中の詭弁であり、智者が用いてはならない論法の第一位である。
一般論でいっても、レッテル貼りとは「自分を誤魔化し議論をはぐらかす欺瞞」であって「思考停止の所業」と非難される稚拙な言動である。
文系だと何で理系だと何、といった区分の概念を持ち出して賢愚を区別する人は、既に賢明でなく、さながら当たらない占い師のようである。
ちなみに中道の私はハゲ有り超ロン毛ゆとり世代B型中卒ニート引きこもりであり、既に清々しいほどに対立概念を離れている。

世間での肩書きは、確かに一つの結果であり、その結果は「因果不二」の観点で言えば、原因にもつながる。
しかし、その原因あるのみで、次の結果に至るものではない。
結果に至ることは、別の要素との相関性である「縁」に依る。
仏教の縁起観や因果論とは、単にある一つの要素のみで語られはしない。
ここでいう次の結果とは、その肩書きにある者の論理の正誤などである。
今の議論にあっては、その肩書きなどの要素のみで、その論者の論理の正誤が決まるはずもないし、あるいはその論者の論理への判断に、そういった負の感情を介在させるべきではない。
論理の正誤を明確にした後ならば、もう三毒に任せて好き勝手に面罵すればよいと思う。
※そもそも正誤が決まるとか白黒が付くというようなことが彼らの中にあるはずもない。なぜならば和の心が無いから自分の怒りに立脚した論理と見解のみが正当であるため、対立する論理や見解などを受け入れられない。中・朝・韓の如し。

つまり、その肩書きだけで「(実際に現実に)バカだ!」というように演繹されることは、あまりにも早計であり、論理学に長けている人間は最初から用いもしない論法である。
それら詭弁は度外視できるくらいの、世間でいう「スルースキル」が必要ではないか。
「スルースキル」とは、掲示板でのレスポンス(レス)やTwitterでのリプライ(リプ)をしない、という行動に限らず、「身・口・意の三業」に渡って行うべきだから、心にもスルーし、口にも出さない方が、己の中道観を養い、三毒を抑制できる。
これこそ仏道修行に通じているではないか。

中3の頃から、こういった異常性に気付き、ネット掲示板やSNSすらも自分の居場所でないと気付いた「真の旅人」ともいえる私は、この回想で法悦を覚えた。
多くのネットユーザーは、それらの交流サイトに入り浸って他の居場所を見出さない傾向があり、執着を強めて苦楽を流転輪廻している。
その執着を早々に薄めて可能な限り放擲した当時の私の徳は、やや高いはずである。

まあ、多くの人間はどう生きても感情に動かされるわけであり、そう理解はしていても彼らと似たような言動を取る時もあろう。
それは揺るぎない事実であるからこそ、どうにかして漸進的でも努力の継続(忍辱・精進)が必要である道理を銘記すべし。
また、どのような思想・意見・論理を持っても、心の状態は「中道・和」であらねばならない。
「中道・和」の心を自分一人が持つことによって世間で自分の意見が通らないとしても、その迷いと苦しみが起こらないならば、解脱に近づくことは間違いないため、第一に喜ぼう。
無論、自身の意見を封殺するわけではなく、相手の状態を見極めて言うべきことを積極的に言った上で適切な進退の判断をする、これまた進退・攻防の中道であり、良い姿勢である。



一応、日蓮大聖人の法門を信奉している自分だから、最後に大聖人の言葉を借りたい。
崇峻天皇御書に「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜といふ。(学会御書では1174p)」とある。
我々が仏法の正義を宣揚して訴え続けるにも、決して相手を罵るような感情(憤怒・瞋恚・驕慢・憍慢)を起こしてはならない。
その鑑は、まさしくこの「不軽菩薩(常不軽菩薩)」の振る舞い・礼拝行であった。
「不軽」とは「軽んじず(軽蔑しない)」という意味であり、広く自分の主張を説いても相手を軽んじなかった。
逆に、主張を聞いた相手こそが不軽菩薩に対して軽蔑(軽賎)・侮辱(毀辱)・罵倒(罵詈)・打擲などをしてきても、忍従(忍辱)に徹するくらいに「不軽」の振る舞いで礼拝の修行を続けた。

仏法は尊いものであり、それに値遇した自分もまた、凡夫の中ではきっと尊い存在であり、有り難い境地なのであろう。
しかし、先述の通り、真の自尊とは、他との相対のみならず、自身のみでも尊くある「唯我独尊」である。
他との相対のみで自尊を立てようとすれば、概して他の思想や主張を軽蔑してゆき、結果として慢心を宿してしまう(裏返ると憤怒に変わる)。
せっかく尊い思想や、正論を持っても、その人が低劣な言動を行って相手を侮辱するようならば「玉に瑕」である(他人から反発を受けて信じてもらえづらい)。
それが次第に、正論も言えなくなるほど堕落する悲惨な結末を、仏教徒は憂えねばならない(自分自身を悪道に落とす)。
そこで、2種類の自尊と同時に他人を尊重する他尊も用いて中和すれば、仏教徒として慢心が抑制される(単なる算数理論とはならないので自虐の卑下慢になったり"他尊できる俺カッケー"と自惚れる逆効果を起こす恐れもある)。

日蓮大聖人・釈尊・龍樹菩薩の言葉を再度お読みになられたい。
一応、全てを心得た者が、意見を述べたり、論争に交わる場合には、不軽菩薩のように相手を尊重しながら必要な主張を十分に行い、どう反発されても悪い感情を起こさない「忍従・忍辱」の精神で挑まねばならない。



起草日: 20160925

インターネットを見る日々に思うことであり、その草案だけをサラッとまとめる段階から始めた。
この2016年9月中は、テーマに沿った長めの文章を書かない傾向があったので、まずはこのような段階からでもよいので、と考えて最初の一歩を踏み出した。
その一歩で満足してしまう一面もあり、それを自覚する自分には、それを予見(悲観的予測?)して最初から記事の作成を倦んでしまう状態も多い。
この起草日の2週間前から「新しい記事の案はどうすべきか」と仄かに憂えていた中、当日の風呂(シャワシャン)の最中に、この際だからこういった思考に関して記事にする決意をした。

なお、インターネットにおいて、一応、私の当記事で縷々と示した「認識・思想・意見の相違による感情的対立に関する道理」を弁える人もおり、自分の意見を強く主張して他の意見に批判的であったりもする中で、多少はオブラートに包むような言い方をしている傾向がある。
文面だけでも、そのように配慮を行うことは好ましいが、三業の中でも意業を重んじる仏教徒であれば、人に見せる文面のみに留まらず、心から相手を軽んじない努力が必要となる。
ことに仏教徒は、そういった世俗的に取り繕う姿勢のみに終始すると、かえって解脱に遠のくという危機感を持つ必要がある。

ところで、9月19日の日記メモを部分的に引用しておく。

18時台に考えた。私は毎朝2・3時台に起床する通り、時間の確保に努めている。風呂(シャワシャン)の頻度が5日に1度程度となりつつある近頃も、より多くの時間の確保を求める状態である。しかし、確保された時間に対する作業量は少なく、効率が悪いようである。それは、元々効率が悪いから時間を確保しようとするのか、あるいは時間を確保しようとして実現されたから作業の手と心構えが弛んでしまったのか、どちらが原因であってどちらが結果であろうかと疑問に思う。

しかし、仏教徒は、物事の因果と縁起を知っているからこそ、このような些事に因果関係を明確にしようとはしない。どちらでも構わないわけであり、どちらでもあってどちらでもない。原因と結果は表裏一体であるし、相互に影響しあう。私の疑問については実際にそういった部分があり、それらの要因は互いに原因となって結果となりあう連鎖すら感じる。中身が何であれ、あらゆる疑問には「どちらでもあってどちらでもない、したがってどちらでも構わない(どうでもいい)」と結論すべきであろう。特に死生観について直接の原因の追及に執着した議論が「戯論」と言われ、仏教の結論が「無始無終」である。「無始無終」など中道の思考で迷いも苦しみも制御される。また、世俗的方面での因果論も、俗諦の場合に直接原因を問うことができても、仏教の真諦では対峙するどちらがどう直接原因であるかを問うと二元対立に陥るため、そう原因を考える人間の「無明」こそが全ての原因と考える発想で簡単に一蹴でき、迷いを生まずに済む。原因は、有るには有るが、有って無いようなもの、という概念として捉えられる。さて、何が言いたかったかと言えば、そういった疑問が生じても、「どっちでもいいだろ」と唾棄し、今できることに挑んでゆくことが実質的に大事な姿勢であろう、と帰結した。

このように、自他の二元対立のみならず、自身の思考・思索の中でも、中道の思想によって迷いが消え、努力の障礙も除くことができる。
中道観を完璧に修している者は既に悟りの境地に相当しているかもしれないから、結局、元々知能と哲学的経験が優れた人でないと簡単にはできないようであるが、だからこそこうして中道を示してゆかねばならない。
自身に銘記し、他人に宣布してゆく。

度し難い人間は、自他を善悪優劣として分断し、論理に和の心もなく、反発と揚げ足取りの多い私の母親である。
何かあれば自分の不満を延々と漏らし続ける(気休めで自尊心を満たす自己暗示)ため、こういう場合はどんな言葉も悪く受け取られ、反論も慰撫もみな裏目に出る。
そういう人間に対して小慈小悲の私は、必要最低限の主張を行った後は放っておくしか、順当な手段が無いと考える。



*記事投稿以後の学習・・・天台教学の円融三諦も我=仮、無我=空、中=非無我という三諦を「円かに融かして(包括して)」こそ真の中道であって但中(ただ中道を説く)と異なることを意味する。中道は「中道」でも、単に左右を消した虚無的な中道でなく、真ん中で縮まる中道でもなく、有無も非有無も全て一体であると知る平等の意義がある。真の中道も、仮に「中道」と名付けている。私が政治について提言した記事でも、この真の中道の立場にある。すなわち、右翼・左翼の「二辺(二邊・二項・二元)」でなく、単なる中道・中立・無党派やイデオロギーの喪失でもなく、全てを包括して柔軟に判断する仏教徒として相応しい立場に気付いた。また、政治(社会)と宗教といういずれも嫌わず、執着せず、という中道にもある。少なくとも、自称・閑居求道者である在家居士においては最善であると信ず。出家修行者においては、中道を包括した中道にも執着しない立場で、先の記述の通りの「戯論寂滅」が大事である。


当記事の次回分としての記事→http://lesbophilia.blogspot.com/2016/11/blog-post.html

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