諸宗教にはない「空」の思想こそが平和の原理
「宗教はアヘン"Die Religion ist das Opium des Volkes"・信仰の意味は無知"Glauben heisst Nicht-wissen-wollen"」という西洋哲学者などの言葉は、キリスト教を念頭に置いて発されました。これは、キリスト教やイスラム教などの一神教についての非難としては的を得ていましょう。
ただし、私としては、西洋において宗教や信仰全般を否定した、仏教を知らない多くの西洋哲学者の思想なども、一神教の教義と同様に愚昧なものと思っています。
さて、キリスト教やイスラム教が説いている慈悲とか慈愛とか博愛など(mercy, pity, love, kindness, compassion, agape)は、単なる精神論の美徳であり、空虚・空理空論です。
後述のように「慈・悲"Ji Hi = Skt: Maitrī Karunā"」はもっと奥深い概念でしたが、明治時代以降でしょうか当時の日本人はキリスト教やイスラム教の"Mercy"や"Compassion"ほか"Love"の類に「慈悲」を訳語として当ててしまいました(「戒・律"Kai Ritsu = Skt: Śīla Vinaya"」という言葉も漢字の意味からするとイスラム教の概念に訳語として当てては不適切)。
過去に宗教戦争を起こし続けたキリスト教は、第二次大戦後に盲目的な慈悲を説き続けて過激派を生む素地を整えてしまいました。
現況のキリスト教が説く慈悲などは、悪をも悪のまま助けてしまう紛い物です。
そこに、アッラー"Allah"を飾りあげる(Al Rahmanという異名)ための軽薄な慈悲を説くイスラム教の中から、無慈悲な過激派が忽然として勃興しています。
現在の様相は、まさに近現代キリスト教の思想的支配(多文化共生・宗教多元主義・人権尊重・人道主義・合理主義・民主主義・リベラルなど)が根本原因であると知らねばなりません。
過去の巨大戦争への(極端で自己陶酔の)反省をし、(自己陶酔のために)良かれと思って行い続けた人道支援やイスラム教への寛容な姿勢が、かえって過激思想の広まりを助長した事実です。
宗教という心を重んじても、ただ現世的で世俗的な物的支援ばかりで、彼らが奉じるところの西洋的な教育(イスラム主義を奉じた過激派が蔑視する)は不十分でしたので、過激思想を抑制することはありませんでした。
イスラム教徒・ムスリムとなる選択は、西洋的な教育を受けた後、「信教の自由」に任せて選ばせればよかったのでしょうが、それも実現が難しかったことでしょうか?
これからもほくほく顔を浮かべたローマ教皇(法王)・フランシスコだとかのお偉いキリスト教徒や、その走狗の如きEUなど人権屋、更に日本・世界中の識者さまが自覚しないうちは、今後とも悪を生み出すことでしょう。
彼らは高座ですまし顔でいられ、一部キリスト教徒やイスラム教徒が協調の姿勢を見せても、争いの当事者である下層の民衆やEU域内の移民・難民やテロリストなどの間では、軋轢が強まり、争いの火種が絶えず生まれ続けます。
虚栄の慈悲はかえって他人の悪を増長させる・・・「自由」や「放任」とは、決して過保護だとか好き勝手にさせることを意味しません。
私が奉じる仏教は、色んな教理に裏打ちされた「慈悲」を説いています。
「慈・悲"Ji Hi"」の字義を簡単に言えば、「慈」は思いやり、「悲」は哀れみであり、英語で言えば、"Benevolence"と"Pity"を合わせたような言葉です。
片方の英単語の意味だけでは足りません、両方の意味を合わせた単語です(「戒律」もこれで一つの意味ではなく「戒・律」という別の意味のある漢字を2つ合わせた単語)。
「慈悲」の字義から言えば、個人的には"Loving-Kindness"という通常英訳が適切と思いません(MaitriとかMettaといったサンスクリット語・パーリ語も実は"慈"の意味しか含んでおらず漢語の"慈悲"という四無量心・四梵住のうちの2つの概念を言うには不足がある)。
漢語では「抜苦与楽(苦を抜いて楽を与える)」と言われますが、この場合は「抜苦」が「悲」で、「与楽」が「慈」です。
また、「不生不滅」だからこそ「慈悲」です。
「不生不滅」といった「空」を知ってこそ、慈悲や信仰などの精神や実践は活きていきます。
「空」とは、キリスト教にもイスラム教にも強調されることのない真理の一つです。
大阪の覺應さんや大阪の英俊さんなど、彼らは「空」を理解しつつ、慈悲が大切であるとよく訴えられています。
苦しみの性質を説いた「縁起」、その苦しみを構成する事物・苦しみを受ける生命など「縁起」にとらわれる全ての事物・生命が「空」であり、それを知って自分の苦しみを捨て、「空」が根付いた「慈悲」で他人の苦しみを除く(除こうとする意志)、という点で、自他が苦しみから離れるには「空」と「慈悲」のどちらも必要です。
その関係性は飛行機の両翼とエンジンや、建築物の基礎と柱や、建材と金具(枘鑿・ぜいさく)の関係と似たようなものです。
こうして堅実に理解を積み重ねなければ、苦しみの呪縛は永く続き、解脱は到底ありません。
よって、一つでも欠かして進ませれば、手抜き工事の建築物のようにどこかで瓦解しましょう。
※今ご覧のみなさんは今すぐに「空」に関わる教理を解せずとも、一応そういうものと認識してくだされば理解できない文章でもありません。また、深い理解を求めれば、読んでいきなり達成できるはずもないため、ひとまず全文を読んで考え直しましょう。
私の説明を聞かない限り、「空"Emptiness, not Nihilism"」と慈悲は相容れないと思われる傾向がありますが、実は多くの教義とセットなのです。
大昔、仏教徒の中にも、「空」が他の教義を否定するのではないかという議論があったくらいで、理解されづらい歴史があります。
「空」の聖典である龍樹菩薩の中論・観四諦品(24章)にも、仏教の「四諦」や「四果」や「三宝」といった教義(分からなければそういう教義があると認識するだけでよい)は「空」で否定されず、むしろ「空」ありきでそれらの教義が立つとされます。
「四諦」などに限らず、慈悲であっても「空」が根本です(そのタネは"縁起")。
※典拠は中論24-20偈「若一切不空 則無有生滅 如是則無有 四聖諦之法」など(文意が分からなければそういう教説があると認識するだけでよい)
仏教の慈悲は、自分から他人への「抜苦与楽」のみならず、自他の悪をも抑制します。
それができねば、慈悲は慈悲でなくなります。
ただ自己や崇拝するものを装ったり、取り繕うだけの概念ではございません。
俚諺に「情けは人の為ならず」とあり、この"ならず"はナリ活用否定形なので「情けは人の為ではない、自分の為である」という意味となりますが、キリスト教などの慈悲は、所詮ここでいう「情け」の程度の粗末な美辞麗句に過ぎません。
自他は不二、善悪も不二、であるならば、仏教の慈悲とは他人への抜苦与楽のみならず、自分にも抜苦与楽があります(ただし小乗仏教では自分の抜苦与楽が本意である)。
自他に善をもたらして悪を打ち消します。
とはいえ、無論、仏教にだって素敵な教義(本覚思想など)を弄んで悪行を重ねる輩もいます。
しかし、それは多くの教理を知ったつもりで、実際はまともに理解していない慢心・不信心・無道心の者であり、また極少数です。
90年代のオウム真理教のみならず、戦国時代の日本では、愚かな民衆や僧侶までもが、一部仏教宗派の名のもとに戦闘に参加しました。
本来ならば「不生不滅」という「空」の思想に基づき、我が肉体が害されて滅ぼされようと結果論ですが、そういった宗派を奉じて戦闘に参加したことは、日本仏教を独自に信奉する私(未成年・広義の無宗教ですが)としても大いに省みるべき負の歴史です。
その「不生不滅」の理解は、原始仏教の故事が参考となります。
例えば、釈尊十大弟子の一人である目連尊者は「神通第一」といわれ、「神足」という瞬間移動などが使えますが、釈尊の涅槃も近い時、仏教を憎む外道(婆羅門・梵志)に殺害されようとします。
目連尊者は絶体絶命の危難を「神足」で脱するも、重傷を負っていたために同朋の元に戻ってから同朋にその原因を問われ、不可避の業による因縁を明かし、間もなく示寂されました。
また、釈尊は、故郷の人々が襲撃されると知って相手側に3度停戦を促すも、4度目を前に故郷の人々と相手側の深い因縁を知り、ついに停戦に入りませんでした(その後は相手側によって釈尊の故郷の人々への虐殺が始まる)。
「空」による戦闘の不参加は事実に明らかです。
※イスラム教のムハンマドは自分の命のために戦争を辞しませんでしたし、そもそも戦争"Jihad"して敵を滅ぼさねば死にそうになって説教もできなくなる人間が教祖では邪教そのものでしょう。仏教の釈尊や高弟たちが、婆羅門や六師外道や提婆達多などの迫害を受けても忍従された御事跡と、比べるに及ばない卑小な根性です。磔になって殺されたキリストも教祖として不十分であり、イエスのリザレクションは夢想です。己の命が惜しい常見のムハンマドに加え、キリストへの執着が強くて常見の教義を生んだクリスチャンも、「空」の理解などは絶無でした。
自分たちが殺されるとしても「不生不滅」、そもそも生きる我が身も死する我が身も、他人の身も、すべて「不生不滅」であり、「空」ですから、深い因縁があって殺されるならば受け入れるしかありません。
人間個人の生命とは最初から「空」であって、生まれも滅びもしないようなものです。
仏教に「生老病死」の苦が説かれていても、仮に説いたに過ぎず、「生老病死」もまた「空」です。
よって、例えば先ほどの目連尊者は、空の思想を理解していたため、死を恐れず(神足によって危難を逃れようとした経緯は仏教徒として生きる使命を自負していたためや相手に悪業を生ませないためか)、死に際しては苦しみもなく無余涅槃に入られたことでしょう。
※目連尊者の話も釈尊の故郷の人々の話も、増一阿含経(前者: 巻第十八 後者: 巻第二十六)を参照します。目連尊者の話については何と最後の偈の中に「不生不復滅」と一句があり、私の話どおり、「不生不滅」の理解を釈尊が示されていました
我が身への執着(我執)に気付かないと、宗教を奉じた戦争を起こします。
「神の名のもとに殺せ!」ではありませんが、やはり自分たちの宗教・宗旨・宗派に偏重したセクト主義があり、「空」を知らないままでは、その宗教・宗旨・宗派の教義の狭隘なる一部分だけを受け止めて戦闘に走ることは必定です。
無慈悲ですね、「空」を知らないで「慈悲」など、到底説けるものではありませんと分かります。
教理を学びきらなかった極少数の日本仏教徒や、西洋でいうと過去のキリスト教、現在のイスラム教(過激派)が、実際に具現化しました。
今のキリスト教であっても、独善的な反省が盲目的な「慈悲と称する偽善」を増長していますから、イスラム過激派の生みの親であり、過激派が台頭した根本原因です。
このように、仏教の「空」を知らねば、修羅の業による戦争を起こし、起こした者は地獄の境界のまま死後には地獄に堕ちる悲劇を歩んでしまいます。
ああ、なんと胸苦しいことでしょう。
彼らは、そういった仏法の真理・真諦には微塵も関わることがありませんでした。
そういった仏法の真理・真諦を知らない者たちが「外道」であり、自他に平和をもたらすことなく、己の解脱もままなりません。
最後に、「空」と「慈悲」が、より教義として密接に関係しあう理由を書きます。
お気づきの方はお気づきになるかもしれません。
目連尊者などは「不生不滅」という「空」を知りつつも、厭世的でなく、また虚無主義的でもなく、懸命に生き抜かれようとしていました。
自分も他人も、憎い人間も、憎んでくる人間も、家族も、国の支配者も、みな「空」です。
動物も植物もあらゆる物質も、人間の文明や言語や知識なども、全てが「空」です。
更に、自分の一生は「空」ですが、また何よりも大切です。
大事な自分の一生が空ですから、他人や、憎い人間や、憎んでくる人間や、家族や、国の支配者など全人類や、果ては動植物の一生も、みな「空」ですが、それも等しく大切でしょう。(事実はともかく仏教徒はこのように考えなければならない)
そして、誰でも大乗仏教でいう「仏性」があるならば、あるいは誰でも徳を積んで解脱ができるならば、どうしてその自他の生命をみだりに蹂躙できましょうか?(修行も解脱もできないように見える人間がいるという価値判断をひとまず捨てて仏教徒はこのように考えなければならない)
目連尊者も釈尊の故郷の人々も、生き延びようと懸命に戦われましたが、同時に、相手を傷つけず、殺さず、自分の生命への執着や生存への欲望に対しても戦われたのです。
「空」、「慈悲」・・・・・・このようなものであり、こうした考え方がそれぞれの教義を相互に活かしていく、そんな深遠にして俄かには理解しがたい仏教を、これからも私は「慈悲」のために広宣して参ろうと強く願いを発しています。
私のような煩悩具足ともいえる末世の凡夫には小慈小悲(自分の心を養えても他人を直接に救済できない小さな慈悲、仏・菩薩でもない衆生は誰しもこれが限度とされる)ばかりで精一杯ではございますが、一人でも多くの人が、真に「平和」という空想じみた、人類共通の理想を実現できる唯一の道を示す仏法の妙音に預かることがあろうと願ってやまない所存です。
こういった「空」の理解がないキリスト教やイスラム教の「慈悲」では、平和の実現も無ければ、常に同じ一神教同士の争いを発生し続け、どちらかを潰す(自他や善悪を分断する二分思考)までは解決しない上に、仮に片方が勝利しても、その中の派閥が争う展開は必定です。
今の時代は、核兵器など大量破壊・殺戮の兵器もあります。
そこでは、関与するほぼ全員が苦しんで死ぬか、文明破壊・人類絶滅の天変地異を待たない限り、争いの輪廻が断たれない悲劇を、再度、知ってもらいたく念を押します。
キリスト教やイスラム教が共存する文明で「平和」があるとすれば、それらの宗教の教条主義が消え、「民主主義・宗教多元主義」を立てて「みんな仲良し」という、宗教の形骸化くらいしかありません。
そんな「みんな仲良し」も、「空」が理解されないままでは絵空事に過ぎない夢想でしょう。
起草日: 20160803
「依空慈悲抄」?
思えば、戦後の日本も、そういった偏狭な慈悲を歌うキリスト教や西洋の人道思想に触発され、ただ中国や韓国に頭をペコペコと下げ、インフラ整備や莫大な投資を続けた(陰徳絶大)。
もし中国や韓国が日本を尊敬し、彼らも彼らの中の悪や非を自覚して抑制するならばよかったものの、実際は日本の寛容さに付け入ってその悪を増長している。
実例は枚挙に遑がないため、省く。
これも、偏狭な慈悲を歌うキリスト教およびそれを奉じている欧米(アメリカ・EU)が、中東やアフリカといった国々のイスラム圏の悪を増長させ、テロリストや過激派を生み出し、9.11テロやパリのテロなど、自分たちをも苦しめている現象と同一轍である。
同じ岐路に立たされている日本と欧米は、このキリスト教的な思想が元凶であると思うほかない。
日本も欧米も、自己陶酔のような反省で、中韓やイスラム圏を好き勝手に許して悪を見放しつつ(悪化してから米英仏露などが爆撃を行う始末)、自分たちの悪だけは強く戒めている。
中韓およびロシア・北朝鮮と、日本との問題は常態化しており、領土問題は勿論、拉致被害者であるとか、種々の問題は当面、解決の糸口が見えてこないばかりか、現状のままでは解決など夢のまた夢である。
やはり、自由・平等といった理念は相互が理解してこそ成立する。
悪を自覚して反省するにも、相手の悪をも責めて正さねば、公平ではない。
こうして相互の善悪を認めることで、初めて平和が成立するであろう。
この思考は、親子喧嘩を主題にして語った過去記事を参照されたい。
某サイトでの投稿に関連し、漫然と勉強する中に「慈悲」は3種類あるということをたまたま知った。
一般に「大慈大悲」という表現があり、状況によっては意味も変わるであろうが、3種類(三種)の慈悲は教理によって小・中・大が分かれている。
3種類とは「三縁」であり、慈悲の縁とするところ(対象とするところ)が3種類あるという。
まず小の慈悲が「衆生縁」の慈悲であり、「空」を知らずに衆生に対して起こす慈悲であり、本文中にもあるキリスト教や一般道徳で言われる程度の慈悲、情けの類である(ものによって「空」を知っていてもこれに当たるか)。
身近な出来事や人間関係などによって起こりやすい(私はむしろ仏教を学んでから改めて愚かしい親・他人などにかえって憐憫を感じるようになったので下記の大の慈悲があってこそ小慈悲も成り立つ一面はある)。
凡夫に多く残る煩悩が起こす慈悲である場合、好き嫌いの感情により、刹那的である=小さい慈悲と考えてよい。
中の慈悲が「法縁」の慈悲であり、自身の執着を無くしつつも「空」を中途半端に捉えた説一切有部の法有我や五蘊の有我に基づいた「いわゆる小乗仏教」において修行者が起こす慈悲である(とされる)。
小乗とされる阿含経・パーリ語経典に、「四無量心(四梵住)」としての「慈・悲(および喜・捨)」の修行が説かれる。
大の慈悲が「無縁」の慈悲であり、「空」を知ってこそ生じる平等の慈悲であり、私などは理性によって真似ができそうでも到底できはしない、仏・菩薩の大慈大悲である。
これらが小・中・大と名付けられる理由は、慈悲の平等さや盤石さに依ろう(本文説明の通り)。
このように「空」を知ってこそ広大にして強固な慈悲となる。
私の求めた答えが当日中、別の形で知ろうとは、仏法の不可思議なる利益を改めて感じ取る。
更に調べ直すと、空の聖人であらせられる龍樹菩薩の大智度論(ここでは文献学的な疑義を差し置く)巻第四十にもこの三縁慈悲(三種慈悲)について記述があり、大慈悲の「無縁」については「諸仏は善く畢竟空を修行するが故に、名づけて無縁と為す (諸佛善修行畢竟空故名爲無縁)」とある通りである。
大智度論は巻二十において、三縁を詳細に説いている(衆生縁の慈悲が「愛楽(あいぎょう)」によるなど)。
イエス・キリストさんが、実は空(心における縁起)を悟っていて一神教の神に仮託しつつ、慈悲忍従で処刑されたという発想は・・・。
いいや!仮にイエス・キリストさんが知っていても、「実際にその宗教で人々が幸福になるか?(抜苦与楽されるか?)」という問題に直面する。
例えば、日本の鎌倉時代で、法然上人の専修念仏が、国に害悪をもたらす教義・修行であるとして天台宗・法相宗(貞慶)・禅宗(栄西・道元)・明恵上人・日蓮大聖人などに非難されたわけである。
よしんばイエス・キリストさん(または高等批評でいう後世の聖書編纂者)が法然上人や親鸞聖人のように空の道理(縁起)を悟っていても、教化の中で明示されず(せいぜいルカ18章やヨハネ1章やローマ1章くらい)、明示されたところで歴史的なキリスト教は闘争的な一面ばかりが顕著であったろう。
日本仏教では、小乗も大乗も「一乗」であり、「平等に悟りが得られる(解脱ができる)」ことを高僧の誰もが知るが、本当に悟りが得られるかどうかは別の話だから、という前提で種々の論争があったわけで、この観点でキリスト教は、日蓮大聖人の「三証」のうち、百歩譲って文証・理証が良くとも、事証では好ましくない。
鎌倉仏教系の信徒でも、当記事で語るよう、武装をして宗派の教義を奉じながら流血の闘争に躍り出た点、畢竟、どんな宗教や時代でも、個人の精神が最重要だと言われてしまう。
個人主義の真意や、ヒューマニズムかも。
追記: 2017年9月21日
慈・悲・喜・捨という「四無量心(四無量行・四等心・四梵住)"apramāṇa citta (brahma vihāra)"」に関する見解は、萌えの法門で更に開示した。
萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・三会の擬古文や、四会の注釈にある。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/06/moetry.html#ideo4
後々、パーリ経蔵・長部や漢訳・長阿含経にある「三明経」などにある「慈ないし悲・喜・捨で一方~四方・上下・横・一切処を満たす」という教説を閲覧した経緯を執筆した。
それは2017年8月であり、2017年10月に以下のパーマリンクに投稿する予定である。
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/10/brahmaloka-sukhavati.html
以下、参考程度に抜粋し、上記リンク先のページにしていない説明をする。
Dīgha Nikāya 13 - Tevijjasutta (長部13経・三明経。以下は中部40経Cūḷa assapura suttaなど経蔵の随所に同じ形で見られる)
慈で一方・四方・上下・横・一切処を満たすことの教説→So mettāsahagatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati. Tathā dutiyaṃ. Tathā tatiyaṃ. Tathā catutthaṃ. Iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ mettāsahagatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjena pharitvā viharati.
悲→ karuṇāsahagatena cetasā …
喜→ muditāsahagatena cetasā …
捨→ upekkhāsahagatena cetasā …
そのように慈悲喜捨の心を「自分が思う・知り得る世界」に平等・普遍に満たすということ(じっくりと入念に堅実に粘り強くひろげてゆくこと)が「慈悲喜捨の心の無量である状態=四無量心"apramāṇa citta"」であり、三明経によれば、現世で梵天と共にあり、来世に梵天へ転生する業となるようである(このために梵住"brahma vihāra"とも呼ぶ)。
上記パーリ文の引用にもappamāṇenaという語があり、それは「無量」を意味するサンスクリットの同義語"apramāṇa"であり、具格である(apramāṇa-cittaという複合語は共に名詞の語幹であるが持業釈"karma-dhāraya"で語順を替えて「心の"citta"無量なる"apramāṇa"+状態」と訳せられる)。
上座部仏教でしばしば唱えられる「パリッタ中の慈経"Metta Sutta"(元はスッタニパータ1章8経)」にも、上記パーリ文の要点が含まれる(ほかMettāsuttaというほぼ同名の経が増支部11.15経)。
無執着・無瞋恚にして能動的な慈悲も備えるならば、相当の理法を弁えて智慧・般若もあるので、解脱どころか事における成仏の道でもあろう。
それとも、慈悲喜捨とかの業ですらも個人の解脱のみを目的とした際には、「道の杖」とか「河を渡るための筏」に過ぎなかろうか?
解脱したいか、成仏したり菩薩と成ったりして衆生済度をしたいか、とは、目的"artha"の置き方の違い程度であって「本来は毫釐の差も無い」事柄だろうか?
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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。
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