加えて後世の関連教団が行う「折伏と称する強引な布教活動」で改宗の強要なども多いため、共産主義のように革命的であって同化(画一化)を強制する危険な思想に見られる場合も多い。
しかし、大聖人の法門を他の宗旨(小乗・権大乗・密教)などと共に知ろうとすると、四箇の格言などに並べて非難された様々な法門(小乗・権大乗・密教)と通底しているように感じられてくる。
それは、ある種の「中道」や「和」である。
表題にある「八万四千法門総在」という私による表現は、端的に言い換えると「オールインワン」である。
日本天台宗・比叡山といえば、「四宗兼学(法華の円教を中心とした禅・戒律・念仏・密教)」と言われるが、それは、別物を別物としつつ雑駁に取り入れた修行法である。
大聖人の法門は、それらやそれら以外の教義や修行を広く折衷していると僭越に愚見する私だが、大聖人自身は「日蓮は何の宗の元祖にもあらず・又末葉にもあらず(妙密上人御消息)」とお述べになっているわけで、ただ根本の「南無妙法蓮華経」を末法の世に弘めただけであると報恩抄などに示されている。
決して、新しい思想や奇怪な解釈、または既存の法門の二番煎じを述べたつもりはない、と。
大聖人の法門は、ある門流の場合、久遠実成釈迦牟尼仏を本仏とし、別の門流では日蓮大聖人そのものを久遠実成(久遠元初とも)の本仏とするよう、一見すると一神教に似ているように見られそうだが、日蓮大聖人は法華経の会座にいた多宝如来を始め、様々な仏・菩薩、十大弟子という声聞や、後の世に出現した龍樹・天親などの菩薩の敬称がある論師や天台・妙楽・伝教などに「南無(帰命)」を冠しているほか、天界の神々や魔王、密教の不動・愛染、日本の大師天照・八幡などの神までも分け隔てなく「十界の衆生」として曼荼羅御本尊の相貌に列している。
卑近な表現となるが、こういった多様性や共存のありかたは、「宗教多元主義」と言わないが、先述の「和」という日本の大事な心がよく現れているように思えてならない。
一切衆生はみな仏性があるから尊敬する・・・常不軽菩薩のようである。
みな等しく尊いという平等・不二の立場・・・無論、特別な尊敬対象(本仏・妙法という人法一箇の本尊)もあり、これは而二である。
大聖人にとって排除すべき事柄は、「南無妙法蓮華経」の根本から背いた枝葉末節の邪宗邪義であるとされていよう。
せっかくの仏性を勿体なくする(一切世間の仏種を断ずる)邪宗邪義が許せないといえよう。
法華経自体が排他的である、といった邪説を垂れる輩もいるわけで、見方次第では一理あるものの、それは皮相的な見解であろう。
法華経や大聖人の本意は「中道」や「和」に通じているものである、と念を押したい。
それはそうと、ここからは具体的に他の宗旨と照らし合わせて考察に入る。
浅学菲才・未熟者の謗りを免れがたい愚生ながらに事例を並べて参ろう。
「中道」とは、「自力か他力か」という対立や「己心(内証)か色相か」という対立いずれにも当てはまり、大聖人の法門は「中道」を貫いている。これまで見た様々な教えの特徴も含まれるとすれば、「和」にも通じる。
概説すると、まず大聖人の仏法で肝要な教義・修行が、妙法蓮華経の題目を称える「南無妙法蓮華経の唱題」である。
およそ、一般的には「南無阿弥陀仏」と似ているように扱われるが、その「南無阿弥陀仏」という念仏は主に浄土真宗で「他力本願」と称するように、ただ阿弥陀仏の力で救済されるのみの代物でしかない(法然・親鸞さん以前の日本天台宗の念仏三昧などの念仏修行は真宗サイドから自力念仏と軽蔑されるし法然専修念仏義は旧来の念仏を認める明恵さんなどに非難された)。
日蓮大聖人の唱題も、法然・親鸞さんなどの念仏(専修念仏)も、余行(他宗らしい修行)を交えず、余念をも交えずに行うことが奨励されるか、強制される。
日蓮大聖人の言葉では「或は法華経を行ずる人の一口は南無妙法蓮華経・一口は南無阿弥陀仏なんど申すは飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し(秋元御書)」と、題目を唱えつつ念仏も唱えてしまえば「飯に糞を雑(まじ)える」ようなもので、推奨されないようである。
「他力本願」の「念仏」に対して「南無妙法蓮華経の唱題」が自力か他力かといえば、大聖人の「一大聖教大意」の教説を披見すると、「四性計」に定義された自力・他力・共力・無因力の「四力」のうち、「今の法華経=大聖人の法門」のありかたとして自力も他力も否定されている。
共力・無因力については説明を略しているが、同様の理論で否定されようものと拝察できる。
大聖人の「中道」の見地では、「四力」いずれの要素も含むが、いずれも絶対的でないため、絶対的に自力であるとか他力であるとか、共力や無因力であるとは区別できないとしておられる。
私の浅智から判断しても、自力でも他力でもないという「中道」である。
つまり、南無妙法蓮華経の教主である御本仏の慈悲は深くして救済の仏力法力も高いが、衆生も自ら唱えない限りは功徳が無いわけであるため、自力であって自力でなく、他力であって他力でない。
「慈悲」の概念自体が自利利他であると同時に、慈悲を受け取る側も受け取る心構えがなければ功徳を授からず、ただ慈悲を与えようとする者だけが功徳を積むのみとなる。
「広宣流布(ここでは妙法蓮華経薬王品の語)」といって日本を始めとした全世界へと大聖人の法門・妙法が必ず普く弘められるという教義も、「仏語は実にして虚しからず」や「委細に三世を知るを聖人と云う」と言われるように、「大地を的として矢を射れば必ず当たる」ことと同じく、必ず当たるとされている(諸法実相抄)。
これも本仏や妙法の仏力法力によって、諸天善神が国に災難(大聖人在世では大蒙古・モンゴル帝国からの侵攻・元寇)を起こし、そのために凡夫が目覚めて妙法を信受するとされているが、その単なる他力のみで広宣流布するのではなく、やはり凡夫たちもまた布教活動(某宗でいう折伏など)に邁進してこそ実現するという、自力も他力も不二の立場である「中道」そのものではないか。
よって、妙法に背き、誹謗までする者は地獄にも堕ちる・・・それは真宗の親鸞上人も同様の趣旨を語っている(正像末和讃)ため、見ようには真宗の念仏も自力・他力の絶対的に片方であると言えなくなる(他力本願も所詮はスローガンみたいなものだし)。
続いて、自力VS他力(または中道)ではなく、易行VS難行(または中道)という比較で考える。
題目や念仏の理想を端的に書けば、「題目は一心に信じて唱えると無量の功徳いっぱい即身成仏」であり、「念仏は一向に信じて唱えると現世の利益いっぱい極楽往生」である。
こう概観すれば、どちらも易行であることを歌っているが、反面、法華経に「難解難入・難解之法」とあったり、阿弥陀経にも「難信之法」とあるわけで、一応、そういった面から、特に法華経の真理は「不須復説」といった態度が、方便品で取られる。
しかし、その迹門である方便品ではそうされるが、本門においては「五十展転(随喜功徳品)」といい、法華経の真理を伝えて弘めることが奨励されている。
その功徳は、分別功徳品において「法華経の真理を弘める功徳は六波羅蜜の智慧波羅蜜以外の5つ全てを修行した功徳に等しい」とされ、随喜功徳品において「『人々を物質的・経済的に豊かにするばかりか小乗の説法で阿羅漢果を与えた大施主』の功徳は法華経の真理を五十番目に伝えられて喜んだ人の功徳の百千万億分の一くらい少ない」とされるほど甚大であった。
その、分別功徳品など所説の法華経=円教の功徳は、円教より古い教えである「偏教」の中で最も易行である阿弥陀仏の念仏よりも比較にならないくらい功徳が多いと、あの浄土真宗などで高祖として崇められる恵心僧都源信さんが往生要集・巻下で語っている(守護国家論を披見)。
よって、法華経の題目・唱題とは、念仏よりも易行であって功徳も大きいが、しかし逆縁の人(唱題する側と唱題を誹謗する側の双方)も多く、今生の中では難行とも言えるため、中道としておく。
その「南無妙法蓮華経(妙法蓮華経に南無・帰依する)」とは、経典の妙法蓮華経においても「妙法蓮華経という真実の教え(諸法実相・二乗作仏・女人や悪人の成仏・久遠実成など)を弘めれば功徳が六波羅蜜(菩薩の基本的な6種の修行)よりも広大である」と説かれるのみで単語自体は載らず、また、ほかの漢訳経典のどこにも載っていない。
これでは、根拠のない教えであると人々が邪見を起こし、信じてくれない。
「南無妙法蓮華経」の教義的な根拠は、「文底秘沈(開目抄: 文の底にしづめたり)」である。
つまり、妙法蓮華経などの経典には明文化されないだけで、教えは厳然と存していると大聖人は説かれている。
真言や陀羅尼や呪文を唱えて外道たるヒンドゥー教まがいの護摩を焚く密教に関しても、在世の釈尊が説かなかった「秘密の教え」であるから、文献学的にも教義的にも一見、仏教らしからぬ修行ばかりであり、胡散臭さプンプンだが、こういった教義的な根拠は類似しているとも感じる。
文底秘沈である南無妙法蓮華経は、大聖人が出世される以前の正師である「天台大師」も法華三昧懺儀の中で「南無十方佛(中略)南無妙法蓮華經 南無文殊師利菩薩・・・」と三宝や法華経の会座の衆生の中に題目を挙げており、この記述から天台大師自身は弘められずとも唱題の修行をしていたと、大聖人門下の間に伝わる。
そもそも、こういった記述が有ろうと無かろうと、大聖人は久遠実成釈迦牟尼仏および諸仏・諸菩薩・諸師(大乗仏教の馬鳴・龍樹・天親菩薩から天台・妙楽・伝教大師まで)がみな「南無妙法蓮華経」を唱えていた、と教示されている。
彼らが具体的に「南無妙法蓮華経」について述べられなかった理由は、まさに「正像末の三時」の立場で「末法」の時に弘むべき「南無妙法蓮華経」を、彼ら歴世の仏・菩薩・師は末法以前であるから述べず説かずにおいたとされる。
いわゆる「五重相対」とは、教義の優劣の基準であるのみならず、娑婆の仏である釈尊の説法・その十大弟子などの弘教が小乗の仏教(内外相対)であり、次の時代の馬鳴・龍樹・天親などの弘教が権大乗の仏教(大小相対)であり、次の時代の天台・妙楽・伝教などが法華経の一乗を奉じて一年三千を明かした実大乗の仏教(権実相対)などの「教相」にも通じている(報恩抄など参照)。
「文底秘沈」や「末法(後五百歳)に弘める」といった教義的な根拠を示されても、合理思考が強い方々には牽強付会であるように思われよう。
その場合は、真言密教・チベット密教もまた、教義的な正当性や遺伝の正統性が完全に崩れていることを考えたほうがよい。
大聖人自身も、大日如来を出世の由来などが伝わらない有名無実の仏とみなしている。
大日如来という法身仏が金剛法界宮と言う場所で秘密の教えを説法して金剛薩埵に授けたとか、龍猛という名の龍樹菩薩とされる人物が金剛薩埵が鉄塔に隠した秘密の教えを見つけ出したとか、空海さんが唐で正当な密教「純密」を受けて日本で大日如来の姿を現したとか、額面通りに取れば奇怪な話ばかり(最澄さんを相手に法論した徳一さんも空海さんに論難している)であり、禅宗の相伝説と同種であろう。
とりあえず、ここでは「文底秘沈」の教理である一念三千や南無妙法蓮華経が、密教の相伝や禅宗の相伝などに似ている感じがするという側面を示した。
禅宗といえば、特に道元さんを源流とした日本の曹洞宗で「只管打座」といい、無念無想といい、心身脱落といい、豁然大悟といい、単なる凡夫が座禅している状態でそのまま精神が「禅定」に入っているとみなし、それが仏の境地である、というかなり飛躍した成仏観が説かれている。
実際には、自分の思考を殺す無念無想などは虚無主義的である上に、その「エセ禅定」が実現できる人もそういないものである。
そもそも大乗の大般涅槃経の「一切衆生悉有仏性」の文を拡大解釈して人々が最初から仏であるといった教説もあるようだが、それらは全て邪義か、あるいは何らかの含蓄を持つ方便とも取れようが、邪義とみなせば私の浅慮かもしれないし、含蓄があると考えても思い込みに過ぎてしまう。
こういった教説を鵜呑みにしてしまったとき、「煩悩即菩提」のように、誤解が長じて仏教不要・修行不要として堕落しかねない。
日本の曹洞宗でなくとも禅宗全般が、日蓮大聖人から数々の側面より「謂己均仏」の増上慢であると非難されている(2016年6月20日記事の脚注1)。
※「一切衆生悉有仏性」について過去記事で私は、字面通りの意味がそのまま現実を表しているのではなく、方便のようなものや大乗仏教の極致をスローガンにしたもので、実際には天台教学でいう六即のように、仏教を知り、学び、修行をせねば仏性が無いに等しいと語った。
その大聖人の法門の門下においても「此の御本尊全く余所に求る事なかれ、只だ我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(日女御前御返事)」という御文を最大の根拠として自分が既に仏であるとか、御本尊や御本仏と同格であるとか、あるいは実際の御本尊を拝まなくてもよい、といった「己心本尊説」が生まれている。
場合により、「本覚思想」とも表現されるか。
この御文については、額面通りに捉えていけないことが明確である。
まず、己心という内証が絶対でもなく、色相としての御本尊と、その己心が不二である。
凡夫(特に末法の衆生)の観心は御本尊なくして成り立たないとされ、色相・外相としての御本尊ありきで、胸中・己心の御本尊が生じるものと捉えるべきか。
あるいは十界互具の理の事実存在や、己心の本来の清浄なもの・・・つまり「アマラ識(九識)」と言われるものを、その象徴たる御本尊の拝見と観心とによって覚るといえよう。
「胸中の肉団におはしますなり」に続く「是を九識心王真如の都とは申すなり」という一文を鑑みても、こう考えるほかない。
このあたりはまだ領解が浅いので、今は何とも言えないが、少なくとも御本尊不要であるとか、無神論的で自己神格化を誘導することなどがあってはならないと考える。
凡夫も仏の境涯になれるが、それは「因分」と「果分(究竟果分)」の区別があって不二だけではなく、而二の意義も立てられ、完全に御本仏と凡夫が同格であることは意味しない。
少なくとも、凡夫は御本尊ありきの観心・成仏がある、そういった理解が望ましい。
大聖人が御本尊を顕し、門下に広く授与なさったという御事跡から推して知るべし。
大聖人御図顕の御本尊は有り難く頂戴・受持する。
己心の仏界(十界互具だから九界までも?)を色相において顕した"もの(準体助詞)"であり、単なる形だけの"モノ・物(物体の名詞)"ではない。
色相において顕すことで己心の仏界(ないし九界?)を観ぜられるわけであり、外相と己心という「物質と精神」のような対立概念も「不二」である「中道」がここにも看取できる。
端的には「色心不二」や「物心一如」であるが、やはり御本尊を単なる形だけの"モノ・物"と思ってはならない。
ただ、中道の原義に基づくと「中道=仮名=空」であるし、物(色相)にせよ心(己心)にせよ執着してはならない・・・それは中論の所説に基づきすぎた原理主義的教義であり、単純に広義の「中道」、今までの「自力・他力」や「易行・難行」といった二元対立に対する「中道」という定義でよい。
また、日蓮大聖人の法門において信心を持つならば、そういった四法印・空の「第一義諦・勝義諦・真諦」に執着しても齟齬があってだね・・・。
この信心においては、広大無辺の功徳が具わる「唯一無二」、「絶対」、「末法万年から未来の果てまで不滅の大宝」として信ずべきであろう。
この信心は、仏教の「空」に背く外道義と見られるのであろうか?
あるいは「空」の理解とは別に、功徳を積む修行として両立させてよいか?
また、大聖人の法門において重要な法華経寿量品、そこに説かれる「常住」とは、常見であろうか?方便ではあるまい。どのような含蓄があるか?
諸賢の御教示を乞うばかりである。
※2016年11月~翌1月投稿の新しい見解→http://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/hokekyo-monteigi.html
外道といえば、日蓮大聖人と直接関係のない話に変わるが、身延派の日蓮宗には、大荒行という冬期の行事(毎年11月1日から100日間)があり、同宗の大本山・中山法華経寺にて行われる。
主に若い僧侶の通過儀礼であるが、志のある者はまた何度も挑もうとするらしい。
それで、特に若い僧侶・「初行」と呼ばれる初参加の者から、しばしば死者が発生している。
様々な意見や疑惑はあるが、この記事で取り上げるべきものがある。
歴史的に不仲である日蓮某宗は、この大荒行について「釈尊が禁止された外道・バラモンの酷烈な修行と同じであって大聖人と関係もなく、謗法呵責もしない癖にこんな修行を取る本末転倒」と非難し、「極楽寺良寛(忍性・後述)の如き尊敬を集めたがるパフォーマンス」と断じ、加えて「『いのちに合掌』という綺麗なスローガンと微塵も符合しない自語相違」とも嘲笑していた。
反論の形ではないが、日蓮宗の僧侶としては、釈尊が禁止された酷烈な修行に似る大荒行について「僧侶たる者、釈尊の6年間の苦行のようにこういった心身の苦悩を経験していかねばならない」と主張しているようである。
私自身は日蓮某宗側の主張に同感である上、娑婆で成道する前の釈尊が経験されたとしても、後の仏教徒が進んで取り入れる必要は無いように思う。
しかし、この際、取り入れたい者がどういう思惑であれ、仮にも彼ら修行者の菩提が養われるならば、自由に取り入れて構わないとも思っている。
さて、大聖人は多くの大難を耐え忍ばれ、ある時は、冬が極寒となる佐渡島に流されて現地のあばら家に3年もお過ごしになるなど、頭陀の行者でもある。
大聖人ご自身は「法華経の行者」であって頭陀に関しては触れることは無かったが、私は個人的にこの御振舞も敬うべきと思っている。
そういった頭陀の御振舞は、大聖人が自称される「法華経の行者」の所以である、大難を受けて法華経を身読・色読したという根拠にも通じている。
大聖人の法門は「末法無戒」ともよく言われ、事実、身延の山林に入られてからの大聖人は、信徒からの御供養のお酒なども口にされ、いわゆる不飲酒戒をお守りの様子ではなかった。
大聖人ご自身は御書の中で「日蓮は無戒の比丘なり」、「日蓮は(中略)持戒破戒にも闕て無戒の僧」とする記述があるが、「今日蓮は聖にも賢にも非ず持戒にも無戒にも有智にも無智も当らず」とする記述もあり、場合によって立場の示し方が変わっている。
それはそうとして、教義において考えれば、身延派の日蓮宗も、富士派の日蓮正宗も、分派した勢力や教団も、五戒から具足戒(二百五十戒)まで守ろうという教義はほぼ無い(個人レベルは別の話・具足戒なら四分律を持ったとされる深草元政さんなど)。
実際、日蓮大聖人の法門において戒律を持っても、伝教大師所説と伝承される末法燈明記には「設末法中。有持戒者。既是恠異。如市有虎。此誰可信。(御書では語句が異なる訓読文を四信五品抄で引用)」と書かれ、これが支持されている。
端的に言うと、末法の世(日本仏教では西暦1052年に当たる永承7年以降)では多くの戒律が時代遅れで、多くの僧俗にとって到底維持できず、その末法の世において戒律を保つ人がいれば、それは街の中に虎や原始人が現れることと同じくらい奇怪である、とされる。
伝教大師(とされる別人説のある筆者)の「此誰可信=誰がこれを信じられようか」という記述については当たらず、日蓮大聖人の時代にも「忍性(極楽寺良観)」という僧侶が橋の建設や難病患者救済などの慈善事業を行ったり、その「具足戒」を持って人々から崇拝されたとされ、この忍性さんを日蓮大聖人は偽善者として「律国賊」の根拠にもした。
他の御書には「正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し」や「伝教大師の市の虎の事」と示される。
しかし、同じく伝教大師が定めた「大乗の戒=円頓戒」では、先の飲酒に関連して言うと、自分が飲むことは当然禁止の上に、他人に飲酒を勧めたり強引に飲ませても同罪とする。
大乗仏教の慈悲・自利利他の精神においては、「勧善懲悪」が表れており、この戒相を考えると、まさしくその教理が反映されていよう。
この場合は「勧善懲悪」を通り越して「悪を勧めても同様に懲罰がある」と言い換えられる。
この円頓戒の原典は梵網経であり、厳密な名称は「十重四十八軽戒」とされる。
その梵網経では、美称として「金剛宝戒」ともされる。
なお、比叡山出身であって法華経を重んじた日本曹洞宗の開祖である道元さんは、この円頓戒を「仏祖正伝菩薩戒」と称賛して教義に取り入れた様子である(今の禅戒一如とのたまう曹洞宗僧侶がいかに守っているかは不明だが)。
ところで、日蓮大聖人が説示した唯一守るべき戒も「金剛宝器戒」と名付けられ、その中身は「ただ南無妙法蓮華経の題目を唱え続ける」というものであり、「金剛宝器(ダイヤモンド製で宝飾がきらびやかな器)」とあるだけに「金剛不壊(ダイヤモンドのように堅固で壊すことはできない)」の戒体であるという(教行証御書)。
同名でありながら、戒の中身・戒相や、戒体はかなり異なっている。
ともあれ、飲酒をされた説が確定している日蓮大聖人であるが、やはりこの末法において小乗の戒律が有益でないとの教理を信ぜしめるため、身延入山以降は信徒から頂いたお酒を嫌わずにお飲みになったと考えてよい。
こういった事跡も説法の体現である。
大難を数多く耐え忍ばれた日蓮大聖人というお方が、お酒を嗜み愛するなど考えられないため、やはり慈悲の説法と見るべきである。
※「慈悲」は、戒律を持つ思想の師匠からすると逆の形で現れる。昔は何らかの病気の時に飲酒で治療することも多く、僧侶もそういった場合に飲酒することは許された。しかし、そういった思想の師匠の場合、自身が病気にかかったときに飲酒をすると、病気でもない弟子が仮病などで好き勝手に飲酒するかもしれないという懸念から病気の時でも飲酒しないでいる。弟子や後世の弟子がそうなるくらいならば、自分が飲酒せずに死ぬべきであり、己の不飲酒戒も破らないから己の後生のためになる、と。
とはいえ、私自身の修養としては、お酒を飲むことが成人後もありえないと断言しておく。
閑居求道者たる私が身を挺してお酒を買い求めることは考えられようか。
第一に虚弱体質であり、酒類は心身とも壊す毒であると"体感"している。
多くの未成年者は、多少の飲酒経験があろうという前提で、私の飲酒経験も素直に示した。
最後に、似るべくして似たが、関連性は無いか、たまたま似た程度の例も挙げる。
末法思想関連
煩悩具足にして非僧非俗の親鸞さん
末法無戒思想(五戒など小乗の戒は瓦器"ガキ")
イエス死後に久しくして現れる偽預言者・アンチクライスト
末法に蔓延る邪宗・仏法の中に外道教義(我"アートマン"に類する概念など)が混ざる(古くはインドの犢子部など・今は日本の民間信仰)
教理がキリスト教みたいだ、主張がイスラム教みたいだ("みたい"と特別に書くわけだからどの宗派よりも相対的に類似性が高いという意味)、という他の例示は省く。
そもそも、そういった一神教は、日本の宗派と無関係(学説によっては大乗経典がキリスト教の影響を受けたというものもあるが確証もないし一説に過ぎない)であるから、戯論のようなものであり、論外であろう。
キリスト教やイスラム教について類似点を並べることをここではしない。
起草日 20160725夕
せっかくの仏性を勿体なくする(一切世間の仏種を断ずる)邪宗邪義が許せないといえよう。
法華経自体が排他的である、といった邪説を垂れる輩もいるわけで、見方次第では一理あるものの、それは皮相的な見解であろう。
法華経や大聖人の本意は「中道」や「和」に通じているものである、と念を押したい。
それはそうと、ここからは具体的に他の宗旨と照らし合わせて考察に入る。
浅学菲才・未熟者の謗りを免れがたい愚生ながらに事例を並べて参ろう。
- 「南無妙法蓮華経」の唱題と「南無阿弥陀仏」の念仏
- お題目の信心は、自力か他力か中道か
- お題目の修行は、易行か難行か中道か
- お題目の信心は、自力か他力か中道か
- 「文底秘沈」と「密教(秘密に遺した教え)」(
禅宗の「教外別伝」にも似る?)
- 曼荼羅御本尊・唱題について様式の類例(明恵上人)
- 合掌という手印(印契)を結びながら法華経の題目という真言を唱える
- 一部門下にある己心本尊説・凡夫本仏説と唯心論的な禅宗の成仏観
- 己心という内証が絶対でもなく、色相としての御本尊と不二
- 凡夫の観心は御本尊なくして成り立たないとされる
- 御本尊や仏性とは空か絶対的存在か・大聖人の見解
- どこからどこまでが六師外道の教義となるか・寿量品所説の常住はどうか(調査不足・常楽我浄の四顛倒も四徳となる・唯識論の阿頼耶識と比べて空ではない第九識)
- 身延派日蓮宗の荒行は外道修行か通過儀礼かパフォーマンスか"いのちに合掌"への自語相違か
- どこからどこまでが六師外道の教義となるか・寿量品所説の常住はどうか(調査不足・常楽我浄の四顛倒も四徳となる・唯識論の阿頼耶識と比べて空ではない第九識)
- 大聖人の御境涯は忍難慈勝にして頭陀(「内秘菩薩行・外現是声聞(外現声聞儀)」とは?)
- 五戒などの戒律は保たず題目を唱える修行の日々を唯一の戒とす(飲酒の是非は?)
「中道」とは、「自力か他力か」という対立や「己心(内証)か色相か」という対立いずれにも当てはまり、大聖人の法門は「中道」を貫いている。これまで見た様々な教えの特徴も含まれるとすれば、「和」にも通じる。
概説すると、まず大聖人の仏法で肝要な教義・修行が、妙法蓮華経の題目を称える「南無妙法蓮華経の唱題」である。
およそ、一般的には「南無阿弥陀仏」と似ているように扱われるが、その「南無阿弥陀仏」という念仏は主に浄土真宗で「他力本願」と称するように、ただ阿弥陀仏の力で救済されるのみの代物でしかない(法然・親鸞さん以前の日本天台宗の念仏三昧などの念仏修行は真宗サイドから自力念仏と軽蔑されるし法然専修念仏義は旧来の念仏を認める明恵さんなどに非難された)。
日蓮大聖人の唱題も、法然・親鸞さんなどの念仏(専修念仏)も、余行(他宗らしい修行)を交えず、余念をも交えずに行うことが奨励されるか、強制される。
日蓮大聖人の言葉では「或は法華経を行ずる人の一口は南無妙法蓮華経・一口は南無阿弥陀仏なんど申すは飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し(秋元御書)」と、題目を唱えつつ念仏も唱えてしまえば「飯に糞を雑(まじ)える」ようなもので、推奨されないようである。
「他力本願」の「念仏」に対して「南無妙法蓮華経の唱題」が自力か他力かといえば、大聖人の「一大聖教大意」の教説を披見すると、「四性計」に定義された自力・他力・共力・無因力の「四力」のうち、「今の法華経=大聖人の法門」のありかたとして自力も他力も否定されている。
共力・無因力については説明を略しているが、同様の理論で否定されようものと拝察できる。
大聖人の「中道」の見地では、「四力」いずれの要素も含むが、いずれも絶対的でないため、絶対的に自力であるとか他力であるとか、共力や無因力であるとは区別できないとしておられる。
私の浅智から判断しても、自力でも他力でもないという「中道」である。
つまり、南無妙法蓮華経の教主である御本仏の慈悲は深くして救済の仏力法力も高いが、衆生も自ら唱えない限りは功徳が無いわけであるため、自力であって自力でなく、他力であって他力でない。
「慈悲」の概念自体が自利利他であると同時に、慈悲を受け取る側も受け取る心構えがなければ功徳を授からず、ただ慈悲を与えようとする者だけが功徳を積むのみとなる。
「広宣流布(ここでは妙法蓮華経薬王品の語)」といって日本を始めとした全世界へと大聖人の法門・妙法が必ず普く弘められるという教義も、「仏語は実にして虚しからず」や「委細に三世を知るを聖人と云う」と言われるように、「大地を的として矢を射れば必ず当たる」ことと同じく、必ず当たるとされている(諸法実相抄)。
これも本仏や妙法の仏力法力によって、諸天善神が国に災難(大聖人在世では大蒙古・モンゴル帝国からの侵攻・元寇)を起こし、そのために凡夫が目覚めて妙法を信受するとされているが、その単なる他力のみで広宣流布するのではなく、やはり凡夫たちもまた布教活動(某宗でいう折伏など)に邁進してこそ実現するという、自力も他力も不二の立場である「中道」そのものではないか。
よって、妙法に背き、誹謗までする者は地獄にも堕ちる・・・それは真宗の親鸞上人も同様の趣旨を語っている(正像末和讃)ため、見ようには真宗の念仏も自力・他力の絶対的に片方であると言えなくなる(他力本願も所詮はスローガンみたいなものだし)。
続いて、自力VS他力(または中道)ではなく、易行VS難行(または中道)という比較で考える。
題目や念仏の理想を端的に書けば、「題目は一心に信じて唱えると無量の功徳いっぱい即身成仏」であり、「念仏は一向に信じて唱えると現世の利益いっぱい極楽往生」である。
こう概観すれば、どちらも易行であることを歌っているが、反面、法華経に「難解難入・難解之法」とあったり、阿弥陀経にも「難信之法」とあるわけで、一応、そういった面から、特に法華経の真理は「不須復説」といった態度が、方便品で取られる。
しかし、その迹門である方便品ではそうされるが、本門においては「五十展転(随喜功徳品)」といい、法華経の真理を伝えて弘めることが奨励されている。
その功徳は、分別功徳品において「法華経の真理を弘める功徳は六波羅蜜の智慧波羅蜜以外の5つ全てを修行した功徳に等しい」とされ、随喜功徳品において「『人々を物質的・経済的に豊かにするばかりか小乗の説法で阿羅漢果を与えた大施主』の功徳は法華経の真理を五十番目に伝えられて喜んだ人の功徳の百千万億分の一くらい少ない」とされるほど甚大であった。
その、分別功徳品など所説の法華経=円教の功徳は、円教より古い教えである「偏教」の中で最も易行である阿弥陀仏の念仏よりも比較にならないくらい功徳が多いと、あの浄土真宗などで高祖として崇められる恵心僧都源信さんが往生要集・巻下で語っている(守護国家論を披見)。
よって、法華経の題目・唱題とは、念仏よりも易行であって功徳も大きいが、しかし逆縁の人(唱題する側と唱題を誹謗する側の双方)も多く、今生の中では難行とも言えるため、中道としておく。
その「南無妙法蓮華経(妙法蓮華経に南無・帰依する)」とは、経典の妙法蓮華経においても「妙法蓮華経という真実の教え(諸法実相・二乗作仏・女人や悪人の成仏・久遠実成など)を弘めれば功徳が六波羅蜜(菩薩の基本的な6種の修行)よりも広大である」と説かれるのみで単語自体は載らず、また、ほかの漢訳経典のどこにも載っていない。
これでは、根拠のない教えであると人々が邪見を起こし、信じてくれない。
「南無妙法蓮華経」の教義的な根拠は、「文底秘沈(開目抄: 文の底にしづめたり)」である。
つまり、妙法蓮華経などの経典には明文化されないだけで、教えは厳然と存していると大聖人は説かれている。
真言や陀羅尼や呪文を唱えて外道たるヒンドゥー教まがいの護摩を焚く密教に関しても、在世の釈尊が説かなかった「秘密の教え」であるから、文献学的にも教義的にも一見、仏教らしからぬ修行ばかりであり、胡散臭さプンプンだが、こういった教義的な根拠は類似しているとも感じる。
文底秘沈である南無妙法蓮華経は、大聖人が出世される以前の正師である「天台大師」も法華三昧懺儀の中で「南無十方佛(中略)南無妙法蓮華經 南無文殊師利菩薩・・・」と三宝や法華経の会座の衆生の中に題目を挙げており、この記述から天台大師自身は弘められずとも唱題の修行をしていたと、大聖人門下の間に伝わる。
そもそも、こういった記述が有ろうと無かろうと、大聖人は久遠実成釈迦牟尼仏および諸仏・諸菩薩・諸師(大乗仏教の馬鳴・龍樹・天親菩薩から天台・妙楽・伝教大師まで)がみな「南無妙法蓮華経」を唱えていた、と教示されている。
彼らが具体的に「南無妙法蓮華経」について述べられなかった理由は、まさに「正像末の三時」の立場で「末法」の時に弘むべき「南無妙法蓮華経」を、彼ら歴世の仏・菩薩・師は末法以前であるから述べず説かずにおいたとされる。
いわゆる「五重相対」とは、教義の優劣の基準であるのみならず、娑婆の仏である釈尊の説法・その十大弟子などの弘教が小乗の仏教(内外相対)であり、次の時代の馬鳴・龍樹・天親などの弘教が権大乗の仏教(大小相対)であり、次の時代の天台・妙楽・伝教などが法華経の一乗を奉じて一年三千を明かした実大乗の仏教(権実相対)などの「教相」にも通じている(報恩抄など参照)。
「文底秘沈」や「末法(後五百歳)に弘める」といった教義的な根拠を示されても、合理思考が強い方々には牽強付会であるように思われよう。
その場合は、真言密教・チベット密教もまた、教義的な正当性や遺伝の正統性が完全に崩れていることを考えたほうがよい。
大聖人自身も、大日如来を出世の由来などが伝わらない有名無実の仏とみなしている。
大日如来という法身仏が金剛法界宮と言う場所で秘密の教えを説法して金剛薩埵に授けたとか、龍猛という名の龍樹菩薩とされる人物が金剛薩埵が鉄塔に隠した秘密の教えを見つけ出したとか、空海さんが唐で正当な密教「純密」を受けて日本で大日如来の姿を現したとか、額面通りに取れば奇怪な話ばかり(最澄さんを相手に法論した徳一さんも空海さんに論難している)であり、禅宗の相伝説と同種であろう。
とりあえず、ここでは「文底秘沈」の教理である一念三千や南無妙法蓮華経が、密教の相伝や禅宗の相伝などに似ている感じがするという側面を示した。
禅宗といえば、特に道元さんを源流とした日本の曹洞宗で「只管打座」といい、無念無想といい、心身脱落といい、豁然大悟といい、単なる凡夫が座禅している状態でそのまま精神が「禅定」に入っているとみなし、それが仏の境地である、というかなり飛躍した成仏観が説かれている。
実際には、自分の思考を殺す無念無想などは虚無主義的である上に、その「エセ禅定」が実現できる人もそういないものである。
そもそも大乗の大般涅槃経の「一切衆生悉有仏性」の文を拡大解釈して人々が最初から仏であるといった教説もあるようだが、それらは全て邪義か、あるいは何らかの含蓄を持つ方便とも取れようが、邪義とみなせば私の浅慮かもしれないし、含蓄があると考えても思い込みに過ぎてしまう。
こういった教説を鵜呑みにしてしまったとき、「煩悩即菩提」のように、誤解が長じて仏教不要・修行不要として堕落しかねない。
日本の曹洞宗でなくとも禅宗全般が、日蓮大聖人から数々の側面より「謂己均仏」の増上慢であると非難されている(2016年6月20日記事の脚注1)。
※「一切衆生悉有仏性」について過去記事で私は、字面通りの意味がそのまま現実を表しているのではなく、方便のようなものや大乗仏教の極致をスローガンにしたもので、実際には天台教学でいう六即のように、仏教を知り、学び、修行をせねば仏性が無いに等しいと語った。
その大聖人の法門の門下においても「此の御本尊全く余所に求る事なかれ、只だ我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(日女御前御返事)」という御文を最大の根拠として自分が既に仏であるとか、御本尊や御本仏と同格であるとか、あるいは実際の御本尊を拝まなくてもよい、といった「己心本尊説」が生まれている。
場合により、「本覚思想」とも表現されるか。
この御文については、額面通りに捉えていけないことが明確である。
まず、己心という内証が絶対でもなく、色相としての御本尊と、その己心が不二である。
凡夫(特に末法の衆生)の観心は御本尊なくして成り立たないとされ、色相・外相としての御本尊ありきで、胸中・己心の御本尊が生じるものと捉えるべきか。
あるいは十界互具の理の事実存在や、己心の本来の清浄なもの・・・つまり「アマラ識(九識)」と言われるものを、その象徴たる御本尊の拝見と観心とによって覚るといえよう。
「胸中の肉団におはしますなり」に続く「是を九識心王真如の都とは申すなり」という一文を鑑みても、こう考えるほかない。
このあたりはまだ領解が浅いので、今は何とも言えないが、少なくとも御本尊不要であるとか、無神論的で自己神格化を誘導することなどがあってはならないと考える。
凡夫も仏の境涯になれるが、それは「因分」と「果分(究竟果分)」の区別があって不二だけではなく、而二の意義も立てられ、完全に御本仏と凡夫が同格であることは意味しない。
少なくとも、凡夫は御本尊ありきの観心・成仏がある、そういった理解が望ましい。
大聖人が御本尊を顕し、門下に広く授与なさったという御事跡から推して知るべし。
大聖人御図顕の御本尊は有り難く頂戴・受持する。
己心の仏界(十界互具だから九界までも?)を色相において顕した"もの(準体助詞)"であり、単なる形だけの"モノ・物(物体の名詞)"ではない。
色相において顕すことで己心の仏界(ないし九界?)を観ぜられるわけであり、外相と己心という「物質と精神」のような対立概念も「不二」である「中道」がここにも看取できる。
端的には「色心不二」や「物心一如」であるが、やはり御本尊を単なる形だけの"モノ・物"と思ってはならない。
ただ、中道の原義に基づくと「中道=仮名=空」であるし、物(色相)にせよ心(己心)にせよ執着してはならない・・・それは中論の所説に基づきすぎた原理主義的教義であり、単純に広義の「中道」、今までの「自力・他力」や「易行・難行」といった二元対立に対する「中道」という定義でよい。
また、日蓮大聖人の法門において信心を持つならば、そういった四法印・空の「第一義諦・勝義諦・真諦」に執着しても齟齬があってだね・・・。
この信心においては、広大無辺の功徳が具わる「唯一無二」、「絶対」、「末法万年から未来の果てまで不滅の大宝」として信ずべきであろう。
この信心は、仏教の「空」に背く外道義と見られるのであろうか?
あるいは「空」の理解とは別に、功徳を積む修行として両立させてよいか?
また、大聖人の法門において重要な法華経寿量品、そこに説かれる「常住」とは、常見であろうか?方便ではあるまい。どのような含蓄があるか?
諸賢の御教示を乞うばかりである。
※2016年11月~翌1月投稿の新しい見解→http://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/hokekyo-monteigi.html
外道といえば、日蓮大聖人と直接関係のない話に変わるが、身延派の日蓮宗には、大荒行という冬期の行事(毎年11月1日から100日間)があり、同宗の大本山・中山法華経寺にて行われる。
主に若い僧侶の通過儀礼であるが、志のある者はまた何度も挑もうとするらしい。
それで、特に若い僧侶・「初行」と呼ばれる初参加の者から、しばしば死者が発生している。
様々な意見や疑惑はあるが、この記事で取り上げるべきものがある。
歴史的に不仲である日蓮某宗は、この大荒行について「釈尊が禁止された外道・バラモンの酷烈な修行と同じであって大聖人と関係もなく、謗法呵責もしない癖にこんな修行を取る本末転倒」と非難し、「極楽寺良寛(忍性・後述)の如き尊敬を集めたがるパフォーマンス」と断じ、加えて「『いのちに合掌』という綺麗なスローガンと微塵も符合しない自語相違」とも嘲笑していた。
反論の形ではないが、日蓮宗の僧侶としては、釈尊が禁止された酷烈な修行に似る大荒行について「僧侶たる者、釈尊の6年間の苦行のようにこういった心身の苦悩を経験していかねばならない」と主張しているようである。
私自身は日蓮某宗側の主張に同感である上、娑婆で成道する前の釈尊が経験されたとしても、後の仏教徒が進んで取り入れる必要は無いように思う。
しかし、この際、取り入れたい者がどういう思惑であれ、仮にも彼ら修行者の菩提が養われるならば、自由に取り入れて構わないとも思っている。
さて、大聖人は多くの大難を耐え忍ばれ、ある時は、冬が極寒となる佐渡島に流されて現地のあばら家に3年もお過ごしになるなど、頭陀の行者でもある。
大聖人ご自身は「法華経の行者」であって頭陀に関しては触れることは無かったが、私は個人的にこの御振舞も敬うべきと思っている。
そういった頭陀の御振舞は、大聖人が自称される「法華経の行者」の所以である、大難を受けて法華経を身読・色読したという根拠にも通じている。
大聖人の法門は「末法無戒」ともよく言われ、事実、身延の山林に入られてからの大聖人は、信徒からの御供養のお酒なども口にされ、いわゆる不飲酒戒をお守りの様子ではなかった。
大聖人ご自身は御書の中で「日蓮は無戒の比丘なり」、「日蓮は(中略)持戒破戒にも闕て無戒の僧」とする記述があるが、「今日蓮は聖にも賢にも非ず持戒にも無戒にも有智にも無智も当らず」とする記述もあり、場合によって立場の示し方が変わっている。
それはそうとして、教義において考えれば、身延派の日蓮宗も、富士派の日蓮正宗も、分派した勢力や教団も、五戒から具足戒(二百五十戒)まで守ろうという教義はほぼ無い(個人レベルは別の話・具足戒なら四分律を持ったとされる深草元政さんなど)。
実際、日蓮大聖人の法門において戒律を持っても、伝教大師所説と伝承される末法燈明記には「設末法中。有持戒者。既是恠異。如市有虎。此誰可信。(御書では語句が異なる訓読文を四信五品抄で引用)」と書かれ、これが支持されている。
端的に言うと、末法の世(日本仏教では西暦1052年に当たる永承7年以降)では多くの戒律が時代遅れで、多くの僧俗にとって到底維持できず、その末法の世において戒律を保つ人がいれば、それは街の中に虎や原始人が現れることと同じくらい奇怪である、とされる。
伝教大師(とされる別人説のある筆者)の「此誰可信=誰がこれを信じられようか」という記述については当たらず、日蓮大聖人の時代にも「忍性(極楽寺良観)」という僧侶が橋の建設や難病患者救済などの慈善事業を行ったり、その「具足戒」を持って人々から崇拝されたとされ、この忍性さんを日蓮大聖人は偽善者として「律国賊」の根拠にもした。
他の御書には「正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し」や「伝教大師の市の虎の事」と示される。
しかし、同じく伝教大師が定めた「大乗の戒=円頓戒」では、先の飲酒に関連して言うと、自分が飲むことは当然禁止の上に、他人に飲酒を勧めたり強引に飲ませても同罪とする。
大乗仏教の慈悲・自利利他の精神においては、「勧善懲悪」が表れており、この戒相を考えると、まさしくその教理が反映されていよう。
この場合は「勧善懲悪」を通り越して「悪を勧めても同様に懲罰がある」と言い換えられる。
この円頓戒の原典は梵網経であり、厳密な名称は「十重四十八軽戒」とされる。
その梵網経では、美称として「金剛宝戒」ともされる。
なお、比叡山出身であって法華経を重んじた日本曹洞宗の開祖である道元さんは、この円頓戒を「仏祖正伝菩薩戒」と称賛して教義に取り入れた様子である(今の禅戒一如とのたまう曹洞宗僧侶がいかに守っているかは不明だが)。
ところで、日蓮大聖人が説示した唯一守るべき戒も「金剛宝器戒」と名付けられ、その中身は「ただ南無妙法蓮華経の題目を唱え続ける」というものであり、「金剛宝器(ダイヤモンド製で宝飾がきらびやかな器)」とあるだけに「金剛不壊(ダイヤモンドのように堅固で壊すことはできない)」の戒体であるという(教行証御書)。
同名でありながら、戒の中身・戒相や、戒体はかなり異なっている。
ともあれ、飲酒をされた説が確定している日蓮大聖人であるが、やはりこの末法において小乗の戒律が有益でないとの教理を信ぜしめるため、身延入山以降は信徒から頂いたお酒を嫌わずにお飲みになったと考えてよい。
こういった事跡も説法の体現である。
大難を数多く耐え忍ばれた日蓮大聖人というお方が、お酒を嗜み愛するなど考えられないため、やはり慈悲の説法と見るべきである。
※「慈悲」は、戒律を持つ思想の師匠からすると逆の形で現れる。昔は何らかの病気の時に飲酒で治療することも多く、僧侶もそういった場合に飲酒することは許された。しかし、そういった思想の師匠の場合、自身が病気にかかったときに飲酒をすると、病気でもない弟子が仮病などで好き勝手に飲酒するかもしれないという懸念から病気の時でも飲酒しないでいる。弟子や後世の弟子がそうなるくらいならば、自分が飲酒せずに死ぬべきであり、己の不飲酒戒も破らないから己の後生のためになる、と。
とはいえ、私自身の修養としては、お酒を飲むことが成人後もありえないと断言しておく。
閑居求道者たる私が身を挺してお酒を買い求めることは考えられようか。
第一に虚弱体質であり、酒類は心身とも壊す毒であると"体感"している。
多くの未成年者は、多少の飲酒経験があろうという前提で、私の飲酒経験も素直に示した。
最後に、似るべくして似たが、関連性は無いか、たまたま似た程度の例も挙げる。
末法思想関連
煩悩具足にして非僧非俗の親鸞さん
末法無戒思想(五戒など小乗の戒は瓦器"ガキ")
イエス死後に久しくして現れる偽預言者・アンチクライスト
末法に蔓延る邪宗・仏法の中に外道教義(我"アートマン"に類する概念など)が混ざる(古くはインドの犢子部など・今は日本の民間信仰)
教理がキリスト教みたいだ、主張がイスラム教みたいだ("みたい"と特別に書くわけだからどの宗派よりも相対的に類似性が高いという意味)、という他の例示は省く。
そもそも、そういった一神教は、日本の宗派と無関係(学説によっては大乗経典がキリスト教の影響を受けたというものもあるが確証もないし一説に過ぎない)であるから、戯論のようなものであり、論外であろう。
キリスト教やイスラム教について類似点を並べることをここではしない。
起草日 20160725夕
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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。
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