2017年1月17日火曜日

法華教学の再確認(諸法実相・第一義・文底義の視座で)

中観派かぶれな私の立場で、法華経(諸漢訳・梵語経典とも参照)の「第一義」について再確認する(日蓮大聖人・天台大師・世親等諸菩薩諸師の見解も載せる)。
浅学菲才の徒による生半可の理解の披瀝は慙愧に堪えない思いであるが、何とか記録したい。
諸賢より、一斑全豹・牽強付会との謗りもあろうが、忌憚なく記録したい。
経典解釈は、今まで、高難度の領域として避ける傾向はあったが、断片的な理解を紡ぎ合わせてゆけたので、拙くもこの記事でまとめあげたい。

今の私の解釈で、本門・如来寿量品の深遠なる玄義は、改めて「久遠実成」という特殊ながらも全仏教に通じて諸経を包括し、しかも超越しているものと確信できた。
「久遠実成」とは、極端なドグマでなく、セクト主義を助長するものでもなく、そのように取る人(最近までの私も同類)がいるだけのことであった、と実感した。
私の理解に沿えば、日蓮大聖人や天台大師などが法華経を最勝・第一として称えた真意も分かる(後述する絶待妙の立場で法華玄義の法華總括衆經という一文の真意など)。
そうして真に法華経と法華経以外の経典・教義も尊重し合えるようになる(神と人間のような絶対的上下関係を強いていない)。

まず「法華経」という名の経典は、一般的に鳩摩羅什三蔵の漢訳妙法蓮華経(二十七品ないし二十八品)が認知されるものであるが、その他の異なる漢訳(正法華経など)や元となる梵語などの経典のみならず、経典としての法華経の中にまた様々な「法華経」が登場している。
まだ譬喩品など説かれきっていない段階(迹門)で指された「此の経・斯の経・妙法華経」という立場の法華経や、釈尊が過去世の修行として説く常不軽菩薩が受持していた「二十四文字の法華経(羅什訳: 我深敬汝等。不敢輕慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。當得作佛。 竺法護の訳では27文字)」や、その常不軽菩薩の臨終に聞いた「威音王仏所説の二十千万億偈の法華経」などがある。
色々な法華経が説かれるが、つまり、「文字や言葉にされた法華経」の本源となる「法華経(諸法実相・第一義に仮名を付けたもの)」がある。
我々現世の凡夫が法華経より諸法実相・第一義に通じる道(悟り・解脱・成仏への道)として、まずは、この「法華経」という名前が同じでも、指す所の異なる(名同体異)の様々な「法華経」がある点を理解する必要がある。

而二不二(二而不二、不二而二)の義で弁別しよう。
経典としての法華経も、爾前(五時八教などにおける釈尊が法華経を説く以前の時)の経典と同じ「経典」であり、方便の説を多く込めて爾前の経典とは「不二」、平等である。
経典としての法華経は迹門でも本門でも荘厳な世界(多宝塔や六万恒河沙地涌菩薩の出現・虚空会など)が演出され、壮大な譬喩や因縁(他国土・過去世など)の説話もふんだんに込められているので、方便は多く入っており、それを全て真実とみなして信仰することもよいが、第一義(法華経と仮に名付けられた真理)においてはそうでないと理解する必要がある。
また、法華経と名付けられた真理=諸法実相・第一義を明確に示している点では「而二」である。
つまり、法華経は、紛れもなく諸経の中で最勝だが、同じく不二の立場である諸経とは釈尊の経典として不二で等しくもある。
日蓮大聖人の法門においては、諸経において一応は法華経が最勝であるが、経典自体を称える範疇に留まらず、その進歩のため、過去の諸師なかんずく天台大師智顗さんが法華経の理を究め、伝教大師最澄さんがその理を日本に伝え、日蓮大聖人が日本で法華経の理・義の深奥「南無妙法蓮華経」を顕したとする教義を強調する。

※「方便」は「方便」でも、妙法蓮華経方便品「正直捨方便・但説無上道」の二句は、教主釈尊が「鈍根小智人」に配慮した爾前経のような説き方(対機説法など)をせず、思い切って説ける喜びを表した偈の中の二句であるから、我々に対して「爾前経という過去の方便の教えを捨てよ」と命じられた言葉ではない。「鈍根小智人(罪根深重及増上慢)」の衆生(四衆)が、この偈の直前に去ったシーンがある。「鈍根小智人」が去った後も二乗作仏・久遠成道を示すために様々な譬喩を用い、方便についても「善方便」を用いていると説く。仏教の色々な教義は、他宗教と同様のオカルト・おとぎ話であるように見る人もいるが、経典の所説は全て善方便である。「諸法実相・第一義」を仮に名付けた教義も「俗諦」の方便である。「仏語は実にして虚からず」である。後述のように全て信ずべし。「嘘じゃないから鵜呑みにしろ」という意味ではなく、ここまで・これからの文章と同様の理解で真意が分かる。経典の所説でない教義は別の話だが。



以下からが本題

法華経を読む上で留意すべき二項の両立

・経典の内容を実話と信じて諸仏の存在を認める信仰(一往・世俗諦)
・それら信じる対象が釈尊の慈悲の顕れである方便という理解(再往・真諦に準ずる世俗諦)

・・・法華経では三世十方諸仏が釈尊の分身であると説く(羅什訳の見宝塔品・嘱累品などだが竺法護訳では"分身"の語が確認できない。阿弥陀仏・阿閦仏なども分身諸仏の一分であると見てよいが法華経の理を敷衍して飛躍した例が大日如来など法身仏の教義・後述)。
私は今年に入ってからも、法華経・大乗仏教の世界観を、諸宗教義の悪影響で実体論的に認識し続けていたため(同時に無量の存在・無辺の世界は非算数所知という譬喩の一種とも捉えて同居させていた)、釈尊・釈迦牟尼仏・釈迦如来という仏が、娑婆世界という無量の国土の一国に出世した、無量の諸仏の中の一仏という認識が強かったが、今はむしろ法華経の文に依ってこそ、真実においては釈尊が釈尊であって釈尊でない唯一の仏(報身)であると分かった。
法華経には、諸仏や諸菩薩が異国から、娑婆で法華経を説く釈尊のために訪ねてくるシーンがいくつもあることも、深読み(文底?)すれば、諸仏や諸菩薩は釈尊のために生じた方便の存在と判断できる(信仰の立場ではそう考えるべきでないと今までに考えていたが、方便だからこそ諸仏も諸菩薩も改めて認められると理解できた)。
もし我々も成仏するならば、久遠成道の釈尊(本仏・概念・法身、実体論ではなく非有非無の何か)の一分となろうか(仏の概念が釈迦仏に認定されて釈迦仏が多くの仏とその国土と眷属を説いたので釈迦仏から生じている・・・安易な認識論に陥る?迷っちゃう)。

釈尊は、娑婆で成道した最初の仏であり、事実上はそうに違いない。
しかし、まず原始仏教(とされる時代、下っても紀元前)では仮に過去の七仏を説いた。
尤も、実際に偉大な悟り(無上覚・大菩提)を得た方は釈尊以前にもいらっしゃったかもしれないが、今の私としては方便として必要に応じて過去の七仏を説いたと見ている。
過去仏を認めても、小乗仏教・上座部仏教においては、ひたすらに釈尊一仏(上座部仏教でも未来の弥勒仏を信じる場合がある)を重んじ、民間信仰や寺院の祭祀儀礼ではバラモン教(ブラーフマナ・インド思想・ヒンドゥー教)に由来する神々や生物も祀る(パリッタ云々などの詳細は過去記事)。
神のことはよいとして、大乗仏教では、過去仏の教理を拡張して様々な諸仏の存在を説き、無数の諸仏や仏国土の存在を認めた。
本末転倒にならない範囲では、一切天・神、諸仏の存在を認めて仮に崇拝してもよかろうか。

改めて法華経では釈尊の真意に立ち返った極理が説かれているものと拝察する。
その上で、一切天・神、諸仏の存在も再度認め得るが、真実としては釈尊より先に衆生(有情・生命体)としての仏を知ることはできず、またこの真実を知って改めて如来寿量品の「不滅(常住此説法・在此而説法)」や「柔和質直者・則皆見我身」など、法華経の教説を深く実感できよう。
※寿量品の「不滅(常住此説法・在此而説法)」は第一義において「あの世で仏様が私たちを見守ってくださる」という意味ではなかろうが、信仰・修行者の立場としては、そういった見解で自律を心掛けてもよいと思う。真実は私に分からないから、もしかすると本当に「私を見守っている」かもしれないし、信仰とはそのように振る舞って然るべきである。そうでないと、少欲知足・精進勤修などはなかなか維持されない者もいる。奉じている仏に恥じない生活(言動・威儀)が大事である。

自室安置本尊 御本尊相貌

多宝如来と釈尊が同じ会座にいた部分については、これも多宝如来が「仮に如来と称された(表現された・譬えられた)何らかの存在や事物」であると見ている。
天台大師は法華文句巻八下に「多宝法仏を表し、釈尊報仏を表し、分身応仏を表す (多寶表法佛。釋尊表報佛。分身表應佛。)」として、いわゆる三身論に沿って多宝如来を「法仏=法身の仏」であると見ているが、私もこれに同意し、真理・法身をここでは多宝塔と中の仏身に譬えて経に説いたろう(経文で色相をなした存在としてはみな応身と思うべきか)。
日蓮大聖人の御本尊も、大概、仏界の衆生は「南無多宝如来・南無釈迦牟尼仏」として並座の両尊のみが勧請され(私の「自室安置本尊」など一部の例は「三世諸仏・分身等諸仏」が勧請される場合もある)、法身・報身ともいえる両尊(中央の南無妙法蓮華経の首題は三身具足・十界互具・本門の教主釈尊)のみで、応身たる諸仏が法華経の会座に居る意義が成立しよう(特別に記す場合は時間と空間とを分けた三世・分身等の諸仏の名に総合する。しかし弘安以降の本尊は以前の金胎両界の大日如来と同じく名が認められないので方便的に書くものであったか)。
ついでに言うと、三身とは「三即一」で報身に帰するため、「報身たる教主釈尊」によって「法身の真理」が開示され、「方便の応身(諸経ないし文字の法華経)」も開示されたものである(経典・法華経において教主釈尊と真理の法と方便の諸仏は不二だが教主釈尊が第一であり依処である)。

「法華経」を説く釈尊のために過去世で「妙法華経(便宜上略した表現)」を聞いて成道したとされる多宝如来が出現し、宝塔の中の多宝如来を拝見するために諸仏が集まったという部分も、真諦・第一義諦(文底義?)に依って解釈することができる。
日蓮大聖人がしばしば「法華経への誹謗は三世十方諸仏・諸菩薩への誹謗であり大謗法である」、「三世十方諸仏・諸菩薩は法華経を聞いて成仏した」という教説をされるが、この真諦・第一義諦に通じた理解と言える。
※法華経や大聖人を嫌う人々であっても般若経典や中論を深く理解した人は言葉を置き換えて感情の色眼鏡を外して吟味すれば誰でも理解できよう。小乗仏教以来の「法を見る者は我(仏)を見る、我を見る者は法を見る(パーリ経蔵・相応部22.87経)」という教説とは同義であると考えてよい。法華経は大乗と小乗など様々な対立概念を無くそうとした教説がたくさん看取され、正に「実大乗」であると実感する。釈尊滅後や釈尊をお目にかかれない衆生をして「真実をどのように真実と見るか」を考え直させる教示は、小乗経典にも実大乗の法華経にもしっかりと含まれており、言葉は違っても真意は同じである。「第一義としての法華経」を信解して受持する者は、その法眼によって自然の事物に真理を見られる利益がある。「経典(俗諦)としての法華経」がその鏡であり、この法華経なくして第一義の法華経には通達しない(私が多々引く中論24章10偈"若不依俗諦..."の如し)。
※4世紀ころの世親(天親・婆薮槃豆)菩薩の「妙法蓮華経憂波提舍(法華論)」には法華経について十七の名号が唱えられており、その中に「九名、能生一切諸佛經・十名、一切諸佛之道場」という部分があり、天台大師以前(?)から法華経の真理を知る人がそれなりにいて可能な限り宣伝されていたと考えてよい。と思ったが、私の「分身説」ほど穿った見方ではないようである。単に「法華経と名付けられた真理」を一切諸仏が等しく悟っている、と経文通りに見てこう名付けたようである。

一応、法華経の中に名前がある阿弥陀・阿閦などの如来も釈尊の方便として実在するかのように説かれていて信仰できるかもしれないが、本来・第一義においては釈尊が教主であるとした上でこそ諸仏への信仰が成り立つと見てよい(弥陀・観音などを第一と立てる信仰は本末転倒)。
文献学・合理主義の見解に依り、インドのガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ、シャーキャムニ・ブッダ)さんが言葉で説いていないとみなしても、後の僧侶が彼の言葉や教説を拡張して法理に随って示された存在(方便)となるので、やはり彼・釈尊を親や本源とみなさねばならない。
経典を読む者がどう受け取るかによるが、私は様々に幅広く仏法を学び、日頃に我が身へ当ててきたわけで、宗派は異なっても多くの教説が法華経の教説と繋がって見える。
「事物がそのまま真理に繋がっている」とか、「事物が真理の現れであり、無為自然の森羅万象からいかに仏法の道理を見出せるか」という言い方がされる。
・・・まさか、妄想や幻覚で視界(脳で歪めるプロセス)にホトケサマを浮かべるということではない。
心の中で自己の仏性・仏界・法身を見ることは、大乗仏教の真髄であるから讃えられる。

なお、中古天台・台密の比叡山延暦寺では、「釈迦の内証は大日なり(溪嵐拾葉集: 釋迦内證大日也大日外用釋迦也又内證外用不二平等也 乃至 久遠成道佛是中臺毘盧遮那本地常身也)」などと説明される。
この説明は、大日如来=毘盧遮那仏が、華厳経などで仏の三身の「法身」と定義され、釈尊が法身に対して「応身」と定義されることに基づいていると見る。
自然と具わっている「法(法身・本地)=大日如来」の、現れ(応現・垂迹)が応身の仏であり、釈尊だとする。
しかし、これは、いわゆる「蝙蝠論法」である(妙密上人御消息: 善無畏・金剛智・不空等は大日経を師として法華経をよむ。 乃至 「法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死す」云云。例せば外道は仏経をよめども外道と同じ。蝙蝠が昼を夜と見るが如し)。
「蝙蝠論法」を換言すると「削足適履(履きたい靴に合わせて足の指を切る)」、「釈迦仏像の手を切断して阿弥陀仏の手印を結ばせる(立正安国論: 切釋迦之手指結彌陀之印相)」ようなものか。
日蓮大聖人がしばしば非難される「法華経と大日経の理同事勝」や「真言密教の訳経僧による一念三千の義の盗作」はこれに当たる。

法華経に基づくならば、法身の仏は大日如来ではなく、久遠成道(久遠実成)の釈尊(釈迦如来)でなければならない(日蓮本仏論においては釈尊の内証=久遠元初自受用報身日蓮大聖人と本門の題目の南無妙法蓮華経および一部教団では弘安二年の大御本尊が該当するか)。
その法身仏を、仮に「大日如来」と名付けたいならば、もう好きにしてよい。
中道の立場、第一義の観点から、今の私はそう言える。
小乗仏典、大乗の経論、法華経などに広く見られる「根源の第一義」を、わざわざ大日如来の名に置き換えて「即事而真」と思うべく大日如来を称える彼らについて、非難のしようが無くなった。

※法華教学における三身(法身報身応身)について簡単なメモ・・・「法・空・真理・真如実相・法身の仏(内心・外相・万物)は無始無終であり存在は非有非無であり第一義・真理だが、悟る人という報身がいなければ証明されないので不二であり、この悟る人=報身の仏が説くことは教義もすべて応身の仏である。法身応身報身の仏(人とも)に収まる」 「日蓮宗常用開経偈・・・能詮は報身所詮は法身色相の文字は即ち是れ応身なり」 「法身・所成(知られるべき境地)、報身・能成(知ることができる智慧)、境智冥合人即法・法即人・人法体一・人法一箇・不二」、「報身の中に三身を論ず、報中論三」 それで、この三身の配当は天台大師だと既述の通り「多宝法仏を表し、釈尊報仏を表し、分身応仏を表す」として私もおよそ同意するが、もう少しアレンジすると、内証・真理の久遠実成(および常住)釈迦如来が法身であり、その境を知って真理を説いた智慧ある釈尊が報身であり、説かれた経典・法華経や諸々の教義が応身とも言える(三身は三宝にも似る?)。なお、4世紀ころの世親(天親・婆薮槃豆)菩薩の「妙法蓮華経憂波提舍(法華論)」は三身を「示現三種佛菩提故。一者...」と法華経より説明している。世親菩薩は寿量品における久遠実成の仏の振る舞いを現在の釈尊が語っているままに、久遠実成の仏を報身とみなしているようである。



そういえば、今の私も法華経について、諸経論・諸師の法(ダルマ、ドクトリン・・・ドグマ?アルティメットトゥルース?)に依りながら折衷して私なりの解釈をしようとしている。
今の私の志向するところは「真理の法について、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経と名付け、台密などの密教では大日如来と名付けているだけで正体は一緒だから、どの名前にせよ、三世十方諸仏や諸経の根源は共通する(≒修行法は違っても悟り・解脱に向いている)」という宗教多元主義的な見解に達するであろう(日蓮宗や日蓮正宗では密教の大日如来は単なる理仏の域を過ぎず、しかもそれを崇めることは無意味であると区別している。大日経は理仏・法身のはずの大日如来が説法するという奇怪なスタンスの内容だが私が肯定的に解釈するならば既述の多宝如来に関する見解と同様になるが多々異なりもする)。
私(未成年・教団未所属)の教学に対する姿勢は、その宗教多元主義や個人主義など現代的な自由・民主らしく、インターネットに大いに依存するものであり、諸宗の人もその傾向が出やすい。

日蓮大聖人・お題目の信仰・信奉においてはいかがなものか、と考えるが、そうしてまた大聖人・題目の信仰の裏付けに繋がることを期待している。
手放しに「みんな仏様の弟子なんだ!なんでもいいじゃん!」と言い放つつもりはない(立正安国論には主人の言葉で「同じ仏子を責めるのではなく仏子の中の謗法をにくんでいる」と述懐される)。
少なくとも、日蓮大聖人の法縁(2009年・父方の祖父逝去に際して千葉県鴨川市の父の実家に寄った時が最初だが小湊地域の聖地巡礼はしていない)は偉大であろうし、これは大いに尊重せねばならない(インターネットで創価学会や顕正会のネタに興味を引かれた一面も大きいが)。
現世の修行・世俗諦において日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の法門を以て他宗を破る布教をされたように、私もその信心を保つ必要があると思っている。
故に、法華経文底義・諸法実相・第一義=客観的真理(過去記事で定義)から見た諸経も諸教(キリスト教など一神教も含む)の「主観的真理(過去記事で定義)」も否定しきれなくなるが、現世の凡夫の身は事実として生きている以上、現世のならいとして邪義・異なった主観的真理を破らねばならないこととなる(私は大胆に行わないでおくが少なくとも日蓮大聖人および現代の一部門下はその必要性を自覚している)。



さて、「第一義(空・縁起・中道・言語道断心行所滅)」に通じる理解を得ることは、法華経だけを見ても、法華経以外の経典だけを見ても、機根の高い人は得ることが出来よう(豁然大悟・頓悟する)。
また、釈尊のように生身の仏(第一義に通じた覚者)より教えを受けずに独り瞑想・観想をしても、得られる可能性は0でない。
しかし、大概、それほどの超人はいない(大聖人教学では末法下機下根の凡夫・特に現代人は学校教育やテレビ番組などの悪影響で客観・合理思考の価値判断が・・・)。
私が半ばに得られている状態は、法華経の信心に発端して諸経・諸教を広く見て再び法華経の理解に戻ったプロセスに因る。
法華経(南無妙法蓮華経)の信心と、仏教の広い研鑽とが兼ねられ、法華経の故郷の地に着き、条件が満足するときに伸びた智慧の大樹が第一義の天を衝こうとする(まだ衝ききらない・私の成仏を証明できていない)。
文字の法華経と余経とが相互に関与した上で、真理・真諦・文底・第一義の法華経に「見(まみ)える」こととなろう(法華経の第一義・文底義から諸経を再度俯瞰して法華経の第一義を根源とした教説であると再発見する境地を絶待妙と言う。十法界明因果抄: 法華経は爾前の経を離れず爾前の経は法華経を離れず、是を妙法と言う。此の覚り起りて後は行者・阿含・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦し法華経を読む人なり)。

こういった第一義・諸法実相の理解や体得も、「信」を起こすことが前提である。
方便品の以信得入は有名だが、先ほど私が引いた如来寿量品の「柔和質直者」と似た一句に「質直意柔軟」という部分があり、その一つ前の句が「衆生既信伏」となっている(漢訳ではそうだが梵語原典でどうかは解読できない。梵語に依拠した英訳には"upright (or pious)"とあり羅什訳後二十八品に依拠した英訳には"faithful"とある)。
「柔和質直なる者(mṛdu mārdavā)」もまた信心の素直な人を指しているのかもしれない。
それはそうとしても、やはり釈尊の教説への信受は重要である。

前段にあった「諸仏(過去・現在・未来の三世と十方の諸仏)」の存在や、法華経に基づいた多宝如来と釈尊(釈迦如来)の同座や、釈尊などが現した三十二相(妙相)・神通力(神力)について、その内の一部分を神聖視・一辺倒で信ずれば本末転倒だが、全てが第一義に通じた「正しい方便・善良な方便」としては平等に信じなければならない。
それらを確実に手繰り寄せて一歩一歩と踏みしめて経過するところに、五里霧中の三界で「第一義」の像が、徐々に鮮明になると考える。
種々の説法の含意を理解する。
法眼を以て文底の義を見抜く。
とでも言えばよかろうか、言葉が見当たらないが、強いて言う。

もちろん、無量の教説・教義の全てを、試験勉強みたいに暗記したりして学ぶ必要は無く(必要を感じる人は自由にどうぞ)、ただ今に受けた教え・学んだことを信ずる姿勢を言っている。
この信心が現世で最高の宝であろう。
第一義を得るための最大要因として法華経に示された。
この信心という因は、端的に言えば一念三千であって十界互具であって因果倶時の成仏であっててだね・・・。

つまり、この信心を決定している人が既に仏である、とも創○系で言われている。
釈尊など、諸々の大徳は、様々なプロセスで法華経の第一義に達したであろうが、末法の衆生は、その第一義の名である南無妙法蓮華経の信心・修行を日蓮大聖人から教わって(下種されて)実践するので、既にその第一義を直に拝しているらしい。
これについては何とも言えない現状である。
その信心と同時に、こういった教学や理解によってようやく得られるのであろうか。
※以信代慧の妙理は善いようだが、人間の実際問題は、知能において曲解の性質を孕み、信が不足しているときには知識が慢心を増長し、教説の信が有っても慈悲の理解を欠いていれば自他に三毒をもたらしかねない。複雑な問題ではあるが、巧く浄信で制御せねばならない。

私も、先述の通り、何らかの法縁・仏縁なくしては、今の研鑽が無かったであろう。
まさか、それについて「月を指す指は何でもよい」とか「鰯の頭を縁としてもよい」とは言わない。
偏に南無妙法蓮華経の妙用に因る・縁る結果と信じている。
南無妙法蓮華経の信心・唱題が然らしむる智慧の功徳である。





起草日: 20161123
起草日から見て最近、馬鳴菩薩の仏所行讃(曇無讖さんの漢訳ほか参考に梵語も)を披見した。
仏教ファンタジーとまで思える壮大な物語は、史的事実に即して法理を含みつつ、文学的・詩的に魅力を持たせた表現様式がとられる(詩の要素はMahākāvya、カーヴィヤと称される?)。
破魔品は壮大でコミカルな表現が受ける。
釈尊が「超人」のようにも描かれるが、人間的叙情表現も描かれる。
それらは馬鳴菩薩が第一義に達した境地から成し得る、柔軟な筆致であった。
史学的・文献学的に、竜樹菩薩や馬鳴菩薩が法華経を知らなかったとしても、間違いなく、彼らは法華経所説の真理・第一義や諸法実相に通達している。
ましてや、彼らの言葉を漢訳文章にした鳩摩羅什さんや曇無讖さんは法華経・涅槃経(大乗)に関わっている。
仏所行讃・中論・大智度論(過去記事でも書いた通り文献学的疑義は別)を、浅学菲才の私が微力を尽くして管見の限りに読んだ印象である。

※竜樹菩薩・馬鳴菩薩(および天親菩薩など)と第一義の話に関しては日蓮大聖人の教示による。時代によって時代に適った法を広めた説である。主に撰時抄に意義が示される。大聖人は「南無妙法蓮華経」が内証そのものと断言する。法華経や題目を嫌う人でも、信仰心あらば、彼ら大乗諸菩薩の内証・悟りはおおよそ共通していることを認められるはずである。(撰時抄: 竜樹・天親等は内心には存ぜさせ給うといえども言には此の義を宣べ給はず 乃至 多くの故あり一には彼の時には機なし・二には時なし・三には迹化なれば付嘱せられ給はず 報恩抄: されば内証は同じけれども法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり ほか: 月氏の迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師・漢土の天台・妙楽・日本の伝教大師等・内には之を知ると雖も外に之を伝えず第三の秘法今に残す所なり)

当記事の理解には「主観的真理・客観的真理」と仮に弁別した記事を併せて読む(起草日や投稿日の順序としてはそちらが先に読まれるべきだが)と非常に理解を深められよう。
改めて、この「2つの真理」について当記事になぞらえて説明する。
釈尊の様々な説法にしても日蓮大聖人の振る舞いや教義にしても、自身の存在意義・他者の教導、といった現世で行うに適した「主観的真理」に随った行動や発言がある(それにつけても天台大師の伝承にある弥陀名号の念仏・法華経読誦の臨終は主観的真理同士ですら相容れないので判断が難しいが妙法と麁法の中和というつもりで行ったか・・・正宗系教団ではタブーの話)。
合理主義の現代、「主観的」という言葉には即座に「独善」という印象が付随しがちであるが、むしろ、仏教では自身の行いとしては「主観性」こそ重んじねばならない。
主観的真理を持たずして客観的真理には通じない(主観的真理に悪い拘泥をしろとも言わない)・・・当該記事において竜樹菩薩の中論を多く援用した。
化他行においても「自他不二」の発想から自身の信念・信仰に基づいた行いと同じように導くべき確信が大乗仏教にはあるが、人それぞれ価値観が異なるから多少の配慮なども必要ではあろう、ということであって、あくまでも主観的真理は過度でない限り、尊重されるものである(現代の人権思想にも通じており、その主観的真理がアイデンティティとなってレゾンデートルとなっているからむしろ否定すべきでないとされる)。

客観的真理は、世間でいう「客観的なもの」とは大きく異なり、当記事などで仮に「第一義(第一義諦)」と称しているように認識できて認識できないような真理である。
科学的思考も究竟は「空・諸行無常(物質的なものについてはエントロピー増大則とかいう)」に繋がるので、ある意味では私がいう客観的真理に通じるが、いわゆる天台教学の「蔵教・析空観」と同レベルであるし、そもそも大衆認知=客観的と言っても人間の共同体の総意はその時空(時間・空間)の中の人間の主観性に過ぎない。
そのほか現代的民間信仰ともいうべき世俗的科学知識は粗末であり、誤解や迷信も混ざっており、とても「客観的」でない。
私のいう客観的真理とは、「実体論的に存在する法」でも「経典の言葉」でもなく、言語道断・心行所滅・不可説のものであり、釈尊・釈迦牟尼世尊(大乗非仏説論の見解で一部教説に限ることを含む)にしても日蓮大聖人にしても竜樹菩薩にしても天台大師にしても、言葉(俗諦)が異なって中身が共通した「客観的真理」に通じていたと考えてよい。
竜樹菩薩・中論24章18偈=空・仮名・中道義と、天台教学・三諦=空・仮・中の語義との相違性を挙げる人がいるが、その相違性は枝葉末節であり、彼らの真意・内証は一緒である。
日蓮大聖人の場合は、この「客観的真理=第一義=不可説」を「南無妙法蓮華経」の七字に表され、これを唱える修行を末法の世に残された、ということになる。

日蓮大聖人や、数々の教説の流れが通じる天台教学に関して誤謬性(文章・文証の誤った引用や解釈や世間事象の予言など)を挙げる人も多くいるが、それらはあくまでも先述の主観的真理に基づく方便・補助などを目的とした枝葉末節の部分である(無視せよという意味ではない)。
そういった点には、人間、誰しも誤りがあろうし(祖師無謬説で信じるのも自由だが)キリのないモグラ叩きに陥る修羅地獄であるから、原始仏典(パーリ経蔵・小部に多い)や過去の大徳は「他者の見解を論う・人の過ちを責めることをしない」と言葉を残した。
一つの第一義の部分はみな一致していて、その枝葉末節に多少の異同や新義のような部分も生じている、という主張をしておきたかった。
「それならばどの仏教でも一緒じゃん」という発想については、記事本文にある通り、ただ私の尊重すべきところに随い、未だ仏縁の無い人には日蓮大聖人の法門を伝えておこうと思っている。
その中に、立正安国論で警鐘を鳴らされた末法の世相・三災七難の由々しき問題の対処も着実に進むであろうと信じている。
哲学・論理学・合理思考・客観的分析の学者たちをして「詭弁だ」と思わせかねない私の言葉だが、あくまでも高潔にして下賤な修行者として綴った。
法門は自覚の問題である。



0 件のコメント:

コメントを投稿

当ブログのコメント欄は、読者から、当ブログ記事の誤字・脱字の報告や、記事の話題に関する建設的な提案がされる、との期待で解放されていました。
しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。