2017年1月6日金曜日

本来的・本質的に「優しい心・思いやり」が人間に備わっている事の理の論証 ~ 2つの真理



觀萌私記・末・讃萌語に「内に蔵する萌心(みょうしん)=内蔵萌心」を示している。
上の画像は、別の形で「内蔵萌心(内藏萌心)」を説いているものである(2016年9月分・絵の練習記事所載)。
觀萌私記所説を畢竟ずるに、「萌心」は慈悲の別称であり、その慈悲の心が本来的・本質的に具わっており、仏教や萌えを学んで観想した人が自覚でき、その人(萌えの覚者)である私の教説を聴聞した人も理解ができるようになる、と。

「本来・本質」という言葉は、共に、仏教の「空・因縁・無我」を原理主義的に前提とした立場から見れば、否定すべき邪義の言葉となってしまう。
人間の生命は、因(因子)の理(義理)として生来的に善悪の種(種が善悪それぞれあるのではなく1つの種が善にも悪にも変化することを譬える)を具えているであろうが、実際に生まれた後の縁(後天的要因)が無くしては、善も悪も成立しないという因縁観に依って否定される。
善悪は背反する概念であるし、物事の結果的に決められる区分なのに、生来持っていてそのまま維持するはずがないという見解である。
私はここで敢えて「本来的・本質的」と称して言葉の執着を排除した。

「本来」とは、「本覚偈(本覚讃)」の中に「"本来"具足三身徳(本よりこのかた三身の徳を具足し…)」とある通り、本覚思想と通じる一面がある(この一句の古い形は「本来荘厳三身徳」)。
この「本覺偈(本覺讃)」は、現代仏教学で否定されがちな「本覚思想」を大きく支えてきた。
主に密教を摂取した日本の天台宗(比叡山の山門・園城寺の寺門いずれも?)で重んじられ、伝統的に唱えられてきた。
「本質」というと、西洋哲学に「実存・本質」という対立概念があり、西洋哲学の定義での「本質"Essence"」という言葉を用いると、仏教が否定する「我見」や「常見」に繋がる。
我見・常見とは、バラモンの我・アートマン"Self, Soul, Identity"、説一切有部の法有我、犢子部のプドガラなどを指し、諸法無我と相違する説とみなされる。

いずれも、仏教の原理主義的立場に基づけば、用いるべきでない言葉だが、そこに固執する必要は無いと思うし、そもそも字義からしてその用例・用法のみに縛られもしないはずである。
もっと言えば、大乗仏教においては、むしろ菩提心を養うならば珍奇な説であっても仮に奉じてこそ、真の原理主義として正統派であろう(後述する2つの真理のうち後者に該当する)。
※釈尊は色々な修行や教説を方便として説いて衆生を度さんとしたお方であるが、「それを根拠として觀萌私記の所説は正当化できない」、「釈尊の修行や教説と関係のないものを創作したら仏教ではない」と言われそうである。觀萌私記は別サイトでも注釈したが、仏教の補助や仏教理論の個人的譬喩であって仏教そのものと強弁したいわけではない。つまり、最初から仏教そのものや仏道修行として説いていないが、仏教に繋げられる中道の立場であり、読者もそう理解して私と同じ程度の中道となってほしい。私への尊重を手段として諸君の中道を成就せよとの慈悲で語る。

私は、仏教を学んでから世間を見直したときに、人間の心の本来的・本質的な「優しい心」、つまり、「良心の呵責」などで作用するような善意・良心を実感した。
その実感とは、あくまでも、仏教を学んだこの私の自覚あってこそである。
だから、私にとって「内蔵萌心」や、本来的な良心・慈悲を、実感できる真理(後述する"2つの真理"のうちの後者)として確立した。

しかし、こういった「本来・本質」の善意や良心や慈悲という精神性が、捉えようには真実味がなく、真理と認定しがたく思われる出来事が、現実(仮)の世の中にしばしば見受けられる。
大小・種々の事件は、人づて・メディアの報道によって具体性や信憑性にピンからキリまであろうが、少なくとも、その情報をそのまま見た前提においては、「内蔵萌心」の真理が揺れて見える。
ここから様々に検証したいと思う(長い前置きだった!!!)。



 諸萌出世の本懐は 慈悲を説かむの故ぞかし
 人の心に具はれる 善の種より萌やすなり

さて、これは実際の世間の出来事に即して見たところに悩ましく思う。
子供ですら醜悪・陰惨・冷酷ないじめを行い続けており、いくら上流階級の者・為政者たちが人権擁護を訴えて方策を練っても、悪質なケースの発生が留まるところを知らない。
大津市で中学2年生がいじめを苦に自殺した事件のような教職員・行政の隠蔽体質もあれば悲惨ではあるが、いじめ自体も実に凶悪である。
肉体的・精神的苦を大いに受けた被害者への同情だけではない。
加害者の心の醜さも苦因となろうから、同情すべきである。
しかし、その苦を実感せず、剰え平然とし続けられる者たちなので、怒りと悲しみを禁じ得ない。
そのような子供が、人間が、存在すべきものか?
同じ人間であるはずなのに、なぜであろうか?
人生の途上で必要なモノを失ったか、あるいは最初から備えていない不良品なのか?

※私はあくまでもいじめの解決策だとか、いじめを無くそうという主張をする気はない。枝葉末節である。専ら仏法の流布によって根本の無明もろとも解決を願わんばかりである。いじめの仏教的な分析は、本家ブログ2016年6月8日記事の終盤に詳述している。そこから、当事者が間接的な打開策を導き出してほしい。現世の凡夫は平等に苦を受け、与え、相互に悪の精神を増長しているが、仏法で「変毒為薬」を願わんばかりである。止められがたいケースについてあえて意見をするならば、いじめを受ける側から何とか脱却する術が段階的で確実であろう。最低限、自殺は免れられたい。過去の私のように。最も望ましい姿勢は、客観的に見て「いじめ」の被害に遭っている状態でも、物ともせず、被害者意識とならずに絶対的な自尊を保てることである。自ら被害者と思わないならば、他者も加害者でなく、いじめも有って無い。忍従の徳を修めれば、心は泰然自若・無分別の仏の如き境地となろう。場合によって厳しくはあるが、少なくとも80年も続く肉体的いじめは無いのでいつかは必ず止む。悩める子供たちに伝えたいことである。

彼ら加害者の心の醜さや、虚心坦懐に事実を認めないではぐらかす教職員(教育機関)・行政の愚かさにすら、私は憐憫・憐愍を覚えてやまない。
本当の苦の報いは、必ず受けるからである(合理主義の人はこういった善悪の業の因果応報を否定する場合があるが私は信仰の立場にあるので真理の一種とみなす)。
苦の現世(四苦八苦)と生命の在り方(六道輪廻)を知らないこと自体、苦(四諦を知らない無明の苦)であり、苦であることは実感の強弱を問わず、仏教徒が等しく哀れむべき対象である。

被害者が自殺をしないケースには、加害者が万単位のお金を平気で強請るケースも確認されたが、まず人間として文明に生きていれば人のお金という「財産」を堂々と強請りもしない上、小学生同士で行われてよいことでなかろう。
自分の行動に悪の意識が薄いならば、物事の価値も薄くしか感じないはずなのに、どうして人を苦しめて大金を取ろうと行動するか。
彼ら加害者は良心の呵責や背徳を覚えることは無かったのであろうか。

※このケース(高齢者虐殺のK市と障害者虐殺のS市を抱えるK県の県庁所在地Y市で発生)の背景は複雑で、この児童の非差別的背景を餌にして加害児童の親が被害児童から金を搾取する指示を出したという見方もある。しかし、加害児童もまた被害児童の事情を嘲笑・侮蔑していた線も考えられ、故に実行されたという面も考えられる。いじめの心理云々と論じる記事ではないが、一応の見解も書く。人により「憶測ばかり」と思われようが、今は主観を本位として記す必要がある。



さて、「ヒトに善良な心が本能的に備わっている」という仮説を真理とみなした場合、彼らは本能が強いはずの「子供」という生命でありながら、その心を持ち合わせないので、ヒトに非ざる生命となろう(仮説を前提にそういったケースの情報をそのまま受け取って論証するとこの結論に達す)。
また、美徳とされる精神性を持っていてこそ人間と認定される宗教の立場から見る場合、彼らは既にケダモノ同然である。
仏教の六道や十界論からいえば、畜生界(畜生道)や修羅界(修羅道)そのものである。
少なくとも、仏教においては「人間の身を成した畜生・悪鬼」とみなされる精神である。
人間の心が「有って無きもの」である。
善良な心が有ろう諸君、私の仮説論証は詭弁であろうか?



「2種類の真理」・・・どちらも理解が大切


こうして実際の世間を見てみれば、人間の身であっても、人間として優れた精神性を持って生活する人々から、とても人間らしからぬ精神性で悪行を重ねる者までいる。
また、純真無垢と思われがちな子供にも、生来善良な心を失っている者すらいるようである、と私をして悩ます。
すると、私の「内蔵萌心」や、本来的本質的良心・善意の説はとても真実でないと思われる。
しかし、真理には2種類あることを注記したい。

まず、「真実・事実に即した道理としての真理」があり、「内蔵萌心」は、この合理的・客観的見地においては否定されよう。
次に、観念論的見地で「その人が認定・信頼した観念としての真理」があり、「内蔵萌心」は、この信仰的・主観的見地において肯定されよう(先にカッコ注釈で信仰における真理とみなした善悪業報もこの内か)。
この後者「その人が認定・信頼した観念としての真理」とは、まるでお粗末でデタラメなものと現代人から思われがちであろう。
しかし、まさに「その人」が認定した上では、その人の精神・生命・生活・生涯を養う利益があり、まさに信頼すべき「真理」として肯定できる。
だから私は、この2つの真理についてどちらが正当であるとか、どちらが優れているという差別をしたいのではなく、時と場合によって正邪や優劣があるのであり、仮に区別するために説く。

※般若経典や龍樹菩薩中論の「勝義諦(第一義諦)世俗諦」や「真諦俗諦」のような発想である。
※主観的真理を客観的なものと思い込みをして主張すると「お前がそう思うならそうなんだろう"お前の中では"な」と愚弄されかねない・後述。
※社会・人間界で浸透する客観的真理というものも、その文明・共同体における人間どもが認識しているものであれば、ある意味では主観的真理の延長なので「主観即客観・客観即主観」となる。所詮は程度の差に過ぎない。しかし、今は上述の定義で仮に主観と客観を弁別すべきである。
※ちなみに私にとって客観的真理といえるものは仏教の空・諸行無常であり、大乗仏教の様々な教義は正系反系もみな通じていると思っている・龍樹菩薩中論24-20偈にも説く。様々な主張を尊重して絶対的正当性を無くす。一つの教説のみが真実であるという断定ができないことこそ、真理であり、龍樹菩薩・空の本意ではなかろうか・・・中論18-8偈「一切實非實 亦實亦非實 非實非非實 是名諸佛法」であろう。真理(実相)を示す真理(言説)真理でない「言語道断」の真理である。

「主観・客観」という対立概念について、現代では専ら、客観性が重んじられている。
それもそれで中立の姿として良かろうが、その一辺倒・絶対化は中立の姿でない。
自身の中で信じるものに「主観的なもの」があってもよい。
むしろ、人間は「良心」のみならず悪い感情を具えて容易には手放せないでいる生き物であるから、無理して合理的・客観的判断を心掛けても、結局は感情や欲望が先行するではないか。
他人に押し付けない範囲では、主観性がかえって自分の利益となるし、自分もまた他人の主観性を尊重してこそ中立・公平ではなかろうか。
「他人に押し付けない」点では、「人の自由を害しない範囲での自由」が容認される「自由主義」の真髄と通底している。
また、修行者は自己をよく知ってこそ修行が進むわけであるから、主観的な立場も必要である。
そうして徐々に、客観的・合理的真理"Supreme Reason, Ultimate Truth"に向かう、これは仏道の漸進主義である。
目的と手段には、確かな段階を踏襲すべき道理がある。
私の発想は、龍樹菩薩中論24-10偈「若不依俗諦 不得第一義 不得第一義 則不得涅槃」の影響もあろうか。筏のたとえ(筏喩)とも通じていよう。

私はまず俗世の苦しみを受け、「苦諦」というように苦を苦と如実(主観的?)に認識・自覚し、俗世を厭離してから大乗仏教・上座部仏教を可能な範囲で広く深く学んできた上で、人間の心にはきっと善良なものがあると知識として知った。
改めて俗世の事象・現象・実相を浅く深く狭く広く見たり、自分の生活の中でも実感できた。
「良心」が、人から伝えられる知識から、自己に埋もれたものを発見して実感に至ったという。
しかし、他人の行為など、表面の出来事においては、本当に「ケダモノ同然」のケースも極稀に見られた。
それは仏教を学ぶ前にも見て知っていたであろう、生々しい文明の在り方であろうに(嫌がる私やあえて笑顔でい続ける私に、何かと肉体的苦痛を与えてきたかつての同級生など)。

また、下の弟が実際に知的障害であることを幼少より理解し、自ら薄く先天的な発達障害・精神障害を認定した小中学生のころ、種々の先天性疾患・重病に興味があった
重度障害の中でも、脳性まひ(脳性麻痺ほか植物人間・脳死)などは、思考能力も精神機能もほとんど持たず、それらが養われもしない。
これらの患者・障害者は現代文明の潜在的問題が人の身に現された点で、良き説法者である。
彼らの存在もまた、彼らに対比して思考能力や精神機能があるとされる人々の哲学や道徳に資する部分が強く、尊重してあげることで我々の思いやりの心(慈悲・平等)が育まれよう。
それはそうとして、そういった重度の知能的障害があると、精神にも同様の影響が及ぶ。
そうした人々が仮に「内蔵萌心」を持っていても、慈悲や善意が萌芽して大きく成長することがないと論を俟たない。
顕著ないじめ加害者に見る「ケダモノ同然」の生命とはまた異なる形ではあるが、同様に「内蔵萌心」の否定材料となる。



改めて大乗仏教の「仏性」説を思い合わすべきである。
天台教学においては仏性の「六即(仏性を持つ者の6つの段階)」を示し、私の信奉である日蓮大聖人の法門でも説かれている。
私の「内蔵萌心」とは、およそ、仏性の語を置き換えたものと考えてよい。
真の健康記事にも六即について語ったが、改めてここに記したい。
要するに、仏性・仏種があっても、仏教の見聞によってその存在を自覚せねば、「有って無きもの」である。
故に、未だ仏教を見聞しない人々の仏性が六即の「理即」という、最初の段階のものと説かれる。
道理・理論上は「有る(具えている)」ものの、仏教の見聞という大地や雨や太陽などという栽培環境が不十分であるので「無き」も同然である。
「内蔵萌心」についていえば、多くの人は仮に萌心を持っていると言えるが、能く芽を出させる「好色萌相(こうしきみょうそう)」に値(あ)っていないので、「理即」=理論上・観念的仮想の萌心を過ぎないこととなる。
何らかの形で、「内蔵萌心」や本来的・本質的善意というものが突発的に起こることはあっても、本来的・本質的に具えているという自覚は持てないので、日々、同時に具えている悪い感情にも流されやすくなる。
なお、日蓮大聖人の法門では、そもそも「仏性」となるべき「仏種」が末法の衆生には植えられていないとされ、日蓮大聖人の出現によって「種を下す=下種」されて今は仏種があって理即の仏性が成立しているという。

そのような仏性、仏種の存在を知り、自覚して初めて「名字即」という段階に上がる。
「内蔵萌心」、本来的な善意・良心・慈悲についてを言葉で見聞きするならば、一応の理解は生まれるであろうし、何らかの実感や同意があれば、今は真理として認定・信頼し、ますます育んでゆくべきである。
仏道に於いても、解脱・成仏の可能性が自分にあると信じて種々の修行を行う意味が生まれるわけであるから、言葉で明確に知らねば難しい話である。
そういった一応の真理認定を頼りに、今の道筋が定まろう。
そうして次第に、物事の絶対的(?)真理が見える時は来ると考えてよい。
再度、龍樹菩薩中論24-10偈「若不依俗諦 不得第一義 不得第一義 則不得涅槃」の意味を考慮すべきである。

その絶対的(?)真理ですらも、生きている間に完全な把握は仏様だけなのだ、と思わざるを得ない「凡夫」の私である。
知れば知るほど、「人の死が終着点か、涅槃が終着点か、成仏が終着点か、はたまた・・・」といって遠のくようであるが、同時に、近道も新たに発見された気がする。
少なくとも、生きている間は終着点がなく、果てしない道のりが続いていると思う。
「全力疾走が大事なのか、ただの足踏みに一喜一憂しているだけなのか・・・」そういった考えは既に無用であり、仏果を思えば戯論寂滅である。
遠回りの道こそが最善唯一の道であると深い実感を得た時、その修行・行動は死の間際まで不断に続くわけであり、これは「悟った」も同然であろう(理論上はそうだが私は未だに深い実感ができずにいる)。



とりあえず、私のように「ちょっとだけ悟っちゃったかも!(増上慢ではなく…)」と思う人々は、「本来・本質の善意や良心」や「内蔵萌心」と称される精神性が、人間には平等に具わっているものと信じてほしい。
きっと何らかの機縁があれば、誰でも慈悲の心という花を開くはずなんだ、と。
こうして物事を判断し、何よりもそういった思考や行動によって自身の善意・良心・慈悲の心を育むことを念頭に置いてゆくべきである。

慈悲の修行は物事において自他を利するのみならず、畢竟、自身の解脱・仏果の成就に繋がる。
このようにして究極の目標を掲げ、実現に繋げてゆくべきである。
自分や他人にある慈悲の心を喜びつつ、それに執着せず断念する「喜捨」もセットにした四無量心の思考に基づいた行動を心掛ける生活は、「本来・本質の善意や良心」という「原理主義的には邪義と認定される思想」を奉じていても、間違いなく仏の本意に随うに違いない。
自覚・実感による行動が、仏教の教義に一つでも繋がっているならば、十分、仏教の善行・正法であるに違いなく、功徳も大きいと信じている(=私を尊重してね)。

されば修行者は、教理を信解・受持すると同時に、柔軟な理解と実行性を持つ必要があり、原理主義に陥ってはならない。
大概の仏教学者・小乗仏教原理主義者(主に合理主義的現代日本人)もまた、恣意的・主観的に教説を選別して信仰をしているが、それは彼らが信仰の性質(本質)に疎いためである。
彼らは彼らの中の真理を奉じているようであり、今後どうなるかはともかく、真摯な修行者は一旦、彼らを「異物」として尊重・無視してあげよう。
悲しいことは、2種類の真理のうち、彼らは彼らの主観的真理を奉じているにも拘らず、主観に依って合理主義を絶対的法則・客観的思考とみなしているから、客観的真理だと錯綜して妄信している点である。
観念遊戯・知的遊戯もよいが、そう耽溺するのみであってはならないのである。





起草日: 20161110

「内蔵萌心」および「本来・本質の善意や良心」についての論証は以上の通りである。
本家ブログ絵の練習記事=2016年9月8日の絵と文章について考えている際、このような記事の起草に思い至った。
「二諦」ならぬ「2種類の真理(二種類の真理・2つの真理・二つの真理)」について、薄々、考え続けてきたことが萌心の思想世間の物事に結びついた。

パーマリンク文字列(caritas-generis-humani.html)の意味について・・・ラテン語で"Cāritās [(名詞・単数・主格)愛]" "Generis [(名詞・単数・属格)種類の・類の]" "Hūmānī [(形容詞・単数・属格?)人の・人道的な]"とあり、直訳して「人類愛」であり、意訳して「慈悲・慈愛」とも言われるが、仏教の慈悲とは異なる。しかし、この慈悲も仏教の慈悲も、内蔵萌心の意義と通じているので、パーマリンクに用いた。なお"Caritas"の接尾辞"-itas"は、英語で形容詞を名詞にする接尾辞"-ity"と通じるので"Charity (一般にチャリティー・慈善)"とは同源(cārus)である。いずれにせよ、慈善や慈愛が「人間らしい精神」という見方は、2000年ほど前の西洋にもあることが分かったであろう。恐らくはどこの文明も古来からそういった精神を人間の徳として尊重している。「みんな一緒!」と思いたい。そのように自身で修める人間性を指す言葉としてはよいが、他人が人間的かどうかを計る言葉としては侮蔑・悪い感情・争いの元になるので控えよう。また、"Hūmānī (フーマーニー)"とは英語の"Human"に同じくして"Humanism (ヒューマニズム)"に通じている。「内蔵萌心」に合わせて言えば、なぜ可愛い萌えキャラに悲惨な運命の設定(エロ・グロ・猟奇)など考えられようか?心が痛もうぞ。フィクションだとしても「二三一体」と思うことが萌道の精神であり、"Cāritās Generis Hūmānī"に通じる。非人道的刺激性を、仏道に順ずる萌道においては求めないように心がけたい。無論、公然と「○○たんちゅっちゅ~」という顛倒の溺愛をなす道でもない。

この記事は2段階に分けて読むと面白い。
1段階目は、語義・文意の概要の理解を目的とする。
2段階目で多くの記述を読み直すと、私の記述の中に主観的真理らしきものが複数見られる、といった面白い発見があろう。
読解して「文底」の解明・謎解きに励んでもらいたい。
以下からは、2種類の真理について詳説しようと思う。



世俗の教えでは、現代だと人権尊重・人道主義に関連する思想が、「本来・本質の善意や良心」が人類に平等に具わっていると説いているようである。
これを例に取ると「ニンゲンは誰でも考えやココロが有るから悪口を言ってはいけない・思いやりが大切・譲り合うココロを持って怒らないでいればヘーワになる」などと表現できる。
これも、私が言う2種類の真理のうち、後者の主観的真理に該当するものだが、中にはこれを前者の客観的真理そのものと妄信してかえって自ら苦しみ、これを第一義として訴えることで、同じように2種類の真理の分別ができない他人を悩ませる人間もいるから滑稽である。

ほか、世俗の合理主義者(唯物論者・虚無主義者含む)が「本来・本質の善意や良心」の「主観的真理」を聞いたとき、こう考えるであろう。
「そんなものは生物の本能である欲望を種としている。情けは人のためではない!自分のためにするものでしかない!いわゆる善悪・道徳背徳の観念も、全てはやましい本能から生じている!進化論の軌道上である(故に生まれつき思考能力と欲望を持たない人間は当然これを持ち合わせない。思考能力と欲望と社会性があれば後天的に育まれるものでもあり性善説は成立しない)」と。
彼らの思想においては、「欲望ありきの良心」という見解こそが「客観的真理」と認定されている(それこそ彼らの感情や人生経験ありきで主観的に認定されていようが)。
また、彼らの思想的アイデンティティーを固持するための「主観的真理」でもある。
よって、大いに尊重・無視してよかろうと思う。

私、仏教徒としては、大慈大悲・不可思議の仏法に憑んでゆくのみ。
思えば、私が小中学生の時も、性善説を否定する合理的見解に帰結していた。
仏教ではそういった性悪説を一辺倒には説かず、私の「内蔵萌心」も仏教的性善説の一面を説いた言葉であって性善説の妄信ではない。
仏教は菩提の性善・煩悩の性悪のいずれも説く「中道」の立場である。
現代世俗的科学の所説に則れば、間違いなく「欲望ありき」の性悪説が真実である。
しかし、科学を極めてゆくうちに、そんな「欲望ありきの良心」というものではなく、人間が人間として発展した歴史に根差した、本能的・反射的に起こる「善意としての良心」も証明されよう。
否、科学的に証明されずとも、仏教徒の慈悲の実践に何ら差支えは無い。
私が知るところ、科学は進歩するほどに仏教の真理(主観のもの客観のものを問わず)に通じていくものと観ている。
※科学史を見れば、命題に対して矛盾であるとされた見解こそが正当であって後の学界の定説・常識となった研究成果がいくつも確認できるよう、矛盾じみた部分もいずれは認めざるを得なくなる場合がある。既に仏教は、世間的に合理なことも世間的に非合理なことも全て包括した「真の合理性」を打ち出している。



なお、私の愚見によると、仏教の教義や修行の多くは、原始的なものも部派仏教的なものも大乗仏教的なものも、基本的にすべてが「生死を度する筏」であって方便のようにも感じている。
龍樹菩薩や江戸時代の某僧侶(過去記事)などは、そのように捉えていてもおかしくない。
龍樹菩薩・中論24章で、「空」による「三宝・四諦・四果」教義の論証を行っており、「空」があってこそそれらの教義が成立すると説く(24-14偈空義有るを以っての故に一切の法は成ずるを得...)。
「空」が「仮名(仮に名付けられて説かれたもの)」であり、その俗諦に依る「仮名の空」が「中道」であると説かれる。
世俗の思想を見ても、人権思想などの道徳的・倫理的・観念論的・唯心論的なものや、精神論を嫌う合理主義的・社会主義的・虚無主義的・唯物論的なものの全ては、当事者の知識・経験より信頼されて信奉されているものである。
世間で「人の数だけ人生や価値観(知識・経験・感情を包括したもの)がある」と言われるが、そうであるならば、その人に適合した主観的真理は、むしろ必要である。
主観的真理」が無いことこそ人間としては抜け殻である、というか、抜け殻にはそもそも最初から主観的真理を得る能力がない。

仏教徒は、今ある宗派にしたがって宗派の信奉と修行を護持するなど、現世の「仮の自分」が行うべき立場を自覚して如説修行を継続することこそ、正しい仏道ではなかろうか。
こう考えざるを得ない今の私だが、江戸時代の某僧侶も、そういった「言語道断・心行所滅」で「難信難解」の真理の見地に立った時、こう言わざるを得なかった。
真に客観的な真理というものは、やはり「不可説の諦"Ineffable Truth"」である。
龍樹菩薩の説法(二重否定とか帰謬論証とかと呼称される)は、奉じたくても奉じられない真如実相に随っているものである。
しかし、それに基づいて歩む「人生」というものは、有って無いものである。

客観的真理に基づく人生」とは、どのような人生か?
何も考えず、何も言わずにいることこそ真理の体現・・・いつかそんな考えを起こした記憶もある。
それでは、かえって仏教の生き方に背くではないか。
仏道から見て「外道」と言い、世間では「人でなし」と呼ばれ、真正の虚無主義となりかねない。
それが出来る者がいるならば、尊敬こそできねども、一種の超人(廃人?)として尊重したくなる。
煩悩・苦というネガティブな概念に対比して菩提・悟り・智慧・解脱・涅槃と呼称するわけだから、凡夫が発心して行う仏道においては、そういった「自然」そのまますぎる在り方は受容されない。
この客観的真理・・・「諸法実相(ダルマター)」は、人間として生きる以上、形ある存在である以上、実現されることはないと再度注記する。



仏教では、人の身として生きる以上、即身成仏・有余涅槃・得羅漢果といった境地(これも体感していないが信仰の立場で事実とみなす)にあっても、守るべき仏道修行を続けねばならない(釈尊・菩薩・十大弟子など諸比丘が好例である)。
思想的理論も大事だが、仏教では、釈尊などの振る舞いという事実からも学ばねばならない。
この「事実」も、我々がこの目で見ることはできないが、仏教徒が信順すべき経典に伝わる通りに理解すればよい。
仏教の教説や理論の完全な理解ができずとも、仏教の事実における修行を見習えば、おおよそ実践するための把握ができよう。
諸々の大徳が客観的真理にごく近い境地にいたからこそ、仮の世である現世に仮の「使命(本質・エッセンス・自性・自我・アートマン)」を見出して死(臨終・涅槃・入寂・入滅)の間際まで実践されていた(それが我執となるかといえば中道を理解する以上は我執であって我執でない)。
だから、生死を度するには、俗世に生きる私たちが主観的真理を選択して信奉せねばならない。

私は、その最善策を仏教、なかんずく、お題目の法門に見出しているわけである。
こう書いてしまうと某教団から「不信心者・摧尊入卑」の謗りを免れない。
結局、この私も、一神教の神ヤハウェの存在などを客観的真理の見地においては「無記(沈黙)」として全否定できないし、もう、信心・修行を取るしかない。
仏教(上座部仏教・大乗仏教・密教など現存する伝統仏教の全て)は根本的にこういった「中道」の思考があるために、教義や修行法、信仰体系の多様化や、外道の受容もあった。
雑然・玉石混淆に思われそうだが、これこそ仏法の真理の現れとして好例である。
釈尊のいわゆる「原始仏典」の教説でも、どう文献学的にケチをつけようと、輪廻説・ブラフマーなど合理主義的仏教学者が嫌う「外道らしい教義」は説かれるが、主観的真理の必要性を知る釈尊が当然受容したり方便でもよいから用いる教説である。
龍樹菩薩(竜樹菩薩・ナーガールジュナさん)がもし現代にいらっしゃれば、その妄執が著しい仏教学者や小乗仏教原理主義者の過った主観性を完膚なきまでに粉砕されよう(若し俗諦に依らざれば第一義を得ず!と大音声の獅子吼が木霊する)。
諸宗の論争も、「自行化他・自他不二」の大乗仏教の観点で主観的真理の最善を論じている(客観的真理を自らみなす錯綜が諍論を呼ぶのであろうが私からはもはや容喙できない)。
私には私のための道"My True Path"が解脱への直道となっている、そう「事実はそのまま真理」と如実知見することが一皮むけた主観的真理である(二諦も如実知見も私の理論に敷衍できる)。

人は、知れば知るほど慢心を増やす一面があるが、途中から慢心が減ってゆき、慎重さが増えるようになる。
例えば稲が、成長段階ではピンピンと茎(稈)が伸びるが、稲の背丈がピークとなるまでに穂が実ったら「頭を垂れる」ようである。
智者の至りとしては、物事の判断について慎重にならざるを得ない(無論、思考停止になるということはないし世俗については「蓋然性」を信頼して明瞭迅速な判断もできよう)。
ある上人の「物をよく知れば驕慢こそ起らね」と語った真意である。
本当のこと」は、生きている我が身において分かりっこない。
それと同時に信仰の精神性を重んじられるようになる、これこそ主観的真理の真髄であった。
物事にある「柔軟さ」や「程度の差」という微妙な加減が、面倒のようでも重要に思えてならない。

※仏道で言えば、鎌倉時代、持戒でありながら歌道に親しんで「歌や詩のセンスがない人が得道することはない」とまで主張する僧侶がいた反面、無戒を自覚しながら歌道の執着を嫌った僧侶もいた。それぞれが主観的真理・理念・信条・ポリシー・プライドを持って仏道を歩んだのであろうし、それらの主張同士では相容れない。しかし、主観的真理の真髄客観的真理から見れば、どちらも主観的真理としては非の打ち所のない正当な教説となる。仏教の真理は平和をもたらした。

さて、真理に基づく人生には色々とあるが、それもまた総括できる。
人間界が大樹であり、一切の個人が様々な「(枝葉)末節の真理」に基づいて生きることと、その生き方自体が一応の真理の体現であって「根幹の真理」と言える。
つまり、様々な主観的真理が「末節の真理」であり、その自覚・行動の人生が「根幹の真理」である、と主観的真理にもまた2種類があると示す。
果てには「真理の種子」に通じていく。
「真理の種子」は、枝葉の我々・現世の凡夫には知りようもないものであり、真の客観的真理を示している。
何とか菩提の果実を結び、大地に落ちて自ら種となるしかない。
成仏などによって真理との同化を願う。

私は「空・諸行無常」の道理を客観的真理とみなすが、人間が人間の思考で認識する過程では、客観的事象であっても全て「六根・六識・五蘊」という眼鏡を経由しているから、「私が認定したもの」としては主観的真理の一端となる。
般若経典・中論でいう真諦・俗諦の観点でも、俗諦の言葉を以て真諦の概念を説くわけであり、「説かれたものとしての真諦(=義理の真理)」俗諦に収まる。
空の法を絶対的真理と思い込む時点で絶対的真理ではなく、そういった姿勢のあった部派仏教に対し、大乗仏教は中論の如く「空義・仮名・中道」の意義を以て批判を加えた。
客観的真理とみなす法則や事象を客観的に見たつもりとなれば、これも客観的でなく、どこまでも客観が続いてしまうため、客観的真理は「有って無い一応認識されるもの」に過ぎない。
「空」とは「道理としては真実」かもしれないが、言葉で示されている時点だと言葉のうちであろう・・・当たり前ではあるが、しかも文字を見たり声を聴いたりする人間がどう取るか、などの条件が幾重もあって100%の理は99...%のように純度を落とす(そのまま説かれた言葉をそのまま受け取れば99...%でも蓋然性の信頼で事実上100%でもある)。
ここに改めて主観的真理の細分化が感じられよう。



いまいちまとまらないが、暫定的にまとめる。
2種類の真理・・・「主観的真理」と「客観的真理
主観性の細分化・・・「個人や共同体の知識・経験・意思・感情で定まる普遍的法則や抽象的真実についての主観的真理」と「六根・五蘊で捉えられた蓋然的に信頼できる実相(科学・現象)の主観的認識の真理」
客観性の細分化・・・「存在して存在しないようで捉えられず言葉に出来ない客観的真理」と「客観的真理がそのようなものと理解する一応の真理」と「主観的真理を主観的真理として認識して主観的な生き方を自覚する真理」

こうして観れば、相変わらず、俗世に生きる我ら凡夫(全人類なかんずく修行者)には主観的真理および俗諦(言語・言説)が必要であると実感できよう。
一応、仮に説かれた多くの真理一つの真理を示す。
仮に説かれた多くの真理を学んでゆく中で「真理が有って無いもの」と実感し、一即多・多即一・一も二も多も有って無い、という無分別の境地に到る。
客観的真理および真諦については、もはや言うまでもない。
「空」であるからこそ、「空」なればこそ、「空」であるが故に、大乗仏教の仏性説も「内蔵萌心」も否定されず、むしろ証明し得る。
空=因縁があるからこそ、人は成仏でき、地獄にも落ちるし、法華経にも常不軽菩薩から成仏の授記を受けた一闡提の四衆の堕地獄と後世で釈尊の説法を聴聞する因縁が説かれている通りであり、仏性は十界互具の人の心に共通する。
元々この論理があるから天台教学においても「空」と「仏性」が二律背反だとかという疑難が生じることも無く、教学が成立していた。
要するに、「自明の理」であって「問題外」であったろう(管見では文献に参照されないが)。

斯くして、矛盾は肯定され得るものである。
空の思想・二諦論などは多くの教義に敷衍できた。
つまり、思想家の各個人が見事に発見できるか否かの違いであった。
「空(意義の空・仮名の空)」の教義"Pure, Noble Doctrine"それ以外の教義"Dogmas"とは、相容れないようでも、上手に縫い合わせると優美なること至上の織物となるようであり、その妙技を得た方が龍樹菩薩や諸々の大徳である。
我々も、同じようにして様々な教義や仏教用語が、一つの真理に繋がっていて別個のもの同士ではない、と理解できるよう、脳内でバラバラにされた布をあるべき姿へ縫い合わせてゆきたい。

仮に「私は今、現世における最上の(主観的)真理を得た」と言い放ったところで、他人はその言葉を否定しようとも否定しきれない。
主観的真理の法則にならえば、他人が私の主張を否定しても否定しきれず、私もまた他人の主観的真理と主張を否定しきれない(自己肯定もしきれないが)。
相互に100%の否定(および肯定)が不可能であり、ここに中道の見地から「尊重(怒りがある時は無視もその手段)」の姿勢が重要となる。
私はすでに、尊重の姿勢の実践(他人の主張にベタなお世辞を付けることではない)ができているようである。
尊重の姿勢の実践は、「内蔵萌心」の思想に基づくこともできる。
一般的なものとしては、仏教の慈悲・四無量心や世俗の人権尊重のみならず、法華経の教学や日本の和の思想も推奨したい。

よって、主観的真理とみなされる諸々の思想や見解にも優劣が生じると思う。
もし「鰯の頭も信心から」と言って額面通りに「鰯の頭」を有り難く祀って信仰して成仏できるというならば、既に凡人でない(すなわち我ら凡夫には鰯の頭信仰修行が無益である・仏の立場では修行法に差別は無いが仏教は凡夫本位で有益な教法と修行を説いた)。
「世界平和」などの理想論も、過去の大徳たちは誰一人として実現できなかった。
個人の身近な場面でも不穏な争いが絶えない世の中である。
「世界平和」などは、実現し得ない(蓋然性による主観的断定)理想であろう。
諸仏・諸菩薩が衆生の成仏や解脱を助けようとも、俗人はみな悪道に著している。
しかし、だからこそ、実現を願っての行動がある。
そのように行動できる人こそが過去の大徳たちであった。

「(99%以上・蓋然的に)その理想は実現し得ない」と思考の中で結論しても、人間が本当のことを分かりきることは無いので、実現を願って行動することこそ、最も高尚で理想的な人生である。
発菩提心・四弘誓願、「主観的真理に基づく人生」はこれである。
信頼・信仰の大切さを再確認できたであろうか。
また、過去の大徳たちの生き様を「悪あがき」と見る人は、「断見(合理主義・虚無主義・唯物論)」の人であり、輪廻転生を否定したことになる(物事の段階を説く上で現世の一生では実現しない理想もあるから、たとえ荒唐無稽の教説に思えても修行者は輪廻転生を信じる必要がある)。

大乗経典では、たびたび、未来世に仏法が流布する授記であるとか、過去世において仏法に通じた賢王の為政が国土を安楽にして五穀豊穣となる物心両面で裕福にした、といった教説がある。
「ただの譬喩や方便(または偽経)であるから」として無視する人もいるであろうが、修行者は、方便であるが故に現世の仏道修行を助けるものと理解せねばならない。
「教説の如くに仏法が流布して安穏な世界となるか」、仮にこういった疑問が沸いても、一応、真理として肯定し、信順すべきである。
「無疑曰信(むぎわっしん・疑い無きを信と曰う)」という言葉もあり、この立場の人々からの叱責を免れない言い方ではあるが、彼らの真理は彼らの真理で尊重しておく。
疑問は人間の徳ともなり毒ともなり、なかなか捨てづらい。
しかし、本当にどうなるかは誰にも分からず、自分の思考による結論が正当とは断定できない。
その自覚あっての行動に徳が顕れる。





追記: 2018年
旧来より「単語の用例」が、伝統的な文献に見られる必要を感じる私であった。
2018年に"Cāritās Generis Hūmānī"の用例を、伝承される文献より探してみると、キケローさんの「善と悪の究極について"De finibus bonorum et malorum (Liber Quintus = 5 うちXXIII 英訳リンク)"」に一度きり用いられることを確認した(いわゆるハパックス・レゴメノン"Hapax Legomenon")。
その文脈も、「尊い概念の提唱」という雰囲気でない。

De finibus bonorum et malorum (Liber Quintus = 5 うちXXIII)

[65] In omni autem honesto, de quo loquimur, nihil est tam illustre nec quod latius pateat quam coniunctio inter homines hominum et quasi quaedam societas et communicatio utilitatum et ipsa caritas generis humani. [...]

[66] Nam cum sic hominis natura generata sit, ut habeat quiddam ingenitum quasi civile atque populare, quod Graeci politikon vocant, quicquid aget quaeque virtus, id a communitate et ea, quam exposui, caritate ac societate humana non abhorrebit, vicissimque iustitia, ut ipsa se fundet in ceteras virtutes, sic illas expetet. servari enim iustitia nisi a forti viro, nisi a sapiente non potest. [...] (後略)

"nicht-wissen-wollen (知りたくなかった)"な気持ちになってしまう。水を差す話となるが、一応、学問的な公正さを期してこの追記をしておく。
※文法解釈を先のものよりも詳細に示そう。"Generis Hūmānī"部分が男性・単数・属格を並べたものであるならば、その部分がCaritasの事物=精神や感情の客体として作用する「目的語の属格(Objective Genitive)」となることも留意されたい(つまり「人類愛」と直訳できても厳密には「人類・他人への愛情」ということか)。

何らかの言葉の用いられた経緯は人それぞれ。
古代ローマのキケローさんには、キケローさんの用い方がある(彼も一応人間主義的な意味の"humanitas"という言葉を用いたようであるが)。
その言葉の原初は知り難し。
後は、知った人の二次的な用い方である(ただしアーリア人という学問的仮設概念をナチスが悪用した事跡などを念頭に置く必要がある。スヴァスティカ=まんじ 卍もインドや東アジアで伝統的に用いられたものと似たものがたまたまドイツ帝国時代の考古学者にトルコの印欧語関連の遺跡Hisarlikからも見つけられたためにナチスがハーケンクロイツという名のシンボルに用いて現在はドイツ政府がアレルギー症状を起こすほどに毛嫌いされてしまったので注意したい)。
現代日本のラテン語音楽・・・Quod apud mēnsūram erat, illud verbum omnia mētītur. immēnsa causa ad prīncipium, liberātor per verbum nōn trīstis.

なお、このパーマリンク文字列には某サイト方面の圧力が懸念されるため、dualism-of-truth.html に変更した。

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