2015年4月30日木曜日

18歳で法を説く「諸事相対抄」の構想 (背景と大意)

「諸事相対抄」背景


傲岸不遜に存じるが、私も御書に影響された説法の書を著述してみたい。
私の欲望は今「法を説きたい」という菩提心である。

まあ、御書のインスパイアというものは畏れ多い気持ちもある。
誰しもそう感じるが故に、これを行う者は某総本山貫首さんなど高僧のほかは憚るのだろう。
だが、正法を流布せんが為ということが本心であるから、一つの教法ともなる。
「それならば敢えて御書ライクで文に起こす必要ないじゃん」ということになりかねないが、私としてはこの方向でやって現代の気風に反する個性を出したい。



タイトルは平易な漢字を並べ、凝った読みを用いていない。
当初の発想では「文心相対抄」で、「抄」以外は小学校で習う簡単な字。
「諸」という漢字も教育漢字であるか調べると、小6で習うらしい。
ただ、「対」に関しては「對」と旧字体に出来るのだ。

「諸事」という言葉が浮かんでもタイトルに付けるべきか迷い、試しに御書などにおける用法を調べたが、個人的にいまいち語義を掴めなかった。
どうにも、仏法における諸々の「事」について指す用法が見受けられない。
然るうちは使用を控えたほうが良いだろうが、これは特に定まった語義は当てられてないとみなし、私の本抄において便宜的に字義を合わせて作られた語とすればよい。

御書ほか、仏教の文献で「○○撰」というように、述者の名が表記される。
戒名などを書くところだが、戒を受けてない私が自称するのはもう無慚無愧に過ぎるので、「横野真史 撰」でよいだろう。
戒名を創作するとしたら、この「真」という字か、本名の「雅」という字を使いたく思うが、ことに後者は戒名で用いられる字ではないと考えられる。

平成廿七年四月 横野真史撰




「諸事相対抄」大意・ポイント


幾つかの相対を表す「事」について「義」で説明している。
仏教の諸々の「事」から、よりよい「事」を選び抜いて、正しい仏法を突き止めてみよう、の第一歩。
大聖人の御書にも、諸宗の教義を比べる際に法華経ほか諸経・論文という「文証」から、現実に衆生の身に起きた「現証」までを克明に綴られている。
私の本抄においては、仏法のもう少し原始的な方向に掘り下げてみたい。


文心勝劣(もんしんしょうれつ)の義


悟りとは聖典の文に依るべきか、専心の修行に生じる心に依るべきか。
「説かるるが如く行を修む(説の如く修行する)」。

仏の正法を知ることは、文を通じる他になし。
二千年の往古より経典が尊重された所以はこれだ。
同じ文にも、いかにして甚深なる法義を判ずるか。
そこに、素直な信じ方は心が肝要である。

ただ、経文という前提を伴わない唯心論的な修行は仏法にあらず。
末法の衆生は、仏に思し召された遺産たる文を第一に信受すべきか。

天台智顗、智者大師の法華文句に「暗者は其の文を守る」という言葉がある。
最初日寛さんの依義判文抄が初出だと思っていた。
「明者貴其理・暗者守其文」
この言葉は、最初字面の意味だけで捉えがちになる人も多く、私自身も「文は全否定で理が最上なのか!?」と驚いたが、これこそ字面だけの浅い読み方である。
率直に言えば、文も文であるが次には理・心で読み、義を知ると。

天台にしても法華経の文を信受しているわけだから、言わんとしていることは「文の字だけ読むのは悪いということで、理の存在を絡め心で深く読む必要がある」ということだと気付いた。
穿ってみたが、この言葉の義とは、こういうことではなかろうか。
最近も当メモ帳で引いた、涅槃経の「依義不依語」はこれを簡潔に表している。
仏法たれば、文を第一にするべきだが、心でも深く読む、が結論。


仏俗抄録(ぶつぞくしょうろく)の義


諸々の書を学ぶにしても、仏典のみならず外典を抑える必要もある上での注意点。
衆に持たるゝ外典爲りと雖も、現代の卑俗に過ぎたる瑣末な本を讀む可からざる事。

仏教において、仏教そのものは「内」、他の教えは「外」と称される場合がある。
「外道」という表現も、本来仏教が由来だと思ってよい。
仏教ならざる所業だとかを「外道の所業」と言うのではないか。
同時に、仏典に対して、異教や世間の書物などは「外典」と呼ばれる。

日蓮大聖人は、対告衆によっては外典の情報を引かれることもある。
鶴を溺愛した「懿公」の肝の話があるが、肝臓以外の全身が北狄の蛮族に食い荒らされた主君の無残な死を前に、忠臣と称えられる「弘演」が「主君の肝と取り替えて葬ってくれ」と遺言し、自らも割腹で後を追った。
こういった故事を、主に武士に対して諫暁・教化する際に援用している。
大聖人自身、和歌を詠まれたことはないが、一部手紙に「葎~」の歌を引かれたりもした。

大聖人のほか某歴代法主なども、外典にも精通した博学で強記が絶倫の人にあてた書では、仏典由来でないフレーズなども引く。
某歴代法主なら、歌を詠まれた人は多い(日興上人は「謗法を呵責(破折・折伏)せずして外道の書物と歌道に耽ってはいけない」と遺誡された)。

法を説く上で、現代の人に通じる平易な例えなどを出したくとも、卑俗に過ぎている作品から学ぶことは推奨しない。



この他、「同じ仏の書でも何を見るべきか?」と、更に次の「事」に進んで語るべきかもしれないが、流石にここら辺で切り上げる。
経典や、数多の宗派の僧侶たちの書で、最勝を決めるということだが、冒頭の通り「大聖人の御書」並びに「法華経・涅槃経」あたりを薦めるべきだろうか。
この辺りは、その結論の「義」が今はまだ出難い。
日蓮大聖人は「無始無終の御本仏」であれば、今の私の年頃には法華経が最勝という判断が確然としているのかもしれない。



それはそうと(おい)、この記事を投稿後に加筆する最中、「我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて~」という御文が目に入った。
文脈としては、「出家僧侶が名利の為に法を説いて尊敬を集めたがるならそれは食法餓鬼」ということで、私は名利云々でもなければ在家(家出経験アリ)であるものの、この記事の題や冒頭などで「法を説く」という表現を使ったばかりに後味が悪い。
家出経験アリ在家+幼少からのハゲで得度済みだから実質出家みたいなモン(これ加筆した僅か10分後に「在家の人が出家を兼ねていると思うのは精神状態を疑いたい」という平成三年四月の僧侶の発言を目にした、俺ツイてなさすぎ)。

何しても運がないね、俺、生じた菩提心が招くものは疑惑の心か。
ここまでやって馬鹿馬鹿しさがとことん込み上げてくる。
「退転するな」ってことだろうか?まあ在家っていっても特定の教団にも属していないけど。

近頃、活動関連でも思うが、「肝胆を摧くのみにして(略)験しなし」といった気持ちで、投げ出したくなり、結局何が真理で何を追求すればいいのかわからん。
勉強・文章を書きまくるならば今月、2015年4月は絶倫そのものだろうか。
お絵かきや作曲等の創作関連といえば、反して鈍化しているようだ。

今回の記事"も"何か悪い方向に落ちた、ささやかな夢も無慈悲に潰える。
今後の投稿予定に「四字熟語+にして」なる記事があるが、それも当初からの意に反して「私の研鑽における障害」を語った内容が現れる。
このブログは私の日記という側面も強いから、今後もこの路線で狂ってみたいが、途中まで一見まともそうな瓊の裏側が瑕だらけっていう記事に終わるのは残念。

俺の完璧な論理が予期せぬキチガイに潰されるパターンもう懲り懲り。
このあたりも、「隠忍自重・忍辱の技術を付けろ」という仏意だと承服できれば、それが不満を生まずに綺麗な収まり方になるのだろうが、未だ気に食わない。
俺の論理は完璧だから、理不尽な問題に対してそういう捉え方も出来るが、あくまで理性の表面だけ、心の内ではますます不快感が燻る。
どうしても救われないから、こういうことを少しは縷々と書きたくなるものだ、私のほかに仏の心に適う人間がいないのに、仏にさえ救われないそうである。

私は涙を感情からは流さないが、いつも泣いているぞ、怒りはしない。
どうしたら度し難き世間・一切衆生を救えるか、ただ悲しく思う。
私が救われずとも、上記のような「毎自作是念」の悩みを持っている。



最後にもう一点、これも記事加筆中に見つけた御文だが、「法華経を読むにも口ばかり、文字読んで心を読まず、心を読んでも身で読まず(趣意)」というのもある。
これはたまたま言葉が似て「身読」について語ったもので、私の「文心勝劣の義」とは関係ない。
「身読」とは、法華経に説かれた末法における行者が遭う「法難」について、末法で法華経を「死身弘法」すれば必ず「法難」に遭う、これこそが法華経の「身読」と言われる。
大聖人が言わんとしたことは「像法時代の天台・伝教などが法華経を広めても難に遭わなかったが、末法時代の日蓮は多くの法難に遭った」ということである。

この御文を「文心勝劣の義」に加筆しようと思って辞めた理由がおわかり。
こう見れば、「諸事相対抄」は無宗教・18歳の著述と思えないほどに教学が及んだ、内容の豊かな書となる。
不満追記の段が本編パートに並びそうなボリュームになったことが悔やまれる。



追記:2015年5月10日5時
「出家」について考えたメモを載せるスペースは、こちらに取る。
出家して山に入る行為について、ことに別の宗派を批判する側が「叡山(など)に篭って修行しても侘しい・空しいだけ」、「社会から隔絶された山寺(各宗の本山寺院など)」と嘲ったり、「社会から逃避して修行」とまで蔑んだりもする。
一方の出家・寺院・宗派としては、ホームページなどで「社会貢献」を強調することもある。
片や出家の反社会性や脱社会性をあげつらい、片や非難された劣等感を糊塗している。

対して、その前者としての立場が強い某在家教団も、一般世間から反社会的カルトと非難される。
宗教同士で「アレは邪教だ」と烙印を押しあうことは順当だが、社会性を持ち出す論は詭弁的。
意見や立場が異なって対立すると結果的には低劣な争いで同化しちゃう真理だろう。
宗教家が「感情」の中の「三毒」や「大罪」に振り回されるとは、色々と失望する。

結局、宗教に社会性を云々するのもアレであるし、真面目に修行をすればよいと思う。
れっきとした犯罪行為ともなれば、法治国家のもとにおいて問題視されようとも、その範疇でなければ問うべきでなかろう。
ことに「出家」であれば、否、「出家」だからこそ社会の趨勢に敢えて迎合する道理はない。
2000年以上前のネパール寄りのインドでは、街を去り山に篭ることが美徳だったはずだ。

この追記について名付けるなら「緇素信行の義」あたりにでもしようかな。


2015年4月27日月曜日

母親(49)の通知表から見る母親の幼少期

4月24日、メモ帳にて両親の学歴・職歴の調査・記録記事を投稿した。
当記事では、帝京大学薬学部卒・母親の小中期の通知表を4月17日深夜(リビング模様替え関連)に見つけたことに伴い、断片的にその幼少期を垣間見たい。
※私の通知表など学校関連の記録は前の家にのみ残っている以上、確固たる情報なきままに記事を作るわけにはいかないので今後も当面の間は予定ナシ。

過去にも触れた2014年4月26日、牛久の祖母アパートの物や母の思い出の品々が再婚間もない叔母さん夫婦により届けられた折に、これがもたらされたのだろう。
叔母さんらは当然、勝手に処分するのは申し訳ない気持ちであったのだ。
母親本人にすれば嫌いな自分史の記録で、厭っていた物だろうが・・・



製薬会社関連の真新しい業務用封筒内に入れており、中には阿見小1~3学年、土浦小4学年、土浦一中3年間の計7つであったが、小学校卒業間際の5・6年こそ見たかった。
3年生までの間「阿見町立阿見小学校」に在籍していたようだが、これは新事実である。
しかももう一点言えることは、1学年9月まで更に別の学校にいたようである旨がメモされている。

また、阿見小・土浦小とも「通信票(原題ママ)」のデザイン・レイアウトが一緒であり、校名は印字されておらず各々学校側が押印しているようで、どれほどの広域が同じ作りの「通信票」を採用していたのか、実に興味深いものである。
土浦小4学年のみ裏面の「修了証」の校名・校長の人名が押印でなく印字なのはなぜだか不明。

まず4学年までの通知表を見ると、5段階評価だというのに全科目・学年で押しなべて2と3のみが並ぶ状況に唖然とした。
戸惑った私は、「これは本当に5段階評価か」と疑ったが、中学校の通知表には俄かに4と5(保健体育・美術)が増え、やはり中間の小5・6こそ如何なるものか拝見したいものだ。
生活に関する評価の欄はABC評価の内、小学校1~4は全てBのみが連なるも、同じく中学ではAが増えだすという状態だ。
結局は評価する教師の判断に依る面もあるだろうが、まあ「としこおばさん」の教育の眼光も中学より鋭敏さを増したという見解もできる。

そして、「出欠の状況」もまた興味深いもので、4学年まで見ると欠席の頻度が高い。
例えば小4は二学期以降11月に欠席1のみだが、1学期中は5月・5回、6月・15回、7月・13回と欠席日数に異様な偏りが見られる。
忌引きでは到底有り得ないことだろう、何があったというのか。
数ヶ月丸休みでもなく、違和感のある休み方である。
要するに数ヶ月丸休みならば入院した・不登校などの状態が考えられるし、この異常を平たく言えば「今日は行く、今日は行かない」といった気分でないとこれは有り得ないのだ。

いつだか私に、熾烈ないじめ被害(上履きに犬の糞だか虫の死骸だかを入れられる等)の学校生活を母親が自白したこともあったが、熾烈さについては誇張表現とみなすとしても、いじめの事実については疑いようもない。
何らかのトラブルなどが窺い知れるが、それらの件に関して担任教師は、敢えてコメントで触れないようにしてると峻烈に感じられる。

土浦中2年も、一・二学期が10月の欠席1のほか無欠席なのに、3学期に入り俄かに3ヶ月間で16回欠席している。
数ヶ月に渡って疎らに欠席頻度が高まるような休み方は、上述の忌引き等ならぬことは判然としているが、やはりいじめに起因するのだろうか?
4つの「通信票」、3つの「通知表」の内、最も欠席が少ないのは中1の計5回。
私の学校生活で不登校期間の全くない小5~中1までの頃と同水準である。
※いつも書いてるが、私の不登校脱却期間は小4二学期(始業式)~中2二学期(12月3日)である。



ここまで色々記録と私の考察を連ねた。
過去の「熾烈ないじめ告白」の真偽はともかく、いじめ被害の事実は濃厚となる。

当時の母親自身の性格などについて、教師の所見の欄では、小1は「素直だが消極的」、小2は「素直で誰とでも仲良し」などと書かれているが、小3で「意志表示(原文ママ)をはっきりと、友達と元気に遊ぶよう、進んで仲間に加わるよう(筆者補足: にしてください)」と少し辛めな評価がある。
小4評価は「真面目、熱心、真面目」と続いていた。
中学校における評価だが、生活に関する意見など記入欄がなく、専ら勉強の姿勢等への言及のみであった。



なお、各学校の生徒数に関する見解も記したい。
在学時の土浦小学校は1学年に6クラスあり、クラスあたり約40人いるようだった。
母親自身、阿見小学校ではある年に6組に属していたことから最低6クラス以上あると見られ、土浦一中もある年に8組で、同様に8クラス以上あると見られる。
ご存知の人も多いだろうが、この時代は生徒数が今以上に肥大化していた傾向があり、団塊世代の小学校時代より一層、小学校が窮屈になる特殊事情がある。
昭和らしい発展する地方都市の市街地にあって、その事情によるマンモス校化といえるが、他の要因としては日本国が普遍的に今より児童人口の割合が高かったなどが言える。

クラス数に関しては私が小1三学期で転校した学校が1学年3クラスあったが、2学年に進級すると4クラスに増えた、県内屈指の教育地域と人口増加地区の相乗効果で、年度始に転入する児童が多いことが一因に数えられるが、これはよそでも有り得るのだろうか。
否、小4二学期に転校した学校では小5年度始に1人転入があったのみで、中学では中2年度始を以ていつの間にか3人の名前が学校から消えてしまって(3人転出)、この小中学校でクラス数が増えることは当然なかった。
その件については過去記事で詳述したが、例の如く見当たらず、徒労に終わる。

一方で私が中2の12月から不登校になっても、家出は翌4月18日だから、中3時のクラス名簿には当然私の名があり、担任教師も中2に続いて新任若手男性教師Hのまま。
中学時、同学年で不登校になった者は、先述の中2の年度始で消えた3人の内の一人で、元々強い被害妄想(私の小4転校時、些事を発端にいつも泣いてばかりだった彼にはただただ驚いた)により中1二学期始からいじめられずして登校しなくなった例くらい。
時の担任教師は別の若手男性教師Nであったが、この人物はその年度を以て他校へ異動しており、私が中学に進学する前も別の学校にいたと見られる。
若手には、各地で多くの児童を前に経験を積ませる方針があるようだから、本来はこの教師Nのように1年間を以て異動になろう新任教師Hも、私の持続した不登校に伴い、同校に留まることになったとしか思えない。

教師N時代より私に与え続けられた苦難の結果ではあったが、新任教師Hは生徒の責任を勝手に取らされ、取らせたのは勝手に私ということになるのだ。
私がその執権を持つというならば、責任なるものを別しては不良生徒ら、総じては同学年の全生徒に取らせる。
新任教師Hもまあ、私や学級の顕然とした異常事態に適切な対処を為しえなかった人間ではあるが、私が最も報いを受けるべきと思う者は別であった。

教師の異動に関する話は他に、中学では1・2年の学年主任が当時50前後の男性で、中3の時はすぐ家出しちゃうから知らないが、平成26年度も在任していることをHP上の学校便りで確認、最低でも21年度からいる。
小5・6年の担任教師は例の(?)ケバい中年女性教師であった。
小4転校時に既にいたことは確かで、中1の時も登校中の通学路の信号待ちに、小学校方面に向かう車を運転していたその女性教師に挨拶されたことがあった点から分かるとおり、私の卒業後も同小学校に在任している。
・・・このことを引き合いに出した理由が思い出せない。



ちなみに、4月27日になると、私が見つけ出した場所から、例の製薬会社封筒はなくなっている。
この製薬会社封筒は実は2つあって、もう片方は土浦小学校の卒業アルバムだ。
各種通知表の入った封筒であっても、同梱されていたものが通知表のみならず、例えば松蔭神社?松陰神社なるところの絵馬(何も書かれていない、まあ書いていたら奉納するのが普通だし)や、東京大学医学部(?)合格祈願の何かが入っていたが、願掛けしても潰えたね、ご愁傷様。
松陰神社は世田谷区内だが、茨城・土浦駅から行く場合、私の地理感では恐らく土浦→上野→渋谷→最寄の何とか駅(東急何とか線でしょ?)が真っ当なルートか。

2015年4月24日金曜日

両親の学歴・職歴についての調査と記録

簡潔に現状から記す。
父親は現在確認はとれないが、日本生命に関するオフィスに勤務してるだろう。
母親は断続的に退職を繰り返している折、今は求職中か。

まず父親の学歴だが、私の前の家にいた際(中3家出まで)の調査では、鴨川市内の小中学校、千葉県立長狭高等学校、駒澤大学(学部不明)だと思われる。
駒澤大学の可能性はかなり覚束ないものであるが、前の家で本棚に入っていた駒澤大学の卒業証書のようなものを見たり、幼い頃からほのかに父親の口頭で学校の名を聞いていたことなどが状況的な証拠として挙げられる。
卒業証書が状況証拠なら、長狭高の卒業文集らしきものを見たことさえ証拠たりえなくなる、結局は記憶にしっかりしたものがあるかどうかという私の判断だけが頼り。
また、父親の口頭というと、こういったことで駒沢大がマラソンか駅伝か何かで有名だという認識が小学生の時に付いた。

4月9日、たまたま仏教系の学校について考えていたが、このときにはじめて駒沢大が曹洞宗の方の学校と知った。
仏教要素は微塵も感じていなかったが、父親の実家は日蓮系信徒であり、父方の祖父は真言宗の寺に墓を構えているということを最近の調査で知ったばかりである。
母方の祖父の墓場が曹洞宗の寺院で、仏壇は日蓮系であるが、宗派がごちゃごちゃではないか。
曹洞宗の学校にどんな経緯で入学したか、そしてどの学部なのか、まあ宗教のことは切り離すべきなのだろう。



父親の職歴は、冒頭で「日本生命に関するオフィス」と書いたが、これは前の家で日本生命の社員証らしきものを見たこと、私が小3~4の頃に蒲田にあるアロマスクエアを見に行ったことや、幼い頃に父親の口頭で「新宿の半分は危険な場所」と告げられたことが判断材料となっている。
アロマスクエアとは、お金持ち保険会社の日本生命がオフィスビル不動産事業(明治安田生命なども高層オフィス開発を行っている)で建てたもので、自社のオフィス機能も備えているのか。
同時に口頭で告げられた新宿に勤めていた時代も加味すると、これは同じく日本生命に「新宿NSビル」というものがある(NSのNは"Nihon seimei"で、Sは"Sumitomo"に由来)。
この「新宿NSビル」に勤めていた可能性が高いと見ている。
ちなみに「新宿の半分は危険な場所」という真意は、新宿駅より東側の繁華街、ことに歌舞伎町などを指しているのだろう、と2013年に思った。

いわゆる、独身の、しがないサラリーマン時代に、父親は「JR船橋市場町社宅」(船橋市市場1丁目。最寄り駅は総武線各駅、総武線快速、東武野田線の止まる船橋駅、その近くに京成船橋駅)に住んでいたと思われる。
そこから新宿NSビルへ通勤、ということはあまり想像しづらい。
結婚後、ジャズ好きで友達なしの父親だが、もっと若い頃から23区内のJR中央線や都営大江戸線などの沿線のエリアから新宿に通勤しているほうが、まだ彼は人間的に豊かになれたろう。





続いて母親の学歴について綴る。
2015年3月31日、母親の部屋から履歴書が見つかったが、冒頭や過去記事にも書いたとおり母親が近頃またも退職していたため、求職にあたって作ったと思われる。
そこには、土浦第一中学校、土浦第二高等学校、帝京大学薬学部とあり、昭和何年かも含めると、差し支えなく順調に22歳(何か計算合わない、23歳?)で全過程を修めたものと見る。
としこおばさん」の技量には私も平伏するばかり。
この中・高については元々微かに察していたものがある。
ある日の口論の中で母親自身の口頭で幼少期の話を聞かされたが、第二高校は当時女子高だったようであり、公式サイト学校案内にも平成6年に共学へ移行した旨が書いてある。

また、帝京大学について、板橋キャンパスの本館高層棟の画像を見た際に「これは近年できた建物だ」と思った。
一般に、大学キャンパスで高さ80m超の高層ビルは大概2000年代以降に竣工したものであり、少し調べるとこれも例に漏れず2008年竣工、2009年開業だと知る。
母親の在学当時で必ずしも板橋キャンパスに同学部があるとは限らない、そう予想した。
Wikipediaの簡単な沿革年表には、「1977年 大学に薬学部薬学科、生物薬学科を設置」とあり、あたかも初めから板橋に薬学部があるかのように思わせるが、私はそれを鵜呑みにしない。
必死に公式ページを探ったところ、「キャンパスの変遷」というページの板橋の項目には「2012 薬学部相模湖キャンパスより移転」とある。
「相模湖キャンパス」の項目には「1977 薬学部設置」とある為、ここであろう。
この「相模湖キャンパス」は2012年の学部移転に伴い建物は解体され、同じ土地で2015年に老人ホームが開設されている。
板橋に初めから同学部があると思えば早計であるが、相模湖キャンパスの所在地も母親の在学時は「神奈川県相模原市」ではなく、「神奈川県津久井郡」である。
この津久井郡とは、平成の大合併で相模原市の政令指定都市を目指す過程において同市に編入されて消滅している。
元々国内の地理が好きだった時期が2012~2014年にあった私は、この事実を既に存じていた。
故に、高層ビル云々から自治体の歴史まで短絡せずに、全てを深く思索した上で調査を進行させられた。

帝京大の話が長引いた。
この履歴書を見る以前は、私が連れていったもらったこともあり、母親の幼少を過ごした土浦に程近く位置する「筑波大学」だと思い込んでいた。
その為、確かな調査結果を出しても尚、相模方面の学校とは得心がいってない。
ほか、東京都世田谷区にある松陰神社の絵馬が家にあって無記載だが、関連する合格祈願の何かに第一志望が東京大学医学部であるようなことを書いていることも知っている(詳細は今に確認しづらい)。



続いて職歴であるが、同履歴書の1枚目から2枚目にも続いている。
平成元年に卒業してすぐ勤めた場所は、やはり地元県内にある、つくば市内の旧通産省の施設である。
某財団法人、某研究所が薬学部卒業とどう関連するかわからない。
同平成元年に薬剤師の資格を取得していることも確認している。
続く平成8年には研究所を退職して埼玉県内の病院に移っているが、これこそまさに父親と結婚するあたりだと断定できよう。
「病棟薬剤師として勤務」ということだが、やはり資格を所持しているはずだ。
未だ詳細が掴めないがこれもスルーしておく。

続く平成18年に退職したとされているが、ここで大きな注意点を挙げる。
どうも職歴とは略歴のようで、あの母親がその病院に10年間勤めているはずもないことは論を俟たないことで、平成18年といえば既に結婚以降より住み続けたさいたま市域(旧浦和・与野市)から離れている上、私が幼くして当然専業主婦となっていることは記憶に明らかだ。
それにその平成18年に北海道の病院に勤め始めたことが書かれているが、これも1年誤りがある。
平成19年=2007年4月、○×市より母親の別居が始まり、ここで初めて北海道に移った。
まあ、埼玉県内に住んでるときから、移るにあたって現地での仕事を未然に探していたとすれば、「平成18年度」内という風にも取ることはできなくない。
続く平成20年に愛知県豊橋市内の病院に移っているが、これもおかしい。
2008年(平成20年)から兵庫県姫路市内に移り住んで、豊橋市内の病院への勤務は翌2009年以降のことであるはずだ。
やはり略歴で、ここまでもここからも、細かい月については就いた月が4月、辞めた月が3月に統一されていて、姫路のことは省かれたのだ。
就職4月辞職3月で統一することは、もはや隠さずして潔い書き方だろう。

平成20年の病院は平成23年に辞めたとされ、以降はどこか薬局の店員・店長で、毎年毎年某大手チェーン(H.23)だとか中堅(H.24)だとか中堅(H.25)だとかとあたりを転々として「平成27年 現在に至る」と終わる。
何月の件をはじめ、その他も便宜的な表記であるだろう。
一見すると、何か大手や中堅の薬局の社員であるかのような書かれ方のそれも、雇う側の者は便宜的な表記であることは理解しているのだろうか。
履歴書とは誰しもがそうして書くものだろうか。
そのことを除いても、近年の母親が職を転々としていることは本人もこう書いている通りで、履歴書を見た者は「どんな事情の人だ」、「この人は長続きするのか」思うことだろうが、この豊橋で容易く就職が叶っている事実。
この件は過去記事に細かく考えているので参照されたし。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/02/blog-post_21.html



当記事で日本生命の高層ビルや、2000年代の大学の高層ビルについて触れたが、我が故郷さいたま市はことに大宮区に日本生命が関与した大宮ソニックシティや、2004年開業の大宮法科大学院大学(27年度末をもって桐蔭横浜に吸収される)の校舎ビルなどがある。
明治安田生命が、というのも新都心のランドアクシスタワーを指す。
これについても私の地理に詳しいこと、故郷埼玉を学んでいることがわかるよね。
博識だよね天才だよね凄いよね、大体17歳までに知ったことだよ。
後者のビルなどは、板橋の某ビルの竣工年を推理する上で第一の材料になった。





当記事の大筋を2015年4月9日に書き終えた。
同日中にもう一つの記事で2600文字超書いたわけだが、こうしてたまに1日で6000文字以上も頭で文章を考えながら文字を打つ作業は、手や腕などより、足腰がこたえる。
ずっと座布団の上に座って、頻りに姿勢を変えてはいるが、これは辛い。
関東でも雪が降った4月8日に対して同日も寒く、手先は冷える。

今年の1月に18歳の誕生日を迎え、今や4月、かつての同級生らの大半は大学に進学した頃合ではないか。
世の真理を普く求める私の独りの戦いは果てを知らず続くだろう。
普段なら大学云々の話題自体が空しいものだ。
まして私がドコドコ志望するなど考えもしない。
世渡りは生来不能の身であると独り覚ったのだから、これは不毛のこと。
だが、両親にかこつけて当記事は書こうと思えた。
あくまで、個人的な記録の為なのだから・・・

また、当記事を書くことに罪悪感をも覚えた。
記録とはいえ、両親の学歴や職歴などわざわざネットに載せる必要があるだろうか。
否、罪悪感を覚えることこそおかしいと思えばよい。
純粋に記録の必要が迫られているから、意のままに行ったと。

何か不都合があるとすれば、母親の履歴書の書き方の項目である。
こればかりはネットにその行為について載せるべきかかなり迷った。
悪く言えば職歴の偽装にもなるが、違法性は薄い上に、誰かが当記事見て法律相談したところで対応はされないだろう。
親告罪かどうかは知らないが、少なくとも母と職場以外の第三者が介入できることはないため、突然警察などが事情聴取だとかも、当記事が発端で起きることは普通にない。
すなわち職場、雇用主側が問題視して訴え出ると民事的には・・・

何にしても当記事は不穏分子となりそうだから、忌々しい気持ちが晴れないのだ。
私の順当な見解とは異なる者達が、我が家の偽りの平穏を乱してしまいそうで。



後発の関連記事(家族ラベル記事群にもある):
母親(49)の通知表から見る母親の幼少期 https://lesbophilia.blogspot.com/2015/04/49.html
類聚(2) ~ 「母の普遍的な精神状態」篇 https://lesbophilia.blogspot.com/2015/09/ruiju2.html
類聚(3) ~ 「父の教育に対する無関心・無頓着な姿勢」篇 https://lesbophilia.blogspot.com/2015/09/ruiju3.html


2015年4月21日火曜日

下剤使用をとことん忌避する計画の顛末~便秘の良薬

4月18日7時18分に投稿したメモ
「『薬は飲まんぞぉ!』と叫べば頑固な高齢者っぽいが、下剤(便秘薬)の服用についてはやはり慎重な姿勢でいたい。是好良薬・汝可取服の反対に『汝余生の健康を願わば須らく其の害毒を断つべし』となる。」

そこで書いたとおり、下剤の常用が続くほどに腸の機能が鈍化するため、下剤を「毒」として扱っているが、この知識は2012(2013?)年に初めて母親用のコーラックの使用に際して、ネットで検索して知った情報が今日に生きている。
便秘について悩むとしても、数日おきに1錠か2錠のみを飲む程度に自制する。
使っておいて「毒」と呼ぶことに虫の良さを感じつつも、「毒」と思わずにはいられない。
書き出しの「高齢者」云々については、不適切な気配もあるが、実際に私が「今日は薬を飲まない」と決めた際に、どうも薬を飲みたがらない軽度の認知症患者の影が重なったのだ。

このメモを書く前より、一つの計画が浮かんでいた。
それは4月19日0時過ぎのメモ(未投稿)に記される。

「4日ほど出てないことは死活問題だ。強ち余命数日と言えなくもなく、切迫している。もちろん極論を言えば、誰しも1ヶ月出ない体では身が持たないだろう。18日深夜に新たな延命措置を講じた。下剤を使う前にカフェインパワー=コーヒー助勢の排便を試みた。土曜日の買い物で切れていたインスタントコーヒーを買い足すとの予測もあったが、土曜日の買い物を夕方になり翌日へ延期したため、こちらの予ての計画も破綻した。告げられる前から弟と険悪な雰囲気で、『今日は買い物行かなそうだ』と推量していて、実際に告げられたときは無問題の承服であった。だが夜半に至ってこの計画を思い出すと、母親の買い物中止は実に悪辣だと感じた。念入りに完璧な計画をすると、このような寝耳に水の障害が生まれる。」

下剤使用は是が非でも避けんとする意志が伝わろう。
この4日間はカフェインの摂取も少なく、4月17日深夜に一人で急須一杯のお茶を淹れて飲み干したなどに止まっている。
この記事を執筆している4月19日1時現在、これから同様にお茶を飲むか、母親が昨日今日と渋々行っている「コーヒー豆を挽いてドリップ(?)するコーヒー」を自分も作って飲む計画はある。

今までも下剤使用を忌避する上で、ヨーグルトを一日で多めに(自分が思う範囲)摂取する作戦を試行して、当時としては久々に非下剤による多めの排出が叶った。
それも束の間のことだった。
一日多量摂取作戦はそれ以前にシリアル等も試し、いずれも効果的だったが、いずれも長く続けられない事情がある。



そのことの他に補足すべきことは、やはり「完璧な計画に対する想像だにしない落とし穴」が不意に起こる点であろう。

真面目に向き合うほど、虚を衝くが如き報せで裏目に出る。
不条理に陥れられることは変えがたい宿業の果報であろうか。
これも、私の人生で付き物だと諦めるしかない、そう慰めるのみ。



排便なく4日経つことは稀にあるが、5日ともなれば2014年の大下血のような末路さえ想起される。
ところで、2012年の大下血はコーヒーを飲んだことに起因する見解を今までに示したが、その時何日便秘が続いていたか記録がない。
これを知ることが出来れば後学のためにもなり、対策の参考に組み込めるのだが。
当時は記録する習慣も薄い上に、記録手段も定まってなかったのだから、今知る術はないだろうが、一応当時も便秘あるいは下痢に悩んでいたはずだ。
今とは事情が異なる点もきっと多いとは思う。

例えば、2010年・・・前の家では牛乳でお腹を壊す頻度が今以上に多かった。
寧ろ現在では牛乳がこの悪影響を及ぼすこともなくなったほどである。
それは2013~14年の快便期から今までがそうである。



ここまでの全文は19日1時20分までに書き上げたが、投稿予定はいつになることか。
前回は17日なので、今月の方針は4日に1度だから21日となりそうだ。

上記時刻よりお茶を飲み始め、2時過ぎにもなると、かなり腸内が荒ぶってきた。
経験的に言えることだが、頑固な便秘は大概この状態に終始する。
結局、下剤に頼らねば期待する結果は得られない、と帰結することが多い。

今更感じたが、物を少なく食べて腸に物を溜める量を減らすことで、下剤の服用する頻度をも減らす作戦は、3日4日と腸に腐敗物を溜めてしまう点ではかなり危険ではないか。
多く食べて下剤も1日おきに服用し、清浄にした方がまだ健康的ではないか。
下剤使用頻度を減らすために腐敗物を残して腸を腐らせてしまう(?)ことと、機能鈍化のリスクを被りながら下剤使用で浄化することはどちらが悪い手段か、二律背反である。

便秘の解消は、食生活の他に生活リズムにも重点をおいた方がいいのかと思うが、これも以前どこかで書いたように、快便期も便秘期も生活リズムに何ら違いがない。
一番の良薬が何であるか、未だ見つけること能わず。

三毒というように、心が体に毒をもたらしているのだろうか・・・?
個人差が出やすい「ストレスを感じる」状態などを指す。



思えば、4月17日の起床時に腹ごしらえで食べた少しばかりのシリアルから22時までの約7時間を、敢えて飲まず食わずで過ごしたものだ。
これも下剤不使用期間を延長せんが為の措置であった。
4月19日4時現在まで、やはり普段より摂取量を多く減らしている。
身長約170cmで体重が約50kgとする私が、50kg台に戻らなくなる日もいつか来るだろうか。

この4月17日就寝前に、1日断食の計画もあった。
これも偏に、水曜日買い物時の肉・野菜をそれまでに食べきったから企画したものである。
こういった消費期限の浅い生物は、食べずに時間を置くわけにいかない。
私の計画一つ一つが綿密に練られたものであることが、よくお分かり頂けよう。



そして、続く4月19日朝7時台に下剤を飲んで、入眠が9時ごろと思われる。
今までも節度を持っての服用を継続してきたが、近頃ビューラックでいうと1度に2錠飲むようになった。
「少し前まで使っていたコーラックだったら1錠で済むか」というと、これもまさに最後の1錠の効き目が酷く鈍っていた。

目が覚めたのは、本家記事でも話題にした17日・18日同様14時頃に母親の視るテレビの音によるものであった。
腸に溜めた量の影響か、あるいはビュー2錠でもコー1錠の効能に値しなくなったためかは知れずとも、相変わらず激しい発現はなかった。
少し苦しんで出したが、まあ激しい下痢の痛みに悶える苦しみには如かず。
この程度の効果が永く続いてくれることを願いたい。

次の服用はまだ残っているものを鑑みて2日後に実行したい。
トイレでそんなことを考えていると、鎖から解かれない薬物中毒患者の姿と重なりかけて、憂鬱な心情を呼び起こした。
暗澹たるピンクの小粒だとしみじみ感じる。
これがないと生きていけない、冒頭の既述の如く「余命数日」の可能性は潜伏している。



上段「そして~」以降が19日18時頃に書いた部分だと思う。
21時をまわって下痢が出始めた。
いつもの流れだと思いたいが、上述のように効能が近頃は鈍っていたため、漸次下痢へと移行することが記憶に遠かった。
いや、しかし最終下痢日の記録が4月15日で、排便日と同じであるから、4月15日もまた同様の進展だったはずである。
もう記憶が絶え絶えでわからない。
腸の疼くを覚える、痛みか悶えかもわからない。


2015年4月17日金曜日

「依法不依人」に音楽の好みを惟う

「依法不依人」とは「法に依って人に依らざれ」と読み下す。
貴い身分の人間を敬うのではなく、優れた法こそ信ずるべきだということを意味する。
人の貴賎より法の優劣を重視しよう、という涅槃経(曇無讖訳)の一句だ。
※この語義が一人歩きしてしまっていて、本来の意味は結構違っている、後述。

音楽でいえば、楽曲自体よりも作曲者の人間自体が好きだから、楽曲も聴いてるだとかの状態のリスナーもいると思うが、これが「依法不依人」の精神に反しているのだ。
最たるものはJ-popにおけるアイドルの類だが、これは最初から眼中に無い。
今回問題視したいのは、最近私の本家チャンネルを登録した人にいる。

そのユーザーは動画投稿もして、尚且つ作曲もしているため、YouTubeでコメントだけをしたがる輩よりクリエイティブだろう。
彼の作曲ジャンルが「不気味な音楽」と称されたもので、「そういうことか」とすぐに察した。
どういうジャンルのリスナーであっても、巧い曲を作れないと、自分でも何がしたいかわからない方向の闇に堕ち(顛倒し)て自ら卑下することもある。
この人もそういう経緯があると勝手ながらおかしな勘繰りをした。
つらつらチャンネルを眺めるに、下部へスクロールしたところ、そのユーザーのお気に入り動画が見えたのだが、「ボ○ロ」で「女子中学生(?)」が作っただとかとタイトルに堂々と書いてある動画であり、寒気を覚えた。

彼の聴いているジャンルと作っているジャンルが、全く相反している。
「聴いている」と「作っている」のどちらが好きなジャンルかわからない。
彼の好きなジャンルが前者であれば、作るためのセンスや技術が不足していて、やむなく自ら「不気味」との烙印を押した音楽を量産する。
後者であれば、所詮「女子中学生(?)」の人間が好きで、音楽が二の次ということになる。

「人に依って曲に依らざる」状態となっていよう。
音楽を聴く上で、作曲者の人間に固執するのはよくないことを過去記事でも書いた。
ただし、作曲者が作曲する際の学習目的で作曲者と作曲背景・環境に関する認知や系統分類などは必要な行為だと考える。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/03/blog-post12.html



私は「ボ○ロ」のリスナーをかなり軽蔑しているが、半ば感情的な側面もあると自認。
音楽の信念を持っていて、それに符合するならば「ボ○ロ」リスナーでも良いと思う。
作曲に用いるならば、さらに良い。
ただし、私が「ボ○ロ」の楽曲を進んで聴く日はこれからも無いと思うが。
音楽面でもいろいろ理由はあるが、一点に限って言えば、人間の普通の歌声すら苦手だというのに、これを進んで聴く道があるだろうかと。

「ボ○ロ」を批判するつもりは毛頭ないのだが、ここまで見ただけでも私が「流行(まあピークは過ぎたが)を批判する人」と思われかねないだろう。
純粋に我が理念にそぐわない上に視界でチラチラされることが多いので、記事にあげつらっているのみである。
2011年までの私は、受け入れよう克服しようという心境もあったが、それこそ流行だからといって、害毒のアレルゲンを敢えて取り入れる必要はないと思わないだろうか。
これは空論ではなく、過去の学校生活経験則として確然と生きている。
要するに、一見私が偏狭に見えて、実は私のこの記事に明確な敵愾心を持つことがより偏狭であり、風潮に加担する点は真逆で無節操となる。

ちなみに「ボ○ロ」は流行というよりも、老若男女を問わない日本の作曲者に於ける定番アイテムとなった側面もあることは2012年から認識している。
音楽に特化した音声合成ソフトという優位点が破られざる時期に、ブランドの特質を早々にヤマハ(クリプトン)は確立し、堅固ならしめたと評価したい。
さりとて、私が音楽で用いるかどうかは当分別の話である。



「ボ○ロ」は、晩年(2010年末~)のらい○ちゃんが作り始めていただろう。
この頃までに当初のメタル系を離れたことは私にとり傷心の念だ。
彼女の顛末、メタル離反と誹謗の全容は、過去記事の通り。
ちなみにらい○ちゃんには、人間としてではなく音楽として今でも尊敬している。

また、最近音楽館に投稿した記事で話題の現在38歳の人物も、晩年(2012年8月まで)の作品に「ボ○ロ」要素は微塵も無いメタル系であり、「ボ○ロ」には遠い人間に見えただろう。
彼も2012年末あたりのブログ記事で「ボ○ロ・初○ミ○」仕様のスマートフォンを購入したことを自慢していたが、それを見たときは「ああ、汝もか」と膝から崩れる思いとなった。
彼については某サイト引退以降、音楽活動を辞退したことを置いても、人間的に好ましいところが失われたため、人間として尊敬できるところはないが、音楽は過去の巨大な遺産として今尚私の中に風化せず座している。

この2人は、凋落の前後で「ボ○ロ」に公然と絡み始めている。
そのことを、2人が堕落した原因だとは断定したくない。

私が主張したいことは、「ボ○ロ」のファン層の状態である。
やはりボ○ロファンの彼らでは、音楽は二の次というように帰結してしまうのであった。
得てして、本来の制作ジャンルを離れたり忘れる時に邂逅する。
「ボ○ロ」を敬遠してそうだった当時35歳の彼にも「ああ、汝もか」なのである。
メタル系(彼ならブルデス系)などとかなり合わない「ボ○ロ」にどうしても寄ってしまう者が後を絶たないのはなぜなのか、私には感覚が掴めない。

この他に、聴いているジャンルと作っているジャンルがかけ離れている人というのも稀に見かけるのだが、どういった心境の下であるか興味深い。
「本当はそういう曲が好きだけど、あなたにとって難しいから作らないの?」と訊きたい。
もちろん私が音楽として尊敬している元某サイトの2人は、技術的に優れているため、この問いをかける範疇ではない。



冒頭の「※この語義が一人歩きしてしまっていて、本来の意味は結構違っている」について詳しく述べておく。
ここでいう「依法不依人」本来の意味とは「仏の真実の教え(原文: 法性)に依り、後世の人間の恣意的な見解に依るな」ということである。
そして、「依法不依人」という文字列で本来と異なる意味が生まれた。
用例としては「某法主などの貴い坊主ではなく、尊いことを仰る先生を敬え」といったもので、某価の人らのサイトで見る。
この軽い誤用の場合、「依法不依人」を「依義不依語」の逆を冒したとも言える。

私自身も本来の語義から離れた用い方は好きではない上に、仏法では「我見」という言葉があるが、当記事自体が仏語を悪用した我見であるかもしれない。
それを顧みるとまことに畏れ多いのではないか。
事実、過去に我見の愚論を弄した者を見て気分を悪くしたのだから、私自身もこのような記事は控えるべきだと思う。

その人物と当記事は程度が違うところも多々あるが、何よりその人物は大聖人サマに「天魔」と呼ばれた禅の信徒だしね。
道○を敬っているが、禅宗は経文よりも我見派(不立文字・教外別伝)だから、信徒もその気質を継いでいる。
よって、恥ずかしげもなく顛倒した自説を無慚無愧のままに見せられる。
噂をすれば、その人物も「ボ○ロ」ファンであった。

上リンク記事ではもっと色々書いているが、当時(2014年10月)とはまた見方も変わった。
禅云々だとかも知らず、出任せで「第六天の魔王」と綴ったことも、強ち誤りではなかった。

日蓮大聖人曰く、「諸悪比丘或有修禅不依経論。自逐己見以非為是。不能分別是邪是正。遍向道俗作如是言。我能知是我能見是。当知此人速滅我法」
大聖人がひいていたこの経文、一文字変わっているような・・・?



追記:4月21日7時
この記事を書く上であげつらった「ボ○ロ」ファンの人相・私の感覚は、およそ今までに見てきた思い出しきれない人々を見たことによって築き上げられたものと思う。
追記日、思い出せた中の一例を強いて挙げるとすれば、私の本家チャンネルの顔出し動画を見た初○ミ○アイコンの人が、当該チャンネル複数動画に中傷コメントを残したことがある。
変に根に持ったようで、本家に飽き足らず音楽チャンネルの当時の最新動画(顔等を映してない)にも「ロン毛きも」とコメントしてきた。
初○ミ○も性質は違えど髪長いだろう、それに音楽のことを差し置き、髪さえ映っていない音楽動画に「ロン毛きも」とは、やはり当時、短絡ながら「ボ○ロ」ファンは音楽の関心が薄いなと思えた。
「キャラに依って曲に依らざる不届き者」である。
その者の音楽の根を、その者自身が絶やすこととなろう。笑止。



追記:2017年以降
「依法不依人」は、その涅槃経(曇無讖訳、大乗の大般涅槃経)に出るのみならず、維摩経にも「依於法不依人(鳩摩羅什訳)、依趣法性終不依於補特伽羅見有所得(玄奘訳)」と出る。
その涅槃経の説では、まず迦葉菩薩が「仏の所説の如く、是の諸比丘、当に四法に依るべし」と語って示されて釈尊が「依るべき四法(依法不依人・依義不依語・依智不依識・依了義経不依不了義経)」の解説を行っていた。
その語義が釈尊によって解説されるときに「如来、法性」という言葉が用いられる。
「法性」は梵語で"Dharmatā (法であること・性質)"であり、維摩経の梵語版「依法不依人」にも "dharmatāpratiśaraṇatā na pudgaladṛṣṭyupalambho na grāhyābhiniviṣṭatā" と出る。
つまり、維摩経など、過去の大乗仏説にあることを再び涅槃経で説き直していると考えられる。
もし原典に忠実に学びたい人は、これらの情報を出発点として各自学ぶとよい。

記事本文に「『依法不依人』本来の意味とは『仏の真実の教え(原文: 法性)に依り、後世の人間の恣意的な見解に依るな』ということである」と記された後半部分について少し説明する。
その涅槃経では「依法不依人」よりも先に「依るべき四人(釈尊滅後に帰依すべき4種類の人=1. 出世具煩悩性 2. 須陀洹人・斯陀含人 3. 阿那含人 4. 阿羅漢人)」が説かれているが、それを前提として「依るべき四人」さえも「依らざれ」とされているようである。
仏法の布教は、必ず釈尊滅後の時に釈尊よりも劣る人が行ってゆくので、特に「依るべき四人」を挙げるが、次いで自身の修行や解脱のためには真実の法・法性を見ねばならない。
「見るという行為"to see"」は、真理において成立しないものの、そのことが「見るという行為と等しい」という話であるので、「法に依るとは、即ちこれ如来の大般涅槃なり。一切仏法即ちこれ法性、この法性は即ちこれ如来なり。この故に如来は常住不変なり。若しまた如来は無常なりと言うこと有らば、この人法性を知らず見ず。若し法性を知見せずんばまさに依止すべからず(依法者。即是如來大般涅槃。一切佛法即是法性。是法性者即是如來。是故如來常住不變。若復有言如來無常。是人不知不見法性。若不知見是法性者不應依止。)」と説かれる。
もし原典に忠実に学びたい人は、これらの情報を出発点として各自学ぶとよい(大事なことなので2度言う)。


2015年4月13日月曜日

日本語・漢字におけるBとMの発音の互換性「漢音・呉音と音便(訛り)」

例えば「美」は「美人(びじん)」というが、旧国名に「美作(みまさか)、美濃(みの)」、女性の名前(世代により男性にも)に「○美さん」など、多くが「び」ではなく「み」と発音される。
「母」も「父母(ふぼ)」というが、昔は「父母(ふも)」と発音され、同じく人名に「田母神(たもがみ)」などとその名残がある。
この「美」や「母」は、「び"bi"・ぼ"bo"」が漢音の読み方で、「み"mi"・も"mo"」が古風な呉音である。

この例は漢字の音読みであれば他にも「万」や「文」などがある。
「万」は多く「まん」との読みが用いられるが、「万物」「万年」など古くは漢音の「ばんぶつ・ばんねん」と読まれたが、この読みでは変換できない。
「万歳(ばんざい)」あたりは、かなり著名な例に挙げられる。
ちなみに、「万」を「まん」と読めば慣用音であって呉音は「もん」であるとされる(Wiktionary参照)が、「万=もん」の発音例は未知。
「文("ぶん"に対する"もん")」は「経文(きょうもん)」、「文字」などに残るが、後者は「もんじ」と読む場面もあり、使用頻度が上がる時代の中で「ん」だけ冗長とみなされ省かれたのだろう。
やはり人名などに「十文字(じゅうもんじ)」と残り、人名や地名にはこういった読み方がその命脈を保っていることは明確である。
漢音「ぶ○」が呉音「も○」となっている例は、「物("ぶつ"に対する"もつ")」が好例だ。

要するに、一般名詞は漢音"B"の発音が多く、固有名詞は呉音"M"の発音が多い。
呉音が主流であった時代に成立した固有名詞ならば、特徴が残りやすいのだろう。



漢字においては「漢音・呉音の差なら当然だ」と思われる博学な方もいるだろう。
続いて通常の日本語の名詞・動詞・形容詞に見られる例も挙げる。

まず、小学生の時に何かの漫画のセリフで「さぶい」という言葉があり、その時「『さぶい』って、『さむい』のことかな?ヘンなの~」と思った記憶がある。
これも口語表現などで今もどこかの方言に残っているのではないか。

「さむ・さぶ」は、例えば漢字だと「三」が、今では「さん」だが、以前も書いたよう、「ん」が「む」に互換された撥音便であり、かつては「さむ」と発音されていたことがわかる。
「三位(さんみ)」は、この「さむ」が「い」に呼応した連声の読み方だ。
人名では「三郎さん」などに「さぶ」が残っているが、他は算数の九九において「3*6=18(さぶろくじゅうはち)」というものもあっただろう。
※余談だが「晋三さん」の三(ぞう)は「さむ→さん→さう→連濁: ざう→ぞう」という変化であろう。

「む」や「ぶ」の訛りと見られるものは「被る(かむる)」や「煙(けぶり)」などもある。
「かたむく」と「かたぶく」に対する「かぶく」もこの例だろうか?
はっきり言えば、どっちから訛ったかは、現代の標準語を基準にするよりも、もっと昔の用例・・・文献や和歌などで判断すべきだろう。
すると、「かたぶく」などは古い用例がしっかりあり、標準語こそが後発のパターンも多く、寧ろ方言などに古い形が残っていることも多い。
結局源流からどう変化するかという違いであるから、何語が源流を継いでいたり、何弁が源流を継いでいたりするかはケース次第だろう。

ついでに、まだ載せてない動詞→えらむ(えらぶ)・とぶらう(とむらう)など。
「産毛・産湯・産土(うぶすな)」の"うぶ"も「産ぶ→産む」のように思える。
少し検索して出たページ→「バ行とマ行の音韻交替
最も分かりやすい例で「さみしい・さびしい」があることに一向に気付けなかった。
「さぶい」以前の幼い頃の疑問でもあったはずだから、まさに灯台下暗し。



もう一度「漢音・呉音」の話題に入るが、今度は難易度も上がるか。
「馬」は漢音で「ば・ま」という読み方ができ、「ば」は例に挙げるまでもないが、「ま」は稀有で「絵馬(えま)」、「対馬(つしま)」などがある。
仏教関連にはよりマイナーな「め」という呉音の読み方が多く、それが「馬頭(めず・ばとう)」や「罵詈(めり・ばり)」である。
ここまで来ると、初見では一度で正しく読める領域ではない。

「馬頭」は「馬頭観音」に対し、「牛頭馬頭(ごずめず)」というものがある。
「罵詈」は「罵詈雑言」に対し、「悪口罵詈(あっくめり)」と一部仏教の読み方があるが、この「悪口(あっく)」は「あくく」の促音便である。
「わるぐち・あくこう」は訓読み・漢音読みだが、「あくく」は呉音であり、漢音・呉音が「こう・く」となる同様の漢字は「公・工・孔」ほど。
これは特に本題と関係ないので戻す。

この「馬(ま・ば・め)」系の類似例は「米(べい・まい)」であろう。
馬と同様、漢音と呉音とでBM互換があるのみならず、子音もAとEで変わっている(ただし順序がそれぞれ逆)。
「玄米・精米・白米」に対して「米寿・米飯・米国」などがあるが、前者と後者の単語群で「米」の位置が明確に違っていたり、前者は米そのものの状態を表すという特徴も共通している。

「まい」系は「売」「ばい・まい」=「焼売」や「売僧(まいす)」があり、後者は某学会などで僧侶(坊主)に対して「売国奴」と似たニュアンスの蔑称として用いられている。
それはしなくてもいい余談だし、「焼売」については載せると紛らわしい例である。
「売僧」についても、「僧」を「す」と発音する例は未知な上、漢音でも呉音でもない。



ここまでは「ば・ま」、「び・み」、「ぶ・む」、「ぼ・も」の例を挙げたが、「べ・め」が互換される例は真面目に考えても何も浮かばない。
当記事を執筆するに至ったのは、この4月12日までに1週間ほど毎日のようにこのBM互換を意識していたからで、この際記事にすべきだろうと思い立ったことにある。
今までに「べ・め」の例もきっと浮かんだかもしれないし、そうでもないかもしれない。
よってこれは自然に浮かぶまで放置する。

漢音と呉音の例は他に「木・目」が共に「ぼく・もく」の読みを有する。
「木」は「巨木(きょぼく)」に対し「樹木(じゅもく)」などがある。
「目」であるが、これは「もく」こそ多かれど、「ぼく」の例を一つも知らない。
検索しても「瞬目(しゅんぼく)」ほどしか見当たらないようだ。
と思ったが、みんな知ってる単語に「面目(めんぼく・めんもく)」があるではないか。

「没(ぼつ)」は、私に馴染んだ例に「穏没(おんもつ)」があるが、検索すると他に「没日(もつにち)」、「没薬(もつやく)」などが見つかった。
検索する前に浮かんだフレーズに「没苦海(もっくうかい)」があり、これは何か経文に使われていたイメージだったが、それらしいページは何もヒットせず。
※時間が経ってから「没在於苦海」だとわかった。

そろそろ簡単に羅列したい。
「漠」など「ばく・まく」=「砂漠・空漠」、同じ部首の字である「幕(まく)」は一般的にその読み方のままに日常的に使われる。
「漠」の部首「莫(ばく)」は経文で「諸悪莫作(しょあくまくさ)」とM音で読まれる。
「微」など「び・み」=「微妙(びみょう、経文ではみみょう)・微塵(みじん)」
「亡・望」など「ぼう・もう」=「亡」が音符の「望」は「願望(がんぼう)・所望(しょもう)」
ここまでにしよう。



続いて、とても「やまと」的な上級の例を出したい。
冒頭に挙げた「母」という字を用いた地名に「天母山」というものがある。
静岡側の富士山麓の山岳名で、これを知ったきっかけがまた某教団関連のネタであるが、これは「あんもやま」と読む。
「母=も」は既述の通りだが「天=あん」とは、「天(あま)」が「母(も)」に呼応して「ま」が撥音化したものと見てよい。
ちなみに某教団でセットに言われる「天生原(あもうがはら)」は、「天(あま)」と「生(う)」で「あまう」、これを歴史的仮名遣いに見られる「あう→おう」と訛ったものと見られる。
英語でも本来ラテン語等で"Au"が「アウ」と発音されていたのに、「オー」と訛った例が多いだろう。(アウグスト・オーギュスト、アウストラロピテクス・オーストラロイドなど)

他に漢字の音読みを伴わない例で「此度(こだみ)」というものがある。
これも「此の」で「の」が撥音化するも先例の「文字」と同じく「ん」が省かれ、「度=たび」が連濁並びにBM互換され「だみ」となった。
「度」については元から「度=たみ」であったと見るほうが、古語の法則より自然か。
だが改めてこの「此度(こだみ)」を検索してみたところ、私がこれを知るきっかけとなった某ユーザーさんの投稿以外には、江戸時代の著名な作品の他に用例が乏しい。
某ユーザーさんは、江戸時代が好きなお方であるから、当該作品は愛読しているか。
それはおいても、「此度(こだみ)」はあまり頭に止めなくてもよい。
また、このような単語は当該作品等読んでいると山ほど見つかるかもしれない。



最後に、「瞑る」について「つぶる」と「つむる」の私見。
どちらが先に生まれたかといえば、断定できない。
日本語もとい「やまとことば」という概念を以て考える私には、語根が「つぶ」なら、「潰す(つぶす)」と同様のものだと想像が出来る。
だが、この「潰す」行為を表す動詞が生まれた当時に「つむす」と呼ばれていたかもしれない。
どちらが先に生まれたかの判断は、由緒ある言い伝えなり文献なりに精通した学者でもない18歳の在野研究の私に下せるものではない。

注意点を一つ、この日本語に於ける「語根」は、例えば「なぐ」という発音から「薙ぐ」、「殴る」、「投げる(eru外して投ぐ)」が生まれていることなどが顕著だ。
いずれも、腕を大きく振り回す動作が共通しているだろう。



追記: 2015年5月4日
BとMの互換性について長く例などを挙げてきた当記事だが、ここではBとMの相似性について気づいたことを追記する。
動詞が助動詞に呼応して変化する上で、やはりB・M系統のみに見られる現象がある。
「遊ぶ」や「進む」という動詞に、接続助詞「て」を付けた形は、共に連用形を経て「遊びて・進みて」とするのではなく、「び・み」を「ん」に変え、接続助詞「て」を濁音化させる。
そして「遊んで・進んで」という通常の形が生まれるが、B・M以外では「死ぬ」等がある。
これらはいわゆる「撥音便」と呼ばれている。
動詞の連用形+接続助詞「て」の形で「撥音便」が起こるのは、B・M・Nの音の時だと。




2015年4月9日木曜日

髪切らずして5年経つ日が迫る

2010年8月より髪を切らなくなって、5年近く経つ。
5年といえば、私の人生の4分の1をも超す長さだ。
4分の1以上も髪を切らない人生とは、余人には想像し難い世界である。
相対的な時間の長さは一方的に増えるのだから、30歳までには人生の過半に達する。

逆に今から髪を伸ばす人なら、その年齢から+5年とは私ほど感覚的に長くはない。
ましてや、30歳を超える年の者ならば、これしきの時間など問題ではないはず。
その年で5年髪を伸ばすには、別の方向で色々と問題があるが・・・
環境的な制約とは、物理面(頭皮、毛根の意味)のみならず、当人の立場上、その立場に於ける「自由な容貌の限度」から逸脱してしまいかねない。
故に、私の立場ほどの自由度が必要になるが、髪を伸ばすためにそれをしたがる人間がどれほどいるか、その気概を持つ人間もいなければ、私自身も当初は伸ばしたくて伸ばしたのではない。
発端は頭髪の制限がない上に、髪を切るメリットも生まれないところから。

結局、30歳以上の人に伸ばしてもらっても、気持ち悪さに磨きがかかるだけか。
そこで、幼い子供たちに髪を伸ばすことを勧めたい。
可愛い頃から人材を育てる、これぞ各界普遍の専門家ならではの心意気だ。

活発な時期にあって不便な点は、運動の最中に抜けやすいことだろう。
当然、同時に抜ける本数も多ければかなり痛む。
最悪の場合、しばらくは目立つハゲも・・・
痛みも醜態も、幼い頃から経験し続ければ忍耐力と我慢強さが養われる。
その上、みんながハゲなら、いじめも差別もないのではないか(簡単な理屈)。

1歳から今日に至るまでハゲている私に比べれば、それほど物の数ではないことだろう。
ハゲアリヌイマノワタシニクラブレバ、アナタハモノノカズニアラザリ



4月2日、トイレにて項垂れた姿勢(肘・腕を腿に突き前屈みになる)をとると、髪の先端が床にべっとりと着いてしまう。
そんなことは自分で十二分に既知のことと存じ上げているものの、改まって不可抗力的になったこの状態を見れば、いつからかは確かな伸びを見せていることに気付ける。
一年と少し前であれば、同じ姿勢でも辛うじて付くや否やの程度である。

そこで髪を伸ばすことの展望も改めて述べたい。
端的に言えば「当面の間は切る予定が無い、可能な限り伸ばしたい」。

顧みると1年半ほど前なら、今の長さ(2015年4月・最長部80cm強)で届く部位から以下の部位に及ぶ長さは切ってしまい、それを維持するということがベストだとしていた。
先述の「トイレ」に関する要因(伸びた髪が悲惨な地に着く)がかなり強い。
過去の絵の練習記事でも、この考えを元に描いた9月24日の絵を載せている。
2014年9月当時にもなると、この辺の憂慮が残るくらいで、今と同等の「髪への意志」は既に持っていたはずである。



冒頭の2010年8月というと13歳半ほどの年齢だが、大聖人様は16歳で出家あそばされた(寺に入ったのは12歳)ので、頭髪に関する命運が反発している。
しかも私は出家ならぬ「父宅の家出」を2011年4月=14歳で敢行したため、この点も類似。
冒頭の一行目が自我偈訓読っぽいので「我2010年8月(平成廿二年八月庚寅)自り髪を切らなくなって来(このかた)経たる所諸の年数五年なり。」

先述の通り4月といえば18日を以て家出より4年が経つ。
前の家で自転車乗って微妙な地理感の保障される範囲で遊びまわっていた時間も今は昔。
こちらの家では遊ぶ金も場所も自転車もなく、鬢糸茶烟の感で思いを馳せるのみ。
根源である体力さえもないのではないか。

毎度のように対比されることは上の弟の現状。
今尚遊び呆けているか、その中で自転車は用いられているか。



2015年4月4日土曜日

横野真史のブログ文章記述理論

横野真史のブログは、2014年以降、毎度のように2,000文字を超す記事を送っている。
4,000~5,000文字超までもが稀に投稿される。
文字数が多いと読む時間も増えてしまい、億劫に思ってまともに読まない者もいるだろうが、それならばそれで良し。
長い文章であるが、タイプしながら余剰の表現などを推敲せんと、脳内で構築している。

即ち、冗長にならないための工夫がなされている。
※ページ端での改行を考慮した一行あたりの文字数というものも考慮している。
余剰の表現が省かれて尚、文字数が多いということは、密度が濃い上に豊かだといえる。

使用する語句も、イメージを端的に表現した物を選別する。
時に難解な場合もあるが、それはそれで読者の知らないものなら検索するか辞書を引くかで、また一つ教養が深まろう。
既にその語句を知っている者は、文章の理解が容易となるとも言う。

過去に何か同一事象を詳細に書いた記事あらば、当該の記述に適切な過去記事をリンクして、余分な説明を省略している。
同一事象に触れる際、逐一似たような説明を繰り返すより、過去記事を掘り出した方が、大切な記録の忘却も防げる(直接該当する文章を引用することもあった)。
私の記事投稿は伊達に行っているものではない。
活動以前の過去から、投稿当時の現在までの記録を大切に残している。
文意詳らかなれば、幾度も日の目を見よう。

記事リンクにより、回遊率を向上させる目的まで、一石二鳥だろう。
読者にも、「横野真史という人物はしっかり記録を取っていて、過去にも優れた記事を投稿している」という認識が生まれることまで加味すれば、それでまた多くの記事に目を通す。
あくまで、極一部の物分かりの良い読者に限りそうだが・・・

私は2010~2013年頃に、ネット上の人物の情報をやたら探ることが好きだった。
人物の過去の投稿、隠れている別サイトのアカウントや活動なども探り当てる。
2014年はいつからか、次第にその行為をやる頻度が減っていった。
勉強に時間を当て、それら「下らない行為」などは控えるよう自制したことは大きい。
この私自身が、少しでも興味を持った人間を調査するきらいがあったからこそ、読者諸君もファンの僭称とまでいかずとも、興味を持てば私の気概に少しでも感化されたい。

その過去記事というものが、つらつら2013年頃などを見返すに、敢えておかしな文体(キャラ作り)を多用していたようだ。
この点は同じ自分といえども、評価しがたいポイント。

愚蒙の輩、これを見るに本気で私を「馬鹿」だと思いき。
驕慢の輩、普く天下に満ち、邪鬼の跋扈せるやうなり。
ネットの事は即学校生活ぞかし、いづくに留まらんとも業が末に究まりぬるなり。

↑のように擬古文で書く頻度が2015年以降に激増するが、これを使用するタイミングは記事全体でバラバラではなく、一纏まりにするか、節目で挿入するかに留めてる。

通常の文章の語彙についてだが、これは語彙の豊富さを重視する反面、同一事象を指す場合はその都度異なる表現を氾濫させず、同一表現を用いる。
同一事象であるのに異なる表現を用いれば、異なる事象に触れてると誤解を生みかねない。
読み手に些細なれども、正しい理解をしてもらいたい上での配慮だ。
読み手の有無を問わず、書いた文章を自分が後々見返した時に混乱が生まれることもあるため、この部分も自ら防止することも・・・後付の理由じゃないよ。



粗方書きたいことは書いたはずだが、冒頭に「毎度のように2,000文字超」と能書きをした割に、この記事はその水準に達していない。
だが、どうでもいい情報を長々と書いて、帳尻合わせをするわけにもいかない。
「余剰の表現を省く」という理念を垂れたばかりに自ら反してしまいかねない。

文字数の参考として、当記事の一つ前の本家記事とメモ帳記事のリンクを載せる。
どちらも約3,000文字になったようだ。

本家→http://masashi.doorblog.jp/archives/43436304.html
メモ帳→http://lesbophilia.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html

上本家記事についてこちらに少し解説を書く。
例えば「過去にも書いた同一事象の説明にはその記事のリンクを載せる」という説明をしたが、この上記事でもリンク化テキストが散見されよう。
当該記事への移動をしてもらう手間が増えるかもしれないが、その同一事象の詳細に興味なくば御覧にならずともよい。



追記:2015年8月28日

この記事の途中の記述に加筆しようと思ったが、そういう行為は大概、前後の文脈などを深慮せねばならないから作業のしづらさこの上なく思う。
今回追記したいのは、記事前半にある「※ページ端での改行を考慮した一行あたりの文字数というものも考慮している。」という点だ。

ページ端での改行を考慮した一行あたりの文字数というものも考慮している。
一文字が余分なために自動で改行されるのは煩わしいため、Bloggerのエディタ両端が全角文字で約40~50文字の感覚で埋まることを考慮して文章を書き、メモ帳ブログのPCデザインも、同様の長さで両端が合うように揃えている。
よって、それを拘泥するようになった2015年に入るか入らないあたりの頃から、当ブログのデザインことにページ幅と文字サイズは迂闊にいじれなくなっている。
ページ幅は多くの環境での閲覧に配慮して、これ以上広げるのはあまりよくない。
文字サイズは今以上に大きくしたいとは思うが、ページ幅を変えない場合「ページ端の自動改行」を考慮した今までの文章の改行が乱されるし、ページ幅を大きくして文字数を大きくするのは、先述のようにこれ以上広げたくない考えから難しい。
このように些か頑固なようでもある状況に陥っていて、2015年以降に当メモ帳のテンプレートをいじったのは、せいぜいcontent箇所の灰色の濃度を落として、テキストの濃度を上げて文字色を明確に読みやすくした程度だ。



追記:2015年9月19日

ついでに、文法で今年のいつからか非常に気にするようになっているのは「している・していない」という現在進行形の「い」抜きや、一文中(文節)で「は・では・には・のは」等の助詞が重複しないようにするところである。
前者の「い抜き言葉」に関しては一般的に誰も問題視していないし、私も他人が使うだけなら問題視しないが、自分の文章はここらへんもキッチリさせたく思う、というより、今では「い」が入ることが自然に当然のセンスとなっている。
後者の「助詞重複表現」に関しては、例えば長い一文で重複助詞が離れていれば一見違和感が無いのだが、それを意味が変わらない程度に重複助詞を近づけると、誰の目にも息苦しい助詞の重複と感じられるから、このように位置を整然とすることで助詞の重複というのは見分けが付く。

以下略、別途記事を作成して9月24日に投稿したので参照されたい。
準体助詞の件 http://lesbophilia.blogspot.com/2015/09/2015.html

2015年4月1日水曜日

散歩の砌に至る時、努々歩めや弛まじと

3月30日記。

4月を目前に控えた今、この頃は胸中で散歩せんとする論議がなされる。
さしたる散歩ルートの案もないが、理性だけが淡く「絶好の時、今まさに散歩の砌」として掻き立てている。
4月といえば、冬も明け寒暖の巡りあれど、日を選べば実行に適しているはずだ。
今や近所の公園でも桜が咲き誇る頃合ではないか。
6月にもなれば既に大きい蜂が忙しなく飛び交う墓場もある。
故に、ここで逡巡する間に、遠からず後悔する日へ達してしまうだろう。

今この文章を書いている暇に散歩を出来る者もいるはずだ。
朝7時であるが、散歩するにあたって好ましい天候である。
日陰に風が吹けば肌寒いこともあるだろうが、数少ない外出が冬でも悪風の夜・夜中ばかり(服装も部屋着)の私としては構わない。
※3月30日12時現在、いつものスウェットでかなり暖かく、某天気情報では豊橋の気温も好調で、風も少ないのだろう。朝9時頃、1Fリビング網戸に大きめの蚊が張り付いて前後運動をしていたが、こんな虫も早速覚醒してきたようだ。

それでも、突発的な経緯で実行することは控える。
散歩の計画は風呂というものも包含している。
みだりに放蕩して汚して、剰え洗濯・風呂が叶わないというわけにはいくまい。

結局、散歩の計画については、今尚も進ませておらず。
去年の秋ごろに色々思案したことと思うが、それも実現に向ける意思なし。
時が更けるまでに機運が高まることを願うのみ。
文に曰く「春眠不覚暁」、この機を逃せばいつに散歩できるか。

※2014年末、個人的な大掃除の最中、室内のみならず網戸や雨戸も全面的に掃除をすることを機が熟した頃合=春にでもやりたいと考えていたが、仕事を辞めた母親のもとでは、いつまでも実行できないだろう。外で遊ばず慎ましやかな私だが、外での善行も封じられた。よって掃除叶わざれば、散歩もまた能わずじまいか。



散歩を見据える近日の私の健康状態についても思索する。
いざ本番に体が言うことを聞かないのでは不埒だ。
どうにも肌の荒れ方が甚だしいが、入浴頻度は上げている。
良かれと思ってやることが医学的根拠なく裏目に出るのか、それとも思慮を絶するような医学的根拠に則してこのような結果が出るのか。
また、入浴頻度の緩急に関わらず、別の要因がこの問題を起こさしめているのか。

更に記30日と29日は、心臓の状態が不審である。
心拍が止まるだとか、形容がわからないものの、胸にしばしば違和感が生じる。
これはどう取っても心臓に起因するものと見ている。
心臓が原因とみなす場合、該当する日はコーヒー摂取量が多い(私の適量で3杯ほど)のだが、カフェインの多量摂取が強く絡んでいるのではないか、とも見ている。



幾度と書いてきたが、従兄(母の上の妹の息子)が心臓発作により25歳ほどで急逝したことと関連するのではないかと思わずにはいられない。
牽強付会の邪推になるかもしれないが、母方の祖父が60前後という若さで亡くなったことも、心臓の病に端を発し、従兄がその遺伝子を濃く引いて発現したと推測できる。
ばあさんの遺伝子は、体質なら凡そ正常だろう、体より危惧される部分が別にある。
今まで、従兄の夭折は祖母の害悪遺伝子が原因だと見ていたため新説である。
祖父母の話をすれば、あの祖父母でない方から優性遺伝してくれれば良かったと思う。
私~弟2人、他のいとこ等が一様にそうなってくれれば、みな苦しみも緩和された。
先天的要因、遺伝子の善悪問わずとも後天的要因が私の体質をより虚弱にさせていて、従兄のように夭折する危険性が高いことから不安は残る。

それにしても、既述の「コーヒーのカフェインパワー」を思い返すに、この従兄は後天的要因としてカフェイン多量摂取していた可能性があることも考えるべきか。
20代で急逝するなどは、生まれつき体が弱いと仮定しても、表向きに特段重病のない健常者であるなら、普通の生活をしている中でこのような頓死は起こりえない。
よほどの不摂生の祟りという点が濃厚ではないか。
だがそれこそ、生でツラを拝んでもない人間の食生活など知る術はない上に、カフェインの話を差し置き遺伝子説にしても・・・思考の整理がつかない。

突如として絶命したという彼だが、それ以前から叔母さんなどはこの従兄の健康状態を把握(定期診断など)できていたのだろうか?
まともに受けているなら未然の防止もできただろうに。
何にせよ、密接な人間関係であるのにそれを為しえない彼女らは不用心であり、亡くなった彼も他人と遊び呆ける前に己が病身を憂える用心も必要だった。

御金言を拝す「老少不定の境なれば、老いたるは先立ち若きは留まる。是れは順次の道理なり。歎きの中にもせめて思ひなぐさむ方も有りぬべし。老いたるは留まり若きは先立つ。されば恨みの至つて恨めしきは、幼くして親に先立つ子、嘆きの至つて歎かしきは、老いて子を先立つる親なり、是くの如く生死無常・老少不定の境、あだにはかなき世の中に、但昼夜に今生の貯をのみ思ひ朝夕に現在の業をのみなして、仏をも敬はず法をも信ぜず無行無智にして徒らに明し暮して、閻魔の庁庭に引き迎へられん時は何を以つてか資糧として三界の長途を行き、何を以て船筏として生死の曠海を渡りて実報寂光の仏土に至らんや」



そして日が明け、3月31日は朝4時過ぎ起床。
2時頃に起きる予定が狂ってしまったため、起きて急ぎで風呂に入り(毎度のことだが、お湯に浸かる行為は数年してない)、6時くらいには歯を磨く・髪を乾かす・育毛剤を付ける・爪を切る等の処理を済ませた。
腹ごしらえもないまま天気の良さに惚れて、そのまま散歩へ・・・
前半に「突発的な経緯での実行を避ける」ことを誓って変節か。

近所の公園の様子は遠くがモヤモヤ(以下写真よりモヤっぽさと芝生の緑が映える)。
写真を5点撮って帰宅するも、桜の花に近寄って観察することは忘れた。
遠目ではあるが、ほぼ満開と見てよいだろう。
桜の写真→http://www.panoramio.com/photo/118245198
昼が暖かい日も、まだ朝は寒い。
園内では手袋を外す時間も長く、帰って1時間経っても手から腕が冷える。
この1時間の内にシリアルを食べたが、温かい食べ物を敢えて食べなかった。

写真使用動画→http://www.youtube.com/watch?v=3a3d93qUtLA



カフェインパワーについて3月26日のメモ
「コーヒーと疲れ・・・カフェインパワーで延ばされた起床時間は、その長さに比例した疲れが蓄積する。起きている間は朦朧とした感覚に陥るが、これは眠気ではなく疲労に起因する。この疲労は、疲労感として自覚するものではない。疲労の発現が朦朧感として生ずる。よって作業の場合はその能率も落ちる。是が非でも起床時間を拡張させたい時にはコーヒーも大なり小なり有効と看做せる。そのカフェインパワー時間を作業に当てる場合、質を問わない作業には向くが、私のような創作活動では能率に響きやすい。本来の許容範囲を強引に突破する手法であるからだ。今この文章は、本来眠っている時間にコーヒーのカフェインパワーを自覚しながら書いている=文章能力に何かしらの影響があるかもしれない。」

要約:カフェインパワーは斯くなるものぞということで、この文章もまさにカフェインパワーによって強引に眠気を飛ばして書かれている以上、乱文の恐れがある。



ほか、2013年中にも、カフェインの恐怖を語ったことがあるので引用する。

横野真史 さんがYouTube動画にコメントしました。
一般公開で共有しました  -  2013/12/14

「私はコーヒーに含有されているカフェインで大量下血をした経験があります。他にも下痢、嘔吐感、眩暈など諸症状を誘発します。今日は、自動販売機のモンスターエナジーを買いました。初めて飲みましたが、今からが不安ですね。私が少量飲んだ程度で死んでしまうのは不本意です。アナイス・フォーニアさんは薬物中毒者のようで、これで死なずとも短命だったでしょう。」