当記事では、帝京大学薬学部卒・母親の小中期の通知表を4月17日深夜(リビング模様替え関連)に見つけたことに伴い、断片的にその幼少期を垣間見たい。
※私の通知表など学校関連の記録は前の家にのみ残っている以上、確固たる情報なきままに記事を作るわけにはいかないので今後も当面の間は予定ナシ。
過去にも触れた2014年4月26日、牛久の祖母アパートの物や母の思い出の品々が再婚間もない叔母さん夫婦により届けられた折に、これがもたらされたのだろう。
叔母さんらは当然、勝手に処分するのは申し訳ない気持ちであったのだ。
母親本人にすれば嫌いな自分史の記録で、厭っていた物だろうが・・・
製薬会社関連の真新しい業務用封筒内に入れており、中には阿見小1~3学年、土浦小4学年、土浦一中3年間の計7つであったが、小学校卒業間際の5・6年こそ見たかった。
3年生までの間「阿見町立阿見小学校」に在籍していたようだが、これは新事実である。
しかももう一点言えることは、1学年9月まで更に別の学校にいたようである旨がメモされている。
また、阿見小・土浦小とも「通信票(原題ママ)」のデザイン・レイアウトが一緒であり、校名は印字されておらず各々学校側が押印しているようで、どれほどの広域が同じ作りの「通信票」を採用していたのか、実に興味深いものである。
土浦小4学年のみ裏面の「修了証」の校名・校長の人名が押印でなく印字なのはなぜだか不明。
まず4学年までの通知表を見ると、5段階評価だというのに全科目・学年で押しなべて2と3のみが並ぶ状況に唖然とした。
戸惑った私は、「これは本当に5段階評価か」と疑ったが、中学校の通知表には俄かに4と5(保健体育・美術)が増え、やはり中間の小5・6こそ如何なるものか拝見したいものだ。
生活に関する評価の欄はABC評価の内、小学校1~4は全てBのみが連なるも、同じく中学ではAが増えだすという状態だ。
結局は評価する教師の判断に依る面もあるだろうが、まあ「としこおばさん」の教育の眼光も中学より鋭敏さを増したという見解もできる。
そして、「出欠の状況」もまた興味深いもので、4学年まで見ると欠席の頻度が高い。
例えば小4は二学期以降11月に欠席1のみだが、1学期中は5月・5回、6月・15回、7月・13回と欠席日数に異様な偏りが見られる。
忌引きでは到底有り得ないことだろう、何があったというのか。
数ヶ月丸休みでもなく、違和感のある休み方である。
要するに数ヶ月丸休みならば入院した・不登校などの状態が考えられるし、この異常を平たく言えば「今日は行く、今日は行かない」といった気分でないとこれは有り得ないのだ。
いつだか私に、熾烈ないじめ被害(上履きに犬の糞だか虫の死骸だかを入れられる等)の学校生活を母親が自白したこともあったが、熾烈さについては誇張表現とみなすとしても、いじめの事実については疑いようもない。
何らかのトラブルなどが窺い知れるが、それらの件に関して担任教師は、敢えてコメントで触れないようにしてると峻烈に感じられる。
土浦中2年も、一・二学期が10月の欠席1のほか無欠席なのに、3学期に入り俄かに3ヶ月間で16回欠席している。
数ヶ月に渡って疎らに欠席頻度が高まるような休み方は、上述の忌引き等ならぬことは判然としているが、やはりいじめに起因するのだろうか?
4つの「通信票」、3つの「通知表」の内、最も欠席が少ないのは中1の計5回。
私の学校生活で不登校期間の全くない小5~中1までの頃と同水準である。
※いつも書いてるが、私の不登校脱却期間は小4二学期(始業式)~中2二学期(12月3日)である。
ここまで色々記録と私の考察を連ねた。
過去の「熾烈ないじめ告白」の真偽はともかく、いじめ被害の事実は濃厚となる。
当時の母親自身の性格などについて、教師の所見の欄では、小1は「素直だが消極的」、小2は「素直で誰とでも仲良し」などと書かれているが、小3で「意志表示(原文ママ)をはっきりと、友達と元気に遊ぶよう、進んで仲間に加わるよう(筆者補足: にしてください)」と少し辛めな評価がある。
小4評価は「真面目、熱心、真面目」と続いていた。
中学校における評価だが、生活に関する意見など記入欄がなく、専ら勉強の姿勢等への言及のみであった。
なお、各学校の生徒数に関する見解も記したい。
在学時の土浦小学校は1学年に6クラスあり、クラスあたり約40人いるようだった。
母親自身、阿見小学校ではある年に6組に属していたことから最低6クラス以上あると見られ、土浦一中もある年に8組で、同様に8クラス以上あると見られる。
ご存知の人も多いだろうが、この時代は生徒数が今以上に肥大化していた傾向があり、団塊世代の小学校時代より一層、小学校が窮屈になる特殊事情がある。
昭和らしい発展する地方都市の市街地にあって、その事情によるマンモス校化といえるが、他の要因としては日本国が普遍的に今より児童人口の割合が高かったなどが言える。
クラス数に関しては私が小1三学期で転校した学校が1学年3クラスあったが、2学年に進級すると4クラスに増えた、県内屈指の教育地域と人口増加地区の相乗効果で、年度始に転入する児童が多いことが一因に数えられるが、これはよそでも有り得るのだろうか。
否、小4二学期に転校した学校では小5年度始に1人転入があったのみで、中学では中2年度始を以ていつの間にか3人の名前が学校から消えてしまって(3人転出)、この小中学校でクラス数が増えることは当然なかった。
その件については過去記事で詳述したが、例の如く見当たらず、徒労に終わる。
一方で私が中2の12月から不登校になっても、家出は翌4月18日だから、中3時のクラス名簿には当然私の名があり、担任教師も中2に続いて新任若手男性教師Hのまま。
中学時、同学年で不登校になった者は、先述の中2の年度始で消えた3人の内の一人で、元々強い被害妄想(私の小4転校時、些事を発端にいつも泣いてばかりだった彼にはただただ驚いた)により中1二学期始からいじめられずして登校しなくなった例くらい。
時の担任教師は別の若手男性教師Nであったが、この人物はその年度を以て他校へ異動しており、私が中学に進学する前も別の学校にいたと見られる。
若手には、各地で多くの児童を前に経験を積ませる方針があるようだから、本来はこの教師Nのように1年間を以て異動になろう新任教師Hも、私の持続した不登校に伴い、同校に留まることになったとしか思えない。
教師N時代より私に与え続けられた苦難の結果ではあったが、新任教師Hは生徒の責任を勝手に取らされ、取らせたのは勝手に私ということになるのだ。
私がその執権を持つというならば、責任なるものを別しては不良生徒ら、総じては同学年の全生徒に取らせる。
新任教師Hもまあ、私や学級の顕然とした異常事態に適切な対処を為しえなかった人間ではあるが、私が最も報いを受けるべきと思う者は別であった。
教師の異動に関する話は他に、中学では1・2年の学年主任が当時50前後の男性で、中3の時はすぐ家出しちゃうから知らないが、平成26年度も在任していることをHP上の学校便りで確認、最低でも21年度からいる。
小5・6年の担任教師は例の(?)ケバい中年女性教師であった。
小4転校時に既にいたことは確かで、中1の時も登校中の通学路の信号待ちに、小学校方面に向かう車を運転していたその女性教師に挨拶されたことがあった点から分かるとおり、私の卒業後も同小学校に在任している。
・・・このことを引き合いに出した理由が思い出せない。
ちなみに、4月27日になると、私が見つけ出した場所から、例の製薬会社封筒はなくなっている。
この製薬会社封筒は実は2つあって、もう片方は土浦小学校の卒業アルバムだ。
各種通知表の入った封筒であっても、同梱されていたものが通知表のみならず、例えば
松陰神社は世田谷区内だが、茨城・土浦駅から行く場合、私の地理感では恐らく土浦→上野→渋谷→最寄の何とか駅(東急何とか線でしょ?)が真っ当なルートか。
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