2017年8月21日月曜日

二重母音の1モーラ化という漢字音、諸言語の例など

日本の漢字発音について、一般的な呉音と、2→1モーラ化が生じた際の呉音(推定古代音にも通じるか)を確認したい。
中古音・上古音は、おおよそ「バクスター・サガール(2014?)式 (BS式)」や「鄭張尚芳式(ZZ式)」であるか、それらを参考にした上での仮定表記や便宜的な簡略表記などがある。

まず「二重母音"ai"から母音エ"e"発音が発生することがある」という仮説から、漢字音の1モーラ化の例を取ろう。
「兄弟」は、「きょうだい(呉音)」とか「けいてい(漢音)」とかと読む熟語だが、前者で「弟」字は呉音かつ濁音(有声音)である。
「きょうだい」と読むときの「(だい)」は、提婆(だいば)のように、上代か古代の日本でD音(ダ行・有声歯茎破裂音)受容か?
その場合、弟子(でし)の弟(で)は「だい"dai"→で"de, dae"」という1モーラ化の例に当たる。
上に"de, dae"と綴った件は、「古代の日本語が八母音であった」とかという、「あいうえお"a i u e o, a e i o u"」よりも多いという学説を念頭に置いているが、こういった漢字音の1モーラ化について甲類の"e"とか乙類"e"とかという学説の存在を確認していない。

「ダイ→デ」といえば、朝鮮語の「現代(ヒョンデ・連濁)」とか「大韓民国(テハンミングク)・大洞江(テドンガン)」が連想される。
代・大などは、日本で「弟子の弟(で)」のような「デ・テ」と発音される語彙が見当たらないようでも、朝鮮半島で代・大の漢字音が伝わった当時の中国人は現代日本語と同じく「ダイ・タイ」に類する発音をしていたと考えてよい。
朝鮮語におけるこういった漢字音の表記に用いるハングルは、" IPA表記の/e/"ではなく" a+i = IPA表記の/ɛ/"であり、ハングル誕生以来、文字として明確な区別があるようである。
※なお、弟"je"は前者e音価のㅔを用いた제であり、下記の礼"rye>ye"はje音価のㅖを用いた례>예であるから、大대や海해などにあるa+i = /ɛ/という音価のㅐではなかったりする。

"-ai → e"他の日本漢字音の例として「礼・禮(呉音: らい)」がある(熟語は頂礼"ちょうらい"など)。
「礼」の草書体から、ひらがな「れ」が作られた。
地名の「波久礼(はぐれ)」や、人名の「稗田阿礼(ひえだ の あれ)」といった「れ」発音がある。
これらも当然「漢音: れい"rei"」の「い"-i"」が脱落したのではなく、「呉音: らい"rai"」が「れ"re, rae"」と1モーラ化したと、私が考えている。
うちマイナー地名の「波久礼(波久禮・破崩とも)」について興味を持ち、古事類苑のデータベースで武蔵国の記述など(具体的な位置関係が不明なので現在の大里郡・寄居町や男衾・榛沢に関する情報も)を探したが、名が見当たらなかった(秩父鉄道の駅設置に際して元々の表記で縁起の悪そうな「破崩」を万葉仮名っぽく改めたことで成立したものか)。

しかし、現代中国普通話ピンインは「弟・提・禮(代・大は日本の漢音・呉音を考慮すると系統が異なるので除く)」系統の漢字がみな「"di"」、「"ti"」、「"li"」、「西"xi"」とあり、言語学者の中古音や上古音も"dei, di"のような"-ei, -i"ばかりであり、少なくとも"-ai"発音を確認できない。
「提」という字は、先に「提婆(だいば)」という語句を例に挙げたが、この元はサンスクリット語"deva (デーヴァ)"の音写であり、4世紀以前から、すでに「デ(デー)」発音に当てられている。
他の「提」を用いたサンスクリット語の音写語句としては「憂波提舍(うはだいしゃ・うばだいしゃ、提はを用いることもある)」であり、これもサンスクリット語"upadeśa (ウパデーシャ)"やパーリ語"upatissa (ウパティッサ)"を表す。

"ai"そのものが字音である漢字といえば、何よりも「」が浮かぶであろう。
あい・アイという発音は、現代日本の字音に限らず、中国普通話でも同様である。
"ai → e音"の例として、地名では「愛媛」や「愛知(えち・滋賀県の愛知郡や愛知川)」がある。
"e音"に類する発音は、呉語の"e"や、韓国語の"애, ae (2000年式・MR式)"である。
この「愛」はIPAなどの厳密なローマ字表記だと、単なる"ai"ではなく"ʔ"という声門破裂音の字を用いており、中古音・上古音で母音で始まるような字音のローマ字表記には、ほぼ必ず用いられている。
「愛」を例に、ざっと引用すると /ʔʌiH/, /ʔəiH/, /ʔɒiH/, /ʔɑ̆iH/ といった調子である(余談だが末尾の大文字Hは四声(トーン)を表す記号のうち、「去声(平仄では仄に含む)」を意味する・上声であれば大文字Xが用いられる)。



この"ai → e音"という音韻法則は、過去記事や独り言で多く語るよう、ギリシャ語・ラテン語・英語などの関係性にも同様に観られて世界の言語学者の常識とも言える。
ギリシャ語で"αι(アルファ・イオタ)"と綴った発音は、ラテン語で"Æ(合字), ae"となり、現代英語では余分な"a"の綴りを消しているわけだから、日本・朝鮮・西洋、場所を問わず同じ現象が発生していると見られる。
2014年に"pedia"というギリシャ語由来接尾辞について語ったことがある
そこでは、ウィキペディア"wikipedia"でもペドフィリア"pedophilia"でも、"ped"の文字列がラテン語"paed"という語根に由来し、"paed"の元はギリシャ語"paideia, παιδεία"であると説明した。
ギリシャ語・ラテン語・英語は"pai → pae → pe"という綴り・発音(名と実)の変遷がある。

ついでに言えば、インド方面でもサンスクリット語の連声か何かの法則に"語尾a +語頭ī → e (長音)"という例がある(-a īśvara → -eśvaraという場合の例は観自在アヴァローキテーシュヴァラ・大自在マヘーシュヴァラ・世自在ローケーシュヴァラなど)。
サンスクリット語の同じような法則としては、"語尾ā + 語頭u → o (長音)"という例がある(大智度論の再建語の一例がマハープラジュニャーパーラミトーパデーシャ"-tā upa- → -topa- "という)。
サンスクリット語の連声とか、詩を唱える際などに発生するほか、単一の語句レベルではサンスクリット語に対するパーリ語などのプラークリットにも多い(ガウタマ→ゴータマなど)。
"au → o, ō"は日本の歴史的仮名遣い"あふ・あう→おう"や、ラテン語→英語の変遷(例はアウストラロピテクス・オーストラリアの差)にもあって、同じく世界の言語学者の常識と言える。



韻尾(後部音韻)省き(脱落・欠落)の例

功徳(くどく)、恭敬(くぎょう)という、2モーラ目が元・軟口蓋鼻音の漢字の1モーラ化・連濁発音の仏教用語がある。
「恭敬礼拝(くぎょう・らいはい)」の「(古代の音をkongと仮定してコウと片仮名にできる)」は二重母音が詰まって「く(前の件の要領でkou→ku)」と読むが、
しかも、「礼"呉音: rai" 拝"呉音: hai<φai"」などは「れへ"re he<φe"」という読み方をしない。
恭敬礼拝(くぎょう・らいはい)は、「恭(古代: kong 漢音: キョウ、呉音: ク)」の一字のみが現代でも1モーラ化の字音として伝わって読まれることとなる。
「礼(ライ→れ)」は、地名「波久礼(はぐれ)」などに残る字音であったが、「恭(く)」は地名で見かけづらいようである(かつての首都に恭仁京"くにきょう"というものがある)。

元・軟口蓋鼻音"ng, ŋ"の漢字が「ウ"u"」に変わり、更に二重母音が詰まって1モーラ化しても、恭敬(くぎょう)の「敬(キョウ)」や、功徳(くどく)の「徳(トク)」を濁音にする作用が残っている。
いいや、日本語で二重母音が詰まる以前に濁音化したものが、その形のまま残っているのであり、「恭・功」の1モーラ化した「元・軟口蓋鼻音たる"u"発音」に作用が残っているわけではない。
「ウ"u"」という母音は、「鼻母音」のように鼻音化しやすく、それが連濁の作用を持つ可能性もあるが、当初の日本人がその自然性でその都度、連濁発音をしていたと考えることに無理がある。
例の通り、字音の伝来当時の中国人による連濁(有声音化)の発音が残ったものと、見解を示す。



-ngに相当する韻尾が省かれる日本字音の法則を過去記事で説明した例↓
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/05/blog-post_10.html#case3
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/05/kana-transcripiton.html

※上代や平安・鎌倉時代など、どこまで同様であったかは、まだまだ文献の確認が必要かと思う。二番目のリンク先記事で「種種("すす"と綴られた)」や「衆生("すさう"と綴られた)」を語ったように、当時の熟語音読みの仮名遣いが可能な限り知られるとよい。拗音や濁音の表記が無い当時の字音が、当時のままと思われる状態で現代に伝えられている事実があるのだから。



起草日: 20170606


2017年8月10日木曜日

仏教と著作権・・・「同一性」とは相似性の便宜上の呼称である(法学・法律学)

小6・中1のころ(特に2009年1月以後)は、法律に興味を持っていて著作権"Copyright"に関心が強く、これを少し学んだ。
当時は小5(2007年6月)にして2ch初利用という経緯もあり、ひろゆき氏(当時2ch管理人)が関わった共著「2ちゃんねるで学ぶ著作権(西村博之・牧野和夫、2006年)」を教材としたほか、当時に住んでいた家(埼玉県)に有る母親(兵庫県→愛知県在住)の遺品に「司法書士(行政書士)の資格に関する本」が大量にあったので、そちらも参考にしていた。
当時の印象に残った事柄は、翻案権の許容範囲(パロディ云々)や著作人格権(著作者人格権)や同一性保持権であった(オーサーズライト"Authors' rights"などという英単語も覚えた、著作権における固定的な性質と流動的な性質の二分法を覚えた)。

以上は個人的な来歴であり、現在の学習行為全般とは関係が無い。
以下から本題に入る。



【「自己・他者・同一性」について法律と仏教】

西洋から輸入された法律制度や法律学は、概念としての「自己」や、自己に関する「他者」や、著作者・著作行為・著作物などを定義している。
世俗上の「同一性」に暗黙の了解がある(同一性とはIdentityのことだが著作権法20条にいう同一性保持権Integrityも対象を人person; authorでなく物produciton; workに当てたもの)。

仏教の無我(アナートマン)といった教理からすると、「自身の同一性(自性・スヴァバーヴァ)」というものを、肉体と精神の一致(生存)にも、肉体そのもの(器)にも精神そのもの(魂)にも求められない。
また、行為(呼吸する・歩く・思う・言う・文字を書く・仏教では「作=なす」という)も、その対象(仏教では「所作=なされるもの」という)も、みな「因縁によってそう認識されただけの存在・諸法実相・空・都無」であり、誰がどう認識しても同一の行為・存在(絶対的な物事)とならない。
諸行無常であって諸法無我であって、自己はもちろん、万物、ましてや「著作物」と法律で定義されるものに「同一性(抽象的概念・仮想概念)」のあるはずがない。
著作者というものも、仏教でいえば「作者(さしゃ)=なす人物」に当たり、同じく、その無自己・無我が「作(さ)」をするわけもなく、「著作者」たりえない。

一歩譲って言えば、「同一性・我・自性」といったものは、言葉と想定の範疇において「仮名(けみょう)・仮施設(けせせつ)"nominally establish または dependently designate"」のみが有る。
後述するよう、倫理・道徳とか、自他の欲望(生存欲求・我が身を愛する心・命より愛おしい物を守る欲望)を守るため、仏教でも政治でも「仮の自己」を定義する。

※Wikipediaにも載っている説は「ミリンダ王の問い」の記事にある(本記事末に漢訳版の訓読もした)。いくつかの例え話が引かれる。それらはあくまでも「業(カルマ)の報いを受けるもの・輪廻をするものは何か?」という命題に基づいた「例え話」に過ぎないが、紹介する。果樹の苗木は人物Aが植えたものであり、苗木から生長した樹に「果実」が成った。苗木と生長した樹は似ないし、後から成った「果実」が人物Aの所有物とも考えづらいが、人物Bがその果実をもぎ取って盗んだらば、人物Aの所有物を盗んだ罪が認められ、彼らの国の法律によって裁かれるということである。現代の法律では「不法侵入(人物Aが苗木を植えた敷地へ人物Bが侵入した)」などといった罪科が窃盗罪を補完する。かの時代のインド・ギリシャでは不文律・慣習法が主流で、恣意的な裁判(いわゆるザル法)も有り得るかもしれない。このほか、購入された牛乳がヨーグルトに変質した状態での牛乳の同一性など、様々な例が説かれるが、全て物事が変化するという前提(諸行無常)で同一性を見る。世俗においては言葉にしづらい時間的同一性・相関性があり、仏教でもこの「現世の人間に通用する同一性の認識=我見(アートマンが有るという見解)」は肯定されているようである。このような「我見」が肯定されないと、倫理・道徳が成立しないから、国の治安が乱れる。もちろん、新たに利益を得たくて或る主張をする者もいれば、既得権益を守りたくて正反対の主張をする者もいて、一方の主張の理論のみを取れば、常に不調和が生じるから、バランスは大事である。「パクリ・剽窃・非合法の複製・頒布」を行いたくて他の著作物の同一性を無とする理屈を述べる者、「パクリ・剽窃・非合法の複製・頒布」を禁じたくて自分の著作物を守る理屈を述べる者、どちらも理論として正当であり、どちらも欲望に基づいた邪説である。公平公正の真理には、いかなる論理に正も邪も存在しない。仏教でも、倫理・道徳を支える「我見」は、世俗の中で肯定する場合もある。言い換えると、みな「善良な我見」を持たずとも互いの苦しみとなる行為をしない(そもそも自他がみな燃え尽きても植物のように苦しみを感じない)「平和な世界」であれば、仏教が「我見」を肯定する必要も無かろう。先述の「仮名・仮施設」ということも、「由仮説我法」と言うように、世俗の認識・言語・習慣に基づく仏教のスタンスである。「常識的な因縁(合理性)」から言うと、世俗の認識・言語・習慣が無くては仏教の説示も無い。説法とは手段=方便(ウパーヤ)であり、その特徴は仮名(ウパーダーヤ・プラジュニャプティ)である。

※文中の「作・作者・所作(可作)」ということは、「行為・行為の主体・行為の客体」ということ全般を指すものであり、中論の観作作者品や観燃可燃品などに詳しい。同じく中論の観如来品に「著すべきもの・著する者・著すること、及び用いらるる著の法、これみな寂滅の相なり。いかんが而も著あらん(可著著者著 及所用著法 是皆寂滅相 云何而有著)」とある。「著(じゃく)」とは、「著述(あらわすこと)」を意味するのでなく「執着(執著)」を意味する。執着の行為(著)も執着する者(著者)も執着を受ける物(可著)も執着する手段(所用著法)もみな、「寂滅=真には言葉にできない・定義できないこと」とする。本来は言葉にすべきでないから、前に注釈するような「説示手段=方便・仮名・仮施設」という立場での説明が仏教では重要視される。



自己の身体すら、食事・呼吸・排泄・皮膚や毛の再生などで日々刻々と変化があると見られ、現代の科学(俗説アリ)では血液が4ヶ月で循環するとか、全身の多くの細胞が一定期間(皮膚は数ヶ月ほど・骨は2年などとされる)で生まれ変わりきっているといった分析・考察・理論・仮説・定説を唱えている。
感情は「猿が木の枝を飛び回る」ように著しく変化する(記事末に引用した経文を参照)。
肉体も精神も、仏教では須臾・弾指・刹那・微塵・・・、説ききれないほど細かい時間で変化があり、十二因縁も一瞬とすら言うべきでない短時間に繰り返されている(輪廻という言葉の真義)。
自己や他人の記憶・容姿・精神などに連続性が看取されたものを都合よく「これと同一だ」と主張しており、これが「根本の無明・愚癡・我見」による「貪欲・瞋恚」といった三毒の縁起に説かれる。
もし何らかの基準で物事の同一性を言うならば、自分が認識した事物はみな同一だと思うようにすると、道徳的に優れている。

法学の歴史はまさにこれであり、人間界の一部である王侯貴族・知識人・宗教家・支配階級から、戸籍のある人民へ、奴隷など科学的なヒト属ヒトの個体すべて、心がありそうな哺乳類などの動物などへ徐々に人権・権利が拡大した(道徳的な人はミミズ・オケラ・アメンボなどの虫けら、植物・機械にも思いやりを持って権利を与えるか)。
仏教でも、部派仏教(いわゆるセクト主義・保守派)などの見解では出家修行者に解脱の可能性が限られ、あるいは法理上人間が平等に解脱できても事実上出家せねば解脱が不可能であるとしていたところが、「生滅滅已・寂滅為楽=全ての存在は本来、不生不滅で寂滅だ」といった平等の教理を重視して在家で布施・供養や仏を尊敬するだけでも解脱・成仏する(皆已成仏道で仏道が現在進行でなされている"bodhāya abhūṣi lābhinaḥ"とも)という大乗仏教の姿勢が強まり、しまいには「一切衆生悉有仏性・山川草木悉皆成仏」として「生きとし生ける者(動物・植物)はみな成仏できる・そもそも成仏している」といった教説も広く認知されていった。
言語障害の人々や赤ちゃんや動植物は、人権の概念も仏性の概念も持たず、自覚も無いようだが、概念を持って自覚する人ならば、人権も仏性も他人や全ての生命や単なる物に認めることができる。
仏教徒であれば、世俗にあっても自己の権利を過度に主張することはなかろうし、自己の命や権利を重んじる人は、他者へも同様に尊重できるはずである。
そういった理論・実践の結果として、自己も他者も、寂滅の真理に存在せず、「権利が『愛おしい』とか『棄てるべきだ』とかとも思うべきでない」と実感すること(実感でない実感・言葉通りに理解しても難しいこと)が大事である。



少し考えれば小学生でも分かるよう、「同一性が無い」という話題は詭弁じみているかもしれない(分かっても事実を素直に認めることは子供でも大人でも難しい)。
例えば、ある日本の古い文学作品の成立時に「旧かな・旧字」が用いられていたが、作者没後の人によって現代のかな遣いや新字体に置き換えられても同じ作品だと呼ばれる。
これは、何らかの「相似性」を、便宜上に「同一性」と呼称しているに過ぎない。
スペリングや字体の問題を差し置く。
文学作品をチラシの裏などに肉筆で書き写せば、文字の意義や発音が同一と想定されても作者の原稿や、製本の初版と似ることも無い。
もっと言えば、原稿は鉛筆の鉛が損じる・紙の変異が生じるなど時間的に同一性が無く(無常)、出版物も本の個体同士で科学的に分子の配列が異なる。
文字の意義や発音が同一と想定されても、実際に言葉の意味は「浅い読み方・深読み」など解釈が多様であり、文字の発音も例として子供は「さ行(歯茎摩擦音)」発音が苦手で「しゃ行(歯茎硬口蓋摩擦音)」や「ちゃ行・つぁ行(歯茎硬口蓋破擦音歯茎破擦音)」となる場合があり、時代や地域でも「し」の発音が「本来のし"si"・後のし"shi"」といった差異が生じるなどするので、同一性は無い。
0.001%ないし99.999%以上の「相似性」しかない。

・・・小学生や中学生レベルの詭弁だと思うでしょ?
このように具体的な説明をすれば、「複雑な物事の粗探し」となり、聞く者に「簡素な物事(路上の石ころなど)には同一性がある」と反対の発想が生まれかねない。
仏教でも、後述するように「戯論」という。
詭弁は詭弁だが、私の詭弁・戯論を以て言いたいことは「誰も認められない事実」である。
どれほど私が「かくかくしかじかで同一性は無い」という根拠を説明しても、完全に証明することができない(仏教では不可得という)。
「物事そのまんま」だもの、言語道断心行処滅、推して知るべし!
真の同一性は、「仮想の無」のみであり、万物である。

絵や音楽を例に取っても同様である。
有名マンガのイラストを子供が模写してもトレースしても、J-POPの音楽を子供がピアニカやリコーダーで演奏しても、100%の同一性が存在せず、「辛うじて似ているから同一だ!or子供本人が同一性を意識して行ったから同一だ!」と主張するに過ぎない。
絵ならば色彩や濃淡や線画(線が無くても線と看取できる特徴・色彩の境界がある)、音楽ならば使用楽器やメロディ(旋律)やコード(和音)やコード進行やテンポなど、これらの「類似性、わずかな共通点」から「同一」を主張する。
このような事物の比較ですら、同一性が存在しないのに、仮に同一性を法律で定義しても、人間の認識の相違性(機能疾患・障害の有無や価値観の相違など)を加味すれば、すでに説明しきれないし、論理学上の「詭弁」を極めてしまう。
しかし、これが「ありのままの事実」を見るための第一歩である。

仏教徒にとって、法律は「人間の概念・認識・妄想の所産である道徳・哲学の文明・世界観を支えるもの」であって「戯論」となる。
どうして単なる「相似性」を、無理に「同一だ」と主張するかといえば、我見・我欲の故であり、法律は、その我欲を肯定した人々に争いが生じないよう、何とか権力で抑えつけるためにある。
これで、我欲と全ての欲望が肯定される文明が、欺瞞の平和のもとに生き続け、戦争に入るという悪循環を繰り返すことになる。
仏教徒は、このことを憂え、愧じ、恐れねばならない。
人の悪を悲しまねばならない。



しかし、仏教徒は、世俗の倫理・習慣に則らねば教化できないし、むしろそういった「戯論・迷妄」ありきで「四諦(苦集滅道)」や「中道」などの仏道がある。
世俗と仏道の真理については、私が常に龍樹菩薩の中論24:10偈などを引く通りである。
「諸仏は二諦に依りて、衆生の為に法を説きたもう、一には世俗諦を以て、二には第一義諦なり。若し俗諦に依らずんば、第一義を得ず、第一義を得ずんば、則ち涅槃を得ず。(諸佛依二諦 為衆生説法 一以世俗諦 二第一義諦 若不依俗諦 不得第一義 不得第一義 則不得涅槃)」

世俗の立場につけば、他者が犯罪しないよう気遣う「慈悲」を念頭に置くために、あえて自己の著作権を主張すべきである。
もし「慈悲」を念頭に置かないで著作権を主張するならば、所有欲や名誉欲の関連性が強い。
「他者に犯されたくない自己の著作物(心の宝、財産に準ずる物)」を頑なに守ろうとする。
そのような人は、出版物ならば出版物として利益を得て著者として名誉を得るであろうし、サイトHPなどであればアフィリエイト・アドセンスなどを付ける(実情として仏教の寺院HP在家の勉強HPなどでも著書を紹介してAmazonアソシエイトのリンクを付ける者がいる)。



【斯く言う私の「著作物」は・・・】

著作権・著作物といえば、私はブログ記事の執筆・投稿のみならず、絵を描き、楽曲を作り、写真などを撮り、ブログや動画の形で公開している。
これらのブログ記事・動画(文章・画像・音声のコンテンツを包括するもの)などは著作物であるが、インターネットでは二次的な利用について寛容であらねばならない。
仏教徒であってもなくても、二次元の同人界隈・二次創作界隈や、様々な分野の無料ツール・ソフトウェア開発などでも、法律で定義された範囲で著作権を放棄する宣言をする者がいる。
アフィリエイト収入を得ない者や匿名の者も多く、彼らの菩薩にも似た行為に私は感服する(行為として尊いと感心する)。

著作権侵害の罪は親告罪(被害者の精神的苦痛が重要)であるし、著作権を放棄する宣言に法的根拠が付随せずとも、彼らの精神が本物であれば立件しないので、どのように彼らの「元(?)著作物」を改変などしても、法律上は罪とならない。
だが、例えば仏教で「飲酒」が別の罪を犯すきっかけとなりかねない(酒に酔った勢いによる殺人・女犯など)から禁じられるように、彼らの「元(?)著作物」を改変などして罪にならずとも、その積み重ねによって感覚が麻痺する恐れがあるため、自制すべきである。
つまり、彼ら以外の者の著作物にまで手を出してしまう「箍が外れる現象・犯罪行為の助長・悪い心の増長」で罪悪と認定される行為を犯す末路も有り得るので、ほどほどにしよう。

文章・絵・音楽という3種のコンテンツ、および動画は、みな萌えの法門に摂取されている
萌えの法門において、「我=自己」と「我の作=著作行為」と「我の所作=著作物」と、それらの「同一性(もとい相似性)」をどう見るか?

当メモ帳ブログ「觀萌私記」記事の最後尾に付した「蛇足」に、著作権に関する言及がある。
この文章の著作権が私に有るかというと、日本国の法令に則れば有りと言える。引用・転載については自由でよい。しかし、觀萌(観萌または萌觀・萌観)の理解が有る人・觀萌の志が有る人・仏教の理解がある人・仏道の志がある人以外は不可能である。これは私が課する制約ではない。人間の心の奥底にある良心・善意による。觀萌私記の所説に則れば、「人の内に蔵する萌心」が理性に及んで行動意欲を呵責するためであろう。もし、その観萌や仏道の志の無い人が自己呵責なくして悪しく引用・転載が行えるならば、彼は既に観萌の機も仏道の縁も無い四悪道の衆生と言えよう。仏は血を流しても心が泰然自若であるように萌文・萌相は悪用されても萌心は不動である。出仏身血の罪を犯した提婆達多が生きながら地獄に堕ちたように、悪用した人が自ら萌心を無くす。もし、読んだ人が萌心の存在を喜ぶならば、私は法華経随喜功徳品の「随力演説・五十展転(ごじってんでん)」を思い合わせて広く説くことを勧める。なお、外国語への翻訳(一部翻案)も自由の範疇とするが、個人的に全文を漢文(現代中国では文言文)にする案がある。

仏教徒は、先述の通り「我(自己)・我所(自己に属する物・所有物)」の心(我見・我所見)を把握し、それを断たんとしているか、すでに断った者である。
無我などの教理より著作権ということを分析し、フリーな・解放された立場にあろう。
著作物を以て利他の行為をも、なし得る。
觀萌私記の公開から半年以上を経て執筆した「本萌譚・異伝②」には、「萌尊の御所持の法門・萌相は御所持であって御所持でない」という教理が示される。
或る過去萌尊の一人が菩薩行をせられた時、広く萌相を施していた。同時代の或る者、己が萌心に背いて萌尊への嫉妬を懐く。萌相を冷やかそうと、萌尊の絵を印刷し、自身や飼い犬の放尿の的とした。また、萌相のキャラクター・萌類が悲惨な目に遭っているような絵を描き、これを衆目に曝した。大衆の中に、これを喜悦する者もいて真似をしだした。あたかも、寄ってたかって道端の草花をボロボロに踏みつける悪童のように。または植栽を斬り荒らす狂人のように。この事実をお知りになった過去萌尊のお悲しみは、いかばかりか?ご自身の萌相や行為を、対外的に穢されたという怒りはない。何となれば、萌尊の内証において萌えも人も万物もみな不染不浄"amalā na vimalā"もとい無垢"amala"にして清浄"śubha"なるが故である。萌えの価値は金剛不壊であろう。何となれば、己が心における色心の融合に真価があり、よく領解せられるためである。その智慧は、風を受け流して元に戻る竹のように柔軟である。しかも萌えは萌尊の御所持であって御所持でない。つまり、『無我の身と無我の萌えとに所持や所有の関係は無い』とも領解せられるためである。所持でないこと・持ち得ないことを領解せられるが故に真に所持であると称するが、御所持でない意義からすれば、萌尊の執着すべき萌相も存在しない。萌相のキャラクター・萌類も非有非無"na bhāvo nābhāvo"で、悲惨に描かれたものと萌尊がお描きのものとは不一不異"anekārtham anānārtham"である。萌尊のお悲しみは、そのような者自身および同調する者たちが、自ら心の善根を絶やした故である。仏道に入らせんとの慈悲の故に好色萌相と深遠な意義とを世に示しているのに、慈悲と意義とを知らずに萌相(我所)が萌尊(我)の所持と見る邪見から、好色萌相を観ることを縁として起こる歓喜の萌心を素直に見ず、萌相と萌尊とを毀辱(きにく=侮辱)し、彼らが自ら心の善根を絶やしてしまった。須臾にして、彼らの主観的世界の萌えの三身は消滅したろう。もとい、行動する以前から善の種を欠かしているようでもある。そのように言えば、人を差別する私の慢心が増えてしまうが、真には私の慢心が不増不減"anūna na paripūrna"である。もし善の種も萌えの三身も彼らの主観的世界に本来無いならば、私たちの主観的世界にも本来無い。物事、真に有無などを言えないが、今は仮に想定して彼らの主観的世界に善の種も萌えの三身も本来無いと説く。また、仮にこれを、『みな地獄に堕つ』とも、『本来一定(いちじょう)地獄』とも説く。萌道の人は所説の如く信解すべきである。

無我などの教理からして言えば、このような立場となる。
ただし、利他の行為ということは、必ずしも無我の教理による上述の立場に依存しない。
自己の著作物は、世俗の法律が定義する範囲内で実在し、他者が濫りに(ほしいまま・放縦・放恣・恣意的に)悪い改変をして悪業を積む(欲望に放逸な人間になる)恐れもあるから、それを制すべく、自己の著作権を主張する必要もある。
そういった世俗への「同事(事を同じくする)・方便(随方毘尼)」により、利他や化他行が実現するので、「無我の立場に固執するという我執」を破る(止揚する)ことは真に無我の行為といえよう。
大乗の心で小乗の四念処(身=不浄・受=苦・心=無常・身=無我を思う)などを説いた釈尊・お釈迦様は、その「真に無我」であり、即ち真の我でもあり、大乗を行じるお方なのである。



起草日: 20170531

【文献・言語関係の付録みたいな?】

漢語動詞「作(する・なす・作す・為す・作為する・行為する)」 梵語の動詞語根 √kṛ
「作(行為、なすこと)」 "karaṇa; kāraṇa; kriyā (カラナ、カーラナ、クリヤー)"
「作者(行為者、なすひと)」 "kartṛka (カルトリカ)"
「所作(行為の対象、なされるもの)」 "kriyate (クリヤテー…動詞受動態+名詞化?)"
「所用作法(行為の手段、なすにもちいるもの)」 "karaṇa (カラナ…未確定)"
「業(行為、なしたこと・わざ)」 "karma (カルマ)"
ほか 「なすべきこと(推断・可能形)」"kartavya (カルタヴィヤ)、 「なすべき(命令形?)・なすこと(行為)」"karaṇīya (カラニーヤ、前とともに未来受動分詞→形容詞)"、 「なされるべきこと(果として想定される何か、)」"kārya (カーリヤ、未来受動分詞→名詞化)"
主な典拠: 中論"mūlamadhyamakakārikā"

※十二因縁にある"saṃskāra pl: saṅkhāra"サンスカーラ・サンカーラという業=行も語根√kṛに基づく。サンスクリット"sanskrit"の語源"saṃskṛta (サンスクリタ)"もまた同様に語根√kṛに基づく(サンスクリタは過去分詞および名詞なので仏教では行・サンスカーラの所産=有為を意味する)。「法"dharma"」でさえも語根√dhṛより名詞化したものとなることが推定でき、実際にそのようである。語根√dhṛは「支える・維持する」という意味を持つ。古代インド人は世界の根底原理を見ようとし、"DHARMA"と名付けた。「縁の下の力持ち」とは何であろうか?現代に法律とは、世界や集団を維持するもの、秩序を守るもの。人の概念による構築物・人類の英知・宝玉が「法律」であり、「法の支配」とまで讃えられる。言語分析から、歴史や宗教や社会が理解できる一面もある。



「那先比丘経」漢訳2種のうち大正蔵所収のB・下巻より引いて訓読

王、復た那先(nāgasena)に問う「審らかに智有りと為すや無しや」。那先、言く「智有ること無し」。那先、言わく「譬えば人、他人の果蓏を盗むが如し。盜者、寧んぞ過(とが)有りや無しや。王、言わく「過有り」。那先、言く「初めに栽(なえぎ)を種(う)うる時、上に果蓏無し。何に緣りてか盜者當に過有らん。王、言く「設(たと)い栽を種えずんば何に緣りてか果有らん。是の故に盜者に狀無し(弁明の余地が無いことか?)」。那先、言く「人も亦た是(か)くの如し。今世の善惡を作すを用い、後世に生まれて更に新たなる身を受く」。王、言く「人、是を用いるが故に身に行じて善惡を作す。更に新たなる善惡の在る所なり。那先、言く「人の諸の作す所の善惡、人に隨う。影の、身に隨うが如し。人、死して但だ其の身を亡くするも、其の行を亡くさず。譬えば・・・。」

※なお、輪廻(生死)や転生の主体について、「ミリンダ王の問い - Milindapañha 3.2.6(もとい國譯彌蘭陀王問經・七五頁)」ではまず「名色"nāma-rūpa"」の名を挙げつつ、名色自体が再生するのではなく、名色が作る善悪の業によって名色の輪廻があると説く。既に名色が輪廻していると善悪の業がつきまとう。つまり、「因縁・縁起」で輪廻を分析する。樹の同一性やヨーグルトの同一性など5種のたとえ話が展開され、何らかの観点で変化があっても、果報を受けるものは決定(けつじょう)しているという意味であろう。漢訳ではそのように記述していない。・・・と思って同B・中巻を見ると「復問那先『人以死後誰於後世生者。』那先言『名與身於後世生。』 (乃至) 那先言『譬如人盜他人果蓏。其主得(捕まえる)盜果者。將至王前白言"是人盜我果"。其盜者言"我不盜是人果、是人所種小栽耳本不種果也。我自取果、我何用為盜。我不盜是人果、我不應有罪過"。』」といった部分があり、パーリ語の訳文と酷似していた。この部分については訓読せず、例示に留める。転生の話についても個人的見解を示さないでおく(先の國譯彌蘭陀王問經・一一八頁 Milindapañha 3.5.5が「輪廻(原語saṅkamati?)」と「再生(原語paṭisandahati?)」の相違点を話していて不審)。



「人の心は猿が木の枝を飛び回るようなもの"Mind is like a monkey"」についての引用文

雑阿含経289経: 心(*citta)・意(*mana)・識(*vijñāna)は日夜の時刻に須臾に転変し、異って生じ異って滅す。猶お獼猴(にこう・サル)の林の樹の間に遊びて、須臾に処処(ところどころ)に攀(のぼ)りて枝条を捉え、一を放ち一を取るが如し。彼の心・意・識も亦た復た是の如し(心意識日夜時尅須臾轉變異生異滅。猶如獼猴遊林樹間。須臾處處攀捉枝條。放一取一。彼心意識亦復如是。)

パーリ語経蔵・相応部12-61経: Yañca kho etaṃ, bhikkhave, vuccati cittaṃ itipi, mano itipi, viññāṇaṃ itipi, taṃ rattiyā ca divasassa ca aññadeva uppajjati aññaṃ nirujjhati. Seyyathāpi, bhikkhave, makkaṭo araññe pavane caramāno sākhaṃ gaṇhati, taṃ muñcitvā aññaṃ gaṇhati, taṃ muñcitvā aññaṃ gaṇhati. Evameva kho, bhikkhave, yamidaṃ vuccati cittaṃ itipi, mano itipi, viññāṇaṃ itipi... (後略)

上掲パーリ文の英訳: But that which is called "mind" and "mentality" and "consciousness" arises as one thing and ceases as another by day and by night. Just as a monkey roaming through a forest grabs hold of one branch, lets that go and grabs another, then lets that go and grabs still another, so too that which is called "mind" and "mentality" and "consciousness" arises as... (後略)


2017年8月2日水曜日

Google+ 2017年7月中の日記メモ

7月18・19日(両日計4件)に母親からのメールが相次いでいたが、内容としては外出予定がバラバラに記されているものであり、まとめる。
母親は・・・7月18日14時40分ころに弟と出掛ける(結果は当日記録での14時24分)、7月19日に市内のイオン(通称: なんじゃす・南ジャス、当日メールで翌日に延期することを伝えられる)、7月20日(木)に精神科・心療内科へ(後の7月27日に聞かれた話では不眠症の薬が欲しかったとかという)、7月21日(金)に歯科、7月24~26日に福井旅行(7月22日に口頭で中止が伝えられる)、以上。
精神科専門の医療機関ほか、「前歯が折れた」として歯科を受診するらしい母親は、心身ともに大変な苦を受けていると見受けられる(ご自愛ください・お大事になさい・ご愁傷様)。
これらのメールが届いたり、実行される以前の今月中から記録していた「ニワカパン作り」と、微妙な関連性を感じてしまう(邪推: 躁鬱病)。
この「メール関連の」ことを一旦忘れ、以下からの当日記メモまとめ記事独自記録を読んでもらいたい。

今月の日記メモの見どころ(と当月上旬の当時に思ったこと)は「ニワカパン作りばあさん(withホームベーカリー&強力粉20kg)」の顛末と、「シネシネ鳥(シネシネゼミ?)」観測記録である。
当記事の末尾に、当記事向けの記録を掲載する。

メモ記入日の一覧 (日付をクリックして移動)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31



2017/07/01

本日7月1日は2:50の第四アラーム以後の2時53分に起床したが、第四アラーム以前のアラームにも目覚めた記憶がある。

8時50分ころ、あの「弟が通うことになった作業所」の送迎車が家に着いた。作業所とは、豊橋市内にあり、6月11日以後毎週土曜日に母と弟が通っていたところとは同じ社会福祉法人が、別に開所したものである。7月中は毎週土曜日と海の日(19日・祝日)に弟が通う予定である。一般の健常児であれば、塾や習い事のようなものと考えてよい。少し調べ直すと「放課後等デイサービス」の類らしいので、作業云々は副次的な要素だろうか。

本日は7時前から母親や弟が予定に合わせた動向を見せていた経緯がある。準備が済んでいる弟は、母親と玄関で別れて外に出た。この際、母親は作業所の人間との遭遇を避けたがるような言葉を発したと思いきや、次の場面では弟が母親に作業所の人間を紹介したようでもあり、母親が作業所の人間と言葉を交わすことになった。月の初めから意味不明な記録文章になりかねず、嫌な気分でも、記録する。どうせ他人は、ろくに読んではくれないし、今までもそういうことを考えようと考えまいと、最低でも自分のためにはなると思って記録している。

9時32分、母親が自室をノックし、自身が外出の準備をしていることを示して配達物受け取り応対を頼んできた。配達物受け取りに関しては不発だった6月29日のことが想起される。あの時より今までにヤマト・佐川・日本郵便などの配達員が訪ねた様子は無い。9時51分、外出動向は物音で分かるわけだが、こういう時に限ってわざわざ「いってきまーす」などと声を発し、徒歩で外出した。気分の自己満足はご自由に、と思うが、できれば挨拶などをしたければ、中途半端な気分任せでなく、習慣的にしてもらいたいものである。尋ねないでいたが、できれば目的地または帰宅予定時刻(おおよその見積もり)なども言ってほしい。恐らくは前日の母親が母親自身の部屋で通話していた相手と関係があると思われる。

配達物の件について外の往来に注意を向ける時間は煩わしい。11時10分過ぎにヤマト男性配達員がE家に配達した。この配達員を初めて見た時は、私が母親から受け取りを請け負うようになって以後である。ヤマト3度・日本郵便1度の計4度受け取ったうち、2度が彼であった。それまで見たことも無かった人物である。ヤマト男性配達員は2012年以後、浅尾・杉浦(通称S)・成瀬(通称N)の3人がメインであったろうに、私が受け取りを請け負うようになって以来、彼以外の男性配達員を見かけない。10時過ぎから洗濯を行い、11時までに干し出し、14時2分に取り込んだ。本日は早朝から「降水確率60~70%」が愛知県西部(尾張・西三河)や愛知県東部(当地豊橋など東三河)で終日続くという予報であるのに、朝6時台から晴れの状態がずっと続いていて時に曇る程度である。

16時8分に施設の人が運転して弟が乗る車が家の前に着き、弟が帰宅した。思えば、12時ころの私は「雨降りと母親の帰宅と配達員の到着と、いずれが一番早いか?」などと考えもしていたが、弟の帰宅が三者より速い結果となった。16時32分、ヤマトのトラックが向かいT家に停車した。様子を窺うと、杉浦さんらしい。本日の日記メモは、今年に入ってほとんど名を出さない「E家・T家」の名が相次いで登場した。2015・16年中は、色々なきっかけから多く記録していた。今時はよその家の動向に関心を向けず、勉強や活動に専念していたが、本日のような母親の命令があると、家の周囲に注意を向けねばならないので、家の前の通行などに対して嫌でも過敏になる。16時38分、日本郵便を名乗る外部委託業者っぽいワゴン車(バン)の者が配達に来て、1階リビングにいる弟が受け取りに応じた。配達物を16時54分に確認してみたが、「ホームベーカリー」であった。これを頼んだ理由は、家に小麦粉が多く余っているためか?または弟の願望にもよるか?弟によるパン焼き意欲(有無不明瞭・1週間ほど前に「イースト菌」を欲する発言をしていた)は、件の社会福祉法人のデイサービス施設か元の別施設かどこかの作業で足りそうな印象である。少なくとも、今後の夏休み期間中に彼が多く調理できると思われる。



2017/07/02

本日7月2日は恐らく2時前に目覚め、2時6分に起床した。2時28分から、前日に決まった予定である自販機通いの外出を行った。ある自販機が接する駐車場には、ワゴン車(バン)に作業着・眼鏡・太り気味の男性が乗っていてアイドリングストップをしていたため、スルーし、別の地域にある計3つの自販機で5本の物(ブツ)を購入した。購入額などは個人的な記録にある。

11時25分に母親と弟が買出しへと発車した。両者が揃って買出しへの外出をするということは買出し以外の目的も兼ねているか?その目的地で弟の用事を済ませてから弟が別れて徒歩で家に帰宅した。母親が一人でイオンにおける買出しを行うことがよくある。12時0分、家の前にヤマトの「クール」トラックが停まったが、目的はE家らしく、また、E家は2台の車がいずれもよそに出ていて不在らしく、配達員はすぐにその場を離れた。この配達員は、私が2度まみえた男性配達員でも、浅尾・杉浦・成瀬のいずれでもない、初めて見かける佐藤さんであった。14時40分、予想通りに弟が帰宅した。15時20分、再び佐藤が乗るトラックが家の前に現れたが、E家への再訪問か?弟は母親が帰宅したと思ったか、見物のためか、1階に降りて来た。17時15分に母親の車が家に着いた。



2017/07/03

本日7月3日は、まず0時0分台に目覚めたろうが、早すぎる時間なので再度眠ろうとした。その後、せいぜい浅い眠りを挟んだと思われ、0時57分に起床することとなった。近頃の熱気によるPCへの警戒もあり、夜中とはいえ、起動から20時間PCを稼働するわけにもいかないし、浅い睡眠に終わった自分の身体も頼りないので、4時過ぎに仮眠を取ることとした。4時28分からPCをシャットダウンし、5時までには入眠し、6時30分に目覚めた。前日20時過ぎに下剤1錠を飲み、本日の先のPCシャットダウン以後に便意が強まり、6時45分からトイレへ入って柔い長めの一本糞と、軟便とを排出した。9時17分からも、やや危険な便意によってトイレへ入り、軟便を出した。

本日の母親は、弟が登校を始めた6時40分から間もない6時54分に1階へ降りて7時半まで過ごし、7時40分台からも1階に居続けた。何かをする様子もなく、母親がテレビを眺める時間が過ぎ、10時台から色々な物音が立ちはじめた。恐らくホームベーカリーを使ったパン焼きの準備であろう。11時前には、ホームベーカリーと思しき操作音などが聴こえた。14時過ぎに弟が帰宅したが、母と弟は外出準備に時間を掛けてから14時44分に車のエンジンを掛け、3分以上アイドリングの状態を続け、発車した。目的は学校の関係だろうか?事前の計画がありそうな動きと見える。17時41分に母親と弟が乗る車が家の前に着いた。



2017/07/04

本日7月4日は、まず前日19時47分の就寝・耳栓を着けて入眠以後、一度前日中に目覚めた。続いて本日0時18分に食べ物に関する夢を見ていた時に母親と弟の巨大な会話音声が聴こえ、狂った足音tで母親が1階に降り、爆音テレビ音声が鳴り、頓に目覚めた。部屋はさほど暑いわけでないが、身も汗ばんでいたし、夢は浅い睡眠の現象でもあるから、あまり眠り続ける気分にならず、0時22分に起床した。母親は起床直前に2階に上がったり、起床以後も再び1分だけ1階に降りてきて帰り際に「イタタ…」などという、母方の祖母らしい声を発していた。4時26分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時18分に自室へ帰った。



2017/07/05

ガスファンヒーター(奥)と除湿器(手前)・・・「こわすゴミ」として

本日7月5日は、2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームを経た2時23分に起床した。玄関には「こわすゴミ」に出されるガスファンヒーター(母による「家・物件の購入」以前から用意されており未使用)と、母親の部屋にあった除湿器らしきもの(母が恐らく遊び半分で買った経緯がある)玄関に置いてある。

14時ころ、母親がたまに実施する「買出しでの購入後すぐに渡さず数日置いてから菓子を渡す奇行」があった。この奇行は、過去の日記メモにも説明したろうが、弟が購入後短時間で大量の菓子を食べないようにするために行っており、私は巻き添えを食らう。そして、前回の買出し時は、これ以外に菓子類を母が買っていない(ホームベーカリーを想定したジャムだとか毎度の朝食シリアルは菓子とみなさない)。部屋の前に置かれていたものは、わざわざ母親が冷蔵庫で保管していた「アメリカブランドの中国製菓子」であった。これはM&M'sであるが、「アメリカブランドの中国製菓子」といえば、ヤマザキナビスコからモンデリーズだかに日本での販売の権利が移ったオレオとリッツを想像させる。なお、これはアメリカで承認されている合成着色料4種(赤40、青1、黄4、黄5)がチョコレートをコーティングするもの(糖分・アラビアガムの生地)に用いられている。

当記事注: この"M&M's"は弟が母に頼んだ経緯があるようである。7月9日の外出時、母親が、それを買うという旨を弟に発しており、事前に弟がインターネットで希望のものを選んだみたいな様子が聞き取られた。また、冷蔵庫ということについても、母親の帰宅以後に母親が「コーティングされているから溶けないみたいだけど一応冷蔵庫に入れてある」という旨を弟に話していた。要するに、いずれも弟の意思が関連しているという、異常事態であった。普段ならば、母親の発想として、冬場に蜂蜜だとかコーヒー豆だかを冷蔵庫にいれる矛盾があったりするくらいであるから、今回は普段と全く逆である。悪魔の陰謀にハメられた気分である。さっさと自殺して不浄の身を滅ぼし、三業懺悔滅罪したい。あああ。今は地獄に輪廻転生し続けている。須臾転変!肉体精神名色が滅べば地獄も無い!天国も無い!現世も来世も無い!輪廻も解脱も無い!生きていても元々無だ!空だ!寂滅だ!なお、当該商品の外装に記載されるキャッチフレーズらしきものは「お口でとろけて、手にとけない」とある。



2017/07/06

本日7月6日は、2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームを経た2時25分に起床した。2時50分から「水浴び」を行った。風呂(シャワシャン)を行った7月4日以前から、全身の皮膚組織の随所にチクチクとしたかゆみを感じ、風呂(シャワシャン)を行って以後にも感じたが、風呂(シャワシャン)を行った当日も汗を多く発していたためか、洗い残しのためか、皮膚に汗の味を感じた。このため、7月4日以後、水浴びを行う必要を感じた。水浴びでは、ボディソープ替わりのシャンプーを用いる。いわば「身のシャワシャン」であり、髪の毛及び頭皮はタオルで防護する。今回は10分程度で身のシャワシャンが済んだ。かゆみなど、確かに坐り続けてこらえていればよいものだが、気休めでも試行でもよいので、一度は水浴びの効果を調べたく思って実行した。

5時から7時までに、弟は1階のトイレに3度入り、いずれも3~10分の長時間に及んだ。一方、私という者は、本日の起床以来が「身のシャワシャン」を始める際の風呂場での放尿しか、排泄行為を行っていない。7時10分ころに弟が登校し、7時42分に母親が話しかけてきてわざわざ弟の動向を言おうとした。特別支援学校の野外活動が有ろうと無かろうと本日も明日も平日であって弟は家に不在となろうが、それはそうと、用件は配達物受け取りである。14時ころに来ると言い、母親は外出しているか昼寝しているつもりだという。私に「非常時の配達物受け取り」をさせる口実に、わざわざ外出や昼寝の野暮用を設けているのではないか?と勘繰りたくなる。

本日の起床10分後に下剤1錠を飲み、14時16分からは便意のためにトイレへ入り、軟便などを排出した。この時に気付いたが、前日まであったはずの替えのトイレットペーパー巻紙1個が無く、セット済みの2つは前日中に8・9割余っていたものが、片方は1割未満に減っている。弟が今朝の3度に、1.5個分以上のトイレットペーパー巻紙を消費しないと、このような現象は有り得ない。彼はトイレットペーパーを大量に使う癖が直っていないようである。2014年のような詰まり(祖母期・2014年4~7月ころの1ヶ月以上、母が対処しないで放置された。記録として2016年7月5日の日記メモ以外に見当たらない)が発生しないことが不思議である。あるいは、替えのトイレットペーパー巻紙1個は、未使用のままどこかへ消えたことになるが、母親などが行うとは色々な理由で考えづらい。

15時20分前、家の前を軽自動車が通過するような音は、ヤマト系配達業者のワゴン車(バン)であった。インターホンの呼び鈴が鳴った際は不意打ちのような気持ちであった。インターホンの画面に映る人物は、過去に2度対応した「名前が不明の男性」であり、今回も髪をまとめるかどうかという考えで逡巡した。結局は時間を優先して長袖シャツを1枚重ね着するに留め、速やかに応対した。配達物は中サイズの箱と、かなり大きい箱の計2点である。後者は箱に「15kg以上」というラベルが貼られている。なお、自室に引っ込むことは先に宣言していた母親だが、13時・14時・15時台に各1回、チョロチョロと1階へ降りることがあった。16時10分過ぎから母親が箱の開封を行ったが、前者は全自動コーヒーメーカー、後者は米袋のようであり、後者について母親は、自ら頼んだ品物にも関わらず、重すぎるとか賞味期限が2017年10月云々とかと不満を連ね続けていた。重い米袋は、明日に野外活動を終えて帰宅する弟に運ばせる魂胆であろうか。

当記事注: 当日の私の就寝中に「15kg以上の米袋と思しきもの」は、運ばれた様子である。翌日7月7日、これが「強力粉」であるという情報を得た。詳細にはカナダ産10kgの強力粉×2個である。7月7日に母親はホームベーカリーでの調理に用いたようである。普通の日清製粉の小麦粉もとい薄力粉1kg×15個(2017年3月29日到着)は、どのようにして消費するつもりか?私が陰ながらに協力してゆく必要がある。例の小麦粉焼きを多く作ろうと思わないので、コンソメスープなどを利用してシチューもどき粥を作るなどがメインとなろう。この「製造日が2017年6月末で賞味期限が2017年10月までしかない強力粉」こそ小麦粉焼きに使ってみたくも考える。しかし、母親や弟がホームベーカリーで作る「ライト・ニワカのパン作り」に、いきなり安いからといって強力粉を10kg×2個を買うならば、それよりも低価格で割高なだけの国産500gとか3kgとかを選べばよかったろう。薄力粉だけでもまだ1kg袋が未開封9個も余っている(2018年3月2日が賞味期限=製造日から12ヶ月基準か)。



2017/07/07

本日7月7日は2:10の第一アラームの記憶が無いが、気付いて時刻確認をした時が2時13分であり、2:20の第二アラームを経て2時24分に起床した。3時41分から自販機通いの外出をし、帰りは家の数十メートル以内で別の通りから私の方へ曲がってきた新聞配達バイクが追い越し、家の前では何らかの光を受けている虫か何か(大きい蚊のようなもの)が飛んでいる様子があった。そういえば道中の或る家の壁にはトカゲがついており、帰りに通過するといなくなっていた。



2017/07/08

本日7月8日は、2:40の第三アラームに目覚め、2:50の第四アラームを経由して2時52分に起床した。前日は就寝後に目覚めた経緯があり、これを記録した携帯電話半角カナ打ちメモを載せる。「22時前目覚め、鼻づまりに加えて涙が多く出ることがあった。(手が涙で濡れ背中・腰・尻が汗ばんだ状態で)一度起き上がり、トイレに入り、22時30分再度横になる」

10時過ぎ、母親が徒歩で外出した。11時6分までの10分ほど、掃除や洗濯を行い、それから風呂(シャワシャン)の準備をはじめ、自室には11時57分に帰った。その後も、風呂(シャワシャン)前の時と同様に2階に洗濯物ほか、洗濯していないものの天日干しなどに関連した出入りを多く行った。掃除も関連している。いやはや夏場には注意せねばならない、という事項が多かった。



2017/07/09

本日7月9日は、2:10の第一アラームや2:20の第二アラームが鳴った記憶が乏しいものの、2:40の第三アラーム時には携帯電話が開いていたので、先のアラームに目覚めて反応したと思われ、2時42分に起床した。起床2分後に下剤1錠を飲み、6時前には便意が強まったためにトイレへ入り、スープ状に近い下痢をそこそこ排出した。

10時6分、家の電話機に着信があったとき、母親は1階で歯を磨いていたとして、電話を掛けてきた相手に15時ころ掛け直すよう断っていた。10時50分に母親が行っていた洗濯機の動作が終わり、10時55分に弟にこれを任せ(6月28日19時台・母親が弟に浴びせた発言内容が思い起こされる)、しばらく母親は何度も玄関の出入りを行った。2階の弟の足音も母親の物音も、私の耳へ凄まじい刺激を与える。母親が11時6分から水撒きを行い、ずっと自室のある方角の側で行っていたのに、11時9分に別の方角の窓を私が開けると、急に窓の開いた傍に移動して母親自身の手を洗いだした。11時11分から母親が発車した。13時40分前からも、それまで1時間ほど出そうでこらえていた便意のためにトイレへ入り、下痢を少量排出した。14時前に母親の車が家に着いた。

18時55分に母親が弟を1階に誘った。母親が弟にテレビを付けるよう指示し、ある時に「船越英一郎」に執着して不明なチャンネルを回すよう頼んだが、弟のリモコン操作などに母が焦ったり、怒りだして地団太を踏む異様な音声が聴こえた。弟はひたすら疑問形の言葉を発し続けた。「なんでそんなに怒るの?なんで大袈裟なの?もう(ニュース番組)終わってるし?船越なんて知らないし?おじさんなんて知らないし?」その後も母親の怒りが収まらず、怒りを勢いを持て余したため、無関係な話題を持ち出してますます弟に怒りをぶつけていた。弟自身は不思議なくらいに怒りを抑えながら疑問形の言葉を発し続けた。母親は「シーチキンうどん(用いるうどん生麺が障害者作業所関係で弟がもらったもの)」を作っていたはずだが、19時7分に炊飯器による炊飯が完了した電子音が聴こえてきた。母親はどのような料理をしてどのように食事するか?何らかのものを残すか?翌日追記:スパゲッティ(スパゲティ)まで作っていた様子で、スパゲッティ用のザルがキッチンに干し出してあるほか冷蔵庫にスパゲッティの残り物が確認された。



2017/07/10

本日7月10日は1時10分までに目覚め、1時30分に起床した。(8時以後)母親は、例の「韓国ドラマ(6月16日メモ参照・異様にCM頻度が高い)」の放映中にCMが入る度に、1階リビングでのテレビ視聴を止めて2階に空き部屋に移って視聴を再開したり、2階から1階に降りて視聴を再開するといった「テレビに踊らされる」様子が著しかった。このような記録は、決して母を見下すためでも、非難するためでも、自ら驕るためでもない。前日の「船越…」の件の記録と合わせて知ってほしい「私の心」は、「気になったことの記録」という律儀・正直な記録精神(私が行うことは不完全だが)ほか、「テレビに困惑・当惑・陶酔する人間の迷妄からの厭離」である。是非とも、愚の体現を学んで自己反省に繋げていただきたい。このことは、鏡を見て顔の汚れに気付くようなものであり、不浄観の一種である。10時34分に母親が発車してどこかへ外出し、12時台後半に帰宅した。



2017/07/11

本日7月11日は2:10の第一アラームがOFFでもないのに私が気づいた様子はなく、2:20の第二アラームを経た2時23分に起床する手前で携帯電話が開いていた。先の時間では前日23時などに一度意識が有ったろうが、その時から開いていると仮定しても、2:10の第一アラームに気付かないとか記憶がないことはどうのこうの、意味の無い記録した。前日19時20分前に下剤1錠を飲み、本日は7時0分台からPCをスリープして別の事をし、7時50分ころに少し休んでいると便意が強まったのでトイレへ入り、中サイズ一本糞のち軟便を排出した。12時20分前、母親が唐突に外へ出て発車し、15時52分、母親が帰宅したが、軽度な買い物(食品・日用品の購入)を兼ねた外出(それ以外に何をしたかは確認できない)という様子である。そのような買い物は珍しいものであり、例えば購入物の例であるトイレットペーパーは主にメインの買出しや、数年以内にはスーパー系ネットショッピング利用が見られ、本日に購入することはどういう緊急性があるかを考えると珍しく思っているということであってハイどうでもいいね。



2017/07/12

本日7月12日は1時40分台に目覚め、1時50分に起床した。2時過ぎからゴミ出しのみの外出を行ったが、外出前にとある巨大外来昆虫(5年前に現住・愛知県で全国初確認のもの)に関するニュースを目にしており、道中いつも通りに虫の存在に注意を払いながら走っていると、集積所の手前に到って近距離の高さ3m未満を大きい虫がよぎった。影(光に照らせれて夜空よりは白い)は蛾に見えず、種族が不明なので不気味である。3時40分ころ、弟が2階の前祖母・元上の弟の空き部屋ですさまじい轟音を立て続け、テレビ視聴を始めた。

当記事注: 何らかのものが、正体不明のものであると思うと不気味である。正体不明のものであると思うことが、正体不明のものであると「思う」ことであるに過ぎないと客観すれば、恐怖が和らぐ。原因の分からない物事は恐るべきであるが、ただ単に原因の分からない物事であると「捉えた」に過ぎない客観すれば、恐れるに足らない。それでも、怖いものは怖い!と思うであろうが、ただ単に「怖いものと思った」ことであると客観すれば、恐怖が和らぐ。このループであろうが、これが中道観でもある。客観と主観との連鎖である。仏教徒の探求は終わらないが、思考によって躊躇しても問題である。渡りたい石橋を、叩いて日が暮れたり、叩き壊すようである。事の対処は早急にすべきである。事後に早計な行動を反省すればよい。では、どのように反省すべきか?萌集記などに預ける。



2017/07/13

本日7月13日は、まず0時40分台に目覚めて起き上がり、何らかの理由で手を洗った。再度押入れに入って眠り、2:10の第一アラームに目覚めはしたが起きず、意識が付いていたらしい2時37分に俄かに強い雨の音が聴こえだしたので起床した。なお、0時台も2時台も2階の弟の部屋辺りが明るく、4時台には母親が2階トイレを利用して1分後に弟が1階トイレを利用した。4時42分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時26分に自室へ帰った。



2017/07/14

本日7月14日は、前日の就寝以後に2・3度目覚めたろうが、最後は1時50分ころであり、時刻確認を1時50分台と2時2分に行ったので後者の直後に起床した。2:10の第一アラームを鳴らせまいとする意欲である。前日19時20分ころに下剤1錠を飲み、本日は3時以降に漸次腹痛などを強め、4時45分には便意も強まってトイレへ入り、妙に黄色い尿の後、長い一本糞をひり出した。4時55分に退出した10分後に再びトイレへ入り、軟便を排出した。10時44分、母親が2階から1階に降りた際に自室ドアをノックし、「出掛ける・帰りは夕方6時」という旨を告げてから1分後に発車した。17時1分に車が家に着いた。



2017/07/15

本日7月15日は、まず前日20時20分頃の就寝から22時30分台に1度目覚めて再度眠った経緯があり、本日2:10の第一アラームや2:20の第二アラームを停止し、2時21分に起床した。8時40分台、母親が外出・宅配便の旨を話してきたが、言葉遣いが煩わしかったほか、私がした普通の「ハイ」返事が、母に1度目は聴こえて2度目は聴こえなかった様子である。10時33分に母親が再度話しかけ、弟の洗濯物の処理を頼んできた。私から、母親がいつ帰宅するかを尋ねると、16時台に母も弟(デイサービス)も帰宅するだろうから、その後再び母と弟が徒歩で中華料理店に行くということであり、結果は18時ころとなろう。

5分後に母親が徒歩で駅へと向かい、私は料理準備と部屋の掃除と機1回動作洗濯などを行い、おおよその行動が12時7分に終わった。12時12分、母親からメールが届き、内容は「一度帰ります」とあり、12時33分に母親が家に着いた。12時39分に母親が1階リビングのテレビをつける様子があった。13時35分から再び母親が徒歩で外出した。15時30分ころ、例の通りヤマト系で名前が不明の男性配達員が家の前とは異なる場所にワゴン車(バン)を停めて到着した。16時までに母、16時20分ころに弟が帰宅したものの、17時台などに母親が不穏当な声を弟に発していた。それから18時5分には彼らが徒歩で予定(中華料理店での食事らしい)の外出を行い、19時30分過ぎに彼らが帰宅した。



2017/07/16

本日7月16日は、まず1時40分台に外のバイクらしい音で目覚め、続いて眠らずに臥したまま2:10の第一アラームを迎えて1分後に起床した。14時前に母親が発車して外出したが、今週の月曜日以降は、木曜日以外の毎日(記録の無い水曜日を含む)に母親が外出をしている。16時5分に母親の車が家に着いたが、買出しに行ったようであった。



2017/07/17

本日7月17日は、2:10の第一アラームに目覚め、1分後に起床した。10時56分に母親からメールが届き、前回の米(5kg袋×2)の未配達分(+1袋か?)が14~16時に配達されるので受け取れ、という。母親本人は2階で過ごすというが、やはり合意内容を蹂躙(悪用)する気である。12時24分、紛らわしいヤマトトラックが家の前に停車した。我が家への配達が長らく見られない男性配達員Nのものらしいが、何をするでもなく、1分以内に再度発車した。色々な意味で気味が悪い。本日の私は色々な作業に追われたり、心身が食物に惑っていた。そこで別の作業をすべく心を正したが、その矢先に男性配達員Nから水を差された。方便せよ仏!安んぜしめよ諸天!せっかくの菩提心が!

本日は起床30分以内に下剤1錠を飲み、3時半まで物を食べないでもいたが、その後は水分なりグラタンもどき粥なりを多く食べた経緯がある。午後までには腹部の違和感が酷い時もあったが、便意や腹痛と異なるものであり、13時現在も便意や腹痛は無い。13時55分、日頃、過度に腹筋を意識して坐り続けている私が、腹筋に異常な感覚を得た。腹部は、内外に崩壊寸前である。世俗一般の欲望を肯定すべく、病気にかこつけた暴飲暴食をしてみたいし、仏教徒の理想を立てる「病によりて道心は起こり候なり(この御文は単に身体的な病のみに限っていないが)」として愧じて節食ほか、様々な雑事を打ちやってしまうか?いずれも良さそうな案だから悩ましい。今は途中の作業を継続する。14時10分にヤマト配達の軽トラックが来た。配達員は、初めて見る男性Yさんである。品物は箱の大きさと重さから、やはり5kg米袋1つと思われる。



2017/07/18

本日7月18日は、2:10の第一アラーム・2:20の第二アラームを経て2時22分に起床した。前日就寝前、水と前日17時台に母親が渡してきたバナナとを飲食したが、本日は起床5分後にトイレへ排尿目的で入った際、腹痛を伴い始めた。排便を期待して10分以上「便座禅(便坐禅)」ということ(姿勢を正す・心を正す・呼吸を整えるよう意識する)をしていると、排便に到った。中サイズ小さめのものを続けざまに出すこと2・3本である。

4時31分から、前々日より組んでいた計画(当初は前日4時半に予定していたがにわか雨で延期)の自販機通い外出を行った。まず警戒しながら玄関ドアを開け、外を確認すると、右上の方でセミらしき影が家に突っ込み、衝突する音が聴こえた。私は、数秒待ってから駆け足で通りへと抜け出た。その後も同じ通りの高さ2mほどを前方から別のセミらしき影が猛スピードで突き抜けた。その後、セミらしい影を見ることは無かった。スズメより大きい高音の鳥やカラスなどの不調和な合唱が四方から聴こえ続ける。4時50分から、豆を挽いた濃いコーヒーをムーミンカップ7分目まで淹れ、これを少しずつ啜る。半分ほど飲んだ5時半までには便意が強まり、腹痛を伴ってトイレへ入って軟らかいものをそこそこ排出した。

8時30分と11時5分に母親が今後の外出予定に関するメールを送ってきたが、このうち、前者のメールに「今日は○○(弟の名前)と14時40分くらいから出掛けます」とあり、14時13分から母親が玄関の出入りを行っていると、2分以内に下校中の弟が家の前にまで来た。14時24分に母親が弟を乗せて発車した。間もなく何らかの作業を経て4時35分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、15時35分に自室へ帰った。16時16分に車が家に着いたが、彼らが家での用件を済ませてからか徒歩で外出したようである。弟を眼科で診させるらしい。

当記事注: 7月22日メモに出す話題でもあるが、この日のメール2点のうちには「福井へ24~26日夕まで旅行に行く」という事柄が記される。2015年にも母・弟の福井旅行はあったが、2泊3日の予定が狂って2日目の夜遅くに帰宅する顛末であった。こんな近年の無計画・狂乱ぶりであるから、今回の福井旅行は、その7月22日に中止が告知される結果となった。同日メモにある通り、案の定というか、有り得なくない展開である。中止の告知を私にした時が7月22日でも、前日から前兆があった。母親が7月20日のイオン買出しでトップバリュの500mlのペットボトル飲料を買って冷凍庫に入れる際、わざわざ私に「これは旅行で持っていくものだから…」と話していたが、その旅行で持参すべきペットボトル飲料を7月21日夕には弟に飲ませていた母親であり、私の「嫌な予感」が顕在化していた。「旅行中止」の伏線が、告知の前日から露骨であった、と言いたい。



2017/07/19

本日7月19日は、まず前日23時40分台に一度目覚めて(1階リビングからテレビの音声が聴こえた)間もなく再び眠り、2時14分に時刻確認をした際は、それまでに2:10の第一アラームが鳴った記憶は無かったものの、心身が影響を受けているかもしれないと思いつつ、すぐに起床した。3時台、毎日のように起きているのか寝ているのか部屋の電気をつけたままこの時間を過ごす弟が1階トイレの長居を始めつつ、追って母親が数分後に降り、「今○○○?」とか、目薬(前日眼科関連で処方されたもの)云々と言っていた。この時間に母親が弟に目薬を打つそうである。

10時7分・12時57分に母親からメールが届いた。前者はヤマト(本文ではクロネコ)配達があるという話であり、後者は母親が1階リビングのテレビをつけたまま2階にいる最中、炊飯器らしき電子音が聴こえた直後に届いたもので、本日予定していたイオン(本文では南ジャス=イオン豊橋南店)での買出しをやめるという。体調が悪いとか、午前中は寝ていたとかと書いてあり、結局私に配達受け取りをさせるという。前日11時5分のメールに「豊橋駅周辺に用事があって」とあったが、後者メールでは「中里医院」に行くという件が書いてある。この「中里医院」は豊橋駅東口のビル4階に入居する精神科・心療内科のようであり、本日の母の体調不良とは別で、未然に入れた診察予定があろう。当院受診は、以前の「脳神経外科」(6月2日メモ6月7日写真付きメモ)と、同じ病状を原因とするかは不明である。前者メールにしても後者メールにしても、母親が送って1分以内や3分以内には1階に降りてくるようであった。それから13時58分、14時を迎えるまでに母親は2階に上がった。私に配達物を受け取らせる意思表明としての行動であり、みな定式化しているが、過去の例として、母親の気分が紛れると逐次1階に降りる様子もあった。今回はそのようなことも無く、15時16分に名前が不明の男性配達員が乗るワゴン車(バン)が自宅前を通過した場に停止し、私は応対して配達物を受け取った。



2017/07/20

エアコン掃除動画→http://youtu.be/SK6oiTl28Jw

本日7月20日は、まず0時台に目覚めて1階で母親が何か作業していたようであるが、記憶は薄く、続いて2時5分前に目覚めてその時刻確認をし、1分後に起床した。前日19時台に下剤1錠を飲み、本日は5時10分以降に便意などを強めてゆき、5時27分からトイレへ入って中サイズのものの排便や、軟便の排出などを「ズリズリッ!」とした。6時前からやや濃くなるかもしれない量の茶葉をムーミンカップに入れて水道水20mlほどを加えて放置し、7時前に熱湯50mlほどを注ぎ足し、7時半からやや温度の下がった「元熱湯」をカップ9分目まで注いだ。これまでに少し口にしてきた茶だが、8時20分ころから多めに摂取すると、便意が強まり、8時44分からトイレへ入って多少のモノを排出した。

11時27分、車の後部収納スペース(トランク?)に段ボール箱を開いたものを入れた母親が発車した。豊橋駅周辺や、ましてや官庁街などにも家から電車はおろか徒歩で行くことがここ1年以内は多い様子でありながら、車を用いるということは、イオン(南ジャス・なんじゃす)に寄るか?と思うが、この時間では母親の受診予定(15時以降)より早かろうし、帰りに寄るのではなく今の目的として寄らないと有り得ない話である。


間もなく、2階などの出入りを経て洗濯・掃除を始めた。洗濯は自室にある白地タオル2点(厚手・薄手・いずれも粗品)が対象である。掃除はエアコン掃除(2・3年ぶり)および、仕上げとして行う室内の清掃である。エアコンの掃除対象は「表面的な内部」である。カビ系の汚れが樹脂製部分に付着し、キノコ・蛆のような埃の塊がフィルター部分に堆積している。後者などは、実際の様子を見ていない数日前に、取り外して外でホース放水を浴びせようかと考えてもいたが、それを実行しない。エアコン掃除は、終始トイレットペーパーを濡らしたものとそのままのもののローテーションで行った。最初は「おっかない・おぞましい・不気味」という印象でいたが、次第に勇気さのような精神を得て指を汚すことを厭わない勢いで取り組んだ。途中、写真撮影と動画撮影を兼ねた。エアコン掃除の作業最中に洗濯物を干し出そうとする12時4分、弟が帰宅した。エアコン掃除の作業は、ある時に一段落し、エアコン掃除に伴った自室の汚れを清掃した。15時前にタオル2点を取り込み、間もなく、15時2分に母親の車が家に着いた。母親の帰宅後に母や弟および私の色々な動向は有ったが、母親が食事を経たのか16時13分から、ようやく病院(精神科・心療内科)とされる場所への外出を始めたようである。元の印象からすればルーズであるが、よいのか?18時17分に母親が帰宅した。



2017/07/21

本日7月21日は2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームによって起床を決意して2時22分直前に起床した。9時過ぎから弟がデイサービスに出るらしく、母親が弟を呼び出したり、弟が準備不足であわてるなどの様子があった。「送る車が9時15分ころに来る」と母親が9時8分に声を発した1分後、送る車が来たが、弟の対応が遅れた。デイサービスについては毎週土曜日の印象だったが、実際は、土曜日に加えて夏休み中の平日に多くあるかもしれない。11時過ぎから母親が外出の装いで車のエンジンを掛けたが、1度やめてみたり、2度やめてみたりするという理解不能な挙動が見られた。徒歩で歯科クリニックへ行ったろうか?12時半前、母親が一度家に着いた際、玄関でわざわざ「帰ってきたわけじゃないよ」と声を発していた。誰も求めても期待してもいない言葉である。母は何を気にしていようか?車などの出入りをして再びどこかへ出た様子である。

12時44分から風呂(シャワシャン)の準備を始めた。前日のエアコン掃除は当然エアコンを停止した状態であるが、衛生的に気になるし、洗濯関係でも2階バルコニーで直射日光に当たるなど汗や汚れなどで不潔ではないかと思うので、風呂(シャワシャン)を行った。まだ風呂場にいる13時10分ころに母親が帰宅した様子である。13時20分ころ、風呂場を出ようと身体や持参道具類の準備が終わったところで母親が洗面所に入ったり、様々に干渉した。換気扇を回すこと・給湯システムの停止など、専制的に行ったが、そんなに人間不信か?人との争いを起こしたいか?私の幼少期から、時と場合による過保護と過干渉のアンバランス母親は健在である。13時28分に自室へ帰った。

15時50分前に弟のデイサービスの「送る車(先と同じ)」が家に着いた。施設の人物と弟とは共に降りたろうが、施設の人物である女性(声で中年かと思ったが外見は20代後半っぽい)がインターホンを鳴らしたことについて、1階に迎えようとする母親が苛立って対応した。「事前に打ち合わせをしたことの意味が無い」、「私はいつも家にいるわけでないからわざわざ鳴らすな(このあと外出するそう)」等の主張である。施設の人物は謝罪する言葉を繰り返すようであったが、後々、何らかの用件を持ち込んで母親を表に引き出すこととなった。母親は先に弟を家に入れさせようとしたが、母親自身が玄関ドアの施錠をしていたので、弟が家に入れなくて激しくドアを叩く様子があった。

19時以降、1階リビングに入る母親が弟を呼んで料理する最中、弟に何らかの指示を出したが、弟の挙動に苛立ったようで、狂ったような声を発していた。弟も狂ったような慌て方をした。その後は、グチグチ小言の比ではないキチガイじみたストレス発散独り言が続いた。「○ちゃん(弟)となんていたくない!」、「ビャ~アアア!って感じだよおお」、「お母さんの話ヌワアアアンにも!」などと20分も発し続けた。先月話題になった(マスコミが喧伝した)「豊田真由子議員」とそっくりであった。テレビの害悪音声を垂れ流す母親だが、人の振りを見て己の振りを直すことはない。人に物事を伝えることが、冗長・過分であって何も伝わらない。不穏なるのみ。弟本人は怒らないでいる。「君子危うきに近寄らず」の心か?母親はすさまじい執心で、弟に不満・エゴを押し付けたがるが、正気を失っている様である。日々、母の認知症じみた言動が、自身に移りそうでならない。だから日々、身口意三業を節している出家僧侶を羨む私である。自他ともに心を守る。母親は精神科などに通っても、改善は厳しかろうか?前日に取ったらしいファックス紙面を或る時に覗くと、恐らく「中里医院(19日メモ)」から紹介されたところと思しき医療機関の名があった。



2017/07/22

本日7月22日は2:10の第一アラームの記憶が無く、2:20の第二アラームで意識がはっきりとするも起きずと記憶し、2:40の第三アラームで再び意識がはっきりとするもすぐでない2時47分に起床した。

9時50分、私が絵などの作業をする中に、1階リビングの母親が唐突に話しかけられた。不誠実にも「運動・柔軟体操・ストレッチ」をしながらであり、ふすまを少し開けた2m先に母親の足首が見えた。24~26日の福井旅行は中止になった等と話す。「近頃の本人公認っぽい『精神病(ついぞ今まで無かったこと)』の母親が2泊3日と思われる旅行予定など本当に作れるか?実行できるか?また、家にある食材をしっかりと消費したり、数日家を空けるための準備などはできるのか?』といった疑問が数々あったが、案の定であり、何ら意外性は無い。失意落胆あるのみである。また、「真面目な話」という名の野暮な詰問を受けそうになったので、母親が求める場から黙って去った。その場で母親は、2分ほど色々と質問の声を発し続けた。母親について、一つ、ここに書けることは、「自己の過失に気付かず・他者から言われても省みず・そういう人に今更言える言葉は無い」。要望があっても頼まない相手がいる状態は、事情が異なる埼玉在住時の父親に対しても同様であった。残念な両親のままでした。

10分後、過干渉が好きな母親は、不機嫌さを残していたらしく、発作じみたストレス発散掃除機がけを始めた。私の部屋のふすまなどを無理に掃除しながら、黙っていればいいものを「長い髪が取れない」云々と喚き始めた。そんなところ、自分で定期的に綺麗にしているのに、人の心を蹂躙するような言動である。このような不徳無慈悲の母親である。



2017/07/23

本日7月23日は、1時30分前に目覚め、1時31分に起床した。前日20時10分下剤1錠 7時30分台、にわかにアクセス異常 回線不良接続不良 母親がタイミングを同じくして1階に降りた、風呂を始めた様子 なお弟は朝のランニング中らしい 私は本日の起床が早いので一度PCをシャットダウンする案があったが、7時台に行うつもりなどなかった、それでもシャットダウンせざるを得ない、母親の部屋に上がってルーターいじりをした 8時15分からPCを再開 11時48分から母と弟が外食のために発車して14時4分に車が家に着いた



2017/07/24

注釈を参照:2017年7月24日における母・弟の映画鑑賞

本日7月24日は前日就寝時(20時過ぎ)に2:10の第一アラームから第三アラームまでOFF設定にし、2:50の第四アラームを1時間遅らせた設定にしており、まず2時台には意識があって2時53分に時刻確認をした。起床は3時11分である。前々日就寝時の下剤1錠(前日メモ記録)は終日(前日中に)大した効果発現が無かった。ここ1週間以内は茶葉丸ごとお茶を「飲み食い(料理に用いるなど)」する私だが、茶に由来するカフェインパワーも便意に作用しない。そこで、前日の就寝時にも下剤1錠を飲んだ。本日5時以降は便意が強まり、5時34分からトイレへ入って中・長サイズのもの3本を排出した。

連日の通り、5・6時台など母や弟が騒がしいこともあったが、本日の6時台に弟がランニングとされる外出をして1時間ほどで帰宅して風呂に入るなど母親が指揮を執る様子があった。8時15分から母が弟を連れて発車した。「中止になった福井旅行」は中止を決めてそのままであろうし、荷物もほぼ手ぶらであるし、福井旅行ならば家から徒歩で駅まで歩くことが第一段階であろうから、有り得ない。朝食をあまり取っていない様子の彼らは、外食に行ったと考えてよい。家の中を見れば、乾燥中の洗濯物・流し台の食器・冷蔵庫内で鮮度が保ちづらい物などが多く見られ、これも「旅行」でない根拠となる。10時28分からも便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞を排出した。11時21分に車が家に着いた。12時55分からもトイレへ入って中サイズのもの2・3本を排出した。

母親とテレビのシンクロ・共鳴→12時20分台、昼のトーク番組スタジオで出演者女性が歌い終わると拍手をしだす。閉会中審査の休憩時間に当たる12時50分台、昼のワイドショー的な番組でハイライト映像がある時に安倍総理大臣へ罵倒する外野の真似をしてはしゃぎ、「エ~~!」、「安倍でてこい!」などと発していた。母親の心の喜びは、相変わらずテレビにのみある。怒りは、最も身近な下の弟に向く。怒りを受ける時は、最も身近だった、あの父親なのだろう。悲喜怒(喜怒哀楽)を滅すれば、遠い人にも近い人にも悲喜怒の差別はないので、私は慎重に仏道を行きたい。ちなみに、その番組を母親は日頃見る。政権批判の好きな番組のようだが、13時以後に再開した閉会中審査の粗末な中継をしているらしい。NHK(ネット・TV共に行う)で見ればCMは入らないが、母親はその粗末な民法の番組の中継放送を見続ける。

当記事注: 当日分の冒頭に画像(翌日撮影写真を加工したもの)に見られるよう、この日の彼らは映画館に行っていた様子である。所在地が豊橋のロードサイド副都心とも呼べる藤沢町・ホリデイスクエア地域であり、日本最大級のシネコンである。彼らが見る映画作品は、さほどの話題作といえるものでなかった。



2017/07/25

本日7月25日は2:10の第一アラームの記憶が無いがその時に目覚め、2:20の第二アラームを経て2時21分に起床した。4時25分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時30分に自室へ帰った。8時31分から母が弟を連れて発車した。本日の天気は曇り気味だが気温に期待し、9時過ぎから物2点の洗濯を行った。これらが干し出し中の12時3分に2階バルコニーで洗濯物の状況を確認する際、腕に羽音の大きい黒い影の虫(ハチというよりもハエやアブのよう)が接触した。14時22分に母親と弟が乗る車が家に着いた。前日の場合は母のみ車で帰宅して弟は徒歩であったが、本日は同乗していた。何かを買って帰った様子は本日も無いが、外出時間が前日(11時半ころ帰宅)の約2倍の長さに達している。



2017/07/26

本日7月26日は複数のアラームが鳴って止めたろうが、起床は3:20の第五アラーム以後の3時23分である。前日からの予定で、とあるゴミ出しと自販機通いの外出を4時50分以降に行った。雨降りの懸念はあったが、起床前も起床以後も外出前も外出中も、懸念事項の発生することが無かった。7分アイドリング状態以後、9時54分から母が弟を連れて発車した。11時50分に弟だけが帰宅した。14時32分に母親の車が家に着いた。



2017/07/27

本日7月27日は、まず2:10の第一アラームに目覚めたが、「思うこと」があって後のアラームを第五アラーム以前はオフにした。そのまま寤寐不覚に2時56分を迎えていたので起床した。11時過ぎ、母親が話しかけてきたが、2週間ほどこれ見よがしに、1階リビングの空き箱の上に置いていた衣類を紹介してきた。買って寝かせて、何をしたいか?被害妄想の強い母親は、私に衣類の紹介をしないでいた理由を「怒るだろうから」云々というが、当然、どうされようと私は怒らない上に、このような「買って寝かせる」処置の方がますます不愉快である。小6から履いている部屋着に関して、ボトム=下半身部分、ズボンのものは後部(ケツ)の縫い目が裂けてきており、このことを母親は知らないが、同じ服の別の場所の縫合が緩んでいることを理由に新しい服を買ったということを話してきた。結局、そうやって相談も無しに「タンスの肥やし」を買い続ける母親であり、2013年以後、何度伝えても、「精神障害・更年期障害・認知症予備軍」の母親が改善することはない。私は改善してほしいと思っていないが、伝えるべき問題を伝えている。私の努力不足か(こういう事態になってから不満を爆発させるように伝えても母親は一言も受け入れない愚人だから無意味に終わるor対立を強める)、努力を放棄する精神の不足か、という、自己に原因があると思いたい。この後、母親からの干渉が強まり、言葉が反発することになった。言葉は空虚であり、話などなおさら心身に良い結果をもたらさず・著しく悪い結果も無いものであるから、潮時にはさっと引き上げるべきである。

私は覚者である。他者を侮蔑するための記録行為ではない。全て自己反省のためである。どうせ他人は、常に自己反省をしないから他人自身が私を尊敬することも無い。仮に自己反省をできる他人がいても、私に等しいか優れているのでその点での優劣を問えなくなる。私が他人を愚劣とみなしても、当事者が自身を私より愚劣であると反省しないならば無意味か、自己の慢心のみを強めて逆効果となる。論理は、自己の道徳のために活かそう。ここ最近、そう思えてならない。もはや他人に言葉を通じさせたくない。もし慈悲あって通じさせたいならば、言葉を発しないことで言葉を自己の仮想他人に通じさせればよい。他人は「自己と同じ人間」という存在でない。人間などという仮名・ラベルのついた、幻化人・操り人形と表現すべきバケモノである。真の人間不信は、真の信頼関係となる。不信即信頼とは?二項対立が無い中道円融の故である。道徳のための論理なので、ここまで一応書いた話も、執着すべきでない。元の作業を放棄してまで、このような文章を書いているという我に返る。

本日起床2分以内に飲んだ下剤1錠の効果発現は、例の通り遅い。飲み食いの手段を適宜用い、13時台後半に便意を強め、14時0分ころからトイレへ入って中長サイズのもの2個ほどを排便した。16時台・同様・説明を略す。

当記事注: 以下のメールを2017年7月27日の19時までに書き、翌日起床時(メモ記録の9分後である2時33分)に送信した。母親に「抹香臭い話」はすべきでないという方針を、一時的な処置として破った。
現状に関する概略→あなたに求めることはないし、求めると堕落する。
普段は話す言葉も禁じているが、悪いきっかけがあると少しばかり話してしまう。
以下からも、現状に関する詳細を省いた、要点のみの文章である(あなたに求めることはないから要点のみを書く)。
ざっと1,700文字であり、詳細に書こうとすれば10,000文字でも足らない。
母親が読まないか、読んでも伝わらなかったり、曲解されることは数年来承知の上で、今ばかりは、このような「無意味メール」を書いて送る。

私は、問題を自覚して反省し、その反省点に基づく努力をしている(具体内容は後半に載るので肩の力を抜いて読むこと)。
それが今の生活であり、例えば「他人と言い争うこと・他人の存在が煩わしいということ(家庭環境のみならずインターネット利用でも同様)・他人に気を揉んで認知症さながらに知能を失うこと」も、自分の問題であると自覚をしている。
つまり、自分が可愛らしいならば、自分の問題の原因を他人に求めるべきでない。
慚愧(恥じる気持ち)を以て、今ある状況の中に身を置き、どこまで心を動かされずにいられるか、日々追求が絶えない。
しかし、家庭でもインターネットでも、きっかけがあると悪い感情になり、悪い言葉を浮かべ・発し、引きずる思いとなろう。
諸問題の改善は、一進一退の中で漸進的に実現している。

私の努力に、他者の発言は全く当てはまらない。
他者の発言の取捨選択の権限は、ただ私にあり、結果的にみな、私が役に立たせることができる。
母親の「外で働いたら?」という常套句は、文字通りの提案として役立つことが無い。役に立たせようとも思わない。
文字通りであれば、2014年までに捨てられた選択肢であり、自己改善に資することが無いばかりか、悪化の主要因となる。
このような論題は、良い結果を見ないし、見られるはずもない。
互いの譲れない心情とかが反発するばかりであるし、言葉の反発が無くとも、「外で働いたら?(働けばいい=母親が思う理想に合致するのみ)」という提案は文字通りに実現しない。
※2015年12月29日のメールなどで伝えた、「(その翌年)1月2日に渡す予定の12月25日の紙背返書(返信手紙)の存在」などを自ら見ない結果を得るなど悪い因縁が強い母親には理解し得ないであろう。母とは、自分の見解に執着して虚心坦懐な自覚や自己反省が出来ず他者(・3人息子・茨城系実母ら)に何の助言も為し得なかった不徳・無慈悲の者である。「1月2日に渡す予定の12月25日の紙背返書(返信手紙)の存在」についての話は、あなたもよく覚えていない(過去メール消去済みも?)ならば当該メールを見直さずともよい、その件は些末な話であるから。

このような文章を書くことも、自分の精神修養を損なう。
母親など他者に対して、私から主張すべきことは無いが、悪いきっかけがあると反抗的な言葉を用いて中途半端に主張したくなる。
そのようなことも、普段は封じている。
自己(私自身の心)が頼りないとはいえ、他人が手助けすれば改善するということは、何一つ無い。
ただ生きて身を養う術(衣食住)があれば、仮初めにも用いる。

「(リアル・ネット共に)他人が煩わしいということ」は自己の主観であるから、「外で働く」という自己の外界の変化のみでは「主観」の根本原因が絶滅しない(精神科への通院と抗精神病薬の服用なども無用)。
根絶(根治)するには、どうしても自己の主観にある問題を解決すべきである。
その問題を解決できていない私が、急進的に「外で働く」ことは危険に過ぎる。
もっとも、こういう言葉を複数回耳や目で受けて、心で受けない発言当事者(母親)の「結論ありき」の結論は変わらないと思われる。
よって、「このような文章を書くことも自分の精神修養を損なう」という無意味な行為だが、今の自分の内省のために、書き 、なおかつ本人にメールの形で見せる。
後述するよう、「思う(心)・書く(言葉)・他者に見せる(行為)」という行為・プロセスは、私のためにならない「三業(行為=身、言葉=口、心=意の3つ)」を用いることになる。

「(リアル・ネット共に)他人が煩わしいということ」は、次に「瞋恚(怒り)」を起こす。
「瞋恚」は、欲求不満とか、快適な心身の状態を汚される・邪魔されるという「貪欲・顛倒」の認識に基づいて発生する。
「(リアル・ネット共に)他人が煩わしいということ」は「貪欲・顛倒」の性質に関連して発生した感情である。
これは「縁起」の道理である。
その縁起ということを委細に如実に見てゆくと、「愚癡・無明」というものが判断できる。
先述の「主観」の根本原因は「愚痴・無明」である。

その「愚痴・無明・主観的な問題」の解決が家での生活では困難である。
しかし、どこにいても「失敗するという自覚を持つ私」は、「この世はいづくも地獄ぞかし」という理解のもと、「行動を控えるという行動」で努力をしている。
「行動を控えるという行動」は、「三業(行為=身、言葉=口、心=意の3つ)」を抑えることである。
この文章は、先述の通り、「思う(心)・書く(言葉)・他者に見せる(行為)」という三業を用いており、自己の努力の道から外れる。

母親や他者への苛立ちは、行為(客観的現象)として単なる結果に過ぎず、主観では「反省の材料」となる。
そういった、自覚・反省・努力を絶え間なく、日々、行っている。
そのことを改まって母親に伝えるということを、今まで無いようにしていた。
今は、要点のみを書いた。
その日(2017年7月28日)20時24分に以下の返信があった。内容が嘘か真(誠)かは、長期的な目で見れば、今すぐにでも分かるであろうが、ここに私の感想や見解を書かない。
いろいろ、教えてくれてありがとう。

これまで、心境を打ち明けなかったと言う行動の理由について細かく話してくれましたね。

では、貴方のロジックでは、個のみで存在して行くとかなり以前から決断されていますね。

母としてはそれは認めたくなかったので外出を促していましたが、金輪際諦めます。

他者との関わりのある人生の方が楽しいものではないかと考えてしまうのも金輪際止めます。

以前、貴方から言われた通り母親としての責任として私が死ぬまで貴方に経済援助を致します。

貴方を産んだ以上、経済援助は約束しましょう。

諦めないで他者との関わりを促せばその内、外で働く様になる等と言った考えを捨てます。

だから、もうこれ以上その事は口に出しません。

ただ、私の心情はそうする事はとても辛いと言う事は理解して下さい。

たまに自動販売機に買い物に行くだけ或いは宅配便を受け取るだけで
その他は家にこもっているだけの姿を一生見守り続けるのはとても辛いです。

辛いと言って、ごめんなさい。

でも、
○○がその方が人生幸せと言うなら母が辛く思う、考える必要はないと言う事ですね。

他者と関わらない事が最良であると答えを出していてその生活を傍で見守れて母は幸せだと思考を変更すれば良いですね!!

母より
ありがとう



2017/07/28

本日7月28日は、2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラーム以後の2時24分に起床した。9時50分、母親が日傘をさしながら、駅と反対方向へ歩いて行った。目的地は近場の医療機関だろうか?いわゆる「散歩」か?10時32分に母親が帰宅した。前日も本日も、弟は放課後等デイサービスに通ったが、いずれも朝8・9時台の行きでは、弟の準備の遅滞が確認された。本日16時前の帰宅は、よく送迎を行う背の低い茶髪ポニーテールの女性ではなく、外国人のような話し方の女性(外見未確認)が行った様子である。後の母・弟の会話では、弟がブラジル人(当地・豊橋に多い)と言い、母がアジア系とくにフィリピン人だと主張していた。近年のトレンドは、ベトナム人が相場のようにも思う(介護士としての需要が巷に聞かれる)。



2017/07/29

本日7月29日は、2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームを止めて数十秒意識を薄くして後の2時21分に起床した。前日は21時近くまで勉強関係の調査と執筆(眼の充血を伴う)を行っており、寝不足気味である。意識が朦朧とする中、4時40分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時30分ころに自室へ帰った。19時過ぎ、自室で久々にコバエを見かけた。2週間~1ヶ月ぶりであろう。その故に、このところ1日中網戸状態で窓を開放できていたが、逆に今は6時間以上窓を閉ざしているので、かえっておかしな話である。どんな侵入経路があるとでも言いたいか?思えば、本日の4時台の風呂場は、その数時間前に誰かが利用したのか、ひどく濡れている状態であったが、同時に、何匹ものコバエがいた。風呂場の現象と、どんな関係があると言いたいか?



2017/07/30

本日7月30日は2:10の第一アラームに目覚めてアラームを停止したろうが、その後の記憶は欠落しており、気付けば3時35分の時刻確認をする時となっていた。即時に起床した。このような事態は珍しい。按ずるに、前々日の就寝が遅くて前日の起床が早い上に、前日は仮眠を取らずに作業などをしていたことが原因と考える。

12時半以後に母親と弟が徒歩で「インド料理店」かどこかに出掛けた様子である。インド料理云々とは、前日の夕方の話し声に基づく。近頃では中華料理ということも聞いてきたが、インド料理店に関する以前の記録を探すと以外にも5月3日の日記メモに軽度な情報があるのみであった。母親の部屋に上がって5月中の領収書・レシート類を探すと、それらしい店名のものは5月27日の1枚のみが見つかった。5月31日に豊橋市最高層ビル(ホテル)内の店舗で飲食した記録もある。先の日記メモにある水族館云々は5月6日に実行されており(当日メモ記録済み)、名古屋港水族館のレシートも見当たった。14時8分に彼らが帰宅した。



2017/07/31


7月31日は2:10の第一アラームに目覚め、その後も2:50の第四アラームまでアラームが鳴っては止めたが、第四アラームを止めて以後にも浅い眠りに入り、性的な夢を見た。最初は普通に女性(外見は10代とも20代とも)と雨の駅構内とか街中を行っていたが、突然場所が変わって(私の意識が不安定で狂っているためか)その女性と似て非なる人物(外見は10歳前後の白人らしい)の「エッチないたずら」を受ける様子が再生された。女性というか女児が下着姿で街の空中(真下の地面から高さ20mくらい)に吊られて水責めのような行為を受けており、他に人の姿は映らない。段々と過激さを増す内容であり、リアルの私が「相応」して夢精してしまった。エッチな醜態は、私である。潜在的な性欲の対象を、夢に希求したという恥辱である。今月にオナニー射精という行為を7日ころと27日の2度しかしていなかったが、いずれも、夢精を回避すべく行ったものである。それから4日程度で、こんな夢精にいたるとは悲しい。このような経緯を挟み、3時2分に起床した。夢精の被害はどうか?夢精する展開をリアルの私が察知して陰茎付近を両手で抑えており、主にパンツに大量の精液が付着したが、皮膚にはパンツを脱ぐ際のずれ以外に付着する時が無い。パンツに重ねてきていた部屋着ズボンであっても、少し水分が染みた程度である。

前々日である7月29日の就寝時に下剤1錠を飲んだが、前日である7月30日中に効果なく、再び就寝時に下剤1錠を飲み、本日は7時34分から便意のためにトイレへ入って硬めの中サイズなどを排便した。10時42分からも便意が怪しいのでトイレへ入り、出しづらく痛む中で多めに排出した。11時48分まで車をアイドリング状態にしてから、母親が弟を連れての外出を行った。洗濯などを行い、小麦粉焼きの類を一人分フライパンで作って食べると便意が強まり、13時1分からトイレへ入り、出しづらく痛む中で下痢気味のものなどを排出した。14時49分までに怪しい便意・放屁の類があり、トイレへ入ってからは詰まり気味の下痢爆発をした。少量のみの排出である。16時過ぎに弟が徒歩で帰宅してから時間は流れ、18時45分に母親の車が家に着いた。



付録

【母親・ニワカパン】

7月1日の到着以後、すでに余している薄力粉で7月2・3・5日にホームベーカリーを稼働していた。
これならば薄力粉の消費行為として有効にも見えたが、ホームベーカリー1台でのパン焼き行為のために追加の強力粉10kg袋×2を注文することは過剰である(7月6日メモおよび注釈を参照)。
7月7日に行ってからは、行える遑がありながらに7月11日(7時)まで4日間ホームベーカリーの稼働をしないでいた。更に7月中旬から7月27日までの2週間ほど、ホームベーカリーの稼働をしないでいた(この間は7月5日から開栓済みのマンゴージャムも手付かずか?)。
なお、パン関連の材料を買い足したことは、その時に新種であったものとして7月10日のスキムミルク(脱脂粉乳)185g×2と、7月16日のベーキングパウダー100g×1がある。


【弟、シネシネ鳥と化す】

7月2日「〇〇(私の名前)死んじまえ~」と3回発した。悪ふざけ・遊び半分でこういった言葉を発していても、その口業が心に相応して(自己暗示がかかって)、実際に憎悪や嫌悪感を懐きかねない恐れがあるため、警戒が必要である。仏教では、落ち着きの無い猿を調教師が柱に掛かった縄に繋ぎ留めさせる(牛に軛を掛けるとも)たとえ話があるように、弟の放逸な独り言に関してはなんらかの制御も必要となる。好き勝手にさせることを、菩薩ならば自他ともに防ぐべきである。6月28日以来の声掛けを行おうと考えたが、この時は別の用事を兼ねていて弟に話しかけることをしなかった。6月28日の声掛けは、弟の心に響かず、言葉も通じたか不明であり、かえって彼の箍が外れる結果となったようで、相変わらず学生時代から現在までリアルもネットも有象無象まみれだと落胆せざるを得ないが、屈する私でない。しかしまあ、彼の悪しき独り言からして、私もまた日記メモで不満げに彼らの行動から受ける不快感を綴っているわけだし、彼らの心情がどうであれ、私は個人的な内省をすべきである。

7月3日、彼らの発車外出後である14時台後半、連絡帳に「(豊川特別支援学校2年生野外活動で作る)木のハガキをお兄さんに宛てたい」とする教職員の記入を確認した。
→弟が教師から「製作するハガキを誰に宛てるか?」と問われた際、母親に宛てることが恥ずかしいか、気にくわないという心情により、消極法で私を選んだと思われる。実際には、ハガキが家に届いていたら弟自らそっと受け取り、誰にも見せずに終える可能性もある。小5か小6の時、私も林間学校か修学旅行で、同じようにハガキを作って教職員に預け、教職員か施設の人間を通して郵便に送られ、各生徒の家に郵送されるシステムの活動があった。学校側の趣旨としては、保護者とか家族に見てもらいたい。無論、その際の私は、「土曜日に送ってください」などと添えて書き、目論見通り自ら受け取って父親に秘匿するありさまであった。弟の場合は不明である。その場で私を選んだように発現しつつ、最終的に母親に宛てる可能性もある。

7月5日、母と弟が、夕食を取るか料理中の17時台後半、弟が母親に対して「〇〇(私の名前)の〇(前一字)は□っていう字を書くの?」と、私の名前の書き方について尋ねていた。母親が「なぜそんなことを聞くのか」という質問を返したので、弟は豊川特別支援学校の野外活動におけるハガキ製作の事情を話した。この様子だと、割と本気なのかもしれない。

7月8日16時18分に知的障害者デイサービスから帰宅した弟が、その後2階の部屋で「〇〇(私の名前)お前なんて死んじまえ~」と2回発した。この時、当日メモにある通り、母は外出中である。「暇さえあれば小人の・・・」とでもいうべき、不穏な様相である。なお、前日7月7日の弟の帰宅までに郵便受けに、木のハガキというものが届いた様子だが、私に渡されることは無かった。玄関に飾ってある。弟の考えは不明瞭なままである。一時的に教師にああ言うにも、その後母親に私の名をわざわざ尋ねた。宛名だけ私の名にする必要性は何も無かったろう。

その後、「シネシネ鳥」の鳴き声は特にナシ。7月20日は弟の特別支援学校の終業式の日であり、彼の帰宅が早く、母は2つの用事のために家を空ける時間が多かった。弟が1階リビングで過ごすなどの時間も数度・計3時間程度に及んだろうが、「シネシネ鳥」現象は無かった。