2016年12月12日月曜日

「法"Dharma"」は「達摩」か「達磨」か?音写から見る字音・音韻学

達摩 達摩 Dharma 音写 音訳 法 曇無 悉曇 梵字 Siddham Sanskrit Devanagari Kanji Hanzi Daruma Damo
"Dharma"の悉曇梵字 - 独自で研究した成果・正誤は未検証

サンスクリット語"Dharma"は、漢語・漢訳において一般的に"法"と訳される(多義性の説明は省く・デーヴァナーガリー表記: धर्म)。
"Dharma"の発音を漢字で当てると、古来は「達摩(だつま, datsu-ma)」である。
「達摩」の文字列は古来の中国大陸において"Dat-ma"と発音されたであろう。
現代中国のピンインでは"Da-mo, dámó"=ターモーと読むような、有声音の不分や入声音の欠落や母音の変化などが生じている。
近代の西洋人も熱心に研究した「中古音・上古音」の学説では"dat, dad, tad, lat"といった発音があったと示される(Dhar-の有声音+有気音の反映はカールグレン /dʱɑt̚/ くらいか)。

この「達"Dat"」の尾子音(語尾の子音、韻尾)である入声音"t"は、サンスクリット語における母音のない"r"の発音を擬似的に再現できるので、古来の訳経僧(サンスクリット語の経典を漢訳する僧侶)は入声音"t"を借りた。
これによって「達摩(だつま)」の漢字音写が"Dharma"というサンスクリット語に当てられた。
「跋扈する」の「跋(ばつ"batsu, 中古音でbuat")」もまた、音写においては入声音"t"が"r"の代わりとなっているので、この字は"ヴァル"の音に用いることができる(すぐに浮かんだ単語が固有名詞・人名の訶梨跋摩"karibatsuma"=ハリヴァルマン"Harivarman"、成實論の著者)。
なお、朝鮮語・韓国語での漢字の発音も、古来の朝鮮半島の人が入声音"t"が"l"に聴かれたためか、後世の訛りかは不明だが、「達」が"dal"と発音される(たるタル・だるダル!)。
日本人であっても、幕末・明治期にジョン万次郎が"What time is it now?"の発音を「ホッタイモイジナ"イジナウ→イジナ"」と綴ったとされる話が有名である(英語になじんでもらう意図で空耳っぽい音・語呂合わせにされた可能性も否定できないが参考までに例示する)。

アビダルマ(サンスクリット語・梵語"Abhidharma")・アビダンマ(パーリ語・巴語"Abhidhamma")という語句については「阿毘達磨」と音写しているが、どうも「達摩」の「摩(ま)」という音写で一般的に使われる文字ではなく、「研磨する」の「磨(みがく)」という字になっている。
ちなみに阿毘達磨は、日本仏教で世親菩薩(天親)の阿毘達磨倶舎論が有名である。

それでは、禅宗系の祖師として名高い「達磨(ダルマ・菩提達磨・達磨大師)」はなぜ日本で「だつま」ではなく「だるま」と呼びならわしているか?
この「達磨」も「磨(みがく)」の字を用いる。
私は当記事を起草した11月8日まで「磨(みがく)」の字の「達磨」は、経典新訳時代(7世紀以降)や密教の中国伝播(8世紀以降)から使われ始めた比較的新しい音写かと思っていたが、先述の「アビダルマ=阿毘達磨」を再確認してから少し認識が変わった。
「摩」も「磨」も、共に使われていた音写であるらしい(これも時系列が不明だが例えば妙法蓮華経の「妙法」の梵語が「薩達磨」と「薩達摩」の2通りが見られる)。

それはそうとして、禅宗系といえば、日本では平安末期や鎌倉時代の栄西や道元が宋朝の中国に入国して(入宋)臨済宗・曹洞宗を日本に伝えたことが有名であり、江戸時代の黄檗宗関係もある通り、日本における南都六宗や天台宗や真言宗とは時代の隔たりが大きい。
だから、臨済宗も曹洞宗も密教の呪文(真言・陀羅尼・咒)を唱えたり、黄檗宗は般若心経を現代の中国語と似た「唐音」で読む(日本の読経は一般的に呉音)。
このような時代だと、日本に定着した呉音や漢音といった音読みの理論を超えて柔軟であることは真言の漢訳やカナ発音(オン・なんちゃらかんちゃら・ソワカの類)なども同様である。
故に、彼ら禅宗系の僧侶・禅僧などは、インド出身の座禅祖師である「菩提達磨(ボーディダルマ"Bodhidharma")」の霊験あらたかなる梵語・神聖なるサンスクリット語における音を再現してみせてもおかしくない。
中国でそういった梵語・サンスクリット語における音を聴き、便宜的に「だるま"daruma"」の音を日本に伝えたものと考えてよい。



表題に『Dharmaは「達摩」か「達磨」か?』とあるが、音写に用いる漢字についてはどちらでもよい。
単語ごとにどちらかがたまたま採用された事実があるため、採用された漢字を単語ごとに尊重すればよいと思う。
ただし、個人的には音写において「磨」の字は馴染まない印象であった。

なお、「アビダルマ=阿毘達磨」は「阿毘曇(あびどん・あびたん)」とも音写されている。
この「曇(漢音:たん 呉音:どん)」は本来、字音仮名遣い(→たむ・どむ)にもある通り、尾子音が"ん"ではなく"む"の類であり、実際に朝鮮語や広東語は"tam, dam, taam"というようなローマ字表記がされている。
「曇」の字は「悉曇(Shit-tan, Sit-tam, Siddham)」にもある通り、尾子音"m"の単語の音写に多く使われる。
そういった撥音便の遡上・"m"の復元や、無声音・有声音(清音・濁音の類)の置換からすれば、「阿毘曇」は古来中国で"a-bi-dam"と発音していたとみてよい(これはパーリ語・プラークリットのアビダンマ"Abhidhamma"に近いともいえる)。
"Dharmakṣema (ダルマクシェーマ、ダㇽマㇰシェーマ)"を「曇無讖(曇摩讖・古: dam-ma-siem)」と音写した例も、同様に捉えてよい。

「曇無讖」の「讖(セム・tsiem)」のように、サンスクリット語の母音を省いた音写というものも多い。
漢字音の尾子音に"a"を付けて元のサンスクリット語の発音に通じる単語がある。
「曇」の字を例にとれば、「瞿曇(くどん)」がある。
「瞿曇」とは、サンスクリット語における釈尊の本名「ゴータマ・シッダールタ」の音写「瞿曇悉達多」の「ゴータマ」に対する部分である(訂正を後に注釈する)。
"Gotama"と表記するが、「ゴタマ」ではなく、サンスクリット語の"o"が長音である法則から「ゴータマ」と発音する。
「瞿曇」をそれぞれ、今までに示したような古来中国での発音に擬して表記すれば"go-tam(ゴタム、小文字のム、母音を発しない両唇鼻音)"と書ける(瞿"ku"はk/g子音互換性やu/o母音互換性にならう)。
そこに尾子音への"a"添加や1モーラ発音漢字の2モーラ長音化も加味する(過去記事にある便宜上u相当"w"を添加した音)と、"gow-tama (ゴゥタマ)"と読むこともできる。
訳経僧らも、満足できる音写となったろう。
これは私の日々の思考の産物であり、無理やり説明をすることとなったが、参考にしてもらいたい。
「瞿曇→ゴータマ」複製プロセスは"kudon, kudom, gudom, godom, godam, gotam, gowtam, gowtama = Gotama, Go'otama"である(大体の音を漢字にするサンスクリット語の音写についてこういった細密な理論的分析は本末転倒だが音韻理論の思考法として示す)。

※この時に限ってとてつもない取り違えをしていた。「ゴータマ」はパーリ語であり、「瞿曇」のサンスクリット語は「ガウタマ」である。いずれにせよ、音韻理論の深い思考法は以上のようである。「ガウタマ」の場合を取っても、「瞿」の文字の上古音(バクスター・サガール式や鄭張式どちらも)は"ガ ga"のような表音であった。"ガ"を先ほどのように長音化(二重母音化)して後は同じような経過で"gadam, gatam, gawtam, gawtama = Gautama"になる。実際の中国大陸で当時の訳経僧が、どうサンスクリット語を捉えていてどう捉えた発音の漢字に転写したか、という点が最も重要であろうが、現代では推定しかできない。とはいえ仮説上古音の蓋然性はある。これも、私という凡人が仮に信頼するところである。

ちなみに「涅槃→ニルヴァーナ"nirvāṇa"」の同じプロセスは"nehan, netsuhan, netpan, netban, nerban, nirban, nirvan, nirvana, nirva'ana"となる(ねはん・ねっぱん・ねるばん・ニルヴァン)。
既に「般涅槃"parinirvāṇa"」の「般」がなぜ"はん"ではなく"はつ"と読まれるかも想像が付こう。
ここまでの子音t/r置換や尾母音"a"復元の法則が分かれば、「ガーター"gāthā"→偈(げ・中古推定: ガツ)」や「クシナガラ"Kuśinagara"→拘(or鳩or倶)尸那竭(くしながつ)」もなぜそのような音写がされたか得心がつく(逆に涅やの日本発音は入声音"t"に当たる音が欠落した理由が不明)。
「パーラミター→波羅蜜」の場合、時代が下って玄奘さんが「多」という字を付けた「波羅蜜多」に変化している場合も、「密」の入声音"t"が弱まって尾母音"a"復元がしづらくなったためであろう。

なお、日本人の名字(苗字)に「瞿曇」さんがいるようである。
読み方は"くずみ kuzumi"であるが、実際は"くづみ kudumi, kudzumi"が正しいと思われる。
この名は、「日本語・やまとことば」の音写であると考えてよい。
元の「言葉・ことのは」がいかなるものか不明だが、長野県安曇野市を思い出す。
"安曇(あづみ azumi, adzumi, adumi または、あづし)"(古事類苑)は同県中信地方の「麻績(おみ、麻をつむぐ?)村」と同語源の説があるよう(他の説はこちら・当地豊橋が属する渥美半島も子孫)だが、まあそれはよいとして、"瞿曇"も何らかの日本語の発音が由来と考えてよい。
その音写であるが、「瞿(呉音:ク、おそれること)」と「曇(呉音:ドン・ドム、くもること)」という二字を用いている。
「曇」を"ズミ zumi"と読ませている点は、本来だと、お察しの通り"ヅミ dumi"であり、これが"ドム domu, dom"という呉音・字音の原型と母音の違いがあるのみと分かる。
尾子音・韻尾の"m"もまた、日本語においては入声音"k, t"と同様に"i"の音が付けられるようである(音写の場合はむしろ元の日本語にあった"i"の発音を無視した漢字を借りて再度"i"の発音が付く読み方にしたのであろうが)。
入声音"k, t"に"i"を付ける例は、「"シチ shichi, shitsi, siti, tsit"七・質屋」、「"セチ sechi"お節」、「"バチ bachi"罰」が代表的である(血脈"ケチミャク"・結集"ケチジュウ"飢渇"ケカチ"・・・)。
なお、"久住 kuzumi"とか"安住 azumi"という人名もあるが、重箱読み・ハイブリッド音写であり、説明しない(久住"kuzumi"は久須美"kuzumi"という系統らしく瞿曇"kudumi"とは別者であるが、安住"azumi"は安曇"adumi"の系統らしくて重箱読み音写なので久住と安住とは成立時期の隔たりがありそう。なお瞿曇は名字由来netによると釈迦もといガウタマ由来というが"kudom"読みと"kudumi"とで由来が異なる可能性もある)。





起草日: 20161108

2015年11月27日に某所で投稿したネタに関する現在の見解を、簡潔かつ総合的にまとめた。
言語学・音韻学とは、やはり自然言語に関わるものであれば、歴史的経緯や時代背景や宗教的信条や思想といったものの影響も加味する必要がある。
漢字であれば、則天文字などの創作文字が顕著であろう。
漢字の発音であれば、現代のピンインにおいても重病の「癌"yan"」が、炎症の「炎"yan"」同じ発音のために「肺炎」と「肺癌」で誤診の種になるという理由で、「癌」の部首「嵒」の由来で同じ発音の「岩・巌・巖"yan"」と意味が似た「崖"ai"」の発音を借りて用いるというケースもある(英Wiktionary: 癌にも記述あり)。
なお、「炎」以外はG・Yの母音の置き換えがある漢字である「癌"gan"・岩"gan"・崖"gai"(崖のみはyの頭子音やスペリングを欠落してyaiではなくaiと発音表記される)」のいずれも日本で音読みが浸透している(癌は癌、岩は岩石、崖は断崖絶壁など)。
※GY互換・置換の法則は、詳しく話すと、仮説上古音・広東語の綴りでは頭子音"ng"の漢字=上記「岩」関係以外にも「我・原・彦(顏)」などの文字がもれなく該当している。古い日本で頭子音"ng"は"g"として取られた・・・いわゆる軟口蓋鼻音・鼻濁音は共通しているかともかく、現代ローマ字表記では"ng"と"gの違いがあるのみである。"

「則天文字」や「癌」ピンインについては、時代背景や宗教的信条や思想というものによって「自然と発生したか変化したもの」ではなく、個人的思想による創作や合理的変更などである。
しかし、一応、こういった「例外」などを広く知ることは、物事の広い見解を養うと思う。
今、学術的かつ柔軟な見識を持つこの私が、広く知り得た情報から"Dharma"を例に、こういった見解をまとめることに大いなる意義を感じている。
学問の理性と柔軟な感性の調和が、最善の英知を育もう。

アレコレと私の音韻思考回路についてサンスクリット語の音写語句から顕著な例を引いたつもりであるが、縷々としている。
実際の中国大陸の仏教界隈における音写語句の文字列は、一種の記号であろうか。
実際に音写がされた当時にそういった語句が私の仮説に近い発音をされたかは知りようもないが、一つ言いたいことは、「達摩・達磨」の段落の結論の通りである。
日本に禅宗系が正統(?)に伝えられた頃合いには中国で"Da-mo"とか"Dat-ma"ではなく梵語での"Dharma"に似た発音がされていたから僧侶が日本で"Daruma"を広めたと推測できるように、他の音写語句も、似た発音の漢字を「仮に」当てることで、梵語での発音は訳経僧らが「口」によって伝え、漢字の文字列で梵語にもっと近い発音を思い出させる意図もあったろうと推測する。
「画期的・革新的」らしい禅宗系や密教系(空海・円仁など中国大陸に入った僧侶がいる)のようなものは、それ以前に伝来した音写語句と違って梵語寄りを重視したわけである。



音韻に関しては、世界中の言語と漢字の発音に共通項であるとか、アルファベットに付された発音(IPA一部準拠)を関連付ける思考がある。
その音韻論的な世界観の一端を図に表すと以下のようである。
頭子音としての「B, P, F, W, Mサークル(オマケはVでありHを隠す)」を示す。
一部は過去記事(2015年6月)のネタである。

両唇音 唇歯音 兩唇 唇齒

漢字や単語や、それぞれの関連性についての説明は省く。
私ほどに興味を持ちながらに便利なWiktionaryや漢字のサイトを見て学び、より思考を深めてゆけば、いずれは全ての関連性を繋げられよう。一部資料は画像内にURLを掲載しているが、ここにもリンクを掲載する。
http://en.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%8D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%94%87%E9%9F%B3

一例のヒントのみを記す。
「無・勿(否定の意味で共通)」
無"wu, mu, bu" ・・・ 勿"wu, motsu, butsu"(中国で入声音・韻尾"-t"欠落)
BM互換 (b/m置換、m/b置換)=日本の漢音・閩南語(ビン南語)に対する中古音・朝鮮語
MW互換 (w/m置換、m/w置換)=日本の呉音に対する一部現代中国普通話

日本の漢字音韻においても「は行の非は行説」があり、これを取り入れてある。
漢字音韻ではなく単なる訓読みも混ぜてあるが、これは自然言語の世界共通性を示すためである。
とはいえ、漢字音韻が時代と地域によって変化する点では、一つの音韻の原点を求め、それに基づいて世界共通性を問わねばならない。
漢字音韻には"Proto-Sino-Tibetan"説(印欧祖語のような言語学的に再構築された祖語)の語根の影響も考える必要が出てくる。
そこに原点を求めると、必ずしも自然言語らしい発音の成立を見出した私の見解とは一致しない可能性もある。

とりあえず、この図によって体型的な音韻理論を自ら導き出す訓練ができるとよい。
仏教でいえば曼荼羅を見て観想・瞑想するようなものであろう。
こうして知識を得て思惟に入ることで、中国漢字の発音と日本の音読みとサンスクリット語とギリシャ・ラテン系の西洋言語とで、意味と発音(子音)が共通する単語が多く見つかろう。

過去にも取り上げたものを含むが、羅列すると

 (フ・プ・ブ・bu, fu=pu, pitṛ, pater, father バブー赤ちゃん用)
 (ボ・モ・をもwomo・mo, ma, mātṛ, mater, mother バブー赤ちゃん用)
 (バ・マ・むまmuma・ma, mare・梵語アシュヴァで該当せず・関連は「《漢ngu梵go英cow》」)
 (トウ・タフ・トフtō=top, stūpa, tower・ガンダーラ語はthuva)
 (P・F・Wの両唇音多し、上掲画像参照・ほか梵語पवन pavana パヴァナも両唇音、拉ventus英windに通じる梵vāyu, vāta)
 (訓・音とも、上掲画像参照・ほか3人称中動態・受動態動詞で梵語पर्दते pardate、古希語πέρδεται pérdetai)
 (キュウ・キフkyū=kip・すふsū, shupu, シュヴァスश्वस्√śvas, スピーローspīrō)
 (キュウ・キフ・ギフgip・上古音*ɡrɯb・およぶoyobu・人 + 又 = つかむtukamu・グラブgrab, ग्रह √grabh √grah・にぎるnigiru・グリップgrip)
 (ホウ・ハウhou=pau, pao・あぶくabuku・ブクブクbukubuku・バブルbubble・बुद्बुद budbuda)
 (ミョウ・メイ・ミン・myō, mei, ming・なna《なまえnamae, なまへnamape》・ナーマनाम nāma・ネームname・オノマὄνομα onoma《アノニマスの一語根》で子音が全て両唇音・鼻音系)
 (ブ・ム・bu, mu・ないnai・NoNot, None・ナनnaマッमतmatメーμή mēで頭子音が全て鼻音・・・特に日本語・西洋諸語・インド系諸語はみな頭子音が"N"であり"L"の類も歯茎音カテゴリで同系か。頭子音"B"の類も"M"と同系である場合が考えられる。また英語の否定接頭辞in- un-なども同系か。否定接頭辞についてギリシャ由来のan- ἀν-は母音が連なる場合にnが介したものであり原型はa-。そのn介音はサンスクリットにも共通する。例は希Anonymous・梵Anātmanなど)

などが、それである。
ある程度の範囲で印欧語根(proto-indo-european印歐語根)・漢蔵語根(proto-sino-tibetan漢藏語根)で定説ともなっているが、こういった点は英語版Wiktionaryなどを参照してほしい。
私にとって未開拓サイトのhttp://starling.rinet.ru/cgi-bin/main.cgiも利用されたい。
学説・仮説・語根が通じ合わずとも、子音・発音が通じているものはおおよそ人間の感性が通じているものと見てよいので、どちらにせよ、言語の結びつきを知ることになり、私の本意とする。

共通点ということは、無論、「たまたま似たんだろ」と言って一蹴できる問題でもあるが、むしろ、「たまたま」一致するくらいに通底する原因があると考察してもよいではないか?
「似た者同士が結びつく」ことは偶然であって必然でもあろう、と考えてもらいたい、特に人類・人間界のことであれば、根本的な心が通ったものと感じてほしい。
偶然であって必然でもあることとは、不思議であって不思議ではないことである。
大いに考究すべきテーマではなかろうか?
※人類史的には偶然であって国際交流の結果ではなかろうが、だからこそ似た発音には発生経緯が似る理由がある。ある面で偶然・ある面で必然。自然言語なら自然な性質・ダジャレ・オノマトペ・擬音語・擬態語が関わる。あわパオ"pao"、ブクブクあぶく、バブル・ブッブダ"bubble, budbuda"というように(わ・ば・ば=唇の音 labial consonants)。

この道理は、私が小中学生の時、端的に説かれた科学的見解を知った影響によるが、現在までに様々な思惟の中で確かな感触を得ている。
決して「妄想の産物」ではないし、あくまでもその思惟のみによって物事を断定することはないほどに慎重な思考法をも、私は兼ね備えている(今までの私の文章で実感できよう)。



ああ、また長くなってしまうが、2016年12月2日に「觀萌私記」関係の調査で「もえ=毛延・毛要」を検索していると、「日本語千夜一話」という興味深いサイトを知った。
現在70代ほどの方が運営しており、過去にNHK放送文化研究所(言語・文化関係)所長を経験してから、どこそこの客員教授という肩書を持っているようである。
私の考察の仕方と非常に似たような方法(国語学と中国音韻学と西洋言語学の隔たりを無くした幅広い見地)で、日本語の語源を体系的に説明しており、例えば、上古音の学説を肯定的に採用している。
私は中・英Wiktionary所載のバクスター・サガール式や鄭張式の仮説上古音を参照しているが、彼はそれより前の時代のカールグレン式の再建上古音を書籍から参照しているようである(参考文献の一覧に示される)。

私は、何度も綴っている通り、たまたま似ている・共通している点を羅列して自然言語の成り立ちに思いを馳せ、ついでに人類史・語根説に通じた語源の同一性も確認したい気持ちでこういった記事を書き続けるが、彼の場合は、仮説・再建の上古音を正規の説と信頼し、しかも彼の思考の結果「日本語○○と中国語(時に朝鮮語)××は同源だ」とそのまま事実であると断定されるに至っている。
彼の見解には蓋然性があるかもしれないが、断定は早計にも思うし、異なる言語を無理やり共通させようとする「融和」の意図も感じられる(思想や感情ありきで理論を決定か)。
私は如何なる見解に対しても、安らいだ大海のように寛容かつ慎重な姿勢を取っておきたい。
私は未だ、20年以上前の出来事すら、五感で経験していない青二才である。



追記: 2017年8月16日
後の記事に追記した事項をこちらにも載せる(独自で更に加筆)。
 「法"dharma"」でさえも語根√dhṛより名詞化したものとなることが推定し得、実際にそのようである。語根√dhṛは「支える・維持する」という意味を持つ。古代インド人は世界の根底原理を見ようとし、「法"dharma"」と名付けた。「縁の下の力持ち」とは何であろうか?「(世界を)持つもの"DHARMA"(保持・維持・持続)」。マヌが作ったか?ブラフマーが作ったか?ヴィシュヌが実体か?現代に法律とは、世界や集団を維持するもの、秩序を守るもの。人の概念による構築物・人類の英知・宝玉が「法律」であり、「法の支配」とまで讃えられる。言語分析から、歴史や宗教や社会が理解できる一面もある。
 仏教徒が"dharma"と言うときは当然、ヒンドゥー教らしい世界の根底原理を意味しない。諸法"sarvadharma"というように「ありとあらゆる物事」が、何であれ"dharma"である。一方、「支える・保持する」という原義を鑑みると、仏教徒の信仰や修行の支えとして存在する「教え"doctrine"」が該当する。更に、個人の主観性を客観すれば、須臾刹那の心こそが認識能力・思考能力・行動意欲などを司っているようであり、仏の教えにも説かれるから、仏教には仮定の根底原理としての"dharma"もある。ただし、心の理法を、仮定の根底原理として"dharma, dhamma"と表現した経典があることは未確認である。

他、後日・・・「漢字三音考」や「奈萬之奈(なましな、生品・男信なむしん)」といった江戸時代の国学・国語学の書物には中国語や梵語(梵字)に関する言及もある。それらには、「一連の記事関連の考察(当ブログ・国語カテゴリ)」と多くの共通点を持つ見解が載っている。


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しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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