2016年2月25日木曜日

「千弁蓮華 "Sahasrāra"」と「千葉蓮華」

2016年2月6日、鳩摩羅什三蔵翻訳の「妙法蓮華経」に本来は無かった「提婆達多品第十二」を読んでいた(日蓮大聖人も女人成仏抄で二十七品が二十八品に増えた経緯を説明している)。
この品なくば「法華経二十八品」という表現が成立しなくなる、といった一定の存在感がある。

※添品妙法蓮華経という後世の法華経において提婆品にあたる記述が「見宝塔品第十一」に追加され、更に後年、羅什訳の妙法蓮華経にもその記述が独立して提婆品が生まれた、という学説がある。また、羅什さんが参照した梵語法華経には提婆品にあたる記述なく、闍那崛多さんが参照した梵語法華経にはある記述が、後年梵語圏で付加された記述であろうとされる。これも以前話した「観世音菩薩普門品の『偈』」と同じような経緯となる。

とある調べごとのために、この提婆品を読んでいたが、その中で無関係ながら「千葉蓮華(せんようれんげ・せんしょうれんげ)」という表現に惹かれた(爾時文殊師利。坐千葉蓮華。大如車輪。倶来菩薩...)。
これは真っ先に「千枚の花弁を持つ蓮"Sahasrāra (マクロン抜き正当: Sahasraara、サハスラーラ)"」という、私が初めてサンスクリット語として覚えた単語を思い起こす。
サンスクリット語といえば、古今東西・英語にも日本語にも影響を与えた世界的言語ではあるから、誰しも語源的に通じる単語を自然と知っている(記事末尾参照)ものであるが、単にアルファベットやデーヴァナーガリーから覚えたものとしては"Sahasrāra"が初めてである。
"Sahasrāra"を知った2013年中に「千弁蓮華」と、独自の漢訳をして記事に載せた(厳密に言えば、直に漢訳する知識は無かったから英語や日本語での意訳を四字熟語に置き換えたのみ)。

この思い出深き"Sahasrāra"との類似性を覚える「千葉蓮華」にあたる単語が梵本・サンスクリット語のバージョンには載っているか、"Sahasrāra"に巡りあえるか興味が沸いたため、調査を行った。
ヒンドゥー教(印度教)関連から知ったものであるから、仏教とは関係ないことは当然分かるが、そのために梵語・梵本の法華経にも見られる単語であるか、突き止めたく思う。

※実はこの2月6日より前に、別の方法で"Sahasrāra"に関する調査をしていた。サンスクリット語で「蓮」とは何だろう・・・私の先入観で"Sahasrāra"が「(千の花弁を持つ)蓮」という認識によって、「Sahasra(千)+ara(蓮)」と仮定していたが、実際には"Thousand-petaled"という英訳の通り、「蓮」の意味を含んでいない。この時、妙法蓮華経の題でも有名な「白蓮 "Puṇḍarīka (プンダリーカ)"」も浮かべていたので、当時はこれを結論とせざるを得ず。



まず、英語版Wikisourceで対訳箇所を探すべく"Chapter 11"を披いた。
先述の通り、この「提婆達多品第十二」は鳩摩羅什三蔵翻訳の「妙法蓮華経」のみ設けられたものであり、別の本ではみな「見宝塔品第十一」に当たるパートに載っているから、"Chapter 11"を参照する必要がある。
また、サンスクリット語版としてDSBCの"11 STŪPASAṂDARŚANAPARIVARTAḤ"も披く。

妙法蓮華経でその記述の前後にある固有名詞などの、ローマ字(ラテン文字)表記を想像して、ページ内検索をかけ続けておおよその位置を特定する。
「文殊師利」は好例にあたるため「英語ではマンジュシュリー"Manjusri ??"だったか」と想像しながら英・梵両ページを探すと、それらしい記述の位置が当たった。
他にも知っている単語である「ボーディ・サットヴァ"Bodhisattva"」のような単語も付近にあることを確認していく。
ほか、自分の脳内で通じた単語は"prajñākūṭa (prajñākūṭo bodhisattva)"の「プラジュニャー」という語根は音写・漢訳で「般若=智」、それで菩薩の名前とすれば「智積菩薩」に通じ、WS所載の英訳本に"six perfect virtues (Pâramitâs)"とあるも箇所も「六波羅蜜」を指すと見た。

以下に対応する記述のハイライト

atha khalu tasyāṃ velāyāmadhastāddiśaḥ prabhūtaratnasya tathāgatasya buddhakṣetrādāgataḥ prajñākūṭo nāma bodhisattvaḥ| sa taṃ prabhūtaratnaṃ tathāgatametadavocat-gacchāmo bhagavan svakaṃ buddhakṣetram| atha khalu bhagavān śākyamunistathāgataḥ prajñākūṭaṃ bodhisattvametadavocat-muhūrtaṃ tāvat kulaputra āgamayasva yāvanmadīyena bodhisattvena mañjuśriyā kumārabhūtena sārdhaṃ kaṃcideva dharmaviniścayaṃ kṛtvā paścāt svakaṃ buddhakṣetraṃ gamiṣyasi| atha khalu tasyāṃ velāyāṃ mañjuśrīḥ kumārabhūtaḥ sahasrapatre padme śakaṭacakrapramāṇamātre niṣaṇṇo'nekabodhisattvaparivṛtaḥ puraskṛtaḥ samudramadhyāt sāgaranāgarājabhavanādabhyudgamya upari vaihāyasaṃ khagapathena gṛdhrakūṭe parvate bhagavato'ntikamupasaṃkrāntaḥ| atha mañjuśrīḥ kumārabhūtaḥ padmādavatīrya bhagavataḥ śākyamuneḥ prabhūtaratnasya ca tathāgatasya pādau śirasābhivanditvā yena prajñākūṭo bodhisattva  stenopasaṃkrāntaḥ| upasaṃkramya prajñākūṭena bodhisattvena sārdhaṃ saṃmukhaṃ saṃmodanīṃ saṃrañjanīṃ vividhāṃ kathāmupasaṃgṛhya ekānte nyaṣīdat| atha khalu prajñākūṭo bodhisattvo mañjuśriyaṃ kumārabhūtametadavocat-samudramadhyagatena tvayā mañjuśrīḥ kiyān sattvadhāturvinītaḥ? mañjuśrīrāha-anekānyaprameyāṇyasaṃkhyeyāni sattvāni vinītāni| tāvadaprameyāṇyasaṃkhyeyāni yāvadvācā na śakyaṃ vijñāpayituṃ cittena vā cintayitum



同日19時台、ついに「千葉蓮華」の核心に迫った。

"Sahasrapatre"という単語は「千葉」を表していよう。
"Sahasra"は「千」であり、"patre"は「葉」、でなかろうか。
英語版Wiktionary "सहस्र"の記事で"Sahasra = Thousand"であると書かれ、英語版Wiktionary "Leaf"の記事でインド系の諸語の対訳がパーリ語なら"Paṇṇa (Panna)"、ベンガル語なら"Pata"、より追跡してヒンディー語やネパール語にマラーティー語、ついにはサンスクリット語でも"Patra"とあることから、まさしく"Patre = Patra (主格) = Leaf"(葉) であると繋がる。

その直後に続く"Padme"という単語も、Wiktionaryでの調査に限界があるため、槍投げにGoogle検索をかけたところ、何とか期待する検索結果を得られた。
格変化の処格(所格・於格とも)の違いで"Padma"が"Lotus"つまり「蓮」に当たる単語である。
要は、「千葉蓮華」をサンスクリット語に戻すと"Sahasrapatra padma (サハスラパトラ・パドマ)"ということになろう。

※蓮は蓮でも、"Padma"と"Puṇḍarīka"の違いは色にあるようだが、紅蓮・白蓮となろう。単に「ハス」という分類学上の植物の名を指す場合は前者にすべきか、といった点は不明である。そこで別途調査すると、分類学上のニュートラルな名称は「パドマ」でなく「カマラ "Kamala, कमल"」のようである。

※"Sahasrapatre padme"手前の"kumārabhūtaḥ"という単語は「クマーラブータハ(?)」と読むが、クマーラといえばあの妙法蓮華経訳者、鳩摩羅什三蔵も「クマーラジーヴァ」といい、父上も「クマーラヤナ」と称するなど、"kumārabhūtaḥ"の意味が気になるところであるが、これ以上は止みなん、また知るべからず(もう止めよう、知ることはできない)。

2013(12?)年に単語"Sahasrāra"を知ってより、2013年末に"Thousand Leaves (まさに千葉)"の楽曲を聴き、2014年6月に日本仏教への関心を強く持ち、この2016年1月以降はサンスクリット語・パーリ語といった言語に向き合う心の準備が整ってから、ようやく類語などを特定するに至った。
短時間でこれだけ調査したから、実に疲れてしまう。
しかもそれを、「漏らさないうちに知識を移しきろう」としてこの記事を即日まとめたわけだから、作業量が濃密となる。
無論、即日まとめるとしても速記のようなものだから、即日や翌日に投稿するとは意味しない。
現状、メモ帳には4記事のストックがあるので、これらを順次投稿していき、当記事は当月末に投稿・反映する予定を立てよう。



なお、他の英語の意訳として、"Sacred Texts"所載の訳文における「千葉蓮華」の箇所は"centifolious lotus"とあるが、これは「百の葉の蓮」を意味しているようである。
ラテン語接頭辞"centi-"は、センチメートルなどと日本でも言うが、"100, Hundred"にあたる意味を持つ。
ちなみに100は、ラテン語 ケントゥム"centum"であり、サンスクリット語 シャタ"śata शत"である。
"fol"という語幹なら、先のサンスクリット語"Patra"と同様"leaf"を意味している。

ところでラテン語で"Pater"といえば「父親」を意味する単語で、今や全世界に流布する「パパ・ママ "Papa, Mama"」の語源は無論ラテン語であり、ラテン語の前にも(?)古代ギリシャ語"παπάς"など、相当する単語がある。
ラテン語で父・母といえば"Pater, Mater"であるが、これらのより祖先を辿ると印欧祖語というものになるらしい。
同じ印欧祖語が祖先である「印欧語族」にあるサンスクリット語では"पितृ, मातृ"であり、ローマ字表記をすれば"pitṛ, mātṛ"となる。
両親について、父母の順序を「母父"Mātā-pitarau"」という並列の言葉で称しているそう。

2016年2月18日木曜日

日本・大陸漢字発音概論 [音韻学]

今回は、漢音と呉音の復習に加え、漢字文化圏の諸語や外部の言語の例も交えて解説する。

「自然(しぜん)」と「男女(だんじょ)」に、別の読み方があることはご存知であろうか。
そう、「自然薯(じねんじょ)」や「老若男女(ろうにゃくなんにょ)」に見られる差である。
その差は単なる訛りであろうか?
これは端的にいえば「漢音」と「呉音」の差である。
"しぜん・だんじょ"組は漢音であり、"じねん・なんにょ"組は呉音である。

「自」は一般的にこの呉音かつ濁音の"じ"と読まれる。
「自」を漢音かつ清音の"し"と読むのは、いわゆる中国の書で仏教でない道教や儒教での読み方の影響で"しぜん"と読む。
一方、"じねん"の場合、「然」を呉音である"ねん"と読む熟語は、「天然」くらいしか一般的な例がなく、一応IMEで変換できるものとして「忽然」などがある程度だ。
だが、音符となれば「燃焼」の燃えるという字が一般的に"ねん"と読む。

ともかく、要は漢音"ぜん"と呉音"ねん"の差は、「特定の単語のみに現れる訛り」ではなく「普遍的法則」である。
これは"ぜ"と"ね"の互換である。
"だんじょ"の"だ"に対する"なんにょ"の"な"、また"じ"と"に"も同じ普遍的法則が合う。

余談だが、「境内(けいだい)」という読み方は、「境」も「内」もそのような読み方の単語例はほかにあまり無いので、初めて見たとき・普段見ない中で久々に見る時には大概「境内(きょうない)」と読む人も多かろう。
これも前者が漢音であり、後者が呉音である。
「境(さかい・けい・きょう)」はいわゆるeiとyouの互換であるが、これは音韻学入門の2014年7月の記事で当時なりの解説がされている
「内(うち・だい・ない)」は先ほどと同じ法則によるが、"だい"読みの単語例は「お内裏」か。

"だDA"と"なNA"は歯茎音で共通し、"じょJO"と"にょNYO"は硬口蓋音で共通し、"ぜZE"と"ねNE"は歯茎音で共通する。
例えば"ぜ"は有声歯茎破擦音であり、"ね"は有声歯茎摩擦音であるといった、"だ・じ・ぜ"等の互換法則漢音は大概「部位名称+破擦or破裂音」に該当する。
とりあえず、ここで漢音"だ・じ・ぜ"と呉音"な・に・ね"に発音法則の一貫性があることを理解されたい。
なお、"ぬ"や"の"が呉音なのか漢音なのか、また片方に当てはまる場合もう片方がどういう音になるか、少し説明する。
「奴・怒」は「奴隷(どれい)・憤怒(ふんど)」という漢音、「奴婢(ぬひ)・憤怒(ふんぬ)」という呉音の違いがあり、"の"という発音に至っては、音読みでの例が未見であるので説明不能か。



次に例題を挙げよう。
「美女(びじょ)」を呉音読みするとどうであろうか。
すなわち、"みにょ"となる。
前述の法則上、女"じょ"が"にょ"となるのみならず、"び"までもが"み"と変化した。
これは過去記事「BM互換」の中で多くの例より解説しているので参照されたい。

「BM互換」は、呉音がMの時、漢音がBとなる法則であるから、呉音と漢音どちらかのみ判明している漢字の音がBの音だとしても、必ず漢音に可能性は限られない(後述)。
後々、中国本土では多くの漢音B音がM音に発せられている(日本の呉音B音は後述「毘"び"」が"Pi"、「平"びょう"」が"Ping"になるよう、P音が多い。これは有声音と無声音の違いであって現代中国の口語では個々の字と条件によってB音にもなる場合がある)。
今の中国本土の普通話において、B音の漢字はほぼ無くなってしまった(後述する「本」は別)。

サンスクリット語には漢字の音写で「菩・仏・毘」などが当てられるB音の単語が多い。
今の中国本土では過去記事にも書いたが、「仏陀(ぶっだ"Buddha")」が"Fo Tuo"となり、「菩提(ぼだい"Bodhi")」が"Pu Ti"となるなど、しかもD音のT音化までセットに見られ、頭子音のB音の消失をはっきりと見ることができる。
これでは、サンスクリット語「音写」に対する、音韻上の再現性に欠いてしまう。
なお、日本仏教に「仏陀(ぶっだ)」という発音は伝統的にされないほか、"っ"という促音の後に"だ"というD音がつく熟語はほぼ存在しない(この発音自体が外来語に対して用いられるようになるなど、日本語には近現代まで無かった)。
"ば"の音の漢字なら、サンスクリット音写の場合「婆・跋」などが用いられる。
これにしてもP音に変わっているから、「婆羅門(ばらもん"Brahmana")」も"Po Luo Men"となってしまう(跋は・・・)。
"べ"に関しては該当する音が漢字にもサンスクリット語にも見づらい。
"ヴェ"は本質的に異なるし、ヴェーダ(韋駄・吠陀)は仏教と関係がなくなってしまう。

続いて、諸語における漢字B音読みの存在を確認しよう。
ベトナム語は不明であるが、「ベトナム"Vietnam"」はご存知の通り「越南(えつなん)」と漢字で書く。
これは日本の古い字音でいえば"ゑつなむWetsu Namu"となるが、それを更にWとVの互換性、入声音の考慮などをすれば"Vet Namu"となり、"Vietnam"と瓜二つのスペルに変わる。
このようであるから、普通の人もとい2年前までの私は「越南」で「越」と"Viet"に似ている点を感じられないであろうが、実は日本語と疎通するものがある。
ベトナム語を始めとして、韓国語や中国方言(広東語・閩南語など)は伝来当初の音を多少の範囲で残しているから、参考となる部分が多い。

韓国語にもまだB音は残っているようであるが、ローマ字表記の基準が変わるとPに綴られる場合も多い。
私が中3あたりの頃は「釜山(プサン)」の表記が"Pusan"と"Busan"に分かれる理由が気になっていたものの、これは"Pusan"がマッキューン=ライシャワー式で、"Busan"が文化観光部2000年式という違いである。
前者M-R式は日本統治時代から不変であるが、後者2000式は韓国政府による改良が度々加えられる中で2000年に確定した表記法であり、現行のローマ字・ラテン文字表記の基準となる。
※後の加筆となる。このB, Pの別は有声・無声の両唇破裂音であり、この有声音や無声音はG, Kなどのいわゆる濁音と清音に相当するが、日本の連濁のように、前後の音など脈絡に応じて有声音と無声音が入れ替わったりする。M-R式や2000式といったローマ字表記法ごとの違いは、ここで決定される。

なお、中国のピンイン方式の表記と、ウェード式という表記法にも、BとPのつづりの差がある。
例えば、「本」のピンインは"ben"、ウェード式では"pen"であるが、韓国のM-R式"pon"、2000式"bon"とも「本」にB・Pの違いがあるが、どちらも実際にBの発音をしている。
今日の日本でそれら言語のカタカナ表記をするにも、大概は両言語の現行表記法(ピンインと2000式)に基づいているから「日本」は中: リーベン"Ri Ben"、韓: イルボン"Il Bon"と綴られる。

※「語中に連濁もとい有声音化が現れただけ」と言われれば、それまでかもしれない。ピンインとかウェード式とかというのはラテン文字翻字システムの名であり、これらは中国語や韓国語などを対象とする際に有気音(韓国語学で激音とも)を区別した表記に、例えば有気音はPで無気音はBを用いるというようなことをしているに過ぎないかもしれない。語頭の濁音もとい有声音を区別しない言語たちだから。私は勉強不足なので考証を保留し、要点だけ読み取っていただきたい。





ここで、日本の漢字の音読み「呉音・漢音」の話に戻す(唐音に関しても僅かに後述する)。
必ずしも「"ぜ"や"び"から始まれば漢音」というわけではない。
連濁によって世が"ぜ"となる場合(観世音、現世)もあれば、毘のようにサンスクリット語の音写(荼毘、毘沙門)でも定番の文字の場合など、その音であっても漢音と推定しきれない字の音がある。
「毘(び)」の文字は、漢音が"ひ"である(一部辞書所載に依拠か)。

呉音における"B"の音についてしばらく説明する。
「凡」という字の読みは、誰もが真っ先に"ぼん"と答えるであろう。
だが、「凡例(はんれい)」のような読みもある。
「凡」の"ぼん"と"はん"の違いもまた、呉音か漢音か、という違いに尽きる。
「犯(はん)」には「女犯(にょぼん)」という読みがあり、「煩(はん)」にも「煩悩(ぼんのう)」という読みがあり、「飯(はん)」でさえ「浄飯王(じょうぼんのう)」と読む。
これだけ挙げれば、"han→bon"もとい時系列的には"bon→han"という音の変化が知られる。
呉音における"B"の音はほかにも「平(へい)」が「平等(びょうどう)」であるとか、「病(やまい)」は一般的に"びょう"と読むであろうに「疾病(しっぺい)」という単語もあることから、「疾(しつ)」の促音便に伴う「病(音符: 丙、漢音: へい)」が半濁音となって"しっぺい"と読むのである。
"hei→byou"は、先述の"ei→you"互換の法則に呉音の濁音化が加わっている。
なお、「平」を"ひょう"と読むことがあれば、これは「類推による慣用音」となる。
したがって、「評判」の「評(ひょう)」も慣用音である(もちろん呉音と漢音は「平」に同じ)。



漢音が"ei"のとき呉音が"you"となる例を本文中に2度は述べた(境と平)が、漢音が"ei"のとき呉音は必ず"you"となるわけではない。
例えば「西」は"せい→さい"であり、「麗・礼」も"れい→らい"と呉音では"ei→ai"の変化がある。
なお、現代中国語、普通話において「西」は"xi"であり、「麗・礼」は"li"である。

"ei→you"互換のものは日本でも一般的な「清(せい・しょう)」「明(めい・みょう)」などが中国語では"qing", "ming"であるなど、いわゆる唐音の"しん"や"みん"に類する。
ただし、"ng"という軟口蓋鼻音は古い仮名遣いだと"う"とされた一方で、現代では誰もが"ん"と、"n"という鼻音と同じようにしている。

なお、既述の「境」と「平」の現代中国語の発音、ピンインの表記とは何か。
「境」は"jing"で、「平」は"ping"である。
これらもまた呉音ei漢音you中華ing(日本の唐音in)の法則に準じている。
現代中国語に少ない発音が、頭子音としての"K"である。
よって、「境」がケイとかキョウとかの頭子音"K"として日本で読まれても、現代中国では頭子音がJかXかQかFかHに変わる(K→Hという頭子音の変化は、後述の「好」という字などが当たる)。

※逆に、現代中韓で頭子音"H"の漢字(好・海・韓など)が、古代日本は"H"の発音が無い(仮名の"は行"に相当する音の発音は古代P→中世F→近世~現代H)という前提で頭子音"K"として受容したという学説が大正頃からある。言い換えると、今日の日本に"は行"で音読みする漢字は今の中国や韓国で"P"や"B"や"F"の音の字が多い。字音仮名遣いで2モーラが"ふ"という漢字も、上古の日本では、入声音"P"に通じた"ぷ"で発音されたのではないか(法なら"ぴゃぷ・ぴょぷ"、合なら"がぷ"という発音が当時の音に近そう)。なお、元々が頭子音"H"でなかった可能性のある漢字が「含 (ごん・ゴム、かん・カム、がん)」であり、今の中韓では"han, ham"という発音ではあるが、仏典の漢訳では"āgama"に対して「阿含」とある通り、本来の中国か古い中国の一部地域では頭子音"h"ではなく"g"だったろうから日本はその音のまま受け入れたと見る。上古音研究では「含」を/*Cə-m-kˁəm/("カム"とか濁り気味の"カム"?)や/*ɡɯːm/と表記している。



最後に、日本の漢字の音読みにおける尾音(後ろの音、尾子音・韻尾)"う, u"の源流について示す。
既述の軟口蓋鼻音"ng (ŋ)"は多くの尾音"う"の音を生み出してきた。
この源流の漢字に続く漢字の頭子音が「か・さ・た・は行」のような清音である場合、連濁する性質がある。

次に、普通中国語には唐や宋あたりから失われた入声音"p"も、歴史的仮名遣いの"フ"を経て、現代に"う"と綴られる。
合"ガフ"や法"ハフ"などがこれに当たる。
この源流の漢字に続く漢字の頭子音が「か・さ・た・は行」である場合、"う"が促音となる性質いわゆる「促音便」があり、中でも「は行」は「ぱ行」に変わる。
この原理から、「合併"がっぺい"・合体"がったい"」などの発音が生まれる(「合法」に限っては"がっぽう"ならぬ"ごうほう"のまま)。
また、法"ハフ"は「法被(はっぴ)・法度(はっと)」という単語がこれに則るも、「法華(ほっけ)・法身(ほっしん)・法主(ほっす)」という読み方は、"ハフ"則ではなく"ほう"の"う"が促音便であるが、これについては中古音"pjop: ピョプ"に似た音・呉音"ホフ"に則している。

次に、その中古音・上古音で"w"、現代中国語で"ao"の発音の"o"にあたる箇所を日本の音読みで対応して"う"となる例もある。
代表例はご存知の方もいようが、「小"xiao"」や「好"hao"」や「道"tao"」などである。
この三例はみな、漢音も呉音も日本では"ou (ō)"の発音に終わる。
ほか漢音のみ母音が2つ続いて、呉音は"u"のみとなるものに「・留(漢音: りゅう、呉音: る)」や「・工(漢音: こう、呉音: く)」などがあるが、これらも中古・上古のスペルに"w"で結ばれる。
これらについては、続く漢字の音を濁音化させるなどの効能は基本的に無いが、もしあるならばおそらく、それら前述の"ng"や"p"の効能に対する類推であろう(例: 仏教の三身のうち報身="ほうしん"を"ほうじん"と読むなど・・・""は尾子音ngの漢字でないから日本伝来当初に連濁で伝わるはずもない)。

ほかは、日本で人工的(ある意味で人口的)に発生した「慣用音」としての例がある。
好例が「数(すう)」の"う"である。
なぜ数珠は"じゅず"と読むかといえば、この「数」が本来"しゅ"と読むことが正しいからである。
仏典を見ると、「算数」は"さんじゅ"と、「算(さん)+数(しゅ鼻音連濁)」で登場する。
要は数珠の"じゅ"もなぜこの発音かは自分に分からないのであるが、とりあえず「数"すう"」は本来"しゅ"あるいは"す"と読み、後に"う"が付いてきて成立したものと覚えられたい。
ほか、"すう"に当たる漢字である「枢・崇・趨」なども慣用音とされるが、個人的な検証は不足しているのでこれについては断定できない。
一方「修"しゅう"」は、仏教で「修行」という単語があるよう呉音で"しゅ"と読むが、これは時代が中国で時代が経つにつれ"う"が後からついてきて成立した、ある種「中国の慣用音・訛り」でもあり、日本にその状態で伝来したから漢音に当たる。
同様の字には「就(漢音: しゅう、呉音は"成就"のじゅ)」があるが、なんとこの字の発音は元々入声音の"k"がつかわれ、音の起源がチベット語らしい(これも検証不足)。



原版20151227 ←最初の3日くらいで大半の記述がされた。というか、発案した最初の1日で草案をまとめないと、これだけの情報は整理できなくなる。



2016年2月11日、ついでにもう1点、本文中に挿入すると話がややこしくなる漢字発音の互換例を挙げる。
日本では「肉(にく)・日(にち)」と発音される単語は、中学生までにその中国語発音を知った。
小学生の時に「回鍋肉(ホイ・コー・ロー)」で「肉(ロー)」を知り、中3ネット右翼時代に「日本(リー・ベン)」を知ったことで「日(リー)」と、共に日本とかけ離れた読み方に疑問を覚えた。
これについても答えは簡単である。
「肉(niku = ròu)」にしろ「日(nichi, niti = rì)」にしろ、入声音"k"や"t"が使われ、その音が落ちたり、頭子音"n"が"r"に変わってこのようになったといえる。

中古音から現代までの変遷を示そう。
」は"nyuwk→nyuw→ryuw→rou"」となり、「」は"nyit, nit→ni→ri"と変化した(n音がr音に変化するタイミングは不明なので必ずしもこうとは言い切れない)。
このように先述の「入声音"k"や"t"が落ち」、「頭子音"n"が"r"に変わった」といえる。

ここで、当記事序盤にある「漢音"だ・じ・ぜ"と呉音"な・に・ね"」の互換については、中国ピンインと日本音読みで噛み合わないようではあるが、これが広東語や閩南語の場合、「肉(niku)」は"juk, jik"であり、「日(nichi, niti)」も"jit, jat"というところ、"ni"の音が"j*"に変化している「普遍的法則」は符合した。
また、ラテン語・ドイツ語的な"j"と"y"の繋がりが、韓国語・朝鮮語の発音「肉"yuk"」に見られる。
「肉」の音読みは実に興味深く奥深いことが分かった。
韓国・朝鮮語の「日"il"」にせよ、"nit→jit→yit→it→il"と、彼の言語には入声音"t"が全て"l"となる法則があるため、これも通じる(古来の朝鮮人が漢字の入声音"t"を"l"のように聴き取った)。
頭子音"n"を源流として"n→j", "n→r"ほか、"n→j→y"もあるといった枝分かれ・末葉・末流はあれ、日本の「肉"niku"」と「日"nichi, niti"」だけは中古音・上古音の往古を今に残している。

ほか、同様の例に「二」や「爾(簡化: 尔)」という字が挙げられる。
これらは日本で呉音が"に"、漢音が"じ"と読むが、中国では「一二三"イー・アル・サン"」が日本の小学生でも知っている漢数字の発音や、「首爾」は韓国の首都であるソウル"서울"を音写するなど、"er (ěr)"という発音に変わっていることが分かる(まあ"er"は耳で聞くと"アル"よりも"オー"と言っているように聞こえるが)。
これも日本呉音の頭子音"n"と中国普通の頭子音"r"の互換を裏付ける。
※「安息=アルサケス」という古い中国での音写は、「安」の読みになかなか先ほどのNR互換を感じさせるが、現代中国での「阿爾沙克」という音写も、"爾(尔)"の字に同じくNR互換が見られて面白い、余談だが「息」は日本で"そく"と読むが、あの音写でも入声音"k"が残っていた。

ほか「辱(漢音: じょく)」は、仏教用語・呉音で"にく"と発音(忍辱"にんにく"・罵辱"めにく"・毀辱"きにく"など)され、ピンインでは"ru (rù)"と綴り、別記や他言語に"ju, yuk, yok"などもあるが、先述された頭子音N→RやN→J・Yと同じことである。
「辱」を音符としている「耨」は、仏教用語に「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら・・・、サンスクリット音写)」とあるよう、"のく"と発音するけれど、辞書によっては"呉音: ぬ、漢音: どう"とあり、ピンインや他言語でも"nou,  nòu, nau, nu, nậu"など、珍しく上古音以来の頭子音"n"を、日本呉音と同様に維持している("のく"にあたる発音は日本仏教読みのみ)。



最後になるが注意事項を断っておく。
当記事で「中古音・上古音」として度々述べてはいるが、もちろん絶対的に、どこかの辞書などに載っている中古音や上古音とされる音韻が、正確に時期や地域はともかくかつての中国大陸内で使用されていたということを信用しているものではない。
あくまでも、自説の客観性向上のため援用したり、真実(?)の中古・上古音韻を想像する上での参考とすべく、英・中Wiktionaryを確認する。




2016年2月15日月曜日

二次元・三次元の相貌の相対的な互換性に関する理論の体得

二次元の人物と三次元の人物の相貌を対比する上で、踏襲すべき理論がある(英語2 dimensionsや3 dimensionsという原義が無くなって俗語化した「二次元・三次元」の意味で当記事を執筆)。
表題にある「相対的な互換性」とは、難しく思うかもしれないが、直感的なことである。
三次元の人物の顔が二次元の少女漫画や萌えイラストさながらの大きさの目を持っていることは反対の例・「絶対的な相似」であり、二次元側に比較するならば違和感ばかりを覚えてしまう。
2011年頃に話題になった中国人女性の巨大な目を、「相対的」に二次元イラストで再現すれば、ブラックホール的な巨大さとなり、見る側は「目を奪われる」気持ちとなろう。
輪郭にしても、萌えな美少女イラストの丸い輪郭を、三次元でマネしてエラを張らせるようだと、これまた同様のことである。
ここに「絶対的な相似」と「相対的な相似」を踏まえないことによる、異常な顔面整形をする者(ジョセリン・ウィルデンシュタイン)がこの世界に稀に存在するものだが、そこまでしない一般人にしても、この相対的互換性理論を知らないか覚れないままでは、二次イラストへの偏見と違和感が拭えないでいることとなる。

既に挙げた例のとおり、二次さながらの輪郭や目つきを、三次元の人物がそのままそのパーツだけ似せるようでは、かえって違和感と奇怪さが強まってしまう。
二次元の萌え系はそのパーツ同士の調和による美しさがあり、三次元の美人の顔もまたそのパーツ同士の調和による美しさがあり、異なりを認める必要があるから、一方がもう一方の一部分を真似れば「不調和」に陥る。
三次元の人物にも、萌えの印象を持つ顔の人もいよう(特に幼女)。
それはなぜか?言い換えれば「萌え系二次絵がそれら三次元の良い顔に則して成立した」ことにほかならないからである。

ただし、萌え系イラストの源流をいえば、ディズニーの動物キャラやムーミンなどの海外人外アニメーションなどがそれに当たるようにも見える(詳しくないが80年代頃からか?)ので、一概には言い切れない。
思えば、小学生の時に「某甲さんの顔(男子同級生や男性俳優など)」は「ライオンっぽい。リアル動物のライオンとはあまり似ないのに」と疑問を持ったが、「~っぽい」というと、リアル動物とは別に偶像化・抽象化された特徴の表象かもしれない(某漫画・某球団ロゴなど)。
当記事ではあくまでも「二次元の人物・三次元の人物」の顔のパーツなどが相対的に相似していることが中心である。
以下より、三次元人物との相対的な相似の性質を詳述する。
不十分の謗りを免れないことを覚悟しつつ、恐縮ながら私の写真とイラストで例を挙げる。





これは、私が2015年6月上旬に描いた絵(中央)と似ていそうな自分の写真(左から2016年1枚・2010年下半期2枚)を並べただけの画像である。
あるいは顔つき(左・中右)、あるいは服装(右)が似ているようであろう(イラストの服装=緩めたナロータイなどの元ネタは別の写真となる)。
まあ、このオリキャラ絵は可愛く描こうとしたらたまたま私の顔に似た程度の結果と思われるが、それこそ「内証の理」が顕現したということで、私が体得している理論ありきで描かれたと言える。
これだけでは説得力に欠いてしまうが、深くマインドで捉えてくれれば私の内なる論理に通じていくのではなかろうか。

ところで仏教には、曼荼羅(絵の掛け軸など)を見て観想(かんぞう)する修行法がある。
「何をどんな曼荼羅で観想するか」といえば、美女が死んで肉体が朽ちる様子(九相図)や、仏界や浄土や悟りの世界観を表現した曼荼羅を、目で見ながら観想すること(視覚的に概念を認識し観想の際は見ない場合もある)によってこの世への執着を無くそうとしたり、禅定を得ようとする。
そこでもし論理未得の人が、私の画像や同じような趣旨の「顕・理論画像」を見て思索を巡らせるならば、何かマインドに訴えて高次の論理に至る可能性はある。

ここで一偈「若有未得人 見如是画像 顕理論画像 速到高次理 (若し未だ得ざる人有って是の如き画像・理論を顕せる画像を見るに、速やかに高次の理に到らん)」

2月1日 かたきしとねメモ アオムケジ、ムネニテヲアテテカンソウスルトキモチガヨイ ココデオモウコトハ、ミジメナルオサナキジブンヘノレンビン、ドコマデモイトオシキショウネン アノジョジニテイルトシタオリキャラエモ、チュウ2ノジブンニニル




こちらは2013年9月に描いた絵("今の私がいう萌え"とはやや異なる)と2013年8月4日撮影の自分の顔写真を並べて比較した2013年9月作成の画像であり、2013年9月25日投稿の本家ブログ記事に掲載している。
2013年という事実に念を押すよう、内なる論理はまだ熟しきっておらず、技法も定まっていないころであるから、参考の度合いとしてはやや欠けている。




ほか、萌えとは異なる男性キャラの場合も、過去記事に自分の顔写真を加工して再現をした。
広く相対的な互換性を感じる上で、これもまた一つ参考となろう。
同じく、絵に「内証の理」が顕現していることに、当該記事では写真との対比を以て説明してある。
この2つの男性キャラの絵は、私の顎を含む輪郭・鼻・口を扁平にし(縦幅を狭めること)、目・眉だけそのままの形状で残せば位置が相対的に低く感じられ、類似した特徴を実現すると思う。
言うまでもなく、美化された特徴に関しては、絵を描く方法のうちなので、別の話である。

ところで、リアル人物の顔を見たとき、何らかのアニメキャラや漫画のキャラに顔が似ているように思ったり、印象が重なる、逆もまた然りという経験は誰しもあるのではないか(アニメに親しみある若い世代に限るが)。
このような現象(類似性疑問)は、音楽に対しても言える。
アニメ・漫画などにおいては当記事にいう二次・三次相対互換の理論(および"内証の理")が適用されようが、音楽の場合は、例えば「楽器やジャンルが異なるあの曲とこの曲が似ている・私の作った曲がとある曲に似ている」といった感覚も、いわゆる「音楽理論」、つまりコード進行やテンポなど、言語や数字に表せる理論を曖昧ながら体得しているからそういった感覚が発生するのである。
具体的な音楽理論を学び知るか、作曲する過程で比較・知覚した時、どうして「この曲似てる!似ている!」という感覚が発生するか、深く納得することとなろう。



よく美幼女の三次写真と萌え系の二次イラストを眺めてほしい
他の自分の写真・イラストの例で2015111013210002など
↑まで記述未整理、煩雑の謗りを免れたい。

私の思う「萌え・美少女」と少し離れる話ではあるが、2012年中、とある1枚の画像と出会った際の衝撃は大きかった。
元々アジア人だとか白人だとか、モンゴロイドだとかコーカソイドだとか、日本人だとか朝鮮人だとかという「疑似科学にも似た人種論争を気にかけることがあった中3ネット右翼期」を経ていたので、顔のどういった特徴が美と醜を分かつ要素たり得るものか考えることが多い中で、「可愛いとされる絵は白人の特徴を持つ」という画像は一つの決定的判断材料となった。
二次の顔貌を観想する上で、この画像に目を通すことは大きなインスピレーションとなろう。
よって、二次・三次相対互換の理論を体得するには良い教材となるので、各自参照されたい。
ただし、現在の私の二次・三次相対互換の目線から見直すと、引き合いに出された「アニメ化けいおん!唯ちゃん」は西洋・東洋の中性的な顔つきであり、あのアニメの画風の相対性の範疇でより写真人物のような西洋人の顔にできると思われる(単なる例示について難癖をつけるつもりはない)。



相対性という概念は、数値化すれば分かりやすい。
目を例に取ると、三次元における誰か普通の人というか標準顔の「デカ目度」を100とし、冒頭にいう「2011年頃に話題になった中国人女性の巨大な目」の「デカ目度」を200とする。
同じく二次元・萌え美少女版の「デカ目度」を設けて考えるが、まず「萌え系の美少女」を何でもいいから思い浮かべるか、浮かばないなら私の先のオリジナル少女キャラ絵でもよいので、その1.2~1.5倍(縦横比はご自由に)の大きさの目を想像する。
粗略な定義ではあるが、その「ブラックホール」的な目がデカ目度200に当たる(私の先の絵なら100~120ほどか)、そう思っておこう。
この各デカ目度を厳密に定義することがあれば、二次でも三次でも150以上が違和感の強い大きさとなろうか、美少女漫画ではなく少女漫画のような目は150前後に当たりそうである。

ただ、どう極めても、世間で言う"IQ"だとか知能指数だとか偏差値だとかと同様、絶対完全という正確性は持ち得ないので、あくまでも参考の範疇に留意したい。
萌え絵を編み出した諸々の絵師らは、私のような言語化をすることあるいは言語化された理論を見ることは無かったろうが、実に相対的互換性を体得していたのであろう。
これも一種の「理と事(理論と事実)」の差である。
私の披瀝する理論や理論的数値(e.g. デカ目度)が的確に言語化できてそれを大衆が見るとしても、体得者らが事実に表す内なる理論(経験)には敵わない。



上掲画像は2016年5月30日以降の作で、当記事に後から追加される。
瞳に白目領域は上下左右にできていても、萌え絵の相対性においては四白眼というべきでない。
目を見開いた表情は、もっと極端に表情筋といわれるものに力が込められていよう。
私が同じ表情をした際、絶対性の観点では四白眼といえるほど白目が上部に作られないだけであり、
萌え絵は萌え絵で白目が上部にできて構わない。
二次元・萌え絵における鼻の特徴は、多くの場合に簡略的であり、一つの点で描かれる場合は三次元における鼻尖の下・鼻腔のある領域全体の影の位置に当たる。
鼻尖の位置やそれよりも上と考えられそうな高い位置の場合もある(最初のオリキャラ絵など)。
古くは鼻梁の特徴も、線・拡げて影で多く表されていた。
また、極端に思われるかもしれないが、点すら描かずとも相対的相似は保たれる。
鼻に関して言えば、80年代頃のアニメ動物キャラは然るところであるが、人間キャラであっても鼻の特徴を抑えて髪も複雑には描かない、可愛らしい少年キャラがいる。
既述に海外としたが、国内アニメとその漫画原作にも充分ある。
例えば、80・90年代の漫画・アニメである「ドラゴンボール」の主人公「孫悟空」がそれであるとみなされ(超サイヤ人1~3の容姿はどうなのかと言われそうだがギャップとして魅力がある・・・というかここでは少年期ないし通常時に限るべきか)、作品単位では日本ないし欧米など世界中の人気を獲得した。
これは人物であれ人外であれ、DBよりも古いもので手塚治虫作品、DBよりも新しいものでポケモンのゲームやアニメシリーズにも共通すると思ってよい(それらもまた人物・人外キャラは各々個性的な鼻の形状を持っているか鼻の無いキャラもいるのでそれも参考にすべき)。
時代ごとの相対な範疇でキャラクタリスティックな特徴が世間にヒットして生存適性があるまま、世代ごとに継承され、強まってゆくならば「一種の進化論の応用」でもある。

鼻の点や線というものは、あくまでも顔全体に対するバランス保持の基準点(囲碁で序盤に打たれる四つの星のようなもの)に過ぎないので、「有って無いような存在」となる。
したがって、先述のように「点すら描かずとも相対的相似は保たれる」。
鼻の特徴や輪郭の特徴を違えると、少女漫画チックに様変わりする。
無理に三次元の人間の鼻の特徴を二次元で誇張すると、典型的な萌え系イラストの印象とはかけ離れてしまうか、どうしても描きたい場合は私の異流儀系を真似ればよい。
一方、横顔を描く際には鼻の形状があらわとなるが、これはフィギュアにしても同様となる(ただし私はフィギュア未所持である)。

ちなみに、二次元キャラは往々にして首が長くされるが、これは顎の形状変化が一因の絶対的要素として作用する面もあれば、わざと首が長めに描かれている場合もあり、何とも言えない。

「二次元の萌え系はそのパーツ同士の調和による美しさ」があるということを冒頭に書いたように、ここまで、個別のパーツの外見を形質人類学的に示した。
パーツごとの距離・間隔なども相対的にどうあるべきか、考えてもらいたい。



髪型についても相対的に相似する

二次元における髪のボリュームは、爆発したような少年キャラの髪はもちろん、例えシンプルなロングヘアであっても、よく考えると非現実的に思うかもしれない。
どの程度かは、描かれよう次第であるけれど、ここでは私がよく描く種類のイラストを基準として考証したく思う。
この濃密なボリュームを私の髪で「絶対的」に再現した(風呂上りの濡れた髪)。
一定の長さの髪がほぼ全部、一つに集まっても、二次元少女の髪の一部分までしか再現できない。

漫画キャラの髪のボリュームに関して疑問を取り上げた本を、小学生の時に読んだ。
それは漫画・アニメ・特撮などフィクション作品の描写を科学的に検証した本であり、2000年代から学校図書で定番となっているから、私の世代では多くの人が知っていると思う(同趣旨のものに法律検証あり)。
内容は1・2巻などがおっさん世代に向いた作品のネタばかりであったものの、以降のナンバーでは私らの世代の少年に向いたものを取り上げる傾向があることを記憶している。
それで、恐らく1・2巻あたりで、漫画「あしたのジョー」の主人公(男性)の髪型を例にとって検証していたが、そこでは、剛毛の人の髪の毛を更に太さ3倍にしないとそのキャラの髪型を再現できない、とした見解を示していた(私の記憶に基づく)。

私は、より人体の構造から言えば、1つの毛穴から複数本生えるか、1つの毛が都合のいい場所で枝分かれしながら途中で太さを帯びるなどした上で、いずれも適切な長さを保持していることで再現性が高まる、と卑見を述べよう。
私が描かないであろう某女児アニメほか、何かのゲームにある超特大モコモコもふもふヘアーの類(塊みたいな)は、アフロヘアーで再現してもよいが、必要な長さの問題(普通の髪質で2m以上)に加え、完成させてもそのビジュアルは乱反射により悲惨であろう。

私の髪質をいえば、毛によって太さのバラつきがあるが、髪が抜けるまでの時間の長さも決まってしまっており、ここら辺のどうしても生じる差別なども一定埋まらねばならないのであろう。
それを思えば、やはり三次の人物で充分に二次美少女らしく見えてしまう現象には、絶対性よりも相対性を重視する必要があると言えよう。
髪型にしても同じように、相対的な相似があることは、更に諸君の研究や思索などで自ずと覚るところがあればよいと思う。



「相対的な相似」とは関係ない話となるが、顔の輪郭にしても目のパーツにしても、90年代後半~00年代前半などの深夜アニメには古臭さが残る(当時のアニメは子供向けの方が可愛らしく、深夜アニメは見苦しくて趣味が悪いものがほとんど)。
目の場合、睫毛や瞼の特徴・瞳の輝きなどがあんまり複雑なために、その印象を持つ。
昨今では、よほどそういう画風の原作や原案でもない限り、ほとんどそれらの特徴が淘汰された。
前髪の特徴についても、目と同様に「簡略化」は重要である。
随分と複雑に繊細に毛先を描くことは、90年代後半~00年代前半らしさがあるばかりか、エロゲ系などは今なおもこの流儀が強く残されていると思う。
それらエロゲ系は萌えと少し異なるジャンルであると私はしみじみと感じる次第である。
なお、「簡略化」とすら関係ない余談だが、古いアニメ系画風だと前髪は中央部をそり上げて額露出したり、左右とかが兜みたいな派手さに・・・

思えば、萌え系イラストが明白に完成されたのは、私の知識に依ると2000年代前半となる。
2001年ころに著作権的な方向でネット上の論争が起こった某同人ソフトあたりは顕著である(イラスト絵師はのちに商業誌で4コマ漫画を連載しだす)。
2005年までに、同じく「深夜アニメ」ではなく、「同人」界隈あるいはアニメ無き商業においても色々と進歩があった(否、深夜アニメでも2002年ころに有名なアレがあってだね・・・)。
2005年以降は、萌え系の細分化が際立ち、その当時の深夜アニメを2つ(原作の漫画については説明を省く)2011年に鑑賞したのだが、あの当時の萌え系ではこれらが優れているものと見た。
その2つのアニメは広く萌え系に当たるとしても、それぞれはかなり流儀というか画風が異なっている、これをその当時の細分化という(多様化ともいうか)。

それで、何が言いたいかといえば、このうちの2001年頃の某同人ソフトのイラストなどは、当時のオタク系に稀な「前髪の簡略化」が著しくされており、先進的な印象を覚えた。先駆者である。
他の情報についても実際の画像を貼っておきたいが、当ブログでは遠慮する。
当該ソフトの後継(2002年に出た、絵を描いた人物は開発者本人)では、やはり前髪にせよ輪郭にせよ目・鼻のパーツにせよ、前身ソフト期の先進的な萌えよりも一つ前の時代の印象を受ける。
寧ろ、2002年当時であればそれが時期相応にして、当時の人々には親しみやすいくらいか?



ほか、2008・9年ころか私は、とある著作権に関する書籍(2006年)で、親しみある食品などの同人界隈(?)における擬人化だったかを取り上げている項目を見た。
これがいつの萌え系となるか不明だが、このように私が雑多な昔話をしたがる感情は、ネット環境に乏しくネットコンテンツを渇望していた2008・9年(小6・中1)当時の個人的な記録のためである。
当ブログ初見の方には不親切となろうが、煩を厭わずこんな記事を残しておいた。

あ~誰か、「萌え文化と著作権」っていうテーマで論文かいてくんないかね?
2000年代後半から萌えが市民権を得てきて市場に台頭していったわけだけど、本当はアングラ気味な文化であるばかりか、こうもいわく因縁つきな側面が強いんだよね。。。
何度もばかばかしい思いが沸きながら、必死でこんな文章を捻り出し続けた。
すでに本題と逸れているが、「前髪の簡略化」を始め、それら二次萌えの特徴は様々な例から一見簡素なデフォルメだったり大胆な誇張ようでも、明文化し得る相対的な互換性が備わることを重ねて述べてきたので留意されたい。






起草20151228
根幹となる約3,000文字の記述は最初の3日ほどに書かれた(むしろ発想が強く芽生えた即日でないと言語化にあたる意識は保てない)。
途中途中は、少しずつ加筆される。
投稿予定日たる2月15日においても加筆事項はところどころにあるほか、画像も急ごしらえに。



後年の追記①
二次元・三次元における「可愛い・可愛くない」などの美醜の価値観についても、この世に生を受けて以来、漸次に得てきた物事の認識によって決まると思われる。
「可愛い・可愛くない」などの美醜の価値観が、因縁によって生じたもの(原因の結果)であり、無始無終の輪廻を繋ぐ一要因でもあろう。
最終的に、仏教の真理に繋がりゆくことも考えられる。
※美醜の価値観は人文科学の観点で後天性が強いが、自然科学の観点で遺伝に基づく先天性も言える。しかし、ここでは現世の認識・経験といった因縁=現世における後天性の側面を強調する。美醜もとい外見情報に関する先天的知識・経験が遺伝性であっても、結局は数千年~数百年単位で人間文明に生きた者たちの経験が、遺伝情報として遺伝子にインプットされたに過ぎないと思われる。色々な例を挙げてみたいが、煩瑣なので記さず。

ひとまず、私の絵によって、現代日本の二次元における美的センスは、三次元という名の実在人物の外見に基づく場合が有ることを感じ取ってほしい。
無論、一般の美的センスとかけ離れている人に、どれほど同じ理論が適用できるかは、未知数である。
その他にも、さまざまな可愛いことと可愛くないこと・美醜を決める要素(冒頭にいう人外アニメなど)はあろうが、それもみな各人の現世の経験(視覚的情報に対する臭いの有無や快感と不快感など様々な情報の結びつけ)のうちである。各々が過去の記憶・経験といった因縁や、それに対比して現在の想念を観察できると、自ずと答えが出るはずなので、是非とも当記事の所説を理解されたい。
 二次三次相対互換理論(絶対的な相似と相対的な相似を区別しつつ相似性を考察する)および内証の理(現世生来の因縁を観る)



後年の追記②
絵画のような美術も、小説のような文芸も、これらは主観性が表された分野であるが、そこに視覚的客観性や言語的客観性を設けて分析するものが、人文科学である。
例えば、中世であれ上代であれ和歌に何らかの細かい文章表現=品詞(完了形の助動詞だとか過去形の助動詞だとか現代日本人には直ちに理解しづらい区別)がある・枕詞がある・修辞法があるといって共通の意味を見出すことがあるが、それらの和歌の細かい文章表現も、その時代のその個人の言語知識や読んだ時の感情などが表された結果であろう。
※人文科学では、様々な考察対象の事物(人間が作った文物)における主観性と客観性がはっきりと区別されないまま、考察を行うこともあるように思われる。学者自身がそれにとらわれたままであると問題だが、単純に人々の「主観性」とされるものにまた客観的な性質があることを解明する作業は、現代だと認知科学の系統がそれを担っている。当記事の論調は認知科学に近かった。

当記事の話題にある二次元の絵・イラストということについては、その主観性と客観性とが相互に関与する・相関性のあるものとして分析できる。
それが二次三次相対互換理論の提唱であるが、現状はその証明が十分に行われていない。
当記事では、証明のための私の考え方の例示として、「相対性という概念は、数値化すれば分かりやすい。」と記して「三次元(=そう認識された実在人物・写真・イラスト類)におけるデカ目度・二次元(=そう認識された絵・CG類)におけるデカ目度」を説明した。

これは、まだ直感的な・簡潔な説明がされたに過ぎず、実際にはより詳細な分析による証明方法が想定できる。
例えば、一般的に「顔が美しいor醜い」と価値判断される「三次元人物の写真・二次元人物の絵」を任意の枚数で用意し、それら客体の数値・理論値をX軸・Y軸の二次元(2D; 2 dimensions)で示す。
これは、主に正面向きのもの同士である必要がある。
それら客体を数値・理論値で比較すればよい。
更には、BlenderとかMMDとかの3D系コンピューターグラフィックス(3 dimensions, 3D Computer graphics)のソフトウェアで「その美しいか醜いかと価値判断される同一人物」のモデルを用意し(modeling)、正面向き・斜め・横顔などの多角的な分析を行い、それら客体を数値・理論値で比較すればよい。

これらには、数学や理工分野だとかの知見が必要になるので、私自身(および後世の読者ら)に対する「課題・宿題」ということになる。
二次三次相対互換理論についても、世間の学問における様々な理論・仮説と同様に、多くの証明や反証ができることになる。
それらは基本的に客観性・即物的な立場での解明であり、その後に一般的な五感を有する人間が、これらを認識・認知するプロセス(何かを遠くから見た時・近くで見た時の視覚的な差異や印象の変化など)という主観性に接近してゆく。
この場合は、臨床的な手法や心理学的な知識も関与する場合がある。
二次三次相対互換理論が、より明確なものとして示されると思われる。

↑の内容を書いた数日後に「人体比率」ということに関して西洋美術史の中でも数値・理論値云々と似たような過程があったことについて知った。有名な「レオナルドダヴィンチの全裸男性の図」とかも関係する(先行研究の確認ということでここにそれを記す)。

2016年2月11日木曜日

類聚・外伝 ~ PC諸問題と2015年12月・翌1月の看病

*横野要文類聚・外伝・前節*
PC狂へるも、未だ壊るゝには至らず。
PCを用ゐる間にては、且つは苦しみ且つは憐れむなり。
「PC即是應身故、願無障礙於我道。(PCは即ち是れ應身の故に、願はくは我が道に於いて障礙無からんことを)」



横野要文類聚(よこのようもんるいじゅ)

今回は「外伝」とするが、あえてナンバリングを持たせず(数字を振らず)、今後仮にまた外伝を設ける場合も同様にナンバリングは控える。
そのテーマは「PC諸問題と2015年12月以降の看病」である。
私が使用するPCは2011年6月末購入(到着)の約7万円のノートパソコンであり、簡単にスペックを書けばWindows 7 64 bit, Core i7 M 620, メモリ4GB, ディスプレイのサイズは・・・3サイズが女のヒミツなら、このサイズはこのPCのヒミツとしておく。
過去2013年6月2日の音楽館記事においても同様の情報を記した。
今回は「PC諸問題」の概説をした後、日付の昇順で「看病」の要文を聚めて掲載していく。






PC諸問題・概説


2011年10月ころから始まる恒久的な一過性アクセス障害
→1日中アクセスしづらいままの日も当時から今まで幾度とあったが、一過性アクセス障害が発生しない日が長期間続くこともある。

2012年10月13日ペットボトル緑茶こぼし事件
→最初の30分は電源を入れっぱなしのまま、1時間以内より24時間をおくと大体のキー操作が復活するも、1週間PC自粛期間を同月中に設けたこともある。

2014年7月の1週間PC使用自粛後の重度な不具合
→当月中に2度弟のPCを母から預かる期間があり、2度目の預かり期間では、1週間自機を療養させるべく、起動させずに過ごした(最初の1度で必要なソフトウェアは弟PCで導入し作業データなどは移行している)。過去記事要文に『先述の「一週間PCを一度も起動しない」という時に狂ったキーボード等が大幅に改善されたのに対し、この時の場合はまったく逆で、いざ使用を再開すると、どういうわけかPCの挙動が鈍重となったり、熱をやたらと抱えたり、ややもすれば強制終了(フッと落ちる)などとても使えたものでなかった。』とある。

※この件を元とした末節となるが、よく使うソフトのアップグレードによる問題が同月に発生している(本家ブログ2016年2月2日記事の中盤に詳述)。

2015年10月以降のファン轟音ないし12月以降顕著化したファン回転不能(高熱化)問題
→当月下旬(最初の記録である10月26日の3・4日前)に始まるが、当初は一日の最初の起動時や一定時間スリープしてから起動の時にのみファンの音が異様となり、それも簡単な処置でピタッと止まる程度のものであった。それから11月中はほぼ毎日この処置で済む日が続くも、12月からはその簡単な処置どころか、激しい物理的衝撃を加えても改善無ければ強制終了もない異様な頑強さが現れ、音もますます悪化したり、あるいはファンがほぼ無回転状態になるなど、多々問題が顕著となった時間が1月20日まで続いた。その日を境に異常は続くとも、悪化も改善もないまま今日に至る。



以下から当問題の要文を載せる。



当問題発生ないし12月・翌1月の看病の要文


外出直前に電源を入れたPCの話だが、連日ファンの音が不快であり、最初の日(3・4日前)は黒いススのようなものが机上のファン周囲に広がっていた。今日は外出直前に電源を入れた時から、聞き覚えのある異様な音を立てていたが、それは速めの回転時のみに鳴ることを知っていたし、簡単な物理的衝撃で直せることも経験上知っていたから、ひとまず措いてゴミ出しへと行ったのである。この帰宅後、トイレに入りもしない内にこの問題対処を行った。まずファンの排出口がある右側端を数度叩いたり、ノートPC前部を持ち上げてファンのある箇所を裏側から叩いても違う様子であったので、後ろを持ち上げて位置をずらすか、少し落とすように手を離すと、異様な音がピタッと止まった。この手応えが正解である。…2015/10/26



シャットダウンして寝て起きるか、風呂(シャワシャン)などのために一定時間PCをスリープさせるかして、再度PCを起動させると、10月のいつからか毎度のようにファンの音が異常な立ち方となってしまうが、毎度応急処置ですぐ直せる。それは10月26日メモに「簡単な物理的衝撃で直せることも経験上知っていた、後ろを持ち上げて位置をずらすか、少し落とすように手を離すと、異様な音がピタッと止まった、この手応えが正解」などとも詳述される。ところが、最近11月以降はあまり簡単にいかない様子であるから、来る日も「シャットダウン後にノートPCを立て掛ける」などの方法で、不具合の改善をさせようとも思ったが、寝る前になると忘れて一度もしなかった。寝る前に備えてメモを残せばよいのに、そうきっちりとしてまでやる気にはならないからやらなかったが、今回はこの際、改めてまじない程度に掃除をすることとした。PCの後部を支点として裏を向け、適当な箇所につまようじ(これでも太いのでスッポリ入りはしない)を抜き差しするなど、本当にまじない半分の処理をして、再度スリープを解くと、あの不快な音はせず電源が付いた。…2015/11/13

3時半以降のPC利用で、毎日のように起動時などに鳴るファンの轟音(10月26日メモ・11月13日メモなどに詳述される)は今日もあるわけだが、これは少し「泳がせる」時間をおいてから、物理的衝撃を加えるとよい。いつも、最初の起動時に試験的に高速回転される状態で鳴ってもまずは堪えて、続く起動から少し時間が経った頃に、あるかどうかも不明のファンの熱を追い出すためにファンが再度回り始めてあの轟音がまともに継続される状態に入る。ここで1分ほど忍びつつ、ノートPC当機の右上角をチョコンと上げて落とすか叩きつける(本当にチョコンと)ことによってピタッと止まる。
だが、今回はそのいつものやり方よりもずっと強めにやってみて、轟音は止んだが、おかしなことにUSBに接続された機器の反応が無くなってしまった。最初は元々指しているマウスが利かなくなっても、備え付けのタッチパッドが使えるところから始まり、次はUSBメモリを指しても同様に反応が無いのだから驚きだ。これも人生初の事態であるが、どうせ再起動とかすると直るものと思い、まずはスリープさせると、何分待ってもスリープ状態に入らない(ディスプレイの電源だけ消えてファンの回る音だけはずっと続く)。
電源スイッチ長押しで強制終了しておき、再度スイッチを入れて普通に進ませ、USB接続はどうかといえば、起動後にマウスを再挿入すると普通に動いた。相変わらず、何の意味もない異常であった。ひねくれているとしか思えない。…2015/11/30




本日(12月1日)および昨日は、何度「チョコン」と右上角を上げ落として音を止めて­も、少し時間が経つとまた鳴ることが多い。今までは1起動あたりに1度なる状態があれば、1度「上げ落とし」で止めれば次回シャ­ットダウン睡眠からの起動時まで鳴ることはなくなる。昨日今日と、事態が悪化しているように思う。この映像は、その「悪化した事態」の一例を収めた。
映像における音の鳴りは録音能力のみならず実際の聞こえも芳しくなく、毎日の最初の起­動時に鳴る音は、今回撮影時よりも強い。今回撮影時の音を表すと「ヴェウェウェウェ」といった感じではあるが、ファンの音の異­常が顕著化した当初(10月下旬)の頃は狂ったように「ングァアァアァァ!」といった­轟音を上げていた。その異様な音を聞いて平然としていられるはずはないものの、PCにどういった原因があ­ってこのような音が鳴るか、またこれが原因となって新たな異常が発生するのではないか­という懸念も生まれることが必至でも、このPCもとい私の道具にそういった普遍性を思­ってはならない。このPCが異常であることは、購入した2011年(月単位では購入6月末の数ヵ月後)か­ら変わりないながら今日まで利用できている。 (後略、その「思ってはならない普遍性」の例を過去記事より引用している)…2015/12/01

PCのファンの音問題は昨日今日と悪化して、10月解体工事とどちらが酷いものか、 (中略) 昨日今日と、PCの特定部位を叩いたり「チョコンと右上角を落とす」行為を強めてガンガン落とすなどしてもファンの異常は悪化する。もはやただ音がひどいのではなく、PCを載せるガラスのテーブルも震動が煩わしく、腕に影響がある。PCに繋がる諸々のコードを外して、ガラステーブル以外の場所でガンガン落としや、ひっくり返して裏面をドカドカ殴っても、ファンの異常は収まらないし、この問題以来なぜかPCは物理衝撃に対して強くなっている。以前では考えられない。以前なら少し持ち上げることにも気を遣い、やったらやったでフッと画面が落ちたというのに。PCをスリープさせると耳への重苦しい負担が一気に無くなり、一瞬だけ聴覚を失ったような錯覚を覚えるも、むしろ澄み渡った気持ちに反転する。解体工事のときよりよっぽど酷い。
16時半過ぎから18時50分前までの2時間超、PCを一時的に終了していた。その間は食事もあれば、押入れ携帯作曲・曲漁りもアリという具合に過ごした。PCを起動してみると、やはり起動の瞬間から、最初のファン試運転が自動でされる際の音で酷い音が鳴る。この一時終了の前にボコボコやった際、付属タッチパッドの指圧クリックや左クリックなどは利かなくなっていたものの、この起動でやはり11月30日のように、何事もなく復活している。局部だけ一時的に利かなくなり、何事も無く、というお決まりの流れは、人を少し困らせるのみで、無益ながら害も僅かばかりである。
(中略、同日19時以降)
そうこうしていると、PCはウオォォォンブルォォォンと猫の怒り声さながらの状態を経て、ブブブブブブブブと奇怪な音を立てたり止んだり(19時5分撮影動画アリ参照)と、耐え難いので、19時半からまたPCをスリープさせて、携帯電話のファイル整理作業をしていたが、やかましいテレビの音に熱狂する母の声が聴こえてくる。クイズ番組のようだが (後略)…2015/12/07

毎夜、寝る前にPCファン問題の解決のため、PCをひっくり返したり立てかけたりなど、接続したマウス・イヤホン・充電などの端子を抜き差しするのは吝かでない。非常事態であるから、耳穴も接続の穴もどうなってしまおうが、この際物の数ではない。今回のやり方は「画面とキーボードは直角のまま前後方向に180度反転しダンボールに立てかけ」であり初となる。果たしてこれは奏功した(要因として奏功してるとは必ずしも言えない)。本日の起動時、あのやかましいファンの音は聴かれなかったが、問題の激化以前から・・・10月中に始まった、起動時の轟音というものが無い以上、久々の静音となる。一旦は安堵するも、どんな問題が露見するか、また完治と言い切るつもりは無いため、注意が続く。…2015/12/09

それから10時半頃にPCを一旦シャットダウンした。ファンの問題改善ほか、午前1時から動作し続けたため、このまま21時まで付けっぱなしになることは観念的でも負の影響がありそうだから、こうしておく。次にPCをつけるときは約2時間後と定め、それまで某サイト作曲やラーメン調理などをする。ところが某サイトのサーバが応答しない。作曲はできなくないのだが、一部データのやり取りが不可能である。今年は2度に渡り4日ほど接続不能の時があった某サイトであるが、今回は一体いつまで続くであろうか。 (中略、15時前からの出来事に寄せて) 私自身は、最近のPC難に喘ぐ折、建設工事も始まれば、耳の疲弊も著しくなろう。…2015/12/11

17時50分前から、PCをスリープさせ、その間コーヒー片手に絵を描くなどして過ごした。今日は1度すでに午前中1・2時間ほどのシャットダウン期間を設けている(これは本日0時台から付けっぱなしで21時頃まで動かすことに問題性を感じたため)。意味の無いようなPC優遇である。…2015/12/20

14時57分にPCをスリープさせた直後、金属製の板を裂くような自転車のブレーキ音が外で響き渡った。PCファン異常轟音から解放されんとした直後にこれでは困る。家の外を窓から探ろうとする前から、どうせ姿無き工作員であろうと思ったが、 (中略) 一日一日を大事にしたいが、PC問題も付きまとっては精神への負担が増えて能率が下がり、PC問題にかまっては貴重な時間がつぶれる。多難の中でいかにして良い結果を収められるか。…2015/12/21

PCを8時前にスリープさせてからは作曲などしつつ、 (中略) 8時50分過ぎにPCをスリープから起こした途端に、ピピピピッピーーーピッピッピッピッなどと続く音が聴こえてきた。まさかPCから鳴った音ではあるまい。これは(A宅跡地の新築建設)工事の作業で使っている機器から鳴ったようであるが、どのような代物かは不明である。 (中略) また12時20分頃より20分前後PCをスリープさせた。10分ほど経って、本来すべきことを思い出したので実行し、こう独り言をした。PCを単に休ませることのみが目的でスリープするのではなく、施しも加える。重病患者を治すのに、集中治療室に移すことと同じである。重度の問題を抱えているPCにはこれが最良か。集中治療室で体の問題を治療できても、環境が起因して精神病を起こす場合もある。いわば諸刃の剣であるが、これをなすべき事態に陥っているのだ。
(中略)
13時50分頃まで、Google地図で某所のストリートビューをしていた。遠くの街を漫然と眺めることは2012~14年にはよくやっていたものだ、と思っていたところ、終わりがフッと訪れた。ディスプレイは俄かに落ちて、コンピューターの動作も全て停止した。即座に再起動した。何ら影響は無いが、このようにフッと電源が切れる原因は不明である。ファンの音もとい異常な挙動にしても、何時間狂ったままであろうがこうならないし、内部の熱が90度でもなしに少し70度台が続いてこうなることは有り得ない。ましてや90度台が一定時間続いても動作の停止など、本来はほぼ起きない。全て環境的に乏しい。フッと電源が切れることは2014年7月の問題に多かった。今では当時の余波など残すところもないけれど、当時並みに由々しい事態に手を焼いている。
(中略)
20時21分にPCが強制終了した。それまでの主要部位の温度は高くて60度もない。どんな原因やら、と思って再起動させても即座に電源が切れる。本格的にイッたか、と僅かに思いもしたが、すぐにバッテリー切れの可能性を考えた。携帯電話と違ってPCは残りごく少ない残量でようやくちっこい表示、それも気付かぬままクリックなどすればすぐ表示を消す程度の警告しかしない。ともあれ、充電のプラグを挿したら、無事に起動できた(挙動は遅かったが)。この強制終了の前まで充電のプラグを外しきりであったのは、ノートPCの90度たて使用による治療をしていたからである。以前も書いたが、今回の異常が起きて以降、PCは物理衝撃に頑丈となっているから、どうしようが大きな改善も悪化もない。無策の上では気休めにこれを続けるしかない。気休めどころか、こんな見込みのない作業やただPCするだけでも精神を磨耗するような状態は、いよいよ狂わせかねない。…2015/12/26

前日(26日)にPCを終了して以後に行った作業の記録があるので載せる。「21時以降、分解作業を始めた。元々明日早くに起きる理由が無いことを考えたため、寝る時間を可能な範囲でこの作業に当てることとした。ドライバーはリビングの棚から用意する。ネジを外す作業を進めたが、少し内部の物になると、錆付いているためか十字の溝が潰れたためか、これ1本が外せない。同じ型のもう1本は普通に外せた。最初はドライバーをお湯など何らかの手段で熱し、ネジにもじわじわと伝える策が浮かんだが破棄した。ネットでの情報収集も虚しく、工具の立体的なネジを専門道具で回すなど、精密機械のものにはおよそ関係が無い。キリみたいなドライバーでミゾや周囲に圧力を加えても効かない。結局手を焼いた(ドライバーの接合部分が指先に悪く、赤くなったほか、足も熱を持った)末に、少しゴミを掃除できた程度に過ぎなかった。仮にこの関門を突破しても、必ず内部を開けきれることは別問題であるので辞退することとし、全てのネジは無事にハメなおした。俗に、果報は寝て待てというので、ひとまず寝に入る」、それから今朝に起動しても特に改善なく新たな問題も無いままであった。
8時59分、YouTubeで動画を見ているとまたも強制終了した。今回はすぐにバッテリー切れと推定したが、充電プラグを抜いてたかだか20分である(より細かく言えば18分)。その間は常にYouTube視聴であるから、YouTube動画閲覧に伴う通信やCPU動作があるとしても20分は短すぎる。PC購入時からバッテリーの能力が落ちているのであろうか。このような経験から学ぶことや認識する現状がある。また、すぐ充電を始めて再起動したが、バッテリー残量を見ると20%である。過去にバッテリー切れした直前は10%ほどが多かった。これは何を意味するか。その10%ほどで前日メモにいう「ちっこい表示」が出る。今回はそれも出ずに終了した。これもどういうわけか。バッテリー切れ以外に原因があるのか。このPCに法則性など無いから、必ずこういう原因でこういう結果、ということは無いにしても、困る。
12時20分、またもGoogle地図使用中(12時16分開始、1度もストビューせず)に強制終了があった。前回のGoogle地図使用中の強制終了同様「通常起動~」等の項目が出る画面ではあるが、「セットアップ~」との項目がいくつか並ことはなかったので、多少違う画面である。こういう状態が続くので、いつ何が起こるやらと気が気でいられないが、ひとまずGoogle地図にはますます慎重な利用が必要となりそうだ。事後調査において、今回の熱は90度前後のようであったから、新Google地図の高負荷による熱暴走とも言える。
2015/12/27


本日はいよいよファンの回りが悪化して全く回らないことも多くなっており、19時45分に高熱を鑑みてまたもスリープした。鉄の窓枠やガラスの窓は、外の冷気を受けてその分冷える、それらの部位が内の空気も寒からしむ。更に少しだけ窓を開けた。一番寒くなろうところがPCのファンおよび高熱部にヒットするようこの窓に立て掛けて冷却す。私が外出する直前、向かい家の車が無くなったことを見て、どこかへ出かけた様子であるが、彼らは冷却作業中の19時50分に帰宅した。ほか、20時50分頃には起動中に立て掛けることもしたが、それなりの冷却効果はあった。それ以上に、室内の寒冷化が著しい。本日は外出を鑑みた暖房オンを夕方前からしていたが、この暖房の力が乏しい問題もあって、特に冷えやすい手がますます冷える。その中でこうして毎日日記メモを取り続ける私の思いを感じてもらう。
以上、この原始的な冷却の効果は、翌28日朝の検証において、高熱部でも40度台に全て低下したという絶大な結果をもたらした。ファンの問題が無かった従来の冬では60度前後であり、この問題でファンが回らない時は80度前後、微動(後述の音)では70度超となっている(HDDのようなものは高熱部より隔離されているので、大概起動から1時間以上で38度ほどだが、この冷却では36度、冷却終了後になぜか34・5度で安定、ファン不回時の持続では43度ほどを確認)。ちなみに、ファンの問題は今回に限らず、過去にも10分ほどで異様な高熱となる問題が1度あったが、実に短期間のことであったから正確な時期は判然としない。論理的には2012年10月緑茶こぼし事件か、2014年7月の問題のあたりであるが、感覚的には2013年中のこととも思う。
最近2日間のファンの音「ガガギギガガギギ (150 BPMで4拍子)」、「ぐががジリッぐががギリリッ (自家用プリンターがプリント中の音のようである)」、無音も増える=回っていない 無音時に80度以上となったら、焦げ臭さが感じられ、そうでない70度維持もプラスチックの溶けたような臭いがある…2015/12/28


多面を削って細めると便利かもしれないが、耐久性は落ちるので、可能な限り一面とその対面のみ削りつつけて薄い板状にすると、それなりに保つ。この映像(2015年12月18日)ではカッター切削された爪楊枝の第一号を使用している。上述の耐久性に欠ける削り方を施したから、あまり長持ちしなかった。また、内部のファンの回転を止めようとするならすぐに折れるであろう。映像の差し込み方では先端がキリキリキリッと当たるに過ぎず、日が経つごとにノートPCの正面右側を持ち上げた裏面にある通気口から差し込むようになるころには、切削の修練が進み、耐久性も向上してファン回転に負けない作りを得た。それが、作成より3日が経つ現在も使用中の名器である。爪楊枝の溝の構造があるところに程近い短さとなっているから、根幹の図太さを発揮する。
(中略)
もっとも、今では問題性がファンの音に限っていない。PC利用の死活問題ではあるが、今日までPC性能に悪影響は無い。私の創作作業ではPCの自主的な使用停止などで少々影響がある。…2015/12/30



(前略) おやつタイム前からか、マウス操作に支障があった。16時過ぎになり、PC高熱部が80後半~90度ということに気付き、この熱にやられつつあることが原因であると察した。思えばファンの音問題の新しい策を試した12月下旬以降、よくイヤホンほかUSB接続の必要な周辺機器などは、接続解除を繰り返して、その間ノートPCを起動しながらでもスリープ状態でも縦に立てることは多かったが、ここ2日ほどはほとんどそれをしないでいた。ここで初めて、高熱の弊害を感じることとなった。過去に、接続済みマウスの操作が同様の不自由状態となることは1年以内にもあったように思う。それは、12月7日に付属タッチパッドがその起動時のみ利かなくなったような衝撃に伴う一時的故障のようなものではなく、やはり何か高熱に伴う不具合であった。そういうわけで、マウスもイヤホンも端子より外しておいた。12月9日メモにいわく「接続したマウス・イヤホン・充電などの端子を抜き差しするのは吝かでない。非常事態であるから」と云々。…2016/01/04


「裏の孔から切削楊枝を差す応急処置」・・・自機ノートPCにファン通気の穴が横3 x 縦5に並んでいるが、このうち真ん中の最奥あたりが一番改善効果があって、楊枝も折れずに保持する。動画では、楊枝を持つ右手が同時にPCを裏から支えている。右手親指の第二関節のあたりが高熱部に触れるため、長く続ければ低温やけどとなる。実際に、このあと当該箇所を赤くした。普通の場合、PCを裏から支えることや持ち上げることは左手でやるものだが、動画の撮影停止をするために携帯電話に添えねばならない。
ほか、このファンは「グッ、グッ、」と微動してみたり止めてみたりということを交互に繰り返す場合がある。この場合であっても、適切に楊枝を裏から差し込んで、軽く当てたりするとファンが「息を吹き返すように」回転する。ただし、その回転は毎度程度に差が出てくる。1~5秒ほどで同じような「グッ、グッ、」という状態に戻ったり、1分ほどで戻ることもある。結局は恒久的な改善など、この策では叶わない上に、長時間持続させることも困難であるし、どうなるかはその「グッ、グッ、」の状態によって一定しないから、悩ましく思う。
もう1点言いたいことは、このような「グッ、グッ、」あるいは無回転が一定時間続くと、当然低くて70度から高くて90度を超してしまう。それから「息を吹き返すように」回転が戻ると、プラスチックの溶けたような臭いの空気が発され、稀に焦げ臭さをも含める。…2016/01/07

PCを起動して、今日はマウスのUSBを接続しておこうとしたのだが、なぜかPCがデバイスを認識できない、だとかとエラーメッセージを吐いたり、何度も何度も接続したことを示す音や解除されたことを示す音を繰り返し鳴らす。だが、マウスは裏の光を放っていることや、今ささっているUSBがマウスであることをPCも認識していることから、マウス自体の接続はできており、その次の段階でPCが操作を読まないようである。最近、食事をするごとに、外されたイヤホンやマウスの先に液がなどが跳ねることを恐れてはいたが、これが原因では困る。また、今回も「因無き起こり」とも考えられる。様子見するに尽きる。6時までに炊事と食事を終え、USB接続端子も掃除をしてみたり、コードの硬化を柔軟にするなどして、どうにかマウスの反応が戻った。相変わらずの人騒がせである。…2016/01/07

(前略) ほか大いに時間をとられる問題は、PCへの対処である。幾度とスリープ・立ち上げを繰り返した(近頃のメモではわざわざスリープ時間など記録しなくなった)。つまようじによる同じ処置でも一時ばかりやや改善したり何の変化も無かったり、問題箇所を表面的ながら平手打ちや拳で殴っても当然電源が落ちたり壊れたりすることなど無い(元々ふと物理衝撃とで電源が落ちるPCが、この問題以後異様に丈夫となったと語ることは過去メモの通り)。一喜一憂を続けるのみであるが、何よりも「ギッ!ギッ!」など種類様々な音に精神を磨耗するし、そういう音はファン回転送風という役目が没している。これなら、音が荒くてもファンが回転して送風される時がよっぽど健全である。
強力な打撃を受けても別段変化が無いPCとはどういうことか、なまじ10・11月中は過去メモの通り「右上角をチョコンと落とす」程度でピタッと轟音が鳴り止むというほど、ごく小さい衝撃が通用したから、同じPCでどうしてこうも変容するかと疑う。それと、本日も例日並みの寒さであろうに、この部屋は妙な暖かさが続いている(ファンの帯熱・滞熱・排熱によるものか)。PCに対処する手は特に暑く感じる。17時過ぎのPC一時スリープで、ようやく相応の寒さとなった。…2016/01/09

(前略) 調べようとした矢先(13時3分)に、PCが強制終了した。12月中のメモで幾度と取り上げた。充電の解除が30分くらいでバッテリー切れだとか、の原因ではなく、本当に熱暴走によって終了した。これはさすがに初めての事態であった。絵の作業をPCでしていて、バックアップは取っていたが、別にバックアップを取らずにいた中途の作業がオジャンである。…2016/01/14

真面目に創作関連作業をしている9時43分に突如PCが強制終了した。熱暴走といえばそうかもしれないが、相変わらず一つの原因には特定できない。強制終了した直前の動作がMIDIファイルの保存処理である。強制終了から3分以内に2度の起動をしていずれもすぐ強制終了した。一旦、トイレで用を足すなどそれまでせずいたことを済ませて再度立ち上げると、まあ別状は無い。スタートアップ修復(小5Vista時代に役立たずと思った機能、物理的原因には当然効能なし)だか、通常起動後も特有の鈍さがある程度であった。…2016/01/19

明日に散歩をしようと予ての構想をより詰めようと、展望のため市内を漫然とストリートビューしていたが、たまたま心霊スポットに当たった19時前、Google地図利用特有のPC異常の前例をフラッシュバックし、PC内部温度を怪しむと、やはり97だとか101度(いい加減に誇張する場合もあるが)などといった異常な高温を確認した。即座にスリープして1分後に起こし、とある操作をするや、今度は強制終了という不本意な結果を迎えた。少し待って起動すると、ファンの音が不気味なものと化していた。心霊スポットとの関連性はともかく、嫌な話であろう。中途の作業も、バックアップがあるとはいえ、連日こういった事態に出くわすことは御免蒙りたい。…2016/01/20

11時40分からファンを安静にすべく、昨日発生した不気味な音というものはノートPCを開いた状態でもキーボード側のボディが手前100~180度回転によって静音となることに気付いているため、開いたままひっくり返した状態とした。次に、片手鍋にたっぷりの牛乳を張る (中略、料理中) 12時前にPCを元通りにすると、高熱部はGPUが46度とされる以外は40度を下った。だが、それから利用を続けて温度が上昇してファンが回転が強まって不気味音の轟音が続いて、同様に高熱部が40度を下ることもあったりと、件の静音化措置の効果と変わらない面もあった。…2016/01/21





1月20日以降の記述が激減した理由 (2月の現況)

その日の出来事以来、特筆するファンの異常は無くなったからであるが、ファンの音が耳に悪い大きさ・質を伴っていることには変わりがない。
カラカラというかガラガラというかガリガリというか、チリチリジリジリともいうような類でずっと鳴り続けており、イヤホンで聴く音楽を例に取ると、ファン問題以前の音量で鳴らす場合は少し聴こえようが悪くなる。
とはいえ、そのまま急に回転が止まったりするなどの、12月7日から1月20日までに毎日頻発した極端な音の変化ということは無くなった(先に言う"特筆するファンの異常は無くなった")ので、「ややうるさいファンの音のまま安定」されて、多少はPC利用に臨む自分の精神も安定した方である。

ほか、副次的・二次的な被害として、マウスの接続不良・接触不良ということが1月7日メモなどに触れられているが、これも当記事投稿予定となる2016年2月現在においても続いている。
ファン問題に端を発した今回の一連の問題は、今までの種々あった問題以上に禍根を残しているようであり、主題であるファン異常な音自体は種類・程度の違いこそあれ、未だに直らないわけだから、そもそも「禍根を残す」という言い方には語弊がある。
問題解決を前提とした表現だから、問題が継続している今に使う表現ではない。

2016年2月8日月曜日

人が思う「現実」も妄想の一種であることについて ~ "仮想現実"?

現実と妄想を分かつ基準が何かといえば「人の思考」が第一ではなかろうか。
例え目に映り、体に苦楽(苦痛や快楽)を伴うような事象であっても、全て人間の意思や認識を介した「妄想」に等しくあり、「現実」ということは何もない。
私がこう語ることも、妄想の一種であるかもしれない。
人と思うところに人があり、自分と思うところに自分がいることは、存在の本質である(いわゆる"Cogito, ergo sum")。
確かに、ただ脳内に浮かべた象形と比して、実体あるものを「現実」と呼ぶ意味では正しいことかもしれないが、やはり程度の差でしかなく、絶対ということはないので、それも「妄想」である。

ところで、どのようなことが「幸せの状態にある(幸福)」といえるか?
例えば、世間での出世をして金持ちとなり、家族に恵まれる一生が人間至上の幸福であろうか?

ある田舎出身の若者は、そのような「夢」を懐き、都会に出て勉強と労働を行い続けたが、望むような結果にはいつまでも追いつかない。
そのような中で、突然チャンスを掴み、望むような状態へと上向いて、ついには高官として成り上がり、豊かな家庭を持つ。
彼は最期において、愛人に看取られながら永遠の眠りにつこうとする。
ようであったが、なぜか目覚めると、視界には見慣れた部屋が広がり、昼寝中だったことに若者は気付く。
何とも惨めな自分のありかたに気付いて、田舎に帰ることを決めるのであった(「惨めな~」という接頭語も「妄想」が決めつける表現の一種)。
このように、いわゆる「夢オチ」のたとえ話がある(胡蝶の夢・邯鄲の夢、邯鄲の枕)。

私は、他人の持つ幸福の理想像について、容喙する意図はない。
人間誰しも妄想をする生き物であるのだから、夢いっぱい妄想をすればよい。
だからこそ、他人の良しとする生活に、己の妄想を介入させ、一つに括ろうとすることはあまり好感しない。

人間よりも思考能力の優れた「生物」はいない。
その人間の智慧をはるかに超越する存在、仏が示した真の人生は、真の幸福に導く真道ならんことを信じて已まない。
仏の金言は唯一妄想ではない。
「仏語は実にして虚しからず」と法華経に説かれる。

仏の説く生物の区分を言えば、有情と非情に分かれ、有情のうちは人間と畜生に大別される。
人間と畜生でもその性質が大きく異なるものというのに、その人間という「凡夫」の智慧を超越された仏がこのように示されている。
凡夫などは足元にも及ばない大智慧を具えた仏様がお示しになるところの真道までもが、「夢(夢想)・妄想」であるということは絶対にない。
※私がそう信じていることとしては「我が妄想(汝が妄想)」となってしまうが物事の真実としての在り方は妄想と言い切れない。



ここで、やや話を変えるが、「もし明日人類が絶滅する(地球消滅・世界終了)ならそれまでに何をする?」という荒唐無稽ながらも食いつきやすい質問について、仏教の上から答えようと思う。
世間の人、もとい小中学生の頃の自分なら、散財して遊び呆けるといった享楽的な発想もあれば、嫌な奴らをドサクサ紛れに殺しまくるという何とも大胆不敵にして蛮勇猛々しいことも言う。
遊び呆ければ徳を失い絶やせ、恣の殺人や強姦などの犯罪は大いに悪業を積んでしまう。
他にも、「恋人(家族・大事な人)と一緒に過ごす」といった愛人への執着を見せる者や、「自分だけは必ず生き残るに違いない」といった常見・我見のエゴセントリズムを唱える者も多かろう。
仏教を第一義とすれば、ここは唯一の正答が「執着を離れ、菩提を願い、ひたすら修行に打ち込む」ということではなかろうか。
ここでの「修行」とは、唱題や念仏などの信仰的な実践や、座禅による瞑想などの実践、あるいはヨーガや滝行といった、各宗や個々の信奉などの広い「修行」として全て包括している。

仏教は「涅槃」といい、そもそも「誕生」も「消滅」も人間が捉えた「現実的妄想」であり、真にはどちらも無いのだから、「最後には自分だけ生き残る」という欲望も無く、「自分も必ず死ぬ」という絶望も無い(言い換えると生き残り続ける存在でもあり如来の常住ともいえる)。
あるいは「臨終までに執着を断つ」といい、生命が終わると分かればこそ、このように生死の一大事のみを案じるのである。
そんな時に、私利私欲・安逸ばかりを求めては虚しく命終し、後生あらば三悪道に堕ちてしまう。
全て「妄想(現実通り捉えない状態を現実と思い込む)」だと思う私であれば、そのとき=死期に臨んでいることを覚った時、菩提を願うように心機一転せねばならない。

もちろん、生前の健在であるときから何らかの修養は必要であろう。
何事もいきなり本番に当たって成功するということは有り得ない、と言わずとも、やはり「備えあれば憂いなし」と世間でも言われる。
よって、日々生活記録を取り続け、勉強を進め続け、完璧には守れずとも「戒」を意識して自律の精進をせねばならない。



原版・起草日・・・2015年12月の半ば
だったと思う。12月29日に加筆してからは、1ヶ月以上に渡って何も手を加えずいた。何ということか。
なお、当記事のように「物事・事物(境・色)は客観的実体などなく、それをそうと認識する(取・心行)人間など知的生命体(有情)の、想像上の空間(識)内にのみある」とする思想は仏教でいうと唯識系に当たり、この教義基礎自体は仏教において普遍的である。
人間が行う物事の分別というものは妄念であって、他の人間が同じ思考を持つことを「客観性」と世間では言うけれど、それも妄念が通じた範疇に過ぎず、妄念に変わりないとする。

いわゆる「常識」ということも、この世の中、「今この場所」の時空の共同体を構成する生命=現代社会の人間さまに通用する観念ということであろう。
人間の心がなさしむる業"ワザ"なんだね。

当記事と関連しそうな記事
「ネト本リア末」 http://lesbophilia.blogspot.com/2015/10/blog-post_30.html