2015年10月25日日曜日

横野的な思想文集(雑多に)

いつだか「硬き褥に臥せて思いぬ~」といった形で文章を載せた(1/14, 3/12両メモ帳記事)。
今回も同じく、硬き褥に臥せながら思い、メモ(携帯電話による半角カタカナ入力)に残したことをここで校正し、掲載する。
その形式でメモしたこと以外の情報もあるが、とりあえず一括で載せる。



道心生活 (2015年10月21日の硬き褥メモ)


いわゆるアレの人々に対して、世間では昼夜逆転の先入観を持つだろうし、私自身も昼夜逆転状態の方が生活上で合理的であり、自由度が高く思えるから過去には昼夜・夜昼逆転を自在に繰り返して過ごしていたが、現在は自律的に普通の起床・就寝時間を定着させており、それは道心の故である。
このことは、8月下旬の日記メモに表れはじめ、9月中は1ヶ月間に貫き通し、今月10月であっても、絶えず続いていることは、道心なくして持続不可能である。

たまたま睡眠時間の短い日が続いた20日は満身創痍であった。
前日(19日)夜においては、この近頃の陽気を、件の灰色スウェットにて過ごし、体は主に背中や額に、首や脇などが湿っぽくなり、某サイトの耳に悪いロック系の曲をいじっている上に解体工事の長時間続いた轟音のみならずここで鼓膜が刺激されるのは、もう死体メッタ打ちである。
目にしても右目が、数日前からの違和感が続き、今見れば充血をもしていて、ケツの痔などが不安になるような作業を続けた。
就寝時には後頭部の腫れを仰向けに寝て圧迫されることで意識し、翌20日の朝は4時台に一度目覚めてから二度寝後の7時半の起床では、寝相のためか全身が痛んでいて、その後も首と腹部の筋肉痛が続いた。
後述する安眠妨害などの難・万障はあれ、道心の故に持続しえていることは、合理性から昼夜逆転を続けられるという点もまた、私の実行力が窺えよう。
必要があるから隠棲を続け、必要がないから外出もしない反面、必要があれば外出はできる。

日々生活記録を取り、ネットで披瀝し布衍する。
綿密に計画を練り、自ら律する。
愚物の親が、良き指針を示すということの無きようは自明のことであるばかりか、道心を乱し、志を知らず、安眠妨害をするほどである。
この念を持って日々高揚感が沸き起こり、ますます希望が充ち満ちる。
披瀝布衍の慈悲は俗に言うところの売名や自己主張にあらず。
正見智目を開かしめ、同じく道心ある者を導かんと遍照す。



↓別の時のメモ文章(校正済み)だけれど、少し話が↑と繋がる(意図していないけれど)。
真っ当な考えのある人が減りつつある今(顛倒濁世)、それで諦めず、私のようにいよいよ正しい考えを持つ人を探している。
そんな人と巡り会い、共に真理を追い求め、実証していきたい。
そういう目的で活動しているのに、よく忘れ、見失いやすく、徒労と虚無の懐疑がある。



この章に関する注釈・追記 (2015年10月29日)

道心があれば、その各々が「不善」と思い悩むことは自然と改まる。
というよりは、あるべき「善」に還るのであろう。
「善悪」といえばおよそ観念的で、個々人の主観に基づく面は多いが、とりあえず各々が「酒・タバコの使用(飲酒・喫煙)は悪いな~」等と嫌う悪は、道心を持つことで自然と直るものである。
道心を持てば、私のような肩書きの人が誇る「昼夜逆転」状態の生活が、健全な生活に矯正されよう、強く望んで血眼になる苦労などは必要が無い。

なぜならば、個々人には本源的に各々の「善」が備わっているからであり、その善は、正しい徳を得ることで遺憾なく発揮されるし、寧ろ「善」であることが当然の姿である。
正しい徳と道心によって、あるべき「善」に還るという思想は、いわゆる「性善説」である。
儒教の思想かもしれないが、中国以後の大乗仏教はこの影響を受け、日本でも「信仰の功徳により自然と宿命転換して、生活も豊かになる」と現世利益まで説く教団が多い。
この思想が極まると、「徳が無いから、悪因の果報で弱者・貧乏・負け犬」という極端な主張がされる場合もある(儒教はこれが旺盛であり、中華倫理最大の誤謬である)。

そこまで言うつもりはないが、今の私は困窮のようでも、大聖人のように日々悦びを感じ続け、仏法を学ばせてもらっている立場でいられるから、生きる希望を大きく懐いている。
道心より、自然と希望も生まれるし、私は成人以後も飲酒・喫煙はしない方向でいよう。
されば、禁酒・禁煙が難しくて悩んでいる大人は、アレコレ策を練る前に、清浄の法を学んで改悔し、道心を持つところから始めるべきことを推奨する。




如是我聞。


意訳: このような出来事があったかもしれない
注釈: 正統な使い方(仏典)と異なる

昔、仏法を学びつつ、歌道の執着が強い法師がいた。
或る時、その法師が憧れた高名な歌人が亡くなり、法師は悼んでいた。
法師は、歌道を嗜む人々の集いにしばしば足を運んでいたが、そこでその歌人の死について語らうことにした。


すると話し相手の俗人(僧侶でない人)は、饒舌にこう話し始めた。

「なぜ汝はその歌人の死について傷心し、惜しんでいるのか。彼の詠む歌がもう増えないことは惜しむべきだが、今の歌が消えるわけではない。また、いやしくも彼が生き続けたとして、歌を詠むことができないままとなれば、それは彼であって彼でない。彼に歌を詠むことのほかに何を求めようか、悔やむべきことは無い」


法師はハッとした。
眼前にはただの俗人がいるだけのようだが、その言葉は耳朶を打ちつけ、胸中を穿つこと、さながら雷鳴のごとく、強靭な矢に射抜かれるごとくであった。
自分は深く仏法を学んでいるはずだが、未だに人間の存在に囚われていた。

作品は素晴らしい、人間は植物の種を蒔き、育てあげるとはいえ、育った植物・採れた果実は結果的に良いもので、誰が育てたと気にするであろうか(現代は少し事情が異なるも割愛)。
育ちきらなかったものもまた、そういう結果に過ぎない。
人が育てなくとも、立派に果物を実らせる果実もある、歌道なら読み人知らずとも言える。
この歌人の作品を、この歌人のものとして尊ぶことはしても、それ以上に歌人の人間的な空間まで思い、執着する必要は無いばかりか、無益なのだ。
法師は己を恥じ、俗人からの説法を身に染め、改めて仏法に向き合う心を持った。
「人はみな つね無き身にて 死なむとも 成仏ばかり 尊きはなし 三宝に帰命し奉る」

解説
某サイト多くのゲーム作者や作曲者らの失踪(=歌人の死)・腐敗(=詠めずとも生きる)は甚だしいといえども、彼らが遺してきた多くの作品は良いものだ。
それでも自分は、彼ら「中の人」が気にかかって已むことは無い。
一方でサイト住民の中には、淡々と作品を利用して作者らと交流するのに、失踪などを気にかけない人もいるようであり、何とも言えない心境である。
ある人は「2015年9月6日から失踪中の作者M」らのゲームプレイが主要だが、どこかが抜けているのか、あるいは表に出さないものの作者Mの失踪を憂えているのか。
作者Mと共同で製作した経緯のあるゲーム作者諸氏も、作者Mの失踪に関して口に出さないか、最近1ヶ月はサイト関連の掲示板にも書き込みが乏しくなっている(冷え切っている)。
無論、憂えている私も作者Mに対し、某サイトで楽曲提供をした身であるとはいえ、某サイト内で彼のことは特に触れずにいるが、某住民や作者らは私の比でない親密な交流をしていたはずであるから、もっと悲しみを文字としてもよかろうに。



何でもない昔話 (改行ナシで縮める)


小4二学期で4・5・6年か4・5年か4・6年の時に私と同じクラスに所属し、私と下の名前が同音異字の男児がいた。その男児は私並みに勉強が出来る、と言うよりも、知識の豊富さであれば当時の私を超していたかもしれない。小4三学期に漢字検定5級(出題範囲が小6で習う漢字だから推奨は中1以上)を受けに行く(一度○川市を離れ、故郷・浦和に降りて会場に赴く)ことを彼に話したときは、3級を受けると意気込んでいた(彼の合否は不明だが、私は抜き打ちテストのノリで挑んだから合格点の80~90%ほどで受からず、ちなみにクラスのある女児が7級を受けに行くという自慢を小耳に挟んだ)。同じく小4の時に、エベレストの山頂の所在地を、私が中国・インドと思っていたとき、彼は中国・ネパールと答えた。反面、彼には忘れ物が多く、時の担任教師・ケバい中年女性からよく怒られ、時には授業遅延の犯人としてクラス全児童の前で涙ながらに謝罪をさせられることもあった。これには胸が痛みつつも、私という成績優秀かつ問題児という存在としては、案外、身近にいる彼に敵わないのではないか、と思った。それはそれで、校内にあって気が楽になれる考え方である。彼とは、あの学校生活にあって比較的仲良く会話ができた方であったが、頭突きを売りにしているから、その辺りは冷や冷やしていた。


この彼については、過去にどこかで書いたはずだが、例の如く投稿が見当たらなかった。



相対値の中の絶対数と相対数(絶対と相対の誤謬)


普通の人の1日あたり消費エネルギーを100として、頭での消費を20とする
私の消費エネルギーを80として、頭での消費は相対数で2倍なら32、絶対数で2倍なら40となる。
100の中の20はパーセンテージ20%、これの2倍が40%でも、100の40%は40、80の40%は32。
絶対数で2倍の40という時、私の80という中の相対でいえば50%であるから普通の2.5倍。

次の例として、某ゲームにおけるアイテムドロップ率を挙げる。
とあるモンスターを倒してレアアイテムAがドロップする(拾える)確率を2%として、これに「ドロップ率5%アップ」という効果を備えて臨むとする。
この"5%"が、相対値の絶対数を上げるならばレアアイテムAのドロップ率は7%に上昇するが、相対値の相対数を上げる場合、「ドロップ率"2%"」を絶対と立てるわけだから、2の内の5%、即ち2に0.1を加算した2.1%にしか上昇せず、その効果は有って無きが如し、と言える。
このことは、「○パーセント増加」と「○ポイント増加」という表現の相違にも似ている。

「ドロップ率が5%上がる」という説明だけでは曖昧であるのだが、実際にその効果を備えて臨み、プレイしてみると、レアアイテムAはドロップする気配を見せず、後者の「相対値の相対数」として作用していることが分かれば、有名無実の説明だと思わずにいられない。
簡単な説明はいくらでも解釈でき、それをインチキに用いる側はいくらでも正当化できてしまうため、これで起こるトラブルを回避するのが賢者であり、即ち明瞭な説明を以て明らかにすることで、未然に相手の誤解も不快感を生まない。


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あしからず。

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