2015年10月17日土曜日

研鑽連盟問答要項

便宜上の表現「団体・首脳」。現状は適切な表現を模索中(首脳→拾主"しっす"等)。
Q(質問)&A(回答)とも、自分で設けているが、ここでは質問者が良識ある人間で、回答者が「首脳」とされる人物への忠実な理解者という存在に仮託した形式であるように見て頂きたい。
特に回答者こそが忠義・礼節の態度と教法への理解を得ていて、首脳サマの御眼鏡に適っているから、そういった姿勢も学べる素晴らしい「問答要項」である(回答者は度の強い敬語表現を用いるるが一部の文法は通俗的にして普通の人が読みやすくする)。

「・・・・・・真史様は、こう仰せられたので、わたくしめではその御見識に到底比肩することは考えられなくなりました。それでも真史様は、常に『真摯な修行に臨むことで、みな人生を終えるまでに今の私ごときの浅き智は超し得よう』と励まされますので、意気地の無いわたくしめも毅然と立ち直ることが適うのであります」

「真史様を知る者がたとえ万人を超そうとも、その教えの聖水を漏らさず受け容れ、濁さず留めることが適う器*1は一つとして*2有難く御座いましょう」

「ごいこーへんしょーまさしさまっ☆ごいこーへんじょーまさしさまっ☆」



Q. この団体の名称「寂光園*3 "Pseudotopia"」についてお教えください。
A. 寂光園 "Pseudotopia"の名称の起源は、団体の設立経緯の以前にあります。2014年6月に首脳は、自身のお部屋を「欺瞞の楽園」とのおつもりで冗談ながらにそう称されました。それから1年以上も経つころに首脳は、本当にこの世は欺瞞の存在であるけれど、自分の部屋も現世における修行道場になり得るということに気付かれ、仮のすまいでありながら浄土さながらの効験を望むに至られ、改めてこの名を団体の名称として相応しく定められたのでございます。

Q. この団体の理念とは何ですか?
A. 当団体の理念や存在意義とは「救済」にありますが、この熟語だけではある種多義的でありますので、もう一つ言葉を足すと「落穂拾い」になります。穀物は秋に収穫期を向かえ、世間では成長に伴って学校であるとか社会的な機関が置かれ、現代は誰もが普遍的な手段としてそれらの機関を通りますが、穂が切れるか毀れて落ちるように、そこから漏れてしまう者も少なからずおります。そこで、当団体は智と識を以って心の深奥より救済をすることを重大意義として、この研鑽精神を普く布衍し、漏れた者たちを掬い救わねばなりません。これは未成年~若年層が主なターゲットであり、穂も穀も腐らずある内に拾って参ります。刈穂も落穂も一個体には等しい価値がありましょうに、拾ってくれる者は普通おりません。なるか分からない田畑土壌の肥やしになるのみで終わります。「落穂」としての価値は、早い解脱の性質を内在しておりましょう。当団体の教導を受けられることは僥倖であります。

Q. 「救済」は手段で、別に目的があったりはしませんか?拾った穂の行く先は?
A. 「救済」を謳って多額の布施を集める怪しい宗教法人や、「救済」を演じる顔で路上生活者に公的支援を斡旋しつつその手数料として公金をくすねる怪しいNPO法人など、巷には数多蔓延る邪まな団体がございます。お為ごかし・私腹肥やしとは異なり、料金・費用の徴収は行いません。食物の無い状態に陥れば、そのまま運命に殉ずる選択を頭の片隅に置き、日々自ら戒める気概が必要であります。この精神性を学ぶことも研鑽の一環であり、心肝に染まれば即ち救済への前進であります。また、多くの迷える者達にもこの精神を知らしめて啓蒙をせねばなりません。

Q. この団体が行う「研鑽」の厳しさや、娯楽の許容範囲は?
A. 「研鑽」では、「見聞・思惟」の二つを愛し、それ以外の執着・雑念は可能な限り交えないようにする精神が肝要であります。身を滅ぼせとまで言わずとも、己の身ですら最愛であってはならず、「身を粉にする」ような思いで臨む姿勢は望ましくございます。娯楽に対しては、時間を過度に消費するような耽溺が無いように自らを制し、律する心構えが必要であります。ましてやゲーム等に金銭を拠出する行為は愚昧に存じます。こういった習慣のある方は、速やかにこの執着を断つことにこそ専念しましょう。首脳は誰かからこうした指針を示されずとも、人類の師匠におわします仏の所説に依って漸次独りで娯楽・嗜好品の執着を断っていき、痩せさらばえられました。遊蕩も控え、隠棲の中でその理智を究めんと弛まず過ごしておられます。首脳の身は細ってなお心が豊かでございますことは、仏の教えという能く実らせる福田を蔵しておられるためであり、首脳は内にも外にも収穫・落穂拾いを行って自他共に解脱を得んと得さしめんと、常に農耕を勤めておられます*4

Q. 「研鑽精神の布衍」とは具体的に何をするのでしょうか?
A. 主にインターネットの場で行います。首脳の場合は自身の観想という精神面のみならず、生活記録を取るなど文字に起こして、多くブログ等で発信しておられます。一字一句、文法や誤字などに注意をしつつ、学術的な側面も付けるなど、あらゆる労苦を厭わず行っておられます。文字数や冗長性などを抑えながら、内容が豊富なものを実現する点にも苦心しておられます。そうして救済対象に弘めようと啓発主張される慈悲を、鮮烈に感じます。道心ある人々がこの首脳のような活動をする者を見るならば、「我も斯くならん」と憧憬を懐くことは必定でありましょう。これに対し、魯鈍懶惰なる様の者を直接に責める必要もあり、これは相手を選んで行われたく存じます。また、苟くも首脳の勇姿を見て、悪心ばかり懐く不届き者には強く呵責すべくございます。我々は現代の賢人であられる首脳の驥尾に付し、薫陶を受けつつ、たまたま首脳を知っても憎んでしまう人*5には、強烈な啓蒙が必要でありましょう。

Q. 宗教の教義とは思想が似ていませんか?
A. 首脳の識られた答えとは、仏教を学ばれる折に得たものであり、御自身も仏教の延長や仏教を援用したものであると御考えであります。首脳は何らかの宗派に「仮想入信」をし、宗派の教義や聖典を学び、宗派の修行も実践されました。仏教は宗派が多岐に渡っておりますが、宗派の隔たりの無い普遍的な教義については仏教の基本となります。それが、取りも直さず世界の真理であり、正しい教えでございます。方便のお答えを濫觴として、多くの仏典・教書を紐解いたり、自ら観想することで更なる真実を導き出し、真理の全容を明らかにすべく、首脳は日々修行をされており、我々も志を同じくするものであります。

Q. 破壊的なカルト教団のように変質してしまいませんか?
A. 首脳の言を預かりました「是の如きテロル画策は非道の衆、瞋毒の徒なり。如何なる義を掲ぐるとも、人命をば殺すべからず。豈隠棲の身にて殺生を行ぜんや」。こう強く制誡され、どんな考えを持ったとしても殺人に手を染めてはならないことを決然と仰せられております。

Q. 特定の政治思想を唱えていますか?
A. 当団体で政治思想を掲揚して、所属する者に対し強制することはしておりません。また、各個人の是とする思想や信条を否定もいたしません。ここは個人の自由の範疇であり、それこそが当団体の方針であります。研鑽をする人々の意思は自ずと公平になると推定されます。ただし、団体に所属する者の全体で見て、いくらか特定のものに傾倒する場合はございましょう。とりあえず、団体規模で政治思想の掲揚は無いことを留意されたく存じます。当団体は既成の概念や団体に偏るわけでもなければ、全く新しいものでもなく、中庸の立場にあり続けましょう。

ズバリ、首脳の政治思想の変遷!



讃嘆の偈頌(未完成)とその訳

世濁悪強盛。著根本無明。於是如夜永。有人見月星。不得遊戯処。久受大苦悩。而識少真理。則入安穏道(あへ)

世は濁悪の真っ只中。
人々は根本的な迷いに支配されている。
その俗世にあって、世俗的な快楽すら得られず、世人よりも強い苦しみを受けながらも、一つの答えを識る者がいた。
それだけで、どこまでも救われた安堵感が満ちた。
同じような苦悩の渦中にありながら迷い続ける人々にこの真実方便を伝え、同じように救いの道を行かすべく教えを興した。
この答えとは、真理の一端に過ぎないが、同時に根本的な迷いの強い世間にあっては、誰人も気付き得ないものであるから、これ一つを識るだけで、大衆の中でも長大な飛躍となり得る。
多くの人間にこれを弘め、より多くの真実を解き明かし、生命の最期までに真理の全容を悉く覚知せんとす。

自ら命を絶ってはならない。
人を著しく害さない範囲であれば、どうあっても生きて、研鑽と瞑想などを続け、生命の最期までに真理に達せんとす。
成し遂げる使命があるのであれば、自ずと生きぬく術が備わる。
もし万策尽きれば、覚悟して運命に殉ずる外なく、それもまた真理と心して日々自ら戒めよう。
決して、自他問わず人の身を毀してはならない。
例えば、一日の私腹を肥やさんがために人を殺める者がいる。
刹那的な安楽はあっても、現世の外、後生までもその因果応報を恐るべし。*6
我々は三毒と五欲を制し、律し続けながら修行をすることで積まれる徳により、細くも長い生命が備わるであろう。

甚だ強まった濁悪の世相において、我々は世俗的な快楽も充足感も求めては儚くあるのみばかりか、罪業とさえなってしまう。
ここは安楽の場所ではないが、ここを嫌って速やかに死のうとしてもならない。
ここにあって修行をすることが、最も重要な生き方である。
また、それを自身の宿命と定めて、運命を容れる決意が必要である。
然れば仏の法を能く知り、志を同じて真理への階梯を上り、無上覚を得よう。



脚注 (出典・参考文献)

*1・・・とある宗派において、歴代・当代の管長が祖師の教法を正統に継承していることを譬えた「法水瀉瓶」が元ネタ。今の世を見ていると、一分でも道心を持って、仏法を学ぼうと発心する機根ある者が、どれほどおろうか。ましてや、真理への階梯を私と共に上ってくれる人は居難い。窮地に陥ったらば、いっそ放浪して入山した方がよいかもしれない。師匠も弟子も相互に求め合い、師は法を説き、弟子は法を嗣ぎ、更なる弟子・信者へと法を伝え弘むという、連綿たる法脈が仏教を現在まで遺してきたのではないか。三宝への尊敬・信仰とは、ここに大いなる意義を置く。

*2・・・今まで、多くの者が私を「笑われ者」として見てきたであろうが、誰も私の言葉を理解することなく、1年とて私を「嘲笑う」ことさえなかった。きっかけは何でもいい。笑いたければ笑え。哀れみたければ哀れんだままに私の言葉を聞いていればよいが、1年も持たない。いや、厳密には1秒とて理解されない。それで、1分でも、延ばして1年でも、心から理解して献身に聞く者など一人もいるはずがない。「鳳潭の人形」と同じである。また、一箇半箇を願う師と、一箇半箇を自負する弟子の関係を羨んでも空しい。私が良い人間であるとし、良い弟子がつくとする。その弟子が私に師事するならば、私は良い師となってより良い師に育つ。弟子を得て師となった結果が、より良い師への因ともなる。弟子とは、良い師をより良い師にさせる「師の師」である。しかし、そのような良い弟子がつかないならば、私が良い師ともより良い師ともならない。私をより良くする弟子をまた、私をより良くする師としておきたい。今の世に、師として師となる優れた人間が一人もいないという前提で逆説的師の弟子を求めるが、今のところ、そんな弟子も現れそうにない。末法悪世で師も弟子も、現世の他人に求められない。仏法信仰の原点である、過去の賢人・諸仏と自身の可能性への信仰を取り戻そう。

*3・・・読みは「じゃっこうおん (旧仮名:じやつくわうをん)」であるが、当初は園を"えん"とする、漢音の読み方であった。

*4・・・2016年1月からパーリ語の仏典も読み始めた(読書の基本は日本語訳だけど)ので、後からの挿入で恐縮だが当記事脚注でも説明する。スッタ・ニパータ1章4経 (うち77-80)における釈尊の説教を知られたい。物体としての道具を使用した物質的・生産的な農耕を行うのではなく、心の田畑に種まきから草むしりに水やりなど、耕作の行為を絶やさず続けていることについて訴えられている。なぜこう訴えられたか。釈尊は托鉢で食を得ようとされている折、「私は自分の収穫物を食べて生きている。あなたも食べるなら一緒に耕作してから食べてね(働いてからメシを食え)」と農耕従事者のバラモンに言われたので、「自分は既に自他へ大いなる恵みを与えており、自分もまたそうしてから食べている」との旨を丁寧に説明されている。ただし、このあと感動したバラモンから乳粥を布施されようとしたとき「僧侶は説法の報酬・対価・見返りとしての布施・供養を受けない」という教義から、乳粥の布施を釈尊はお受けにならなかった(現代語訳の例)。同様の話は他のパーリ仏典「相応部7.11経"Kasibhāradvāja Sutta"」や漢訳仏典「雑阿含経98経」にも見られる。

*5・・・徒然草の第八十五段でいう「至りて愚かなる人」

*6・・・天下無雙の智人・広学多聞の明匠(日蓮大聖人の説)である栂尾の明恵上人は、自身の病気を診てもらった医者に「寒い山中で体を壊しているから、温めた酒を飲み続けて治癒する」と示されたところ、「若し予暫くも世に住して益(益)有るべきならば、三寶の擁護により病癒え命延ぶべし。さあるまじきに於ては、佛の堅く誡め給ふ飮酒戒をば犯すべからず。」と、自分に全うすべき使命あれば加護による延命があり、もし寿命が残り短くとも破戒をしてまで延命はしない、と厳格であった。また、「飲酒の罪は現世のみならず来世にも罪障として悪影響を及ぼす」、「法師として教導する責任のある自分が病気を理由に飲酒をすれば、後世の弟子はこれに託けて破戒をしてよい風潮が強まりかねないであろう」と、思慮深い一面も見せた。


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