2015年10月30日金曜日

「ネト本リア末」議論と而二不二の義

インターネットは、構造上リアルありきとはいえ、人々の生活は趣味や娯楽から、経済活動に至るまでネットに移行しつつあり、依存傾向にさえ変容しつつあることは、既に大衆までも知覚する。
私の場合は、ネットショッピングを行わない(中3の時に数度のみ)が、経済活動そのものが、リアルでもぼちぼち自販機に通う程度に、つましくある。
頻繁に買うならば安価に済む手段に越したものはないが、私は自販機という割高なようでも便利なものに直近3年間は全き100パーセント支出している(不意に小銭を失った時などを除く)。

一方で、創作や言論の拠点は、ネットでの公開を主体としつつ、リアルにも形に残そうと、多少の行動がある。
例えば、紙に絵を描く、イラストや写真のデータを紙に印刷する、言論の文章を筆写する(ペン手書きの訓練にもなる)等。
音楽関連は、CDに焼くなどしたいものだが、結局WAVEやMIDIなどの各種データをUSBメモリに移すほどしか、現状は手段が無い。
ましてや、絵をイラスト集に、文章を著書にして発行するであるとか、自作曲の楽器演奏やCD製作配布・販売など、出来ようもないし、そこまで物質化・大衆化する必要も無い。

今のような、ネットに重点を置いた活動をしていると、ネット上の「横野真史」という人格が本体で、リアルの人格こそが自分にあらぬ存在のように錯綜してしまいかねない。
インターネットという媒体が、現象の空間を前提として成立するように、自分もまた、肉体や生命に精神を備えたところから、ネット上の仮名に託しているのである。
いわば、ゲーム中毒に陥って、あたかも己は主人公に成りきったように振舞うことが類似する。
度合いによるが、軽度であれば、ネット掲示板・チャット・ネトゲなどで「なりきり」などとして遊戯雑談を交わす人々がおり、重度を過ぎれば、自分が主人公および作品内キャラ本人そのものと本心で深く刻まれるケースもある。
架空作品主人公に擬したリアル犯罪行為(主にグロゲー)は、精神面だとこの中間で、意識の上に意図的になりきりはするが、行為がそのキャラクターさながらであるから、厄介でもある。
私は深くゲームプレイをしないながら、俄かに新規プレイ(ここではネトゲやソシャゲを除くものを指す)してハマり込むと、何となしにゲーム外での思考の中で混同することもある。

それはともかく、私の「横野真史」という人格は、その仮名すら実際の自分の本名を踏襲しつつ、更に多くの面で自分を昇華させたものであり、混同などはおろか目標にすべきである。
恒常的にこうした論理的な思考を維持し、日常のあらゆる場面において精神の安定による冷静かつ迅速かつ的確な判断を繰り出せることが、一つの境地であろう。
ほか、ネット上に最新の顔写真を公開し続けているが、まず写真を撮る際は撮り直しなども多い。
公開できるほどの写真は、話題に合致している場合と、単純に顔貌が美麗である場合などあるが、そのようにネットで公開した写真の時ほど常時美しければよいと思う。
ただし、写真の写りと鏡の映りでは、写・映される顔の状態すなわち絶対性が良い場合、鏡はその絶対性を反映するから、続く相対性で不利になる写真の写りは想像と齟齬があったり、期待はずれのパターンが多い。
この点は複雑であるし、ネット人格に比肩する目標、ということの例としては参考にならない。



ここで改めて、「本末」の語義を考えられたい。
「本」とは根本、「末」とは末節ということであり、本体・末端、本望・瑣末ともいえる。
私の学問分野で、例によっては「本迹(本地と垂迹)」ともいう。
"本"来の自分に対して、その派生であるネット上の人格が"末"端であり、本体がネットを去るか消えたら、活動の形跡は残るとしても、末端の魂、新たな生命活動は無くなる。
死体が腐敗するように、コンテンツ跡地は数年、十年と消滅の可能性が増えるか、あるいはサイトが生き残ればそっくりそのまま十年以上残るかもしれない。

この横野真史という名義は、本体の自分が多くの時間と手をかけて育てあげている。
その功も徳も、実に高く積まれているように思えて、分裂した人格を本来の人格が羨望し、あるいは神格化したように高次で捉える。
「本迹」でいえば、高次のネット人格"本"が顕現して、"迹"のリアル自分に降臨することを望むか。

「自分で撮った覚えが確然とあるこの顔写真は、横野真史の顔写真であるか・・・、横野真史とは自分であり、自分とは異なる存在なのであろうか・・・。いや、自分は○○ではなく横野真史であったのか。これが横野真史の写真であれば、自分は横野真史なのであろう」といった具合に色々と混乱してはならない。
正しくは、自分が○○であって、横野真史は仮想空間での異称であり、創作や言論などの活動の一切は本体の自分を根源・根本として、仮想空間では横野真史の名で発するのみである。
このように正確な分別を維持しなければ人格は崩壊してしまう。

また、もし法律上の氏名を「横野真史」に改名するか、逆にネット上の名義を「○○」という本名に改名したとしても、やはり全く同一の人格ではない(名同体異、99%までは似せても完全はない)。
そうはいっても、「横野真史」に根も葉もない・誤解の風評が立てば、即リアルの自分への風評として憂えるものであり、横野真史の上で糾弾すべきであろう。
このように、而二不二の義を以て、同じのようで異なり(而二)、異なるようで同じ(不二)という分別を持たねばならない。
先述の「この横野真史という名義は、本体の自分が多くの時間と手をかけて育てあげている」という一文の通り、本体の自分と遜色がないか、それ以上の人格として生きていて・・・肝心な結びの文章を失念した。なんでかな。

表題に「ネト本リア末」と書いたが、結局のところ、「ネト本リア末」と「ネト末リア本」のどちらが正義であるかは判断が付きづらい。
物質的・歴史的にはネットが先となっていても、今や冒頭の例にある通り、ネットこそ観念上の本体のみならず、世間を動かす力もすさまじく、ここに一つの共同体も見られ、"ネト本"の者も多くて然るべきではないか。



大事な仏法の用語を、謹んで俗用し奉る、恐々合掌。
どこかの人だと、人格、パーソナリティ、ペルソナ、アイドル、等と言い始めてしまいそう・・・。
本記事は、前記事の「携帯電話・半角カタカナ・メモ形式」で原案を作ったが、最初はあんまり私の趣味ではないから掲載さえためらったが、結果はこの独立記事として規模が肥大化した。

記事冒頭ではネト本思想における経済活動の一端として「ネットでの買い物・ネット通販・ネットショッピング」にやや触れた。
母親は、記事執筆の今月2015年10月は高頻度でネット通販を行っていたことが脳裏にあろうか。
この様子についての記録は、来月の3日頃に「日記メモまとめ記事」として、当ブログにおいても閲覧できるようになる。
2015年8月21日の日記メモには、サイトのAmazon アマゾンを例に取ってリアル店舗の需要が減ることについて簡単な記述がある。
「みな母のようにネットでの食品購入が増えたら、佐川とヤマトが肥大化する。需要に応じてAmazon等が独自の配送機関を設けるかもしれない。リアル店舗小売業の雇用が運送業に傾くな、と何となく恐怖を感じるが、それは食品配達に限らず佐川とヤマトが来る度に思うことだ」


1 件のコメント:

  1. 当記事で「『ネト本リア末』と『ネト末リア本』のどちらが正義であるかは判断が付きづらい」として保留にされた問題の、「どちらが正義であるか」とは異なる解の一例:
    心は唯一であるとすれば、「本 (essence, nature, entity)」。
    そこから、人格 (character) はネットであれリアルであれ、無数に仮想されるので、「末 (face, surface, property)」。
    この意味では、本が主体 (subject)、末が客体 (object)、の代替で言われる。

    この理解を持つ人からの助言は:
    「どちらが正義であるか」とは、そうしたい意思でどちらかに決定すればよいと思う。
    それは彼の生き方として、短期的でも長期的でも噛み締めれば、彼の利益に機能するのみ。

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