2019年5月16日木曜日

科学的なこと(物質的な客観性と学者の精神・方法論)・学術の方向性

人文科学 (humanities, human science) や社会科学 (social science) における、自然科学 (natural science) と等しい「科学性」は何か?

何らかの発言・行動は、それが五感(五官・感覚器官)で認知される限りに「された事実」があり、その客観性がある。
その範疇で物質的な証拠によって客観的事実であり、科学的な道理がある。
思考についても、間接的に=発言・行動などから五感で認知できるし、直接的には他者が五感で認知することのできないもののようだが、現代に限って言えば脳波・脳の電気信号の観測・検出(ただし機器の誤作動や改竄を除く)などによる客観性がある。
人の発言・行動・思考・精神は、その範疇で物質的な証拠による客観的事実(論理学でいう真 true)であり、科学的な道理がある。

これらの科学的な道理が研究された結果に、人文科学や社会科学の科学性を提示できる。

人文科学や社会科学の科学性は、この他に、科学の実行者が持つ精神・方法論に見いだせる。
科学の実行者は、「学者 scholar ・哲学者 philosopher・科学者 scientist・研究者 researcher」と呼びえる。
客観性に関する疑問、自己反省、好奇心・探究心といった精神性がある。
それが時には時代の趨勢に抗うような・左翼的な姿勢に見られることも有り得るが、もしその人の感情や衝動が起こす所であれば、疑問の解決などの行動・探究がある。
他人によって曲げられること・他の事象によって風見鶏のように左右されること、それらが無いように一所懸命の努力もあろう。
そこに、相応の紆余曲折・内心の苦労・葛藤を伴う。
これはメンタリティの話であって人による差異が大きいが、概ねこう見える事績は科学史や技術史から探してみるとよい。
近世以前に古典的なキリスト教神学の観点で望まれない傾向にあった人(管見の限りでは地動説で有名なコペルニクスさんやガリレオ・ガリレイさん)、近世以後に学校教育の通念から外れるように思われた人など、色々といる。
科学者とその共同体がキリスト教神学などから離れていった後であっても、時代ごとに主流の見解と相違する見解が起こり得るが、この例を示すとかなり些末に思われそうである。



科学前史=自然哲学 (natural philosophy, philosophia naturalis) は何か?
現代文明の人は、科学史を見ても見なくても、常に科学理論や技術が進歩し続けていると考えるであろう。
しかし、「人の努力がされてきた」という観点では、昔から変わらないし、どの時代における研究成果も等しいと言える。
ピタゴラス(ピュタゴラス 紀元前6世紀に活躍)やアリストテレス(アリストテレース 紀元前4世紀に活躍)の時代には、その時代に相応の価値観と方法論とで自然哲学・自然学が行われ、彼らの成果が当時であれ後世であれ評価され、それにならった研究が人々に継続される。
以後も人間の学問・研究の行為は、その人々の間の意識が異なっても、その時代に相応の価値観と方法論とで行われた場合に相応の成果が評価されている。
自然哲学という用語は、アイザック・ニュートン(17-18世紀に活躍。近代的な科学への過渡期を代表する人物)の著作の題"Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica"に、なおも見られていた。
たとえ自然哲学から即物的な性質・客観的考証を専らにする自然科学として独立するようになっても、人間(人々 homines, ヒト Homo sapiens sapiens )が行う限りに人間(ヒトで構成される世間)で評価する。



cf. 科学的方法 https://en.wikipedia.org/wiki/Scientific_method
科学のヒエラルキー https://en.wikipedia.org/wiki/Hierarchy_of_the_sciences
科学理論 一往の「再現性 reproducibility」 再往の「反証可能性 falsifiability(その提唱者カール・ポパー 1902-1994は科学哲学の第一人者であって自然科学の実務者でないがそういった立場からの研究で科学自体へ見解が示されることも大事であると留意されたい)」 i.e. 「不確定性 uncertainty」
メタ科学(メタ研究、科学を科学する) https://en.wikipedia.org/wiki/Metascience_(research)

科学に大事な疑問精神は、仏道における菩提心 (bodhicitta) に比するものと私は思う(信心 śraddhā, saddhā よりも)。
このようなことは科学哲学であって人文科学・社会科学同然であるため、私が語ってよい。
アドホックな仮説 (ad hoc hypothesis) といった「その人の信じる見解・学説を自ら擁護する・保存を試みるための仮説」は、「先に何かを肯定しようとする立場や意図でなされるもの」である。
その精神は、科学の発展を支えてきた疑問精神と異なるものと考えられている。
もちろん、私はアドホックな仮説とされる方法や研究についても結果的な研究の進展に繋がることもあろうし、全否定すべきだと思わないが、科学者の精神論としては、基本的に有り得べからざることとなろう。
仏道における菩提心や宗教の信仰全般に例えると、一部の科学者は不愉快に思うかもしれないが、人(命あるものたち)が自ら行くべき道を行くときは、何の分野でも根本的で大事な精神性が有ろうと思う。
それも、具体的な成果を上げた後の結果論だと言われようか。
何かヒューマニズムの目線で捉えるならば、疑問精神の他に、科学は、文明の発展へ貢献する心とか医学での人々に対する愛情・慈しみ・哀れみのような心が必要であると言う人もいると思う。
これも仏教でいえば、慈悲や利他の精神であろうが、それも修行者個人の福徳のための手段として必要であるということが上座部仏教でのスタンスであり、大乗仏教ではもっと高次の=仏の目的としての次元で重要視される(現代の仏教で在家信者が功徳やプンを積むと言って行うことは現世利益が望まれる傾向にあることに注意)。
科学の発展と「文明の発展へ貢献する心や医学での人々に対する愛情・慈しみ・哀れみのような心」の関連性は、もっと限定的であるし、科学哲学というよりも倫理観の話に近いと考えてもらいたい。

方法論が科学的であれば、宗教も人文科学・社会科学のうちの宗教学として、科学である。
キリスト教などの一神教には「この世(万物・人類・動植物)は神が作った」という起源説・創造神話があることは聖書(旧約聖書 Old Testament・タナハ Tanakh)に赫赫明明である。
たとえ教義が一つでも、そのような創造論にはいろいろな信じ方があろう。
神の存在と世界の起源とは、多くの信者が各々の人生経験などから導かれた範疇での「素直さ」のままに信じる。
賢い人には賢い人の検証によって一神教の創造論を信じることができ、そう信じる限りには科学的手法の有無によらず宗教的である。
ただし、「創造科学 creation science」の主要な説を私は、聖書の言葉に対して自然科学の説を牽強付会に用いる疑似科学であるとみなし、宗教的にも聖書が書かれた意図やモーセ・イエスらの精神に背くとみなし、否定的である。
様態論ではあるが、このように手段に科学性が求められ、個人の決定意思に宗教性が求められ、科学・宗教が取り扱う事物は、神であれ宇宙であれ生命であれ、科学や宗教で一括りできない而もどちらも尊ぶ概念である「自然 (しぜん・じねん) "nature, natura"」ということ@になる。



多方面への科学性の伝導

自然科学の系統の分野から、人文科学と社会科学へ、その科学性の伝導がある。
科学性の伝導により、合理主義的な人文研究がその度合いを高められてゆく。
キリスト教神学では高等批評・本文批評 (historical criticism, textual criticism) などが発生して普及するし、アジア各地の仏教学門(学問ではない)では近代的な仏教学が西洋から導入された。
みな、文献があるという事実とその作者がいるという事実を重んじる文献学的な立場 (philology) を重んじているであろう。
キリスト教も仏教も、もともと、そういった傾向が伝統的な学問・学門のうちにあったが(例えば仏教では大乗荘厳経論で有名な般若経=大乗非仏説について西暦6世紀以前からインドなどで議論されていた。中国では11世紀以前に天台宗などが像法決疑経・提謂波利経などの偽経説を議論していた。日本では13世紀以前に日蓮聖人などが大梵天王問仏決疑経などの偽経説を主張する際に中国の古い経蔵=貞元録・開元録にそれらが無いことを示していた)、西洋はルネサンス期に・日本は江戸時代に不干渉で合理主義的な人文研究をし始め、西洋は17世紀以後に・日本は19世紀以後(近代)には明らかに文献学が行われる。
伝統的な宗教には、その伝統的な学問・学門と並行して近代的な人文科学の手法を行う者たちがいる。

近代以後の日本の国語学は多かれ少なかれ西洋から影響を受けた面はあるが、日本語のためにローカルな用語の使用・造語などがある。
国語学に先駆ける江戸時代の国学は、日本の言語に神道の神秘性を見出していた。
江戸時代の国学の初期の人物である本居宣長さんの複数の著作に見られる発言を要約しよう。
彼は「日本語は本来に濁音(現代の音声学でいえば阻害音系 obstruent の有声音に加えて半濁音と言われる /p/ 唇系の無声破裂音)・促音(阻害音系の長子音 /Q/)・撥音(鼻音の長子音/N/)などが無く清音(阻害音系の無声音に加え有声音では流音など)のみを発していた。リズムが規則的で優雅であった。これが和語(やまとことば)であり、人間が話すにふさわしいことで唯一の存在であった」といい、民族主義的な立場が大いに表れていた点を注目すべきである。
彼であっても漢語・梵語など外国のもの(彼の師にあたる賀茂真淵も「国意考 c. 1765」で「天竺=インド・をらんだ=オランダ・北国=日本」の文字が漢字と比べて著しく少ない字数に少ない画数の字が占める文字体系であり天竺は五十字で多くの仏説を伝えたという話をしていた)を可能な限り比較して検討したうえでその話をしていたが、現代の人文科学から見ると多くの問題点を見つけることができる(言語学・宗教学における一例としては先のリンク先記事の本論や余談を参照)。

江戸時代は日本版ルネサンス(ルネッサンス)のごとくに、医学・数学・文学に相当する学問が進んだと同時に、国学・仏教学門(大乗各派が小乗とされる律 vinaya などに関心を向けた。阿含経・大乗経の文献整理や梵語悉曇の研究)・漢学(筆者は詳しくないが朱子学などか)で合理主義的な研究が盛りつつあったが、やはり分野ごとの恣意性(何かを批判・擁護するための無理な説明の多さ)は付随しがちであった。
科学における合理主義 (理性主義 rationalism) の目で見れば、他者批判はそれもそれでよいことだが、彼をはじめとする江戸時代の人文系学者らの批判精神が不十分であったことになる(批判 criticism 自己批判とは単なる否定・非難・あら探しや心理学や精神病理でいう病理的で自他の加害につながる感情作用のことではなく学問のための内省の手段を意味する)。
仏教徒が他の仏教徒に向ける批判(浄土系VS日蓮系の宗論のみならず江戸中期真宗大谷派の僧侶とされる法幢さんが中国法相宗の慈恩大師基さんの説を批判・修正するなど色々と見られる)は仏教における自己批判の側面もあるが、やはり反面にそれら事跡の多くが仏教徒各自の宗派や個人の信念や理念に追従する結果の行動だ、と私は見る。



人文科学と社会科学に科学性が伝導されて合理主義的になっても、現代では人間の主観性に関する客観性が重んじられることも多くなる。
人文科学で言語や宗教の多様性を認める・差異を尊重する傾向はある。
言語学について考えると、比較言語学・歴史言語学の関係に対照言語学がある。
現代語は大小さまざまに分岐して方言も多くあり、一見些末なものがあるように思われるが、研究者個人の思いによって広く研究がされる。
個別言語とみなされる存在(および話者の集団)同士の個性はサピア=ウォーフの仮説に、全ての言語使用の刹那的な特性はソシュールさんがアイデアを与えたとする記号学(または記号論。日本語ではこの順にsemiology, semioticsの訳語として用いるがことが多い)に示され、おそらく言語学者の卵はそれらの仮説や理論を学んでいるであろう(余談だがこれらを学ぶ以前に私は仏教学で中論の二諦・大智度論の四悉檀・天台宗の三諦や釈道安の五失本・鳩摩羅什の伝記にいう翻訳論・玄奘の五種不翻を学んで同様の考え方を持った。Dominus Immensusラテン語歌詞元ネタの自作宗教文学についても参照。それらは仏教の布教や自己の修行や哲学的な見解などの異なる目的のもとで言われているため言語学と同一視しないにしても広い理解の一つとして参考にしてもよい)。
大中小の異なる規模ごとに入れ子状態の主観性(i.e. 共通主観性"consubjectivity")が窺える。
言語学の語用論 (pragmatics) や認知言語学 (cognitive linguistics) や心理言語学 (psycholinguistics) は、現代語の発話やコーパスなどを考察の対象にできる。
様々な研究成果は、死語 (extinct languages) や原始の言語の推定にも繋げられよう。
宗教の教義の発生発展や勢力の離合集散を説明した私のブログ記事もあるので参照されたい。
無宗教の人や元宗教活動家・元信者の人が宗教を弁駁する行為についても触れている。
2017年4月21日投稿『形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html
言語集団も宗教勢力も、個別の差異はあるが、人間における普遍性に関連する。

社会科学でも、政治・法律・経済で扱われる任意の個人や集団における精神・心理についての科学的根拠(証拠・エビデンス)の類が有っても無くても、「発言や行動が存在する事実」に関する客観性から精神を尊重する傾向がある。
しかし、社会科学の分野には出版・言論における売文家や御用学者が多く、私はその恣意性(e.g. ある意見や声を多数派・少数派と学者各位の判断で前提を作って論じるようなこと)を見る。
他方、脳科学や心理学や精神医学などのさまざまな観点で証明されるべき精神・感情・心理現象があり、まだまでこの倫理道徳らしい方面での課題が多いといえる。
学問研究からの社会的運用として、立法・司法・行政などは実際に起きた犯罪の例=どのような経済層などの背景を持つ者がどのような状況から何の行為に至ったかなど、鑑みて法令や条例や社会保障の予算配分を決めたり、個々の刑罰を決めたりする。
応用分野は、社会科学系も自然科学系も極めて倫理道徳を重んじる必要がある (cf. ES細胞とiPS細胞)。



現代日本語の語彙「カガク kagaku」…科学と化学

「科学(サイエンス science)」と「化学(ケミストリー chemistry)」の紛らわしさが、その発音にある。
両単語は、示すまでもなく、「カガク kagaku」として現代日本語の発音で共通する。
そのことは、日本の人々に、科学が化学であるようなバイアスをかけている。
「科学」と「化学」を同音で把握する日本人が日本人に対して、ステレオタイプとして科学者の外見が「白衣(オプションでメガネなど)」であるように定着させてきたろう。
これは言語音声に関する主観的認知とそのバイアスに関する話であり、心理学や認知言語学に関した一見解になる。
kagaku japanese words science chemistry
@これはどんな科学かな?
大学生と化した女児Sによる
科学者コスプレの絵+発音の図

言葉における科学性を示したいが、まず音韻論 (phonology) について話そう。
「科学」と「化学」とは、共に現代日本語の一般的な漢字発音で同音異義語 (homophones) となる。
これが歴史的にもそうであるか、他の言語でもそうであるか、検証してみたい。
以下に、両単語の字音仮名遣い(歴史的仮名遣い)と拼音(ピンイン Pinyin)とを示し、対応する音素 (phoneme) も表記する。

 (科學) カガク・かがく」 /kagaku/
字音仮名遣いで「くわがく(くゎがく)」 /kwagaku/
拼音"kēxué (クーシェーまたはクーシュエー /kʰɤ ɕɥ̯œ/ トーンは第一声・第二声)"

 (化學) カガク・かがく」 /kagaku/
字音仮名遣いで「くわがく(くゎがく)」 /kwagaku/
拼音で"huàxué (ファーシェーまたはフヮーシュエー /xu̯ä ɕɥ̯œ/ トーンは第四声・第二声)"

※参考までに、宇田川榕菴(宇田川榕庵)の「舎密開宗 (刊行年代は1837-1847)」は、「化学 chemistry」に相当する西洋の語句(一般にオランダ語 chemie とされ 現代の発音は /xemi/ ヘミに近い音)を「舎密(唐音: せいみ 参考までに拼音: shèmì シェーミー第四声・第四声)」または「舎密加」と音写している。明治時代の官庁に「舎密局」もある。「舎密」は今日の日本語で用いられていない。

このように、両単語が、日本語では現代発音でも字音仮名遣いによる古典発音でも、同じ音素を有している=同音異義語である。
しかし、両単語が、中国語ではそうならずに区別可能である。

「科学」も「化学」も、明治時代から学術・日常の範囲で日本語に取り込まれた語彙であろうし、けだしどちらも明治訳語であろう。
前者が仮に中国古典・漢籍に文字列があったとしても、英語"science"に相当する何らかの西洋の語句の訳語としては幕末~明治期の日本から用いられたろうし、後者は和製漢語(日本での造語)であったろうと私は推定する。
しかし、科学と化学が漢音読みで「カガク(クヮガク)」という同音になることが分かっていたらば、あえてどちらも採用する発想が不可解である(そこで調べなおすと化学の方は中国が先にchemistry相当の語彙として造ったという説を確認できた。もしそうならば中国に同調したか)。
興味のある方が各自で検証をするとよい。



現代日本語では、両単語の同音である状態を鑑みて、それぞれ「カガク・ばけガク(かがく・ばけがく)」と読むことが暫定的に求められる。

もしくは、明治~戦前期に「化学」の音読みが、「化」の呉音で「け(as in 化粧 けしょう keshō, 化身 けしん keshin)」の「けがく kegaku(字音仮名遣い: くゑがく kwegaku)」と作られていたらば、現代語で同音異義語とならず、その紛らわしさも無かったろう。
もし現代語発音で「化学 ケガク (クヱガク)」と読むような翻訳をすれば、「科学」と同音異義語にならないのみならずケミストリーの当て字(または音義対応 phono-semantic matching, jawp: 音義対応翻訳という語はWikipedia発祥の便宜的な翻訳語) に見える上手い訳でさえあったはずが、歴史的にそうならなかった(英語chemistryに当たる日本語を「舎密」と「化学」の決定的な動議が明治18年にあったとされるが化学フォロー側からこの読み方が提案されたか不明)。
「化学」を「ばけがく」と読むことは湯桶読み(ゆとうよみ・訓音の順)であり、「けがく」と読むことは明治訳語・和製漢語における呉音排除に悖る。
他方、湯桶読みのような訓音ハイブリッド読みも、呉音読みも、明治訳語・和製漢語には多く見られる(e.g. 病 呉音: ビョウ 漢音: ヘイ 病理ビョウリ⇔疾病シッペイ)ので、許容されてもよいはずである。

明治以降、果たして漢音・呉音といった漢字音の系統区分が、どれほど活かされたか?
その上で慣習的な表記を選択する柔軟さが、どれほど行使されたか?
同一概念の英語・ドイツ語など西洋言語での名称が同音異義語でないのに和製漢語でのみ同音異義語になる問題性が、どれほど鑑みられたか?
日本語の語彙論 (lexicology)・音韻論 (phonology) に限っても、その科学性を重んじるべき事項が多い。

大多数の日本人は、言語における科学性(知識の宝庫である性質・知的に用いられる性質, scientiaからscientificityのような英語の意味を筆者が恣意的に定義する)・合理性(歴史的な正統性・社会的な実用性)を顧みない。
「言霊・ことだま kotodama」と言っても言わなくても、歴史的に日本語族 (Japonic languages) の人々はそのようであったし、別に構わない。
※たとえナショナリズム・保守主義などが民間レベルに適用されても、朝鮮・ベトナム・インド・旧ソ連の国々が自国の言語改革をしたレベルのようなことを日本上下万民は全然できなかった(cf. 当用漢字=当面用いる漢字。ユーラシア諸国の正書法 authography ハングル・チョソングル・クオックグー・アルメニア文字・ジョージア文字などと比べて最悪。キリル文字からラテン文字に変えた国はアゼルバイジャンなどあり。言語改革にはヒンディー語などが古典語・サンスクリットから借用するなどあり)。科学的な話だと思われなくなりそうだが、これは自ら言語の歴史を軽んじ、他の言語とも歩調の合わないようなことをし続ける日本国・日本民族の悪しき宿命によるものと私は思っている。

語用論 (pragmatics) の観点で「科学」および「サイエンス science」を考えると、一般に生物の写真や生態に関する話題などを「科学 science」の象徴のように用いる場合もある。
こういった用法は、「科学 science」が取りも直さず「自然科学 natural science・理科系学問」であるという意味となる。
そうなると、これは語用論というよりも意味論的 (semantic, semantics)である。
事実、英語の辞書(e.g. En. Wiktionary, 他にOED類CALD・ケンブリッジの英英辞典類もそうなのかといえば検証しづらい)には、そういった意味も"science"のうちに定義されている。
一般通念や常識のうちで、「科学」即「自然科学」という見方は承認されている。



ちなみに、日本で「物理学」というと、英語の"physics (フィジックス 学問の名称は-ics不可算名詞。physic フィジックと区別される。物理的なことの一般的な形容詞はphysical フィジカル)"であるが、この英単語はラテン語・古代ギリシャ語に辿り着く。
その英単語に見られる学問名称の語源を見ると、「全体で部分を表す比喩(日本の論文で換喩・メトニミーや提喩と言っているがはっきりしない)」のような現代的な意味が感じられる。
英語に継承される以前のラテン語"physicus, physica"や古代ギリシャ語"φυσικός (ピュシコス・形容詞のみ。φυσικήは古代ギリシャ語でその女性形だが現代ギリシャ語で物理学を意味する名詞であって英語からの意味借用"semantic loan"か。古代ギリシャ語の名詞ではφύσιςもある)"は、自然に関する意味合い (形容詞: natural 名詞: nature) が主要である。
※単語の使用例はどうか?古代ローマの古典ラテンで書かれたキケロー著 De fato に"Non ita loquimur, ut physici"というフレーズがあることが、当ブログの2018年8月8日の記事に示される。この"physici"は、英訳の一つ(by H. Rackham)において「自然哲学者たち"the natural philosophers"」と翻訳されている。また、古代ギリシャのアリストテレースの著書「自然学」の英題・英語名称が Physics (原題も同様にΦυσικὴ ἀκρόασις) である。

しかし、英単語の場合は、一般的に「物理的なこと・物理学」の意味に限定されるのである。
早くても西暦14世紀以降にヨーロッパのどこかで、"physicus"系統の語彙にその意味が強く与えられて用いられるようになったろうか。



大学の人文系・文科系の学部「文学部"Faculty of Arts"」
漢字「文」(the letter 文 bun, wén) の一用法

文学部という名称の「文」は、もともと英語の"arts (アーツ、複数形)", ラテン語の"ars (アルス、単数形)"に当たる言葉を指したろう。
英語の"arts"は、視覚芸術・美術"fine art"に限る必要性が無い。
トリヴィウム(trivium トリヴィアムとも)、リベラル・アーツ"liberal arts"ともいえる文章的な技能 (writing skills; grammar, logic, and rhetoric) を指すことが"arts, ars"の原義に近かろう。
英語での名称の幅を拡大すれば、"humanity, humanities"も含まれよう。
「文学部"Faculty of Arts (and Humanities)"」は、"arts, ars"の学部"faculty"ということになる。
決して「文学"literature"」や「文化"culture"」の学部ではない。
このように英語など西洋言語での名称を介して考えると、人文科学の手法に近づく(誤った前提や概念認識によって行われれば疑似科学・疑似人文科学になる側面も否定できない)。

先述の通り、「文学部」や「人文」という「文」の字の用法は、英語の"arts"に当たる言葉とその概念に由来するであろうが、これは明治以降の日本人が和製漢語・明治訳語のように用いたことが起源であろう。
その用法は中国の古典・漢籍 (Chinese classic texts) に見られないので、由来することも無い。

ところで、2014・15年に私(17・18歳)が日蓮正宗系の学問をしていて「明者は其の理(り・ことわり)を貴び、闇者は其の文(もん・ふみ)を守る(依義判文抄より)」という大石寺26世・日寛上人の言葉を見たとき、「理系・文系」の人を連想してしまった。
これは江戸時代の仏教徒・僧侶の言葉であって「文・理」は仏・釈尊や日蓮大聖人の教説の額面的な意味と真意(文底秘沈)とを区別したものであり、現代日本の「文系・理系」の区分と関係ない。
※原典の依義判文抄には「理」の字が「釈尊や日蓮大聖人の教説の真意」の意味で用いられた箇所が無いようでもある。更に「文・理」は三証のうちの「文証(もんしょう)・理証(りしょう)」のことでもなかろう。「依義判文」という題号の語彙における「文」に対比した「義」を、その「理」の同義語とみなすことも不自然である。論理学的にいうと「文底秘沈を知ってから文を判ずること」が「文と文の真意との従属関係」を不明瞭にしているので、循環論法や「鳥と卵」のようなパラドックスになり得る(文学の読解であれば人の人生経験とその価値判断が関わるのでそうとも限らないが)。古い文献・文学はフラグ回収(伏線回収)のようなことが必ずしもされないので、直ちに一文の意味を決定することは困難である。



卓越した先人たちの学問・芸術研究

学問領域の分化は、合理化された分業体制の一種であろう。
個別の学問の専門性が漸次に高められ、学者の知識が高度であらねばならず、現代では自然科学がそのように成り立つ。
※科学哲学者であるトーマス・クーンのパラダイム論(Kuhn 1962「科学革命の構造」)によれば、既存の学問のもとで未解決の問題が解決されるという新しい科学的業績=パラダイム(それは同時に新たな課題を作るもの)にベテランや若手の様々な研究者・科学者たちが賛同するなどして共通のテーマのもとで学問領域が分化する例が多いともいう。新しいパラダイムに移行するという「パラダイム・シフト paradigm shift」もある。それは著作でいうとアリストテレス「自然学」→ニュートン「プリンキピア」などであり、またニュートンらの古典力学からアインシュタインらの現代物理学のような例もあるという。彼は自然科学についてのみパラダイム論が適用されるべきであると概念・用語の制限をしている。パラダイム論は後に彼自身が放棄したものであるが、科学史と分野のアイデンティティを考える一つの基準ではあろう。

西暦1900年以前は、現代の学問から見て複数の分野とみなされる研究を一研究者の行動範囲に含むことが多かった。
それだと、一般的な科学者というよりは、哲学者・思想家・芸術家のようでもある。
博学の人"polymath"と称すべきか。
中世ヨーロッパの科学者たちは、一般教養としてキリスト教神学の造詣もあったし、彼らによる神学への言及もされた(多くの場合はキリスト教神学の範疇で科学的・自然哲学的な研究をしたとも考えられる)。
そのほか、人文系の研究に貢献する者が医者を生業にしていた例も多かろう(e.g. 記紀の研究者Motoori Norinaga 本居宣長や フィンランド伝承カレワラKalevala編纂者Elias Lönnrot リョンロートや Esperantoの考案者で聖書翻訳者L. L. Zamenhof ザメンホフ)。

私が知る西暦1900年以前の博学な人物の具体的な例は、直ちに挙げづらいが、レオナルド・ダ・ヴィンチが典型例かと思う。
近代以後では、言語学で功績をあげた人に数学者・物理学者がいた。
例えば、ヘルマン・グラスマン (Hermann Grassmann, 1809-1877)とトマス・ヤング (Thomas Young, 1773-1829)である。
前者は「グラスマンの法則 (Grassman's law)」と呼ばれる法則を言語学(印欧語研究)にも物理学(色彩・色覚関連)にも与えた(他にグラスマン代数とも呼ばれる外積代数がある)。
後者は「ヤング率 (Young's modulus)・ヤングの実験 (Young's interference experiment)」というエポニムが物理学で知られており、印欧語研究やエジプト学(ヒエログリフ研究)も行い、2006年出版の伝記の題"The Last Man Who Knew Everything"が彼の博学ぶりを表している。
両者は一括りに言えば「古典言語と光に関して通暁していたし先進的な研究をした」ことになる。
当記事の執筆に際して知った類似の人物に、チャールズ・サンダース・パース (Charles Sanders Peirce, 1839-1914) がおり、彼も数学などに長けていた・光に関する研究(天体の測光やメートル単位の基準に光の波長を用いる提案)をしていた・論理学や哲学に大きな影響を与えた(実用主義の英語名称2つpragmaticism, pragmatismはいずれも彼の造語。先述の記号学・記号論の一大潮流でありしばしばソシュールに対比してsemioticsという学問名称を用いる人物として挙げられる。2つの同様の名称を造ったことはそれこそが言語や記号のプラグマティックな側面を重んじることの現れであろう。言語学の語用論pragmaticsに似るが無関係)。

※余談だが、パラダイム論に関してこの例も挙げよう。光の本性(人々がそう思いたい本質・正体)とされるものは粒子か・波動かという議論があった。17世紀にニュートンさんが「光の粒子」説に当たる見解を示した。その前にホイヘンスという学者が「光の波動」説に当たる見解を示しており、先述のヤングさんは「光の波動」説が支持される実験をした人物である。後者の時代から光の波動説(数十年後にはフレネルという学者がホイヘンスさんの説を補強する)が物理学などで広く支持されるようになっても、19世紀後半から終盤までに「光電効果」に関する実験などが示され、光の波動説に危機が訪れた。粒子・波動の両者の性質が見いだされる光の作用が証明されている状況で、20世紀からはアインシュタインさんが「光量子・光子(フォトン photon)」説が支持される光電効果についての研究によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。光の本性とされるものを簡単に言えば、粒子でも波動でもなくどちらの性質も観測される「量子」であるということ (wave–particle duality) が結論であり、今日の科学で承認される。光学は今も光の波動としての性質に関するパラダイムに則る波動光学 (physical optics) と、光が量子であるとするパラダイムに則る量子光学 (quantum optics) とで異なる分野が並存し、研究されている。目的性によっては幾何光学 (geometrical optics) も研究される。

※パラダイム論や科学哲学に関してまだ思うことがある。現代日本のファンタジーのRPG (Role-Playing Game) 作品などには、そのゲーム内の魔法理論や錬金術理論などがある。一例として、魔法の属性は、それを示す図がシステマティックであるし、ゲーム内の世界で厳然とした事実である。ビデオゲームならば属性間の相性(火と水または火と氷が対称的)がプログラムで計算・処理・反映されて有意である。現代日本のファンタジーのRPG作品内の魔法理論や錬金術理論の淵源は定かでないが、やはりヨーロッパや中東にあったと思しき近代のファンタジーの文学や近世・中世の本格的な魔術・錬金術の学問などに求められる要素は多いと思う。それらを骨組みに、世界各地の神話・伝承などで肉付けされてもいると思う。現代のファンタジー作品に限ればMP (Mana Points, Magic Points) のために「マナ mana」というポリネシア系言語(マオリ語など)由来の言葉が用いられるようになった経緯が分かるように、多少の要素の淵源を求めることができる。大局的に私は認知しない。何が現代日本のファンタジーのRPG作品の祖先に当たるかは断定的でなくも、いくらかパラダイムや規範となるような理論やそれを含む作品があることは考えられる。よくできた魔法・錬金術の理論は、科学と見紛うものである。しかし、現代日本のファンタジーのRPG作品は既に古典力学・物理学などよりも後の科学知識を知っているような人たちが築き上げた産物・所産ならば、詮ずる所、現代的な疑似科学であって最も精巧なモデルである。

先人たち彼ら個人の研究領域が幅広いことについて、その成果を知るのみでは、教養知識として「画竜点睛を欠く (an idiom in Japanese, it lacks a Chinese classic source)」ようなことである。
彼らの成果から感じ取れる彼らの探究心や知的好奇心の強さ(人間性)を、感じてもらいたい。
もちろん、学者個人の哲学や理念ということには、専門分野で直向きな努力をする人たちからも感じられることは多い。
現代の合理化された学術分野のうちで学者たちの精神が失われていない限りには、彼らの姿勢に精神性を求めることができ、彼らの精神性を良いものとも悪いものとも多面的に見てみると、自身の努力の糧になろう。



いわゆる文系・理系の学際性とペア関係

ここから、「文系・理系」という、現代で学術はもとより教育方針としても意味をなさない区分(二項概念)の名称を用いる。
反例として東京大学の文科一~三類・理科一~三類などがあるように、一部では機能している(ただし東大合格者は文理不問で入学後の4年制前期課程=2年間みな教養学部に所属してリベラルアーツ教育を受けることになっている)。
口語的用法では、今も多少の日本人が学問とその研究者の人格に対して区分に用い続けていると見られる。
ただし、高等教育(大学)に関してこの区分が的確な側面もあろう。
ひとまず、文系・理系の学際性とペア関係について考えてみよう。

  • 心理学(学部でいえば文学部)と精神医学(学部でいえば医学部 alt. 精神病理学)
  • 地理学(学部でいえば文学部)と地球科学(学部でいえば理学部 abbr. 地学)
  • 分子人類学(学部不明。系譜学を物質的に証明する。人類学は言語学・考古学・民俗学に関連する)と分子生物学(学部でいえば理学部。生物学は主に生態学と形態学と分類学を含んで自然科学)

他に、社会学・言語学と情報技術・情報科学(技術というとプログラミングとか。理学部・工学部など)を示そうと思ったが、雑駁になりそうなので控える(古形としての情報学は社会や文献などの情報全般を扱う文系領域であろう)。
上記の例らは、私がペア関係だとみなす理由を詳述していないので、各自で想像するとよい。
実際に異分野間の研究者がどのくらい協力し合うことがあるかは、私が決定的に論ずることもできないし、上記の例らも、それぞれに程度の差が考えられる。
「心理学と精神医学」の相関性は想像に難くないが、「分子人類学と分子生物学」の相関性は考えづらくて「何となく似てる(口語)」という程度の感覚に思われよう(分子人類学の研究対象を身近な親戚・民族など家系レベルから拡げて現生人類のみならず比較のためにヒト属Homoないし霊長類Primates全般にするならば生物学と大きく重複する。任意の学問分野の研究は現生人類とショウジョウバエ特にDrosophila melanogasterなど非脊椎動物まで比較することもある)。
学際性ということに、異分野の研究者との緊密性 (transdisciplinarity) とか、多分野との方法論の共通性 (interdisciplinarity) とか、研究対象の共通性とかが言われるならば、これらは区別されたほうがよかろう。
ともすると、学際性の考察ではなく「個の没個性・曖昧性(曖昧さ ambiguity)」というべき考察になる。
また、学際性の高低を量っても、やはり、それが学問分野の優劣を示すわけでもないと知るべきでもある。
研究者が、必要性に応じて便宜的に異分野の知見を用いることになる。
それで、一応の学問名称による分野の区分と、その無分別の側面もあろうが、一応、基本的に私は分野の細やかな差異を認識する。

私が自然科学・人文科学・芸術を融合させた研究をすることもある。
2019年4月6日投稿記事『母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門』(音響学・音声学・音楽、他に形式科学という数学の考え方が適用される。以下の画像の周波数解析は音声学のうちの実験音声学に一般的な手法であって数字利用でしかないが他に母音チャートを3Dの立体図形として考えるなど)
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/04/symphonedy-vowel-pitch.html


学際性というよりも、その学問の基本的な知識に2つ以上の学問の知見が大事になるものが、言語学に関連した「音声学 phonetics」である。

  • 言語発音の調音位置とその位置での調音方法について解剖学的な (anatomical, anatomy) 理解(実験におけるMRIの利用も稀にある)を要する。
  • 言語音声の解析にはスペクトログラムなどを用いて音響学的な (acoustical, acoustics) 方法をする。
  • 疑問→調音方法には力学的な (mechanical, mechanics) 分析もできるが、現今の音声学で数学の方法はハードに用いられていない。
  • 疑問→音声の知覚には脳科学・神経科学的な (neuroscientific, neuroscience)・心理学的な (psychological, psychology) 考察(e.g. 音象徴)もできるが、現今の音声学の領域よりも認知言語学的である。
  • 応用→歯列・骨格・筋肉の障害などによって発話が困難な人・言語障害者の補助のためなど、音声合成技術に役立てられる(2019年もアメリカの研究機関UCSF Chang LabのチームがAIに言語発音とその発話の脳の電気信号の関係性を学習させて音声合成を行う技術の報告をした。彼らに音声学の専門家が関与せずとも音声学の知見が用いられた)。
  • 応用→乳幼児言語教育や外国語教育や音声認知の研究の進展に役立てられる。

音声学の現代までの過渡期には、他の学問の知見や方法を導入する学者がいたことが明らかであろう(ただし言語の音韻論で古代インドからして解剖学的に身体の部位を明示していたので近代~現代のみならず伝統的にも同様の側面はある)が、今はその方法論が既成事実化しているので、学際性ではなく単一学問が持つ特徴に収斂する、と私はみなす。
音声学には、"interdiscipline"と呼ばれる、単一学問に対する分類名称が適用できる。



続いて、科学史や数学史などはどうであろうか?
一学問分野それ自体の社会的地位や歴史的経緯(科学者個人ないし共同体・小社会)などを研究することは、学際というよりもその分野の社会科学の側面を研究していることになる。
論文・文献の整理や学説発表の順序など、自然科学系・理系ではこの行為が必要である(学問は人の手でなされてきたしこれからも人道的・人権的な見地とともにそうあらねばならないという倫理規範がある)。
各研究者個人で必要最低限に(彼らが論文を書く際に出典を示すために必要)そうするし、科学史(数学・化学・物理学・医学ほか自然科学系の歴史)の専門家は少ない人数でも必要になろう。
科学史などがもし社会科学の範疇にみなされるとしても、多かれ少なかれその分野の専門知識が要求されることになる(数学史であれば数学的知識と技能とが人物・学説を把握するレベルで必要か)。
※私は一学問分野それ自体を学問研究の対象とすることについて「メタ〇学"metascholarship"」と呼びたい。いわゆるメタ認知 (metacognition) は認知主体がそれ自身を客体=対象にして認知すること(心自ら心を知る。この用語の意味は脳科学や神経学の見地で反論されそうだが慣用的にそう言える)を意味するように、メタ meta- という接頭辞に再帰的な (reflexive) 意味があるが、メタ〇〇学はそれに加えて学問領域の範囲外に超越している状態を指す。しかし、メタ認知がそうであるように、メタ数学・超数学 (metamathematics) が数学の方法で数学を研究することから考えると、私の「メタ〇学」名称には問題があるので、この「呼びたい話」を気にしないでよい。



日本人が好きな「文系・理系の分別と、それによる言論」
の学問における空虚さ

日本人は「文系・理系」として後天的アイデンティティを分別して用いることが好きであろう。
ここでいう「日本人」とは無標複数形(日本語では複数形のための標示 marker が無い語形・無標 unmarked で用いることが多く日本人の不特定多数を指す場合に「日本人たち」とはあまり言わない)であり、社会についての思考能力がある年代(例えば15~64歳)を想定する。
日本人はこの日本列島内に生まれ育つ過程で民族的差異(肌の色のみならず宗教や言語の多様性)と対立とを身近に経験しづらい分、同じ日本人のうちに後天的なアイデンティティを自己や他者に仮想したがると思う。

それはともかくとして、日本人は学問的な目的性や教育現場での便宜的な区分の前提を等閑視して「文系・理系」の分別(客観的基準さえ乏しいままのそれ)に依存した思考と発言とを行いやすい事実はある。
多くの恣意性を孕み、既に結論ありきの議論がなされることもあろう。
人により、そこから文系・理系に本質的な異なり・絶対的な隔たりが感じられよう。
日本語版Wikipedia - 文系と理系あたりを参照すればよい。

中国語圏だと、日本のような用例で「文系・理系」とは言わなかろう。
中国語版Wikipedia - 文理分科は、中国大陸や香港での高等教育に関する話題が書かれる。
文科は政治・法律・経済・リテラチャーとしての文学といった社会科学や人文科学の科目を指し、理科は自然科学全般(精密科学や生命科学など)の科目を指し、いずれも国語・外国語・数学などは必修のように見える。
文理分科および必修科目とは、学校ごとの程度の差があって基本的に自由の上で結果的に傾向が似たものか、それとも社会主義国家らしく国家的カリキュラムがあってそれに基づいたか?
中国語版Wikipedia記事は一般論が書いてあるとしても無出典の記述が多いので、大学の科目などに興味のある者が北京大学とか精華大学とかを調査すればよい。

それとWiki間リンク (wikidata) の付けられた英語版Wikipedia - Hard and soft science は、科学分野の特徴に関する区分としてそれらの名称が稀に用いられていることが提示されているようである。
口語的な用語 (colloquial terms) ではあるので、大まかに言うと"hard science"は理科系, "soft science"は文科系を意味する。
歴史的には、1960年代に初出のワードである(cf. Yngve 1961Storer 1967 哲学や社会科学の系統の人による思考の産物でもある)。
詳細な分野ごとの"hardness"、質・量の測定は不明確である(一応Storer, 1967に例示されている様子)。
学問的・哲学的な観点で"criticism (批判)"も多く考えることができるし、英語圏で一般的な分別概念・名称とは思えない。

Wikipediaのうち日本語版と中国語版と英語版とでは、全く別の概念が、wikidataで相互リンクを付与されているという、極めて稀な現象が示された。
文系でも理系でも、語学(国語・外国語)と数学(算数・幾何学)は学問の基本であると考えられるし、各々が要求される程度に随って習得すべきであろう(小学校の科目でいう”こくご”と”さんすう”を連想)。



日本人が好きな「文系・理系の分別と、それによる言論」について、一般的に何の観点で行われるか?
ほとんど経済的な利益や、就職・就業・世間体で有利か不利かという観点が基本であると見てよい。
cf. 東洋経済「本当に強い大学ランキング」および島野清志「危ない大学・消える大学」の他著書 (英語版Wikipediaに2011年に日本語版から翻訳された記事があるが日本語版Wikipediaでは2012年に削除されている) 東洋経済もとい大学通信による「大企業(有名企業400社)就職率」などという調査もある

高等教育機関としての大学(入試・受験)に関する話題や就職活動に関する話題では、特に文系・理系の分別が世間で好まれよう。
※早慶とかMARCHとかFランク大学とかといった区分も、その世間での用法について、似たように見てよい(cf. 川上, 2017. 大学の“くくり”はどのように生まれたのか?)。「高等教育機関」のうちでは、東大・京大・早慶・MARCHといった学校が、22歳・学士・新卒としての典型的な現代人・社会人・労働者の量産を行っていると考えられる(第26代東京大学総長・蓮實重彦さんは平成10年度入学式における式辞でそれを望んでいないように語った)。「学術機関」としては、そう見られるべきでない。何の大学であれ、各々の使命感と目的性とによって学究研鑽をする者がいるからである(Fランク大学がそう呼ばれる所以はそれがいないからだと反論されそうだが)。学校の個性は、所在地が代表することもあり、北海道大学は北海道大学の価値があり、琉球大学は琉球大学の価値があると考えたい。フィールドワークのある学問研究では地方ごとの「地の利・ローカル性」が活かされる。こう話しても、個性的な学校以外を切り捨てるようであるから、あまり望ましくないかもしれない。「良い人材と出身校」は結果論のようだが、しかしまた、「この学校の出身者には良い人材が多い」という傾向が見出されることは、排除できない。効率主義の現代日本では、特にそういった「~だろう、~に違いない」の見解がマニュアル的になされることも妥当である。個人では解決できない社会的な課題である。

当事者の自負としてのアイデンティティは尊重されるべきだが、他者がそのまた他者へと一方的にみなすことは人道的でない。
「文系・理系(および体育会系)」以外にも「草食系・肉食系(および雑食系)」や「右脳派・左脳派(一般に通俗的二項概念として用いられる。脳・神経科学では"ブロードマン44野はブローカ野の一部分であり、言語の発話に関係する"と語るように脳の詳細な部位を想定して思考や感傷などの機能を説明することが多いので単純に左右という二分法・二元論は通じない。そもそもこういった即物的な語彙を用いる一般人が即物的な実験を行っていないし専門家の説明や文献を参照しない。単に仮説として理性や感性を意味するならばそれでよいと思うが)」は、そういう用いられ方がされやすい。
人間としてアイデンティティの有無は、人間の精神性(感情・欲望)から分別の必要が相応にされるものの、日本人が行うものはかなり前時代的な人種論(18世紀~20世紀前半ヨーロッパなど)と似るが、それよりも悪い側面で日本人は学問的な知見・方法論に疎遠である。
インターネットの二面性として、文化的な意識の向上と、小規模共同体の拡大とが見られ、高速な文化の消耗と生産とが起こるであろうが、どうにも学問的な知見・方法論は定着するよりも、遮蔽されて一般化しづらくある。

巷間の「文系には分からない・理系には分からない」などという論調が、実に一方が他方への秘密主義を持っていて学問的態度に反しているし、何よりも人間 Homo sapiens sapiens の知的な可能性(sapience, sapientia 分かることは結果論なので直観"intuition"か無感情知性"intellect"かはここで不問)を限定しているようで、人道的でない。
その人間を限定する「文系・理系」という語彙は、その学問の専門性か、その高等教育を経ることか、通俗的二項概念としての「右脳・左脳」に託したものか、俗語での用法が判然としない。
先述の東京大学の文科・理科のような現代日本で稀な教科区分(ただし東大合格者は文理不問で入学後の4年制前期課程=2年間みな教養学部に所属してリベラルアーツ教育を受けることになっている)とも似つかない、曖昧模糊の俗語用法であろう。
「誰には分からない・分かる」ということから、かえってその人間の性質を世俗に生きる者たちの間で新たに定義したいのかもしれない。
「文系・理系の分別と、それによる言論」は、社会の経済・大衆の価値観のうちで利益もあろうが、学問のうちで害悪なるのみであり、真面目・真摯・実直な科学者たちにこの種の話がされるならば、彼らの機運を損じると私は思う。
ましてや、各科学の第一線に立つ者たちがそれを話したり論じることは、有り得べからざることである(有り得ることが望ましくない)。

もし、文系分野の人に、科学的姿勢が欠如していたらば(e.g. 経済学・政治学の大衆的な著者は売文家であってプロパガンダや偏向的な論調が多い)、彼らに理系の方法論を与えるのもよかろう。
しかし、文系であれ理系であれ、数学的な技能を使う分野もある。
数学的な技能がハードに用いられる分野であっても、それによる高慢さが、当記事に語られたような科学的態度を失わせることも有り得る。

次の事実は恐るべきである: 学問の外で世間一般の人々が、いわゆる理系の知識を借りて偏向的な主張をすることも多い(医学知識・健康法などの情報にこの傾向が有る e.g. 健康食品・運動器具の宣伝 cf. 私が19歳で提唱した真の健康法の理論的説明箇所)。
生命科学(生理学・医学・薬学など)は、応用分野であるし、応用できる知識や実生活に馴染む知識が多いので、疑似科学だと証明し得るか科学的根拠が確立しづらい偏向的な主張が混ざることを注意したい。

その人の主観的な経験と客観的な法則とを混同して説明する人がいることにも注意したい。
これらの問題性には、歴史学・宗教学などの知見(cf. 戦争 セクト主義 同一宗教内の対立・分派)が有効なことも多いと思うので、是非、学んでほしい。
学者・専門家・権威の説であってもWikipedia上の説であっても匿名の説であっても、興味のある者が彼自身による検証で情報の取捨選択がされねばならない。
この要点は、「自洲・法洲・不住他洲 (DN 16: attadīpā viharatha attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā. )」といえる。
先のような仏教(特にパーリ・阿含の類)における仏道修行のスタンスを、また科学に援用することもできる。
この点で、科学研究も仏道修行も、その人の真に拠り所とすべきは知能・精神・五感の対象である現象(物事)であり、これについての説明を過去記事より引用しよう(仏道の場合でいう現象・物事・法"dhamma, dharma"はあくまでも以下に説明されるように科学的な範疇と異なる点に注意)。

同時に、各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの「因縁」が結びついてなされたものであり、無常・空と見られる。
つまり、一応は根拠に基づいた論がみな正論と言えるが、仏教徒は「因縁によって論理があること・因縁によって論理の正誤・優劣があること(縁起)」をよく学んでいるので、対立する主張のどちらも「空虚(真の意味で正論でない)」と知って遠離する。
それら特定の見解に執着して主張する人・特定の見解を持つことで異論へ嫌悪感を催す人などは、悉く三毒に汚染されており、自己も汚染を受けるであろうとして、自ら心を観る。

Dhp 50: Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ; Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca. (ダンマパダ"Dhammapada" 花の章"Pupphavagga"より)
法句経: 不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正 (彼の作すと作さざるとを観るに務めざれ 常に自ら身を省みて正しきと正しからざるとを知れ)

※当記事の話題に寄せて言えば、論争や論議に関して自己の三毒を見て自己や他者の論理に耽らないようにする。論議における三毒とは「①論への貪=快感 ②論への瞋=不快感 ③それらを自覚しない癡=愚昧さ」となる。この三毒について自覚・反省をして修行と無関係な論理・見解に固執しないように努力することが、八正道にも通じる仏道修行。八正道の修行者による積極的な論争は推奨されないが、仮に自ら論議に加わった・他者の論議を見てしまったならば、その時はその時で過失を自ら知って省みる。また、パーリ経蔵・増支部3にある"Kesamutti Sutta(通称: カーラーマ経)"は、様々な哲学・宗教・学問・社会などの思想"vāda"や常識や見解や理論や教義について、やはり仏道修行者は「三毒によって"具格: lobhena, dosena, mohena"諸々の悪行を為すという苦"dukkha"が無く、自分の心の安楽やそのための修行に資するかどうか」という点に基づいて用捨を判断せよ、と釈尊が教示していた。自分が三毒の無い状態"alobha, adosa, amoha"となりえるならば、いかなる見解や理論や教義でも用いてよい善法"kusala"であると。大乗経典の依法不依人(依於法不依人)を想起させる。縁起の理法では、人が釈尊の教えを眼や耳で認識して釈尊の教えだと信じることも「因縁による思い込み」のうちである。法性を知る智慧・衆生の苦を除く慈悲によって説かれた釈尊の教えは尊いが、結果的に「己がどのように用いるか」が重要となる。

この教理は、小乗・阿含時の修行・果報(正念・不戯論)へ通じる。
「苦集滅道(くじゅうめつどう)」の四諦に依拠すれば、修行とは苦諦(くたい)・集諦(じったい)・道諦(どうたい)に当たり、果報とは滅諦(めったい)に当たる(苦のもとは渇愛"taṇhā, tṛṣṇā (trishna), 同語源英語: thirst"として渇愛ある物事に渇愛があること=集諦、そこに渇愛が滅すること=滅諦を示す)。
過去記事では「四念処」を例に挙げて詳説した(住於自洲・住於法洲や一入道)。

(その参照)
改めて言えば、四念処の修習が、現代日本で人口に膾炙する「自灯明・法灯明(自燈明・法燈明)」、もとい「自洲・法洲・不住他洲(雑阿含36経: 住於自洲・住於自依。住於法洲・住於法依。不異洲・不異依。 長阿含2経: 云何、自熾燃・熾燃於法・勿他熾燃、當自歸依・歸依於法・勿他歸依。阿難。比丘觀内身精勤無懈…=身念処ないし四念処の説明 パーリ長部16経: Kathañcānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo? Idhānanda, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati atāpī sampajāno satimā...)」ということである。
したがって、やはりダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意にも通じることとなる。
この「自洲・法洲・不住他洲」、「己を見よ・法を知れ・他を見るな」ということが、小乗のエーカーヤナと同じく四念処を指している。
不戯論のままに自己の修行を為すこととなる。

引用源:『仏道修行のための論理、不戯論のための戯論
および『法華経方便品の偈とスッタ・ニパータ4.12経の偈、および大乗と小乗の「一乗」の不一不異義

他の参考:『仏教はなぜ仏教か?宗教・科学・哲学・倫理・道徳との類似点・相違点、中道と解脱』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/07/What-Buddhism-is-not.html

とりあえず、多くの学問・研鑽を行う者たちにおいて、科学性・科学的態度と科学分野の多様性に関する話題は現代の日本国を生きる上で、頭の片隅に置かれる。
少しでも、私からこの話題に対する見解を示し、学問の方向性を闡明したかった。
いつのどこでも真摯・実直な人は誰もが五里霧中にある状態を自覚すると思うが、各々の心にコンパス(方位磁石・方位磁針・羅針盤)を携え、それを1日3回でも1月1回でも見直すようにすればよい。



少し社会・世俗の話題

最後に、日本国の科学分野(世間の人が思う対象の自然科学・医学・工学・技術全般)の現況についても少しだけ考えよう。
研究費用と国家予算の配分の問題や、自然科学・工学などでの女性の少なさなど、色々ときかれる。

前者は様々な科学者たちの意見が既に示されており、これから文部科学省や総務省などの関係省庁で何かしら改善が進められると思う。
当時民主党・台湾二重国籍報道で有名な蓮某議員のかつての発言「二位じゃダメか」とは、「国家的な科学技術の水準や地位を維持する目的のもとでの悪い例」として顧みられよう。
自然科学系の人たちは「被引用率・被引用数(一国中の機関の論文が一定期間内に国内外で引用された回数)は多くの分野で中国に追い抜かれている。その主要な原因は科学技術に対する予算の少なさだ」と警鐘を鳴らす(10年以上は鳴らし続けている。早ければ先の蓮實さん式辞を加味して90年代からか。ここ5年は日本人ノーベル賞受賞者の発言も世間で報道されやすい。当記事執筆中の2019年5月上旬にも国立・科学技術振興機構 JSTが最近の調査情報を発表していると毎日新聞やNHK, k10011913021000.htmlで見た)。
予算以外にも制度改正・法整備が、今までの技術の進歩や今の研究者の意欲(研究の発展)に対応して柔軟に進められる必要があるとも言われる。
例えば、2018年(法令・平成30年)中にはAI(Artificial intelligence 人工知能)による学習行為において著作物が広く利用できるような著作権法の改正があった。
2015年ころに私は、司法解剖(検死・検視)の質や量を改善するための法改正が必要だと聞いた(科学技術と直接の関係はない話題だったと思う)。
生命科学の分野に関しては、法整備のための立法府に対する主張に加えて一般人・民間人レベルで理解が浸透する必要もあろうが、あまり即物的になって倫理観を失うと別の弊害もあることは一種の悲観であろうか。

後者は日本の女性たち自身が何かと「科学でも政治でも誰かしら女性が目立つとその女性自身が恥をかく」ことを自覚していて弱腰になっているかもしれない(e.g. リケジョ小保方さん論文・第二次安倍改造内閣女性閣僚2名同日辞任・豊田真由子議員による暴言)。
2018・19年には東京の某医大をはじめとする複数の大学医学部が女性受験生・男女不問浪人生が不利に扱われる問題の報道もあったが、何らかのアンケート・意識調査によれば、医学生か医学部OBか誰か女性たちの過半数が「仕方のないこと」のように回答していたようでもある(なぜ彼女たちがそう思ったか理由は不詳)。
これらの話題は私の脳内ソースにも依るため、興味のある者が別途、検証すればよい。

私の現住・愛知県豊橋市で当地に唯一の国立大学である「豊橋技術科学大学 (TUT)」は、THE世界大学ランキング (Times Higher Education World University Rankings) 2019で801-1000位に入っており、そこに載る「女男比 Female:Male Ratio」を見ると、豊橋技科大が9:91という驚異の女性の少なさであった。
これは1,000位以内に入った日本国内の大学51校のうちで最も低い比率である(cf. 東京工業大学 14:86)し、他の世界全体で1,001+のランクを含めて探しても男性が90%以上である学校は男子校などを除いて2校のみである (Indian Institute of Technology Roorkee 10:90, Muroran Institute of Technology 9:91 いずれも工科系)。
当地にも何か影響が及ぶかは不確定であるし、及ぶならば未知数である。
男女平等に関する事柄に限れば、先述の通り、日本の女性たち自身の意思や意識による部分も多い。
女性たちが望まない範囲の男女平等の状態(学術以外にも労働や雇用も同様)を、権力ある女性男性諸氏が作り上げることは、文字通り心ある人々にとって望ましくない。
※蛇足の肉球を書こう→『国連 UNをはじめとする世界的機関の多くは「表現の自由=報道の自由」のように扱って大衆娯楽・大衆美術・大衆文化を対象とする傾向が少なく、世界で一定の地位を得た日本の漫画やAVなどを彼らがあまり尊重しないばかりかユニセフ UNICEF的に規制対象としていようこと』は、やはり『日本の漫画やAVなどが、性差別を根幹に抱えている(しかし日本で特殊な点は例えば作者・出演者が男性でも女性でも「一方の性・特に女性が弱者のように表現される漫画やAV」に嫌悪感を持たずに表現を追求している)・同性愛をその異性の性的興奮を誘うように表現する・小児性愛のような側面を持つ』と見る彼らが好意的に日本の漫画やAVなどを表現の自由の対象としない要因となっているように、私は感じる。表現(言論に限らず芸術的な創造を含むspeech, expression全般)によって不特定多数の他者の人権が侵害されることを思い合わせるにも、大衆の娯楽・美術・文化を交えると、表現の自由のために恣意的な二重規範・ダブルスタンダードは現状に強く残っているように、私は感じる。個人の思考や思想の自由に繋がる以上は基本的に放任されているとはいえ、私的領域のうちで小児性愛のポルノグラフィー所持に対しては風当たりが強いように、私は感じる。本題と関係ないばかりか漫ろに私感を示したという蛇足肉球であるため、この記述は考証の対象にしなくてよい。

金銭や性の話題(男女やLGBTや性的嗜好)などはセンシティブでヒステリックであるから、あまり触れたくはなかったが、少し社会性の側面で示しておいた。
日本国では西暦2019年5月1日、平成31年をもって明仁天皇陛下が退位して上皇となり、新しい天皇陛下(徳仁)が即位したことで「新しい時代・令和」になった・改元されたと話題があることに便乗した形である。
日本国の学術領域がどうなるか、多角的な見地で観察し続けることは一興であろうと思う。
当記事の言いたかったことは社会性の話でないわけで、筆者としては「科学と化学 The terms in Japanese "kagaku and kagaku" ~ 言語における科学性もとい合理性と実用性」の話が最も重要であった。





起草日: 20190426

2019年4月上旬から、私は学問に関する別の文章を書いていた。
(2019年4月26日時点の文章内容を以下に引用する)

(前略) 少し社会科学に近い話をしよう。
学問において今も一般の日本人が「文系・理系」、「右翼・左翼」、「中卒ないし大卒」の観念にとらわれている傾向がある。
Twitterや2chでそういった思考や価値観を披瀝する者は多く存在するようであるし、インターネットのニュースサイトもその種の記事を発し続けている。
私はそれを、14・15歳のころから、センシティブでヒステリックである異常事態だと忌避していた(cf. 2015年10月21日メモ帳記事)。
今に平成が終わろうとも、きっと多かろう。
これらは単なる即物的で功利的な者たちによって学問に非ざる世俗性が示されたに過ぎない、と私は考える。
「知能が優れている基準を挙げれば知能は物質的集合体でしかないという即物性で否定し得る」し、「作文能力は…」、「計算能力は…」、「社会的効能は…」、という文系でも理系でも分野とその人々の優劣を言おうとすれば、みな論理破綻・自己矛盾の側面が見えてくる。
目的によって優劣や効能が問えるというのに、自分の人生経験や精神性から得られた目的を鑑みることなく、各々の物差し・尺度で物事の客観性を決定することは、独裁国家の首脳と何も変わらない。
返す刀で己を斬るか、木登りで赤き尻を曝すサルか(私が活動し続ける分には私自身も同じようなものだが)。
「各々の物差し・尺度」とは、個人の人生経験・精神性から形成された疑似客観性"pseudo-objectivity"であり、誰でも我が身の五感・心とで価値判断ができる。
あたかも地球上の物質の状態と運動(e.g. 動物の歩行, 音の振動による伝播, ニュートリノ振動, 水の沸騰)が地球の重力"gravity"(拡大して外部の天体の引力いわゆる万有引力なども)や気圧などの条件下で通用するように、疑似客観性が過去・現在・未来の万事万物を発生・維持する。
人間や動物が重力などによる相対性"relativity"を自覚しなかったように、Homo sapiens sapiensの者たちが疑似客観性"pseudo-objectivity"を自覚しないでいる。

ある日本人は「権力を持つ政治家が要らない」と言うし、ある日本人は「大衆を惑わすアイドルグループやビデオゲームが要らない」と言う。
真面目な活動家や研究者を「暇人だ」とも言う。
これらの言葉を用いる者が多い日本語は、醜い言語となる。
日本人が言うところの文系・理系の人が日本人の尺度で社会に役立つかどうかという基準も、毛沢東思想には通用せず、「学者や知識人は多く要らない・糞の如き存在」とみなされて肉体的に抹殺されることになる(e.g. 臭老九"stinking old ninth"というが毛沢東主義の有力者による典拠は不明。過去の元朝"Yuan dynasty"でカースト制度があった際に10のうちの9番目が儒学者とされていて売春婦と乞食の間に位置付けられたことに由来し、知識人=知識分子に対する別称として毛沢東主義者が用いたそう)。
「文系・理系」分別などは今の俗な用法によって学問全体の支障・停滞にさえなり得ると思うし、そう用いる者たちが何か学問とその研究者について公然と発言することは望ましくない。
私が中卒ニートひきこもりとして、一人で多分野(即ち無分野・空虚な分別概念)に取り組む姿勢を示し・人々に見てもらうことで、もっと多くの分野(専門分野)の研究者が相互に尊重できるようになることを念願している。
誰であれ、世のためになることをしているはずであり、それが人の意志によるならば、これを蔑ろにするような思考と言論とは平成時代のうちに終えられるべきである。
私は何の専門家でもなく、普遍的価値の探究者であるが、まじめ・実直な専門家に対しては尊重しようと思う。
大学などで没個性的であっても師匠・弟子の形式で学問を行う人々がいれば、私にできないことをしているので、それとして尊敬に値する。
音楽のうちの演奏者も歌手も、美術のうちの画家も彫刻家も、師匠・弟子の関係のそれはよい。
特に意思がある場合に各々、そのままに目的を掲げ、邁進すればよい。
内心の自由を許すが、学問の人は自己に対しても他者に対しても無自覚の尺度(個人の人生経験・精神性から形成された疑似客観性"pseudo-objectivity")で優劣の判断が生む利益は無いと知るべし。
無自覚の尺度で優劣の判断をしたならばすぐに自覚・反省してまた目的を顧みて努力すればよい。

萌えの典籍などで散々、私が記したことをまた書いてしまった。
ネット弁慶ならぬ「ネトナカノ・ダ・ヴィンチ(ネットの中のレオナルド・ダ・ヴィンチ。音変化はベンケイ→ヴェンケイ→ヴィンキ→ヴィンチ)」が誕生することを願っている。 

それはYouTubeに投稿する動画説明文の案であったが、社会科学の話題に関する主張が長きに過ぎるために、独立記事にする案が従来あった。
2019年4月26日に当記事を起草することで決行された。

上の引用に「萌えの典籍」について一度言及される。
その件は、興味のある者が各自で調べればよいとしよう。
ここでは科学に関して言及した萌えの漢詩・偈を抜粋する。
地球偈 (ぢぐげ Sino-xenic: *digu-gat  Sanskrit: *medinī-gāthā)」と称され@、萌類(みょうるい)たちのアンソロジー形式で詠まれている。
以下には多多嚩(たたば)と阿若(あにゃ)のみを載せる。

(多多嚩誦曰)
地球如舞臺 有悲喜怒愛 人類踊其上 永苦後死來
他口舌爲聲 是諸法螺貝 聞歌作亂動 終受堕獄罪
(阿若誦曰)
地球中所有 咸從重力性 雖心法最重 隨時宜學之
佛法與物理 是等倶大事 若不依重性 原萌不應生
須觀諸物理 甜果從樹離 不得浮而落 是重性使爾
若原萌不生 無人形萌名 如是知物理 則欲去苦境



科学の教育・社会・世俗の話題と関連する記事↓
2015年4月24日投稿『両親の学歴・職歴についての調査と記録』
https://lesbophilia.blogspot.com/2015/04/blog-post_31.html

この両親(父: 駒澤大学不明部 母: 帝京大学薬学部 離婚済み)からは、科学性(人間の科学的態度)も文化性も協調性も看取されづらいことが、過去の膨大な記録文書のうちに示されている。


2019年5月12日日曜日

2019年4月中の日記メモ

当記事から「●口上」と「●私感」の項目を、日記メモ記事ごとの冒頭に設ける。

●口上
ナンダッケ書きたいことワカンネ日記メモは学問・宗教・生活のトリレンマだネ的なことを書きたかった。日記メモにはその便宜のために定型的な表現と語句を含んでいるが、それらは凡そ「日記メモの用語と解説」ページに説明がされている。

●私感
当月30日間には欠けた日付が無く、1日当たりの記述分量も多い(直近1年の他月との比較)。
その原因として、新年度であることによる母と弟の動向の多さが挙げられる。
他には、個人的な活動量の増加から看取できる積極性も関連する。


録音された4月15日の音声と4月23日の音声をまとめて動画で公開した。
https://www.youtube.com/watch?v=GoqiksDB4zA


4月15日の音声・・・弟の「むかつく」発言
4月23日の音声・・・母がばいきんまんのモノマネ訓練をする
4月28日の音声(1度中断で計2度の録音)・・・弟と母親の争い

メモ記入日の一覧 (日付をクリックして移動)
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2019/04/01

本日4月1日は寝ていない状態で日を越して至る。前日(3月31日)21時台から母親が1階リビングに居座っており、0時50分台に母親がテレビ(番組はBS放送で字幕付き英語の映画かドラマか?)を消して2階へ上がった。1時55分、私は前日からの作業や個人的な調査などのために4時間以上トイレに行ってなかったことによって生じる強い尿意のためにトイレへ入り、長い一本糞を排出した。前月23日から31日までの8日間に排便無きことその日記メモに見る如しといえども、31日は4度の排便をし、本日も既に1度を已(せり、している)。6時28分からPCをシャットダウンして就寝し、12時44分に起床した。

13時11分から母親が徒歩で外出した。13時50分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、14時40分に自室へ帰った。14時50分ころに弟が社会福祉施設(就労支援)から帰宅した際、母親が家にいないことをまだ知らないようで「ただいま(母親から言うように義務付けられている)」を2度発したが、彼がそのことを知ると間もなくどこかへ外出した。3月30日に母親から「寄り道で帰りが遅くなった出来事」のために彼は叱られたが、今も彼はこうしてどこかへ外出したいようである。15時58分に弟が帰宅した際、意味不明の独り言(何らかの他人への不快感の発露か)があった。彼はコンビニ購入パンの入ったファミリーマートのレジ袋を1階リビングのソファに置いた。16時4分に母親が帰宅した。コンビニ購入パンは母親と関連するようである。弟は風呂に入っている際に大きめの声で意味不明の独り言(「バッカヤロウテメエナ」を連呼するなど)をし続け、いつもより長く留まり、16時34分に母親から「早く出なさーい」云々と彼は催促された。17時台に2階に彼らがいるとき、弟の独り言に対して母親が何度も「うるさいよ」というように反発していた。



2019/04/02


本日4月2日は0時33分にPCをシャットダウンして就寝し、3時45分に起床した。起床以後、異様に体が震える。本日0時台からエアコンを暖房機能で作動しているにもかかわらずそれが起こった。悪寒か。もう少し意識を置くと、筋肉の緊張感があるように知覚した。4時12分ころにおさまってきた。16時14分、真面目に教育学や社会福祉に関する報告文書の執筆をし始めて100文字ほど書くと、俄かにPCの画面が「問題が発生したため、PCを再起動する必要があります。エラー情報を収集しています。自動的に再起動します。」というメッセージの載るブルースクリーン(スカイブルー一色。携帯電話内蔵カメラで撮影するとグラデーションで映えた)が表示された。ここ10日間、CPU使用率の高いプロセスの稼働が頻繁にされたことはこの現象の間接的原因である可能性がある。17時14分からPCをシャットダウンして就寝し、22時14分に起床した。



2019/04/03

本日4月3日は寝ていない状態で日を越して至る。4時39分にPCをシャットダウンして就寝し、6時台に夢精で目覚めた後にパンツの処理をして再び眠り、7:50のアラームに目覚めて起床した。



2019/04/04

本日4月4日は前日20時21分にPCをシャットダウンして就寝し、0時42分に起床した。2時24分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、3時32分に自室へ帰った。母親が1時30分頃に2階の母親の自室を消灯した(予約消灯で先に眠っている可能性もある)タイミングで弟が動き出して1階に降りて意味不明の行動をするし、同じ行動は恐らく私が風呂場にいるときもしていたろう。4時7分頃も同じ行動を弟はした。5時過ぎから仮眠を始めた。6時2分に夢精があり、その夢の内容は顕著に性的であったから自覚的・意識的にパンツ(前回の夢精の関連でティッシュペーパー固定をしやすいボクサーブリーフを履いている)に手を潜り込ませて精液(ザーメン)が衣類へ及ぶことを防ごうとした。パンツに少し付着したとはいえ、大して汚さずに済んだ。仰向けに近い状態にも自覚的・意識的に為し、陰毛と腹部の間に主な逃げ道が確保された。11時10分に母親が発車して外出した。14時台に弟が帰宅した際、4月1日と同じプロセスで数分以内に外出した。15時12分に母親が帰宅しても、当時と違って弟は帰宅しておらず、母親は驚きの声を上げていた。



2019/04/05

本日4月5日は前日22時24分にPCをスリープ状態にして仮眠のつもりで就寝し、2時25分に起床した。



2019/04/06

本日4月6日は前日23時台にPCをシャットダウンして就寝し、4時31分に起床した。弟は外出中である。5時43分、家の付近(南寄り)から鶯・うぐいす・ウグイスのような鳴き声の途切れたものが聴こえてきた。その後、一般的なウグイスの鳴き声(よりテンポ・ピッチが低め)でも聴こえてきた。この家に住んでいてウグイスの鳴き声を初めて聴いた。5時55分から排尿のためにトイレへ入った。ウグイスの鳴き声を聴く前から下痢を想起させる腹痛があるので、弟が外出から帰るまでに排便を済ませたかったものの6時18分に弟が帰宅したその後も2分ほど続けたが、徒労に終わった。8時39分から便意のためにトイレへ入り、3つの中・長サイズのものを排出した。11時33分からも便意のためにトイレへ入り、3つの長めのものを排出した。



2019/04/07

本日4月7日は前日19時38分にPCをシャットダウンして就寝し、2:20の第二アラーム(仮で+1)の5分後スヌーズ機能の後の2時26分に起床した。14時19分に母親が徒歩で外出した。本日は統一地方選挙・愛知県議会議員選挙の投票日であり、それに母親が投票するか定かでない(少なくとも期日前投票はされず)が、今回の主目的はテアトルアカデミーとやらのスクール通いかと思う。母親の部屋を見るに、4~6月の授業料51,840円が振り込み済みらしく、十中八九スクールに行くようである。バカにならない費用であり、数値的に、以前のバカ買い(甚だしいネット通販の利用行為)のピーク時(任意の3か月間)を上回っていよう。この行為の性質としては、謎のフランチャイズ事業資料の請求や、心理カウンセラー資格講座の受講や、知的障害を持つ弟が入れそうにない・入る意思を持たない一般の大学パンフレット請求など、従来の母親によるものと変わらない。14時36分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、15時33分に自室へ帰った。23時20分に母親が帰宅したが、私は排尿のためにトイレにいた。母親が電気をつける(灯す・照明器具を作動する)ように催促してきたので、応じた。母親は「またすぐに出かける。マックスバリュ(24時間営業)に行く。お酒を飲んだ後だから…(2つの意味で危険な発言なので後略)」と話した。23時23分から母親が発車して外出した。



2019/04/0

本日4月8日は寝ていない状態で日を越して至る。2時0分に母親の車が家の前に着いた。12時18分からPCをシャットダウンして就寝し、17時49分に起床した。



2019/04/09

本日4月9日は8時10分にPCをシャットダウンして就寝し、12時21分に起床した。



2019/04/10

本日4月10日は5時55分にPCをシャットダウンして就寝し、10時31分に起床した。本日の関東地方は平野部でも日中の最高気温が10度前後という状態であり、当地・豊橋では起床前から強い雨が降り続いている。13時台に止んで以後は風が強く吹き続ける。自室の障子やふすまも、窓が閉ざされていようと散発的に空気での振動から音が発つ。20時台前半からPCの前で寝落ちして2度目覚めた2度目が23時45分ころである。アンバランスな場所のために寝相が悪くなりがちで、目覚めれば、頭が痛む・体が痛む・体が痺れる・視界が霞む・汗ばんだ状態になるという知覚された諸問題がある。



2019/04/11

本日4月11日は寝ていない状態で日を越して至る。0時33分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、2時28分に自室へ帰った。自室を開けている際、スリープ状態から勝手に起動していた(作動状態それに加えてモニタの電力がオフ・消灯状態なので当方での設定による30分のそれを過ぎていたとも考えられる)。8時10分ころからPCの前で寝落ちすると、『自室を舞台に蜘蛛・くも・クモ、百足・むかで・ムカデが各3~10匹登場して私はクモ群巣発見だけの時は逃げようと思わないで次いでムカデ群登場の時に逃げようと思っても動けないでその場を怖がりながら観察するのみである』甚だしい悪夢を見た。単一の原因・単因は無かろうが決定的なものを考えるならば、最近の私が作業に疲れていたからか、作業を怠って眠ること惰眠に背徳を感じていたからか?この直前に見た生物学関連の情報にはクモもムカデもない。私は生物学の門に入る気は元々ないが、「そこ=インターネット」で知り得ることについては知ろうと思って見ている閲覧しているのみである。悪夢といっても、私がこの部屋で仰向けになった状態でクモやムカデが私の頭よりも高い位置で吊り下がっている状態(ムカデは障子の上部の木材から桟に沿って吊り下がっている・黒いアリのような虫も色々とその周囲を這いまわる)に再現されており、その点では極めて睡眠時の私の現実に適合していた。その点で同じ悪夢、幻覚のような悪夢は、前日か本日にも経験済み(虫ではなく人が金縛りのようにしてくる)であるので、2日に2度も経験したこととなる。

14時50分ころから外出の装いの母親が車の出入りと家の屋外の敷地での移動とをするようになり、15時0分に母親が水撒きを始めたタイミングで、弟がそこへ及んだ。彼らは事前に外出の予定があったようで、15時3分に弟を連れて母親が発車して外出した。17時23分に弟が先に徒歩で帰宅した。17時37分から便意を伴ってトイレへ入り、6個以上の小・中サイズのものを排出した。本日の10~14時に牛乳900ml (1lカートンの微量を直近3日以内に飲んでいた)以上を飲んだ(4月8日に母親の買出しから与えられたものであってシリアルと共であるもの)ための腹部の違和感がしばらく続けられていた経緯がある。



2019/04/12

本日4月12日は0時15分に起床した。母親は前日中に買出しから帰宅していたようである。2時2分から便意のためにトイレへ入り、5個のコロッ糞と小サイズのものとを排出した。



2019/04/13

本日4月13日は前日21時13分にPCをシャットダウンして22時20分ころから仮眠を取り始めて1時47分に起床した。13時24分からPCをシャットダウンして就寝し、16時31分に起床した。

17時0分から1階リビングで母親と弟が弟の外出に関する話を始めた(それ以前から炊飯器付属しゃもじを弟が半壊させたことの話あり。家事に関する動向あり。弟が2階の窓ガラスに強い打撃を加えて注意されるなど)。弟が外出中に「不審な行動(ふしんなこーどー)」を他者から咎められたという。この話は遠回りで冗長である。母親に少しずつ質問されながら弟が答える形で「ゲームセンターとファミリーマートでした」→「『不審な行動』って言ってきたのはゲームセンター40代くらいのおじさん(店員?)で、ファミリーマート20代くらいのお姉さん(店員)はそう言っていない」→「ファミリーマートでは自分で2週間前のゲームセンターでの出来事を思い出しただけ」と説明された。母親は「不審な行動なら何でもやっちゃいけない、おじさんに注意されたことを忘れても忘れなくても悪いことだからやっちゃいけない」と言うが、その「不審な行動」が何であるかは、その後になってようやく「ゲームセンターの両替機か自動販売機(アイスやジュース)やファミリーマートの商品棚のあたりでしゃがみこんだ」→「しゃがみこんだのはお金が落ちてないか見るため」、母親が何度も「なんで『不審な行動』をしたか」という問いをしていたので、改めて「お金が欲しいからでしょ、それをすぐに言いなさい、本心を言わないで状況の話が長い」と弟に言った。母親は弟を「お小遣いをあげようとしても破り捨てようとする『ちぎってやる』とか何とか悪態つく」と主観的に事実提示した。次に、母親は「金が無いと何もできない金の亡者」と弟を表現し、「働きな、働く気があるの?」という話をすると弟が「ある」と言ったことに対して「〇〇〇(福祉施設)じゃ」云々と言いだした。中略するが、「ある・ない」ということに関して母親はレトリックな揚げ足取りをして弟を愚弄していた。彼らの話は、今までに弟が何度か止めたがっていたが継続される。17時43分、「いいものが何個もあったから迷った」という話で「何個あったの?」「1個」云々、母親がこれを狂ったように復唱して「意味わかんないよー」と言って弟との話をやめたがり、弟を彼が去るように促した。結局、彼らの夕食もあろうし、その10分以内に母親は弟を呼び出して同じような話題を反復した。

19時40分台に母親が「炊飯器メニュー操作、エコ炊き」に関して18時台に弟と済ませたはずの話が本当は済んでいなかったようで、私にしてきた。新品のシャツ1点を夏物だと言って私に渡してきた。19時50分ころから私は母親に呼び出されて今後数ヶ月~1年ほどの単位の不明瞭な生活の話をした。現状認識が曖昧である人にその人の不安定な前提で将来の話をしても空虚ではあるが、可能な範囲で可能性を示すことにした。一度の唐突な直談判でそれもその人とはまともな結論や合意を得られる道理が無い。少しだけ情報を残すと、母親は弟を養護施設(グループホーム?ケアホーム?シェアハウス?)に入居させ(月に80,000円以上かかるという)、自身については今のテアトルアカデミーのスクール通学を趣味として行いながら薬剤師の職場復帰・復職を企図しているようである。テアトルアカデミー(シニアコース?)について経済的に余裕のある中高年の人々からお金を多くもらうスタンスを理解しているようである(そうでない限り、夢見がちの人であっても月に51,840円ほどの受講料を払うことは易くない)。



2019/04/14

本日4月14日は4時4分にPCをシャットダウンして就寝し、8時59分に起床した。14時14分から母親が徒歩で外出した。15時50分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、16時57分に自室へ帰った。髪を乾かしてから「座布団がわり枕カバー2点とテーブルクロスがわりタオル1点と頭に巻くためのタオル1点」のために洗濯機の作動を始めた。私が風呂(シャワシャン)を行っている間に弟は外出していたようで、17時29分に彼が帰宅したタイミングで雨音が大きくなった。弟は彼自身の風呂と夕食を行った後に18時台にも外出していたようで18時59分に帰宅したが、5分ほど玄関に留まる様子があった。母親がいないと奇行に及びがちの彼である。普段20時前後には眠っているはずの弟・明日には施設通所と精神科受診とをする予定である弟が、20時55分から1階リビングで炊飯を始めて夜食を取り始めようとしている。



2019/04/15

本日4月15日は6時5分に起床した。8時59分から便意のためにトイレへ入り、5個の小サイズのものを排出した。14時50分台に帰宅した弟が5分後に中里医院に行き、帰り、近所の薬局へ行って処方箋を受け取り、17時前に帰宅した。17時台後半から弟が母親との会話で、母親のいつもの揚げ足取りに苛立つようになり、敬語(cf. ていねいごがいしゃ)を使うような普段よりも感情的な口調になった。母親に脅しをかけたりもしたが、大体、平静を取り戻そうとするようになる。母親が2階で排泄などをしている・ある5分ほど、1階で彼は感情的な独り言をし続けていた。



2019/04/16

本日4月16日は2時5分に起床した。2時56分に2階の様子をうかがうと母親の部屋の電気がついていたが、おそらくそれが消えた直後のタイミングで弟が2階で動き出し、3時5分に1階に降りるような状態があった。彼が3時7分に2階に戻った1分後に、なぜか母親がその部屋から出て2階のトイレに入った。私は本日4時台から6時台まで2時間ほど寝落ちしたり、間もなくPCをシャットダウンして就寝して10時50分に起床するなどをしたように、心身が疲れている。身体的・肉体的な点では、眠っても体力が落ちたり、体のどこかを痛めるだけでメリットは多くないことも分かっている。3月中~4月6日までは18時間~25時間連続で活動すること(e.g. 2019/03/11メモ)もできたが、今は明らかに逆転している。上半身(頭こと後頭部・喉・胸)に風邪らしさを感じるし、腰や股などには筋肉痛を感じる。



2019/04/17

本日4月17日は3時40分にPCをシャットダウンして就寝し、8時51分に起床した。12時台に母親が1階でテレビを見ていると、母親が2階へ上がって排泄・脱糞をしたが、その際に2階のテレビを付けていて音量がとても大きかった。母親が終えて1階に戻ると、再びテレビを付け、10分以内に母親は2階へ上がってテレビを見ない。3分以内に私が自室を出ると、母親の脱糞のために2階トイレで発生した臭いが1階の廊下まではっきりと及んでいた。母親はなぜか先に風呂場の換気扇を作動していたが、風呂場の出入りもなく風呂場の換気扇を付けるこの奇行は見たことが無い。



2019/04/18

本日4月18日は前日21時半にPCの前で寝落ちし、0時台と1時30分台とに目覚めて後者で起床した。2時38分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、4時35分に自室へ帰った。7時過ぎから便意のためにトイレへ入り、数個の小サイズのものを排出した。11時12分に母親が発車して外出した。この2ヶ月ほど来客など無かったろうに(数度有るとしても去年の何らかの2か月間よりも圧倒的に少ないことは確かである)、なぜか12時28分に郵便配達員が家のインターホンの呼び鈴を鳴らすという異常事態があった。彼らは母親が家を空けているときにこの家の呼び鈴を鳴らすような用事を持つ傾向にある。13時20分台、シリアルを食べ終えた後に「水で溶いた分量と同じ湯を注いで淹れたインスタントコーヒー」100ml未満を飲むと、1分以内に強めの腹痛が発生した。簡易で「或る方角の窓」の窓枠を掃除して簡素に手を洗った直後の13時43分から強烈な腹痛が発生し、少し姿勢を低くしてこらえてからトイレに入り、4個の小・中サイズのものを排出した。下血ケース2012年1月13日2014年11月19日とを彷彿させるが、特に下血や血便らしい現象が看取されない。

15時0分ころに弟が帰宅した際、彼は手を洗わないまま2階に上がって彼の自室から出ないでおり、15時28分に母親の車が家の前に着いた。母親が2階の弟に荷物を運ぶことを頼む際に、彼の帰宅後に風呂に入ったかを尋ねて彼が入っていないと分かると、私にこれを頼んだ。17時2分から便意のためにトイレへ入り、7個以上の小・中・長サイズのものを排出した。



2019/04/19

本日4月19日は前日18時55分にPCをシャットダウンして就寝し、3時18分に起床した。5時55分にPCをスリープ状態にして仮眠のために就寝し、8時10分台に起床した。



2019/04/20

本日4月20日は1時25分にPCをシャットダウンして就寝し、7時31分に起床した。



2019/04/21

本日4月21日は0時29分に起床した。7時48分から便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞を排出した。14時20分から母親が徒歩で外出した。PCの稼働時間や弟(8時ころから外出して13時台後半に帰宅)の動向を鑑みて14時49分にPCをシャットダウンして仮眠のために就寝し、17時3分に起床した。17時14分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、18時31分に自室へ帰った。23時0分に母親が帰宅した。



2019/04/22

本日4月22日は9時3分に起床した。



2019/04/23

本日4月23日は1時48分にPCをシャットダウンして就寝し、7時23分に起床した。



2019/04/24

本日4月24日は7時43分に起床した。10時17分から便意のためにトイレへ入り、3つの中・長サイズのものを排出した。



2019/04/25


本日4月25日は2時24分に起床した。2時28分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、4時32分に自室へ帰った。20時台、私がすべき絵の練習とその結果事物整理・編集などをそっちのけにして色々と無関係の作業(主に非横野真史名義活動)をして以後、右手の違和感を覚えたのでしっかりと確認すると、左手による触診によって「右手の指におけるむくんでいる状態」が分かった。左手と比較しても、右手のみがその状態である。「人差し指の第一関節の手の甲側のしわ・シワ・皺」について、右手のそれが左手のそれよりも「不細工(細かいシワが無い状態)」であるし、触診ではむくみ・脹れ・張れのような触感がある。原因はいくつか考えられるが、今日に特別なことは2時間ほど風呂(シャワシャン)の行為があったことであろう。ちなみに、前日22時20分台に右手の写真を撮ったことは、右手の指の爪のみに隆起がある(そのことと同時に窪み・横ジワ・横皺がある)こと(左手の爪には発生していない)を示す意図による。右手の皮膚科的な異常は本家ブログ2019-02-17記事を参照されたい。



2019/04/26

本日4月26日は8時50分に起床した。なお、「前日21時5分にPCをシャットダウンして就寝し、3時台に目覚めて再び眠り、3時50分台に夢精で目覚めた経緯」があり、その時に2階で母親と弟が起きていて会話をしていた。前日5時台から片手鍋で半おかゆ状態のご飯(材料の米にして2合分)を作ったが、前日中には20%ほどしか食べず、シリアル・牛乳をムーミンカップ4杯分など他の食事をしていた。

本日の起床以後に「鍋の中のそれ(その鍋はフッ素加工・マーブルコートなのでそう保存するために使うべきものでないが私は保存するための他の容器に欠いているのでいつも苦肉の策としてその鍋を用いている)」を調べると、臭いは変でないが、ご飯粒の外のでんぷん質のものは少し糸を引く状態である。ハードに加熱してみたが、最中に攪拌などをしてもパン生地らしいままであってパンやお好み焼きの焼き上がりに似ることが無い。グラタンに似れどグラタンよりも粘度が高い。経緯による先入観や腐敗に関する主観性で、これを口にする量は自ずと少なくなる。前日中に食べた時に無かった「菌の風味」をも感じる。時間が経つことで精神的に鎮静され、緑茶と粉末スープを入れて混ぜて冷ますことで物質的に中和されたので、普通に食べることができる。もし「悪玉菌」らしいものが客観的に存在して作用するならば、私は下痢か便秘かガス異常発生の症状を起こすであろうし、頭痛や全身の倦怠感を伴って寝込むかもしれない。13時49分から弟を連れて母親が発車して外出した。弟は17時台に、母親は21時40台に帰宅した。



2019/04/27

本日4月27日は5時19分にPCをシャットダウンして就寝し、9時44分に起床した。12時12分から便意のためにトイレへ入り、1個の長くて太いものと1個の短くて細いものとを排出した。19時20分から便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞などを排出した。20時25分からも便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞と軟便とを排出した。



2019/04/28

本日4月28日は寝ていない状態で日を越して至る。0時20分から便意のためにトイレへ入り、少ない軟便を排出した。0時35分にPCをシャットダウンして就寝し、6時12分に起床した。7時過ぎに母親が2階でトイレに入って出て後に、弟に2階・階段の窓に関する指示をしていたが、弟が指示と異なる行動をしたので、怒り始めた。私が6時台にした料理(ラーメン、加えて保管用に肉料理を済ませた)の臭いも関係しているようである。母親は連日10時以降に起床するか「日の出以後で初の1階に降りる行為」をするのに、なぜ本日に6時・7時台か不可解である。前の週の日曜日も9・10時以降だった。母親が朝早く起きてもロクなことはない。弟はまだ何も料理・食事をしていないという珍しい事態であった(普段は3~6時に済ませていることも多い)。母親は弟が料理したということを決めつけた。母親がトイレ小便の直前に弟が1階で薬を飲むために降りていたという状況証拠を過信している。他人に尋ねるよりもキッチンの状況などを検証すればすぐ分かることだが、それも傲慢で非科学的な母親はしない。弟に色々とひどいことを言っていたし、弟もそれに直接の反論をしばらくしなかったり、後に弟が臭いの発生源を「カップめん(カップ焼きそばだと言いたかったと彼は後に言うがカップ焼きそばはこの家に無い)」などと推定して言うなど、聞くに堪えない内容である。比較的おとなしい弟であるにもかかわらず、母親は「なんでこんなに親不孝なの?」とか「〇ちゃん(弟の名前)にガッカリだよ(ガは前舌音 [a] で滑稽な発音)」などと発言し、調子がおかしい。これらは異常・不条理・理不尽である。もし毎日家の管理のできる母親であれば、この怒りに至ることは無いと思う(それを言ったらばそもそも離婚をしないか離婚するような結婚をすることもない云々で無意味な議論になる)。弟にしても母親にしても、まともに相手にできる人間だと私は思わない

11時20分台から再び母親が起き出した際も、弟に窓のこと・彼の自室のドアのことで難癖をつけた。やたらと臭いに執着を持っている精神状態を母親が自ら発露していた。それから母親は「某テレビ番組の再放送」などを見ながらバカ笑いをしていた。13時台、弟が「掃除」とされる何かをしている際に、いつもの泥沼・悪循環・畜生修羅輪廻よろしく母親がドアのことで難癖をつけ、ついに弟がブチギレた。声を荒げて母親を威嚇したり、例の通りに破壊行為に及んだ。彼の自室のドアの一部位(ドア枠系の外れやすい部品 cf. 類例2016年8月26日メモ写真)が外されたので、母親が直すように指示し、彼がそうする。弟の協調性を踏みにじり続ける母親であり、弟が直す作業をしながら彼は「俺が親切に覚えようとしてんのにお前は!」、「全然意味が分かっていねえな!」と発言していた。本日の母親は10連休の関係で芸能スクールに行かない。14時10分に母親が1階リビングでテレビを付けて居座り始めるまで、私は母親が芸能スクールに行く動向があるように感じられた。14時21分からPCをシャットダウンして仮眠を始め、17時37分に起床した。22時43分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、24時2分に自室へ帰った。



2019/04/29

本日4月29日は6時7分にPCをシャットダウンして就寝し、12時22分に起床した。押入れで目覚めた際に、私の視界がひどくぼやけていた・視覚対象の焦点が合わなくて両目それぞれの像がいびつに重なっていた。その現象はこの起床時に特殊な発生でなくて無意識に毎日経験されていると考えたかったが、その後もモニタ画面の文字が読みづらい(e.g. 「ク」が「タ」に見える)ように、その問題性を維持していた。



2019/04/30

本日4月30日は前日21時台にPCをシャットダウンして仮眠を始め、3時57分に起床した。11時34分からPCをシャットダウンして就寝し、16時48分に起床した。


2019年4月6日土曜日

母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門

表題のようなテーマから、言語音声と音楽メロディの調和を考えることが、2017年以降の私の個人的な課題となっている。
2019年以降、2017年に私が投稿した音楽動画の数々は、続々と2周年になっている。
それら音楽動画のうちの楽曲には、表題のようなテーマに基づいて付けられた日本語歌詞があるので、説明とともに公開しようと思う。

当記事は、表題のようなテーマにならった一つの理論・仮説を説明する。
「楽語共調(がくごきょうちょう、シンフォネディ 英語 symphonedy, ラテン語 symphonoedia, συμφωνῳδία 造語 of σῠν- + φωνή + ἀοιδή cf. symphoniacomoedia)理論 theory (または仮説 hypothesis)」と呼ぼう。
私は今まで、漠然と「母音 (vowel) の広狭 (?) と音階(後に呼称変更→音高 pitch) の上下 (?) は規則的な関りが強いほど主観的に良い聴こえとなって調和し (harmonize)、歌の魅力を損じないようになる」と仮定してきたが、2019年3月以降、理論化することにした。
そうして、新たに母音の特徴や、音声の道理を学ぶ必要が出てきたので、それを詳細にまとめた。



●日本語の基本的な5母音の特徴

その導入として、日本語の基本的な5母音 (5 vowels) から説明する。
参考までに、「発音上5母音でない言語」であるフランス語やイタリア語は「え(エ)」に相当する音を /e/ (é 非円唇前舌半狭母音) と /ɛ/ (ê, è 非円唇前舌半広母音)として微細に区別(弁別)するが、そういった外国語発音の事情は当記事で基本的に紹介しないこととする。
それと別に、学問用語(術語)の英語における名称は頻繁に併記する。
また、発音の厳密な区別を示す場合に、国際音声記号 = IPAによる音素 (phoneme / /括り) や音価 (phone [ ]括り) を併記する(初心者の方はこれを知らなくても理論の趣意が分かる)。

日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音(以下、五音)のために、言語発音全般の母音の特徴による二分(にぶん dichotomy)か三分(さんぶん trichotomy)をする必要がある。
日本語のための「二分ないし三分」であり、外国語の事情を介すると、当然、より詳細になるが、当記事の問題でない。


言語発音全般の母音の特徴で
日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音を示す図
右図は日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音を言語発音全般の母音の特徴で示している。見ようにはX-Y-Z 3 dimensions, 三次元である。立体図形で再現できる。以下に値 (value) を書いておくが、あくまでも日本語の国語学的な最小限 (minimum) のスケールにした。外国語などと比較して科学的絶対性を求めるならば、数値はもっとプラス・マイナス両方向に大きくとられてもよい。

横軸X = 舌の前後の程度を二分(稀に三分)す 値-1, (0,) +1
縦軸Y = 口の広狭の程度を三分す 値-1, 0, +1
色相Z = 唇の円さを二分(稀に三分)す 値-1, (0,) +1



まずは、発音時の口の広狭の程度(口唇や口腔の舌などで摩擦音・阻害もとい阻碍系の子音 obstruent が生じない範疇)=広さ(英語圏では舌の高低による観点で高さ heightという)によって、三分をしよう。
「あ」が広い音 (open vowel)、「い・う」が狭い音 (close vowels)、「え・お」が広い音と狭い音の中間の音 (mid, open/close-mid vowels)である。
このように、広い音、狭い音、中間の音の三分がある。
熟語にすると、広母音(こうぼいん ひろぼいん)・狭母音(きょうぼいん せまぼいん)・中央母音(ちゅうおうぼいん)である。
位置の高低によって低母音(ていぼいん low vowel 広母音)、高母音(こうぼいん high vowel 狭母音のこと)ということもある。



続いて、舌の位置の前後の程度 (backness) がある。
「舌の位置」とは、あくまでも舌尖や舌端といった「子音をなす(作る)部分」以外の最高部である。
前側に舌の最高部が位置して発せられる音=前舌母音(ぜんぜつ- front vowels)には「い・え」が挙げられる。
後側に舌の最高部が位置して発せられる音=後舌母音(こうぜつ- back vowels)には「う・お」が挙げられる。
「あ(広い母音)」については前舌と後舌の中間 (central) の位置で発するということ(IPAで ä 非円唇中舌広母音)が音声学の一般的な見解であるが、前舌と後舌のどちらで発することもよい。
念のために注記しよう、もし「う」の音を前舌の位置で発すると、フランス語の"u"やドイツ語の"ü"や古代ギリシャ語のΥ υ(ウプシロン、ユプシロン。現代ギリシャ語ではイプシロンでイの音に変化ずみ)の発音に似た、「日本語話者がどのような状況でも発することの無い母音」 [y] となる。



続いて、唇の円さ (roundedness) がある。
円い唇で発せられる音=円唇母音(えんしん-)には「い・え」が挙げられる。
円くない唇で発せられる音=非円唇母音(ひえんしん-)には「う・お」が挙げられる(他の呼称では平唇母音 へいしん-)。
「あ(広い母音)」については円唇と非円唇のどちらで発することもよいが、後舌の時に円唇にすると、イギリス英語(特にRP発音)における"hot /hɒt/"の"o [ɒ]"、いわゆるホットのホにある母音オ [ɒ] と同じ発音になり、日本人の耳でもオ(お)の音に聴こえるので、基本的に非円唇で発するとよい。



う段音価の母音「う」は唇の円さや舌の前後位置が中間的とされ、その程度も話者や状況によって多様であるように分析されている。
状況による「う」の音の差異は、代表的に言われる例が語中で ɨᵝ 、語頭と語末で ɯ̟ᵝ が現れるということであり、前者 (補助記号ぬき: ɨ)は舌の位置から言えば「中舌母音(ちゅうぜつ-)」である。

(過去記事引用・前略) 現代日本のウ音は音素として/ɯ/と表記されるが、実際の現代人発音は/ɯ/平たい唇・/u/円い唇よりも中間的であり、極端な唇の動きとならない。
この場合、IPAで音価として[u̜] (uの下にC字記号で円唇が弱まったもの"less rounded")や[ɯ̟] (ɯの下に十字で後舌がやや前になったもの"advanced")や[ɯ̈] (ɯの上にウムラウト記号で後舌が中央寄りになったもの"centralized")や[ɯᵝ] (ɯに上付きβで平たい唇・非円唇の程度を抑えたもの"compressed") (他に [ɨᵝ] と [ÿ] と [ɯ̟ᵝ])として現代日本のウ音の代用表記がされる。
 - https://lesbophilia.blogspot.com/2018/03/fricativization.html#artifoot

(過去動画説明文引用・前略) 語中ウと語末ウは ɨᵝ と ɯ̟ᵝ で区別されることがある
 - https://www.youtube.com/watch?v=fC70wNfVZn4


いわゆる日本語の「五十音」は「あ段・い段・う段・え段・お段・ん」で構成されており、「ん」以外は「あ・い・う・え・お」五音を伴って発せられる。
五十音のうちの音は、音声学的に「モーラ (mora 拍) による発音 (moraic)」とみなされ、私も2014年以降、そう呼んでいる。
このモーラが、日本語のうちの音の、言語的な意味を得る最小単位である。
「か(カ ka)」や「ゐ(ヰ うぃ・ウィ wi 井戸の井も昔はこの発音)」などは1つのCV音節(CV = consonantとvowelの頭字語。音節 syllable)であり、1モーラでもある。
モーラの観点では、「ん」や「っ (促音・長子音 gemination、小さいツ)」や「ー (長音、長音符)」も1モーラとして数える(e.g. カッターは4モーラ、キャットは3モーラ。英語の cutter は2音節、 cat は1音節)。
「ん (撥音 moraic N, syllabic N)」については、状況によって音節主音=1音節となりえるし、日本の音楽では「ん~♪(例えば"永遠"という中国語からすると2音節 yǒng yuǎn になる語句を"えーい、えーんー"のように4音節相当で発音する)」として長く伸ばす発音も多い。
ここまで、日本語の伝統に基づく立場で「あ・い・う・え・お」の母音順を用いたが、「広狭・前後・円非円」という音韻論・音声学による分析で「あ・え・い・お・う (a, e, i, o, u)」の母音順に変えて話す。





●母音の科学的な意味で本質的・客観的な特徴は如何

あ・え・い・お・う五音は、音響学的に・聴覚的にどのような特徴があり、人間に認知されるか、科学的絶対性に近い立場でも考証したい場合は、以下のように実験する。
まず、あ・え・い・お・う五音を発するとき、それ自体は個別言語イントネーションや日本語のピッチアクセントが反映されないよう(いわゆる平板の状態で頭高・中高・尾高を制御)にし、録音する。
その音声を視覚的に表示する手段が有る。

音声波形 (waveform) は、音声信号に対応した2D波形である。
X軸に時間、Y軸に音の大きさもとい音の信号の振れ幅を示す。
それのみでは、当記事の目的による実験に適していなかろう。
今回に、私はこれを用いない。

スペクトラムアナライザ (spectrum analyzer) は、音声信号に対応した2D音声視覚化の形式の一つである。
一般に何通りか系統の違いはあるが、私の使用できるものは同系統の2つである(過去動画に紹介済み、ちなみにAviUtlの"音声波形表示"にはスペクトラムアナライザ相当のType3, 4, 5がある)。
X軸に周波数、Y軸に音の大きさもとい音の信号の振れ幅を示す。
時間の次元に対応すべく前の時間の折れ線グラフを薄い色で重ねるものもある。
この実験に用いるべきかどうかは使用者の目的性や感性による。
今回に、私はこれを用いない。

スペクトログラム (spectrogram) は、音声信号に対応した3D音声視覚化の形式の一つである。
X軸に時間 (time 単位は秒 sec.)、Y軸に周波数 (frequency 単位はヘルツ Hz)、色の濃淡(Z軸でも可)に周波数の振れ幅 (amplitude 単位はデシベル dB) を示す。
これを実験に用いてみよう。

以下、スペクトログラムを表示できるソフトの一つ Praat のスクリーンショットが2点ある。
サンプルの音声としては、2019年3月16日に私が自ら録音した「あ・え・い・お・う」A, Bである。
音声を聴きたい場合は、2019年4月6日YouTube動画も参照。

Praat より 一。
スペクトログラムは下部。
次に解説画像
「あ・え・い・お・う」を発した音声のうち、A = 現代日本語のピッチアクセントがついたものと、B = 平坦に発したものとを比較してみると、ピッチアクセントの有無という差がA・B範囲内の各母音間にあることが表示されていないと判断できる。
スペクトログラムの画面において、「い」の音には「い」の音たる特徴がどのようにあるかといえば、同じく狭母音である「う」の音の発音時間内の周波数帯域と振れ幅とを見比べることで分かる。
振れ幅が強い部分(色が濃い部分)のうち最も周波数の低い領域に注目しよう。
「い」は上下に開いて振れ幅の強い帯域があり、「う」は詰まって振れ幅の強い帯域がある。
また、「い」は、広母音たる「あ」の音(日本語でのそれ)と比べて下側=低い周波数の帯域に振れ幅の強さが見られる。
どの子音(/k/や /t/や /n/など)を発しても、その後に「い」や「う」や「あ」の母音発音が0.3秒間であれ1秒間であれ伴うならば、それらの母音発音の特徴が確実に看取できるであろう。

Praat より 二。
「振れ幅の強い帯域」の見た目は、時間のY軸上に見られる「ピーク (peak 頂点)」であり、言語音声において発音を特徴づけているものを「フォルマント (formant)」と呼ぶ。
自然界の様々な音声には同じ時間(Y軸)上のピークが複合的に見られる (e.g. 倍音 overtone) が、音声学としてはX軸の下=周波数の帯域の低い方から2つのフォルマント = F1, F2 に注目する。
母音音声は、F1, F2の値 (value) の差が、先述の「口の広狭・舌の前後・唇の円さ」という調音方法によって明確であるものとして扱うことができる。

英語版Wikipedia - Formantに載る"Catford, J. C. (1988)"の情報から近似する音を示そう。
日本語の「い」近似音 [i] はF1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz)
日本語の「う」 近似音 [ɯ] はF1 = 300 Hz, F2 = 1390 Hz (差異 1090 Hz)
日本語の「あ」近似音 [a] はF1 = 850 Hz, F2 = 1610 Hz (差異 760 Hz)
これは平均値"average vowel formants"として載せられているものであり、個々の話者や状況による変異はあるとしても、先述のようにF1とF2の値の差が特徴的であるとして信頼できる。

参考までに日本語の「う」の唇の円さを高めた西洋言語にあるような円唇後舌狭母音 [u] は F1 = 250 Hz, F2 = 595 Hz (差異 345 Hz)であって、 [i] F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) とは、狭母音共通の特徴として「低い周波数の帯域 F1 の強い振れ幅」が見られる。一方でその上隣の帯域に強い振れ幅を持つ F2 は、いわゆる極北、最右翼とでもいえるくらい乖離する。これは、「え・お」のような中央母音や中舌母音などを介すれば、数値が反比例していると感じられる。ほか、参考までにイギリス英語RP発音"hot /hɒt/"の"o" 円唇後舌広母音 [ɒ] は F1 = 700 Hz, F2 = 760 Hz (差異 60 Hz)であってF1, F2の差異が自然言語の音声として最小クラスであり、音名として対義語尽くしの非円唇前舌狭母音 [i] とは正反対である。

他にいろいろと示したいことはあるが、それは学習者各位の自由でよいとし、そろそろ音楽の話題に入ろう。





●音高の上下あるボーカルフレーズ、その対応する歌詞

ボーカルフレーズを構成する「音(小さい単位)」とは、元の楽譜やMIDIデータだと音符もといノート (note) と呼ばれるべきであるので、そう呼ぶ。
先述の「モーラ (mora)」の発音が、日本語の楽曲において最低でもノート1つ分を持つ。
イメージしやすく言えば、楽譜に歌詞が書いてあること(小学校の音楽の教科書で五線譜にのる音符ごとに対応した歌詞の字が書かれている状態)を思い返せばいい。
これは、仮に言語音声が1モーラ相当で声(母音など音節主音)を長く発して音高の上下があるとき、もう1つノートをその音高にも配置することで、2つ以上のノートを持つことになる。

音高・ピッチ (pitch) の上下とは、端的に言えば、一般的な「音階・スケール (scale) =異なる音高を持つキー (key, keys) の並び」の範疇においてノート (notes) が高いところ・低いところに移動してゆくことであり、「上下 (up-and-down)」とは周波数やMIDIのピアノロールに見られるような、数値や視覚表現での上下である。
視覚表現としてMIDIのピアノロールを私は多用するので、私がそう表現することについて留意されたい。
それについてもどのようなものか私の投稿作品(先の記述に挿入されたリンク他YouTubeのSundarknessチャンネル投稿動画など)から知るとよい。

以下から理論や実例を示すが、『あくまでも「メロディの美醜(好悪・好き嫌い good-and-bad)」の客観的な基準は存在しないものの多くの人が「共通主観性」で好むであろうと思われる特徴を合理性や数学的・科学的な考え方で求めたもの』、と理解していただきたい。
当記事で言うような主観性とは「人生における音楽的経験」などに依存して各々が持ち合わせている音楽的感性(楽器・調律・ジャンル・声色などに対する好悪)とその自意識とである。
良いか悪いかは、各々の主観性で判断するとよろしい。



原則的な事項がある。
母音の広狭ないし中間(中央)は、そこに絶対的な「こういう印象」が求められるかといえば、スペクトログラムや科学技術の手段で特徴を明かしてから「広母音は明るい (bright)、狭母音は暗い (dark)」と判断できそうである。
しかし、必ずしもそうでない可能性を知るべきである。
「明るい・あかるい"akarui"、高い・たかい"takai"」の「あか"aka"、たか"taka"」は、「あ・か・た」という広母音モーラの語幹による形容詞であるからといって、本質的に「広母音とそれによるモーラ発音は印象が明るくてピッチが高い」と、確定できるものでない。
日本語話者の間では、彼らの共通主観性のうちに、広母音や狭母音についての認識の傾向を見いだせるかもしれないが、それさえも不確実に思う。
広母音も狭母音も、それのみを用いる言葉は必ずしも多くない。
もし広母音か狭母音か中央母音といった何かしらの母音のモーラのみで1曲の歌詞(最低50モーラ以上)を構成するならば、少し違和感がある。

いずれにせよ、私はそれらの相対性について、感じ取ってもらいたい。
一に、狭母音モーラから広母音モーラになる動きや、広母音モーラから狭母音モーラになる動きといった、異なる母音同士の移動。
二に、広母音モーラの連なりや、狭母音モーラの連なりといった、同じ母音同士の連続。
これら相対性の効果を把握すべきである。曲の中で用いられる歌詞の発音に、曲調(イメージ・雰囲気)と一致があるか不一致があるか、面倒に思う者であってもしぶとく観測する必要がある。
そうして得た知見に基づき、改めて巧く歌詞の中で反映することが表題のようなテーマである。

表題のようなテーマにおいて想定する作詞行為は、先にメロディアスな(キャッチーな)ボーカルフレーズが作られている場合に「後から歌詞を付与すること」である。
もし作詞が先にあってボーカルフレーズが後に作られるならば、メロディのノートの音高の上下が作詞者の思うような言語発音に近くされるだろうし、現代日本語のピッチアクセントやイントネーションが反映されやすい。
英語の洋楽では多めにそういう系統の楽曲 (cf. 英語歌詞自作曲"Eradicated") があるし、日本語であってもラップのようなものであればこの傾向があるので、これは注意しておく。
ただし、仮に作詞が先にあっても、そのボーカルフレーズにおけるノートは、母音の広狭に合わせた音高の上下に配置することもよい。



「母音の広狭と音高の上下」の基本を簡潔に言えば、広母音モーラが相対的に音高・ピッチとして高いノートであり、狭母音モーラが相対的に音高・ピッチとして低いノートである。
曲調(イメージ・雰囲気)によっては、適宜に反することもよいと思うが、基本的にこれを意識しておく。

・・・、という仮説の概要がこのように2017年以降に考えられてきたが、当記事を執筆している2019年3月になってから、その「フォルマント (formant)」 F1, F2 から母音の特徴を見出す術を知り、その裏付けが取れた。
母音の広狭はあくまでもF1に関連するものであり、F2の存在を加味するならば舌の前後についても考慮できる。
「い」の音(近似 [i])は既に示されるように、F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) であり、実は高い音に当てることもできる。
これは後述の「2017年3月10日>交差点」における「つかり↑、ぱたり↓」という歌詞の「り"ri"」同士の異なりや、「2017年4月24日>曲名未定」の「はれとき↑どき、あめのひ↑には…」という歌詞の「とき"toki", のひ"nohi"」の両者が「お o」モーラから連なる「い i」モーラが突きあがるような音高で発せられることなど、私が「良い印象(少なくとも聴いた感じの違和感が少ない印象)」として捉える部分から例示できる。
「い」の音の二面性は当該楽曲を説明する項で再考しよう。



まず、主に長調楽曲に多いような、明るい(明朗な)印象の楽曲に合う例を示す。
世間の音楽界にも見出しやすい傾向だと私は捉えている。

出だしが弱起 (Auftakt; anacrusis) の場合で音高が著しく上下しない範囲では、ノートが単数であれ複数であれ、狭母音(close系)か中央母音(mid系)が良い。
また、複数であるとき、音高が著しく上下しない範囲では、たとえ広母音(open系... 日本語では「あ段」のみ)であってもそれのみを使う場合は母音の広狭の相対性を生じないので、用いて可である。
弱起から小節の頭の音に繋がる場合に、その単数のノートに当たる歌詞の母音は広母音が良い。
これは相対性により、雰囲気の開きや明るさ(明朗さ)を出す意図である。

出だしが小節の頭か中腹よりも前の場合には、その単数のノートに当たる歌詞の母音は広母音か中央母音が良い。
たとえ狭母音で始めても、時間的に0.6秒以内(4分の4拍子にテンポ BPM 100以上で4分音符より短いような状態)の場合に次の音が広母音であれば、明るさや上昇のムードがある。

・・・、このように説明する形式も良いが、以下から表題に言うような「実験の意図で作詞された楽曲」を示してそれに随って説明するほうが良いと思う。



手始めに、簡単な音感のテストをしてみよう。
下記リンク先の動画の0:39~から流れるマリンバ(木琴の一種)によるフレーズで、当記事の理論にいうような母音の広狭に関して、読者各自が試すとよい。
https://www.youtube.com/watch?v=qhrGuEFp8ok
このフレーズ(BPM 204のテンポで4分の3拍子で4小節に収まる)を構成する音楽は、音符・ノートにして4分音符と8分音符のみである。
4分音符を「〇ん」、8分音符を「〇」と表記するが、この〇には、た行の各1モーラのみを用いる。
途中にフレーズの休止があるが、タンバリンが背後で鳴っているので、それも4分音符「ちっ」で併記する。

クリックで拡大

 とんたんたんてんとんたんとん。(ちっちっ。)
 とん・(8分休符・)とんとんてんたんてん・(8分休符・)てんてん。 (後略、最後の小節に残り4分音符2つで次のフレーズの弱起に相当する)
上記フレーズのカナ表記におけるモーラの母音の広狭・前後 (roundness and backness) と、ノートの音高の上下とに、どれほど違和感を覚えるであろうか?
全体的に違和感を覚える人にとっては、この理論によって付けられる歌詞が好まれないかもしれない。
音高の上下にきっちりと対応した母音の広狭・前後の歌詞は、3種の母音のみの場合にこのように表現されるので、私であっても些細な違和感を覚えながら、記した。

もう少し私の感性や記憶が定着させた印象に近づけて記したものも、載せてみる。
 とんたんてんたんとんたんとん。(ちっちっ。)
 たん・(8分休符)・たんとんてんたんてん・(8分休符・)てんてん



2017年3月10日に、私は「『街の子』をイメージした楽曲2つ」という動画を投稿した。
http://www.youtube.com/watch?v=A_93d_RwunQ
「交差点」という名の楽曲は、そこでの2曲目として公開された。
「交差点」はAメロ・Bメロ・サビでワンコーラス分を構成し、それで終わる、短めの楽曲である。
その楽曲のための作詞を、2018年12月2日に行った。

「交差点」のための歌詞は、韻 (rhymes) の踏み方・押韻 (rhyming) を何通りか持っている。

当該楽曲が"街女人・つじさゆり"のテーマでもあるので、その人物キャラクターに由来する特徴づけがあることよる押韻がある。
いわばキャラソンの役割が兼ねられており、「う」や「い」のような狭母音の頻度が高いことによる"街女人・つじさゆり"の身の上に感じられる「不自由・抑圧」のような印象を与える。
「その昼 sonohiru、下がり sagari、わたし watashi」
「傾く katamuku、日差し hizashi、見たり mitari」
「道行く michiyuku、つかり tsukari、ぱたり patari」

「う(円唇)・い(非円唇)」は、共に狭母音であるとしても、西洋言語発音にならえば円唇・非円唇の相違性=唇の円さの動きが典型的に現れる音であるため、個性的である。
ただし、日本語の言語の音声としては、先述の通り、「う」の音の唇の円さが中性的である。
声楽の人は、はっきりと西洋流に円唇発音にすると思われる。
そのような「う」と「い」との違いは、唇の円さを意識しながら発音をして自ら確認するとよい。
「交差点」歌詞で、「う」と「い」との押韻が多いことも、私がその意識から作詞しているためである。
この日本語が合うポップス楽曲に西洋言語発音が望ましいか、好みが分かれそうだが、それについても各々の主観性で判断するとよい。

また、人名"さゆり"に関連づけて歌詞のフレーズの語末モーラが「-り -ri」に占められる場合が多い(e.g. 見たり mitari、つかりぱたり tsukari-patari、ぴたり止まり pitari-tomari、そうゆらり souyurari; so'oyurari)。

サビは、いくらか長いノート(音符)や休みのある部分(楽譜で休符が伴う部分)が「-お -o」のモーラで終えられる。
言語上の韻ばかりを示しても本題とかみ合わないので、その脚韻あるモーラ相当の音楽のノートが、前のノートと比べてピッチ・音高もとい半音 (semitone, key) がいくつ(n度ともいう)上がったか・下がったかを併記する。
「今日も kyo'omo (moは符点2分音符・上2半音)」
次のフレーズまでに「また mata」、「行く yuku」があるが、広母音や狭母音モーラでそれぞれ揃えられている。
「ひごろ higoro (roは符点2分音符・上1半音)」
「何がどこで起きても nanigadokode'okitemo (moは4分音符・上2半音、次に8分休符。途中のdoは符点4分音符で少し長い)」
「私は私だけずっと watashiwawatashidakezutto (早口。toは符点8分音符・上2半音、次に8分休符)」

以下は、尾母音が先にある (-ino, -eno) 2モーラ分の押韻となる。
「道の michino (noは符点4分音符・上2半音)」
「すみの sumino (noは全音符・下4半音、次に2分休符)」
「誰の dareno (noは2分音符・上1半音、次に4分休符)
「求めの motomeno (noは4分音符・上9半音、次に8分音符)」



2017年4月24日に、私は「心が弾むハードコア・パンク系の自作曲・オリジナル曲 (3曲)」という動画を投稿した。
http://www.youtube.com/watch?v=nDxFB6IWhUw
名称が付けられていない一楽曲(後に「ハレマジェット」)は、そこでの2曲目として公開された。
それはAメロ・Bメロ・サビでワンコーラス分を構成し、アウトロのギターソロの後で終わる、短めの楽曲である。
その楽曲のための作詞は、2017年4月中、部分的であれ、既に行われていたろう(cf. 2017年4月23日にその楽曲が先行公開された動画の内容に歌詞の一部分が表示される)。

頭韻などを試した。
1番Aメロの各句の頭がi-a-i 「日差し hizashi」、「ひかり hikari」である。
その歌詞のモーラの母音が狭い→広い→狭い (i-a-i) という動きが、音階のうちのノートの低い→高い→低い(下げ→上げ→下げ)に対応している。

閲するに、当該楽曲はほとんどC5 (楽器チューニング基準音を440 Hz = C4 AまたはA4とすればそれよりも高い) の音域で発せられており、「ソプラノ soprano」級である。
最も高いところでは、C6 G (G6, 88鍵ピアノで2番目に高いソの音)に達している(歌詞では「吹き消すの」の「け ke」)。
C4, C5, C6という時のCとは、国際的な基準の代表的な一種による。88鍵ピアノで1番目のC = ド、和名ハによってC1を呼び、そのオクターブ相当のCは"C1 C"である。4番目のCが有る領域のCは"C4 C"であっていわゆる中央ハ (Middle C) である。私が主に用いるMIDIシーケンサーのソフトでこの音程・音高・キーの呼称が用いられているので2012年以降の私も認識を同じくする。この方式ではC-1 Cが0番目と数えられ、中央ハ = C4 Cは60番目、チューニング基準音の440 Hz = C4 Aは69番目となる。MIDIでの最高部が127番目でC9 Gである。cf. wp:Scientific pitch notaton
これをその音域のままに言語発音で歌うことは、成年の人々のうちでも女性歌手、特にプロのソプラノ歌手でないと困難であろう。成年男性である私は、1オクターブ下げないと(オク下でないと)歌えない(DAWソフトなどでピッチ調整をすれば別の話。それではUTAUのような音声合成ソフトの音源も作れる)。
そもそも男女問わず人間の言語音声をPraatで色々と見直すと、そのピッチは普通の状況で70 ~ 300 Hzのみが現れている。女声の楽曲でさえそのフレーズは、高音を意図しないで作曲された場合に400 Hz (C4 A = 440 Hzの場合にC4 G相当の高さ) を超すことがあまり無いことも、個人的な調査で分かった(オペラとかのシーンは専門外なので調べないが一応C6領域は有り得るそう)。もう少し手持ちの音声ファイルを調べると、某百合系ボイスドラマ作品のアテレコと思しき音声リストのうちで女児を想定したキャラクターの言語音声から、600 Hz以上が頻繁に観測された。想像上の女児(作中での年齢設定はともかく口リ系)でもあれ実在の女児でもあれ、500 Hz以上 (cf. C5 C = 約523.25 Hz) の言語発音は有り得ることも付記する。この後、喘ぎ声(嬌声)を調べたが、言語音声と関係が無いのでさしおく。

そこで言いたいことがあるが、このような(C5以上)高い音域になると、人間の耳では母音ごとの区別が不明確になるであろう。
当記事の理論の例外事項として、このことが考慮されるべきである。
当該楽曲の歌詞に話題を戻そう。

サビの歌いだしはBメロの末から弱起として始まり、「晴れ時々雨の日には」という歌詞である。
「はれと(弱起)き↑(小節の頭)どき、あめの(弱起)ひ↑(小節の頭)には…」と書き直す。
「とき"toki", のひ"nohi"」の両者が「お o」モーラから連なる「い i」モーラが突きあがるような音高で発せられている。
音高が高いのに「い」の音=狭い音・狭母音が用いられているが、聴いた感じでは違和感が無い。
なぜであろうか?
それは、「い」の音が狭母音であると同時に前舌母音 (front vowel) であってフォルマントの見方におけるF2が高い周波数で発せられており、ボーカルフレーズのノートが前のノートよりも高いとしても共鳴するようであると言える。
cf. 先の表"average vowel formants" F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz)
「い」のみならず、同じ前舌母音の「え e」の音についても高低を選ばず使える側面があると思われる。
しかしまた、同じ前舌母音だからといっても、口の広狭が広いほどF2の周波数の値は下がっている(F1との差異が中和されている e.g. [e] 差1910Hz, [i] 差2160Hz)という、別の側面もある。



種々に検討すると、たとえ日本語では微細な区別なき「あ a」の音(外来語のためのア段カナの原語は多用な異なる発音。アメリカ英語のGA発音だけでもア段カナに対応する4種類の音素 /æ, ʌ, ɑ, ə/ の区別がある)であっても、歌詞発音のためには舌の前後・唇の円さといった区別を駆使する必要があるかもしれない。
すなわち、一般的に非円唇中舌広母音 [ä] である「あ」も、前後のノート音高の相対性により、低音としての「あ」を非円唇後舌広母音 [ɑ] にしたり、高音としての「あ」を非円唇前舌広母音 [a] にするといった、音高に「あ」を相似させるための弁別と発音訓練とである。

当記事の理論の高度な実現のためには、日本語歌詞の歌い手(歌手)にも高度な発音の知識と技術とが要求されよう。
ただし、基本的には「あ・い・う・え・お」の5母音の音素 (phoneme) と識別される現代日本語発音で検証されるべきである。



●外国語へ楽語共調理論を応用することの是非

外国語へ楽語共調理論を応用することは、それも日本語との差異を考慮しつつ、おおよそ同じように説明が可能であろう。
この理論に関連する日本語との差異とは、既述の通り、音素 (phoneme) として弁別される母音の数が日本語の「あ・い・う・え・お」という5母音よりも明確に多い言語や、4母音(4種類の母音)よりも少ない言語(e.g. 古典標準アラビア語 3母音 /a/, /i/, /u/ および長母音)がある。
当記事では、主な要素を詳述しないでおくが、今までの話題と関連する事柄から一つだけ説明しよう。

当記事ではしばしば「弱起 (Auftakt; anacrusis)」という音楽用語を用いてきた。
過去記事で説明済みなので、2種類の語義をそこで参照するとよい。
2種類の語義とは、音楽用語としての弱起と、それよりも古い時代からある韻律論としての弱起とである。
「強勢 (ストレス stress) としてのアクセント (accent)」を持つ言語のうち、教会ラテン語(Ecclesiastical Latin 俗ラテン語 Vulgar Latin)・イタリア語・スペイン語といった語中でアクセントが出やすい言語において、韻律論における語義を発揮し得るように感じる。
3音節語の1音節目はほぼ必ず「強勢としてのアクセント」が伴わない。
1音節目が母音のみである場合は、イタリア語"opera"がオペラやオペーラではなくオーペラとなるように1音節目に強勢としてのアクセント(+長母音化)がある。古典ラテン語でも"opera (女性単数の名詞。opusという男性名詞の複数形の方ではない)"は1音節目にアクセントがあるとしてWiktionary英語版に載っている。古典ラテン語アクセントについてしばしば「3音節以上の単語は1音節目が長母音(韻律論の観点では長音節"long syllable"・重い音節"heavy syllable; 梵語 guru"でもある)で2音節目が短母音(韻律論の観点では短音節"short syllable"・重い音節"light syllable; 梵語 laghu"でもある)であればそこにアクセントが付与される」といった説明がされるが、これは短母音のみで構成されているにもかかわらず、1音節目にアクセントがあるというか?

私が作詞した"Dominus Immensus"は古典ラテン語だが、そのサビの歌い出しを例示しよう(ラテン語歌詞サビは音声として2019年3月現在は未発表なので動画の改訂版を待つこと)。
それは"Immensa phaenomena sunt"であり、"Im-"は音楽用語としての弱起部分となり、"-me-"は1小節目についた主音 (tonic) となる。
the anacrusis notes "I-" = F (ファ), "-m-" = G# (ソのシャープ),
the tonic note "-me-" = A# (ラのシャープ、なおAメロ歌い出しの"dominus..."も同じ音のオクターブ違い)
インメ~エンサ~、パエノメナ、スント。
しかしまた、これが韻律論としての弱起でもある。
言語学的に、古典ラテン語でも教会ラテン語でも、"immensa (男性形: immensus)"の語は、"-me-"という2音節目にアクセント(古典ラテン語のアクセントはストレス強勢かピッチ高低か学問的に未決だがどちらでもよい)があるという。
"Im-"は閉音節1つであるが、それを構成する2つのノートは、次の"-me-"主音ノートのピッチよりも低いので、音高の上下としては下から上へ(低から高へ)と推移している。
また、狭母音と鼻音(日本語学で言う撥音)の構成から、中央母音(中母音 mid vowel)へと推移している。
"Dominus Immensus"は、そのボーカルフレーズにおいて原典の障礙尊者自説偈の梵語であれ、後の古典ラテン語歌詞であれ、"-me- (-mē-)"の長母音(韻律論の観点では長音節"long syllable"・重い音節"heavy syllable; 梵語 guru"でもある)発音が、心地よいものと、私は感じている。

このような具合で小節の主音であるノートを発音する音節主音・母音は、弱起の時のよりも広めの母音が良く、強勢としてのアクセントを有する言語であれば、そこにアクセントが置かれるようであると、心地よいようなことが有り得る。
改めてこの理論について注意すると、先にメロディアスな(キャッチーな)ボーカルフレーズが作られている場合に後から歌詞を付与することが、理論の適用対象として望ましい。
それに加えて、この理論の科学的合理性で論じられた「主観的な美醜・善悪」を逆利用して「意外性・滑稽さ」というものを表現することも構わない。






起草日: 2019年3月16日

関連する投稿
2018年11月29日: モーラ発音の日本語の高低アクセントと音節発音の英語の抑揚を比較する
https://www.youtube.com/watch?v=fC70wNfVZn4

2018年12月5日: MIDIピッチベンドで音楽の周波数を調整するための数式 (440 → 432 Hzでの例)
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/12/MIDI-pitch-bend-frequency-calculation.html



主観性ということを私は主張したが、この自覚には、社会科学の統計のような手法以外にも心理学のような発想で認知プロセスが自覚される必要がある。
また、認知プロセスの自覚のためには、先に物質的な存在について解明される必要がある。
そうでなければ「この曲or絵は人(私or他人or民衆)が良いと思うから(by myself; itself, themself; themselves)良いんだ」という簡単な循環論法を了承できる。
そして、世間の人が各々の価値観によって美醜 (good-and-bad) や善悪 (good-and-evil) などを分別して他の見解を排除するようなことは、この限りであると、私は懐疑的に捉えている。

音楽や美術の作品は、現に聴いたり見たりできるものである。
よって、認知プロセスや主観性を人間が自覚するために、物質的な存在についての深い理解が必要だ、という前提がある。
ちょうど、過去に私が宗教学で得た知見と同じであろう。
宗教の教義は、特に仏教やキリスト教で、多くの譬喩(比喩)・たとえ話・メタファーが用いられる。
ここでは、アヴァダーナといわれる人物同士の物語(ストーリー)による譬喩ではなく、自然界の事物・物質的な存在の道理を用いた譬喩を指す。

私がすぐに思い浮かべる例は、仏教にある「琴(vīṇā 弦楽器の一種)の弦を張るとき、固すぎても緩すぎても良い音色が出るようにならない。ちょうどよい張り方(不急不緩)で良い音色が鳴る」という譬喩である。
パーリ語仏典では経蔵・増支部6.55経"Soṇasutta"にあり、漢訳仏典では中阿含経123経「沙門二十億経(CBETAから引用)」などにある。
これは琴を奏でることのできる人物「二十億 (パーリ名はソーナ soṇa) という名の沙門」のために釈尊(仏さま・ブッダ)が説かれた譬喩であり、琴の音色の良し悪しはいくらか客観性に準じている。
いわゆる調律、チューニング (tuning)には、音の周波数 ** Hzとして数学的に解明できる音階の道理を知っても知らなくても、音階のバランスのための適切な弦の張り方をせねばならない。音色の良し悪しは主観性によるとしても、数学的に音の周波数の関係性(ピアノならば中央のラ音が440 Hzの時に1オクターブ高低は880 Hz, 220 Hzという等倍・等分である)は言えるので、「科学的な意味で客観的(共通主観性の範疇)」である。

これが「琴の弦と同じく、修行者はその人の相対性における厳しすぎる修行(原語では精進 vīriya)を始めても易しすぎる修行を始めても良い結果が得られない。あなたはあなたの相対性でちょうどよい修行を…」という、人の精神の主観性のための譬喩に用いられている。
これは当然、仏道修行の心得を説いたものであって、私が芸術理論のモットーのように用いることはおこがましい。
琴の譬喩(琴のたとえ)の漢訳仏典には、やはり仏道の目的性とその果報が示されている。その人物「二十億(ソーナ)という名の沙門」は悟りの後に「色聲香味 身觸亦然 愛不愛法 不能動心 (見た目・音声・香り・味・手触りなどで欲望や憤怒などを起こす事物は私の心を動かすことができない)」という頌(じゅ、うた)を唱えている。額面的に、美術や音楽といった芸術の目的性とは正反対である。逆説的に、「戦争と平和」のごとく表裏一体であろう。

“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, kusalo tvaṃ pubbe agāriyabhūto vīṇāya tantissare”ti?
“Evaṃ, bhante”.
世尊告曰:「沙門!我今問汝,隨所解答。於意云何?汝在家時,善調彈琴,琴隨歌音,歌隨琴音耶?」
尊者沙門二十億白曰:「如是。世尊!」

“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo accāyatā honti, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti kammaññā vā”ti?
“No hetaṃ, bhante”.
世尊復問:「於意云何?若彈琴絃急,為有和音可愛樂耶?」
沙門答曰:「不也。世尊!」

“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo atisithilā honti, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti kammaññā vā”ti?
“No hetaṃ, bhante”.
世尊復問:「於意云何?若彈琴絃緩,為有和音可愛樂耶?」
沙門答曰:「不也。世尊!」

“Yadā pana te, soṇa, vīṇāya tantiyo na accāyatā honti nātisithilā same guṇe patiṭṭhitā, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti kammaññā vā”ti?
Evaṃ, bhante”.
世尊復問:「於意云何?若彈琴調絃不急不緩,適得其中,為有和音可愛樂耶?」
沙門答曰:「如是。世尊!」

“Evamevaṃ kho, soṇa, accāraddhavīriyaṃ uddhaccāya saṃvattati, atisithilavīriyaṃ kosajjāya saṃvattati. Tasmātiha tvaṃ, soṇa, vīriyasamathaṃ adhiṭṭhaha, indriyānañca samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī”ti.
世尊告曰:「如是。沙門!極大精進,令心調亂;不極精進,令心懈怠。是故汝當分別此時,觀察此相,莫得放逸。」

一応、私にとって発想の原点が宗教学にあることを知られたい。
たとえ自然科学分野であっても、精神性からのインスピレーションが偉大な発見や発明に繋がるという事例(逸話)が科学史に種々求められることも、比較参照するとよい。

私が美術や音楽の「主観的な美醜」を解明するならば、先に客観性を考究したほうが良いことは、宗教教義や教説から得た一つの学問前提である。
今後も、この方面で多角的な研究が進められるとよい。
美術関係では「二次三次相対互換の理論」の客観性の側面による考察(当該記事追記欄を参照)を望んでいる。

これら、「主観的な美醜」に先立つ客観性を認知して、クリエイターたちが作品を作るならば、現時点の人類の共通主観性に広く適合した作品になる。
しかし、いつかは定式化する、マンネリ化する、慢性化する、形骸化する事態がある。
柔軟な者たちは、事前に察知して予防し、新しい可能性の開拓にも繋げてゆく。

少し芸術(音楽・美術)の歴史を振り返ってみよう。
19世紀後半から第二次世界大戦の開戦前まで、西洋美術においては写実性から遠ざかる流行 (impressionism?) や、感情表現の濃い画風 (expressionism?) が強まった。
第二次世界大戦の後、一部の西洋人は「楽器と聴衆を目の前にしながら演奏しない音楽」や「作品の掲示されない展覧会」といった「空虚さ・虚無の美」についての実験的な (experimental) 芸術を行った。
または、観る者と作る者とが一緒にいて実演されてこそ作品であるとする思想(パフォーマンス系 performance)の音楽や美術が構想されていた。

私は、それらも認知したうえで、現時における通念上の理想的な音楽や美術を追及している。
簡明な例は、キャッチーなメロディーに心を弾ませるリズムの楽曲や、美麗な風景に美少女のような人物がいる絵画である。
これは私個人の童心にも関わることであるから、当然、世代や人種や経済層(貧富)などの違いでいくらでも好き嫌いを分かつ結果がある。
世間のうちでは、「流行とそれに対する便乗」のような精神性による美醜・善悪の価値判断さえ有り得て、それも主観性のうちではあろう。
しかし、そういう社会的状況の一例を除き、人間史である程度普遍性のある「共通主観性」を説明することができる。
「私が良い(美い・善い)と感じるもの(何ものたりえる可能性のある事物、それだけではゼロ・空虚な存在 object)」に、どれほど人類で普遍的に良いと感じ得る特徴を見出せるか、追求してゆこう。

認知プロセスと認知客体に関しては、他にも五何法(十如是)の説などが私にとって印象深くあった。
萌えの典籍「注三萌義(段・十如是)」も参照されたい。
唯仏如来知一切法"sarvadharmānapi tathāgata eva jānāti"。①何等法"ye ca te dharmāḥ" ②云何法"yathā ca te dharmāḥ" ③何似法"yādṛśāśca te dharmāḥ" ④何相法"yallakṣaṇāśca te dharmāḥ" ⑤何体法"yatsvabhāvāśca te dharmāḥ"。
①~⑤→何等 云何 何似 何相 何体"ye, yathā, yādṛśā, yallakṣaṇā, yatsvabhāvā"。


2019年4月1日月曜日

2019年3月中の日記メモ


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2019/03/01

2019年3月1日8時41分撮影、弟の部屋の机の様子

2019年3月1日8時43分撮影、弟の部屋にあったASUS 新品のパソコン(裏面を撮影)
本日3月1日は寝ていない状態で日を越して至る。0時以降、「本日に特別支援学校高等部の卒業式に出席する予定である弟」が幾度と1階に降りて「洗面所の洗面台に至って静止の後に水を流すことだけをして2階に戻る奇怪な行動」がされていた。2時台に彼がそれをした際、母親が弟に声を掛けたり、母親が1階に降りて来るなどもあった。3時2分にも弟がその「...奇怪な行動」をした。3時57分にPCをシャットダウンして就寝し、7時49分に起床した。8時18分に母親が発車して外出した。10時17分から衣類の洗濯と風呂(シャワシャン)の準備を始め、12時19分に自室へ帰った。以後にもタオル類や座布団に用いる枕のカバーの洗濯などをした。13時41分から便意のためにトイレへ入り、2つの長めのものを排出した。

14時40分に母親の車が弟を伴って家の前に着いた。15時9分に再び母親が発車して外出した。弟は風呂場にいる時も、そこを15時10分台に出て以後も、意味不明な独り言を発し続けていた。「ジョーシキ」とか「彼女(カノジョ cf. 2018/12/09日記メモ)は嫌いですが女の子と仲良くすることは好きです」とかと、彼は言っていた。17時1分からも便意のためにトイレへ入り、2つの中サイズのものを排出した。18時41分からも便意のためにトイレへ入り、1つずつに小・長サイズのものを排出した。前月(2月)中は9日以上の便秘が2度(1度目は1月中から数えて12日間、2度目は10日間)あったが、一転して2月27日から連日排便がされているどころか、本日は異様に回数が多い。けだしカフェインパワーの為す所(所為)である。

19時0分に母親の車が家の前に着いた。しばらく私が母親の指示で荷物を運んだ後、母親が弟に続きをさせた。弟の荷物の取り扱いのために母親が苛立って彼らに一悶着があった。弟は今年の中でも特に無駄口が多く、それによって彼自身の行為の問題性を粉飾しようとするので、母親からすぐに反撃を食らっていた。一応、この後に母親が弟に「薬飲んだ?(弟が飲んでいる抗精神病薬リスパダールのこと)」ときいて彼が肯定していたので、服薬は継続されているようである。20時38分からも便意のためにトイレへ入り、5個の中・長サイズのものを排出した。



2019/03/02

本日3月2日は3時13分にPCをシャットダウンして就寝し、14時39分に起床した。本日は15時台や17時台に母親が弟を叱るような出来事があった。卒業した後の衣類や靴の、洗濯・掃除に関することである。1度目は簡単な注意だけだったが、別件である2度目はとても長引いていた(17時33分現在で30分以上)。



2019/03/03

本日3月3日は寝ていない状態で日を越して至る。1時20分台に自室で下痢チョビ漏らしが発生した。0時台後半に私が生肉を加熱して食べた10分以内に大腸の違和感を覚えていたが、その関連であろう。この下痢チョビ漏らしの被害範囲は、その水っぽさにより姿勢がパンツとズボンとに緩みの空間があってもパンツのみならずズボンに少し及んでいた(ズボン布地・生地の見た目で確認できず強めの臭いから判断される)。4時9分から便意のためにトイレへ入り、まず中サイズのもの1つを排出した。これを排出する際に硬さを感じていたが、見た目はクリーム状のものをほどほどに固めたようであってU字状に曲がっているし、臭いが下痢の時のものと同じである。その後も軟便などを排出した。10時49分からも便意のためにトイレへ入り、2つの小・中サイズのものを排出した。15時13分からPCをシャットダウンして就寝し、21時27分に起床した。



2019/03/04


本日3月4日は寝ていない状態で日を越して至る。前日の4時台後半に弟が1階に降りて1階リビングのテレビを付けて炊飯をしていたが、本日は3時28分に弟が1階に降りて1階リビングのテレビを付けて炊飯をした。5時20分過ぎから風呂の行為を始めた彼は、給湯パネルの温度を44度(参考:筆者は冬期に39度か40度)にしていた。特別支援学校卒業後の余暇とはいえ、彼があまり放逸になる(羽目を外しすぎる)と、私にとって懸念が増える。そもそも夜は早めに寝る(19・20時ころ?)彼の習慣は今や無意味なので、彼の就寝時刻が3時間遅くシフトした方がよい。

13時40分に母親からのメールを受信した。「風呂場と洗濯機置き場の窓はそれぞれ10cmだけ開けてください。窓が20cmほど開いていたので、私の足ふきマットが雨で濡れてしまいました。(全角英数字など原文ママで引用。この種の話題は先月=2019年2月中にも口頭でされていた)」と書いてある。直後に、私は母親に口頭で「それは本日5時台に風呂に入っていた弟が行ったことだ」という説明をした。もし弟が母の忠告を受けて注意するようにならなければ、今後も同じ事態が繰り返されるであろうし、弟が家で別の色々な問題を起こし得る。母親はすぐに、洗濯物の状況(ウルトラマンのパンツ云々)を回想して私の説明に納得した。次に母親が、私が洗濯物を出さないでいるのではないかという別の話題を切り出してきたが、当然、2018年10月の一件(同月20日・23日メモを参照)からほとんど私は洗濯物を出していないし、当時に私から宣言のメールを送信していたのにそれを忘れたか要領を得なかったか?子供を精神的自立ある人間として見ることのできない、そういう教育も自発的にできなかった・精神的に子供じみた「ニセ親(偽親)」には難しいことである。10時台に外出していた弟が14時38分に帰宅し、母親から色々と詰問され・叱られた彼である。



2019/03/05

本日3月5日は6時30分にPCをシャットダウンして就寝し、14時30分台に起床した。17時29分、外出中の母親が弟の携帯電話から私に通話してきた。2階バルコニー(ベランダ)の洗濯物を取り込む指示だったが、例の通り、通話環境という接続状態(彼らの格安スマホが原因)が酷いように感じる。母親が「電車の中にいる」ということが、その原因の原因というわけではない。17時39分に母親が再び同じように通話してきた。指示内容を実行したことを私は伝えた。母親の自室にあるメモを見ると、母親と弟はどうも、犬山駅で下車して犬山市役所(障害者福祉関係のYouTube動画投稿者として影の有名人である某敏伸さんが2015年以前に務めていたが関係は無いか)に行ったり、東岡崎駅で下車する予定であった。20時45分に彼らが帰宅した。



2019/03/06

本日3月6日は6時3分にPCをシャットダウンして就寝し、10時40分に一度起床したが再び就寝し、16時28分に起床した。



2019/03/07

本日3月7日は寝ていない状態で日を越して至る。1時21分から弟が1階に降りてリビングに入り、テレビを付けて居座り始めたが、彼は1時32分に2階に戻った。2時15分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、3時57分に自室へ帰った。6時27分からPCをシャットダウンして就寝し、14時台に一度起床したが再び就寝した。母親の不興を蒙り、母親がグチグチ小言*をしていたことに関して詳述しない(どうしてとかいう疑問形の言葉もただ情緒的に用いられたものであって答えるだけ火に油を注ぐことになる)。17時台に一度起床したが再び就寝して考え事をしたが、その際に母親が部屋のふすまをノックして私を呼んでも私は反応を見せず、1時間以内に入眠し、21時51分に起床した。



2019/03/08

2019年3月8日12時18分に撮影された「2019年3月1日8時41分に撮影された写真に写る同一ノート同一ページ」

本日3月8日は6時24分にPCをシャットダウンして就寝し、11時40分に起床した。11時45分に母親が発車して外出した。18時29分から便意のためにトイレへ入り、長い一本糞を排出した。18時57分に母親の車が家の前に着いた。



2019/03/10

本日3月10日は寝ていない状態で日を越して至る。1時台、2階で母親と弟のやり取りが有った。弟は夜は早く寝る人物であって今は夜中に目覚めている状態であろうが、そのまま2時28分から猫の呻き声が聴こえ始めた。今年で初めてである。春・求愛の時期などは多くの動物が似た傾向(cf. 前の家でのキジの鳴き声)を持つ。今回は「うぅ~(喉を鳴らすような声。人間ならば口蓋垂・咽頭系の音"uvular, pharyngeal"のようなもの)」と発せられるように怒りの系統である。大概、怒りの系統の猫の呻き声は一匹のみでいる時にされず、その喧嘩相手(対立・対峙する者)らしい他の猫(ネコ・ねこ)がいる。そう思うと、やはり、もっと高い声色(ピッチ・トーン)の猫の声が聴こえてきた。両者の音声は重なったりもする。8時34分からPCをシャットダウンして就寝し、16時38分に起床した。



2019/03/11

本日3月11日は寝ていない状態で日を越して至る。4時1分から便意のためにトイレへ入り、2つの中サイズのものを排出した。11時44分から弟を連れて母親が発車して外出した。私は直後に「ゴミ集積場の様子見(ゴミ無き現場にスズメ3羽とカラス1羽がいた)」をして屋内に戻り、11時49分から衣類の洗濯と風呂(シャワシャン)の準備を始め、13時29分に自室へ帰った。15時30分台に弟が母親に関して「オコリンボ」云々と狂気まじりに不満げに言いながら帰宅した。


16時5分ころからWin10機ノートPCのファンの回転音が強まることに異常さを感じたのでタスクマネージャーを開こうとすると、それは開かれない。SpeedFan (speedfan.exe)も同様である。5分以内にPC上で種々操作をしてみたが、反応するプロセスとそうでないものとが色々あるので詳述しない。サインアウトなどの操作をしようにもスタートメニューの関連項目が開かれない。Ctrl + Alt + Delによって表示される画面は正常だが、その画面からもタスクマネージャーは開かれないし、その画面からPCのサインアウトを行おうとすると、黒い画面「戻って作業を保存するには、[キャンセル] をクリックして、必要な操作を行います。」に「強制サインアウト」のためのボタンが機能しない空欄状態となっていて、[キャンセル] の方でさえもクリックに反応が無い。物理キーでのスリープと、そこからの立ち上げをしても、この画面に変化が無い。物理キーでの強制シャットダウンをした後、10分ほど待ってから起動すると、時間はかかっても普通に起動された。なお、当該PCは先の風呂(シャワシャン)時間を跨ぐ間のスリープ以外の24時間近くに起動されたままでいる。

17時19分からPCをシャットダウンし、就寝するようなしないような状態の後、17時41分に母親の車が家の前に着いた。私が24時間以上、覚醒状態にあることは今年で2度目かと思う(緩急自在型に切り替えた2018年以降の特徴。その側面として今年は10時間以上眠る日も多い)。18時までに就寝し、23時1分に起床した。16時台の件により、このPCのIMEの予測変換データはリセットされているので、「に起床した。」という日記メモにおける定型フレーズが出ない。



2019/03/12

本日3月12日は11時19分にPCをシャットダウンして就寝し、20時12分に起床した。



2019/03/13

本日3月13日は13時54分にPCをシャットダウンして就寝し、23時7分に起床した。ちなみに、私は前日も本日も、就寝~起床の間の睡眠が、2度以上の覚醒で分断されることがあった。本日の一例としては19時10分台であり、その時は一度、顔を洗うなどした(排尿のトイレはしなかったと覚えている)。



2019/03/14

本日3月14日は寝ていない状態で日を越して至る。1時台から母親が1階に降りてリビングに入り、そのテレビを付けて居座り始めた。2時台後半、母親としては珍しく深夜アニメを見ている様子(cf. 2018年12月・弟の例)が、自室へ流入する音声から確認された(母親の場合は個人的に初確認)。3時6分に母親が2階へ戻った。3時59分から私はゴミ出しの外出をした。前々日・前日・本日の弟は「その前日の20時から当日の7時ころまで動向が無い」という珍しい状態である。12時24分にPCをシャットダウンして就寝し、19時44分に起床した。母親と弟は徒歩で外出中のようである。22時44分に彼らが帰宅した。その際は彼ら2人も機嫌を損ねて喧嘩気味である(母: 薬飲まないとだめだわ←ゼロ化した主語は「弟たる彼、あなた」)。



2019/03/15

本日3月15日は寝ていない状態で日を越して至る。8時過ぎから弟が外出した際、彼を呼び止めようとした母親の声は彼に届かなかった。



2019/03/16

本日3月16日は前日14時11分にPCをシャットダウンして就寝し、それから0時44分に起床した。2時54分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、4時56分に自室へ帰った。6時34分から便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞を排出した。7時53分に弟が1階リビングのテレビを付けて1分以内に2階へ戻った。8時13分から弟が玄関ドアからの出入りを1度してから外出した。8時19分から私は腹痛を伴った便意のためにトイレへ入り、多めの軟便を排出した。11時42分からも便意のためにトイレへ入り、多めの中・長サイズのものを排出した。弟は15時台後半に帰宅した。18時0分ころ、1階リビングで母親と弟がいるときに、「言っておきたいことメール(cf. 過去メモ・言っておくこと)」を弟が母親に送っているという彼らの会話を私は聞いた。慄然とする思いである。



2019/03/17

本日3月17日は前日18時42分にPCをシャットダウンして就寝し、1時41分に起床した。起床時、母親は既に寝ていたが、弟はずっと彼の自室で物音を立て続けており、2時43分になって彼が1階へ降りた。母親は10時台から1階に降りてリビングに居座り、12時42分に「庭掃除(草むしり・草刈り)」を13時台から始めるというメールを私に送信した。



2019/03/18

本日3月18日は前日18時32分にPCをシャットダウンして就寝し、1:20のアラームが鳴る前から目覚めており、アラームが鳴った際はその1分以内に起床した。前日の私は、「そろそろ夜昼逆転とその維持状態をしてもよかろう」とも考えていたので、本日はこのように、最近に稀な起床の仕方となっている。6時20分台から母親が弟に話しかけるなど動き出し、本日に彼らが何か外に用事を持っているようであった。無論、母親がそういう様子であっても弟だけが行うことも有り得る。母親が2日連続で屋外の活動をすることはここ1年以内で1度ほどである。7時57分から弟だけが徒歩で外出したが、その10分以内の母親の言葉によれば電車に乗る道のりである。弟の特別支援学校卒業後における彼らの動向からして、母親が弟をどこかへ通わせるように思えていたが、すでにそういう状態にあるかもしれない。この2週間以内に「定期券」という言葉が聞かれたことも、卒業に伴うものではなく新しい動向に関連するものであると考えることはできるが、現状は情報不足である。14時半ころに弟が帰宅し、再び母親と弟の会話(弟への指示)が聞かれてから15時1分に彼が外出した。16時16分に彼が帰宅し、再び母親と弟の会話(弟への指示)が聞かれてから16時21分に彼が外出した。16時37分に彼は薬局からの帰宅をした。

追記: 同月29日に私は、弟が社会福祉施設で就労継続支援B型を受けているという情報を得た。


2019/03/19

本日3月19日は前日17時21分にPCをシャットダウンして就寝し、1時10分に起床した。7時57分から前日と同じく弟が徒歩で外出した。



2019/03/20

本日3月20日は前日15時46分にPCをシャットダウンして就寝し、2時46分に起床した。前日23時台に自然に目覚めたことや、本日1時20分にアラームで目覚めたこともあるが、結果的に10時間以上の睡眠(就寝~起床の間に入眠と覚醒があるので今回に11時間を超したことは有り得ない)となった。12時6分から母親が発車して外出した。12時40分からタオルケット1枚のために洗濯機を作動し、12時44分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、14時10分に自室へ帰った。15時49分に母親の車が家の前に着いた。14時50分台に帰宅していた弟は風呂に入ることが無かったが、おそらく事前に母親と約束があって母親の帰宅を待っていたようである。母親が大まかな荷物の整理・片づけをし終えて(その間は2人が弟の通う場所での弟の人間関係についての話をしていた)16時10分ころから、2人が徒歩で外出した。19時52分に弟が先に帰宅した。



2019/03/21

本日3月21日は前日20時0分頃にPCをシャットダウンして就寝し、1時44分に起床した。起床時には2階で母親がドライヤーを作動させ、弟が物音を立てていた。2時台・3時台に弟が3度、1階に降りた。それらの次は3時25分であり、彼が1階リビングに入ってテレビを付けて居座り始めた。



2019/03/22

本日3月22日は前日19時27分にPCをシャットダウンして就寝し、1:20のアラームに目覚めて1分以内に起床した。私は部屋を出て普段通りに水での顔洗いなどをしようとし、2階の母親の部屋は消灯されている(その照明は消えている)様子を見た。その後に2階の弟の部屋で荒い物音が立ち、その1分以内に弟が1階に降りてこようとした。私はいったん部屋に戻ると、彼は1階に降りて洗面所の水を使い、それで2階に戻らず、1階リビングのテレビを付けて居座り始めた。弟は10分ほどで2階に戻ったが(リビングのテーブルにおかれた茶碗と箸の意味は有るか無いか)、2時過ぎからは母親が2階で長トイレをする状態となった。6時38分から、それまで4時間ほど物音を立てていなかった弟が1階に降り、彼は5kg米袋を開封してから炊飯を始めた。



2019/03/23

本日3月23日は前日18時8分にPCをシャットダウンして就寝し、1:20のアラームに目覚めて1時44分に起床した。2時以降、弟の物音や独り言や1階での動きが甚だしくあり、3時台か4時台から彼が外出して5時台前半に帰る様子があった。6時46分から便意のためにトイレへ入り、中サイズのものを3つ排出した。本日も恐らく弟が8時前後から外出したろう、彼は15時前後に帰宅した。母親は11時~15時に1階リビングで過ごすことが2・3度あったものの、弟の帰宅から1時間以上が過ぎたころから、起きていていて動く様子を感じることができない。19時までに母親も弟も、彼らが取るべき夕食に関する動向を見せていない。



2019/03/24

本日3月24日は前日20時23分にPCをシャットダウンして就寝し、2時53分に起床した。19時台後半からPCをシャットダウンして押し入れに入らずに横臥し、仮眠を取って22時58分に起きた。それによっては眠気があまり除かれず、それ以前からの左脚(ふくらはぎ)の筋肉痛は悪化した印象である。



2019/03/25

本日3月25日は寝ていない状態で日を越して至る。11時40分ころから母親が車のための玄関出入りをしたり、玄関などの掃除をしたり、11時48分から車への水撒きをした。11時52分から母親が発車して外出した。12時33分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、14時3分に自室へ帰った。18時17分に母親の車が家の前に着いた。



2019/03/26

本日3月26日は前日18時26分にPCをシャットダウンして就寝し、1:20のアラームに目覚めて1時28分に起床した。



2019/03/27

本日3月27日は前日19時1分にPCをシャットダウンして就寝し、0時28分に起床した。



2019/03/28

本日3月28日は1時5分にPCをシャットダウンして就寝し、7時12分に起床した。



2019/03/29

本日3月29日は寝ていない状態で日を越して至る。1時38分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、3時14分に自室へ帰った。4時31分からPCをシャットダウンして就寝し、8時47分に起床した。13時41分から母親が数度に階段の上り下りや玄関の出入りをし、14時10分前から母親が徒歩で外出した。弟の部屋のドアノブに「16時30分にバルコニーの洗濯物を取り込むこと」の指示が書かれた紙が貼られている。14時29分、家の付近の様子が怪しいので確認すると、母親が車のドアを開閉していたらしく、車の中にいる。14時32分、まだ母親が車の中で何かをしている際、向かいT家の主人・娘・息子の3名が主人の車に乗ってすぐに出て行った。14時34分に母親が発車して外出した。14時57分、家の前にI家へ宅食の配達の車が来たタイミングで弟が家の前に着き、なぜか彼は郵便受け・ポストの開閉を3回ほど行った。16時39分から弟が1階に降りて何かした直後に2階で掃除機を作動し始めた。19時40分台に母親の車が家の前に着いた。



2019/03/30

本日3月30日は6時28分にPCをシャットダウンして就寝し、12時1分に起床した。14時前、母親が「〇ちゃんってコーヒー飲む?まえ渡したやつ残ってない?最近コーヒー買ってなくて切らしてるから、余ってるの欲しいんだけど」という段階を踏んだ質問をしてきた。母親が去年に私へ買い与えたコーヒーの小瓶1つは、既に空である。ちなみに、母親は前日の買い出し・買出しでイオンのトップバリュのティーバッグにして8袋のダージリン(茶葉産地か加工工場を示唆する原産国名表記はインド)2点を買っていた。その前の買出し=2018年3月20日には片岡物産のトワイニングスの非ティーバッグにして多めのレディグレイ(果皮も含まれる茶葉産地か加工工場を示唆する原産国名表記は中国。更に前も同様のアールグレイを買っていたがそれも中国)1点を買っていた(同時に緑茶である静岡県産茶葉も)。

15時54分に弟が帰宅した際、最近の彼に一度見られたように、彼は近所の公園に寄り道して留まっていたようであり、直後の母親との会話で「すまない、反省しているよ」というフレーズを反復していた。彼らの事情の仔細は不明だが取り合えず、このことを記録しておく。弟は特別支援学校に通っていた時、そういうことをしていなかったが、当時よりも帰宅が早くなっている現況で、今日は桜・さくら・サクラの花見でもしていたろうか?16時過ぎから、彼らの会話に怒気が加わったが、明確な喧嘩状態にならないでいる昨今、母親はきっと恐怖交じりでいるからこそ俄かに態度を荒げるのではないかと感じる。そう思うと、やはり母親は取り乱して大声で「黙れ!黙れ!」と、減らず口っぽい弟に向かって発した。16時40分台、弟が風呂を出て以後にも母親は2階で弟を叱ったりした。18時40分台に彼らが2階から降りて1階リビングに入ってからも、「トイレor洗面所の窓を開けておく(開放する)範囲の程度」などで母親が弟を叱ったり、弟が「こっちの話をきかない、なんて不幸な親なんだ」云々と悪態をついたりした。彼らは顕著に怒るわけでもなく(cf. 2018年8月26日の類聚8th)、夕食を経て弟が22時1分に2階へ行った。ここで母親がテレビを付けた。



2019/03/31

本日3月31日は寝ていない状態で日を越して至る。4時54分から便意のためにトイレへ入り、長い一本糞を排出した。6時53分からも便意のためにトイレへ入り、複数の中サイズのものを排出した。8時37分からも便意のためにトイレへ入り、3つの長めのものを排出した。10時38分からPCをシャットダウンして就寝し、13時41分に起床した。16時13分からも便意のためにトイレへ入り、長い一本糞を排出した。