2019年1月8日火曜日

究極の主観性・客観性と、入れ子構造の共通主観性(限定的客観性) ~言語・美術・音楽・宗教から

共通主観性(common subjectivity, consubjectivity)を知ることは、人間の認知プロセスと大きく関わる言語・美術・音楽・宗教の分野の学問に大きく寄与する。
あるいは、それら分野の学問に対する考察を深めた者が、共通主観性を知る。
多様性と画一性とが究極に拡張された、その中間には無数の階層による入れ子構造が見られる(e.g. 数字1~nの中間に無数の自然数や小数のような数字が有ると見られる)。
そのように、究極の主観性・客観性と、入れ子構造の「共通主観性」を見る。

当記事で「客観性"objectivity"」というものの前提(先行定義)が「客観的存在=認識の客体"objects"は本質的に無・空"empty"であり、共通主観性と分離しておく」というために、あまり扱われないので、先に断っておく。
要するに、論理学でいう「真"truth, true"」や自然科学の知見もこの定義での客観的な判断に基づく「最大限の共通主観性"maximum consubjectivity"」の範疇であることとなり、一般世間の常識は、それに劣った通俗的なものであることになると留意されたい。
客観的に正しい事物とその認識を有する者は誰もいない・客観性は存在しないという前提で読みながら、「共通主観性」について色々と考えられればよい。



言語における例
例えば、言語音声に関して考えられることがある。
以下、 [ ] や / /によるIPA(国際音声記号)の使用に注意されたい。

日本語の「さ行」は過去の日本語(古代・現代の方言)における異音"allophone"として [sa] [ɕa] [ʃa] [t͡sa] [t͡ʃa]  [t͡ɕa] が有り得ることが、当ブログの過去記事(12)に示されている。
現代日本語で「さ /sa/・しゃ /sha/」は音素"phoneme"として弁別的であるが、「し」は母音イの「前舌の狭母音」という特徴のために硬口蓋化を起こして(あるいは古代に硬口蓋音だったものが化石的に残ったという見方もある)「さ」とは異なる音/shi/となっているが、基本的に日本語の標準的な語彙では/shi/を「すぃ/si/」と発音しても問題が無い。
「さ・しゃ」の音の矛盾は、ある意味で現代的に便利な「相補分布」をなしていると言える。
「しゃ」の音価"phone"は日本人が自発的に発する場合に [ɕa] (無声歯茎硬口蓋摩擦音)である(「し」も同じ子音 ɕ)。
他言語から転写された結果の場合、原語の音価(原音)は [ɕa] に加えて [ʃa] (無声後部歯茎摩擦音),  [ʂa] (無声反舌摩擦音)が有り得る(母音aは厳密に中央母音 [ä] だがここでは簡略化)。
「さ」の音価も他言語から転写された場合、その原音は一般的な [sa] (無声歯茎摩擦音) のみならず、[θa] (無声歯摩擦音)が有り得る。

[s] 以外の「しゃ・さ」について、日本語カタカナに転写された外来語の語彙を例示しよう。
※これら子音に母音「あ」以外が付いた形式を、基本的に省いておいた。

[ɕ] …「シャマタ=サンスクリット: शमथ (IAST: śamatha 漢訳仏典:舍摩他 パーリ語の同根語: マタ"samatha") (同言語からの例はシャーンティ शान्ति śānti, シャーストラ शास्त्र śāstra)」 (他言語では中国語ピンイン Pinyin: x によるものが有る)
[ʃ] …「シャツ=英語: shirt, shirts (単数形の場合 IPA /ʃɝt/) (同言語からの例はシャープ sharp)」 (他言語ではヨーロッパの一部や中東やイランなどに見られる)
[ʂ] …「シャンハイ=中国語普通話(官話): 上海 (IPA /ʂɑŋ xaɪ̯/ Pinyin: Shànghǎi, English: Shanghai)」 (サンスクリットにこのシャが語頭の語は数詞6 ṣaṣ- シャシュ系のみがある。二重子音や語中のものではクシャナ क्षण kṣaṇa 刹那・クシャトリヤ 刹帝利・ラークシャサ 羅刹、シャ文字列にこだわらない場合はクリシュナ कृष्ण kṛṣṇaのシュが有る)
[θ] …「ード=英語: third (IPA: /θɝd/)」 (他言語ではヨーロッパのごく一部やアラビア語などに見られる)

日本語話者にとって、音声学における異なる3つの子音 [ɕ] [ʃ] [ʂ] は、共通主観性によって「しゃ行(シャ音素) /sha/」となる。
外国語知識に乏しい時は、共通主観性による「しゃ行」の概念が、そのまま当該外国語に通用すると思うことになる(つまり同一言語の話者集団の共通主観性=限定的客観性はもっと広い領域に通じづらくもある)。
現代中国語とサンスクリットでは [ɕ] [ʂ] が区別される(IAST: ś, ṣ Pinyin: x, sh)が、[ʃ] は基本的に発せられない音と、言語学・音声学でみなされる(発せられても ś श Pinyin: x 音素の異音として認識できるもの)。
同じように、多くの自然言語・人工言語では、基本的に [ɕ] [ʃ] 間の区別をしない。

その両者の一方の音が、何らかの言語で用いられない音価であれば、妥協してその類似音を持つ音素に同化(または中性化)させて借用することとなる。
既成事実化した状態で、外国語知識に乏しい話者がその言語の特徴に同化させられた借用語を知ると、原語の音価との相違点に疑問を持たないことになる。
それであっても、その言語の内では何の問題も無いし、世界的にも多くの自然言語・人工言語で [ɕ] [ʃ] 間の区別をしない以上、人類の言語の広範における共通主観性=限定的客観性が、その範疇で通じることは観測できる。

言語音声において以上のような例は枚挙にいとまが無い。
そのため、言語学(音韻論・文字論)において字素"grapheme"・音素"phoneme"・音価(音声)"phone"などの仮定・分別の概念が用いられている。
例えば、"ch"綴りの字の単語も、英語では次のように認識された語源に基づく音が用いられる。
古代ギリシャ語由来の場合…軟口蓋破裂音 [k] (as in chaos, charisma and character)、
現代フランス語由来の場合…後部歯茎摩擦音 [ʃ] (as in charlotte 人名のみならず一般名詞でもある。ちなみに日本語だとショコラ"chocolat"やラングドシャ-chatが定着)、
他の多くの場合…後部歯茎破擦音 [t͡ʃ] (as in chant and chakra 前者はラテン語canto系で古フランス語経由であるが後世のフランス語と区別された方がよい。同系のフランス語にシャンソン"chanson"が有って音楽ジャンルとして日本語や英語に借用される)

日本語に入った古い中国語の語彙も、漢字の音読みの「呉音(主に仏教系由来)・漢音(主に漢籍や明治訳語由来。当然作者や普及者のリテラシーや慣用性の差でそれらに呉音や慣用音が混ざりもする例はある)・連濁の有無」といった区別で意味を区別することは多い。
ましてや現代中国語においては、なおさら、その音をカタカナ発音にして借用することが有ろう。
英語も日本語も所詮は自然言語であり、近代以前には庶民レベルで慣用的な意味の変化や歴史的な音変化や語源の混同などが多く起こっていたため、必ずしも一定でない。



語彙、概念の名称たる言葉(ことば)についての例は、私=筆者が過去の投稿・執筆のうちに多く記してきた。
現代において「萌え(可愛い存在・可愛さを覚える精神作用など)」はその極みにあるため、「萌えの典籍」では和語としての原義(芽が出ること)を含めた多くの意味を「摂取」しつつ、真実・真理を示す譬喩に用いた(当記事後述の「三萌義」も参照)。
一つの萌え、多くの萌え、無の萌え、それについての総説であり、「萌尊、広く万物諸法を摂るが故に、生類の美女・醜男・童子・獼猴・禽獣みな萌えにして萌えならず、而も萌えならざるは無しと説く。萌尊、汎き萌えを観じて一萌・多萌・無萌と知り、方広の義より萌えの三身を説く(萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・三会)」とある。
実に結論なき結論たる「而萌不萌(萌而不萌)=萌にして萌ならず(觀萌私記・讃萌語脚注)」とも説く。
萌えの真実が分からないと、萌えは善か?悪か?そもそも萌えとは何か?植物か?二次元美少女か?三次元美女か?欲望の心か?綺麗な童心か?という「一語とその事物に関する多義性・曖昧さ」による論争が起こることになる(=人間は善か悪か?そもそも人間は価値判断できない赤ちゃんから賢明な為政者まで色々いて云々、といった世間のあらゆる論争に等しい。あるいは言葉を用いる人間の中に無自覚的な善悪意識が潜在している上で種々の言葉が発せられる傾向も多いため世間の言葉は慎重に吟味されるべきか、そもそも多くの場合は意に介すべきでない)。
何であれ世間の言葉=語彙・単語について、「この言葉は自由に用いられる」とか「この言葉は辞書に載る客観的な定義(正しい意味)に従わねばならない」とかという、相反する主張ができる。

要するに、言葉の意味には辞書的な定義と、それに相似するか相違する多くの実際の用法とが有り、枚挙にいとまが無い(当記事後述の「量性と定性~その場限り"ad hoc"」も参照)。
文法(語順・語形変化に関する規則性)や発音なども「通時のもの(恒常的)」と「暫時のもの(便宜的)」とを使い分けることは、口語のみならず音楽の歌詞・古代の韻文(詩)にも多い。
そのため、言語学者のうちの高名なソシュールという人物は、「ラング"langue"・パロール"parole"」という仮定・分別の概念を提唱したとかと、近代言語学でよく知られている。
これは先述の言語音声に関する見解に、「字素"grapheme"・音素"phoneme"・音価(音声)"phone"」などの仮定・分別の概念が用いられていることと同様である。
それらは、「理論と事実(理と事…過去記事を参照)」、「演繹と帰納」、「条文と判例」のような二項概念に極めて多く類例を見る。



言語に関する他の例として、言葉と同じように用いられる「数・数字」がある。
以下に過去記事(2017年7月10日投稿)より、その話を要略して引用する。
科学も数学も、物事を数字に換算するが、それは、どこまでも「言葉と言葉に定義された物事とを知る者自身や、理解が共通する他者」が意思疎通をすることのために行う。
例えば、1つと想定されたコップがあり、それと同じ形・絵柄のコップもう1つを隣に置けば、2つと想定でき、これが"1 + 1 = 2"という数式となり、道理として肯定できる。
しかし、そのコップがどうして「同じだ」と言えようか?
部分的に傷が付いていると気付けば同一性を見失う人がいる。 例えば、キズやシミが付いていると認識された商品を販売しない店がある(つまり商品価値としてキズやシミが付いている商品は他の商品と「見栄えや安全性が等価でない」という点で販売者にとっての同一性が失われたことになる。無論単に販売しないことには別の感情に基づく要因など種々に想定できるが与えられた命題と関係ない話)。
しかも、工業的に大量生産されたコップでも、分子レベルで分析すれば多くの微細な差異が有ろう。
実生活での計算とは、「おおよそ・テキトー」な感覚で、「これは同じだ」と「仮想」しているに過ぎないが、このように仮想した範疇では、どう傷が付いていても、サイズや絵柄が異なっていても「同じコップだ」と想定することができる(基準が曖昧な子供などは同一性と相違性が混沌としているし見た目の話をすると視覚障害者に不親切でもある)。

次に、コップの中に水が入っているとしよう、世間では80mlとか80ccとか80gとかと単位を付けて数値化するが、普通のリットル換算では80mlも80ccも80gも"0.08L"である。
単位が変わっても数値が同じままのこと(80ml = 80cc)があるし、単位が変わったことで数値も変わること(80ml = 0.08L)があるし、単位を置き換えることが通じないこと(ml ≠ 電力Wなど)もある。
その水の体積や質量や重量やをどのように表現しても、コップの中の水は無数のH2O(天然水・水道水などに混ざる不純物を考慮しない)が集まっており、体積は温度によって変化しやすいし、常温に置けば瞬間ごとに気体・水蒸気として遊離する。
真理においてコップごとに同一性は無いが、もし同一性を言いたいならばコップと名付けるものはみな同一のコップであるし、コップの中の水をどう数値化して複数個用意したところで同一性は無いが、数値化した範疇=想定の範疇で同一性が認められる。
定義をして名称を付ける行為は、水の入ったコップに「80mlの水」とか「2017年1月1日0時に汲んだ水道水」とか「この水、飲まないで!」と多種多様にラベルが付けられるよう、人の都合・人の目的・人の便宜のために行われるのみであり、真実は空虚である。
このように「想定・概念・名称・数値」の世界に生きている分野が科学や数学であり、その世界では計算や実験を成功させるための厳密な定義が重要となる。

※注釈範囲: 酸素は人の生存に必要だが、多いと過呼吸になって死なせ、燃焼すれば人を殺す。物事は、置かれた状況や価値判断など挙げきれない多くの因縁の結果にのみ、必ず善悪が分かれる。酸素や水は、善か?悪か?どちらでもあり、どちらでもない。水の認識すら、物質H2O(水素と酸素の化合物)という人や、無味無臭無色透明の液体という人や、泥まじりのものしか見ないという人(一部のアフリカなど)もいる。水の用い方は千差万別になる。水中で呼吸できない生物に対する拷問にも使える。つまり、水は万・億の善と万・億の悪を有するものが、それは無い。 →この※注釈範囲には中論という仏教論文の23:8-9偈24:18偈23:15偈が順に提示される。

他に、自然科学の知見によって「100%というものの誤謬」を言及する。
以下に過去記事(2017年3月8日投稿)より、その話を要略して引用する。
科学ではエントロピー増大則があり、自然現象としては刻々と変化してゆくという法則を免れられないから、人間が手を加えることで修正ができることを説明する。
無論、分子レベルで100%同一のものに戻すことなどは不可能であろう。
数字・理論で構成されたコンピューターの世界であれば、情報を擬似的に変化させつつ、擬似的に戻すことができ、理論上は100%同一のものに戻せる。
例えば、ある人がモニタ画面・ディスプレイにR = 255, G = 255, B = 255の真っ白画面を表示させ、それをR =0, G = 0, B = 0の真っ黒画面に変化させ、再びR = 255, G = 255, B = 255に戻すことは、それで理論上、100%白の画面を100%黒の画面に変えて戻すことが成立している。
しかし、モニタ画面・ディスプレイに出力されたものとしては、液晶・ブラウン管の構成物質や発された光などの条件が微細に異なっているため、この観点で100%同一のものでない。
ましてや、そのようなものを人間の目を通して捉えたものとしては100%になることはない。

物事に「100%」を言う場合、ある一面についてを指すものでしかないと思ったほうがよい(アルコール度数0%ビールとか果汁100%ジュースという製品の表示も"許可表示"であって実質的数値とは言いづらい)。
100%云々については「理と事」について語った記事の通りである。
90%や、99%や、99.999...%の再現ができても、物質の分子レベルの在り方や時間上の同一性を問うた時、どうしても100%になることはないという。
基本的に「100%」という表現は、そういった厳密な定義や微細な条件を排除した便宜上のものであるが、大概の場合は、そういった観点での100%か否かを気にしないであろう。
物事の予知(予測)において「確率は0%だ、100%だ」といった断定も、ある特異な条件(人の死・地球崩壊など)を排除した場合に言われる推量・推断の域を出ないと留意すべきである。



美術における例
例えば、ある絵画に描かれた人物は、男性なのか、女性なのか?
そもそも人物ではなく、天使や悪魔や妖精(精霊)や獣人などの人外系かもしれない。
ある部分に用いられた色は、それが赤であるとも、茶であるとも、黄であるとも、他の色々な同名異色・異名同色らしい名であるように言える。

そして、そう認識し得る色や描写された客体(オブジェクト a object; objects)について、それが「美しい」とか「醜い」とかと価値判断されたことが、どのような他人たちに共通するか?
例えば、ブグローさんの描くヴィーナスやキューピッド(男の娘)が美しい(ヴィジュアルがかなり官能的だが)、そして背景も綺麗で優れた作品だという評価が有るとし、諸君はどう感じるか?
肉体的性別でいう男性同士ではどうか、女性同士ではどうか?
民族的に日本人の内ではどうか、他の東アジアの人々ではどうか、西洋の人々ではどうか?
日本人の内での未成年ではどうか、若年層ではどうか、高年層ではどうか?

一部の人は、世間の眼における優れた美術作品よりも、「子供の落書き」や「学習途上の児童が一生懸命に描いた絵」を好んだり、それらに執着して他のものを嫌うこともある。
または、ある人が元々好みでない絵柄を、当人が同調したい性別・年代ないし一個人に合わせ(無意識・潜在的にそうなることが特に重要な現象)、そのような絵柄を好むようなことも有り得る。
※なお、単にある人が誰か好きな他人から注目を受けたいとか親交を深めたいとかといった美術の目的を離れただけの条件は、当記事の主観性に関する主題から離れるので除く。

萌えの典籍では、それらの事物・視覚表現の特徴の同一・別異の性質を解明して説明する。
どのようにして最高の美術作品が出来上がるかといえば、最高だということの基準(=最低だということの基準)自体が把握された心に本来出来上がっているか、今直ちに出来上がるものである。
過去の芸術家(画家・彫刻家)たちが言及した「芸術"Art"・自然"Nature"」とは、各々定義の異なりも有ろうが、萌えの典籍の説によれば、以下のように究極の主観性と共通主観性とに適用できる。

・心に本来ある"natural, original"最高の美術作品=究極の主観性についての譬喩
・世俗的な(五感・五官で知ることのできる)に認知し得る優れた特徴を持つ美術作品=共通主観性についての譬喩
これらを知る者が「萌尊」であり、心に本来ある"natural, original"最高の美術作品を「心」自ら照らし出す・顕現させる能力も持つ。



この心は、萌鏡真言にあるような"Paramaratna"を得た心である。
ॐ परमरत्न गुणप्रभात  स्वाहा | (IAST: Oṃ parama-ratna guṇa-prabhāta svāhā)
それで「真の自己満足」もできるが、他者から尊敬されるような者である以上は、客観的もとい共通主観性にならった世俗的な善・他者への顕示もできる。
世間の人格者とかということも、彼の内にある高尚さ(本当は他人に知り得ないこと)に加え、世間・世俗に讃えられる何らかの共通主観性が認められる前提に、その尊敬や称賛が有ろう。

萌尊は、「萌え(i.e. あらゆる動詞由来の名詞全般)」の多義性のうち、骨組みとして示された「三萌義」の理解(事物の存在・その認識・執着ある心による全てに対する価値判断)を必ず得る。
それは仏教教義の十二因縁(十二支縁起)などともよく通じたものであることが、「注三萌義」などに説明されている。
物事の自然を見て芸術にするという芸術家は、多かれ少なかれ、これに近い精神性が有ろう。

この「萌えの法門」において必ずしも適用されない芸術理論に「二次元・三次元の相貌の相対的な互換性に関する理論(および相対的なデカ目度の測定)」がある。
これは、後述の音楽にも通用するような「人間の多少の先天性で定義された共通主観性」に関連しつつ、後世の主観的な認知の普遍性を明らかにしようとするものである。
果たして現代日本の美少女や美少年のイラストは、その特徴が、どれほどに実在人物の美人や、19世紀以前の西洋絵画・彫刻の人物の表現と相通じるものか?
「美しいとされるもの」を絶対性によって写実的に再現することに対し、相対的な範疇において擬似的に再現することがどれほど有効であるか、考えることとなる。

眼色 浄不浄 快不快

以下に、「晴天と草原」の色彩が「快楽・不快感」のどちらを催す因縁(原因・条件)となるかを論じた萌えの典籍の説(萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・二会・拾主と尊者の問答)を引用する。
 尊者が「なでなで三昧」より出でて言葉を聴く心に変えたことを拾主は知ろしめし、法の解説(げせつ)を始められます。「晴天の色は澄み渡って心地がよい。その蒼茫たるさまに、我が心も澄むようである。草原の色に生命の息吹を覚え、環境の恵みを心身に受ける。晴天と草原と、そのハーモニーは人間としての煩いを離れさせると私は感じる。ここでそれ以外の事象を介在させないでほしい。例としては、視界の外に汚物が堆積しているとか焚火がされているとかで害悪のある臭いが漂っている、などである。晴天と草原の風景は、青と緑が彩る。その色彩について『生々しくて気持ちが悪い・青空や植物に悪い記憶がある』と感じる人もいる。人の感性とはそのようなものである。私がどのような美辞麗句を以て光景を讃嘆すとも、決して心に容れない者がいる事実は排除できない。それでは障礙の者よ、そなたに問おう。目に見える色そのものに『快・不快(浄・不浄)』が有るのか?」

 「いいえ、拾主さま。そうとは思いません!」 - 拾主問曰「障礙(尊者之名)、於汝意云何?眼色是淨耶不淨耶(or 眼色有垢淨不)?」。尊者答曰「不也拾主!」。

 「善く答えた、その通りである。色そのものに『快・不快』は具わっていない。この『色』とは、いわゆる五色(ごしき、青・黄・赤・白・黒)に代表された、単純に認識されている色である。しかも、目に見える色の和合(関係性)にもまた『快・不快』は有るということが無い。この『色の和合』とは、青と緑のハーモニーであり、その状態は青と緑の光景の場合に『生き生きとして気持ち良い(快)・生々しくて気持ち悪い(不快)』という二面性を有している。加之(しかのみならず)、いわゆる声・香・味・触・法(しょう・こう・み・そく・ほう)もまた『快・不快』という固有の性質"svabhāva"を有していない。色と声・香・味・触・法の六境の中に和合があっても、同じく『快・不快』は有るということが無い。それでは障礙の者よ、復たそなたに問おう。なぜ、色そのものや色の和合ないし六境といった諸法(ありとあらゆる物事)に『快・不快』は有るということが無いと考えられるか?」

 「はい、拾主さま。諸法は、存在と認識とに代表される五陰(五蘊、色・受想行識)など、表現しきれない衆縁(しゅえん・諸々の因縁)により、『存在するもの・存在している・存在していた・後に存在するかも』と認識されています。色に『快・不快』を覚えることも、その色の概念と名称とが記憶された状態においてその人の感情がどうであったか、その人がどのような物事と結びつけたかにより、いつでも『快適さ』か『不快さ』を得ることになります。別の情報・記憶・経験を通している(思惟憶想をする)ので、如実に物事を見られなくなる顛倒がございます。元々知らないことでさえも、新たに知った際に『知らなかったから感動した・知らなかったから悔しい』といった『快・不快』の感情を起こします。このような衆縁が煩雑にして夥しく確認でき、どれほど分析しても言葉にしきれません!」

「観萌行広要」関連文章には、絵画を見る心に加え、画家(画師・絵師)の心についても哲学的に言及されている。
http://masashi.doorblog.jp/archives/50230561.html

他、主観性の視覚表現(主観性による視覚表現・主観的に認知されたものを視覚的に表現したこと)は美術作品において種々に見られる。
・風景(自然や市街のみならず一個体の客体である植物や建築など)や人物やに見られる部分的な誇張(いわゆるデフォルメ。それは主観的に誇張されたものであるために文化や時代によって手法が異なったり見る者の美醜の価値判断も分かれる。しかしなぜ良いと感じられるかについては良いと感じられる主観的理由・精神面の統計学的研究や科学機器を用いた実験のみならず、客観性の側面においても作品の幾何学的な特徴・傾向を考察する必要もある。 cf. 二次三次相対互換)
・尊い人物・聖人の肖像における光のようなもの(光背などと言われる。仏像でも頭頂から光を発するなどとある。三十二相の眉間白毫相は別の話。イスラム教ムハンマドの偶像でも密教の明王のような焔が描写される。後世のフィクション作品・漫画類では尊い人物・聖人以外に肉体的に強い人物の気功とか波動とか気の流れとかオーラとかとして表現されるようになる)
・人間は顔ないし頭部で人間ごとの区別をする傾向にある点で、その辺の特徴を抽象的にするか、非現実的なもの(髪色・肌色として存在しない色を用いたり極彩色にするなど)にすることで生々しい人間らしさを低減しつつも人間として認識し得る特徴を残すことができる。単純にデフォルメの類ならば動植物でも同様にできるが、人間に対して行うと、やはり好き嫌いが分かれよう。現代(早くて20世紀初頭から現在まで)の芸術関係では写実的な美貌を備えた人間視覚表現が減ったようである。
・人物の外見に対する美醜の価値判断は、先天性と後天性とによる。先天性によっては、本能的に雌雄の目的性(生存・繁殖の適性)に沿ったものが美しい・性的に望ましいと見られる。虫や鳥のオスにおいて、外見が華やかであること・鳴き声が美しいことが好例である。人間においては「男の肉体美・女性の豊満さ(masculinity, femininity)」などが挙げられる。性的"sexual"であり、性差別"sexuality, sexism"である。それはある種の客観性でもある。しかし、人間は後天性による主観性が強い一面もあり、それは物質的に裕福で精神的に自由な傾向にある時代・文明に顕著である。その場合、「男の肉体美・女性の豊満さ」が必ずしも人物の外見におけるアドバンテージ(利点)とはならない。五感を有する人間各自の主観性には相違点が許されるが、多かれ少なかれ、同じ時代・文明に共生する者としての共通主観性による類似点も有ろう。



音楽における例
音楽の良し悪しは、極めて主観に左右される。
先天的資質も考えられるが、ここではあまり言及しない。
特定の不自然な音には危険を察知する反射が有る、と人間や一部の動物から確認できるであろうが、特に人間が音楽においてそういったイレギュラーな要素を効果的に用いることは可能である(それは前衛的だとか実験音楽だとかと言われる)。
それであっても頻繁にされると、そのリスナーは学習能力によって慢性化(ウンザリ)するので、「効果的」ということも人間の主観性に基づくこととなる(まずは個人レベル・自己の心を自覚・意識し続けることが大事)。

おおよそ、後天的経験に音楽の良し悪しの感覚(梵語でいえばsukha, duḥkha古代ギリシャ語由来の英語でいえばeuphoria, dysphoria)は分かれる。
男声が良いとも、女性が良いとも、そもそも音楽に人の声や歌詞は無い方が良いとも聴かれるし、その逆に声のみの音楽が良いとも
また、楽器構成はシンプルで音色が自然なものが良いとか、シンセサイザーを主に用いた系統が良いとか、一般的な(古典的ともいう)音楽と特徴を異にするアンビエント(環境音楽)のような系統が良いとかとも聴かれる。
あるいは、特定の目的性(e.g. ダンサーがダンスに合わせるため or 詩を読むため or 手軽に音楽を聴ける現代において「作業用BGM」とするため)で音楽の良し悪しを分別している者(それは同時に、特定の目的性を除いて別に良い音楽が有ると思わない者でもある)もいようか。

物質的に豊かになった時代においては、多くの音楽表現が可能となっている。
それで、既成のジャンルに対する反骨精神によってアンチテーゼを突き付けて新しいものに止揚することも有り得る。
それらは音楽史を多く参照されたい。
私=筆者の過去ブログ記事には、以下の例がある。
2015年4月17日: 「依法不依人」に音楽の好みを惟う
https://lesbophilia.blogspot.com/2015/04/blog-post_17.html

2016年5月13日: 音楽と宗教の概論 ※メタルのジャンル分岐とセクト主義に関する話がある
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/05/musica-et-religio.html

音楽理論のうちの客観性の例として、科学的・数学的な精緻さが有る。
古典的な音階・コード理論が先にあり、近代の音声波形周波数のような知識@で裏付けしたようなものが、今日の音楽演奏と制作のツール(実際の楽器やソフト音源やVSTiはもちろん、MIDIシーケンサーやDAWソフトでノートを打ち込むシステム)に浸透している。
例えば、鍵盤が88ある標準的なピアノの中央付近のラの音の周波数が440 Hzである場合、1オクターブ下の音の周波数はちょうど半分の220 Hzであるように、1オクターブの前後はその音の等倍・等分であるように調律・チューニングがされねばならない。
その近代以後に音楽へ与えられた科学的・数学的な知識が無い者でも、聴覚的な良し悪しに従って音楽演奏と制作が可能であるため、いわゆるブラックボックスの技術であろう。
そういった客観性の前提で、いくばくかの作者の主観性をまじえて「最高の音楽」といえるものをいくつも開発することもできる。
しかし、それだってリスナーの主観性の強さを重んじて考えれば、最初は良いと思われたものも、同じものや似た別物をいくつも聴くならば、学習能力によって慢性化(ウンザリ)することが想像に難くない。
また、何か悟りレベルで感性の優れた者が周波数の高い・低い音の構成について「今聴こえる音楽も所詮は空気の振動の類だ。何であれ音という事物に好悪は無い」と感じることも有り得る。

何を聴いてどう思うか・・・、それはまさしく主観性である。
何らかの理由・音楽理論で好悪や優劣を求めることもできるが、共通主観性の範疇であり、本質的には=客観的には、全て等しく価値が無いものとなる。
ただし、もし誰かが「この音楽はよい・好みだ」と感じて作曲するにもかかわらず、その人が10年かけても音楽理論で言える類似性が少ない(多い・少ないの価値判断も主観性だが)ならば、やはり「作曲者として劣っている・模倣さえできない者(しまいには人間的にもアレ)」と価値判断されることとなる。
音楽で快楽を得るどころか、最終的な快楽に至らない苦しみだけの過程と結果とに留まることとなる。
だから、音楽を志す人は、それで金儲けすることを志さない場合には、主観性の自覚・意識が肝心であろう。
しかしまた、金儲けをしたい者であっても、自己の主観性と他者の主観性とにおける普遍性を利用した意欲的な作曲が、時として「世間での極端な成功」のきっかけとなりえる。
やはり、世間の道は、何であれ、茨の道である。
「生と死」というテーマにまで拡げないにせよ、真の客観性の前ではいかなる認識行為による苦楽・善悪も空虚であることは知られたい。

音楽を作る者は、ひとまず共通主観性に則って音楽理論による「心地よい音楽・ハマる音楽」の特徴を知ることになる。
歌詞を書く者は、詩的な特徴…フレーズごとの拍数・音節数や韻(rhymes, 頭韻や脚韻)、音階の上下に伴う母音の広さ・狭さ(e.g. 次に来る音が相対的に低いと相対的に狭い母音を使う)など、様々に考察する。
何であれ、そのような努力をするならば、他人の音楽作品を聴く際に音楽理論や詩の韻律論や言語発音などについて意識をするために他人の音楽作品を、作曲や作詞をする以前の頃(e.g. 幼少期)と比べて「心地よさ・ハマり」を得なくなるし、苦しい気持ちすら強めかねない。
しかし、そうして作曲や作詞の努力をする者が、「作曲や作詞をする者としての主観的な快感(快楽・喜悦)」を得ることもあろう。
過去の高名な音楽家に、そういう者がどれほどいたか分からないが、時に、その主観的な快感を得ることは、数年でも作曲や作詞の努力をする者が誰であれ、得たこともあろう。
音楽理論や詩の韻律論や言語発音などを知らないリスナーには、その者にとっての音楽に対する快感があるように、「作曲や作詞をする者としての主観的な快感」が有る。
これも「生と死」というテーマにまで拡げないにせよ、真の客観性の前ではいかなる認識行為による苦楽・善悪も空虚であることは知られたい。



宗教における例
信仰を持つ人々は、何らかの理由で自身の奉じる神を他方の神と「別異」であるとみなしたり、「同一」であるとみなす。
モーセやダビデの感じ取った唯一神と、イエス・キリストの感じ取った唯一神と、ムハンマドの感じ取った唯一神とは、相互にどう異なり、どう同じであるか?
なぜ唯一神の名は、多神教の神々と同じような名称であるか?(アラビア語のアラー=アッラー=アッラーフ الله 定冠詞の有無や英語"God"大文字による固有名詞化などの区別によって別の語句・別の概念だとも言われるが、それ自体なぜ? cf. イスラム教のシャハーダでは"lā ʾilāha ʾillā llāh"として英語でいうgodやdeityは無くGod = Allahのみがいるという)
なぜ唯一神を示すために、時として無数の名や言葉を用いる必要があるか?
※例えば「イスラエルの神」や「万軍の主(1サムエル記1:3 צְבָא֖וֹת)・我が主」や「我が父・我らの父(マタイ6:9 Πάτερ ἡμῶν)」や「慈悲深きかた(クルアーン55スーラ الرحمان)」などという。イスラム教にはより多く・明確に、唯一神の異名が称えられる。仏教の仏についても現世に現れた釈迦牟尼仏や過去世の仏には「十号(10~11の称号・名号=如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御大夫・天人師・仏・世尊 サンスクリット: tathāgata, arhat, samyak-saṃbuddha, vidyā-carana-saṃpanna, sugata, lokavid, anuttarā, puruṣadamyasārathi, śāstā-devamanusyānām, buddha, bhagavān パーリ語は如来を除いた9~10種)」がある。理法が考察されると、上座部仏教でも大乗仏教でも法身(dharmakāya, パーリ語でdhammakāya パーリ三蔵のうちでは長部27経=アッガンニャ経に一度きりbrahmakāyaと並列で挙げられるのみ)仏に関する教義が浸透するが、そちらは「毘盧遮那(virocana 遍照・普光の意味)」くらいにしておこう。

唯一神への信仰が深ければ、その信仰とされる感情を依拠に、同一であることを疑わないようにするし、そう主張する。
なぜならば、異なる神を有する者がいるとすれば、「唯一神の唯一たる性質(the unity of God, unityの語源はラテン語でunus + -itas 唯一性)」が空虚となる(ように主観的に認知する)からである。
※現代ではヒューマニズムの観点で信仰の心の共通性を重んじたり、廃れ行く宗教の結束として、「どの宗教の神も異なるようで同じ救いの力があるんだ!」とのように主張されることも多い。

しかし、排他的な信仰とされる感情を持つ者は、聖典=教団の異なる唯一神を別異だと主張する。
なぜならば、聖典とその教義=教団が異なる者が唯一神を信じているならば、彼ら自身の教義に自ら非を見ることとなる(ように主観的に認知する)からである。
また、神学的な道理から「宗教や言語(神の名)は多く存在しても人々が信じる神は唯一である」と言いながら「私たちの教団は私たちの教団である」とのような主義・主張も多いと、宗教知識の少ない者からは、やはり多くの教団と用語が有る=その分に多くの信仰対象も有ると見られかねない。
今のユダヤ教やキリスト教(カトリック教会・正教会・プロテスタント・モルモン教・エホバの証人 etc.)やイスラム教(スンニ派・シーア派・アフマディーヤ etc.)として分別・包括される一神教の宗教(右記よりも更に細かい分派"sects"も有る)を現代人の価値判断基準で見れば、当然、多様性が有って「多様故の畢竟一"oneness"」という結論を得ることは難しいし、神学的な道理で統一的な信仰の状況を解しても大概は分別が強く残ったままである。

これら「同一・別異」に関する諸々の主張は、何の教義や宗教的行為をどう主観的に認知したかによって各々の主張が変わったに過ぎない。
無神論者のうちにも、表面的な宗教理解を以て彼らが想像する所の神=宗教が説く所の神は「いない」と否定する者もいるが、同じことである。
唯一神は、彼らの主観的認知=表層心理に現れた精神的偶像(無形偶像)たる神とは別に、存在している言うこともできる。

現代、インターネットによって諸宗教の聖典のうち、パーリ語の上座部仏典と、梵語の大乗仏典と、それらに対応する漢訳仏典と、各種キリスト教翻訳聖書や、適宜に婆羅門系(現代では各種ヒンドゥー教が奉じる)の典籍や、アラビア語のクルアーンや、ヘブライ語のタナハ(キリスト教にとっての旧約聖書)などを読みたてまつった筆者としては、それらの主張も全て「正しく」、全て「誤り」である理由を言える。
何よりも、宗教信者となるならば、その信仰の目的性によって正誤が判断されるべきだと考えている。
信仰の目的とは、つまり、昇天や解脱や往生や成仏の類である。
※目的はインド言語・サンスクリットでアルタ"artha"だと世間でよく言われる。それは現世利益・即物的な利益を意味する言葉でもある(cf. Arthaśāstra 実利論)。釈迦牟尼仏の名は「シッダールタ"Siddhārtha (siddha + arthaの連声, パーリ語シッダッタも同様)"」だが、これも「成利(利益の成就)」と漢訳され、その「利・利益」は不特定の・何らかの「結果」であろう(cf. 悉達, 成利で大正蔵DBを検索)。仏教の目的達成の境地は、涅槃とよく言われるが、パーリ語仏典や漢訳阿含経などに涅槃は不死、不死は甘露と言われるように甘露という甘い蜜のようなものに譬えられることと似る(cf. 梵語アムリタ"amṛta अमृत"英語イモータル"immortal"・ラテン語"immortalis"古代ギリシャ語アンブロシア"ambrosia ἀμβροσία"は不死の意味ならずギリシャ神話で神々の何らかの食品・飲料の名となる。英語ネクター"nectar"という蜜もとい古代ギリシャ語ネクタルは滅びを超克するという原義から転じて同様)。この解釈が客観的に正しいと断定できず、私が私なりにインド言語・漢語の典籍や近代インド学解釈を見て学んだ結果の「主観的な意見」であると言えばそれまでである。

目的性とは、それを志す意識と、その達成・成就の手段である。
その信仰の目的性の支えに、自身および目的を同じくする他者(仲間・同志)のための言葉が、「正しく・優れている」とされるはずである。
結局、人が用いる言葉や、その前提となる思考は、いつも正しく保たれることが難しい。
その信仰や教義の正しさ自体否定されてはならないという様々な意識のために、宗教的な目的を達成する障害を信者自身が生むことになる。
宗教的な目的を達成する障害を生む要因に自我意識と欲望と不快感の類(仏教でいう無明・三毒やキリスト教でいう七つの大罪)が挙げられる。
これが、宗教の教理で把握されても、そのように信仰の目的性の支えとなる思考や言葉や行動は「いつも正しく保たれることが難しい」。
私の文章に、もし不快感を持つ者がいて執着が残るならば、彼もまた宗教的な目的を達成することは難しい。
私もまた、日頃、そのように自我意識と欲望と不快感の類に悩まされることを自覚している。

話を戻すが、世界宗教・民間信仰の何であれ、神というような名を持つ「尊い者(共通観念)」は、畢竟自己の内にある(究極的には実在する事物・人物も全て同様)。
仏教では、過去の無数の諸仏・諸菩薩の多様性や、功徳の高い娑婆世界の仏弟子など、尊い存在(仏宝・僧宝)が多くあったために、大乗仏教の方で法身・報身・応身の「三身"trikāya" (三身一体)」という答えを出した。
キリスト教では、主要な教会・教派で父・子・聖霊の「三位一体"trinity"」を信じて疑わない。
ヒンドゥー教では、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァの「三神一体"trimūrti"」が多少支持される(基本的に各教派の信仰に主要な神格が変わる)。
それであっても、各宗教の信者が「自分たちの教義が尊い!他者のもの(と認識された自分たちと異なる教義や形式的に異なる教団の教義)は劣る!他者のものでは真の幸福を得られない!」という趣旨(言葉としてはストレートに表現しないとしても根源的・潜在的にはそういう意識がある)の主張がされることも多い(先述の通り信仰の目的性によって正しい主張でも誤った主張でもあることを留意されたい)。

一一色相、萌ならざるは無し、不染不浄・不一不異、みな萌えにして中道なり。萌尊、広く万物諸法を摂るが故に、生類の美女・醜男・童子・獼猴・禽獣みな萌えにして萌えならず、而も萌えならざるは無しと説く。萌尊、汎き萌えを観じて一萌・多萌・無萌と知り、方広の義より萌えの三身を説く。彼の霊と人の心と草の芽と、その生ずることと、萌義を知りて顕示せる我と好色萌相と及び汝と、総て萌えの三身に合して皆萌えなり、余の諸法も亦た三身に非ざるは無し。一萌・多萌・無萌と次第に観て一即多・多即一・無一無多の萌えを仮に三種に分くるも、実に一異なく三も余も無し。 - 萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・三会より i.e. 当記事の脈絡で「宗教でいう『三〇』とその『一体』は真理でないが真理のように用いることができる」という二面性の説示と解釈できる

「多様性と画一性とが究極に拡張された、その中間には無数の階層による入れ子構造が見られること」の例として、諸宗教の教義・教派・教団の特徴を知るとよい。
それには、自身が「仮想入信(無宗教・非無宗教の立場)」をして「自己・信仰におけるアイデンティティ」を仮定せねばならないことも知られたい。

参照
2017年4月21日: 形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html

2018年1月10日: 仏道修行のための論理、不戯論のための戯論
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/01/drishti.html





以上、言語・美術・音楽・宗教から、少しの例を挙げた。

これらの事項について知る者が、人間の思考について、言語や行動などに現れた要素から「共通主観性が無限に大きくも小さくもみなし得る」と考える。
主観性の総合は客観性に等しい。
客観性の究極は主観性に異ならない。

これらのことは、次のようにも言い換えられる。
人間に対する、何らかの宗教でいう神・仏のようである。
何らかの宗教でいう神・仏に対する、何らかの宗教でいう悪魔のようである。
生と死の関係のようである。
世の人が言うところの「妄想と現実」の分別のようである。
最も大事なものは最も人々の知ることができないものである。
最も大きいものが最も小さいものである。
実に不可得(unobtainable, unobservable)・不可量(immeasurable)・不可説(ineffable)である。






起草日: 2018年11月27日
主観性・客観性の区別に関しては過去にも当ブログで幾度としてきたが、2018年9月以降、私は言語・美術・音楽・宗教といった人文科学分野において主観性が尊重されねばならない一面を感じるようになった。
そこで、それらに関するジンテーゼと、一つのアウフヘーベンを、最低限の例と共に簡略に示すことにした。
無論、先述の通り、過去のブログ記事でも仏教学・哲学のような脈絡で十分にこのことを説示してきたろう。
何せ、大乗仏教では「三身」や「三諦(中論に基づいた天台宗教義)」や「二諦(龍樹菩薩中論24:10偈以前から部派仏教で言われていたろうが中道・戯論寂滅と関連した点で中論のものが想起される)」といった教義で、これらのことを既に示していたからである。
現代的・学問的な応用のためには、そのための例示と説明が必要であるから、当記事ではそれを簡略に行った。

主観性の尊重は、物事の客観的善悪や損得の無い、虚妄に想定された絶対性に心が支配されない精神状態に至る手段となる。
何か、今までの心にとって悪い出来事に直面しても、柔軟に・冷静に処置できるようになれば、学問・芸術はもちろん、日々の生活においてもメリット(ベネフィット)が多いと、私は思う。
それも、形骸化した私にとっては、なかなか効果的に機能しなくなってきた。
その匙加減もまた、主観性の道理にならって考察されねばならない。
やはり、学問・芸術と人生とにおいて私の探求は終えようにも終えられない。
場合によっては、「仮想入信」による現代的個人主義における宗教信仰も兼修されねばならない。

なお、記事表題などに「入れ子構造(英語: nesting, プログラミング用語でもある)」という表現を用いたが、この代替表現には「フラクタル"fractal"」を私は想定する。
それは、数学や幾何学の関数や相似の図形に関する意味(自己相似"self-similarity")と、そこから比喩的に用いられる形容詞の意味とがある。
本文の随所や、中でも最後の方に書かれたことのイメージの例として参照してもよい。



以下メモ
言語分野における関連用語

「量性と定性"quantity and definity (後者は個人的な造語で言語学などに用いられず後の勉強でたまたまdefinitenessという同義語を知った)"」

量性"quantity"…「どれほど(どの程度 いくら ラテン語でいうquantus)多いか(more 反対にどれほど少ないか less)」ということの「量り(quantum, measurement)」についての性質。それによって「どれほど"how much, how many"」という疑問詞や「それの程度」の表現や、「数量詞"quantifier"」や「形容詞(よりもっと~=比較級、最も~=最上級を含む)」が用いられる。つまり、人が事物・現象に「多寡(多少)」や「優劣」や「正邪(正誤)」や「善悪」などを主観的に認知して主観的に思慮した結果に用いられた言葉に「量性」を見出す。

定性"definity"…「これとそれとは同一である・別異である(same, different または等しい・異なる)」ということの「一」や「同一認義(to define; to determine)」についての性質。それによって「限定詞"determiner"・指示詞"demonstrative"」や英語・アラビア語などに代表される言語群の「冠詞"definite article"(仏・伊・西などロマンス諸語では歴史的にラテン語の"ille"のような限定詞・指示代名詞の類が定冠詞に変化した)」が用いられる。つまり、事物・現象を同一性あるもの(反面にその別異のものも想定される)と主観的に認知して主観的に思慮した結果に用いられた言葉に「定性」を見出す。

さて、本当に、あなたと私(読者と筆者)とは、「この言葉・その言葉"the word"」を認識できていようか?そもそも、筆者が本当に文を書いているということ(筆者の筆者たること)を、誰が証明できようか?「この・その」という同一認や仮や暫的表現も、共通主観性による「便宜的想定」の範疇で有り得る(=真の客観性としては有り得ない)。ある話し手が「これはマルでこれはバツで」という時の「これ"this, 梵語: etad, ラテン語: hoc"」は、話し手とその聞き手とが共に在る状況でしか通じない。言語は、用いられた時「限り」の「仮初め(ラテン語ad hoc = for thisが英語でアドホック・「その場限りのもの」となるような意味的共通性がある)」の意味しか無い。しかし、固定的な意味とその作用を期待して人々は後世に及ぶような教育・思想を示し、文書・文学を著す。古語・死語・外国語であれば、普通は後世の母語のみしかできない人には通じないのに、結局は翻訳されて通じるか、通じたい者がわざわざ古語・死語・外国語を学ぶこととなる。

量性の「どちらの事物・どちらの時が、他方の事物・他方の時よりも、どのくらい多い・少ない(優劣・正邪・善悪など)」という表現や、定性の「これ・それ」ということも、その事物が客観的に知られている状況にあらねば、最も詳細な表現も等しく空虚となる(emptiness, meaninglessness, nonsense)。基本的に、日常的な会話も独り言も世間の格言も、この「量性・定性」や、言葉の「その場限りであること」という、「条件によって意味があること」に乖離するものでない。これら「空虚である」という認識から、無量の・無限の(範囲や時間に限定の無い)愛や慈悲(love, kindness, compassion)が保たれることは、宗教信者の美徳である。私には、そういった徳の有る考え方・見解(thought, view, 梵語: vitarka, dṛṣṭi)が、維持されづらい。

「量性と定性」の事例が示された過去記事 (quantity, definityといった語はほぼ出ないが類義語や語源的に通じる英語・ラテン語・梵語などの語句が見られる)

2017年1月6日: 本来的・本質的に「優しい心・思いやり」が人間に備わっている事の理の論証 ~ 2つの真理 ※主観的真理と客観的真理に関する説示
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/caritas-generis-humani.html

2017年2月20日: 仮設エッセンス(仮我・假我) ~ 主観的真理に生きる道
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/02/provisional-establishing-of-the-essence.html
ある判断基準で、二つの物事は共に無であり、ある判断基準で、二つの物事は共に有となり、その二面性・多面性は第一義諦・世俗諦のようである。
物事の勝劣も、「片方が勝れてもう片方が劣る」という見解に2つの判断基準があり、「両方は表面的差別があっても真には差別がない」という見解にも判断基準があり、「"差別がない"とか"平等だ"という見解も意に介しない」という見解・・・見解であって見解でないものにも判断基準がある。
いわゆる「四句分別」のようであろう。
「物事の片方が勝れてもう片方が劣る」という「世俗的な二分思考」の見解は、一応の理解として大事だが、差別意識や悪い感情に発展しやすいので執着しない。
「両方は表面的差別があっても真には差別がない」という「世俗に於ける至上の諦」の見解は、その二分思考を超克した高尚な見解だが、慢心の種となりやすいので執着しない。
「"差別がない"とか"平等だ"という見解も意に介しない」という「真如実相の諦」の見解ならざる見解は、現世における有用性が無く、この思考以外の見解を排除しては仏・菩薩・修行者のいずれでもない顛倒の状態(過去記事にいう虚無的な客観的真理の体現者)となるので執着しない。
いずれも状況によって必要な見解であり、仏教徒はいずれの判断基準も持ち合わせておくべきであろうから、一つに固執すべきでもない。

2017年8月10日: 仏教と著作権・・・「同一性」とは相似性の便宜上の呼称である(法学・法律学)
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/08/buddhist-dharma-and-social-law.html

2017年9月21日: 梵語と漢語 度・量・推・測・計 「物をはかる"mita (ミタ)"」と「心をはかる"pramāṇa (プラマーナ)"」
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/09/hakaru-mita-pramana.html

2018年6月11日: 語源考証の試案「はかない(はかなし)」・梵語(由来の漢語)の日本語への影響 ※仏教やキリスト教の聖典の説を参照+「量り」の梵語・古代ギリシャ語にある同根語を調査
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/06/hakari-hakanai-etymology.html

2018年9月9日: 日本語「いかにいわんや(何況)・ましてや」と梵語・ラテン語・英語の共通点
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/09/japanese-indo-european-quantity.html

2019年1月2日水曜日

2018年12月中の日記メモ

当月の日々は、前月の日々以上に起床・就寝時刻が昼夜逆転の安定状態を見せているため、次のような「自室ドア貼り紙案」を当月10日ころに携帯電話半角カナ打ちメモに書いた。
事情があって当月21日現在も、実際の張り紙を作成していない。
日の出以後であっても午前中は耳栓をして眠っている可能性あり。
予備事項: 2015年8月21日から18-22時ころに寝て深夜2-6時に起床する習慣を続けていたが、2018年以降にそれを終えた経緯がある。その習慣以前は2012年にこの貼り紙と同内容の張り紙(上記のような一言が書かれる)をしていた。


メモ記入日の一覧 (日付をクリックして移動)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31



2018/12/01

本日12月1日は2:10の第一アラームが鳴る、その前から目覚めており、その後の1分以内に起床した。



2018/12/02

本日12月2日は2:10の第一アラームに目覚め、2時13分に起床した。弟は0時台から起きている様子であって今もそうであり、尚且つ今は母親が2階で歌うような異常事態である。母親は3時過ぎまでには歌うことを止めてその部屋の電気を消したと思われるが、弟は一度1階に降りたり、2階での物音(ベッドのきしむ音・打撃音・窓の開閉音というよりは彼の車輪・キャスター付き椅子の動く音?)を立てるなどの動きが続く。5時前から弟が外出し、6時半ころに彼が帰宅した。21時14分、翌日の雨を予見してゴミ出しの外出をした。ゴミ集積場は住宅地の内に在って近いが、自販機に行く道のりには「精神的な障碍(さまたげ)が多い(人通り・排気ガス・集合住宅の人の出入りを推定)」ので買出しはしない。部屋着のままに防寒具も着けず、行きは早歩き・帰りは疾走でいるようにした。



2018/12/03

本日12月3日は2:10の第一アラームに目覚め、2:20, 2:40, 2:50の第四アラームの後の2時56分に起床した。3時14分から衣類の洗濯と風呂(シャワシャン)の準備を始め、4時30分に自室へ帰った。13時40分から母親が発車して外出した。17時40分台、家のドアをノックしてから玄関に入った弟は「母親は買い物」云々の独り言をしていた。その後、彼が風呂に入る時間は20分以内のような短かさだった。18時31分に母親の車が家の前に着いた。弟は帰宅に関する何か問題を母親に話すことがあった。17時0分から母親が帰るまでに家の電話機に3度電話が入り、最後の1度に弟が出ようとするも、彼の行動が遅いために彼は受話をできなかった。その後、1度電話が入って19時9分に特別支援学校の関係者が家に来た。



2018/12/04

本日12月4日は5時30分にPCをシャットダウンして就寝し、10時55分に起床した。その就寝前から腹筋が痛み知覚していたものの、その起床以後も続く。夜更かしのようなことをしたとはいえ、腹筋の痛みが珍しく発生する原因は自覚的でない。15時35分から便意のためにトイレへ入り、4個の中・長サイズのものを排出した。18時40分からも便意のためにトイレへ入り、2個の中サイズのものを排出した。19時48分からも便意のためにトイレへ入り、そこそこの量の軟便を排出した。



2018/12/05

本日12月5日は4時54分にPCをシャットダウンして就寝し、9時32分に起床した。10時19分からゴミ出しの外出を行った。少し風が強めであるがそれは半分ほど晴れており、天気予報によれば当地の本日の最高気温が20度だという(前日は22度)。12時10分から便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞を排出した。



2018/12/06

本日12月6日は寝ていない状態で日を越して至る。前日や前々日に同じ。2時8分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、3時15分に自室へ帰った。この時にPC謎挙動、今後無ければ記述消し 6時4分からにPCをシャットダウンして就寝し、10時30分に起床した。



2018/12/07

本日12月7日は3時ころに寝て7時台に1度起床して再度眠った後には10時20分ころに起床したろう。16時ころに2方向で部屋の窓を開放したためか、以降の時は「カ(蚊)」や「カより小さくてコバエよりも大きい羽虫」を自室で順次に見ることとなった。夏場でも、短時間の窓開放で2匹のそれらの虫を見ることは無いのに、冬に入るこの時期になぜか理解不能である。前日23時から右目の違和感を覚えたための充血の確認をしてから、本日は断続的に、午前にも午後にも右目が主で両目の充血がある。23時45分現在も両目の充血がそれなりにある。23時48分からトイレで小便・排尿をする・用を足してから便器に溜まった状態の尿の色を見て、「最近の私の尿の色の濃さは経口摂取の水分量の割に濃い。自分の過去の例との比較によってそう感じている」と考えた。



2018/12/08

本日12月8日は9時27分に起床した。そのころ、母親が1階を不満げな独り言とともに移動したり、後の9時32分に母親が1階リビングのテレビを付けた際はかなり汚い言葉を発していて不可解だった。10時20分ころから弟の外出を見送った以後の母親は、1階リビングのテレビで異様に大きい笑い声を発するような状況である。



2018/12/09

本日12月9日は寝ていない状態で日を越して至る。0時ころから母親と弟が1階リビングでテレビを付けながら過ごし始めているが、それ以前の前日20時台からも断続的に母親が1階リビングに居座ることが多かった。0時53分からPCをシャットダウンして就寝し、4時58分に起床した。6時25分に母親の見送りを受けて弟が外出した。この時期に地域の障害者陸上競技大会か小規模マラソン大会が有り、弟がそれに参加するものと思われる。14時30分に私が排尿のためにトイレにいる際、弟が帰宅した。彼の風呂の前後など、彼は間抜けな声で独り言をしていた。15時30分ころから母親が弟を叱る過程で悪く挑発するように言ったため、弟が激昂した。ガールフレンド(彼女・カノジョ)云々。



2018/12/10

本日12月10日は1時26分に起床した。弟は起きている様子であり、後には母親の動向も有り、2時20分台から母親が1階に降りて料理をしだした。前日の母親は9~14時(およびそれ以前も2時間ほどか)に眠っていたようだが、本日の母親は例の通りに当地限定再放送韓国ドラマ(朝鮮歴史ドラマ)を見ている。9時半からの放送枠は前回が一作品の最終回であって別作品の第1回になるので、例の通りに母親はその韓国ドラマ放送枠を見ない。10時53分から母親がアイドリングを行って発車せず、11時0分に家の中に戻った。11時3分に母親が発車して外出した。11時11分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、12時28分に自室へ帰った。16時34分に母親の車が家の前に着いた。


「目的不明の英語学習(母親の両親は現代的宗教無関心層であって彼らからの信仰の言明は有り得ないし母親がその母親(祖母)金の無心をしていたとかと言うならばなおさらであろう。これは論理式に過ぎず、その意味するところは、母親は自身の両親を自身のアイデンティティから切り離したいことである。実際に次の記述にあるような母親が神道を信じているというような信仰の限定性も見出されない。ジャップが外国の宗教性に便乗しただけ)と現実的空想による偽善行為とに関連した文が書かれた紙 何このア〇×△・チャン臭・・・ (2018年12月10日15時41分撮影)」


「今年から増えだした東方神起グッズ 2017年末から俄かに買われだした? 母親は安室奈美恵のラストアルバムを2017年12月中にミーハー的に買ったがそれは未開封のまま2018年が終わろうとする 従来は平井堅の一アルバムが占めていたポジション(画面右の本棚の上部を指す) (2018年12月10日15時43分撮影)」



2018/12/11

本日12月11日は6時48分に起床した。8時47分から便意のためにトイレへ入り、1つの中サイズのものを排出した。12時43分からも便意のためにトイレへ入り、3つの中サイズのものを排出した。

15時28分、0120105138という電話番号から唐突に電話が入った。電話に出る前にググった(検索した)ところ、ドコモ関連だという。恐る恐る電話に出ると、秋山という人物(男性)が機種変更の案内という用件であるらしく、「〇野さま(私の苗字)は機種変更をご検討でしょうか?」と尋ねてきたので、私は「いいえ」と返答した。「今後とも末永く・・・」ということで話が終わった。通話時間は1分10秒である。恐らく「いまだにガラケー機種で長年契約しているユーザー」を対象に、安否確認と身近な悩みの有無の確認をしたのではないかと思われる。奇跡的なことに、私はガラケーを安定利用し続けてこのかた8年、もとい過去(SH252i)の契約を起点にすると15年である、21歳の青年である。スマートフォンについて、私はWILLCOMから販売された機種(qwerty配列のPC風OS携帯電話だった。WS011SHか。それはWindows MobileというOSであって後のWindows Phoneとは別物らしい)を2008年ころに母親から譲ってもらって利用したこともある。15時半~16時6分に2度豊橋市なんちゃらパトロールカー(青色ランプの警察パトカーではなく黄色で大きめの車両)が家の前を通過した。近所で事件があったかは、不明である。



2018/12/12

本日12月12日は3時10分台にPCをシャットダウンして就寝し、9時30分に起床した。



2018/12/13

本日12月13日は8時10分にPCをシャットダウンして就寝し、12時30分に起床した。15時45分から便意のためにトイレへ入り、3つの中長サイズのものを排出した。



2018/12/14

本日12月14日は4時12分にPCをシャットダウンして就寝し、11時53分に起床した。14時29分から便意のためにトイレへ入り、3つの中長サイズのものを排出した。



2018/12/15

本日12月15日は7時12分にPCをシャットダウンして就寝し、12時12分に起床した。



2018/12/16

本日12月16日は4時49分にPCをシャットダウンして就寝し、13時7分に起床した。



2018/12/17

本日12月17日は5時18分にPCをシャットダウンして就寝し、13時50分に起床した。13時53分に母親が発車して外出した。14時17分から衣類の洗濯と風呂(シャワシャン)の準備を始め、15時29分に自室へ帰った。20時31分に母親の車が家の前に着いた。



2018/12/18

本日12月18日は寝ていない状態で日を越して至る。前日や前々日に同じ。3時8分に弟が1階に降りてリビングのテレビを付けた。彼が深夜早朝に食事することは最近だと珍しいと思う。この時、母親が前日の20-24時に断続的にテレビを付けていた時のチャンネルのままであり、それは10chで当地・東海地方(愛知県豊橋市)だとテレビ愛知である。先月の日記メモにも書いた通り、しばしば母親はテレビ東京系列=当地のテレビ愛知の「ホルホル系番組(日本に対する海外・外国人からの関心や好評価を取り扱うもの)」を好む人(2018年11月13日の日記メモに対する追記を参照)であり、それはともかく、この時(弟が1階に降りてリビングのテレビを付けた3時8分)の番組は深夜アニメ「となりの吸血鬼さん (11話)」のようである。彼が食事を終えて3時36分に2階へ上がるまでの間に彼は、これを視聴し続けた。彼としては、久々に1階リビングのテレビで深夜アニメを比較的長く見た。最後はちょうど1年前の今頃(12月中旬)、彼は「少女終末旅行 (10話)」を見たようである。この1年間で彼は、たまたま深夜アニメがテレビ画面に表示されてもチャンネルを他(彼も母もNHKなどに回す発想が無い人なので大概は通販番組くらいしかない)に回す傾向があった。この1年間で彼が深夜アニメに関心を示した他の現象というと、彼の手帳・ノート類に「はるかなレシーブ」云々とあった。なお、ここまでに挙げられた3作品はいずれも女性キャラが主要な作品(百合系)であるが、深夜アニメというものはそれに限るわけでない(i.e. 彼が視聴を避けた作品は百合系でなかったろう)。5時10分台に弟が再び1階へ降りてテレビを付けて居座り始めた。私は8時24分にPCをシャットダウンして就寝し、15時33分に起床した。



2018/12/19

本日12月19日は8時48分にPCをシャットダウンして就寝し、15時14分に起床した。17時31分から便意のためにトイレへ入り、7個以上の小サイズのものを排出した。



2018/12/20

本日12月20日は寝ていない状態で日を越して至る。2時5分に弟が1階リビングに降りて彼の料理が始まった。彼は火曜・水曜と同じ食パン加熱(トースト)のみならず、炊飯を行って1~2合を食べた様子である。私は5時8分にPCをシャットダウンして就寝し、10時22分に起床した。14時31分から便意のためにトイレへ入り、4個以上の小・中サイズのものを排出した。20時38分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、22時1分に自室へ帰った。



2018/12/21


本日12月21日は寝ていない状態で日を越して至る。4時台、自室のオーブントースター作動中(調理の他に前日の風呂行為において洗われた靴下1足の乾燥を促進する意図もある)に私が自室の出入りを繰り返す中で、オーブントースターのコンセントのプラグがプラグ口(プラグ受け・プラグ穴)から抜けるほどに足が「そのオーブントースターの短いコードが張った状態」に引っかかった。今までも類似の事象はあったが、今回は甚だしかったらしく、抜けたプラグが変形してしまった。プラグ口の方も僅かに損壊した見た目だが、他の機器のプラグを差して問題なく使用できる。問題のオーブントースターは、もう加熱調理に用いない方が良いと思われる。積年の問題を抱える自室の調理機器のうち、電子卓上調理器・卓上電磁調理器・卓上IHクッキングヒーターの問題が最も長期化していたが、突然にオーブントースターが電気による役目を終えてしまうことになる。



2018/12/22

本日12月22日は寝ていない状態で日を越して至る。2時51分から危ない便意を覚えてトイレへ入り、少量の水っぽい下痢を排出した。3時20分からも危ない便意を覚えてトイレへ入り、少量の水っぽい下痢を排出したが、この時は最中に「ブホッ!」と偽糞スカトロAVばりの放出があった。元々水面に広げていたトイレットペーパーが硬いためか、跳ね返りは便器や両太もも裏側のみならず、どういうわけかチンポンないし両太もも内側・ごく一部が地面に飛んで行った。衣類は汚されていない。各所の目立つ汚れを大まかに掃除してから排泄を終えてトイレを出た。3時台に20分より短い時間で風呂場にいてシャワー行為と念のためパンツ1枚を洗う行為とをした。4時前、トイレの便座を裏返して見ると、やはり多めに糞水付着が確認されたので、その掃除もした。

12時台後半から耳栓をした状態で寝て1時間以内に入眠したろうが、私が眠る間は母親が風呂に入ったり、弟が何か動いたりという状態だった。16時過ぎ、私がはっきりと意識を持っている際に弟が何やら部屋の前でゴニョゴニョと私を呼ぶような声を出していたが、私は物音を立てないで横臥したままでいる。後で分かったことだが、呑気で間抜けな母親がクリスマス関連の食事を注文し、それが配達されながらも2人とも応答できない状況だとかで不運なことがあったらしい。4度も5度もインターホンの呼び鈴が鳴らされたとかという。弟はイヤホンを付けて動画を見ていたとかトイレに入っていたとかという。母親自身の注文の品物が配達されそうな時に母親自身が風呂に入って受け取れない状況になるなど、相変わらず無責任な母親である。12月19日に母親が私を呼んだ際、母親が何かを受け取るかのようなことを言っていたにもかかわらず、結局「彼(母の息子・私の弟)任せ」で家族や配達員を惑わせる、凶悪ババアである。せめて事前に私に頼めば、私は承諾して行動したろう。そもそも2017年以降に彼らが彼ら同士の喧嘩などで狂乱しなければ、私も家で平静に生きて「自宅警備員」として動く能力を維持したろう。2015年以降、一家の主なのに主たる目的を放擲して労働を懈怠して豪奢な通販生活を中途半端に行い続ける母親は、自身の主たる目的をいつ取り戻すか、期待できない。世間法に「労働無き富は罪」であり、仏法に「功徳無き受施は罪業」である(i.e. 人間には各人の精神が受け入れる現実を持つ e.g. 何らかの器には必要相当の容量があってそれを超すと器から漏れるか、器自体を壊す)と説かれていようが、世間哲学や処世術や仏教を知るまいと、そういう気持ちで私は2013年以降に慎ましいニート生活をしている。母親は元々、「肝っ玉」もとい「厚顔無恥」だから精神的な意味において罪とならなかろう(そういう人は業・縁起の小乗仏教の基準からすると地獄にも落ちなかろうが畜生界にはなろう)。母親には無反省な一喜一憂と刹那的な激昂とがある。母親はいつ目的とその行動とを自覚するのか、期待できない。17時ころから母親らの食べ物に関する高評価の声を聞くと、千と千尋の神隠しの冒頭で主人公の両親が他に客も店員もいない飲食店の料理を褒めながら食べ続けて豚になるシーンを連想する。何度も「母親の何かについて期待できない」と書いたことは、私が愚昧な親や家族を救いたくても、それができなかったためである。18時46分、彼らの食事が終わってから、品物のうちの私の分として配られた。以上のように、各々のための如法の思慮を伴って仏教徒がクリスマス仕様の食事を受ける時がある。



2018/12/23

本日12月23日は起床と就寝とが前日のようである。私の睡眠の間に、またクリスマス関連の食事が配達されたようであるが、16時台に母親と弟が1階リビングにいる際、彼らは喧嘩となって弟が「クリスマスなんて嫌いだ!」等と反発したため、母親は一人で夕食を取った。20時43分、それまで2時間ほど2階にいた母親が唐突に1階に降りて以降、数分ほど母親から謎の笑い声が発せられた。酒に酔ったままテレビを見ていると思われる。



2018/12/24

本日12月24日は寝ていない状態で日を越して至る。2時25分から弟が1階に降りてリビングのテレビを付けて彼が食事(電子レンジ使用)をする。18時過ぎから母親と弟が1階リビングで夕食を取り始めるが、弟が母親から下された指示の内容の実行や、弟による瓶入り炭酸飲料の取り扱いに関して母親がやたらと狂乱して笑いながら怒っていた。



2018/12/25

本日12月25日は6時43分にPCをシャットダウンして就寝し、16時29分に起床した。

当記事注: 母親によって注文されて弟が受け取ったろうクリスマス関連の食事4回分の「納品書」があるので、これをここに掲載する。2018年12月22日10,318円 2018年12月23日5,964円 2018年12月24日11,662円 2018年12月25日7,412円 このうち、酒類もといワインは、いずれも母親だけが飲むためのものである。





2018/12/26

本日12月26日は寝ていない状態で日を越して至る。1時0分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、2時38分に自室へ帰った。7時52分にPCをシャットダウンして就寝し、14時40分に起床した。15時ころに弟が帰宅した。21時以降に母親が帰宅したが、母親は風呂を行わず、1階リビングにも入らず、洗濯もせず、寝たと思われる。近頃の母親は4・5日に1度しか風呂を行わないながらに前日に風呂を行ったとはいえ、帰宅して家事ばかりか風呂も行わないことは普段において有り得ないので、もしかすると私の気のせいか、弟が再び外出したとして再び帰宅したということであろうか?



2018/12/27


本日12月27日は私が寝ていない状態で日を越して至る。1時15分からゴミ出し・自販機利用の外出を始め、1時24分に帰宅した。2時40分台から弟が風呂に入り始めた。それ以前には私が衣類2点のための洗濯機作動をしていて完了していたはずであり、「私が風呂場に干し出す行為の予定」を妨げられたといえる。弟が前日の夕や夜には風呂に入ることが無かったことは疑わしい。彼が深夜早朝の時間帯に風呂に入ることは、年に1度でも有り得ない。7時21分にPCをシャットダウンして就寝し、14時28分に起床した。恐らく、母親は前日の日中から外出したままである。19時0分頃から弟が外出し、19時45分に彼が帰宅した。前日の母帰宅と思われた弟の帰宅時(21時ころ)も本日の帰宅時も、彼が帰ってきた際にビニール袋の音がしていたので、彼は何かしらの買い物が目当てだったと思われる。20時19分から便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞を排出した。22時46分に母親が帰宅した。


追記:同日24時までには「母親が東京駅構内の店で買った土産の一部」が配られた。それは12月29日が消費期限という和菓子2種である。奈良天平庵の「古(いにしえ、1箱6つ入り)」と「蘇蘇(そそ、1箱4つ入り)」という。「古」の方に入っていた紹介文(薬の効能書きのような何か)は、一文に幾つもの誤字や衍字や誤読や歴史的見解の誤認らしい部分が見られた。誤字と衍字とが連なる部分としては「宗にに」とある(「宗」とは中国の王朝の一つ「宋 Song dynasty」のことか。前に「薯蕷饅頭のルーツは、室町時代にさかのぼり…」とも書いてあるが後の人名は鎌倉時代弘安年間に生まれた人物を指すので既に南宋北宋も滅んだ後の「元 Yuan dynasty」が歴史事実に近いはず)。誤読としては禅僧の名である「龍山徳見」が「りゅうざんとくみ」と読み仮名が括弧に書かれる(龍山が"りゅうざん"か"りゅうさん"か漢音の立場において連濁の有無は問いづらいにしても、徳見が"とくみ"は明らかな湯桶読みである。鎌倉時代・南北朝時代の僧侶の自称名としては有り得ず、通常は音読みで揃えて"とっけん"か"とくけん"となる。江戸時代の民間伝承で百姓読みのようにされた場合はともかく)。この文を書いた人がその参照した説のままに書いたならば、それでも構わない。故に、歴史学や国語学の立場における正確性は期せずとも、「宗にに」は「宋に」に修正した方が無難である。

12月29日の夜に、他の土産として「東京ラスク"TOKYO RUSK"(個包装4つ)」が配られた。12月31日の夜に、他の土産として「皇居外苑 菊園もなか(個包装2つ)」が配られた。



2018/12/28

本日12月28日は4時38分にPCをシャットダウンして就寝し、10時48分に起床した。PCをスリープ状態にして仮眠を取ろうと思った22時台後半、母親が1階に降りてリビングのテレビを付けて料理を始めた。



2018/12/29

本日12月29日は2:10の第一アラームに目覚め、2時13分に起床した。



2018/12/30

本日12月30日は9時53分にPCをシャットダウンして就寝し、16時6分に起床した。私は16時0分ころに目覚めており、16時2分に母親が発車して外出したことを横臥状態で確認している。16時39分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、17時45分に自室へ帰った。19時9分に母親の車が家の前に着いた。22時11分から便意のためにトイレへ入り、1個ずつに小・中・長サイズのものを排出した。



2018/12/31

本日12月31日は寝ていない状態で日を越して至る。前日の21時台から母親が1階リビングに居座っており、2時28分に2階の弟を呼び出した。その母親は3時10分から風呂に入り始めた。それまでに母親は食器洗いのような家事をした様子が無かった。19時33分から便意のためにトイレへ入り、3個の中サイズのものを排出した。




2018年12月5日水曜日

MIDIピッチベンドで音楽の周波数を調整するための数式 (440 → 432 Hzでの例)

MIDIのピッチベンド(Pitch bend)で特定の周波数を再現する方法を考えた。
ここでは、インターネットで讃嘆されることのある 432 Hz (432ヘルツ)を再現しよう。
そもそも、現代の音楽のチューニング基準は 440 Hzであるとされ、それはMIDIキー (a.k.a. Scientific pitch notation)でいうと C4ラ (音名"la"のこと 英語: A; A4 日本語: イ)であるということを念頭に置く必要がある。
つまり、普段の音楽が一般的に440 Hzであり、それに対して432 Hzという別の基準の音楽もあるということである。
それは楽器のチューニングにおいて、その C4ラ を432 Hzにして実現されることとなる。
DTMで音楽制作をする場合の手短に音を432 Hzに変える手段を、私は望んだ。
ここでは、MIDIで簡単に432 Hzを再現する方法を説明しよう。

方法の説明 (数式の求め方)

440 Hz と 432 Hzの数値上の差は8である(1st: 440 - 432 = 8)。
ピッチベンドは8191 ~ 0 ~ -8192の数値で構成される。
この+-値は、キー(ピアノ鍵盤相当、半音)でいえば上下2つ分の音の差(全体で4つ分)が有ると定義される(ソフト等の使用環境にもよるらしいが一般的にデフォルトではキー2つ分=2半音という、ここではその前提)。
i.e. ピッチベンド -8192 = キー -2


キー -2は、周波数440 Hzの置かれた C4ラ (la 英語: A 日本語: イ)から数えて2つ下の C4ソ (sol 英語: G 日本語: )である。
その C4ソ の周波数は 391.995...という無理数らしく、ここでは四捨五入して392 Hzとする。
周波数440と392は絶対数48の差が有る(2nd: 440 - 392 = 48)。
先ほどの周波数440と432の整数は8の差が有ることを思い返し、両者の割り算をしたいが、ここでは8を48で割り、0.16666... という数値を求めた(3rd: 8 / 48 = 0.16666...)。
これをキー-2 = ピッチベンド -8192に掛け算をすることで、私は周波数 432 Hz を再現するピッチベンドを近似値として -1365に定めた(4th: 0.16666 * 8,192 = 1,365.27872)。

以上の如く、周波数 432 Hz の音楽をMIDIで再現したいときはピッチベンドで-1365 (または微調整で -1366)を指定すればよい、と結論付けておく。

(440 - 432) / (440 - 392) * 8192 = 1365.27872 ≠実用の整数-1365




検証①
計算結果の数値をピッチベンドに適用し、その音声を録音するか、音声ファイルに出力する。
何らかの波形編集ソフトで「スペクトラムアナライザ」を用いるなどして具体的に周波数を確認してみるとよい。




こちらは、そのようにピッチベンド値 -1365を指定して実際に再生された音楽の、音声比較動画である。
「人間の認知機能の主観性(subjectivity of cognition)」を重んじる立場から言えば、ただ従来に440 Hzとされる何らかの音楽を主に聴いた人が、その人の感性の差によって、432 Hzとされる何らかの差異に好印象を覚えたり悪印象を覚えたりするくらいのことと私は考えている。
だから、もし臨床実験をして432 Hzに良い健康的効果(癒し効果など)が確認されたという客観的な統計結果が取れても、それを解釈することに関しては客観的な善悪が問えないと私は考えている。
現今の世間では、432Hz癒し云々・440Hz悪魔云々・440Hzナチス云々という説(1, 2)があり、かつまたそれらが陰謀論の扱いを受けている。
一応、主観性を重んじる立場であるからこそ、この音楽動画を示すことをしておく。
実験音楽"Experimental music"の趣旨についても考慮する。



検証②
A = 432 Hzであるときの他の音高の周波数を書いているページが外部にある。
こちらを客観的情報の一例として比較してもよい。
https://pages.mtu.edu/~suits/notefreq432.html

※2018年12月18日にWaveToneというソフトをダウンロードした。当記事の目的に関連した説明のみをする。これは任意の音楽ファイル(wav, mp3, ogg等)を開く際に「基準周波数」の値を指定することで、そのソフトの画面内のピアノロールにキーごとの周波数の値(小数点第二位まで)がピアノロールより上のバーに表示される。このソフトの「基準周波数」という項目は、そこに入力された周波数の値がC4ラ (ソフト内ではA4)であることを意図している。各自で任意のピッチ基準のキーごとの周波数が調べたい場合、このソフトを参考に用いてもよい。



背理法による裏付け?



備考: ピッチベンド -8192(どの環境であれピッチベンドの最も低い数値)がキー -2 (-2半音)でない環境での計算のためには、適宜にその分のC4ラの下の音を用いて計算する。つまり、仮定的な記号で数式を示し直すと、
1st: 440 - H = h →
2nd: 440 - M = m (このmの数値はhよりも高くあらねばならない)→
3rd: h / m = d →
4th: d * 8192 = P となる(あくまでも近似値なので実際に用いる数値は四捨五入か当人聴覚で適切な整数に調整)。



備考: もしピッチベンドの両端がキー2つ分のみである人が、キー2つよりも外の周波数(392 Hz未満と494 Hz以上)が基準値である音楽を作りたい場合、音楽全体のMIDIノートのキーの位置を近いところへずらす(これは普通の作曲プロセスで転調のための作業に同じ)かキー設定を変える必要がある。基本的に、キー1つ分よりも狭い周波数が基準値である条件においてその計算を行う。要するに、440 Hzから見た432 Hzとは、キー0.32ほど下の音であり、それは普通の楽器の「1オクターブを構成する12個のキー」で鳴らし得ない音であり、MIDIのピアノロールもそう作られていないから、ピッチベンド-1365 (先の仮定記号P)という近似値を求めた。



備考: MIDIで440 Hzよりも高い周波数が基準値である音楽を作りたい場合、それに必要なピッチベンドも + (正)の数値となる。その場合、先の仮定記号のうちh, mはそれぞれ-hと-mとなるが、そのまま割り算をすれば負の数同士の割り算が正の数になるという中学校一年の数学で習ったような話の通り、dそのものとなる。後は、ピッチベンド8191 (0を1と同じように数える方法では厳密にマイナス時と同じく8192でなくてはならないとも考えられる)に掛け算を行えば、Pの数値が出るので、この場合も近似値を求めつつ、正の数字のまま用いる。例えば444 Hzを望んで主要部と同じ計算方法(この場合はキー2つ上のC4シ = 英語: B 日本語: の周波数の近似値をMに当てる)を試すと、606.74...という数値になったので、606か607を適宜に用いればよい。



備考: A = 440 Hz よりも1オクターブ低い音(C3ラ = A3)の周波数は220である。かつ、「検証②」に示されるサイトのページ内には、A432 (432 Hz)よりも1オクターブ低い音(C3ラ = A3)の周波数は216 Hzである。これらはC4ラ = A4 であったときの周波数8の差が、半分の4になるなど、整数の差が等分になっている。オクターブ差は、1オクターブ高い場合が同様に等倍である。無理数の場合も、オクターブの差がある分に、欠けた端数以下まで等分や等倍となる。例として、C3ド (英語: C 日本語: ハ)は 261.6255... Hzだが1オクターブ低いと130.8127... Hz、1オクターブ高いと523.2511... Hzである。それらは実際にそうやってA = 440Hzにチューニング・調律された楽器の音を鳴らして測定しつつ、それらの音が適切な和音を鳴らした際に不協和音にならないことを聴覚で確認した上で、数学的な道理をも鑑みて学問的に決定された数値と考えてよい。





起草日: 20181021

当記事の途中(検証①)においても埋め込み表示してある動画は、当記事の内容の補強として投稿された。
https://www.youtube.com/watch?v=Pn9bFeIhdLE

関連記事
2014年10月5日: MIDIにおいて再生時間を算出する数式・公式のメモ
https://lesbophilia.blogspot.com/2014/10/midi.html


2018年12月1日土曜日

2018年11月中の日記メモ

2018年8月の或る風呂(シャワシャン)行為の終盤、右足小指の付け根から先端にかけての一部に、ピリッとした痛みを覚えた。
それは、その後の風呂(シャワシャン)行為の最中に、度々似た形で発現していたが、その度に痛みや痺れといった感覚が強まり、当月においては日常的にも歩く行為の最中にも多めに発現するようになった。
左足にも類似現象が起きているようにも観測される。
これから、寒い日が増える・寒さが増す(ます・自動詞。本来は他動詞だが現代日本語用法で自動詞も可)と、更にこの傾向を悪化することが予想される。
原因として、今年に多かった惰眠や仮眠のような行為のみならず、一日当たりの運動量が落ちたこと(患部周辺の筋力・関節機能・神経機能ないし全身の免疫機能の低下)や、無理な「お坐り行為」の影響などが考えられる。

頻繁な足湯であるとか長湯であるとかの「湯治っぽいこと・シャワシャンじゃない風呂行為」について、憧れるような気持ちにもなった。
私は仏教を学んでも学ばなくても、身体を患っても患わなくても、結局、それらをせずに過ごし続けるであろう。
日記メモを精読すれば分かるように、私は高尚な引きこもりになりきれず、ズルズルと悪い方に進んでいる。
ただ形式的に引きこもり生活が維持されるばかりで、高尚さが(私からor私が高尚さから)遠ざかる。
母親や弟のような同居人・共住者らしい人間のことを思うと、もう絶望的。
どうせ一番悩む者は私だし。母親はテレビで馬鹿笑い。
そういえば、数年来に癒えていない「右手中指の関節の腫れ」はというと、今も相変わらず。

仏典・律蔵でいう「病比丘(びょうびく?やまいびく?やみびく?やんびく?)」ってなあに。
当月17日は少ない食事に過労作業を実行し、即日謎の下痢を排出したり、翌日などは顕著に体調を崩して寝込んだというほど、身体が衰弱している。

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2018/11/01

本日11月1日は5時5分に起床した。7時20分から便意のためにトイレへ入り、7個ほどのコロッ糞を排出した。9時32分からも便意のためにトイレへ入り、1個のコロッ糞(よほど強い腹痛によって高頻度に下痢の排出をするためでない限りは必ず小便も伴う)を排出した。



2018/11/02

本日11月2日は2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームを経て2時25分に起床した。3時57分から洗濯と風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時45分に自室へ帰った。9時50分から便意のためにトイレへ入り、複数個のコロッ糞と中サイズのものとを排出した。13時29分からも便意のためにトイレへ入り、5個の中サイズのものなどを排出した。15時48分からも排尿目当てのトイレで少しの小中サイズのものを排出した。



2018/11/03

本日11月3日は2:10の第一アラームに目覚め、2時39分に起床した。9時1分に母親が弟を連れて発車して外出した。18時12分に母親の車が家の前に着いた。



2018/11/04

本日11月4日は4時38分に起床した。9時41分から便意のためにトイレへ入り、4個以上の中サイズのものを排出した。



2018/11/05

本日11月5日は1時58分に起床した。9時10分台、母親が2階の廊下や空き部屋を移動する際の大きな足音を伴う振動で、自室の「或る方角の窓」の障子のあたりから「カッカッカッカッ…」という音(表記を変えるならばチッチッチッチッとも。何らかの木材の乾いた音・軽い音の系統)が鳴る。



2018/11/06

本日11月6日は2:10の第一アラームに目覚め、2時14分に起床した。



2018/11/07

本日11月7日は0時10分ころに起床した。9時52分、母親が弟を連れて発車して外出した。豊川特別支援学校高等部の「第Ⅱ期産業現場等における実習」に関連する動向と思われる。17時20分台、2階で弟の大きな怒鳴り声が発せられた。彼らは本日から始まった実習に関する言い争い・諍いをしていたようである。その後も、「弟: ○○(実習先)も行きたくねぇよ! 母: 私に言わないで学校に云々 弟: ○○(彼らの苗字)家(け)なんかにいたくねぇよ! 母: あんたのこと探さないから(中略)本当に家出する人はいちいち出て行くなんて言わないから。言うってことは家(うち)にいたいってことでしょ」というような低知能の話が聞かれた(粗略に引用する。いつものこと)。



2018/11/08

本日11月8日は3時59分に起床した。16時43分にPCをシャットダウンして就寝したが、その後は眠れない時間が続き、22時3分に起床した。23時40分ころからPCをスリープ状態にして仮眠を始めた。



2018/11/09

本日11月9日は2:10の第一アラームに目覚め、その数分以内に起床した。2時39分から衣類の洗濯と風呂(シャワシャン)の準備を始め、4時49分に自室へ帰った。その手前の、4時40分ころにK家で車のドアを開けて閉ざす行為(ドアバン)・発車行為があったが、洗面所の換気のために窓を開けた1分以内のことである。彼らの家の玄関はその発車行為の10分以上前から明かりが灯されていたのだから、所用で発車したいならもっと早く発車できたろう。10分も遅らせて、彼らの誰か(この時間帯はけだしご主人)が玄関の出入りをして車のドアを開けて閉ざして、発車する。私を犯罪者にでも仕立て上げたい陰謀ではなかろうか?気味が悪い。彼らとの悪い因縁があるこの家(特に母親による)に住んでいると家の内でも家の外でも彼らに見られた全ての行為が悪い原因たり得る(悪い結果を起こし得る)ので、私は何もしないでさっさと死んだ方が良いか。別に、「見られていない」とか「彼らはこちらに興味ナシ」とか「見られても問題ナシ」とか「見た彼らの誰かこそタイミングの悪い出来事について気の毒だ」といった考え方はいくらでもできるが、自己防衛ほどに、この記録をしておく。精神論としては、こういう文章を書くことが悪い輪廻の要因になろうが、そもそも、他人じゃ起き得ないことが私に限って起こる(近所の人間の男性たちはなぜか深夜早朝に車の出し入れをする者ばかり)のだから、元々悪いし、悪化を止めようもない。ほとんどの仏教の教理・実践は、今や私の助けにならない。11時台から雷雨が続き、12時35分には赤っぽい稲光を伴って家のすぐ傍で雷が落ちた。3秒以内に爆発的な音が聴こえ、振動が伝わった。



2018/11/10

本日11月10日は2時9分に起床した。10時0分台に母親が、単独で外出する予定の弟と「2時(i.e. 14時)にMEGAドンキじゃないや、ロワジールホテルのロビーで待ち合わせ」という話をしていた。12時11分に母親からこの話を受けつつ、「バルコニーにある洗濯物を4時(i.e. 16時)までに取り込む」指示を出された。13時9分から便意のためにトイレへ入り、1つの中サイズのものを排出した。14時4分に母親が発車して外出した。間もなく、エアコンの軽度な掃除を行うなどをしながら洗濯(座布団として用いられる枕のカバー2枚・雑巾1枚)と風呂(シャワシャン)の準備を並行し、15時38分に自室へ帰った。色々な作業が終わって間もない16時15分に弟が徒歩で帰宅した。21時38分に母親の車が家の前に着いた。



2018/11/11

本日11月11日は5時15分に起床した。8時40分から便意のためにトイレへ入り、2つの中サイズのものを排出した。11時29分からも便意のためにトイレへ入り、いくらか小サイズのものか何かを排出した。15時16分からも便意のためにトイレへ入り、長い一本糞を排出した。

補足:前日に配達未遂の東京地方裁判所関連の郵便物(母・祖母に宛てる)は、本日に配達が遂げられた。



2018/11/12

本日11月12日は5時29分に起床した。11時40分前に母親の電話機(親機・子機)が鳴り、親機の傍にいる母親が10秒以上経ってから受話をした。特別支援学校からの電話であり、今の弟の実習関連(弟は実習を嫌がるという)のほか、弟の進路に関して母親は「一般就労Aとか(厳密には就労移行支援・就労継続支援A・就労継続支援B)ではなく在宅のつもりで、卒業後は当面家に置いて…」と話した。また、弟が11月7日のあたりに「特別支援学校で作業なんかよりも中学校の時のような理科とか社会(社会科)の授業がいい」という発言(日記メモに記録されていない発言)をしていたので、そのことについても母親が話した。

追記:弟の特別支援学校高等部の時間割・科目を見ると、「コース」ごとに異なるがおおよそは、総じて「作業(作業学習)」が多くあり、理科・社会科はどこにも無い。この情報は右記リンク先を参照した。http://www.toyokawa-sh.aichi-c.ed.jp/ko/ko-1.html 私は今までもこの情報を確認することがあったものの、日記メモでは関連する記録を取ることが無かったろう。



2018/11/13


本日11月13日は0時59分に起床した。5時29分から便意のためにトイレへ入り、2つの長めのものを排出した。10時28分、家の前に洗濯機の回収と新しい洗濯機の設置をしに来た業者のトラックが停車し、2分近く過ぎてからインターホンの呼び鈴が鳴らされた。訪問した業者は男性1名であり、新旧の洗濯機を運ぶ行為は彼1人のみで済んだ。16時15分に弟が帰宅した際、母親が弟の「ただいま」よりも先に「おかえり」と言い、わざわざ洗濯機のことを話していた。直後の弟は「オバマもさんもブッシュさんと同じ、自分の考えを押し付ける人でしょ」と独り言を発していた。

追記:洗濯機の機種はHaier製JW-C55BE-W (white白色)である。業者に対して母親は「シャープなどの方が良さそうだが安価で2年でも使えればよいと思って購入した」という話をし、妥協で選んだように言っていたが、今までも2011・12年冬季の冷蔵庫購入や2016年ころの電子レンジ購入などでHaier製品を選んでおり、そのような感情で購入を続けるいるうちに、段々と中国メーカーの製品を悪いものと思わなくなるかと思われる。そもそも、近年は白物家電でも情報家電でも(最悪は自動車も)日本メーカーは落魄のさなかにあるし、人によっては中国メーカーの方が日本メーカーよりも安価で良品を作っている、とまで考えていよう。なお、埼玉県生まれの私は、Haierが2015年ころだったか熊谷市に事業拠点らしいものを設置したことについて評価している。当月26日メモのHuaweiスマートフォンの件も参照。母親は中途半端に主にテレビ東京系列=当地のテレビ愛知の「ホルホル系番組(日本に対する海外・外国人からの関心や好評価を取り扱うもの)」を視聴するが、結局、国粋主義的になることは無い。同時に2017年以降の母親はテレビ愛知で限定的に平日の朝に放映される韓国ドラマ(韓国歴史ドラマ・朝鮮歴史ドラマ)を好んでいるし(母親が見るものは当地限定再放送系で平日17:30のアニメ枠もある)、2018年1月から「東方神起(5人組時代ではなく2人組の状態)」のCDやDVDらしいものを頻繁に買うようになってもいる(今年に善悪の話題性を種々得た防弾少年団 BTSなどは確認されていない)。それについて、政治的・民族的な意味で言及しないでおくが、一応、ここに例示しておく。



2018/11/15

本日11月15日は寝ていない状態で日を越して至る。0時8分よりゴミ出しの外出を行った。自販機通いは遂行されてもされなくてもよかったが、今回はイレギュラーなことに、工事作業と交通整理員が自販機までの道中や周辺各所に見られており、あまり遂行の意欲が沸かなくなった。別な意欲で午前4時に再びそこへ出向いてもよいとは思ったが、みだりに外出する・したがることは止しておこう。



2018/11/16

本日11月16日は3時23分に起床した。弟は本日の夜中(本人いわく「1時ピッタリ」)に炊飯器を利用し食事をしていて(台所に納豆の臭いが充満している)、7時ころから母親が弟を叱る様子があった。13時10分台に私は母親から呼び出された。最初の話題は2つ分、些末なものだった。その後の話について要点を書く。「どうしても障子4枚分の張替え(1枚は10月10日に完了で残りは3枚)を完了してもらいたい&明日は9時までに母親が豊川特別支援学校やホームセンター(カーマ)やイオンなどへ外出する(弟は16時ころに帰宅する予定で母親は例の通りそれ以後)」



2018/11/17


本日11月17日は3時53分にPCをシャットダウンして就寝し、7時20分台に目覚め(弟の登校外出はその10分以内)、7時57分に起床した。8時35分に母親が発車して外出した。間もなく、冷蔵庫など、自室にあるものの一部をその外へと移し、部屋の掃除を始めた。新しい洗濯機の使用も試している(洗濯物は敷布団カバー1枚・とあるタオル1枚)。


障子の張替え作業(2枚分)も並行した。それらの作業が終わって後片付けをしていた13時41分、危ない便意を覚えてトイレへ入り、かなり水っぽい下痢を排出した。下痢は2018年8月29日が最後であった。前日は絵の作業を伴って本日は短めの睡眠時間にとどめ、本日は糖類多めのコーヒー1杯以外の飲食が無い(12時台に料理をして10口程度食べたことはある)ままに前述の作業を続けたためか、体調を崩していると思われる(働きすぎということだが危ない便意・下痢との因果関係は不明)。13時46分から洗濯(衣類5点)と風呂(シャワシャン)の準備を始め、15時4分に自室へ帰った。17時47分(私が自室で耳栓をしていて何らかの作業に集中している時)に母親が帰宅した(母親の車が家の前に着いたことには気付けなかった)。



2018/11/18

本日11月18日は1時33分に起床した。6時8分から便意のためにトイレへ入り、複数個の小中サイズのものを排出した。本日はの弟は私の起床のあたりから何かした2階で物音を立てていて、3時台には彼が1階で20分ほど過ごした後に外出した。7時台から彼は陸上部に関連する活動のために外出した。11月15日午後からI家に停まり続けていた車が、この時までに去っていた状態を認識した。9時15分から便意のためにトイレへ入り、中・長サイズのものを1つずつに排出した。この際、E2家の主人・男児がK家やどこかの家に挨拶行為をしていて、後に彼らは南の方へ歩いて行った。

午前中から漸次に風邪らしい不調の感覚に襲われていたが、正午以降は顕著になった。12時50分前からPCをスリープ状態にして休みを取り始めた。14時以降、帰宅した弟が母と争いになったようである。15時台後半は、2階で彼らの口論と同時に、そこからやたらと「ゴンゴンゴンゴン」という物音が鳴り続ける状態にあった。



2018/11/19

本日11月19日は3:20の第五アラームに目覚め、3時26分に起床した。頭痛があり、腹部の違和感がある。前日および本日の記録の無い時はほとんど寝ているようにしていた。本日の弟は11月17日の豊川特別支援学校の文化祭(穂の原祭り)の振り替え休日にある。13時40分ころに起きた際、私が9時20分から11時10分過ぎまで起きていた時に聞こえた母親と弟の話どおり、2人が外出していた(それぞれ別の予定による)。当時の話で、来週の月曜日に弟が休みであるとも聞かれた。15時9分、母親の車が家の前に着いたが、同乗していた弟が先に家の中に入った。15時21分から、彼らが徒歩で東方向へと歩いて行った。15時57分に彼らが帰宅した。



2018/11/20

本日11月20日は0時台・1時台・2時台に半ば目覚めている状態・眠っている状態を繰り返し、2時12分に起床した。2時30分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、3時56分に自室へ帰った。



2018/11/21

本日11月21日は1時4分に夢精で起床した。意識的に姿勢を取って手で押さえることをしたので、夢精による被害範囲はパンツのみに留まっている。5時1分からPCをスリープ状態にして惰眠を貪ることを試すと、7時半ころに再び夢精で起床することになった。いづれの時も、夢精より以前から何らかの意識があるし、「稀にある、特に夢が顕在的に見られないで夢精したケース」と異なってはっきりと夢の映像・音声が見られていた。音声は主に音楽の流れる状態が聴かれており、その歌声・歌詞(日本語や英語)も具体的に聞き取れて、記憶された(夢のメカニズムに関する仮説からすると「実は聴いたことのある曲・歌」である可能性もある)。前半の夢の音楽を編曲して某サイトに投稿しようかと思い、本日の2時以降や9時以降にその編曲作業をした。18時49分から便意のためにトイレへ入り、複数個のコロッ糞よりも小さいようなものを排出した。



2018/11/22

本日11月22日は2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームを経て2時30分台に起床した。7時19分から便意のためにトイレへ入り、長い一本糞を排出した。



2018/11/23

本日11月23日は0時20分台に起床した。1時過ぎから弟が1階に降りてリビングのテレビを付けて過ごし始めた。本日は勤労感謝の日で弟の通学はが休みであり、母親の動向も5~8時まで無い。8時50分から母親が1階に降り、毎朝と同じように愛知ローカル再放送の韓国ドラマ・朝鮮歴史ドラマを見始めた(なお現在この時間帯で放送しているものに関して母親は10月15日~10月26日の初回~10回分の放送を見なかった。そのようになぜか初回からしばらく何らかの韓国ドラマを見ないで後からそれを急に見だすというニワカ趣味の現れがある。気味が悪いと思うがこれの直る気配は無い)。10時34分、母親が弟に「16時までに帰ってきて風呂に入って洗濯物を取り込むこと」を頼み、弟が外出した。13時48分に母親が発車して外出した。14時58分に弟が帰宅した。21時44分に母親の車が家の前に着いた。



2018/11/24

本日11月24日は7時過ぎに起床した。13時20分に佐川の配達員が我が家に訪問したが、母親は本日(なお午前2時以降に風呂に入った様子で推定5時ころ就寝か)13時ころまでずっと眠っていてその時の直前(13時20分までの10分以内)に2階で起きていたようでもあったが応答せず、弟は母親に相談無いままに外出して不在である。私は佐川配達員が家のインターホンを鳴らす前=家の付近でトラックのコンテナ(貨物保管の何か)の開閉音がした時から気付いていたので応答しようとも思ったが応答しないでおいた。その理由は、母親が1年ほど前に郵便配達員らへの貼り紙で「病人が在宅の為 玄関ノックはしないで下さい。」という「私への精神障碍者認定」をしていたからであるが、しかしまたその理由は日記メモ向けで無意味に書かれる。この理由で私が精神障碍者になりきろうとしたいわけでもない。都合によって母親はそれを返上して応答せよとかというので、私は実際に精神障碍者となりそうだ。2015年6月3日の日記メモに記録された母親を参照。なお、この文章を書く私を、その行為によって精神障碍者と認定することもできるが、精神医学での定義を曖昧にしたままにそれをすると精神医学が崩壊するので、みだりにそうすべきでなかろう。13時37分に母親が1階へ降りた。

追記:配達されたものは運動器具である。彼らはその後も頻繁に使う様子でなかった。天秤型で足・脚を動かすタイプのものは前の家にもあるが、多少形状は違う。昨日としては十数年前に買われた当時のものと変わる感じでない。それなりに音も立つ。物に頼らず、尚且つ大人しく運動することはできなかろうか?他に、腕立て伏せの補助らしいもの、両サイドに取っ手付きの車輪状のものなどがある。母親が彼らにとってさえ実用的でない上に場所を取るようなもの(過去の例は2015年10月30日の電子ピアノ・キーボード)を刹那的に買う癖は、よほど老齢で心身を損ねない限り、永遠に直らなかろう。



2018/11/26

本日11月26日は0時14分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、2時0分に自室へ帰った。前日と記録の有る当月19日からの話として、本日26日・月曜日は弟が終日学校を休むかどうかはともかく、彼に学校以外の予定(テストという名の何か)が午前中にあるという。それで前日中と本日0時ころにはそれ関連の話(弟と母親と食事に行くなど)が彼らの間でされてきた。弟はよく寝るように母親から言われているのに、2時半ころから2階で動きだしたり、1階へ降りて手洗い(洗い豚ナントカ)行為をするような有様だった。2時10分台に私が髪の毛を乾かしている際に怪しい便意があり、3時20分台にトイレで排尿をしていると、茶色成分の強い微量の下痢として発現した。

10時45分に母親から彼らの外出に関する話を初めて受けた。予定は療育手帳の判定のテストだとかという。洗濯物を取り込む指示を出された。10時47分に母親が弟を連れて発車して外出した。間もなく、掛け布団カバーとその他の洗濯物を洗濯機に入れて洗濯機「洗い」動作の後に浸け置きの状態にした。12時半ころに既存の洗濯物を2階バルコニーから取り込み、それらの洗濯物を干し出した。その後、タオル2点・バスタオル1点・風呂足拭きマット1点のための洗濯機作動を行った。ちなみに、母親の部屋の奥に置いてあるスマートフォンは、恐らく新しいものになっており、HUAWEIのロゴが目立つ。ケースもそのために新調されている。母親のスマートフォン使用の変遷(遍歴・推移)については2016年1月28日メモ2017年3月25日メモなどを参照されたい。前までは有ったalcatelか何かのスマートフォンは1階に見られて現存する。Huaweiファーウェイは中国の有名なメーカー(中華スマホ製造)であるが、先の洗濯機についても2011年以降に母親の買う電化製品の一部が中国の有名なメーカーのHaierハイアールであったように、そうである。14時10分から便意のためにトイレへ入り、2個の中サイズのものを排出した。18時47分、母親の車が家の前に着いた。



2018/11/27

本日11月27日は複数のアラームに目覚めていたが、起床は4時26分となった。7時10分台から溜めていた尿意によって8時28分からトイレへ入り、僅かな便意が顕現されて2個のコロッ糞も排出された。



2018/11/28

本日11月28日は寝ていない状態で日を越して至る。1時20分台に弟が1階に降りた際、彼はやたらと「ハァ・・・、オォウン・・・」という声を発し、冷蔵庫の物色を2度行っていた。なお、私は現状で21時間以上に起き続けていることになる。前日14時台からブログの新記事下書きの執筆や、Google+関連の整理などの作業をしてきて長時間に及んだためである。0時台には、少し冷水で手を洗うだけで手に霜焼けらしい現象が起きたし、手の肌触りも違和感があって(客観的に手の表皮が悪い状態ということか主観的に一方の手から他方の手の肌触りに違和感を覚えたということかは証明できない)手の内に痛みを抱えるようになった。

1時49分からPCをシャットダウンして就寝した。7時半ころから8時20分ころまで目覚めたまま横になって再び眠った。9時10分台に「半分意識の有る状態で見られる性的な夢」によって夢精して起床した。最後の自発的オナニー射精は11月13日であり、夢精は今月3度目である。ザーメン被害範囲は、パンツの前面左半分から中央に渡る。対応する肌にも多少の付着が有った。14時20分、12時台には外がはっきりと晴れていたことからして曇っていそうな気がしたので、PC側の窓の障子を開けて外を見ると、曇っている事実を確認したのみならず、私がいるよりも右にクレーン(クレーン車の高いクレーン部分)が見えて動作している様子を見た。



2018/11/29

本日11月29日は2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームを経て2時23分に起床した。2時45分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、3時55分に自室へ帰った。8時5分から便意のためにトイレへ入り、中長サイズのものを3つに排出した。最初の2つは太くて硬いため、少し直腸・肛門付近からの出血が確認された。

2018年11月4日日曜日

半母音、響音(鳴音・共鳴音) YとWに関する考察 (やわらかさ)

表題のYとWとは、その音がなぜ日本語に"YaWarakai (やわらかい 柔らかい・軟らかい soft), YoWai (よわい 弱い weak)"という語の音として表れるかといえば、自然言語の道理によるものと考えられる。
それら語句の発生から現代まで同質の"y"(弁別される音素)が保たれているという条件下であれば、それが証明し得る。
「やわらかい"YaWarakai"」は語幹形・古代日本語に直すと「やはらか"YaParaka"」となるように見られれば、既に異質の音に変化していると思われようか。英語"SoFt"は無声摩擦音のSとFが使われる点でこれも柔らかそうな印象である。印欧祖語としてはF音がP音になるように考えられがちであるが、ドイツ語などのゲルマン語派以外に同根語は無いので、印欧祖語の"soft"を求めるための比較・証明はし得ない。なお、「やわらかい」の対義語は「かたい"KaTai" 硬い(漢字音はKō, Gō, QN: ngạnh, MC:/ŋˠɛŋH/) 堅い(漢字音はKen, QN: kiên, MC: /ken/) 固い(漢字音はKo, Ku, QN: cố, MC: /kuoH/)」である。「かたい"KaTai"」のK・Tの音は、英語"hard"という単語と同じゲルマン語のH音=軟口蓋摩擦音 [x] から印欧祖語のK音が推定される言語学で推定された印欧祖語 *kert- にも使われる(この印欧祖語の類義語に *kret- があるが意味は「強い・賢い」関連である cf. 梵語kratu)。なお、日本語「かたい」と英語"HarD"には、「難い=難しい・しづらい"DiffiCult"」の意味も共通する。「かたい"KaTai, HarD, KerT"」という単語から、自然な言語感覚で、たしかに「ゴツゴツ・コツコツ"GoTuGoTu, KoTuKoTu"」とした「かたさ"KaTasa, HarDness"」が想定できる。無論、K・Tの音が有ればその単語は単純論理によってみな「かたい"KaTai, HarD"」という意味になるというわけでない(cf. 高い"TaKai")。

一つの傍証として、当記事ではYとWが「半母音、響音(鳴音・共鳴音)」であるという点について示す。
これに際して、YとWのみならず、五十音「あかさたなはまやらわ」の「やらわ」として最後部に列せられる「ら」音=LとRについても「半母音、響音(鳴音・共鳴音)」であるという点について示す。



Y, W, L, Rの音声学的な位置づけ

[ ] カッコで国際音声記号=IPA単音・音価表記をする(当記事で多用することに注意)。
Y (他言語異字: J I): 硬口蓋接近音 [j] (ドイツ語・スペイン語では有声硬口蓋摩擦音 [ʝ])
W (他言語異字: V U): 両唇軟口蓋接近音 [w] 両唇接近音 [β̞] 唇歯接近音 [ʋ] (多くの現代ヨーロッパ言語では有声唇歯摩擦音 [v] ただし歴史的に有声両唇破裂音 [b] の音変化の場合がある)
L: 歯茎側面接近音[l] 歯側面接近音 [l̪] ("lateral" 他に多く異音あり)
R: 反舌接近音 [ɻ] 歯茎ふるえ音 [r] 歯茎はじき音 [ɾ] ("rhotic" 他に多く異音あり)

これらを当記事で「半母音、響音(鳴音・共鳴音)」と扱うが、簡潔に語義の注釈をする。
シクシャーに基づいた音韻表
by Manomohan Ghosh (1938)
「半母音」の根拠を、私は古代インド音声学・シクシャー(शिक्षा śikṣā)の典籍の記述に求めた。
そこに半母音は"antaḥstha (またはantastha, īṣat-spṛṣṭa, duḥspṛṣṭa)"と呼ばれ、その該当する音として日本語「や・ら・わ」行に当たる"IAST: ya, ra, la, va (Dev. य र ल व)"が挙げられている(タイッティリーヤ・プラーティシャーキヤ1.8節および対応する2.40-43節、パーニニーヤ・シクシャー38詩"īṣan..."など)。
シクシャーは古代インドで「6つのヴェーダーンガ(六論・ヴェーダ関連学問)」の1つであり、音声学的な考察や分類の明確さが近代の西洋における言語学に影響を与えた。日本には平安時代以前から「式叉論」の漢語名称で伝わっているが、その名称は古代インド音声学を指すものとして認知されなかった。5世紀ころの中国人・嘉祥大師吉蔵さんの百論疏など、中国・日本の文献に「式叉論、直訳の意味は学論(英語圏でも"learning"などと訳す)、詳細には六十四能法がある」と注釈されているが、「六十四能」の詳細を誰も語らない。2018年10月13日に私がその「不明事項」を文献学的に検証して出した「インドに原点・原典があり言語発音の種類を指す」という結論を、過去記事に追記した。式叉論に興味のある方は、参照されたい。
なお、英語で「半母音」は"semivowel"であり、音声学用語としてはY系の硬口蓋接近音 [j] やW系の両唇軟口蓋接近音 [w] 両唇硬口蓋接近音 [ɥ] 軟口蓋接近音 [ɰ] に限られる。
これらは接近音"approximant"の内でも、狭母音 [i], [y], [ɰ], [u] と他の母音を連ねて発音するなどしたイ+ア=ヤ [ja]、ウ+イ=ヰ・ウィ [wi] のようであるため、その音声学用語・狭義の半母音"semivowel"と定められる(イ+ア=ヤ [ja] という見解は平安時代の悉曇の「悉曇要訣: 乃至 य ya 字はイア (i + a) なること亦た勘文有り」や江戸時代の国学の「字音仮名用格」にも見られる)。

「響音(響き音・ひびきおん・きょうおん)」とは、英語"sonorant (sonorants)"の訳語である。
この概念については、日本語版Wikipediaの記事名で「共鳴音」とされ、日本の音声学の論文でも「共鳴音」・「共鳴性("sonority"からの訳語)」といった訳語が用いられるが、「共」という字は"consonant"のcon-という接頭辞を想起させるために紛らわしく余分である。
中国語版Wikipediaの記事名「響音」や、別の日本語論文らの「鳴音」という、それを用いた方がよいと考えるため、私は「共鳴音」という語を主に用いず、併記のみした。
響音としての性質"sonority"がある音を音声学では響音と呼ぶ(その英語での名称は既に記された"sonorant"以外に"resonant"、古くはソナント"sonant"とも)ならば、当記事で説明されるY, W, L, R系のみならず、M, N=鼻音の系統も挙げられる(過去記事にも記したがそれらは実際に話される言語の内でも「成節子音」という子音と合わせる母音的に用いられる・音節主音として用いられる特徴を持つ e.g. チェコ語・スロバキア語・スロベニア語などスラブ語)。

当記事で、私は外国語の日本語カタカナ(カナ)表記を、以下のようにする。
W(V U)字は慣習的にワやヴァと私は綴るが、上記の音価の違いは言語ごとに意識されたい。
ドイツ語のJa-やスペイン語の-lla (同一言語内の方言差あり)などは、一般的な日本語のヤ・ジャと異なるが、私は既成事実化した綴りでヤ・ジャなどを適宜に用いる(実際の発音・音価としては異なっても音素としては同一言語内で割と区別可能・排他的で類似するので気にする必要も無いが)。
その他の字とその発音に関することも、慣習的・慣用的・慣行的なカタカナ表記にするが、常に何の音価(IPA 音声学の記号を用いることのできるもの)であるか、意識されたい。
なお、当記事の随所で、カタカナ表記自体の話題も行われる。





Y (他言語異字: J I)

ラテン文字Y字は、ギリシャ文字「ウプシロン Υ (小文字 υ)」に由来し、古典ラテン語では円唇前舌狭母音 [y] (イのように舌が前に来るウ音であって古代ギリシャ語のΥ字の発音。古代ギリシャ語からの借用語に限られる)のために用いられた。
古英語(文献は"Beowulf"など)でも、当の母音 [y] とその長音 [yː] の音価となるが、現代英語のY用法=ヤ行音・硬口蓋接近音 [j] のためにはG字(ġとも)または Ȝ "yogh"を用いていた(同時に当時は他の音のためにもG, Ȝ字が混じって使われた)。
後の中英語や近代英語初期には、イの音 [i] のために用いられた(母音 [y] の音変化 [i] や子音 [j] の表記に用いるなどした経緯もあって相変わらず混じりが多い)。
現代の英語における文字の名称は「ワイ /waɪ/」であり、日本語でもそう呼ぶ(同じ半母音のW音が現れて置き換わった名前であり混ぜこぜ cf. 英語vowel フランス語voyelle)。
当記事では、あくまでも現代英語や日本語ヘボン式ローマ字などでヤ行音・硬口蓋接近音 [j]のために既成事実化して用いられる子音・半母音としてのYとして説明する。
紛らわしさを回避する場合は [y] のような表記(何度も示す通りIPAの音価表記であってこれは円唇前舌狭母音を示す)によって区別している。
「硬口蓋」の音"palatal"と硬口蓋化した音が、「やわらかい音」の代表であると私は当記事で語りたい。後述のスラヴ語学の用語「軟音」も参照されたい。「やわらかい音・軟音」は「口蓋"hard palate"」で発せられる。その「硬」という字が「口蓋」に掛かっている通り、「口蓋"palate; roof"」という調音部位が物理的に硬い部分・軟らかい部分に分かれていることを示す。反対に、「口蓋"soft palate"」という名称の調音部位もあるが、これが一般的なK音・カ行音(硬・かたい"Katai")無声軟口蓋破裂音 [k] "voiceless velar stop; plosive"などを有している。

日本語の学問で「拗音」と呼ばれる音のうち、「開拗音」は「きゃ・にゃ」など「小文字や行(ゃ・ゅ・ぇ・ょ。ぇは母音としてのぇと区別する)」を用いて示された硬口蓋化の音(IPAでは [ʲ] の字が付される)を指す。
ヘボン式ローマ字など、一般的なラテン文字表記では子音字と母音字とに"y"を介して"kya, nya, rya"と綴られるが、「じゃ」という有声歯茎硬口蓋破擦音は"ja"と綴られる(もっと翻字的な"jya"とする者も稀にいる)。
日本漢字音のうち比較的古層のものは呉音であるが、それらのうち語頭が硬口蓋化歯茎鼻音 [nʲ] の発音の字は、中古音ともSino-Japaneseとも呼ばれる音で硬口蓋鼻音 [ɲ] (中古音の学者たちは歯茎硬口蓋鼻音 [ȵ] とする)が想定される。
その字は「に・にゃく・にゅう・にょ・ねん(例は二・若・柔・如・然)」などが当たる。
それが漢音では「じ・じゃく・じゅう・じょ・ぜん」といった、音素「ざ」行/z/となる(歯茎鼻音のナン・ナム発音の字は男=ダン・ダムとなるなど類例があるがそれは鼻音・破裂音の互換であるため別の現象と考えた方がよい)。
現代日本語で「柔軟=じゅうなん"jūnan" (仏教読経: にゅうなん"nyūnan"」と発音する言葉も、修正主義・合理主義的に呉音でいえば「にゅうねん"nyū'nen" (i.e. にゅうにぇん"nyū'nyen" 中古音やSino-Japaneseとしては/ɲiu.ɲen/となろう)」と読まれるべきものである。
現代中国語普通話でも、同じ子音系統の発音で"róuruǎn (拼音 Pinyin による)"と読まれる。
つまり、「柔軟(にゅうにぇん"nyū'nyen")」は、軟らかそうな印象の子音が頭に付く音節を2つ重ねた熟語である。
当記事のR字の項目でも、この系統の漢字音について再び記す。なお、この日本語学問で開拗音といわれる発音のうちSino-Japaneseで硬口蓋鼻音 [ɲ] のような発音だった漢字は、二人称の代名詞「汝・你」や状態の代名詞・指示代名詞「爾(尔・尓)・若・然」などに見られる。その仔細はシナ・チベット語族の学問に任せよう。そこではシナ・チベット祖語の再構語(二人称代名詞・単数形 *na-ŋ)が提案されている。当記事冒頭に「よわい"YoWai"」という和語の字を挙げたが、これも漢字の「弱い・」は漢音「じゃく"jaku"」に対して呉音「にゃく"nyaku"」がある(中古音の例→ 鄭張 /ȵɨɐk̚/ 王力 /ȵʑĭak̚/ cf. 蒟蒻の"蒻 ニャク nyaku")。「柔軟・軟弱」の3字の同一性は、ベトナム語の国語"Quốc ngữ"表記だとみな語頭nh- (硬口蓋鼻音 /ɲ/)であること nhu, nhuyễn, nhược が直接根拠になる。

そのように、発音が状態そのものを指す言葉を「自己言及"self-reference"・自己整合語"autologisch, autonym"」ともいう(後者は日本語インターネットだと英語"Autological word"から翻訳されたWikipedia記事が発祥であり、活字の日本語文献で説明されたことは無い)。
これぞ「ふにゃふにゃ"funyafunya"」、「やわらか"yawaraka"」発音である。
冒頭にも「やわらか」ということに関して同じように説明していたが、「にゃ」と「な」のどちらの方が柔らかい・軟らかい・柔軟だと感じるかは、人の言語感覚で多少の差異があろう。
「柔軟」も、その極端な発音に変えるならば、「にゅうにぇん(じゅうじぇん)」か「ぬーなん(なお軟の"なん"発音は辞書的に慣用音とされる)」となるが、どちらの方が柔らかいと感じるは、人の言語感覚で多少の差異があろう。
ここでは古代からの言語感覚の実例を示すことができたらば、それでよいと思う。
擬態語「ふにゃふにゃ」の音は母音の連なりによって動的な印象が付与される。"u-a-u-a"という母音の連なりは"口を意識しながら発音してみると実感できるように、狭い母音・広い母音の移動である。もし「ふにゃふにゃ」という擬態語の実物があるならば、それが「ふにゃふにゃ性」を失っている時、多少の音変化を伴って「ぼなぼな"bonabona"」とでも表現できる。現代日本語の慣用句(オノマトペ系)「有耶無耶(うやむや"uyamuya")」と「もやもや・ぼんやり"moyamoya, bon'yari"」を比較されたい。

ヤ行音・硬口蓋接近音の音素 /j/ を有する言語のうち、オランダ語など一部の言語ではY字でなくJ字を用いる。
オランダ語では、条件異音・強調発音として有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] が現れる。
有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] は、標準の音素として同じゲルマン語派のドイツ語 j や、イタリック語派ロマンス諸語のスペイン語 y に用いられている。
音韻学的に少し説明したいことは、「接近音」というものが有声音のうちで最も閉鎖性(インド音声学・梵語でいう接触"sparśā, spṛṣṭa")が弱い=子音性が少ない(半母音"antaḥstha"または"duḥspṛṣṭa")が、その発音の閉鎖性を少しだけ強めると、そのような有声摩擦音になる。
この点で、それらの言語は、「強めの発音」を行った際にヤ行音・硬口蓋接近音の音素 /j/ が異音として有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] になるものか、新たな音素として有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] に変化して既成事実化したものか、ということになる。



Y系の音はロシア語などで「軟らかい"soft ru: мягкий... [ˈmʲæxʲkʲɪj]"」とされる (on Slavic languages)

一方、外国語では印欧語族(インド・ヨーロッパ語族)のスラヴ語派(スラブ語派)の多くの言語に、日本の拗音>開拗音と同じような「軟音"soft consonants"」がある。
キリル文字を用いる場合は、「Ь (軟音符または軟音記号"soft sign") IPA: [ʲ]」に表される。
日本の開拗音といえば、音声学で硬口蓋化"palatalization"による発音"palatalized"を指すが、スラブ語学ではそれらを"softening (柔らかくすること)", "sofetened (柔らかくなった音)"と称するようである(典拠不詳)。
キリル文字において、軟音の発音は「Ь」以外に、平仮名の「や・ゆ・よ(ゃ・ゅ・ょ)」に相当する「軟音系の母音」とみなされた「Я Ю Ё (ya, yu, yoまたはia, yu, yo)」も用いられる。
「軟音」という語を「硬口蓋化した発音」として用いることは、スラヴ語学に限定される。音声学で「軟音(対義語: 硬音)」というと、これは別の概念を指す点に留意されたい。また、「Ь」字は古代教会スラヴ語で"front yer"として前舌・狭母音の弱母音 [ĭ] を示していた字だとされ、初めから軟音・硬口蓋化を示す字だったわけでないことを留意されたい。似た字形に「Ъ (硬音符または硬音記号"hard sign")」があり、これは軟音・硬口蓋化でないことを示す字だが、先と同様に古代教会スラヴ語で"back yer"として後舌・狭母音の弱母音 [ŭ] を示していた字だとされる。

日本語の「や・ゆ・よ」とロシア語など東スラヴ語群の「Я Ю Ё (ya, yu, yoまたはia, yu, yo)」とは、文字単体の場合に音声学では硬口蓋接近音 /ja, ju, jo/ として扱われるであろう。
日本語と東スラヴ語とにおける硬口蓋接近音が、なぜ母音「あ・う・お (a, u, o)」しか無いかといえば、「い・え(i, e)」は前舌母音(front vowels)として発せられる音であって硬口蓋接近音の硬口蓋化の音と発音の仕組みが似ているためである。
そのため、現代日本語で通常は「いぃ(ゆぃ yi)・いぇ(ye)」を発しない(イェス"yes"とかイェール"Yale"のような外来語か再建された古代日本語ヤ行音くらい)し、キリル文字にも「Я Ю Ё」を主に用いて"yi, ye"系の音の字を用いない。
yi発音 /ji/ はウクライナ語 Ї が有り、ye発音 /je/ はロシア語・ベラルーシ語(2語は異音としてのみ)・ルシン語 Е が有るが、使用(および異音出現頻度)が限定的である。
南スラヴ語群のうちのブルガリア語に関しても、英語版Wikipedia記事に「イェ /jɛ/ から エ /ɛ/に変わること」が示される。
スラヴ語派は、キリル文字を使わない言語も多くあり、それらにおける「軟音」の有無や多寡も別途検証されたい
例としては「鹿"deer"」を意味する言葉に、チェコ語jelen スロヴァキア語jeleň ポーランド語jeleń セルボ・クロアチア語jèlen/јелен (セルボ・クロアチア語のみ南スラヴ語群で他は西スラヴ語群)などがあり、語頭が硬口蓋接近音 [j] のイェレン発音であるが、スラヴ祖語(*(j)elenь リンク先に東スラヴ語群のロシア語оленьなど諸々の例あり)ないし印欧祖語(*h₁el-)ではその音が無かったと推定されている。

「Y発音・ヤ行音(音声学的に特定すれば硬口蓋接近音)」が「やわらかい(軟らかい・柔らかい)」ということは、外国語・西洋言語の中でも言われることが確認できた。
記事の本題・仮説のための一つの根拠としよう。



備考: 中世~近世日本語「あ・い・う・え・お」は"a, i, u, ye, wo"?

先のスラヴ語のうち、一部は印欧祖語・スラヴ祖語でエ系統だったものが現代までにイェ系統になっている言語(チェコ語・ポーランド語など)が確認された。
また、その一方でイェの発音が消失したか条件的に現れる・方言に残っているらしい言語(ロシア語・ウクライナ語・ブルガリア語など)も確認された。
日本語はというと、国語学者・言語学者の一部は中世(ここでは平安後期~戦国時代)や近世(江戸時代)に「あ行=あ・い・う・え・お」が"a, i, u, e, o"ではなく、"a, i, u, ye, wo"のようなものだったと考えている。
そのような雰囲気を私は感じていた(誰々の説かは不確か)ので、当記事の執筆に際して江戸時代の国学の書を見直した。

本居宣長さんの「字音假字用格(もじごゑのかなづかひ)」に「アヤワ三行の差別を明らかにすべきだ」、「オの字はア行であってヲの字はワ行だ(i.e. ア行の"オ o"が"ヲ wo"の音で発せられることは誤り)」、「(梵語への漢字音写について)梵語の長ウ(ū ऊ)と短オ(o ओ この悉曇学でいう短オはグナであって長オはヴリッディau औ)とを混同して空海はどちらにも『(新字体: 汚 簡体字: 污 ネット複製には汗と誤植される)』という同じ字を当てる。(中略) ウとオの区別もできない者にオとヲの区別など不可能だ。インド人の宝月(Ratnacandra)から梵語を学んだ慈覚(円仁さんのこと)は『(平仮名お・片仮名オの原形)・』などの字でア行オを正しく表現した。当時の日本人が正しく学べば正しくオとヲの区別をできたはずだ」という見解が示されていた。
なお、彼は中国・日本におけるア行オの誤った漢字音写の例として「」の他に「」などを挙げてもいるが、現代中国語ピンインでwuとかyuとか中古音・反切の頭音で羽とか雲とか汪とかのようにy系もw系も有るし、於や奥などもそれぞれy系やw系と相互に表現し合う傾向にある。母音についてもo系とu系は「都・図・頭(呉音がu系 漢音がo系)」に代表される相似性がある。時代ごとに異なる反切などが示された韻書・字書の見方を誤って論ずると、循環論法になりかねない。これは本題と逸れる。彼がどう漢字音を認識していたかは、興味のある方が別途考察すればよい。
これら記述が示唆することは、18世紀のころに「ア行オ /o/=音声的にヲ [wo] でワ行オ /wo/と同じ」だったことである。
また、ア行エ"e"とヤ行エ"ye [je]"との混同を示す書に大矢透さんの「古言衣延辨證補(明治40年作という)」があり、そこに「万葉集など上古には阿也(ア・ヤ)二行のエ音を分別して仮名(漢字音写)で記していた」とし、ア行エが「衣(音を借る) 得(訓を借る)」・ヤ行エが「延・要(音を借る) 江(訓を借る)」などであるとしてその詳細が示されていた(その元の話題は奧村榮實・奥村栄実さんの「古言衣延辨」でそちらにも同様の説がある)。
こちらの方は、古典における万葉仮名・など和語漢字音写の区別に関する話題が主立っていて中世や近世の日本語の音価の比定には向かないが、参考までに例示した(なお、後者・大矢透さんの書に「空海さんの時代にも別の音であることが常識的に認識されていて『いろは歌』に"越えて ko-ye-te"のみあってア行エが載らないことから彼は『いろは歌』作者でない」という話も書かれる。彼はア行エとヤ行エが区別されない時代のエ音素の音価を [e] ではなく [je] の方に定めていたと分かる)。

JAPONIAE INSULAE DESCRIPTIO.
(Flickr and Wikimedia commons)
他に、室町時代・安土桃山時代・戦国時代のあたりの新ラテン語(c. 1500-)の日本地図や、日葡辞書などを参照するとよい。
地図のうち"IAPONIAE (JAPONIAE) INSVLAE (INSULAE) DESCRIPTIO."には、令制国の名前など主要な地名が記されており、伊豆"Hizu", 和泉"Hizumi"といった語頭H字が現代フランス語"h aspiré, h muet"と同じような彼らのラテン語発音によって無音のままに付けられていたような表記があるので、この語頭H字を有字無音(黙字)として読んでもらいたい。
その上で「越後"Hiechigo"」は、発音を示すと「いぇちご"Iechigo Yechigo *jechigo"」だったと読み取れる(越前"Hiechigen"・越中"Hietchu"も同様)。
ヤ行の音の比較のためには「大和"Hiamato"」、「伊予"Iyo"」がある。
ただし"Fechi Iouoxima"のIoはジョであって八丈島(現代ローマナイゼーション"Hachijō-jima")を指し、その南の"Iasima"は八つの島=八島(やしま Yashima)で伊豆大島と八丈島の間にある島々(伊豆諸島の一部)を指すと思われる(この地図に描かれた状態としては現代のそれらと大分異なるようだが当時の西洋人が少ない伝聞などから製図したためであり当記事の話題に関しない cf. 1720s J.C. Scheuchzer日本地図"Fatsisio. I")。
「越」の字は、字音仮名遣いで「ゑつ"wetu"(そもそも字音仮名遣いは初めに江戸時代の国学者が宋以前の韻書・反切などを参照して既存の仮名遣いを修正して整備したもの)」であった(cf. 説文解字・広韻: 王伐切・わうばつ→わつ"watu" 南"Vietnam" QC: Việt Nam)。
このワ行エ"we"のヱ(ゑ)の語頭w-が、中世にはア行エ"e"・ヤ行エ"ye"との区別を失い、すべて"ye [je]"に変化(合流)したということになる。

現代に語頭がオ音である単語に「奥州・近江・尾張・隠岐(字音かな→あうしう・あふみ・をはり・おき)」があるが、それぞれ"Villoxu, Vlloumy, Vlloari, Vuoqui"と、語頭の音の同一・別異を問わずに綴りが不揃いである(しかも後述のW = V, Uの項目やLの項目に示されたラテン語・ロマンス諸語の道理を知らねば綴りの意図が想定しづらかろう)。
それであっても、当時のオ音素は、その音価が語頭V字(U, Wに相当)であることからワ行オ"wo [β̞o, wo]"であったと示唆する(気になる例は大"ō historical: ofo"長母音が反映されていない大隅"Osumi"と大五島?"Ogoto" 豊後"BVNGO = Bungo"と書かれた九州島とその周辺にある)。

これらの情報や、私が未だ示していない情報など(e.g. 日蓮大聖人御書・真蹟遺文 ほかカナ文字の写本類 近世の外国語文献 cf. enwiki: Japanese yen#Pronunciation and etymology)から、確かに中世~近世の日本語に"a, i, u, je , wo (極端な場合はa, yi, wu, ye, wo)"がア行の音であったという説を肯定できる。
中世や近世の日本語で、ある程度の地域・期間にア行のエが"ye"で、オが"wo"ということも、単なる母音よりも強めに発して接近音にした方が良いように感じられたか。
これらの時代の特殊な状況下には現代のハ行音価=喉音系・声門摩擦音 [h] (近似するものに軟口蓋摩擦音 [x])によってア行を発すること(ha, hi, hu, he, ho)もできたろう(先のフランス語など中世ヨーロッパ言語の有字無音hを比較。中古音などにおける一部漢字音はh語頭らしいものが呉音でア行の仮名にされることもある)。

以上のように、中世~近世の日本語のア行エ・オの音価が [je] , [wo] だったとして、江戸時代の後期や明治時代には"e, o"のような母音に推移(移行・変化)しきる。
ただし、[wo] だけは助詞「を"o, wo"」で限定的に(i.e. 条件異音として)現れる。
後に外来語を受けてイェ・ウォとして、「五十音から失われた音(音素phoneme, 単音phoneどちらも)」を発する機会が多少増える([ji, wu] も、ごく稀にイィ(ユィ)・ウゥ(ヲゥ)と表記される)。





W (他言語異字: V U)

ラテン文字W, V, U字および先述のY字はみな、究極的にギリシャ文字「ウプシロン Υ (小文字 υ)」に由来し、それはまたセム語派の文字「ワウ(waw またはワーウ wāw, フェニキア文字ではY字形)」に由来するという。
500年以上前までのヨーロッパでは、多くの場合にV字形のラテン文字大文字が、母音U (ウ)と子音V (ヴ、ワ)のいずれにも用いられた事実がある。
ヨーロッパ言語の地域で広く用いられてきたラテン文字の始祖ともいえる言語のラテン語のV字は、古典ラテン語(近現代に再建された発音)が母音Uに加え、子音カタカナ「ワ」で表される音=接近音である。
それよりも後世の教会ラテン語のV字子音は、カタカナ「ヴァ」で表される音=有声摩擦音である。
厳密には、前者が両唇軟口蓋接近音 [w] で、後者が唇歯有声摩擦音 [v] である。
つまり、歴史的にはより古い前者が「ワ [wa]」系統で、より後世の後者が「ヴァ [va]」系統である。
単語例は現代ラテン文字で"Vulgata, Vulgāta (古くはVVLGATA)"と綴られる単語を前者で「ウルガータ(wuルガータ)・ウルガタ」ということ、後者で「ヴルガタ」というようなものである。
なお、教会ラテン語で完全にV字ワ系の発音 [w] が絶たれたのでなく、qu-の語句"qui, equus (i.e. 古い表記でQVI, EQVVS)"などに [kw] として残っている(古典ラテン語発音は唇音化 [kʷ] か接近音付与 [kᶣ] で微妙に違う)。
なお、Q字の名称は日本語で「キュー kyū [kʲɨᵝː]」、英語で /kjuː/ と発音されるが、この用法からすれば「クウー /kwuː/ [kʷuː]」と発音されるべきものである(cf. オランダ語・フランス語 ク /ky/ スペイン語 /ku/)。
教会ラテン語発音は、インターネットで探せば多く聴いて確認できる。YouTubeでは"Pater noster qui es in..." https://www.youtube.com/watch?v=PyWBaIEkZ7w (教会ラテン語の統制機関と関連するカトリック教会・ローマ法王による発音)などがある。古典ラテン語発音は、世間の研究者によるものが確認できる。私も自作歌詞の歌唱をしている

インド系言語において、V字= व は、ヴァとワのどちらも歴史的に発音されたと私は見ている。
一般的に、サンスクリットであれパーリであれ他のプラークリットであれ、V字単語が漢語(中古中国語・主に1世紀~唐とそれ以前)ではB系の音の漢字に音写される。
例えば「毘(呉音: び"bi")」は、沙門"sa: Vaiśravaṇa pi: Vessavana"・瑠璃(瑠璃・流離)"sa: vaiḍūrya pi: veḷuriya 元素ベリリウム鉱物berylL/R音位転換"・盧遮那"sa: Vairocana pi: Verocana (パーリ経蔵・相応部11.8経によると阿修羅の名=盧闍那だが中部49経には virocana 単に輝く・光を放つという意味の形容詞も載る)"と音写に使われる。
この「毘」は、B字・BH字 ब भ 単語の音写にも使われる。
同様に阿濕"sa: aśva"(馬を意味する語だがわざわざ音写している場合は人名中に用いられるもの)の「婆(呉音: ば"ba")」といった字も、V字・B字・BH字単語の音写に使われる。
一部漢訳仏典で「婆」はP音梵語の音写に使われることもある(e.g. 後述ヴィパッサナーもといヴィパシヤナーの音写例である毘婆舎那 Trad. 毗婆舍那)が、元の梵語発音者や口語発音の系統に依存するものである。また、現代中国語で「毘(毗) Pinyin: pí」・「婆 Pinyin: pó」はP音外来語の音写にも使われるが、現代中国語は無声音・有声音の区別が薄いためであり、ここでは関係ない。当記事では以後にも「口語発音」のような同語異音現象や、古代と現代の同型言語の差異について、筆者が注意点を示したり、筆者が意識しても注意点を示さなかったりするので、いずれのことも読者が注意すべきである。音声学や歴史言語学自体が言語発音の客観性と主観性について、適宜にすべきものである。
これらは西暦1世紀~10世紀のインド・中央アジアの人物が、インド系言語のV字発音をワ系統でなくヴァ系統で発していたことを示唆する(一部でバ系統に合流することも考えられる)。

漢語の仏典で以上のV字インド系言語・梵語が「毘」や「婆」というヴィ・ヴァやビ・バを思わせる字が使われてきたことに対し、現代のインド・東南アジアでインド系言語(典礼言語としてのサンスクリット語やパーリ語)のV字は、ワ発音である。
イーシュヴァラ(īśvara 神、シヴァ、漢訳・漢語仏教圏でいう自在天)を「イーシュワラ(英語圏でもIshwaraなどとラテン文字表記される)」と、IASTでのV字をワ発音のカナ表記にする。
マハーヴァンサ"mahāvaṃsa"をマハーワンサ、テーラヴァーダ"theravāda"をテーラワーダと通称することを始め、東南アジア人が主体となっている上座部仏教(特にミャンマー・スリランカの流れ)の語は、IASTでのV字をワ発音のカナ表記にする。
ただし、ヴィパッサナー瞑想の「ヴィパッサナー"vipassanā"」などは北米で普及した流れを受けてIAST翻字上Vである字をヴァ発音にする英語発音で日本に伝わった経緯があるか、英語風の発音にしたい人がV字(シンハラ文字 ව デーヴァナーガリー व など唇歯接近音 [ʋ] とみなされるワのような音)をヴァ発音にした経緯があろう(現代東南アジアに合わせるならばVヴィパッサナーはWウィパッサナーになる。一方でオウム真理教ラオス遠征動画 on Youtube 29:46 ヴィパッサナー発音や29:26 バーヴァナー"bhāvanā"発音はヴィパッサナ、パヴァナと聴こえる)。

先述の単語のうち、"aśva (男性主格単数aśvas, aśvaḥ)"は「馬」を意味するサンスクリットであり、その発音をカタカナに示せば「アシュヴァ、アシヴァ」または「アシュワアシワ」となるが、同じく先述のラテン語"equus"も「馬」を意味し、その発音をカタカナに示せば「エス、エクゥス、エクウス(エkwuス)」となる。
二語"aśva, equus"は印欧祖語における同根語であり、サンスクリットのś字の音はシャタ (śata) がラテン語ケントゥム (centum) となるようにK (C), Q字の音と置き換わることが多い(cf. ケントゥム・サテム説)。
これら"śva, quu"は、ともにW発音の方がしやすく、V発音の方がしづらいことは、今、この文を読む者が発音すれば確実に分かるであろう(後述の「モスクワ・マスクヴァ」に関する注釈も参照)。
音声学的に定式化した理論としては、二重子音のうちの先の音が無声音ならば後の音も無声音であると発音しやすいということである(日本語・漢語の鼻音による連濁は先の音が鼻音=有声音ならば後の音も有声音であると発音しやすいという現象を示す)。
「後の音による無声音化現象」は、あくまでも例示だが、英語describe ラテン語describoが接尾辞-tion, -tioが後ろに接することによってb→pとなる事実(en: description, la: descriptio)に現れる。

ただし、接近音も標準的に有声音(声帯の振動を伴うもの)である。
つまり、[swa, kwa] 発音と [sva, kva] 発音のどちらが発音しやすいかとは、その発音者の能力・感覚(主観性)に依存するということであろう(cf. イスラエルの国歌"Hatikvah"ハティクヴァ)。

なお、過去の日本でクワもといクヮ音=拗音のうちの合拗音(唇音化"labialization"の音"labialized" [ʷ] または [w] 付き二重子音)は、漢字音として発音されていたことが認められる(字音仮名遣いクワ・クヰ・クヱ・グヱなど。字の例は花・華・歸・外など)。
二重子音の無い日本語のうちにも、クヮとかキャといった音であれば二重子音とも取れるような音が有り得ることとなる(唇音化・硬口蓋化した音 [kʷa] [kʲa] に定めれば二重子音でない)。
何であれ、ヤ・ワ音、Y W音の半母音たる性質を、私は感じる。

インド言語の話をしていたので、それに関する「半母音たる性質」について一つ補足しよう。
サンスクリットなどに見られるサンディ(連音・連声)の例として、母音イで終わる単語の次に母音で始まる単語が来れば、そこはヤ行の音となり、母音ウで終わる単語の次に母音で始まる単語が来れば、そこはワ行の音となる現象が挙げられる。
この現象も、古代インドの音声学において半母音"antaḥstha"のうちにY W音が含まれる根拠ではなかろうか(それでは同じくその半母音のうちに含まれるL, R音がどのように半母音の性質を持っているかといえば、当記事で後に考察される通りである)。



続いて、日本語のワ行音・わ字(ワ・和)の話をする。
古代日本語の音素(および歴史的仮名遣い)は万葉仮名などによって推定・再建される。
冒頭に※注釈で示されたよう、「歴史的なハ行音素の変化である古代日本語*pa (パ 音価を理論上想定すると無声両唇破裂音 [pa])→上古日本語*fa (ファ 音価を理論上想定すると無声両唇摩擦音 [ɸa])→中世日本語*wa (ワ 音価を理論上想定すると両唇接近音 [β̞a])というハ行転呼」によるものは、古来からのワ行音と区別されるべきである。
ハ行転呼は、語中のものが主要である。
参考までに、名詞の例には「岩(いは"ipa, iɸa, ifa iwa")」・「家(いへ"ipe, iɸe, ife, iwe, 中世後期: iye? 現代: ie")」などがあり、動詞の例には「言ふ・言ひ・言へ・言はば(いふ・いひ・いへ・いはば ip-, iɸ-, if-, i∅-)」=四段活用ハ行などがある。
原則的に、語頭ワ行音はハ行転呼に由来するものでないと思われる(i.e. 語頭ハ行音はハ行転呼の対象でない)。
語頭ワ行音の例として、「分(わく・わかる・わける)、割る、悪(わるい・わるし・わろし)、井(ゐ)、酔(ゑふ)、尾(を)・居り」が挙げられる。
万葉仮名などから推定された古代日本語に、ワ行音が語中に現れづらいとすれば、ワ行音は半母音の性質があると観測できる。
そのことは、和歌において句中の母音が字余りで許容されるという道理(cf. 国学者見解)・エリジオンを比較されたい。

ただし、ワ行の音が語中に現れる例も少しあり、名詞の例には「声(こゑ"kowe" 現: こえ"koe" 結合辞: こわ"kowa")」・「故(ゆゑ"yuwe" 現代: ゆえ"yue")」・「青(あを"awo" 現代: あお"ao")」があり、形容詞の例には「弱し(よわ-"yowa-", 記事冒頭にも記される)」がある。
中でも、動詞「うえる(植える・飢える・餓える"ueru")」の文語体終止形「うう *uwu (連用形: うゑ) (実際にこの終止形がそういう万葉仮名で文献に載っているかどうかは未検証)」=下二段活用ワ行について(据えるも同系。用ゐる・率ゐるは上二段活用ゐる複合動詞なので除く)、かなりイレギュラーだという印象を私は覚える。
語頭わ行の動詞であっても、文語体終止形「ゑふ *wepu (いろは歌に連用形・名詞化"ゑひもせす"とある)」が現代に「よう(酔う"you, yō")」となっており、かなりイレギュラーだという印象を私は覚える。ただし、後でそれを少し考え直し、その歴史的な音変化を推定すると /wepu/ → /wefu/ → /jefu/ → /jewu/ → /jou/ (よう you)として理に適うようでもある(その後に英語版Wiktionaryの「酔う」項目を見て同じような推定が載っていることを確認した)。
半母音・母音の性質について、このことに重要な示唆が含まれようか。
つまり、断定できないほど古代=原初からその日本語の語句の語中にワ行音があったか(世間の言語学者か在野研究者が各々ウラル語とかアルタイ語とかオーストロネシア語とかオーストロアジア語とかドラヴィダ語とかシナ・チベット語とか扶余語とかと日本語の起源・祖語を探る対象にあるような当時の外来語・借用語ということも有り得て若しそうならばそのまま受容されたか)、断定できないほど古代=原初には異なる音価だったかということであり、当記事では音韻論の上からの判断材料だけを示しておく。



続いて、ドイツ語ラテン文字におけるV・W字の話をする。
V(ファウ)字はファ系統=Fの音(無声唇歯摩擦音 [f])のみを発する(e.g. 前置詞von)。
ただし、"Verb, Vakuum"のようなラテン語由来の語句はヴァ系統=Vの音無声唇歯摩擦音 [v] だという。
W(ヴェー)字はヴァ系統発音だが、フォルクスワーゲン (Volkswagen)のようにsという無声音が直前にある時はワ発音となるような異音が有ろう。
そうなると、ハーケンクロイツ異称の元ネタであるインドのスヴァスティカをスワスティカ (Swastika; Svastika स्वस्तिक) と、ヘブライ文字の記号であるシュヴァー (Schwa; š’vā שווא / שְׁוָא‎) をシュワーと発音すべきであろう。
そこで、Google翻訳の音声合成機能を用いて聴いてみると、やはり「フォルクスワーゲン、スワスティカ、シュワー」という発音を私が聴きとれたので、このようにW字 [v] が直前の無声音s (歯茎摩擦音 [s]) やsch (後部歯茎摩擦音 [ʃ])による条件的な異音 [w] (または [ʋ])として発せられると分かる(反例? cf. ツヴァイ"Zwei [t͡sʋaɪ̯]" シュヴァルツ"Schwarz [ʃʋaʁts]" IPA音価表記は接近音 [ʋ] だがWiktionary添付音声はヴァ音に聴こえる・後述の仮名表記問題>インド言語も参照)。



続いてロシア語キリル文字におけるV・W字の話をする。
в(ヴェー)字はヴァ系統・ファ系統がある。
ヴォルゴグラード・トヴェリ"Волгоград, Тверь"というヴァ系統の地名や、スラヴ系言語の人名なんとかフスキー、都市名なんとかフスクなどに用いられる(過去記事)。
ほか、酒の名であるウォッカ"водка"はヴァ系統(ヴォトカ→[ˈvotkə] Wiktionaryで発音ファイル付き)だが、日本語では慣習的にワ(ウァ)行のカナ表記を用いる。
ロシアの首都は通称「モスクワ」だが、キリル文字Москва́をロシア語読みすると、マスクヴァ [mɐˈskva] に近い。
モは強勢アクセントが置かれてマとして口の開きが広めの母音を伴う(Росси́яをロシアでなくラスィーヤといいрусскийをルースキーでなくてロースケイ≒露助というが如し)。
ワは実際の発音がヴァ系統となるが、音声学的理由が見当たらない。
理由とは、前後の音の相対性が挙げられ、それは必ずしも同じ道理が存したり同じ原因から同じ結果が起こるわけでない=「各言語ごとのクセがある」ということである。
先述ドイツ語は無声音Kとの調和によるスヴァ→スワという変化が観測されたが、ロシア語は無声音S (с)との調和によるクヴァ→クワ法則が適用されないのかもしれない。
しかし、それは先のインド言語に見るように、時代や地域が変われば別の話でもあろう。
すなわち、Москва́を現代ロシア語「マスクヴァ」のように発音せず、日本語カナ「モスクワ」に近い発音をするロシア語話者が別地域・別時代にいることも有り得る。
ただし、日本語カナ「モスクワ」はМосква́を翻字的に表記しただけで、実際の「モスクワ」に近い発音をするロシア語話者に由来した表記でないともいえる。
所詮、学問の仮説とは、基づく真っ当な思考でいくつも理由(既に認知する事実とその推定)を挙げられる空虚なものである。
また、それを検証して合意が得られれば、当面、真実のように扱われて次の推定や仮説がいくつもされる。
言語学では、事実の例が少ない事柄・インフォーマント情報の不明瞭な事柄でさえ、学者が断定的に論ずることが多い(cf. 過去記事に載る神山2000における成節流音など)ので、過去の発音情報の整理と実在話者の発音例のデータベース化とがされて必要に応じて閲覧できればよい。



備考: YとWの発音は古代ギリシャ語(紀元前5世紀アッティカ方言など)に有ったか?

不思議なことに、半母音YとWが、古典ラテン語(文字上は古層のラテン文字に無し)とサンスクリットには有っても、古代ギリシャ語(古代ギリシア語)にはその発音がされない。
古代ギリシャ語の「イデアー(イデア)"idea ἰδέα"(動詞εἶδονに関連。見た目、転じて哲学概念にも・女性名詞)」の同根語(印欧語根*weyd-)に、サンスクリットの「ウィディヤー(ヴィディヤー)"vidyā विद्या"(語根√vidより。目に見える事柄についての知性・知識のこと、ヒンドゥー教ではより神聖な概念に、大乗仏教では五明などの学問の名に、仏教全体では無明"avidyā, pi: avijjhā"のように否定接頭辞を付けても用いる・女性名詞)」やラテン語の「ウィデオー(ヴィデオ)"video" (見る・動詞・能動態・直説法・一人称・単数)」がある(英語の「ワイズ"wise"」も関連する)。
この「イデアー(イデア)」は、ヘレニック祖語で*widéhā (ウィデハー)と再建される。
現代ギリシャ語ではβ(ベータ)字が本来のB発音 [b] からV発音 [v] に変化して一般的に発音されるし、また外来語借用(cf. サナレス Σαγιονάρες)で有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] がある。
しかし、英語のY W [j, w] 日本語のヤ・ワに近似する音は今も無いか、条件異音として有り得る程度と思われる。
よしんば、これらが現代ギリシャ語に有るとても、古代ギリシャ語に有ったと考えづらいが、ここでは有ったという可能性も考察しよう。

例えば、古代ギリシャ・小アジアの地名イオニア Ἰωνία (紀元前1300年代のヒエログリフにエジプト学再建音 /iːuːni ɑːʔɑ/ となる語が有ってイオニアを指すという・かつ"a hapax legomenon")は、古代ペルシャ語(古代ペルシア語)でヤウナ"Yauna 𐎹𐎢𐎴"、中期インド・アーリア語 MIA のパーリ語でヨーナ"Yona" (中部93経など。サンスクリットのヤヴァナorヤワナ"Yavana"はヨーナ=ヤウナからのBack-formation)、ペルシャ語・アラビア語・ヒンディー語でユーナーン"Yūnān یونان यूनान"というので、逆に考えると、古代ギリシャの一部地域・時代においてもイオニアをヨニャとかヨニア(長母音を考慮すればヨーニャー)とかと読んでいたことを推定できる(ちなみに1世紀ごろのユダヤ系ローマ人フラヴィウス・ヨセフスはイオニア人の祖先を聖書の人物「ヤーワーン יָוָן Yāwān, Yavan, Javan」に託したという)。
しかし、その直接の肯定的根拠や否定的根拠は何も無い。
イオニア Ἰωνία の古代ギリシャ語アッティカ方言の再建音は/i.ɔː.ní.aː/ イオーニアーである。
古典ラテン語ではI字がY発音(日本でいうキリスト教祖イエス・イエズスは古典ラテン語でイェースス"Iēsus, Yesus"とでもいえ再建された古代ギリシャ語ではイエースースないしイエスス Ἰησοῦς /i.ɛː.sôːs/ 聖書ヘブライ語ではイェーシューア יֵשׁוּעַ‎ yēšū́aʿ だとかと云々)のためにも用いられたので、その古代エジプトに端を発するというイオニア様の発音が正しく伝わらなければ、ヨニャ様の発音がされることも有り得る。
ただし、イオニア様は4音節で、ヨニア様は3音節でヨニャ様は2音節であり、サンスクリットのヤワナは3音節でパーリ語のヨーナは2音節であるなど、音節の韻律の詩を擁する文化において同じ語が方言間・話者間で音節数が合わないと、問題が生じる。韻律の便宜上に連音(サンディ)の有無を決めることや単語の音節数を意図的に減らす・増やすことは古代インドでも古代ギリシャでも観測されるが、方言間・話者間で固定的に異なる音節の同義語があることは違う。例えばサンスクリットのhṛdayaに相当する語はどう訛っても3音節のまま(e.g. パーリhadaya アパブランシャhiaa हिअअ 後者は実際のMIA口語に有り得るか不明 cf. ヒンディー語 hiyā हिया アッサム語 hia হিয়া)であり、背景にその「音節の韻律の詩を擁する文化」を私は感じる(ただし2音節サンスクリットārya, 3音節パーリariyaのような例外も多い そのまた例外2音節パーリayyaもある)。
所詮は音素として定式的な発音をみなし得ても、過去の話者のどの程度の人々がそのような発音をしたとか、別の発音をしたとかということの一端を示すに過ぎない。
一応、ここで、I字=イ音が、ヤ行音・Y音・硬口蓋接近音、もしくは開拗音・上付きj音・硬口蓋化音と成り得ることを示した。

ラテン語・サンスクリット・古英語はYとWが有るので、印欧祖語もYとWが有る(e.g. *yū́ *weǵʰ-)と言語学において推定されている。
古代ギリシャ語に、YとWが基本的に無いとしても、非常時には有り得るか話者個人レベルでは有り得るか、より古いミュケーナイやヘレニック祖語では有り得る可能性も付記する。
2018年10月27日、「ドイツ語ラテン文字におけるV・W字の話」に書こうとしたことを示す。ラテン文字Fはギリシャ文字「ディガンマ Ϝ (δίγαμμα またはワウ Ϝαῦ ウアウοὐαῦ)」に由来するがそれも先述のセム語派の文字ワウ"waw"に由来するという)。このディガンマは音素 /w/ だったというが、後述の「備考: YとWの発音は古代ギリシャ語(紀元前5世紀アッティカ方言など)に有ったか?」で語られるように、古代ギリシャ語の語彙には基本的に無いので、何らかの外来語・借用語のために用いられたろうか?なお、その(アッティカ方言)古代ギリシャ語よりも古いミュケーナイ・ギリシャ語に用いられた線文字B"Linear B"においては wa, wi, we, wo の4つの音節文字があり、その音韻論にも音素 /w/ が承認されていることを留意されたい。
サンスクリット"Yavana"がパーリ"Yona"のような口語からのBack-formationであるという例示については反例もある。サンスクリットの接頭辞"ava- (下へ・下の)"はヴェーダにもあるとして、その複合語アヴァターラorアワターラ"avatāra"は後世のパーリでオーターラ"otāra (相応部20.8経など)"となる(反例かどうか未決だが文献学者らが議論しているものとして比較されたいもの→観音菩薩の「観」・アヴァローキタorアワローキタ"avalokita"が西暦5世紀以前に作られた像の碑文カローシュティー文字・ガンダーラ語と思われる語句"oloiśpara"、サンスクリットのアヴァダーナ"avadāna"がパーリのアパダーナ"apadāna")。種々の例について、一応参考にされたい。



備考: "Y, W"系統に見る接近音と摩擦音の仮名表記問題

当記事で既に出された話題を、改めておさらいしよう。
一言いえば、接近音は多くの場合に(標準的に)有声音(声帯の振動を伴う)であるから、その接触・接近・閉鎖性が強まると有声摩擦音になる。

インド言語のIASTで"v"となる字・音素の発音は、主に有声唇歯摩擦音 [v] と唇歯接近音 [ʋ] に聴こえ、そのためにカタカナ表記ではヴァ行とワ行に分かれるという問題がある。
既述の通り、"v"となる字・音素の音価は、古代インド音声学・シクシャーに"dantoṣṭha (歯-唇のこと), antaḥstha"であり、そのために西洋音声学などで唇歯接近音 [ʋ] に音価を定める。
通念上、接近音として「ワ」に近い音である唇歯接近音 [ʋ] も、話者によっては「ヴァ」のように発せられるか、聴く者によってはますますそのように聴き取られるかもしれない。
また、理論的に「狭母音イは広母音アよりも接触・接近・閉鎖性が強まるので有声摩擦音になりやすい(dvaはドゥワのように発するがdviはドゥヴィのように発する者もいる)」ともいえる。
母音を発する際の関係部位の広さ・狭さは、例えば「舌の前後位置によって歯擦音化・硬口蓋化を起こしやすくなる現象(e.g. 古代日本語ti→現代日本語chi 古典ラテン語ti→教会ラテン語tsi・ロマンス諸語shi ただし二重子音stiは歯擦音化しない)」と同じように、子音の音価をも変える現象を起こす性質(自然言語を用いる民族が各々の発しやすい子音発音に変える)があると考えてもよい。
判断を困難にする例が「古代日本語tu→現代日本語tsu」という無声歯茎破裂音 [t] が狭母音たるuを受けて破擦音化 [t͡s] することである(du, tsuも同様)。
これについては「わ行う(ワ行ウ) /wu/ が日本語から無くなったことは接近音たるウ音の性質が話者にも聴く者にも紛らわしさを生じるし、古代よりこの音を持つ語彙(植える・植う uwuなど)が少なかったからだ」という説明から演繹して「た行う(タ行ウ)=つ /tu/ も同様だ」と単純に結論付けることが可能である(要するに相対性の観点で何か別の条件を示して中性化する)。

インド言語の /v/ 音素の聴こえ方の同様の例は、ヤ系統Y音にもある。
ドイツ語の"j"が「ヤーパン"Japan"」としてヤ行に表記されるも、日本語のヤ行が硬口蓋接近音 [j] であることに対してドイツ語の"j"が有声硬口蓋摩擦音 [ʝ]であるとするならば、これはジャ行にも表記できる。
スペイン語 -lla も、スペイン本土に対するメキシコ・アメリカ大陸などと発音の差を生じていて「有声硬口蓋摩擦音 [ʝ] ジャとヤの中間の音」のように説明されることが日本語版Wikipediaの記事「トルティーヤ(同じ綴りのスペイン語トルティージャも参照)」、「ジェイスモ(より日本語のジャ=有声歯茎硬口蓋破擦音 [ɖ͡ʐ]に似た音である有声歯茎硬口蓋摩擦音 [ʑ] の話題もある)」などに見られる。

一般世間(日本語領域)で外国語を表記する際、現状ではその言語に既存の「慣習的・慣用的・慣行的なカタカナ(カナ)表記」を参照して援用する(複数候補が有ればよりポピュラーなもの)しかないが、ここに示されたような音声学の音価を認知している者は、その人にとっての類音のカナを妥協レベル(筆者が稀に行うようなアイヌ文字用の小書きカナなどを用いない一般的な綴り)で用いることとなる。
言語学と、一般言語使用における慣用性・寛容さについて、過去記事(2017年5月10日)でも言及した(衒学的なことは相手によってとても歓迎されるがとても憎まれることもある。後者を厭う場合は学問知識は無窮・無上で真実は不可得・空と他者への自慢は空虚という真の自己満足=悟りの慈悲にすることができるので一般人に教える時は慣用的・寛容的なカナ表記ができる)。
どうしても何らかの特殊な発音や発音体系の言語をカナ文字で表記したいときは、Unicodeの何らかの領域(Katakana Phonetic ExtensionsKana Supplement)を探すなど適宜にする。言語学・音声学方面の話題においては、特定言語のために整備されたラテン文字転写"transcription"か翻字"transliteration"か国際音声記号=IPAを用いて過度に説明せずにおけば、それも一つの処置となる(説明を求められたらば当記事のような長い説明を用いる)。





L

Lには母音や先述のY, Wにも似たソノリティ"sonority"があるので、響音"sonorant"であり、半母音のようでもある。
そのため、サンスクリット(事実上一語kḷpta कॢप्तのみ)やスラヴ系言語には、成節子音L /l̩/ がある(IAST; ḷ またはl̥)。
このことは、読者がLの音=歯茎側面接近音 [l] の調音部位・調音方法で母音を伴わずに「ウーー(ルーー lll)」とでも発してみれば、肉体的に実証できよう(なおサンスクリットの la ल はシクシャーで歯音"danta"と言われることから歯側面接近音 [l̪] だとする見解もある)。

一般的な英語学では、"able, -able -ible"の語(フランス語経由・後期ラテン語由来)にある l が成節子音Lである(音素表記としては /bl̩/ など)とされるが、Lの側面接近を維持した音というよりも、母音とほとんど変わらない音である。
英語のL字は前後の音の相対性によって変わりやすい。
世間に見られる慣用カタカナ表記では、先に挙げた"able, -able -ible"がエイブル・-アブル・-イブルとされがちだが、母音の音にされたものに「アンビリーバボー"unbelievable"」がある。
この-アボーと同系の慣用カナは「アップル⇔アポー"apple", ピープル⇔ピーポー"people"」などがあり、みな語尾の-leが「オー(より似せてオゥ)」の音にカナ表記がされる。
これらのほか、"milk, feel, animal, vowel, bold, world"にある l は、"Dark L"と呼ばれるもので、音声学では軟口蓋歯茎側面接近音 [ɫ] に定められ、英語(および多くの主要言語)でこれが語頭の発音となることは無い。
ついでに、"milk, feel"を2種類のカナ表記にすれば「ミルク⇔ミゥク(ミォク)、フィール⇔フィーョ(フィーォ)」となる。

ロマンス語の一部においては、"ll"の綴りがラテン語・イタリア語のような長子音 [lː] でなくなっている。
例えば、古典ラテン語で"mille"と綴られてイタリア語"mille" ミッレと発せられるような音は、フランス語"mille" ミル、スペイン語・ポルトガル語"mil" ミルのように変化している。
更には、スペイン語の-illa, フランス語-ille がトルティーヤ"tortilla [toɾˈtiʎa] 墨・米 [t̪orˈt̪iʝa]"(スペイン料理)・ミルフィーユ"mille-feuille [mil fœj]"(フランス菓子)・マルセイユ"Marseille [maʁsɛj]"(フランス都市)・ヴェルサイユ"Versailles [vɛʁsaːj]"(フランス都市)などとカタカナ表記をされるように、「laのようなLっぽさ」が無い発音となっている。
具体的にスペイン語の-illaの-ヤは-iʎa (子音ʎは硬口蓋側面接近音)またはメキシコ系-iʝa (子音ʝは有声硬口蓋摩擦音)となり、フランス語の-illeの-ユは-**j (子音jは硬口蓋接近音)となっている。
フランス語の-illeは、日本語のヤ行の子音・Y音素と同じ音価(硬口蓋接近音)に変わっているので、LとYの類似性を窺うことができる。

こういった点を挙げれば多岐にわたるが、これだけでもLが「半母音、響音」の性質を備えた=事実の例に見えるような発音例があると理解できる。
過去記事および動画説明文に私は「どの学問や議論にも言えることを一つ書くと、どこにどういう事実があると見出せば論者たちは一喜一憂したり、その事実認識を証拠として論議が繰り返されるのであろうが、私は確かに掴んだ手掛かりを世俗中の頼りとし、精神的な迷いを捨てることで、世俗中の目的(現世的な願望・学問や芸術)が達成されてゆくことを期す」と書いた。
Lという字とその発音の事実相を挙げて分析するほど、空"emptiness"の真理が現れる。
すなわち、Lという概念と名称が無く、当然、本質"essense"・客観的存在"objective existence"も無いということである。
なおトルティーヤ・ミルフィーユ(-lla, -lle)云々の話題や、「本質」ということは当ブログ2015年9月7日の記事にも書いてある。当記事で「(何の音と字であれ)本質"essense"は無い」と書いたことは色々な理由が言えるし、既に記されてもいる。当時は「"J"の字が本質的に"I, Y"などイ・硬口蓋接近音だ」と捉えていたが、要するに、それであっても学問的に考察すれば、ラテン文字・ギリシャ文字・セム語派の文字・エジプトのヒエログリフというようなものの各々の発生経緯を分析すれば、学問的にも「最古の本質」ということは相対的なもの(価値判断のできる人類"Homo sapiens"が必要に応じた用いたもの)であって絶対的なものとみなすことはできず、「本質"essense"」がナンセンスとなるという「空の真理が現れる」という話である。

ただし、これは哲学の話題の記事でなく、言語学的な考察をすべき記事なので、その点を1つ言い直そう。
印欧祖語=インド・ヨーロッパ祖語とその末裔の言語の関係性に興味のある人は、おおよそ、このLの原音素・原初の発音(想定上の最初の印欧語話者グループの標準的な音価)を歯茎側面接近音 [l] と信じるであろう。
これについて直接の肯定も否定もできないが、仮説や信仰の範疇で私も歯茎側面接近音 [l] とみなし、信じている。
以下、R字とその発音に関しても先に結論を出すと、その原初の発音を私は歯茎ふるえ音 [r] とみなし、信じている(ただし近頃はインド音声学の考察を深めながら複数のヨーロッパ言語を鑑みて反舌接近音[ɻ] か 歯茎はじき音[ɾ]だとも考えることも多い)。





R

Rには母音や先述のY, Wにも似たソノリティ"sonority"があるので、響音"sonorant"であり、半母音のようでもある。
そのため、スラヴ系言語やサンスクリットには、成節子音R /r̩/ がある(IAST: ṛ またはr̥)。
スラヴ系言語にある成節子音Rは、チェコ語・スロバキア語の早口言葉"Strč prst skrz krk IPA: [str̩t͡ʃ pr̩st skr̩s kr̩k]"が分かりやすい。
興味のある方は、当該Wikipediaほか、YouTubeなど多くのサイトで発音を聴けばよい。
現代のインド人らによるサンスクリット・ヴェーダ系の成節子音Rの口頭での発音の例を聴きたい方は、筆者が2018年4月23日に投稿した動画を参照されたい(それら音声転用の他に筆者による実践の音声がある)。
https://www.youtube.com/watch?v=rs7Mvis6-TA

ソノリティのことは、読者がRの音=歯茎ふるえ音 [r] の調音部位・調音方法で母音を伴わずに「ルルル rrr」とでも発してみれば、肉体的に実証できよう。
Rの音価は各言語・個人レベルで様々に異なる部分もあるが、英語の接近音R=反舌接近音 [ɻ] (他に歯茎接近音 [ɹ] 後部歯茎接近音 [ɹ̠] など)の調音部位・調音方法で母音を伴わずに「ウーー rrr」とでも発してみれば、肉体的に実証できよう。
ふるえ音Rや接近音Rは、みなソノリティがある。
フランス語・ドイツ語に見られる有声口蓋垂摩擦音 [ʁ] やふるえ音 [ʀ] も同様。後者を持続させるならば、いびきのように口蓋垂(のどちんこ)を鳴らす状態を持続した発音となる(その音を顕著にして練習し続けるとグロウル・デスボイスのように喉を傷める恐れがある)。ただし、はじき音"flap consonants"の類はソノリティが破裂音と変わらない印象である。

サンスクリットとインド・アーリア語派の最古のヴェーダ語にある成節子音R = IAST: ṛ (Dev. ऋ)は、パーリ語だとa, i, uのいずれかに変化する。
以下、その例をサンスクリット(ヴェーダ)→パーリの順に挙げるが、併記されたカタカナは慣用的な表現であり、音声学的な正確さに基づくものでない。
サンスクリタ"saṃskṛta"→サンタ"saṅkhata"
フリダヤ"hṛdaya"→ダヤ"hadaya" (後世のプラークリット・アパブランシャ: アア"hiaa" हिअअ )
フリダヤ・ハダヤという「心・心臓"heart; cardia καρδιά"」を意味する言葉はラテン語corやヒッタイト語kerなどによって印欧祖語で*ḱḗrと再建されており、斜格系で*ḱr̥d-という成節子音Rが現れるとみなされている。ヴェーダと同じインド・イラン語派の古典「アヴェスター」のアヴェスター語ではzərəd, zarəδaiia ザラザヤのような発音で介音がある。ヴェーダ系以外に成節子音が見られないことと現代スラヴ系言語の成節子音が後世の転訛によるものという前提から「印欧祖語に成節子音(l, r, n, m)は無い」とみなす学者もいる。なお、動詞語根や過去分詞にある成節子音Rはそれを原形とみなした際にグナ音"a"やヴリッディ音"ā"に子音 r が続く形にもなる(e.g. 「死ぬ √mṛ」 ムリタmṛta →マラナmaraṇa →マーラヤティmārayati cf. 漢梵兼語: "danmatsuma" 英語murder, ラテン語由来英語mortal)。
プリティヴィー"pṛthivī" (プリトゥヴィー"pṛthvī"とも)→タヴィー"pathavī"
シ"ṣi"→シ"isi"(パーリ語からの漢訳文献・善見律毘婆沙: し)
グリドラ"gṛdhra"→ッジャ"gijjha"
プリタグジャナ"pṛthagjana"→トゥッジャナ"puthujjana" (サンスクリット仏典とパーリ仏典にそれぞれの語形で載っているが前の語幹の単語のヴェーダ語源は少し異なるかも i.e. पृथक् pṛthak系 पृथु pṛthu系)

このようにパーリ語では、サンスクリットやヴェーダ語の成節子音Rが次の音節の母音と同じものに変化する傾向が強いため、「母音調和"vowel harmony" (フィンランド語とかトルコ語とか韓国語とかの接辞が顕著な膠着語系統ための用語なので普通はこう用いない cf. 母音交替"apophony")」が強いと考えられる。
その母音調和が有り得るか不明瞭となる音変化に グ・ヴェーダ"ṛg-veda"→イルッベーダ"irubbeda" があるが、それはパーリ三蔵(律蔵・経蔵・論蔵)のうちに無くて5世紀以降のブッダゴーサ"Buddhaghosa"よりも後のパーリ復注ティーカー"ṭīkā"に初めて現れる単語なので、紀元前(BCE)からインド・アーリア語派の古い口語として存在するパーリ語に本来は有り得ない語形と考えてよい。そうなると先例グリドラ"gṛdhra"→ギッジャ"gijjha"はなぜ成節子音が単独で"i"に変化したかといえば同様の話がされる過去記事に反舌Rと硬口蓋音との関連を示唆して説明した。しかし、他にも類例があるであろうし、それが押し並べて同じ説明で通用するものと限らない(cf. トリティーヤ"tṛtīya"→ティヤ"tatiya")。要はイレギュラーな音変化も方言学的に許容される必要があるし、もし客観的な理由を求めるならば特殊な経緯が考えられる。
サンスクリットやヴェーダ語の成節子音Rは音素 /r̩/ と表現できても、近代(主に19世紀)にインド各地のバラモンたち(西部や南部やベンガル地域など)はそれぞれどう発しているかという報告が不足しているし、パーリ語以外のインド・アーリア語の口語における音変化も詳らかでないため、その音価が2000年以上前はいかなるものであったか、判断が困難である。
ただ、パーリ語における音変化を見て、私はRの接近音・響音たる性質"sonority"を感じている。

英語学における一見解として、"better"の語にある r が成節子音Rの音素 /r̩/ であるというが、実際の発音・音価はR音性の母音([ɚ, ɑ˞] など)である。
その音価は英語のR発音自体が反舌接近音 [ɻ] (他に歯茎接近音 [ɹ] など)であることに関連しているので、スラヴ系言語やサンスクリットの成節子音Rとは音韻構造も聴こえも全く異なる。
英語のR発音は、同様に日本語のラ行(主に歯茎はじき音 [ɾ])や西洋言語古典風の発音に多いR音(歯茎ふるえ音 [r] ルラァ的なもの・いわゆる巻き舌)とかなり異なる。

先述のサンスクリットの成節子音Rは「ルルル(無母音で続けて発する)」というような歯茎ふるえ音 [r] か反舌ふるえ音のようなもの(サンスクリットのR字・R音素自体は反舌はじき音 [ɽ] などでもよいがはじき音"flaps"にはソノリティが乏しくて現代ヒンディー語のような ऋ /ɾi/リ発音(子音に付く場合はクリ कृ)でないと母音的に用いることが困難)だと私は考えてきたが、最近は英語的な接近音に近い音ではないかとも考えている。
なぜならば、今までも説明されたように、インド音声学シクシャー・日本悉曇学などで多くの書に半母音系統"antaḥstha"として"ya, ra, la, va य ल व"が挙げられ(ただし安然「悉曇蔵 (大正蔵2702 V. 84)」はva音素を唇系の摩擦音系統"ūṣman"として分類する)、そこに र R字 (repha रेफ)・R音素が含まれるためである。
かつ、そのR字について、調音部位が反舌"mūrdhan (JBud. 舌頭 en: cerebral)"であるとしている。
シクシャー・悉曇学に定義されたサンスクリットR字の調音部位が"mūrdhan"で音の種類が"antaḥstha"であるということは、そのまま理解すると「反舌・半母音"semivowel"(接近音"approximant")」となる。
これらの説は、古くからの伝承であって当時から音素を整然と区分していても、その音価は必ずしも詳細に読み取ることができない(ただし1000年以上前の地球上の文明にこれほど詳細に言語発音が説明されたことは無い点で有り難くもある)。
色々な推測・憶測ができてしまうため、サンスクリットR音素の音価の判断が困難である(後の「なお①」も参照)。
したがって、サンスクリット=ヴェーダの成節子音Rの音も、英語的な接近音かスラヴ系と同じふるえ音か、判断が困難である。



備考: 反舌接近音(そり舌接近音) [ɻ] の特殊性

アメリカ英語などでは、R字が語頭にあるか・母音を伴っている時、反舌接近音 [ɻ] で発せられる。
このR音に似た音を日本語で探すならば、「ら行」音よりも、「わ行」音に近い。
ほとんどの日本語話者は「わ行」音を両唇接近音 [β̞] か両唇軟口蓋接近音 [w] で発しているが、極一部の日本語話者が常に・特定の日本語話者が稀に、わ行音を軟口蓋接近音 [ɰ]で発すれば、それがR反舌接近音 [ɻ] に近いと言える。
現代中国語で語頭がピンイン r 字の発音 [ɻ] [ʐ] は、歴史的にみな語頭が硬口蓋鼻音 [ɲ] だった(それはただ音素だともいえて音価としては複数の異音 [nʲ] [ȵ] も有り得る)と考えられる(本"nit-pon, ri-ben"=ニッポン、ジーペンかリーベンのようなもの)。
そのことは過去記事でも示されているが、ここにIPA音価で歴史的な音変化を示すと [ɲ] (ニャ系) → [ȵʑ] (ジャ系、prenasalized?) → [ʐ] (ズャ系統だが一部話者は反舌接近音 [ɻ]) となる(日本の呉音⇔漢音や広東語音⇔閩南語音の比較をすれば明解であるし、自ら発音して音ごとの類似性を触覚で感じても理解しやすい)。
更に、二・児(兒)・爾(尓)といった字は er化 (R音性母音 [ɚ])となる(爾・尓字 ěr は現代で外来語のɚ・無母音L・R音写に用いられる→アイルランド"Ireland 爱兰" アルバニア"Albania 阿巴尼亚" しかしアルメニア"Armenia"は亚美尼亚で用いられず。他に語尾-l, -r音 ソウル"Seoul 首" 語尾-rは英語・ドイツ語・オランダ語・フランス語などで参照。他の使用例1, 2 これらは色々な例外も見られた)。
朝鮮語では近代まで [ɲ] 系統だったものが現代朝鮮語・韓国語 [j] (ヤ系統Y音だがyi音はヤ行イが現代日本語に無いように [∅] 無子音、いわゆるイルボン 일본 ilbon)となる(cf. タイ語 ญี่ปุ่น yîi-bpùn 広東語Jyutpin粵拼 jat6 bun2  [jɐt˨ pun˧˥])。
これらは「広義の硬口蓋音(反舌音もこのうちでイ音のみ無子音のようにも成り得る)」を移動してきた、正常な音変化と考えてよい。
「正常な」とは、「自然な・標準的な・規則的な・推定しやすい」という言い換えもできる。それは、この東アジア広域(気候の差が多少あっても構わない)の言語だと蓋然的に言えるのであって少し場所や文明が変わると、そういった蓋然性による推定が通用しないこともある。

反舌接近音 [ɻ] の特殊性により、現代言語におけるR字の作用から歴史的な音変化を窺う。
ノルウェー語とスウェーデン語はRの字がSの前にあるとき、Sが無声歯茎摩擦音 [s] でなく無声反舌摩擦音 [ʂ] となる。
ノルウェー人の自称は「ノシュク"norsk"」であり、この「シュ"rs"」が無声反舌摩擦音 [ʂ] となっている(口語の名称もニーノシュク"nynorsk"という…発音例は現地語の何らかの動画音声を参照すればよい)。
このノルウェー語・スウェーデン語(ゲルマン語派)のほかには、ポーランド語(スラヴ語派)の"sz"に加え、その有声音 [ʐ] たる"rz"もある(英語版Wikipedia - Polish phonologyには破擦音も示される)。
余談だが、二重字"digraph"のうちrで始まるものは非ラテン文字の言語(アボリジニ系など)の反舌音の子音に用いられる傾向があることは、アメリカ英語の反舌Rやノルウェー語・スウェーデン語・ポーランド語の"rs, rz"表記から影響を受けて近現代に出来たと考えてよい。要するに、ノルウェー語・スウェーデン語"norsk"はノルド"nord"的な同根語からして本来は二字一音でなく子音の連結であってゲルマン祖語*nurþrazに繋がるものであり、後世に非ラテン文字の言語で二重字"rs, rz, rt, rd, rn"などで反舌音が示されても伝統的にラテン文字系統を用いてきたかノル・スウェと成立経緯が全く異なるということである。ポーランド語の"sz, rz"は"rzeka"がロシア語"река"などに比較的できるようにノル・スウェと成立経緯が異なる。

その更なる余談だが、先例のうち、ノルウェー語"rs"とポーランド語"rz"とが一部の方言において、反舌音でない「変わったR音」で発せられる。ともに、「上より無声歯茎ふるえ音 [r̝̊] (voiceless alveolar raised non-sonorant trill)」になる例がある(前者の方言はオスロ以北の各地、後者の方言はワルシャワ以北の各地)という。また、後者の方言には「上より有声歯茎ふるえ摩擦音 [r̝] (voiced alveolar fricative trill)」になる例があるともいう。

去年まで、筆者は「無声反舌摩擦音 [ʂ] が中国語普通話(Pinyin: sh)やインド・アーリア語派やドラヴィダ語族(主にタミル語以外)などのインド地域の言語に有ってヨーロッパには無い」と思っていた。
参考までに、中国語漢字音の反舌音(捲舌音 ㄓ ㄔ ㄕ ㄖ)のうちの無声反舌摩擦音 [ʂ] は「・数 shǔ (ㄕㄨˇ cf. 呉音: シュ 漢音: ス 慣用音: すう 他にサクのような同字異音異義もshuòで反舌音)」が例になる。その中古音・上古音は‹ srjuX › , /*s-roʔ/ (バクスター・サガール式。Xは上声トーン記号)となる。前者の時の r は前の s と合わせて無声反舌摩擦音を表す(cf. カールグレン式 /ʂi̯uX/)が、後者の時の r は二重子音・響音・流音としての r であるという。簡単にカナ表記すると、前者はシュ(反舌音)で後者はスロ(二重子音)、ということになる。つまり、現代の漢語学問・音韻学の人は、推定された上古音の時代に r が二重子音として発音され。それらが「數」のような反舌音の漢字となった(ただし逆に反舌音の漢字""など全てが上古音で二重子音 r を有していたわけでない)と考えている。上古音再建案の事実性はともかく、学者の思考にさまざまな条件要素が伴っていることは確認できた。反舌音の発生経緯に後世の条件依存があるという意味で、英語の反舌接近音やノルウェー語などの反舌摩擦音の考察の一助にされたい。

なお①、サンスクリットもといヴェーダ語以来のインド言語ではR音 IASTで"r, ṛ (普通の子音と成節子音)"が何らかの位置にあるとき、次の子音"t, th, d, dh, s, n"は反舌音"ṭ, ṭh, ḍ, ḍh, ṣ, ṇ"になる。
これは反舌音の連声・連音・サンディの現象である(同器官的子音"homorganic consonant"があるので同器官化"homorganization"とも記したいがそのような用語は使われていないそう→同化"assimilation"という)。
この現象は、母音と唇系の音がある場合も有効であり、その例は"karaṇa (√kṛ + na)"や"pariṇāma (pari + √nam)"や"brāhmaṇa (√brah + na)"である。
このR音を、私にとって従来に考えられた歯茎ふるえ音 [r] や反舌ふるえ音 [ɽ͡r] や反舌はじき音 [ɽ] ではなく、反舌接近音 [ɻ] の方が自然ではないかと近頃の私は考えている。
サンスクリット「ドリシュティ"dṛṣṭi"」やパーリ語「ディッティ"diṭṭhi"」(ともに単語の意味は「見解」でパーリ語の単語からはヴェーダ・サンスクリットの成節子音R "ṛ"が消えて"i"となるが化石的に反舌T "ṭ"が長子音・有気音で現れる)あたりを発音して検証すればよい。
なお②、スウェーデン語・ノルウェー語の通常の r は、音価が歯茎ふるえ音 [r] 歯茎はじき音 [ɾ] 反舌はじき音 [ɽ]など多種あり、ポーランド語では歯茎ふるえ音 [r] のみとされる(中国語ピンイン r は先述の通りに反舌接近音 [ɻ] と 有声反舌摩擦音 [ʐ])。

この「備考」は、Rが半母音たる立場を兼ねているという「本題」を外れているものだが記される。
一つ言い直せば、サンスクリット=ヴェーダの成節子音Rが「ふるえ音」としてソノリティを有するよりも、英語R発音や他の半母音Y・Wのような「接近音」としてソノリティを有している可能性が、往古(パーリ語などBCE中期インド・アーリア語の口語発生のころ、ヴェーダ伝承への考察次第ではもっと早い古インド・アーリア語のころ)にあったことを示唆しておくが、なお①を書いて以後に考え直して「kとs二重母音はkṣでないとならない法則(e.g. vakṣyati)」や「語末-sの語幹が後続の音によって-ṣや-rや-ḥなどで現れる法則の内にṣがあること(e.g. nis→niṣprapañca, dyaus→dyauṣpitā 某書47によると語末-sの前の子音や母音の条件が主要という)」などを私は顧みた。







起草日: 2018年10月5日

当記事では、半角カッコ内に限定して"c. (circa 頃・~年ごろ)"とか"cf. (confer 比較せよ・参照せよ)"とか"e.g. (exampli gratia 例のために・例えば)"とか"i.e. (id est それは~である・すなわち・つまり)"といった略語表現(abbr., abbreviation)を用いている。
一方で"etc. (et cetera ~と他plural・その他)"を用いていない(これに相当する日本語の「など」および視認性の上で漢字の「等」を適宜に用いる)。
これらの略語の元であるラテン語を理解した上でこれらを便利だと思って多用したが、日本語の代替表現が用いられるべき場面では適宜にそれを用いた。
その略語表現以外の略号の類としては言語名en, ja, pi (パーリ語"Pali"のことでインド系学問ではplとされやすいし私も過去記事でそうする。当記事は世界的な範囲のためポーランド語"Polish"と混同を避ける意図でISO 639-1に準じた)や文字名Dev.や伝統宗教JBud.などがある。
当ブログで未曽有のようであるから、ここに上の如く断っておく。

また、当記事では、音韻論的に不明瞭・不確実な事柄を示す際、筆者の見解や感覚を客観的事実のように扱うべきでないため、「筆者・私」という言葉を主語にして表現した部分がある。
何らかの学者論文や活字出版物などでは、その主観性を自覚しない論者が客観的事実のように記すこともある(古代言語に関する見解を記した活字出版物の内容がネット上に引用されつつ読者側から指摘されている例→1, 2)。
読者に相応のメディアリテラシーが有れば「あくまでも論者の理由や前提によって求められた見解・視点・主観にすぎない」と判断できる(大概の学者もそれで暗黙の了解は有るから断定的に記す者もいよう)が、多くの一般人はそうでないので、私は一般人向けにその措置を取った。

↑の注意事項を記す以前に、↓の後書きを書いた。

日本の自称の名である「やまと"Yamato"」と、漢字で当てられた「大和(8世紀の好字二字令)」・「邪馬台国(台は臺とも壹とも)」・「倭(委、和)"Wa"」ということも、現代にヤ行・ワ行の音素で認知されている。
ヤ行・ワ行、Y W音、半母音に関する研究をすることで、これらの名が文献上に現れるようになった時代の発音や、想定上の最初の時の発音などを想定する一助になるかもしれない。
今の私からは、特にこれらの名に関する言語学的な言及をしないでおく。
それらは音声学・言語学のみならず、文献学的な考察や地理学的な前提も必要であるからである。
いわば、当記事も文献的には直接に原本・写本・碑文などを当たった検証がされずに論考を載せているし、大概この学問分野は一般的な校訂本などに信頼が置かれて研究がされている。
先進的・先鋭的な研究においては、複数分野の垣根を超えている・複数分野の手法を兼用している・相互依存にあるということについて留意されたい。



関連記事: 2015年に私が示したY, W, L, Rへの類似見解

2015年6月16日投稿「B H V W、準じてF Pの互換性 & Vから派生したU W
2015年9月7日投稿「呉音では濁音となる漢字・鼻音の後でも連濁しない漢字(天など)」 (脚注5と脚注終了以後)



備考: 実験音声学との関連
(この備考を書くまで私は分野名を「実証音声学(実証的な音声学)」と記憶していた)

2018年11月11日5時に、私は [a, ja, wa, la, ɾa, ka, sa, ta, pa, kɾa, sɾa, tɾa, pɾa, kɻa, sɻa, tɻa, pɻa] の発声とその録音を行った。
発声の録音データ(発音データ)は、当方の録音環境(特に使用機器の品質)の関係で、音量を上げると声ミュート時における環境音・ノイズが聴こえる。
それを音声波形・スペクトログラムとして(Praatという専用ソフトウェアを用いた)視覚化・表示し、簡単な説明画像を作った。
作業の途中で、変更事項がある。当該音声をステレオからモノラルに変換し、スペクトログラム表示の案を捨てて音声波形表示だけにした。それらの変更事項を付記する。

音声付きの動画→https://youtu.be/qhrGuEFp8ok
母音"vowel" [a] (以後の子音類はこの母音とのCV~CCV音節で発音される)
響音"sonorant" [ja, wa, la, ɾa]
阻害音"obstruent" [ka, sa, ta, pa]
二重子音"double consonant"(阻害音と歯茎はじき音"alveolar flap") [kɾa, sɾa, tɾa, pɾa]
二重子音(阻害音と反舌接近音"retroflex approximant") [kɻa, sɻa, tɻa, pɻa]

ちなみに、私が日本人として母音/a/音素を発しているため、厳密な音価・単音としては中央母音の [ä] となっているかもしれないが、この発声・録音・視覚化の行為の目的に反することでないので、気にせずによい。
ちなみに、当記事の話題・本題と離れるが、「破裂音の特徴についてPraat画面の図と音声データとを示しながらこの項目よりも詳細に説明した記事」がインターネットに見られたので、参考までにURLを載せる→https://sites.google.com/site/utsakr/Home/praat/vot



備考: 音楽制作との関連

MIDIシーケンサーのピアノロール方式の「打ち込み(作曲手段)」をしている時、伴奏楽器パートでもボーカル代用楽器パートでも「ゴーストノート」の打ち込みを、私は適宜に用いている。
ゴーストノートは二重子音"double consonant (doubled consonant)"の発音を思わせる。
その時の考えは、このようである。
「ゴーストノートの内に普通の一音の導入として用いられるものがある。それは1小節の先頭に置かれるべきか、または、その前の小節の末尾に置かれるべきか (小節でなくとも1小節を192等分したMIDI目盛りにおける4分の4拍子は3, 6, 12, 48が1つの区分として同様に考えられる)」
「二重子音の内に"kr"が有る。これは1音節の先頭に"kr"同時に発せられるべきか、または、その前の音節の末尾に"k"が発せられるべきか (同じ二重子音でも破裂音の連なり-ktなどは…、三重子音scr, -ncrなどは…)」

ゴーストノート 二重子音 三重子音 MIDI
"doctrina"はdoc-tri-naとなる (do-ctri-na, doct-ri-na)
ラテン語歌詞を書いて自ら歌った"Dominus Immensus"@の、その歌詞のシミュレーションのためにボーカルパートを打ち込む際には、かなりこのことを思った。
私が何を思って創作や研究をするということは、言語学や音楽の主題と関連しないが、これらを行う人が参考までに見ると良かろうと思い、少し記した。