2017年1月25日水曜日

考証戯論「お経(経文)・題目・名号などは意味を理解してから唱えるべきか?」

いきなり答え→仏教を信仰する者、"いつかは"経文などを理解せねばならないが、最初の段階から求められることではない。
誰もが最初から経文の意味を知らず、仮に表面的な意味を知っても真意を知ること(後述)と異なる。
また、人によって意欲や成長の度合いも異なる。
場合により、方便(対機説法・世界悉檀)として「唱えるだけで功徳がある」と、例えば科学的な利益・現世利益を訴えてもよい。
「毎日の健康習慣!」とか、「脳の活性化!」とか、「美容にもいい!」とかと主張してもよい。
相手の人格・機根に合わせて訴える。

そうして人が読経などの信仰行為を形式的にも行うならば、自ずと経文・教義の理解もついてくる。
信仰する者の信心(菩提心または少し異なるが好奇心や知的欲求でもよい)が真(誠・まこと)であれば、遅かれ早かれ、唱えるところの題目・名号や経文は理解できよう。
もっと端的に言えば、「理解と行動のどっちが先であるか」という問い自体、愚問であって戯論である。
相互の共生で影響し合う道理を知るべきである。
意味を理解して唱える、唱えて意味を理解する。
または、意味を理解していながら唱え続けて再確認をし、忘れずに思う(反面・形骸化しやすいという二面性もあるが)。
どうであれ、理解と行動とは共生してこそ円満であると思わねばならない。
理解と行動とは相互に価値を高めゆくものである。
また、理解と行動のどちらかが著しく欠けている状態であっても、自ずと補われるのであろう(本題の例はこの範疇である)から、今はどちらかが著しく欠けている者も案じずに精進してほしい(失敗して死ぬことは恐らく無いのだから。否、無いのだと思って励みなさい)。



さて、合理主義的・懐疑的な現代において仏教の信仰を持ちづらい人が、信仰する者に対して「意味も分からずにお経を唱えて何になるの?」と有無を言わさず横槍を入れるケースが散見される。
それは「(発言者にとって難しいお経を読むなんて)下らないことだ」という結論ありきで発せられた、純粋な疑問とは言いづらいものが多いと看取する。
そういう魂胆によって横槍を入れる者は、心が佞悪であり、素直でなかったりする。
過去記事にもあげつらった、新興宗教の妄信者と、反宗教的な合理主義者(懐疑論者)の二元対立構造が非常に分かりやすい。
こういった低劣な(と蔑んでもならないが)論争が巷間に於いてされることは、痛快ではなく、むしろ不快に思う。

仏教系新興宗教および伝統仏教であっても、唱えることに意味があるとする教義は多くある。
法華系・日蓮系であれば、法華経の中に経文の受持読誦の功徳が多く記され、宗祖とされる日蓮大聖人の御妙判・御書と呼ばれる書物にも、如来寿量品長行に説かれた良医の譬喩にならって「お題目・南無妙法蓮華経を信じて唱えることは、母親が乳飲み子に与える母乳の栄養や医者が患者に与える薬の効能が分からずとも、与えられる者が信頼して飲むから作用するように、経文の意義を知らずとも功徳を信じて読めば功徳がある」という趣旨の言葉がある(ネット所載・創価学会御書全集のp341p499p1,058など)。
同じ趣旨の例えでは「愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も・愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり(同全集1382p)」といって、「金(こがね)・火」そのものは、正しく使えば「愚者」でも「智者」でも等しく機能することを挙げている。
ほか、「南無妙法蓮華経」のお題目の一篇を唱える功徳が法華経一部八巻(経の全体)を読む功徳に相当するという教説(同全集411pなど)も、様々な日蓮大聖人の教説と結びついているものである。
お題目とは、ただでさえ「無量無辺の功徳を具えた聖文・妙文と崇められる法華経(随喜功徳品などが根拠)」の真実性を、「妙法蓮華経(鳩摩羅什・訳)」という五字の経題に凝縮し、しかもそれに「南無(帰命)」するのだから、法華経と等しいか勝るほど功徳が具わっている、と教わろう。
そういった教説について、お経を唱える個人・当事者らが必ずしも理解しているとは言えないが、そういった教義に基づいて宗教団体が奨励している事実はある。
ほか、宗教信者の中にも、布教の方法として「最初から経文の意義を示してゆくことが現代に適う!子供騙しの古い手法は布教を妨げる!」と高論を発する者がいる。

私は、宗教信者・反宗教合理主義者の各々に言い分があるから、大いに尊重できる。
同時に、そういった「一理ある」主張はごく一面的であり、それのみを主張の要となして対立する者たちを侮蔑し、かつ憐愍しているのである。
一辺倒の主張であって広い理解や協調性に欠いている者たちではなかろうか。
中3の時にネット右翼とネット左翼(および横槍を入れる第三者)の終わりを見せない低劣な論争に嫌気がさしたことも、私の達観による。
仏教を学ぶ前から仏教の機根が僅かばかりあった例証である。
人々は人々の理想が多かれ少なかれ意識されるもとに諸々の言論をなしており、大いに尊重できると同時に侮蔑し、厭離すべきではなかろうか。
全て仏・菩薩の憐愍すべき対象である。

仏・菩薩は、一応、説法したり、論理的な説明もするし、大乗仏教で菩薩と尊敬される論師たちも論争に交わったが、同時に、みな論争を超越した存在である。
どんな言葉を発しても、心では常に泰然自若としている(人間の心の奥はみな愛憎も善悪も無い"無記である"と理解する。菩薩は理の無記のみならず事実に体得している。また菩薩は大悲を以て成仏せず衆生済度をされるから同様に論争についても戯論とお分かりで戯論を用いられる)。
現世で我が身の存在する以上は慈悲の心に随い、種々に説法して教化する。
論理的な説明が必要な仏弟子に論理的な説明を行うし、論争に交わって教義を示すならば当事者および当事者の取り巻きなどにも教化が適うということは、内証の悟り・慈悲が泰然として堅固であるからこそ現世の身は柔軟な立場でいる。



それはそうとして、読経の行為について私はどのようであったか?
2015年4月、家に複製の御本尊(ミニ掛け軸)があることを知った経緯(茨城・母方の祖母に関連)で初めて勤行を行い、5月中に動画も上げており、同月中に勤行の習慣を止めた経緯もあったが、2015年12月下旬からぼちぼち再開し、2016年2月以降は毎日に朝夕の略式勤行を挙げている。
「経文」という話題を中心にして話す。

「自我偈(妙法蓮華経・如来寿量品の偈)」の名は2011年・中3の時にたまたま知ったものであり、読経の音声自体は2009年4月・中1の時の祖父葬式で2泊した千葉鴨川の祖父母宅であったろうか。
それらの経緯の影響は仏法に於いてごく薄いが、日蓮系との縁を自覚する要因ではある。
個人的な動機で2014年6月から日蓮系新興宗教(主に創価学会・顕正会)を学び始め、信仰の方は行わないまま(個人の独学・合理主義・好奇心による部分が強いため信仰は難しかった)時間が経つにつれて自我偈の内容は、現代語訳を通じて理解された(部分的には講義・解説など)。
つまり、インターネットなり書籍なりで経文の意味の大要は、理解される。

しかし、それは「現代語訳の文章を理解した」とか「読み下し文・訓読文を理解した」とか「漢文を理解した」とか「梵語の文章・梵文を理解した」という程度であり、経文の心に通じたとは言えない。
信仰する者ならば「我、経の意を得たり!」などと諸手を挙げて喜べたものではない。
百歩譲って言えば、「一応の理解」に過ぎない。
この私であっても、先の「法華教学の再確認」記事の中で自我偈の真意の一部分を説いたつもりだが、今なおも新たに学び得ることや、知識不足の実感がある。

※仏教に「無学」という概念・名称があり、「学が無いもの(新たに学ぶ必要が無い者)」と意味するが、それは「既に学びつくしたからもう新たに学ぶことが残っていない」という意味ではなく「既に解脱したから新たに解脱に役立つ知識は学ぶ必要が無い」という意味である。学びつくさずとも解脱する者は解脱する。後述の周利槃特尊者はこれである。釈尊の言葉を常に聞き続けた「多聞第一」の阿難尊者ですら、ほかの仏弟子に遅れて解脱に至った方である。

文章の暗記をして誇りたければ、いくらでも本を買いあさり、血眼になって読んでもらいたい。
そうして暗記しても、コンピューターの記憶力に適う者はいない(中3のころ単に円周率10桁以上を暗記したがる者を軽蔑する際に発した常套句に似ている。つまらないことに限界を求める人々・二の累乗を暗記した方が楽しく実用的であると弁駁していた。円周率の暗記であっても別に意義があるならば行う価値はあろうが。意義や自覚は宗教の神髄である。心が微塵も無いと信仰も無い)。
誰かが暗記したことを「人の才能の一種」として賞賛できても、当人の人格の向上を認めはしないし、ましてや仏教の徳とは全くならない。
「多聞(であるだけの者)は生死を度せず」ということである。
信仰の価値・意義と仏道修行に関する話は、過去記事の説明に任す。
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/09/theravada-saddha.html
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/09/blog-post-20.html

※起草日・2016年12月18日と翌19日にたまたま2日連続で「周利槃特(しゅりはんどく・チューダパンタカ・チューラパンタカ"Skt: Cūḍapanthaka Pali: Cūḷapanthaka")」の故事を見かけた(1, 2)。その故事の要旨を取る。「周利槃特は兄の摩訶槃特の誘いで仏門に入った。釈尊の話に集中できず簡単な言葉(いわゆる経文・偈・教説)も覚えられない(言外の意:持戒・禅定・智慧などの修行が不能)ながらに信仰心や菩提心が強かった。兄に比べられたり、周囲に突き放されて悲しむ中、釈尊から最も簡単なフレーズと共に掃除の雑用(増一阿含経では掃き掃除という説・大智度論では履き物の清掃という説)を任され、これを愚直に懸命に行った。長い時間、そのフレーズを念じて日々に掃除を続け(言外の意:持戒・禅定・智慧が修まり)、阿羅漢果の悟りを得た」と。現代のネットや書籍に見るものは多少の脚色がある(人間の感情によって詭弁的になりやすい)。増一阿含経巻第十一の表現はシンプルであるほか、兄・摩訶槃特が「持戒ができないなら還俗してくれ」と発しているようである。数日かけて漢字では2文字の経文"掃㨹"を記憶し、これを唱えながら掃き掃除をして言葉の意味を徐々に理解し、五盛陰(五蘊)などへの思惟・観想をし、阿羅漢と成ったという。いずれにせよ、この故事は後世にどう脚色されていようと要点をつまみ、理を学んでもらう必要がある。そういうための故事・逸話・譬喩というもの(伝承の中の脚色や誇張も含む)である。持戒が困難で学習がままならなかったらしい周利槃特が清掃作業に没頭できたことは、深い悲しみと釈尊の励ましを受けた経緯によるのかもしれない。なお、パーリ語経典の小部・テーラガーター557-566に同名の人物が登場しており、同じ経緯で仏が、掃き掃除のホウキではなく「足を拭く布を与えた」という話がある。同ウダーナの場合は同名の人物に仏が瞑想に関して助言しているようであった[各邦訳]。ジャータカ(4番め"Cullaka-seṭṭhi Jātaka")に拭き掃除として詳細な話が見られた[邦訳]。法華経では「周陀(CūḍaやKṣudra説は日中のものだがある梵本ではcundaḥとあり漢・梵の英訳ではCundaとかKundaとして純陀を指している)」の名で成仏の授記に列している。

とりあえず、経文の概要などは知ったとしても、経文および経を説いた人物と同じ悟りを得た境地ではないわけであり、仏教において自慢になることはない(悟りも自慢すべきでないが称賛はされてよい)。
そもそも現代の軽薄な合理主義者(日本社会でダラダラと生きる中に自然と身に付いた程度の凡庸な合理主義)の主張は、信仰のある人およびその行為への軽侮である。
そういった主張は、仏教・仏法の中では取り合う価値すらないわけである。
そんな発言をする行為自体が、仏智なく信解なく、求道心もない合理主義的無宗教者(懐疑論者・外道)と看破される。

もっとも、彼らが仮に知的欲求などで経文を理解し、その微々たる功徳から菩提心が起こるのであれば、救いのある話だと思う。
斯く言う私も、似たように合理主義的な者であったが、浅い仏縁でも深いところに通じるわけで、その人々の自覚と行動が大事になってくる。
だから、軽薄で不純な動機や煩悩や三毒に因る動機でも、菩提心に繋がることはある。
煩悩即菩提・変毒為薬の類例である。

しかし、仏教の義のみを知って我が心を観ない者は、三毒を残したまま獅子身中の虫・悪魔となって(悪鬼入其身)仏法を破りかねない。
先の周利槃特(御書では修利・須利)に関連して日蓮大聖人は、提婆達多が多聞で多く教えを記憶していながら、悪業を積み続けて無間地獄に堕ちたことを例に取っており、末法の現在はかえって物質的に豊かとなり、人の機根を愚鈍にさせ、心も毒を強めていよう。
仏教を学んでどうなるか、一括りに言えはしない。
人の価値観や機根が異なる、といつも言っている。
今、言い換えるならば、自覚・反省の心(慙愧)が真っ当な者は最初こそ不純な心でも仏道を成ずることができよう。
諸行無常・空だからこそ、煩悩の宿痾も対治できるものと自覚し、一生成仏への道を勧めたい。



合理性・学術性・学問性と、信仰心の大切さを共に理解している私の活動は、当・学術的メモ帳ブログの過去記事にその精神を大きく看取できよう。
仏教の理論にも出ており、觀萌私記の「萌」字音・音義に関する記述も同様である。
仏教自体、そういった両面を原始仏教・初期仏教、部派仏教と続いて上座部仏教なりインド・中国の大乗仏教なりと、包括できていたわけであるが、言語など学問部分を別物に扱って存在する状態が現代の仏教界・仏教学界である。
近現代の合理主義・資本主義的な分業体制の一例と言ってもよい。
不二(二ならず!)・一如(一の如し!)の義を以てしても、学問と信仰の両者がバラバラのままであり、仏教(ひいてはキリスト教などほとんどの宗教)は現代文明から滅んでもおかしくない。

世間においては、人の心・人権・人道を政治経済と両立させる上流階級がいながらに、下層民衆は合理主義にばかり心を奪われている。
また、上下万民は仏教を「一宗教」なるものとして、あるいは尊重し、あるいは無視している(いわゆる傍観者・冷笑主義)。
この世間でも、最後まではユネスコ(UNESCO)みたいな人権屋が、絶滅せぬようにと「無形文化遺産」の如くに保護してくれるであろう。
私が演繹する理論はこの通りだからこそ、事実にならぬよう、私が行えることがあり、今までも、今現在も続けており、今後とも続けてゆく所存である。



起草日: 20161217
本題に関しては、過去記事で取り上げることのない話題であるが、説明の記述については過去記事の所説や記録と重なる部分が多い。
また、そういった記述をせねばならない時、気だるく思っている。
ああ、何たる怠慢であろうか。
毎度、説明を倦むことなく、新鮮な気持ちで、人を思いやる心で全ての文章を書きたいものであるが、思いやるべき他人などどこにいようか。
どんなツラをしているかもわからない他人が無感情で見るか、スパムロボットしかアクセスしないであろうから、と最初から諦め気味に書いている。

その虚脱感・倦怠感というものが、書きたい、伝えたい、という心と同居している。
いかにして対治すべきであろうか。
理性が横槍を入れてくる私の道心には、障礙が幾重も連なっている。
今後も、同じ気持ちでケツ書きをする際、「前にも書いたことだ」と価値判断をして手抜きを犯してしまおうか、と悩ましい。
とはいえ、記事自体は手抜きとなっていないので、安心して熟読されたい。
まだ、慈悲の心(と虚栄心)が、虚脱感や倦怠感に勝っているようである。

どうせ虚脱感や倦怠感の波に逆らえないならば、枯れつつある性欲(2016年10月3日からオナニー射精を自然に行わない記録を起草日も更新中)と共に食欲も削がれてほしい。
起草の月・2016年12月は暫定2度(同月1日・14日)も夢精した経緯があり、夢精もしなくなってほしいものだが。

2017年1月17日火曜日

法華教学の再確認(諸法実相・第一義・文底義の視座で)

中観派かぶれな私の立場で、法華経(諸漢訳・梵語経典とも参照)の「第一義」について再確認する(日蓮大聖人・天台大師・世親等諸菩薩諸師の見解も載せる)。
浅学菲才の徒による生半可の理解の披瀝は慙愧に堪えない思いであるが、何とか記録したい。
諸賢より、一斑全豹・牽強付会との謗りもあろうが、忌憚なく記録したい。
経典解釈は、今まで、高難度の領域として避ける傾向はあったが、断片的な理解を紡ぎ合わせてゆけたので、拙くもこの記事でまとめあげたい。

今の私の解釈で、本門・如来寿量品の深遠なる玄義は、改めて「久遠実成」という特殊ながらも全仏教に通じて諸経を包括し、しかも超越しているものと確信できた。
「久遠実成」とは、極端なドグマでなく、セクト主義を助長するものでもなく、そのように取る人(最近までの私も同類)がいるだけのことであった、と実感した。
私の理解に沿えば、日蓮大聖人や天台大師などが法華経を最勝・第一として称えた真意も分かる(後述する絶待妙の立場で法華玄義の法華總括衆經という一文の真意など)。
そうして真に法華経と法華経以外の経典・教義も尊重し合えるようになる(神と人間のような絶対的上下関係を強いていない)。

まず「法華経」という名の経典は、一般的に鳩摩羅什三蔵の漢訳妙法蓮華経(二十七品ないし二十八品)が認知されるものであるが、その他の異なる漢訳(正法華経など)や元となる梵語などの経典のみならず、経典としての法華経の中にまた様々な「法華経」が登場している。
まだ譬喩品など説かれきっていない段階(迹門)で指された「此の経・斯の経・妙法華経」という立場の法華経や、釈尊が過去世の修行として説く常不軽菩薩が受持していた「二十四文字の法華経(羅什訳: 我深敬汝等。不敢輕慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。當得作佛。 竺法護の訳では27文字)」や、その常不軽菩薩の臨終に聞いた「威音王仏所説の二十千万億偈の法華経」などがある。
色々な法華経が説かれるが、つまり、「文字や言葉にされた法華経」の本源となる「法華経(諸法実相・第一義に仮名を付けたもの)」がある。
我々現世の凡夫が法華経より諸法実相・第一義に通じる道(悟り・解脱・成仏への道)として、まずは、この「法華経」という名前が同じでも、指す所の異なる(名同体異)の様々な「法華経」がある点を理解する必要がある。

而二不二(二而不二、不二而二)の義で弁別しよう。
経典としての法華経も、爾前(五時八教などにおける釈尊が法華経を説く以前の時)の経典と同じ「経典」であり、方便の説を多く込めて爾前の経典とは「不二」、平等である。
経典としての法華経は迹門でも本門でも荘厳な世界(多宝塔や六万恒河沙地涌菩薩の出現・虚空会など)が演出され、壮大な譬喩や因縁(他国土・過去世など)の説話もふんだんに込められているので、方便は多く入っており、それを全て真実とみなして信仰することもよいが、第一義(法華経と仮に名付けられた真理)においてはそうでないと理解する必要がある。
また、法華経と名付けられた真理=諸法実相・第一義を明確に示している点では「而二」である。
つまり、法華経は、紛れもなく諸経の中で最勝だが、同じく不二の立場である諸経とは釈尊の経典として不二で等しくもある。
日蓮大聖人の法門においては、諸経において一応は法華経が最勝であるが、経典自体を称える範疇に留まらず、その進歩のため、過去の諸師なかんずく天台大師智顗さんが法華経の理を究め、伝教大師最澄さんがその理を日本に伝え、日蓮大聖人が日本で法華経の理・義の深奥「南無妙法蓮華経」を顕したとする教義を強調する。

※「方便」は「方便」でも、妙法蓮華経方便品「正直捨方便・但説無上道」の二句は、教主釈尊が「鈍根小智人」に配慮した爾前経のような説き方(対機説法など)をせず、思い切って説ける喜びを表した偈の中の二句であるから、我々に対して「爾前経という過去の方便の教えを捨てよ」と命じられた言葉ではない。「鈍根小智人(罪根深重及増上慢)」の衆生(四衆)が、この偈の直前に去ったシーンがある。「鈍根小智人」が去った後も二乗作仏・久遠成道を示すために様々な譬喩を用い、方便についても「善方便」を用いていると説く。仏教の色々な教義は、他宗教と同様のオカルト・おとぎ話であるように見る人もいるが、経典の所説は全て善方便である。「諸法実相・第一義」を仮に名付けた教義も「俗諦」の方便である。「仏語は実にして虚からず」である。後述のように全て信ずべし。「嘘じゃないから鵜呑みにしろ」という意味ではなく、ここまで・これからの文章と同様の理解で真意が分かる。経典の所説でない教義は別の話だが。



以下からが本題

法華経を読む上で留意すべき二項の両立

・経典の内容を実話と信じて諸仏の存在を認める信仰(一往・世俗諦)
・それら信じる対象が釈尊の慈悲の顕れである方便という理解(再往・真諦に準ずる世俗諦)

・・・法華経では三世十方諸仏が釈尊の分身であると説く(羅什訳の見宝塔品・嘱累品などだが竺法護訳では"分身"の語が確認できない。阿弥陀仏・阿閦仏なども分身諸仏の一分であると見てよいが法華経の理を敷衍して飛躍した例が大日如来など法身仏の教義・後述)。
私は今年に入ってからも、法華経・大乗仏教の世界観を、諸宗教義の悪影響で実体論的に認識し続けていたため(同時に無量の存在・無辺の世界は非算数所知という譬喩の一種とも捉えて同居させていた)、釈尊・釈迦牟尼仏・釈迦如来という仏が、娑婆世界という無量の国土の一国に出世した、無量の諸仏の中の一仏という認識が強かったが、今はむしろ法華経の文に依ってこそ、真実においては釈尊が釈尊であって釈尊でない唯一の仏(報身)であると分かった。
法華経には、諸仏や諸菩薩が異国から、娑婆で法華経を説く釈尊のために訪ねてくるシーンがいくつもあることも、深読み(文底?)すれば、諸仏や諸菩薩は釈尊のために生じた方便の存在と判断できる(信仰の立場ではそう考えるべきでないと今までに考えていたが、方便だからこそ諸仏も諸菩薩も改めて認められると理解できた)。
もし我々も成仏するならば、久遠成道の釈尊(本仏・概念・法身、実体論ではなく非有非無の何か)の一分となろうか(仏の概念が釈迦仏に認定されて釈迦仏が多くの仏とその国土と眷属を説いたので釈迦仏から生じている・・・安易な認識論に陥る?迷っちゃう)。

釈尊は、娑婆で成道した最初の仏であり、事実上はそうに違いない。
しかし、まず原始仏教(とされる時代、下っても紀元前)では仮に過去の七仏を説いた。
尤も、実際に偉大な悟り(無上覚・大菩提)を得た方は釈尊以前にもいらっしゃったかもしれないが、今の私としては方便として必要に応じて過去の七仏を説いたと見ている。
過去仏を認めても、小乗仏教・上座部仏教においては、ひたすらに釈尊一仏(上座部仏教でも未来の弥勒仏を信じる場合がある)を重んじ、民間信仰や寺院の祭祀儀礼ではバラモン教(ブラーフマナ・インド思想・ヒンドゥー教)に由来する神々や生物も祀る(パリッタ云々などの詳細は過去記事)。
神のことはよいとして、大乗仏教では、過去仏の教理を拡張して様々な諸仏の存在を説き、無数の諸仏や仏国土の存在を認めた。
本末転倒にならない範囲では、一切天・神、諸仏の存在を認めて仮に崇拝してもよかろうか。

改めて法華経では釈尊の真意に立ち返った極理が説かれているものと拝察する。
その上で、一切天・神、諸仏の存在も再度認め得るが、真実としては釈尊より先に衆生(有情・生命体)としての仏を知ることはできず、またこの真実を知って改めて如来寿量品の「不滅(常住此説法・在此而説法)」や「柔和質直者・則皆見我身」など、法華経の教説を深く実感できよう。
※寿量品の「不滅(常住此説法・在此而説法)」は第一義において「あの世で仏様が私たちを見守ってくださる」という意味ではなかろうが、信仰・修行者の立場としては、そういった見解で自律を心掛けてもよいと思う。真実は私に分からないから、もしかすると本当に「私を見守っている」かもしれないし、信仰とはそのように振る舞って然るべきである。そうでないと、少欲知足・精進勤修などはなかなか維持されない者もいる。奉じている仏に恥じない生活(言動・威儀)が大事である。

自室安置本尊 御本尊相貌

多宝如来と釈尊が同じ会座にいた部分については、これも多宝如来が「仮に如来と称された(表現された・譬えられた)何らかの存在や事物」であると見ている。
天台大師は法華文句巻八下に「多宝法仏を表し、釈尊報仏を表し、分身応仏を表す (多寶表法佛。釋尊表報佛。分身表應佛。)」として、いわゆる三身論に沿って多宝如来を「法仏=法身の仏」であると見ているが、私もこれに同意し、真理・法身をここでは多宝塔と中の仏身に譬えて経に説いたろう(経文で色相をなした存在としてはみな応身と思うべきか)。
日蓮大聖人の御本尊も、大概、仏界の衆生は「南無多宝如来・南無釈迦牟尼仏」として並座の両尊のみが勧請され(私の「自室安置本尊」など一部の例は「三世諸仏・分身等諸仏」が勧請される場合もある)、法身・報身ともいえる両尊(中央の南無妙法蓮華経の首題は三身具足・十界互具・本門の教主釈尊)のみで、応身たる諸仏が法華経の会座に居る意義が成立しよう(特別に記す場合は時間と空間とを分けた三世・分身等の諸仏の名に総合する。しかし弘安以降の本尊は以前の金胎両界の大日如来と同じく名が認められないので方便的に書くものであったか)。
ついでに言うと、三身とは「三即一」で報身に帰するため、「報身たる教主釈尊」によって「法身の真理」が開示され、「方便の応身(諸経ないし文字の法華経)」も開示されたものである(経典・法華経において教主釈尊と真理の法と方便の諸仏は不二だが教主釈尊が第一であり依処である)。

「法華経」を説く釈尊のために過去世で「妙法華経(便宜上略した表現)」を聞いて成道したとされる多宝如来が出現し、宝塔の中の多宝如来を拝見するために諸仏が集まったという部分も、真諦・第一義諦(文底義?)に依って解釈することができる。
日蓮大聖人がしばしば「法華経への誹謗は三世十方諸仏・諸菩薩への誹謗であり大謗法である」、「三世十方諸仏・諸菩薩は法華経を聞いて成仏した」という教説をされるが、この真諦・第一義諦に通じた理解と言える。
※法華経や大聖人を嫌う人々であっても般若経典や中論を深く理解した人は言葉を置き換えて感情の色眼鏡を外して吟味すれば誰でも理解できよう。小乗仏教以来の「法を見る者は我(仏)を見る、我を見る者は法を見る(パーリ経蔵・相応部22.87経)」という教説とは同義であると考えてよい。法華経は大乗と小乗など様々な対立概念を無くそうとした教説がたくさん看取され、正に「実大乗」であると実感する。釈尊滅後や釈尊をお目にかかれない衆生をして「真実をどのように真実と見るか」を考え直させる教示は、小乗経典にも実大乗の法華経にもしっかりと含まれており、言葉は違っても真意は同じである。「第一義としての法華経」を信解して受持する者は、その法眼によって自然の事物に真理を見られる利益がある。「経典(俗諦)としての法華経」がその鏡であり、この法華経なくして第一義の法華経には通達しない(私が多々引く中論24章10偈"若不依俗諦..."の如し)。
※4世紀ころの世親(天親・婆薮槃豆)菩薩の「妙法蓮華経憂波提舍(法華論)」には法華経について十七の名号が唱えられており、その中に「九名、能生一切諸佛經・十名、一切諸佛之道場」という部分があり、天台大師以前(?)から法華経の真理を知る人がそれなりにいて可能な限り宣伝されていたと考えてよい。と思ったが、私の「分身説」ほど穿った見方ではないようである。単に「法華経と名付けられた真理」を一切諸仏が等しく悟っている、と経文通りに見てこう名付けたようである。

一応、法華経の中に名前がある阿弥陀・阿閦などの如来も釈尊の方便として実在するかのように説かれていて信仰できるかもしれないが、本来・第一義においては釈尊が教主であるとした上でこそ諸仏への信仰が成り立つと見てよい(弥陀・観音などを第一と立てる信仰は本末転倒)。
文献学・合理主義の見解に依り、インドのガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ、シャーキャムニ・ブッダ)さんが言葉で説いていないとみなしても、後の僧侶が彼の言葉や教説を拡張して法理に随って示された存在(方便)となるので、やはり彼・釈尊を親や本源とみなさねばならない。
経典を読む者がどう受け取るかによるが、私は様々に幅広く仏法を学び、日頃に我が身へ当ててきたわけで、宗派は異なっても多くの教説が法華経の教説と繋がって見える。
「事物がそのまま真理に繋がっている」とか、「事物が真理の現れであり、無為自然の森羅万象からいかに仏法の道理を見出せるか」という言い方がされる。
・・・まさか、妄想や幻覚で視界(脳で歪めるプロセス)にホトケサマを浮かべるということではない。
心の中で自己の仏性・仏界・法身を見ることは、大乗仏教の真髄であるから讃えられる。

なお、中古天台・台密の比叡山延暦寺では、「釈迦の内証は大日なり(溪嵐拾葉集: 釋迦内證大日也大日外用釋迦也又内證外用不二平等也 乃至 久遠成道佛是中臺毘盧遮那本地常身也)」などと説明される。
この説明は、大日如来=毘盧遮那仏が、華厳経などで仏の三身の「法身」と定義され、釈尊が法身に対して「応身」と定義されることに基づいていると見る。
自然と具わっている「法(法身・本地)=大日如来」の、現れ(応現・垂迹)が応身の仏であり、釈尊だとする。
しかし、これは、いわゆる「蝙蝠論法」である(妙密上人御消息: 善無畏・金剛智・不空等は大日経を師として法華経をよむ。 乃至 「法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死す」云云。例せば外道は仏経をよめども外道と同じ。蝙蝠が昼を夜と見るが如し)。
「蝙蝠論法」を換言すると「削足適履(履きたい靴に合わせて足の指を切る)」、「釈迦仏像の手を切断して阿弥陀仏の手印を結ばせる(立正安国論: 切釋迦之手指結彌陀之印相)」ようなものか。
日蓮大聖人がしばしば非難される「法華経と大日経の理同事勝」や「真言密教の訳経僧による一念三千の義の盗作」はこれに当たる。

法華経に基づくならば、法身の仏は大日如来ではなく、久遠成道(久遠実成)の釈尊(釈迦如来)でなければならない(日蓮本仏論においては釈尊の内証=久遠元初自受用報身日蓮大聖人と本門の題目の南無妙法蓮華経および一部教団では弘安二年の大御本尊が該当するか)。
その法身仏を、仮に「大日如来」と名付けたいならば、もう好きにしてよい。
中道の立場、第一義の観点から、今の私はそう言える。
小乗仏典、大乗の経論、法華経などに広く見られる「根源の第一義」を、わざわざ大日如来の名に置き換えて「即事而真」と思うべく大日如来を称える彼らについて、非難のしようが無くなった。

※法華教学における三身(法身報身応身)について簡単なメモ・・・「法・空・真理・真如実相・法身の仏(内心・外相・万物)は無始無終であり存在は非有非無であり第一義・真理だが、悟る人という報身がいなければ証明されないので不二であり、この悟る人=報身の仏が説くことは教義もすべて応身の仏である。法身応身報身の仏(人とも)に収まる」 「日蓮宗常用開経偈・・・能詮は報身所詮は法身色相の文字は即ち是れ応身なり」 「法身・所成(知られるべき境地)、報身・能成(知ることができる智慧)、境智冥合人即法・法即人・人法体一・人法一箇・不二」、「報身の中に三身を論ず、報中論三」 それで、この三身の配当は天台大師だと既述の通り「多宝法仏を表し、釈尊報仏を表し、分身応仏を表す」として私もおよそ同意するが、もう少しアレンジすると、内証・真理の久遠実成(および常住)釈迦如来が法身であり、その境を知って真理を説いた智慧ある釈尊が報身であり、説かれた経典・法華経や諸々の教義が応身とも言える(三身は三宝にも似る?)。なお、4世紀ころの世親(天親・婆薮槃豆)菩薩の「妙法蓮華経憂波提舍(法華論)」は三身を「示現三種佛菩提故。一者...」と法華経より説明している。世親菩薩は寿量品における久遠実成の仏の振る舞いを現在の釈尊が語っているままに、久遠実成の仏を報身とみなしているようである。



そういえば、今の私も法華経について、諸経論・諸師の法(ダルマ、ドクトリン・・・ドグマ?アルティメットトゥルース?)に依りながら折衷して私なりの解釈をしようとしている。
今の私の志向するところは「真理の法について、日蓮大聖人は南無妙法蓮華経と名付け、台密などの密教では大日如来と名付けているだけで正体は一緒だから、どの名前にせよ、三世十方諸仏や諸経の根源は共通する(≒修行法は違っても悟り・解脱に向いている)」という宗教多元主義的な見解に達するであろう(日蓮宗や日蓮正宗では密教の大日如来は単なる理仏の域を過ぎず、しかもそれを崇めることは無意味であると区別している。大日経は理仏・法身のはずの大日如来が説法するという奇怪なスタンスの内容だが私が肯定的に解釈するならば既述の多宝如来に関する見解と同様になるが多々異なりもする)。
私(未成年・教団未所属)の教学に対する姿勢は、その宗教多元主義や個人主義など現代的な自由・民主らしく、インターネットに大いに依存するものであり、諸宗の人もその傾向が出やすい。

日蓮大聖人・お題目の信仰・信奉においてはいかがなものか、と考えるが、そうしてまた大聖人・題目の信仰の裏付けに繋がることを期待している。
手放しに「みんな仏様の弟子なんだ!なんでもいいじゃん!」と言い放つつもりはない(立正安国論には主人の言葉で「同じ仏子を責めるのではなく仏子の中の謗法をにくんでいる」と述懐される)。
少なくとも、日蓮大聖人の法縁(2009年・父方の祖父逝去に際して千葉県鴨川市の父の実家に寄った時が最初だが小湊地域の聖地巡礼はしていない)は偉大であろうし、これは大いに尊重せねばならない(インターネットで創価学会や顕正会のネタに興味を引かれた一面も大きいが)。
現世の修行・世俗諦において日蓮大聖人は南無妙法蓮華経の法門を以て他宗を破る布教をされたように、私もその信心を保つ必要があると思っている。
故に、法華経文底義・諸法実相・第一義=客観的真理(過去記事で定義)から見た諸経も諸教(キリスト教など一神教も含む)の「主観的真理(過去記事で定義)」も否定しきれなくなるが、現世の凡夫の身は事実として生きている以上、現世のならいとして邪義・異なった主観的真理を破らねばならないこととなる(私は大胆に行わないでおくが少なくとも日蓮大聖人および現代の一部門下はその必要性を自覚している)。



さて、「第一義(空・縁起・中道・言語道断心行所滅)」に通じる理解を得ることは、法華経だけを見ても、法華経以外の経典だけを見ても、機根の高い人は得ることが出来よう(豁然大悟・頓悟する)。
また、釈尊のように生身の仏(第一義に通じた覚者)より教えを受けずに独り瞑想・観想をしても、得られる可能性は0でない。
しかし、大概、それほどの超人はいない(大聖人教学では末法下機下根の凡夫・特に現代人は学校教育やテレビ番組などの悪影響で客観・合理思考の価値判断が・・・)。
私が半ばに得られている状態は、法華経の信心に発端して諸経・諸教を広く見て再び法華経の理解に戻ったプロセスに因る。
法華経(南無妙法蓮華経)の信心と、仏教の広い研鑽とが兼ねられ、法華経の故郷の地に着き、条件が満足するときに伸びた智慧の大樹が第一義の天を衝こうとする(まだ衝ききらない・私の成仏を証明できていない)。
文字の法華経と余経とが相互に関与した上で、真理・真諦・文底・第一義の法華経に「見(まみ)える」こととなろう(法華経の第一義・文底義から諸経を再度俯瞰して法華経の第一義を根源とした教説であると再発見する境地を絶待妙と言う。十法界明因果抄: 法華経は爾前の経を離れず爾前の経は法華経を離れず、是を妙法と言う。此の覚り起りて後は行者・阿含・小乗経を読むとも即ち一切の大乗経を読誦し法華経を読む人なり)。

こういった第一義・諸法実相の理解や体得も、「信」を起こすことが前提である。
方便品の以信得入は有名だが、先ほど私が引いた如来寿量品の「柔和質直者」と似た一句に「質直意柔軟」という部分があり、その一つ前の句が「衆生既信伏」となっている(漢訳ではそうだが梵語原典でどうかは解読できない。梵語に依拠した英訳には"upright (or pious)"とあり羅什訳後二十八品に依拠した英訳には"faithful"とある)。
「柔和質直なる者(mṛdu mārdavā)」もまた信心の素直な人を指しているのかもしれない。
それはそうとしても、やはり釈尊の教説への信受は重要である。

前段にあった「諸仏(過去・現在・未来の三世と十方の諸仏)」の存在や、法華経に基づいた多宝如来と釈尊(釈迦如来)の同座や、釈尊などが現した三十二相(妙相)・神通力(神力)について、その内の一部分を神聖視・一辺倒で信ずれば本末転倒だが、全てが第一義に通じた「正しい方便・善良な方便」としては平等に信じなければならない。
それらを確実に手繰り寄せて一歩一歩と踏みしめて経過するところに、五里霧中の三界で「第一義」の像が、徐々に鮮明になると考える。
種々の説法の含意を理解する。
法眼を以て文底の義を見抜く。
とでも言えばよかろうか、言葉が見当たらないが、強いて言う。

もちろん、無量の教説・教義の全てを、試験勉強みたいに暗記したりして学ぶ必要は無く(必要を感じる人は自由にどうぞ)、ただ今に受けた教え・学んだことを信ずる姿勢を言っている。
この信心が現世で最高の宝であろう。
第一義を得るための最大要因として法華経に示された。
この信心という因は、端的に言えば一念三千であって十界互具であって因果倶時の成仏であっててだね・・・。

つまり、この信心を決定している人が既に仏である、とも創○系で言われている。
釈尊など、諸々の大徳は、様々なプロセスで法華経の第一義に達したであろうが、末法の衆生は、その第一義の名である南無妙法蓮華経の信心・修行を日蓮大聖人から教わって(下種されて)実践するので、既にその第一義を直に拝しているらしい。
これについては何とも言えない現状である。
その信心と同時に、こういった教学や理解によってようやく得られるのであろうか。
※以信代慧の妙理は善いようだが、人間の実際問題は、知能において曲解の性質を孕み、信が不足しているときには知識が慢心を増長し、教説の信が有っても慈悲の理解を欠いていれば自他に三毒をもたらしかねない。複雑な問題ではあるが、巧く浄信で制御せねばならない。

私も、先述の通り、何らかの法縁・仏縁なくしては、今の研鑽が無かったであろう。
まさか、それについて「月を指す指は何でもよい」とか「鰯の頭を縁としてもよい」とは言わない。
偏に南無妙法蓮華経の妙用に因る・縁る結果と信じている。
南無妙法蓮華経の信心・唱題が然らしむる智慧の功徳である。





起草日: 20161123
起草日から見て最近、馬鳴菩薩の仏所行讃(曇無讖さんの漢訳ほか参考に梵語も)を披見した。
仏教ファンタジーとまで思える壮大な物語は、史的事実に即して法理を含みつつ、文学的・詩的に魅力を持たせた表現様式がとられる(詩の要素はMahākāvya、カーヴィヤと称される?)。
破魔品は壮大でコミカルな表現が受ける。
釈尊が「超人」のようにも描かれるが、人間的叙情表現も描かれる。
それらは馬鳴菩薩が第一義に達した境地から成し得る、柔軟な筆致であった。
史学的・文献学的に、竜樹菩薩や馬鳴菩薩が法華経を知らなかったとしても、間違いなく、彼らは法華経所説の真理・第一義や諸法実相に通達している。
ましてや、彼らの言葉を漢訳文章にした鳩摩羅什さんや曇無讖さんは法華経・涅槃経(大乗)に関わっている。
仏所行讃・中論・大智度論(過去記事でも書いた通り文献学的疑義は別)を、浅学菲才の私が微力を尽くして管見の限りに読んだ印象である。

※竜樹菩薩・馬鳴菩薩(および天親菩薩など)と第一義の話に関しては日蓮大聖人の教示による。時代によって時代に適った法を広めた説である。主に撰時抄に意義が示される。大聖人は「南無妙法蓮華経」が内証そのものと断言する。法華経や題目を嫌う人でも、信仰心あらば、彼ら大乗諸菩薩の内証・悟りはおおよそ共通していることを認められるはずである。(撰時抄: 竜樹・天親等は内心には存ぜさせ給うといえども言には此の義を宣べ給はず 乃至 多くの故あり一には彼の時には機なし・二には時なし・三には迹化なれば付嘱せられ給はず 報恩抄: されば内証は同じけれども法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ馬鳴等よりも天台はすぐれ天台よりも伝教は超えさせ給いたり、世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり ほか: 月氏の迦葉・阿難・竜樹・天親等の大論師・漢土の天台・妙楽・日本の伝教大師等・内には之を知ると雖も外に之を伝えず第三の秘法今に残す所なり)

当記事の理解には「主観的真理・客観的真理」と仮に弁別した記事を併せて読む(起草日や投稿日の順序としてはそちらが先に読まれるべきだが)と非常に理解を深められよう。
改めて、この「2つの真理」について当記事になぞらえて説明する。
釈尊の様々な説法にしても日蓮大聖人の振る舞いや教義にしても、自身の存在意義・他者の教導、といった現世で行うに適した「主観的真理」に随った行動や発言がある(それにつけても天台大師の伝承にある弥陀名号の念仏・法華経読誦の臨終は主観的真理同士ですら相容れないので判断が難しいが妙法と麁法の中和というつもりで行ったか・・・正宗系教団ではタブーの話)。
合理主義の現代、「主観的」という言葉には即座に「独善」という印象が付随しがちであるが、むしろ、仏教では自身の行いとしては「主観性」こそ重んじねばならない。
主観的真理を持たずして客観的真理には通じない(主観的真理に悪い拘泥をしろとも言わない)・・・当該記事において竜樹菩薩の中論を多く援用した。
化他行においても「自他不二」の発想から自身の信念・信仰に基づいた行いと同じように導くべき確信が大乗仏教にはあるが、人それぞれ価値観が異なるから多少の配慮なども必要ではあろう、ということであって、あくまでも主観的真理は過度でない限り、尊重されるものである(現代の人権思想にも通じており、その主観的真理がアイデンティティとなってレゾンデートルとなっているからむしろ否定すべきでないとされる)。

客観的真理は、世間でいう「客観的なもの」とは大きく異なり、当記事などで仮に「第一義(第一義諦)」と称しているように認識できて認識できないような真理である。
科学的思考も究竟は「空・諸行無常(物質的なものについてはエントロピー増大則とかいう)」に繋がるので、ある意味では私がいう客観的真理に通じるが、いわゆる天台教学の「蔵教・析空観」と同レベルであるし、そもそも大衆認知=客観的と言っても人間の共同体の総意はその時空(時間・空間)の中の人間の主観性に過ぎない。
そのほか現代的民間信仰ともいうべき世俗的科学知識は粗末であり、誤解や迷信も混ざっており、とても「客観的」でない。
私のいう客観的真理とは、「実体論的に存在する法」でも「経典の言葉」でもなく、言語道断・心行所滅・不可説のものであり、釈尊・釈迦牟尼世尊(大乗非仏説論の見解で一部教説に限ることを含む)にしても日蓮大聖人にしても竜樹菩薩にしても天台大師にしても、言葉(俗諦)が異なって中身が共通した「客観的真理」に通じていたと考えてよい。
竜樹菩薩・中論24章18偈=空・仮名・中道義と、天台教学・三諦=空・仮・中の語義との相違性を挙げる人がいるが、その相違性は枝葉末節であり、彼らの真意・内証は一緒である。
日蓮大聖人の場合は、この「客観的真理=第一義=不可説」を「南無妙法蓮華経」の七字に表され、これを唱える修行を末法の世に残された、ということになる。

日蓮大聖人や、数々の教説の流れが通じる天台教学に関して誤謬性(文章・文証の誤った引用や解釈や世間事象の予言など)を挙げる人も多くいるが、それらはあくまでも先述の主観的真理に基づく方便・補助などを目的とした枝葉末節の部分である(無視せよという意味ではない)。
そういった点には、人間、誰しも誤りがあろうし(祖師無謬説で信じるのも自由だが)キリのないモグラ叩きに陥る修羅地獄であるから、原始仏典(パーリ経蔵・小部に多い)や過去の大徳は「他者の見解を論う・人の過ちを責めることをしない」と言葉を残した。
一つの第一義の部分はみな一致していて、その枝葉末節に多少の異同や新義のような部分も生じている、という主張をしておきたかった。
「それならばどの仏教でも一緒じゃん」という発想については、記事本文にある通り、ただ私の尊重すべきところに随い、未だ仏縁の無い人には日蓮大聖人の法門を伝えておこうと思っている。
その中に、立正安国論で警鐘を鳴らされた末法の世相・三災七難の由々しき問題の対処も着実に進むであろうと信じている。
哲学・論理学・合理思考・客観的分析の学者たちをして「詭弁だ」と思わせかねない私の言葉だが、あくまでも高潔にして下賤な修行者として綴った。
法門は自覚の問題である。



2017年1月6日金曜日

本来的・本質的に「優しい心・思いやり」が人間に備わっている事の理の論証 ~ 2つの真理



觀萌私記・末・讃萌語に「内に蔵する萌心(みょうしん)=内蔵萌心」を示している。
上の画像は、別の形で「内蔵萌心(内藏萌心)」を説いているものである(2016年9月分・絵の練習記事所載)。
觀萌私記所説を畢竟ずるに、「萌心」は慈悲の別称であり、その慈悲の心が本来的・本質的に具わっており、仏教や萌えを学んで観想した人が自覚でき、その人(萌えの覚者)である私の教説を聴聞した人も理解ができるようになる、と。

「本来・本質」という言葉は、共に、仏教の「空・因縁・無我」を原理主義的に前提とした立場から見れば、否定すべき邪義の言葉となってしまう。
人間の生命は、因(因子)の理(義理)として生来的に善悪の種(種が善悪それぞれあるのではなく1つの種が善にも悪にも変化することを譬える)を具えているであろうが、実際に生まれた後の縁(後天的要因)が無くしては、善も悪も成立しないという因縁観に依って否定される。
善悪は背反する概念であるし、物事の結果的に決められる区分なのに、生来持っていてそのまま維持するはずがないという見解である。
私はここで敢えて「本来的・本質的」と称して言葉の執着を排除した。

「本来」とは、「本覚偈(本覚讃)」の中に「"本来"具足三身徳(本よりこのかた三身の徳を具足し…)」とある通り、本覚思想と通じる一面がある(この一句の古い形は「本来荘厳三身徳」)。
この「本覺偈(本覺讃)」は、現代仏教学で否定されがちな「本覚思想」を大きく支えてきた。
主に密教を摂取した日本の天台宗(比叡山の山門・園城寺の寺門いずれも?)で重んじられ、伝統的に唱えられてきた。
「本質」というと、西洋哲学に「実存・本質」という対立概念があり、西洋哲学の定義での「本質"Essence"」という言葉を用いると、仏教が否定する「我見」や「常見」に繋がる。
我見・常見とは、バラモンの我・アートマン"Self, Soul, Identity"、説一切有部の法有我、犢子部のプドガラなどを指し、諸法無我と相違する説とみなされる。

いずれも、仏教の原理主義的立場に基づけば、用いるべきでない言葉だが、そこに固執する必要は無いと思うし、そもそも字義からしてその用例・用法のみに縛られもしないはずである。
もっと言えば、大乗仏教においては、むしろ菩提心を養うならば珍奇な説であっても仮に奉じてこそ、真の原理主義として正統派であろう(後述する2つの真理のうち後者に該当する)。
※釈尊は色々な修行や教説を方便として説いて衆生を度さんとしたお方であるが、「それを根拠として觀萌私記の所説は正当化できない」、「釈尊の修行や教説と関係のないものを創作したら仏教ではない」と言われそうである。觀萌私記は別サイトでも注釈したが、仏教の補助や仏教理論の個人的譬喩であって仏教そのものと強弁したいわけではない。つまり、最初から仏教そのものや仏道修行として説いていないが、仏教に繋げられる中道の立場であり、読者もそう理解して私と同じ程度の中道となってほしい。私への尊重を手段として諸君の中道を成就せよとの慈悲で語る。

私は、仏教を学んでから世間を見直したときに、人間の心の本来的・本質的な「優しい心」、つまり、「良心の呵責」などで作用するような善意・良心を実感した。
その実感とは、あくまでも、仏教を学んだこの私の自覚あってこそである。
だから、私にとって「内蔵萌心」や、本来的な良心・慈悲を、実感できる真理(後述する"2つの真理"のうちの後者)として確立した。

しかし、こういった「本来・本質」の善意や良心や慈悲という精神性が、捉えようには真実味がなく、真理と認定しがたく思われる出来事が、現実(仮)の世の中にしばしば見受けられる。
大小・種々の事件は、人づて・メディアの報道によって具体性や信憑性にピンからキリまであろうが、少なくとも、その情報をそのまま見た前提においては、「内蔵萌心」の真理が揺れて見える。
ここから様々に検証したいと思う(長い前置きだった!!!)。



 諸萌出世の本懐は 慈悲を説かむの故ぞかし
 人の心に具はれる 善の種より萌やすなり

さて、これは実際の世間の出来事に即して見たところに悩ましく思う。
子供ですら醜悪・陰惨・冷酷ないじめを行い続けており、いくら上流階級の者・為政者たちが人権擁護を訴えて方策を練っても、悪質なケースの発生が留まるところを知らない。
大津市で中学2年生がいじめを苦に自殺した事件のような教職員・行政の隠蔽体質もあれば悲惨ではあるが、いじめ自体も実に凶悪である。
肉体的・精神的苦を大いに受けた被害者への同情だけではない。
加害者の心の醜さも苦因となろうから、同情すべきである。
しかし、その苦を実感せず、剰え平然とし続けられる者たちなので、怒りと悲しみを禁じ得ない。
そのような子供が、人間が、存在すべきものか?
同じ人間であるはずなのに、なぜであろうか?
人生の途上で必要なモノを失ったか、あるいは最初から備えていない不良品なのか?

※私はあくまでもいじめの解決策だとか、いじめを無くそうという主張をする気はない。枝葉末節である。専ら仏法の流布によって根本の無明もろとも解決を願わんばかりである。いじめの仏教的な分析は、本家ブログ2016年6月8日記事の終盤に詳述している。そこから、当事者が間接的な打開策を導き出してほしい。現世の凡夫は平等に苦を受け、与え、相互に悪の精神を増長しているが、仏法で「変毒為薬」を願わんばかりである。止められがたいケースについてあえて意見をするならば、いじめを受ける側から何とか脱却する術が段階的で確実であろう。最低限、自殺は免れられたい。過去の私のように。最も望ましい姿勢は、客観的に見て「いじめ」の被害に遭っている状態でも、物ともせず、被害者意識とならずに絶対的な自尊を保てることである。自ら被害者と思わないならば、他者も加害者でなく、いじめも有って無い。忍従の徳を修めれば、心は泰然自若・無分別の仏の如き境地となろう。場合によって厳しくはあるが、少なくとも80年も続く肉体的いじめは無いのでいつかは必ず止む。悩める子供たちに伝えたいことである。

彼ら加害者の心の醜さや、虚心坦懐に事実を認めないではぐらかす教職員(教育機関)・行政の愚かさにすら、私は憐憫・憐愍を覚えてやまない。
本当の苦の報いは、必ず受けるからである(合理主義の人はこういった善悪の業の因果応報を否定する場合があるが私は信仰の立場にあるので真理の一種とみなす)。
苦の現世(四苦八苦)と生命の在り方(六道輪廻)を知らないこと自体、苦(四諦を知らない無明の苦)であり、苦であることは実感の強弱を問わず、仏教徒が等しく哀れむべき対象である。

被害者が自殺をしないケースには、加害者が万単位のお金を平気で強請るケースも確認されたが、まず人間として文明に生きていれば人のお金という「財産」を堂々と強請りもしない上、小学生同士で行われてよいことでなかろう。
自分の行動に悪の意識が薄いならば、物事の価値も薄くしか感じないはずなのに、どうして人を苦しめて大金を取ろうと行動するか。
彼ら加害者は良心の呵責や背徳を覚えることは無かったのであろうか。

※このケース(高齢者虐殺のK市と障害者虐殺のS市を抱えるK県の県庁所在地Y市で発生)の背景は複雑で、この児童の非差別的背景を餌にして加害児童の親が被害児童から金を搾取する指示を出したという見方もある。しかし、加害児童もまた被害児童の事情を嘲笑・侮蔑していた線も考えられ、故に実行されたという面も考えられる。いじめの心理云々と論じる記事ではないが、一応の見解も書く。人により「憶測ばかり」と思われようが、今は主観を本位として記す必要がある。



さて、「ヒトに善良な心が本能的に備わっている」という仮説を真理とみなした場合、彼らは本能が強いはずの「子供」という生命でありながら、その心を持ち合わせないので、ヒトに非ざる生命となろう(仮説を前提にそういったケースの情報をそのまま受け取って論証するとこの結論に達す)。
また、美徳とされる精神性を持っていてこそ人間と認定される宗教の立場から見る場合、彼らは既にケダモノ同然である。
仏教の六道や十界論からいえば、畜生界(畜生道)や修羅界(修羅道)そのものである。
少なくとも、仏教においては「人間の身を成した畜生・悪鬼」とみなされる精神である。
人間の心が「有って無きもの」である。
善良な心が有ろう諸君、私の仮説論証は詭弁であろうか?



「2種類の真理」・・・どちらも理解が大切


こうして実際の世間を見てみれば、人間の身であっても、人間として優れた精神性を持って生活する人々から、とても人間らしからぬ精神性で悪行を重ねる者までいる。
また、純真無垢と思われがちな子供にも、生来善良な心を失っている者すらいるようである、と私をして悩ます。
すると、私の「内蔵萌心」や、本来的本質的良心・善意の説はとても真実でないと思われる。
しかし、真理には2種類あることを注記したい。

まず、「真実・事実に即した道理としての真理」があり、「内蔵萌心」は、この合理的・客観的見地においては否定されよう。
次に、観念論的見地で「その人が認定・信頼した観念としての真理」があり、「内蔵萌心」は、この信仰的・主観的見地において肯定されよう(先にカッコ注釈で信仰における真理とみなした善悪業報もこの内か)。
この後者「その人が認定・信頼した観念としての真理」とは、まるでお粗末でデタラメなものと現代人から思われがちであろう。
しかし、まさに「その人」が認定した上では、その人の精神・生命・生活・生涯を養う利益があり、まさに信頼すべき「真理」として肯定できる。
だから私は、この2つの真理についてどちらが正当であるとか、どちらが優れているという差別をしたいのではなく、時と場合によって正邪や優劣があるのであり、仮に区別するために説く。

※般若経典や龍樹菩薩中論の「勝義諦(第一義諦)世俗諦」や「真諦俗諦」のような発想である。
※主観的真理を客観的なものと思い込みをして主張すると「お前がそう思うならそうなんだろう"お前の中では"な」と愚弄されかねない・後述。
※社会・人間界で浸透する客観的真理というものも、その文明・共同体における人間どもが認識しているものであれば、ある意味では主観的真理の延長なので「主観即客観・客観即主観」となる。所詮は程度の差に過ぎない。しかし、今は上述の定義で仮に主観と客観を弁別すべきである。
※ちなみに私にとって客観的真理といえるものは仏教の空・諸行無常であり、大乗仏教の様々な教義は正系反系もみな通じていると思っている・龍樹菩薩中論24-20偈にも説く。様々な主張を尊重して絶対的正当性を無くす。一つの教説のみが真実であるという断定ができないことこそ、真理であり、龍樹菩薩・空の本意ではなかろうか・・・中論18-8偈「一切實非實 亦實亦非實 非實非非實 是名諸佛法」であろう。真理(実相)を示す真理(言説)真理でない「言語道断」の真理である。

「主観・客観」という対立概念について、現代では専ら、客観性が重んじられている。
それもそれで中立の姿として良かろうが、その一辺倒・絶対化は中立の姿でない。
自身の中で信じるものに「主観的なもの」があってもよい。
むしろ、人間は「良心」のみならず悪い感情を具えて容易には手放せないでいる生き物であるから、無理して合理的・客観的判断を心掛けても、結局は感情や欲望が先行するではないか。
他人に押し付けない範囲では、主観性がかえって自分の利益となるし、自分もまた他人の主観性を尊重してこそ中立・公平ではなかろうか。
「他人に押し付けない」点では、「人の自由を害しない範囲での自由」が容認される「自由主義」の真髄と通底している。
また、修行者は自己をよく知ってこそ修行が進むわけであるから、主観的な立場も必要である。
そうして徐々に、客観的・合理的真理"Supreme Reason, Ultimate Truth"に向かう、これは仏道の漸進主義である。
目的と手段には、確かな段階を踏襲すべき道理がある。
私の発想は、龍樹菩薩中論24-10偈「若不依俗諦 不得第一義 不得第一義 則不得涅槃」の影響もあろうか。筏のたとえ(筏喩)とも通じていよう。

私はまず俗世の苦しみを受け、「苦諦」というように苦を苦と如実(主観的?)に認識・自覚し、俗世を厭離してから大乗仏教・上座部仏教を可能な範囲で広く深く学んできた上で、人間の心にはきっと善良なものがあると知識として知った。
改めて俗世の事象・現象・実相を浅く深く狭く広く見たり、自分の生活の中でも実感できた。
「良心」が、人から伝えられる知識から、自己に埋もれたものを発見して実感に至ったという。
しかし、他人の行為など、表面の出来事においては、本当に「ケダモノ同然」のケースも極稀に見られた。
それは仏教を学ぶ前にも見て知っていたであろう、生々しい文明の在り方であろうに(嫌がる私やあえて笑顔でい続ける私に、何かと肉体的苦痛を与えてきたかつての同級生など)。

また、下の弟が実際に知的障害であることを幼少より理解し、自ら薄く先天的な発達障害・精神障害を認定した小中学生のころ、種々の先天性疾患・重病に興味があった
重度障害の中でも、脳性まひ(脳性麻痺ほか植物人間・脳死)などは、思考能力も精神機能もほとんど持たず、それらが養われもしない。
これらの患者・障害者は現代文明の潜在的問題が人の身に現された点で、良き説法者である。
彼らの存在もまた、彼らに対比して思考能力や精神機能があるとされる人々の哲学や道徳に資する部分が強く、尊重してあげることで我々の思いやりの心(慈悲・平等)が育まれよう。
それはそうとして、そういった重度の知能的障害があると、精神にも同様の影響が及ぶ。
そうした人々が仮に「内蔵萌心」を持っていても、慈悲や善意が萌芽して大きく成長することがないと論を俟たない。
顕著ないじめ加害者に見る「ケダモノ同然」の生命とはまた異なる形ではあるが、同様に「内蔵萌心」の否定材料となる。



改めて大乗仏教の「仏性」説を思い合わすべきである。
天台教学においては仏性の「六即(仏性を持つ者の6つの段階)」を示し、私の信奉である日蓮大聖人の法門でも説かれている。
私の「内蔵萌心」とは、およそ、仏性の語を置き換えたものと考えてよい。
真の健康記事にも六即について語ったが、改めてここに記したい。
要するに、仏性・仏種があっても、仏教の見聞によってその存在を自覚せねば、「有って無きもの」である。
故に、未だ仏教を見聞しない人々の仏性が六即の「理即」という、最初の段階のものと説かれる。
道理・理論上は「有る(具えている)」ものの、仏教の見聞という大地や雨や太陽などという栽培環境が不十分であるので「無き」も同然である。
「内蔵萌心」についていえば、多くの人は仮に萌心を持っていると言えるが、能く芽を出させる「好色萌相(こうしきみょうそう)」に値(あ)っていないので、「理即」=理論上・観念的仮想の萌心を過ぎないこととなる。
何らかの形で、「内蔵萌心」や本来的・本質的善意というものが突発的に起こることはあっても、本来的・本質的に具えているという自覚は持てないので、日々、同時に具えている悪い感情にも流されやすくなる。
なお、日蓮大聖人の法門では、そもそも「仏性」となるべき「仏種」が末法の衆生には植えられていないとされ、日蓮大聖人の出現によって「種を下す=下種」されて今は仏種があって理即の仏性が成立しているという。

そのような仏性、仏種の存在を知り、自覚して初めて「名字即」という段階に上がる。
「内蔵萌心」、本来的な善意・良心・慈悲についてを言葉で見聞きするならば、一応の理解は生まれるであろうし、何らかの実感や同意があれば、今は真理として認定・信頼し、ますます育んでゆくべきである。
仏道に於いても、解脱・成仏の可能性が自分にあると信じて種々の修行を行う意味が生まれるわけであるから、言葉で明確に知らねば難しい話である。
そういった一応の真理認定を頼りに、今の道筋が定まろう。
そうして次第に、物事の絶対的(?)真理が見える時は来ると考えてよい。
再度、龍樹菩薩中論24-10偈「若不依俗諦 不得第一義 不得第一義 則不得涅槃」の意味を考慮すべきである。

その絶対的(?)真理ですらも、生きている間に完全な把握は仏様だけなのだ、と思わざるを得ない「凡夫」の私である。
知れば知るほど、「人の死が終着点か、涅槃が終着点か、成仏が終着点か、はたまた・・・」といって遠のくようであるが、同時に、近道も新たに発見された気がする。
少なくとも、生きている間は終着点がなく、果てしない道のりが続いていると思う。
「全力疾走が大事なのか、ただの足踏みに一喜一憂しているだけなのか・・・」そういった考えは既に無用であり、仏果を思えば戯論寂滅である。
遠回りの道こそが最善唯一の道であると深い実感を得た時、その修行・行動は死の間際まで不断に続くわけであり、これは「悟った」も同然であろう(理論上はそうだが私は未だに深い実感ができずにいる)。



とりあえず、私のように「ちょっとだけ悟っちゃったかも!(増上慢ではなく…)」と思う人々は、「本来・本質の善意や良心」や「内蔵萌心」と称される精神性が、人間には平等に具わっているものと信じてほしい。
きっと何らかの機縁があれば、誰でも慈悲の心という花を開くはずなんだ、と。
こうして物事を判断し、何よりもそういった思考や行動によって自身の善意・良心・慈悲の心を育むことを念頭に置いてゆくべきである。

慈悲の修行は物事において自他を利するのみならず、畢竟、自身の解脱・仏果の成就に繋がる。
このようにして究極の目標を掲げ、実現に繋げてゆくべきである。
自分や他人にある慈悲の心を喜びつつ、それに執着せず断念する「喜捨」もセットにした四無量心の思考に基づいた行動を心掛ける生活は、「本来・本質の善意や良心」という「原理主義的には邪義と認定される思想」を奉じていても、間違いなく仏の本意に随うに違いない。
自覚・実感による行動が、仏教の教義に一つでも繋がっているならば、十分、仏教の善行・正法であるに違いなく、功徳も大きいと信じている(=私を尊重してね)。

されば修行者は、教理を信解・受持すると同時に、柔軟な理解と実行性を持つ必要があり、原理主義に陥ってはならない。
大概の仏教学者・小乗仏教原理主義者(主に合理主義的現代日本人)もまた、恣意的・主観的に教説を選別して信仰をしているが、それは彼らが信仰の性質(本質)に疎いためである。
彼らは彼らの中の真理を奉じているようであり、今後どうなるかはともかく、真摯な修行者は一旦、彼らを「異物」として尊重・無視してあげよう。
悲しいことは、2種類の真理のうち、彼らは彼らの主観的真理を奉じているにも拘らず、主観に依って合理主義を絶対的法則・客観的思考とみなしているから、客観的真理だと錯綜して妄信している点である。
観念遊戯・知的遊戯もよいが、そう耽溺するのみであってはならないのである。





起草日: 20161110

「内蔵萌心」および「本来・本質の善意や良心」についての論証は以上の通りである。
本家ブログ絵の練習記事=2016年9月8日の絵と文章について考えている際、このような記事の起草に思い至った。
「二諦」ならぬ「2種類の真理(二種類の真理・2つの真理・二つの真理)」について、薄々、考え続けてきたことが萌心の思想世間の物事に結びついた。

パーマリンク文字列(caritas-generis-humani.html)の意味について・・・ラテン語で"Cāritās [(名詞・単数・主格)愛]" "Generis [(名詞・単数・属格)種類の・類の]" "Hūmānī [(形容詞・単数・属格?)人の・人道的な]"とあり、直訳して「人類愛」であり、意訳して「慈悲・慈愛」とも言われるが、仏教の慈悲とは異なる。しかし、この慈悲も仏教の慈悲も、内蔵萌心の意義と通じているので、パーマリンクに用いた。なお"Caritas"の接尾辞"-itas"は、英語で形容詞を名詞にする接尾辞"-ity"と通じるので"Charity (一般にチャリティー・慈善)"とは同源(cārus)である。いずれにせよ、慈善や慈愛が「人間らしい精神」という見方は、2000年ほど前の西洋にもあることが分かったであろう。恐らくはどこの文明も古来からそういった精神を人間の徳として尊重している。「みんな一緒!」と思いたい。そのように自身で修める人間性を指す言葉としてはよいが、他人が人間的かどうかを計る言葉としては侮蔑・悪い感情・争いの元になるので控えよう。また、"Hūmānī (フーマーニー)"とは英語の"Human"に同じくして"Humanism (ヒューマニズム)"に通じている。「内蔵萌心」に合わせて言えば、なぜ可愛い萌えキャラに悲惨な運命の設定(エロ・グロ・猟奇)など考えられようか?心が痛もうぞ。フィクションだとしても「二三一体」と思うことが萌道の精神であり、"Cāritās Generis Hūmānī"に通じる。非人道的刺激性を、仏道に順ずる萌道においては求めないように心がけたい。無論、公然と「○○たんちゅっちゅ~」という顛倒の溺愛をなす道でもない。

この記事は2段階に分けて読むと面白い。
1段階目は、語義・文意の概要の理解を目的とする。
2段階目で多くの記述を読み直すと、私の記述の中に主観的真理らしきものが複数見られる、といった面白い発見があろう。
読解して「文底」の解明・謎解きに励んでもらいたい。
以下からは、2種類の真理について詳説しようと思う。



世俗の教えでは、現代だと人権尊重・人道主義に関連する思想が、「本来・本質の善意や良心」が人類に平等に具わっていると説いているようである。
これを例に取ると「ニンゲンは誰でも考えやココロが有るから悪口を言ってはいけない・思いやりが大切・譲り合うココロを持って怒らないでいればヘーワになる」などと表現できる。
これも、私が言う2種類の真理のうち、後者の主観的真理に該当するものだが、中にはこれを前者の客観的真理そのものと妄信してかえって自ら苦しみ、これを第一義として訴えることで、同じように2種類の真理の分別ができない他人を悩ませる人間もいるから滑稽である。

ほか、世俗の合理主義者(唯物論者・虚無主義者含む)が「本来・本質の善意や良心」の「主観的真理」を聞いたとき、こう考えるであろう。
「そんなものは生物の本能である欲望を種としている。情けは人のためではない!自分のためにするものでしかない!いわゆる善悪・道徳背徳の観念も、全てはやましい本能から生じている!進化論の軌道上である(故に生まれつき思考能力と欲望を持たない人間は当然これを持ち合わせない。思考能力と欲望と社会性があれば後天的に育まれるものでもあり性善説は成立しない)」と。
彼らの思想においては、「欲望ありきの良心」という見解こそが「客観的真理」と認定されている(それこそ彼らの感情や人生経験ありきで主観的に認定されていようが)。
また、彼らの思想的アイデンティティーを固持するための「主観的真理」でもある。
よって、大いに尊重・無視してよかろうと思う。

私、仏教徒としては、大慈大悲・不可思議の仏法に憑んでゆくのみ。
思えば、私が小中学生の時も、性善説を否定する合理的見解に帰結していた。
仏教ではそういった性悪説を一辺倒には説かず、私の「内蔵萌心」も仏教的性善説の一面を説いた言葉であって性善説の妄信ではない。
仏教は菩提の性善・煩悩の性悪のいずれも説く「中道」の立場である。
現代世俗的科学の所説に則れば、間違いなく「欲望ありき」の性悪説が真実である。
しかし、科学を極めてゆくうちに、そんな「欲望ありきの良心」というものではなく、人間が人間として発展した歴史に根差した、本能的・反射的に起こる「善意としての良心」も証明されよう。
否、科学的に証明されずとも、仏教徒の慈悲の実践に何ら差支えは無い。
私が知るところ、科学は進歩するほどに仏教の真理(主観のもの客観のものを問わず)に通じていくものと観ている。
※科学史を見れば、命題に対して矛盾であるとされた見解こそが正当であって後の学界の定説・常識となった研究成果がいくつも確認できるよう、矛盾じみた部分もいずれは認めざるを得なくなる場合がある。既に仏教は、世間的に合理なことも世間的に非合理なことも全て包括した「真の合理性」を打ち出している。



なお、私の愚見によると、仏教の教義や修行の多くは、原始的なものも部派仏教的なものも大乗仏教的なものも、基本的にすべてが「生死を度する筏」であって方便のようにも感じている。
龍樹菩薩や江戸時代の某僧侶(過去記事)などは、そのように捉えていてもおかしくない。
龍樹菩薩・中論24章で、「空」による「三宝・四諦・四果」教義の論証を行っており、「空」があってこそそれらの教義が成立すると説く(24-14偈空義有るを以っての故に一切の法は成ずるを得...)。
「空」が「仮名(仮に名付けられて説かれたもの)」であり、その俗諦に依る「仮名の空」が「中道」であると説かれる。
世俗の思想を見ても、人権思想などの道徳的・倫理的・観念論的・唯心論的なものや、精神論を嫌う合理主義的・社会主義的・虚無主義的・唯物論的なものの全ては、当事者の知識・経験より信頼されて信奉されているものである。
世間で「人の数だけ人生や価値観(知識・経験・感情を包括したもの)がある」と言われるが、そうであるならば、その人に適合した主観的真理は、むしろ必要である。
主観的真理」が無いことこそ人間としては抜け殻である、というか、抜け殻にはそもそも最初から主観的真理を得る能力がない。

仏教徒は、今ある宗派にしたがって宗派の信奉と修行を護持するなど、現世の「仮の自分」が行うべき立場を自覚して如説修行を継続することこそ、正しい仏道ではなかろうか。
こう考えざるを得ない今の私だが、江戸時代の某僧侶も、そういった「言語道断・心行所滅」で「難信難解」の真理の見地に立った時、こう言わざるを得なかった。
真に客観的な真理というものは、やはり「不可説の諦"Ineffable Truth"」である。
龍樹菩薩の説法(二重否定とか帰謬論証とかと呼称される)は、奉じたくても奉じられない真如実相に随っているものである。
しかし、それに基づいて歩む「人生」というものは、有って無いものである。

客観的真理に基づく人生」とは、どのような人生か?
何も考えず、何も言わずにいることこそ真理の体現・・・いつかそんな考えを起こした記憶もある。
それでは、かえって仏教の生き方に背くではないか。
仏道から見て「外道」と言い、世間では「人でなし」と呼ばれ、真正の虚無主義となりかねない。
それが出来る者がいるならば、尊敬こそできねども、一種の超人(廃人?)として尊重したくなる。
煩悩・苦というネガティブな概念に対比して菩提・悟り・智慧・解脱・涅槃と呼称するわけだから、凡夫が発心して行う仏道においては、そういった「自然」そのまますぎる在り方は受容されない。
この客観的真理・・・「諸法実相(ダルマター)」は、人間として生きる以上、形ある存在である以上、実現されることはないと再度注記する。



仏教では、人の身として生きる以上、即身成仏・有余涅槃・得羅漢果といった境地(これも体感していないが信仰の立場で事実とみなす)にあっても、守るべき仏道修行を続けねばならない(釈尊・菩薩・十大弟子など諸比丘が好例である)。
思想的理論も大事だが、仏教では、釈尊などの振る舞いという事実からも学ばねばならない。
この「事実」も、我々がこの目で見ることはできないが、仏教徒が信順すべき経典に伝わる通りに理解すればよい。
仏教の教説や理論の完全な理解ができずとも、仏教の事実における修行を見習えば、おおよそ実践するための把握ができよう。
諸々の大徳が客観的真理にごく近い境地にいたからこそ、仮の世である現世に仮の「使命(本質・エッセンス・自性・自我・アートマン)」を見出して死(臨終・涅槃・入寂・入滅)の間際まで実践されていた(それが我執となるかといえば中道を理解する以上は我執であって我執でない)。
だから、生死を度するには、俗世に生きる私たちが主観的真理を選択して信奉せねばならない。

私は、その最善策を仏教、なかんずく、お題目の法門に見出しているわけである。
こう書いてしまうと某教団から「不信心者・摧尊入卑」の謗りを免れない。
結局、この私も、一神教の神ヤハウェの存在などを客観的真理の見地においては「無記(沈黙)」として全否定できないし、もう、信心・修行を取るしかない。
仏教(上座部仏教・大乗仏教・密教など現存する伝統仏教の全て)は根本的にこういった「中道」の思考があるために、教義や修行法、信仰体系の多様化や、外道の受容もあった。
雑然・玉石混淆に思われそうだが、これこそ仏法の真理の現れとして好例である。
釈尊のいわゆる「原始仏典」の教説でも、どう文献学的にケチをつけようと、輪廻説・ブラフマーなど合理主義的仏教学者が嫌う「外道らしい教義」は説かれるが、主観的真理の必要性を知る釈尊が当然受容したり方便でもよいから用いる教説である。
龍樹菩薩(竜樹菩薩・ナーガールジュナさん)がもし現代にいらっしゃれば、その妄執が著しい仏教学者や小乗仏教原理主義者の過った主観性を完膚なきまでに粉砕されよう(若し俗諦に依らざれば第一義を得ず!と大音声の獅子吼が木霊する)。
諸宗の論争も、「自行化他・自他不二」の大乗仏教の観点で主観的真理の最善を論じている(客観的真理を自らみなす錯綜が諍論を呼ぶのであろうが私からはもはや容喙できない)。
私には私のための道"My True Path"が解脱への直道となっている、そう「事実はそのまま真理」と如実知見することが一皮むけた主観的真理である(二諦も如実知見も私の理論に敷衍できる)。

人は、知れば知るほど慢心を増やす一面があるが、途中から慢心が減ってゆき、慎重さが増えるようになる。
例えば稲が、成長段階ではピンピンと茎(稈)が伸びるが、稲の背丈がピークとなるまでに穂が実ったら「頭を垂れる」ようである。
智者の至りとしては、物事の判断について慎重にならざるを得ない(無論、思考停止になるということはないし世俗については「蓋然性」を信頼して明瞭迅速な判断もできよう)。
ある上人の「物をよく知れば驕慢こそ起らね」と語った真意である。
本当のこと」は、生きている我が身において分かりっこない。
それと同時に信仰の精神性を重んじられるようになる、これこそ主観的真理の真髄であった。
物事にある「柔軟さ」や「程度の差」という微妙な加減が、面倒のようでも重要に思えてならない。

※仏道で言えば、鎌倉時代、持戒でありながら歌道に親しんで「歌や詩のセンスがない人が得道することはない」とまで主張する僧侶がいた反面、無戒を自覚しながら歌道の執着を嫌った僧侶もいた。それぞれが主観的真理・理念・信条・ポリシー・プライドを持って仏道を歩んだのであろうし、それらの主張同士では相容れない。しかし、主観的真理の真髄客観的真理から見れば、どちらも主観的真理としては非の打ち所のない正当な教説となる。仏教の真理は平和をもたらした。

さて、真理に基づく人生には色々とあるが、それもまた総括できる。
人間界が大樹であり、一切の個人が様々な「(枝葉)末節の真理」に基づいて生きることと、その生き方自体が一応の真理の体現であって「根幹の真理」と言える。
つまり、様々な主観的真理が「末節の真理」であり、その自覚・行動の人生が「根幹の真理」である、と主観的真理にもまた2種類があると示す。
果てには「真理の種子」に通じていく。
「真理の種子」は、枝葉の我々・現世の凡夫には知りようもないものであり、真の客観的真理を示している。
何とか菩提の果実を結び、大地に落ちて自ら種となるしかない。
成仏などによって真理との同化を願う。

私は「空・諸行無常」の道理を客観的真理とみなすが、人間が人間の思考で認識する過程では、客観的事象であっても全て「六根・六識・五蘊」という眼鏡を経由しているから、「私が認定したもの」としては主観的真理の一端となる。
般若経典・中論でいう真諦・俗諦の観点でも、俗諦の言葉を以て真諦の概念を説くわけであり、「説かれたものとしての真諦(=義理の真理)」俗諦に収まる。
空の法を絶対的真理と思い込む時点で絶対的真理ではなく、そういった姿勢のあった部派仏教に対し、大乗仏教は中論の如く「空義・仮名・中道」の意義を以て批判を加えた。
客観的真理とみなす法則や事象を客観的に見たつもりとなれば、これも客観的でなく、どこまでも客観が続いてしまうため、客観的真理は「有って無い一応認識されるもの」に過ぎない。
「空」とは「道理としては真実」かもしれないが、言葉で示されている時点だと言葉のうちであろう・・・当たり前ではあるが、しかも文字を見たり声を聴いたりする人間がどう取るか、などの条件が幾重もあって100%の理は99...%のように純度を落とす(そのまま説かれた言葉をそのまま受け取れば99...%でも蓋然性の信頼で事実上100%でもある)。
ここに改めて主観的真理の細分化が感じられよう。



いまいちまとまらないが、暫定的にまとめる。
2種類の真理・・・「主観的真理」と「客観的真理
主観性の細分化・・・「個人や共同体の知識・経験・意思・感情で定まる普遍的法則や抽象的真実についての主観的真理」と「六根・五蘊で捉えられた蓋然的に信頼できる実相(科学・現象)の主観的認識の真理」
客観性の細分化・・・「存在して存在しないようで捉えられず言葉に出来ない客観的真理」と「客観的真理がそのようなものと理解する一応の真理」と「主観的真理を主観的真理として認識して主観的な生き方を自覚する真理」

こうして観れば、相変わらず、俗世に生きる我ら凡夫(全人類なかんずく修行者)には主観的真理および俗諦(言語・言説)が必要であると実感できよう。
一応、仮に説かれた多くの真理一つの真理を示す。
仮に説かれた多くの真理を学んでゆく中で「真理が有って無いもの」と実感し、一即多・多即一・一も二も多も有って無い、という無分別の境地に到る。
客観的真理および真諦については、もはや言うまでもない。
「空」であるからこそ、「空」なればこそ、「空」であるが故に、大乗仏教の仏性説も「内蔵萌心」も否定されず、むしろ証明し得る。
空=因縁があるからこそ、人は成仏でき、地獄にも落ちるし、法華経にも常不軽菩薩から成仏の授記を受けた一闡提の四衆の堕地獄と後世で釈尊の説法を聴聞する因縁が説かれている通りであり、仏性は十界互具の人の心に共通する。
元々この論理があるから天台教学においても「空」と「仏性」が二律背反だとかという疑難が生じることも無く、教学が成立していた。
要するに、「自明の理」であって「問題外」であったろう(管見では文献に参照されないが)。

斯くして、矛盾は肯定され得るものである。
空の思想・二諦論などは多くの教義に敷衍できた。
つまり、思想家の各個人が見事に発見できるか否かの違いであった。
「空(意義の空・仮名の空)」の教義"Pure, Noble Doctrine"それ以外の教義"Dogmas"とは、相容れないようでも、上手に縫い合わせると優美なること至上の織物となるようであり、その妙技を得た方が龍樹菩薩や諸々の大徳である。
我々も、同じようにして様々な教義や仏教用語が、一つの真理に繋がっていて別個のもの同士ではない、と理解できるよう、脳内でバラバラにされた布をあるべき姿へ縫い合わせてゆきたい。

仮に「私は今、現世における最上の(主観的)真理を得た」と言い放ったところで、他人はその言葉を否定しようとも否定しきれない。
主観的真理の法則にならえば、他人が私の主張を否定しても否定しきれず、私もまた他人の主観的真理と主張を否定しきれない(自己肯定もしきれないが)。
相互に100%の否定(および肯定)が不可能であり、ここに中道の見地から「尊重(怒りがある時は無視もその手段)」の姿勢が重要となる。
私はすでに、尊重の姿勢の実践(他人の主張にベタなお世辞を付けることではない)ができているようである。
尊重の姿勢の実践は、「内蔵萌心」の思想に基づくこともできる。
一般的なものとしては、仏教の慈悲・四無量心や世俗の人権尊重のみならず、法華経の教学や日本の和の思想も推奨したい。

よって、主観的真理とみなされる諸々の思想や見解にも優劣が生じると思う。
もし「鰯の頭も信心から」と言って額面通りに「鰯の頭」を有り難く祀って信仰して成仏できるというならば、既に凡人でない(すなわち我ら凡夫には鰯の頭信仰修行が無益である・仏の立場では修行法に差別は無いが仏教は凡夫本位で有益な教法と修行を説いた)。
「世界平和」などの理想論も、過去の大徳たちは誰一人として実現できなかった。
個人の身近な場面でも不穏な争いが絶えない世の中である。
「世界平和」などは、実現し得ない(蓋然性による主観的断定)理想であろう。
諸仏・諸菩薩が衆生の成仏や解脱を助けようとも、俗人はみな悪道に著している。
しかし、だからこそ、実現を願っての行動がある。
そのように行動できる人こそが過去の大徳たちであった。

「(99%以上・蓋然的に)その理想は実現し得ない」と思考の中で結論しても、人間が本当のことを分かりきることは無いので、実現を願って行動することこそ、最も高尚で理想的な人生である。
発菩提心・四弘誓願、「主観的真理に基づく人生」はこれである。
信頼・信仰の大切さを再確認できたであろうか。
また、過去の大徳たちの生き様を「悪あがき」と見る人は、「断見(合理主義・虚無主義・唯物論)」の人であり、輪廻転生を否定したことになる(物事の段階を説く上で現世の一生では実現しない理想もあるから、たとえ荒唐無稽の教説に思えても修行者は輪廻転生を信じる必要がある)。

大乗経典では、たびたび、未来世に仏法が流布する授記であるとか、過去世において仏法に通じた賢王の為政が国土を安楽にして五穀豊穣となる物心両面で裕福にした、といった教説がある。
「ただの譬喩や方便(または偽経)であるから」として無視する人もいるであろうが、修行者は、方便であるが故に現世の仏道修行を助けるものと理解せねばならない。
「教説の如くに仏法が流布して安穏な世界となるか」、仮にこういった疑問が沸いても、一応、真理として肯定し、信順すべきである。
「無疑曰信(むぎわっしん・疑い無きを信と曰う)」という言葉もあり、この立場の人々からの叱責を免れない言い方ではあるが、彼らの真理は彼らの真理で尊重しておく。
疑問は人間の徳ともなり毒ともなり、なかなか捨てづらい。
しかし、本当にどうなるかは誰にも分からず、自分の思考による結論が正当とは断定できない。
その自覚あっての行動に徳が顕れる。





追記: 2018年
旧来より「単語の用例」が、伝統的な文献に見られる必要を感じる私であった。
2018年に"Cāritās Generis Hūmānī"の用例を、伝承される文献より探してみると、キケローさんの「善と悪の究極について"De finibus bonorum et malorum (Liber Quintus = 5 うちXXIII 英訳リンク)"」に一度きり用いられることを確認した(いわゆるハパックス・レゴメノン"Hapax Legomenon")。
その文脈も、「尊い概念の提唱」という雰囲気でない。

De finibus bonorum et malorum (Liber Quintus = 5 うちXXIII)

[65] In omni autem honesto, de quo loquimur, nihil est tam illustre nec quod latius pateat quam coniunctio inter homines hominum et quasi quaedam societas et communicatio utilitatum et ipsa caritas generis humani. [...]

[66] Nam cum sic hominis natura generata sit, ut habeat quiddam ingenitum quasi civile atque populare, quod Graeci politikon vocant, quicquid aget quaeque virtus, id a communitate et ea, quam exposui, caritate ac societate humana non abhorrebit, vicissimque iustitia, ut ipsa se fundet in ceteras virtutes, sic illas expetet. servari enim iustitia nisi a forti viro, nisi a sapiente non potest. [...] (後略)

"nicht-wissen-wollen (知りたくなかった)"な気持ちになってしまう。水を差す話となるが、一応、学問的な公正さを期してこの追記をしておく。
※文法解釈を先のものよりも詳細に示そう。"Generis Hūmānī"部分が男性・単数・属格を並べたものであるならば、その部分がCaritasの事物=精神や感情の客体として作用する「目的語の属格(Objective Genitive)」となることも留意されたい(つまり「人類愛」と直訳できても厳密には「人類・他人への愛情」ということか)。

何らかの言葉の用いられた経緯は人それぞれ。
古代ローマのキケローさんには、キケローさんの用い方がある(彼も一応人間主義的な意味の"humanitas"という言葉を用いたようであるが)。
その言葉の原初は知り難し。
後は、知った人の二次的な用い方である(ただしアーリア人という学問的仮設概念をナチスが悪用した事跡などを念頭に置く必要がある。スヴァスティカ=まんじ 卍もインドや東アジアで伝統的に用いられたものと似たものがたまたまドイツ帝国時代の考古学者にトルコの印欧語関連の遺跡Hisarlikからも見つけられたためにナチスがハーケンクロイツという名のシンボルに用いて現在はドイツ政府がアレルギー症状を起こすほどに毛嫌いされてしまったので注意したい)。
現代日本のラテン語音楽・・・Quod apud mēnsūram erat, illud verbum omnia mētītur. immēnsa causa ad prīncipium, liberātor per verbum nōn trīstis.

なお、このパーマリンク文字列には某サイト方面の圧力が懸念されるため、dualism-of-truth.html に変更した。

2017年1月2日月曜日

Google+ 2016年12月中の日記メモ

当月は3度(1, 14, 22日)の夢精をしたが、無論、オナニー射精(故出精)をしない状態は10月3日から維持されている。
また、当月は、横野真史など主要な活動とは別にする作業が多め(記録しない)であるため、睡眠時間は短い傾向がある。
しかし、仮眠やPCの前で横になる行為も少なく、極めて人間的活動時間が長かったこととなる。
同時に、とぼけた感覚が多い認識もあり、なかなか意識や精神が安定しないようでもあった。
既述の例のみならず、生活の中で実感が多く、枚挙に遑が無い。
12月29日は短時間ばかり肉体的な楽を得ようと押入れに入ったが、「触覚の空虚さが思考に介在した」とか、肉体と精神が遊離しそうになる状態から理性で覚醒に戻した体験などを綴っている。

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2016/12/01

本日12月1日は1時50分ころに夢精で目覚めた。・・・性的な夢を見ている際に何らかの危機感を顕在意識が自覚しているようだが、どうにも抑制できない。オナニー自体は10月3日を最後に行わず、射精もしていなかったが、こう、気まぐれで夢精が起きることは鬱陶しく、恍惚で甘美なはずの夢の内容などを顧みる気持ちも起きない。前日は入眠以後に嫌な思いをしていてどうしたらそんな夢を呑気に浮かべれようか?過去記事に「嫌な思い出があるときオナニーなどをする気にはならない(例は本家ブログ2014年11月8日など)」と書いているが、眠った自分にはかえって反動となるなど、反対の作用があろうか?それはそうと、前日の入眠以後についてメモがあるので載せる。

「(前日・11月30日)22時2分、眠っていたところ、私を呼ぶ声が続いたので徐々に意識を取り戻した。何度呼ばれたかは知らないが、声を聴いて言葉が分かって返事をすると、声の主である母親から続けられた言葉が理解できず、2度目か3度目を言われてもそれ以上返事できず、声の主である母親に、目覚めたばかりであるから対応できない意思表示を叫んだ。大体、時間帯からして私が寝ているなどで対応できないことを既に知っているはずであろう。私が寝ていない時にすら無駄に『今は寝ているか』を私へ尋ねる癖に、こういう時はそういった判断にもならないとなると、悪魔の所業としか言えない。さて、母親は私に頼んだ事柄を弟に頼んだが、作業の中に『テレビを付けろ・何チャンネルにしろ』という指示が聴こえた。2分後にはそのチャンネルとは明らかに異なるドラマ番組が流されていることが感じ取れた。母親は普通にリアルタイムで放送されるドラマ番組など全然見ない。朝や昼の時間帯に多いサスペンス・時代劇・韓流といった再放送などしか見ない人間である。しかも、音量をヤケに大きくしてある。私を起こすつもりか不明だが、そうでないならば、大方酒が回っていようか?よくぞ帰路に交通事故を起こさなかったものだ。異常な振る舞いが続く母親であった」

前日14時24分に飲んだ下剤1錠の効果は就寝前・就寝時も腹痛などの形でやや発現していたが、3時前から食べたムーミンカップ2杯分のシリアル(咀嚼の刺激性・牛乳など経口摂取による条件反射の類)の相乗効果もあって3時11分からトイレで長めの一本糞をブッ放してきた。3時57分からもトイレで細めの中サイズ4本を排出してきた。

10時33分、母親が家の外に出る前に洗濯物(弟のジャージなどだそう)を干し出す指示をされた。まだ母が発車しない(徒歩外出か?)10時35分に2階のバルコニーの様子見に行ったついでに別の場所の窓からE2邸の方を眺めてみると、E2邸1階窓のカーテンがめくれ上がって1歳ほどの男児が窓辺を歩く様子を見た。13時29分、母と弟が一緒に帰ってきたが、母親は家に入っても玄関付近で弟とやり取りするのみで間もなく家の外に出た(また外出するなどと話していたが不明)。洗濯物関連については最初の30分ほど(洗濯機の動作に時間を要していた)で実行し終えているが、個人的な作業も含めているのでそればかりは早めに片付けたい。母親がまたすぐ家に入りそうな上に、弟はずっとヘラヘラと2階で着替えをしていて風呂に入るよう指示されていながらに実行しないでいる。13時36分に結局は母親が玄関に戻った。そのタイミングで弟が1階に降りるという状況であった。いつも私は、どうなろうと構わない気概でいるが、同時に、煩わしく感じる。やりたいことは長引かせずに終えたいものだが??13時38分、母親が1階洗面所で何かをしている間に2階へ上がって必要な作業を終えたが、案の定、母親が2階に上がってきたところである。危うく、サンダルに関する過去の異常ないちゃもんをぶり返されかねないところであったが、すぐに誤解を解いておいた。

17時台19時台に相次いで品物が届いた(ヤマト・佐川の順か?)。 いずれも母親が弟に受け取りを頼んでいた。母の傲慢にこきを使わされる弟が不快感を覚え、きつい口調で反発する一幕もあった。前者の配達物に「米(通例では10kg袋)」が含まれるようである。 母には、何らかの拍子で同じものを短期間で買い続けるという謎の習性がある。思えば、去年12月にもシャンプー詰め替えや衣類の粉末洗剤を買いだめする異常事態もあった。本日20時現在は10kg米袋が3つも貯えられている状態を確認した。普段はというと、米袋の貯えが無くなりかけた時に買い足すか、今年の或る時期は貯えが無くなってから買い足すという後手後手の対応があったくらいである。床下収納スペースに収まるうちは許容範囲か?



2016/12/02

本日は3:20のアラーム(前日に引き続き前3つアラームはOFF)に目覚めるも、しばらくは昏々としたまま過ごし、3時44分に起床した。10時43分に母親がお仕事へと発車した。10時50分前から風呂(シャワシャン)の準備と洗濯を始めた。風呂(シャワシャン)の最中、前日母親が外出する直前と同様に洗濯機のエラー反応を確認した。前日の1度が初めての確認であり、本日こうして再発すると困るが、再度洗濯機を動作させると10分ほどで同様のエラー反応を確認できた。洗濯の標準動作中、何らかの段階に至るとこのようなエラーが起こるのであろうか。11時55分に自室へ戻った。14時50分、母親から弟の洗濯物を取り込むようにと電話で指示を出してきた。19時48分に母親が帰宅した。



2016/12/03

本日は3:20のアラーム(引き続き前3つアラームはOFF)に目覚めて1分以内に起床したが、そのアラーム以前にもアラームで目覚めた記憶がある。しかし、アラームは3:20のアラーム以前のものは今もOFF設定であるので、真相がどうかは不明である。

9時台や10時台に1階で弟と母親の口論があり、前日から1階リビングに置かれたままの母iPhoneに弟が何らかの衝撃を加えたようである(大きい物音)。その後、弟は11時ころに外出し、その際に大声で「クソ親!行ってくる」のように発していたが、母親は気付かなかったようである。弟がまだ帰っていない時に母親が「50円の小遣いを渡す」という開き直った発想を言葉にしていたが、当人はそこにいないので空虚な響きであった(なお私の今月分の小遣いは未受領である)。こういう時の母親は乱心が続くきらいがあり、12時34分に階段の掃き掃除をしながら、私へ唐突な干渉をしてきた。母親の冗漫な話に苛立って返答するとますます冗長になり、揚げ足取り・水掛け論をしたがる。母親の不満な言葉が終わることを確認するまで口を噤んだほうがよい。その野暮な話が、一度終わってから5分後に再度呼び出してきて、別の話題を持ち込んでくる有様である。

本日はコーヒーをムーミンカップ2杯分飲んだが、やはり、徒に動悸のような悪い感覚を起こすのみで、腸に験が無い。その割に、覚醒作用が乏しくなっていて悪い副作用ばかりが感じられる。コーヒーの害毒・中毒性・依存性については11月20日メモにも書いた通り、理解も認識も深いし、今に始まったことではない。しかし、下剤に依存するよりはマシであるからと、かすかな希望をカフェインパワーに重ね続けている。カフェインの麻薬効果に狂うくらいならば4~5日に一度苦しい思いで糞をひり出す方が健康的であろうか?常に反省をしても肝胆を砕くのみとなろうか?嗜好飲料としてもコーヒーを飲むべきでないと肝に銘じておきたいが。久々に茶を入れられるときは茶を入れてみたいが、その発想すら、最近は無いままである。



2016/12/04

本日は2時48分に起床したが、その5分前、またも性的なイメージを浮かべて夢精が起きそうな感覚であったため、意識的に止めた。前日は20時30分台にPCをシャットダウンして就寝したが、それまでは17時0分ころから母親が一人でリビングを占拠する異常な状態であった。就寝以後も21時ころに誰から1階に降りてテレビを付けたり、入眠以後も23時59分に誰かが1階にいる状態に気付いて目覚め、直後にテレビを付けた様子があった。起床した2時48分より前の時にも弟が鼻をすする音とテレビの音声を聞いた通りに弟が1階リビングでテレビを見ている。3時3分に彼が2階へ上がったが、前日夕に母が炊いて2合分以上は余っていたご飯が全て弟の腹に入った様子であった。味噌汁も作っていたようである。



2016/12/05

本日はまず、1時50分ころに目覚めて時刻確認をしていた。その目覚めの前か後か、またしても夢がしっかりと記憶に残っていて夢精する可能性もあった。どういう風に終えた夢かというと、昨日のように夢(昏々とした状況で睡眠中の夢と似て非なるビジョンの一種ともいえる)の内容を意識的に破った気もする。この夢の内容について詳細に書くと、私が絵を描いていて描かれる対象のモノを手に取って抱き寄せたり間近で見つめるような感覚であり、恍惚を感じるような生々しい感覚となっていたが、どういうわけか結果的に破られたわけである。前日就寝までに4種アラームのうちの3種をONに戻してあり、以後は断続的に目覚めて眠るが、最終的に2時50分過ぎに起床した。

14時14分から母親が発車した。買出しかと思われる。前回の買出しが11月30日であって5日経つためと、外出前の玄関に置かれた所持品(スーパーで回収される種類のゴミ)から容易に断定できる。14時22分から、前日起床10分以内に飲んだ下剤1錠の効果による排便があった。長くて太くて重い一本糞であった。前日は飲用から半日ほど経って便意が強まった経緯があり、本日もそのような時間が続いていたところである。16時半ころに母親が帰宅した。19時27分、まだ便意がしっかりと残る中、1チビ糞と1コロッ糞をひり出した。その際、腹筋の力と肋骨を支える筋肉の力がアンバランスなためか、極めると腹筋の力が肋骨を折る結果に繋がるような痛みを感じた。<



2016/12/06

本日は2時台にアラームで2度は目覚めたであろうが、3:20の第四アラームを聞いた記憶は無い。しかし、3時30分前に目覚めて3時30分に起床したため、何らかの影響があるのかもしれない。



2016/12/07

ゴミ出し外出時の装い。不織布マスク着用は防疫よりも保温目的?

本日は2:10の第一アラームに目覚め、2時36分に起床した。それ以前もこの睡眠では1度か2度か目覚めたようでもある。1度は間違いなく1階リビングで誰かがテレビを見ていた。3時3分ころから前日に決まった外出予定の実行をした。1か月ほど捨てずに溜めたゴミの一種(画像添付・2つの袋のどちらであろうか?)をゴミ出しに行き、次いで自販機にてある商品2つを購入し、釣銭の関係でもう1つ何らかの低価格商品を買うことにしている。問題なく完了した。前回11月29日のように南西にオリオン座、南東に金星のような星が見えたほか、雲一つない快晴である。前日の夜は18時以降に顕著な冷え込みが感じられていたが、本日の外出時の寒さは並みのものか酷いものかは判断できない。自販機購入作業時は例の如く右手袋を外して行うが、帰路においては手袋を終始着けたままの左手も冷たくなった。

10時29分に母親から外出を告げられ、14時ころに弟の洗濯物を取り込むように指示された。8時台から1時間以上、母親がリビングにいたり、以後に2階で母親が掃除などをしている時など、ずっとPCの前で結跏趺坐を組んで作業をしてきたが、このように跏趺を固く結んでいるだけで余念が御されて空腹感(ひだるさ)も対治されるようで手ごたえを感じる。厚手の靴下などを履いていると蒸れて足指が不衛生になり、爪の端が傷むこともあるから、靴下は脱いだほうがよい。組まれた脚・足にはタオルケットがかかっている。

10時41分に母親が発車した。12時10分過ぎから風呂(シャワシャン)の準備を始め、13時4分に自室へ戻った。13時47分からおかしなワゴン車(バン)が家の前に停まったり、運転している冬物のコートを着た丸い縁のメガネ男性(車の雰囲気と不似合いの格好)が降りたり、再度乗ってエンジンをかけて何度も家の前をバックしたり戻したりと、不自然な動きが見られた。他の通行車両が何度も通ったとはいえ、その影響とは思えないから不可解である。彼は作業所とI家とどちらに用があるか判りづらかったが、13時52分にI家敷地内に停まる様子を確認した。

17時12分、以前も訪問したであろう男性が訪問し、弟が応答した。母親は家におらず、「じゅうじ(22時)」に帰ってくるということを男性に告げていた。この男性が過去にも家に訪問してきた男性であると仮定する場合、前回も母親が家に居なくて弟が応じた11月30日であろうか?彼の訪問目的も不明であり、「シュウキョウ(キュウトウ?)システム」と名乗るのみで容姿も確認できていないため、不安感ばかりが生じる私であった。何らかの置手紙や伝言のようなこともせず、ただ訪問してくるだけとなると、我が家をターゲットにしたしつこい業者かと考えるしかない。弟が家にいて応答してくれるだけ、その場の不安が鎮まる。彼が退くか、素性が明らかになるか、という形で速やかに終止符が打たれてもらいたい。9月21日の押し問答の際の男性と同一人物かは不明である。

17時24分、Chromeでよく発生するテキスト操作(IME等)・文字入力の異常とブラウザ強制終了のほか、タスクバーの表示なども狂う不具合が発生した。例えばこういう時にタスクマネージャーのリストに変なプロセスがあるとか、CPU使用率や使用メモリの数値が異常であるなどという状態は見られもしない。その時その時でデマカセの異常事態になる「イヤなPC」である。今回、テキスト操作(IME等)・文字入力の異常はChromeブラウザを1度、2度と再起動しても改善されないというますますの異常事態であったが、Windowsのサインアウト(再起動でも)を行うと、諸々の問題はクリーンアップ・リフレッシュされた。いつものことであるが、毎度、煩わしさを過ぎない話である。さて、その後、本日多少の執筆が進んでいた本家ブログLivedoorの下書き記事の一部記述が、保存されていないために消失してしまった。一時保存キャッシュ(?)も効いていない様子であり、小規模の被害であったとはいえ、ますます煩わしさを増させる非常時である。本日は、記録していないことでも災難な気分が多い。本当は平静であるが、日記メモ記録ではそう綴るしかない。なお、午前中から14時までにコーヒーを2杯分ほど飲んだが、験はなく、本日は以後もそのようであるから、明日に下剤1錠を飲もうと思った。12月3日メモのような副作用で精一杯である。



2016/12/08

本日は2:10の第一アラームよりも前から目覚めていたが、それが鳴っても起床せず、2:40の第二アラームが鳴った後の2時42分に起床した。第一アラームが鳴るよりも前から1階リビングにいた弟が2時53分に2階へ上がった。前日の夕はどうも食事をとっていなかったようだが、そういう時にお決まりの夜食である。2時50分に下剤1錠を飲んだ下剤の効果で徐々に便意を感じ、7時7分からトイレに入った。サイズの異なるコロッ糞の複数個をだしたが、拭った紙に血が絡んだような付着を確認した。11時台にも、略。

11時50分台、8時以降に2度1階に長居して2階に戻っていた母親が、グチグチと独り言を続けながら1階と2階の行き来をし、掃き掃除などを行っていた。「困っちゃう!」「仕事になんない!」などと発していた。家の他人に不満があるようだが、そんな小言を連ねて足音・物音を慌ただしく立てたりして自分の心が穢れていることに気付かないか。私まで憔悴してしまう。「掃除しないと気が済まない!」と言いたげな母だが、かえって心が泥塗れで、まったく濯がれていないではないか。しかもその泥を生み出して他人にぶつけてすらいる。家を汚す人物は、他ならぬ母であった。ごくろうさん。これ以上、自分と他人の心を汚さないでね。その後、10分ほどの間に3回も断続的に2階のトイレが流される様子もあったが、掃き掃除のゴミをトイレに流しているのか、トイレ掃除をしているのかは不明である。

12時50分台、便意のためトイレに入って丸いモノと長めのモノの1個ずつを出した。先の動向では1階のトイレも掃除されたようであり、洗剤に添加されている芳香剤の臭いがした。15時過ぎからも、トイレでとても長い一本糞を出した。16時40分前からも、トイレで色々と出した。消化しきれなかった野菜類の付着が目立った。食べ方ではなく体質の問題という部分の方がずっと原因として考えられるが、対策としては食べ方を注意するしか方法が無い私である。17時20分台、なおも便意とかガス発生は多かったが、今までのものと違う感覚があったため、ガス放出を抑えてトイレにいき、便座に着くと下痢便大発射が起きた。どういうわけか便器の中でも前方に飛んだりしていた。私の体に跳ねないよう工夫している点で跳ね返りは問題が無い。もう大腸が耐えられない。同じ下剤1錠でも、毎度、極端に効能が異なるようだから、いつまでも対応できない。

このような日であるが、17時以降に毎日行う夕方の略式勤行は、最近、普通に行える日が少なく、小声で18時以降に行うことが多くなる中、本日も状況が悪くて17時台に行えずにいた。母親が17時以降、ずっと1階リビングに居て弟と食事を取った。それはよくあることであり、困って困らない話である。本日は20時ころに何らかの予定を実行してもよいという流れが午前中からあり、本来なら就寝時間であるが、ご僧侶・お比丘の如く22時に近い時間(中夜?)まで起きてもよいと思った。その結果、20時40分台に母親が2階に上がり、ようやく夕の略式勤行を開始できた。なお、朝夕の略式勤行は今年の3月以降であろうか、1日として欠かした日は無い(5月7日など体調不良の日も行っている)。その後も、連日続けている絵の練習記事に関連するPCでの作業や、紙に新たな絵を描くなどの作業も続き、21時40分前にはおおよそ片付いた。目から腸までヘトヘトでもないが、普段より酷使したことは言うまでもない事実となった。



2016/12/09

前日は日記メモの如く、寝始める時間が遅かったわけだが、起きる時間も昨今では有り得ないほど遅くなった。つまり、本日はまず2:10の第一アラームか2:40の第二アラームなど2度ほどは目覚めていたろうが、それからはアラームがいくら鳴ろうと酷く眠ったままで気付けば5時9分の時刻を携帯電話で確認する時間帯となっており、即座に起床した。つくづく、目覚めのタイミングの偏りが悩ましい。自虐しろとでもいうのか?第一・第二アラームで目覚めたならば欲に流されずに起きろと???目の映りの悪さや多少の鼻づまりを感じる。目の映りの悪さは、以前も記したように、仮眠をして起きた際に発生する。3時間も仮眠を取ることなどあろうか?こんな異常が発生されては、前日メモに言うような作業もままならない。

今朝、5時台後半からラーメンの調理を始めた。朝にラーメンとはいつ以来かと思う。炊飯などを悠長にしていられない。ラーメンの具材の説明は省く。前日起こした邪念の一つに「たまには朝ラーメンや1日2食ラーメン(私が食べる量は袋ラーメン分量換算で1.5食未満となろうが)もいいな」というものがあり、これも起床時間に来した影響であろうか。常々、こういうデマカセが惨事を招くから、「何も考えないで死ね」との虚無主義的暗示を思わせる。刹那にそう思うだけで本気にしないが。

10時44分に母親がお仕事へと発車した。11時以降に部屋着1点とタオル2点の洗濯を行った。19時前、I家の敷地の方から車がアイドリングをしている音に気付いて5分以上は続けてから、俄かにクラクションを鳴らす異常な様子が確認された。クラクションを鳴らしてから発車したのであろうか、判断できない。長時間のアイドリングと、停車したままクラクションを鳴らすこととは、個々で見ても異常であるのに、同時の出来事であるから、車内の者はよほど狂乱していたのであろう。いつものI家男性とその車であるのか客の車なのかは不明である。



2016/12/10

本日は2:10の第一アラームに目覚めたが、アラームを手で停止するのみで考え事をしたまま徐々に眠りに戻り、3:20の第四アラーム直後の3時21分に起床した。前日は23時55分に目覚めたことがある。無論、「お仕事」から帰宅した母親が1階リビングで視聴していたテレビ音声の影響である。こんな時間帯になぜ弟よりもバカでかい音量に・・・、普通じゃない、普通じゃないということはつまり、アルコールか何かの悪影響であろう。まあ、母親は、アルコールが回らずとも、バカでかい音量のテレビ視聴は有り得てしまうわけだが。この目覚めの5分以内に音量が下がった。本日の起床で台所に出ると、やはりビール(発泡酒?)の空き缶が見られた。労働と酩酊と、シャカイジン様にはお疲れのことと思う。

11時20分台から母親が1階リビングで掃除機を掛け始め、掃除機の動作音が鳴り止む直前の11時35分ころに家の敷地内にある水道の関する部分を開閉する音が聴こえた。よく来る水道関係の業者の婆(私服)であろうが、この時私は「水道メーターか何かがある箇所を毎度確認してから郵便受けに水道料金の明細書などを投函してどういうつもりであろうか?異常や不正の確認だろうか?もし異常や不正があったらインターホンから尋ねるのか?」と思った。すると、どういうわけか!!!!!!婆か知らないが、家の前を横切った影がインターホンの呼び鈴を鳴らした。今も1階リビングにいる母親はなぜか応答しないことは去年のAmazon散財期で幾度とヤマト配達員を困らせたことと変わらない放縦ぶりである。それとも、水道業者の婆ではない訪問販売みたいな業者が鳴らし、母はインターホンのカメラ画面を一瞥してそれを知って無視したのか?水道業者の婆・関係のない業者のどちらが鳴らそうと、異常な話である。水道業者の婆がインターホンの呼び鈴を鳴らしたことなど一度もない。水道業者の婆がウロチョロしているときに関係のない業者が居合わせるなど、もっと有り得ない。私が疑問を生じたからこんな異常事態が起きたか?死ねばよいのか?殺せばよいのか?人が真面目に作業しているところを煩わしいハエがいつも邪魔してくる。私はただ、事実を記録している。それからも婆らしき影がウロチョロし、インターホンの呼び鈴が鳴らされた2分後に水道料金の明細書か何かを郵便受けに投函したようである。

13時過ぎ、配達関係者か誰か男性が来たが、なおも母親は1階にいて応答しなかった。インターホンの呼び鈴は2度も鳴らされていたが、自分勝手のために居留守を決め込んでいた。これもウロチョロ訪問販売系業者かどうかは不明であるが、2度鳴らす場合は配達関係者など明確な目的のある人間である場合が多いし、付近でトラックのエンジン音か停車音も聴こえていた。



2016/12/11

本日は前日就寝時に再設定した2:20の第二アラームに目覚め、そこで起床はしなかった浅い意識を維持した。続く2:40の第三アラームに気付いてからは起床の意思が決まったので、2時42分に起床した。誰かが1階リビングでテレビもつけずに居座っているようである。4時10分過ぎから1階リビングの人間・・・母親がバタバタと大きな足音を立ててトイレを出入りしてドアを大きな音で閉めるなど、異常な様子が見られた。夜中から今までリビングに居座る行為が既に異常であるが。



2016/12/12

本日はまず1時20分台に誰か他人の動きがあって1度目覚めた記憶がある。次は2:40の第三アラームがはっきりと記憶されているが、携帯電話の状況から以前のアラームでも目覚めた可能性は高い。このアラームの後の2時42分に起床した。2時50分過ぎに下剤1錠を飲んだ。3時46分から前日の予定であるゴミ出しを行い、道中は往復で50mほどの距離を走り続けた。最後は全力疾走に近いスピードで飛ばした。

13時52分に母親が発車した。先の下剤1錠に関して、朝5時台はひどい腹痛もあったが、以後も断続的な腹痛以外は具体的な効果が感じられない。何をしても望みどおりにならない、と思いがちであり、事実である残念なこのごろである。起床後30分以内に下剤1錠を飲んだ日は午前中に排便が無いならば午後も排便が無い、ということが多いため、特に近頃は決まってそうであるから、絶望感しかない。無論、本日が例外になることを祈ればよかろうが、期待しづらい。前日に手ぐすねを引いたり(部屋にある食料で食事の工夫を図った)本日も何らかの努力を重ねたが、今まで、そういった腹痛のみの効果発現に留まっている。これらの努力が、実ってもよいであろうし、ハイ、15時30分ころから便意が俄かに強まってまともな排便をしましたよ。なんでやねん。っていう。ね??自分の体だというのに、心や考えとはまるで逆に向かってばかりである。度し難い、成り難い、努力は無駄であって無駄でなく、無駄というしかない、意味不明な世の中である。苦しめば苦しいなりに、ハイよかったね、ウンコ出たじゃん。よくねーわ。そう思ってわざと苦しみまくったら今度は成功しないのだろうな、という話でして。

16時17分に母親の車が家に着いた。母親の買出しとしては珍しく2時間以内で帰宅した。前回金曜日から日が浅いこと・過去にも2時間以内で帰宅することなど、十分変ではないことだとしても、今日という日にそうなることは思いもしない。直前の16時15分に弟が歩いて帰宅したばかりである。本当におかしな話である。なお、母親は弟に「今日、月曜日なのに部活ないの?」と不満そうに言い、2階に両者がいる時は弟も母親に「なんで早く帰ってきたんだよ、風呂に入ろうと思ったのに」と不満そうに言っていた。18時40分ころからも中サイズ複数本の排便をした。

当記事注: 「本日も何らかの努力を重ねた」とある部分は、専ら食事のとり方である。「これを食べて排便促進!よく噛んで食べよう!」という類である。自説「真の健康法」には遠い実践法である。また、排便に関してよくいう「サマタ・パヴァナ」も行っていない。普段通りに腹筋を意識した座り方とか、股関節や足首の関節や足裏の皮膚に負担がかかる座り方くらいを行うのみである。仮眠とか、一時的に横になるということもなく過ごしてきた。



2016/12/13

12月13日4時50分に写した私の左手

本日は2:10の第一アラームに目覚め、すぐには起きなかったが、目覚めた意識だけ保とうとして過ごした。実際は5分も持たなかったのか不明である。2:20の第二アラームの時も似たように反応して同じように過ごし、2:40の第三アラームの際は即座に起床した。前日の下剤効果残余により、本日8時10分ころからトイレで中サイズ2本程度を排便した。近頃の排便では、無理やりに力を加えたがる。東洋思想に裏付けられた自然な排便を標榜しているのではなかったか。俺よ。11時前からも排便あり。

17時48分に聴こえてきた母と弟の会話に「木曜日・病院の4階・駅で待つと云々(帰宅せずに待ち合わせ?)」という言葉が聞かれた。また弟が「リスパダール」あたりを処方してもらうのか?5日ほど前に見た時は錠剤がそこそこ残っていた印象である。もし多く残っている状態に加えて処方を求めるならば、ある種の薬物依存かもしれない。体が求めるというよりは、理性的に何となく備えておく望みか?18時台に配達物の受け取りを弟がした際、いつものように母親は弟の対応に不満があったらしく、その後も弟が母親を思いやってしたとある判断に母親は何の配慮も無く悪い部分のみをつまんで責めていた。浅ましいことである。自身の醜い心が悪循環を生んでいると、当然、修羅・畜生の母が気づくべくもない。



2016/12/14

本日は1時27分に夢精で起床した。前日は就寝前、母親が使用した5分以内のトイレで排尿をしていたから、射精の感覚が「お漏らし」そのものでも小便を漏らすことは無い。どんな夢であったかというと、恍惚感に浸ることもない。性的な内容ではないが、感覚は刺激的で、小学生のころに似た経験がある。よく知らない場所で道に迷った時。時刻に遅れて焦る時などに起こる股間の違和感である。それが性的刺激となったか、同じく遅刻しそうで何度もあれこれと準備に時間をかけて悩みが極まり、その股間の違和感が発生して射精してしまったらしい。今の私の日々の考えごと・考え方の姿勢を暗示しているみたいであった。極めて悩ましい。他にもあの状況下でお漏らしじみた射精とは、悪い状況で失禁することも有り得てしまいそうである。オナニー射精などは10月3日を最後に2ヶ月10日もしていなかったというのに。

精液の広まりの被害について、射精した量は多いながらにドロっとしたものであったから、最終的にパンツの外に漏れることが無かった。臥している時・体を起こす時・靴下を煩わしく思いながら部屋着スウェットを脱ぐ時・パンツを外す時など、いくつかの段階を経ながらに外へ漏らさずに済んだ。精液を拭う作業では、それまで寝ていて体が温まっていたとしても、エアコン暖房は起動しておらず、この夜であるから、寒かったのかもしれない。起床直後の体温保持能力も疑わしい。この日記メモを打つ1時46分現在、手は冷える。いつものことだが。前日あんな話題を独り言にして・・・それで夢精の結果か?何もしゃべっちゃいけないのか。

洗濯に関しては前日の案として、本日14日水曜日に母親が出勤するならばその時に風呂(シャワシャン)を行って洗濯もする、のではなく、前日13日中にパンツ・靴下・スウェットの下に来た長そでシャツを洗濯カゴに出す案があり、実行しなかったが、この案に準ずる形で本日の今に実行し、4時台から風呂(シャワシャン)を行うのでもよい。いや、風呂(シャワシャン)は緊急性が無い。とりあえず2時までには判断を決め、パンツ2着・靴下1足の洗濯を実行した。4時台の所用(日課)が澄んでから仮眠を取ろうかと思う。前々日は絵の練習記事の詰めの作業や事後の追加作業に目を疲れさせ、前日は音楽制作や音楽関係の調査に時間を掛けたり、既存記事の追記に関しても調査を要しており、かなり疲れている。本日は睡眠時間も前日より1~2時間も短いわけだから、あんまり精神衛生上は好ましくない。すべき作業が済み次第、この怠慢な心の逃れる術を得たい。

4時40分ころから風呂(シャワシャン)を行う考えを固めた。いろいろと悪い条件が付いているが、断行したい。風呂(シャワシャン)によって眠気を飛ばそうと思った。風呂(シャワシャン)の行いに頼るとは、真の健康法の理念・仏道の信念には背く。4時52分から風呂(シャワシャン)の準備を始めた。歯磨きの最中、気を遣っていた口内炎に傷をつけた。5時30分頃から弟が1階に降りてきた。5時40分台に私が自室へ戻ってからは母親が降りてくる異常事態であった。私の行動・跡に目くじらを立てていた。こんな時間に降りてくることなど最初から予測しつつも高を括って考えから外していた。前日の母親は11時40分ころに起き出したというのに。極端な行動・・・憑依している悪魔の性質が強いのだと思う。悪魔の誑かし・唆しであろう。5時53分にはそそくさと2人で2階に戻っていった。やはり魔の誑惑にほかならない。2階で2人が揉めている。前日の会話に関連しているのか?弟が脅迫を行ったようで、母親が一旦部屋に逃げたり、1階に降りて水を汲んで弟に薬を飲ませようとしていた。

6時20分前から母は弟に1人でラーメンを作らせる動きとなったが、弟が時折、大きな物音を立てる様子があった。いずれにせよ、魔の異常行為が重なっている様子である。悩ましい日々から、どうあっても解放されづらいことは今も変わらない。心の解脱は、この状況下だと難しい。日記メモで記録を取りたがって想念を起こす。6時36分、弟の物音が続いてから玄関の収納家具の扉を開いてハンマーを探そうとしたようだが、間もなく母親が降りて物音のことを尋ねた。弟は写真立て・掃除機を壊したと話している(母親の反応から事実には感じづらい)。母親と口論になってから、また弟は1階で一人となり、苦しそうな独り言を続けていた。「まずいんだよナァ(彼自身が作ったラーメンの評価)」、「イトーヨーカドー(来年閉店予定の豊橋店)の近く(店外?店内フードコート?不明)で食べる中華料理屋もまずい」、「偉い人は強さを見せる人・俺は勇敢」などと言っていた。母親の言葉に暗に反論している。子供の暴力に困って怒るタイプの親がよく発する「強い人はそんなことしない・心が強くて優しい」という言葉は、この弟のような子供に対して対立感情を増幅させる劇物でしかない。気付かない親が悪口を放ち、ますます泥沼・悪循環となすのであろう。この悪循環構造は自明の理であり、前日メモでも説明を省いた。

10時42分に母親が発車する前、洗濯物(私のシャワシャンで別途出したものを含む)の干し出しを頼まれたので実行した。本日の風呂(シャワシャン)前はPC・Win10機の不良を感じてシャットダウンにしていたが、風呂(シャワシャン)を終えて以後の起動直後に「更新プログラム・再起動が必要です」という画面右下の表示を確認した。12時前に料理の関係で席を立つ間際に再起動を行った。この時はディスク(HDD)の使用率が90%超えの状態で異常であったから、それを和らげる意図もあった。果たして再起動・Windowsの更新アップデートは長時間とならずに終わったようである。しかし、以後に何らかのソフトの起動ができないといった不調や、タスクマネージャー再確認してディスク使用率の相変わらずの高い数値が見られるなど、異常であった。当該ソフトのプロセスを強制終了して起動が出来た。再起動以後一度も起動していない時にこの状態は過去に経験が無い。そのソフトを起動できても、最初の読み込みに異様な時間がかかった。状況により、10秒~1分掛かるものだが、今回は3分も掛かった様子である。

14時10分台、洗濯物の様子見に2階バルコニーに行くと、風が強いために部屋着スウェットのボトムスに付けた洗濯ばさみの片方だけが外れて家の敷地内の地面に落ちた様子である。こういうことも有り得るとは今までに考えていたが、実際の出来事では初めてである。もう片方の洗濯ばさみはしっかりとモノを挟み込んだままである。19時40分過ぎに母親が帰宅したが、どうも車から出ずにアイドリングしたまま家の電話機に電話をかけ、弟に応じさせ、数十秒で通話が終わってからも4分ほど変化なく時間が過ぎた。

当記事注2015年12月20日から4月10日までオナニー射精をしなかった時期も冬の頃合いであり、期間中に夢精が複数回あった。何らかの寝相で羽毛布団の重みや肌触りの良いマイクロファイバーの布団の感触があると、性的な夢を惹起するのかもしれないばかりか、当日のように性的でない夢でも射精感を生じかねない性質を考察した。

当記事注: 2017年1月2日に当記事の作業をしている折、イトーヨーカドー豊橋店の閉店に関する再調査をしていたところ、我が故郷・埼玉のイトーヨーカドー大宮店と驚くべき共通点を多数見つけたので本家ブログ既存記事に追記した。



2016/12/15


本日は2:10の第一アラームに目覚め、2:40の第三アラームの1分後に起床した。5時50分ころ、長期間放置していた「のど飴」2つの存在を気にして数ヶ月~半年ぶりに手に取った。賞味期限は1つが2016年9月、もう1つが2016年12月と、共に賞味期限を過ぎている。共に製造日から9~11ヶ月が目安であろうか?前者のものを食べると、以前にも経験がある触感となっており、外は固まった粉に近い状態で透明でなく、内は元の硬い状態と思いきや、派手砕ける。原料が水あめだけあって、舌や歯でいじるとフニャフニャなソフトキャンディの触感となる。毎朝の略式勤行が近い時間帯に舐める気にはならなそうだが、できるだけ試したいと思う。本日は鼻や喉の調子が悪かった。ほかにも前の金曜日の母の買出しで買われた未開封ののど飴もあり、近々1つは舐めようと思う。

14時37分から母親が発車した。前日・前々日に聞かれた病院関係と思しき動向と関連があろうが、買い物目的の外出特有の動きも見られたため、どちらも行う可能性がある。ただし、弟とイオンの店内で行動を共にすることはこの2年程度ほぼ有り得ない様子であるから、どちらも行う場合は買い物が先となろうか。なお、発車時は通りに出る前に一時停止しており、母親が通りに出た直後、I家の男性の車の帰宅が見られた。彼は15時11分に再度どこかへ発車した。17時台前半にも彼の帰宅が見られたが、17時44分には母親が帰宅した。



2016/12/16

本日は2時10分台に目覚めたと思われるが、2:10, 2:20のアラームを聴いた感じも無く、横になったまま過ごして2時30分に起床した。10時39分に母親が発車した。本日は3時台・6時台(?)・13時台と少量インスタントコーヒー(ムーミンカップ半分の水量でそこそこの濃さ)を1杯ずつ飲んだが、14時0分ころにそこそこ腸の荒い感覚を覚えた以外はさほど腸への作用が無い。近頃コーヒーを引用する場合は、少量ずつ摂って様子見を行うようにしている。短時間に摂取量が多くなるほど、動悸のような感覚が起きやすいし、今もそういった覚醒作用の悪い部分を薄らと感じている。



2016/12/17

本日はまず0時30分台に起床したが、すぐに眠りに戻った。続いて2:10の第一アラームに目覚めるも、すぐに起床しようとせず、2:20の第二アラームを待ち、2時24分に起床した。10時42分から母親と弟が徒歩で外出した。事前の動向では、「定期券」という単語も聞かれ、まずは最寄りの駅へ向かったものと見る。本日は土曜日だが、火曜日の会話に聞かれた内容(日記メモで記録しきっていない内容)と関連していようか。本日が母親の誕生日であることと関係はあろうか。

14時30分前からトイレに入って中サイズ複数本を排出した。本日は起床後10分以内に下剤1錠を飲み、11時前からインスタントコーヒー少なめの1杯を飲んでいた。それで、ようやく、厳しい感覚で排便に至ったという感覚である。14時45分に弟が帰宅し、次いで母親が家に入ってきた。15時台に母親が弟に薬の話題をしたと思われるあたりで弟が荒い物音を立てるなど、唐突な展開が見られた。直前まで穏やかな声調のようであったのに。



2016/12/18

本日は2:10の第一アラームに目覚め、2時14分に起床した。直前に洗濯機のエラー音が聴こえ、起床後に顔を水洗いなどする際の出入りに確認すると、エラー表示が見られた。2時18分に母親が1階に降りて洗濯機を再度動かす様子があった。前日の下剤効果の残余で便意が続く中、8時47分からトイレで太い長めの一本糞をひり出した。ボトッ、ではなく、ボドッ、という鈍さの伝わる擬音語が似合う。

母親と弟が外に出て4分後の12時22分にどこかへ発車した。5分以内に風呂(シャワシャン)や洗濯の準備を始め、13時3分に自室へ戻った。15時45分に2人が帰宅した。



2016/12/19

本日は1時40分台に1度目覚めていたが、眠りすぎないよう念じて二度寝に入った。続いて2:40の第三アラームに目覚めて2時44分に起床した。10時40分に母親が発車した。本日は6時台に弟が登校を始めて以後の7時台前半に動き(トイレ?)があったり、8時台から2合ほどの炊飯などもしていた。母親は職場に手作り弁当を持ち込んでいるようであり、今回の炊飯は2合ほどのようであるから、今回も手作り弁当を用意したものと考える。10分以内にタオル3点の洗濯を始めた。

12時台などに少し窓を開けていたところ、13時26分にクモの巣が窓辺に出来ている様子を確認した。あっという間に子グモが侵入したようである。10月25日のものの残党であろうが、体の大きさ(全長5mm程度)がその時の子グモ奇妙なほどに同じである。脚をブンブンと振り回して営巣に励んでいたところに私が息を吹きかけると、丸まってしばらく静止した。数分を待っても動かないので巣の糸を一本外そうと指を掛けた途端、素早く指と反対の方へ離れた。その後、外に逃がすため、箸で作りかけの巣を払い、すばしっこく逃げたり隠れる子クモを追ったり脅しをかけて誘導し、箸でとらえてからは以前(6月19日)の全長3cmのクモのように糸を垂らして釣り下がったが、そのまま窓の網戸に寄せ、窓を閉めた。この子グモが潰れずに生き延び、網目を抜けて入ってきた要領で外へ抜け出てほしい。

15時台、I家に帰ったI家男性の車が唐突に車上荒らしブザー(クラクションを短い感覚で繰り返す音)が作動した。本日は早朝と正午以降に1回ずつ、ムーミンカップ半分程度のインスタントコーヒーを飲んだが、大した効能は無い。下剤残余の効果発現は全く感じられない。前日の夜に菓子(12月17日に唐突に届いた企業からの歳暮・母の誕生日に関係するか?母親も届く予定を知らなかった様子であった)が配られた関係もあってコーヒーを飲みたかったわけだが、カフェインパワー排便に期待すべきではない。母が多めに買ってくる牛乳を常温放置したもので雑菌や乳糖の力を調べても、腸へ大した影響を感じない。真の健康の理論を実証して理想(?)を実現せねばならないというのに。肉体に虚妄の苦を感じて精神が踊らされては心身同時の健康とは遠い。



2016/12/20

本日は2時前に目覚めていたように思うが、起床は2:10の第一アラームの直後である。10時8分に男性配達員(ヤマトか佐川か不詳)が来たものの、2階にいる母親は眠ったままのようで何の反応もない。前日の母は21時10分ころに買い物をして帰宅した。本日は2時台に洗濯機を回すために1階に降りる様子があった。夜中は遊んで寝ず、日の出から昼ころまで寝る日がよくある母だが、かえって先週水曜日=14日は朝5時台に母も弟も1階に降りたので、異様なものだったと思う。

起床後10分以内に飲んだ下剤1錠の効果は5時台に軽い腹痛など、軽度の効果発現があった。正午以降には便意が漸次高まり、14時30分ころに小さいもの1つと長めの1本を排出した。15時55分、母親が1階リビングに居座る折、郵便を名乗る人物(ワゴン車・バンの類で来た)の2度の呼び出し・3分以上待つ中で応じる様子が無かった。だから何かということもなく、ただ記録を取っておく。18時50分前からトイレで長めの一本糞を出した。19時30分過ぎに郵便を名乗る人物の再訪問があった。いつものようにテンポ悪く弟に唆す母親である。弟に一人で受け取らせるとき、何かと後からケチをつける母親であるが、自分一人で受け取る能力が51歳(12月17日誕生日)にして失われたか?今回は連係プレーであって詳細は不明だが、母と弟の衝突が無かった。



2016/12/21

本日はまず0時台後半に目覚めたようであるが、当然、早すぎる時間なので起きようと思わなかった。続いて1時台や2時過ぎに目覚めたりしてもすぐに起きず、少し時間を待つと2:10の第一アラームを感じなかった。おかしな話であるが、2時14分に自分の意識で目覚めたため、そのまま起床に至った。

母親が3分ほど車のドアの開閉や玄関の出入りを繰り返してから10時37分に発車した。間もなく洗濯をしようと思いついて2階の様子見を行い、洗濯機を作動してから、炊飯(米1.8合ほど)の作業も始めた。近頃の洗濯は「できる時間があるならば」という動機が主要であって具体的に選択の必要性が高いものが無い場合が多い。今回は3点を洗濯に出したが、昨今の洗濯機の不調の顕著な状態もあって時間がかかり、11時40分台に2階に干し出した。母親は19時40分ころに帰宅した。



2016/12/22

本日は1時50分過ぎに意識的に夢精をしてしまい、即座に起床した。夢精は今月で3度目である。今回は量が射精感の割に少なかったが、部屋着スウェットのズボンの腰部分に少しだけ染みたようである。こうして不本意に起こされた私だが、同時に、夢の中でも抑制できるはずのことであると毎度、後悔させられる。起床の20分以内に前日からの予定の下剤1錠を飲んだ。9時0分ころからトイレで太い長めの一本糞を出した。12時14分、弟の学校は終業式であるから、早く弟が帰宅した。



2016/12/23

12月23日10時7分撮影・菓子載せ焼き

本日は2:10の第一アラームに目覚め、意識を薄く残したまま起床せずに過ごし、2時40分台に起床した。弟は5時台にシリアルを食べた様子だが、9時ころに再度1階へ降り、ずっと居座る。11時前に母親が降りてきそうな予感をしたところ、10秒以内に俄かに1階へ降りてきた。その後、弟は間もなく入れ替わって2階に上がったのであろうが、彼は11時過ぎに「公園」と母に伝えて外出を始めた(服がシャカシャカとこすれる音を立てていたのでウィンドブレーカーでも着ているか)。なお、母親は12時半ころに2階へ戻った。

13時20分ころに弟が帰ってきてから、20分以内に母親が弟に任せた洗濯物の処理などで怒り出した。外出前の母親は、時間がないという状況らしく、執拗なまでに不満を並べ立てている。弟は抗精神病薬リスパダールかリスペリドンを飲んだか不明だが、怒ることなくオドオドした声の反応くらいに留まっている。母親は弟が怒らないことを分かっていて「私が家を空けているととんでもないことをしている」という趣旨の悲観的な思い込みを、ここぞとばかりに吐露し続けていた。愚痴を極めている。弟が抗精神病薬を飲んでいようといまいと、怒れる自分の言動を省みる努力が必要であろうに、台無しの言動を犯している。13時50分ころから徒歩でどこかへ出たのであろうが、元々買出しに行くらしい内容を先ほどの弟への不満の中に聞かれていた。そして14時10分に家の前を横切って車に回り込んだ。2分近くが経ってから、車にエンジンをかけ、発車した。17時10分に母親の車が家に着いた。



2016/12/24

本日は目覚めて5分ほど経った1時58分に起床した。なお、前日の就寝は21時過ぎとなっていたので、かなり短い睡眠時間となったろう。2時50分ころから前日に決めた予定の風呂(シャワシャン)の準備を始め、3時36分に自室へ戻った。6時20分ころ、4時台に飲んだ少量コーヒー1杯の効果か、長めのものの排便をした。



2016/12/25

本日は1時48分ころに一度目覚めたようだが、当然起きずに二度寝した。2時台前半に起きるつもりであったが、少し長引いて2:50の第四アラーム直後に起床することとなった。3時10分台、炊飯に関連した作業をしているときに母親が1階に降りてきた。母親は、エラーを起こす洗濯機についての不満を独り言にして2階に上がった後に、掃除機のような轟音を発する掃除の道具を使い始めた。夜中に家事熱心のカアサマである(日中に何もしない、という意味の裏返し)。先12月23日の買出しで買われたワインを昨夜も飲んだと思われ、夜更かし状態は、さしずめこの影響かと思う。
11時40分台、母と弟の2人が遊び目的で外出した。目的はボウリング・寿司などのようであるが、私が昨日の風呂(シャワシャン)で出した洗濯物3点を処理していないようである。2階バルコニーには何も洗濯もが干し出されていない。昨日も今日も晴れているというのに、家事を怠る奔放な人間である。あの人がいない日はいつも私が必要な家事を自由意志で行えているわけだが、あの人がいるから仕方なく頼んでいると、結局、こういった無責任な始末がある。私が洗濯をし始め、いつも通り、すすぎが終了して脱水に入る段階で洗濯機がエラーを起こした。この洗濯機の透明地ステッカーには「脱水などの段階でふたにロックがかからない場合は修理をしてください(趣旨)」という説明が記載されているが、前回も今回も、脱水のみのメニューで動作させたときにもロックがかからないわけだから、本格的に故障していると考えられ、修理せねば直るまいと思う。洗濯物は、残っている水分を手ずから絞り出し、快晴の下に干し出した。
12時59分から便意のため、トイレに入って長い一本糞をひり出した。16時40分台にも便意のため、トイレに入って長めのもの2つを続けざまに排出した。17時台に2人が帰ってきた。マクドナルドのテイクアウト品を渡された(8つほど入っているチキンナゲットの箱とグラタンコロッケバーガー1つ)。



2016/12/26

12月26日16時33分撮影・カイワレ・オクラ・香草のリゾット(?)、カイワレは根も種の皮も捨てずに使う

本日は2:10の第一アラームに目覚めたと見てよいが記憶はほぼなく、続く2:20の第二アラームははっきりと記憶がある。少しだけ横になっていたかったつもりが、再び携帯電話を手に取って時刻確認をしたら2時29分であり、あっという間に9分を経過していたため、起床の意欲を生んで間もなく起床した。

9時53分、保健所のSさんから電話が入り、明日に訪問したいという話であった。私はいつ来られても構わない気でいるが、母親のことを思考に介すると、とても翌日に受け入れられる気にはならない。このような迷いや倦怠感によってくぐもったような口ぶりで感情を伝え、翌年の業務再開以降に再度電話がかかる話となった。次回には、「母が恐らく家を空ける曜日」について伝えておく必要がある。今まではたまたま母親が家を空けた月曜日や水曜日が多かったが、この数ヶ月間はほぼ水曜日と金曜日に母が仕事に出ており、月曜日も母親の外出が度々見られる。本日は母が家を空けそうだから本日の予定ならばよかったろう、と思ったが、弟の冬休みもあるわけだから、やはり年明け以後に予定が組み直されるれることは都合がよい。ところで、私のここ数ヶ月の傾向といえば、疲れが重なっているのか、体が衰えているのか、精神的に調子が良いとは言えない。作業にはひたすら向き合っている(前日も音楽作業などを行って未投稿音楽動画の編集も進ませた)、といった姿勢が心身の不調を招いているのかもしれない。更に思う、次回は好調子で臨むであろうと。

10時34分に母親が発車した。11時前から1時間半ほど1階にいた弟が12時40分台にトイレを出た直後「おかあさんかな」と大きめの声を発し、大きな足音で2階の空き部屋に移動して「おかあさんかな」と繰り返しながら窓を開け閉めするなど、異常な様子が続いた。そのまま、前日に「毎日やらなくてよい・次は水曜日ころにするよう」と助言されていた掃き掃除か何かを始め出した。本日も当Win10機の小さな不具合を複数感じてはいるが、多くはWin7機と同様のものである。アップロード作業(外部サイト名義)の時のアップロード停止というか、食べ物を上手く嚥下できないかのような挙動には呆れ果てる。うんざりの極みであり、一応、今日は軽く記録しておく。ちなみに前日SoundCloudにアップロードした際は何の問題も無く済んでいる。いずれも10MB未満のmp3ファイルである。



2016/12/27


本日も2:10の第一アラームに目覚めたと見てよいが記憶はほぼなく、続く2:2h時26分に起床した。なお、前日の就寝時ついて少し記録を取ると、19時20分台にコーラック系ではない下剤・・・ではなく、「非刺激性の便秘薬」を試しに飲んだ。5日ほど前から母親のものから3錠を取り出して部屋に保管してある。この薬の用量は15歳以上が3~6錠なので、試しに飲む・服用するわけだから最低錠数の3錠にしている。20時0分過ぎに就寝したが、母親の帰りは21時30分ころであり、21時33分に1度目覚めた。便秘薬の効果であろうか、腹の違和感が強めであった。

今朝の食事にはお茶を用意したが、3時間以内にムーミンカップ9分目の2杯を飲み、7時台にはカフェインパワーで体の動きが狂い気味である。指が震えてキーボードが打ちづらい。近頃はカフェインパワーでろくな排便もできないのに、他の肉体は副作用の麻薬効果が出やすい。眠気覚ましにもならず、疲労のために酷いあくびが出て涙も漏れる。9時過ぎから便意のため、トイレに入って固めの中サイズのものを1つと小サイズも出したか。



2016/12/28

本日は最初にいつ目覚めたかはっきりしない、2時44分の時刻確認と2時46分の起床である。2時44分の時刻確認で携帯電話の画面が付いていたから、5分以内である2:40の第三アラームくらいは聴いていたと考えてよい。10時36分から母親が発車したが、その30分ほど前に洗濯機がエラー音を立てたきり、母親は洗濯物の処理をしないままでいる。そこで、私は現状を確認してから脱水メニューを作動させた。私の前回の洗濯機操作が12月25日であり、ふたのロックが自動ではかからないために脱水作業も何分待っても始まらない旨を記録した。それ以前も同様の現象があり、そのときは脱水メニュー作動後に何分間待つ、ではなく、部屋に移動して放置していたわけだが、10分ほどでエラー音が発生した。だから前回12月25日では何分待つということもなくふたのロックがかかるまで何度も電源を入れ直して試行していたが、到底ふたのロックはかからなかった。今回はというと1分ほどしてロックがかかり、脱水作業が始まった。気まぐれ・異常な洗濯機である。狂った挙動についてまともな理由も無い。

10時50分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、パンツ・肌着・タオル各1点、靴下1足の洗濯を始めた。風呂(シャワシャン)の最中にエラー停止があり、再度脱水メニューで作動させるも、風呂場を出る前に同じくエラーとなり、自室へ戻る11時40分にも再度脱水メニューで作動させたが同様にエラーとなった。その後、何度も自室と、洗濯機のある洗面所の出入りを強いられた。12時11分に洗面所に行った時、前回12月25日に無効だったことを確認した「コンセントの抜き差し行為」を試すと、今度はうまくふたにロックがかかって脱水作業が始まった。毎度、対症的である上、同じ術で得られる結果が異なりすぎるのでは、手に負えない。私に関する電子機器、アナログであっても同様だが、みな「無因無策無残禍」に代表される不条理な問題が起こる。12時24分からようやく干し出せた。本日のように快晴の前回12月25日も同じような時間だったろうが、水分量はだいぶ異なるので乾き方を不安に思わない。



2016/12/29

本日は2:10の第一アラームが2時15分に鳴り直した時に目覚めた。鳴り直すということは2:10の第一アラームが2時10分になった時に手で再生停止をしなかったことになる。続く2:20の第二アラーム以後の2時22分に起床した。前日20時ころに非刺激性便秘薬・最低用量3錠を服用し、本日は漸次便意を高め、9時前からはトイレで小サイズの複数個を出した。本日はカフェイン類を取っていないが、6時台はカフェイン中毒症状に似たあくびが頻発したり、排便前から以後にも胸の血管(心臓か大動脈?横隔膜?)がピクピクする感覚がある。

10時20分前から20分以上、押入れで横になっていた。仮眠も布団遊びもしない昨今では珍しい。最初の15分ほどは独り言をし、その後は快楽を得ようとする状態に入ったが、触覚の空虚さが思考に介在してきたため、5分ほどして止めた。そのままでいると体の感覚が遠のき始め、舌の血が引くように感じられたため、どうにかして覚醒させようと理性を起こしてゆき、眠らずに留まった。このような遊びは、もはや控えた方がよい。しかし、やりたいときにまたやって反省の種にでもすればよい。14時ころにも中サイズのものなどを排便した。



2016/12/30

本日は2:10の第一アラームが鳴る直前に意識があったが、そのアラームが鳴っても起床することはなく、その後のアラームの場合も止めては眠りに戻ったが、2:50の第四アラームでようやく起床の意欲が生まれて1分後に起床した。

8時前半に1階へ降りた母だが、あまり1階で長居する様子も無く、何度か1階に降りた経緯のある9時50分台から徒歩でどこかへ外出した。そのように思われたが、11月28日のように20分程度で帰ってきて車のそばに回り込み、玄関の出入りを数度繰り返した。11時25分から2人が発車して「カラオケ」に行った。12時前から大掃除を想定した清掃作業を始めた。9時台にE家は一度車を出してスチーム洗浄機みたいな道具で敷地内の地面の清掃をしていた様子がある。本日に清掃作業をしなければしばらくは余裕が無さそうであるため、決定した。以前、母か弟の手違いで私の部屋に置いていた雑巾(これも不思議な他人のお古である小さく黄色いもの)が無くなったため、新しく探し出して用意し、拭き掃除などを行った。16時過ぎに母親と弟が帰ってきた。



2016/12/31

本日は2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームを経由し、2時33分に起床した。前日は2.2合の炊飯を行い、1.5合分は2杯の茶碗に分けて冷蔵庫に保管していた。そのうちの1杯、普段は電子レンジで再加熱した1杯は速やかに自室片手鍋に移すわけだが、本日の場合は半分程度の量のみを自室片手鍋に移し、残りは熱が自然に冷めてから冷蔵庫に戻した。炊飯の機会を新年から失いそうな懸念によるが、元々食事の我慢をしようと思えばできると自負する私が、わざわざ小賢しい工夫をする必要はないであろう。思えば、12月上旬に母親が買い与えたカップ麺4つ(そば2種・うどん2種)のうち3つをまだ残しており、切り餅も400gの袋が未開封であり、大晦日や正月のための食事は揃っている。普段と異なる「工面」の策に打って出る必要は無かった。もっとも、「久々にやってみたい」という感情があったから、わざわざ小賢しい工夫を行った点もある。今まで、餅は年が明けるまでに開封して食べる考えはあったが、このまま年明けまで開封しないでおく。

当記事注: 去年は日記メモにも記録・写真がある通り、母親がネットで注文した日清のカップそばが年越しそばになった。年明け以後も数食分を残していた。今年のカップ麺類はトップバリュ商品であり、製造所固有記号検索では明星の埼玉県内の工場(A960)が確認された。