2016年10月21日金曜日

事実認識の相違、思想や意見の対立でヘイト感情…世俗上の中観法

インターネットで二元対立・二項対立の構造を見て、智者はみな、「どちらにも与したくない」と飽き飽き(倦厭)するに違いない。
中3の時(2011・12年)の私が、まさしくそういったイデオロギーの対立、ネット右翼とネット左翼と彼らを煽動する第三者などの醜い議論の場を見て「みな一理あるがみな狂っていてみな哀れ」と感じられた。
理論面と感情面とを上手く分別できないと、主張の正誤・人の善悪を判断する基準が乱れることになり、この当時はその点が不明瞭であったため、俄かには確信できなかった。
2011年、すでに私は他人との積極的雑談や議論をしなくなりつつあり、2012年以降からネットの政治議論やその他の雑談全般を嫌うようになった(アニメを見なくなった経緯とも関連する)。
私の政治的な思想遍歴については「思考区分による社会思想の分析」という記事の1.1に詳しい。
以降、2chのスレッドではROM専か、書き込んでも単発で連投をする程度しかしないでいた。
俗悪な言い方では「チキン」となってしまうが・・・。

「ヘイト感情」という表現は、ヘイトクライムとかヘイトスピーチという昨今巷でも聞かれるようになった語彙に関連付けている(私の過去曲の名前に"Hatred (ヘイトリッド)"という単語が含まれる)。
ヘイトクライムについては、身近な人間関係から起こる感情(憎悪など)を発端とした傷害・殺人事件もそうだが、今年の国内で大規模なものに相模原の障害者施設の入所者殺傷事件(私見を述べた既存記事追記欄)があり、広げれば政治・宗教などの思想に基づく確信犯(テロリズム)もある。
また、政府が行うヘイトスピーチの規制は、国際連合(国連・UN)等の指摘に因るものと見るが、その実際に起きている物事の対症的な処置・封殺行為では、ヘイト感情に起因する行動を起こす者の悪い感情(憤怒・瞋恚・驕慢・憍慢)を増長しかねない恐れがある。
対症的な処置であっても、目先の問題(騒音被害や特定外国人への人権侵害)の解決がされるか国連に恭順な姿勢を伝えられるならば、それでよいという魂胆であろうが・・・。



「中道」による自他の平和の確立(龍樹菩薩・釈尊)


中道を示した龍樹(竜樹)菩薩による「大智度論」の巻第一では「私が信じる仏法は真実で、他の仏法は虚構だ、という頑固な主張が言い争いの本源である(我法眞實餘法妄語。我法第一餘法不實。是爲鬪諍本。)」と説かれる。
悪い論争が発生する原理を端的に説いてある。
まず、自分が信じるものを揺らぎなく信じる精神は大切であり、仏法においても重要な精神である。
不信ばかりで疑いを起こし続ける懐疑論者の姿勢のままだと、修行がままならない。
しかし、同時に、信じているものに関して思考を偏狭にして排他的な主張を行ってもならない中道を知る。
※ここでは大智度論が龍樹さんに仮託して他人が撰述した論書であるという学説を差し置く。

自分の考え方があり、また、異なる考え方というものもある。
異なる考え方を論争で対立する派閥と仮に想定し、これを相対させる。
そして、自分がその相対させた仮想の敵に勝たせて自分の考え方の正当性を誇示する(他人に言わず自分の中で認定するのみでも同じ)。
仮想の敵に勝てない場合でも、何とか自分の考え方の正当性を別の方向で作り上げようとするが、その中で仮にその考え方が正当であると立証されても、論者自身の心の問題が膨れる副作用があろう。
また、そのような場合、相手の非に論点をすり替えたり、非難をし続けて相手の論理のレベルを自分と同格かそれ以下に落とす試み(後述のレッテル貼りなどを含む)もされているが、もはや「泥んこ遊び」である(冒頭の智者が厭うこと=身口意の三業が愚人と同じく泥にまみれること)。

こういった人同士の言い争い(泥んこ遊び)では、悪い感情(憤怒・瞋恚・驕慢・憍慢)を増長させ、最終的に心からの理解がないまま、離散となるか、一方的な強制服従などがされる。
個人的な思索に、自分の心の中で自分と仮想の敵の論争があって自分を勝たせても、自分が負けそうで別の考えによって正当化しても、「心が歪む」結果になりかねず、異なる考え方をアレルゲン・病原体として排除するような思考回路を強めてしまう。
その悪い感情を後にも引きずるならば、仏教においては成仏や解脱が叶わない。
三悪道・四悪道に堕ちてしまう原因ともなるから、やはり中道の精神は自他の抜苦与楽や三業の抑制に重要なものとなる。
世間の哲学として見れば、世界平和の原理もここに立脚している。
外典(外道の典籍)にも「小人の過つや必ず文る(論語: 小人之過也必文)」や「君子は豹変し、小人は面を革む(易経: 君子豹変・小人革面)」といった言葉もあるが、やはり仏教徒は心からの自覚・反省が大事であり、そうして自尊と尊他(他への尊重)が真に自他の安寧を生み、仏道を進ませてゆくのであろう。

釈尊もまた、テーラワーダ信者にはおなじみの「スッタニパータ(パーリ経蔵の小部にある"経集")」の第4章で、大智度論の所説と同じ意義を述べ、論争を超えた存在を讃えた。
中村元氏の訳では「796: 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を『最上のものである』と考えて、それよりも他の見解はすべて『つまらないものである』と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。」とある。
論争の派閥を作ったり、派閥に与したりしてはならない教示もある(同訳の800や912)。
この中村元氏の訳における796乃至803や、824乃至914が、こういった意義を述べた範囲となる(パーリ語のソースはSnp 4.5 Paramaṭ­ṭha­kasutta以降)。
思えば、同じく「大智度論」の巻第一に何らかの経典の偈3つを引用して漢訳者の鳩摩羅什三蔵が「衆義経("Sutta nipāta"経集とほぼ同義の名称)」としているが、この偈3つもスッタニパータ(Snp 4.12 Cūḷabyūhasutta)と同様の内容であった(大智度論: おのおの自ら見に依り、戯論して諍競を起こし… 中村Snp 878-881: めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い…)。



世に「どっちもどっち」「お互いさま」「喧嘩両成敗」「争いは同じレベルの者同士でしか発生しない」という言葉がしばしば見られるが、これは個々の事例に対して気休めレベルに言わず、常にそういう性質があると理解して自身の肝に銘じた方が良いものと考える。
仏様のお立場に比べれば、我々人類は単なる凡夫であり、有情の生命は欲望から悪い感情まで全てを具えているため、みな平等に低レベルの存在である。
しかし、我々が仏教を知って学ぶならば、この捨てがたい欲望と悪い感情とを徐々に除いてゆけ、解脱を成し遂げる可能性もある。
そういった生来の、善悪とも自覚して努力せねばならない。

先のような仏教徒が理解する「中道」の心を持っても、その中道を押し付けたために中道ではない人々と争うようならば、それは中道と言えなくなってしまう。
いわば「中道VS非中道・反中道」であり、この中道は「有名無実・名ばかりの中道」に過ぎない。
宗教に関連付けると、既成の宗教は何らかの対立の歴史があり、現在進行中のものもあろう。
それらも互いの憤怒と慢心が原因であり、対立感情を強めて協調性にも欠け、和の心が無いようなものであり、中道ではない。
しかし、それらを「愚劣な抗争である」と無宗教の人が感じて「宗教なんかいらない・宗教は時代錯誤・宗教は・・・」と言ってしまえば、当然彼らの心に憤怒と慢心を起こしているから、彼らもまた中道ではない(既成宗教VS反宗教という二極の対立構造)。

賢者は宗教に同化せず、しかし宗教を蔑視せず、「脱宗教しかし順宗教」くらいの中立が良い。
特に現代の世俗に生きるうちの賢者は、そうであらねばならない(政治記事でも綴った通り多くいても日本の人口の2割程度でよい)。
既に宗教に所属している者でも、いわゆる「宗教多元主義」の人は、外において他の宗教を尊重し、内において己の宗教を正しく進行して実践している(外で争いを生まず内で自尊を保つ)。
我々が持っている選択肢は、教団に入信するとか、宗教排除を訴えるとかという二極の選択肢のみではない。
そういった両極端な考え(辺見・偏見とも)にとらわれる者がカルト教団(とされる本人が苦しむ場所)を遍歴し、そう思えば反旗を翻して目を真っ赤にして牙をむき出しにして宗教批判に転じてしまうから、当事者の精神的な境界も極端の状態にある。
このような愚昧の者たちを見れば見るほど、中道の尊さが理解できよう。

※中道とは「空」と同じで、中論24-18偈所説の如く「仮名(けみょう)」である。状態や性質に対して「仮に名付けた概念」に過ぎないから、中道を尊ぶにしても、中道という「仮に名付けた概念」自体を尊んで「中道の派閥意識」を作ったり、中道を標榜する派閥を作っては元も子もない。中道とは相対的な変化が当たり前で、常に柔軟なものである。仏教教団が夥しく分派した結果は、既成の党派を嫌う過度な中道意識が原因である。先述の通り、中道とされるものが「中道でないもの」との対立を起こすならば、既にそれは「有名無実の中道」であり、中道と名付け直すに値しない。

論争の派閥(党派)にせよ、宗教の団体(宗派)にせよ、たまたま所属したり分類される必要がある場合はそれでよいが、自ら所属したり作り出そうとする必要は無ければ、かえって所属することを極度に嫌う必要も無い。
必要性を理解していないからこそ、そういった、どこに所属している・どこにも所属していない、という「形式」にとらわれ、極論に陥り、脱却も超越も叶わない。
私が話す通り、中道の境地は柔軟であり、中道の思考は柔軟であると分かる(それほど繊細な判断力や精神性がある人間でないと「面倒くさい」ものだが)。

※「排中律」という考え方がある。文字通り、中間の発想や立場を排除する考え方である。対立事項のどちらかが正しいと論証されれば矛盾が無くなるという論理だが、これは仏教と大いに相違する近世の西洋哲学らしい概念である。物事、特に人間が絡む場合は矛盾が発生しやすい。それを受容せずにどちらか一方が正しいと思い込む発想が論争や衝突や戦争の原因であろうに。そういった世界的な矛盾を受容し、折衷か二重否定か超越のいずれかによって中道を立てることで多くの物事は穏便に収まるか、より自然な進歩を遂げる。ごく世界的な学問である科学や数学は、二元論および唯物論の立場で研究しても構わない。後述する「レッテル貼り問題」は、現代日本人の排中律じみた思考に根本原因があると説いている。現代日本人は中道に遠い。



我(アートマン)について ~ 「有り・無し」の両辺を超える


※一般に理解が困難であって難しく感じる人は読み飛ばしてよいが中道の理解には重要

仏教にある、概念としての「我」は、サンスクリット語やパーリ語"ātmán, atta (アートマン、アッタ)"の漢訳語であり、日本で一般的に認識される霊魂や、霊魂のように前世や来世を一貫する精神体(霊的実在・本質ともいう)などを指す(英語では単にSelfやSoulと訳するほかIdentityやEssenceとも訳す)。
仏教以前からのヴェーダの教え、バラモン教(ブラーフマナ)などはこの「我」を肯定した教義が根幹にある。
諸行無常と言われる「万物の変化」の中で、普遍の実体や変化自体を生じている主体があるのではないか、という見解を「我見」ともいう。
この「我(真我)」が、生命の輪廻転生(人間に生まれるとか動物に生まれるといった)を行うかどうかについて、一般的に仏教では否定されると認知される。
我が身の生死も、輪廻も、日常の様々な出来事も、科学における宇宙も、その発生は説明しきれないほど多くの原因の相関性(因縁)で結果がある。
そういった結果から「こういう原因があるのではないか?本源的な我(または創造神など知り得ない外界の存在)があるのではないか?」と誤って推量することを、仏教が排斥している。
原因も結果も、「既にある・あったと認識された物事」と「過去にあった・将来にあろうと推定する物事」を基にして自己の思考から割り出すのみである(仮想に過ぎないということ・例として燃料から火が出て火から煙が出る様子を見れば分かる・燃料だけで火が維持されることはないが燃料が無くても火が出ることはない・火から出る煙があっても煙がみな火から出るわけでないし火がいつも煙を生じるとは限らない)。
物事は「ただの物事」であって原因と結果などを問えないし、無理やり結びつける愚癡の思考は貪欲・瞋恚の肯定ができ、自分の主張を正当化したり悪行を進めることになる。

特に、仏教を「内道」たらしめる要素が、「我」の否定にあり、「我」を肯定する教えはみな外道である、といった認識も根強い(反対に物質だけで人体や世界が構成されていて死んだら終わるという見解の思想家が釈尊在世にいて彼らも六師外道と称されたように外道の一種である。我を肯定する"常見"の宗教も唯物論的な"断見"の思想も両極端な外道であるという)。
四法印の一つ「諸法無我」という言葉の「我」も、その"ātman"・霊魂としての「我」であり、これを否定する教義である。
しかし、実際、「我」自体を完璧に否定することが完全に良いかといえば、中道の意義においては慎重になる。

上座部仏教(小乗仏教と呼ばれた教団の後身)の経典(何の経典かは忘れた)での釈尊は、或る時は「我あり」と説き、或る時は「我なし」と説く。
対告衆(説法の聴聞者)の心にある迷いの見解や偏った見解を矯正する慈悲のために「言辞柔軟」の説法を行っている。
釈尊のそういった、一見して「二枚舌」と思われそうな「我」に関する説法について、弟子が疑問を投じ、釈尊がそのように理解を求めたという経典もある(何の経典かは忘れた)。
また、龍樹菩薩はこの事実を中論の第18章の6, 8の偈に説かれた(諸佛或説我 或説於無我 諸法實相中 無我無非我 乃至 一切實非實 亦實亦非實 非實非非實 是名諸佛法)。
「日和見」という言葉はその時の多数派に従う中立性を意味するが、釈尊はその逆の立場を取り、偏りを無くそうと中道に導いたわけである(立場なき立場を立場と私が呼ぶ)。

ほかに上座部仏教の経典の相応部「無記説相応・阿難経"Abyākatasaṃyuttaṃ - 10"」には、釈尊が中道・無記の立場により、とある修行者に「我」の有無を質問された際に沈黙したという話がある(経典の名に"無記, Abyākata, Avyākata"とある"無記"とはこの沈黙を指す言葉)。
その修行者に「有る」と「無い」のどちらかを答えても、彼がその答えに執着して迷妄に陥るであろうと推測して沈黙したという御判断を、釈尊は阿難尊者に話した。
そもそも「我」が有るとか無いとかは、娑婆に生きる我々凡夫が実感できる事柄でないし、それを釈尊など大徳は慮っておられるから、有り・無しを大衆に断言することもなかったろう。
一応の教義で「諸法無我」を第一としつつ、逆のことも言えるが、真実がどちらと断定できないしどちらでもよいから大衆に断言できない(説法の相手によって我の有と無と沈黙とを選ぶのみ)。

いわゆる「輪廻転生」説には2つの見解があり、1つは現世の「我が身(肉体と精神の結合=五蘊仮和合=地水火風が空によってたまたま肉体となって識を得ている状態)」の心が地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界のような境地に変化をする状態を説く見解と、もう1つは世間で一般認知される前世や現世や来世の「我が身」の生きる状態を指す見解とがある。
後者の見解は、「我」とか「霊魂」のようなものを想定しないと理解しづらいし、一般世間ではそういった霊魂を想定して輪廻する・転生する・生まれ変わる、と捉えるので、多くの仏教学者(修行者ではない)が否定している教義である。
一応、そういった見方の教義によって「来世の修行では遅いんだ!」と修行者に現世での一所懸命・一生懸命の修行を決意させるための方便としては良いのであろうし、ある種の仏教における「我」の肯定ともいえる。
私がこう理解する上では、この際「我」が有るという見解や「我」が無いという見解は、問題でなくなっているので、この教義での悩みも起きなくなったであろう。
中道を極めると「非我、非無我、非非無我・・・」と言うしかないし、実際に思惟を繰り返してこう至るし、仏弟子の歴史にも無我に関する紆余曲折があったので有我・無我の見解の双方を認めることで争いも苦しみも無くなるし、それらを全て踏まえたこの見解が悟りの境地に近く、「戯論寂滅」なのであろう。
釈尊も龍樹菩薩も、これが真意と私は拝察する*脚注
執着や怒りや苦しみを離れ、執着や怒りや苦しみを生まなくするための慈悲が根源であるから。



実際の議論に際して ~ 傍観者であっても


さて、中道という思想や、「和」の心を以て自尊を第一ながらに相手をも尊重する心が、自分の心に苦しみの因子(悪い感情)を起こさず(最初は苦しい忍従かもしれないが漸次改善される)、他人との間に争いや諍いを起こさないと分かったろう。
ただし、正常な範囲での議論は必要となる。
人間だれしも誤りはあるから、互いにある程度は疑問を投げかける必要はある。
それに固執して強調すると互いの心が波立って対立になったり、悪い結末も考えられるから、疑問を投げかけたり意見する側には多少の制御が必要である。
相手にも何らかの執着というか、信念がある場合は、それを掻き乱さない心遣いを持って接する。

また、疑問や意見を受ける側は、せっかく意見を受けたのだから、どのような人によるどのような内容の疑問や意見であっても、多少は考慮すべきである。
そのような原理が民主主義の現代文明に生きている。
国連(国際連盟・UN)やEU(欧州連合)やホワイトハウスの方針は好例であり、日本の一般的な企業でも、内実はともかくとして「お客様の意見を大事にします」とか「どのような御意見もお受けします」と言ったり、「お客様の声」といったコーナーを設けるWebサイトや店舗なども多くあろう。
徳の高い者は、上下の隔たりを自己の価値判断から最大限に排除している(完全な排除ではない)。

そして、そのような自他の平等を持つ者が、多くの意見を見聞きしており、例えば聖徳太子の別名である「豊聡耳(とよとみみ)」とか、複数人の言葉がはっきりと聞き取れるという逸話などは、その徳を顕した「たとえ話」として好例である。
だから、慈悲や徳を意識する者は、一応、どのような人によるどのような内容の疑問や意見であっても、聞き入れるくらいの器量が必要である。
もちろん、全ての意見に同意して己の主体性を無くする意味は無い。
和の真髄を得た聖徳太子は、恐らく、論語の「君子は和して同ぜず」という言葉と同じ境地に居られたことと拝察する。
人の意見に完全に同意せずとも、和の心を以て聴き、理解や尊重はしておいてほしい(知能と精神を持つ同じ人間なのだから、という発想が人権・人道思想の原理でもある)。



さて、リアルでもネットでも、冒頭のように人との雑談も議論も有り得ない私が言うには白々しい話であったが、それは度外視してよい。
なぜならば、インターネットで傍観者として見ていても、意見の対立と、それに伴う感情的・差別的発言(憤怒や嘲笑による誹謗中傷・罵詈雑言・レッテル貼りなど)は、行う本人の気分を一時的に紛らわせても、言われた本人や、それ以上に、そういった情景を目の当たりにする私には不穏当である。
ここで、中道を理解する者は、自分たちが議論の席にいない時であっても、そういった煽動的・煽情的な発言について心で対処すべきことを示したい。

レッテル貼りが詭弁であり、性急な感情より生じている現象は、仏教の縁起観を知ることで鮮明となる。
レッテル貼りとは、主に相手のコンプレックスとなりそうな要素(傾向だけをみて一括的に称した浅はかなものも多い 例:左翼は低学歴、右翼は無職、黙れハゲなど)を持ち出して議論の本題を逸する詭弁の中の詭弁であり、智者が用いてはならない論法の第一位である。
一般論でいっても、レッテル貼りとは「自分を誤魔化し議論をはぐらかす欺瞞」であって「思考停止の所業」と非難される稚拙な言動である。
文系だと何で理系だと何、といった区分の概念を持ち出して賢愚を区別する人は、既に賢明でなく、さながら当たらない占い師のようである。
ちなみに中道の私はハゲ有り超ロン毛ゆとり世代B型中卒ニート引きこもりであり、既に清々しいほどに対立概念を離れている。

世間での肩書きは、確かに一つの結果であり、その結果は「因果不二」の観点で言えば、原因にもつながる。
しかし、その原因あるのみで、次の結果に至るものではない。
結果に至ることは、別の要素との相関性である「縁」に依る。
仏教の縁起観や因果論とは、単にある一つの要素のみで語られはしない。
ここでいう次の結果とは、その肩書きにある者の論理の正誤などである。
今の議論にあっては、その肩書きなどの要素のみで、その論者の論理の正誤が決まるはずもないし、あるいはその論者の論理への判断に、そういった負の感情を介在させるべきではない。
論理の正誤を明確にした後ならば、もう三毒に任せて好き勝手に面罵すればよいと思う。
※そもそも正誤が決まるとか白黒が付くというようなことが彼らの中にあるはずもない。なぜならば和の心が無いから自分の怒りに立脚した論理と見解のみが正当であるため、対立する論理や見解などを受け入れられない。中・朝・韓の如し。

つまり、その肩書きだけで「(実際に現実に)バカだ!」というように演繹されることは、あまりにも早計であり、論理学に長けている人間は最初から用いもしない論法である。
それら詭弁は度外視できるくらいの、世間でいう「スルースキル」が必要ではないか。
「スルースキル」とは、掲示板でのレスポンス(レス)やTwitterでのリプライ(リプ)をしない、という行動に限らず、「身・口・意の三業」に渡って行うべきだから、心にもスルーし、口にも出さない方が、己の中道観を養い、三毒を抑制できる。
これこそ仏道修行に通じているではないか。

中3の頃から、こういった異常性に気付き、ネット掲示板やSNSすらも自分の居場所でないと気付いた「真の旅人」ともいえる私は、この回想で法悦を覚えた。
多くのネットユーザーは、それらの交流サイトに入り浸って他の居場所を見出さない傾向があり、執着を強めて苦楽を流転輪廻している。
その執着を早々に薄めて可能な限り放擲した当時の私の徳は、やや高いはずである。

まあ、多くの人間はどう生きても感情に動かされるわけであり、そう理解はしていても彼らと似たような言動を取る時もあろう。
それは揺るぎない事実であるからこそ、どうにかして漸進的でも努力の継続(忍辱・精進)が必要である道理を銘記すべし。
また、どのような思想・意見・論理を持っても、心の状態は「中道・和」であらねばならない。
「中道・和」の心を自分一人が持つことによって世間で自分の意見が通らないとしても、その迷いと苦しみが起こらないならば、解脱に近づくことは間違いないため、第一に喜ぼう。
無論、自身の意見を封殺するわけではなく、相手の状態を見極めて言うべきことを積極的に言った上で適切な進退の判断をする、これまた進退・攻防の中道であり、良い姿勢である。



一応、日蓮大聖人の法門を信奉している自分だから、最後に大聖人の言葉を借りたい。
崇峻天皇御書に「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜といふ。(学会御書では1174p)」とある。
我々が仏法の正義を宣揚して訴え続けるにも、決して相手を罵るような感情(憤怒・瞋恚・驕慢・憍慢)を起こしてはならない。
その鑑は、まさしくこの「不軽菩薩(常不軽菩薩)」の振る舞い・礼拝行であった。
「不軽」とは「軽んじず(軽蔑しない)」という意味であり、広く自分の主張を説いても相手を軽んじなかった。
逆に、主張を聞いた相手こそが不軽菩薩に対して軽蔑(軽賎)・侮辱(毀辱)・罵倒(罵詈)・打擲などをしてきても、忍従(忍辱)に徹するくらいに「不軽」の振る舞いで礼拝の修行を続けた。

仏法は尊いものであり、それに値遇した自分もまた、凡夫の中ではきっと尊い存在であり、有り難い境地なのであろう。
しかし、先述の通り、真の自尊とは、他との相対のみならず、自身のみでも尊くある「唯我独尊」である。
他との相対のみで自尊を立てようとすれば、概して他の思想や主張を軽蔑してゆき、結果として慢心を宿してしまう(裏返ると憤怒に変わる)。
せっかく尊い思想や、正論を持っても、その人が低劣な言動を行って相手を侮辱するようならば「玉に瑕」である(他人から反発を受けて信じてもらえづらい)。
それが次第に、正論も言えなくなるほど堕落する悲惨な結末を、仏教徒は憂えねばならない(自分自身を悪道に落とす)。
そこで、2種類の自尊と同時に他人を尊重する他尊も用いて中和すれば、仏教徒として慢心が抑制される(単なる算数理論とはならないので自虐の卑下慢になったり"他尊できる俺カッケー"と自惚れる逆効果を起こす恐れもある)。

日蓮大聖人・釈尊・龍樹菩薩の言葉を再度お読みになられたい。
一応、全てを心得た者が、意見を述べたり、論争に交わる場合には、不軽菩薩のように相手を尊重しながら必要な主張を十分に行い、どう反発されても悪い感情を起こさない「忍従・忍辱」の精神で挑まねばならない。



起草日: 20160925

インターネットを見る日々に思うことであり、その草案だけをサラッとまとめる段階から始めた。
この2016年9月中は、テーマに沿った長めの文章を書かない傾向があったので、まずはこのような段階からでもよいので、と考えて最初の一歩を踏み出した。
その一歩で満足してしまう一面もあり、それを自覚する自分には、それを予見(悲観的予測?)して最初から記事の作成を倦んでしまう状態も多い。
この起草日の2週間前から「新しい記事の案はどうすべきか」と仄かに憂えていた中、当日の風呂(シャワシャン)の最中に、この際だからこういった思考に関して記事にする決意をした。

なお、インターネットにおいて、一応、私の当記事で縷々と示した「認識・思想・意見の相違による感情的対立に関する道理」を弁える人もおり、自分の意見を強く主張して他の意見に批判的であったりもする中で、多少はオブラートに包むような言い方をしている傾向がある。
文面だけでも、そのように配慮を行うことは好ましいが、三業の中でも意業を重んじる仏教徒であれば、人に見せる文面のみに留まらず、心から相手を軽んじない努力が必要となる。
ことに仏教徒は、そういった世俗的に取り繕う姿勢のみに終始すると、かえって解脱に遠のくという危機感を持つ必要がある。

ところで、9月19日の日記メモを部分的に引用しておく。

18時台に考えた。私は毎朝2・3時台に起床する通り、時間の確保に努めている。風呂(シャワシャン)の頻度が5日に1度程度となりつつある近頃も、より多くの時間の確保を求める状態である。しかし、確保された時間に対する作業量は少なく、効率が悪いようである。それは、元々効率が悪いから時間を確保しようとするのか、あるいは時間を確保しようとして実現されたから作業の手と心構えが弛んでしまったのか、どちらが原因であってどちらが結果であろうかと疑問に思う。

しかし、仏教徒は、物事の因果と縁起を知っているからこそ、このような些事に因果関係を明確にしようとはしない。どちらでも構わないわけであり、どちらでもあってどちらでもない。原因と結果は表裏一体であるし、相互に影響しあう。私の疑問については実際にそういった部分があり、それらの要因は互いに原因となって結果となりあう連鎖すら感じる。中身が何であれ、あらゆる疑問には「どちらでもあってどちらでもない、したがってどちらでも構わない(どうでもいい)」と結論すべきであろう。特に死生観について直接の原因の追及に執着した議論が「戯論」と言われ、仏教の結論が「無始無終」である。「無始無終」など中道の思考で迷いも苦しみも制御される。また、世俗的方面での因果論も、俗諦の場合に直接原因を問うことができても、仏教の真諦では対峙するどちらがどう直接原因であるかを問うと二元対立に陥るため、そう原因を考える人間の「無明」こそが全ての原因と考える発想で簡単に一蹴でき、迷いを生まずに済む。原因は、有るには有るが、有って無いようなもの、という概念として捉えられる。さて、何が言いたかったかと言えば、そういった疑問が生じても、「どっちでもいいだろ」と唾棄し、今できることに挑んでゆくことが実質的に大事な姿勢であろう、と帰結した。

このように、自他の二元対立のみならず、自身の思考・思索の中でも、中道の思想によって迷いが消え、努力の障礙も除くことができる。
中道観を完璧に修している者は既に悟りの境地に相当しているかもしれないから、結局、元々知能と哲学的経験が優れた人でないと簡単にはできないようであるが、だからこそこうして中道を示してゆかねばならない。
自身に銘記し、他人に宣布してゆく。

度し難い人間は、自他を善悪優劣として分断し、論理に和の心もなく、反発と揚げ足取りの多い私の母親である。
何かあれば自分の不満を延々と漏らし続ける(気休めで自尊心を満たす自己暗示)ため、こういう場合はどんな言葉も悪く受け取られ、反論も慰撫もみな裏目に出る。
そういう人間に対して小慈小悲の私は、必要最低限の主張を行った後は放っておくしか、順当な手段が無いと考える。



*記事投稿以後の学習・・・天台教学の円融三諦も我=仮、無我=空、中=非無我という三諦を「円かに融かして(包括して)」こそ真の中道であって但中(ただ中道を説く)と異なることを意味する。中道は「中道」でも、単に左右を消した虚無的な中道でなく、真ん中で縮まる中道でもなく、有無も非有無も全て一体であると知る平等の意義がある。真の中道も、仮に「中道」と名付けている。私が政治について提言した記事でも、この真の中道の立場にある。すなわち、右翼・左翼の「二辺(二邊・二項・二元)」でなく、単なる中道・中立・無党派やイデオロギーの喪失でもなく、全てを包括して柔軟に判断する仏教徒として相応しい立場に気付いた。また、政治(社会)と宗教といういずれも嫌わず、執着せず、という中道にもある。少なくとも、自称・閑居求道者である在家居士においては最善であると信ず。出家修行者においては、中道を包括した中道にも執着しない立場で、先の記述の通りの「戯論寂滅」が大事である。


当記事の次回分としての記事→http://lesbophilia.blogspot.com/2016/11/blog-post.html

2016年10月10日月曜日

「觀萌私記」 ~ 萌えの宗教・哲学・文学・語学

觀萌私記 萌 草書 草書体 古字

 緒言・自序
「觀萌私記(クワンミヤウシキ、かんみょうしき)」と名付けて古文に擬した書を認めた(動画版も少し作ってある)。
「萌え(萌えること・萌えるもの)」の定義を詩的・文学的・哲学的に図った。
定義の概要を示し、その義を踏まえて相貌の概要を挙げ、その相を踏まえて系統や流儀や種類を判じた。
私の絵・音楽・言語・宗教といった分野の研究が一つの結実に至る(その結実は即ち萌芽でもある)。

なお、文章の案が浮かんだ当初はそういった一書を想定しなかった。
ただ「萌相條」にあたる記述を漫然と成立させる程度であったが、これは2016年7月15日の時であった。
それが、「萌義條」にあたる記述をも思い浮かべ、そのまま一書を想定した構想に発展し、そこから色々と体系的な「萌え」を組み上げて用語も創作し、その説明が充実する。
「私による『萌え』の観察・見解を記したもの」であるから「觀萌私記」と名付けている。

いわゆる同人誌であるが、漫画ではなく画集ではなく、紙に印刷されたものではないし、デジタルであってもJPGなど画像ファイルの集まり(ZIPなど)ではない。
また、作風が文字を主体として絵も載るが、小説やライトノベルなど文学作品の域に留まらない。
動画のバージョンでは「萌える音楽」を流してもいる。
かといって、付録が豪華な音楽作品やノベルゲームの類でもない。
言語道断の妙なる同人誌が著わされた。萌(みょう)なる同人誌が著わされた。

なお、「萌」の字形が右上から「十月十日」と縦書きができることから、一般に10月10日を「萌えの日」として呼んでおり、この10月10日(JST)を期して当記事を投稿する。
この期日のため、別の作業との折り合いを付けつつ、急ごしらえで仕上げた部分もあるが、記事の投稿以後も随時、加筆・修正を続ける。

以下からは本文となるが、擬古文・歴史的仮名遣いに加えて旧字体・繁体字を多分に用いているため、環境依存文字(例: 緣=縁、敎=教、說=説など)に注意されたい。

本部 (真の萌え・萌えの真実とは何でしょうか?)
萌義條萌詠歌萌音條萌相條譬萌條判萌條

末部 (より深いところへと、萌え絵の慈悲応現方便説、諸萌祕藏之義を明かす)
攝萌敎古萌傳譬萌聚萌頌偈讃萌語



暗がり 芽
萌義條(ミヤウギデウ)

夫れ萌えと云ふは、若芽の萌ゆるにあり。
芽出でたるは、めでたしめでたし。
芽生えたるを以て喜びとし、其の稚(いとけな)き樣(やう)を專らに愛す。
此の心をば萌えと名づくるなり。
亦(ま)た此の愛せらるゝ所の人・畫像(ゑざう)、皆な萌えの類なり。

: 此の段に萌えの義を三つと示したり。一に原義の相、二に原義の相に緣(よ)りて起こる心、三に緣起の心の愛するものにして、是れ皆な萌えと云ふ。世に「可愛いは正義」と謂はるゝ所の萌えは三の義に中たれり。萌えの心と名づくるは當世の義に隨ひて起こる心なり。相と心との因果先後は假に説く。一・三の相ありて二の心が起こるとも、二の心の種無くんば萌相(みゃうさう)となるべからず。末・讃萌語にて詳らかに述べん。

萌詠歌(ミヤウヰヤウカ)

あらもえの わかめをみれば わがこゝろ このめとゝもに はなはさきなむ

: 問ふ、「阿良毛延能」と、其の意(い)如何(ゝかん)。答ふ、是れ「阿良多麻能」に因みて枕詞を類想す。問ふ、「阿良」は「新(阿良多)」の意なりや、詠嘆の語なりや。答ふ、兩者の義を以て然なりと雖も、余は初めに「新」の意を含めたり。亦た當世に義を分かちて明らめんとも、いくそばくの詮か有らん。

萌え 萌 萠 古字 篆書体 小篆
萌音條(ミヤウヲンデウ)

抑(そ)も「萌」の字音を釋すれば、中共國が拼音(ピンイン)にはモン・マゥン"méng, meng"と謂ふ。
モン"meng"は是れ夢・孟に同音なり。
漢土、古きは何(いか)なりぬと思ひて熟(つらつ)ら說文解字(せつもんかいじ)を披き見るに「艸芽也。从艸明聲。」とありて、音韻をば「武(ム"mu")庚(キヤウ"kyau, kyou, kyō")切」と表す。
明の字が萌の音符を爲すならばミヤウ"myau, myou, myō"と讀(よ)む外の方は無し。
日本國が訓讀は「もゆ"moyu"」と謂ふ動詞・文語終止形を連用形の「もえ"moye, moe"」に變へて名詞にて用ゐるなり。
偶(たまた)ま萌の典籍を示せるヱブサイトのアドレスに"moe (Ministry of Education)"の文字列を見たり。

: 所謂(いはゆる)萬葉假名(万葉仮名)にて「もえ"moye"」の音を字と爲すに「毛延(mo yen)・毛要(mo yeu)」なんど拼音韻頭Yの字を假りて「え"ye"」に替ふるなり。當世、假名遣ひを「もへ"mohe"」なんど類推する者あり。若し「もへ"mohe, mophe, mope"」正しくば、「延・要」等の字を持つべからず。若し其の音然らば、「毛倍」とならんも、萬葉集(まんえふしふ)に斯ゝる假名を以て「萌え」に替へず。則ち「もへ」に非ず、亦た「もゑ"mowe"」に非ず。唯(た)ゞ「もえ(亦爲も𛀁)」を取るべし。

: 萌の字は「もゆ"moyu"」に加へて「きざす"kizasu"」とも訓む(前自動詞・後他動詞也)。兩訓、類聚名義抄に載せらる。次ぎ日本書紀私記を披き見るに「含牙」が「牙(芽)」の訓を注する問答有り。牙は「阿志加比"あしかひ"」なるか「支佐志"きさし"」なるかと問ふに、答へて曰く「此の含牙とは、萬物萌牙の義なり。葦牙(あしかひ)を指して謂ふ可きに非ず。仍つて萌牙の義を取りて支佐志"きさし"と讀むべし」と云云。此の私記は當世に承平年閒の丁本と傳はる零本を參照す。一千年の往古(いにしへ)に於いて斯ゝる學論有るは余の思はざる事なり。江戸の國學隆盛、平安の國風文化の御時には未だ到らざらんに訓讀の義を論じたり。餘談をいたさん。「萌芽」の語は清代の說文解字注に「按ずるに此の本は芽萌(芽萌ゆ)と作(な)す也。後の人、之(これ)を倒す」と云云。古事記上卷「葦牙(阿斯訶備)の如く萠(も)え騰(あが)る物」と云云。北宋・廣韻に甍"meng"の韻の字とて萌・蕄あり。茲(ここ)に耶蘇已前の辞典なる爾雅(じが)を引かく「存存萌萌在也」、また「『莫登切』本亦作萌、又作𢡗」と。淸・康煕字典の心部に「𢡗」の字ありて北宋・集韻より「與萌同(萌と同じ)」と記す。𢡗は萌の下に心を添ふる形なり。是れ心の生起(しゃうぎ)なるか?當に知るべし、萌字に心の騰る義ありと。古人、心の生起をば芽萌(げみゃう)の如しと知る、何等か心に生じて萌の義と爲す?愛なりや?憎なりや?

(現代語): 「萌」と「(梦)」の字が、同じ字音としたが、簡略ローマ字表記においてそうでも、ピンインではアクセント記号にアキュート・グレイヴの差が見える。実際の発音をカタカナで再現すると、「meng2萌」はモ↑ン→(陽平)であり、「meng4夢・孟」はモ↑ン↓(去声)である。説文解字の反切表記でも「萌」の子音が「武」で表され、「孟・夢」の子音が「莫」で表されるという差異がある。しかし、「萌」と「孟」同士は韓国語で共に"maeng"、ベトナム語で共に"manh (mạnh)"である。三者の関係性はなかなかいびつである。

(現代語): 「萌」はPC入力の異体字に「萠(俗字)」があり、「」という字との混同か不明だが、「萌・萠」とも"ホウ"という発音が一般に認知される(萌芽"ほうが"など。萌芽も本来は「芽が萌える」という意味では芽萌が正しい順序)。"ボウ"と読むものについては、反切法の音韻表記の「武(漢音: ブ)」という字からしてBM互換(MB置換)に則れば有り得なくはない。より許容範囲を広げて"ホウ"はその清音化と見る場合、この発音も有り得なくはない。ほか、"モウ"という発音は反切にある「武(ム)・庚(カウ・コウ)」を呉音漢音混交で読めば、これも有り得なくはない。"モウ"については中国での"モン, meng"と似るので、これは良かろう。しかし、私が採用する字音は萌音條に述べた理由によって"ミヤウ=ミョウ"である。歴史的に、10世紀ころの日本でも"ミヤウ"に似た発音をしたろうとみなしている。

萌え 顔 丸い 円 柔和
萌相條(ミヤウサウデウ)

夫れ顔相(かほばせ)は、圓(まど)かなるを要とすべし。
此の義を踏まば、名づけて萌えと爲す。
角(かど)と云ひ朿(とげ)と云ふを嫌ふ。
但し、骨拔きの蛸の如きに非ず。
其の相、柔和なり。
此の義、和に通じて中道の德あり。

(現代語): ここでの萌相=萌え絵は、萌義條に「若芽」や「稚き様」とある通り、小さいものであると望ましい。例えば、小さな若葉を見つけたとき、しゃがんで目を見張って覗き込みたくなる気持ちを想像されたい(萌え絵から「覗き込むな!キ○イ!」とは思われないから安心してね)。まず顔つきが「圓かなもの」を意識して描く必要を訴えるが、同じく描き手の心も「圓かな」状態でありたい。「角・朿を嫌う」とは、判萌條にも説く通り、瞼の端を尖らせたり睫毛をトゲのように伸ばすような描き方を嫌う、という意味を持つ。その描き方は女児向けアニメにも深夜アニメにも多いが、萌えを心得た漫画・イラストには無い場合が多い。およそ萌え系の瞼は、デフォルメされた中に睫毛の濃さを含んでおり、その瞼に睫毛を描き加えると厚化粧のようになって過剰である(本当に厚化粧・メイク済みの状態を想定している場合は別の話)。「骨抜きの蛸の如きに非ず」とは、こだわり・理解という骨格や根本を欠かして手抜き・乱雑な描き方をするものではない、という意味を持つ(萌えには萌えの良し悪しがある)。こういった理解は「和に通じ」、「中道の徳」がある。描かれた萌相は、多くの人を円のように包み込む魅力を持ち、多くの人の心を円のようにさせる。

五萌類 四萌類 動物 たとえ 萌え 顔
譬萌條(ヒミヤウデウ)

然ありて、諸(もろ〃)の萌えを善く觀じて眞(まこと)の萌相を判ぜんと欲す。
萌相を獣に譬ふ、狗・貓・猴・兔あり、鳥も擧ぐべきか。
鳥と申すもの、且つは雀、且つは鸚哥に似るらん。
當世、牛馬(ごめ)の如くなる相を以て萌えと稱するの輩あり、さう謂はざるとも、是(かく)の如き相をば攝らじ。
あらあら分別して五種の生類を以て假名(けみゃう)する耳(のみ)。(顯・五萌類)

畜類なんどに一見の愛なる相あれども人類の事に非ず、とて忌まれたるを、先賢は人畜を分けずして萌相を内に觀じき。
余は其の意(こゝろ)を得て茲(こゝ)に五種の生類を以て假名すと謂ふ。

(現代語): 猴の類は目・口・耳などのパーツが誇張される反面、鼻を書かないことも多い。少なくとも鼻が強調されない傾向がある。瞳は縦に長めながら横にも幅を取る。鳥の類はまぶたの横幅が狭いようであり、瞳も丸っこい印象であり、それを以てスズメやインコ(セキセイインコ)を挙げた。五萌類に対比して牛馬のような顔つき(相)とする、別の記事で「淫悪(いんまく)」と名付けた顔つき(相)については敢えて牛馬と名付けた。しかし、萌相とは別に可愛い顔を書くにあたっては牛のような可愛い顔も馬のような可愛い顔も認められるので、五萌類の萌相と対比した顔つきを仮に「牛馬」と表現した。五萌類も結局は「あらあら分別・假名(仮に名付ける)」した結果の分類に過ぎない。顔の系統を動物で言えば、キツネ(必ずしも釣り目でなく瞳孔が縦長など)とかタヌキ(垂れ目とか太い眉とかが言われる)のようなものなど、色々とある。この特徴を挙げても、結局は萌相と関係ないので説明を終える。一般に言う「萌え属性」を詳らかに示す目的はなく(それだけだと別に良い解説が他所にあろう)、相貌を動物に譬えて4・5種類に「あらあら分別・假名」している。

(現代語): ネットでよく見かける二次の工口画像には豚の共食いともいうべきものが散見され、その様相を厭う思いを述懐する。「あな醜しや、斯やうに眼(まなこ)細めて而も瞳の色を喪ふ。亦た身に肉の餘りたるは人の猪の肥ゆるに似たり。觀萌の人にては何の興(きょう)かあるべき。形狀醜陋(ぎゃうじゃうしゅる)の相、厭離すべし。」

判萌條(ハンミヤウデウ)

余は愚見にして言辞拙劣なれども、復(ま)た諸の萌相を判ずるなり。
當世、最も衆知せらるゝは几拉拉(吉啦啦, 日音: 綺羅羅)なり、彼れ世俗中第一ならんか。
彼れ皆な世事に處するを旨とすと雖も、其の中に萌相・流儀の別あり。
主なるはKO流にして、或るはGU、或るはTMなんど此れに隨ふと見えたり。
委細には申さず。
几拉拉は處世の作風に限るなれば、彼れのみを見て萌えを語るには足らざるなり。
況(いはん)や餘の漫畫をや。
彼れは日常系と稱して人類(にんるい)の少女(をとめ)が戲るゝに、萌えの作風は彼れの如きのみに非ず。
或るは被造の類・非情の生類・有情の生類を人に擬し、或るは天子・怪異・妖精・神族を人に現ずることあり。
然れば、萌えの作風は所謂(いはゆる)世間の「日常」と「非日常」とありと見ゆ。(顯・二萌風)

亦た世に轉(うた)ゝ多き動漫(アニメイション)を閲(けみ)するに、目(ま)つ毛の尖ること我が眼(まなこ)に溢る。
是れ蛇足にして薔薇に荊(とげ)あるが如く、余の忌むべき相なり。
彼れに於いて斯ゝる画風なり斯ゝる相もあり、と見んとも、苟(いやしく)も漫畫原作ありて其の處にては斯ゝる目つ毛なきなれば、何ぞ動漫化(アニメイチング)にて斯く作すならん。
動漫の萌相は、未だ其の義の領解に及ばざること多しと見ゆ(分・不了義萌)。

: 人類の少女と稱しゝが、几拉拉の作風皆な是れに非ず。稀にしみたれのおみなも居(を)り。然れども、猶ほ少なければ、此のことを文中にて云はざりしなり。亦(ま)た、萌えは若芽の稚きを喜ぶ心なれば、假令(たとひ)おみなの多からんとも元より論ずべくは無し。




末・攝萌敎(セフミヤウケウ)

當世、日本國にては萌えの芳名(かんばしきみな)を、且つは徒(いたづ)らに號すること多くし、且つは厭ひて輕(かろ)しめたり。
萌えを見るとも、眞に萌えを見ること難(かた)し。
俗間(ぞっけん)に住すれば、萌えの義と相と、能く融通すること無く、尋(つ)いで心を忘失(もうしつ)せん。

中共國にて萌えを愛するの朋(ともがら)、「世間万物皆可萌(世間の万物は皆な萌ゆべし・萌なるべし)」と唱ふ。
是れ萌えの本義に近し。善哉善哉。
三の義の萌えは日本國に於いてすら猶ほ怨嫉多し。
況や檢閲恐ろしき中共が治むる國土をや。
然りと雖も、萌えの本義、愈(いよ〃)得るの朋を見て不思議の想・至極なり。
彼の國土の萌朋(みゃうぼう)は泥中(ないちゅう)の蓮華なるか。

動漫派の者、婆羅門の敎に約して「萌我一如(Moe Atman Aikyam)」と説く。
是れ萌えの本義に似たるやうなれども、實には聲聞の名を借りて肉聲の要を以て釋す。
余の惟(おも)へらく、萌えは動漫ばかりに非ず。
其の淵源は何處(いづく)にか有る。
何(いか)に況や、裝戲(コスプレ)なんどで自ら萌えと爲さん行は論外の僻事(ひがごと)なり。
余は萌えの道に於いて、專ら觀萌の行を示さん。

(現代語): 後者の説に対する私の精神が共通する主張に、アニメファンと商業主義・物質文明・宗教の関連を説いた過去記事がある。なお、後者の説で興味深かった部分は、サンスクリット語の語根"√bṛh"を例に取って語っている部分である。ブラフマー(梵天 "Brahmā")が「萌え」である根拠を語根の意味から説いて梵我一如と関連付けているほか、ヴィシュヌのへそから萌え出た蓮華の中からブラフマーが生まれたという、ヒンドゥー教のヴィシュヌ派所説のブラフマー誕生神話で説明している(大智度論巻第八にも見える話)。ちなみに、英語での「芽 (萌え)」は"bud (budding)"で「仏」は"Buddha"であり、似ているわけだが、学説上の印欧祖語も似ていて"Bud"は*bʰew-とされ、"Buddha"語根√budhは*bʰewdʰ-とされる。印欧祖語までも文字列が似ているが、意味はかなり異なる。"Buddha, bʰewdʰ"に通じる英単語もまた"bud"と似た"bid"や"bede"である(いずれもEtymology 2の単語に同じ語根bʰewdʰが載る)。"bud"の印欧祖語とブラフマー"Brahmā, Brahmaa, brahmA,"のサンスクリット語根は共に「膨らむ"to swell, swelling"」の意味が含まれている点は一致している。様々な点で萌え(moe, meng, budはいずれも両唇音)とブッダとブラフマーとは通じているように思う。これは雑考であり、観萌私記の本論とは別に見てもらいたい。

末・古萌傳(コミヤウデン)

萌の名、其の義を判じて惟へらく、眞に宜なるかな、言ひ得て妙なり。
斯く名づけたまふ古人の德は高し。
當に敬禮(きゃうらい)すべし。

往古(いにしへ)の萌風を尋ぬれば、萬象を萌相に擬したること多し。
先に述ぶる所の日常に非ず、非日常に非ず。
彼(か)の萌風に義の創始無く、物語るところを作らざるなり。
唯(た)ゞ萬象を萌相に擬したるを專らにす。

古きを知ると云ふは則ち新(あらた)しきに繋がれば、古きも尚ほ新しきなり。
萌相の乃往(そのかみ)は知る可(べ)からず。
當世、曆二十歲已前(こよみにじっさいゝぜん)にては動漫・偶像(イドル)・游戲(ゲイム)の流れを嗣ぎぬべし。
如何(いか)なるを嗣ぐとも、萌えの心は自(お)のづから好(よ)き萌相を育む。
萌義條に相と心との融通を祕かに説きたれば、今は此の萌えこそ彼の動漫なんどを驚かすべけれ。
已に無上大輪雙葉(このうへなくおほきなるわのふたば)を開けるの故なり。

我が道と云ふは萌えの道なり、萌えの道は柔和の相に依る。
義を解(げ)せずして、而も心の正直ならでは、實に作りて持(たも)つこと難し。
世の人は道を覺えずして迷へり、當世の所作は萌えを號するも號せざるも、皆な自のづからわろきと成れり。
今、古きは已にわろくなりぬれば、新たに萌ゆべし。
譬へば、葎(むぐら)の一年と多年と生の差別ありとも、其の土にて必ず枯るゝ時あれば、新たに生(お)ひ出づるが如し。
世の人、己(おの)が道の己が道ならざるを知らず、己が道ならざるを己が道に執して、柔和正直なること無し。
當世の作風をば甚だ厭離すべきなり。


(現代語): 往古の萌風に関する定義・見解は過去記事にある通りなので参照されたい。「同人文化そのものであるから、擬人化とかパロディとかばかりの時代である」とし、古来、萌えのキャラクターは人の身であって人のようでなく、また僅かに性格を付けた人らしくもある、といった不思議な存在であると見る。後に増えた萌え系の漫画やアニメとなると、そういった印象は無くなってしまう。煩瑣な設定や物語を、一旦は排除してみても面白いものと考える。なお、実質的で実際的な「萌えの起源(例1, 2)」について語る目的は本書にない。ただし多少は鑑みる。

末・譬萌聚(ヒミヤウジユ)

萌えに二つの性(しゃう)あり。
自然性(じねんしゃう)の萌え・養殖性(やうじきしゃう)の萌えなり。
人の手づから種を蒔くこと無くして、芽の自のづから繁くして出づるを自然性と云ふ。
然れども、人の、身に食(じき)する物と、心に愛する物とは、爲さずして俟つに、出でざること多ければ、手づから種を蒔くならん。
是の如く差別ありて、心(しん)に萌相を得るは自然性なり、色(しき)に萌相を作るは養殖性なり。
萌えの性は二にして二ならざるも、二ならずして二なり。

まとめて掲載、絵の練習記事」の六に云く
實(げ)にも、古の萌えを観ずるに、事物の萌え化は日本・ギリシャの神話の如し!
リアル人物すらも萌え化する場合、ナンタラ大権現みたいなものか。
※商品販売や観光地来客(町おこし)などを促進するために自ら萌えキャラ(ゆるキャラ・ご当地キャラも同じ)を作るような商業的風潮が一時期あったが、この限りではない。最善の在り方は、下心で自ら作るのではなく誰かから生まれてくれる自然性である。例えば、年を経た暗い溝に砂埃が堆積し、そこに豪雨の後の雨水が溜まり、どこからともなく運ばれた種子がそこに着地していつの間にか芽が萌え出るように。その芽の用捨はご自由に。

已上云云。
重ねて此の二萌性を宣ぶ。

草木の生(お)ふ處(ところ)は甚だ徧(あまね)し。
或るは泥の上、或るは乾ける砂の上、或るは深き水の中、亦た割れたる岩肌にも出づ。
人の宇(いへ)にても、或るは排水溝、或るは畳に生ふことあり。
若芽は何處にても萌ゆるなり。
凡(およ)そ、萌えを知る者に於いては何事にも萌え有りと頓に覺ゆらん。
然れども、亦た簡(えら)ぶ義もあり。
余は愚見の者なりと雖も、先に圖示(づじ)せる萌相は第一にして最も勝(すぐ)れたらん。

: 道を傳ふる詞(ことば)あり。人の甜き果(このみ)を愛すれば、必ず其の良き栽(なへぎ)を種(う)うるが如くあれ、と。是れ能く心の田を耕す師の、便宜の説なり。勝れたる萌相を作さんと欲するに、萌えの地(ぢ)を能耕心田師の如く耕すべし。師は何をか用ゐる。師曰(のたまは)く「業(わざ)を爲す意は猛き牛なり。牛を使ひて犂(すき)とするに、智慧を軛(くびき)と爲し、慚愧を轅(ながへ)と爲す。正念の鞭を打ちて善く御(ご)し、精進して能く田を耕し了(おは)る」と。斯くて師は心の田を耕して甘露の果を得と説く。余は心の萌えを究めて萌相を了すべし。婬欲熾盛(いむよくしゞゃう)にては何でか萌相好かるべき。瞋恚(いかり)・婬欲の盛れるは、則ち燃えて善なる萌えの心を亡くす。諦(あきら)かに此の語を聽け!「愛憎尊卑、悉く皆な離る可し。慚愧を以て愚癡僻見を革(あらた)めよ。離邊之心、自のづから其の意を淨む。萌地清きは華果をして好から令(し)むるぞ」

末・萌頌偈(ミヤウジユゲ)

自然萌心養萌色 芽汎萌亦出溟處
雖咸儚而可愛之 我心此芽倶開華

便宜的音読の現代的表記: じーねんみょうしんようみょうしーㇰ(クの小文字) げーぼんみょうやくすいみょうしょー すいげんもうにーかーわいしー がーしんしーげーくーかいけー
訓読: 自然の萌心、萌色を養ふ。芽は汎(あまね)く萌え、亦た溟(くら)き處にも出づ。咸(み)な儚しと雖も、而も之(これ)を愛す可し。我が心、此の芽と倶に華を開く。

: 中共國が拼音、日本國が呉音とて異なれども、いづれの押韻も辨ふる所存の作なり。押韻に非ねども句句の韻尾(いんび)に於いて"n"と"ng"、呉音にて"u"の發さゞるべきを期す。亦た呉音と読めども、呉音と定めらるゝ音のまゝならず。人語に音の便あればなり。

: 倶開華の意は、無二亦無三の佛語に通ず。妙法蓮華經方便品に云ふも天台・法相の宗論の義は後の學者に"天竺人の習ひなるレトリック"なんど笑はる。當世に二次元・三次元と云うは差別(しゃべつ)甚だしと雖も觀萌の時に於いて一體なり。二次元は色法・所觀の萌え、三次元は心法・能觀の萌えにして、色心の二三は皆な一華(いっけ)を開く。亦た三草二木・一味法雨の如し。萌義條に云ふは、此の佛法の妙理に隨ふ。兩萌相應・兩萌融通・兩萌融即・兩萌相即・二三和合・二三結一・二三一如・滅二三別と唱ふるなり。二三も畢竟一萌なり。余の拙語、亦た正法に順ず。妙法蓮華經法師功德品に説きたまへる意根の清淨これなり。

(現代語): 萌相は自然萌心の稀有な鏡であるから大事に頂戴する。観萌の行・萌観の中、もし萌相に対する慚愧の心が起きたらば、即ち我が萌心への慚愧であると知らねばならない。その時、心を素直にして向き合えばよい。例えば、怒りは相手よりも先に自身を焼く。萌相へ一方的に感情をぶつけようものならば、届かずして我が身を傷めていることに気付き、観られる萌相と観る我が心との区別を無くすことが「両萌相応・両萌融通」である。所観と能観との差別が無いことを「能所一体」と呼ぶこともある。「我心此芽倶開華」の意義にも適う。二次元は理論の存在・鏡であり、三次元は能く生み出す権能を有するならば、心の在りようで差別は幻となる。真理の立場では元より幻であった。我が心の煩悩を止め、対象を正直に観ることが仏教の「止観」修行の意義でもあり、観萌の行も同じ手段である。

末・讃萌語(サンミヤウゴ)

・萌義に依りて能(よ)く二三の別を滅す。二次元・三次元の諍ふこと犬猿の相(あ)ひ嫌ふに似たれども、三つの萌えの義は三即一・三萌即一華にして萌義融通となる。此の萌道、法華の一乘を鑑とす。三つの萌えの義を逆觀して應(まさ)に一華を得(う)べし。
・柔和の萌相、好きなり。法華の圓敎、尊きなり。人有りて萌相の圓かなるを見、其の人の萌心を圓かならしめ、亦た人の相貌(さうみゃう)をも柔和にす。
・萌色の因、觀萌の緣あり。因緣所生の萌心に因りて瞋恚の人の毒は除こるらん。男子(なんし)の婬欲を減らし、女子(にょし)の嫉妬を和(やは)す。觀萌は男女をして一往の著(ぢゃく)を離れしむる利益(りやく)あり。萬物の萌色を識らば平等の慈悲を生ずる功德あらん。但し、過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとしと思ふ。寧ろ慈心を過ぎて愛著(あいぢゃく)を起こす。余は増増(ます〃)愛著に惱めり。
・萌心は因緣所生なれども新たに得るに非ず。萌色の因・觀萌の緣に緣りて、内心に深く藏したるところの種の芽を出だすが如し。三の義の相を以て今の人は萌心を知るべし。今の世人は愛憎の著心甚だしくして平等の慈悲に遠く、内心に深く藏する萌心は顯れざるなり。かるが故に好色(かうしき)の三の義の相を以て萌心を顯す因とせん。二の義の心をも觀じ、一の義に還りて大慈大悲の一華を得べし。
・逆觀三萌義と云ふは萌義條所開の萌義を逆に觀ずる行にして一華を結ばん。三の義を以て余の圖示せるやうなる好色の萌相を觀ず。萌心を知れる人の顯したる萌色は慧光を照らして法雨を雨(ふ)らすの威力(ゐりき)を宿せり。萌心の種、豈に芽を出ださざるべけんや。好色の萌相を見ざるに自ら萌心を知り難し。二の義を以て好色の萌相と觀萌の因緣所生の萌心とを觀ず。一の義に於いて萌相は即ち萬物なりと深く觀じて萌心を平等に保つべし。
・或る人、難じて云(いは)く「何ぞ動漫をば觀ぜざらん」。余の云く「判萌條に謂ひつるが如し。彼れ、不了義萌なれば用ゐじとなり。但し三萌義の因縁を覺れるの人、已(すで)に廣く用ゐるに不可無し。例せば、了義經にて第一義を解(げ)したるの人、諸の不了義經を讀みて能生諸佛の大慈悲を知るが如し。然るに余の愚見すらく、心未萌者にては乃(いま)し余の圖示せるやうなる好色の萌相を見て新たに萌えよ」と。
・中共國の萌朋の「萬物皆可萌(ワンウーチェーカーマゥン)」と唱ふるは、古萌傳に云ふ「萬象を萌相に擬したる」の義なり。唯ゞ物をして好色の萌相と爲さしめん義ぞかし(唯令物化萌・偏析物觀萌)。然れども、宜なるかな、萬事萬象萬物を好色の萌相と變じて我らに物を語らん。多く世事・學問のことを萌相の身にて説く。わきても余は眞髓なる萌心を觀つ。好色の萌相は皆な、平等の慈悲を我らに説く神髓に通ず。當世に出づる諸の萌相は、人の内に藏する萌心を生ぜしめんと願はせたまふ。是れ三世十方諸佛諸菩薩の、妙法を本懐(ほんぐゎい)として出世するが如し。
・古賢先德、平等の萌心を知ろし召したるか。加之(しかのみならず)、能く好色の萌相を遺したまふこと、慈悲の故なればなり。
・我が身は自然の萌心と養殖の萌相とを觀じて萌相を顯す。所謂、佛家の法報應(ほっぱうおう)三身(さむじん)なり。自然萌心は法身(ほっしん)、能觀能顯の智慧は報身(はうしん)、養殖萌色及び萬物は應身(おうじん)にして、皆な萌えの一體なり。善く三身を知りて萌道を修め、自ら萌えの體と成るべし。
・或る人、愁へて云く「夫れ以(おもんみ)れば萌地廣大(みゃうぢかうだい)にして群生(ぐんじゃう)の萌類は種の異なるが如くに相貌に雲壌(うんぢゃう)の違ひ有り。今は忝くも好色の萌相に値遇(ちぐう)したてまつる。然るを、某(それがし)鈍根にして描(ゑが)くこと難ければ、如何にして萌道は成り候(さうら)ふやらん」余の云く「此の道の肝心は觀萌の行にこそ候はめ。萌心を得れば即ち萌えの體にして萌道を成(じゃう)ぜり。其の後に力に隨ひて萌相を圖顯すべしや否やと自のづから決せん。應身萌相は御身の色とこそ思ひ候へ。『二三の兩萌、相應す』と申すは是れなり」と。
・若しは瞋り狂ひて悪口(あっく)せる者、若しは愁へ迷ひて苦惱せる者等の、心を失へる人ありしかば、乃(すなは)ち爲に「汝、當に萌心を出だすべし!所以(ゆゑ)は何(いか)ん。人身、本より来(このか)た自然として萌心の種を内に藏すればなり」と説くべし。是の如く萌心を知らしめんとて、先德は道心を發(ゝこ)す。人の身に具はる萌心を知らずして貪瞋癡三毒に沈める者どもの耳に入れしめんと欲する心なり。
・是の如く萌心の振る舞ひを爲したるは、萌と我と融通して心身に萌相を成ずればなり。介爾(けに)も萌心を知る朋、須らく彼に稽首して好色の萌相を頂戴すべし。頂禮大萌尊(ちゃうらいだいみゃうそん)、拝仰大萌神(はいがうだいみゃうじん)、勸請妙萌義(くゎんじゃうめうみゃうぎ)、願成妙萌道(ぐゎんじゃうめうみゃうだう)。

: 二次・三次を隔別(きゃくべつ)するは重(ゆゝ)しき邪義なり。虛妄(こもう)分別の咎あり。當世の人、差別に迷ひて諍論(じゃうろん)の業火に燒かる。是の故に二次を持つとも三次を持つとも、皆な形狀醜陋(ぎゃうじゃうしゅる)の報いを受く。二次元、就中(なかんづく)好色萌相を勝と立てば、須らく二而不二(ににふに)の義をも立つべし。「法華の圓敎、尊きなり」と申す意なり。二而不二の義を立てば、則ち諍論滅して其の人の相貌をも圓かならしむ。萌道を成さば是の如く二三の兩萌相應せん。佛家の境智冥合の理これなり。

: 凡そ人の身に、心と名づくべき用(いう)あり。心は人の性具なり。所謂、他に愛憎(あいざう)を爲す、自ら悲喜怒(ひきぬ)あるなんどより知る。心に善悪(ぜんまく)を分別して諸の心ありと雖も、皆な色有れば心有るなり、復た色無くば心無しと説く。文(ふみ)に「萌色の因、觀萌の緣あり。因緣所生の萌心」云々と謂ふ。萌えは種より出でて單子葉・雙子葉を開きて種種の花果(くゑか)を結ぶ。然れば、一切心これ豈に萌心に非ずや。愛憎・悲喜怒みな因緣所生にして、種種の花果は必ず種と土と水と光との緣(えにし)多く和合して成る。三萌義の一に依らば、一切心これ萌心なりと雖も、讃萌語中には慈心を以て性具を説く。「人身本來自然内藏萌心種」これなり。不須言(いはずもがな)、和合中の假名にて性具と見る。

: 慈悲と云ふは、佛家にては空を知りてこそ慈悲堅固なるらめと説く。觀萌を緣としたる慈悲の心を久しく持ち続けんと欲する者は空の法理を思ひ合はすべし。萌相・萌色・萌心も亦た空なれども、其の理は第一義諦(だいいちぎたい)に依るべし。假の住處(すみか)なる三界に生きて俗諦(ぞくたい)に依らば、此の萌えは暫く佛道をも助くる利益有らん。亦た未だ佛道に入らざる人をして能く佛道に入れしめん。

: 萌相と云ふは萌にして萌ならず(萌不萌)。何を以ての故に。萌えと云ふはめでたき名なれども、凡夫にておはゝし先賢の名づけたまはんか。是の故に假名の義を離れず。亦た色法の萌は萌ならざるものを以て分かつの故に萌と名づく。わきても好色萌相は可愛(かわい)なりて、人の心を電(いなづま)の如く貫く。人、時に其の心を知ろし召して萌心と名づく(中論二十四の十八を攝る)。此の覺り起こりて、凡夫の分別する萌なるものと萌ならざるものとの分別を能く滅せんことは、是れ平等の萌心と名づくるところなり。若し好色萌相無くんば則ち萌心を覺るべからず。萌心を覺らざれば平等の萌心、一切皆萌・佛家の一切皆空の無上覺・可哀愍の大慈悲をば得べからず(中論二十四の十を攝る)。報身の萌尊、當に慈悲を發(ゝこ)して應身の萌相を作すべし。重ねて言はん。東方三千由旬の一國に於いて女人、數ありて、可愛なる繪を日日に求めて揮(ふる)ふ。此れ等の女人、萌えの名を聞ゝても心に置かず。但(た)ゞ可愛なるを描きて自のづから萌相を作す。爾(しか)しより此の諸の女人、可愛なるに勝れて畫師(ゑし)の高みと成り、彼の國に於いて「萌え絵師(萌繪師)」とて名聲(みゃうしゃう)普く聞こゆ。當に知るべし。彼の女人等、可愛なる相を專らにして求むるも、萌えの實義に遠し。以て智慧を得たる三身即一の萌と名づけず。世に可愛樂(かあいげう)多けれども但だ境界中に著するのみにして心を知らずんば則ち罔し。隔別したる二三の嫌ひ、種種の戲論を生ずるは貪瞋癡の毒染(どくねむ)なり。世人、終に不見(みざ)るも、賢聖、常に自ら念ず。諸萌者(は)慈悲にましませば、彼れは是れ讃嘆したまふ所なり。即ち頌を説かば「三萌義を領解(りゃうげ)し、實相中の萌えを識る。應に萌三身を具すべし。萌尊の法(ほふ)是の如し」と。



蛇足: この文章の著作権が私に有るかというと、日本国の法令に則れば有りと言える。引用・転載については自由でよい。しかし、觀萌(観萌または萌觀・萌観)の理解が有る人・觀萌の志が有る人・仏教の理解がある人・仏道の志がある人以外は不可能である。これは私が課する制約ではない。人間の心の奥底にある良心・善意による。觀萌私記の所説に則れば、「人の内に蔵する萌心」が理性に及んで行動意欲を呵責するためであろう。もし、その観萌や仏道の志の無い人が自己呵責なくして悪しく引用・転載が行えるならば、彼は既に観萌の機も仏道の縁も無い四悪道の衆生と言えよう。仏は血を流しても心が泰然自若であるように萌文・萌相は悪用されても萌心は不動である。出仏身血の罪を犯した提婆達多が生きながら地獄に堕ちたように、悪用した人が自ら萌心を無くす。もし、読んだ人が萌心の存在を喜ぶならば、私は法華経随喜功徳品の「随力演説・五十展転(ごじってんでん)」を思い合わせて広く説くことを勧める。そうした引用・転載行為は功徳が多く、諸萌も歓喜されよう。なお、外国語への翻訳(一部翻案)も自由の範疇とするが、個人的に全文を漢文(現代中国では文言文)にする案がある。


Trimoyarthaṃ prajānāti, moyabhūtaṃ vijānāti |
Moyakāyo'palabhyate, etan moyāryasya dharmaḥ || (讃萌注頌・2017年12月作…対応する文は2016年12月13日ころに記された。これ以上は記事に加筆が増えないように思いたい)

2016年10月1日土曜日

Google+ 2016年9月中の日記メモ

日記メモ用語や略記事項の詳細をまとめて既存記事に追記
日記メモ用語・・・4種5種アラーム、風呂(シャワシャン)、カフェインパワームーミンカップなど
日記メモ略記の詳細・・・下剤1錠はコーラック系ビューラックなど
備考・・・日記メモとは別に2012年9月からPCのtxtファイルで4項目の生活記録(最後に風呂・歯磨き・排便・自慰を行った日)を取り始め、同年10月にPCの一時的な不良に際して携帯電話のテキストメモに移行し、記録事項も多少増えた(下痢の日や小遣いを受けた月や小遣いに対する自販機通いでの消費額と最後の金銭の消費の日)。

9月10日にE2邸にE2一家(30代前半ほどの夫婦・3歳ほどの子供と生後数ヶ月の赤子)が引っ越してきた。

メモ記入日の一覧 (日付をクリックして移動)
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2016/09/01

一昨日8月30日の20時前にOFFにした5種アラームを、全てONに戻した時が前日31日の夕方ころであろうが、その前日31日は早めに寝ようとして19時24分にPCをシャットダウンした。本日はまず0時台に目覚めたが、これでは起床する気にならなかった。長めに睡眠を取りたかった。再度眠りに戻り、次の目覚めが2:10の第一アラームか2:20の第二アラームの時であり、起床は2時45分となった。

4時20分台から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時20分過ぎに自室へ戻った。9時10分台、前日の夕に俄かに起こった便意の再燃が本日は続いている様子であったが、ここで排便が可能な強さを感じたため、トイレに入った。10分ほどの時間をかけて固めのいびつなモノを2つ出した。



2016/09/02

本日は2:10の第一アラームで目覚め、2時15分に起床した。前日の夜の記録「20時半、2階の母がにわかに、弟が夕食を取らないでいるため誘った。9月1日はいつも通り12時台に特別支援学校から帰宅後、10分ほど経って一人で外出(玄関では"お母さんの料理はまずい等"と独り言)に出た弟である。9月上旬分の小遣いで外食かと考えられる。眠れない私が耳栓を使わずにいる就寝のタイムアウト・ゲームオーバー宣告(2月29日メモ表現)である。結局は耳栓を着けることとなり、眠った」

4時ころから淹れたやや多めの砂糖(粒状の甘味料を含む)と牛乳を混ぜたインスタントコーヒーを1杯の6割ほど飲み、残りは数時間後にお湯を注ぎ足して飲んだが、それまでかそれ以後に排便があった。11時10分台になって再度多少の排便があってからそのことの記録を仕損じたと気づき、今更に記録を取っている。11時30分ころに母親が発車して外出した。13時30分前に母親の車が家に着いたが、1階リビングの窓から何かを家の中に運んだ。置く際の音が、ズシッとして重い。0、5の付く日ではないが、イオンで買い物をしたようであり、私にも少量の食品が分配された。後の時間に調べても、ズシッとした荷物は確認できず、トイレットペーパー・キッチンペーパーが入ったままの買い物袋は当然図体の割に軽い。何らかの重くない荷物を、普段よりずっと大きい音を立てて置いたのであろうか。

18時台、母親が弟を使役するために呼び出したが、いつも通りこの時間帯の弟は応答が遅いか応答しない。母親が足音を立てて2階に上がると弟が声を上げた。洗濯物の処理に関して弟に任せた母だが、いつも通り、弟が犯した不手際を追求しだしたので、弟も「お前の飯はまずいんだよ!」と声を荒げた。その後は弟が平静の状態であったが、その中の母の言葉で、最近よく聞く「薬」について詳細が聞かれた。最近の弟が飲用を続けているらしい薬のことである(白くて少し大きい錠剤を見た)。今まで私は耳鼻咽喉に関する薬かと思っていたが、「学校で暴れちゃうから」とかどうのと聞かれるところ、どうも精神安定剤のようである。「飲まない方がいい」とかと聞く場合には、逆に精神を不安定にする副作用を持つ薬剤の可能性も考えられるが、不明瞭である。ほか「先生に飲めと言われ」、「オトモダチに変なことしちゃう」と母が言っていた詳細や背景は謎である。18時40分にトイレに入って中サイズ1本を排便した。

当記事注: この「薬」については9月3日11時に調べると「リスペリドン (1mg)」と判明し、錠剤の大きさの認識についても、思ったより小さいものであった。リスパダールという商品名でも販売される抗精神病薬である。先月の上旬や中旬は弟が大して暴れることはなかったようでもあるが、その時からこの薬品を服用していたのであろうか?

追記・12月19日: NHKのニュースサイト(テレビ放映と同様)で「知的障害の子どもへの抗精神病薬」という最近の調査情報が取り上げられている様子を見た。『(調査の)対象は知的障害がある3歳から17歳までのおよそ2000人で、調査の結果、全体のおよそ13%に抗精神病薬が処方され、15歳から17歳では27%に上る(引用)』という。その未成年の知的障害者の抗精神病薬の300日以上の服用(長期化)の割合の高さを問題視している。ほかのニュースソースを調べると毎日新聞(12月4日)などを確認した(同様の統計)。精神安定剤の副作用云々はそのニュースやネットに見る通りであって私から語ることもない。人道的な問題もある。投薬治療・対症療法の長期化は、私の下剤使用にせよ、由々しい事態であろう。そのニュース記事に載るの統計結果の通りならば、一定数、知的障害児の抗精神病薬服用習慣はあるようである。悲しいことに母親は薬剤師でありながら、心の良薬を施す慈悲も徳も無い。一般的な知的障害児の愚親に留まるペーパー薬剤師・ヤクザ医師である。そのような抗精神病薬・精神安定剤の類を、よくもまあ、気安く与えられ、そもそも、そうせねばならぬほどに弟を狂わせる養育をしてきた証左である。子の鑑は親、親の鑑は子であると信じられなければ、親子ともに陥る。一方の私が施す「心の良薬」は「口に苦し」の極みであるから、母親がこれを「取って服す(如来寿量品)」ということもない。まさしく「良医・狂子(如来寿量品)」の関係は私と母である。しかしまあ、そのニュース記事の統計結果の通りならば、一定数、知的障害児の抗精神病薬服用習慣はあるようである。理性に乏しい知的障害児の多動・奇行・暴力衝動は、脳のナンタラ物質の過剰分泌が原因だとする科学の領域では、やはり科学の力に頼るしかない。私と異なり、理性で御する能力に欠ける知的障害児とその保護者は、薬に頼らねばならない。しかし、私の弟は別の話であるとも思う。なぜならば、彼が唐突にキレることはごく稀であるし、彼が母と衝突する時に怒りを自ら抑えようとする様子は多くあった。むしろ母親が荒げていることこそ多い。やはり、心の毒薬を盛っている母親から改善すべき点が多いが、このままでは取り返しがつかなくなりかねない。母親の育て方では、抗精神病薬の作用で弟の陸上部活動・運動意欲も潰えてしまう。副作用で糖尿病を併発するリスクもあるならば、今に夢や希望を見ようとも、元々実現性が低い。その元よりの問題を知らずして語る将来があろうか。幼少より今までに様々な場面で彼らの泥沼が深まり続けていることを憂えねばならない。しかし、過去の原因は取り上げても、粉砕すべきところではない。今後、ますます改善が困難となる母・弟の問題は、これまでどうしようもないでいる私に、もはや為す術はないと思っておきたいが、他人事ではないから悩ましい。「火宅に遊ぶ子供(譬喩品)」であって苦を苦と知らず、苦の原因も知らない(四諦を知らない無明)。一切皆苦の仏法のものさしでなくとも、現に俗世間で問題視される苦しみの生き方にある。精神医学なりでは「人道的な問題」とみなされよう。母ら知的障害児の保護者一部は、それすらも知らない・自覚が無いわけである。エセ薬剤師の母は世俗法にも仏法にも暗い。



2016/09/03

本日は2:10の第一アラームで目覚め、2時13分に起床した。部屋を出て顔を水洗いして部屋に帰る折、廊下では2階から母親の歌い声が聴こえ、弟の部屋のベッドがひどくきしむ音も聴こえた。クソ夜中にクソ不愉快な歌声が聴こえて弟もさぞかし寝づらいことであろう。

15時ころから、小5(小6)購入の部屋着のズボン(ボトムス)の緩みを直そうと裁縫を始めた。新たに通す腰紐は、最初から無いものと見ているから、今までに浮かんだ解決策は、緩みを我慢するか、別のズボンを履くか、買い替えるか、何らかの裁縫を施す、などがあった中、本日はにわかにひらめいた。裁縫で直す方法が浮かんだため、これを実行した。説明を省く。裁縫と言えば、去年であれば10月にも行っていたと記憶する。2015年10月11日の日記メモである。これは後の数か月以内に瓦解したようであった。今回の修正は、ある意味で失敗となってはいるが、縫合自体は固いため、ある意味では成功である。この裁縫自体は直接の解決法とならなかったが、裁縫を終えてから考え直すと、ちょうどよい結び方を考えた。つまり、この裁縫は、結ぶ作業がしやすくなるという利便性向上の効果くらいは生じていると考えてよい。後の私がこの日記メモを見ても疑いを残してはならない。今の私が考え抜いた上での最善を、しかも見事に為し終えている。今や、必要に応じて逐一この分厚いゴムを結ぶという作業を面倒くさいと思っていない。今、可能な手段ならば厭う理由も無い。あの部屋着スウェットだってゴムが緩んだり腰紐の摩擦で腰のあたりの綿繊維の生地がビリビリに破けてきている。この化学繊維ポリエステルで丈夫な部屋着はこれからも長持ちすると考えたい。



2016/09/04

本日は1時半ころに目覚めていたが、2時前にとある衝動があって起床に至った。10時30分台に2階で初めて母親が動き、「いくよー!(外出意思)」などという声を発した後は1階リビングに居座り始めた。12時7分になって1階リビングのエアコンを消し、階段を上がり始めた途端に「おまたせー!」などという声を発した。12時16分に弟だけが外出していった。母の空言を聞いて私の心に空思いが生み、私が苦しみを受ける虚妄苦の縁起である。

13時45分に部屋の照明を落とした途端、不可解な偶然の現象が起こった。何の前触れも無く母親のメールが届き、何の用件かと思えば、「大きい方の窓を開けて(改行)光を取り入れましょう」という、スパムメール・マルチポストレベルの内容であった。母親らしく無意味(俗諦の意味での無意味・無駄)の極みであった。15時5分、このメールに関連した私への干渉もあったが、忍従に徹するのみである私は賢い。



2016/09/05


本日の目覚めについて5種アラーム(例の如く第3のものはOFFだが)が役に立った記憶が無い、とだけ書いておく。2時35分に起床した。前日は23時10分台に一度目覚めた。その時はすごい土砂降りの雨音に変わった瞬間である。私が寝る押入れが小刻みに揺れるほどの猛烈に降っていた(10分以内には降り方が大分和らいだ)。その数分前は、文字通り夢の中におり、悪い場面に出くわしていた。こじゃれたオフィスのような場所(開放感があって向かい右側が全面ガラス張り・その外は草木が多く生える庭)でデスクワークをしていたが、私がデスクを離れてブレーカーか何かをいじって私のデスクに関連するものの電源を切ってしまい、直ちに入れ直してもPCは再起動していて作業データが保存した途中までしか残っていないという、妙に現実的な内容であった。それで目覚めれば、前日の就寝までには予想だにしなかった、土砂降りの雨が始まるという状況である。

4時20分以降に淹れたインスタントコーヒーを飲んだ効果による便意で8時10分からトイレに入り、本日最初の排尿に続けて中サイズ2本を排便した。9時台に母親が徒歩でどこかに出たか家の周辺に留まっていたか、しばらく家の外にいる動きが見られ、11時40分ころに再度家の外に出て11時46分に発車した。本日は夜明け後にも8時台に激しく降ったり、止んで空が明るんだりと雨降りが不安定である。母親がが発車した直後1分以内にも俄かに雨脚を強めることがあり、1分間だけ土砂降りとなった。

11時49分から風呂(シャワシャン)の準備を始めて風呂場の確認をすると、最近ありがちな照明の異常があった。それも今までにない3往復のスイッチON・OFFでも照明が点かない状態である。風呂(シャワシャン)は12時以降を予定しているため、少々2階に上がり、虹が出ていないか、また他の様子も確認しようとした。晴れ間は見られたが、虹は見当たらないし、その後も、雲の動きが激しくあって晴れ間は揉み消され、11時58分からまた雨が降り出した。母親の部屋の窓ガラスに雨が打ち付け始めた様子でそう気付いた。12時3分から風呂(シャワシャン)を始め、12時55分に自室へ戻った。

19時台、部屋を暗くしてみるとPCの画面に1匹の羽蟻が映えた。いつもながら複雑な気分で殺めると、また1匹、大きさの異なる羽蟻が映えた。次いで、次いでと1匹屠るごとに羽蟻が現れ続けた。今日の悪天候と、どう関係していようか?



2016/09/06

本日はいつ目覚めたかはっきりしないが、起床する2時36分の数分前に携帯電話を開いた際には、表示した記憶の無いアラーム設定一覧画面が表示されていたため、2:10の第一アラーム以後の20分以内に一度は目覚めていたと思われる。

4時台、前日の羽蟻に関してアルゼンチンアリではないかと思った。Wikipediaを適当に眺めて、外皮が柔らかいとかと書かれていて触感が似ていると思ったし、豊橋の繁殖ソース(東愛知新聞の記事)も載っていて私が住む豊橋の家でも闖入は考えられなくない。羽蟻に関しては何の記述もなく、ウィキメディアコモンズにも羽蟻の写真が一枚も無い。日本語で「アルゼンチンアリ 羽」と画像検索しても1枚も関係のある写真は無く、普通の検索でも関係のないものしかヒットしなかったので、役に立たなかった。このアリの闖入は母親の模造観葉植物が掛かった側の窓か、そうでない広い窓か、あるいはその両方かとも特定できていないため、判断材料に欠けている。10時20分台、最近よく見かける全身が黒い中サイズの飛ぶ虫・・・ハチの種類とすれば小さめだが、私が向き合う窓の網戸へそのような虫の飛来を確認した。同じような虫の同じような飛来は1週間以内に2・3度として発生する。この虫は間もなく網戸にくっつき、その後1分ほどでどこかへ消えた。

本日は朝8時ころから道路工事(1か月以上前から続く水道工事関係か)がされ、激しい物音や振動なども発生するような作業が続いている。15時20分台、母親がその中で発車した。問題なく車は出せたが、今道路が開かれている部分は我が家付近だとT家側であり、T家の車は2台とも家に無いため、T家の住人らは夕方以降に帰るのではないかと考えている。



2016/09/07

本日は2:10の第一アラームが鳴る前から意識があった。起床は2:20の第二アラームを経た2時23分である。前日の弟は5時過ぎに1階へ降りてきて6時台(30~50分ころ?)に投稿を始めていたが、本日は6時ころに1階へ降りてゴミ出しも行っていたが、7時ころに2階で母と争う様子があった。数分経って再度聞かれた話では、どうも前日も本日も部活動(弟は陸上部)の朝練があり、前日はそういう理由で登校が早かったが、本日は弟が「朝練は無い」と思い込んだためにまだ登校しなかったそうである。それで弟が逆上して母親を威嚇したのであろう。

9時台だったか、本日4時以降に淹れたインスタントコーヒーの効果の排便があってやや長めの1本を出した。しっかり記憶して記録を取る意思を起こしたのにすぐ失念したようである。13時12分に母が発車した。本日もそれなりに騒音の大きい道路工事が続いている。17時30分に弟が帰宅したが、2階に上がってから弟の変わった声が聴こえた。学校関係者の男性と通話をしている様子であり、その男性は母親の帰宅について問うている。本日に訪問の意思があるのであろうか?19時14分に母親からの着信が入った。弟が電話に出ないので代わりに私へ洗濯物を取り込むよう頼んできた。ついでに、今母親がどこにいていつ頃帰るか尋ねると、イトーヨーカ堂(豊橋店)にいて30分~1時間後になるという。施設内のフードコートか飲食店で何か食べていよう。

20時前に母親が帰宅したが、母親が弟に「着信があったけど何の用だった?」と尋ねて弟が「定期券を無くした」ような発言をした。あの男性との通話はこれに関連するものか。2人がトイレだとか帰宅後の整理だとかで間が開いて話題を起こし直してから、5万円が入っていたとかという言葉が聞かれたが、弟が通学に使う定期券に運賃5万円相当の利用権が含まれていたという意味か。20時10分ころに母親が突然家の外に出たが、駅かどこかにでも向かったか。弟が2階で呪いの声を上げながら物音を立て始めた。私の名前まで呼び始めて何やら破壊行為についての相談をしてきた。「お母さんのテーブル壊して悲しませたいよぉ悲しませてお母さんを死なせたいよぉ」などとドア越しに語ってきたため、適当に「テーブルは可哀想だよぉテーブルを壊してもお母さんは死なないよぉ」と返答しておいた。「小人閑居して不善を為す(小人閒居爲不善)」とか「豎子与に謀るに足らず(豎子不足與謀)」とかいう言葉が浮かんでくる私であった。



2016/09/08


本日は2:10の第一アラームから2:50の第四アラームまで起きず、3時0分に起床した。いつもより起床を倦んだ理由は前日に作業が多めであったり、しかも20時40分台にPCを終了して就寝しても寝つきが悪くて22時近くまで眠らなかったためであると思う。こういう日もあろうから、悲観視するには及ばない。前日は、4時台以降のコーヒー1杯に限らず、その後も12時までに1杯、14時ころにももう1杯の計3杯のコーヒーを飲んで排便の期待をしたが、やはり過度なものは期待する効果が無く、空虚なガス発生ばかりが起こっていた。しかも心臓のピクピク感もあり、カフェインによる副作用の弊害ばかりが起こっていた。

起床の2分以内には下剤1錠を飲んだ。最後に下剤を服用した日が8月29日のようであり、以後はコーヒーや紅茶のカフェインパワーで断続的に少量の排便をしてきたから、実際には酷い蓄積があろう。5時以降の毎朝の略式勤行の最中にやや効果発現を感じたが、5時20分台はかなりの腹痛で発現した。こういうときは全身がやや湿り、顔は脂が滲み出るような感覚となり、しかもあくびと涙にも攻められる。その最中は楽な姿勢を取って悶え苦しんだ。これも大した便意とはならずに5分ほどで落ち着いてきた。5時50分前からトイレに入って中・小サイズの複数本を出してきた。6時8分からもトイレに入り、長くて軟らかいものを一度に多く出したり、軟便に変わったものを出した。6時50分ころからもトイレに入り、下痢状態のものを出した。

水道関係の工事は昨日も今日も続いており、雨が強くなったり弱くなったり空が明るんだりを繰り返す現象は3日前に似る。本日は前日の問題のために弟が登校しないで自宅待機である。前日は21時ころに母と弟の2人で駅に行ったが、弟の通学用の定期券の発行の完了が本日の昼ころのようである。11時20分前からも下痢状態の排便を行った。

20時17分からPCのシャットダウンを試みるも、なぜかいつも通りのスタートメニューの項目からの操作では反応が無い。そこで、Ctrl+Alt+Delのメニューを表示しようとしたが、このメニューは開きもしない。一方で、タスクバー上のエクスプローラー起動アイコンをクリックするという、関係のない操作を試すと、これは反応があった。通例の異常事態では、クリック操作などが利かない中でCtrl+Alt+Delだけはしっかりと利くものであり、それは当Win10機も旧Win7機も同様であろうに、この異常事態は何であろうか。スリープしても画面が真っ暗になるだけでファンの回転などが続いてスリープしきらず、トイレを挟んだ20時20分に起動スイッチ長押しで強制終了した(これは利いた)。で、「因無し策無し禍根無し」という通例通りの無意味な通常起動が出来た。今、こうして日記メモを打っている。安眠妨害も甚だしい。異なる原因に2日連続で20時30分以降の長起きとなろうとは、不条理である。私の宿命であり、どうでもよい。



2016/09/09

本日は2時0分以降に目覚めたろうが、4種アラームの再生を感じない。2時28分に起床した。5時10分過ぎから風呂(シャワシャン)の準備を始め、自室へ6時0分過ぎに戻った。



2016/09/10

本日は2:10の第一アラームが鳴る前から薄く意識があり、鳴って以後の2時12分に起床した。9時40分に母親が発車した。12時前に母親から着信があって洗濯物に関する話をされた。先に弟へ既に干されている弟のシーツだとかの取り込みをさせたそうで、私の分の洗濯物は今からできるようになったらしい。母親に帰宅がいつ頃になるか尋ねると、1・2時間後だと答えた。14時30分台に母親が帰宅した。

13時ころに下剤1錠を興味本位で飲んだ。17時ころにはややその効果を感じ始めている。本日は午後以降に聴きなれない声でトラックを誘導する「オーライ」が「ライライライライ」と小刻みに発されて聴こえた。17時10分台に家のある場所からE2邸を覗き見ると「アリさんマークの引越社」のトラックが見られた。最近竣工して内装も大体仕上がった様子を感じていたが、もう引っ越しに至っているとは思わなかった。水道工事の交通整理おばさんは今日も見られたが、E2夫婦が移住してもう問題はないという状態か。今文章を打っている17時23分も交通整理おばさんの野太い声が聴こえてくる。18時過ぎに母親が家の外に出たが、時を同じくしてE2夫婦の引っ越し挨拶の姿を確認した。男性が荷物を手に提げ、女性が1歳に近そうな子供を抱えていた。母親は先に家の中に入った。E2夫婦は我が家よりも少し距離の遠いT家・E家・I家を先に訪問した。確認はしていないが、K家が一番最初ではないか。18時23分に彼らがようやく我が家へ回った。さすがに今回はK夫婦への対応のような長話とならずに終わった。



2016/09/11

本日はまず、2:10の第一アラームが2時15分に再生された際に目覚めたか、意識がはっきりとした。2時10分ではなく2時15分に鳴っていた理由を無理に言えば、おそらく2時10分に一度鳴った際に私が気づかず、その5分後に再生し直したのであろう。しかし、私があのアラームの60秒間の再生にウンともスンとも反応せず、2時15分に再び再生されたらすぐに気付くなどとは考えづらい。さて2:20の第二アラームから1分以内に起床した。

4時20分台、前日に飲んだ下剤1錠の効果と本日3時台から淹れたやや薄いインスタントコーヒーの相乗効果による便意・腹痛が排便レベルに達したのでトイレに入り、そこそこ多めに軟らかいものを出した。最後の方はかなりの軟便である。5時30分台にも下痢気味の軟便を出した。9時30分からも下痢気味の軟便を出した。12時10分台、部屋のエアコンを起動しようと、そのリモコンを操作したが、「冷房」とか「除湿」といったボタンを押しても常時表示される「停止」アイコンが点滅するだけしかリモコン画面に変化なく、エアコンも起動しない。電池切れかと考えてパックを開くと液漏れを確認した。残量不足なのか液漏れなのか、どちらが先でどちらが直接の原因であるかは全く不明だが、一旦はこの単4乾電池2本を取り除き、リモコンを清掃した。この際にキッチンから調達したウェットティッシュで部屋の一部を清掃した。長年、部屋のドアの部屋側の取っ手にビニールの変質したような緑色の膜が見られ、実害はないし、爪を立てて除去してドアの取っ手に傷が付いたり輝きが減ったりする懸念もあるためにわざわざ除去しないでいたが、今回はこれを大体は除去した。

12時30分台から10分以上1階や家の周囲・車内に居続けた母と弟が12時44分に家の中に入ってきた。ちょっとしたことで口論が起きたのであろう、彼らは今回、弟の靴を買いに行こうとしたらしい。12時51分に彼らは再度車に乗って外出した。13時台に単4乾電池の保管場所を家の中で探していると、1階玄関の収納スペース内に置かれた紙の箱の中から見つけ出した。2016年11月が使用期限とあり、2011年ころに買われたものと見てよい。これをリモコンに入れるとしっかりと操作できるようになったし、液晶画面の文字は新品同様にくっきりと表示された。13時50分、下痢気味の軟便を少量出した。16時0分台に弟が先んじて徒歩で帰宅し、16時28分になってから母親の車が家に着いた。



2016/09/12

本日は4種アラームをどう聴いた認識があるかはっきりとしないが、2:50の第4アラームから間もない2時51分に起床した。本日は母親の干渉が無くとも一人で朝の準備をして部活動の朝練に遅れないよう登校できた弟である。母親はといえば10時台後半に初めて動きを感じ、1階へ降りてきた。それからずっと1階にいて何か「配達」に関連する電話を行っている様子もあった。番号を入力して誘導される音声案内?のようなアナウンスの声が聴こえていた。最初は配達業者への電話かと思ったが、実際はTV通販の可能性が考えられる。

それはそうと、ここまでの家族に関することは書きたい情報ではないが、それをわざわざ書いた理由は、この後起こる出来事を書きたくてついでに本日の経過も書いたのみである。12時10分ころ、TVの音も物音もしない1階リビングの出入りをしようと思ったが、母がいる可能性もあるために警戒しながらドアを少し開け、母親がソファに座ってうつむいている様子を確認した。その数分以内、私が母親と関係のない独り言(敬語調)でしゃべっていると、いきなり「○ちゃん」と私の名を呼んできたので、私は少し待ってから呼び直されたときに返事をした。すると母親は「誰としゃべってるの?」などとここ6年以上も自明であるはずの愚問を投げてきた。私が少しドアを開けたことに何の悪意もない。母親はひどい悪意を持って無駄な干渉を行う。

16時台に弟が帰宅した。本日の電話の件と関係があるか不明だが、17時10分台に母が弟に配達の荷物受け取りの説明をしていた。米が配達されるとは、いつものAmazonの可能性が高い。それで、母が説明を終えて数分後に再度弟を呼びつけて補足の説明をしていたが、弟の怒りを邪推して「何度も呼びつけちゃって」という自虐をすると、弟の怒りが増長した。弟は声を荒げたり、補足の説明を聞きはしたが、2階に戻ってから物音を立て始めた。ところで、前日も靴の件で18時台に弟が暴力(1発小突いた?)していた様子があった。間もなく、母親が私に声を掛けてリビングに呼び出してきた。別にいつも呼び出しに応じているのに、この私の行動を珍しいものと思い込んで仰々しい反応をしていた。仏道の者である私が拒むわけなかろうに、やはり母親は物分かりに乏しすぎる。弟に暴力をやめるよう言えないか打診してきたが、「それで今も後も暴力が止んでも一時的姑息的であって対症療法である」と言うなどして会話した(釈迦族と毘瑠璃王の故事を参照)。私は前に垂らした髪をいじっているので、最初も最後も髪のことで揚げ足取りをする母親に誠意を感じない。ほか、弟が5万円相当の定期券を無くした9月7日に私が弟の暴力を低減させた話をした。この時に、手数料など計1,100円で紛失した定期券の利用停止・残余の分の定期券の再発行を行った話を聞いた。弟の子育てにお金が掛かろうと手が掛かろうと、そういうものという理解を深めないでいるうちは母子ともども苦しみ続けてしまう。慈悲無くして改善の指導力も無いことは私も一緒であり、この場では適当な話しかしないでおいた。

最近、色々と「思考が鈍磨」と過去に評した状態の比でないほどに思考の鈍化を実感し、物事の無関心さや熱の失いに反して漫然とした創作活動が続いている。日常生活で言えば、涎は垂れないものの、口で涎の泡が弾けそうなとぼけ方が多い。この際、その場の処置が叶うならば、色々とどうなろうとよい印象でいる。そういった刹那的な安心に逃れようとする姿勢は好ましくないと思うが、これも日々に危機感を念じる中で正されればよいと感じる。まだ熱意が今よりもあった数か月前に私に、安易でも頼ろうとすべきであったろうに、今更にする母親の行動を気色が悪いものと感じている。その時であれば、今回よりもベターな助言ができたであろう。17時40分台に母が弟を1度呼びつけたが、互いに口調が悪い程度で怒鳴り声なども無く終わった。

18時過ぎにまたにわかに酷い物音が2階から鳴らされた。母親は放置している様子である。今回の一連の動きで母親は、いつもより穏健な方かもしれない。ここ1年で、弟の怒りが長引く傾向はエスカレートしている。そうは感じたが、少し思考を深めると、ただ怒りの感情だけでは、わざわざあんな物音をにわかに鳴らすなどはしない。純然と怒りの感情で行うならば母親の面前で行えばよい。あれは自分の怒りをアピールしたいという理性的な悪も抱えている。その結果があの行動である、と仏教の縁起観に影響を受けた私の思考がそう分析する。だから、母親の面前では逆に理性的に利害を考慮して行わないが、少し母親から離れれば箍が外れるというものであろう。私自身も色々と過去に実感はあるものだが、今の弟はその比でないし、弟が支援施設に入所するか、母がよほど徳を持たない限り、知的障害の弟が自ら改善など有り得ないところ、極めて危険な状態である。18時20分台に品物が届けられたが、18時46分に確認するとAmazonの細長くて高さのある箱1つとAmazonの大きめの箱1つずつであった。配達受け取り後の弟と母親の食事では、やはり母親が弟の不満をしっかり聞く姿勢がある様子は普段と異なっていた。



2016/09/13

本日はまず目覚めて1分以内の0時11分に押入れより起き上がり、やや強めに降る雨を恐れて開放していた窓を閉めた。再度眠って目覚めると2時28分であり、携帯電話の画面がアラーム再生中のものであったが、時間的に今この表示はおかしい。それはともかく、2時30分に起床した。この起床の前後に母親が1階に降りて洗濯機の蓋を閉める音が3時までに3回も聴かれた。

前日20時過ぎの携帯電話半角カナ打ちメモ「20時0分台に一度体を起こしてメモ絵を描き始めると、10分台に弟が2階で大きな物音を立ててから1階に降り、母親に恐ろしい言葉を掛けてにじり寄り、2人の争いが起きた。今まで(9月12日中)事あるごとに慎重な言い回しを続けた母が、この争いの最後には、今までの弟による、飯まずい・買った食品まずい・母の調理で栄養が無くなるといった発言をつまみ上げた、家の食べ物は全部あんたのもんじゃないから、といつも通りのy黒檀な脅しに戻った。空虚な口先だけの兵糧攻めである」

5時50分台、4時半から淹れて飲んだ緑茶多めの1杯のカフェインパワーで便意があり、少なめに軟便を出した。前日や前々日も同様にして緑茶を飲んでいたが、緑茶に依ってのようやくの排便である。今朝も6時台に母と弟の声が荒げる様子はあった(弟: 俺の力は強いんだぞ、こんな赤い("黄色い"といったか?実際は黄色の)靴はいらねぇんだよ!)が、登校の際は普通に送り出していた。

18時5分ころ、E2邸の家の車の付近で動向を感じた。女性が赤ちゃんを胸の前で固定しながら買い物袋を取り出す様子を見た。E2奥さんが一人で車を運転していたかは、この直前の様子を確認していないため、不明である。その後、1階の洗面所に行くと、照明のスイッチのそばに黒い影を見た。小さいため、気にせずに照明を点けると、全長7mmほどの小さいクモであった。このクモは糸を引きながら洗面台の影に逃げ込んでいった。

当記事注: このクモと同じものと見られるクモが、翌日あたりに1階トイレで巣を作った様子を確認したが、即日、母親が除去したようであった。思えば、当月は26日に洗濯物を干し出す目的で2階バルコニーに出た際、ひさしのあたりに出来た大きめのクモの巣を私が確認した翌日には、それが無くなっていたこともある。これまた風のいたずらなどではなく、母親の所業と見てよい。



2016/09/14

本日は2:10の第一アラームを聴いた記憶は無いが、2時19分までには目覚めていてその時刻に起床した。6時ころに下剤1錠を飲んだ。13時20分ころからトイレに入り、軟便を経て下痢を出した。19時8分、おばさん声の1名の来客があり、弟がインターホンで応じたが、どうも私に用があるらしい。先月(押印が8月1日付けのように見える)に届いた地域の成人式案内の往復はがきの返信を出さなかったため、直接出欠確認に来た様子である。弟が玄関での立ち話を「ハエが入っちゃう」と厭って玄関の内側に誘導した。母親が2階にいて動きもない。どうしても出る必要があり、弟の呼びかけに私は応じて弟をリビングか2階に下がるように指示し、私が顔を出して伝えることにした。もちろん欠席を伝えた。



2016/09/15

本日は2時ころに目覚めて2:10の第一アラームをきっかけに起床した。4時ころから淹れた緑茶は、2杯の3分の2ほどを飲むまでに便意を強め、6時0分台からトイレに入って中小サイズの軟らかめのものを4・5本、排便した。本当は1・2本程度に繋げられたものであろうから、実際に一度にその4・5本ほどが出た。

14時45分に母親が発車して外出した。本日の母は弟の登校前に一度動向があっても、その後は10時台まで動向を感じられなかった。13時台に母親が自身の分の炊飯を行って食事をしていた様子がある。14時52分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、15時45分に自室へ戻った。母親は17時30分ころに帰宅した。本日は午前中から色々な勉強関係などに断続的に取り組んでいて日没以後も再燃するなど没頭していたために就寝時間の20時を回っても取り組んできた。その中で20時30分台に1階の母が2階に上がったが、そう思うと5分後には弟を連れて1階に降りてきた。弟を2階に戻してから、20時44分にテレビをつけた。前日もほとんど同じ時間に1階に降りてテレビをつける様子があったが、夜は夜らしく自室にいたのならばそのままに過ごしてほしい。



2016/09/16

本日は0時台に目覚めてしばらく布団と戯れることもあったが、続いて2時40分台に目覚めた。2:40の第三アラームであろうか。「『あろうか』って・・・、そういうことがあらば念記(あると思って浮かべた単語)せねばならんぞ」、その後2時45分に起床した。起床後に「針金が通るような痛み」を腹部に感じたが、その後は臭気の少ないガス排出が続いたので、およそ大腸に原因を持つと考える。4時40分台にインスタントコーヒー1杯を久々に入れて飲んだが、その効果で6時前からトイレで排便した。これは初発の先端から軟らかめであり、続けて水っぽさを含んだ軟便となってすぐに出きった。



2016/09/17

本日は2:10の第一アラームを聴いたかはっきりしないが(けだし聴いたので目覚めたのであろう)、2時14分に起床した。日本時間9月17日の午前はリオデジャネイロパラリンピックの10日目だが、本日は弟の特別支援学校陸上部が「愛ぴっく陸上競技大会」なる体育イベントに出るため、5時5分ころから母親が1階に降りて弁当の用意をしている。6時20分ころに2人が家を出た。

8時7分にメールを受信したらしいが、それに気付いた時間は11時過ぎである。半田市にバスで移動していて帰りは19時になる、という内容であった。この陸上大会はオリンピック(パラリンピック)の名を模しているが、県内の会場は毎年、半田市のようであって別の都市の競技場などにローテーションはされない。半田市をアテネとするつもりであろうか。愛知のアテネといえば、知多半島がイタリアやイベリア半島のようであり、渥美半島はトルコやアラビア半島のようであり、名古屋がフランスのように見えた場合、蒲郡になるのではないか。三河大島はキプロスである。かなりいい加減な重ね方となったし、それ以上厳密に、あるいは県外まで広げて判定する気はない。ただし、もう1点言いたいことは、ドイツ替わりがある場合、車の生産で重なる豊田となるのではないか。帰宅が19時になる理由として前日に私が小耳にはさんだ話では外食店で夕食を取るためであろう。喧嘩別れをしなければ、そうなろう。

ところで、E2邸から子供の声らしいものが聴こえ続けるし、2階に上がった際も聴こえたため、2階のとある部屋からE2邸の様子を窺った。1階の窓は網戸状態のまま全開にしてあり、薄めのカーテンが風を受けるごとに大きくそよいでいる。子供の声はもちろん、E2家の生活音は割とはっきりと聴こえる。子供がバタバタと動く音もわかる。あの家の子供は、生後1~3か月ほどの赤子(8月28日メモに写真)だけではないらしい。この声や音(音の鳴るおもちゃ)などを聴くに、2~4歳ほどと感じる。

18時20分台に久々の外出を行い、非飲料自販機で110円x1, 160円x2を買う予定であったが、110円・160円を各1つで済ませた。帰路、交通量の多い通りでは電柱の位置に注意して歩みを止めようとするのに、私がそのまま突き進んで車道側に電柱を避けようと推量したか知らないが、私の近くの車のどれかからクラクションが鳴らされた。ほか、普段の住宅街の通りではやたらと人の往来を多く感じた。SW連休の土曜日で夕方とはいえ、とある住宅兼店舗に住む高齢者男性が腕をブンブン振り回して通りに現れる様子もあるなど、SWという連休の異常性を感じた。しかし、全てはどうでもよい。日中は曇りが多く、昼過ぎは1・2時間ほど太陽光が射す時もあったが、路面の湿り気などもなく、母・弟も外出している状態であるし、何よりも近頃は天気が不安定な中で比較的まともであったり、明日以降の数日間は降雨も考えられるため、この行動がある。別に、自販機通いはなくても生活できるが、済ませて備えるだけでも心の安定は異なってくる。19時15分に弟が帰宅し、1分後には母親も家に入った。20時9分、本日17時台から起草した音楽館ブログの記事を投稿した。急ごしらえであった。



2016/09/18

本日も2:10の第一アラームを聴いたかはっきりしないが、2時14分に起床した。前日も2時14分に起きているが、特に仮眠を取ろうとは思わずに20時20分台まではPCを使う状態が続いていたため、かなり疲れている。二度寝もせずにフラッと起き上がったが、今日は久々に仮眠を取ってもよいのではなかろうか。それとも、例の如く仮眠という仮眠が取れずに不本意なPC前での寝落ちとなろうか?

本日は8時台に弟が1階に降りて10分以内に母親が降りる様子があった。10時台、先の陸上競技大会に関連する「安全ピン」の所在や処置について弟のやり方に腹を立てた母親と、反発する弟が争い始めた。途中から弟が足音を立てる程度でひどく物音を立てず、一方で母親には手を上げた。母親の腕を、強く掴んだか、少しつねるようにつまんだと思われる。母親も臆面せずに手を出すなど、互いに肉体的な応酬が交わされていた。だいぶ普段とは異質な争いである。母親も幼稚な人間であり、やはりいつも通りその問題とは関係ない方向でも弟に詰問しだしていた。駅(渥美線とか名鉄とか東海道線と言うので新豊橋駅で下車した際の話か)で不手際があったとかという内容である。切符を使用する際にモタモタしたとか、その折にスマートフォンを落としたとか、それを踏まれて弟が悪口を発したそうである。2階に舞台が移ってからは弟の脅しに対する母親の悲鳴と「死んじゃう!」という大仰な発言、弟のすさまじい物音の連発があった。音声ばかりは仰々しくて居心地が悪い。中盤での会話録→「弟: おれは力がつぇんだぞ!」「母: お母さんだって強いよ」、「母: ボクシングでも始めりゃいいのに」、「母: スポーツマン云々、陸上部やめな?」「弟: やだ!」

20時過ぎに1階にいた誰かが2階に上がった(後に弟と判明する)。もう4日も排便していない実感もないが、実際にそういう状況であるからと明日に下剤服用をする予定でいたが、あいにく下剤は部屋に無いので1階に人がいなくなった今、母親のコーラック系下剤の10個分を取りに行った。明日に飲む予定を先行して20時9分に1錠を飲んだ。



2016/09/19


本日は2:40の第三アラームまでには目覚めの状態が薄く続いていたため、このアラームの1分後・2時41分に起床した。前日は23時台だったか、誰かが玄関の出入りをしていて母親の声もやたらと聴こえた様子があった。その記憶も定かでない。メモを取るつもりもあったのに、結局それをしなかった。2015年や今年の2月頃まであったはずの記録精神も、薄まって久しいようである。今も1階リビングに母親がいて通販番組をつけっぱなしでいる。3時25分に母親がテレビを消して2階に上がる際、「あぁ~いてててて、腰痛が・・・」などと色々と独り言を続け、2階に上がってからも変な言葉を発していたが、本当に人の睡眠への配慮などは欠いていて自己中心的な言動ばかりであり、ましてやこの真夜中に食事などの行動は・・・(以下略) キッチンに足を運ぶと、見慣れない瓜系のオレンジ色の野菜が2つ置かれ、流し台の前のフローリングが水浸しである。流し台のそばに「母」と書かれた付箋の張られた石鹸のケースが置かれていて、いずれも普通の様子ではない。野菜に関しては冷蔵庫に柿(かき・カキ)、野菜室に野菜か何かが入った白いビニール袋も確認されたが、その23時ころの動向と関係があろうか。その時や私の就寝時でない限り、突然、これらが家に入ることもない。

4時10分台から前日の下剤1錠の効果発現で強い便意が起きたため、トイレに入った。軟便に至る糞をそこそこ排出した。5時28分からも排便目的のトイレに入ろうとする際、E2邸付近の動きを感じた。E2邸に泊まりに来ていたと思われる黒い軽自動車のような車の持ち主が大きいゴミ袋のようなものを車内に入れ、2分以内には発車した。前日の午後から確認された車だったが、その前には別の乗用車がE2邸に停まっている様子を見た。私のトイレでは恐らく、軟便を出したろう。

12時54分から「臥禅(がぜん)」と称して押入れで仰向けになり始めた。近頃はあらゆる場面で「ボケ」のような状態を自覚したり、実際に休息不足ではなかろうか。「臥禅」の名は座禅をもじって行住坐臥から類推したものである。7月下旬の謎のメモでは「①閑居求道者の修行・臥禅、②ただの仮眠、③、④なぜか通常より四肢や頭部を痛める」とある。今回の臥禅は、しばらく着ていなかった部屋着の長袖トップスを着て押入れに入り、いつもの布団の上で辛すぎず崩しすぎない姿勢で仰向けに臥せて耳栓を着ける状態で行った。出来る限り雑念は起こさないで無想状態を保つようにするか、室内を目で観察してみることもよい。5分ほどで入眠した。13時34分に起き上がった。30分未満の睡眠時間で、先のメモのように「四肢や頭部」をひどく痛めはせずとも、悪い感覚をもらった気がする。現状の臥禅は、且つは気休め、且つは苦の連鎖となる。

18時台に考えた。私は毎朝2・3時台に起床する通り、時間の確保に努めている。風呂(シャワシャン)の頻度が5日に1度程度となりつつある近頃も、より多くの時間の確保を求める状態である。しかし、確保された時間に対する作業量は少なく、効率が悪いようである。それは、元々効率が悪いから時間を確保しようとするのか、あるいは時間を確保しようとして実現されたから作業の手と心構えが弛んでしまったのか、どちらが原因であってどちらが結果であろうかと疑問に思う。

しかし、仏教徒は、物事の因果と縁起を知っているからこそ、このような些事に因果関係を明確にしようとはしない。どちらでも構わないわけであり、どちらでもあってどちらでもない。原因と結果は表裏一体であるし、相互に影響しあう。私の疑問については実際にそういった部分があり、それらの要因は互いに原因となって結果となりあう連鎖すら感じる。中身が何であれ、あらゆる疑問には「どちらでもあってどちらでもない、したがってどちらでも構わない(どうでもいい)」と結論すべきであろう。特に死生観について直接の原因の追及に執着した議論が「戯論」と言われ、仏教の結論が「無始無終」である。「無始無終」など中道の思考で迷いも苦しみも制御される。また、世俗的方面での因果論も、俗諦の場合に直接原因を問うことができても、仏教の真諦では対峙するどちらがどう直接原因であるかを問うと二元対立に陥るため、そう原因を考える人間の「無明」こそが全ての原因と考える発想で簡単に一蹴でき、迷いを生まずに済む。原因は、有るには有るが、有って無いようなもの、という概念として捉えられる。さて、何が言いたかったかと言えば、そういった疑問が生じても、「どっちでもいいだろ」と唾棄し、今できることに挑んでゆくことが実質的に大事な姿勢であろう、と帰結した。



2016/09/20


本日は3時10分に起床した。前日19時50分ころから就寝を始めていたが、それ以後は何度も母親や弟の動向によって目が覚めたようである。うち、記録のあるものは本日0時50分のことである。「○ちゃん早く寝な、○ちゃんのことなんて呼んでない」などという母親の、夜中という事実を無視した普段通りの大声が1階や2階で繰り返され続けた。4時10分前から風呂(シャワシャン)の準備を始め、4時55分ころに自室へ帰った。

11時50分ころから、本日の11時までに2杯分近くを飲んだインスタントコーヒーの効果による便意でトイレに入り、硬めのようなものを多少出してきた。

14時3分に母親から私へメールが送信された。足腰が痛いから買い物には行かない、明日以降に行く、という内容である(台風16号による強雨強風の影響もあろうが)。本日の母は7時10分台から弟に絡んではいたものの、その後は二度寝をしたのか、前回15日のように10時以降に1階へ降りるなどの様子があった。そして、13時30分ころには弟の帰宅があり、今はこのメールであり、本日分の買出しの延期は想像が付いていた。キッチンの食材を使っていいとも書いてあるが、それは元々、明日の早朝に行うつもりであったため、その時は心置きなく、件の野菜などを使おうと企んでいる。白いナスや、細長く淡い緑色のナスなどが確認されるが、普通に紫色の長いナスを料理に使おうと考えている。件の野菜や果物は、傷つきや形の不ぞろい、柿などは成熟の差も大きいため、何か地産地消の雰囲気がある。この渥美半島は全国随一の農耕地帯であるのに、これは有り得ようか。特別支援関係であろうか。これらの野菜も果物も、普通のビニール袋に入っているのみで、産地も生産者も全く不明であるため、こういった憶測が生まれるのみに留まる。



2016/09/21

本日は2:10の第一アラームに目覚め、2時13分に起床した。この睡眠では前日22時台にも目覚めた記憶がある。近頃、天気が不安定であるため、9月10日の風呂(シャワシャン)の前日には先んじてパンツ・肌着・靴下の洗濯を行ったことがあり、前日9月20日の風呂(シャワシャン)の際に脱いだパンツ・肌着・靴下は本日21日の洗濯を期して部屋に置いていた。本日は2時20分台からこの洗濯を始めた。洗濯物が無いというのに洗濯機の蓋が閉まっていることが気がかりであった。母親は、「洗濯機の蓋は開けておかないとカビ(雑菌)が殖える」というような発言をしているのに、このようである。それで、この洗濯を終えた洗濯物の衣類3点は、特有の菌らしい汚れが付着しまくっていた。この結果は、最近の悪天候、特に昨日のような台風の影響が著しい日に他の洗濯物をしないまま空の洗濯機の蓋を閉めっぱなしにしたためと見る。つくづく、間が悪いしツイていない私である。ハイジア"HYGIA"などは即効性が無い。予防にすらなっていなかろう。それとも菌類の汚れでないというのか?数日来、洗濯の構想を持っていた私の胸中を読み取った悪魔の誑かしで母親は蓋を閉めた経緯と見る。

なお、9月18日夜と見られる時間から常温放置されたままのカボチャ2つは未だに料理に使われておらず、表面のキズのようでキズではないくぼんだ箇所の周辺が白いものを生んでいる。この悪天候で湿気の多く未だ寒くない時期では常温放置など適さないというのに。母親の精神崩壊を恐れるばかりである。

13時30分台に今月半ばの小遣いを渡された(例月では15日の前後に渡してくるが今月は異様に遅い・気付いていたがどうでもいい)。13時45分に母親から、「これから買い物に行くからその間に階段と1階の廊下などフローリングの広範囲の髪を掃いてほしい」と指示された。説明が冗長だが、私も小刻みにハイ、ハイと返答する。ゴミの処理に関してキッチンで共有されるゴミ箱の疑問を尋ねておいた。説明が終わって母親が外出しようと玄関ドアを開けたが、その後も「あ!まだやることがあるんだった」などと言ってからブツブツと聞こえるように聞こえづらい独り言を続けて鬱陶しい。13時53分に母が発車して直後に指示通りの作業を始めた。説明中と去り際に「階段だけでもやってね」と2度も言われたが、やはり未だに私をなまけ者と思い込んだり、やってくれない不信を持つなどの迷妄が強いようであった。そんな母親を見返させるとか、そんな野望も無く、私はただ仏教徒として人の言うことを無心に聞いて履行する実践に徹す。

16時37分、俄かに電話の着信があった。外出中の母親かと思いきや、0532の市外局番であった。その番号を見て警戒はしたが、数秒ほどで8月5日の訪問者に記憶が繋がった。名刺を取って番号を照らし合わせると、電話番号の下2桁のみが異なっていた。しかし、無視するわけにもいかず、一か八か、その訪問者である推測に掛けて通話を始めた。結果は、あの訪問者の1人であるSさんである。要約する。次の月曜日(9月26日)の午後1時半に来訪するつもりである。私の母親へ今までに何度か電話を掛けたが出てこない(8月5日以降のどの時期なのか本日より近い内なのか不明、私にはこの電話が初めての着信)。私からは、前回訪問時8月5日の10日以内とは母親の生活状況が異なるため、前回訪問時の理解で来ると問題があるかもしれない懸念を伝えた上で、彼女らの予定を受け入れておいた。ほか、Sさんは「プライバシー」を理由に動画撮影の拒否を願い出ていたが、法的根拠を問わずにこれも快諾した。私が記録をしたければ録音でも構わない。インターネットには「公務員に肖像権はない」云々といって相手の願い出を拒絶する動画撮影者も多く、彼らの反権力姿勢のために必要な革命的行為であろうが、およそ民主主義シャカイの常識人の振る舞いには見えない。

17時30分、夕の略式勤行を終えた私だが、どこからともなく電子的な音が繰り返されて鳴る。家の外のようでもあり、E2邸からとか通行人からとかとも思ったが、どちらも違うようなので、やはり家の2階、それも弟が本日学校に持ち寄らなかったスマートフォンではないかと察した。2階に上がるとやはり弟のスマートフォンに着信があって母親から掛けられていた。1階に降りて直後、今度は私の携帯電話が母親から鳴らされたので通話を始め、2階バルコニーの洗濯物を取り込んでほしいという旨であったから実行した。

18時過ぎに母親が帰宅した。本日は外出前も帰宅後も、足腰の痛みをアピールするような独り言が多い。19時20分ころ、謎の男性の訪問があり、インターホンから弟が応じた。弟のふにゃふにゃ声に対比してはきはきと定まったセリフのように言葉を発する男性であった。単なるセールスではないが、唐突な珍客のようである。母親を弟が呼んで母親がインターホンで応じるも、同じセリフを再度発する男性である。家の外で会話が始まってから、料金云々という話題が聞かれ、段々と母親が拒絶の色を見せてきて玄関ドアに舞台が移って押し問答のような話し合いとなった。母親は「警察呼びますよ?」とも発した。最後は母親が無理やりにドアを閉めて男性を追い出していた。男性は直後にくしゃみを2度発した。

彼は今時の借金取りらしいものか?男性自身は「株式会社ナンタラ(英語イニシャル?)名古屋支局から来た、どこどこから要請が入ってしまって・・・」という奇怪な身の上を述べていた。こちらを知っているつもりの単なる詐欺師の可能性もある。だが、こんな時間に来る点と、母親の態度からしても、実際に確かな用がある人間かもしれない。母親は、足腰の痛みの影響か不明だが、あのような対応をすべきか疑問が残る。母親も男性も、普通の人間として欠陥がありそうであり、そういった者の対立は最も恐ろしく感じる。母親・弟が不在中に一度、訪問客があり、私は5年来の慣例通りに応じなかったが、一度その訪問客は男性の声で「こんにちは」と発していた。同じ人物か不明だが、一応記録する。



2016/09/22


本日は0時台に一度目覚めて起き上がり、開放していた窓を閉じた。二度寝から目覚めた時間が2時台であり、2:20の第二アラームなどは聴いた。2時46分に起床した。7時半ころ、4時台後半から飲み始めた薄めのコーヒー1杯の影響で排便した。前日は緑茶2杯とかコーヒー1杯を飲んでいたが、当然、足し算がかえって減算になる不条理で排便などなかった。

15時10分過ぎ、絵の練習記事に関連する作業の途中、俄かにソフトの操作が利かなくなり、画面が真っ暗になり、ポインターが普通のマウスカーソルとソフトでの表示のものとで交互に表示が切り替わるなど異常な挙動を示した。ポインターの表示も消えて10秒ほど真っ黒の画面(ディスプレイの電源が消えている状態か黒色を表示している状態かは不明)のまま、続いてログイン画面が表示された。謎の強制終了であった。絵の練習記事の作業は、記事の文章は自動保存やCookieの類が利いていて問題が無かった。画像も、新しく始めたばかりの作業のものであったため、損失して問題は無い。ただ、何の前触れもなく異常な現象を起こしてこられると安心できないし、こんな記録を取る作業に時間と体力を費やすのだから、迷惑極まりない。画面の中央最下部に謎の表示だけが残されており、これは"Prt Sc"などでデスクトップキャプチャをしても画像に反映されない。15時30分、またも俄かに画面が落ち、「問題が発生したため、PCを再起動する必要があります。エラー情報を収集しています。自動的に再起動します。」というブルーな画面に変わった。



2016/09/23

本日も0時台に一度目覚めて再度眠りに入ると2時ころであったろう。2:10の第一アラームの記憶は無いが、2:20の第二アラームまでは意識が付いていたようであるからそれが鳴った直後の2時21分には起床できた。3時台、右目のみから酷い痛みのような違和感を感じた。目が開けられない。涙が出てくる。これは数分ほどで引いた。4時10分台にも再発し、右の鼻腔の詰まりも感じた。前日はかなり涼しい日であり、あえてあまり部屋着トップスなどを重ね着しなかったが、そのために風邪を患ったというのか?いずれにせよ、目が赤くなるなど外見の異常は見られない。その後も断続的に強弱の痛みが発生する中で、右目の外見の異常も顕著になってきた。今までになかった頭痛も自覚する。

10時以降は、あのような症状の自覚も無くなった。本日は7時台から雨が降っていたようであるが、小学生の下校が見られるようになった15時過ぎには、日が射すようになっている。水たまりも多い中で日が反射し、私の部屋には見慣れない光の入り方が発生している。1階中から空の方を確認したが、どこにも虹は見られなかった。15時40分台にはまた日が隠れた。ところで、向こう数日の簡単な予定を立てた。本日の寝る前に下剤1錠を飲み、明日や明後日はカフェイン節制を行う。明後日25日の早朝に風呂(シャワシャン)を行う。これで26日にある保健士2名の来訪には問題が無くなる。正しく言い換えると、現状の懸念材料が無くなる、となる。下剤1錠は17時台に飲んだ。



2016/09/24

本日は2:40の第三アラームまでには意識が付いていたため、それを聴いて間もない2時40分に起床した。前日の余波と見られる右目の痛みは3時台や4時台にも発生した。5時台後半は、窓を開放してある自室で上着を着ていても11月くらいの寒さを感じた。6時台は朝になっても、本日の起床前にあった下腹部の鳴り以外は下剤1錠の効果が発現しない。

8時10分台から20分近く横になっていたようであり、8時33分からはPCをスリープして、10時までには起きようと意識した仮眠を始めた。結果は9時55分の目覚めで満足に至っていたため、10時までには起床できた。仮眠に例の如く、首や腰などに筋肉痛を感じるが、まあさほど酷くはない。腹が鳴らずして、空からゴロゴロとした音が鳴る。10時15分、近場かは不明だが、恐ろしい響きのある雷鳴が轟いた。これで口火が切られたように1分後、雨が強めに降り始めた。

13時40分から、ようやくまともな便意のためにトイレへ入り、長いもの1本など複数のものを出してきた。量は多めの方であるが、極度に多いわけではなかった。14時59分に母親と弟が車で外出を始めた。今も雨が降り続いている。16時2分に彼らが帰宅したが、マクドナルドに行っていたようであり、例の通り現地で弟の不手際に母親が腹を立てた様子であった。私にはハンバーガー2種と、初めてのマックシェイク(森永キャラメル味?)が与えられた。今年の母親のマック持ち帰りは、いつも普通のハンバーガーかチーズバーガーを1~2つしか買わない様子でいた(当然ポテト・ドリンク類は一度も与えられない)。そして、今夏はアイスを一度も口にしていない上、冷たい飲み物も冷たいまま飲もうとしなかったので、このマックシェイクは最もアイス感覚が強いものである。この雨の中・・・。



2016/09/25

本日は、前日の就寝時にマナーモード設定をしていたために4種アラームはみなバイブレーションとなるはずであり、実際に2:10の第一アラームはバイブレーションとして再生された。それを聴いたことによって目覚めたか不明だが、このときにしっかりと意識が付いていたため、このバイブレーションを停止して2時14分に起床した。なお、前日の19時台に、それまで夕食を食べる話をしていた弟と母親が喧嘩別れをした経緯があり、母親が1階でテレビを鳴らして居続けたため、耳栓を装着していた。この耳栓はバイブレーションが再生されたときにもしっかりと両耳を塞いでいた。

その前日の就寝時には母親にメールを送信していた(19時47分)。先の9月21日の保健所からの電話に関して疑問を書いてある。本題は「保健所の人が9月26日に私を訪ねる話は聞いたか?」であり、続いてついでに書いた「どうにもあなたは何度も電話を掛けられて一度も出ていないと聞かされた・別の業者からもあなたは電話に出ていないということで確認の書類が送られたようにあなたはどういう状態のために電話を出ないか?」という些末な説明的質問にのみ答えたようで22時33分と22時34分の2度にわたって返信された。1度目に、電話が出られないことについて「電話の調子が悪い・(着信音が)出ていれば出る」というどうでもいい話、2度目に「コミュファ光です。」とのみ私が「フレッツ光」と書き間違えた部分の正誤を示してきた。このような揚げ足取りしかできず、文章をその時その時の取り方(前半部分を無視している)でしか読めない人間には、いつも長文のメールを書く気にならないが、やはり今回もそのようである。これでは、保健所の件を承知したか確認が取れない。一応、肯定的に見るならば、私を訪ねる話は知っても知らなくても気にならないということであろう。全てにおいて信頼もできず、尊敬などできない母親には失意落胆・絶望しか残らない。

4時10分前から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時0分までに自室へ帰った。この時間帯に行う風呂(シャワシャン)としては久々に寒く感じられた。8時過ぎ、気づけば本日は晴れている。Yahoo!天気の投票も、当地・豊橋市で晴れている朝に100人超えの得票は珍しい。大雨の朝ならば割と有り得る。やはり不安定な天候の中での晴れ模様は、貴重に感じられよう。17時40分前からPC・Win10機の接続不良(アクセス不具合・障害)が発生し、18時3分に回復を確認した。



2016/09/26

本日は3時18分に起床した。11時51分に母親が発車した。12時40分ころからバスタオル等3点の洗濯を始め、これは13時14分に2階のバルコニーに干し出した。12時47分からPCを2階の母の部屋に持ち寄って絵を描いた紙のスキャン作業を始めた。今回は、従来のスキャンソフトであるMSペイントと違うものを試した。"BTScan"である。なぜスキャンに用いるソフトを変えたくなったかといえば、MSペイントを通したスキャン画像のサイズが、どうも私のデスクトップのサイズとモニタのインチを考慮した実際のA4の紙と同等のサイズにリサイズされてしまう仕様に気付いたからである。MSペイントでのこの問題についてインターネットで語られたページが見られない。これを検証すべく、別のスキャンソフトを用いたくなった。やはり、MSペイントの方で勝手にリサイズがされていたらしく、反面、この"BTScan"でスキャンを行うと、従来の1,XXX x 1,XXXという大きさが2552 x 3504という大きさへ、約2倍の増大を見せた。この"BTScan"は、スキャンする際にプレスキャンという、スキャンのプレビューを行える点も機能的であるし、動作も軽快である。今後もこのソフトを利用していく方針である。スキャンした結果の画像の色調がMSペイントの時よりも明るいが、絵の線に対してどのくらい影響が出ているかは精査する必要がある。

13時29分に豊橋市保健所の前回と同じ女性2名が訪問した。話を行う場所は自室のつもりでいたが、自室に案内できる雰囲気でもないし、部屋を見る目的は無い確認を取ったため、1階リビングになった。立ち話を5分以上続けていくうちにSがしゃがんでノートにメモを取り、数分後にはUもしゃがんでノートを覗き込み、私も立って見下すわけにはいかないからしゃがんだ。結局、正座するようにもなった。話としては、彼らが知らず、母親にとって知ってもらいたくない昔話が長引いた。今の生活のおさらいもさせられた。最後に次回訪問の都合に関して意見交換を行った。この時間は、45分続いた。細かい内容に関して一つ記すべきことは、彼女らの「お母さんの考え・○○くんの考え」という表現である。要は、両者の考えを尊重すべきであると思っている反面、私の考えに同意するつもりが無いという心境であろう。彼女らは、私が拒否しないか事態が進展しない限りは同じように訪問し、毎度同じような結果に陥ると考えてよい。

15時57分に母親の車が家に着いた。訪問について母親に聞かれたことを普通に話した。ほか、16時20分に母親に、私が洗濯物関連かスキャン関連で気になった母親のノートパソコンの起動を行った件について絡まれた。弟によってノートパソコンの表面が傷ついていたから出来心で起動したが、バレても構わないつもりでいた。それでバレて淡々と母親の質問に答えたが、先ほどの干渉でもこの干渉でも、一つ一つの言葉が冗長で母親のテンションには疲れる。不満を表した言葉はスルーしたり無機質な言い回しで答える。今の私は、特に母親に対してそう振る舞うことが今にも後にも最善となる。それまでこのPCをスリープしていたようで、Windows 10のPINによるログイン仕様のためにシステム再起動せざるを得なくなって作業を終了させねばならなくなったという話であり、作業の内容はともかく、これは同情してもよいかもしれない。不本意な強制再起動は4日前に私も経験したばかりである。

当記事注: 2017年4月中にdpiという単語がスキャンの際の仕様に関わるものと知った。ある人物が300 dpiの設定と表明しており、MSペイント標準は不明だが、BTScanは初期設定が300 dpiであった。同月10日のスキャンでは、400 dpiを選択して試用した。縦幅pxでは2552→3402と、3分の4(約1.33倍)に増えている。



2016/09/27


本日は3時19分に起床した。昨日とほぼ変わらない時間であり、4種アラームを聴いた感覚も2:50の第4アラームは記憶が残るなどしており、2日連続で遅い起床は忌むべき問題である。4時20分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時5分に自室へ帰った。9時前、母親から洗濯物に関して指示されたので返答したり簡単な質問を行った。9時1分に発車したが、直後、道路工事の人間にクラクションを小刻み鳴らしつけていた。

9時40分台、1階キッチンに9月19日から今もある野菜や果物の確認をした。ナス類は5つあって今まで私や母が2本ずつ使った経緯がある(私の使用は母に相談していない)。ほか、細いパプリカ系やタマネギ2種が多く残り、私がある日に1つずつつかって以後に母親は1度でも使ったであろうか?前日の夕に強く感じられたタマネギの臭いは、冷蔵庫に置かれている開封済みのローストオニオンの方ではないかと考えているから、前日に母親が使ったとは感じない。柿は冷蔵庫に1つあり、あまり熟れていないまま時間が経っているが、常温放置のものは多くが熟れすぎていて、元々青柿に近かった個体もオレンジが濃い。熟れすぎているために、表面がムニムニしている。しかし、これを腐敗とは思わない。個体によって元々ある損傷が目立っているものもあるが、そうでない限りはすっぱい臭いもなく、菌の繁殖を表面に見ることもない。

うち一つが実際に食べられることを証明したいので、手に取って包丁を入れた。やはりすっぱい味もしない。腐って酸っぱい臭いや味が発生する原理は、口内の糖分が酸に変わるプロセスと同じである。ヨーグルトがヨーグルトとなるプロセスも同様である。菌がエネルギー源となる成分を摂取して人間がCo2を排出するように、菌も酸を排出し、この酸がすっぱい臭いと味の元凶であり、腐敗の目安となる。すっぱくなく菌の繁殖も目視されなければ腐敗ではないし、果実であれば単なる成熟であるから、食中毒にもならない。特に柿ならば問題は無い。しかるに母親は一つの柿の全体を捨てたり、ナスにも大部分を捨てる処置があった。私はこの柿を小麦粉と混ぜて焼く。ところで、干し柿の製造法に納得もできた。渋柿のまま干し出して腐敗もせず、しっかり熟れて水分も抜けるから、この柿たちのようなだらしない状態にならず、皮も中身もおいしく食べられる。実際の知識で理解できたと思う。

13時30分に母親が帰宅したが、車の音には気付けなかった。8時台にT家の主人が車を出していたが、気づけばその車はすでにT家に戻っており、本日まともに再開された水道工事の影響で普段と違って簡単なケツ向け駐車がされている。母親は私に何らかの支持を出した後にまた外に出て工事の人に話しかけていたが、間もなく様子を感じられなくなった。その後は1時間ほど断続的に家の出入りを行う様子があった。15時40分、ラーメンを茹でていて感性が近い頃合いに母親から洗濯物を取り込むように言われた。何の不満もこぼさず承諾する私であるが、当然茹でている最中のラーメンは気がかりである。作業に関する質問までわざわざ行ってから急いで作業を済ませた。ラーメンは普通に食べ始めた。15時56分に母親の理不尽な干渉に無駄口を叩かずに応じて適当に従い、もっと無駄な小言には無視を決め込んでおいた。



2016/09/28

本日は0時台に一度目覚めて再度眠るも、続いて2時0分台に目覚めた。前日に2:20の第2アラームを、2:26の元・第3アラームと交代させて睡眠への影響を調べようとしたが、直接その時間に睡眠することがなくなって調査は思わぬ中断となった。2時9分に起床して2:10の第一アラームが再生される時を待ち構えておいた。2時30分ころに飲んだ下剤1錠などの効果によって5時10分ころからトイレに入って長めのものの数本を排出した。

5時40分から、とあるゴミ出しに行ったが、帰路で近所の店舗兼住居から最近(9月17日)の夕方にも一度見た中高年の男性が現れ、例の如く家の前をウロウロして気味が悪い。帰宅して部屋に入ると縦3mmほどの蛾が飛んでいて壁にくっついたため、直ちに処分すべく右手に殺虫剤、左手にティッシュを持ち、そのうちのティッシュで仕留めた。不条理の極みだが、一言も愚痴をこぼす気にならなかった。6時前から強めの腹痛を伴う便意でトイレに入り、下痢気味に変化してゆく軟便を出した。

8・9時台は母親が水道工事の人に絡んだかは不明だが、家の周囲で作業をしたり、玄関ドアを開けたままにする時間もあり、その後に水道工事の人から母親を呼び出すこともあった。騒音だとか車両通行に関する話かと思ったが、私は10時40分に断水が始まっている状態を確認したため、一時的に断水するという旨を伝えに来たと思われる。10時45分に母親が1階に降りてきたがまだ水道は通らないか、10時48分になって水道工事の人が再度母親をインターホンから呼び出し、水道を通らせた旨を伝えに来た。異常事態は続き、5分後にはそれまで大人しかった水道工事の重機が再度動き出し、3分後から母親も1階で掃除機をかけ始めた。このところ、毎日のように1階で掃除機をかける母だが、工事の音を紛らわしたいならば2階の自分の部屋が工事現場から遠いのだし、そこで大人しく過ごしてほしい。母は一緒に騒ぎたいだけの異常者である、と私も異常な考えを起こしたくなる。当然、毎度そういった極端な思考は、仏教を学び始めてから、一応感情で肯定しつつ、理性的には否定する。この区別は天才的である。

13時30分、開放していた窓を閉める際に、今までの明るい曇とは異なって外の暗さを感じたが、13時32分から俄かにバラバラと音が立つ雨が降り出した。



2016/09/29

本日は2:10の第一アラームが鳴る前から意識があり、何か脳内で考え事をしていて音楽を鳴らしたがっていたが、そんな時に2:10の第一アラームが鳴った。間もなく2時11分に起床した。

ところで、前日に一時的な断水から復旧した後のキッチンの水道水は、味に違和感があり、消毒剤が強まっていると見る。この水道水を沸かすと、洗面所の水ほどでもないが、いつものキッチンの水道水よりも消毒剤の臭いが強く感じられる。水道工事がどう原因を起こしてそんな結果となっているかは想像もつかない。これは日が明けた本日29日も続いている状態である。キッチンの水道水のカラン(?)は先月にこの家の竣工以後初めての交換がされ、新品となってから水質はともかく、色々と綺麗になったばかりであるのに、今は消毒剤に汚染された。今まで水道水を中心に飲んでいた私としては、「もう飲み水が無くなった思い」とまで言わないが、私の安定するところはこの世にあるはずもないと諦観を思う。水道水すらも満足に飲めなくなる私は生きていても他人より苦しまされる。

母親が7時台前半に弟の干渉や見送りを終えてから7時50分ころに1階へ降りてきた。8時40分ころから掃除機をかけ始めた。連日同じ場所に掃除機をかけていて尋常ではない。しかも、最中には「あいて!いたた!(今も腰痛が続いているか?)」などと声を発してもいるが、自ら異常行動を重ね続ける母親には憂慮しか感じない。9時ころはYahoo!天気の当地の投票で晴れの得票が100人以上を超す状態(さほど晴れていない)が続くも、10時50分台は明るい曇の中で俄かに雨が降り出した。



2016/09/30

本日は2:40の第三アラーム以後の2時46分に起床した。前日は23時前に目覚めたことがある。ひどく大きな音でテレビが流されていた。それ以前にも母親と弟の会話が聴こえたようだが、あれは夢だったのか肉声だったのかははっきりとしない。