例えば「美」は「美人(びじん)」というが、旧国名に「美作(みまさか)、美濃(みの)」、女性の名前(世代により男性にも)に「○美さん」など、多くが「び」ではなく「み」と発音される。
「母」も「父母(ふぼ)」というが、昔は「父母(ふも)」と発音され、同じく人名に「田母神(たもがみ)」などとその名残がある。
この「美」や「母」は、「び"bi"・ぼ"bo"」が漢音の読み方で、「み"mi"・も"mo"」が古風な呉音である。
この例は漢字の音読みであれば他にも「万」や「文」などがある。
「万」は多く「まん」との読みが用いられるが、「万物」「万年」など古くは漢音の「ばんぶつ・ばんねん」と読まれたが、この読みでは変換できない。
「万歳(ばんざい)」あたりは、かなり著名な例に挙げられる。
ちなみに、「万」を「まん」と読めば慣用音であって呉音は「もん」であるとされる(Wiktionary参照)が、「万=もん」の発音例は未知。
「文("ぶん"に対する"もん")」は「経文(きょうもん)」、「文字」などに残るが、後者は「もんじ」と読む場面もあり、使用頻度が上がる時代の中で「ん」だけ冗長とみなされ省かれたのだろう。
やはり人名などに「十文字(じゅうもんじ)」と残り、人名や地名にはこういった読み方がその命脈を保っていることは明確である。
漢音「ぶ○」が呉音「も○」となっている例は、「物("ぶつ"に対する"もつ")」が好例だ。
漢音「ぶ○」が呉音「も○」となっている例は、「物("ぶつ"に対する"もつ")」が好例だ。
要するに、一般名詞は漢音"B"の発音が多く、固有名詞は呉音"M"の発音が多い。
呉音が主流であった時代に成立した固有名詞ならば、特徴が残りやすいのだろう。
漢字においては「漢音・呉音の差なら当然だ」と思われる博学な方もいるだろう。
続いて通常の日本語の名詞・動詞・形容詞に見られる例も挙げる。
まず、小学生の時に何かの漫画のセリフで「さぶい」という言葉があり、その時「『さぶい』って、『さむい』のことかな?ヘンなの~」と思った記憶がある。
これも口語表現などで今もどこかの方言に残っているのではないか。
「さむ・さぶ」は、例えば漢字だと「三」が、今では「さん」だが、以前も書いたよう、「ん」が「む」に互換された撥音便であり、かつては「さむ」と発音されていたことがわかる。
「三位(さんみ)」は、この「さむ」が「い」に呼応した連声の読み方だ。
人名では「三郎さん」などに「さぶ」が残っているが、他は算数の九九において「3*6=18(さぶろくじゅうはち)」というものもあっただろう。
※余談だが「晋三さん」の三(ぞう)は「さむ→さん→さう→連濁: ざう→ぞう」という変化であろう。
※余談だが「晋三さん」の三(ぞう)は「さむ→さん→さう→連濁: ざう→ぞう」という変化であろう。
「む」や「ぶ」の訛りと見られるものは「被る(かむる)」や「煙(けぶり)」などもある。
「かたむく」と「かたぶく」に対する「かぶく」もこの例だろうか?
はっきり言えば、どっちから訛ったかは、現代の標準語を基準にするよりも、もっと昔の用例・・・文献や和歌などで判断すべきだろう。
すると、「かたぶく」などは古い用例がしっかりあり、標準語こそが後発のパターンも多く、寧ろ方言などに古い形が残っていることも多い。
結局源流からどう変化するかという違いであるから、何語が源流を継いでいたり、何弁が源流を継いでいたりするかはケース次第だろう。
ついでに、まだ載せてない動詞→えらむ(えらぶ)・とぶらう(とむらう)など。
「産毛・産湯・産土(うぶすな)」の"うぶ"も「産ぶ→産む」のように思える。
「産毛・産湯・産土(うぶすな)」の"うぶ"も「産ぶ→産む」のように思える。
少し検索して出たページ→「バ行とマ行の音韻交替」
最も分かりやすい例で「さみしい・さびしい」があることに一向に気付けなかった。
「さぶい」以前の幼い頃の疑問でもあったはずだから、まさに灯台下暗し。
もう一度「漢音・呉音」の話題に入るが、今度は難易度も上がるか。
「馬」は漢音で「ば・ま」という読み方ができ、「ば」は例に挙げるまでもないが、「ま」は稀有で「絵馬(えま)」、「対馬(つしま)」などがある。
仏教関連にはよりマイナーな「め」という呉音の読み方が多く、それが「馬頭(めず・ばとう)」や「罵詈(めり・ばり)」である。
ここまで来ると、初見では一度で正しく読める領域ではない。
「馬頭」は「馬頭観音」に対し、「牛頭馬頭(ごずめず)」というものがある。
「罵詈」は「罵詈雑言」に対し、「悪口罵詈(あっくめり)」と一部仏教の読み方があるが、この「悪口(あっく)」は「あくく」の促音便である。
「わるぐち・あくこう」は訓読み・漢音読みだが、「あくく」は呉音であり、漢音・呉音が「こう・く」となる同様の漢字は「公・工・孔」ほど。
これは特に本題と関係ないので戻す。
この「馬(ま・ば・め)」系の類似例は「米(べい・まい)」であろう。
馬と同様、漢音と呉音とでBM互換があるのみならず、子音もAとEで変わっている(ただし順序がそれぞれ逆)。
「玄米・精米・白米」に対して「米寿・米飯・米国」などがあるが、前者と後者の単語群で「米」の位置が明確に違っていたり、前者は米そのものの状態を表すという特徴も共通している。
「まい」系は「売」「ばい・まい」=「焼売」や「売僧(まいす)」があり、後者は某学会などで僧侶(坊主)に対して「売国奴」と似たニュアンスの蔑称として用いられている。
それはしなくてもいい余談だし、「焼売」については載せると紛らわしい例である。
「売僧」についても、「僧」を「す」と発音する例は未知な上、漢音でも呉音でもない。
ここまでは「ば・ま」、「び・み」、「ぶ・む」、「ぼ・も」の例を挙げたが、「べ・め」が互換される例は真面目に考えても何も浮かばない。
当記事を執筆するに至ったのは、この4月12日までに1週間ほど毎日のようにこのBM互換を意識していたからで、この際記事にすべきだろうと思い立ったことにある。
今までに「べ・め」の例もきっと浮かんだかもしれないし、そうでもないかもしれない。
よってこれは自然に浮かぶまで放置する。
漢音と呉音の例は他に「木・目」が共に「ぼく・もく」の読みを有する。
「木」は「巨木(きょぼく)」に対し「樹木(じゅもく)」などがある。
「目」であるが、これは「もく」こそ多かれど、「ぼく」の例を一つも知らない。
検索しても「瞬目(しゅんぼく)」ほどしか見当たらないようだ。
と思ったが、みんな知ってる単語に「面目(めんぼく・めんもく)」があるではないか。
「没(ぼつ)」は、私に馴染んだ例に「穏没(おんもつ)」があるが、検索すると他に「没日(もつにち)」、「没薬(もつやく)」などが見つかった。
検索する前に浮かんだフレーズに「没苦海(もっくうかい)」があり、これは何か経文に使われていたイメージだったが、それらしいページは何もヒットせず。
※時間が経ってから「没在於苦海」だとわかった。
※時間が経ってから「没在於苦海」だとわかった。
そろそろ簡単に羅列したい。
「漠」など「ばく・まく」=「砂漠・空漠」、同じ部首の字である「幕(まく)」は一般的にその読み方のままに日常的に使われる。
「漠」の部首「莫(ばく)」は経文で「諸悪莫作(しょあくまくさ)」とM音で読まれる。
「漠」の部首「莫(ばく)」は経文で「諸悪莫作(しょあくまくさ)」とM音で読まれる。
「微」など「び・み」=「微妙(びみょう、経文ではみみょう)・微塵(みじん)」
「亡・望」など「ぼう・もう」=「亡」が音符の「望」は「願望(がんぼう)・所望(しょもう)」
ここまでにしよう。
続いて、とても「やまと」的な上級の例を出したい。
冒頭に挙げた「母」という字を用いた地名に「天母山」というものがある。
静岡側の富士山麓の山岳名で、これを知ったきっかけがまた某教団関連のネタであるが、これは「あんもやま」と読む。
「母=も」は既述の通りだが「天=あん」とは、「天(あま)」が「母(も)」に呼応して「ま」が撥音化したものと見てよい。
ちなみに某教団でセットに言われる「天生原(あもうがはら)」は、「天(あま)」と「生(う)」で「あまう」、これを歴史的仮名遣いに見られる「あう→おう」と訛ったものと見られる。
英語でも本来ラテン語等で"Au"が「アウ」と発音されていたのに、「オー」と訛った例が多いだろう。(アウグスト・オーギュスト、アウストラロピテクス・オーストラロイドなど)
他に漢字の音読みを伴わない例で「此度(こだみ)」というものがある。
これも「此の」で「の」が撥音化するも先例の「文字」と同じく「ん」が省かれ、「度=たび」が連濁並びにBM互換され「だみ」となった。
「度」については元から「度=たみ」であったと見るほうが、古語の法則より自然か。
だが改めてこの「此度(こだみ)」を検索してみたところ、私がこれを知るきっかけとなった某ユーザーさんの投稿以外には、江戸時代の著名な作品の他に用例が乏しい。
某ユーザーさんは、江戸時代が好きなお方であるから、当該作品は愛読しているか。
それはおいても、「此度(こだみ)」はあまり頭に止めなくてもよい。
また、このような単語は当該作品等読んでいると山ほど見つかるかもしれない。
最後に、「瞑る」について「つぶる」と「つむる」の私見。
どちらが先に生まれたかといえば、断定できない。
日本語もとい「やまとことば」という概念を以て考える私には、語根が「つぶ」なら、「潰す(つぶす)」と同様のものだと想像が出来る。
だが、この「潰す」行為を表す動詞が生まれた当時に「つむす」と呼ばれていたかもしれない。
どちらが先に生まれたかの判断は、由緒ある言い伝えなり文献なりに精通した学者でもない18歳の在野研究の私に下せるものではない。
注意点を一つ、この日本語に於ける「語根」は、例えば「なぐ」という発音から「薙ぐ」、「殴る」、「投げる(eru外して投ぐ)」が生まれていることなどが顕著だ。
いずれも、腕を大きく振り回す動作が共通しているだろう。
追記: 2015年5月4日
BとMの互換性について長く例などを挙げてきた当記事だが、ここではBとMの相似性について気づいたことを追記する。
動詞が助動詞に呼応して変化する上で、やはりB・M系統のみに見られる現象がある。
「遊ぶ」や「進む」という動詞に、接続助詞「て」を付けた形は、共に連用形を経て「遊びて・進みて」とするのではなく、「び・み」を「ん」に変え、接続助詞「て」を濁音化させる。
そして「遊んで・進んで」という通常の形が生まれるが、B・M以外では「死ぬ」等がある。
これらはいわゆる「撥音便」と呼ばれている。
いずれも、腕を大きく振り回す動作が共通しているだろう。
追記: 2015年5月4日
BとMの互換性について長く例などを挙げてきた当記事だが、ここではBとMの相似性について気づいたことを追記する。
動詞が助動詞に呼応して変化する上で、やはりB・M系統のみに見られる現象がある。
「遊ぶ」や「進む」という動詞に、接続助詞「て」を付けた形は、共に連用形を経て「遊びて・進みて」とするのではなく、「び・み」を「ん」に変え、接続助詞「て」を濁音化させる。
そして「遊んで・進んで」という通常の形が生まれるが、B・M以外では「死ぬ」等がある。
これらはいわゆる「撥音便」と呼ばれている。
動詞の連用形+接続助詞「て」の形で「撥音便」が起こるのは、B・M・Nの音の時だと。
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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
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