2019年2月17日日曜日

現代日本語・口語における述語表現が変容して存在する文法 ~ 感情表現・幼児語の正統性

承前→「現代日本語・口語における述語表現の省略 ~ 経緯・場面 (scene) による相対性

英語(近代英語など)では、既述の通り、主語と述語が原則的に用いられる。
漢語(中古漢語など)も、述語の用法が目的語を伴った際に明瞭な傾向があり、漢文訓読からも理解できる(訓読語・中古日本語)。



現代日本語の「私は○○が好き」とか「私は○○が嫌い」とか「私は○○が怖い」とか「私は○○が欲しい」という表現は、いずれも形式上の述語が無い。
好き嫌い」は「好く・嫌う」の連用形を名詞化した言葉であり、「怖い・欲しい」は形容詞(ク活用・シク活用)である。
前者は名詞が文末に位置する点でいわゆる「体言止め」に当たる。
後者の場合、それぞれの形容詞を動詞に対応させると、自動詞の「怖がる」と他動詞の「欲しがる・欲する(文語: 欲す。求むに類比。欲するという気持ちの動性に約すれば自動詞)」である。
形態論的に、動詞の「怖がる・欲しがる」は、「こわ・ほし」のような語根"root"に「-がる」という接尾辞"suffix"が伴った語形といえる。
「嫌い(きら-)」は「嫌う=嫌ふ」の連用形であるために「嫌いがる・嫌がる(きらいがる・きらがる)」を作らず、「嫌・嫌だ(いや-)」は「嫌がる(いやがる)」を作るという、現代日本語での生産性"productivity"がある。
単に形容詞であるだけならば「川は流れが速い(この川の流れは速い)」や「スープは味が濃い(このスープの味は濃い)」は、その事実を表現した文章(その述語は形容動詞。英語はbe動詞を伴い、ラテン語はestのようなコピュラ動詞を伴うが、梵語は日本語と同じで標準的な動詞の語形を伴わない)であるか、その事実を認識した人による「~と感じる・~という感じがする(英語: I feel like...; It seems to me...)」という述語を秘めた表現である(この場合に主語はゼロ(zero; null)状態だが発言者自身"watashi, I")。それらはそう一括りにできる述語表現を持つ。近代英語の古語"methinks"という縮約形の言葉や、中古日本語の訓読語「=おもうに・おもんみれば・おもんみるに(ゼロ主語)」・「余のおもえらく(私が思うことは~)」といった慣用句・イディオム・副詞句"adverbial clause"・副詞節"adverbial clause"が語頭にあってもよい。

いずれも感情や精神的な現象を表現する際に用いられる言葉であることが興味深い。
「好き・嫌い」に存在動詞「だ=である(に+て+あり、の音変化。敬語: です・であります等)」を付けたり、「怖い・欲しい」に準体助詞と形容動詞を付けたり(i.e. 好き-だ、怖い-ものだ)すると、述語表現を伴った文でもある。
英語の目線では、ゼロコピュラ"Zero copula"の類と見ることができる。
上記文例の「好き・嫌い・怖い・欲しい」は、英語だと"to love or like, to hate, to scare or fear, to want or need"となる。
英文としては"I love it, I like it, I hate it, I scare it, I fear it, I want it, I need it"のようになる。
ただし、"I scare it, I fear it"は"to be afraid"のような存在動詞を伴った文"I am afraid of it"とも表現できる。
漢文としても概ね英文と同様のSVO(subject-verb-object)の構文で表現される(ただし吾也"It's me.", 我是~"I'm a **."のように通念上述語・動詞とされない助字を用いる)。
英文と漢文とには規範的な述語用法があり、英語では主語が徹底して用いられる傾向は既知の通り(元記事)である。



日本語の自動詞・他動詞に関する概説

そもそも、日本語の動詞には、語彙論"lexicology"・形態論"morphology"の観点で3種類が存在すると、私は考える。
それらは、他動詞と自動詞と自動詞の使役形(文法的に他動詞と似て非なるものと区分できるもの)という3種類である。
自動詞は「動く (-u ending)」、自動詞の使役形は「動かす (-asu ending)」がある。
「動く・動かす」は、いずれも英語において語形が同じ"to move (transitive/intransitive)"である。
「私は〇〇を動かす」ならば英語で"I move **."となるが、「私は〇〇を動く」という言い方は直訳できず、「私は○○の場所から動く(離れる)」という意味合いに解して英語で"I move from ** (I leave **)"となるか、「私は○○の上で動く」という意味合いに解して英語で"I move on **"となる。
英語は前置詞で間接目的語や補語を作ることで、"to move"が他動詞であるか自動詞であるか、判断しやすくなっている。
後述のサ行変格活用(サ変)の動詞である「移動する」は、英語の"to move"のように他動詞でも自動詞でも用いることができる。「動く」は、既述の通り自動詞のみしかない。
「-あす語尾 (-asu ending)」は「-す」という古文の助動詞に由来するであろう。古文の助動詞「-す」は動詞・助動詞の未然形に付き、使役の意味を作る助動詞である。古文の尊敬語で「おわす"owasu"(歴史かな: おはす ofasu; opasu)」や「まします"mashimasu"」のように「-あす(-asu ending)」もとい「-す」が見られる。「~せたまふ(してくださるという尊敬語であり使役の意味は無い)」や「~あそばせ(現代の役割語)」にある「せ」は、その活用がなされた形(未然形か連用形)である。

他動詞の例は、自動詞に相対する形で「消す"kesu"(消える、に相対する)」がある。
「消す」に相対する自動詞である「消える"kieru (文語の下二段活用の終止形: 消ゆ"kiyu")"」は「-える語尾 (-eru ending)」であり、これは元々、古文の助動詞である「-ゆ(自発・可能・受け身などの意味 e.g. 見ゆ⇔見える)」に由来すると思われる。
一方で、その「-える語尾」と発音が一緒でも語源が異なるものに、他動詞である「変える"kaeru"(文語の下二段活用の終止形: 変う・変ふ"kau, kafu; kapu")」がある。
これは「変わる"kawaru (歴史かな: 変はる kaf-aru; kaparu)"」という自動詞や、「変えさせる"kae-saseru"(文語の下二段活用の終止形: 変えさす "kae-sasu"または変えせしむ"kae-seshimu")」という自動詞の使役形に相対する。
その英語"to change"は"to move"に同じく、他動詞と自動詞のどちらでも用いられる(私は○○を××に変えるor変えさせる⇔私によって〇〇は××に変わる)。
日本語でいう他動詞も自動詞の使役形も一様に"transitive (他動詞)"として区分されるが、日本語では「変える・変わる・変えさせる」という三種が並立する以上、日本語学の内にこの三種を語形の論理(語彙論・形態論)として立てる必要がある。
「〇〇が××に変えさせられる」や「本が読まれる・〇〇は(彼にとって読まれたくない)本を読まれる(後者は自動詞の受動態="adversative passive")」や「泣ける・泣く・泣かせる(下二段活用: 泣かす)」に対する「泣かれる(自動詞の受動態="adversative passive")」等の受動的な表現(受動態"passive voice")はここで含めない。
自動詞の使役形である「変えさせる」を英語に直訳する場合、同様に自動詞のchangeを用いればよい。「私は彼を変えさせる」ならば「私は彼が変わるようにさせる」と改めて"I make him change."のようにする。この時の"to make"は二重他動詞"ditransitive"用法であり、これは日本語における自動詞の使役形を作る「~あす語尾(-asu ending)」に類する。英語版Wiktionary - makeにも"You're making her cry. (あなたは彼女が泣く-状態-にさせている=あなたは彼女を泣かせている)"と例文を載せている。その役割は、「自動詞の状態にさせる」ということだが、「自動詞の行為の原因を作る」こととも言える。

「泣く」は自動詞なので、本質的に受動態は無い。誰かが泣くことはその人の精神と肉体に終始していて他者が被動者"patient"として行為を及ぼされる道理は無いためだが、現代日本語では「泣かれる」という受動態の述語表現が有る。つまり、誰かが泣くことによって主語・ゼロ主語の人物が被害を受けること"adversative passive (被害受身 negative passive; 間接受身 indirect passiveとも)"であると言える。これは"adversative passive"の文法を持った日本語ならではの受動態である。「○○は雨に降られる」といえば、「雨が降る(雨が意思を伴って自身を降らす・降ろすわけでないが)」という自動詞の現象を見るなど五感で受け、○○=文の主体事物"subject of the sentnce"は何らかの被害(金銭や外見を損なうとしても究極的に精神的な被害)を受ける(他者であればそういう同情をする)ということである。"adversative passive"の受動態動詞は、元が自動詞である場合にこそ、有り得る。そのために「○○のいる時間のその場所で雨が降った」という事実認識の表現とは別に、「○○は雨に降られた」という自動詞の受動態という表現をする。また、被害を受けるという意味合いは基本的なものであり、もしそこで文が終わらずに別の節"clause"に接続されるならば必ずしもその文意に繋がらない。例えば、Alfonso, A. 1966 (Japanese language patterns: A structural approach)にA「綺麗なお嬢さんに泣かれるとちょっと嬉しいものだ"It's kind of nice when a beautiful girl cries because of you."」やB「風に吹かれながらショーウィンドウを覗いて歩く"I walk along in the wind looking at the shop windows."」という例文が挙げられているそうだが、これは「泣かれる"と"」や「吹かれ"ながら"」として接続助詞"conjunctive particle"「と・ながら」が伴って別の節"clause"になっており、被害を受ける表現には繋がっていない。添えてある英文は、そのAlfonsoか誰かによって取られた意味であり、必ずしも正確でない。「綺麗なお嬢さんに泣かれると、それが私or誰かにとっては嬉しい気持ちにさせるものだ」という主観的な意見の提示が主節"main clause"になってしまい、受動態の述語が従属節"subordinate clause"に追いやられている。もしBの文の語彙のまま従属節と主節の立場を変えるならば「私が歩いている"と"風に吹かれる」という文末・主節の自動詞受動態たる"adversative passive"となる。例文A・Bは、文末・主節・独立節"independent clause"の自動詞受動態たる"adversative passive"と明確に異なる。つまり、Alfonso例文Aのように「綺麗なお嬢さんに泣かれると(私は null-subject)嬉しい」と感じる人もいるという意味に限らず、「綺麗なお嬢さんに泣かれると(私は null-subject)困る」という意味にもなりえる。同様に「私の愛人に送る手紙が(を)愛人に読まれると私は嬉しい」とか「私の愛人に送る手紙が(を)その他の者に読まれると私は恥ずかしい」という二者(orそれ以上)が有り得る。要するに"adversative passive"は、文の主体事物(主語かゼロ主語)が、その「される(受動態・所相の述語)」ことによって、究極的に当の主体事物=人物の精神において目的に適えば嬉しく、目的外であれば困る感情表現であるといえる。そのように複数の節を用いることで、「このことが(を)ケンに知られるとユータは喜ぶがケンは悲しむだろう」という二種類を込めた言い方もできる。受動態の用法によって「読む・知る・聞く」も、英語の"to readto knowto hear"のように他動詞のみならず自動詞の用法も有ると分かるし、日本語では助詞と節のありようで"adversative passive"を作ることができる(「泣かれる」が「お泣きになる」という敬語・尊敬語の用法は排除した上での話)。なお、自動詞が自動詞である原理(行為とその対象範囲の同一性の自覚)を応用すれば、一切の他動詞は自動詞の用法を得るが、この話は哲学的なので(cf. ātman 自己 ātmanepada 自動詞or受動態or中動態 インド哲学とサンスクリットの文法理論の相違性や類似性に関する話)さておく。

簡単に好例でまとめてみよう。「立つ」は自動詞であって「う語尾 (-u ending)」である。「立てる」は他動詞であって「える語尾 (-eru ending)」である。「立たすor立たせる」は自動詞の使役形であって「あす語尾 (-asu ending)」もとい使役・尊敬の助動詞「す」に由来する。これらは動詞の3種の区分にあり、私は受動態を省く。「立たれる(文語終止形: 立たる)」は自動詞の受動態(受身の形)であり、「立たせられる」は他動詞の受動態であり、「る語尾 (-ru ending)」もとい受身・尊敬の助動詞「る」に由来する。前者=自動詞の受動態は主に"adversative passive"用法である。「立つ・立てる・立たす・立たれる・立たせられる」といった動詞は、形態論でいえば"to stand"の意味のある「tat語根or語幹 (tat- root or stem, 語根であれば√tatとも)」を共通して有する。

サ行変格活用(サ変)の動詞は、漢語・漢文の原義からすれば、自動詞・他動詞いずれも有り得る。
五段活用(文語: 四段活用)「貸す"kasu"」と、サ変活用「化す・課す"kasu"」とは、動詞の発音が同じでも、後者が漢字の音読みに由来するため、本質的に異なると知った方がよい。
i.e. =呉音・漢音「タイ tai」訓「か-す ka-su」、=呉音「ケ ke」漢音「カ ka」、=呉音・漢音「カ ka」 五段活用(文語: 四段活用)「貸す"kasu"」は終止形と連体形が同じだが、サ変活用「化す・課す"kasu"」は終止形が「-す」で連体形が「-する」と異なっている
「貸す」は「借りる"kariru"(文語: 借る"karu"。文語では四段活用だが後世に下二段活用と混同されて下一段活用になった cf. 飽きる⇔飽く)」という他動詞に相対して自動詞の使役のみであると分かるが、「化す・課す」のうち「化す」は「彼は○○と化す(文語的)・彼は〇〇に化ける=化ける(自動詞の使役形ならば"化かす"がある)」という英語"to change"の自動詞用法に当たる用法も有ることを知るべきである。
「変化する"henka-suru"(文語: 変化す、仏典の語で"変化す henge-su"とも言える)」というサ変動詞は変化させるという他動詞の意味も担うはずが、現代日本語では語源意識が希薄なので、文字通り「変化させる」という自動詞の使役形がある。訓読語であっても「変化せしむ"henka-seshimu"」と言った方が伝わりやすいかもしれないが、それであれば元の漢文に「令〇〇変化(令〇〇變化)」とあったほうがよい(訓読: ○○をして変化せ令む)。

現代日本語の述語はその3種の動詞に加え、4番目の位置づけとして文法的に述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉(動詞連用形由来の名詞・形容詞)が挙げられる。
「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉は感情表現の述語に用いられる。
なぜ「○○は××を好く・嫌う・恐れる(文語終止形: 恐る)・欲する(文語終止形: 欲す)」という他動詞の類で画一的なSOV構文で済むところを、「〇〇は××が好き・嫌い・怖い・欲しい」と言うか?
日本語で古代からどのような文・センテンス(文章的な構造を持った言語表現のことであって必ずしも記述された文章である必要はない)が話されてきたかは知り難い。
私は、これが婉曲的な言い回しであるように感じている。
婉曲的な言い回しとは、例えば、「する」という意思による行動をあたかも自然の成り行きであるかのように「することになった」と言う。謙遜表現・謙譲語で「いたす・いたします」という意思による行動をあたかも相手の了承が得られていることを決めつけるように「させて頂く・させて頂きます」と言う。これは他の現代日本語の特徴に似ている。これはまた、結果であれ過程であれ日本人の、その価値観と関連する(少なくとも「することになった・させて頂く」は他国の言語に見づらい表現)。これはあくまでも筆者の私見であり、筆者による類比である。現代日本人の大半は、どんな表現であれ、意味論的に認識して用いず、専ら役割を持たせた語用論としての形骸化した言い回しで用いることに注意すべきである。



グルジア語との比較・類比

南コーカサス語族(カルトヴェリ語族)に、グルジア語(ジョージア語・カルトゥリ)がある。
グルジア語は能格言語や活格言語のようであり、分裂能格"split ergativity"を持つ。主語・目的語に付随する標識(マーカー"marker")の用法のことである(格接辞や日本語の格助詞に相当)。それにより、自動詞や他動詞やそのほかの動詞に関する文法的な位置づけが明瞭になる。グルジア語の場合は標準的に主語が日本語や英語と同じ主格であるが、他動詞が完了相または完了時制のようないわゆる過去形の時に限って主語に能格"ergative case"の標識が付く。能格性は他のコーカサス諸語(南・北東・北西の各語族)にも顕著(南は分裂能格のみで北東はチェチェン語などが能格言語で北西はアブハズ語などが能格言語)である。また、動詞の活用にはラテン語や梵語や古代ギリシャ語と似た行為者の一人称・二人称・三人称の区分が徹底されるが、被動者(patient)の標識を含めて一つの動詞とする点(筆者は学習不足なので不明)で、抱合語のような特徴にも注意を置くべきである。

英語版Wikipedia - Georgian verb paradigm記事には、"Georgian has four classes of verbs: transitive, intransitive, medial and indirect verbs"とある。
transitive と intransitive と medial と indirect という4種類の動詞を挙げている(Hillery, THE GEORGIAN LANGUAGEのサイトと類似の内容)。
このうち、"indirect verbs (直訳: 間接動詞)"について注目したい。
グルジア語の文法でも、感情表現の述語もとい動詞が普通の他動詞や自動詞とは別物と区分されているようである。
ただし、それは日本語の文法的に述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉と異なり、普通の自動詞や他動詞と同様の活用を持つ。
その記事のClass 4 (indirect or 'inversion' verbs)節から少し、引用する。
Class 4 (indirect or 'inversion' verbs)
  • This class of verb is known as indirect or 'inverted' as it marks the logical subject with the indirect object marker set (m- set) and the direct object with the subject marker set (v- set). Nouns are declined in agreement: the logical subject is in the dative, and object in the nominative (or sometimes genitive, as in gogo-s (dat.) dzaghl-is (gen.) e-shin-i-a - the girl is afraid of the dog).
  • Verbs in this class denote feelings, sensations and endurant states of being (see also stative verbs), including verbs such as q'av - to have (X, animate), kv - to have (X, inanimate) q'var - to love and nd - to want.
  • Class 4 verbs also include 'desideratives' (verbs of desiring), created using the circumfix e- --- -eb (compare tsek'v-av-s 'he dances' and e-tsek'v-eb-a 'he feels like dancing').
The verb paradigm follows. For simplicity, the verb form always assumes a 3rd person singular object: Verb root q'var - to love (筆者注: 前class 1から3では不定詞の形"infinite form"が併記されていたがここにはそれがされていない)

この区分のグルジア語の動詞の文例に"გოგოს ძაღლის ეშინია. The girl is afraid of the dog. (英文の逐語訳: その少女はその犬について恐れている。 意訳: 少女は犬が怖い)"を挙げているし、他の語彙として"to love"や"to want"を挙げている。
"to have"に関しては恐らく「私には○○がある」と言う時の"I have *** (直訳: 私は○○を持つ)"の意味を指すものと思われる(cf. ラテン語: *** mihi est. 文法上の主語である***が3人称の単語であるためその述語の動詞「ある」はestのような3人称の活用となる)。
その区分の動詞の活用を示す際に動詞語根"q'var (グルジア文字: ყვარ)"を例示している。
これは英語で"to love"、「愛する」という意味である。
「愛してるよ」・「君のことが好きだ」という日本語を英語で"I love you."というが、グルジア語では"მიყვარხარ miq'varxar ミクヴァルハール (mi-q'var-xar ミ・クヴァル・ハル)"となる。
q' の字(qにアポストロフィ。別の翻字体系でq̇)で表されたグルジア文字" (ムヘドルリ体)"はq'ariといい、無声口蓋垂放出音(音価のIPA: [q'])である。単語例"მიყვარხარ"に対して慣用的なカタカナ表記を付したが、後でインターネット上の音声を探すと、一例には「ミグヮルハル(migwarhar)」のようにV音が接近音か唇音化 [ʷ] らしく聴こえる(前の音ყ = q'と合わせて有声口蓋垂ふるえ音 [ʀ] にも聴こえる)し、無声口蓋垂放出音は有声軟口蓋破裂音 [ɡ] のように聴こえる。まあ「愛している"a-i-shi-te-i-ru"」を「愛してる"ai-shi-te-ru"」のように発音する現代日本語と同じように口語的な簡略発音(母語話者にとって他に弁別される類似発音の語が無く形式的に聞かれるフレーズを想起しやすいため)は有り得ると思われる。また、その例と他の例はともに代名詞"I, you"に当たる主語と目的語とを先に言って"მე შენ მიყვარხარ (me shen mi-q'var-xar メ・シェン・ミクヴァルハール)"としている点、「僕は君のことが好きなんだ(我、汝を愛す)」くらいに具体性を伴っている。"pronoun drop (pro-drop)"の類である。

これらを便宜的に"Class 4"と位置付けて"Verbs in this class denote feelings, sensations and endurant states of being (see also stative verbs)"という。
また、"Class 4 verbs also include 'desideratives' (verbs of desiring)"といって「~のような感じだ(~のような感じがする feel like ***)」という表現も含まれるという。
このグルジア語の動詞の位置づけの一つは、日本語の述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉に近い可能性が有ることを付記する。
関連する言葉は日本語も英語もグルジア語も概して自動詞のようだが語源が他動詞である表現かもしれない。
英語には先例の"to be afraid... (その例文: ワンワン怖いよぉ)"以外にも"to be shamed... (e.g. 人前は恥ずかしいよぉ)"がある。調べてみると、中英語以前(-12世紀)はもう少し、多くの動詞は今ほど他動詞が多かったわけでないという情報もある(cf. 鈴木, 2014とそこに示される中尾, 1972や大沢, 2000)。古英語やゲルマン語の古層に関して、興味が有れば調べてみるとよい。

この英語版Wikipediaの記事は、出典に乏しく、文献の参照の程度が不明瞭であるものの、書いてあることをそのまま信じれば、グルジア語の動詞は4種類あり、現代日本語の4種類の述語表現(他動詞・自動詞・自動詞の使役形・感情系述語表現)と綺麗に対応しそうである。
何らかのグルジア語学習の教材にも、恐らく同様の説明がされていると考えてよい(cf. 横井, 2000 グルジア語概観およびHillery, THE GEORGIAN LANGUAGEおよびAronson, 1990 pp. 332-369 Class 4についてはローマ数字でIVという表記例も多い)。
他の比較対象に、いくつかの西洋言語を取り上げてもよいが、扱いに困る。「私は××が好きだ"I like ***"」という表現は右のようになる、という例示のみをしよう。フランス語"Il me plaît ***", ドイツ語"*** gefällt mir", ロシア語"Мне нравится ***" これらのうち日本語文の「私は」にあたる語は、みな与格"dative case"(fr: me, de: mir, ru: мне)であり、そのような構文で共通している。グルジア語の文例で"გოგოს ძაღლის ეშინია (その少女はその犬について怖がる⇔その少女へその犬が怖がらす?その少女にその犬が怖がらせられる?)"も同様である。これらは与格構文"dative construction"だといわれ、本来は間接目的語に使われるような与格が英語や日本語の文における主語になっている(斜格主語"quirky subject; oblique subject")ために倒置構文ともいわれる。ただし、上掲の例におけるフランス語などの文の人称代名詞の与格用法と、グルジア語の文の名詞の与格用法とがどれほど類似しているか、筆者には判断しづらい。



感情表現・幼児語の正統性

「好き・嫌い・怖い・欲しい」という人間の感情は、あらゆる動詞に同じく、文法の規範によって表現できるものの、人類言語の原初(単一発生の場合も不干渉複数発生の場合もあるがそれはどれでもよい)には文法の規範が確立されていなかったろう。
心の現れとして、感情表現のために言語が用いられた当初、どのように動詞概念が有ったろうか?
自然の事象と、自覚された感情との二者は、どのように類似するものとして理解されたか?
古代の言語について考えなおす判断材料になると思う。
文法の規範や論理性を重んじる人や、英語中心主義の人は、現代日本語・口語の表現が稚拙で乱れたものと考えるであろう。
確かに漢語・印欧語など、文献的には紀元前から発達していた文明(例証として日本語よりも古い時に作られた文献が多い)で用いられる言語は、それだけの言語的な質・量を得ている。
しかし、それ以前の印欧祖語の存在性は不明確であり、印欧祖語以前の同型遺伝子の民族や同時代の他の民族において、どのような言語が用いられたかは、全く確証が無い。

cf. 元記事 述語省略の例文「お姉ちゃん、お菓子(人物への呼びかけ + 何らかの名詞)」
あるいは複合語「お姉ちゃんお菓子」としての解釈
依士釈(タットプルシャ)「お姉ちゃんによって調理されたor創作されたお菓子(お菓子byお姉ちゃん)」 「お姉ちゃんが有するお菓子(お菓子ofお姉ちゃん)」
持業釈(カルマダーラヤ)「お姉ちゃんという名のお菓子(お菓子theお姉ちゃん)」 「お姉ちゃんのような見ためor味or香りのお菓子(お菓子likeお姉ちゃん)」

もし何らかの言語がそれらの先史時代の民族に用いられていてその言語を推定したいならば、古今東西の言語を学び、知悉する必要がある。
英語において、主語・述語・目的語に関する規範的な用法でさえも古英語のころからが有ったか、最低限、残っている文献("Beowulf"など)だけでも読んで理解されるべきことがある。
言語に興味を持つ者にとって、課題がまだ多い。
私がいつもこの意志を保てるわけでないにせよ、かなり課題が残されていると自覚する。






起草日: 20190203

元記事と同様に、絵・音楽・執筆にブランクの傾向がある中、当日(上記日付)、俄かに記事の案が浮かんで必要相当にまとまったため、起草し、6,000文字ほどを打った。
中卒無職(22歳)である私が、向学心によって学問を進めている。
エリート主義・権威主義的には「学問に置けない・不倶戴天の存在」かもしれない。
例えば、野良犬が狂犬病(rabies)などの伝染病(epidemic)を媒介したり、農作物・備蓄の食害を起こすことで、現に人間の生活(住環境や家畜の生育)に害をもたらすようなものである。
これは野良犬についての偏見と人間的な功利性を伴うが、あくまでもそれを認識した上での譬喩である。
「野良犬にも似た私の学問」が、エリート主義・権威主義的には忌避されると思われる。
私は学術用語・概念をどうにか駆使し、「野良犬かつ雑種犬が新しい血統の犬種と認められる」かのような努力を続けられるとよい。

本文中の※印注釈に関連した備考→『受動態(受け身・受身)・被動者の英語はラテン語由来の"passive, patient"である。いずれも語頭pa-であるしラテン語の語源(不定詞: pati 苦しむこと)が共通している。ところが、日本語の漢字名称は語頭の字が受・被で異なっている上に、受身は「うけみ」という訓読みである。"adversative passive (indirect passive)"に至っては「被害受身 (間接受身)"ひがいうけみ (かんせつうけみ)"」などとちぐはぐな読み方・ハイブリッド読み・四字二分重箱読みをしている。中国の言語学もとい語言學(simp. 语言学)では"passive, patient"が「被動語態・被動者」として訳語の語頭の字が「被(bèi ペイ)」で共通する(ピンインb-字の発音はラテン語の無気p-発音と同じ。語頭の子音が合う点も音義借用翻訳のようで好ましい)。またしかし"adversative passive"を「被害受身」とすると日本語における重言のようでもあるし、ここは「損害被動"そんがいひどう"(indirect passiveは間接被動"かんせつひどう)"」でよかろう。する・されるという概念は大乗仏教中国仏教以来、能・所(のうじょ)という対立概念の名にもなっていて言語学の相・アスペクト"aspect"にも能相・所相という名称があるのだから、能動態に対して所動態(しょどうたい)という名でもよい。受動態も中国のように被動態と改めるべきだ。つくづく日本の言語学における訳語には疑問を覚える(cf. 同格"appositon"⇔格"case", 内破音・入破音"implosive consonant"漢語伝統音韻である入声と語頭の字が同じだがに関係ない音。入声は[p̚] [t̚] [k̚]の無開放閉鎖音"unreleased stop"とされていてそれを内破音だと言い出す日本人学者もいるので紛らわしさの極み)。受身(うけみ)という訓読みの語はごく日本語の文脈に限って使うべきで英語概念の訳語には合わない。上代~近世までの仏教国・日本での漢語用法からしても「被動」や「所」でよいし現代中国に譲歩する考えもよい』

今回の記事のパーマリンク"indirect verbs"に関連したラテン語(由来)の文法用語"verba sentiendi"(verba: 名詞・中性・複数・主格 + sentiendi: 分詞・中性・複数・属格、意訳: 情緒動詞・感覚動詞), "verba affectuum"(verba: 前に同じ + affectuum: 名詞・男性・複数・属格、意訳: 感情動詞), "verba habendi"(verba: 前に同じ + habendi: 分詞・中性・複数・属格、意訳: 所有動詞)
軽い造語→"verba irregularia"(verba: 前に同じ + irregularia: 形容詞・中性・複数・主格、意訳: 不規則動詞)

今回、何となく目についたグルジア語(ジョージア語・カルトゥリ)を引き合いに出したが、これは対照言語学的な手法として可であろうと私は考えている。
個人的な学問のための今後の展望として、日本語・漢語・印欧語(地理的にはフィンランド語・ハンガリー語・バスク語を含む)以外にも、グルジア語ないしコーカサス諸語をはじめとした膠着語・抱合語系統に対する学習を進める必要がある。
グルジア語ないしコーカサス諸語を対照言語学の中心にする場合、オーストラリアのアボリジニ系の言語群や、アメリカ大陸のマヤ系だったか西海岸北部とかだったかの言語群も引き合いに出した方がよいと思われる。
ユーラシアを超えた言語学習・研究・考察のための、意思がまだ無い。
どれほど、広い規模の言語が対象となるかと思うと、広いようではあるが、所詮は一球体・グローブ単位のグローバルであり、人類単位のユニバーサルである。
つまり、地球上の現生人類全体かつ単一人類(Homo sapiens sapiens)における共通性や普遍性の探求であることを意識すべきである。

2019年2月3日日曜日

現代日本語・口語における述語表現の省略 ~ 経緯・場面 (scene) による相対性

〇少し前置き

日本語で「何これ・これ何 vs. これは何ですか?」というような述語(動詞が文の必要な構成要素となる在り方)を欠いた表現の許容は、古今東西、見られよう。
梵語(サンスクリット及びパーリ語をはじめとした古インド・アーリア語)では、存在動詞やコピュラ動詞(梵語asti, ラテン語est, 英語isなど ある・いる、である・だ・なり)が額面的に用いられない文が多いことは日本語と似る側面がある(梵語の典籍からは基本的にコピュラ用法が見られない)。
また、梵語では、動詞の派生語で本来は述語たりえない分詞のうち、過去分詞(厳密には過去受動分詞"past passive participle")をそのまま述語のように使うことも多い(英語で過去分詞"past participle"は必ずbe動詞・コピュラ"copulative"・存在動詞を伴う。他の場合は単純過去形"simple past"と語形が同じことが多いのみで過去分詞と単純過去形は別の文法概念)。

今回はそれらのことと比べて、より日本語における「文法的単純さにおける多義性」が窺える例を探ってみる。
「述語表現の省略"omission of predicate"」がされた日本語の表現からは、存在動詞やコピュラ動詞以外の動詞の意味を見出すことができる。



〇表題の通りの話題

現代日本語・口語では述語表現を省いて「〇〇は××」や「〇〇(呼びかけ)、××」という文例が多く見られる。
そのうち、しばしば「ウナギ文」として「ぼくはウナギ(だ)」という文例が挙げられることは、「ぼく」という一人称代名詞=話し手が「ウナギ」を目的語に取り、その目的語「ウナギ」を要求するという文脈で解釈されている(I order unagi; eel as food)。
つまり、飲食店で「ウナギ(うなぎのかば焼き・うな重など)」の料理を注文するという場面で用いられたならば、当然その意味で解釈されることが自然であるという。
そのような場面が想定されるならば、よりシンプルに「ぼくウナギ」とか「ウナギ!」とだけでも通じてしまう(ただし「ウナギ!」だけでは先に他の人から「あなたの注文は何か?」という趣旨の問いが向けられねば発話者自身がそう発話することは一般の言語能力から発生しづらく思う)。
この場合、省かれた述語は「~を要求する・~を求める・~を注文する(~が欲しい)」と想定される。

また、簡潔な自己紹介や他人を紹介するフレーズの場合に「ぼくは××」、「わたし××!」、「あいつ××」など(助詞"は・が"の有無は口語が用いられる場面ごとに分かれるためここでは不問)と表現される。
この場合、省かれた述語は「~だよ(である)=~という状態の人物である(I am... 他)、~という名である(My name is... 他)」と想定される。

それに限らず、現代日本語・口語では述語表現を省いて「〇〇は××」や「〇〇(呼びかけ)、××」という文例が多く見られる。
どのような状況でどのような述語が省かれたか、個別に考察されるべきである。
「〇〇(呼びかけ)、××」とは、「お姉ちゃん、お菓子」とか「父さん、お酒」とかとなる。

「お姉ちゃん、お菓子」とは、肉親としてのお姉ちゃん(血縁関係が有る者)であれ近所のお姉ちゃん(血縁関係が無い者)であれ一般的な年上女性のことであれ、話し手が「お姉ちゃん」と呼ぶ人物にお菓子を求める言葉になると想定される。
しかし、反対に、話し手が「お姉ちゃん」と呼ぶ人物に対してお菓子を捧げる意思表示とも想定される。
前者であれば、省かれた述語は「~を要求する・~を求める・~を注文する(~が欲しい)」となる。
後者であれば、省かれた述語は「~をあげる・~を与える・~を捧げる(推量・希求の形~を与えよう、でも可)」となる。
想像図「前者・後者」
後者は呼びかけの対象とされた人物・事物の名を主語に変えて「〇〇は××を受けよ(受動態命令形"passive, imperative mood")・受くべし・受くべきなり(受け身の推量形または動詞的形容詞ジェランディブ"gerundive")・お受けください・受け取りますように(受動態願望法・希求法"passive, optative mood")」のようにしてもよい。
いずれにせよ、やはり実際に用いられる言葉ならば、当然、その場の経緯が重んじられ、その場限りの意味で取る必要がある。

ここでもし、「お姉ちゃん」と呼ばれる人物が、前者とも後者とも解釈せずに「お姉ちゃん、お菓子」という言葉を、冒頭にも挙げられた「存在動詞やコピュラ動詞(ある・いる、である・だ・なり)」を補って「お姉ちゃんはお菓子(という存在)なんだね」と解釈して「お姉ちゃんはお菓子じゃありません(お菓子という存在ではない)」などと返答したらば、話し手にとって予期しない反応である。

「父さん、お酒」についても、後者の場合とその解釈で省かれた述語は「~をあげる・~を与える・~を捧げる(推量・希求の形~を与えよう、でも可)」となろう。
話し手が「父さん」と呼ぶ人物に対してお酒を与えようとする(容器に注ごうとする)ために言葉を発するならば、その「父さん」が用いる酒の器(お猪口・グラスなど)を差し出すように頼む言語表現ができる。
つまり、「父さん、器(お猪口・グラスなど)」と言えば「父さんたるあなたは器(お猪口・グラスなど)を差し出してください」という意味で解釈される。
ただし、その場の経緯が同じである時、反対に言語表現は前者のパターンに変えることもできる。もし、一連の行為が餅つきのように頻繁に反復されるならば、もっと単純な「とうさけ(略とうさんおさけ)」という記号的表現が可能である。
究極的に、「はい」とか「それ」とかという1・2音節程度の語でも問題が無い。



「〇〇(呼びかけ)、××」の例を二三に挙げたが、この「××」は物品・物体の名詞に限らず、動詞由来の名詞・行為名詞(nomen actionis)にも適用できる。
その場合、想定される場面は「行為の指示・提案」となる。
誰かが「ケン(呼びかけ)、掃除」と言えば「ケンという名のあなたは、掃除をしなさい(サ変動詞の命令形: 掃除せよ)」という指示(命令)を意味する状況が想定される。
誰かが「ユータ(呼びかけ)、バトル」と言えば「ユータという名のあなたは、俺と一緒にバトル(何らかの対戦行為)をしましょう(しようぜ、サ変動詞の命令形: バトルせよ)」という提案を意味する状況が想定される。
※話は逸れるが、この2例は「ケンという名のあなたは、俺と一緒に掃除をしましょう」、「ユータという名のあなたは、誰かへバトルを仕掛けなさい(サ変動詞の命令形: バトルさせよ)」と指示と提案とが逆転した状況が想定されることも有り得る。

なお、先の「お酒」でさえ、単なる物品の名詞であるのみならず、お酒を注ぐ・お酒を飲む(呑む・飲酒する)といった、名詞自体に行為との関連を見出せる単語である。
その傍証として、現代の英語の動詞"to drink (ドリンク)"は酒(an alcoholic beverage)を目的語に取らず自動詞"intransitive"で用いることができることを参照されたい。
「お酒」のみならず、名詞が物品・物体を示す場合、潜在する行為の性質があるとすれば、概して「それを与える"to give it"・それを求める"to want it"・それを用いる"to use it"」ということとなる。
名詞が物品・物体ではなくて場所を示す場合、潜在する行為の性質があるとすれば、概して「そこにorへ訪れる・行く"to visit; go there"」ということとなる。
※当然のことながら、場所と物体との区別は主観的・相対的であり、本質的・絶対的に区分される基準は無い。「店の類(百貨店・飲食店・デパート・レストランなど)」は建物として物体だが、行き先=目的地(destination)などの用法がある以上、「場所」概念"where; place; location"として認識される。インド・ヨーロッパ言語の格変化に処格"locative"があることに同じ。



「〇〇は××」や「〇〇(呼びかけ)、××」という日本語表現について、簡潔に言えば「物品の要求・物品の貸与・行為の指示・行為の提案を意味する述語が省かれた現象」となる。
インド・ヨーロッパ言語のうち、梵語や古典ラテン語よりも主語・述語をきっちりと表現する傾向にある近代英語では、以下のように一般的なフレーズによって表現される。

"Give me *** (ギブミー名詞ナントカ)"
"I give *** (アイギブ名詞ナントカ)"
"Please *** (プリーズ名詞ナントカ)"
"Let us *** / Let's *** (レッツ動詞ナントカ)"
※英文中の"***"および「ナントカ」は、先例の「××」に対応する。

これらフレーズにおいて先の「『お姉ちゃん』、お菓子」とか「『父さん』、お酒」といった例文にあるような、人物の呼びかけ(その文例の場合sister, my fatherなど)を伴うことは必ずしも多くないという側面も注意すべきである。



ここまで「述語表現の省略」とか「述語が省かれた」とかと書いてきた。
言語学的にこの現象が「省略"omission"もとい削除"deletion"(単に省略というと短縮・縮約"abbreviation; contraction"と混同されるため削除に言い換えよう)」か、「ゼロ化(ある語が形式上は無いが意味上は有る)」かといえば、やはり「省略もとい削除」であろうと思う。
当記事で扱われた「述語表現の省略」は、日本語文法で規範的に確立されておらず、口語のうちでも偶発的で気まぐれな表現に過ぎないと判断し得るためである。
一方、「ゼロ化」は、もう少し歴史的蓋然性が有ったり特殊な必要性を伴うと判断されるべき現象である・一言語内で標準的であると、私の脳内にある複数の例(ゼロコピュラ"Zero copula"など。当記事で詳述せず)から考える。

2019年2月26日に当記事のためのイラストを描き、後に掲載した。
そこで「前者・後者」の解釈の記号法が示され、ゼロ記号(ヌル記号。または空集合 empty setに同じ)を用いる。

 その解釈法の記号表記
 ∅S (null-subject) + A (○○) + B (××) + ∅V (null-predicate か null-verb)






起草日: 20190118

絵・音楽・執筆にブランクの傾向がある中、当日(上記日付)、俄かに記事の案が浮かんで必要相当にまとまったため、起草し、4,000文字ほどを打った。
この記事であっても『言語は、用いられた時「限り」の「仮初め(ラテン語ad hoc = for thisが英語でアドホック・「その場限りのもの」となるような意味的共通性がある)」の意味しか無い』という「定性"definity; definiteness"」を示す内容となっている。
それは言葉の真理を志向する者が、当記事ならびに日常生活の言語表現を気を付けているならば、自然と分かるに違いない(私が説き示す定性などのことが真理だという意味でない)。

また、当記事における文例「お姉ちゃん、お菓子」は、当然、読点で区切って呼びかけの表現として「お姉ちゃん」がいるだけであり、「お姉ちゃんお菓子」という名のお菓子(合成語・複合語"compound")として解釈されることが無いように仕向けてある。
「お姉ちゃんお菓子」という名のお菓子については、合成語・複合語"compound"解釈と関連するが、それは複数の2017・18年の記事(1, 2, 3)に詳述されている。
複合語解釈の例として依士釈(タットプルシャ)「お姉ちゃんによって調理されたor創作されたお菓子(お菓子byお姉ちゃん)」や「お姉ちゃんが有するお菓子(お菓子ofお姉ちゃん)」や、持業釈(カルマダーラヤ)「お姉ちゃんという名のお菓子(お菓子theお姉ちゃん)」や、「お姉ちゃんのような見ためor味or香りのお菓子(お菓子likeお姉ちゃん)」などがある。
「お姉ちゃん、お菓子」として読点で区切っている状態であっても、「お姉ちゃん、それと、お菓子(お姉ちゃんandお菓子)」のように何か連想して並列したり、目の前の事物を並列したりする状況も想定されることは有り得る。

「そもそも論」だが、文"sentence"が何であるかの形式的説明は、その最小限の要素について「主語と述語"subject and predicate"の構成だ」、「名詞句と動詞句"NP and VP (noun phrase and verb phrase)"の構成だ」、「内容語と機能語"content word and function word"の構成だ」と一般的に言われている。
当記事の例文は、いわゆる非文・「内容語の羅列」と、その形式・規範の観点でみなされる。
別の観点では文としての機能があること、異なる発話者の言葉が一文を作ること、行動言語を含めて音声言語が一文を作ることなど、巨視的な文の構造を示すことも可能である。

※単に形態論と言語類型論の範疇で考えれば孤立語"isolating languages"・分析的言語"analytic languages"(漢文や現代の英語が典型的)のように語幹の羅列であっても語順"word order"に依存しながら、名詞でも動詞でもその意味を取ることができる。もちろん、それは日本語の文法規範に有り得ず、語順に依存せずに「お菓子、お姉ちゃん」でも、既述の「お姉ちゃん、お菓子」の意味と同様に取ることが可能である。e.g. 「お菓子(B対格)(∅V=一人称動詞:欲しいよ)お姉ちゃん(A呼格)」、「お菓子(B対格)(∅V=一人称動詞:あげるよ)、お姉ちゃん(A与格)」

当記事の例文に「お酒」を持ち出した筆者は今月(起草日の月)で22歳になるが、20歳になってからの2年でお酒の類・アルコール飲料(日本酒・ビール・ワイン・ウイスキーなど母親は飲むようなもの)を一口も飲んでいない(記憶が確かな限りは)。
筆者の近況については、日記メモまとめ記事をご覧になればよい。



2019年2月3日、「現代日本語・口語における述語表現が変容して存在する文法 ~ 感情表現・幼児語の正統性」という関連記事を起草した。
それは随時に投稿される。
Permalink: https://lesbophilia.blogspot.com/2019/02/indirect-verbs-in-japanese.html
語用論"pragmatics"

2019年2月1日金曜日

2019年1月中の日記メモ

当月は個人的な体調不良(9日以上に及ぶ便秘状態が2度あり手の腫れ・脹れも顕著)に関する記録がそれなりに多い。
また、母親の動向(声優とかナレーターとかの芸能活動をしようとしている)についても香ばしさが感じられるので、それに関する記録も多い。

↓1月20日以前に書いた文章
無職で久しい母親の家での生活について私が観測したことを一文で説明→意味不明の独り言を発しながら1階リビングに入り、そこにあるテレビの電源を入れ、ギィギィと音の鳴る「筋トレ器具(天秤状の足踏みのアレ)」を利用するという母親は、それだけでも年齢を増すごとに「騒音発生装置」と化していると分かるが、当月10日メモにも綴られるように、男性の歌声・唸り声(シャウトに似た何か)とチープなドラム音が発せられるポピュラー音楽・ポップスを鳴らす音楽プレーヤーか何かを携えて家の中を移動することがあるので、それは「爆音DQN暴走族」のようでもある。

母親や弟の生活音や家の周囲の状況(恒常的な車両通行や一時的な解体工事・建設工事)とかは、元々、記録されているので、今更、説明するに及ばない(一時的な解体工事・建設工事はともかく他の騒音や振動は気にしても仕方が無い)。
前の家で私の生活は、平日の日中に中学校にいる時に対して不登校である時(=平日の日中に家にいる時間が長い状況)に家のすぐ傍の資材置き場を出入りする土砂運搬車や重機から発せられる騒音・振動や家のすぐ傍の鉄道線路を鉄道車両が通る際の振動について懸念を持つのみならず、東北地方太平洋沖地震以降の強い揺れを全て体感することになったため、どこに済もうが似たような「騒音や振動についての悪い状況・悪い隣人・悪い環境」に陥ることが分かる。

関連動画「2019年1月20日: 騒音と振動とを発生する装置(母親がネットで買った前時代的な筋トレ器具)」
https://www.youtube.com/watch?v=aR9D4df4TjM

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2019/01/01

本日1月1日は寝ていない状態で日を越して至る。0時38分に母親が私の自室の部屋をノックし、「ドアを開けてください、新年の挨拶をしてください」と言ってきたので、私は「あけましておめでとうございます」と言った。母親がお年玉とされる封筒(例年の新年仕様のものではなく愛知県内の某信用金庫の封筒)を渡してきた。金額の欄に「¥39,000」とあり、例年の1万円ほどと比べると非常に多い。前年に毎月の小遣いが0円だったことが関連していよう。なお、おせち料理は前日(大晦日)の19時ころに渡されている(私はまだ口を付けていない)。

6時20分台に弟が起床したようで、彼は6時41分に外出した。6時44分、家の前を通過しようとする中高年男性が「カーッ!ペッ(口蓋垂~咽頭のあたりを鳴らして痰のようなものを唾棄する)」という音を立てた。彼は向かいT家寄りの車道を歩いていた。「早朝と一般認知される時間帯(冬期は夏季よりも遅いことは有り得るがもし1日24時間の規則性を春夏秋冬に守るならばその人にとって常に5・6時台、広げて3~7時台が該当)」は、彼のような人が家の前を通過することが、1日のうちで最も多い。



2019/01/02

本日1月2日は寝ていない状態で日を越して至る。前月以来、頻繁に見られることは、「書きたいと思うタイミングの事柄のみを書く=疎略に書く」ことである。日記メモの文言をこのように「書きたいと思うタイミングの事柄のみを書く=疎略に書く」ことをしていると、その文面からは私の生活の正確な把握ができなくなる。しかし、記録対象の時間よりも数時間以上遅いタイミングで書こうとし、そのタイミングの数分以内に何も記録されるべきことが無いほどタイムリーでない日記メモの書き方は、私がしたくない書き方である。ある時から定まった私がしたい書き方のスタイルによって、その一貫性のあるスタイルで書かれる方が良い。それは中略。

つまり、1月2日15時以降に本日1月2日の日記メモを書こうとし始めたことは、同時に、「この遅いタイミングで書かれてはならない」という判断も兼ねられていた。あまりどうしても前日と本日の起床・就寝時刻について書きたいならば、後から事実の回想をした前提であることをここに注記する。前日1月1日は13時台に就寝して20時台に起床した。それから本日1月2日は寝ていない状態で日を越して16時現在も起き続けており、17時以降に2018年12月分の日記メモまとめ記事を投稿する(i.e. タイムゾーンが日本標準時JSTの17時~反映)。なお、弟は前日の彼の行動の後に帰宅が14時ころであった。本日の彼は4時台に外出し、6時台に一度帰宅するも、彼がトイレを使って後に彼が外出し、彼が14時台に帰宅した。前日の母親は朝5時ころに母親の部屋の証明や音楽などが終えられ、前日の母親の起床は12時以降であった。本日の母親は前日に同様であった。先の予定を済ませた私は就寝し、21時50分に起床した。



2019/01/03

本日1月3日は寝ていない状態で日を越して至る。本日の弟は6時51分から外出した。今回は彼の外出前の装いについて確認した。それはキャップ・不織布マスク・リュックサック・手袋・ダウンジャケット(中綿ジャケット)である。当然、彼は徒歩以外に移動手段が無いが、彼が前日や前々日に遠出のために鉄道を利用したという考え方もできる。今回の彼は最寄り駅と反対方向へ歩いており、イオン豊橋南店(通称なんじゃす)あたりが目的地としか考えられない。3日連続、彼はお年玉を消費していると思われる。7時0分ころから2階の彼の部屋に上がってゴミ箱を確認すると、1月1日6時52分に最寄り駅で「チャージ 金2000円」をしたという領収書が見られた。彼の普段の通学の定期券に関するものならば、少し違和感がある。その時だけ豊川特別支援学校に行こうとでもしたろうか?ただし、そういう目的では有り得ないという判断材料として、6時47分にその駅前のコンビニで「明治 ミルクチョコレート x2」を買ったという領収書を参考にできる(その高等学校に学生個人が登校や部活動参加を目的として行くときに金銭を消費する行為は許され難い。彼の陸上部の活動関連で県内にある学校以外の目的地に行く場合も同様)。

上:弟による日記の文章 下:弟のスケッチブックの内容。誰かによる知的障碍者福祉の研究その画期的な発想のために




2019/01/04

本日1月4日は寝ていない状態で日を越して至る。2時30分から便意のためにトイレへ入り、中・長サイズのものを1個ずつに排出した。4時54分からゴミ出しの外出を行った。8時44分から便意のためにトイレへ入り、4個の小・中サイズのものを排出した。14時49分からPCをシャットダウンして就寝し、17時40分ころに夢精で目覚めて起床した。今回の被害範囲はパンツと皮膚であり、部屋着ズボンには及んでいない。22時37分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、24時13分に自室へ帰った。



2019/01/05

本日1月5日は前日の日記メモのごとく0時13分まで風呂(シャワシャン)に関する行動の中で日を越して至る。3時50分からPCをシャットダウンして仮眠のつもりで就寝し、8時11分に起床した。13時52分から母親が弟を連れて発車して外出した。15時52分に母親の車が家の前に着いた。18時30分から便意のためにトイレへ入り、3個の長めのものを排出した。


2019/01/06

本日1月6日は3時30分に起床した。前日中の経緯を記す。20時43分からPCをシャットダウンして就寝し、入眠して2時間以内に夢精で目覚めていた。1階リビングに母親がいることを察している私は簡単な処置だけをして再び眠っていた。被害範囲は、パンツと皮膚のみならず、その処置における私の不手際のためか裾の長い肌着(インナー・アンダーウェア)に及んだ。4時10分から30分ほど水浴び行為と衣類水洗いとを始めた。



2019/01/07


本日1月7日は4時20分ころに目覚め、4時48分に起床した。12時34分、12時過ぎに帰宅した弟を連れて母親が発車して外出した。母親の部屋に上がってみると、母親が「総合芸能学院テアトルアカデミーとやらの書類・写真の一次審査を通過したとかという母親名義対象の表彰状もどきの紙 (平成30年12月20日)」をわざわざ額縁に入れて床に置いて飾るという酔狂なことをしていると知った。その紙には「第二次面接実技試験に御出席ください」と書いてある。元々、その紙の入っていた額縁には、厚生労働省あたりが発行した薬剤師の許可に関する紙(薬剤師免許?)が入れてあったろうが、母親自身が道草を食ったことの証拠を額縁に入れて喜んでいるならば、酔狂なことこの上もない。最近の母親の様子(東方神起グッズ買いあさり・謎の英語学習・慈善アグネスチャンごっこなど)については前月10日メモも参照。2018年12月26・27日に母親が東京方面へ泊りがけで外出していた目的も、この関係と考えて問題ない。

14時49分に母親の車が家の前に着いた。先に弟が家の中に入った。2分以内に家に入った母親は玄関で1分以上「あ~、たったったった~、くー」などの奇怪な声(教育に悪い声)を発し続けていた。これがもし、芸能活動をする人間の素性であるならば、似つかない。



2019/01/09

本日1月9日は6時0分ころに目覚め、6時11分に起床した。10時5分から便意のためにトイレへ入り、4個の中長サイズのものを排出した。13時過ぎからも少量の排便をした。17時過ぎにPCをシャットダウンして就寝し、23時20分に目覚めて23時50分に起床した。



2019/01/10

本日1月10日は寝ていない状態で日を越して至る。3時46分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時56分に自室へ帰った。11時58分から母親が発車して外出した。19時20分に母親の車が家の前に着いた。19時40分以降の母親は「さいあくだよー」などと意味不明の独り言を発し続けたり、声にならない声で家の中を移動し続けたりした。その際はずっとスピーカー(音楽プレーヤーの類か何かは不明)から東方神起の音楽を垂れ流し続けている。また、普段であれこの時であれ、そのように男性の唸り声を鳴らす物を伴って2階から1階に降りる母親は、さながら暴走族のように感じられる。



2019/01/11

本日1月11日は1:00のアラームや、今月は未だ鳴らしていなかった2:10の第一アラームなどを事前にONに設定していて、それによって目覚めたが、2:20の第二アラームがスヌーズ再生された2時25分に2:40, 2:50, 3:20のものをOFFにした。最終的に3時54分に私は起床した。弟は前日19時までに眠ったようであったが、本日における私の起床以前に彼は5枚切り食パン1斤のうちの4枚を食べ、チョコクリームのアレ量のチューブ1つ分(100g)を使いきり、ミカンを2個以上食べたようである。15時55分から便意のためにトイレへ入り、1個ずつに小・中・長サイズのものを排出した。



2019/01/12

本日1月12日は3時18分に起床した。16時44分から便意のためにトイレへ入り、2本の長サイズのものなどを排出した。最初の長い一本糞で肛門付近の皮膚からの軽微な出血があった。22時30分から強い腹痛を伴った便意のためにトイレへ入り、軟便・下痢ないし水っぽい下痢を排出した。腹痛はトイレの中で極められ、頭部に悪寒があり、涙が流れ、意識が朦朧とした。食中毒の一種だと見られ、原因は21時台に食べた「ミカン、それは皮の剥かれた状態で半日以上放置されたもの」だと目される(1時間程度でも食中毒の症状が出ることは私の体で頻繁に確認されている。プラシーボ効果に近いものも多いが今回は精神的にそのミカンを悪いものと認識して執着するということも無かったし実際の食中毒と考えてよい。この話と同様の話は2017年6月17日メモに記される)。今月の便は病み気味の臭いを伴う傾向があって私の体調低下を思わせる。23時36分からも引き続き腹痛を伴った便意のためにトイレへ入り、微量の水っぽい下痢を排出した。少ないために見え方が不正確であろうが、便器に溜まった物は血の混ざった色であった。



2019/01/13

本日1月13日は寝ていない状態で日を越して至る。承前。4時40分、危険な便意をこらえながら水汲みを行って「ブッチッパ」的なケツ水放出があった。それで下半身の装いに関する準備を冷静に行ってからトイレへ入ると、もはや薄い下血というべきものを排出した。その10分以内に、下痢をムリムリ(モリモリ・ブリブリ)と排出した。4時54分から風呂場・浴室で下半身とパンツ1枚の洗いを始めた。

8時9分からPCをシャットダウンして就寝し、15時55分に起床した。16時台、前のWin7機が2011年6月末の購入から数ヶ月以内に起こして2016年の買い替えまで続いたアクセス不能現象を想起させることがあった(枕詞)。今のWin10機であっても似たようなことはよくあった。本日16時台の場合=今回は、私がACアダプタ(充電コード・コンセント・なんちゃらプラグ)を抜いて数分後にアクセス不能現象を観測した。不可解な話だが、このWin10機にしてもしばしばアクセス不能現象の原因として確認されている。省電力モードなどと関連があるかも不明だが、いずれにせよ、同じメーカーから2011年6月末に購入されたWin7機と同様のアクセス不能現象が、同じメーカーから2016年3月末に購入されたWin10機においても観測される。このアクセス不能現象は、ACアダプタを接続し直しても継続される。奇怪なことに、そのWin7機であろうとWin10機であろうと、スリープして再度開くと一時的に直るか、ACアダプタ接続済ならば全面的に復旧する。今回も、そのようにして復旧させることができた。

追記:翌日=2018年1月14日の日記メモは無いが、2018年1月14日にも同じく、Win10機でそのACアダプタ(充電コード・コンセント・なんちゃらプラグ)を抜いて数分後にアクセス不能現象を観測した。



2019/01/19

本日1月19日は0時52分に起床した。



2019/01/20

本日1月20日は1時49分に起床した。前日17時53分に夢精で目覚めて起床した経緯が有る。2時4分から風呂場での洗濯と洗濯機作動と風呂(シャワシャン)の準備を始め、4時17分に自室へ帰った。風呂(シャワシャン)の行為は1月10日以来10日ぶりであり、風呂(シャワシャン)を行わない期間としてここ3年以内では稀な長さである。当月1月14日から1月18日は日記メモを書いていないが、その時も当然、風呂(シャワシャン)を行っていない。



2019/01/21

本日1月21日は5時55分に起床した。11時17分から母親が発車して外出した。15時45分に母親の車が家の前に着いた。



2019/01/22

本日1月22日は寝ていない状態で日を越して至る。日記メモに見られるよう、当月13日以来は排便が無いままでいる。よって前日20時ころに下剤1錠を服用したが、0時22分現在、目立った効果を感じない。18時台からこれまでにご飯類・カフェイン類・中サイズの一般的なバナナ4個の飲食を行ってもいる(プラシーボ効果のような・条件反射のような便意への影響が普段は発生するので同様に企図している)ものの、効果が無い。0時55分から便意が有るとも無いとも感じられる状態でトイレへ入り、排尿に関する行為が済んでから便座にあるまま「10分以内に排便へ至らせよう」と考えた。1時7分から長めのものを3本排出し、更に軟便を排出した。前後にはガス放出(おなら・放屁)が小さい音で長めに維持されるようなパターンでされた。1時25分にトイレを退出して以後も腹痛を感じているが、そろそろこの闘争(腹部へ意識を向けること)を小休止にしたい。1時45分ころにPCをシャットダウンして就寝し、4時56分に腹痛を伴った便意のために起床してトイレへ入り、下痢を排出した。その後の就寝から10時22分に起床した。



2019/01/25

本日1月25日は2:40の第三アラームで目覚め、2:50の第四アラームの直後に起床した。起床時、2階で母親が歌っており、3時20分台に弟が1階に降りた際も同様と思われる。



2019/01/27

2019年1月27日22時30分に撮影された写真が加工された状態

本日1月27日は寝ていない状態で日を越して至る。2時26分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、4時47分に自室へ帰った。前日に母親と弟との会話で母親が「明日は〇ちゃん家にいるんだね?お留守番」云々と言っていた。本日に私が寝ている間(9時過ぎ~16時0分ころ)に母親は外出した様子である。今回も母親は、けだしテアトルアカデミーとやらの審査(当月7日メモを参照)のために東京方面へ行ったろう。母親の部屋に上がると、案の定、その関係の母親が書いた文章がこれ見よがしに広げられていた。

追記:このタイミングで「嵐(ジャニーズ事務所所属5人組男性アイドルグループ)」の解散が予告された(2020年末)。母親は当月中ずっと東方神起(かつて5人組で2012年ころから2人組になった男性アイドルグループ、韓国出身だがいわゆる韓流 K-pop かは不明)の音楽をスピーカーで垂れ流す生活をした。下の弟は、「上の弟と共に上里学園という児童養護施設にいた頃」の影響で最近もずっと「TOKIO(ジャニーズ事務所所属のかつて5人組で2018年から4人組になった男性アイドルグループ)」に興味を持っている。1月29日の夕に弟が母親から好きな嵐のメンバーをきかれた際、「櫻井くん」と答えていた。それはそうとして、今まで一般人レベルに見ていた対象であるテレビやラジオに関する芸能活動(添付写真を参照。何らかの紙に本人の希望が明記される)を望む母親は、時代に逆行しつつあるように見える。大人しく薬剤師の職務を再開すればよいように思うが、それも私の下卑た感情から言われていると、読者に思われよう。

引用:2015年11月12日の日記メモ
(前略) 母親がどこかの料亭か何かの資料請求をしたそうで、その書類にも目を通したのだが、もしそこと関わろうというなら本当に母親の考えが掴めない。本気でそこに関与するなら、俄かに衝動的に突飛なものだと思う。もちろん、それはほぼ無いと思っておく。今年3月のカフェ関連にしてもそうだが、あれはあれで不可解な動向が強く出たものの、結局は京阪遠征など無く、不可解を極めながらに終わっている。その料亭(京都のしゃぶしゃぶ店フランチャイズ加盟の事業??って本当なの)ほか、カフェなど飲食店の調理も接客も生来スキルやノウハウが無いというのに、どうしてこう資料請求だかをするのであろう。今年の話なら、ファミリーマート店舗経営などもあった。やる気なく興味本位で請求だけしたのなら、それも愉快犯や子供じみている。本気だとしても、今ババアだからこそ、実現性が無い夢想を止してほしい。さっさと本業に返られて、おかしな衝動が多少は律される人間に戻られたい。



2019/01/28

本日1月28日は寝ていない状態で日を越して至る。0時12分に母親が帰宅した。玄関先で母親が「電気つけてー」と催促するので、私は応じた。



2019/01/31

「19時29分に右手の写真を撮った」とする記述が指す実際の写真(画像)

本日1月31日は4時34分に就寝し、11時37分に起床した。11時41分から母親が発車して外出した。11時51分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、13時28分に自室へ帰った。日記メモに見られるよう、当月22日以来は排便が無いままでいる。またしても9日級の便秘状態にある。風呂場で自身の腹部を見ても、相変わらずの細身ぶりであって何ら苦しそうな状態でない。最後の排便から1日分を除いた期間である8日間で私は、時折「糞が漏れそう」な緩さを感じることも有ったが、それ以外に腹部の大した違和感を覚えることも無かった。この文章を打つと、腹部に意識が向くために、少しだけ便意が起こる。15時56分に母親の車が家の前に着いた。

19時29分に右手の写真を撮った。本日の風呂(シャワシャン)以後に冷水や温水で手を濡らす行為が多く、それらは概してしっかりと拭われても分子レベル(水蒸気などより少し大きいと思われる)で手の表面(皮膚の水や微細な体毛や毛穴に引っ掛かる)に残るため、冬の冷えた空気にさらされるとそれらが冷えやすい。私の両手のうち、右手の五本指の第一関節から先がむくんでいることを左手や右手の別々の指同士で触診したり見た目の赤さや立体性などで判断できるし(指の腹よりも爪の付け根側が硬く脹っている)、それ自身(照応:再帰代名詞:右手の五本指の第一関節から先)の神経は熱や脹りや痒みや小さい痛みを覚える。この現象に、冷水や温水で手を濡らす行為が関連しているかどうか不明である。足の指にも同じ現象が起こりつつある。どのような腫れか、リウマチとやらか、詳しくない。2018年1月2月の日記メモに右手の中指と小指に関する記録を取っているが、当時と似て非なる現象である。体感的に悪いと感じられる度合いが増したと考えてよい。霜焼けは子供の雪遊びなどで起こる可愛らしい怪我の一種であろう。老体というものは、今まで(大まかに人生のうち生まれてから5/3とか5/4に相当する期間)に経験しない身体の不調和を起こしてくる。

ちなみに、左上親知らずの歯による口内炎と、誤った咀嚼(ある意味で?齟の字は咀嚼の咀や嚼と同じように噛むこと「《玉篇》齧也。《集韻》嚼也。」に関する意味がある。それならば誤咀嚼でよいとも思う)による下唇左側の腫れとが、この2日間、食事の際のさまたげになっている。左上親知らずの歯による口内炎は、その奥にある「歯茎よりも柔らかい口内の粘膜」を巻き込んでそこに炎症が起きた事態を指す。元々「親知らずの歯(智歯 wisdom tooth)」は、そこに硬い食べ物が挟まることで周辺の粘膜を傷つけることが多いが、今回の事態はそこから二次的に発生したものであろう。つまり、一旦荒れて腫れ気味になった部位が、どんな時でも「当(the; 現代日本語の定冠詞"definite article"らしい用法)左上親知らずの歯」とその舌側の歯や口内の食物の間に干渉して、自ら(itself; 漢文訓読のような再帰的"reflexive"用法)傷つけることで二次被害を強めている。

追記:この日の母親が帰宅1時間以内に郵便物を見た際、「やったぁ!すげぇ!」とかいう声を挙げていた。けだし芸能事務所とか総合芸能学院テアトルアカデミーとかの関連であろう。2019年2月2日、そこからかかってきた電話に対して「合格通知書に『ご連絡ください』と書いてあっても、電話番号などの連絡先が書かれてなくてぇ!ブハハ!オフィシャルサイトとか開いても何も無かったんですけどぉ!ボヒョヒョ!入学案内の窓口みたいなのしか載ってなかったのでぇ!!ゲヘッ!」と、かなり興奮しながら話していた。





"The wound" 1月10日19時20分の母親帰宅後10分以内に付いた傷

1月12日4時59分撮影



1月12日5時1分撮影



1月14日14時49分撮影

「それどーしたのー?(それって?)手首のでっぱりの傷だよ!(相手の右手に手を伸ばす)」「あ~、これ何日か前に家のお手伝いでケガしちゃったの~」「すっごい痛そうだよ??」「そんな~、かすり傷(擦り傷 scratch)くらいだから・・・」


1月19日4時5分撮影

「前から思うんだけどさ、かすり傷でそんな瘡蓋(かさぶた)できちゃうのー?」「え、分からない」

2月に回想: 痛みについては、最初の5日ほどが体感的であったと記憶する。強さは、その期間においても日常的に気にならないほどであったろう。


1月24日15時31分撮影



2月17日1時37分撮影