承前→「現代日本語・口語における述語表現の省略 ~ 経緯・場面 (scene) による相対性」
英語(近代英語など)では、既述の通り、主語と述語が原則的に用いられる。
漢語(中古漢語など)も、述語の用法が目的語を伴った際に明瞭な傾向があり、漢文訓読からも理解できる(訓読語・中古日本語)。
現代日本語の「私は○○が好き」とか「私は○○が嫌い」とか「私は○○が怖い」とか「私は○○が欲しい」という表現は、いずれも形式上の述語が無い。
「好き・嫌い」は「好く・嫌う」の連用形を名詞化した言葉であり、「怖い・欲しい」は形容詞(ク活用・シク活用)である。
前者は名詞が文末に位置する点でいわゆる「体言止め」に当たる。
後者の場合、それぞれの形容詞を動詞に対応させると、自動詞の「怖がる」と他動詞の「欲しがる・欲する(文語: 欲す。求むに類比。欲するという気持ちの動性に約すれば自動詞)」である。
形態論的に、動詞の「怖がる・欲しがる」は、「こわ・ほし」のような語根"root"に「-がる」という接尾辞"suffix"が伴った語形といえる。
「嫌い(きら-)」は「嫌う=嫌ふ」の連用形であるために「嫌いがる・嫌がる(きらいがる・きらがる)」を作らず、「嫌・嫌だ(いや-)」は「嫌がる(いやがる)」を作るという、現代日本語での生産性"productivity"がある。
※単に形容詞であるだけならば「川は流れが速い(この川の流れは速い)」や「スープは味が濃い(このスープの味は濃い)」は、その事実を表現した文章(その述語は形容動詞。英語はbe動詞を伴い、ラテン語はestのようなコピュラ動詞を伴うが、梵語は日本語と同じで標準的な動詞の語形を伴わない)であるか、その事実を認識した人による「~と感じる・~という感じがする(英語: I feel like...; It seems to me...)」という述語を秘めた表現である(この場合に主語はゼロ(zero; null)状態だが発言者自身"watashi, I")。それらはそう一括りにできる述語表現を持つ。近代英語の古語"methinks"という縮約形の言葉や、中古日本語の訓読語「惟・以=おもうに・おもんみれば・おもんみるに(ゼロ主語)」・「余のおもえらく(私が思うことは~)」といった慣用句・イディオム・副詞句"adverbial clause"・副詞節"adverbial clause"が語頭にあってもよい。
いずれも感情や精神的な現象を表現する際に用いられる言葉であることが興味深い。
「好き・嫌い」に存在動詞「だ=である(に+て+あり、の音変化。敬語: です・であります等)」を付けたり、「怖い・欲しい」に準体助詞と形容動詞を付けたり(i.e. 好き-だ、怖い-ものだ)すると、述語表現を伴った文でもある。
英語の目線では、ゼロコピュラ"Zero copula"の類と見ることができる。
上記文例の「好き・嫌い・怖い・欲しい」は、英語だと"to love or like, to hate, to scare or fear, to want or need"となる。
英文としては"I love it, I like it, I hate it, I scare it, I fear it, I want it, I need it"のようになる。
ただし、"I scare it, I fear it"は"to be afraid"のような存在動詞を伴った文"I am afraid of it"とも表現できる。
漢文としても概ね英文と同様のSVO(subject-verb-object)の構文で表現される(ただし吾也"It's me.", 我是~"I'm a **."のように通念上述語・動詞とされない助字を用いる)。
英文と漢文とには規範的な述語用法があり、英語では主語が徹底して用いられる傾向は既知の通り(元記事)である。
日本語の自動詞・他動詞に関する概説
そもそも、日本語の動詞には、語彙論"lexicology"・形態論"morphology"の観点で3種類が存在すると、私は考える。
それらは、他動詞と自動詞と自動詞の使役形(文法的に他動詞と似て非なるものと区分できるもの)という3種類である。
自動詞は「動く (-u ending)」、自動詞の使役形は「動かす (-asu ending)」がある。
「動く・動かす」は、いずれも英語において語形が同じ"to move (transitive/intransitive)"である。
「私は〇〇を動かす」ならば英語で"I move **."となるが、「私は〇〇を動く」という言い方は直訳できず、「私は○○の場所から動く(離れる)」という意味合いに解して英語で"I move from ** (I leave **)"となるか、「私は○○の上で動く」という意味合いに解して英語で"I move on **"となる。
英語は前置詞で間接目的語や補語を作ることで、"to move"が他動詞であるか自動詞であるか、判断しやすくなっている。
※後述のサ行変格活用(サ変)の動詞である「移動する」は、英語の"to move"のように他動詞でも自動詞でも用いることができる。「動く」は、既述の通り自動詞のみしかない。
※「-あす語尾 (-asu ending)」は「-す」という古文の助動詞に由来するであろう。古文の助動詞「-す」は動詞・助動詞の未然形に付き、使役の意味を作る助動詞である。古文の尊敬語で「おわす"owasu"(歴史かな: おはす ofasu; opasu)」や「まします"mashimasu"」のように「-あす(-asu ending)」もとい「-す」が見られる。「~せたまふ(してくださるという尊敬語であり使役の意味は無い)」や「~あそばせ(現代の役割語)」にある「せ」は、その活用がなされた形(未然形か連用形)である。
英語(近代英語など)では、既述の通り、主語と述語が原則的に用いられる。
漢語(中古漢語など)も、述語の用法が目的語を伴った際に明瞭な傾向があり、漢文訓読からも理解できる(訓読語・中古日本語)。
現代日本語の「私は○○が好き」とか「私は○○が嫌い」とか「私は○○が怖い」とか「私は○○が欲しい」という表現は、いずれも形式上の述語が無い。
「好き・嫌い」は「好く・嫌う」の連用形を名詞化した言葉であり、「怖い・欲しい」は形容詞(ク活用・シク活用)である。
前者は名詞が文末に位置する点でいわゆる「体言止め」に当たる。
後者の場合、それぞれの形容詞を動詞に対応させると、自動詞の「怖がる」と他動詞の「欲しがる・欲する(文語: 欲す。求むに類比。欲するという気持ちの動性に約すれば自動詞)」である。
形態論的に、動詞の「怖がる・欲しがる」は、「こわ・ほし」のような語根"root"に「-がる」という接尾辞"suffix"が伴った語形といえる。
「嫌い(きら-)」は「嫌う=嫌ふ」の連用形であるために「嫌いがる・嫌がる(きらいがる・きらがる)」を作らず、「嫌・嫌だ(いや-)」は「嫌がる(いやがる)」を作るという、現代日本語での生産性"productivity"がある。
※単に形容詞であるだけならば「川は流れが速い(この川の流れは速い)」や「スープは味が濃い(このスープの味は濃い)」は、その事実を表現した文章(その述語は形容動詞。英語はbe動詞を伴い、ラテン語はestのようなコピュラ動詞を伴うが、梵語は日本語と同じで標準的な動詞の語形を伴わない)であるか、その事実を認識した人による「~と感じる・~という感じがする(英語: I feel like...; It seems to me...)」という述語を秘めた表現である(この場合に主語はゼロ(zero; null)状態だが発言者自身"watashi, I")。それらはそう一括りにできる述語表現を持つ。近代英語の古語"methinks"という縮約形の言葉や、中古日本語の訓読語「惟・以=おもうに・おもんみれば・おもんみるに(ゼロ主語)」・「余のおもえらく(私が思うことは~)」といった慣用句・イディオム・副詞句"adverbial clause"・副詞節"adverbial clause"が語頭にあってもよい。
いずれも感情や精神的な現象を表現する際に用いられる言葉であることが興味深い。
「好き・嫌い」に存在動詞「だ=である(に+て+あり、の音変化。敬語: です・であります等)」を付けたり、「怖い・欲しい」に準体助詞と形容動詞を付けたり(i.e. 好き-だ、怖い-ものだ)すると、述語表現を伴った文でもある。
英語の目線では、ゼロコピュラ"Zero copula"の類と見ることができる。
上記文例の「好き・嫌い・怖い・欲しい」は、英語だと"to love or like, to hate, to scare or fear, to want or need"となる。
英文としては"I love it, I like it, I hate it, I scare it, I fear it, I want it, I need it"のようになる。
ただし、"I scare it, I fear it"は"to be afraid"のような存在動詞を伴った文"I am afraid of it"とも表現できる。
漢文としても概ね英文と同様のSVO(subject-verb-object)の構文で表現される(ただし吾也"It's me.", 我是~"I'm a **."のように通念上述語・動詞とされない助字を用いる)。
英文と漢文とには規範的な述語用法があり、英語では主語が徹底して用いられる傾向は既知の通り(元記事)である。
日本語の自動詞・他動詞に関する概説
そもそも、日本語の動詞には、語彙論"lexicology"・形態論"morphology"の観点で3種類が存在すると、私は考える。
それらは、他動詞と自動詞と自動詞の使役形(文法的に他動詞と似て非なるものと区分できるもの)という3種類である。
自動詞は「動く (-u ending)」、自動詞の使役形は「動かす (-asu ending)」がある。
「動く・動かす」は、いずれも英語において語形が同じ"to move (transitive/intransitive)"である。
「私は〇〇を動かす」ならば英語で"I move **."となるが、「私は〇〇を動く」という言い方は直訳できず、「私は○○の場所から動く(離れる)」という意味合いに解して英語で"I move from ** (I leave **)"となるか、「私は○○の上で動く」という意味合いに解して英語で"I move on **"となる。
英語は前置詞で間接目的語や補語を作ることで、"to move"が他動詞であるか自動詞であるか、判断しやすくなっている。
※後述のサ行変格活用(サ変)の動詞である「移動する」は、英語の"to move"のように他動詞でも自動詞でも用いることができる。「動く」は、既述の通り自動詞のみしかない。
※「-あす語尾 (-asu ending)」は「-す」という古文の助動詞に由来するであろう。古文の助動詞「-す」は動詞・助動詞の未然形に付き、使役の意味を作る助動詞である。古文の尊敬語で「おわす"owasu"(歴史かな: おはす ofasu; opasu)」や「まします"mashimasu"」のように「-あす(-asu ending)」もとい「-す」が見られる。「~せたまふ(してくださるという尊敬語であり使役の意味は無い)」や「~あそばせ(現代の役割語)」にある「せ」は、その活用がなされた形(未然形か連用形)である。
他動詞の例は、自動詞に相対する形で「消す"kesu"(消える、に相対する)」がある。
「消す」に相対する自動詞である「消える"kieru (文語の下二段活用の終止形: 消ゆ"kiyu")"」は「-える語尾 (-eru ending)」であり、これは元々、古文の助動詞である「-ゆ(自発・可能・受け身などの意味 e.g. 見ゆ⇔見える)」に由来すると思われる。
一方で、その「-える語尾」と発音が一緒でも語源が異なるものに、他動詞である「変える"kaeru"(文語の下二段活用の終止形: 変う・変ふ"kau, kafu; kapu")」がある。
これは「変わる"kawaru (歴史かな: 変はる kaf-aru; kaparu)"」という自動詞や、「変えさせる"kae-saseru"(文語の下二段活用の終止形: 変えさす "kae-sasu"または変えせしむ"kae-seshimu")」という自動詞の使役形に相対する。
その英語"to change"は"to move"に同じく、他動詞と自動詞のどちらでも用いられる(私は○○を××に変えるor変えさせる⇔私によって〇〇は××に変わる)。
日本語でいう他動詞も自動詞の使役形も一様に"transitive (他動詞)"として区分されるが、日本語では「変える・変わる・変えさせる」という三種が並立する以上、日本語学の内にこの三種を語形の論理(語彙論・形態論)として立てる必要がある。
「〇〇が××に変えさせられる」や「本が読まれる・〇〇は(彼にとって読まれたくない)本を読まれる(後者は自動詞の受動態="adversative passive")」や「泣ける・泣く・泣かせる(下二段活用: 泣かす)」に対する「泣かれる(自動詞の受動態="adversative passive")」等の受動的な表現(受動態"passive voice")はここで含めない。
※自動詞の使役形である「変えさせる」を英語に直訳する場合、同様に自動詞のchangeを用いればよい。「私は彼を変えさせる」ならば「私は彼が変わるようにさせる」と改めて"I make him change."のようにする。この時の"to make"は二重他動詞"ditransitive"用法であり、これは日本語における自動詞の使役形を作る「~あす語尾(-asu ending)」に類する。英語版Wiktionary - makeにも"You're making her cry. (あなたは彼女が泣く-状態-にさせている=あなたは彼女を泣かせている)"と例文を載せている。その役割は、「自動詞の状態にさせる」ということだが、「自動詞の行為の原因を作る」こととも言える。
※「泣く」は自動詞なので、本質的に受動態は無い。誰かが泣くことはその人の精神と肉体に終始していて他者が被動者"patient"として行為を及ぼされる道理は無いためだが、現代日本語では「泣かれる」という受動態の述語表現が有る。つまり、誰かが泣くことによって主語・ゼロ主語の人物が被害を受けること"adversative passive (被害受身 negative passive; 間接受身 indirect passiveとも)"であると言える。これは"adversative passive"の文法を持った日本語ならではの受動態である。「○○は雨に降られる」といえば、「雨が降る(雨が意思を伴って自身を降らす・降ろすわけでないが)」という自動詞の現象を見るなど五感で受け、○○=文の主体事物"subject of the sentnce"は何らかの被害(金銭や外見を損なうとしても究極的に精神的な被害)を受ける(他者であればそういう同情をする)ということである。"adversative passive"の受動態動詞は、元が自動詞である場合にこそ、有り得る。そのために「○○のいる時間のその場所で雨が降った」という事実認識の表現とは別に、「○○は雨に降られた」という自動詞の受動態という表現をする。また、被害を受けるという意味合いは基本的なものであり、もしそこで文が終わらずに別の節"clause"に接続されるならば必ずしもその文意に繋がらない。例えば、Alfonso, A. 1966 (Japanese language patterns: A structural approach)にA「綺麗なお嬢さんに泣かれるとちょっと嬉しいものだ"It's kind of nice when a beautiful girl cries because of you."」やB「風に吹かれながらショーウィンドウを覗いて歩く"I walk along in the wind looking at the shop windows."」という例文が挙げられているそうだが、これは「泣かれる"と"」や「吹かれ"ながら"」として接続助詞"conjunctive particle"「と・ながら」が伴って別の節"clause"になっており、被害を受ける表現には繋がっていない。添えてある英文は、そのAlfonsoか誰かによって取られた意味であり、必ずしも正確でない。「綺麗なお嬢さんに泣かれると、それが私or誰かにとっては嬉しい気持ちにさせるものだ」という主観的な意見の提示が主節"main clause"になってしまい、受動態の述語が従属節"subordinate clause"に追いやられている。もしBの文の語彙のまま従属節と主節の立場を変えるならば「私が歩いている"と"風に吹かれる」という文末・主節の自動詞受動態たる"adversative passive"となる。例文A・Bは、文末・主節・独立節"independent clause"の自動詞受動態たる"adversative passive"と明確に異なる。つまり、Alfonso例文Aのように「綺麗なお嬢さんに泣かれると(私は null-subject)嬉しい」と感じる人もいるという意味に限らず、「綺麗なお嬢さんに泣かれると(私は null-subject)困る」という意味にもなりえる。同様に「私の愛人に送る手紙が(を)愛人に読まれると私は嬉しい」とか「私の愛人に送る手紙が(を)その他の者に読まれると私は恥ずかしい」という二者(orそれ以上)が有り得る。要するに"adversative passive"は、文の主体事物(主語かゼロ主語)が、その「される(受動態・所相の述語)」ことによって、究極的に当の主体事物=人物の精神において目的に適えば嬉しく、目的外であれば困る感情表現であるといえる。そのように複数の節を用いることで、「このことが(を)ケンに知られるとユータは喜ぶがケンは悲しむだろう」という二種類を込めた言い方もできる。受動態の用法によって「読む・知る・聞く」も、英語の"to read, to know, to hear"のように他動詞のみならず自動詞の用法も有ると分かるし、日本語では助詞と節のありようで"adversative passive"を作ることができる(「泣かれる」が「お泣きになる」という敬語・尊敬語の用法は排除した上での話)。なお、自動詞が自動詞である原理(行為とその対象範囲の同一性の自覚)を応用すれば、一切の他動詞は自動詞の用法を得るが、この話は哲学的なので(cf. ātman 自己 ātmanepada 自動詞or受動態or中動態 インド哲学とサンスクリットの文法理論の相違性や類似性に関する話)さておく。
※簡単に好例でまとめてみよう。「立つ」は自動詞であって「う語尾 (-u ending)」である。「立てる」は他動詞であって「える語尾 (-eru ending)」である。「立たすor立たせる」は自動詞の使役形であって「あす語尾 (-asu ending)」もとい使役・尊敬の助動詞「す」に由来する。これらは動詞の3種の区分にあり、私は受動態を省く。「立たれる(文語終止形: 立たる)」は自動詞の受動態(受身の形)であり、「立たせられる」は他動詞の受動態であり、「る語尾 (-ru ending)」もとい受身・尊敬の助動詞「る」に由来する。前者=自動詞の受動態は主に"adversative passive"用法である。「立つ・立てる・立たす・立たれる・立たせられる」といった動詞は、形態論でいえば"to stand"の意味のある「tat語根or語幹 (tat- root or stem, 語根であれば√tatとも)」を共通して有する。
サ行変格活用(サ変)の動詞は、漢語・漢文の原義からすれば、自動詞・他動詞いずれも有り得る。
五段活用(文語: 四段活用)「貸す"kasu"」と、サ変活用「化す・課す"kasu"」とは、動詞の発音が同じでも、後者が漢字の音読みに由来するため、本質的に異なると知った方がよい。
i.e. 貸=呉音・漢音「タイ tai」訓「か-す ka-su」、化=呉音「ケ ke」漢音「カ ka」、課=呉音・漢音「カ ka」 五段活用(文語: 四段活用)「貸す"kasu"」は終止形と連体形が同じだが、サ変活用「化す・課す"kasu"」は終止形が「-す」で連体形が「-する」と異なっている
「貸す」は「借りる"kariru"(文語: 借る"karu"。文語では四段活用だが後世に下二段活用と混同されて下一段活用になった cf. 飽きる⇔飽く)」という他動詞に相対して自動詞の使役のみであると分かるが、「化す・課す」のうち「化す」は「彼は○○と化す(文語的)・彼は〇〇に化ける=化ける(自動詞の使役形ならば"化かす"がある)」という英語"to change"の自動詞用法に当たる用法も有ることを知るべきである。
※「変化する"henka-suru"(文語: 変化す、仏典の語で"変化す henge-su"とも言える)」というサ変動詞は変化させるという他動詞の意味も担うはずが、現代日本語では語源意識が希薄なので、文字通り「変化させる」という自動詞の使役形がある。訓読語であっても「変化せしむ"henka-seshimu"」と言った方が伝わりやすいかもしれないが、それであれば元の漢文に「令〇〇変化(令〇〇變化)」とあったほうがよい(訓読: ○○をして変化せ令む)。
現代日本語の述語はその3種の動詞に加え、4番目の位置づけとして文法的に述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉(動詞連用形由来の名詞・形容詞)が挙げられる。
「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉は感情表現の述語に用いられる。
なぜ「○○は××を好く・嫌う・恐れる(文語終止形: 恐る)・欲する(文語終止形: 欲す)」という他動詞の類で画一的なSOV構文で済むところを、「〇〇は××が好き・嫌い・怖い・欲しい」と言うか?
日本語で古代からどのような文・センテンス(文章的な構造を持った言語表現のことであって必ずしも記述された文章である必要はない)が話されてきたかは知り難い。
私は、これが婉曲的な言い回しであるように感じている。
※婉曲的な言い回しとは、例えば、「する」という意思による行動をあたかも自然の成り行きであるかのように「することになった」と言う。謙遜表現・謙譲語で「いたす・いたします」という意思による行動をあたかも相手の了承が得られていることを決めつけるように「させて頂く・させて頂きます」と言う。これは他の現代日本語の特徴に似ている。これはまた、結果であれ過程であれ日本人の、その価値観と関連する(少なくとも「することになった・させて頂く」は他国の言語に見づらい表現)。これはあくまでも筆者の私見であり、筆者による類比である。現代日本人の大半は、どんな表現であれ、意味論的に認識して用いず、専ら役割を持たせた語用論としての形骸化した言い回しで用いることに注意すべきである。
グルジア語との比較・類比
南コーカサス語族(カルトヴェリ語族)に、グルジア語(ジョージア語・カルトゥリ)がある。
※グルジア語は能格言語や活格言語のようであり、分裂能格"split ergativity"を持つ。主語・目的語に付随する標識(マーカー"marker")の用法のことである(格接辞や日本語の格助詞に相当)。それにより、自動詞や他動詞やそのほかの動詞に関する文法的な位置づけが明瞭になる。グルジア語の場合は標準的に主語が日本語や英語と同じ主格であるが、他動詞が完了相または完了時制のようないわゆる過去形の時に限って主語に能格"ergative case"の標識が付く。能格性は他のコーカサス諸語(南・北東・北西の各語族)にも顕著(南は分裂能格のみで北東はチェチェン語などが能格言語で北西はアブハズ語などが能格言語)である。また、動詞の活用にはラテン語や梵語や古代ギリシャ語と似た行為者の一人称・二人称・三人称の区分が徹底されるが、被動者(patient)の標識を含めて一つの動詞とする点(筆者は学習不足なので不明)で、抱合語のような特徴にも注意を置くべきである。
英語版Wikipedia - Georgian verb paradigm記事には、"Georgian has four classes of verbs: transitive, intransitive, medial and indirect verbs"とある。
transitive と intransitive と medial と indirect という4種類の動詞を挙げている(Hillery, THE GEORGIAN LANGUAGEのサイトと類似の内容)。
このうち、"indirect verbs (直訳: 間接動詞)"について注目したい。
グルジア語の文法でも、感情表現の述語もとい動詞が普通の他動詞や自動詞とは別物と区分されているようである。
ただし、それは日本語の文法的に述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉と異なり、普通の自動詞や他動詞と同様の活用を持つ。
その記事のClass 4 (indirect or 'inversion' verbs)節から少し、引用する。
Class 4 (indirect or 'inversion' verbs)
- This class of verb is known as indirect or 'inverted' as it marks the logical subject with the indirect object marker set (m- set) and the direct object with the subject marker set (v- set). Nouns are declined in agreement: the logical subject is in the dative, and object in the nominative (or sometimes genitive, as in gogo-s (dat.) dzaghl-is (gen.) e-shin-i-a - the girl is afraid of the dog).
- Verbs in this class denote feelings, sensations and endurant states of being (see also stative verbs), including verbs such as q'av - to have (X, animate), kv - to have (X, inanimate) q'var - to love and nd - to want.
The verb paradigm follows. For simplicity, the verb form always assumes a 3rd person singular object: Verb root q'var - to love (筆者注: 前class 1から3では不定詞の形"infinite form"が併記されていたがここにはそれがされていない)
- Class 4 verbs also include 'desideratives' (verbs of desiring), created using the circumfix e- --- -eb (compare tsek'v-av-s 'he dances' and e-tsek'v-eb-a 'he feels like dancing').
この区分のグルジア語の動詞の文例に"გოგოს ძაღლის ეშინია. The girl is afraid of the dog. (英文の逐語訳: その少女はその犬について恐れている。 意訳: 少女は犬が怖い)"を挙げているし、他の語彙として"to love"や"to want"を挙げている。
"to have"に関しては恐らく「私には○○がある」と言う時の"I have *** (直訳: 私は○○を持つ)"の意味を指すものと思われる(cf. ラテン語: *** mihi est. 文法上の主語である***が3人称の単語であるためその述語の動詞「ある」はestのような3人称の活用となる)。
その区分の動詞の活用を示す際に動詞語根"q'var (グルジア文字: ყვარ)"を例示している。
これは英語で"to love"、「愛する」という意味である。
「愛してるよ」・「君のことが好きだ」という日本語を英語で"I love you."というが、グルジア語では"მიყვარხარ miq'varxar ミクヴァルハール (mi-q'var-xar ミ・クヴァル・ハル)"となる。
※q' の字(qにアポストロフィ。別の翻字体系でq̇)で表されたグルジア文字"ყ (ムヘドルリ体)"はq'ariといい、無声口蓋垂放出音(音価のIPA: [q'])である。単語例"მიყვარხარ"に対して慣用的なカタカナ表記を付したが、後でインターネット上の音声を探すと、一例には「ミグヮルハル(migwarhar)」のようにV音が接近音か唇音化 [ʷ] らしく聴こえる(前の音ყ = q'と合わせて有声口蓋垂ふるえ音 [ʀ] にも聴こえる)し、無声口蓋垂放出音は有声軟口蓋破裂音 [ɡ] のように聴こえる。まあ「愛している"a-i-shi-te-i-ru"」を「愛してる"ai-shi-te-ru"」のように発音する現代日本語と同じように口語的な簡略発音(母語話者にとって他に弁別される類似発音の語が無く形式的に聞かれるフレーズを想起しやすいため)は有り得ると思われる。また、その例と他の例はともに代名詞"I, you"に当たる主語と目的語とを先に言って"მე შენ მიყვარხარ (me shen mi-q'var-xar メ・シェン・ミクヴァルハール)"としている点、「僕は君のことが好きなんだ(我、汝を愛す)」くらいに具体性を伴っている。"pronoun drop (pro-drop)"の類である。
これらを便宜的に"Class 4"と位置付けて"Verbs in this class denote feelings, sensations and endurant states of being (see also stative verbs)"という。
また、"Class 4 verbs also include 'desideratives' (verbs of desiring)"といって「~のような感じだ(~のような感じがする feel like ***)」という表現も含まれるという。
このグルジア語の動詞の位置づけの一つは、日本語の述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉に近い可能性が有ることを付記する。
関連する言葉は日本語も英語もグルジア語も概して自動詞のようだが語源が他動詞である表現かもしれない。
※英語には先例の"to be afraid... (その例文: ワンワン怖いよぉ)"以外にも"to be shamed... (e.g. 人前は恥ずかしいよぉ)"がある。調べてみると、中英語以前(-12世紀)はもう少し、多くの動詞は今ほど他動詞が多かったわけでないという情報もある(cf. 鈴木, 2014とそこに示される中尾, 1972や大沢, 2000)。古英語やゲルマン語の古層に関して、興味が有れば調べてみるとよい。
この英語版Wikipediaの記事は、出典に乏しく、文献の参照の程度が不明瞭であるものの、書いてあることをそのまま信じれば、グルジア語の動詞は4種類あり、現代日本語の4種類の述語表現(他動詞・自動詞・自動詞の使役形・感情系述語表現)と綺麗に対応しそうである。
何らかのグルジア語学習の教材にも、恐らく同様の説明がされていると考えてよい(cf. 横井, 2000 グルジア語概観およびHillery, THE GEORGIAN LANGUAGEおよびAronson, 1990 pp. 332-369 Class 4についてはローマ数字でIVという表記例も多い)。
※他の比較対象に、いくつかの西洋言語を取り上げてもよいが、扱いに困る。「私は××が好きだ"I like ***"」という表現は右のようになる、という例示のみをしよう。フランス語"Il me plaît ***", ドイツ語"*** gefällt mir", ロシア語"Мне нравится ***" これらのうち日本語文の「私は」にあたる語は、みな与格"dative case"(fr: me, de: mir, ru: мне)であり、そのような構文で共通している。グルジア語の文例で"გოგოს ძაღლის ეშინია (その少女はその犬について怖がる⇔その少女へその犬が怖がらす?その少女にその犬が怖がらせられる?)"も同様である。これらは与格構文"dative construction"だといわれ、本来は間接目的語に使われるような与格が英語や日本語の文における主語になっている(斜格主語"quirky subject; oblique subject")ために倒置構文ともいわれる。ただし、上掲の例におけるフランス語などの文の人称代名詞の与格用法と、グルジア語の文の名詞の与格用法とがどれほど類似しているか、筆者には判断しづらい。
感情表現・幼児語の正統性
「好き・嫌い・怖い・欲しい」という人間の感情は、あらゆる動詞に同じく、文法の規範によって表現できるものの、人類言語の原初(単一発生の場合も不干渉複数発生の場合もあるがそれはどれでもよい)には文法の規範が確立されていなかったろう。
心の現れとして、感情表現のために言語が用いられた当初、どのように動詞概念が有ったろうか?
自然の事象と、自覚された感情との二者は、どのように類似するものとして理解されたか?
古代の言語について考えなおす判断材料になると思う。
文法の規範や論理性を重んじる人や、英語中心主義の人は、現代日本語・口語の表現が稚拙で乱れたものと考えるであろう。
確かに漢語・印欧語など、文献的には紀元前から発達していた文明(例証として日本語よりも古い時に作られた文献が多い)で用いられる言語は、それだけの言語的な質・量を得ている。
しかし、それ以前の印欧祖語の存在性は不明確であり、印欧祖語以前の同型遺伝子の民族や同時代の他の民族において、どのような言語が用いられたかは、全く確証が無い。
cf. 元記事 述語省略の例文「お姉ちゃん、お菓子(人物への呼びかけ + 何らかの名詞)」
あるいは複合語「お姉ちゃんお菓子」としての解釈
依士釈(タットプルシャ)「お姉ちゃんによって調理されたor創作されたお菓子(お菓子byお姉ちゃん)」 「お姉ちゃんが有するお菓子(お菓子ofお姉ちゃん)」
持業釈(カルマダーラヤ)「お姉ちゃんという名のお菓子(お菓子theお姉ちゃん)」 「お姉ちゃんのような見ためor味or香りのお菓子(お菓子likeお姉ちゃん)」
もし何らかの言語がそれらの先史時代の民族に用いられていてその言語を推定したいならば、古今東西の言語を学び、知悉する必要がある。
英語において、主語・述語・目的語に関する規範的な用法でさえも古英語のころからが有ったか、最低限、残っている文献("Beowulf"など)だけでも読んで理解されるべきことがある。
言語に興味を持つ者にとって、課題がまだ多い。
私がいつもこの意志を保てるわけでないにせよ、かなり課題が残されていると自覚する。
起草日: 20190203
元記事と同様に、絵・音楽・執筆にブランクの傾向がある中、当日(上記日付)、俄かに記事の案が浮かんで必要相当にまとまったため、起草し、6,000文字ほどを打った。
中卒無職(22歳)である私が、向学心によって学問を進めている。
エリート主義・権威主義的には「学問に置けない・不倶戴天の存在」かもしれない。
例えば、野良犬が狂犬病(rabies)などの伝染病(epidemic)を媒介したり、農作物・備蓄の食害を起こすことで、現に人間の生活(住環境や家畜の生育)に害をもたらすようなものである。
これは野良犬についての偏見と人間的な功利性を伴うが、あくまでもそれを認識した上での譬喩である。
「野良犬にも似た私の学問」が、エリート主義・権威主義的には忌避されると思われる。
私は学術用語・概念をどうにか駆使し、「野良犬かつ雑種犬が新しい血統の犬種と認められる」かのような努力を続けられるとよい。
本文中の※印注釈に関連した備考→『受動態(受け身・受身)・被動者の英語はラテン語由来の"passive, patient"である。いずれも語頭pa-であるしラテン語の語源(不定詞: pati 苦しむこと)が共通している。ところが、日本語の漢字名称は語頭の字が受・被で異なっている上に、受身は「うけみ」という訓読みである。"adversative passive (indirect passive)"に至っては「被害受身 (間接受身)"ひがいうけみ (かんせつうけみ)"」などとちぐはぐな読み方・ハイブリッド読み・四字二分重箱読みをしている。中国の言語学もとい語言學(simp. 语言学)では"passive, patient"が「被動語態・被動者」として訳語の語頭の字が「被(bèi ペイ)」で共通する(ピンインb-字の発音はラテン語の無気p-発音と同じ。語頭の子音が合う点も音義借用翻訳のようで好ましい)。またしかし"adversative passive"を「被害受身」とすると日本語における重言のようでもあるし、ここは「損害被動"そんがいひどう"(indirect passiveは間接被動"かんせつひどう)"」でよかろう。する・されるという概念は大乗仏教中国仏教以来、能・所(のうじょ)という対立概念の名にもなっていて言語学の相・アスペクト"aspect"にも能相・所相という名称があるのだから、能動態に対して所動態(しょどうたい)という名でもよい。受動態も中国のように被動態と改めるべきだ。つくづく日本の言語学における訳語には疑問を覚える(cf. 同格"appositon"⇔格"case", 内破音・入破音"implosive consonant"漢語伝統音韻である入声と語頭の字が同じだがに関係ない音。入声は[p̚] [t̚] [k̚]の無開放閉鎖音"unreleased stop"とされていてそれを内破音だと言い出す日本人学者もいるので紛らわしさの極み)。受身(うけみ)という訓読みの語はごく日本語の文脈に限って使うべきで英語概念の訳語には合わない。上代~近世までの仏教国・日本での漢語用法からしても「被動」や「所」でよいし現代中国に譲歩する考えもよい』
今回の記事のパーマリンク"indirect verbs"に関連したラテン語(由来)の文法用語"verba sentiendi"(verba: 名詞・中性・複数・主格 + sentiendi: 分詞・中性・複数・属格、意訳: 情緒動詞・感覚動詞), "verba affectuum"(verba: 前に同じ + affectuum: 名詞・男性・複数・属格、意訳: 感情動詞), "verba habendi"(verba: 前に同じ + habendi: 分詞・中性・複数・属格、意訳: 所有動詞)
軽い造語→"verba irregularia"(verba: 前に同じ + irregularia: 形容詞・中性・複数・主格、意訳: 不規則動詞)
今回、何となく目についたグルジア語(ジョージア語・カルトゥリ)を引き合いに出したが、これは対照言語学的な手法として可であろうと私は考えている。
個人的な学問のための今後の展望として、日本語・漢語・印欧語(地理的にはフィンランド語・ハンガリー語・バスク語を含む)以外にも、グルジア語ないしコーカサス諸語をはじめとした膠着語・抱合語系統に対する学習を進める必要がある。
グルジア語ないしコーカサス諸語を対照言語学の中心にする場合、オーストラリアのアボリジニ系の言語群や、アメリカ大陸のマヤ系だったか西海岸北部とかだったかの言語群も引き合いに出した方がよいと思われる。
ユーラシアを超えた言語学習・研究・考察のための、意思がまだ無い。
どれほど、広い規模の言語が対象となるかと思うと、広いようではあるが、所詮は一球体・グローブ単位のグローバルであり、人類単位のユニバーサルである。
つまり、地球上の現生人類全体かつ単一人類(Homo sapiens sapiens)における共通性や普遍性の探求であることを意識すべきである。
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