さて、仏教徒は盲目的に平和を唱えていればよかろうか?
戦争は確かによくないとしても、現況の改憲・護憲論争について飛躍した主張は多い。
無論、仏教徒には改憲とか護憲の論議自体が無用であるが、少々綴る。
大前提は、改憲を行えば絶対に安全が保障できるとか、護憲を維持すれば絶対に平和が維持できる、などという結果を望んではならない。
改憲も護憲も、共に功罪はあるが、それは2016年6月23日(現地時間)に実施されたイギリスの国民投票(Brexit投票)の趣旨で、イギリスのEUからの離脱・残留の双方に功罪を包含している事実と同じである。
その功罪の具有を理解し、己が後悔しない判断が第一である。
中道を理解し、この前提を踏襲すべきである。
まず私は、既成事実化している現行の日本国憲法の無理な改正を推進しない。
しかし、したい勢力が大勢ならば、好きに改憲をすればよい。
民主主義国家・法治国家ならば当然であろう。
今の自衛隊の位置づけを正当化する範疇ならば、改憲に問題はない(自民党の改正草案の全てを肯定できないため改憲の範囲に更なる議論は必要であろう)。
改憲をしたからといってよほどの政権の暴走は、民主主義の現代文明下で起こらないと信じる。
「護憲」の語については多義的である。
「立憲主義」は都合よく用いられる。
護憲とは、現存説や有効論がある大日本帝国憲法への護憲か、現行の日本国憲法への護憲かといえば、大概は後者である上に、専ら「憲法9条 (憲法第九条)」に念頭を置いているところ、偏狭な定義が多いようである。
今時に立憲主義を標榜する者は、日本国憲法を以て不磨の大典(貞操観念)とし、なかんずく第九条を金科玉条としている。
現行憲法9条の原義である、後の自衛隊を含んだ完璧な武力の放棄はどうであろうか?
憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とは、空虚な観念論である。
例えば、密林に猛獣がいないと過信してターザンのような生活を望むも、無防備・軽装のまま猛毒の蛇や蜂などに攻められかねない危険性がある(無論、回避したり彼らの攻撃性を煽らない行動を取ればよいが実際は困難を極めよう)。
また、「"平和を愛する諸国民(観念偶像)"を信頼して自存自衛を決意する(取意)」とは、浄土真宗の他力本願とそっくりである。
皮肉にも、「他力本願」の俗用を嫌う浄土真宗の、一部僧侶が、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の四十八願と日本国憲法が共通している、といった妄言を吐いている。
こんなことでは「日本の防衛は他力本願ではいけない(取意・ここでの他力とは"平和を愛する諸国民"ではなく"米軍"のことか)」という昔の閣僚の発言に抗議などできなかろう。
現行の日本国憲法の立場も浄土真宗の宗旨も「他力本願」が是であろうし。
日本の仏教宗派では、浄土真宗・浄土宗系のほか、禅宗系とりわけ曹洞宗は現行憲法の護憲論者が多く、教団規模の取り組みにすら見えてならない。
もっとも、「団体・法人の目的を超えた活動」という非難を恐れて大胆には動かないであろうが(これを怖じずに憲法9条を守ろうと運動する日本山妙法寺という団体もある)。
仏教において戦争・平和とは、欲望などの三毒が生み出す忌まわしい地獄・修羅の業の結果である上、その三毒に塗れたまま命を落とせば死後も地獄などの悪道に堕ちてしまう。
かといって、無理に抑制しようとするものでもない。
結局、当事者の過去遠々劫に於いて積み重ねた悪業の因縁によって結果的に発生する。
巻き込まれる者も同様であり、「自業自得」とは本来、こういった広い見地より言う。
6月20日の記事で紹介した釈尊御在世の故事(釈迦族と毘瑠璃王の話)も、最初こそ釈尊は当事者間の衝突を食い止めようと動かれたが、3度目以降に彼らの悪業の因縁を知り、不可避の闘争であると識って不本意ながらもそこで行動を終えられた("仏の顔も三度まで"という諺の原意)。
悪業・宿業の根深さとその忌まわしさは、十大弟子の一人にして阿羅漢果を得た目連尊者が婆羅門に打擲せられて亡くなった故事(尊者自身が過去世の業を覚って死を覚悟した)にも見られるが、妙法である日蓮大聖人の法門は、悪しき宿命をも転換して現世安穏・後生善処の利益がある。
無論、南無妙法蓮華経の信心を守り抜いて他宗信者の武士に処刑された熱原三烈士の死に様は、目連尊者にも似るが、これらは「転重軽受」による罪障消滅であり、無始以来の罪業を現世の一瞬で"軽く受けた"といわれる(死に際しても泰然としておられた心の現世安穏)。
話を戻して戦争・平和についていえば、立正安国論で諸経を引かれて「他国侵逼」から国を護る手段を訴えておられる。
広宣流布、仏国とならないうちに、観念的な平和憲法の理想は空理空論である。
坊主・・・仏教徒であれば、真面目に布教し、広宣流布を遂げてから平和憲法の理想を実現すべきである。
武力の放棄は最終目的であって「いつか」は「今」ではない。
その「今」とは、西洋的合理主義が巷間に蔓延って定着し、仏教にも外道の邪教にも理解がなく、現代的合理主義の個人主義と啓蒙思想の相乗効果で宗教を一緒くたに卑下して世俗的・皮相的な思考しかできない現代人(世俗教シャカイ派信者)ばかりの「末法悪世」ではないか!
宗教家であれば、憲法の議論よりもこの事態を甚だ悲しまねばならない。
平和憲法を全否定しないが、安易な肯定もしない。
率先した武力放棄による「急進的平和運動」は実現性がない。
先述の釈尊御在世の故事(6月20日中の記事釈迦族と毘瑠璃王の話)を再度確認されたい。
虐殺的な闘争も不可避であったし、いくら慈悲を以て教導しようとも、毘瑠璃王の瞋恚を制御できなかった。
世界中の核軍縮はオバマ大統領の鼓舞でさえも進展が見られず(彼は発言する勇気があっても発言した内容の実行力に欠く)、日本国で仏教の教団が形骸化する中、武力や軍備の放棄をすれば、仏法は元より世法においても日本国を根無し草と成さす。
時宜に随って変化する世俗の条文や法制度の在り方くらいで一国乃至全世界の平和の実現を願うなど、仏教徒の発想ではない。
日本の歴史において偉大なる黎明主君にまします神武天皇も、己未年(西暦に換算して紀元前662年)三月に「さて、統治者となった私は法律や制度を定めようと思う。その意義や内容は、時間に応じて改変してよい。それで仮にも人々の利益となるならば、統治者の理念に反することがあろうか (夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造)」と詔勅をあそばしている。
事実の真否を問わず、古くから日本人の立法観・政治観はこのように「諸行無常」を弁えていよう。
日本国憲法については昭和天皇の勅語(昭和21年)にも、「國家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された國民の總意によつて確定されたのである。」と、あくまでも当時における「國家再建の基礎」を前提としていたし、当時は実際にアメリカなどの占領下であって軍事衝突など考えられなかった(ソ連は終戦直後に千島列島などを不法に侵略したが)。
時局に対して柔軟にあるべき政治ならば、必要性を訴える声に応じて前向きに議論すべきである。
修行者の今生は、断ちがたい煩悩との付き合い方が重要な課題である。
よほどの聖人や上根上機の人でもないと、俄かには煩悩を断ちがたい。
また、人間(健常者)は誰しも悩みを抱えながら生きている。
多くの悩みをいきなり排除して奔放に生きることなどできないし、他に悩みの速やかな解決の手段としては自殺くらいしかない。
しかし、「死の絶対性」に任せるだけの虚無主義ではいけない。
そこで仏教では、死後の輪廻を説き、また現世における解決法をも説くから、「死ねば終わり」の虚無主義を一蹴している。
人間として生存する以上、どのように悩みを解決して幸せを得てゆくか、慎重に考える必要がある。
国家もまた然り。
しばらく荒れている世界に処する上で、軍備と付き合うべきであろう。
日蓮大聖人の「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず (乃至) なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし(学会御書 1,192~1,193p)」と仰せになった御書の大意は、兵法が優れていても兵法を活かせる運や根本的な精神が無ければ役に立たないことを意味している。
つまり、兵法(国家で言うと軍隊)による危機の回避を認めておられる。
「なにの兵法」とされる実質的能力も、「法華経の兵法」という精神やそれによる福運と共に必要であるそう(ある種の中道や和を説いている)。
お言葉を賜った四条金吾殿は、絶体絶命の諸余怨敵の攻撃を回避すべく、「兵法」を行使したわけであるが、同じく日本国も怨敵の攻撃を防ぐために軍備は必要である(怨敵の如き侵略戦争などしない)。
※大聖人の御文の如くんば、軍備を強化しても放棄しても、改憲も護憲も最終的には国内の乱れ・他国の攻撃を受けて窮地に陥ってしまうか、やはり正法なくして国家の安泰は成り難い。
軍備とは忌々しいもので、核兵器などはその典型例である。
諸刃の剣の如く、自国にもリスクが大きく、保有国がアメリカから北朝鮮までこぞって将来的な核廃絶を主張していても、核軍縮は進まず、核開発を継続するなど、保有国間の疑心暗鬼が強い。
このように、核兵器ですら手放しがたく、現在はなお疑心暗鬼が強まっている。
娑婆に完璧な清浄は有り得ない。
過激な平和主義者は、常楽我浄の四顛倒の幻想を捨てられずにいる。
改めて中道の意義に念を押すと、憲法論争の元凶は無明の邪見「常見・断見」に尽きる。
「常見・断見」とは、人間の生死(死生観)という哲学的・宗教的テーマに限らず敷衍できよう。
極端に現行憲法を「不磨の大典」として守りたがる人は「常見」であり、一方で帝国憲法の復活を訴える人も「常見」であり、自主憲法を作り直そうという徹底的な改革を目指す人は「断見」である。
この「常見(有への執着)」も「断見(無への執着)」も極端な見解であり、「中道(非有非無)」の仏教においては何ら推奨しない。
ただ、改憲の必要があると意見が高まれば、その一点を議論すればよい。
強ちに改憲をせずともよい状況では、差し置けばよい。
自民党に陰謀論多しといえども、現行憲法を既成事実として受け入れ、改憲に前向きである点は、もっとも「中道」、安倍さんのいう「中庸」の旨に近い存在と、私は思っている。
更に言うと、「与党の中の野党」を自称する公明党は、宗教政党だけあって政策も改憲議論も穏当な立場に見え、良くも悪くも中道に見える(支持母体の教団一般会員側と政権与党での立場のバランスが微妙を極める)。
背後の教団も含めた歴史的経緯(投票事件・言論ナントカ・主張の変節・各種陰謀など)についてはここで論じない。
色々と論じてしまえば、自民党がアメリカの言いなりであるから各種政策を成立させてきたとか、過激な護憲派や民共野合野党が中朝の手先であるから与党に文句をごねてばかりで、中朝など実際に戦争を起こしかねず今も国際法を蹂躙したり近隣国家と衝突している現実的脅威には何も抗議をしない、などの陰謀論に走ってしまうから、それらの邪推は封じ込める。
ここまでにそういった方面を触れないでおいた理由は、疑惑による悪心を起こさぬためである。
実相に詳らかでない物事を推し量って仮に信じても、盛んに広めないほうがよい。
万事に顛倒を起こしかねない(6月20日の記事・脚注3に同意)。
政治的な最善をここであえて言及すると、そういった陰謀論・陰謀説を含めて胸襟を開いた議論がされ、護憲派も改憲派も明確な認識を相互に示すことであろう。
とはいえ、今後ともそんな公平公正の議論などされようもないこと、欺瞞に満ちた政治家や政治団体を見ている人は嫌というほど御存知であろう。
現状、相互に邪推をかけて譲らないわけだから、今までが仏教の「中道」に適っていないばかりか、日本の「和(譲り合いや話し合いの意義を重んじている)」の思想にすら遠い。
聖徳太子の十七条憲法に「十七に曰はく 、夫れ事・獨り斷む可からず。必ず衆と與に宜しく論ふべし。少きことは是れ輕し。 必ずしも衆とす可からず。唯だ大きなる事を論ふに逮びては、若しは失有ることを疑ふ。故に衆と與に相辯ふるときは、辭・則ち理を得。」と。
この一条の意義を熟考して拝察し、心せねばならない。
※この訓読文は、複数の検索結果から独自に組み直した。理論を概説すれば、全て和語で読めるようにし(例えば"論う"ならぬ"論ず"は漢語サ変動詞だから非推奨)、"是"・"唯"などは送り仮名を振り、原文にある漢字は出来る限り残した。準体助詞"とき"や再読文字の場合の"べし"はひらがなでよい。
起草日: 2016年7月8日・・・同日に前の政治記事を原稿とした動画を投稿したり、同記事に脚注を設けて2つの注釈を加えた。
追伸: 2016年7月13日19時、今上の天皇陛下が、生前、特に数年以内に退位せられる意向を示しておられるとの御報を耳に入れた。
この日、参院選で当選した無所属議員1人と別の民主系無所属議員も自民党に入党せんと発表し、自民党が参議院で27年ぶりの単独過半数になんなんとする政局の変化を見た矢先である。
時局に複雑さを感じる私だが、向こう数年間は陛下がコロンと崩御せられることはなく思う。
陛下の御宸襟を探るようではあるが、この際に書いてみる。
お年を召されながらに、陰陽、様々な公務の折にも、深いお考えを胸中に秘めておられ、時に随ってこれを周知せしめんと思し召されていたのであろう。
やはり偶然もあろうか(そもそもNHKの独自報道が第一報であって以前より皇室で内々に同意もあった様子)と思うが、陛下の御耳におかれては政局や世情を聞し召しておられようし、生前のうちの退位を御決意せられた経緯は、こういった心境があろうと邪推を致す。
日本国憲法に関連する議論の進行の注視や最終的な裁定、今なお止まない男系護持のための皇室典範の改正議論の動向もあって今は早すぎず遅すぎず、と判断して妥当であるから、こういった政局や世情を観ぜられた影響を拝察する。
現行の皇室典範(異称: 占領典範・日本敗戦後に作られたため)には、この「生前退位」を認める規定もないため、改正の必要性が言われ、これを契機に様々な改正が議論されようか。
無論、皇位の在り方は陛下の御意思こそが第一であり、それ自体を民衆や政治家は論ぜず、ただ戦後に制定された現行の皇室典範の改正の是非を論ずればよかろう。
例えば、現行の皇室典範では皇室の方(皇族)の婚姻に関して内閣総理大臣を議長とする「皇室会議」のメンバーが結婚の是非を決議する必要があり、皇室の尊厳を政治に関連するものとして民主主義の枠に押し込めた、尊卑逆転の制度が縛りつけている。
ただ、皇室の方の意思に対して皇室会議の構成員が著しく反発することも有り得なかろうし、そもそも皇室の方は、民が失望しない判断に自然となるお徳をお持ちであられる。
煩雑な皇室会議の合議も、皇室への障害とはならないように思う。
事実の真否や、実際の行く末はともかく、こういった私の見解も仏教の思想が大いに出ているので、再度、理解を深めてほしい。
そのために、恐れ多くも愚見を忌憚なく綴っている。
2014年5月の開始から、時期ごとに学術的と感じる方法に、メモ感覚を兼ねて随時投稿する。身辺や私情を主題に論理を展開することが当ブログの個性である。当ブログの学問関連には、不正確な情報が古い時ほど含まれるので、慎重に確認されたい。キーワードと表記ゆれを重んじる。何か気になる語句があれば検索 ([Ctrl + F] またはブログ内での検索機能) を推奨する。
2016年7月20日水曜日
2016年7月10日日曜日
真の健康法の弁証 ~ 既成の健康知識に飽きた現代人へ
まず欲望があるとし、その欲望が満足されれば、これから起こる欲望を肯定する心理が生じる。
それが欲望を起こし続けてやまなくなるか、その極致でようやく満足が得られても、満足の心境や生活状況を持続できない場合が多い。
好例は現代文明の「スポーツ・飽食・便利な生活」を享受できる富裕層である。
仮に欲求満足を死ぬまで持続しようにも、不覚の急所を補えていない(非常時を想定していない)と、稀な幸運の者しか叶わないし、ましてや万人・大衆が実現できるという普遍性が無いし、ごく一部の人間は虚栄に用いる(民主主義・上流階級の理想は人類平等であろうに)。
奔放に欲望が起き続ける健康は「真の健康」と到底言えない。
「生老病死」の四苦は誰にでも必ずあるから、これを心の奥底より打ち克とうとしなければ、安楽が崩されようとする時に大なる苦しみ(自覚できずとも)を受けるため、真の健康に遠い。
「真」とは絶対性である(後述)ので、心身ともなる健康が崩れない境地は「真の健康」と呼べる。
「真の健康」には特別な道具も食事も費用もいらず、道理が分かれば多くの人が今の生活のままに実現できる(一定の自由がある前提だが)。
さて、真の健康とはいかなるものであり、どのように実現されるか、しばし開陳する。
真の健康法は己が内にあり、どうであろうか?
世の人々を見るに、どういう食事法であるとか、何を食べるとか、どう調理するとよい(焼き加減)など、「即物的観念論」にとらわれている。
また、テレビや雑誌などの通販に、こういうサプリメントだとか栄養補助食品で「何キロ痩せた」、それらや化粧品などで「綺麗になった・見た目年齢何歳若返った」と、実証的な宣伝がされているが、これは人によって「胡散臭い」と思うかもしれない。
私はそれらの方法論や製品に関する疑義を、ここでは述べないでおく。
そして、何よりも「昔の日本人は健康的な食生活を・・・」などという評価は、むしろ昔の日本人の心に背いていよう。
食生活は時代背景による食料のあり方と、精神性による結果的なものであり、それを現代人がありがたって真似する様はお笑い種である。
何を食べるとか、どう行おうとかと、形だけを真似しても、派手なメイクや美容整形で繕う欺瞞的な人々と大きな差はない。
みな、現代的な思想に毒されていて大事なものを見失ってしまった姿である。
我田引水となろうが、伝教大師最澄さまの素敵な言葉を引用する。
「法華経を贊(ほ)むと雖も還って法華の心を死(ころ)す (法華秀句)」*1と。
これは、法相宗・三論宗という宗派の高僧たちが、法華経というお経の注釈書を作って法華経を讃えたが、それら宗派の本心は唯識論などを尊び、「法華の一乗」の思想に背いているから、「彼らが法華経を讃えることはかえって法華経の心を殺す」、そう最澄さまは説かれている。
今の日本人の一部は、平安貴族が豪遊していた(高等遊民?)とか、官僚が高収入だとか、ナンタラ造りの屋敷が壮麗だとか、そんな夢想ばかりに耽っているが、これは「昔の日本スゲー!カッケー!」と讃えているようでも、かえって昔の日本人にご迷惑ではないか。
子孫末裔である我らが、時に先人を悪しく讃えるが、先人は虚栄を誇りたくてそんな生活をしたとは限らない。
健康法の話に戻すが、要はそういった心も知らずして徒らに妄りに、昔の日本人は何を食べて健康的だった、理想的な食生活を取っていたとかと科学的実証をした上で多大な評価をするが、どこまでも先人の心には遠ざかっている。
真の健康法は食事療法・運動療法などではないため、真の健康も得られないことであろう。
健康に関する俗悪な諸々の書籍など手に取るに値しない。
「食事と運動のバランス」が健康の肝要である通説には一理あるが、それだけでは不十分である。
特に、ダイエットなどは、自分の心を律していれば自ずと痩せるものである。
これは単純な精神論にあらず*2。
そもそも、「自律」ができていれば過度な状態に陥らないはずであろう(特異体質など例外を除く)。
仏教で、少しポピュラーな言葉に「少欲知足(欲を少なくする・足るを知る)」がある。
この言葉自体、「健康法」とは何ら関係はないし、仏様はそんな現世の延命のつもりで説法をしなかったろうが、実際にこの精神性が「良薬」と思う。
世のことわざにいう「良薬(は)口に苦し」の「良薬」とは、「物体としての薬が良品ならば苦い」という矮小な見解で捉えてはならない。
一億総精神病患者であると自覚し、仏教という最上の良薬を須らく取って服すべし。
※精神云々も西洋の概念で近代の訳語だが、便宜上使った。精神医療の業界はしばしば「薬漬け」の問題が取り沙汰されている点など、薬全般の普遍的問題の顕著な例が判然としている。
真・俗の二義あり*3。
真は絶対性、俗は相対性に約す。
真と俗、これを現代語で具体的に示すと、精神と物質(肉体)、心と形(物)ともいう。
だがまあ、凡夫(全人類)の精神や心そのものを以て「絶対的真実・真理」と言わない。
人の心とは、別の外形的事象に流されるからである。
いずれにせよ、心の動き(判断)から行動が発生し、物事の状態が決まってゆくことも人の世の常である。
私が披瀝するところの「真の健康法」では、このうちの「俗」と称する科学的な健康知識も多少取り入れ、真・俗も不可分の立場を取る。
仏教の僧侶も「俗の道理を踏まえねば真の道理を得ることはない。真の道理を得ずして涅槃(当記事でいう真の健康に置き換えてよい)を得ることはない」と説いた(脚注*3にも少し引用)。
故に私は、「悪い食べ物を食べても問題がない」と極端な結論を言うつもりはない。
物心一如の上から真っ当な論理を述べるにあたり、今の日本人は「物・心」のうち、後者が著しく欠けている問題を提起する。
健康的な食事や生活を求めることは構わないが、その物質面に先立つ精神性を得ることが急務でなかろうか。
それだけでも自然と食事や生活などの全てが適度に整って健かになろうから、栄養学的知識・摂る食品の良し悪しや効能などは、その後に考えればよい。
むしろ、ややもすれば今の日本人はくだらない精神論(綺麗ごと)を垂れ流すわけだから、私の所説が精神論という領域に押し込まれることは、相対的(綺麗ごとに対する比較)ながらあり得ない。
最も普遍的で世界中の誰もが行える、いな、本来の日本人の能力であったものが、100年以内に失われ、今や日本人は夢にも思わない。
私の言う真の健康法とは、「健康法」と称するまでもなく、実に本来の日本人の生活に具有されていた。
ただし、それを忘却して久しい現代では便宜上、真の健康法と呼ぶに値する。
「真の健康」は、人間の性質として具している(性具"しょうぐ")。
「真の健康法」は、これを自覚して呼び覚まして維持することである、と言い分ける。
真の健康は、必ずしも「平均寿命より長生き(長寿)」とか「無病」などという結果を指さない。
本来の身体的機能が精神によって再起し、心身ともに「人間らしさ」を可能な限りに取り戻すのみで、それ以上の健康体(不自然な手段による)を望めば、すでに真の健康ではない。
しかし、精神面の健康を得たことで肉体面の健康も同時に自然と得られる人は、全員とまで言わずとも確実に増えるであろう。
世間の健康食品などの宣伝では、使用者(愛用者)の声だとか、○○健康法を実践してそちらの面の健康を得たという人の話などを載せるが、私はわざわざ他人の実例(セーシンが優れている人)などを示さない。
仏教には「八万四千の法門」という言葉がある通り、多くの教えや修行法がある("八万四千"は数の多さを表す比喩で文字通りの数を意味しない)。
健康法に関しても「○○ダイエット」だけで凄まじいほど喧しく聞かれ、虚実・ピンキリ、様々な方法論などが飛び交う。
テレビやネットやチラシや雑誌の通販にもまた、虚実・ピンキリ、様々な製品(健康食品や運動器具など)が夥しくあり、その効能を鵜呑みにして信じる消費者もいれば、消費者庁の改善命令ほか、行政や司法の介入で制限が入る例もある。
種々の通販は、世にいう「新興宗教の勧誘」などと何か異なるであろうか?
信じることで宣伝される効能以上の結果を出す(プラシーボ効果?)者もいるであろうし、「何だこれ全然効果ねーじゃん!」と難癖を付ける者もいるわけだが、結局のところもっともらしい実証を顕揚すれども、宗教の神秘性を過ぎない。
それらの製品や方法論の信者にせよ謗者(批判者)にせよ、特段、私から侮蔑はしないが、詮ずる所はインチキ宗教と同類である。
製品という物体にお金をどれだけ出せるかと言えば、私は最初からその健康的御利益に期待して出費などしない。
先述したよほどの「悪い食べ物("悪い"の認識も人によるが)」でない限り、食えれば何でも良かろう。
逆に外形的な手法や物質にこだわると、体がそれに慣れて効果が薄まったりする。
しかも、体の本来の身体的な機能の低下のために常にそれを取り込まないと、心身の維持が困難となることは誰でも知っていよう。
依存症の負のサイクルなど、今どきの子供は学校・教育機関で教わる。
この原理を逆手に取れば、身体の免疫機能の原理となる。
微量のアレルゲンを経口摂取することで、アレルギー物質への耐性がつく可能性もある。
効果の鈍化の原理(マイナス系統)と免疫機能の原理(プラス系統)は人間の身体の善悪二面性=表裏一体*4であり、進化の賜物である。
薬物中毒はもちろん、多くの薬の常用、カフェインやアルコールも同様であり、広げればすべての食品や含有成分にも微弱ながら、その性質が備わる(摂食量が適正を外れて多ければ満腹感が緩んでいくことは好例)。
俗世間で言われるように、貧しい人(貧困な国民)が過酷な環境でも丈夫で心身とも元気だったり(ただし寿命が短い)、反対に衣食住が調って雑菌・ウイルス・アレルゲンに弱くなったり、心身が緩むとか、時間や金銭に余裕があるうちは慢心して怠けやすくなるとか、こういった方向にも敷衍できる。
与えられるままだと自ら要求・生産・維持するという能力を失う道理と同じ法則は、どこの世界や物事にも敷衍できる。
だから、単なる物質(何の成分・栄養素が何ミリグラム配合されているなどの製品の能書きも)に拘泥するだけでも迷信(科学的民間信仰)じみているのに、効能があればあるほど心身ともに麻痺してしまう悪因となるから、ゆめゆめ注意してほしい。
依存するにしても、例えば重症の入院患者の点滴だとか、打ち上げロケットの燃料タンクみたく、一時の補助(方便)として利用しながら、いつかは切り離すべきである*5。
まるでこう書けば、西洋的啓蒙思想にも通じているようである。
啓蒙思想風に言えば、「栄養素」などの数値や、最近(ここに加筆する2016年5月現在)の世間で不正が取り沙汰されている自動車(日産の傘下に入る三菱自動車)の「燃費」の数値など、こういった数値は経験的知識とならないから、一般人が気にしてもさほど有益でなかろう。
これらの数値は科学的にもっともらしく実証されているように見えるが、それでは一介の利用者や消費者がどう実感できようか?実利的価値がどこにあろうか?
信じるだけで気分が軽くならなるばそれでも良かろうが、過度に気にしては全く愚の骨頂である。
やはりこう見れば、現代日本人は万物に神秘的な価値を求めなくなっても、実在しそうで実利的価値がありそうな物事を無節操に過信する点で、宗教的な盲信が強い。
燃費の数値の不正といった偽装問題の有無を問わず、多くの実証的数値は過信すべき対象でないと知るべし。
栄養素の成分表だとかは、「健康管理」がよほど必要な患者以外、細かい数値を精査しても、一般人の肉体的健康に資するものではないと諦念を持つべし。
だからこそ、精神的な浄化に立脚した「真の健康法」によって心身ともに健全となろう。
健康に関する世俗の知識の多くは執着の元であり、ひとまず離れてみる必要がある。
ただし、その知識を目安にもせずにいろ・骨組みごと取り払え、という意味ではない。
そんな外形的な要素を信じてばかりの現代人は、一度自己に具わる「可能性」を振り返られたい。
己の可能性に気付かなければ、仏教でいう「一切衆生悉有仏性」も空言となってしまう。
一切衆生悉有仏性、すなわち「人間(ひろげて山川草木の万物)は誰でも仏に成れる」という教理は、「一往」の教理として釈尊がお説きになったのであり、「再往」の事実上は、これを聞き知って目覚めなければ、仏性は有って無きが如し、となる。
これを天台教学の「六即」で言い直せば、成仏できる可能性を持つ一切衆生は単なる「理即」、その教えを聞き知った衆生は「名字即」であり、実際の成仏まではまだ4つの段階がある。
PCに例えれば、PCに電源を入れていない状態が「理即」で、電源が入った段階は「名字即」、次いで起動作業中の段階や、パスワード入力してサインインした段階、何らかのソフトを開いた段階、すべき作業を処理した段階などがある(適切な譬えになっていないようで非力を嘆く)。
それが欲望を起こし続けてやまなくなるか、その極致でようやく満足が得られても、満足の心境や生活状況を持続できない場合が多い。
好例は現代文明の「スポーツ・飽食・便利な生活」を享受できる富裕層である。
仮に欲求満足を死ぬまで持続しようにも、不覚の急所を補えていない(非常時を想定していない)と、稀な幸運の者しか叶わないし、ましてや万人・大衆が実現できるという普遍性が無いし、ごく一部の人間は虚栄に用いる(民主主義・上流階級の理想は人類平等であろうに)。
奔放に欲望が起き続ける健康は「真の健康」と到底言えない。
「生老病死」の四苦は誰にでも必ずあるから、これを心の奥底より打ち克とうとしなければ、安楽が崩されようとする時に大なる苦しみ(自覚できずとも)を受けるため、真の健康に遠い。
「真」とは絶対性である(後述)ので、心身ともなる健康が崩れない境地は「真の健康」と呼べる。
「真の健康」には特別な道具も食事も費用もいらず、道理が分かれば多くの人が今の生活のままに実現できる(一定の自由がある前提だが)。
さて、真の健康とはいかなるものであり、どのように実現されるか、しばし開陳する。
真の健康法は己が内にあり、どうであろうか?
世の人々を見るに、どういう食事法であるとか、何を食べるとか、どう調理するとよい(焼き加減)など、「即物的観念論」にとらわれている。
また、テレビや雑誌などの通販に、こういうサプリメントだとか栄養補助食品で「何キロ痩せた」、それらや化粧品などで「綺麗になった・見た目年齢何歳若返った」と、実証的な宣伝がされているが、これは人によって「胡散臭い」と思うかもしれない。
私はそれらの方法論や製品に関する疑義を、ここでは述べないでおく。
そして、何よりも「昔の日本人は健康的な食生活を・・・」などという評価は、むしろ昔の日本人の心に背いていよう。
食生活は時代背景による食料のあり方と、精神性による結果的なものであり、それを現代人がありがたって真似する様はお笑い種である。
何を食べるとか、どう行おうとかと、形だけを真似しても、派手なメイクや美容整形で繕う欺瞞的な人々と大きな差はない。
みな、現代的な思想に毒されていて大事なものを見失ってしまった姿である。
我田引水となろうが、伝教大師最澄さまの素敵な言葉を引用する。
「法華経を贊(ほ)むと雖も還って法華の心を死(ころ)す (法華秀句)」*1と。
これは、法相宗・三論宗という宗派の高僧たちが、法華経というお経の注釈書を作って法華経を讃えたが、それら宗派の本心は唯識論などを尊び、「法華の一乗」の思想に背いているから、「彼らが法華経を讃えることはかえって法華経の心を殺す」、そう最澄さまは説かれている。
今の日本人の一部は、平安貴族が豪遊していた(高等遊民?)とか、官僚が高収入だとか、ナンタラ造りの屋敷が壮麗だとか、そんな夢想ばかりに耽っているが、これは「昔の日本スゲー!カッケー!」と讃えているようでも、かえって昔の日本人にご迷惑ではないか。
子孫末裔である我らが、時に先人を悪しく讃えるが、先人は虚栄を誇りたくてそんな生活をしたとは限らない。
健康法の話に戻すが、要はそういった心も知らずして徒らに妄りに、昔の日本人は何を食べて健康的だった、理想的な食生活を取っていたとかと科学的実証をした上で多大な評価をするが、どこまでも先人の心には遠ざかっている。
真の健康法は食事療法・運動療法などではないため、真の健康も得られないことであろう。
健康に関する俗悪な諸々の書籍など手に取るに値しない。
「食事と運動のバランス」が健康の肝要である通説には一理あるが、それだけでは不十分である。
特に、ダイエットなどは、自分の心を律していれば自ずと痩せるものである。
これは単純な精神論にあらず*2。
そもそも、「自律」ができていれば過度な状態に陥らないはずであろう(特異体質など例外を除く)。
仏教で、少しポピュラーな言葉に「少欲知足(欲を少なくする・足るを知る)」がある。
この言葉自体、「健康法」とは何ら関係はないし、仏様はそんな現世の延命のつもりで説法をしなかったろうが、実際にこの精神性が「良薬」と思う。
世のことわざにいう「良薬(は)口に苦し」の「良薬」とは、「物体としての薬が良品ならば苦い」という矮小な見解で捉えてはならない。
一億総精神病患者であると自覚し、仏教という最上の良薬を須らく取って服すべし。
※精神云々も西洋の概念で近代の訳語だが、便宜上使った。精神医療の業界はしばしば「薬漬け」の問題が取り沙汰されている点など、薬全般の普遍的問題の顕著な例が判然としている。
真は絶対性、俗は相対性に約す。
真と俗、これを現代語で具体的に示すと、精神と物質(肉体)、心と形(物)ともいう。
だがまあ、凡夫(全人類)の精神や心そのものを以て「絶対的真実・真理」と言わない。
人の心とは、別の外形的事象に流されるからである。
いずれにせよ、心の動き(判断)から行動が発生し、物事の状態が決まってゆくことも人の世の常である。
私が披瀝するところの「真の健康法」では、このうちの「俗」と称する科学的な健康知識も多少取り入れ、真・俗も不可分の立場を取る。
仏教の僧侶も「俗の道理を踏まえねば真の道理を得ることはない。真の道理を得ずして涅槃(当記事でいう真の健康に置き換えてよい)を得ることはない」と説いた(脚注*3にも少し引用)。
故に私は、「悪い食べ物を食べても問題がない」と極端な結論を言うつもりはない。
物心一如の上から真っ当な論理を述べるにあたり、今の日本人は「物・心」のうち、後者が著しく欠けている問題を提起する。
健康的な食事や生活を求めることは構わないが、その物質面に先立つ精神性を得ることが急務でなかろうか。
それだけでも自然と食事や生活などの全てが適度に整って健かになろうから、栄養学的知識・摂る食品の良し悪しや効能などは、その後に考えればよい。
むしろ、ややもすれば今の日本人はくだらない精神論(綺麗ごと)を垂れ流すわけだから、私の所説が精神論という領域に押し込まれることは、相対的(綺麗ごとに対する比較)ながらあり得ない。
最も普遍的で世界中の誰もが行える、いな、本来の日本人の能力であったものが、100年以内に失われ、今や日本人は夢にも思わない。
私の言う真の健康法とは、「健康法」と称するまでもなく、実に本来の日本人の生活に具有されていた。
ただし、それを忘却して久しい現代では便宜上、真の健康法と呼ぶに値する。
「真の健康」は、人間の性質として具している(性具"しょうぐ")。
「真の健康法」は、これを自覚して呼び覚まして維持することである、と言い分ける。
真の健康は、必ずしも「平均寿命より長生き(長寿)」とか「無病」などという結果を指さない。
本来の身体的機能が精神によって再起し、心身ともに「人間らしさ」を可能な限りに取り戻すのみで、それ以上の健康体(不自然な手段による)を望めば、すでに真の健康ではない。
しかし、精神面の健康を得たことで肉体面の健康も同時に自然と得られる人は、全員とまで言わずとも確実に増えるであろう。
世間の健康食品などの宣伝では、使用者(愛用者)の声だとか、○○健康法を実践してそちらの面の健康を得たという人の話などを載せるが、私はわざわざ他人の実例(セーシンが優れている人)などを示さない。
仏教には「八万四千の法門」という言葉がある通り、多くの教えや修行法がある("八万四千"は数の多さを表す比喩で文字通りの数を意味しない)。
健康法に関しても「○○ダイエット」だけで凄まじいほど喧しく聞かれ、虚実・ピンキリ、様々な方法論などが飛び交う。
テレビやネットやチラシや雑誌の通販にもまた、虚実・ピンキリ、様々な製品(健康食品や運動器具など)が夥しくあり、その効能を鵜呑みにして信じる消費者もいれば、消費者庁の改善命令ほか、行政や司法の介入で制限が入る例もある。
種々の通販は、世にいう「新興宗教の勧誘」などと何か異なるであろうか?
信じることで宣伝される効能以上の結果を出す(プラシーボ効果?)者もいるであろうし、「何だこれ全然効果ねーじゃん!」と難癖を付ける者もいるわけだが、結局のところもっともらしい実証を顕揚すれども、宗教の神秘性を過ぎない。
それらの製品や方法論の信者にせよ謗者(批判者)にせよ、特段、私から侮蔑はしないが、詮ずる所はインチキ宗教と同類である。
製品という物体にお金をどれだけ出せるかと言えば、私は最初からその健康的御利益に期待して出費などしない。
先述したよほどの「悪い食べ物("悪い"の認識も人によるが)」でない限り、食えれば何でも良かろう。
逆に外形的な手法や物質にこだわると、体がそれに慣れて効果が薄まったりする。
しかも、体の本来の身体的な機能の低下のために常にそれを取り込まないと、心身の維持が困難となることは誰でも知っていよう。
依存症の負のサイクルなど、今どきの子供は学校・教育機関で教わる。
この原理を逆手に取れば、身体の免疫機能の原理となる。
微量のアレルゲンを経口摂取することで、アレルギー物質への耐性がつく可能性もある。
効果の鈍化の原理(マイナス系統)と免疫機能の原理(プラス系統)は人間の身体の善悪二面性=表裏一体*4であり、進化の賜物である。
薬物中毒はもちろん、多くの薬の常用、カフェインやアルコールも同様であり、広げればすべての食品や含有成分にも微弱ながら、その性質が備わる(摂食量が適正を外れて多ければ満腹感が緩んでいくことは好例)。
俗世間で言われるように、貧しい人(貧困な国民)が過酷な環境でも丈夫で心身とも元気だったり(ただし寿命が短い)、反対に衣食住が調って雑菌・ウイルス・アレルゲンに弱くなったり、心身が緩むとか、時間や金銭に余裕があるうちは慢心して怠けやすくなるとか、こういった方向にも敷衍できる。
与えられるままだと自ら要求・生産・維持するという能力を失う道理と同じ法則は、どこの世界や物事にも敷衍できる。
だから、単なる物質(何の成分・栄養素が何ミリグラム配合されているなどの製品の能書きも)に拘泥するだけでも迷信(科学的民間信仰)じみているのに、効能があればあるほど心身ともに麻痺してしまう悪因となるから、ゆめゆめ注意してほしい。
依存するにしても、例えば重症の入院患者の点滴だとか、打ち上げロケットの燃料タンクみたく、一時の補助(方便)として利用しながら、いつかは切り離すべきである*5。
まるでこう書けば、西洋的啓蒙思想にも通じているようである。
啓蒙思想風に言えば、「栄養素」などの数値や、最近(ここに加筆する2016年5月現在)の世間で不正が取り沙汰されている自動車(日産の傘下に入る三菱自動車)の「燃費」の数値など、こういった数値は経験的知識とならないから、一般人が気にしてもさほど有益でなかろう。
これらの数値は科学的にもっともらしく実証されているように見えるが、それでは一介の利用者や消費者がどう実感できようか?実利的価値がどこにあろうか?
信じるだけで気分が軽くならなるばそれでも良かろうが、過度に気にしては全く愚の骨頂である。
やはりこう見れば、現代日本人は万物に神秘的な価値を求めなくなっても、実在しそうで実利的価値がありそうな物事を無節操に過信する点で、宗教的な盲信が強い。
燃費の数値の不正といった偽装問題の有無を問わず、多くの実証的数値は過信すべき対象でないと知るべし。
栄養素の成分表だとかは、「健康管理」がよほど必要な患者以外、細かい数値を精査しても、一般人の肉体的健康に資するものではないと諦念を持つべし。
だからこそ、精神的な浄化に立脚した「真の健康法」によって心身ともに健全となろう。
健康に関する世俗の知識の多くは執着の元であり、ひとまず離れてみる必要がある。
ただし、その知識を目安にもせずにいろ・骨組みごと取り払え、という意味ではない。
そんな外形的な要素を信じてばかりの現代人は、一度自己に具わる「可能性」を振り返られたい。
己の可能性に気付かなければ、仏教でいう「一切衆生悉有仏性」も空言となってしまう。
一切衆生悉有仏性、すなわち「人間(ひろげて山川草木の万物)は誰でも仏に成れる」という教理は、「一往」の教理として釈尊がお説きになったのであり、「再往」の事実上は、これを聞き知って目覚めなければ、仏性は有って無きが如し、となる。
これを天台教学の「六即」で言い直せば、成仏できる可能性を持つ一切衆生は単なる「理即」、その教えを聞き知った衆生は「名字即」であり、実際の成仏まではまだ4つの段階がある。
PCに例えれば、PCに電源を入れていない状態が「理即」で、電源が入った段階は「名字即」、次いで起動作業中の段階や、パスワード入力してサインインした段階、何らかのソフトを開いた段階、すべき作業を処理した段階などがある(適切な譬えになっていないようで非力を嘆く)。
電子機器に電源を入れなければ用をなさないわけで、仏性も、ただ持っているだけで悟りを開くことは無いし、その教理だけを聞いて「アリガタヤーアリガタヤー」と感嘆してお終いではない。
自己の可能性を説く教理を知ることをきっかけとして自覚・維持することが、己の功徳となって真の健康に繋がる。
これは「戒・定・慧」の三学に通じるが、「自覚・維持」と言う場合は「定・戒・慧」という順序となる。
三学または六波羅蜜でいえば、「真の健康の性具」の自覚は禅定のようであり、維持は持戒・精進と言う。
そうして自然と、心身の健康の増進に繋がることは智慧の獲得という。
こういった精神性の向上が真の健康に向けた土壌を育むこととなり、そこで初めて生活全般も可能な限り改善され、ゆくゆくは長寿だとか無病息災といった結果も得られよう、と言える。
繰り返すが、その健康的御利益は真の健康の道の外であり、直ちに求むべきものでない。
斯く言う私は日々、精神的には希望を淡く持ち、肉体的には問題(便秘など)の緩やかな改善傾向にあるが、同時に日々の生活の中で所作(行住坐臥の四威儀)や言動や思考に注意を払ってこそ、心身とも良い状態が維持できている。
在家の修行者なかんずく閑居求道者は「自室即道場・生活即修行」と肝に銘じよ。
やたらと良質の食材を使って調理法に凝った料理や、必死な形相で街路を走らずとも、素朴な食事と最低限の注意を常に保った生活をしていれば、それで食事と運動のバランスは満たされる。
神秘的な御利益があるわけでもないが、一喜一憂に溺れることもない。
そんな私を上回り、穏やかな海面や湖面の在り様に、ただ心を和ませる境地が、真の健康であろう。
世間に溢れる健康情報に飽き飽きとして来た人は、いち早く真の健康を志向すべきである。
私の所説が気にくわないと思ったらば、いくらでも健康食品や健康器具に散財浪費し、運動やスポーツや方法論の実践に汲々としておればよい。
ただ私は、前代未聞の健康の境地を説示するものである。
私が真の健康に関するイメージを追究するに至った一例を示そう。
水を飲めば、期待通りに水分補給が叶おうか?
または便秘の改善に繋がろうか?
誰もが、そう聞かれれば肯定するであろうが、私は過度な水分補給が逆効果を起こしているように捉えており、「何事もバランスだ!」と主張する気はないが、やはり水分は不必要に貪ってはならないし、多くの食品も、効果を期待して多く摂ることは、かえって問題となろう。
断食や食糧不足において、水を食品の代わりに摂取するにも、分を弁え、量を知った方がよい(足らない場合は糖分や塩分を適量加える、加える動作の過程で飲食を行う実感を持つことで少量ながらに満足感がある)。
どの医薬品やサプリメントにも「用法・用量を守る」旨が注意書きされており、水についても同じように注意せねばならない。
外形的な物質に理性から依存を始めると、体もその物質の摂取にばかり機能を依存してしまうから、本来の身体能力(自然治癒力)も損なう。
そのために、過度な水分補給では、かえって喉を枯らし(物理的に一時のみ潤う程度であって液体に糖分が含まれていれば酸に変わって気持ち悪くなる)、肌を乾かし(特にただの水やぬるま湯では期待するほど潤わない)、排尿される一方で便秘の改善はされない。
それは個人差があり、あくまでも私の実感としての話だが、真の健康においては物質への執着や依存の心が、身体機能までも依存させ、自立的な健康維持が困難となると弁えねばならない。
必要最低限の分量できっかけを与えるのみで、後は身体の作用に任せる方法が最善である。
外形的な物質や手段に頼る傾向は、現代人の日常生活に多く見られる。
歯磨き・風呂・髪洗い・体洗いといった習慣も、毎日きっちりと行う必要はない。
現代人に染み付いた「やらなきゃ不健康・不衛生・キモイ」といった強迫観念であろう。
「自浄作用」なる語彙があるよう、実際に身体は自浄作用の機能(免疫など)を備えているが、現代人のような習慣が無いか薄い昔の人々は、平民も貴族もみな野獣同然の不潔さであろうか?
昔の人々の寿命の長さはさておき、決してそんな風に蔑視しないでほしく思う。
私は歯磨きであれば、「風呂(シャワシャン)」の最中にのみ行い、普段の食事では、口に残る糖分や、それを餌にして細菌が生んだ酸を流そうと、少量の水で口を濯いで飲むのみである。
「風呂(シャワシャン)」という言い方の通り、湯船に水を張ることは2010・11年から一度も行わずにいる。
・・・ああ、そうか、もう最低でも5年経つのか、と振り返ってしまう。
ともかく、それらの衛生観念・強迫観念といった執着からも一度は離れることが「真の健康」への入門となるから、これを志向する者は人目だとかも気にせずにいてほしい。
とはいえ、歯磨きをしないと口臭が酷い、体を洗わないと体臭が酷いから人間関係に問題が出るなど、思い煩う面が強い場合には早急な移行が難しかろう。
「真の健康」は、元から当人の精神や肉体や環境の適性が求められるようで、人を選ぶらしいし、当然、魅力を感じないならばそれでも良い。
プロテインの栄養剤を大量に摂取してムキムキのボディビルダーなどもまた、健康か否かを別とし、一つの生き方として咎める気はない。
「自分が変われば世界も変わる」とだけ言えば実に安直で疎漏であり、反発を招きやすく、そう言うだけの一般人ら*6は不親切の極みである(私の場合は寧ろその不親切さが成長に繋がる)。
いきなり答えだけを言って理解させたがる一般人らは、浅薄であり、思考放棄であり、急進的思想に毒されており、丸暗記の学習を是とした現代的教育の傀儡である。
この意義を詳細に説明すれば、自分が変われば他に自分と影響のある物事は、その分、比例して変わり、また、自分から他の自分と関係の深い物事の扱いも変わる、といった具合に相互の影響を示す。
「自・他」や、「内・外」といった対立概念の一体性*4など、仏教や東洋の哲学思想を学べば、その真意を理解しやすくなる。
「真の健康」においては、自分の内なる意識や精神状態が変わることで、他人・外界の、自分に対するあり方や、その逆に、自分から他人・外界への扱うあり方も変わると言える。
だから、外形的な要素は後から自然と変わる、私はそう言い続けるが、こういった意義も学ぶ中で理解しやすくなる。
2015年10月29日に書いたとする文章は、当記事の意味を大いに含んでいる。
その趣旨は「可能性の自覚をし、自然と自律がなされ、自然と願望の成就に近づく」と。以下に一部分を引用をする。
なお、仏教に通じた健康法とは、誤っても断食や一日一食(不非時食戒を持つ)という形式的な方法論そのものを指さない。
ましてや正しい修行者は、健康御利益のために断食や一日一食を行うことを決してしない。
単なる健康法としての実践は、沙門覺應さん風に言えば「勘違い仏教」であろう。
それらの実践で誰もが、個々人の理想とする「健康」を得られる必然性もなければ、仏教上の意義を理解して行い、結果としてたまたま「健康」を得られる場合がある程度のことで、「肉体的健康」自体を断食や一日一食の目的としない。
かえって世間でも、一部の専門家らは「体に悪い」と訴える(一学説)わけだから、断食などに健康御利益を期待する者は外道でしかない。
無論、仏教上の意義を踏まえた修行であるか、一種の精神修養のつもりで行う分には、何ら咎められない。
いわゆる「入定」などで灰身滅智の解脱(無余涅槃)を完成する上で断食を行うことも否定はしない(それで解脱ができるかを私は論じ得ない)。
だが、一時的な禁欲とは、本当に「一時的に欲を禁じる」程度であってはならない。
その点で信仰の中から形式的に断食月間(ラマダン)を設けるイスラム教は愚昧であり、こう見れば一時的な禁欲がいかに無意味な行為であるか実感できるし、仏教ではそういった無意味な修行などは「戒禁取」といって奨励しない。
また、食事に限らず、男を磨くなどの下心で一時的に自慰行為を禁じる「オナ禁」も同様である。
真の健康を志向する場合も仏教の解脱を求める場合も、人間にとっていきなり相対的に落差の大きい行為に及ぶより、漸次目的に進む行為こそが奨励され、摂食方法であれば「少欲知足」を旨とすべし。
少欲知足は、相対的で時宜に適う基準が良いから、太っていても痩せていても、細かい基準は気にせず、その人の腹八分目など、今現在よりも少ない量を心掛けておくべきであるが、人によっては一人で適正な判断ができない者もいよう。
ただ、真の健康の観点から言えば、自戒する努力の心が大事であり、これを弁えれば自ずと少欲知足が実現される。
仏教の妙なる教えで、苦も楽に変わると思えば、軽度の空腹にも沸き立つ喜びが感じられよう。
仮に少し食べすぎた時も、反省して改善する努力の改心を起こせばよいのである。
一方、極端に太っている人間が過激なダイエットを行うなどは、何も大事なことを学んでいないためにそう太り、何も知らないためにそう痩せようとする愚昧な発想でしかなく、大概はリバウンド現象にすら陥る。
理論上、過激なダイエットを行って痩身を得て維持できるものの、それはその才能や環境がある場合に限り(断食などにしても才能や環境が不足しては)、実際上、多くの者には不向きである。
いきなり理想を実現しようとする急進的思想は、かかる愚物の所業と判じて唾棄すべし。
あらゆる例からして真の健康法は、元々心身ともに一定の健康が求められるようであった。
仏道もまた同じことであり、現世での修行が身体的・精神的に無理ならば、その求道心・菩提心だけは念じて来世に再度人間へ転生してもらうしかない。
せめてもの慈悲として、私は仏法の妙音を多くの者に聞かしめ、人々に聴聞の功徳を得せしめんと思っている。
起草日は2016年4月29日以降であり、同年5月10日までに加筆が続いた。
それを一区切りとし、その内容を大幅に補う記述(未整理状態の場合は以下から)を2016年5月14日から開始した。
そんな中、5月23~6月1日まで何も加筆しない時間も挟んだ。
以後も加筆が断続的に続いた。
漢語の名称は「則真健康法」?「真義健康法」?「仏法健康法」?
パーマリンクの文字列は http://lesbophilia.blogspot.com/2016/06/the-way-of-true-health-is-within-us.html (新約聖書ルカ17:21が元ネタ)としてあるが、記事タイトルを直訳すれば"Proving the Way of True Health"となる。
思えば、最近の過去記事もパーマリンクが"idol-and-idea.html"や"musica-et-religio.html"など個性的である(どちらも文法が"○○と××"で一緒だが○○や××自体に面白味がある)。
脚注
本文の脈絡が崩れたり雑多になる問題を回避すべく、脚注の形式で記述を整理するわけだが、ここで読者に「脚注に押し込まれた情報は些末なんだ」と認識されては悩ましい。
確かに、相対的な本末関係はあるかもしれないが、であるが故に「本末一如」で、本・末のどちらも知ってもらいたい必要な情報である。
*1・・・この法華秀句における最澄さまの言葉はその後「故湛然記云」と続く。つまり、最澄さまの天台宗の源流である中国天台宗の高僧である妙楽大師"湛然"さまの「法華文句"記"」の「唯識滅種死其心」を引いて前言を補っている。法相宗・三論宗という宗派の高僧とは誰か、といえば法相宗の高僧は慈恩大師窺基さんで、三論宗の高僧は嘉祥大師吉蔵さんである。特に後者の吉蔵さんは「法華義疏」など、多くの論・疏を撰述した。これらの高僧らは法華経の注釈書や論文などを多く撰述しながら、実際には唯識・三論・華厳などの教学を第一義としていたようであるが、私は原典を通読する能力がないため、判断は難しい。そんな高僧らが法華経の注釈書や論文などを多く撰述した背景も不明であるが、天台大師智顗さまが彼ら高僧と交流があったり、先の「唯識滅種死其心」のように智顗さまの弟子・湛然さまが実際に彼ら高僧を批判していた様子である。
*2・・・仏教における心の立場は「願作心師・不師於心(願って心の師と作るとも、心を師とせざれ)」であり、自分の心は大事ながらも、自分の心に全て気を許してはならないと説かれる。だから、「自分の心を律する」大事は、単純な精神論ではない。徒らに心ばかりを重んじてはいけない。この言葉は曇無讖訳の大般涅槃經(大乗)に初出し、私の尊敬する日蓮大聖人も御書で引用され、一部禅宗の僧侶、とある現代の真言宗持戒僧Kさん(近年まで"婆塞"を名乗っていたから実は在家で寺院HP管理をしているだけの可能性も)なども引用している。同じく日蓮大聖人や法華経を尊敬して信仰した宮沢賢治さんも趣旨を詩に歌い、茶道の人も放った言葉らしく、昔から日本人に親しまれてきた言葉である。また、大乗・小乗を問わず、心に染めておくべき釈尊の金言である。類義の経文として「爲心師・不師於心」が大乘理趣六波羅蜜多經に見られて御書にも引用されていた。余談だが、「自分の心を律する」ダイエットについては、仏教だと「パーリ語の相応部(経典の集まりの一つ)」や「雑阿含経」の中にパセーナディ王(波斯匿王)が行ったという話が載っている。世界初の体重減少ダイエット(the world’s first weight loss diet)とも言われる。
*3・・・大般若経では「勝義諦・世俗諦(玄奘訳)」の「二諦」とも呼称し、龍樹菩薩の中論では「世俗諦・第一義諦(先の勝義諦と同じ)」と偈に呼び、「第一義諦」は「不可説(言葉で表せない)」であり、「不得第一義 則不得涅槃(第一義諦を得ないと涅槃を得ることもない)」と説明される。逆に、仏教の解脱の一つである「涅槃」を得るには、真理を体得する必要があり、その真理の体得には、経典などの教説を学んで理解して覚えるだけでは足らないとも言える。それでも、一応は経典などを学ばねばならない。涅槃の証得に向け、「学ぶこと」に加えて「考えること・戒めること」などが、いずれも欠かせない実践(聞思修や戒定慧など)である。どれかを欠せば、不十分であるのみならず、誤解や慢心のために悪道へ堕ちかねない。「真の健康」においても、ただの精神論に終えず、実際の科学知識を多少折衷する必要もある。だから、逆に科学知識(俗説や迷信も混ざる)に偏重する現代人の問題も言える。バランス・中道の上から言えば、釈尊や御弟子も、肉体の不調や病気は「耆婆(ジーヴァカ)」というお医者さんに診てもらい、薬を服用したわけで、強ちに科学的見解や世俗の健康法を排除する思想ではない。過去記事にも、薬への依存を問題視しつつ、全面的に薬や医者を毛嫌いすれば「頑固な高齢者っぽい」と綴っている。要は、安易な薬・医者への頼り方は唯物論に寄り、反対に「自分は強い・心だけで病気を治す」という思想を貫いても唯心論に寄るなど、中道から離れる。異なる双方の良さを認めて取り入れれば、本来の日本人の「和」の心にも適う。
*4・・・例えば、科学技術で人類が急速に繁栄したり絶滅の危機に陥るなどというよう、問題解決の秘訣・要旨は、二面性の把握と表裏一体の悟りである。現代の上流階級は、そのような観点からも、環境問題や経済難といった現代の課題に臨んでいる。そもそも、人が問題を起こすことは、二面性のある物事の認識による。仏教では、それを因縁・縁起の法において詳説する。その因縁・縁起の法を、仏の教えとして聞いたり、修行する(常に念じて心を観察する)中で実感して「四苦」といった人間の問題を解決する。悟ったところで、肉体における生老病死は免れられない現実だが、そのような「苦」を感じる心と「現実とされる事象」が結びつくことは、因縁・縁起に基づくものである。修行が維持されること=精進によって堅実に因縁・縁起や「苦」が滅ぶ。苦が滅んだ人は価値判断も滅んでいるので「生老病死という事象は有ると認識できるが過去にも現在にも未来にも無いようなもの」となる。少し難しい話だが、「真の健康」に関して、このことも留意されたい。
*5・・・仏教の教義は、仏が「人々を苦しみから解き放たれるように(四諦)・偉大な智慧を得られるように(四仏知見)」という前提で説かれる「方便(便宜的手段)」である。仏教徒が聞く教義は方便であり、なされる修行も方便である。それは「川を渡るために筏(便宜的手段)は必要だが、渡り切ったらば陸路で持ち運ぶ必要はないばかりか、かえって重荷となる」というたとえ話で示される。ゆえに、何らかの教義を知っていたり、修行をなすだけでは、悟ったと言われない。そういった慢心を制御すべく、仏は筏のたとえ話が説かれたり、「教義を信じたり何らかの修行をするだけで人が浄化される(イコール人々が平和になると思われる)と主張するならば、主張する人はみんなすでに浄化されているのに言い争いばかりをしている(イコール平和になっていない、仏も彼らを救うために言い争いへの介入を辞さなかった)」と説かれた。これらは、初期仏教のお経(パーリ経蔵では中部22経、小部スッタニパータ4章9と12)にあり、漢訳された大智度論という先*3の龍樹菩薩が書いたという書物(うち一巻目)にも全てが紹介されている。
*6・・・近現代の日本人は、理性万能主義しかり(浅い人生観で神仏・信仰を否定するなど)と唯物論的であるのに、一方では「言葉はいらない」などの言語不要論・浅薄な唯心論にも陥っている。以心伝心、テレパシーでも使えようか?それで、「血眼になって長い論文を書く人間もそれを血眼になって読む人間も必死でキモイ」とか「シンプル言葉(片言隻句・片言隻語)ほど印象的で心に響く」などと放言する。シンプル錯誤・シンプル顛倒の低劣な言説である。確かに、下手な長文は煩雑だし、短い言葉で端的に力強く表された言葉は、そういった言霊というか、「心に響く」力があるのかもしれない。だが、長文などを全否定して闇雲にシンプルのみを肯定し、説明不足をも是とすることは顛倒である。現代で割と知性の優れている人物は長文を読まずに厭うことが無い。仏教での解脱も、教えをよく学ぶことは「"聞"思修」や「"戒"定慧」として必要な一要素に列され、不可欠である。この修練を欠かして大智慧を得られる者は、よほどの超人しかいないから須らく修むべしと説く。結局は極端に顛倒した主張や、浅識に起因する中途半端な思想しか持たない、知的怠慢と慢心の強い現代日本人は問題である。しかし、その無節操な自然性こそがまた日本人らしい。
自己の可能性を説く教理を知ることをきっかけとして自覚・維持することが、己の功徳となって真の健康に繋がる。
これは「戒・定・慧」の三学に通じるが、「自覚・維持」と言う場合は「定・戒・慧」という順序となる。
三学または六波羅蜜でいえば、「真の健康の性具」の自覚は禅定のようであり、維持は持戒・精進と言う。
そうして自然と、心身の健康の増進に繋がることは智慧の獲得という。
こういった精神性の向上が真の健康に向けた土壌を育むこととなり、そこで初めて生活全般も可能な限り改善され、ゆくゆくは長寿だとか無病息災といった結果も得られよう、と言える。
繰り返すが、その健康的御利益は真の健康の道の外であり、直ちに求むべきものでない。
斯く言う私は日々、精神的には希望を淡く持ち、肉体的には問題(便秘など)の緩やかな改善傾向にあるが、同時に日々の生活の中で所作(行住坐臥の四威儀)や言動や思考に注意を払ってこそ、心身とも良い状態が維持できている。
在家の修行者なかんずく閑居求道者は「自室即道場・生活即修行」と肝に銘じよ。
やたらと良質の食材を使って調理法に凝った料理や、必死な形相で街路を走らずとも、素朴な食事と最低限の注意を常に保った生活をしていれば、それで食事と運動のバランスは満たされる。
神秘的な御利益があるわけでもないが、一喜一憂に溺れることもない。
そんな私を上回り、穏やかな海面や湖面の在り様に、ただ心を和ませる境地が、真の健康であろう。
世間に溢れる健康情報に飽き飽きとして来た人は、いち早く真の健康を志向すべきである。
私の所説が気にくわないと思ったらば、いくらでも健康食品や健康器具に散財浪費し、運動やスポーツや方法論の実践に汲々としておればよい。
ただ私は、前代未聞の健康の境地を説示するものである。
私が真の健康に関するイメージを追究するに至った一例を示そう。
水を飲めば、期待通りに水分補給が叶おうか?
または便秘の改善に繋がろうか?
誰もが、そう聞かれれば肯定するであろうが、私は過度な水分補給が逆効果を起こしているように捉えており、「何事もバランスだ!」と主張する気はないが、やはり水分は不必要に貪ってはならないし、多くの食品も、効果を期待して多く摂ることは、かえって問題となろう。
断食や食糧不足において、水を食品の代わりに摂取するにも、分を弁え、量を知った方がよい(足らない場合は糖分や塩分を適量加える、加える動作の過程で飲食を行う実感を持つことで少量ながらに満足感がある)。
どの医薬品やサプリメントにも「用法・用量を守る」旨が注意書きされており、水についても同じように注意せねばならない。
外形的な物質に理性から依存を始めると、体もその物質の摂取にばかり機能を依存してしまうから、本来の身体能力(自然治癒力)も損なう。
そのために、過度な水分補給では、かえって喉を枯らし(物理的に一時のみ潤う程度であって液体に糖分が含まれていれば酸に変わって気持ち悪くなる)、肌を乾かし(特にただの水やぬるま湯では期待するほど潤わない)、排尿される一方で便秘の改善はされない。
それは個人差があり、あくまでも私の実感としての話だが、真の健康においては物質への執着や依存の心が、身体機能までも依存させ、自立的な健康維持が困難となると弁えねばならない。
必要最低限の分量できっかけを与えるのみで、後は身体の作用に任せる方法が最善である。
外形的な物質や手段に頼る傾向は、現代人の日常生活に多く見られる。
歯磨き・風呂・髪洗い・体洗いといった習慣も、毎日きっちりと行う必要はない。
現代人に染み付いた「やらなきゃ不健康・不衛生・キモイ」といった強迫観念であろう。
「自浄作用」なる語彙があるよう、実際に身体は自浄作用の機能(免疫など)を備えているが、現代人のような習慣が無いか薄い昔の人々は、平民も貴族もみな野獣同然の不潔さであろうか?
昔の人々の寿命の長さはさておき、決してそんな風に蔑視しないでほしく思う。
私は歯磨きであれば、「風呂(シャワシャン)」の最中にのみ行い、普段の食事では、口に残る糖分や、それを餌にして細菌が生んだ酸を流そうと、少量の水で口を濯いで飲むのみである。
「風呂(シャワシャン)」という言い方の通り、湯船に水を張ることは2010・11年から一度も行わずにいる。
・・・ああ、そうか、もう最低でも5年経つのか、と振り返ってしまう。
ともかく、それらの衛生観念・強迫観念といった執着からも一度は離れることが「真の健康」への入門となるから、これを志向する者は人目だとかも気にせずにいてほしい。
とはいえ、歯磨きをしないと口臭が酷い、体を洗わないと体臭が酷いから人間関係に問題が出るなど、思い煩う面が強い場合には早急な移行が難しかろう。
「真の健康」は、元から当人の精神や肉体や環境の適性が求められるようで、人を選ぶらしいし、当然、魅力を感じないならばそれでも良い。
プロテインの栄養剤を大量に摂取してムキムキのボディビルダーなどもまた、健康か否かを別とし、一つの生き方として咎める気はない。
「自分が変われば世界も変わる」とだけ言えば実に安直で疎漏であり、反発を招きやすく、そう言うだけの一般人ら*6は不親切の極みである(私の場合は寧ろその不親切さが成長に繋がる)。
いきなり答えだけを言って理解させたがる一般人らは、浅薄であり、思考放棄であり、急進的思想に毒されており、丸暗記の学習を是とした現代的教育の傀儡である。
この意義を詳細に説明すれば、自分が変われば他に自分と影響のある物事は、その分、比例して変わり、また、自分から他の自分と関係の深い物事の扱いも変わる、といった具合に相互の影響を示す。
「自・他」や、「内・外」といった対立概念の一体性*4など、仏教や東洋の哲学思想を学べば、その真意を理解しやすくなる。
「真の健康」においては、自分の内なる意識や精神状態が変わることで、他人・外界の、自分に対するあり方や、その逆に、自分から他人・外界への扱うあり方も変わると言える。
だから、外形的な要素は後から自然と変わる、私はそう言い続けるが、こういった意義も学ぶ中で理解しやすくなる。
2015年10月29日に書いたとする文章は、当記事の意味を大いに含んでいる。
その趣旨は「可能性の自覚をし、自然と自律がなされ、自然と願望の成就に近づく」と。以下に一部分を引用をする。
道心があれば、その各々が「不善」と思い悩むことは自然と改まる。というよりは、あるべき「善」に還るのであろう。「善悪」といえばおよそ観念的で、個々人の主観に基づく面は多いが、とりあえず各々が「酒・タバコの使用(飲酒・喫煙)は悪いな~」等と嫌う悪は、道心を持つことで自然と直るものである。
(中略)
道心より、自然と希望も生まれるし、私は成人以後も飲酒・喫煙はしない方向でいよう。されば、禁酒・禁煙が難しくて悩んでいる大人は、アレコレと策を練る前に、清浄の法を学んで改悔し、道心を持つところから始めるべきことを推奨する。
なお、仏教に通じた健康法とは、誤っても断食や一日一食(不非時食戒を持つ)という形式的な方法論そのものを指さない。
ましてや正しい修行者は、健康御利益のために断食や一日一食を行うことを決してしない。
単なる健康法としての実践は、沙門覺應さん風に言えば「勘違い仏教」であろう。
それらの実践で誰もが、個々人の理想とする「健康」を得られる必然性もなければ、仏教上の意義を理解して行い、結果としてたまたま「健康」を得られる場合がある程度のことで、「肉体的健康」自体を断食や一日一食の目的としない。
かえって世間でも、一部の専門家らは「体に悪い」と訴える(一学説)わけだから、断食などに健康御利益を期待する者は外道でしかない。
無論、仏教上の意義を踏まえた修行であるか、一種の精神修養のつもりで行う分には、何ら咎められない。
いわゆる「入定」などで灰身滅智の解脱(無余涅槃)を完成する上で断食を行うことも否定はしない(それで解脱ができるかを私は論じ得ない)。
だが、一時的な禁欲とは、本当に「一時的に欲を禁じる」程度であってはならない。
その点で信仰の中から形式的に断食月間(ラマダン)を設けるイスラム教は愚昧であり、こう見れば一時的な禁欲がいかに無意味な行為であるか実感できるし、仏教ではそういった無意味な修行などは「戒禁取」といって奨励しない。
また、食事に限らず、男を磨くなどの下心で一時的に自慰行為を禁じる「オナ禁」も同様である。
真の健康を志向する場合も仏教の解脱を求める場合も、人間にとっていきなり相対的に落差の大きい行為に及ぶより、漸次目的に進む行為こそが奨励され、摂食方法であれば「少欲知足」を旨とすべし。
少欲知足は、相対的で時宜に適う基準が良いから、太っていても痩せていても、細かい基準は気にせず、その人の腹八分目など、今現在よりも少ない量を心掛けておくべきであるが、人によっては一人で適正な判断ができない者もいよう。
ただ、真の健康の観点から言えば、自戒する努力の心が大事であり、これを弁えれば自ずと少欲知足が実現される。
仏教の妙なる教えで、苦も楽に変わると思えば、軽度の空腹にも沸き立つ喜びが感じられよう。
仮に少し食べすぎた時も、反省して改善する努力の改心を起こせばよいのである。
一方、極端に太っている人間が過激なダイエットを行うなどは、何も大事なことを学んでいないためにそう太り、何も知らないためにそう痩せようとする愚昧な発想でしかなく、大概はリバウンド現象にすら陥る。
理論上、過激なダイエットを行って痩身を得て維持できるものの、それはその才能や環境がある場合に限り(断食などにしても才能や環境が不足しては)、実際上、多くの者には不向きである。
いきなり理想を実現しようとする急進的思想は、かかる愚物の所業と判じて唾棄すべし。
あらゆる例からして真の健康法は、元々心身ともに一定の健康が求められるようであった。
仏道もまた同じことであり、現世での修行が身体的・精神的に無理ならば、その求道心・菩提心だけは念じて来世に再度人間へ転生してもらうしかない。
せめてもの慈悲として、私は仏法の妙音を多くの者に聞かしめ、人々に聴聞の功徳を得せしめんと思っている。
起草日は2016年4月29日以降であり、同年5月10日までに加筆が続いた。
それを一区切りとし、その内容を大幅に補う記述(未整理状態の場合は以下から)を2016年5月14日から開始した。
そんな中、5月23~6月1日まで何も加筆しない時間も挟んだ。
以後も加筆が断続的に続いた。
漢語の名称は「則真健康法」?「真義健康法」?「仏法健康法」?
パーマリンクの文字列は http://lesbophilia.blogspot.com/2016/06/the-way-of-true-health-is-within-us.html (新約聖書ルカ17:21が元ネタ)としてあるが、記事タイトルを直訳すれば"Proving the Way of True Health"となる。
思えば、最近の過去記事もパーマリンクが"idol-and-idea.html"や"musica-et-religio.html"など個性的である(どちらも文法が"○○と××"で一緒だが○○や××自体に面白味がある)。
脚注
本文の脈絡が崩れたり雑多になる問題を回避すべく、脚注の形式で記述を整理するわけだが、ここで読者に「脚注に押し込まれた情報は些末なんだ」と認識されては悩ましい。
確かに、相対的な本末関係はあるかもしれないが、であるが故に「本末一如」で、本・末のどちらも知ってもらいたい必要な情報である。
*1・・・この法華秀句における最澄さまの言葉はその後「故湛然記云」と続く。つまり、最澄さまの天台宗の源流である中国天台宗の高僧である妙楽大師"湛然"さまの「法華文句"記"」の「唯識滅種死其心」を引いて前言を補っている。法相宗・三論宗という宗派の高僧とは誰か、といえば法相宗の高僧は慈恩大師窺基さんで、三論宗の高僧は嘉祥大師吉蔵さんである。特に後者の吉蔵さんは「法華義疏」など、多くの論・疏を撰述した。これらの高僧らは法華経の注釈書や論文などを多く撰述しながら、実際には唯識・三論・華厳などの教学を第一義としていたようであるが、私は原典を通読する能力がないため、判断は難しい。そんな高僧らが法華経の注釈書や論文などを多く撰述した背景も不明であるが、天台大師智顗さまが彼ら高僧と交流があったり、先の「唯識滅種死其心」のように智顗さまの弟子・湛然さまが実際に彼ら高僧を批判していた様子である。
*2・・・仏教における心の立場は「願作心師・不師於心(願って心の師と作るとも、心を師とせざれ)」であり、自分の心は大事ながらも、自分の心に全て気を許してはならないと説かれる。だから、「自分の心を律する」大事は、単純な精神論ではない。徒らに心ばかりを重んじてはいけない。この言葉は曇無讖訳の大般涅槃經(大乗)に初出し、私の尊敬する日蓮大聖人も御書で引用され、一部禅宗の僧侶、とある現代の真言宗持戒僧Kさん(近年まで"婆塞"を名乗っていたから実は在家で寺院HP管理をしているだけの可能性も)なども引用している。同じく日蓮大聖人や法華経を尊敬して信仰した宮沢賢治さんも趣旨を詩に歌い、茶道の人も放った言葉らしく、昔から日本人に親しまれてきた言葉である。また、大乗・小乗を問わず、心に染めておくべき釈尊の金言である。類義の経文として「爲心師・不師於心」が大乘理趣六波羅蜜多經に見られて御書にも引用されていた。余談だが、「自分の心を律する」ダイエットについては、仏教だと「パーリ語の相応部(経典の集まりの一つ)」や「雑阿含経」の中にパセーナディ王(波斯匿王)が行ったという話が載っている。世界初の体重減少ダイエット(the world’s first weight loss diet)とも言われる。
*3・・・大般若経では「勝義諦・世俗諦(玄奘訳)」の「二諦」とも呼称し、龍樹菩薩の中論では「世俗諦・第一義諦(先の勝義諦と同じ)」と偈に呼び、「第一義諦」は「不可説(言葉で表せない)」であり、「不得第一義 則不得涅槃(第一義諦を得ないと涅槃を得ることもない)」と説明される。逆に、仏教の解脱の一つである「涅槃」を得るには、真理を体得する必要があり、その真理の体得には、経典などの教説を学んで理解して覚えるだけでは足らないとも言える。それでも、一応は経典などを学ばねばならない。涅槃の証得に向け、「学ぶこと」に加えて「考えること・戒めること」などが、いずれも欠かせない実践(聞思修や戒定慧など)である。どれかを欠せば、不十分であるのみならず、誤解や慢心のために悪道へ堕ちかねない。「真の健康」においても、ただの精神論に終えず、実際の科学知識を多少折衷する必要もある。だから、逆に科学知識(俗説や迷信も混ざる)に偏重する現代人の問題も言える。バランス・中道の上から言えば、釈尊や御弟子も、肉体の不調や病気は「耆婆(ジーヴァカ)」というお医者さんに診てもらい、薬を服用したわけで、強ちに科学的見解や世俗の健康法を排除する思想ではない。過去記事にも、薬への依存を問題視しつつ、全面的に薬や医者を毛嫌いすれば「頑固な高齢者っぽい」と綴っている。要は、安易な薬・医者への頼り方は唯物論に寄り、反対に「自分は強い・心だけで病気を治す」という思想を貫いても唯心論に寄るなど、中道から離れる。異なる双方の良さを認めて取り入れれば、本来の日本人の「和」の心にも適う。
*4・・・例えば、科学技術で人類が急速に繁栄したり絶滅の危機に陥るなどというよう、問題解決の秘訣・要旨は、二面性の把握と表裏一体の悟りである。現代の上流階級は、そのような観点からも、環境問題や経済難といった現代の課題に臨んでいる。そもそも、人が問題を起こすことは、二面性のある物事の認識による。仏教では、それを因縁・縁起の法において詳説する。その因縁・縁起の法を、仏の教えとして聞いたり、修行する(常に念じて心を観察する)中で実感して「四苦」といった人間の問題を解決する。悟ったところで、肉体における生老病死は免れられない現実だが、そのような「苦」を感じる心と「現実とされる事象」が結びつくことは、因縁・縁起に基づくものである。修行が維持されること=精進によって堅実に因縁・縁起や「苦」が滅ぶ。苦が滅んだ人は価値判断も滅んでいるので「生老病死という事象は有ると認識できるが過去にも現在にも未来にも無いようなもの」となる。少し難しい話だが、「真の健康」に関して、このことも留意されたい。
*5・・・仏教の教義は、仏が「人々を苦しみから解き放たれるように(四諦)・偉大な智慧を得られるように(四仏知見)」という前提で説かれる「方便(便宜的手段)」である。仏教徒が聞く教義は方便であり、なされる修行も方便である。それは「川を渡るために筏(便宜的手段)は必要だが、渡り切ったらば陸路で持ち運ぶ必要はないばかりか、かえって重荷となる」というたとえ話で示される。ゆえに、何らかの教義を知っていたり、修行をなすだけでは、悟ったと言われない。そういった慢心を制御すべく、仏は筏のたとえ話が説かれたり、「教義を信じたり何らかの修行をするだけで人が浄化される(イコール人々が平和になると思われる)と主張するならば、主張する人はみんなすでに浄化されているのに言い争いばかりをしている(イコール平和になっていない、仏も彼らを救うために言い争いへの介入を辞さなかった)」と説かれた。これらは、初期仏教のお経(パーリ経蔵では中部22経、小部スッタニパータ4章9と12)にあり、漢訳された大智度論という先*3の龍樹菩薩が書いたという書物(うち一巻目)にも全てが紹介されている。
*6・・・近現代の日本人は、理性万能主義しかり(浅い人生観で神仏・信仰を否定するなど)と唯物論的であるのに、一方では「言葉はいらない」などの言語不要論・浅薄な唯心論にも陥っている。以心伝心、テレパシーでも使えようか?それで、「血眼になって長い論文を書く人間もそれを血眼になって読む人間も必死でキモイ」とか「シンプル言葉(片言隻句・片言隻語)ほど印象的で心に響く」などと放言する。シンプル錯誤・シンプル顛倒の低劣な言説である。確かに、下手な長文は煩雑だし、短い言葉で端的に力強く表された言葉は、そういった言霊というか、「心に響く」力があるのかもしれない。だが、長文などを全否定して闇雲にシンプルのみを肯定し、説明不足をも是とすることは顛倒である。現代で割と知性の優れている人物は長文を読まずに厭うことが無い。仏教での解脱も、教えをよく学ぶことは「"聞"思修」や「"戒"定慧」として必要な一要素に列され、不可欠である。この修練を欠かして大智慧を得られる者は、よほどの超人しかいないから須らく修むべしと説く。結局は極端に顛倒した主張や、浅識に起因する中途半端な思想しか持たない、知的怠慢と慢心の強い現代日本人は問題である。しかし、その無節操な自然性こそがまた日本人らしい。