2016年7月20日水曜日

現行憲法の改正に対する仏教徒の然るべき立場・見解

さて、仏教徒は盲目的に平和を唱えていればよかろうか?
戦争は確かによくないとしても、現況の改憲・護憲論争について飛躍した主張は多い。
無論、仏教徒には改憲とか護憲の論議自体が無用であるが、少々綴る。

大前提は、改憲を行えば絶対に安全が保障できるとか、護憲を維持すれば絶対に平和が維持できる、などという結果を望んではならない。
改憲も護憲も、共に功罪はあるが、それは2016年6月23日(現地時間)に実施されたイギリスの国民投票(Brexit投票)の趣旨で、イギリスのEUからの離脱・残留の双方に功罪を包含している事実と同じである。
その功罪の具有を理解し、己が後悔しない判断が第一である。
中道を理解し、この前提を踏襲すべきである。

まず私は、既成事実化している現行の日本国憲法の無理な改正を推進しない。
しかし、したい勢力が大勢ならば、好きに改憲をすればよい。
民主主義国家・法治国家ならば当然であろう。
今の自衛隊の位置づけを正当化する範疇ならば、改憲に問題はない(自民党の改正草案の全てを肯定できないため改憲の範囲に更なる議論は必要であろう)。
改憲をしたからといってよほどの政権の暴走は、民主主義の現代文明下で起こらないと信じる。

「護憲」の語については多義的である。
「立憲主義」は都合よく用いられる。
護憲とは、現存説や有効論がある大日本帝国憲法への護憲か、現行の日本国憲法への護憲かといえば、大概は後者である上に、専ら「憲法9条 (憲法第九条)」に念頭を置いているところ、偏狭な定義が多いようである。
今時に立憲主義を標榜する者は、日本国憲法を以て不磨の大典(貞操観念)とし、なかんずく第九条を金科玉条としている。



現行憲法9条の原義である、後の自衛隊を含んだ完璧な武力の放棄はどうであろうか?
憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とは、空虚な観念論である。
例えば、密林に猛獣がいないと過信してターザンのような生活を望むも、無防備・軽装のまま猛毒の蛇や蜂などに攻められかねない危険性がある(無論、回避したり彼らの攻撃性を煽らない行動を取ればよいが実際は困難を極めよう)。

また、「"平和を愛する諸国民(観念偶像)"を信頼して自存自衛を決意する(取意)」とは、浄土真宗の他力本願とそっくりである。
皮肉にも、「他力本願」の俗用を嫌う浄土真宗の、一部僧侶が、阿弥陀如来(法蔵菩薩)の四十八願と日本国憲法が共通している、といった妄言を吐いている。
こんなことでは「日本の防衛は他力本願ではいけない(取意・ここでの他力とは"平和を愛する諸国民"ではなく"米軍"のことか)」という昔の閣僚の発言に抗議などできなかろう。
現行の日本国憲法の立場も浄土真宗の宗旨も「他力本願」が是であろうし。
日本の仏教宗派では、浄土真宗・浄土宗系のほか、禅宗系とりわけ曹洞宗は現行憲法の護憲論者が多く、教団規模の取り組みにすら見えてならない。
もっとも、「団体・法人の目的を超えた活動」という非難を恐れて大胆には動かないであろうが(これを怖じずに憲法9条を守ろうと運動する日本山妙法寺という団体もある)。

仏教において戦争・平和とは、欲望などの三毒が生み出す忌まわしい地獄・修羅の業の結果である上、その三毒に塗れたまま命を落とせば死後も地獄などの悪道に堕ちてしまう。
かといって、無理に抑制しようとするものでもない。
結局、当事者の過去遠々劫に於いて積み重ねた悪業の因縁によって結果的に発生する。
巻き込まれる者も同様であり、「自業自得」とは本来、こういった広い見地より言う。
6月20日の記事で紹介した釈尊御在世の故事(釈迦族と毘瑠璃王の話)も、最初こそ釈尊は当事者間の衝突を食い止めようと動かれたが、3度目以降に彼らの悪業の因縁を知り、不可避の闘争であると識って不本意ながらもそこで行動を終えられた("仏の顔も三度まで"という諺の原意)。
悪業・宿業の根深さとその忌まわしさは、十大弟子の一人にして阿羅漢果を得た目連尊者が婆羅門に打擲せられて亡くなった故事(尊者自身が過去世の業を覚って死を覚悟した)にも見られるが、妙法である日蓮大聖人の法門は、悪しき宿命をも転換して現世安穏・後生善処の利益がある。
無論、南無妙法蓮華経の信心を守り抜いて他宗信者の武士に処刑された熱原三烈士の死に様は、目連尊者にも似るが、これらは「転重軽受」による罪障消滅であり、無始以来の罪業を現世の一瞬で"軽く受けた"といわれる(死に際しても泰然としておられた心の現世安穏)。
話を戻して戦争・平和についていえば、立正安国論で諸経を引かれて「他国侵逼」から国を護る手段を訴えておられる。

広宣流布、仏国とならないうちに、観念的な平和憲法の理想は空理空論である。
坊主・・・仏教徒であれば、真面目に布教し、広宣流布を遂げてから平和憲法の理想を実現すべきである。
武力の放棄は最終目的であって「いつか」は「今」ではない。
その「今」とは、西洋的合理主義が巷間に蔓延って定着し、仏教にも外道の邪教にも理解がなく、現代的合理主義の個人主義と啓蒙思想の相乗効果で宗教を一緒くたに卑下して世俗的・皮相的な思考しかできない現代人(世俗教シャカイ派信者)ばかりの「末法悪世」ではないか!
宗教家であれば、憲法の議論よりもこの事態を甚だ悲しまねばならない。



平和憲法を全否定しないが、安易な肯定もしない。
率先した武力放棄による「急進的平和運動」は実現性がない。
先述の釈尊御在世の故事(6月20日中の記事釈迦族と毘瑠璃王の話)を再度確認されたい。
虐殺的な闘争も不可避であったし、いくら慈悲を以て教導しようとも、毘瑠璃王の瞋恚を制御できなかった。
世界中の核軍縮はオバマ大統領の鼓舞でさえも進展が見られず(彼は発言する勇気があっても発言した内容の実行力に欠く)、日本国で仏教の教団が形骸化する中、武力や軍備の放棄をすれば、仏法は元より世法においても日本国を根無し草と成さす。

時宜に随って変化する世俗の条文や法制度の在り方くらいで一国乃至全世界の平和の実現を願うなど、仏教徒の発想ではない。
日本の歴史において偉大なる黎明主君にまします神武天皇も、己未年(西暦に換算して紀元前662年)三月に「さて、統治者となった私は法律や制度を定めようと思う。その意義や内容は、時間に応じて改変してよい。それで仮にも人々の利益となるならば、統治者の理念に反することがあろうか (夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造)」と詔勅をあそばしている。
事実の真否を問わず、古くから日本人の立法観・政治観はこのように「諸行無常」を弁えていよう。
日本国憲法については昭和天皇の勅語(昭和21年)にも、「國家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された國民の總意によつて確定されたのである。」と、あくまでも当時における「國家再建の基礎」を前提としていたし、当時は実際にアメリカなどの占領下であって軍事衝突など考えられなかった(ソ連は終戦直後に千島列島などを不法に侵略したが)。
時局に対して柔軟にあるべき政治ならば、必要性を訴える声に応じて前向きに議論すべきである。



修行者の今生は、断ちがたい煩悩との付き合い方が重要な課題である。
よほどの聖人や上根上機の人でもないと、俄かには煩悩を断ちがたい。
また、人間(健常者)は誰しも悩みを抱えながら生きている。
多くの悩みをいきなり排除して奔放に生きることなどできないし、他に悩みの速やかな解決の手段としては自殺くらいしかない。
しかし、「死の絶対性」に任せるだけの虚無主義ではいけない。
そこで仏教では、死後の輪廻を説き、また現世における解決法をも説くから、「死ねば終わり」の虚無主義を一蹴している
人間として生存する以上、どのように悩みを解決して幸せを得てゆくか、慎重に考える必要がある。

国家もまた然り。
しばらく荒れている世界に処する上で、軍備と付き合うべきであろう。
日蓮大聖人の「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず (乃至) なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし(学会御書 1,192~1,193p)」と仰せになった御書の大意は、兵法が優れていても兵法を活かせる運や根本的な精神が無ければ役に立たないことを意味している。
つまり、兵法(国家で言うと軍隊)による危機の回避を認めておられる。
「なにの兵法」とされる実質的能力も、「法華経の兵法」という精神やそれによる福運と共に必要であるそう(ある種の中道や和を説いている)。
お言葉を賜った四条金吾殿は、絶体絶命の諸余怨敵の攻撃を回避すべく、「兵法」を行使したわけであるが、同じく日本国も怨敵の攻撃を防ぐために軍備は必要である(怨敵の如き侵略戦争などしない)。
※大聖人の御文の如くんば、軍備を強化しても放棄しても、改憲も護憲も最終的には国内の乱れ・他国の攻撃を受けて窮地に陥ってしまうか、やはり正法なくして国家の安泰は成り難い。

軍備とは忌々しいもので、核兵器などはその典型例である。
諸刃の剣の如く、自国にもリスクが大きく、保有国がアメリカから北朝鮮までこぞって将来的な核廃絶を主張していても、核軍縮は進まず、核開発を継続するなど、保有国間の疑心暗鬼が強い。
このように、核兵器ですら手放しがたく、現在はなお疑心暗鬼が強まっている。
娑婆に完璧な清浄は有り得ない。
過激な平和主義者は、常楽我浄の四顛倒の幻想を捨てられずにいる。



改めて中道の意義に念を押すと、憲法論争の元凶は無明の邪見「常見・断見」に尽きる。
「常見・断見」とは、人間の生死(死生観)という哲学的・宗教的テーマに限らず敷衍できよう。
極端に現行憲法を「不磨の大典」として守りたがる人は「常見」であり、一方で帝国憲法の復活を訴える人も「常見」であり、自主憲法を作り直そうという徹底的な改革を目指す人は「断見」である。
この「常見(有への執着)」も「断見(無への執着)」も極端な見解であり、「中道(非有非無)」の仏教においては何ら推奨しない。
ただ、改憲の必要があると意見が高まれば、その一点を議論すればよい。
強ちに改憲をせずともよい状況では、差し置けばよい。

自民党に陰謀論多しといえども、現行憲法を既成事実として受け入れ、改憲に前向きである点は、もっとも「中道」、安倍さんのいう「中庸」の旨に近い存在と、私は思っている。
更に言うと、「与党の中の野党」を自称する公明党は、宗教政党だけあって政策も改憲議論も穏当な立場に見え、良くも悪くも中道に見える(支持母体の教団一般会員側と政権与党での立場のバランスが微妙を極める)。
背後の教団も含めた歴史的経緯(投票事件・言論ナントカ・主張の変節・各種陰謀など)についてはここで論じない。

色々と論じてしまえば、自民党がアメリカの言いなりであるから各種政策を成立させてきたとか、過激な護憲派や民共野合野党が中朝の手先であるから与党に文句をごねてばかりで、中朝など実際に戦争を起こしかねず今も国際法を蹂躙したり近隣国家と衝突している現実的脅威には何も抗議をしない、などの陰謀論に走ってしまうから、それらの邪推は封じ込める。
ここまでにそういった方面を触れないでおいた理由は、疑惑による悪心を起こさぬためである。
実相に詳らかでない物事を推し量って仮に信じても、盛んに広めないほうがよい。
万事に顛倒を起こしかねない(6月20日の記事・脚注3に同意)。

政治的な最善をここであえて言及すると、そういった陰謀論・陰謀説を含めて胸襟を開いた議論がされ、護憲派も改憲派も明確な認識を相互に示すことであろう。
とはいえ、今後ともそんな公平公正の議論などされようもないこと、欺瞞に満ちた政治家や政治団体を見ている人は嫌というほど御存知であろう。
現状、相互に邪推をかけて譲らないわけだから、今までが仏教の「中道」に適っていないばかりか、日本の「和(譲り合いや話し合いの意義を重んじている)」の思想にすら遠い。

聖徳太子の十七条憲法に「十七に曰はく 、夫れ事・獨り斷む可からず。必ず衆と與に宜しく論ふべし。少きことは是れ輕し。 必ずしも衆とす可からず。唯だ大きなる事を論ふに逮びては、若しは失有ることを疑ふ。故に衆と與に相辯ふるときは、辭・則ち理を得。」と。
この一条の意義を熟考して拝察し、心せねばならない。
※この訓読文は、複数の検索結果から独自に組み直した。理論を概説すれば、全て和語で読めるようにし(例えば"論う"ならぬ"論ず"は漢語サ変動詞だから非推奨)、"是"・"唯"などは送り仮名を振り、原文にある漢字は出来る限り残した。準体助詞"とき"や再読文字の場合の"べし"はひらがなでよい。





起草日: 2016年7月8日・・・同日に前の政治記事を原稿とした動画を投稿したり、同記事に脚注を設けて2つの注釈を加えた。

追伸: 2016年7月13日19時、今上の天皇陛下が、生前、特に数年以内に退位せられる意向を示しておられるとの御報を耳に入れた。
この日、参院選で当選した無所属議員1人と別の民主系無所属議員も自民党に入党せんと発表し、自民党が参議院で27年ぶりの単独過半数になんなんとする政局の変化を見た矢先である。
時局に複雑さを感じる私だが、向こう数年間は陛下がコロンと崩御せられることはなく思う。
陛下の御宸襟を探るようではあるが、この際に書いてみる。

お年を召されながらに、陰陽、様々な公務の折にも、深いお考えを胸中に秘めておられ、時に随ってこれを周知せしめんと思し召されていたのであろう。
やはり偶然もあろうか(そもそもNHKの独自報道が第一報であって以前より皇室で内々に同意もあった様子)と思うが、陛下の御耳におかれては政局や世情を聞し召しておられようし、生前のうちの退位を御決意せられた経緯は、こういった心境があろうと邪推を致す。
日本国憲法に関連する議論の進行の注視や最終的な裁定、今なお止まない男系護持のための皇室典範の改正議論の動向もあって今は早すぎず遅すぎず、と判断して妥当であるから、こういった政局や世情を観ぜられた影響を拝察する。
現行の皇室典範(異称: 占領典範・日本敗戦後に作られたため)には、この「生前退位」を認める規定もないため、改正の必要性が言われ、これを契機に様々な改正が議論されようか。

無論、皇位の在り方は陛下の御意思こそが第一であり、それ自体を民衆や政治家は論ぜず、ただ戦後に制定された現行の皇室典範の改正の是非を論ずればよかろう。
例えば、現行の皇室典範では皇室の方(皇族)の婚姻に関して内閣総理大臣を議長とする「皇室会議」のメンバーが結婚の是非を決議する必要があり、皇室の尊厳を政治に関連するものとして民主主義の枠に押し込めた、尊卑逆転の制度が縛りつけている。
ただ、皇室の方の意思に対して皇室会議の構成員が著しく反発することも有り得なかろうし、そもそも皇室の方は、民が失望しない判断に自然となるお徳をお持ちであられる。
煩雑な皇室会議の合議も、皇室への障害とはならないように思う。
事実の真否や、実際の行く末はともかく、こういった私の見解も仏教の思想が大いに出ているので、再度、理解を深めてほしい。
そのために、恐れ多くも愚見を忌憚なく綴っている。


2016年7月10日日曜日

真の健康法の弁証 ~ 既成の健康知識に飽きた現代人へ

まず欲望があるとし、その欲望が満足されれば、これから起こる欲望を肯定する心理が生じる。
それが欲望を起こし続けてやまなくなるか、その極致でようやく満足が得られても、満足の心境や生活状況を持続できない場合が多い。
好例は現代文明の「スポーツ・飽食・便利な生活」を享受できる富裕層である。
仮に欲求満足を死ぬまで持続しようにも、不覚の急所を補えていない(非常時を想定していない)と、稀な幸運の者しか叶わないし、ましてや万人・大衆が実現できるという普遍性が無いし、ごく一部の人間は虚栄に用いる(民主主義・上流階級の理想は人類平等であろうに)。
奔放に欲望が起き続ける健康は「真の健康」と到底言えない。

「生老病死」の四苦は誰にでも必ずあるから、これを心の奥底より打ち克とうとしなければ、安楽が崩されようとする時に大なる苦しみ(自覚できずとも)を受けるため、真の健康に遠い。
「真」とは絶対性である(後述)ので、心身ともなる健康が崩れない境地は「真の健康」と呼べる。
「真の健康」には特別な道具も食事も費用もいらず、道理が分かれば多くの人が今の生活のままに実現できる(一定の自由がある前提だが)。
さて、真の健康とはいかなるものであり、どのように実現されるか、しばし開陳する。



真の健康法は己が内にあり、どうであろうか?
世の人々を見るに、どういう食事法であるとか、何を食べるとか、どう調理するとよい(焼き加減)など、「即物的観念論」にとらわれている。
また、テレビや雑誌などの通販に、こういうサプリメントだとか栄養補助食品で「何キロ痩せた」、それらや化粧品などで「綺麗になった・見た目年齢何歳若返った」と、実証的な宣伝がされているが、これは人によって「胡散臭い」と思うかもしれない。
私はそれらの方法論や製品に関する疑義を、ここでは述べないでおく。

そして、何よりも「昔の日本人は健康的な食生活を・・・」などという評価は、むしろ昔の日本人の心に背いていよう。
食生活は時代背景による食料のあり方と、精神性による結果的なものであり、それを現代人がありがたって真似する様はお笑い種である。
何を食べるとか、どう行おうとかと、形だけを真似しても、派手なメイクや美容整形で繕う欺瞞的な人々と大きな差はない。
みな、現代的な思想に毒されていて大事なものを見失ってしまった姿である。

我田引水となろうが、伝教大師最澄さまの素敵な言葉を引用する。
「法華経を贊(ほ)むと雖も還って法華の心を死(ころ)す (法華秀句)」*1と。
これは、法相宗・三論宗という宗派の高僧たちが、法華経というお経の注釈書を作って法華経を讃えたが、それら宗派の本心は唯識論などを尊び、「法華の一乗」の思想に背いているから、「彼らが法華経を讃えることはかえって法華経の心を殺す」、そう最澄さまは説かれている。
今の日本人の一部は、平安貴族が豪遊していた(高等遊民?)とか、官僚が高収入だとか、ナンタラ造りの屋敷が壮麗だとか、そんな夢想ばかりに耽っているが、これは「昔の日本スゲー!カッケー!」と讃えているようでも、かえって昔の日本人にご迷惑ではないか。
子孫末裔である我らが、時に先人を悪しく讃えるが、先人は虚栄を誇りたくてそんな生活をしたとは限らない。

健康法の話に戻すが、要はそういった心も知らずして徒らに妄りに、昔の日本人は何を食べて健康的だった、理想的な食生活を取っていたとかと科学的実証をした上で多大な評価をするが、どこまでも先人の心には遠ざかっている。
真の健康法は食事療法・運動療法などではないため、真の健康も得られないことであろう。
健康に関する俗悪な諸々の書籍など手に取るに値しない。
「食事と運動のバランス」が健康の肝要である通説には一理あるが、それだけでは不十分である。

特に、ダイエットなどは、自分の心を律していれば自ずと痩せるものである。
これは単純な精神論にあらず*2
そもそも、「自律」ができていれば過度な状態に陥らないはずであろう(特異体質など例外を除く)。
仏教で、少しポピュラーな言葉に「少欲知足(欲を少なくする・足るを知る)」がある。
この言葉自体、「健康法」とは何ら関係はないし、仏様はそんな現世の延命のつもりで説法をしなかったろうが、実際にこの精神性が「良薬」と思う。
世のことわざにいう「良薬(は)口に苦し」の「良薬」とは、「物体としての薬が良品ならば苦い」という矮小な見解で捉えてはならない。
一億総精神病患者であると自覚し、仏教という最上の良薬を須らく取って服すべし。

※精神云々も西洋の概念で近代の訳語だが、便宜上使った。精神医療の業界はしばしば「薬漬け」の問題が取り沙汰されている点など、薬全般の普遍的問題の顕著な例が判然としている。



真・俗の二義あり*3
真は絶対性、俗は相対性に約す。
真と俗、これを現代語で具体的に示すと、精神と物質(肉体)、心と形(物)ともいう。
だがまあ、凡夫(全人類)の精神や心そのものを以て「絶対的真実・真理」と言わない。
人の心とは、別の外形的事象に流されるからである。
いずれにせよ、心の動き(判断)から行動が発生し、物事の状態が決まってゆくことも人の世の常である。
私が披瀝するところの「真の健康法」では、このうちの「俗」と称する科学的な健康知識も多少取り入れ、真・俗も不可分の立場を取る。
仏教の僧侶も「俗の道理を踏まえねば真の道理を得ることはない。真の道理を得ずして涅槃(当記事でいう真の健康に置き換えてよい)を得ることはない」と説いた(脚注*3にも少し引用)。

故に私は、「悪い食べ物を食べても問題がない」と極端な結論を言うつもりはない。
物心一如の上から真っ当な論理を述べるにあたり、今の日本人は「物・心」のうち、後者が著しく欠けている問題を提起する。
健康的な食事や生活を求めることは構わないが、その物質面に先立つ精神性を得ることが急務でなかろうか。
それだけでも自然と食事や生活などの全てが適度に整って健かになろうから、栄養学的知識・摂る食品の良し悪しや効能などは、その後に考えればよい。



むしろ、ややもすれば今の日本人はくだらない精神論(綺麗ごと)を垂れ流すわけだから、私の所説が精神論という領域に押し込まれることは、相対的(綺麗ごとに対する比較)ながらあり得ない。
最も普遍的で世界中の誰もが行える、いな、本来の日本人の能力であったものが、100年以内に失われ、今や日本人は夢にも思わない。
私の言う真の健康法とは、「健康法」と称するまでもなく、実に本来の日本人の生活に具有されていた。
ただし、それを忘却して久しい現代では便宜上、真の健康法と呼ぶに値する。

「真の健康」は、人間の性質として具している(性具"しょうぐ")。
「真の健康法」は、これを自覚して呼び覚まして維持することである、と言い分ける。
真の健康は、必ずしも「平均寿命より長生き(長寿)」とか「無病」などという結果を指さない。
本来の身体的機能が精神によって再起し、心身ともに「人間らしさ」を可能な限りに取り戻すのみで、それ以上の健康体(不自然な手段による)を望めば、すでに真の健康ではない。
しかし、精神面の健康を得たことで肉体面の健康も同時に自然と得られる人は、全員とまで言わずとも確実に増えるであろう。
世間の健康食品などの宣伝では、使用者(愛用者)の声だとか、○○健康法を実践してそちらの面の健康を得たという人の話などを載せるが、私はわざわざ他人の実例(セーシンが優れている人)などを示さない。



仏教には「八万四千の法門」という言葉がある通り、多くの教えや修行法がある("八万四千"は数の多さを表す比喩で文字通りの数を意味しない)。
健康法に関しても「○○ダイエット」だけで凄まじいほど喧しく聞かれ、虚実・ピンキリ、様々な方法論などが飛び交う。
テレビやネットやチラシや雑誌の通販にもまた、虚実・ピンキリ、様々な製品(健康食品や運動器具など)が夥しくあり、その効能を鵜呑みにして信じる消費者もいれば、消費者庁の改善命令ほか、行政や司法の介入で制限が入る例もある。

種々の通販は、世にいう「新興宗教の勧誘」などと何か異なるであろうか?
信じることで宣伝される効能以上の結果を出す(プラシーボ効果?)者もいるであろうし、「何だこれ全然効果ねーじゃん!」と難癖を付ける者もいるわけだが、結局のところもっともらしい実証を顕揚すれども、宗教の神秘性を過ぎない。
それらの製品や方法論の信者にせよ謗者(批判者)にせよ、特段、私から侮蔑はしないが、詮ずる所はインチキ宗教と同類である。

製品という物体にお金をどれだけ出せるかと言えば、私は最初からその健康的御利益に期待して出費などしない。
先述したよほどの「悪い食べ物("悪い"の認識も人によるが)」でない限り、食えれば何でも良かろう。
逆に外形的な手法や物質にこだわると、体がそれに慣れて効果が薄まったりする。
しかも、体の本来の身体的な機能の低下のために常にそれを取り込まないと、心身の維持が困難となることは誰でも知っていよう。
依存症の負のサイクルなど、今どきの子供は学校・教育機関で教わる。

この原理を逆手に取れば、身体の免疫機能の原理となる。
微量のアレルゲンを経口摂取することで、アレルギー物質への耐性がつく可能性もある。
効果の鈍化の原理(マイナス系統)と免疫機能の原理(プラス系統)は人間の身体の善悪二面性=表裏一体*4であり、進化の賜物である。

薬物中毒はもちろん、多くの薬の常用、カフェインやアルコールも同様であり、広げればすべての食品や含有成分にも微弱ながら、その性質が備わる(摂食量が適正を外れて多ければ満腹感が緩んでいくことは好例)。
俗世間で言われるように、貧しい人(貧困な国民)が過酷な環境でも丈夫で心身とも元気だったり(ただし寿命が短い)、反対に衣食住が調って雑菌・ウイルス・アレルゲンに弱くなったり、心身が緩むとか、時間や金銭に余裕があるうちは慢心して怠けやすくなるとか、こういった方向にも敷衍できる。
与えられるままだと自ら要求・生産・維持するという能力を失う道理と同じ法則は、どこの世界や物事にも敷衍できる。
だから、単なる物質(何の成分・栄養素が何ミリグラム配合されているなどの製品の能書きも)に拘泥するだけでも迷信(科学的民間信仰)じみているのに、効能があればあるほど心身ともに麻痺してしまう悪因となるから、ゆめゆめ注意してほしい。
依存するにしても、例えば重症の入院患者の点滴だとか、打ち上げロケットの燃料タンクみたく、一時の補助(方便)として利用しながら、いつかは切り離すべきである*5



まるでこう書けば、西洋的啓蒙思想にも通じているようである。
啓蒙思想風に言えば、「栄養素」などの数値や、最近(ここに加筆する2016年5月現在)の世間で不正が取り沙汰されている自動車(日産の傘下に入る三菱自動車)の「燃費」の数値など、こういった数値は経験的知識とならないから、一般人が気にしてもさほど有益でなかろう。
これらの数値は科学的にもっともらしく実証されているように見えるが、それでは一介の利用者や消費者がどう実感できようか?実利的価値がどこにあろうか?
信じるだけで気分が軽くならなるばそれでも良かろうが、過度に気にしては全く愚の骨頂である。
やはりこう見れば、現代日本人は万物に神秘的な価値を求めなくなっても、実在しそうで実利的価値がありそうな物事を無節操に過信する点で、宗教的な盲信が強い。

燃費の数値の不正といった偽装問題の有無を問わず、多くの実証的数値は過信すべき対象でないと知るべし。
栄養素の成分表だとかは、「健康管理」がよほど必要な患者以外、細かい数値を精査しても、一般人の肉体的健康に資するものではないと諦念を持つべし。
だからこそ、精神的な浄化に立脚した「真の健康法」によって心身ともに健全となろう。
健康に関する世俗の知識の多くは執着の元であり、ひとまず離れてみる必要がある。
ただし、その知識を目安にもせずにいろ・骨組みごと取り払え、という意味ではない。
そんな外形的な要素を信じてばかりの現代人は、一度自己に具わる「可能性」を振り返られたい。
己の可能性に気付かなければ、仏教でいう「一切衆生悉有仏性」も空言となってしまう。

一切衆生悉有仏性、すなわち「人間(ひろげて山川草木の万物)は誰でも仏に成れる」という教理は、「一往」の教理として釈尊がお説きになったのであり、「再往」の事実上は、これを聞き知って目覚めなければ、仏性は有って無きが如し、となる。
これを天台教学の「六即」で言い直せば、成仏できる可能性を持つ一切衆生は単なる「理即」、その教えを聞き知った衆生は「名字即」であり、実際の成仏まではまだ4つの段階がある。
PCに例えれば、PCに電源を入れていない状態が「理即」で、電源が入った段階は「名字即」、次いで起動作業中の段階や、パスワード入力してサインインした段階、何らかのソフトを開いた段階、すべき作業を処理した段階などがある(適切な譬えになっていないようで非力を嘆く)。
電子機器に電源を入れなければ用をなさないわけで、仏性も、ただ持っているだけで悟りを開くことは無いし、その教理だけを聞いて「アリガタヤーアリガタヤー」と感嘆してお終いではない。

自己の可能性を説く教理を知ることをきっかけとして自覚・維持することが、己の功徳となって真の健康に繋がる。
これは「戒・定・慧」の三学に通じるが、「自覚・維持」と言う場合は「定・戒・慧」という順序となる。
三学または六波羅蜜でいえば、「真の健康の性具」の自覚は禅定のようであり、維持は持戒・精進と言う。
そうして自然と、心身の健康の増進に繋がることは智慧の獲得という。
こういった精神性の向上が真の健康に向けた土壌を育むこととなり、そこで初めて生活全般も可能な限り改善され、ゆくゆくは長寿だとか無病息災といった結果も得られよう、と言える。
繰り返すが、その健康的御利益は真の健康の道の外であり、直ちに求むべきものでない。

斯く言う私は日々、精神的には希望を淡く持ち、肉体的には問題(便秘など)の緩やかな改善傾向にあるが、同時に日々の生活の中で所作(行住坐臥の四威儀)や言動や思考に注意を払ってこそ、心身とも良い状態が維持できている。
在家の修行者なかんずく閑居求道者は「自室即道場・生活即修行」と肝に銘じよ。
やたらと良質の食材を使って調理法に凝った料理や、必死な形相で街路を走らずとも、素朴な食事と最低限の注意を常に保った生活をしていれば、それで食事と運動のバランスは満たされる。
神秘的な御利益があるわけでもないが、一喜一憂に溺れることもない。
そんな私を上回り、穏やかな海面や湖面の在り様に、ただ心を和ませる境地が、真の健康であろう。

世間に溢れる健康情報に飽き飽きとして来た人は、いち早く真の健康を志向すべきである。
私の所説が気にくわないと思ったらば、いくらでも健康食品や健康器具に散財浪費し、運動やスポーツや方法論の実践に汲々としておればよい。
ただ私は、前代未聞の健康の境地を説示するものである。





私が真の健康に関するイメージを追究するに至った一例を示そう。
水を飲めば、期待通りに水分補給が叶おうか?
または便秘の改善に繋がろうか?
誰もが、そう聞かれれば肯定するであろうが、私は過度な水分補給が逆効果を起こしているように捉えており、「何事もバランスだ!」と主張する気はないが、やはり水分は不必要に貪ってはならないし、多くの食品も、効果を期待して多く摂ることは、かえって問題となろう。
断食や食糧不足において、水を食品の代わりに摂取するにも、分を弁え、量を知った方がよい(足らない場合は糖分や塩分を適量加える、加える動作の過程で飲食を行う実感を持つことで少量ながらに満足感がある)。
どの医薬品やサプリメントにも「用法・用量を守る」旨が注意書きされており、水についても同じように注意せねばならない。

外形的な物質に理性から依存を始めると、体もその物質の摂取にばかり機能を依存してしまうから、本来の身体能力(自然治癒力)も損なう。
そのために、過度な水分補給では、かえって喉を枯らし(物理的に一時のみ潤う程度であって液体に糖分が含まれていれば酸に変わって気持ち悪くなる)、肌を乾かし(特にただの水やぬるま湯では期待するほど潤わない)、排尿される一方で便秘の改善はされない。
それは個人差があり、あくまでも私の実感としての話だが、真の健康においては物質への執着や依存の心が、身体機能までも依存させ、自立的な健康維持が困難となると弁えねばならない。
必要最低限の分量できっかけを与えるのみで、後は身体の作用に任せる方法が最善である。

外形的な物質や手段に頼る傾向は、現代人の日常生活に多く見られる。
歯磨き・風呂・髪洗い・体洗いといった習慣も、毎日きっちりと行う必要はない。
現代人に染み付いた「やらなきゃ不健康・不衛生・キモイ」といった強迫観念であろう。
「自浄作用」なる語彙があるよう、実際に身体は自浄作用の機能(免疫など)を備えているが、現代人のような習慣が無いか薄い昔の人々は、平民も貴族もみな野獣同然の不潔さであろうか?
昔の人々の寿命の長さはさておき、決してそんな風に蔑視しないでほしく思う。

私は歯磨きであれば、「風呂(シャワシャン)」の最中にのみ行い、普段の食事では、口に残る糖分や、それを餌にして細菌が生んだ酸を流そうと、少量の水で口を濯いで飲むのみである。
「風呂(シャワシャン)」という言い方の通り、湯船に水を張ることは2010・11年から一度も行わずにいる。
・・・ああ、そうか、もう最低でも5年経つのか、と振り返ってしまう。

ともかく、それらの衛生観念・強迫観念といった執着からも一度は離れることが「真の健康」への入門となるから、これを志向する者は人目だとかも気にせずにいてほしい。
とはいえ、歯磨きをしないと口臭が酷い、体を洗わないと体臭が酷いから人間関係に問題が出るなど、思い煩う面が強い場合には早急な移行が難しかろう。
「真の健康」は、元から当人の精神や肉体や環境の適性が求められるようで、人を選ぶらしいし、当然、魅力を感じないならばそれでも良い。
プロテインの栄養剤を大量に摂取してムキムキのボディビルダーなどもまた、健康か否かを別とし、一つの生き方として咎める気はない。



「自分が変われば世界も変わる」とだけ言えば実に安直で疎漏であり、反発を招きやすく、そう言うだけの一般人ら*6は不親切の極みである(私の場合は寧ろその不親切さが成長に繋がる)。
いきなり答えだけを言って理解させたがる一般人らは、浅薄であり、思考放棄であり、急進的思想に毒されており、丸暗記の学習を是とした現代的教育の傀儡である。
この意義を詳細に説明すれば、自分が変われば他に自分と影響のある物事は、その分、比例して変わり、また、自分から他の自分と関係の深い物事の扱いも変わる、といった具合に相互の影響を示す。
自・他」や、「内・外」といった対立概念の一体性*4など、仏教や東洋の哲学思想を学べば、その真意を理解しやすくなる。
「真の健康」においては、自分の内なる意識や精神状態が変わることで、他人・外界の、自分に対するあり方や、その逆に、自分から他人・外界への扱うあり方も変わると言える。
だから、外形的な要素は後から自然と変わる、私はそう言い続けるが、こういった意義も学ぶ中で理解しやすくなる。



2015年10月29日に書いたとする文章は、当記事の意味を大いに含んでいる。
その趣旨は「可能性の自覚をし、自然と自律がなされ、自然と願望の成就に近づく」と。以下に一部分を引用をする。

道心があれば、その各々が「不善」と思い悩むことは自然と改まる。というよりは、あるべき「善」に還るのであろう。「善悪」といえばおよそ観念的で、個々人の主観に基づく面は多いが、とりあえず各々が「酒・タバコの使用(飲酒・喫煙)は悪いな~」等と嫌う悪は、道心を持つことで自然と直るものである。
(中略)
道心より、自然と希望も生まれるし、私は成人以後も飲酒・喫煙はしない方向でいよう。されば、禁酒・禁煙が難しくて悩んでいる大人は、アレコレと策を練る前に、清浄の法を学んで改悔し、道心を持つところから始めるべきことを推奨する。



なお、仏教に通じた健康法とは、誤っても断食や一日一食(不非時食戒を持つ)という形式的な方法論そのものを指さない。
ましてや正しい修行者は、健康御利益のために断食や一日一食を行うことを決してしない。
単なる健康法としての実践は、沙門覺應さん風に言えば「勘違い仏教」であろう。
それらの実践で誰もが、個々人の理想とする「健康」を得られる必然性もなければ、仏教上の意義を理解して行い、結果としてたまたま「健康」を得られる場合がある程度のことで、「肉体的健康」自体を断食や一日一食の目的としない。
かえって世間でも、一部の専門家らは「体に悪い」と訴える(一学説)わけだから、断食などに健康御利益を期待する者は外道でしかない。
無論、仏教上の意義を踏まえた修行であるか、一種の精神修養のつもりで行う分には、何ら咎められない。
いわゆる「入定」などで灰身滅智の解脱(無余涅槃)を完成する上で断食を行うことも否定はしない(それで解脱ができるかを私は論じ得ない)。

だが、一時的な禁欲とは、本当に「一時的に欲を禁じる」程度であってはならない。
その点で信仰の中から形式的に断食月間(ラマダン)を設けるイスラム教は愚昧であり、こう見れば一時的な禁欲がいかに無意味な行為であるか実感できるし、仏教ではそういった無意味な修行などは「戒禁取」といって奨励しない。
また、食事に限らず、男を磨くなどの下心で一時的に自慰行為を禁じる「オナ禁」も同様である。
真の健康を志向する場合も仏教の解脱を求める場合も、人間にとっていきなり相対的に落差の大きい行為に及ぶより、漸次目的に進む行為こそが奨励され、摂食方法であれば「少欲知足」を旨とすべし。
少欲知足は、相対的で時宜に適う基準が良いから、太っていても痩せていても、細かい基準は気にせず、その人の腹八分目など、今現在よりも少ない量を心掛けておくべきであるが、人によっては一人で適正な判断ができない者もいよう。
ただ、真の健康の観点から言えば、自戒する努力の心が大事であり、これを弁えれば自ずと少欲知足が実現される。
仏教の妙なる教えで、苦も楽に変わると思えば、軽度の空腹にも沸き立つ喜びが感じられよう。
仮に少し食べすぎた時も、反省して改善する努力の改心を起こせばよいのである。

一方、極端に太っている人間が過激なダイエットを行うなどは、何も大事なことを学んでいないためにそう太り、何も知らないためにそう痩せようとする愚昧な発想でしかなく、大概はリバウンド現象にすら陥る。
理論上、過激なダイエットを行って痩身を得て維持できるものの、それはその才能や環境がある場合に限り(断食などにしても才能や環境が不足しては)、実際上、多くの者には不向きである。
いきなり理想を実現しようとする急進的思想は、かかる愚物の所業と判じて唾棄すべし。

あらゆる例からして真の健康法は、元々心身ともに一定の健康が求められるようであった。
仏道もまた同じことであり、現世での修行が身体的・精神的に無理ならば、その求道心・菩提心だけは念じて来世に再度人間へ転生してもらうしかない。
せめてもの慈悲として、私は仏法の妙音を多くの者に聞かしめ、人々に聴聞の功徳を得せしめんと思っている。





起草日は2016年4月29日以降であり、同年5月10日までに加筆が続いた。
それを一区切りとし、その内容を大幅に補う記述(未整理状態の場合は以下から)を2016年5月14日から開始した。
そんな中、5月23~6月1日まで何も加筆しない時間も挟んだ。
以後も加筆が断続的に続いた。

漢語の名称は「則真健康法」?「真義健康法」?「仏法健康法」?
パーマリンクの文字列は http://lesbophilia.blogspot.com/2016/06/the-way-of-true-health-is-within-us.html (新約聖書ルカ17:21が元ネタ)としてあるが、記事タイトルを直訳すれば"Proving the Way of True Health"となる。
思えば、最近の過去記事もパーマリンクが"idol-and-idea.html"や"musica-et-religio.html"など個性的である(どちらも文法が"○○と××"で一緒だが○○や××自体に面白味がある)。




脚注
本文の脈絡が崩れたり雑多になる問題を回避すべく、脚注の形式で記述を整理するわけだが、ここで読者に「脚注に押し込まれた情報は些末なんだ」と認識されては悩ましい。
確かに、相対的な本末関係はあるかもしれないが、であるが故に「本末一如」で、本・末のどちらも知ってもらいたい必要な情報である。

*1・・・この法華秀句における最澄さまの言葉はその後「故湛然記云」と続く。つまり、最澄さまの天台宗の源流である中国天台宗の高僧である妙楽大師"湛然"さまの「法華文句"記"」の「唯識滅種死其心」を引いて前言を補っている。法相宗・三論宗という宗派の高僧とは誰か、といえば法相宗の高僧は慈恩大師窺基さんで、三論宗の高僧は嘉祥大師吉蔵さんである。特に後者の吉蔵さんは「法華義疏」など、多くの論・疏を撰述した。これらの高僧らは法華経の注釈書や論文などを多く撰述しながら、実際には唯識・三論・華厳などの教学を第一義としていたようであるが、私は原典を通読する能力がないため、判断は難しい。そんな高僧らが法華経の注釈書や論文などを多く撰述した背景も不明であるが、天台大師智顗さまが彼ら高僧と交流があったり、先の「唯識滅種死其心」のように智顗さまの弟子・湛然さまが実際に彼ら高僧を批判していた様子である。

*2・・・仏教における心の立場は「願作心師・不師於心(願って心の師と作るとも、心を師とせざれ)」であり、自分の心は大事ながらも、自分の心に全て気を許してはならないと説かれる。だから、「自分の心を律する」大事は、単純な精神論ではない。徒らに心ばかりを重んじてはいけない。この言葉は曇無讖訳の大般涅槃經(大乗)に初出し、私の尊敬する日蓮大聖人も御書で引用され、一部禅宗の僧侶、とある現代の真言宗持戒僧Kさん(近年まで"婆塞"を名乗っていたから実は在家で寺院HP管理をしているだけの可能性も)なども引用している。同じく日蓮大聖人や法華経を尊敬して信仰した宮沢賢治さんも趣旨を詩に歌い茶道の人も放った言葉らしく、昔から日本人に親しまれてきた言葉である。また、大乗・小乗を問わず、心に染めておくべき釈尊の金言である。類義の経文として「爲心師・不師於心」が大乘理趣六波羅蜜多經に見られて御書にも引用されていた。余談だが、「自分の心を律する」ダイエットについては、仏教だと「パーリ語の相応部(経典の集まりの一つ)」や「雑阿含経」の中にパセーナディ王(波斯匿王)が行ったという話が載っている。世界初の体重減少ダイエット(the world’s first weight loss diet)とも言われる。

*3・・・大般若経では「勝義諦・世俗諦(玄奘訳)」の「二諦」とも呼称し、龍樹菩薩の中論では「世俗諦・第一義諦(先の勝義諦と同じ)」と偈に呼び、「第一義諦」は「不可説(言葉で表せない)」であり、「不得第一義 則不得涅槃(第一義諦を得ないと涅槃を得ることもない)」と説明される。逆に、仏教の解脱の一つである「涅槃」を得るには、真理を体得する必要があり、その真理の体得には、経典などの教説を学んで理解して覚えるだけでは足らないとも言える。それでも、一応は経典などを学ばねばならない。涅槃の証得に向け、「学ぶこと」に加えて「考えること・戒めること」などが、いずれも欠かせない実践(聞思修や戒定慧など)である。どれかを欠せば、不十分であるのみならず、誤解や慢心のために悪道へ堕ちかねない。「真の健康」においても、ただの精神論に終えず、実際の科学知識を多少折衷する必要もある。だから、逆に科学知識(俗説や迷信も混ざる)に偏重する現代人の問題も言える。バランス・中道の上から言えば、釈尊や御弟子も、肉体の不調や病気は「耆婆(ジーヴァカ)」というお医者さんに診てもらい、薬を服用したわけで、強ちに科学的見解や世俗の健康法を排除する思想ではない。過去記事にも、薬への依存を問題視しつつ、全面的に薬や医者を毛嫌いすれば「頑固な高齢者っぽい」と綴っている。要は、安易な薬・医者への頼り方は唯物論に寄り、反対に「自分は強い・心だけで病気を治す」という思想を貫いても唯心論に寄るなど、中道から離れる。異なる双方の良さを認めて取り入れれば、本来の日本人の「和」の心にも適う。

*4・・・例えば、科学技術で人類が急速に繁栄したり絶滅の危機に陥るなどというよう、問題解決の秘訣・要旨は、二面性の把握と表裏一体の悟りである。現代の上流階級は、そのような観点からも、環境問題や経済難といった現代の課題に臨んでいる。そもそも、人が問題を起こすことは、二面性のある物事の認識による。仏教では、それを因縁・縁起の法において詳説する。その因縁・縁起の法を、仏の教えとして聞いたり、修行する(常に念じて心を観察する)中で実感して「四苦」といった人間の問題を解決する。悟ったところで、肉体における生老病死は免れられない現実だが、そのような「苦」を感じる心と「現実とされる事象」が結びつくことは、因縁・縁起に基づくものである。修行が維持されること=精進によって堅実に因縁・縁起や「苦」が滅ぶ。苦が滅んだ人は価値判断も滅んでいるので「生老病死という事象は有ると認識できるが過去にも現在にも未来にも無いようなもの」となる。少し難しい話だが、「真の健康」に関して、このことも留意されたい。

*5・・・仏教の教義は、仏が「人々を苦しみから解き放たれるように(四諦)・偉大な智慧を得られるように(四仏知見)」という前提で説かれる「方便(便宜的手段)」である。仏教徒が聞く教義は方便であり、なされる修行も方便である。それは「川を渡るために筏(便宜的手段)は必要だが、渡り切ったらば陸路で持ち運ぶ必要はないばかりか、かえって重荷となる」というたとえ話で示される。ゆえに、何らかの教義を知っていたり、修行をなすだけでは、悟ったと言われない。そういった慢心を制御すべく、仏は筏のたとえ話が説かれたり、「教義を信じたり何らかの修行をするだけで人が浄化される(イコール人々が平和になると思われる)と主張するならば、主張する人はみんなすでに浄化されているのに言い争いばかりをしている(イコール平和になっていない、仏も彼らを救うために言い争いへの介入を辞さなかった)」と説かれた。これらは、初期仏教のお経(パーリ経蔵では中部22経、小部スッタニパータ4章9と12)にあり、漢訳された大智度論という先*3の龍樹菩薩が書いたという書物(うち一巻目)にも全てが紹介されている。

*6・・・近現代の日本人は、理性万能主義しかり(浅い人生観で神仏・信仰を否定するなど)と唯物論的であるのに、一方では「言葉はいらない」などの言語不要論・浅薄な唯心論にも陥っている。以心伝心、テレパシーでも使えようか?それで、「血眼になって長い論文を書く人間もそれを血眼になって読む人間も必死でキモイ」とか「シンプル言葉(片言隻句・片言隻語)ほど印象的で心に響く」などと放言する。シンプル錯誤・シンプル顛倒の低劣な言説である。確かに、下手な長文は煩雑だし、短い言葉で端的に力強く表された言葉は、そういった言霊というか、「心に響く」力があるのかもしれない。だが、長文などを全否定して闇雲にシンプルのみを肯定し、説明不足をも是とすることは顛倒である。現代で割と知性の優れている人物は長文を読まずに厭うことが無い。仏教での解脱も、教えをよく学ぶことは「"聞"思修」や「"戒"定慧」として必要な一要素に列され、不可欠である。この修練を欠かして大智慧を得られる者は、よほどの超人しかいないから須らく修むべしと説く。結局は極端に顛倒した主張や、浅識に起因する中途半端な思想しか持たない、知的怠慢と慢心の強い現代日本人は問題である。しかし、その無節操な自然性こそがまた日本人らしい



2016年7月1日金曜日

Google+ 2016年6月中の日記メモ

今月の見どころは、エスカレートしつつある知的障害を持つ弟の暴力性である。
母が学校と連絡を取り合った文章の記録が、本家ブログ6月8日の記事や、日記メモでは当月26日などに写真付きで載る。
この問題の顕著な例としては、6月27日の弟の暴力(殴打一発・暴言・打ち上げ花火爆発音のような物音を連発)であり、同日はそれのみならず、狂乱した母親が警察へ通報し、実際に警官2名と、後を追ってもう2名や、特別支援学校の教師2名が我が家へ来たことである。

4月頃からアラーム設定の状態は定着しているので、ここで基本的なアラーム設定の第一~第五に関して一覧に表す。
特筆しない限りは、基本的に以下の通りの時刻である(5種アラーム)。
第一…2:10 第二…2:20 第三…2:26 第四…2:40 第五…2:50

第三アラームは2:30にすることがない。
2時台前半に起きるこだわりがありながら、第一アラームを2:00とするわけでもなく、2時ちょうどよりは10分多く眠っておきたいこだわりがあろうか。
このような状態は、便宜のため一時的に変更する場合があり、当月は17日がその一例である。


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2016/06/01

右にはPCで色調補正をしていない状態の月を2つ載せた。ところで、この当時忘却していた撮影設定があり、これを用いていれば「風景の木々や建物」は写ったかもしれない。

本日は2時15分に起床した。前日から、保管ご飯を加熱して食べ残しのサバと食べる・4時までにゴミ出しと自販機通いの外出・5時までに風呂(シャワシャン)を始めてスウェット類は洗濯物として出す、といった計画が定まっており、早起きは意識せずに自然と実現された。3時10分ころから件の外出を始めた。まず、やはり東の空に低く浮かぶ三日月サイズの月が妖しく橙色の光を放って印象的であった。前日より音に聞く「スーパーマーズ」らしい天体(火星)は見つからない。今の時間帯では厳しいのであろうか。はたまた雲に隠れているか、別に見えた星が火星だったか?ゴミ出し・自販機での購入作業は順当に終えた。金額は2点で270円であり、小銭の内訳は書かない。

4時40分以降に風呂(シャワシャン)を始め、5時23分に自室へ戻った。7時40分ころから母親が1階リビングに来て過ごし始めたが、8時台後半から茹でたスパゲティの臭いが漂ってきた。これは、以下の出来事の折に調べると、チルドうどんだったことがわかるが、元の個数が3袋だったところ、今は1袋である。前日に弟が自分でミートソーススパゲティを作って食べたと思われる件も、実はミートソースとうどんだった可能性も浮上する。結局、今時は母が2人前以上を茹でて弟と共に食べる、といった食事が有り得なくなってきたろうか。長年、他人と食卓を囲まないでいる私であるが、そういった状態は親子や家庭に相応しくなく、昔から私一人だけでよいと思っているが、まず我が家は離婚後も父子・母子間で人の移動が多かったなど、普通の状態でないから、当然、同じ家に住んでも円満な関係は難しい。

9時30分過ぎに工事関係者が「お話」として訪問するも、母親はいつも通り、すぐ話を始めさせず、10時ころに出直すよう返答した。何も母親は忙しそうでもないが、このような相手に延期を求める要求は毎度である。この母親は間もなく2階へ上がってトイレに入ったが、1階リビングは何か洗剤のような臭いが強かった。その正体は歯磨き粉であり、キッチンの流し台の上で母親が流さずに泡が溜まっていた。母親は日に日にボケやエゴが強まっているものの、一人として忠告せず、本人にも自覚が無い。この日記メモに書いていない母親の一挙一動や言動や所作など、随所に渡ってボケやエゴの強まりが現れていて辟易するし、憂慮を禁じ得ない。母親にも子供らにも、相談相手がいなければ、まずそういった発想もない。別に当人らのみで解決しようと思えばできる。母親がどうにもならないとしても、私がアレコレを気にしない心境でいれば、何事も思い煩わずに済むというものだが。やはり彼の聖人のように振る舞い難く、聖人であっても度し難い人間を一生のうちに救済はできなかった。

10時0分、定刻通りに同じ工事関係者が再度訪問するも、母親は色々と忌避する言い回しで返答し続け、彼を追い払った。否、彼から辞退した。彼の言動の一部始終を不遜に感じた母は直後、母の自室で苦情の電話を入れ始めた。母親が申し付ける根底は、相手の改善を願う聖人の慈悲には似ず、ただ母親自身のエゴを押し付けたい不満と怒りである。同時に、誰の忠告にも耳を傾けない人間である。仕事をしていたころに利害関係から職場や関係先の人間の言葉を容れるとしても、仕事をしないでいる今は関係が無い。昔にも増して2015年以降は、何の業者にも度々苦情の電話を入れたり、無機質な通話に突然相手の言葉遣いを責める展開を見せるなど、エゴへの同調を押し付ける(傑作は2015年12月28日のVS郵便配達員)。物事を言える人間とは、相手の改善を願いつつ自分も直すところがある自覚を持つ人間である。対面する片方のみがそれでは、両者の改善は実現できず、こじれたまま、乱れたり、ほつれたり、乖離する。人間関係も国家関係も同じである。



2016/06/02

前日の就寝時に携帯電話の電源を一~数ヶ月ぶりにオフにした。本日は2:10の第一アラームが鳴る直前の時間帯に目が覚め、手ずから携帯電話の電源を入れたらしい。それで携帯電話で2:09という時間の表示を見たようだが、このメモを打つ2時20分台、すでに記憶が遠く、脳内で文字化された記憶に頼っているような感覚である。

水分を摂るのみで絵や音楽の作業を続ける時間を過ごし、5時前までに菓子類を僅かにつまんだ。5時0分、俄かに2階の弟の部屋から騒々しく物音が鳴らされ、数分後には1階へ降りてきた。気まぐれとはいえ、今日みたいな時間に彼が早く起きるとは不条理に思っている。別段、損失など無いがね。

10時10分ころから母親が玄関の出入りを多く行い始め、10時20分台には徒歩で家を離れた。ところで、今日の天気は前日などの雲が多い日などと比べて良い晴れ方だが、風は強い。しかも、前日6月1日などは北海道で積雪か降雪があったようだが、当地・豊橋であっても今朝は寒く、前日も涼しい方であった。去年6月は、当時の日記メモにもある通り、雨の日が多いうえに3月くらいの寒さでもあった。ここまで綴ってみたが、なんと、件の6月の日記メモまとめ記事を見ても、「寒」の字や「雨」の字すら見当たらない。当時は不十分な日記メモで、こんな雑感も書かなかったためであろうから予想通りである。実際には7月以降に投稿文の記録が見られ、例は7月12日の日記メモである。10時38分に母親が一度家に入ったが、10時57分に車でどこかへ去った。12時45分に母親が帰宅した。脳神経外科と称する医療機関でツムラ製の「加味逍遥散」と「芍薬甘草湯」を処方されたようである。こういった漢方薬の名称からは、以前に「防風通聖散(ナイシトール3種類)」や「防己黄耆湯(コッコアポL)」を母親が俄かに飲んでいた時期を連想する。

本日も前日も、午前中にコーヒーを1日当たり2杯分飲んだ(コーヒーの素に対する湯量・シュガー・ミルクの割合や時間内の摂取量は不問)が、大した便意もなく、これでは先月の頭と同じように下剤(コーラック系)を飲む流れとなりかねない。1か月通して下剤の使用を控えられる時は来ようか?サマタ・パヴァナを行ずべきか?下剤の常用は今年の3月までで良い。よって、明日も下剤は飲まず、またコーヒーも節制しておく。先月が快便な部類であった一因として、カフェイン飲料の節制と適度な飲用が要となっている。



2016/06/03

本日は1時50分台に起床した。ここ3日ほど保留してきたキッチン冷蔵庫のタマネギの調理を行った。自室保管ご飯で焼き飯に使う。自室冷蔵庫のもやしや竹輪も使った。竹輪の利用法は、適度なサイズに輪切りして調理途中の焼き飯を入れて一緒に焼いたり、縦に切ったものなどを焼き飯の具材として一緒に焼くなどがある。

13時30分過ぎに母親がどこかへ発車した。前日や本日は、痒い虫刺されのような炎症を1箇所ずつ発見した。2箇所とも、1階リビングの棚(ラック?)に収納される「液体ムヒ」と称する薬品を塗布しておいた。母親の部屋に上がると、ベッド一杯に豊橋市内・周辺の地図が広がっていた。たまにこういった光景は見られるが、こういう場合に行く先が初訪問であるかは不明である。



2016/06/04

本日は2:10の第一アラームで目覚めたが、その後はしばし押入れ内で探し物や、携帯電話での某サイト楽曲再生などをしていた。2時20分過ぎに起床の必要性を考えて起床した。ところで、前日PC終了以後のメモ→「20時20分過ぎ、どこからともなく子供の泣きわめく声が聞こえ始めた。最近一度、似たような状況もあったが、同じ子供かは不明であるが、今回は幼稚園男児ほどのようである。思えば、夕の勤行はいろいろ都合が悪くて行いづらい時間が続いたまま、今は寝床についており、何としても勤行を上げる必要を感じた。 勤行を終えてから排尿した。 ところで、先に床に就く20時前から目の違和感が顕著であった 両目とも充血気味であり、眼球にまつ毛か目やにが付着したような違和感も生じた。本日(3日)は記録の通り、夜中2時前から起き続け、連日、横野真史の活動と異なる作業が重なって身体に良くなく感じている。」

4時半以降に、ミルク・シュガーを適量加えてあるインスタントコーヒーを飲み始めた。本日は起きてから多少の便意や、5月31日から本日までの4日分の蓄積のために大腸の硬化も生じていたが、ここで一気に便意や腹痛を惹起した。4時40分台後半から、トイレで色々とひり出した。残便感はある。

5時過ぎから風呂(シャワシャン)について逡巡しつつ、決断して実行した。困る点は、風呂(シャワシャン)最中に強い便意を催すか、せっかくの便意を失うか、という両者のうち、後者である。しかし、具現化した点は前者であった。風呂(シャワシャン)を始めて30分ほどのころに便意は耐えられないほど強まり、トイレに入る体勢を整える。歯磨きなどを何とか切り上げ、体表の水気などを可能な限り払っておいた。臀部・腿などはタオルで拭ってからトイレに入った。糞はやや固形の物が最初であり、以後は「カパパッ!」と下痢を大量に放った。下血であるとか、髪の毛のトイレ付着であるとか、こういった大事に至ることもなく、風呂(シャワシャン)に復帰し、自室への生還は6時過ぎとなる。7時過ぎからも少量の下痢を排出した。

9時過ぎから弟が上履き洗いのような作業を始め、ワシャワシャという音が届く。それが30分ほど続いてから、階段の掃き掃除のような音が聴こえたり、1階で掃除機を掛け始めた。10時過ぎから母親が弟に声掛けをする。弟は小遣い欲しさの下心で掃除などの作業をし、母親から細かい指摘をされると、彼は「頑張ったんだからもっと小遣いクレ」といった返事をしていた。その後、5月中など幾度も母から叱られたゴミ袋の扱い・ゴミの処理に関して(5月5・23・30日など)またも叱られた彼は、いつもほどの大声で怒らず、物音で威嚇せずとも、母親に肉体的な攻撃を複数回加えたようである。大声でなくとも、普段とは異質な怒りを含めた声であった。しかし、次第に声が大きくなる。「弟: こっちのココロの状況はどうだと思ってるんだぁ!う゛ああああ!」、「母: 危ないから!ダメだよ!」、「えぇいオレは綺麗にしたくてやったんだぁ!」、「母: 汚くなってるから!臭いのに!」。ちなみに、この衝突の手前に彼は朝食と別のシリアルを準備しており、食べられないまま争いが続いた。その後も二人が同所にいる度に弟が怒るような状況となり、19時台には「もうお母さんの命なんか不要だ!北朝鮮行って死ね!」といった最近の口癖のほか、インド族だか「インドの友達も一人残らず死ね!」などと意味不明の発言をした。



2016/06/05

図書館 財布 紛失
15時20分、外出中に図書館内で財布を紛失したと母に話した弟は、母親の言葉に機嫌を損ねて争い始めたが、その詳細や所感などはYouTube動画本家ブログ記事にしてある

本日はまず0時過ぎあたりで、母親が1階でやたら大きい物音や足音を立てるような移動をしている時に目が覚めたようだが、間もなく眠りに戻る。続いて2:10の第一アラームで目覚めたはずだが、それから第二・第三アラームなどは手動で停止するほか、第四・第五アラームは記憶が無い。3時20分台になってようやく起床に至った。こういった、稀に見る起床の遅さなどは、母親の安眠妨害の影響と見る。無論、実際に起きるか否か、という決定はその時の私が行うが、この決定にあたって母の悪影響は大きい。

4時40分過ぎ、Windows 10機PCで連日使っているCPUやメモリを大きく消費するソフトを動作していた。今までにこの10機がそういったソフトの動作中にフリーズすることも無かったが、この時に初めてフリーズを起こした。この10機は、もともと買った当初から悪い挙動が些細ながらあった。最近ではどんどん悪化しているように思う。昨日18時台はインターネットが一時的に接続できなくなった。これは先の無線LANルーターなど回線の異常(5月10日メモ)ではなく、旧Win7機のような接続不良パターンと見る。2011年6月末に買って10月以降にインターネット接続の異常が始まった7機と同じ轍を踏むこととなろうか。

11時20分前後に母親が買出しへと発車した。12時50分ころに母親が帰宅した。最近2・3度ほどの買出しでは菓子類を買ってこず、普段のシリアルほか、前々回(5月25日・買い出しの時刻のみ記録)は弟向けにアイスのバーを4本買ったのみであったが、今回は俄かに菓子類を多く買っていた。ファミリーサイズの袋が数個確認された。それでいて、切らした米は購入していない様子を不思議に思うが、まさに不可思議とでも言おうか。母親の心中をアレコレ思量したところで答えなど知れようもない。俄かにネット通販を高頻度で利用した時期から一転し、今は米すらネット通販で買わなくなっている。ちなみに、先月の母のネット通販利用は、Amazonで猫の屎尿消臭や忌避の薬品と、もう一点が月の後半にあるのみ(5月28日到着)である。米の購入は、10kgの袋が5月10日にイオン店頭で買われた。

15時20分、風呂を終えて2階にいた弟が1階へ降りてきて母親に「財布を無くした」と告げた。この弟は母の帰宅から数十分ほどで、それまでの4時間ほどの外出から帰宅した経緯があるが、今になってこの件を母に告げる動きとなった。母親は、特別支援学校に通学する上での定期券の紛失などを問うたり、セブン系のポイントカードなどについて「ポイントが無駄になったね」と責めていた。ポイントカードについては、そもそも最近まで、弟が正しく使えていない状況などを責めていた(5月22日など)。この際であるからか、無くする人のポイントカード作成などを禁じたり、買い物を控えるように告げた。それからは一旦、両者が争いに発展しつつ、母親から厄介払いで切り上げた。

15時42分、俄かに弟が彼の自室で大きな物音を立て、次いで1階に降りてくるも、それまでは母の反応が感じられない。弟が、母のいる1階リビングに出現すると、母は奇声を発した。弟は母親に怒声を発しながら襲い掛かるが、無論派手な暴力は行わない。その後にも何らかの危害を加えたであろうと見られる程度で、それ以上に判断材料はなく推量の余地もない。再度弟が2階に上がって以後も奇襲が俄かに起きたり、彼をなだめるべく、財布を無くしたであろう図書館へ連絡する展開もあった。なお止まない弟の威嚇に、母は「明日学校行ったり市役所行ったりするから忙しいし腕切られたら何もできなくなっちゃうじゃん」といった反発を繰り返していた。母も弟も2階に上がって以後に2度ほど電話があったようである。16時半からは財布が発見・保管されているとの情報が入ったか不明だが、母親が弟へ現地へ行くよう指示を出し、弟は家を出た。現地たる目的地とは、イトーヨーカドー豊橋店か豊橋中央図書館かは不明である。

17時台に母は家の周辺をうろついたり私の部屋の窓の蜘蛛の巣をほうきで払った後、玄関でおかしな独り言を始めたと思いきや、その場で数回大きな打撃音を立てた。その後は2階で数十回も同じような打撃音を連発していた。この音は、金槌か何かで打ち付ける音のようである。過去に弟が何かを破壊した際、金槌で損壊個所を修復していた。もっとも、現場も見ていないしどういう損壊の具合かも知らないため、金槌での修復など実際に行っているかは断定ができない。参照: 6月21日 8月27日 ハンマー



2016/06/06


本日は2時38分に起床した。今回の睡眠中のメモを載せる「23時50分台に意識がついたが、前の睡眠と同じように、1階で母親が動いていた。23時56分に2階へ上がっていった。母も母で困り者だが、変に目覚めやすい自分が煩わしい。ちなみに、この夕は、先の2人の争いの余波として、弟が一人で夕食を作って自分で食べていた。例のごとく、母親は弟の食事終了と入れ替わって1階リビングでテレビを見るなどして過ごし、23時50分台までの経過は不明である」

4時半前から飲み始めたコーヒーのカフェインパワーによって便意が発生し、5時過ぎからトイレで中サイズ排便などをした。その中で、前日母の予定発言が、本日の実行であって内容が事実である場合、風呂(シャワシャン)を行おうと考えた。更に思い出したことは、昨日かいつだったか、教職員か母親の「6月6日にお伺いします」といった文言が見られた点である。これも何らかの関連があろうが、仮に教職員が我が家に伺うという場合は、少し難儀である。こちらで持っている予定表にせよ、特別支援学校のHPにせよ、6月6日から17日までが高等部の「授業参観週間」とあるため、これに母親が出向くと見たほうが正しかろう。

10時前から母親が十何回も玄関の出入りを行った。当然、靴はその度に履いたり脱いだりと繰り返す。過去、とある買出しの時に母は、靴の脱ぎ履きが面倒だとかとして私にリビング窓の鍵を開けるよう頼んだこともあるが、この様子だと本気で面倒というつもりには見えない。かといって私への「コミュニケーション」のつもりで頼んだとも思えない。その時の感覚で面倒だった、そう見るべきか?母は10時9分に発車した。

10時20分までは風呂(シャワシャン)の実行と上下スウェットの洗濯に迷ったが、実行を決断し、これらは順当に完了した。ところで11時5分、洗濯物である上下スウェットを母の部屋のバルコニーに干し出してから弟の部屋に上がると、凄惨なボンド地獄が広がっていた。弟は木工用ボンドを無駄遣いして遊ぶ悪癖が今年から確認され、最近も一度、ボンドを使いたかった母親が使えずに困っていた。彼には元々、紙を塗りつぶして消しゴムで消し、消しカスを丸める遊びがあった。この度はボンドの中身を部屋のTV付近に垂らして乾燥させていた。弟としてはストレス発散のつもりであろうが、母親の与えた悪弊の大きさには両者を憐れまずにいられない。母親の非は悉く悪業となって悪果と帰しているが、そういった悪果には一喜一憂し、また他人の悪行とのみ見て他人への批判の口実としかしないで自己反省などまるで無いから、修羅と畜生そのものと見る。

その折、隣のI家の郵便受けの音がした。平日のこの時間帯は、I家の男性が出かける。昨日から見慣れない車がずっと敷地内に停まり、いつもの黒い大型の乗用車(ブレーキ時にキィキィと耳障りな音が鳴る)が見当たらなかったが、どうもI家の男性は車を替えたようである。今まで休日に稀に来る客の車かと思っていた。2階の弟の部屋からI家の男性を見ると、禿頭が分かりやすい。なお、前日彼が無くした財布が彼の手元に戻ったか確認したが、部屋を探す限りは確認できない。彼の財布の外見は、黒っぽいディープグリーンの折り畳み型である。

15時58分に弟が駅方面と逆方向から家に歩いてきたが、次いで16時1分に母親の車が家に着いた。前日の夕に続き、今夕も弟が一人で料理をして自分で食べた。彼が1階に滞在した時間は、17時過ぎから17時40分ころまでである。母親に色々注意を受けてから料理を始めたため、彼は肉を焼いて食べた以外は何かを食べた様子を感じない。他に食べたものがあれば、菓子類くらいと見る。前日メモにあるよう、米やご飯がなければ、麺類の調理も許可されていないのであろう。母親は例のごとく、20時台後半から1階リビングに居座り始めた。



2016/06/07


本日は2時27分に起床した。3時以降は久々に緑茶を淹れ、菓子類と共に摂った。合計でムーミンカップ2杯分だが、緑茶のカフェインパワーにより、4時20分ころからトイレで普通の糞~軟便までを出した。

10時前から母親が発車したが、昨日のような玄関の出入りを頻繁に行わなかった。間もなく、家の前に電線の工事のような車両や作業員が現れた。私が2階へ上がって2分ほどして家のインターホンの呼び鈴が鳴らされたが、彼ら作業員による工事の通知が目的であろう。2階の弟の部屋は前日よりもボンド地獄が拡大し、彼の机の端にまで広がっていた。

ところで、弟が使用しているソニー製のカナル型イヤホンを借りてきた。Win10機で色々な曲を聴いたが、4月16日メモにあるイヤホンA・Bどちらよりも音の迫力に優れ、メタル系の曲(自作・マイナー・メジャー多種)でも聴こえなかったようなベースの音が多少聴こえやすい曲があった(全体的な傾向とは言いづらい)。まあ、PCで設定している音量(4)に対してどれほど音が大きく出力されるかの差もありそうだが。無論、このイヤホンが大きめである。今綴ってきた感想よりも先に感じたことが、音のこもりか何かである。慣れの差かもしれないが、初使用のイヤホンに対して持つ第一印象は、いつもこのあたりであった。装着感に関しては、コードの分岐点から右が長くなっており、分岐点以下には変な機構が備わるから、左耳に機構の重みが加わる。コードの被覆がシリコン製で違和感がある。

そんな折、10時23分に母親から着信があり、洗濯槽の中に完了した洗濯物があるから風呂場に干しだしてほしいとの用件である。別に、いつも通り何ら不快感もなくこの頼みを請けるも、洗濯機の蓋はすでに開いている。蓋だけ開けて干し出す作業をしない母親の怠慢に対して軽い憤りを覚えた。中途半端な心である。11時までには工事の騒音が著しくなり、先のイヤホンで音楽を聴いていても工事の騒音が耳を刺激する。11時過ぎにイヤホンを返却した折、工事の様子を伺うと、かなりカオスな光景が広がっていた。電線の工事のみならず、E2家の敷地に木材が組みあがり始めていたが、こういう時は1日でこれが大体組みあがり、カバーもかかることであろう。建設工事で最も騒音がひどいタイミングは、このような建物の骨組みの段階のほか、土地の整地作業の一部も同様に刺激的である。

加味逍遥散 芍薬甘草湯 大量

12時40分前から硬めの排便をした。17時過ぎに母親が帰宅した。本日も前日と同じく特別支援学校が主要な目的地と思ってはいるが、その確証は今のところ無い。一方で、本日は先の脳神経外科で、同じく加味逍遥散と芍薬甘草湯を処方してもらった様子である。母親がその医療機関で、どのような身体の悩みを相談しているかは不明である。単に薬品だけが欲しくて通院していると考えられなくもない。かの医療機関で本日の場合、脳MRI撮影などを受けた旨が明細表に看取できる。



2016/06/08

本日は2時27分に起床した。本日も同じ時刻である。前日と同じく、2:26の第3アラームであるが、ここで再生される音楽は、私が歌う動画で歌った歌と同じ楽曲である。明け方に前日午後に関する記述を現在下書き中の本家記事に加筆したので、ついでに当メモにも載せよう「6月7日であっても、弟と母親が帰宅してから2階での喧嘩が起きたり、夕食は別々となっていた。寂しい話だが、20~21時台に1階リビングにいた母親は、一人でテレビを見ながら大声で途切れ途切れの笑い声をあげていた。2人の関係という先入観が色眼鏡となって母親の惨めさが浮き彫りとなる。浅慮で一喜一憂しかできない残念な人である、と身近にいて痛切に思う。だからこそ、ちょうど一年前である2015年6月10日に『不爲實於無根草 我亦如是而自戒』と漢詩を作った(忠実な原意は多少異なるが本意でいえば母親を反面教師にしている点で一致)。」

7時前から久々に意識的な仮眠を行った。動機としては、やたらと眠くて作業が図らないし、単に寝たいためであるとか、仮眠による効果の検証もある。8:00にアラームが鳴る設定をかけ、実際にその時に目を覚ましたか、その手前に意識があったようだが、それからも起床の意欲は出ず、起床は8時24分となった。惰眠・睡眠(すいめん)は常に恥じているから、今年の以前よりはずっと制御しているはずであるが、もちろん今回も反省せねばならない。

10時過ぎに母親が玄関の出入りを10回近くも繰り返したが、外出する様子はない。12時台から母親がリビングに居座り始めたが、本家ブログ下書き記事のトップ画像が完成し、予約投稿の日時を本日14時44分と定めてから、連日のように2階の弟の部屋のボンド地獄の様子を確認した。すっかり乾いて透明度を増し、はがれやすい状態のものと、まだベッタリとしていそうなものなど、程度の差がある。どういう状態であれ、6月5日以後のボンド遊びは狂乱の故に常軌を逸した奇行である。



2016/06/09

本日は第一アラームや第三アラームを確認してから第四アラームと第五アラームをOFFにし、実際の起床が2時52分となった。思えば、6月以降の日記メモを見て分かる通り、「第一アラーム」と「第三アラーム」の単語は頻出するも、「第二アラーム」はさほど多くなく、私の感覚や記憶としても、これをきっかけに目覚めることはない。この第二アラームで鳴る音楽は、音量設定も含めて一番うるさいはずである。ところで、「見て分かる」とか「頻出する」と自分の感覚や記憶でそう綴ったが、調べなおすと然程でもない。昨日・一昨日のメモでの起床時刻が「2時27分」で重なった現象への誤認識かもしれないが、少なくとも本日の目覚めなどでは第二アラームの存在感がなかったことや先の2日間も同様である。

4時20分ころにインスタントコーヒーを淹れ、飲んだカフェインパワーにより、5時過ぎには排便に及んだ。初めだけやや硬めで、続けざまに軟度を増し、軟便へ至るパターンであった。14時40分台には硬めで小さめの楕円形の糞を数本ひり出した。



2016/06/10

本日は2:10の第一アラームで目覚め、2時14分に起床した。今朝は、前日からの予定でスパゲティを茹で、茹で水を流した後は未開封のツナ缶や納豆1パックなどと和えて加熱して調理した。茹でる段階の塩分と、和える段階での粘り気7割吸い取りタレ入り納豆と、ツナ缶のツナエキス入り油と、多少のMSG塩に、粗挽き胡椒で味付けがされている。4時半以降に風呂(シャワシャン)を始め、5時20分ころに自室へ帰ってきた。

6時40分ころまで1階にいた弟に入れ替わって母が数度2階と1階の上り下りを行い、間もなく母が風呂に入り始めた。7時40分ころには母親が2階へ戻ったが、8時10分ころからまた1階での動きが始まった。8時20分ころ、私がトイレに行こうと、半開きにした室内のドア前に立ちながら母の足音を窺っていると、母の方から私に話を掛けられた。「キッチンに変なものが置いてある、○ちゃんがやったのぉ?」と問われ、まったく心当たりなどあるはずもなく、実物を階段に置かれた。私はその前に近寄って「知らんもん、知らんよ」と口にしながら実物を内包しているビニール袋に手を伸ばし、ヒョイと持ち上げると「触らない方がいいよ」と言われた。このように、私は中身を知らないため、これを別の興味から確認した。どうも、水に濡れた布類が丸まっているようだが、多重にビニール袋で包まれているから不透明で判断がしづらい。

12時半ころから母親が買出しへ発車した。15時0分ころに車が家の前に着いたが、エンジンを掛け直してすぐに解除した。車から一度出てリビングの窓を開けても車との行き来をして窓を閉め、またエンジンを掛け直して車の位置を玄関側に寄せ、玄関の出入りを行うなど、いつもでは有り得ないほどに狂った挙動が続いた。再度、リビングの窓から購入物の運搬を一度したが、その後も随分と購入物の運搬に時間を掛けたり、無駄なつぶやきや悲鳴が幾度と聞かれ、異常であった。最後は、玄関側に寄せた車に再度エンジンを掛けて通常の位置に戻していた。



2016/06/11

本日は第一アラームに目覚め、第三アラームまでは聴いて止めたが、そこで第四・第五は鳴らないようOFFとした。結果、すぐに起床はせず、第五アラームが鳴る時間を過ぎた2時54分に起床となった。今朝は、前日の母の購入物のうち、大きい3枚の味付け豚肉を切り分け、うち1枚の8割サイズと、5日ほど保管しているご飯やもやしと共に加熱し、仕上げにMSG塩で軽く味付けして食べた。

5時10分過ぎから弟が1階に降りてきたが、どうもスパゲティの調理をしているのではないか、と5時40分ころに思った。ミートソースようなの臭いもするが、そのレトルトが今、家にあるという記憶はない。早朝に弟がスパゲティを調理することは過去にもあったが、その後に母と争った例が5月5日である。6時20分に弟が2階へ上がり、別の用事のついでに確認すると、ツナ缶Lサイズ丸々1個でスパゲティを食べた様子である。昨日の私のスパゲティでのツナ缶は、あくまでもLサイズ1個のうち4分の1の量+油の8割であり、夕食ラーメンで少量使った後も肉が半分以上余してある。

7時50分ころに便意のためトイレで中サイズ1本などを排便した。これは、4時半ころからの薄いコーヒー1杯と7時前のシリアルなどの影響力の相乗効果と見ている。どちらも、異なる理由で排便に寄与する。

13時30分台、この暑めの日に窓を開放していると、E2邸工事現場の騒音が気になったため、現場の様子を確認するついでに、外出中の弟が家に置いたままのスマートフォンで2枚撮影をした。木造の骨組みは6月7日から大きい進展がなかったが、前日、鉄パイプ・鉄製の床の足場が組み上がり、本日は2階まで木造の骨組みを組み上げている。思えば、今朝は7時過ぎと、普段ない早さで現場に作業員が出入りを始めていた。なお、弟のスマホに関しては、少し処理に難が生じた。迷惑メールが届くようになったらしく、機内モードに母親が変更したようで、このままではネット通信が行えないため、メール送信ができない。これを解除するには、待ち受け画面で最上部のバーをタップしてスクロールし、メニューを引き出し、機内モードを解除すればよい。私が今いる2階トイレに母親が入ろうとしたり、弟が帰宅する恐れがある中、送信やその事後処理といった作業を障害ある中に完遂し、弟のスマホをさっさと元通りにして自室へ帰った。間もなく、母親が2階の部屋から1階リビングへと降りてきた。なお、弟のスマホに彼の自撮り写真1枚が入っていた。



2016/06/12

本日は2:10の第一アラームで目覚めるも、2分以上が経ってから母が1階へと階段を下りる音が聞こえ、既に付いていたであろうリビングのテレビの音声も確認した。トイレや顔の水洗いなどをするために部屋を出ると、ドアにビニール袋が下げられており、菓子2種が入っていた。片方は、母特有の無意味な遅滞分配で、先の6月10日の買出しで買われたPBトップバリュの菓子(弟には即日渡していた)であり、もう片方は前日夕からどこかへ出ていた帰りにセブンイレブンで買ったと思われる(母の帰宅は私の入眠後の21時以降であろう)PBセブンプレミアムの菓子である。母は2時34分ころにリビングのテレビを消し、2階へ上がった。

9時33分、珍しくヤマト配達員の配達があった。クール車で男性配達員Sである。Amazonで大きい箱と中サイズの箱の2種類であったが、母親が受け取った後に私が呼びかけられ、中サイズの箱から5倍希釈カルピス3本のうち1本(470ml)を渡された。もう片方は10kg米袋である。なお、カルピスといえば先月に弟向けに1本を2度買われた経緯がある。先の1回が巨峰味であった。昔(与野期)は希釈カルピスをよく飲んでいたが、当時にもあった巨峰味を今に試飲すると、やや濃い濃度ではグレープ味のガムのようであった。

ところで、9時41分に、あの昭和のヤンキー的なババア的な「2連発くしゃみ」が聞こえてきたが、5月2日メモでは直後にI家男性が車に乗り込んで発車したため、I家男性と判断したものの、前回(6月1日ころ?)はI家男性の出入りはなく、今回に至ってはI家男性が既に車ごと不在である。現状はI家の高齢女性か、近隣の作業所や集合住宅に発生源があると思うしかない。10時30分台に母親が2階に上がった。水を汲みに部屋を出ると、先の配達物の追加でレトルトカレー4食が置かれていた。キッチンでは5kgの米袋2つを確認した。



2016/06/13

本日はまず1時40分ころに目覚めた。もう一眠りしようと思ったが、意識は付いたまま時間が流れ、2時5分に起床した。前日からの予定である炊飯は、2時40分前から作業を始めた。炊飯窯や杓文字を使用可能な状態にし、米は2合あまりを掬い上げる。前日メモにある5kg米袋の米(栃木県産栃木ブランド)の初使用である。今朝(この表現は常に起床後1~3時間以内を指す)はその炊飯をと同時に料理の予定もあったが、具体的な計画は前日から特になく、カルピスを多めに飲んだ点もあって料理を作る気分でない。肉を焼くなどは、明るい時間以後でもよいと考えた。3時40分台、そのカルピスの影響か便意が強まったため、トイレで一本糞をスルッと出してきた。記録を見れば、最後の排便が6月9日と、思った以上に過去の話であった。

5時過ぎから風呂(シャワシャン)の準備を始め、自室には5時50分過ぎに帰ってきた。10時20分台にもトイレで排便したが、先3時40分台よりも排出量は3倍近く多いと見られる。



2016/06/14

本日はいつ目覚めたか不明だが、最初の時刻確認が2時18分であった。携帯電話が開いたままである理由は、2:10の第一アラームを停止したためであると考えることが理論上は正しいが、自分の感覚としては、第一アラームを聴いた記憶もないし停止した記憶もない。一応、2:20の第二アラームを待つと、実際に再生されたため、これを停止し、間もなく起床した。

4時40分ころから便意のためにトイレへ急いだ。最初だけ硬めで、続けざまに出た糞が軟便となっていた。一発の発射で2度の区切りがあった。

18時前からの母と弟の夕食での会話について一つ記録する。思えば、6月8日14時に母と弟の一連の喧嘩やボンド地獄に関する記録と所感を述べた記事を本家ブログに投稿してから、二人の関係は穏やかである。私の本意は二人の恒久的な関係改善であるが、現状が一時的に良さそうでも、心の底から自覚・反省しているかは不明である。これが維持されないと何度でも繰り返す。6月8日以降の数日は、母親が距離を置いて夕食は弟が先で母が後と、各自で別々に作っていた。それはさておき、この夕食の会話の話題である。まずテレビでM都知事の政治資金に関する問題について複数の会派が不信任決議案を提出する方針であるという報道が流れている。弟が「民主党っておっきいの?」と言った後、母親は「民主党なんてないよ、民進党なら今あるけど」と、ストレートな言い方で否定した。もう少し言い方を穏やかに変えられないか?弟もたびたび、母の言い方に不快感や恐怖心を覚えている(12月28日メモ"もっとやさしく言って")。例えば「民主党は最近なくなって(解散して)民進党ができた(結党されて維新含む元所属議員が移った)んだよ」と具体的かつ平易に言おう。



2016/06/15

本日は2:20の第二アラームに目覚め、2:26の第三アラームを経て2時27分に起床した。5時前に長めの一本糞を出した。11時過ぎから母親が買い出しへ発車した。弟が15時59分と、毎日のような時間に帰ってきた。先月などは16時以降も多かったはずであるのに、いつからか15時50分台を中心に、この時間帯の帰宅が多い。あるとされる「部活動」が何曜日であるかも未だ判然としない。16時30分ころに母親が帰宅した。買出し以外の用件もあったのであろうか?

17時20分ころから2階で母と弟が話し始めた。私が耳を傾けたときは、お好み焼きに関する話題が聞かれた。今回の買出しで小麦粉もキャベツも買っておらず、お好み焼きに向く豚肉なども買われていない。母親が作るお好み焼きのほか、冷凍食品のお好み焼きの話が聞かれた。弟が自分で店頭で買って家に持ち帰ると、帰宅までに食品が悪くなるからやめたほうがよいという母親の主張があった。買うにしても店内の電子レンジで加熱してその場で食べろ、と訴えていた。母親は「冷凍食品のお好み焼きは腐りかけの材料を使って・・・」と趣旨の真義はともかく子供だましの常套句を使い、弟は「買ってきた食品・材料をベチャベチャにする」と発言した。続いて、最近の平静状態についても触れられていた。その後、弟が外出時に使うカバン・リュックサックの話があり、レジで煩雑なリュックサックいじりがほかの客の迷惑になるからと、適切なカバンの利用法を説明していた。彼らの会話は20分以上続いたろうが、割愛する。17時47分、弟が俄かに1回へ降りてきて物色しながら「まずそうな食品たちですね、おかさーん(逐音表記)、まずそうだし公園に捨てていいですか?」など大きめの声で発言した。

18時10分台、2人が1階にいる間、会話が劇的に険悪になっていった。弟の発言内容が猟奇的になったあと、声を荒げてテレビの電源を落とし、母いわく「乳がんの方」とする胸かどこかに打撃を与えたようである。母親が仰々しく悶絶の声を上げていた。弟も仰々しく「お母さんなんか明日死んでもいい!お母さんなんかいらない家庭だぁ!」と怯えながら叫んでいた。最近の母親の自制が緩んでこんな顛末となったのか。すぐに普通の声色で険悪な会話が戻る。母親は「家事やらないよ、学校行けなくなってもいいよ、お母さんいらないんだったら・・・」と血迷った小言でアレコレと弟を責めていた。こういう2人に心を動かされる私も、彼らと同じくらい残念な人間である。親子不二、依正不二なのだから。無根草の詩去る本家記事所説の如し。



2016/06/16


本日も2:20の第二アラームに目覚めたが、間もなく誰かがテレビを付けた様子である。その直前に足音を捉えることがなかったから、直ちに母か弟かの判断はできなかった。その後、物音の立ち方や、シリアルを器に盛る音などから弟であると判断できた。前日、彼は夕食を取ったか不明である。弟が母親を殴打?したあとに母親が「さっさとカレー食べちゃいな」のような発言をした以外は判断材料がない。3時前後に2階へ上がった。

9時29分に母親が発車した。K邸・E1邸の工事現場の方から、ドリルの音がずっと聴こえているので階段の窓から様子を伺うと、K邸の方で仮に敷いたコンクリートや荒い石などを削ったり取り除く作業をしていた。12時現在も母親も帰ってきていないが、今回もまだ期間中である豊川特別支援学校の授業参観(学校公開?)が目的か。

14時20分前からカフェインパワーの排便を行い、先に中サイズ1本、後に何らかの糞をひり出したが、この際アナルの付着は粘り気のありそうな状態で、左の肋骨も痛んだりした。粘り気はともかく、無理やり力を加える出し方は、私の無為自然の排便に反しているから、もう少し「スロー」を心掛ける。15時40分台、東海化学工業所の車両が路上に停まって何らかの作業を始めた。路肩に寄せてあるわけで、他の車両は少し通行がしづらい。自室の窓を開放したままでいると、次第に硫黄のような臭いが部屋にも漂ってくる。しっかりと影ば不快感以上に刺激すら感じたため、自室の窓を閉め、階段を上った。先ほどと同じ窓から様子見をした後、2階のトイレの窓からも確認し、写真を2枚撮った。15時52分に発車してこの場を去った。E1邸ではなくK邸の方を目的としていた。遠くに見えるアジサイの色が鮮やかであった。

16時過ぎに弟、その1分後に母親が相次いで帰宅した。帰りに母はセブンイレブンへ寄ったらしく、私と弟に1個ずつシュークリームを配った。



2016/06/17

本日はまず1時10分ころに目覚めた。1階で母親が狂った声で独り言を発しながらテレビのバラエティ番組・深夜番組を見ていた。一旦狂うとしばらくはより狂った挙動が増える性質に、なお気付きもしないし可哀想にしか思わない。そのまま起床するにしても、もう少し眠るつもりが前日もとい数日来あったため、再度眠りに入ろうとする。2:10の第一アラームを3:10に設定し、第二・第三アラームはOFFに設定した。

次の目覚めは2:40の本来の第四アラームである。2時50分までに起床した。いつも左の鼻腔が詰まり気味で、強めに鼻呼吸をすると左の鼻腔からピーピーと鳴るが、今日はスースーしている反面、なぜか右の鼻腔がひどく詰まっている。喉は青い痰が少し絡んでいる(たまにある)。わけがわからないが、考えても詮無し。

7時台後半、部屋にいて前日の工事現場の化学的な作業の際にも家に流入した硫黄の臭いと似たような臭いを微かに感じた。7時52分にトイレへ入ると、前日ほど強烈ではないが硫黄の臭いがはっきりとわかり、排気ガスのような焦げ臭さも加わっていた。トイレに入って最初に雨音と思われた音は、雨など降っていないため、工事現場の作業の音であり、臭いの発生源と関連性がありそうに思う。何らかの工業的な化学的な機械が音や臭いの発生源であると見る。なお、前日と違ってE2邸から聴こえるように感じたが、確証はない。



2016/06/18


本日は2:10の第一アラームを聴いて2時11分に起床した。前日の就寝は、本日行う自販機通いや風呂(シャワシャン)などに関して早寝早起きでなくとも実行できるが、「心の準備」のために形式の面でも万全を期する思いで19時30分までにはPCをシャットダウンしていた。就寝以後、独り言なども続いたが、金曜日の母は20時以降もテレビを見そうな雰囲気がありながら、珍しく20時までには2階へ上がっていった。好条件のような中で独り言を抑えて入眠へ集中し、実際に寝付いたであろう。

しかし、ある時いつのまにか目覚めていて、気付いたときに、聴こえてくるテレビの音と起きている自分の意識を確認した。また1階で誰かがテレビを見ているが、自国を調べると、今回は22時35分である。まともに休まる日がない。22時43分、その番組は某魔法使いの映画だが、CM明けの後はもう終わりのシーンらしく、私が目覚めたとき大声でベラベラとしゃべっていたやかましさなど、全く消えていた。1階にいた人間もコップに氷水を入れて2階に上がってしまった。変なタイミングで起こすだけ起こす魔の所業であろう。いくら努力しても超人でない限り予期し得ぬ邪魔が入る。休まる日がない。

3時38分、家の外の物音が気になった。これは明らかに風が打ち付ける音ではない。窓の外を窺えば、アパートの駐車スペースに立つ1人の影と軽トラックが見えた。ほかにも誰かいるようである。通行車両のランプに照らされた姿は2人であり、1人はバイクにまたがっていた。こんな光景は初めて見る。改造バイクみたいなエンジン音がひどいバイクの出入りは過去にあったものの、それとの関連性は判断できない。3時46分に彼らは発車した。件のバイクの所在は不明である。3時50分過ぎから外出した。空は晴れ渡っているが、星が一点捉えられるのみである。部屋着スウェットの格好だが、非常に涼しい。先の軽トラックの時に窓を開けても同じ涼しさ・・・寒く感じていた。4時半ころから風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時40分までに自室へ戻った。

10時50分ころ、呼び鈴が鳴らされた。自室の窓を介して様子を伺うと、比較的若い女性が見えた。そばに男性の足も見えた。それだけでは工事関係者か単なるセールスの類かとも思った。荷物の紙袋を提げていた。2階の母は応答しないが、2分ほど経っても家の前を離れないため、インターホンを介して顔を窺った。かなり顔の似た、30歳の男女2名であった。それでもなお、後に知る正しい答えに近づかなかった。私がインターホンを介して見続けていると再度呼び鈴が鳴らされた。このブザーの音はインターホンのそばで聴くと非常にやかましいため、その場を離れたところでようやく母親が1階に降りてきた。彼ら2名はK邸に今後引っ越す夫婦であるが、顔の印象などは12月の訪問時以来の私の先入観に反していた。女性は髪を短くしていた。

玄関のドアを開けた母親は、彼らに工事関係者への不満を愚痴にし始めた。彼らは困り気味の笑顔で話を聞くしかない。空虚な相槌で母を懐柔する。母には、挨拶に来た相手の顔を立てる発想が全くない。問題を感じる度に工事業者にクレームの電話をいれる発想と同種であるばかりか、尚更たちが悪い。母親の鬱憤が凄まじいこと、近づかない方が無難であることを、接触したあらゆる人間に鮮烈に伝える。母は彼ら2人に、暑い中で20分以上も不満を聞かせた。この後、彼らK夫婦はI家やT家を回ったが、I家高齢女性とは3分ほど、T家女性とは2分ほどで会話が終わった。普通はそんなものである。応答に時間をかけて相手を待たせた挙句、野暮な話題の話で炎天下、相手を困らせた母だが、異常性は自覚できないし、自覚できないから常に狂乱して已まない。己を糊塗するほどに恥の上塗りとなろうことすら気付きもせず、不平不満を連ねられる才能はある意味で仰ぎ見てしまう。彼らを母自身の憤怒の捌け口としても、母自身の悩みは解決できない。工事の騒音や臭気など、この程度で問題視する必要もないから、悩みを自ら生み、人に爆発させて更なる問題をみだりに増やす、まさしく修羅・畜生の愚人である。そのような輩に忠言や諫言を入れたところで反発され、ますます三毒を増長させる。



2016/06/19


本日は先に2:20の第二アラームで目覚め、2:26の第三アラームを聴いても起床せず、再度眠りについた。3時過ぎになってからか、浅い眠りの中で夢を見た。略記すれば、中学生のころの私・および同学年の多くの生徒らがどこかの施設(宿泊施設か?)から脱出するらしい内容で、私が膝を曲げて背を丸めれば通れる余裕のある空間を一人で移動している折、色々中略するが、ある空間で過去記事にいうT.T.に遭遇した。その空間は上方から光が差していて広い空間に通じていそうであった。近距離で二人きり、しかも狭い空間とあって夢の中の私は、その場を怯えて(上方の空間からの救助を待つ?)離れたがらないT.T.を「一緒に出よう!」と諭していたが、実際には、なんと夢精を始めてしまった。こんな夢の話よりも、生活記録だからこの悲劇を書きたい。そんなわけで不覚にも夢精し、止んできたあたりで起床した。心地よい寝起きとは言えない。PCを起動させる際の時刻確認が3時8分である。

パンツや先の風呂(シャワシャン)で洗濯はせずに着続けたスウェットの、付着個所を水洗いした。それからトイレで排尿した。トイレを出る折、今度はなんとクモに遭遇した。ドア側の隅っこに全長3cmほどのクモがいた。もはやわけがわからない。しかしまあ、すべて私への試練だと考える。まずほうきとちりとりを用意して再度クモに臨んだ。これで外へ逃がそうとしていたが、一応写真は撮りたい。クモを見逃さないよう急いで携帯電話を持ち寄ると、クモの姿がトイレ内に見当たらない。短時間で移動するはずはないし、壁に登った感じもない。このクモは洗面所との境界の窪み(?)の影に潜んでいた。暗いところがお好きのようである。洗面所の明かりをつけると、都合が悪いらしく、トイレ側へ逃げた。トイレも明るくしたままである。このクモは壁を登ろうにもツルツル構造の部分で足掻いてばかりで、全然壁を登れない。スパイダーマンとはなんだったのか。

クモをちりとりに引き込むには少し時間がかかった。ちりとりと床の支点を設けてもちりとりの辺が水平でないのか、クモは度々ちりとりの辺と床に挟まれた。どうにかほうきとのコンビネーションでクモをちりとりに載せ、見失わないよう慎重に玄関へ移動し、ドアを開けた。クモはちりとりの裏側に回りもしていたが、振り払って外の地面に落とそうとする。クモが糸を伸ばしたらしく、簡単に落ちない。落としても、玄関の方に戻ってくる。再度ほうきで払い、クモが玄関ドアに挟まれない様子を確認してドアを閉めた。それにしても、A邸が解体されて以後、母を始め、クモとの遭遇頻度が上がっている。一冬を越してもこの有様であるから、今夏は覚悟した方がよいが、とはいえ7・8月こそ出没しない点も有り得る。

9時50分台、洗面所で手を洗ってからトイレに入ると、何やら工事現場から談笑の声が聞こえた。K邸で竣工のセレモニーが行われているようである。見える姿は、玄関ドアの前にK夫婦の旦那"ひろし"さんと、その隣に似た年代の男性がいた。その前方に金色のポールが二本立ち、紅白の帯がかかっていた。「竣工ご挨拶・○○代表取締役」といった文章を、本人か不明だが、中高年の男性が読み上げていた。バックに控える人も男性しか見えないが、女性の声は聴こえた。

10時40分ころにサッカーかバスケットボールのユニフォームのような赤い服装の若い男性2名が一般的ワゴン車から降りた。10時53分から引っ越しのトラックが来た。先の若い男性2名のうち、髪の長い方が「オーライ」と掛け声を発し続け、眼鏡をかけている方がトラックを運転していた。このトラックは何度も家の前を行き来し、10分以上も「オーライ」の掛け声が続いた。交通事情の影響が大きい。11時10分、髪の長い方が呼び鈴を鳴らした。2度目を鳴らしてやや諦めて少し場を離れてから母がインターホンで応答した。K邸の引っ越し作業の簡単な説明と、トラックが邪魔になる場合はどかすという話であった。午後は雨が強く弱く降り続けながら作業したり、再び「オーライ」の掛け声があるときも同じ男性は雨の中で同じ格好で行っていた。



2016/06/20

本日は2:10, 2:20などアラームを聴いてから2時30分前に起床した。4日ぶりくらいの炊飯を行った。近頃は記録しないが、あえて今回の食事について書けば、キッチン保管の味付けゴマのみのふりかけ製品(しょうゆマヨ味?)と納豆1パックを米0.3合ほどの自室保管ご飯(レンジ加熱)で食べた。自室保管ご飯の余りと、本日炊いたご飯で茶碗2種に移し切らない分のご飯には、キッチン保管の黒ゴマとMSG塩(アジシオ)をかけて混ぜた。いわゆる「ごましお」ふりかけの味が再現された。

4時40分ころから、それまでのコーヒーを飲まずして臭いだけで条件反射的に便意を強くした。いや、それ以前から「釣り竿に獲物が食らいついた」ような感触はあった。そこで追い打ちとしてのコーヒーを飲もうと思ったが、飲まずとも臭いで足りそうな気がして実際に便意が強まった。前日はコーヒー1杯を飲んでも排便には至らなかった。本日はこれを以て小さいモノを5・6発ほどぶっ放した。コーヒーは7時40分台からお湯を注いで飲み始めた。8時までには更なる便意の強まりから、長い一本糞をはじめとして複数のモノを排出した。

13時10分に母親が買出しへ発車した。13時40分前から風呂(シャワシャン)の準備を始め、14時20分過ぎに自室へ帰った。16時過ぎに母親が帰宅した。



2016/06/21

本日は2:40のアラームで目覚めて2時43分に起床した。前日に2:10, 2:20, 2:26のアラームを1時間遅らせたため、2:40が本日の第一アラームである。前日の夕からは、俄かに作り始めた記事の案を一気に仕上げたため、普段よりもPCのシャットダウンが遅れた経緯(20時前)がある。こういった作業には、珍しく目の充血がなかったものの、目の疲れは著しかった。

5時台、いつものように早朝特有の眠気を感じながら、毎朝の勤行も終えた。1・2月頃に多かった仮眠を久々に取ってみようと発案した。寝たいのではなく、試す意欲の手段が仮眠というだけである。こういった仮眠で、起床・就寝のリズムが乱されはしない。去年8月下旬(初日は19日)から始まった夜寝朝起きの習慣は、それまで「わざと乱したリズム("昼夜逆転・夜昼逆転・緩急自在"と過去に呼ぶ)」ができる私ならば「規則的なリズム」も可能である、という逆説的な理論による(過去のメモにもこの経緯は幾度と書いた)。そう思う中、矢先に弟が2階で動き出し、2分後には1階へ降りてきた。どうせそんなものなので、「試しの仮眠」などをしないまま終える。



2016/06/22

本日は2:10の第一アラームか2:20の第二アラームで目覚めて2時25分に起床した。前々日に1.5合を炊いた内の茶碗1杯分は、前日に少し料理に使ったが、この茶碗のご飯は炊き上げたその時から今まで冷蔵庫に入れなかった。「試す日々」なので、今の時期にこのような不衛生の保管方法を行うとどうなるか、個人的な興味から行っていたが、やはり電子レンジで2分間加熱してみると、菌が繁殖していたとすぐに分かる臭いが伝わり、箸を入れてかき混ぜれば、異様な水っぽさと粘り気が見られた。ゴマを振りかけて再度1分の加熱にかけ、これを前日と同じ容量で豚肉・もやしと共に焼いた。なお、前日は焼く際にソースを掛けたため、肉などは対して焦げなかったが、今回はソースを使わない。豚肉もご飯も焦がすように、自室の卓上電子調理器の弱火で加熱を続けた。元の豚肉は肉厚であるから、前日は一部薄切りをしたが、それは一部に留め、元の厚みのものも熱を通すべく、いずれも鍋蓋で蒸すように熱を逃がさない。

あのご飯の影響か、味見の段階を経て料理した後・食事の後のいずれか、腹痛が発生したが、それは一時的であった。4時ころから便意が強まり、4時8分にトイレへ入った。コーラック系下剤を飲んだ時と似た感覚を覚える。トイレでは、柔らかくて固形状のモノが2本ほど出た。コーラック系下剤の場合、時間が経って下痢に変わるか、初めが下痢など強く発現すればその日の2度目の排便がない、といういずれかのパターンがある。果たして7時50分台、腹痛と便意が耐えられなくなり、トイレへと急いだ。それまで、今朝調理した残りの再加熱をしてつまみ食いをしていた。今回は色の悪い長めの糞が複数本出た。便器の糞自体は薄く緑がかって見え、拭った紙はべっちゃりだと同じく緑っぽく、薄く広がれば黄色である。人糞の色彩の通例である。8時30分ころからも同じような経緯でトイレに行き、今度は先ほどより緑色は失せながら、下痢気味の軟便が出た。

12時40分ころ、それまでは本日10時過ぎに本家ブログで既存の下書き記事が予約投稿の反映がされたことを受けて別の下書き記事を書いていたが、一部、文章表現に詰まってPCの前で仰向けになっていたところ、眠りについてしまい、13時20分台に目覚めた。ここで眠るといつも体を痛めたりと良いことはないが、今回は左股関節を痛めた。



2016/06/23

本日は2:10の第一アラームで目覚めた。前日も前々日も3日前もPCシャットダウン・就寝時は20時前後か20時過ぎであり、遅れ気味である。前日と前々日の就寝時は耳栓を着けたが、左耳は耳栓が外れやすい。本日と前日の就寝時はいずれも左耳から耳栓が外れ、本日は右耳も外れた。そういうわけだから、アラームが鳴るとその音声がしっかりと聴こえてくる。

8時過ぎ、家の外からカラスと小鳥の鳴き声が入り乱れて聴こえる。水を汲むついでに様子を窺うと、南方のM宅の屋根にカラス3羽(もう1羽が付近を周る)が戯れており、何か小さいものを2羽でつついたりいじっていたりした。よくある小鳥(種名などは知らない)の伸びるような鳴き声が多く聴こえ、カラスからは「ガア、ガア」という早朝に聞かれる声(5月18日メモに類似記録)の変種や、「グアァァァァ」という伸びるような鳴き声も聞かれた、いずれも高頻度で鳴った。双方とも怒りや苦しみが混ざっている感じではない。5分ほどで止んだ。

14時40分過ぎ、I家のから聞き覚えのあるエンジン音が聴こえた。窺うと、以前の黒い乗用車に戻した様子である。車検などで一時的に別の車を借りていたとしても期間が長い。その車の最初の記録は6月6日だが、車自体は記録の通り6月5日からI家に停まっていた。あの「キィキィ」という金属的な響きのある音も変わりがなく、一体何の空白期間やらと思う。



2016/06/24

本日は第一アラームで目覚め、第二・第三を同じく聴いて止めた後、2時30分に起床した。4時過ぎ、前日から予定していた自販機通いを行った。最近部屋着を小6以来のポリエステル服に衣替えしてスウェットを着なくなったが、今回は外が涼しいためスウェットに着替えた。家を出ると、よくある「クモの糸が付着するような感覚」が起こった。顔にその感覚があれば自分の髪である可能性は高いが、稀に手もそう感じる場合がある。南南西に半月より大きい月が雲に霞んで浮かぶ。私も道を南に進んで今回の目当ての自販機へ進んだ。道中、新聞配達のバイクが遠く確認できた。目当ての自販機で購入を終え、帰路についた道端で自撮りをしていると、新聞配達のバイクが角を曲がってこちらへ進んだ。私はなぜか道を自販機方向へ引き返した。一度遠くに見た男性が今は自販機での購入をしたりタバコを吸い始めもしていた。新聞配達員が自販機付近の家の配達を終えてまた引き返したので、私は引き返しの引き返しとして再度帰路についた。家では、洗面所で蚊が私から飛んで離れる様子を見た。6月に入っても蚊など一度も見なかったというのに。忌々しいため、壁に止まり続けている状態に殺虫剤を噴射した。

14時40分台、母親から唐突にふすまをノックされ、声を掛けられた。返事をしても大したことは言わないので、何かを受け取る用件だと察し、その旨を面倒に思いながら聞き、実物を受け取った。受け取ったものは6月22日に公示された参議院選挙の投票券らしき紙である。母親も「投票券」としか言わない。この紙にアレコレと「真実です」と誓える情報を記入し、投票所の立候補者かどこかの箱に投票すると思われるが、こういったことは何の説明もしてこず、母は投票権を渡すだけであった。時間が経ってから見直すと、その「真実です(上記は、真実であることを誓います)」の部分の記入欄は単に期日前投票を行う理由などを示す「宣誓書」の記入欄であった。実際は、この手渡された投票券をそのまま立候補者かどこかの箱に入れると思われる。いや、これは投票券ではなく単なる整理券であるとも見ている。まあ、去る6月20日に投稿した記事で「投票しない」理由などが書かれる通り、そもそも投票しない私であるから、一応確認はしてもそこまでで終わろう。



2016/06/25

本日は第一アラームで目覚め、第二アラームは記憶になく、第三を聴いて止めた後、2時32分に起床した。4時半ころに淹れて早めに飲んだコーヒー(ミルク・シュガー適量)一杯のカフェインパワーはほのかな腹痛などが起きる程度で時間が流れ、次第に便意がやや強めに発現してきたため、7時過ぎからトイレで中サイズ一本を排便した。

17時ころから母親が買出しへ発車し、19時過ぎに帰宅した。帰宅後に弟が購入物を移動し、彼に不手際が生じ、母親が口を尖らせた。まだ弟は怒り気味でない。弟は前日に母と争い、一人でいる間に母親のものを壊した様子はあったが、この買い物で母は「上履き」を買ったそうである。弟が前日壊したものが「上履き」の可能性が間もなく浮上した。弟が前日、上履きをハサミで切ったとか、切った上履きは捨てるとか、新調する話が上がったという。しかし、弟はそれを風呂場に出して洗ったか、洗おうとしたらしいが、「これから捨てるもの」にそう処置したことを母は問題視した。さすがに弟の怒りなどが鬱積したようで、声を荒げた。「イオンの菓子は経済的にまずい(彼はPBのことを言いたいわけではない、なぜならばイオンPB菓子を母は滅多に買わない、単に彼がイトーヨーカ堂などに通うから派閥意識を持っているだけ)」、「お前の○○(聞き取り不能)をノコギリでギコギコと切ってやろうかぁ!?(母: 悪いことしないで大人しく音楽聞くとかパソコンでゲームやるとかしていたら? 弟: 歌を歌うのは一番アホなことだ!)」と、聞いていてこちらが狂乱しそうな会話が続いた。



2016/06/26

本日は2時59分に起床した。前日の就寝時(20時半以降)にアラーム設定の変更をし、第二・第三をオフ、第一を一時間遅らせた。(元々の)第四・第五アラームが鳴った記憶はない。耳栓をしてはいたが、例の通り片耳(左)が外れていたから鳴れば聞こえなくはないはずである。それはそうと前日の入眠以降の出来事のメモを載せる。

「22時台、二人の争いが起こった。20時台から1階でテレビを一人で見始めた母が、何らかの理由で弟とまた争い始めたか、弟から干渉したのであろうか。彼は『○ちゃんじゃなくて○くんと呼べ』とか『ショウくん(2011年転入の小学校の特別支援学級の同級生か)』」がどうのこうのと、母も理解に苦しむ発言が続いた。互いに大声が飛び交う。弟の空虚な脅し、母の空虚な叫び、空虚な警察呼ぶ連呼など、騒がしいばかりで実行も中身もなく、彼らに実利や実害を生むことのない争いを二人は何度でも繰り返す。修羅・畜生以外に形容のしようもない。私も私で耳栓に頼りつつ、耳栓の抜けやすさに思い煩う。20時台後半の就寝時に着けたが、両耳ともすでに外れてしまっている」

起床後、1階の廊下とリビングが接続するドアの、廊下側の上方に破損が見られたが、けだし昨夕か昨夜の一連の争いの中で発生したものと見る。4時20分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時10分過ぎに自室へ帰った。


11時台に弟が外出したり、母親が風呂に入り始めた。11時50分台に2階へ上がって色々な確認を行った。ここでは一つ、弟の学校の連絡帳について取り上げる。6月5日に連絡帳を覗き、撮影もしたが、その写真や情報は6月8日の本家ブログ記事の「参考資料」の通りである。そのとき以来となる本日は1枚だけ写真を撮った。撮られたものは、6月24日付の連絡事項の表面の文章の続きとなる裏面の記述である。当日は金曜日で本日はまだ日曜日だから、当然教師の返信はない。書き出しが「学校でのストレスが家で現れているのか?中学の時より暴力に関する行動は激しさを増しています」と、自分の非を考えたがらない母親の問題点を発露している。あるいは、偶然のごとく、単に要因が重なっただけであろう。少なくともそれら複合的要因に母の非も含まれることを自覚してほしい。せいぜい末文に「(6月某日に距離を置くよう指示され)距離を置かなくてはいけないが話しかけてしまう、楽しい会話を期待してしまう」と嘆いた点が珍しいと思う程度であるが、会話を険悪にする者は他ならぬ母親である実態を、既に2014年に喝破した記事がある。些細な部分で揚げ足を取ったり口調をきつくすることは、母親も弟も心が狭いのだから、まず上に立つ母親から改めよ、と思う。この自覚も無いから改善も不可能であるし、そもそも母親として不適切である。

別の日に関する記述も、撮影はしていないが、面白いため記録する。弟が問題視している「母親が何度も同じことを言う」悪癖は、この担任教師が言うような「母親はみんなそうだよ」という一括りにできる程度ではない。正当なしつけや教育の範疇としては、もっと子供の状態などを考え、節度を持ちながら必要な物事を強調する。しかし、母の場合は執拗なまでにグチグチと小言を連ねるなど、母親が精神的に幼稚なために発される愚痴の類である。解決した話にも未練がましく、己の鬱憤を晴らしたいがために人を巻き込む悪癖である。知的障害を持つ弟とて、自制や我慢が利かない幼子ではない。そんな事実も知らない担任教師の安易な発言は無益のみならず、子供の意思を汲み取らない妄言の一種に過ぎない。幼子にのみ通用する古い子供騙しは捨てよ。母と弟の喧嘩を見れば、俗人なりの解釈でも双方に非がある様子を認められよう。仏教的には、そもそも対峙する者同士が仏のお徳に比べれば平等に低劣でもある。この自覚を持って反省と努力を重ねられる稀有の者が仏教徒である。

12時半ころに風呂を出た母親が13時30分台に髪を乾かしながら、例のローカルな政治討論番組を見ている。すると「やっぱ○○こと自体が○○、バカだっ」と、どうやらイギリスのEU離脱の賛否を問う国民投票についての話題に対し、ヒステリックな独り言を始めた。去る6月24日の開票の折、FXで負けたのであろうか?思えば、先の6月24日の記述にも「英国の国民投票について(弟と)話をしました」とあり、この話題に謎の執着を抱えているらしい。イギリスは民主主義という第一の理念を貫くべく、一見ムチャクチャな意見であっても、求める声が民衆の間に高まれば、それは民意として上に立つ人間が受け入れる。現代の先進国はこの原理を守る。母親はそもそも上に立つべき人間でないから、人生50年でも理解不能のことであろう。無論、私としてもイギリスのEU離脱の発想自体は甚だ疑問に思ってはいるが、詳述しない。EU離脱の運びが実際にあろうとなかろうと、偏狭に問題視などはしない。彼らの運命である。投票の経緯も結果も、いわば結果論である。速やかな再投票などで返上してはならない。仮に再投票をするにも、まずはEU離脱を実現し、イギリス民衆自身の功罪を自覚するように謹慎し、離脱から10年後に再投票の是非を考えてもらいたい。

17時10分台、家の前を既視感のある若い夫婦が通過した。様子を窺うと、やはりK夫婦である。男性が女性に家の鍵を渡してベビーカーを押していた。彼らは午前中、一度車を出して外出していた。ナンバープレートを即座に暗記し、今もその時に認識した文字列を覚えているが、そう言うからには実際に正確な文字列かは不明である。車種はトヨタのプリウスに見えた。



2016/06/27

https://www.youtube.com/watch?v=od9M2A5g5Xg

本日はまず1時前後に目覚めたと思われる。その時、母と弟に関する情報が頭を巡っていたか、悪夢でもないが現実的な夢でも見ていたのではないか。その意識がついて時間が経ったときの時刻確認は1時20分台だったように覚える。それから再度眠って第一~第五アラームが鳴るため、断続的に目覚めていたはずだが、起床は第五アラーム以後の2時55分となった。

5時過ぎに弟が2階のトイレを利用して以後、彼が朝食を取る動向もなく、7時30分になって俄かに2階から物音が立ちはじめ、本日初めて1階に降りてきた。彼の平日の朝食は5時前後など極端に早い時もあれば、今回みたく、本来は学校に出る時間まで起きずにいて朝食を取る余裕がない日も多い。

不安定・不規則であるが、母親はその極みである。普段の弟の面倒を見ず、フラフラと起き出して弟の部屋のドアをノックして声掛けをすることもあれば、無意味に等しい「コミュニケーション」で朝食を取ったかなど聞くこともある。己の行動の正当性や有意義さを強調したければ、毎日そうコミュニケーションせよ、と思う。そもそも自分でしっかりと子供の面倒を見られる人間ならば、取り立ててそんなコミュニケーションを行う必要もないし、普段の会話で親子喧嘩の原因も生じない。こういう日に限って惰眠を貪っているから、知らない間に母と弟は共に罪業を生んでいる。あの母親の不徳・無慈悲はすさまじい。5月10日の記録を引用する。「これは放逸主義とでも呼べばよい。だから、母親も前回4月中旬か下旬の時(4月18日)の弟の遅刻の際も、惰眠を貪ったままであった。」

何でもない思考メモ→「仏教では現在を大事とします。世俗のよう、放逸にして一喜一憂する刹那的な生き方ではありません。現在の努力ができて維持すれば、将来も努力していることとなり、それまでの過去も努力してきた過去です。つまり、現在という一時は過去・未来の三時に展開し、三時は一時に収斂する「三即一」のような法理です。本当の意味で、一つが全てに、全てが一つに渡る生き方が仏道です。 (夫れ仏道は現在を大事とす。誤りて世俗の、放逸にして一喜一憂するが如き徒らなる生と同じからず。現在に努力して精進せば、即ち未来も努力の境涯にして、已前の過去も努力の境涯なり。然れば、現在と謂ふ一時は過去未来の三時に開き、三時は一時に結ぶ、所謂「三即一」の如し。一事を万事とし、万事を一事となし給ふ目出度き法理は仏法のみぞある。豈に修行を怠ることあらんや)」

13時台後半に母親が徒歩で外出した。14時台に2階で色々な確認をし、弟から母への2通の感謝(皮肉)の手紙を撮影した。主に、料理やコミュニケーションについて母へ感謝の旨を綴ってある。ほか、K邸の様子を見ると、本来停まっている車(前日にトヨタのプリウスと書いた)ではなく、別の軽自動車が停まっていた。また、屋根(ひさし?)の上に青い洗濯バサミが落ちていた。前日K夫婦らの徒歩での帰りを見た際、旦那さんが奥さんに鍵を渡しながら「洗濯バサミ」という単語を呟いていた。この光景と関連があろうか?

14時50分、にわかに引きずるような足音が聞こえてきたが、すぐに母親らしさを感じた。その後、案の定車のドアの開閉音なども聴こえ、母の声で「最悪だよ、ろくでもない」と笑い気味の声が聴こえた。笑いながらそういう言葉を発し続ける人間性も母親らしい。母の全てがネガティブな印象で覆われている。15時30分過ぎ、母親が1階リビングで電話をしている声が聴こえたが、間もなく2階へ上がった。通話の内容は、弟の「料理まずい」発言を中心に、弟の行動に関して話しながら、更生の施設への入所を視野に入れていると告げて相談していたが、相談相手は若い男性の声に聴こえた。在学中の特別支援学校の教諭かどこかの機関かは不明であるが、訪問したいという意思を話していたため、在学中の特別支援学校ではなさそうである。

17時10分頃に弟が帰宅したが、その直前も電話か独り言をしていたようである。「納豆・ベーコン」という単語も聞かれた。それで弟が帰宅して母親に尋ねたことが「兵庫県でケーキ買った?」であるが、当然買っていない。本日6月27日が彼の誕生日である。母は「兵庫まで行くと腐るから買わない、近所のケーキだとまずいのだろう、前に小遣いを渡したからそれでいいでしょ」という説明をした。それから、できるかぎり穏やかに話そうとした母だが、にわかに弟が怒り出し、危険なムードとなり、ついに母へ一発殴打を加えたようである。痛みの程度は不明だが、母は当然取り乱す。弟も大袈裟なくらいに混乱しながら怒りを鎮めず、色々と暴言を吐いたり、階段で一段一段ペチペチという音を含んだ大きい足音を立てていた。

母の「警察呼ぶよ!」という本来は空虚なはずの脅しも、今回ばかりは狂乱しているため、本当に警察へ電話を掛けた。通話中、「落ち着いていますよ 早く来てください」などという言葉も聞かれた。弟がいる2階では断続的に色々な物音が立つ。色々と略するが、母と弟が別々の階で言葉を交わし、母が「お風呂入んないの?」などと問うていたが、些細な暴力で警察を呼ぶ狂人の母になど、誰も好印象を持たない。17時32分にサイレンを鳴らさない愛知県警のパトカーが家の前を通過し、そこから降車して呼び鈴を鳴らした。母と警官2名の話を聞くと、母は過去にも通報だけした様子である。母の話では、以前も2時間事情聴取を受けるハメとなったという不満を垂れていた。主な話も、警官の対応に関する不満である。やはり母らしい。17時45分ころに弟が風呂から出た。17時48分に追って1台のパトカーと2名の警官が来たが、彼らは母からすぐに追い払われていた。彼らはT家の敷地に踏み入っていた。

母が警察を呼び、ここまで取り込む事態は今まで一度も無かった。今回、母が警察を呼び、風呂を出た弟と警官が話し合う展開もあった。この事態で一連の問題が改善するとは到底思えない。かえって火に油を注ぐような悪因とすら成り得る。警官との話し合いで弟が衷心より反省するはずもない。また、母もそんな安易な手法で改善すると思うならば、実に儚い話である。こんな二人とはいえ、今後も改善しないとは断言できないが、少なくともこれだけで改善する問題とも思えない。



18時35分、にわかに母が車を動かした。来客まで事前に場所をどかしてスペースを空ける際によく行うが、どかした直後に別の車が来た。降りた人物は特別支援学校の教諭(担任教師?)らしく、見た目は50~60代・眼鏡・薄く白髪で薄く茶髪である。18時53分もまた別の車が来たが、同じく学校関係者であろう。警察沙汰に伴い、ゲリラ家庭訪問である。弟は予定通りの料理を行っているが、教師らが会話を挟んでいる。



2016/06/28

本日はまず0時台に目覚め、時刻確認もしていた。その時に家の外を覗き見ると、学校の教師らの車は既になく、彼らは帰ったようである。思えば前日、いなここ最近はずっと20時前後か20時台にPCをシャットダウンしていたが、前日の彼らは、私の押入れ就寝以後もずっと家にいたため、私が耳栓を着けて眠った以後に帰ったと思われる。0時台の目覚めから再度眠り、例の如く第五アラームなど聴く結果もあって2時56分に起床した。2時50分台の起床も異様に多い。

6時半ころから弟が1階で前日教師らと作ったハンバーグの残りを焼いて食べていた。彼が水筒の氷を冷凍庫から掻き入れて2階に上がった直後の7時20分ころ、それまで耐えていた便意の解消へトイレへ向かった。便意が極まって鈍い腹痛も生じていた。トイレでは硬くて長い一本糞をズリュッとブッコ抜いてきた。彼が2階に上がって母は彼に声をかけていたが、やはり顛倒である。弟が遅刻した前日にこそ同じように、いな毎日そうすればよいものを。

11時過ぎからもトイレで、まとまった2・3本を排便した。14時前後も少量の排便あり。本日の排便も前回6月25日の排便もコーヒーのカフェインパワーに因るが、本日は前回にも増した量である。蓄積分の量の差が要因であろう。また、本日と前回は、その前日にもコーヒーを飲んでいたのに、その日は排便しなかった点が一致している。それまでがまた1日や2日のカフェイン節制をしたにも関わらず、2日連続で飲んだ時にカフェインパワーの排便が生じる理由が不可解だが、考えても無意味のようである。



2016/06/29

本日は2:50の第五アラームを聴いた記憶は濃いが、それから5~10分流れたような感覚の後に時刻確認をすると、まだ2時52分であったので、直ちに起床した。

13時20分ころ、母親がにわかに外出した。折り畳み傘以外は手ぶらの状態で歩いて行った。2分後に私は部屋を出ると、やはり玄関は香水の匂いが強い。玄関の窓際に紙製のファイルが置かれていたので開いて中を見ると、更に片面が不透明のクリアファイルがあった。不透明の面に中の紙の印刷面があってそのままでは読めないため、中の紙を取り出して拝見すると、A4サイズの紙にプリントした自作の「履歴書」であった(本日の日付も印字されている)。まさか忘れ物であろうか?そう思った矢先、一時的に帰ってきた母親が玄関のドアを開けた。やはり忘れ物らしい。



2016/06/30

本日は2:10の第一アラームに目覚めたが、起床は2:40の第四アラーム以後の2時43分である。今朝(3時以降)は小麦粉焼きを久々に作った。個人的に多めの小麦粉と適量の黒ゴマに、しょうゆを少量垂らし、牛乳で混ぜる。それから、ある意味で主役となるツナ缶の油を多めに入れ、ツナの身を適量加える。今回の出来栄えは、やはりツナ缶の油などの味が強い。

4時前、イヤホンをしている耳の近くで嫌な高音が聴こえた。蚊の羽音というか、蚊が飛んでいる音であることに間違いはない。その高音が左耳から右耳に移るなど、私は刺そうとしているような飛び回り方を感じさせた。蚊を視界に捕捉し、見逃さないよう目で追い。押入れの辺(床からの高さが2m近い)に止まったタイミングで座ったまま殺虫剤を噴射した。蚊には容赦しないことが多い私である。思えば今月は、体調を崩して回復した後に大グモが出たり(後で気付いたがそれは5月13日)、全長3・4センチのクモを捕まえて逃がしたり、たまの外出から帰宅した洗面所で刺さない蚊が私から飛び去るなど、虫に関する記録はやや多めである。今回の蚊は殺虫剤を薄くかぶってから部屋を飛び回り、私が日課である朝の略式勤行・100遍唱題を終えた4時40分ころに、長年畳んだままの布団の上でひっくり返ってピクピクしているところを見かけ、可哀想なので直ちに殺めてあげた。私の周辺を飛びながらにして刺さなかったようである。

6時40分ころに2階で母親が弟に声掛けをした。これまで、未だ弟は1階に降りてこなかったが、母は弟に朝食を取ったか確認した後、「今日仕事で早く家を出なくてはいけないから先に1階を使う」という旨を伝えて先に1階で何かを始めた。この母は10分ほど1階にいた後、7時17分に発車した。7時27分に弟も外出し、私は一部の服を洗濯に出し、浸け置きにする。ほか、色々と挟んで8時過ぎにようやく風呂(シャワシャン)を行い始めた。8時30分台、一時的に風呂の折れ戸を開いて細かい作業をしようとすると、工事の音とは異なって家の中から物音が聴こえる。もともと警戒はしていたが、やはり母が帰ってきた様子である。母の「仕事」発言に最初から大した期待などなかったが、案の定とも思うと相変わらず母に対して嫌悪感が沸く(母は虚栄か面倒臭いためか単なる会員サイトや店舗などのメルマガを「変な仕事のメール」と言ったり祖母介護退職後に始めたばかりのFXを仕事と豪語するなど見苦しい)。意気消沈でもないが、気分がやや萎えて風呂(シャワシャン)を継続し、9時過ぎには自室へ帰った。

当記事注: 一応、7月1日の日記メモに載せた押入れ内メモの内容は、6月中の出来事にもあたるので、ここにも載せよう。この6月30日は例に漏れず20時過ぎのPCシャットダウンであった。「(6月30日23時10分前後)弟と母が2階で喧嘩 何の話題が原因か、彼らの会話の経緯は不明だが、私の聞いたあたりは『料理まずい』発言やすさまじい物音程度しかなく、特定ができない。発言の例→『男性生殖器のところにある雑菌みてえな料理だ!』『俺はあくまでもお母さんがいなくていいと分かった!』前者は、母から意味不明とされ、丁寧に『ちんちん』と言い直していた。 23時23にトイレを出た母がまた、わざわざおかしな発言をしたため、弟に大声をあげて襲われ、同じく母も大声を上げて逃げた。無論、弟が立てる物音もすさまじい。以前から思っていたが、やはりK邸に人が住んでも変わらない荒れようであるし、あまつさえ6月27日の警察沙汰よ、K家の人が聴けば、いずれ我が家を"キチガイ一家"と感じることは自然と不可避である。元より、あの母は6月18日のK夫婦の引っ越し挨拶の折に自分の印象を落としている」