和と申す意(こゝろ)、この國に具はれり。(開法身)
和の當體は(者)、代を歷(ふ)るところの天皇にして彼が統める國土なり。(開報身)
和の君・土、共にあるを以て、この國の古き歌をば和歌と號するなり。(開應身)
然るに當代、和に於いて心を失ひ、唯だ形ばかり殘りて和食・和服・和風なんど申すばかりあり。
※えっ、漢詩の説明は・・・
横野要文類聚(よこのようもんるいじゅ)
今回のテーマは「詩歌」である。ここでは、形式のはっきりとした(=散文ではない)和歌から漢詩までを聚める。
和歌の形式とは、5・7・5の俳句、5・7・5・7・7の短歌、7・5・7・5・7・5・7・5の今様までが含まれる。
漢詩についても、1句を7文字とする詩や、仏教経典に擬した1句5文字の偈の2種がある。
当類聚においては、掲載要文のクオリティを鑑みて日付の降順で掲載する。
おもしろや あらおもしろや おもしろや 面おもしろや 面白き儂…2016/04/07
当記事注: 臨終において法悦を感じながら、自分の相貌が白くなっている状態に気づく。
この状態を涅槃の相とも成仏の相ともいう、仏法による辞世の句、歌。
人間としての一生に満足し、もう「おもしろ」以外には表現ができなくなった状態でもある。
「おもしろい」という一般的な形容詞と「面(おもて)が白い」という字面の意味を前半と後半で徐々に変えてゆく(発音も単に「おもしろや」ではなく「おも・しろや」という区切りを意識する)。
類聚記事の目的を外れた例は、第一篇の終盤など、すでにある。
上の歌が2016年4月7日に浮かび上がったことにより、同日に類聚7の記事の編聚を発願した。
あきらけく ざえすぐれたる ものなれど まれにあだなる しかもありなむ…2016/01/01
風に乗せらる 年の瀬に 悔いは除こる 行く年の 憂ひも消えて 巡るらむ 年の来たれる 大晦日…2015/12/31
人はみな つね無き身にて 死なむとも 成仏ばかり 尊きはなし…2015/10/25
我が日々の 永かるべきは 黒髪が 筵を撫でて 色抜けるまで…2015/10/05
当記事注: 12月中の2度においては"我が日々は 久しかるべし 黒髪の 筵を撫でて 色抜くるまで"とあるが、意味は同10月5日の日記メモに述べている通りで同様である。
さきたまの うらわのみよを たどるなら ちよやちよなる すめらぎにすぎ…2015/08/19
ゆめつ國 湯水の如く 消ゆる金 過ぎにし方に 夢また知んぬ…2015/06/08
暮(ゆうべ)には 夢(ゆべ)をみるとも 宜(むべ)ならず…2015/06/08
ハゲアリヌイマノワタシニクラブレバ、アナタハモノノカズニアラザリ…2015/04/09
つまごひの きじのすがたは しげけれど ふけにけるとき いづくにかおはす…2015/02/27
ヤンゴトナシヤチエノモノ カロンジテオシハカリケル オソレハバカレハジシラズ クチニナダシソカレガミナ…2015/02/05
浄土の園に咲きたるは 蓮華・優曇華・曼珠沙華 あな曼陀羅華咲きにけり はるばる西のエウトピア…2015/02/02
こーくぉでおーおたーがも~もとせめぇ~ と~おっくま~みえーしあ~だが~たき~ おぉめおぉめの~がしーてなーるもぉのかぁ~ く~びはーねせっしめぇ~たーてまっつれ~…2015/02/02
虚しかる 我が慈しみ 誰が為ぞ…2015/01/25
いたづらに 命は死なん いづちへと…2015/01/22
のぞみしは ながぬばたまの こいしかみ…2015/01/20
どしがたく かいしがたかる うきよにて もちたるゆめは あぶくのごとし…2015/01/20 (同日記事)
みのらずに からゆわかばは またもゆる つよきみさおを かかえのぶらむ…2015/01/16
すめらぎの よもにあまねし おほみいつ かたきしとねに ふせておもひぬ…2015/01/11
1. 神の力を 仰がたる 時こそまさに 神は笑め 尊き御名を 称えれば 無上の才を 授からん 2. アマデウス殉じ 喜ぶは 神の殺めを 受けし故 アマデウスの死を 弔わば 誓いの心 固まりき 3. 不退転なる 信鋼を 身命惜しまぬ 練鋼を 汝鋼道 本懐たれ 汝鋼道 本懐たれ…2014/12/31
ご威光ぞ ここに普く 輝けり (or輝ける)…2014/12/06
高師の名 普く渥美に 轟けり…2014/12/03
当記事注: 「高師の名」が、なぜ「普く渥美に轟」いていたかは、リンク先の記事の話題の当該記述付近の説明の通りであるが、2016年4月29日は「高師(たかし)」に相当する名前が倭名類聚抄に載っていることを知った。訓読みの漢字表記が「高蘆(たかし、高天原"たかまヶはら"のように"あ"の連続を省くか。後に高足)」で、漢字音写は「多加之(たかし)」である。同書では渥美郡に属す。意外と由緒がある名前であった。「高蘆」を冠する神社もある。当該記述の話題は「高師原」だが、「高蘆原・高芦原」と表記を変えると、付近の「芦原」の地名は「高師」から副次的に生じたものと考えてよいように思った。
召喚詠唱「五濁悪世より離れ、寂光の園を築き給うた主の御稜威ぞ、此處に普く輝きぬ!」 "Veni Creator Spiritus!!"…2014/11/30
当記事注: 日本語として5モーラや7モーラを基準に構成されるが、「五濁悪世」という漢語は2モーラ化して読んでみてもよい。ラテン語"Ve-ni Cre-a-tor Spi-ri-tus"は8音節であり、標準的な西洋古典詩のリズムを構成するが、この一節だけでは歌として不足があるかもしれない。意欲的な詩人は、是非とも日本語とラテン語を融合した詩を考案されたい。
辜の無き 愛子を疎み 飢ゑせしむ…2014/10/16
摘むほど 滴り落ちる 油かな…2014/10/09
須臾にして 欠けたる月を こひねがふ…2014/10/08
謗るまじ 譬へメタルに 飽きたとて 汝メタルに 背かば死なむ・・・2014/10/04
一點之禿在頭頂 (一点之禿在头顶) |
熟瞻網有數議場、雜談・諍論・罵詈席。不分長短於彼中、在何処須恐思離。…2016/06/04
当記事注: 2016年5月17日の日記メモの擬古文の意味を七字四句の漢詩で詠んだ。一句に七字で四句詠むことは過去に一度もなかった。七字四句という、フルバージョンの漢詩(七言絶句というそう)を一度でも詠んでおきたかった。なお、件の日記メモにもある通り、インターネットの話題であるから、三文字目の「網」とはインターネット(簡体字: 网)を意味している。ところで、上の詩を読んで間もなく、漢詩は韻を踏まねばならないという認識を持った。近代以降はこの傾向があるらしい。上掲の詩も以下からの詩も、韻を踏むことは何ら考えなかったのでショックである。まあ、やりたいようにやろう。「近代」というからには、古い日本・中国の漢詩はさほど韻を踏んでいない。あと、仏教の偈も。また、「平仄」なるものまで気にすると、制約が凄まじい上に、平仄は1000年以上前の韻と明・清などの韻と現代の韻などで差があり、参考にすべき韻書も定かでない(佩文詩韻が推奨されるか?)。平仄にこだわる人以外は差し置いてよい。
勇躍足自到長安、頓天竺羅馬亦近。(勇躍の足、自ずから長安に到る、頓に天竺へ、亦た羅馬も近し)…2016/03/31
一點之禿在頭頂 (上掲の"求道相"とはその"禿"の箇所を指す)…2016/03/25 (上掲の絵を描いた日と同時に考案)
若有未得人 見如是画像 顕理論画像 速到高次理 (若し未だ得ざる人有って是の如き画像・理論を顕せる画像を見るに、速やかに高次の理に到らん)…2016/02/15
PC即是應身故、願無障礙於我道。(PCは即ち是れ應身の故に、願はくは我が道に於いて障礙無からんことを)…2016/02/11
髙德依機人 柔軟説方便 母両舌翻弄 是如魔惱亂…2015/12/22
豈謂妙髪驟燋燃 (豈、妙髪驟かに燋燃すと謂う)…2015/12/XX (推定時期、肉筆、"燋、ショウ"は環境依存文字)
雖昇天界即歓喜 而或人言非可悦 (天界に昇りて即ち歓喜すと雖も、而も或る人"悦ぶ可きに非ず"と言ふ)…2015/11/XX (推定時期、未完成未公開楽曲の印象フレーズ)
世濁悪強盛 著根本無明 於是如夜永 有人見月星 不得遊戯処 久受大苦悩 而識少真理 則入安穏道…2015/10/17
無因無策無禍根 (因無し策無し禍根無し)…2015/08/22 (日記メモ・過去記事に幾度と引用)
前無礙・傍若無人 (前に礙無く、傍らに人無きが若し)…2015/06/07
不爲實於無根草 我亦如是而自戒…2015/06/10 (この二句版自体は2015/12/19)
当記事注: 母親がどうしようもなく「残念な人」であることを示す際に詠んだ詩であるが、それは父親も同じように「残念な人」である。一応、親や先祖には日本に生まれ育ち命を繋いだ功労・恩恵に感謝をするものの、両親への尊敬など誰ができようか?その末裔であり、子たる私もまた「残念な人」であるに違いなく、夫婦も親子も不二の状態であるという東洋の思想から「我亦如是」と続ける。しかし、その東洋の思想の理解はそこに留まらず、愚物の親あってその子であるからこそ、自戒する心を持って努力しようと謳っている。これこそ、仏教徒の姿勢ではないか。他人がクズならば自分もクズである。その自覚があるからこそ、成仏や往生や涅槃など、いわゆる「解脱」という境地を目指す努力を仏教徒は行う。同じクズ=全人類=凡夫でも、自覚のあるクズは一歩進んでいる。
追記: 2017年8月5日
「萌えの典籍」全般に、和歌(数種類)・漢詩が読まれる。
漢詩の押韻などのこだわりは、「萌え話・萌え歌・萌詩"The Moetries"」の記事に表れる。
六首版の萌え和讃では、語調の良さはもちろん、上代日本語ライクな二重母音省略による字余り回避を用いるというこだわりが見られる。
追記: 2017年11月16日
前節の"※"を受け、漢詩の説明を少し書いた(通俗語源説っぽく書いた)。
漢は是れ大人の義なり、梵語には摩訶"mahat"と爲し、又た毘訶"bṛhat"と爲す。
詩は是れ迦尾也"kāvya"と云はば、漢詩を名づけて摩訶迦毘也"Mahākāvya"と爲す。
梵語・天竺・印度偈は婆羅賀摩"Brahma"化して毘訶迦毘也"Bṛhākāvya (類推)"なるべし。
・・・、私は梵語もといサンスクリットの偈(8音節・4句)を2017年10月25日に1つ作った。
仮のページ(http://testing-design.techblog.jp/archives/29133059.html)に公開してある。
Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||
(ストーリの終盤における偈) 「一切は量る可から不るなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く」
一點之禿在頭頂 (上掲の"求道相"とはその"禿"の箇所を指す)…2016/03/25 (上掲の絵を描いた日と同時に考案)
若有未得人 見如是画像 顕理論画像 速到高次理 (若し未だ得ざる人有って是の如き画像・理論を顕せる画像を見るに、速やかに高次の理に到らん)…2016/02/15
PC即是應身故、願無障礙於我道。(PCは即ち是れ應身の故に、願はくは我が道に於いて障礙無からんことを)…2016/02/11
髙德依機人 柔軟説方便 母両舌翻弄 是如魔惱亂…2015/12/22
豈謂妙髪驟燋燃 (豈、妙髪驟かに燋燃すと謂う)…2015/12/XX (推定時期、肉筆、"燋、ショウ"は環境依存文字)
雖昇天界即歓喜 而或人言非可悦 (天界に昇りて即ち歓喜すと雖も、而も或る人"悦ぶ可きに非ず"と言ふ)…2015/11/XX (推定時期、未完成未公開楽曲の印象フレーズ)
世濁悪強盛 著根本無明 於是如夜永 有人見月星 不得遊戯処 久受大苦悩 而識少真理 則入安穏道…2015/10/17
無因無策無禍根 (因無し策無し禍根無し)…2015/08/22 (日記メモ・過去記事に幾度と引用)
前無礙・傍若無人 (前に礙無く、傍らに人無きが若し)…2015/06/07
不爲實於無根草 我亦如是而自戒…2015/06/10 (この二句版自体は2015/12/19)
当記事注: 母親がどうしようもなく「残念な人」であることを示す際に詠んだ詩であるが、それは父親も同じように「残念な人」である。一応、親や先祖には日本に生まれ育ち命を繋いだ功労・恩恵に感謝をするものの、両親への尊敬など誰ができようか?その末裔であり、子たる私もまた「残念な人」であるに違いなく、夫婦も親子も不二の状態であるという東洋の思想から「我亦如是」と続ける。しかし、その東洋の思想の理解はそこに留まらず、愚物の親あってその子であるからこそ、自戒する心を持って努力しようと謳っている。これこそ、仏教徒の姿勢ではないか。他人がクズならば自分もクズである。その自覚があるからこそ、成仏や往生や涅槃など、いわゆる「解脱」という境地を目指す努力を仏教徒は行う。同じクズ=全人類=凡夫でも、自覚のあるクズは一歩進んでいる。
追記: 2017年8月5日
「萌えの典籍」全般に、和歌(数種類)・漢詩が読まれる。
漢詩の押韻などのこだわりは、「萌え話・萌え歌・萌詩"The Moetries"」の記事に表れる。
六首版の萌え和讃では、語調の良さはもちろん、上代日本語ライクな二重母音省略による字余り回避を用いるというこだわりが見られる。
追記: 2017年11月16日
前節の"※"を受け、漢詩の説明を少し書いた(通俗語源説っぽく書いた)。
漢は是れ大人の義なり、梵語には摩訶"mahat"と爲し、又た毘訶"bṛhat"と爲す。
詩は是れ迦尾也"kāvya"と云はば、漢詩を名づけて摩訶迦毘也"Mahākāvya"と爲す。
梵語・天竺・印度偈は婆羅賀摩"Brahma"化して毘訶迦毘也"Bṛhākāvya (類推)"なるべし。
・・・、私は梵語もといサンスクリットの偈(8音節・4句)を2017年10月25日に1つ作った。
仮のページ(http://testing-design.techblog.jp/archives/29133059.html)に公開してある。
Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||
(ストーリの終盤における偈) 「一切は量る可から不るなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く」
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しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。