2015年7月3日金曜日

Google+ 2015年6月中の日記メモ等

今月の学術的メモ帳における記事数は、目を背けたくなるほど少なくなっている反面、日記メモに関しては一つのメモ当たりの文字数が増大となっている。
1,000文字超クラスも増えてきたが、これは喜ばしくない。
その情報ボリュームの同様のメモを集めれば、まともな一記事を作れるからだ。
確かに、連日似たような話題のメモが投稿されたなら、それをまとめて記事にするほうがメモ帳の記事数アップに一役買うと思われるが、あまり家族ネタ記事ばかりを増やすのもいかがなものか。
というわけで、今後も余程のネタでなければ、長文傾向が加速する日記メモを継続したい。

6月24日の日記メモは当日のメモ自体の文字数の多さはさることながら、何といっても記事上の注釈まで3つに達しているため、別途記事を作成した(当該箇所も参照)。



2015/06/01


「温水スイッチの有意義な記録」・・・6月1日11時半頃、風呂に入ることを決めたが、このとき母親は午前としては珍しく外出中であった。10時以降に家を出たと記憶するが、週2度の買出しとしては午前に出ることは滅多にないものの、車を動かす外出はほとんどこれしか考えられないからだ。

この度の私の風呂は、軽いシャワーとシャンプーのみ。風呂の概要を述べる上でいつも注意を書くことは、浴槽・湯船の類を最後に使用したのがもう2010年(2011年豊橋宅説アリ)の話である。ともあれ、平時の風呂と比べて半分ほどの時間で済むメニューとしておいたが、過去日記メモにも書いたとおりその前の風呂は5月30日早朝だ。私は3日~週に1度のペースで風呂に入るも、たった2日で風呂に入ろうとしたのも、母親外出している間に昼前のシャワーをしたかったからだ。

近頃は当地においても暑くなってきたわけで、その中でもまだあのスウェットを脱いだり着たりして、エアコン等(扇風機は私用の物がない、最近母が弟用に扇風機を買い換えて、古いものを処分した)は付けない。私の部屋は同じ1階のリビング等より暑くなりやすいようだが、向いている方角などにも関連性があるのだろうか?私の部屋のおかしい点は、2011年新築のこの家でも、11年4月に私がこちらへ移動(家出)してより現在まで、ラップ音が同程度の鳴りをしている。つくづくおかしな部屋であると、暑さとは別の意味で汗が出てくるような思いだ。

正午に至らずして母親が帰ってきたが、私はまだ風呂に入っており、この時「最近は毎回風呂に災いがある。風呂から出た後、間隔に差はあれど風呂に関係した母親の干渉が数度連続した(5月19日・5月24日・5月30日の入浴関連)」と内心で溜息を吐いた。数分以上経った後、キッチン側の水道を母は利用した。キッチンにしろ風呂にしろ、温水の使用はスイッチを入れる必要があり、これは2011年に当地へ来た際、スイッチ作動時でないとお湯が出ないことを知らされぬまま風呂を利用して、一向にシャワーからお湯が出ないことに困惑しながら髪を洗うなど1度目の風呂を終えた。

それで、このスイッチが何だというと、母親がキッチン側の水道を利用した直後、いつもの反射行動でスイッチを消してしまった。私が即座に入れ返したておいたがね。私が風呂に入っていると気付いている(読者への説明:母曰く寝ているときに小さな水音にも気付くそうだから、大きなシャワーの音もわかるし、まず洗面所の状況でも知り得る)だろうに、スイッチを消すということは、数ヶ月以上前にも早朝の風呂で母が同じ愚を犯していた。その時も母の挙動を訝っていた用心の故、消されて即座に私は気付けたが、2011年このスイッチの仕様を利用したいたずらを上の弟(2012年8月父宅追放)に仕掛けたら、温水が出ないことにブチ切れて吠えながらシャワーヘッドをぶつけたと思しき打撃音を立てていた。まあ今回にしろ前回にしろ、母親には何もこの愚行の忠告をしていない。

この反射行動だが、人が風呂に入っていることを気付きながらしてしまうのは、鈍いのであろうか、臨機応変という語が頭の辞書に無いのか。本能の制御が不能な畜生にも似ている。それでいて、消すべきときに消し忘れることもしばしばあったりする。第一にキッチン側と風呂側ではスイッチを入れた際の初期値が異なるが、双方の任意の数値である。キッチン側なら「節電35度」だし、風呂側なら「40度(私がいじって39度)」となり、明確にその差が出る。あんたが入れたスイッチじゃないことも、その数字を刮目すれば一目瞭然だろう。



2015/06/03~2015/06/04


当記事注: 両日の日記メモは詳細な解説付きで本家ブログ2015年6月5日投稿の記事に引用済みなので、つきましては当該記事への御足労を願います。
http://masashi.doorblog.jp/archives/44304753.html



2015/06/08


6月2日10時49分に母親へ送った一件のメールの中の一部を引用する。

「今月の小遣いは?4月は2000円x2だったが、同月26日にドアの穴開けで5月は後半の分ももらえなかった。また私に落ち度があって小遣いをあげる気にならないなら、別にそれでもいい。これが私の素直な気持ちであることは、5月のはじめに小遣いの件であなたが「思い知れ」などと不遜な言葉を吐いた時に、私は何の不服も唱えたかったことを以て傍証とする。」

↑のメールの返信や答えが全くないため、3日経った6月5日昼の買い物品受け取り時に、母親に直接答えを聞いた。その中で今年のお年玉「1万円」の話になったが、私は「私からそのような大金を求めておらず、半額の5000円でもよかった」という趣旨の発言したが、次の話題でこの発言を「今月の小遣いとして5000円欲しい」と、あらぬ方向に誤解していた。即座に、正しい認識に戻すよう促して、ここで正しく理解してくれた。

6月2日のメールの意を汲み取っていれば、「今月は5000円欲しい」と私が思っているなどと誤解はしない。このメールを読んでいないのか、読解力が無いのか、感受性に乏しいのか。生まれつき薄情なだけでなく、輪をかけたように痴呆化がはじまっている今では、いずれも考えられることは非常に物憂い。

また「4月半ばには小遣いを渡していないよ」とカレンダー記入を根拠にボケた主張もあったが、あなたがその記入とやらを忘れただけである。4月始めに続く4月半ばの小遣い2000円の受領を証明する封筒が部屋にある。あなた自身が現金取引を証明する目的で日付記入の封筒を毎度用いているのに、それはとんだ虚実の顛倒である。実物提示により、記憶違いの蒙を啓くこととする。

「虚実顛倒」とは、去る1月に行った会話でも「脅されるから1万円渡した」という発言があったが、人聞きの悪い表現で脚色されるのはまことに不本意だ。「脅される」ような意識でいるなら、甚だしい被害妄想だと、異常性を示唆するものである。

結局、6月5日の会話の答えは「思案中」とのことだったが、本日6月8日なおも続報なし。私は別に、はぐらかして小遣いナシでもいいが、ナシならそう断言せねば困る。かかる不誠実な対応に終えるのであれば、義憤も禁じ得ず。私が求めているのはお金よりも、母親の人生にかつてない誠実な対応だ。

当記事注: 記事内でも当該箇所にはリンクを付与したが、ここで少しだけ説明する。今年2015年の正月、お年玉を受け取ったまさにその日の1月1日にG+日記メモが定着していない頃の記録がG+上に投稿されている。背景としては「チョコっとしたことを記事にするのもどうなのか」というわけで、このような形をとることにしていた。
https://plus.google.com/+MasashiYokono/posts/jHnEUzd7YeC



2015/06/10


今月、母親が頼んだ品の中に、資格取得の通信講座の教材があるようだ。その分野は「心理学」の方向(心理カウンセラー)である。薬学にしても、人にその知識を共有して助けるということがあまりないような、職業的な知識ばかりのつまらない人間だが、心理学にしても同じようなものだろう。どういう目的で何を願ってそんな受講をするか、何ら魂胆が見えない(そう言いつつこの後に私特有の邪推を披瀝する)。

それも、薬学なら「としこおばさん」の人生的教導により、その後の生活の糧となる形を得られたのだが、今では人間関係も希薄で、勉強にしろ人生にしろ指導者が皆無。対等に近い間柄の相談者さえいないならば「根無し草」と言うべきだ。「不爲實於無根草(根のなき草に実りなし)」我また是の如し。それに気付いている私は、それを支柱と成し、根を広げんとしている。母親自身が気付かない性質を看破し、その悪しき轍を踏まじと自戒する。

過去にスペイン語(キューバ記事)なり他の外国語なり「○○(母親の名前)の挑戦!80歳までに(あれらの言語を)覚える」などと、母室内の紙に抱腹絶倒のメモをしていたことがある。それもどこへやら、という感じだが、難易度が異なる今回にしても、資格取得は遠い夢想に終わるものと悲観視を禁じ得ず。仮初めにも資格取得して職業を得るとも、自分や周囲の人間の精神に寄与貢献する知識になるとはとても思えないものと判じておく。

ところで、この講座を運営する会社は、平成27年に消費者庁から表示の問題を改善させる命令が下されていたらしい。その概要を眺めるに、いわゆる「限定商法」のやり口に「景品表示法」への違法性があるとされたのだろう。ある月末まで「1万円割引!」と謳い、その月が終わったらまた次の月末まで「1万円割引!」を繰り返し、実に2ヶ月超に渡ってそのキャンペーンをしていた。これがその時の閲覧者に「今だけ」とのお得感を煽らせる。「限定商法」という、顧客を増やす狡猾なやり口だと言える。「心理カウンセラー」が主軸の会社にあって皮肉だ。

関連して検索すると、キモイ文言のサイトばかりかかって、俺が「キモイ」と言わざるを得ないほど、キモキモアホ感染した。名利法律とかバカ心理学とか元々そう思っていた中で仕方なく検索したらコレ。「バカ」って言葉も侮蔑の意で普段使わない。「バカ」レベルに合わせる親切な俺。

なお、前の日記メモの小遣いの件で再度問い質し、「思案中だとかはどうでもいい、出すか出さないかの二者択一、お金よりあなたの答えが欲しい」と何度も似たようなことをいい続けないとまともに答えを返せなかった。その答えは「じゃあ出さないよ」であった。はっきりと最初からそう示せばよい。



2015/06/14


メモ帳の下書き記事のホールド・蓄えに欠いていることを、最近の本家記事の告知欄でも嘆いた。メモ帳では数日~1週間のペースで記事の供給を続ける目標があるが、下書き無きままに三日四日を経るのは苦しい。もちろんメモ帳の開設当初は「Bloggerの仕様の確認・日記然とした簡素でマイペースな投稿」を想定していた。最近数日間、メモ帳ほか本家ブログでも、過去記事の既述を色々と訂正し、6月13日は去年10月の「らい○ちゃん」小説における後半パートの既述を、より高等表現におきかえた。

6月14日0時半を過ぎた頃、突如として今まで感覚的にまとまりつつあった言語感を記事にする構想が浮かんだが、5月に投稿した「助動詞『る』」の記事同様、材料となる例を集めるのも苦労する上に、それらを整然と並べて分かりやすくする作業もまた手間隙をかけることとなる。当該記事は初めの下書きから投稿反映まで数週間を経ることとなった。

B H V Wの互換性、準じてF Pの互換性。日本語では「は」の濁音"ば"、半濁音"ぱ"、仮名遣い"わ"に共通される。WとVは、例えばドイツ語のWが英語のVの発音をなす。

キリル文字の"в(ヴェー)"は、英語でいうと"V"の発音になり、典型的なVの発音の例で真っ先に浮かぶのはтверь(トヴェリ)だ。вск(フスク)やмосква(モスクワ)などは、カタカナ表記でロシア口語発音に近いものとなっている。フスクの地名の例が思いの外「ハバロフスク」の他になく、フスキーなどの形なら人名などに多い(接尾辞-ийは所有格や形容詞を作るっぽい)。本題と無関係な蛇足で、「ウラジオストク」のウとオにあたる箇所もвが綴られるが、実際の発音は「ヴ」系統。なお、英語でいう"B"は、キリル文字だと"б(ベー)"がそれにあたる。

トヴェリを意識したきっかけが、日本語で転載されたロシアの事故動画を2013年未明に初めて見て、同年別の時期あるいは翌年中に日本転載以前の動画を探したところ、ロシア語で撮影場所の都市名と大通りの名前が書かれた動画(6nNfAmHrDX8)があり、その通り沿いに動画内より商業施設が接していることを確認して、都市内各地の通り沿いを航空写真で分析し、ストリートビューで確証を得た。

当記事注: 後にこのメモを元として、新たに記事を執筆できた。それが学術的メモ帳6月16日の記事となる。



2015/06/15


6月15日は15時過ぎ、それまでに学校から帰宅した弟と、母は買い物へ出て、その帰りは19時半を回った頃だ。以前弟を伴う買出しでは2時間足らずで帰ってきた。今回の買出しでは、遊んだり食事したことと思われる。

この買い物について母親から「何もメモ(メールの誤り)がないから、これだけしか買わなかった」と弁明されたが、言われた時にはまだ全容がわからなかったものの、嫌な予感だけした。品々を引き取る前に、弁当をレンジで温めはじめ、部屋で品々を確認すると、嫌な予感がその通りに現れることを知った。レンジ加熱が済んだ弁当を取りに行くとき、母にその不審を問うこととした。

6月14日6時40分にしたメール・明文では「母親によって私・上の弟の手紙を保管しているアトムファイルに先の封筒切抜きをしまった」旨を冒頭に書き、これは承諾していたようだが、例の如く余計に変なことを返してきた。同メールでは、その下にラーメン1セットを買うよう、いつもと同じ買い物の品書きを打ち、その下にも長文を書いているが、この品書きパート以降は気付かず読まなかったらしい。故に「何もメモがない」という理解しがたい答えが先ほどにあった。

何とも間抜けな人間だし、その蒙を啓く孝子の諫言を肝に銘じていれば、念入りにメールを読むよう努めたり、でなくとも魯鈍な自身に気付いていれば私が品書きメールを送っていないなどと思い過ごすこともなかった。私の慈悲心は、過去の行動に表れているが、生来頑迷固陋・度し難い人に対しては詮が無いのか。不安を感じていながらタイトルに「全文読んでね」と付け加えなかったことが私に落ち度なのか。

ともあれ、弁当の回収際には「私はちゃんとメールを送ったが、上の方(アトムファイルの件)だけしかあなたは読んでいない」という点のみを伝えた。弁当を食べている最中に、一応は母親がメールを読んだようで、これに関わる会話がはじまった。大きめの声と矢継ぎ早の弁舌ながら、この会話の最後まで誤飲せず、噛み誤ったり口内炎などを作らずに済んだ。

同メール長文には、あの母親に食品のブランドの指摘に関して、理解が全く及んでいない鈍感さを呵責した内容となっている。長文の冒頭から「今後はブランドの細かい指定はしないが、最後に説明をする」旨を断っており、決して食品ブランドへの執着を押し通す内容ではなく、愛に欠けた母親に愛の鞭でその無知を正すことが目的だ。

あの母親が私に一つ指摘されると、すぐに沸いて漏らすと予想される疑問も、未然に粉砕すべく情報の明記を徹底している。あの母親は見ている部分の文章、狭小な範囲のみ一瞬理解して、次の文節に移ると忘却する性質があることを熟知している私が努力を尽くした。「熟知している」からには、その「狭小な範囲のみ一瞬理解して、次の文節に移ると忘却」が愚鈍にも会話で現れることを予期させる。

案の定、その危惧していたことが愚鈍にも会話に現れてしまった。些細な誤解まで、愚問に尽きる。その愚問の答えなどは既にメール文章内に書いてあることを強調し、私の正当性と周到さを強調したが、まあ頑迷固陋の人には100年しこんだところで微塵も伝わらないと内心肩を落としている私。それでも意志を曲げずに母親への諫言・啓蒙は続けたい。世間の浅い「親孝行」とは異にして高尚な孝子の慈悲が行動、言葉に満ち溢れる。言葉が通じる顔をするだけの母親には未だ伝わっていない。

メールの本題とは違う会話に移されても、部屋に置かれた物について過去にも同じ事を幾度となく話したのに、何を思って言い出してくるのか。例えば室内のDHC製リップクリームを見て「私の勝手に使ってるし」などと言い出すが、あなたの使用済み若しくは未使用であっても、リップクリームをくすね取りなどしようもない。あの母親がなぜか根に持っているコレだが、DHC製リップクリームは自分用だと思い込んでいるそうだ。どちらにせよ、私はリップクリームを要求したことは今までに一度も無く、母親の方から2013年に買い与えられたコレだが、使う頻度も多くない。他にも同年中に別メーカーのリップクリームが買い与えられたが、2015年なおも未使用のままである。私が使いたくて、ましてや、くすね取ることなど考え付きもしないが、そんな何度も繰り返し言った情報を毎度言わねばならない。これほどに度し難い50歳手前の母親がおろうか。あなたが勝手に与えた者を私が勝手に盗ったと思うならば、事実無根を過ぎて、マッチポンプである。この時は以前と同様に、未使用の別クリームの存在を強く示してすぐ前言撤回する間抜けな母親であった。やはり例を鑑みずに場当たり的な感情のみ口に出す。



2015/06/20


昨日も今日もいつの日も、来る日も来る日も私は考え事を止めていない。狂えるPCの回復を待つ為に寝そべって体を休めている間も考え事が続く。そうしてあらゆる事象についての思惟の果てに、どうしてもこの濁世の実相が見えてしまう。

客観的な事実や経緯が確然と存在するも、眼中に置いていない者達。人にそれを提示されても、その場限りの我慢偏執で糊塗するか、その遁辞も漏らさず逃避する者達。客観的見地に立つ私には、この濁世が大火に包まれつつあることが見えてくる。出火した家の火が外から目立つことがあるとして、家の中にいる子供たちが気付かずに遊戯雑談(ゆげぞうだん)している。今この世の中が、そういった一たび客観性を得れば判然としている事象に、気付く由もなく得意げな顔でいられる。

この理屈は、私が唱えているのではない。二千数百余年以上もの乃往(ないおう)より、知られるところの教えであるが、末代幼稚の凡夫の多くが知るところの教えではない。私がこの教えに触れる数年以上前から、漠然とした違和感があったそれを、まさに明文化しているのであろう。その違和感を持ち始めた頃から今に至るまで、年を逐うて増すばかり。あの母親はじめ、多くの者が顛倒している濁世で、私がこのように啓蒙しても尚みな理解に及ばざるところであろうと半ば落胆しているが、仏道修行を志す者として今後も啓発して参りたい。

ところで、この文章を書いている朝6時40分前に、30前後メガネ女性が犬の散歩をしていて、バター犬が俄かに家の近くで吠え出した。私は鳴き声の甲高さと人気バター犬という先入観で「ダックスフンドか?」と思ったが、路上で女性が通行人と暫く立ち話(女性の手振りがお笑い)を続けている間、バター犬の姿はずっと隠れていた。話が終わったときに漸く姿を見せ、読みが的中し「ダックスフンド」であった。写真は日記メモ記事で載せるだろう。思えば、今年の春休み期間特有のキチガイ通行人の中にも、ダックス5匹ほど連れた若い女性がいたことを4月29日の日記メモにも書いた。

続く6時49分、その茶髪女性と茶毛バター犬がすぐまた逆方向に家の前を走りながら過ぎり、その間も狂い吠えしていた。我が家の前でのみ吠えるとは、好戦的な犬っころだと思えてならない。別の小型犬を飼っているおっさんと高速ですれ違って、おっさんは寂しげだった。そういえば羊の散歩の子どうなったの。



2015/06/21


この濁世にあって顛倒せる者達の多きことを思うに、世間の人は自らの貪欲に気付けず、ますます富を貪ろうと、心の貧しさが一層際立つ。その中にあって、いよいよ慎ましく清らかに洗練されゆく私はまさに白蓮華そのものだ。蓮の花は泥の中にあってその泥濘に塗れぬ美しさを誇る。濁世の濁乱が強盛につれて、泥濘の不浄を糧として育ち、己心の蓮華が花開かんとしてゆく。

最近の方針で一例を上げるなら、5月の下旬に暑い日が続いた折、「今年の夏は氷水でやりきりたい」という意思を掲げたことが言える。例年の夏は、ペットボトル飲料を多量に摂取し、経済苦とまで言わずとも、「これでいいのだろうか」という疑問があった。蛇足だけど、真夜中などの自販機通いに虫を恐れることも疑問であった。それらがいっぺんに緩和されることだろう。もちろん、少々ばかり買い物は続ける。人や虫を恐れる傾向が強まってしまいかねないことは、新たな問題ではなかろうか。

濁世は、自身の愚に気付けない蒙昧さを増長せしむ。気付けぬ故に輪をかけるように愚を犯す。私の行動は、自他の愚に気付いている上でなされている。また、愚に気付けていてもその愚を改善できないパターンもある。例えば「僕はバカ、頭が悪い」と口にしている場合、言い訳として用いる上辺だけの下の弟のみならず、衷心よりその慙愧を懐ける者でも直し難し。

私のことを「頭がおかしい」と思う人も昔からよくいたことで、ましてや私の知能を「我より劣れり」と見誤る顛倒者の繁きことよ。それこそ愚の骨頂であると喝破す。学校生活・ネットはおろか、母親でさえ愚息の能力を軽視し、いい加減な物言いばかり幼少より続けている。

近頃、下の弟の破壊的な行為が増えてきており、一昨日には1階で寝ている私の押入れが強めに揺れるほどの打撃を2階で繰り出したようで、その後母親は1階の物置スペースよりハンマーを取り出して何か修復したのかもしれないが、具体的にどこが損傷したとか部位が外れたとかは、後に2階を軽く確認してみたが見当たらなかった。本日6月21日の朝6時前後には母も弟も1階で時間を過ごしていたが、7時までの間に一悶着あったようで、前日まで何の損傷もなかったキッチンそばの壁に損傷が出来ていた。数時間後にはいつものように隠し繕われていた。一方の私はそれを慎む傾向が強まっている。

前にもどこか記事などで書いたことと思うが、息子などが暴力行為をするのに対し、母親は暴力しない(昔は息子の頭ボコボコ殴っていたが)なら、自分はその不満げな喋り方を自重すべきだろう。それが原因となって止むことのない破壊衝動を生じさせるのだから、母親の態度は不穏分子そのものだ。こんな人間に父親も、平静でいられずしてキレるのは致し方のないことだろう。

あの母親に考えがあって人を苛立たせつつ、破壊の事後に後悔・反省させるだとかが効果的に作用するならばまだしも、実際はその時の不快感でのみ不穏な態度を口調に見せたり、言葉を考えないから、男性側が破壊衝動を起こすに発展し、自暴自棄に陥りやすくなる。精神面でも壁を作ってしまう。私は平穏を望む人間だから、破壊の傾向さえ今では治まりつつあるが、実際に下の弟は悪化するばかりで、父親との夫婦生活ではあの新居でもエスカレートし、ついぞ和睦に至らずして別居・離婚に至っている。これも己の愚に気付けば簡単なことだが、この年になるともう期待できず、やはりこれも悪化の一途を辿るのみだと結論付けたい。



2015/06/22


母親が物の位置を変える行為について、どうにも明確な意思から行っているものでないことがわかる。先月(模様替え後)のいつ頃か、玄関クローゼット内の本棚に置かれてある噂の「楽譜読める本」が、リビングのソファの上に置かれていた。リビングにはこの他に読んでいる実体の不明な本が種々雑多置かれてあるものの、それらよりずっと大きいサイズの「楽譜読める本」が仲間入りする寸前か、と沸き立った。2日ほど静観するに、どうも同じソファの上でも、向かって右側背もたれの傍から、中央よりに位置がずらされるなど、読んでいるのか不明なものの位置のズレが明白に見られた。そこで、私はこれを食事するテーブルの上に移動した。暫し待ったところ、ついに元の玄関クローゼット内の本棚、あるべき場所に戻され、今に至っている。結局、フラっとした気持ちで手に取りつつ、元に戻そうか数日迷って、私の行動を機に最初の場所に戻すことが決まった。

これは冒頭の一文の一例であり、今回わざわざ日記メモにしようと思ったのは、本日6月22日に同様の疑問が二つ生じたからである。一つは、昨日6月21日の夜中2時起床時、リビングに貼られていたカレンダーの四隅の内の右上の一角が剥れており、その後は早朝に母・弟らが1階に降りてくるなど人の流れが多くあっても、カレンダーだけはそのままであったのだ。本日夜中、同様に起床すると、そのカレンダーが全て剥がされてソファの背もたれにかけられていた。二日連続、日付が変わるまでに何があったのやら。余談だが、本日8時前に私はシャワシャンを始めた。続く11時頃に母親が1階に降りてきたが、この時別件で余計なことをされた。同時に、あのカレンダーが今度はソファから説明しがたい位置に移されていた。ここまで来ると、捨てるつもりなのか貼り直すつもりなのか考えられない。

二つは、数日前まで黒い棚の上に置かれていたことが確認される「志望校合格」の傲岸不遜なる文言のプリントされた紙だ。こんな文言は空文そのもので、こういった郵便物がスパム的に学齢期の子女を有する家庭に届けられることは、郵便局員にとり負担を増やしかねない流通性の阻害因子である。かかる文言が「空文」たる所以は、我が家におる子供など、18歳中卒無職の私と、追放された16歳中卒無職の上の弟と、15歳目前の知的障害を持つ下の弟の存在にある。かかる文言は、誰を対象にして唱えるところか。あとは申す必要もない。これがいつからか黒い棚の上に保管されたり姿を消したりしたと思えば、本日母親が外出中の15時過ぎに、玄関に置かれていることに気付いた時、「何のためにこれを」との猜疑心ばかりが沸き起こる。「楽譜読める本」の先例からして、こいつをビリビリにでも破いて元の位置に置いたら、母親がどう出るかと思い立つも、浅薄な暴力を厭う私としては「4つに畳む程度で良いだろう」とするに留めた。続く16時過ぎに母親が一度帰宅したようで、この間にあの「志望校合格」の不浄物が玄関からも姿を消した。早急にさすればよきものを。

以上の点を踏まえて、冒頭の一文を再度参照されたく思う。これに帰結するのではないか。結局はこれら母親の行為に、大した意義など伴わないと断ずるものである。



2015/06/23


私にとって「親」とは?「神」といえば己が心に宿っているものだが、己の外に求めるならばやはり「親」が自分を生み出した「神」に最も似た存在となる。母体の核に子種の因子が注がれ、実を結ぶ。胎内より生ずる、胎生有情(たいしょう の うじょう)、我が創造主だろうか。

社会即宗教の上では、どの神だとかの子供である前に人の子であることが求められよう。その親≒神とても、生物学的な区分では子供と同じ人間で、過ちもある。孝子たる者、須らく諫むべきであるとして、私は敢然と諫言を繰り出すのである。朦霧の囚われを切り払う。

また、神は人類を守るものであるなら、親もまた子供の生存が危ぶまれるときに救う必要がある。拡げて言えば、常に子供を庇護すべき立場といえるし、そうして育てるものだ。

当記事注(15/09/03): このような「親」に関する深い考え方は、世間一般の言葉にも言える。「親の心子知らず」とは、額面通り親が偉くて子供が無知であることを言うものではなく、迷える一切衆生に対する仏の慈悲と苦悩と憐憫を、親子(仏と衆生)へ準えた比喩である。「子は親を選んで生まれる」というのも、「お前(子供)がオレを選んで生まれたんだろ、なんでオレを選んだ?」と曲解して子供を責めるための言葉ではない。

後者は特に、「あなた親様は子供に選ばれた立派な人間なのだから、選んでくれた子供を宝の如く大事に養い育てなさい」という親への教訓がその本意なのである。「少子化の世にあって親として選ばれた存在の責任と自覚を・・・」それを思えば、巷に増えつつある育児放棄・児童虐待の親などはこの教えに暗い者達であろう。あるいは、自分を選んだからと居丈高になっている。ましてや、宗教を信じない人間が「子は親を選ぶ」などという、酷く迷信じみた話を都合よく持ち出して子供を責めるのは論外だ。昔の人であっても、「子が親を選んで生まれる」という御伽噺をまともに信じることは無い。第一に「親が子を作る」ということが科学的事実であり、それに準じて逆説的・哲学的な傍らでは、子の親に向けて含蓄ある御伽噺を説く。含蓄を汲み取れずして妄りに、子供に対して責め立てる辞とするならば単なる迷妄でしかない。

16/01/22、この「子は親を選んで生まれる」を仏教的に煎じ詰める場合、人間をはじめとする一切衆生は、前世ひいては無始以来の罪業によって現世ないし未来世が決まる。特に「子は親を~」という言葉に焦点を当てれば、「般泥洹経」に罪業の報いとして「生貧賤家、生邪見家(貧乏な家や悪い人間の家に生まれる)」といったことを挙げる経文があるように、「その人間や生物の死後に『中有』の存在となって来世の生まれを決める際、その善悪の業が基準となる」という点を俗に解釈して「子は親を選んで生まれる」などといった表現が作られた、と私見ではあるが、こう結論する。要は「人間・畜生の子供となる抽象的な死後の生命がシステム上強制的に次の親を選ばされる」と言える。決して、世間の知恵を備えた生命体が「この女性のもとに生まれたい!」などと言って選んでいることは有り得ない。ネット上には「子は親を~」という語弊ある言葉をそのまま「仏教的だ」と軽口に唱える者がいるけれど、所詮は「輪廻転生」という教理だけ見てそう唱える。「輪廻転生」の思想は仏陀出現以前からあるバラモン教やヴェーダ経典の時代にも説かれている。私は仏教の経文の上から具体的に論じた。



2015/06/24


この日の日記メモは、本体でも追記事項2点によって異様な文字数となり、その上で後日の注釈事項が3点もあり、全てを当記事で載せることは辞しました。つきましてはメモ帳の当該記事への御足労を願います。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/06/624.html



2015/06/26 


6月27日は4時過ぎに1度目を覚まして、トイレ後に手洗い・水で顔洗い、水を一杯飲んで寝た。その時は「8時くらいまで寝よう」という心算であった。続いて6時過ぎに目が覚めると、リビングで誰かがテレビを見ているようだった。ふにゃふにゃした思考のまま誰かが玄関のドアを開け、母親の声で「ただいま!」と聞こえた。後の会話に聞こえたことは、散歩に行っていたようだ。母親がリビングにいるという弟の姿を見て驚いたようだ。6月27日に誕生日を迎える弟のために、去る24日水曜日の買い物で買い揃えられた「クレーム・デ・ラ・ショコラセット(生クリームチョコ味・スポンジケーキチョコ味・市販のシロップ漬け桃)」を使ってケーキを作っていたらしい。

25日夜の話では「今日作ってもいい」という母に対し「どよーびまでまてる」として、誕生日当日の昼を予定していた。だが、その場の欲を制御できない弟はこれを破ってしまい、25日夜の誓いも空言に帰した。「我慢できない、たえられなかったの」と言い訳し、やはり非を感じながらいつもの威勢でないが怒っていた。いつもは弟の手際が少しばかり悪いと母親が何か言って摩擦が生じて、互いに不満が衝突するようでも、今回は客観的に見て全て弟に非があることになる。まだ金曜日、今日も学校がある中で、早朝からケーキを作り始める人がどこにおろうか。散歩に行った母は「○×中のジャージ(体操着?)の人が走っているのは見たが、ケーキ作る人はいない」と責めもした。他には、桃シロップの別の用途を意図していた母に対し、要領がわからず勝手に捨てたことについても、「相談なく内緒でやるのが悪い」と叱る言葉は全容の総括とも取れる。「当日に一緒でやったら一つ一つ教えられた」とも言う。ホイッピーなクリームが弟の心を甚だ惑わしているようだ。

ところで、一段落したあたりで藪から棒に「ケーキの残りを一緒に食べない?持ってこようか?」と聞かれたが、穏便に断った。一旦去って直後に「○○は15歳になりました!」と言われるが、まだ当日じゃないのに焦って当日と混同したのか、それとも本当に26日が誕生日だと思い込んでいるのか。すぐに「まだ今日じゃなく、明日6月27日だろう」と指摘した。どうも両親とも誕生日には頓着しないのであろうか、まず思い出されるのが前の家で2009・10年頃の4月に、父親の誕生日を尋ねた経緯がある。聞くに当たっての動悸は、子供が親の誕生日を知っているのは普通なはずだが、自分は月単位で覚えていても日単位が曖昧であるため、自分から言わなそうな人であるから改めて聞くことにした。別の意味で恥ずかしい気持ちもあったが、その答えは「誕生日のプレゼントならいらないよ」と白けた見当違いのものであった。そんなつもりではなかったのだが、変に気を遣われても困る。私の当時の言語能力・語彙力では何も言い返す言葉が見当たらず、「そう」と思い込むしかなかったが、今でもこうして心残りなことはご覧になる方にも伝わろう。


2015/06/30


とある過去記事の加筆をしている折、どうしても調べなければならない情報がある。ちょっとした理系学問に向いた情報は、テレビの受け売りを漠然とした言葉で説明しているサイトなどがあれば、軽く専門用語を並べて検索するとすぐにどこどこの機関、大学などのPDF等、およそ一般向けには程遠い小難しいものばかりヒットする。前者は粗方私が既に知っていることを口語寄りの敬語で語ることが多く、後者はそれらの未知でより高度な用語について詳細を調べる内に収拾がつかなくなる。特定の単語だけ一般に流布して、然もみんなが知っていそうなことも、その深層までは及ぶことがないようだ。

私は頭が良くて真面目であること自負しているが、その為に自分が情報を書くときは漠然としたものに満足して鵜呑みにし、受け売りをするわけにもいかない。逆に、門外漢の立場にある分野であるほど、踏み込みすぎるわけにもいかない。興味がある人や専攻している人だとか、既にその学問に明るい人でも何でもない。また、難解なものを半端に理解し納得したつもりになって消化不良に終えるのも好まない。必要な情報・単語を省かずして、且つ平易・簡潔に示されると初めて満足できる。

私のような頭が良くて真面目な人には、どんなこともあまり向かない傾向がある。それでも研鑽などを怠らず、不屈の闘志で常に挑んでいる。その気質は、6月24日のメモ帳記事にも表れている。

というわけで、メモ帳の新たなカテゴリ(ラベル)複数案を検討している。過去には言語カテから国語カテを分立させたように、現在ブログ内二番手の「啓発」カテと玉石混交の「宗教」カテが対象である。肥大化したら細分化もね。

当記事注: かくして、啓発カテから「研鑽」と「論理」、宗教カテから「仏法」カテが分立されることとなり、関連記事のカテゴリ移動も同日中に完了させた。



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あしからず。

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