2023年8月27日日曜日

国家個人主義の2つの考え方と、文明の緩やかな滅亡(持続可能性の裏返し)

1-1. 任意の国家が保障するものとしての国家個人主義(国家が行為主体)
1-2. 国家にとっての国家個人主義(国家が客体もしくは再帰的)



1-1. 国家が行為主体である国家個人主義

任意の国家が保障するものとしての個人主義(国家が行為主体)は、主に憲法などに明文化される。
これは主に様々な権利(基本的人権など)を指す。
国家が保障するものとしての個人主義は、間接民主制に不可欠な一部分を構成する。
国家がまずは一方的に国民である個人たちへ主権を保障するような構図である。
その後は、国家と国民である個人たちとが互いに影響しあい、循環する関係性になる。

ここからは、踏み込んだ話になる。
間接民主制を高度に行えていれば、直接民主制も可能になる、と私は思っている。
直接民主制を高度に行えていれば、アナキズム(無政府主義 anarchism)の実現も可能になる、と私は思っている。
アナキズムについては、こういった段階が踏襲されない限り、急進的なものである。

民主主義(民主制)のようなものは、参政権や立法の仕組みなど、権利の一部分である。
「主権」という言葉は、統治主体のようなものであり、過去には単一または少数の支配者(君主、独裁者、全体主義の党派など)が実質的な主権の所持者(主権者)だったところがほとんどである。
先述の通り、今は国民が国家から主権を保障されており、国家の役割は、権力 (パワー) で抑えつける側面よりも、権利を分散させて意思を応援するといった側面のほうが重要視されている。
※民主的な法治国家では、警察、公安組織などは、同じ人間が運用しているし、同じく職権乱用や横暴がされないように、多方面から牽制されており、三権分立というのもある。これらは現時点での理想的な構図だが、貧しい国では汚職が横行しがち。
「主権」はまた、国内的にそうであるが、国際的には国家のものである。



1-2. 国家が客体もしくは再帰的である国家個人主義

国家(nation, 特に主権国家 sovereign state)にとっての個人主義(国家が再帰的な主体)は、国家が一個人という名の再帰的な主体もしくは客体である場合の、個人主義である。
国家にも、主権 がある (国家主権 state sovereignty)。
それが、他の国家(つまり他人)と対等な主権者どうしであることを認め合うことにも相当する。
国家の自由は、言うまでもなく、相手の主権を侵害しない範疇に制約されねばならない、という根底で、多数の国家が牽制しあう習慣が、定着している。

参考として、反対のことも挙げよう。
一般的なたとえ(メタファー metaphor, 比喩)に、国家間の親子関係、兄弟関係(姉妹関係)のようなものが言われる。
特に、「兄弟国家」というのは、共通の母体(i.e., かつて存在した両者の国土を版図に収めた国)から継承された国々を指す傾向にある。
これが、人間関係における上下、モラルハラスメント(パワーハラスメント)のようなものに悪用されることもある。
日本に対する台湾(もとは大日本帝国)、逆に歴史的な朝鮮系国家に対する日本(史実を抜きに、そういう主張をする人たちが韓国や北朝鮮にいる。国家としてそのようなことが無かったとしても漢字の使用とか文化的に年長者であるかのような認識や、仮説上の語族 language family の祖語を用いる言語集団=仮想の祖先を指す場合がある)、ロシアに対するウクライナ(もとはソビエト連邦)など、世間に見られている。
どのような形で以前の国家が消滅したか(いわゆる崩壊や割譲や分離独立など)、という部分については、重要でない。

今、存在する国は、そう自負する限り、対等な個人、もとい主権国家なのだから、たとえ以上の何かを「兄弟」の概念に使うことは、全く適切でない。
そういう家族主義 (familialism or familism) の尺度が正しいのであれば、ある国が別の国の「傀儡国家 (puppet state, puppet government or dummy government)」であるようなものになってしまう。
仮に「兄弟(兄と弟)」という表現を用いないにしても、文化的な年長とか、国力の大きさなどで上下関係を無意識に懐くのであれば、そのようなアンコンシャスバイアス (unconscious or implicit bias, implicit stereotype) も同様である。
一方が、他方を自身よりも格下だとみなす考えで、他方に、(武力行使などで)はたらきかけると、意表を突かれる場合があることは、人間関係でも国際関係でもよくあることである。
意表を突かれて、かえって不利益を生む結果もあり、その種類の積極行動は、成熟した個人(国家)ほど、しなくなる。
ものによって、ギャンブラーの若気の至り、では済まされない。
国家の自由は、言うまでもなく、相手の主権を侵害しない範疇に制約されねばならない、という根底で、多数の国家が牽制しあう習慣が、定着している。

現時点で地球上の国家間(国際関係)においては、拘束力の強い政府が存在せず、無政府状態 (anarchy) でもある。
国際連合の条約を含む国際法 (international law) は、多少の強さを持っているが、戦争のときは大なり小なり、戦争法 (law of war) で求められた「不必要な苦しみを減らす」ということが履行されづらい。

Sovereignty has taken on a different meaning with the development of the principle of self-determination and the prohibition against the threat or use of force as jus cogens norms of modern international law. The United Nations Charter, the Draft Declaration on Rights and Duties of States, and the charters of regional international organizations express the view that all states are juridically equal and enjoy the same rights and duties based upon the mere fact of their existence as persons under international law. The right of nations to determine their own political status and exercise permanent sovereignty within the limits of their territorial jurisdictions is widely recognized.

— Wikipedia - "Sovereign state". oldid=1161352244.
※太字は筆者による。数字付き注釈表示を除去した。



私が「国家個人主義 (national individualism)」と言うならば、1-1の意味で言うはずである。
1-1は、国内的なもの (internal, domestic) として「国民主権」が既成事実になっている先進国では普通のことだが、どこでも昔は、単一または少数の支配者にこそ主権(に相当するもの)が存するものと思われていた
1-2は、国際的なもの (external, international) として不確実性の強さがあるが、1-1は人間文明の成熟に従って必然的に「ある種の傾向」を伴い、強めてゆくものであると私は信じている。





2. 文明の緩やかな滅亡

いかなる経過であれアナキズムが成立するとは考えづらい向きもある。
一方で、人間社会と人類文明の滅亡については、多くの人が半信半疑に思うところである。
私としては、遅かれ早かれ、何らかの形でそれが起こると確信している。
個人主義が普及して成熟するところでは、人が年ごとに性機能や身体機能を減らしていくように、持続という名のもとで、滅亡に向かう準備が整う。

成熟した者であれば、何であれ、滅亡のなかでは、安らかな滅亡を志向するかと思う。
私としては、そうであるが、切望するところは、速やかな死よりでない。
不安定な生き方と不安定な死に方のリンク(接続)を解くことを切望している。

図太く生きるよ。
その時その時のバックグラウンドとステータスを自覚し、サーカムスタンスを把握すること。
アウェアネスとマインドフルネスとを重んじること。
可能な限り、多くの手段を活用しなきゃ。

この話は私自身に向けられており、私以外の社会的弱者には実際に困難なことである。
過去にすがることをよしとしない信念の人もいるが、その信念は何か近い過去と近い未来を含む現在のことに強い義務または使命を負っている人のためである。
私には、容易に捨てることのできるものと、捨てがたいものとがある。
結局は、克服の道を進み、寂滅為楽ということか。
「振出しに戻る」、「足踏みしていただけ」、メタファーはなんとでもどうぞ。



「戦争によって作られた歴史は、人に憎悪の心がある限り、終わることは無い」、宗教的マインドから言えば、これが人の世の実相であろう。
私としては、長年、その趣旨を言っていた。

仏教徒にとって、法律は「人間の概念・認識・妄想の所産である道徳・哲学の文明・世界観を支えるもの」であって「戯論」となる。
どうして単なる「相似性」を、無理に「同一だ」と主張するかといえば、我見・我欲の故であり、法律は、その我欲を肯定した人々に争いが生じないよう、何とか権力で抑えつけるためにある。
これで、我欲と全ての欲望が肯定される文明が、欺瞞の平和のもとに生き続け、戦争に入るという悪循環を繰り返すことになる。
仏教徒は、このことを憂え、愧じ、恐れねばならない。
人の悪を悲しまねばならない。

しかし、仏教徒は、世俗の倫理・習慣に則らねば教化できないし、むしろそういった「戯論・迷妄」ありきで「四諦(苦集滅道)」や「中道」などの仏道がある。

—2017年8月10日投稿『仏教と著作権・・・「同一性」とは相似性の便宜上の呼称である(法学・法律学)

今の文明が戦争で終わるのか、戦争以外で終わるのか、私には分からない。
ただの無関心とは違い、「(憎悪をたぎらせて歴史を繰り返す、度し難い世の中に)愛想をつかした」ものとしての諦念で「人々を好きさせよう;こちらが助ける術は無いどころか、義理も無い」と思って極力、外的な刺激を避ける形で自他の終焉を待つ道が、人生の比較的後に、はっきりと現れる。
メメント・モリ、死の準備を意識している。

個人および文明が安らかに死ぬ鍵となるものは、よほど高度な科学と技術とが実現しない限り、その欲望を減らすことくらいである。





起草日:2023年6月22日

本記事の1-1および1-2の事項(2つの国家個人主義)については、2年以上前から、頻繁に頭に浮かべていた。
アウトプットして人に見せるまでもない、と遮っていたが、私自身の環境変化が多くある中でも、それなりに意識されたので、実行することにした。
何せ、2の話題が、主な執筆の動機であったから。
1-1, 1-2というのは、奥行きを演出している。

アナキズムというか、私は、アナグラム (anagram) に陶酔した晩年のソシュールみたいな状態になってきたか?
ボルツマンみたく海に還ろうとすることは無いと思うが。

職歴なし、就労不能の状態でも、私が家出して独立できたのは、入念な調査によるものである。
他者の権利を著しく害しかねない自由を謳うリバタリアン (libertarian) または自由絶対主義者(free ** absolutist, ドナルド・トランプやイーロン・マスクのようなもの)ではなく、リベラルの側面を持った中道であり、よく検討してから行動した。
※イーロン・マスクの言う「言論の自由」は、任意の憲法がそれ自体は具体的でないように、あまり意味を待たない。アメリカ合衆国では、連邦政府と別に州ごとの憲法を用意し、それが日本国憲法と近いものもあり、例えばコネチカット州憲法 (Connecticut Constitution) では: "SEC.4. Every citizen may freely speak, write and publish his sentiments on all subjects, being responsible for the abuse of that liberty.", "SEC.5. No law shall ever be passed to curtail or restrain the liberty of speech or of the press." と、自由の濫用を禁じることと、憲法によって個々の法律があることとが理解しやすい内容である。アラバマ州 Alabama, 最も宗教保守的なテキサス州 Texas でも同じ条項がある。憲法の目から言えば、彼は各州の憲法を超越し、独自に「エックス共和国」を建設したいかのようである。
私が何をしても公益性は無いと思うが、権利で認められる限り、今後も理性的に追求したい。


2023年8月26日土曜日

「面白い作品」は作品が面白いのではなく面白いと思われる原因を持っている、という説

2013年ころに私は、「面白い作品」は、作品が面白いのではなく、面白いと思ってもらえる原因を持っている、という説を聞いた。
うろ覚えになるが、近い時期のZさん(仮称)の発言らしく、詳細(文脈)と典拠と日時は不明である。
「作品」とは、Zさんがビデオゲームのシナリオ、デザイン、プログラム、さらにはグラフィックやミュージックを手掛ける人物であることから、ドラマやマンガを含む文学作品やビデオゲームのことかと推察される。

「人々にとっての面白い作品」における、「面白いと人々から思われる原因」は何か?
社会的な背景から来る、複数の個人の認知や心理の領域にある、と私は考えた。

直接的なもの:

・その作品について、マスメディアが人気であるように取り上げていることを個人が見聞きした。

・その作品について、個人が頻繁に、繰り返し目にすることがあって「よく見かける。面白い作品なの? →よく見かける。面白い作品に違いない」と、心理的な親近感を認知バイアスとして感じるようになった。
;とはいえ、その個人にとって「ヤラセ」や「過大評価」と思われる方法の宣伝や、作品の特徴から不快感を覚えることがあれば「よく見かける。うざい」と思ってしまう。
「何度も、長年、見せられているものが馴染みのあるように錯覚してくる現象(作品であれば、それが何か良いもの、文学作品であれば面白いものと錯覚する)」というのが報告されている(こちらでは特に心理学のほうでどういう名前が付けられているかなどを調査していない)。

・その作品について、個人が「こういうネタがある」と知った喜びで執着し、面白いと思えた一部分の要素を針小棒大にした。



副次的なもの:

・その作品について、いくらか「嫌な部分もあるけど全体的には面白いものなんだ」と自己暗示をかける必要があり、それが達成された。



1996年に始まるZさん自身の作品シリーズも、2004年以降、Zさん自身が思った以上の高い人気を得て困惑し、「面白い作品は面白いと思われる原因を持っている」と、そう考えるようになったのではないか。
他方、基盤として「実際に面白い、上出来である」ことも、先のきっかけとして必須条件である。 今回の考察は、Zさんがその発言をしたのか、その場合はどんな話の脈絡なのか、ということの客観的事実とは別にして読んでいただきたい。

発言そのものは、作品を作る立場の人が思うこととして、「自分が面白いと思った要素はなんなのか、漠然と面白いという感情で支配されすぎず、具体的に省察して自覚することが役に立つ」という精神論を意味している可能性もある。





分析

心理的な効果を巧みに取り込むと、「面白い作品」を作りやすい。
いくらかの作品は、基盤として「実際に面白い、上出来である」かもしれないが、大衆心理まで視野に入れたマーケティングを伴わないと大きくて長期間の人気につなげるのは難しい。
某週刊少年マンガ雑誌系は、そういう部分をうまく捉えているように見える。
紙媒体と電子媒体(TV、ウェブサイトなど)の両方の新聞、雑誌、ニュース、エッセイが具体的な実働部隊である。
「斜陽産業」と扱われない努力で、同業他社間、上位カテゴリの共通した異業種間で、互いの利益の向上を図っているような協力関係が広がっている。

私は2010年(中学2年生、夏休み期間)、すでに特定の作品(アニメ、マンガ)に関して、具体的なマスメディア動員について批判していたことがある。
特定の領域で、当該作品の特集がしつこく行われたことにより、ほかの新人などが埋没している状態に見えていた。

2012年以降、特定の作品のみならず、ポップカルチャー全般の作品に(作者、作家、企業など人格のほうにも)批評を言わないようにしているが、完全に自粛しているわけでもない。
その作品も、多少の人々にとって面白いは面白いのだろうが、万人受けしているのでもないし、過去と未来のいかなる作品であってもマーケティングが巧みなところで万人受けするとは限らない。
ディズニー系を含む「往年の名作」でさえ、時代、地域といった文化の差によって、初めて見た人たちの評価が「ステレオタイプ」、「差別と偏見」、「ギャップ」への認識を伴って変わりうるものである。



ところで、新興宗教でも、なんだかんだ、信者が「教義を見てみろ、素晴らしいから」と主張する場合があるかと思う。
古今東西の宗教を見聞きした立場だと、結局、私は、教義のすばらしさについて、ある特定の新興宗教よりも明らかに綿密で優れたものがあることを知っているし、それだからと言って現存の教団に自発的に加入するというものでもない。
その立場の人がその経緯で、その信仰を持つ結果があったに過ぎないのだろうけど、あまりにも新興宗教信者の一代目(これもまた親と先祖が似たようなものかもしれないが)でありながら、教義への理解や、教義自体の内容が粗雑でありながら、信仰が深い場合、やはり新興宗教としてもうまい具合に「教義の素晴らしさ以上に、素晴らしいと思わせる力」を発揮したのだろう、と感じる。
とはいえ、どこであれ、社会的な目で20世紀以降に発生した新興宗教が、教勢を強めて一国の全民衆に流布したケースは無いので、その程度でもある。

万人受けする完璧な宗教(教義のみならず組織運営が優れている)が存在しないように、万人受けする完璧な作品も成り立つことはない。
そこで、「ある時代、ある文化」での比較的多くの人に支持される作品を作るか、ニッチな層に支持される作品を作るか、単純に作りたいと思ったテーマからの作品を作るか、これはもう、作り手や、その人の属する集団(企業など)の判断になってくる。
たとえ、一定の人気を得た作品であっても、企画の当初、ターゲットやコンセプトがはっきりしない or 複数にまたがっていた、というものが占める割合も多いかと思う。





起草日:2022年10月29日

2022年10月29日にこの記事を起草したが、当日のみに編集したまま、2023年8月を迎えた。
つまり、その9か月の期間に一度も、この記事を編集したり、この記事に加筆していない。
投稿直後、いくらかの加筆をした。


2023年8月4日金曜日

Draft 2022-10-04: OO、山岡洋一 vs. XX、黒木玄 4名のダブルバトルの見直し

あの構図は笑えた。



山岡洋一 「引きこもって」の悪用
倫理道徳を破壊する発言や行為は、学術キャリアさえも壊す諸刃の剣(両刃の剣)である。

伊藤穰一、ジョー・イトー (Joe Ito) が当時のMITにおける要職役職を追われたことに等しい。 彼は直接に悪いことをしたのでないが、それでさえ、非難と追及を受け、MITメディアラボ所長を辞任する結果となっている。


彼は大学を何度中退しても博士号(および名誉博士号)を情報工学ではなく政策学・メディア論(および文学)の分野で取得し、MITで辞任に追い込まれても、彼は色々と活動したがっているようなので、「千葉工業大学変革センター センター長」など、日本で仕事をもらい続けている。
宗教家 兼 宗教学者との対話を希望し、その司会役もこなしていた(上掲動画"NFTs & Religion" by 変革 Center for Radical Transformation)。
チベット仏教の関係者 Venerable Tenzin Priyadarshi と、キリスト教の関係者 Father Eric Salobir を京都に招いて行われた。





4名のプロフィール







起草日:2022年10月5日

サーベイ論文またはコラム。


スマブラに、ポケモンの「ダブルバトル」のようなものはある?
→2対2, 2 on 2 (two-on-two) ということに関しては、あるが、あまり聞かれない。64専用の初代(第一作)には無い?深入りはしないでおく。