2023年8月26日土曜日

「面白い作品」は作品が面白いのではなく面白いと思われる原因を持っている、という説

2013年ころに私は、「面白い作品」は、作品が面白いのではなく、面白いと思ってもらえる原因を持っている、という説を聞いた。
うろ覚えになるが、近い時期のZさん(仮称)の発言らしく、詳細(文脈)と典拠と日時は不明である。
「作品」とは、Zさんがビデオゲームのシナリオ、デザイン、プログラム、さらにはグラフィックやミュージックを手掛ける人物であることから、ドラマやマンガを含む文学作品やビデオゲームのことかと推察される。

「人々にとっての面白い作品」における、「面白いと人々から思われる原因」は何か?
社会的な背景から来る、複数の個人の認知や心理の領域にある、と私は考えた。

直接的なもの:

・その作品について、マスメディアが人気であるように取り上げていることを個人が見聞きした。

・その作品について、個人が頻繁に、繰り返し目にすることがあって「よく見かける。面白い作品なの? →よく見かける。面白い作品に違いない」と、心理的な親近感を認知バイアスとして感じるようになった。
;とはいえ、その個人にとって「ヤラセ」や「過大評価」と思われる方法の宣伝や、作品の特徴から不快感を覚えることがあれば「よく見かける。うざい」と思ってしまう。
「何度も、長年、見せられているものが馴染みのあるように錯覚してくる現象(作品であれば、それが何か良いもの、文学作品であれば面白いものと錯覚する)」というのが報告されている(こちらでは特に心理学のほうでどういう名前が付けられているかなどを調査していない)。

・その作品について、個人が「こういうネタがある」と知った喜びで執着し、面白いと思えた一部分の要素を針小棒大にした。



副次的なもの:

・その作品について、いくらか「嫌な部分もあるけど全体的には面白いものなんだ」と自己暗示をかける必要があり、それが達成された。



1996年に始まるZさん自身の作品シリーズも、2004年以降、Zさん自身が思った以上の高い人気を得て困惑し、「面白い作品は面白いと思われる原因を持っている」と、そう考えるようになったのではないか。
他方、基盤として「実際に面白い、上出来である」ことも、先のきっかけとして必須条件である。 今回の考察は、Zさんがその発言をしたのか、その場合はどんな話の脈絡なのか、ということの客観的事実とは別にして読んでいただきたい。

発言そのものは、作品を作る立場の人が思うこととして、「自分が面白いと思った要素はなんなのか、漠然と面白いという感情で支配されすぎず、具体的に省察して自覚することが役に立つ」という精神論を意味している可能性もある。





分析

心理的な効果を巧みに取り込むと、「面白い作品」を作りやすい。
いくらかの作品は、基盤として「実際に面白い、上出来である」かもしれないが、大衆心理まで視野に入れたマーケティングを伴わないと大きくて長期間の人気につなげるのは難しい。
某週刊少年マンガ雑誌系は、そういう部分をうまく捉えているように見える。
紙媒体と電子媒体(TV、ウェブサイトなど)の両方の新聞、雑誌、ニュース、エッセイが具体的な実働部隊である。
「斜陽産業」と扱われない努力で、同業他社間、上位カテゴリの共通した異業種間で、互いの利益の向上を図っているような協力関係が広がっている。

私は2010年(中学2年生、夏休み期間)、すでに特定の作品(アニメ、マンガ)に関して、具体的なマスメディア動員について批判していたことがある。
特定の領域で、当該作品の特集がしつこく行われたことにより、ほかの新人などが埋没している状態に見えていた。

2012年以降、特定の作品のみならず、ポップカルチャー全般の作品に(作者、作家、企業など人格のほうにも)批評を言わないようにしているが、完全に自粛しているわけでもない。
その作品も、多少の人々にとって面白いは面白いのだろうが、万人受けしているのでもないし、過去と未来のいかなる作品であってもマーケティングが巧みなところで万人受けするとは限らない。
ディズニー系を含む「往年の名作」でさえ、時代、地域といった文化の差によって、初めて見た人たちの評価が「ステレオタイプ」、「差別と偏見」、「ギャップ」への認識を伴って変わりうるものである。



ところで、新興宗教でも、なんだかんだ、信者が「教義を見てみろ、素晴らしいから」と主張する場合があるかと思う。
古今東西の宗教を見聞きした立場だと、結局、私は、教義のすばらしさについて、ある特定の新興宗教よりも明らかに綿密で優れたものがあることを知っているし、それだからと言って現存の教団に自発的に加入するというものでもない。
その立場の人がその経緯で、その信仰を持つ結果があったに過ぎないのだろうけど、あまりにも新興宗教信者の一代目(これもまた親と先祖が似たようなものかもしれないが)でありながら、教義への理解や、教義自体の内容が粗雑でありながら、信仰が深い場合、やはり新興宗教としてもうまい具合に「教義の素晴らしさ以上に、素晴らしいと思わせる力」を発揮したのだろう、と感じる。
とはいえ、どこであれ、社会的な目で20世紀以降に発生した新興宗教が、教勢を強めて一国の全民衆に流布したケースは無いので、その程度でもある。

万人受けする完璧な宗教(教義のみならず組織運営が優れている)が存在しないように、万人受けする完璧な作品も成り立つことはない。
そこで、「ある時代、ある文化」での比較的多くの人に支持される作品を作るか、ニッチな層に支持される作品を作るか、単純に作りたいと思ったテーマからの作品を作るか、これはもう、作り手や、その人の属する集団(企業など)の判断になってくる。
たとえ、一定の人気を得た作品であっても、企画の当初、ターゲットやコンセプトがはっきりしない or 複数にまたがっていた、というものが占める割合も多いかと思う。





起草日:2022年10月29日

2022年10月29日にこの記事を起草したが、当日のみに編集したまま、2023年8月を迎えた。
つまり、その9か月の期間に一度も、この記事を編集したり、この記事に加筆していない。
投稿直後、いくらかの加筆をした。


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