1-2. 国家にとっての国家個人主義(国家が客体もしくは再帰的)
1-1. 国家が行為主体である国家個人主義
任意の国家が保障するものとしての個人主義(国家が行為主体)は、主に憲法などに明文化される。
これは主に様々な権利(基本的人権など)を指す。
国家が保障するものとしての個人主義は、間接民主制に不可欠な一部分を構成する。
国家がまずは一方的に国民である個人たちへ主権を保障するような構図である。
その後は、国家と国民である個人たちとが互いに影響しあい、循環する関係性になる。
ここからは、踏み込んだ話になる。
間接民主制を高度に行えていれば、直接民主制も可能になる、と私は思っている。
直接民主制を高度に行えていれば、アナキズム(無政府主義 anarchism)の実現も可能になる、と私は思っている。
アナキズムについては、こういった段階が踏襲されない限り、急進的なものである。
民主主義(民主制)のようなものは、参政権や立法の仕組みなど、権利の一部分である。
「主権」という言葉は、統治主体のようなものであり、過去には単一または少数の支配者(君主、独裁者、全体主義の党派など)が実質的な主権の所持者(主権者)だったところがほとんどである。
先述の通り、今は国民が国家から主権を保障されており、国家の役割は、権力 (パワー) で抑えつける側面よりも、権利を分散させて意思を応援するといった側面のほうが重要視されている。
※民主的な法治国家では、警察、公安組織などは、同じ人間が運用しているし、同じく職権乱用や横暴がされないように、多方面から牽制されており、三権分立というのもある。これらは現時点での理想的な構図だが、貧しい国では汚職が横行しがち。
「主権」はまた、国内的にそうであるが、国際的には国家のものである。
1-2. 国家が客体もしくは再帰的である国家個人主義
国家(nation, 特に主権国家 sovereign state)にとっての個人主義(国家が再帰的な主体)は、国家が一個人という名の再帰的な主体もしくは客体である場合の、個人主義である。
国家にも、主権 がある (国家主権 state sovereignty)。
それが、他の国家(つまり他人)と対等な主権者どうしであることを認め合うことにも相当する。
国家の自由は、言うまでもなく、相手の主権を侵害しない範疇に制約されねばならない、という根底で、多数の国家が牽制しあう習慣が、定着している。
参考として、反対のことも挙げよう。
一般的なたとえ(メタファー metaphor, 比喩)に、国家間の親子関係、兄弟関係(姉妹関係)のようなものが言われる。
特に、「兄弟国家」というのは、共通の母体(i.e., かつて存在した両者の国土を版図に収めた国)から継承された国々を指す傾向にある。
これが、人間関係における上下、モラルハラスメント(パワーハラスメント)のようなものに悪用されることもある。
日本に対する台湾(もとは大日本帝国)、逆に歴史的な朝鮮系国家に対する日本(史実を抜きに、そういう主張をする人たちが韓国や北朝鮮にいる。国家としてそのようなことが無かったとしても漢字の使用とか文化的に年長者であるかのような認識や、仮説上の語族 language family の祖語を用いる言語集団=仮想の祖先を指す場合がある)、ロシアに対するウクライナ(もとはソビエト連邦)など、世間に見られている。
どのような形で以前の国家が消滅したか(いわゆる崩壊や割譲や分離独立など)、という部分については、重要でない。
今、存在する国は、そう自負する限り、対等な個人、もとい主権国家なのだから、たとえ以上の何かを「兄弟」の概念に使うことは、全く適切でない。
そういう家族主義 (familialism or familism) の尺度が正しいのであれば、ある国が別の国の「傀儡国家 (puppet state, puppet government or dummy government)」であるようなものになってしまう。
仮に「兄弟(兄と弟)」という表現を用いないにしても、文化的な年長とか、国力の大きさなどで上下関係を無意識に懐くのであれば、そのようなアンコンシャスバイアス (unconscious or implicit bias, implicit stereotype) も同様である。
一方が、他方を自身よりも格下だとみなす考えで、他方に、(武力行使などで)はたらきかけると、意表を突かれる場合があることは、人間関係でも国際関係でもよくあることである。
意表を突かれて、かえって不利益を生む結果もあり、その種類の積極行動は、成熟した個人(国家)ほど、しなくなる。
ものによって、ギャンブラーの若気の至り、では済まされない。
国家の自由は、言うまでもなく、相手の主権を侵害しない範疇に制約されねばならない、という根底で、多数の国家が牽制しあう習慣が、定着している。
現時点で地球上の国家間(国際関係)においては、拘束力の強い政府が存在せず、無政府状態 (anarchy) でもある。
国際連合の条約を含む国際法 (international law) は、多少の強さを持っているが、戦争のときは大なり小なり、戦争法 (law of war) で求められた「不必要な苦しみを減らす」ということが履行されづらい。
Sovereignty has taken on a different meaning with the development of the principle of self-determination and the prohibition against the threat or use of force as jus cogens norms of modern international law. The United Nations Charter, the Draft Declaration on Rights and Duties of States, and the charters of regional international organizations express the view that all states are juridically equal and enjoy the same rights and duties based upon the mere fact of their existence as persons under international law. The right of nations to determine their own political status and exercise permanent sovereignty within the limits of their territorial jurisdictions is widely recognized.
— Wikipedia - "Sovereign state". oldid=1161352244.
※太字は筆者による。数字付き注釈表示を除去した。
私が「国家個人主義 (national individualism)」と言うならば、1-1の意味で言うはずである。
1-1は、国内的なもの (internal, domestic) として「国民主権」が既成事実になっている先進国では普通のことだが、どこでも昔は、単一または少数の支配者にこそ主権(に相当するもの)が存するものと思われていた
1-2は、国際的なもの (external, international) として不確実性の強さがあるが、1-1は人間文明の成熟に従って必然的に「ある種の傾向」を伴い、強めてゆくものであると私は信じている。
2. 文明の緩やかな滅亡
いかなる経過であれアナキズムが成立するとは考えづらい向きもある。
一方で、人間社会と人類文明の滅亡については、多くの人が半信半疑に思うところである。
私としては、遅かれ早かれ、何らかの形でそれが起こると確信している。
個人主義が普及して成熟するところでは、人が年ごとに性機能や身体機能を減らしていくように、持続という名のもとで、滅亡に向かう準備が整う。
成熟した者であれば、何であれ、滅亡のなかでは、安らかな滅亡を志向するかと思う。
私としては、そうであるが、切望するところは、速やかな死よりでない。
不安定な生き方と不安定な死に方のリンク(接続)を解くことを切望している。
図太く生きるよ。
その時その時のバックグラウンドとステータスを自覚し、サーカムスタンスを把握すること。
アウェアネスとマインドフルネスとを重んじること。
可能な限り、多くの手段を活用しなきゃ。
この話は私自身に向けられており、私以外の社会的弱者には実際に困難なことである。
過去にすがることをよしとしない信念の人もいるが、その信念は何か近い過去と近い未来を含む現在のことに強い義務または使命を負っている人のためである。
私には、容易に捨てることのできるものと、捨てがたいものとがある。
結局は、克服の道を進み、寂滅為楽ということか。
「振出しに戻る」、「足踏みしていただけ」、メタファーはなんとでもどうぞ。
「戦争によって作られた歴史は、人に憎悪の心がある限り、終わることは無い」、宗教的マインドから言えば、これが人の世の実相であろう。
私としては、長年、その趣旨を言っていた。
仏教徒にとって、法律は「人間の概念・認識・妄想の所産である道徳・哲学の文明・世界観を支えるもの」であって「戯論」となる。
どうして単なる「相似性」を、無理に「同一だ」と主張するかといえば、我見・我欲の故であり、法律は、その我欲を肯定した人々に争いが生じないよう、何とか権力で抑えつけるためにある。
これで、我欲と全ての欲望が肯定される文明が、欺瞞の平和のもとに生き続け、戦争に入るという悪循環を繰り返すことになる。
仏教徒は、このことを憂え、愧じ、恐れねばならない。
人の悪を悲しまねばならない。
しかし、仏教徒は、世俗の倫理・習慣に則らねば教化できないし、むしろそういった「戯論・迷妄」ありきで「四諦(苦集滅道)」や「中道」などの仏道がある。
—2017年8月10日投稿『仏教と著作権・・・「同一性」とは相似性の便宜上の呼称である(法学・法律学)』
今の文明が戦争で終わるのか、戦争以外で終わるのか、私には分からない。
ただの無関心とは違い、「(憎悪をたぎらせて歴史を繰り返す、度し難い世の中に)愛想をつかした」ものとしての諦念で「人々を好きさせよう;こちらが助ける術は無いどころか、義理も無い」と思って極力、外的な刺激を避ける形で自他の終焉を待つ道が、人生の比較的後に、はっきりと現れる。
メメント・モリ、死の準備を意識している。
個人および文明が安らかに死ぬ鍵となるものは、よほど高度な科学と技術とが実現しない限り、その欲望を減らすことくらいである。
起草日:2023年6月22日
本記事の1-1および1-2の事項(2つの国家個人主義)については、2年以上前から、頻繁に頭に浮かべていた。
アウトプットして人に見せるまでもない、と遮っていたが、私自身の環境変化が多くある中でも、それなりに意識されたので、実行することにした。
何せ、2の話題が、主な執筆の動機であったから。
1-1, 1-2というのは、奥行きを演出している。
アナキズムというか、私は、アナグラム (anagram) に陶酔した晩年のソシュールみたいな状態になってきたか?
ボルツマンみたく海に還ろうとすることは無いと思うが。
職歴なし、就労不能の状態でも、私が家出して独立できたのは、入念な調査によるものである。
他者の権利を著しく害しかねない自由を謳うリバタリアン (libertarian) または自由絶対主義者(free ** absolutist, ドナルド・トランプやイーロン・マスクのようなもの)ではなく、リベラルの側面を持った中道であり、よく検討してから行動した。
※イーロン・マスクの言う「言論の自由」は、任意の憲法がそれ自体は具体的でないように、あまり意味を待たない。アメリカ合衆国では、連邦政府と別に州ごとの憲法を用意し、それが日本国憲法と近いものもあり、例えばコネチカット州憲法 (Connecticut Constitution) では: "SEC.4. Every citizen may freely speak, write and publish his sentiments on all subjects, being responsible for the abuse of that liberty.", "SEC.5. No law shall ever be passed to curtail or restrain the liberty of speech or of the press." と、自由の濫用を禁じることと、憲法によって個々の法律があることとが理解しやすい内容である。アラバマ州 Alabama, 最も宗教保守的なテキサス州 Texas でも同じ条項がある。憲法の目から言えば、彼は各州の憲法を超越し、独自に「エックス共和国」を建設したいかのようである。
私が何をしても公益性は無いと思うが、権利で認められる限り、今後も理性的に追求したい。
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あしからず。
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