2016年8月25日木曜日

三大宗教の「慈悲」観を比較する

※敬語使用の背景は察してほしい

諸宗教にはない「空」の思想こそが平和の原理

宗教はアヘン"Die Religion ist das Opium des Volkes"・信仰の意味は無知"Glauben heisst Nicht-wissen-wollen"」という西洋哲学者などの言葉は、キリスト教を念頭に置いて発されました。
これは、キリスト教やイスラム教などの一神教についての非難としては的を得ていましょう。
ただし、私としては、西洋において宗教や信仰全般を否定した、仏教を知らない多くの西洋哲学者の思想なども、一神教の教義と同様に愚昧なものと思っています。

さて、キリスト教やイスラム教が説いている慈悲とか慈愛とか博愛など(mercy, pity, love, kindness, compassion, agape)は、単なる精神論の美徳であり、空虚・空理空論です。
後述のように「慈・悲"Ji Hi = Skt: Maitrī Karunā"」はもっと奥深い概念でしたが、明治時代以降でしょうか当時の日本人はキリスト教やイスラム教の"Mercy"や"Compassion"ほか"Love"の類に「慈悲」を訳語として当ててしまいました(「戒・律"Kai Ritsu = Skt: Śīla Vinaya"」という言葉も漢字の意味からするとイスラム教の概念に訳語として当てては不適切)。
過去に宗教戦争を起こし続けたキリスト教は、第二次大戦後に盲目的な慈悲を説き続けて過激派を生む素地を整えてしまいました。
現況のキリスト教が説く慈悲などは、悪をも悪のまま助けてしまう紛い物です。
そこに、アッラー"Allah"を飾りあげる(Al Rahmanという異名)ための軽薄な慈悲を説くイスラム教の中から、無慈悲な過激派が忽然として勃興しています。

現在の様相は、まさに近現代キリスト教の思想的支配(多文化共生・宗教多元主義・人権尊重・人道主義・合理主義・民主主義・リベラルなど)が根本原因であると知らねばなりません。
過去の巨大戦争への(極端で自己陶酔の)反省をし、(自己陶酔のために)良かれと思って行い続けた人道支援やイスラム教への寛容な姿勢が、かえって過激思想の広まりを助長した事実です。
宗教という心を重んじても、ただ現世的で世俗的な物的支援ばかりで、彼らが奉じるところの西洋的な教育(イスラム主義を奉じた過激派が蔑視する)は不十分でしたので、過激思想を抑制することはありませんでした。
イスラム教徒・ムスリムとなる選択は、西洋的な教育を受けた後、「信教の自由」に任せて選ばせればよかったのでしょうが、それも実現が難しかったことでしょうか?

これからもほくほく顔を浮かべたローマ教皇(法王)・フランシスコだとかのお偉いキリスト教徒や、その走狗の如きEUなど人権屋、更に日本・世界中の識者さまが自覚しないうちは、今後とも悪を生み出すことでしょう。
彼らは高座ですまし顔でいられ、一部キリスト教徒やイスラム教徒が協調の姿勢を見せても、争いの当事者である下層の民衆やEU域内の移民・難民やテロリストなどの間では、軋轢が強まり、争いの火種が絶えず生まれ続けます。
虚栄の慈悲はかえって他人の悪を増長させる・・・「自由」や「放任」とは、決して過保護だとか好き勝手にさせることを意味しません。



私が奉じる仏教は、色んな教理に裏打ちされた「慈悲」を説いています。
「慈・悲"Ji Hi"」の字義を簡単に言えば、「慈」は思いやり、「悲」は哀れみであり、英語で言えば、"Benevolence"と"Pity"を合わせたような言葉です。
片方の英単語の意味だけでは足りません、両方の意味を合わせた単語です(「戒律」もこれで一つの意味ではなく「戒・律」という別の意味のある漢字を2つ合わせた単語)。
「慈悲」の字義から言えば、個人的には"Loving-Kindness"という通常英訳が適切と思いません(MaitriとかMettaといったサンスクリット語・パーリ語も実は"慈"の意味しか含んでおらず漢語の"慈悲"という四無量心・四梵住のうちの2つの概念を言うには不足がある)。
漢語では「抜苦与楽(苦を抜いて楽を与える)」と言われますが、この場合は「抜苦」が「悲」で、「与楽」が「慈」です。

また、「不生不滅」だからこそ「慈悲」です。
「不生不滅」といった「空」を知ってこそ、慈悲や信仰などの精神や実践は活きていきます。
「空」とは、キリスト教にもイスラム教にも強調されることのない真理の一つです。
大阪の覺應さんや大阪の英俊さんなど、彼らは「空」を理解しつつ、慈悲が大切であるとよく訴えられています。

苦しみの性質を説いた「縁起」、その苦しみを構成する事物・苦しみを受ける生命など「縁起」にとらわれる全ての事物・生命が「空」であり、それを知って自分の苦しみを捨て、「空」が根付いた「慈悲」で他人の苦しみを除く(除こうとする意志)、という点で、自他が苦しみから離れるには「空」と「慈悲」のどちらも必要です。
その関係性は飛行機の両翼とエンジンや、建築物の基礎と柱や、建材と金具(枘鑿・ぜいさく)の関係と似たようなものです。
こうして堅実に理解を積み重ねなければ、苦しみの呪縛は永く続き、解脱は到底ありません。
よって、一つでも欠かして進ませれば、手抜き工事の建築物のようにどこかで瓦解しましょう。
※今ご覧のみなさんは今すぐに「空」に関わる教理を解せずとも、一応そういうものと認識してくだされば理解できない文章でもありません。また、深い理解を求めれば、読んでいきなり達成できるはずもないため、ひとまず全文を読んで考え直しましょう。

私の説明を聞かない限り、「空"Emptiness, not Nihilism"」と慈悲は相容れないと思われる傾向がありますが、実は多くの教義とセットなのです。
大昔、仏教徒の中にも、「空」が他の教義を否定するのではないかという議論があったくらいで、理解されづらい歴史があります。
「空」の聖典である龍樹菩薩の中論・観四諦品(24章)にも、仏教の「四諦」や「四果」や「三宝」といった教義(分からなければそういう教義があると認識するだけでよい)は「空」で否定されず、むしろ「空」ありきでそれらの教義が立つとされます。
「四諦」などに限らず、慈悲であっても「空」が根本です(そのタネは"縁起")。
※典拠は中論24-20偈「若一切不空 則無有生滅 如是則無有 四聖諦之法」など(文意が分からなければそういう教説があると認識するだけでよい)

仏教の慈悲は、自分から他人への「抜苦与楽」のみならず、自他の悪をも抑制します。
それができねば、慈悲は慈悲でなくなります。
ただ自己や崇拝するものを装ったり、取り繕うだけの概念ではございません。
俚諺に「情けは人の為ならず」とあり、この"ならず"はナリ活用否定形なので「情けは人の為ではない、自分の為である」という意味となりますが、キリスト教などの慈悲は、所詮ここでいう「情け」の程度の粗末な美辞麗句に過ぎません。
自他は不二、善悪も不二、であるならば、仏教の慈悲とは他人への抜苦与楽のみならず、自分にも抜苦与楽があります(ただし小乗仏教では自分の抜苦与楽が本意である)。
自他に善をもたらして悪を打ち消します。



とはいえ、無論、仏教にだって素敵な教義(本覚思想など)を弄んで悪行を重ねる輩もいます。
しかし、それは多くの教理を知ったつもりで、実際はまともに理解していない慢心・不信心・無道心の者であり、また極少数です。
90年代のオウム真理教のみならず、戦国時代の日本では、愚かな民衆や僧侶までもが、一部仏教宗派の名のもとに戦闘に参加しました。
本来ならば「不生不滅」という「空」の思想に基づき、我が肉体が害されて滅ぼされようと結果論ですが、そういった宗派を奉じて戦闘に参加したことは、日本仏教を独自に信奉する私(未成年・広義の無宗教ですが)としても大いに省みるべき負の歴史です。

その「不生不滅」の理解は、原始仏教の故事が参考となります。
例えば、釈尊十大弟子の一人である目連尊者は「神通第一」といわれ、「神足」という瞬間移動などが使えますが、釈尊の涅槃も近い時、仏教を憎む外道(婆羅門・梵志)に殺害されようとします。
目連尊者は絶体絶命の危難を「神足」で脱するも、重傷を負っていたために同朋の元に戻ってから同朋にその原因を問われ、不可避の業による因縁を明かし、間もなく示寂されました。
また、釈尊は、故郷の人々が襲撃されると知って相手側に3度停戦を促すも、4度目を前に故郷の人々と相手側の深い因縁を知り、ついに停戦に入りませんでした(その後は相手側によって釈尊の故郷の人々への虐殺が始まる)。
「空」による戦闘の不参加は事実に明らかです。

※イスラム教のムハンマドは自分の命のために戦争を辞しませんでしたし、そもそも戦争"Jihad"して敵を滅ぼさねば死にそうになって説教もできなくなる人間が教祖では邪教そのものでしょう。仏教の釈尊や高弟たちが、婆羅門や六師外道や提婆達多などの迫害を受けても忍従された御事跡と、比べるに及ばない卑小な根性です。磔になって殺されたキリストも教祖として不十分であり、イエスのリザレクションは夢想です。己の命が惜しい常見のムハンマドに加え、キリストへの執着が強くて常見の教義を生んだクリスチャンも、「空」の理解などは絶無でした。

自分たちが殺されるとしても「不生不滅」、そもそも生きる我が身も死する我が身も、他人の身も、すべて「不生不滅」であり、「空」ですから、深い因縁があって殺されるならば受け入れるしかありません。
人間個人の生命とは最初から「空」であって、生まれも滅びもしないようなものです。
仏教に「生老病死」の苦が説かれていても、仮に説いたに過ぎず、「生老病死」もまた「空」です。
よって、例えば先ほどの目連尊者は、空の思想を理解していたため、死を恐れず(神足によって危難を逃れようとした経緯は仏教徒として生きる使命を自負していたためや相手に悪業を生ませないためか)、死に際しては苦しみもなく無余涅槃に入られたことでしょう。
※目連尊者の話も釈尊の故郷の人々の話も、増一阿含経(前者: 巻第十八 後者: 巻第二十六)を参照します。目連尊者の話については何と最後の偈の中に「不生不復滅」と一句があり、私の話どおり、「不生不滅」の理解を釈尊が示されていました



我が身への執着(我執)に気付かないと、宗教を奉じた戦争を起こします。
「神の名のもとに殺せ!」ではありませんが、やはり自分たちの宗教・宗旨・宗派に偏重したセクト主義があり、「空」を知らないままでは、その宗教・宗旨・宗派の教義の狭隘なる一部分だけを受け止めて戦闘に走ることは必定です。
無慈悲ですね、「空」を知らないで「慈悲」など、到底説けるものではありませんと分かります。
教理を学びきらなかった極少数の日本仏教徒や、西洋でいうと過去のキリスト教、現在のイスラム教(過激派)が、実際に具現化しました。
今のキリスト教であっても、独善的な反省が盲目的な「慈悲と称する偽善」を増長していますから、イスラム過激派の生みの親であり、過激派が台頭した根本原因です。

このように、仏教の「空」を知らねば、修羅の業による戦争を起こし、起こした者は地獄の境界のまま死後には地獄に堕ちる悲劇を歩んでしまいます。
ああ、なんと胸苦しいことでしょう。
彼らは、そういった仏法の真理・真諦には微塵も関わることがありませんでした。
そういった仏法の真理・真諦を知らない者たちが「外道」であり、自他に平和をもたらすことなく、己の解脱もままなりません。



最後に、「空」と「慈悲」が、より教義として密接に関係しあう理由を書きます。
お気づきの方はお気づきになるかもしれません。
目連尊者などは「不生不滅」という「空」を知りつつも、厭世的でなく、また虚無主義的でもなく、懸命に生き抜かれようとしていました。
自分も他人も、憎い人間も、憎んでくる人間も、家族も、国の支配者も、みな「空」です。
動物も植物もあらゆる物質も、人間の文明や言語や知識なども、全てが「空」です。

更に、自分の一生は「空」ですが、また何よりも大切です。
大事な自分の一生が空ですから、他人や、憎い人間や、憎んでくる人間や、家族や、国の支配者など全人類や、果ては動植物の一生も、みな「空」ですが、それも等しく大切でしょう。(事実はともかく仏教徒はこのように考えなければならない)
そして、誰でも大乗仏教でいう「仏性」があるならば、あるいは誰でも徳を積んで解脱ができるならば、どうしてその自他の生命をみだりに蹂躙できましょうか?(修行も解脱もできないように見える人間がいるという価値判断をひとまず捨てて仏教徒はこのように考えなければならない)
目連尊者も釈尊の故郷の人々も、生き延びようと懸命に戦われましたが、同時に、相手を傷つけず、殺さず、自分の生命への執着や生存への欲望に対しても戦われたのです。

「空」、「慈悲」・・・・・・このようなものであり、こうした考え方がそれぞれの教義を相互に活かしていく、そんな深遠にして俄かには理解しがたい仏教を、これからも私は「慈悲」のために広宣して参ろうと強く願いを発しています。
私のような煩悩具足ともいえる末世の凡夫には小慈小悲(自分の心を養えても他人を直接に救済できない小さな慈悲、仏・菩薩でもない衆生は誰しもこれが限度とされる)ばかりで精一杯ではございますが、一人でも多くの人が、真に「平和」という空想じみた、人類共通の理想を実現できる唯一の道を示す仏法の妙音に預かることがあろうと願ってやまない所存です。

こういった「空」の理解がないキリスト教やイスラム教の「慈悲」では、平和の実現も無ければ、常に同じ一神教同士の争いを発生し続け、どちらかを潰す(自他や善悪を分断する二分思考)までは解決しない上に、仮に片方が勝利しても、その中の派閥が争う展開は必定です。
今の時代は、核兵器など大量破壊・殺戮の兵器もあります。
そこでは、関与するほぼ全員が苦しんで死ぬか、文明破壊・人類絶滅の天変地異を待たない限り、争いの輪廻が断たれない悲劇を、再度、知ってもらいたく念を押します。
キリスト教やイスラム教が共存する文明で「平和」があるとすれば、それらの宗教の教条主義が消え、「民主主義・宗教多元主義」を立てて「みんな仲良し」という、宗教の形骸化くらいしかありません。
そんな「みんな仲良し」も、「空」が理解されないままでは絵空事に過ぎない夢想でしょう。



起草日: 20160803
「依空慈悲抄」?
思えば、戦後の日本も、そういった偏狭な慈悲を歌うキリスト教や西洋の人道思想に触発され、ただ中国や韓国に頭をペコペコと下げ、インフラ整備や莫大な投資を続けた(陰徳絶大)。
もし中国や韓国が日本を尊敬し、彼らも彼らの中の悪や非を自覚して抑制するならばよかったものの、実際は日本の寛容さに付け入ってその悪を増長している。
実例は枚挙に遑がないため、省く。
これも、偏狭な慈悲を歌うキリスト教およびそれを奉じている欧米(アメリカ・EU)が、中東やアフリカといった国々のイスラム圏の悪を増長させ、テロリストや過激派を生み出し、9.11テロやパリのテロなど、自分たちをも苦しめている現象と同一轍である。

同じ岐路に立たされている日本と欧米は、このキリスト教的な思想が元凶であると思うほかない。
日本も欧米も、自己陶酔のような反省で、中韓やイスラム圏を好き勝手に許して悪を見放しつつ(悪化してから米英仏露などが爆撃を行う始末)、自分たちの悪だけは強く戒めている。
中韓およびロシア・北朝鮮と、日本との問題は常態化しており、領土問題は勿論、拉致被害者であるとか、種々の問題は当面、解決の糸口が見えてこないばかりか、現状のままでは解決など夢のまた夢である。

やはり、自由・平等といった理念は相互が理解してこそ成立する。
悪を自覚して反省するにも、相手の悪をも責めて正さねば、公平ではない。
こうして相互の善悪を認めることで、初めて平和が成立するであろう。
この思考は、親子喧嘩を主題にして語った過去記事を参照されたい。



追記: 2016年10月24日
某サイトでの投稿に関連し、漫然と勉強する中に「慈悲」は3種類あるということをたまたま知った。
一般に「大慈大悲」という表現があり、状況によっては意味も変わるであろうが、3種類(三種)の慈悲は教理によって小・中・大が分かれている。
3種類とは「三縁」であり、慈悲の縁とするところ(対象とするところ)が3種類あるという。

まず小の慈悲が「衆生縁」の慈悲であり、「空」を知らずに衆生に対して起こす慈悲であり、本文中にもあるキリスト教や一般道徳で言われる程度の慈悲、情けの類である(ものによって「空」を知っていてもこれに当たるか)。
身近な出来事や人間関係などによって起こりやすい(私はむしろ仏教を学んでから改めて愚かしい親・他人などにかえって憐憫を感じるようになったので下記の大の慈悲があってこそ小慈悲も成り立つ一面はある)。
凡夫に多く残る煩悩が起こす慈悲である場合、好き嫌いの感情により、刹那的である=小さい慈悲と考えてよい。
中の慈悲が「法縁」の慈悲であり、自身の執着を無くしつつも「空」を中途半端に捉えた説一切有部の法有我や五蘊の有我に基づいた「いわゆる小乗仏教」において修行者が起こす慈悲である(とされる)。
小乗とされる阿含経・パーリ語経典に、「四無量心(四梵住)」としての「慈・悲(および喜・捨)」の修行が説かれる。
大の慈悲が「無縁」の慈悲であり、「空」を知ってこそ生じる平等の慈悲であり、私などは理性によって真似ができそうでも到底できはしない、仏・菩薩の大慈大悲である。

これらが小・中・大と名付けられる理由は、慈悲の平等さや盤石さに依ろう(本文説明の通り)。
このように「空」を知ってこそ広大にして強固な慈悲となる。
私の求めた答えが当日中、別の形で知ろうとは、仏法の不可思議なる利益を改めて感じ取る。

更に調べ直すと、空の聖人であらせられる龍樹菩薩の大智度論(ここでは文献学的な疑義を差し置く)巻第四十にもこの三縁慈悲(三種慈悲)について記述があり、大慈悲の「無縁」については「諸仏は善く畢竟空を修行するが故に、名づけて無縁と為す (諸佛善修行畢竟空故名爲無縁)」とある通りである。
大智度論は巻二十において、三縁を詳細に説いている(衆生縁の慈悲が「愛楽(あいぎょう)」によるなど)。



イエス・キリストさんが、実は空(心における縁起)を悟っていて一神教の神に仮託しつつ、慈悲忍従で処刑されたという発想は・・・。
いいや!仮にイエス・キリストさんが知っていても、「実際にその宗教で人々が幸福になるか?(抜苦与楽されるか?)」という問題に直面する。
例えば、日本の鎌倉時代で、法然上人の専修念仏が、国に害悪をもたらす教義・修行であるとして天台宗・法相宗(貞慶)・禅宗(栄西・道元)・明恵上人・日蓮大聖人などに非難されたわけである。
よしんばイエス・キリストさん(または高等批評でいう後世の聖書編纂者)が法然上人や親鸞聖人のように空の道理(縁起)を悟っていても、教化の中で明示されず(せいぜいルカ18章ヨハネ1章ローマ1章くらい)、明示されたところで歴史的なキリスト教は闘争的な一面ばかりが顕著であったろう。
日本仏教では、小乗も大乗も「一乗」であり、「平等に悟りが得られる(解脱ができる)」ことを高僧の誰もが知るが、本当に悟りが得られるかどうかは別の話だから、という前提で種々の論争があったわけで、この観点でキリスト教は、日蓮大聖人の「三証」のうち、百歩譲って文証・理証が良くとも、事証では好ましくない。
鎌倉仏教系の信徒でも、当記事で語るよう、武装をして宗派の教義を奉じながら流血の闘争に躍り出た点、畢竟、どんな宗教や時代でも、個人の精神が最重要だと言われてしまう。
個人主義の真意や、ヒューマニズムかも。



追記: 2017年9月21日
慈・悲・喜・捨という「四無量心(四無量行・四等心・四梵住)"apramāṇa citta (brahma vihāra)"」に関する見解は、萌えの法門で更に開示した。
萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・三会の擬古文や、四会の注釈にある。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/06/moetry.html#ideo4

後々、パーリ経蔵・長部や漢訳・長阿含経にある「三明経」などにある「慈ないし悲・喜・捨で一方~四方・上下・横・一切処を満たす」という教説を閲覧した経緯を執筆した。
それは2017年8月であり、2017年10月に以下のパーマリンクに投稿する予定である。
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/10/brahmaloka-sukhavati.html

以下、参考程度に抜粋し、上記リンク先のページにしていない説明をする。
Dīgha Nikāya 13 - Tevijjasutta (長部13経・三明経。以下は中部40経Cūḷa assapura suttaなど経蔵の随所に同じ形で見られる)
慈で一方・四方・上下・横・一切処を満たすことの教説→So mettā­saha­gatena cetasā ekaṃ disaṃ pharitvā viharati. Tathā dutiyaṃ. Tathā tatiyaṃ. Tathā catutthaṃ. Iti uddhamadho tiriyaṃ sabbadhi sabbattatāya sabbāvantaṃ lokaṃ mettā­saha­gatena cetasā vipulena mahaggatena appamāṇena averena abyāpajjena pharitvā viharati.

悲→ karuṇā­saha­gatena cetasā …
喜→ muditā­saha­gatena cetasā …
捨→ upekkhā­saha­gatena cetasā …

そのように慈悲喜捨の心を「自分が思う・知り得る世界」に平等・普遍に満たすということ(じっくりと入念に堅実に粘り強くひろげてゆくこと)が「慈悲喜捨の心の無量である状態=四無量心"apramāṇa citta"」であり、三明経によれば、現世で梵天と共にあり、来世に梵天へ転生する業となるようである(このために梵住"brahma vihāra"とも呼ぶ)。
上記パーリ文の引用にもappamāṇenaという語があり、それは「無量」を意味するサンスクリットの同義語"apramāṇa"であり、具格である(apramāṇa-cittaという複合語は共に名詞の語幹であるが持業釈"karma-dhāraya"で語順を替えて「心の"citta"無量なる"apramāṇa"+状態」と訳せられる)。
上座部仏教でしばしば唱えられる「パリッタ中の慈経"Metta Sutta"(元はスッタニパータ1章8経)」にも、上記パーリ文の要点が含まれる(ほかMettāsuttaというほぼ同名の経が増支部11.15経)。

無執着・無瞋恚にして能動的な慈悲も備えるならば、相当の理法を弁えて智慧・般若もあるので、解脱どころか事における成仏の道でもあろう。
それとも、慈悲喜捨とかの業ですらも個人の解脱のみを目的とした際には、「道の杖」とか「河を渡るための筏」に過ぎなかろうか?
解脱したいか、成仏したり菩薩と成ったりして衆生済度をしたいか、とは、目的"artha"の置き方の違い程度であって「本来は毫釐の差も無い」事柄だろうか?

2016年8月18日木曜日

各宗の修行はみな解脱の正道である場合、日蓮大聖人のご教示をどう受け止めるか

西洋のことわざに「全ての道はローマに通ず」があり、日本でも比較的知られよう。
仏教・仏道の「解脱(成仏・往生・涅槃などを総括)」もまた然り、と考えられなくはない。

例えば、江戸時代のとある僧侶は、「正法」という宗派ごとに相容れない概念について円満にする見解を示している。
即ち、座禅にせよ念仏にせよ唱題にせよ真言にせよ、各宗の修行は名聞利養(世間の名誉・利益)などを眼中に入れず、専心に修行すれば、みな解脱の正法となる、と。
無心に専心に物事に取り組めば、目標とするところに行き着くであろう、とは、誰でも一度は思ったことがあろう(勇躍の足、自ずから長安に到る・略、自作の漢詩)。
その目標を叶える結果を強く望んでもよいが、望みすぎるままでもよくなく、真面目に直向きに質実に今を生き抜けばよい(反面に仏道で無心なのではこれもよくない)。
同じ目標のためでも、ただ私やあなたの良いと思う手段"Way"を選べばよく、私が他人の選択"Way"を批判してする権限が無ければ、他人に私の手段"Way"を嘲笑される筋合いも無い、とまでお考えのようである(背景として江戸時代などは仏教各宗の論争"宗論"が多かった)。
そのように仏道修行を広い視野・・・宗教多元主義的に見れば、「一切修行・皆是正道」とも言えようが、やはり各宗は多少の排他的主体性も無ければ宗派の尊厳も無くなる。

※この江戸時代の僧侶(慈雲尊者・飲光)も、ああ述べた本意は「戒律(特に四分律など二百五十戒)を持つ修行」へ導くためであった。超宗派的ながらに、彼のこだわりが表れている。あの当時、多くの僧侶が小乗の戒から大乗の戒まで持とうとしておらず、宗論に交わる者はそこそこいる程度で葬式仏教化が進んでいた。結局、仏道に入らねばみな六道輪廻を繰り返すか、逆として真面目に仏道を進めばみな後生善処や解脱に至るわけで、単に超宗派的では仏教不要・修行不要の邪見に陥りかねないから独自のこだわりは必要か。俗に「鰯の頭も信心から」と言っても、永遠にそれではならない。仮に敬虔なキリスト教徒がいて異性や富裕に興味を持たず信仰・修道を熱心に続けても、彼に解脱はできない。無心で滅私奉公する軍人、または労働者でも、当然解脱はできないことと同じで、須らく仏智に依るべきか。そういう時、この僧侶であれば、仏道修行の中でも戒律を重視するわけである。私の漢詩で言えば「勇躍の足」のみならず、仏法の智も満足している必要がある。セクト主義も、排除しきってはならない。



私の信奉は何であろうか?私の選択"Way"である。
私は様々な経緯によって日蓮宗的な信心を選び、日々に修行(2015年末から毎日に朝夕の勤行を上げるなど)を続け、教学の中心も法華経や御書(日蓮遺文・御妙判)としている(元々雑駁な研鑽の中でも最近は中観派きどり)。
その信心と修行が、諸道の中の「最第一」にして「成仏の直道」であると信じるところである。
祖師にあらせられる日蓮大聖人は、宗教に詳しい日本の人々・仏教諸宗の人々ならばご存知の「四箇の格言」に代表される排他性の印象を持たれている。
先の記事で私は、その一面を取り上げつつ、「中道・和」を感じさせる教学の在り方(日蓮大聖人の法門を諸宗の亜流であると言うつもりはない)も示した。

日蓮大聖人の法門には、まず「五重の相対」という教義の判断基準があるが、そのうち「大小相対」・「実権相対」の上から見れば、先ほどの僧侶のような宗教多元主義もとい超宗派的な「正法」観は、邪義に当たる。
「大小相対」という大乗教・小乗教の区別は、大聖人御在世において問題とならないが、やはり「実権相対」において権大乗の経典と教理「爾前権教」やそれに依る宗派「権宗」については当時非常に多かったので、そういった「権宗」へ、大聖人は個々に破折されたのであった。
特に他宗派色の強い経典(浄土三部経・大日経など)は、大聖人の教説の根拠とならない場合が多い(法華経以外で主要な引用経典は大乗の大般涅槃経が有力)。このように、法華経(および大乗の大般涅槃経)を「実経・実教」とし、五時教判で法華経以前(已前)とされた大乗経典を「権経・権教」として明確に分別をし、末法では「実」の教理しか有効でないとする大聖人の法門(究極は「今末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し・ただ南無妙法蓮華経なるべし」)においては「権」のものに執着すると謗法であり、罪障を積んでしまうらしい。

ここでもう一点を付け加えると、日蓮大聖人がご教示の修行法に正確に随わねばならず、一分なりとも信心を欠かせば地獄に落ちてしまうという教説である。
「正直に方便を捨て(法華経方便品の引用)」
「但大乗経典を受持することを楽うて乃至余経の一偈をも受けざれ(法華経譬喩品の引用)」
「我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し(顕立正意抄・末文)」
「謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄に堕つべし(曾谷殿御返事)」

こういった言葉を、私としては、その実際に地獄に落ちるかどうか自体を云々していると思わない。
つまり、「それほどに純粋な心(信心・求道心)で用心して挑まないと、邪心が生じて道を外れたり、折角の位を退転しちゃうよ」という「教戒(教誡・教訓)」であると私は受け止めている。
無論、そう理解した時、好き勝手に心を移ろわせてもよいわけではない。
日蓮大聖人のこういったご教示も、完璧にはこなせないかもしれないし、色々な紆余曲折や邪心もあるかもしれない中に、完璧にやり遂げようという気概は第一に尊いと思う。
完璧主義のために、少しの失敗や邪心があるごとに大きな罪悪感や背徳感を起こしてしまう潔癖症みたいな思考に陥らないよう、バランスをも保てばよい。
何事にもこういった理解や姿勢は、継続の肝心となるのではないか。
ただ、こう私が語るメンタル面の話は、管見の限り、大聖人のお言葉では未見である。



私のこうした理解も、例えば日蓮正宗・創価学会・顕正会では邪道・邪義とみなされようか。
これらの大聖人のご教示が単なる理屈や観念論ではなく、文字通りの「不惜身命」や「身軽法重・死身弘法」や「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ」であるとし、その実践=折伏(彼らのいう破折屈伏・摧破調伏の意)を訴えている。
先の顕立正意抄にも「四悉檀(大智度論巻第一に言う説法の形式の4種類、悉檀"siddhānta"の原意は"成就・達成")」が挙げられ、このうちの「対治悉檀(3番目・薬が病原菌を撃退する勢いで相手の非を責める説法の形式)」のように強烈な折伏が、末法の世界で有効な手段であるそう。
それらは、哀れなる邪宗・無宗教の人々を「慈悲」によって救う精神で行うとする。
彼らの主張にも一理あるが、やはりそれは彼らの手段"Way"であり、機根低くして才覚にも乏しい私には至極困難であり、彼らを遠目に応援するだけとしておこう。

仮にも彼らと接触するだけで「勧誘される」とか「強引に入信させられる」とか「集団ストーカー被害者になる」とか「殺されちゃう」と思ってしまう人もいるであろうが、私はこの際、どうでもよく思っている。
いつも、禍福を結果論と思っているが、仏罰厳然たれば強く慚愧せねばならない。
いや、何事にも苦しみを覚え続ける私は常に自覚して反省し、改善への努力を続けねばならない。
個人的には、真諦から見た全ての現象には必ず原因があると思うも、俗諦から見れば原因は特別に挙げられないいわゆる「不条理」な現象・物事の方が断然多いため、「結果論」と思っておくことが一往は最善であるが、再往は真諦(十二因縁など)から見て全て悪しき我が生・業の果報と思う。
この真諦を踏まえて常に自覚して反省し、改善への努力を続ける姿勢は大事である。
無論、俗諦での原因も、単なる「結果論」として一顧だにしないという「思考放棄」を意味しない。
真諦の面も俗隊の面のどちらとも、しっかりと見つめて考えつつ、精神衛生上は気にしないことが修行者の道心を乱さないであろう、と言いたい。

さて、日蓮大聖人の法門は、きっと忠実に実践すれば、日蓮大聖人がご教示の果報、つまり即身成仏や一生成仏が得られるという。
まさに「如説修行」によってこそ、説の如くに果報が得られるのであろう。
ここまで引用したような多くの教説を根拠とした「如説修行」を、彼ら教団の信者は絶対的信心・急進的思想より、潔い「折伏」として展開しているであろう。
その急進的思想で革命的な布教活動・折伏闘争をする中に怨嫉や大難をも恐れず、勇猛精進をされている彼ら教団の中の信心深い人々は逞しい。
一方の私は、漸進主義を標榜し、これからも様々な思惟の中で実践の道筋が正され、いつの日かその果報に向かうことを仄かに願い続ける。

最後に、佐渡御書の「日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし、我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは、螢火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし、わらふなるべし。」というお言葉は、こんな漸進主義で「やはらかに法華経を弘」めんとする"ヤワ"な自分を戒めた言葉であることを耳に痛く思うと同時に、そういった彼ら教団の信者のような豪胆さも尊敬できる心情を表明したく思う。
進んで入会する意思は毛頭ないが・・・。
個人主義の現代文明にあって宗教・教団のしがらみを厭う、ヤワな現代人の特にヤワな人種に属する私は、もっと彼らに見習うべき一面を覚えてならない。



起草日: 20160727 「皆正法道抄」?

2016年8月11日木曜日

諸宗の教義と日蓮大聖人の法門 "八万四千法門総在"?

日蓮大聖人の法門についてはしばしば、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」という四箇の格言に代表される排他的なものと見られている。
加えて後世の関連教団が行う「折伏と称する強引な布教活動」で改宗の強要なども多いため、共産主義のように革命的であって同化(画一化)を強制する危険な思想に見られる場合も多い。
しかし、大聖人の法門を他の宗旨(小乗・権大乗・密教)などと共に知ろうとすると、四箇の格言などに並べて非難された様々な法門(小乗・権大乗・密教)と通底しているように感じられてくる。
それは、ある種の「中道」や「和」である。

表題にある「八万四千法門総在」という私による表現は、端的に言い換えると「オールインワン」である。
日本天台宗・比叡山といえば、「四宗兼学(法華の円教を中心とした禅・戒律・念仏・密教)」と言われるが、それは、別物を別物としつつ雑駁に取り入れた修行法である。
大聖人の法門は、それらやそれら以外の教義や修行を広く折衷していると僭越に愚見する私だが、大聖人自身は「日蓮は何の宗の元祖にもあらず・又末葉にもあらず(妙密上人御消息)」とお述べになっているわけで、ただ根本の「南無妙法蓮華経」を末法の世に弘めただけであると報恩抄などに示されている。
決して、新しい思想や奇怪な解釈、または既存の法門の二番煎じを述べたつもりはない、と。

大聖人の法門は、ある門流の場合、久遠実成釈迦牟尼仏を本仏とし、別の門流では日蓮大聖人そのものを久遠実成(久遠元初とも)の本仏とするよう、一見すると一神教に似ているように見られそうだが、日蓮大聖人は法華経の会座にいた多宝如来を始め、様々な仏・菩薩、十大弟子という声聞や、後の世に出現した龍樹・天親などの菩薩の敬称がある論師や天台・妙楽・伝教などに「南無(帰命)」を冠しているほか、天界の神々や魔王、密教の不動・愛染、日本の大師天照・八幡などの神までも分け隔てなく「十界の衆生」として曼荼羅御本尊の相貌に列している。
卑近な表現となるが、こういった多様性や共存のありかたは、「宗教多元主義」と言わないが、先述の「和」という日本の大事な心がよく現れているように思えてならない。
一切衆生はみな仏性があるから尊敬する・・・常不軽菩薩のようである。
みな等しく尊いという平等・不二の立場・・・無論、特別な尊敬対象(本仏・妙法という人法一箇の本尊)もあり、これは而二である。
大聖人にとって排除すべき事柄は、「南無妙法蓮華経」の根本から背いた枝葉末節の邪宗邪義であるとされていよう。
せっかくの仏性を勿体なくする(一切世間の仏種を断ずる)邪宗邪義が許せないといえよう。

法華経自体が排他的である、といった邪説を垂れる輩もいるわけで、見方次第では一理あるものの、それは皮相的な見解であろう。
法華経や大聖人の本意は「中道」や「和」に通じているものである、と念を押したい。
それはそうと、ここからは具体的に他の宗旨と照らし合わせて考察に入る。
浅学菲才・未熟者の謗りを免れがたい愚生ながらに事例を並べて参ろう。



  • 「南無妙法蓮華経」の唱題と「南無阿弥陀仏」の念仏
    • お題目の信心は、自力か他力か中道か
    • お題目の修行は、易行か難行か中道か

  • 「文底秘沈」と「密教(秘密に遺した教え)」(禅宗の「教外別伝」にも似る?)
    • 曼荼羅御本尊・唱題について様式の類例(明恵上人)
    • 合掌という手印(印契)を結びながら法華経の題目という真言を唱える

  • 一部門下にある己心本尊説・凡夫本仏説と唯心論的な禅宗の成仏観
    • 己心という内証が絶対でもなく、色相としての御本尊と不二
    • 凡夫の観心は御本尊なくして成り立たないとされる

  • 御本尊や仏性とは空か絶対的存在か・大聖人の見解
    • どこからどこまでが六師外道の教義となるか・寿量品所説の常住はどうか(調査不足・常楽我浄の四顛倒も四徳となる・唯識論の阿頼耶識と比べて空ではない第九識)
    • 身延派日蓮宗の荒行は外道修行か通過儀礼かパフォーマンスか"いのちに合掌"への自語相違か

  • 大聖人の御境涯は忍難慈勝にして頭陀(「内秘菩薩行・外現是声聞(外現声聞儀)」とは?)
    • 五戒などの戒律は保たず題目を唱える修行の日々を唯一の戒とす(飲酒の是非は?)

「中道」とは、「自力か他力か」という対立や「己心(内証)か色相か」という対立いずれにも当てはまり、大聖人の法門は「中道」を貫いている。これまで見た様々な教えの特徴も含まれるとすれば、「和」にも通じる。



概説すると、まず大聖人の仏法で肝要な教義・修行が、妙法蓮華経の題目を称える「南無妙法蓮華経の唱題」である。
およそ、一般的には「南無阿弥陀仏」と似ているように扱われるが、その「南無阿弥陀仏」という念仏は主に浄土真宗で「他力本願」と称するように、ただ阿弥陀仏の力で救済されるのみの代物でしかない(法然・親鸞さん以前の日本天台宗の念仏三昧などの念仏修行は真宗サイドから自力念仏と軽蔑されるし法然専修念仏義は旧来の念仏を認める明恵さんなどに非難された)。
日蓮大聖人の唱題も、法然・親鸞さんなどの念仏(専修念仏)も、余行(他宗らしい修行)を交えず、余念をも交えずに行うことが奨励されるか、強制される。
日蓮大聖人の言葉では「或は法華経を行ずる人の一口は南無妙法蓮華経・一口は南無阿弥陀仏なんど申すは飯に糞を雑へ沙石を入れたるが如し(秋元御書)」と、題目を唱えつつ念仏も唱えてしまえば「飯に糞を雑(まじ)える」ようなもので、推奨されないようである。

「他力本願」の「念仏」に対して「南無妙法蓮華経の唱題」が自力か他力かといえば、大聖人の「一大聖教大意」の教説を披見すると、「四性計」に定義された自力・他力・共力・無因力の「四力」のうち、「今の法華経=大聖人の法門」のありかたとして自力も他力も否定されている。
共力・無因力については説明を略しているが、同様の理論で否定されようものと拝察できる。
大聖人の「中道」の見地では、「四力」いずれの要素も含むが、いずれも絶対的でないため、絶対的に自力であるとか他力であるとか、共力や無因力であるとは区別できないとしておられる。

私の浅智から判断しても、自力でも他力でもないという「中道」である。
つまり、南無妙法蓮華経の教主である御本仏の慈悲は深くして救済の仏力法力も高いが、衆生も自ら唱えない限りは功徳が無いわけであるため、自力であって自力でなく、他力であって他力でない。
「慈悲」の概念自体が自利利他であると同時に、慈悲を受け取る側も受け取る心構えがなければ功徳を授からず、ただ慈悲を与えようとする者だけが功徳を積むのみとなる。
「広宣流布(ここでは妙法蓮華経薬王品の語)」といって日本を始めとした全世界へと大聖人の法門・妙法が必ず普く弘められるという教義も、「仏語は実にして虚しからず」や「委細に三世を知るを聖人と云う」と言われるように、「大地を的として矢を射れば必ず当たる」ことと同じく、必ず当たるとされている(諸法実相抄)。
これも本仏や妙法の仏力法力によって、諸天善神が国に災難(大聖人在世では大蒙古・モンゴル帝国からの侵攻・元寇)を起こし、そのために凡夫が目覚めて妙法を信受するとされているが、その単なる他力のみで広宣流布するのではなく、やはり凡夫たちもまた布教活動(某宗でいう折伏など)に邁進してこそ実現するという、自力も他力も不二の立場である「中道」そのものではないか。
よって、妙法に背き、誹謗までする者は地獄にも堕ちる・・・それは真宗の親鸞上人も同様の趣旨を語っている(正像末和讃)ため、見ようには真宗の念仏も自力・他力の絶対的に片方であると言えなくなる(他力本願も所詮はスローガンみたいなものだし)。

続いて、自力VS他力(または中道)ではなく、易行VS難行(または中道)という比較で考える。
題目や念仏の理想を端的に書けば、「題目は一心に信じて唱えると無量の功徳いっぱい即身成仏」であり、「念仏は一向に信じて唱えると現世の利益いっぱい極楽往生」である。
こう概観すれば、どちらも易行であることを歌っているが、反面、法華経に「難解難入・難解之法」とあったり、阿弥陀経にも「難信之法」とあるわけで、一応、そういった面から、特に法華経の真理は「不須復説」といった態度が、方便品で取られる。
しかし、その迹門である方便品ではそうされるが、本門においては「五十展転(随喜功徳品)」といい、法華経の真理を伝えて弘めることが奨励されている。
その功徳は、分別功徳品において「法華経の真理を弘める功徳は六波羅蜜の智慧波羅蜜以外の5つ全てを修行した功徳に等しい」とされ、随喜功徳品において「『人々を物質的・経済的に豊かにするばかりか小乗の説法で阿羅漢果を与えた大施主』の功徳は法華経の真理を五十番目に伝えられて喜んだ人の功徳の百千万億分の一くらい少ない」とされるほど甚大であった。
その、分別功徳品など所説の法華経=円教の功徳は、円教より古い教えである「偏教」の中で最も易行である阿弥陀仏の念仏よりも比較にならないくらい功徳が多いと、あの浄土真宗などで高祖として崇められる恵心僧都源信さんが往生要集・巻下で語っている(守護国家論を披見)。
よって、法華経の題目・唱題とは、念仏よりも易行であって功徳も大きいが、しかし逆縁の人(唱題する側と唱題を誹謗する側の双方)も多く、今生の中では難行とも言えるため、中道としておく。



その「南無妙法蓮華経(妙法蓮華経に南無・帰依する)」とは、経典の妙法蓮華経においても「妙法蓮華経という真実の教え(諸法実相・二乗作仏・女人や悪人の成仏・久遠実成など)を弘めれば功徳が六波羅蜜(菩薩の基本的な6種の修行)よりも広大である」と説かれるのみで単語自体は載らず、また、ほかの漢訳経典のどこにも載っていない。
これでは、根拠のない教えであると人々が邪見を起こし、信じてくれない。
「南無妙法蓮華経」の教義的な根拠は、「文底秘沈(開目抄: 文の底にしづめたり)」である。
つまり、妙法蓮華経などの経典には明文化されないだけで、教えは厳然と存していると大聖人は説かれている。
真言や陀羅尼や呪文を唱えて外道たるヒンドゥー教まがいの護摩を焚く密教に関しても、在世の釈尊が説かなかった「秘密の教え」であるから、文献学的にも教義的にも一見、仏教らしからぬ修行ばかりであり、胡散臭さプンプンだが、こういった教義的な根拠は類似しているとも感じる。

文底秘沈である南無妙法蓮華経は、大聖人が出世される以前の正師である「天台大師」も法華三昧懺儀の中で「南無十方佛(中略)南無妙法蓮華經 南無文殊師利菩薩・・・」と三宝や法華経の会座の衆生の中に題目を挙げており、この記述から天台大師自身は弘められずとも唱題の修行をしていたと、大聖人門下の間に伝わる。
そもそも、こういった記述が有ろうと無かろうと、大聖人は久遠実成釈迦牟尼仏および諸仏・諸菩薩・諸師(大乗仏教の馬鳴・龍樹・天親菩薩から天台・妙楽・伝教大師まで)がみな「南無妙法蓮華経」を唱えていた、と教示されている。
彼らが具体的に「南無妙法蓮華経」について述べられなかった理由は、まさに「正像末の三時」の立場で「末法」の時に弘むべき「南無妙法蓮華経」を、彼ら歴世の仏・菩薩・師は末法以前であるから述べず説かずにおいたとされる。

いわゆる「五重相対」とは、教義の優劣の基準であるのみならず、娑婆の仏である釈尊の説法・その十大弟子などの弘教が小乗の仏教(内外相対)であり、次の時代の馬鳴・龍樹・天親などの弘教が権大乗の仏教(大小相対)であり、次の時代の天台・妙楽・伝教などが法華経の一乗を奉じて一年三千を明かした実大乗の仏教(権実相対)などの「教相」にも通じている(報恩抄など参照)。
「文底秘沈」や「末法(後五百歳)に弘める」といった教義的な根拠を示されても、合理思考が強い方々には牽強付会であるように思われよう。
その場合は、真言密教・チベット密教もまた、教義的な正当性や遺伝の正統性が完全に崩れていることを考えたほうがよい。
大聖人自身も、大日如来を出世の由来などが伝わらない有名無実の仏とみなしている。
大日如来という法身仏が金剛法界宮と言う場所で秘密の教えを説法して金剛薩埵に授けたとか、龍猛という名の龍樹菩薩とされる人物が金剛薩埵が鉄塔に隠した秘密の教えを見つけ出したとか、空海さんが唐で正当な密教「純密」を受けて日本で大日如来の姿を現したとか、額面通りに取れば奇怪な話ばかり(最澄さんを相手に法論した徳一さんも空海さんに論難している)であり、禅宗の相伝説と同種であろう。
とりあえず、ここでは「文底秘沈」の教理である一念三千や南無妙法蓮華経が、密教の相伝や禅宗の相伝などに似ている感じがするという側面を示した。



禅宗といえば、特に道元さんを源流とした日本の曹洞宗で「只管打座」といい、無念無想といい、心身脱落といい、豁然大悟といい、単なる凡夫が座禅している状態でそのまま精神が「禅定」に入っているとみなし、それが仏の境地である、というかなり飛躍した成仏観が説かれている。
実際には、自分の思考を殺す無念無想などは虚無主義的である上に、その「エセ禅定」が実現できる人もそういないものである。
そもそも大乗の大般涅槃経の「一切衆生悉有仏性」の文を拡大解釈して人々が最初から仏であるといった教説もあるようだが、それらは全て邪義か、あるいは何らかの含蓄を持つ方便とも取れようが、邪義とみなせば私の浅慮かもしれないし、含蓄があると考えても思い込みに過ぎてしまう。
こういった教説を鵜呑みにしてしまったとき、「煩悩即菩提」のように、誤解が長じて仏教不要・修行不要として堕落しかねない。
日本の曹洞宗でなくとも禅宗全般が、日蓮大聖人から数々の側面より「謂己均仏」の増上慢であると非難されている(2016年6月20日記事の脚注1)。
※「一切衆生悉有仏性」について過去記事で私は、字面通りの意味がそのまま現実を表しているのではなく、方便のようなものや大乗仏教の極致をスローガンにしたもので、実際には天台教学でいう六即のように、仏教を知り、学び、修行をせねば仏性が無いに等しいと語った

その大聖人の法門の門下においても「此の御本尊全く余所に求る事なかれ、只だ我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり(日女御前御返事)」という御文を最大の根拠として自分が既に仏であるとか、御本尊や御本仏と同格であるとか、あるいは実際の御本尊を拝まなくてもよい、といった「己心本尊説」が生まれている。
場合により、「本覚思想」とも表現されるか。
この御文については、額面通りに捉えていけないことが明確である。

まず、己心という内証が絶対でもなく、色相としての御本尊と、その己心が不二である。
凡夫(特に末法の衆生)の観心は御本尊なくして成り立たないとされ、色相・外相としての御本尊ありきで、胸中・己心の御本尊が生じるものと捉えるべきか。
あるいは十界互具の理の事実存在や、己心の本来の清浄なもの・・・つまり「アマラ識(九識)」と言われるものを、その象徴たる御本尊の拝見と観心とによって覚るといえよう。
「胸中の肉団におはしますなり」に続く「是を九識心王真如の都とは申すなり」という一文を鑑みても、こう考えるほかない。
このあたりはまだ領解が浅いので、今は何とも言えないが、少なくとも御本尊不要であるとか、無神論的で自己神格化を誘導することなどがあってはならないと考える。
凡夫も仏の境涯になれるが、それは「因分」と「果分(究竟果分)」の区別があって不二だけではなく、而二の意義も立てられ、完全に御本仏と凡夫が同格であることは意味しない。
少なくとも、凡夫は御本尊ありきの観心・成仏がある、そういった理解が望ましい。
大聖人が御本尊を顕し、門下に広く授与なさったという御事跡から推して知るべし。



大聖人御図顕の御本尊は有り難く頂戴・受持する。
己心の仏界(十界互具だから九界までも?)を色相において顕した"もの(準体助詞)"であり、単なる形だけの"モノ・物(物体の名詞)"ではない。
色相において顕すことで己心の仏界(ないし九界?)を観ぜられるわけであり、外相と己心という「物質と精神」のような対立概念も「不二」である「中道」がここにも看取できる。
端的には「色心不二」や「物心一如」であるが、やはり御本尊を単なる形だけの"モノ・物"と思ってはならない。
ただ、中道の原義に基づくと「中道=仮名=空」であるし、物(色相)にせよ心(己心)にせよ執着してはならない・・・それは中論の所説に基づきすぎた原理主義的教義であり、単純に広義の「中道」、今までの「自力・他力」や「易行・難行」といった二元対立に対する「中道」という定義でよい。
また、日蓮大聖人の法門において信心を持つならば、そういった四法印・空の「第一義諦・勝義諦・真諦」に執着しても齟齬があってだね・・・。
この信心においては、広大無辺の功徳が具わる「唯一無二」、「絶対」、「末法万年から未来の果てまで不滅の大宝」として信ずべきであろう。

この信心は、仏教の「空」に背く外道義と見られるのであろうか?
あるいは「空」の理解とは別に、功徳を積む修行として両立させてよいか?
また、大聖人の法門において重要な法華経寿量品、そこに説かれる「常住」とは、常見であろうか?方便ではあるまい。どのような含蓄があるか?
諸賢の御教示を乞うばかりである。

※2016年11月~翌1月投稿の新しい見解→http://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/hokekyo-monteigi.html



外道といえば、日蓮大聖人と直接関係のない話に変わるが、身延派の日蓮宗には、大荒行という冬期の行事(毎年11月1日から100日間)があり、同宗の大本山・中山法華経寺にて行われる。
主に若い僧侶の通過儀礼であるが、志のある者はまた何度も挑もうとするらしい。
それで、特に若い僧侶・「初行」と呼ばれる初参加の者から、しばしば死者が発生している。
様々な意見や疑惑はあるが、この記事で取り上げるべきものがある。

歴史的に不仲である日蓮某宗は、この大荒行について「釈尊が禁止された外道・バラモンの酷烈な修行と同じであって大聖人と関係もなく、謗法呵責もしない癖にこんな修行を取る本末転倒」と非難し、「極楽寺良寛(忍性・後述)の如き尊敬を集めたがるパフォーマンス」と断じ、加えて「『いのちに合掌』という綺麗なスローガンと微塵も符合しない自語相違」とも嘲笑していた。
反論の形ではないが、日蓮宗の僧侶としては、釈尊が禁止された酷烈な修行に似る大荒行について「僧侶たる者、釈尊の6年間の苦行のようにこういった心身の苦悩を経験していかねばならない」と主張しているようである。
私自身は日蓮某宗側の主張に同感である上、娑婆で成道する前の釈尊が経験されたとしても、後の仏教徒が進んで取り入れる必要は無いように思う。
しかし、この際、取り入れたい者がどういう思惑であれ、仮にも彼ら修行者の菩提が養われるならば、自由に取り入れて構わないとも思っている。



さて、大聖人は多くの大難を耐え忍ばれ、ある時は、冬が極寒となる佐渡島に流されて現地のあばら家に3年もお過ごしになるなど、頭陀の行者でもある。
大聖人ご自身は「法華経の行者」であって頭陀に関しては触れることは無かったが、私は個人的にこの御振舞も敬うべきと思っている。
そういった頭陀の御振舞は、大聖人が自称される「法華経の行者」の所以である、大難を受けて法華経を身読・色読したという根拠にも通じている。

大聖人の法門は「末法無戒」ともよく言われ、事実、身延の山林に入られてからの大聖人は、信徒からの御供養のお酒なども口にされ、いわゆる不飲酒戒をお守りの様子ではなかった。
大聖人ご自身は御書の中で「日蓮は無戒の比丘なり」、「日蓮は(中略)持戒破戒にも闕て無戒の僧」とする記述があるが、「今日蓮は聖にも賢にも非ず持戒にも無戒にも有智にも無智も当らず」とする記述もあり、場合によって立場の示し方が変わっている。
それはそうとして、教義において考えれば、身延派の日蓮宗も、富士派の日蓮正宗も、分派した勢力や教団も、五戒から具足戒(二百五十戒)まで守ろうという教義はほぼ無い(個人レベルは別の話・具足戒なら四分律を持ったとされる深草元政さんなど)。

実際、日蓮大聖人の法門において戒律を持っても、伝教大師所説と伝承される末法燈明記には「設末法中。有持戒者。既是恠異。如市有虎。此誰可信。(御書では語句が異なる訓読文を四信五品抄で引用)」と書かれ、これが支持されている。
端的に言うと、末法の世(日本仏教では西暦1052年に当たる永承7年以降)では多くの戒律が時代遅れで、多くの僧俗にとって到底維持できず、その末法の世において戒律を保つ人がいれば、それは街の中に虎や原始人が現れることと同じくらい奇怪である、とされる。
伝教大師(とされる別人説のある筆者)の「此誰可信=誰がこれを信じられようか」という記述については当たらず、日蓮大聖人の時代にも「忍性(極楽寺良観)」という僧侶が橋の建設や難病患者救済などの慈善事業を行ったり、その「具足戒」を持って人々から崇拝されたとされ、この忍性さんを日蓮大聖人は偽善者として「律国賊」の根拠にもした。
他の御書には「正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し」や「伝教大師の市の虎の事」と示される。

しかし、同じく伝教大師が定めた「大乗の戒=円頓戒」では、先の飲酒に関連して言うと、自分が飲むことは当然禁止の上に、他人に飲酒を勧めたり強引に飲ませても同罪とする。
大乗仏教の慈悲・自利利他の精神においては、「勧善懲悪」が表れており、この戒相を考えると、まさしくその教理が反映されていよう。
この場合は「勧善懲悪」を通り越して「悪を勧めても同様に懲罰がある」と言い換えられる。
この円頓戒の原典は梵網経であり、厳密な名称は「十重四十八軽戒」とされる。
その梵網経では、美称として「金剛宝戒」ともされる。
なお、比叡山出身であって法華経を重んじた日本曹洞宗の開祖である道元さんは、この円頓戒を「仏祖正伝菩薩戒」と称賛して教義に取り入れた様子である(今の禅戒一如とのたまう曹洞宗僧侶がいかに守っているかは不明だが)。

ところで、日蓮大聖人が説示した唯一守るべき戒も「金剛宝器戒」と名付けられ、その中身は「ただ南無妙法蓮華経の題目を唱え続ける」というものであり、「金剛宝器(ダイヤモンド製で宝飾がきらびやかな器)」とあるだけに「金剛不壊(ダイヤモンドのように堅固で壊すことはできない)」の戒体であるという(教行証御書)。
同名でありながら、戒の中身・戒相や、戒体はかなり異なっている。
ともあれ、飲酒をされた説が確定している日蓮大聖人であるが、やはりこの末法において小乗の戒律が有益でないとの教理を信ぜしめるため、身延入山以降は信徒から頂いたお酒を嫌わずにお飲みになったと考えてよい。
こういった事跡も説法の体現である。
大難を数多く耐え忍ばれた日蓮大聖人というお方が、お酒を嗜み愛するなど考えられないため、やはり慈悲の説法と見るべきである。

※「慈悲」は、戒律を持つ思想の師匠からすると逆の形で現れる。昔は何らかの病気の時に飲酒で治療することも多く、僧侶もそういった場合に飲酒することは許された。しかし、そういった思想の師匠の場合、自身が病気にかかったときに飲酒をすると、病気でもない弟子が仮病などで好き勝手に飲酒するかもしれないという懸念から病気の時でも飲酒しないでいる。弟子や後世の弟子がそうなるくらいならば、自分が飲酒せずに死ぬべきであり、己の不飲酒戒も破らないから己の後生のためになる、と。

とはいえ、私自身の修養としては、お酒を飲むことが成人後もありえないと断言しておく。
閑居求道者たる私が身を挺してお酒を買い求めることは考えられようか。
第一に虚弱体質であり、酒類は心身とも壊す毒であると"体感"している。
多くの未成年者は、多少の飲酒経験があろうという前提で、私の飲酒経験も素直に示した。





最後に、似るべくして似たが、関連性は無いか、たまたま似た程度の例も挙げる。

末法思想関連
煩悩具足にして非僧非俗の親鸞さん
末法無戒思想(五戒など小乗の戒は瓦器"ガキ")
イエス死後に久しくして現れる偽預言者・アンチクライスト
末法に蔓延る邪宗・仏法の中に外道教義(我"アートマン"に類する概念など)が混ざる(古くはインドの犢子部など・今は日本の民間信仰)

教理がキリスト教みたいだ、主張がイスラム教みたいだ("みたい"と特別に書くわけだからどの宗派よりも相対的に類似性が高いという意味)、という他の例示は省く。
そもそも、そういった一神教は、日本の宗派と無関係(学説によっては大乗経典がキリスト教の影響を受けたというものもあるが確証もないし一説に過ぎない)であるから、戯論のようなものであり、論外であろう。
キリスト教やイスラム教について類似点を並べることをここではしない。



起草日 20160725夕