2022年5月30日月曜日

Draft: 2021-06-20 ヒッキー大学 OpenCourseWare

オレ引きこもり!OCWです。
Hikky University OpenCourseWare (HU OCW).
無関係: ヒッキー・カレッジ Hickey College (closed in 2018)
「おい引きこもり!OCです」たれぞう、大物YouTuber要素はありません。



・文学部
;多言語文学科、宗教学科、音楽科、地理学科。

・理学部
;数学科、化学科。

・総合学部
;生活学科、総合政策学科。
;見慣れない「生活学科」というのは、家政学部や医学部に相当する知識や技能の教養単位が含まれる。

・色々と準備中
;弁論演説、演劇!?マルチメディア。
;哲学や物理学のようなものは、全部または一部の学科の単位に含められている。
;情報技術 IT 関連の学科は、「大学という名の職業訓練校」の間で流行だとしても、無い。それも教養単位で各々に大なり小なり、含められている。



ヒッキー大学の学風に合う方法を求めると、「総合学部、総合学科(教養、リベラルアーツ系とも)」で、単位が色々とあり、その対応した授業がある、とした方がよい。
文学部でも理学部でも、歴史(主に思想史、科学史)と社会(主に法律)の必要なことを学ぶが、経済学や法学などの専門教育のための学部は無い。
音楽(文化兵器)と化学(テロ兵器)と宗教(仮の姿)とで、世界征服をもくろむ悪の組織と思考回路が近い?悪用される?
学校の形をしたアジトや軍事拠点というのは、フィクション作品に見られるが、ヒッキー大学はスクーリングを基本としていない。





2019年12月1日の集合知先生 (Dr. Sifazzi) 、講義内容ノートmus keyandchords.png
画像コンテンツ大量。

mus keyandchords.png を適当にのっけるだけ






起草日:2021年6月20日

「教材」「教科書」と呼ぶには、著作権の観点で問題である程度が高いものなどを「ノートに写した」という立場で、デジタルノートブック資料として公開しようと思った。
実用的に、実利的に、役立てばそれでよいため、これはこれで私自身で問題視しない。
ここでは、「オープンコースウェア (OCW, OpenCourseWare)」という扱いである。

固有名詞「集合知 (Sifazzi)」とは?
一般名詞で「しゅうごうち」と読むが、そこから歴史的仮名遣い「しふがふち」 *sip-gap-ti とし、 *siphapti → *sifattsi という具合に近似する音へ人工的な音変化 (sound change in linguistics, artificially) をさせた。
いわば、インターネットや活字書籍といった文献などがあまりにも多くてそれを教師の人格ある個体として扱いたい発想と、それが実在しないことという2点から生まれた架空の人物である。
一時的に見られたサイトからの複製行為を伴う場合、元の著者の作成行為に敬意を表するか、その著者の見解に基づくといった、意思表示のためには、ウェブページURLや文献IDなどをノート中に載せる必要がある。
これは謝意や検証可能性に相当し、学問で基本的な注意事項である。

師弟関係は良いものだが、それを持つことができない立場の人も現代には多い。
宗教家・庭野日敬「自己流はクズ」(立正佼成会の教え)、仏教学者・辛嶋静志「独学はクズ」(創価学会、浄土真宗の教え)ということであれば、そういうわけで、彼ら「旧世代すぎる死人たち」は日本国憲法「信教の自由、学問の自由」を蹂躙している。
ただでさえ助けがないのに、意思を持たずに何もせず生きろ、とな?
道心、向学心で生きる人に対して目的を果たせぬままに自殺を煽っているも同然であり、「生存権」さえ否定するようなものである。
不幸な殺人カルト(牛の自警団に同じ)専門家に従属するバクティ依存関係 (bhakti) がお好きならばご勝手に、という感じである。
私の「ヒッキー大学」および「集合知先生 (Professor or Dr. Sifazzi)」という考え方は、社会的包摂の目的を兼ねている。

善き師・善き友、世俗的な意味においても私などは惨めでありますから、小学校の半ばより乏しくありながら、同時にその善き師や善き友を得られることの何と有難いことか、誰よりも知っておりました。
今、また独りでかたじけなくも仏教を学んでいて、やはり仏道を共にする人間がいれば何より心強いことを実感します。
このように、善知識・善友の価値を訴えることは、これまた小乗や大乗の別はございません。
日本でも有名な言葉のパーリ語原文です→Ekassa caritaṁ seyyo, natthi bāle sahāyatā, Eko care na ca pāpāni kayirā, Appossukko mātaṅgaraññe va nāgo.

[...]
大乗においては、仏道に背く者が世間の善行をしようと「悪」であるとされ、小乗においては、世間の道徳に背いたり欲が強くある者が悪とされます。
どちらにせよ、そのようなものと親しみ近づくくらいならば独りでいろ、独り善良であれ、と説いておられますが、それはあくまでも「寧ろ」と消極的な扱いです。

[...]
この"Khaggavisāṇa (環境依存文字抜き: Khaggavisaana)"の章は日本で「犀角独歩(反N博士派いわく独歩如犀)」として有名なもので、上2つは本文中盤の意を表す。 57においては孤独の良さを説きながら、続く58ではやはり優れた人間を友とする価値を説いている。

—某サイト投稿 2016/1/31 15:23:27



P.S.: 2022年2月28, 3月1, 2日に会ったTさんや、2014年まで「監禁王子 酒鬼薔薇聖斗 ネオ麦茶 NEVADA」と名乗った者も、中卒や高校中退の最終学歴から大学に入学する意思を抱き、実現したのだが、彼らと違って環境的要因に強く制限された私は、いくらおだてられても大学に進学する意思はない。
私の「教育を受けさせる義務の被教育者の権利」が義務教育の期間において著しく妨げられ(いじめ、私を埼玉県公立中学校から追放する種々の謀略;2014-11-21記事)、その後も、私の「学問の自由」が社会的地位と人間関係と金銭によって現実に制約されるような状況で、私が進学しても、社会正義のためにならない。
私と異なる人たちの立場は、その立場でどうぞ進んでください。
一般社会のガクモンとは別に、私は必要な学習を主体的に行っている。
学位取得論文の提出も、中卒や小卒の身分で飛び級の博士号獲得など、制度上ありもしない、と日本国社会が雄弁に語る。

学問の現場に関する事情には、「人権侵害」もある以上、心の障壁なく、興味がある;その話をしよう。
日本国では、人権侵害を伴った不正競争による蹴落とし合戦が絶えないので、その出し抜きした人が世の中の役に立つかと言えば、長期的には否である。
不正がもし発覚すれば、女性と浪人生を差別した医学部不正入試事件に見るように、大学の評判に傷がついたり、余計な仕事をせざるを得なくなる。
これも、既得権益の強い保護者たちのうちに「現役合格じゃなきゃイヤだから金を出してでも合格させたい」などという潔癖思想(世間体、見栄、虚栄)が蔓延しているため(それだけでないにせよ)、不当な優遇や減点が伴ったのであり、学生個人が何を考えていようと、こういう教育現場の実情が国益なるものを損ねていることは明らかである。
2019年、それら大学のうち、東京医科大学、順天堂大学、日本大学、北里大学、神戸大学、岩手医科大学、金沢医科大学、昭和大学が「受験生合格枠借金」を一部減免つきで返済した運びになる(その後は最長5年かけて募集人数を削減するそう)。

私が学術を独自に進めている間にも、高等教育の学費というものが世帯の状況に取って相対的に高いものとなった。
2020年における日本学術会議と内閣総理大臣・菅義偉の間の攻防に関して、「学問の自由」の侵害が俎上に載せられたが、日本国の高等教育帰還の内情にこそ不自由さと権利侵害の側面を自発的に見出し、政治へ助言すべきである。
これだと、我が故郷・埼玉生まれの梶田隆章会長とは少なからず近しかったはずの土井正男が、「我が現住地にして梶田の師・小柴昌俊も生まれた豊橋市」や、「その隣のに位置する故郷・田原市」に何も残すものなく、日本国で学者の卵を育てずに中国へ渡ってしまった結果を、非難することできない。
このような頭脳流出の増加と、博士号取得者数の減少を改善する成果につながることが、日本国の上流の人たちの努力で可能だとは思えない。



2022年5月15日日曜日

文化と芸術における共通モチーフの起源に関する考察と派生 (derivation) の論理学

あらゆる大衆文化 (popular culture) およびファインアート (fine art, five fine arts) の領域では、何らかの「共通モチーフ」が見いだされる。
それらは、「偶然似たのだ」と思うにはあまりにも不都合なほど任意の2つ以上の客体の間で多く見いだされる場合がある。
この記事では、それらに関して縷々と羅列することをしない。
数多の言語の諸要素、音楽の諸要素、文学の諸要素、美術の諸要素について、一般世間においてすでに報告されている中から、および読者(あなたがた)自身の経験から、あなたがたはどういう例が有るかを手に取っていただきたい。

そういった例に関して、「一方が他方をパクった」と一般世間で言われることが、割合、ある。
本気でそのように断定して攻撃的な論調になる場合もある。
今回は、それらの疑わしい文化的成果物である客体を整理する論理的な方法を提示したい。
それにより、文化研究全般で「パクリの文化」もとい、人間の認知的な活動の性質の特徴から文化を考察する一助になることを期している。



まず、以下のような素材と、区別可能な記号を用意する。
任意のモチーフ: A
それよりも過去および同時期のモチーフ: B
A, Bよりも過去であり未知のモチーフ: C
その作品: A', B', C' (A'の読み方:エーダッシュ;Unicode的にはA′と表記される)
共通モチーフ: M1

● モチーフA, B (= 作品A', B'に見られるもの) には、共通点がある (M1)。

・Aは意図的にBを模倣したか?
→何らかの理由で、然(正)。
→何らかの理由で、否(負)。

・Aは偶然Bに似たか?
→何らかの理由で、然(正)。
→何らかの理由で、否(負)。

・もっと古い未知のモチーフCが両者もしくは片方の起源なのか?
→何らかの理由で、然(正)。
→何らかの理由で、否(負)。

・A, B, Cは全て偶然(不干渉に、無関係に)似たか?
→何らかの理由で、一部が然(正)。
→何らかの理由で、否(負)。



The motifs A and B in the works A' and B' have something in common. (Ja: 作品A'とB'にあるモチーフAとBには、共通点がある)

Is A intentionally imitating B? (Ja: Aは意図的にBを模倣したのか?)

Is A derived from B? (Ja: AはBから派生したものか?)

Do A and B have a common origin, like the older C? (Ja: AとBには、もっと古いCのように、共通の起源はあるのか?)

Are A, B and C similar isolatedly? (Ja: A, BとCは全て孤立して似たのか?)



例えば、次のように文学を分析する:
作品Aの中の「主人公の設定や背景という任意のモチーフA」は、過去の作品Bの中の「主人公の設定や背景というモチーフB」と同一であった。
Aは、Bからのパクリと見るか?
Aは、Bに対する偶然の一致であるか?
中性的には (neutrally, ne + uter = neuter, neither; 排中律の逆)、どちらも結論として妥当でない。
もしかすると作品C'におけるモチーフCのような、もっと古い未知の例があるかもしれない。
しかし、Cが、AとB両者もしくは片方の起源であると決める必要性も無いし、AとBとCが偶然(不干渉に)似たと結論を下しても、議論が続けられない。
「そういうモチーフAをきっかけとしてA'の作者はどういう作品を作ってゆきたいと考えたか?」、として文学的な考察を加えることになる。

パロディにしたい場合もあろうし、よく知られたモチーフやありきたりなモチーフに対する換骨奪胎と昇華とで独特な作風に挑戦したい場合もあろう。
私はA相当の種々の実例について、そう思われるものをいくつも見てきた。
もし読者や評論家がAを「パクり」と呼ぶならば、ほとんど非難めいた目的である。







起草日:2022年4月29日

今月から私は「共通モチーフ」という造語の語句を用いるようになった。
一見すると、奇妙ではあるが、「共通起源があるか一方が他方の起源であると疑われるモチーフ」という意味合いを当初は想定していた。
共通であって同一ではない、とも言いたい。
公開した文としては、動画 https://www.youtube.com/watch?v=DI_kqmfpwSQ の説明文で追記した中に、実例が記されている。

これを英語で表現すると"a common motif", "common motifs"あたりになる。
もし"common motives"とすれば、「放火犯に最も共通する動機6つ」"The 6 Most Common Motives for Arson"などと用いられている。
芸術用語の「モチーフ」は、確かに翻訳して「動機」と呼ぶこともできるが、英語では"motive", "motif"と異なる時代ごとのフランス語系の語彙(フランス語と中期フランス語の motif, 両者ともおおもとはラテン語 motivus)の借用をしていることで、使い分けがされる。
芸術用語および音楽用語として"motif"の意味に"motive"と呼ぶこともできるが、反対に、法律用語としての「動機」"motive"の意味に"motif"と呼ぶことはできない。
2つの英単語"motif", "motive"は比較言語学における「ダブレット (doublet)」であり、かつ、いわば共通モチーフの「派生 (derivation)」の論理が言える。
そもそも、私が専攻分野でいうと仏教学 → 言語学 → 音楽学の順で人文科学をはしごしたから、こういう話ができる。

なお、派生と同じ要素を持つ"derivative"という単語は、「微分」を意味する用法が最も多い。
微積分 (calculus) の歴史で、ライプニッツとニュートンが同様の「基本定理」をほぼ同時期に発表したことも「ニュートンの未発表論文をライプニッツが盗作した」と過去に言われ、イングランドとヨーロッパの科学界で意見が割れていたそうだが、これは後に「それぞれが独立で発表した基本定理である」と結論が下された。
「パクり」でなければ、「偶然」と一蹴するにも容易ではないことである。
「パクり」でも「偶然」でもないならば、やはり、科学界の研究が進んできた当時の傑出した人材2名が、その当時の状況から同様の結果にたどりついたという、ある種の必然性であろう。

私がBACH動機で独創した例 (ポピュラー和声のベースライン、コード進行) bar 102 in Song20210217T1757

音楽用語の「モチーフ」は、BACH motif, BACH動機(BACH主題)のようなものを指す。
ドイツ音名での B-A-C-H, 小学生向けに言えば「シのフラット、ラ、ド、シ」が、順に譜面の上の音符にされる。
このモチーフを、ほかならぬ J.S. Bach (ヨハン・ゼバスティアン・バッハ) 本人が頻繁に使っていたが、そのような音符の並びがドイツ語音名である場合、自身のファミリーネームと同じであると意識していたのかは直接の証拠が無いと思われる。
無論、ドイツ語の文化圏でそういう背景を持つ人物が五線譜などに音符を刻む以上は、ありえなくもない。
また、それ以前の時代にどれくらい定着していたかも私の方では定かでない。
こういう音楽的要素への興味も、当記事の作成経緯にある。
BACH動機をバッハへの尊敬によって用いる例が、多くの作曲家にある。
そのことを学んでから気づくことは、「五感を通して脳神経で良いと思ったものを使いたいという普通の発想」や、天才的なひらめきや、妥協や、インスピレーションなどとは、別の種類の価値観がその用例の原因にあることであろう。
無論、これを「パクリ(不道徳な模倣、侮蔑的)」と言う人はいない。
個別の例を見る場合、尊敬を半分に、妥協を残りの半分にしている可能性もある;脳内の手に取りやすいところに、そのモチーフがあった場合。

文学でも、昔から様々な共通モチーフが見られ、本題の論理式でいったん整理してもらってから、文献学や考古学の観点で研究したり、直接の証拠が得られるかどうかの判断をする必要がある。

・古典的なインド論理学(ニヤーヤ系)および仏教論理学(因明論 hetu-vidyā)で、頻出する「火と煙」の比喩(メタファー)
;同じたとえを用いても、派閥により、真理に関して異なる見解を示すことになる。

・大乗仏教の法華経系経典の "Adhimuktiparivarta"(信解品) における長者窮子の譬喩と、キリスト教の新約聖書「ルカによる福音書」15章における放蕩息子(放浪息子)の寓話
;仏教やキリスト教に数あるたとえ話があるうち、アヴァダーナといわれる人物同士の物語(ストーリー)による譬喩。前者は弟子から師匠に説き、後者は師匠から弟子と敵対者に説く点で、話の経緯(仏教でいう教説の因縁)が違う。内容としても、登場する事物や、時間の長さ、たとえの意味するところが違う。
;エイジズム(年齢差別)、ファミリズム(家族差別)、ファミハラ。キリスト教でも仏教でも他のインド宗教でも、「盲人、生盲」を引き合いに出したエイブリズム(障害者差別)表現による短いたとえ話や故事成語の種類が多くあり、酷似するものも見られる。

A parable of a lost son can also be found in the Mahayana Buddhist Lotus Sutra.[30][31] The two parables are so similar in their outline and many details that several scholars have assumed that one version has influenced the other or that both texts share a common origin.[32] However, an influence of the biblical story on the Lotus sutra is regarded as unlikely given the early dating of the stratum of the sutra containing the Buddhist parable.[32]

—英語版Wikipedia - "Parable of the Prodigal Son", oldid=1087116352.

・「永遠の幼児(=純潔さ)」を意味する、上座部仏教のサナンクマーラ Sanaṅkumāra 関連経典と、ヴェーダ宗教のウパニシャッドやマハーバーラタのサナトクマーラ Sanatkumāra および更に後世プラーナ文献などの同名人物
2018-02-10などの過去記事に頻繁に例示してきた。神智学という近代的な運動におけるサナトクマラ Sanat Kumara (および日本での鞍馬 Kurama 云々) については、宗教学的に無関係。
2022-04-09記事では、名前の意味からラテン語の "puer aertenus", "puella aeterna" に比較している。

これらはストーリーにおける共通モチーフや、人物設定における共通モチーフに関する例であり、後世の数多の文学作品でも「ストーリーや人物設定における共通モチーフ」というものを私は見いだした。
例えば、作品A'の中の任意のモチーフAは、過去の作品Bの中のモチーフBに酷似していた。
中性的には、AはBのパクリと見ずに、反対に、偶然の一致であるという結論にも終えない。
「そういう設定AをきっかけとしてAの作者はどういう作品を作ってゆきたいと考えたか?」、として文学的な考察を加えることになる。
これこそ、モチーフ=動機の、作家やクリエイターの心中における真意である。


2022年5月5日木曜日

2022年4月中の日記メモ

2020年4月から続き)本文をコメントアウトで公開します。
ソースからご覧ください
ご不便をおかけします。

●口上
日記メモは学問・宗教・生活のトリレンマである(2019年以前の文言、復活!)。日記メモにはその便宜のために定型的な表現と語句を含んでいるが、それらは広く「日記メモの用語と解説」ページに説明がされている。

●私感
前年12月の鉄道利用日数の多さ=6つに比して、当月は1つも無かった。
措置の例外として公開する当月の日記メモ:27日。

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ソース公開措置の例外、27日の日記メモのみ通常公開
2022/04/27

本日4月27日は0時3分にPCをシャットダウンして就寝し、8時44分に起床した。就寝の間、次のようなメモをスマートフォンで記した:『0時1分、私がトイレにいる最中、雨が劇的に強まった。0時26分、雷。最近「去年春のある夕にゴロピカガッシャーンボカバカと落雷がすごい日があったように、4月にそういう天気が一度は無いと、周期的なそういう天気の遅れとして5月に発生し、私の外出行動社会的活動が妨げられるおそれがある」と思っていた。なので私のインドア作業が重要である4月中に発生してほしかった。今がその時か?0時27分から1分以内に2回の大きな稲光が観測され、その後も3分間で10回ほど稲光が観測された』。起床までに5種アラームを聴いた、と1度分も記憶していない。また、「アラームを聴き過ごした」というスマートフォンの通知は無いし、アラームがオフになっているのでもない。就寝時刻が同日0時以降であるのも含めて、何もかもが冬行動(前哨戦のワクチン接種の時期を含む)以降に無かった事態である。しかも、家の他人1名が自動車で通勤していない。これは前日の配達物の整理にかこつけて遅刻するつもりなのか、あるいは車内の荷物1点が屋内に運び込まれた経緯から、車検の業者が来るのを待っているとかなのか、不明である。9時0分からゴミ出しのために外出した。指定された種類のごみと明らかに異質な、樹の枝や葉っぱが普通のごみ袋の上にあり、それも、袋などでまとめられもしないで捨てられている。捨てた一個人の頭がアレ(空気を読めない)だったとしても、この住宅地でこれが横行するのか、と辟易する。相変わらず、中心市街地でも自宅近辺でもミラまちでも、530のまち、530運動の意識が高いという印象ではない。収集の担当者や集積場を提供する家の人間にとっては、かなりの苦労になる、と私は思う。彼らは慣れている可能性もあるが、市の上層部が市民に対して認識する530意識と、実際の街の530意識との温度差が強い、と私は感じる。

11時15分、市外局番の電話番号から着信があり、おそらく知っている人だろう、と私は思った。出ると、例の精神保険福祉士・杉本さんである。どうも話をしたいということだが、意図がよく分からないので、どういう日程なのかを尋ねた。今日にでも、特に夕方ということで相手は話したが、急すぎて寝耳に水である。私は色々と忙しい上に、話したいことは見当たらない、と伝えると、相手は困っていた。母親がそういう意向でいるのかを尋ねると、そういうことであると相手は返答した。私は当人から何も聞かされていない、と話し、杉本さんは、当人に伝えるということと、話の終わりの口上を言って電話を切った。母親に私は以前から、「無駄な横やりを入れるな、要求された支援には快諾しろ」、と口酸っぱく伝えている。この期に及んで世間の職業の人に余計な業務を増やすことをやっているのであれば、誰もこのトラブルメーカーババアを救うすべはない。「杉本さんら精神保健福祉士のカウンセリングは、オマエみたいなガキ大人 (kidult コドモトナ) が受けろよ」。14時30分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、15時52分に自室へ帰った。