2022年5月15日日曜日

文化と芸術における共通モチーフの起源に関する考察と派生 (derivation) の論理学

あらゆる大衆文化 (popular culture) およびファインアート (fine art, five fine arts) の領域では、何らかの「共通モチーフ」が見いだされる。
それらは、「偶然似たのだ」と思うにはあまりにも不都合なほど任意の2つ以上の客体の間で多く見いだされる場合がある。
この記事では、それらに関して縷々と羅列することをしない。
数多の言語の諸要素、音楽の諸要素、文学の諸要素、美術の諸要素について、一般世間においてすでに報告されている中から、および読者(あなたがた)自身の経験から、あなたがたはどういう例が有るかを手に取っていただきたい。

そういった例に関して、「一方が他方をパクった」と一般世間で言われることが、割合、ある。
本気でそのように断定して攻撃的な論調になる場合もある。
今回は、それらの疑わしい文化的成果物である客体を整理する論理的な方法を提示したい。
それにより、文化研究全般で「パクリの文化」もとい、人間の認知的な活動の性質の特徴から文化を考察する一助になることを期している。



まず、以下のような素材と、区別可能な記号を用意する。
任意のモチーフ: A
それよりも過去および同時期のモチーフ: B
A, Bよりも過去であり未知のモチーフ: C
その作品: A', B', C' (A'の読み方:エーダッシュ;Unicode的にはA′と表記される)
共通モチーフ: M1

● モチーフA, B (= 作品A', B'に見られるもの) には、共通点がある (M1)。

・Aは意図的にBを模倣したか?
→何らかの理由で、然(正)。
→何らかの理由で、否(負)。

・Aは偶然Bに似たか?
→何らかの理由で、然(正)。
→何らかの理由で、否(負)。

・もっと古い未知のモチーフCが両者もしくは片方の起源なのか?
→何らかの理由で、然(正)。
→何らかの理由で、否(負)。

・A, B, Cは全て偶然(不干渉に、無関係に)似たか?
→何らかの理由で、一部が然(正)。
→何らかの理由で、否(負)。



The motifs A and B in the works A' and B' have something in common. (Ja: 作品A'とB'にあるモチーフAとBには、共通点がある)

Is A intentionally imitating B? (Ja: Aは意図的にBを模倣したのか?)

Is A derived from B? (Ja: AはBから派生したものか?)

Do A and B have a common origin, like the older C? (Ja: AとBには、もっと古いCのように、共通の起源はあるのか?)

Are A, B and C similar isolatedly? (Ja: A, BとCは全て孤立して似たのか?)



例えば、次のように文学を分析する:
作品Aの中の「主人公の設定や背景という任意のモチーフA」は、過去の作品Bの中の「主人公の設定や背景というモチーフB」と同一であった。
Aは、Bからのパクリと見るか?
Aは、Bに対する偶然の一致であるか?
中性的には (neutrally, ne + uter = neuter, neither; 排中律の逆)、どちらも結論として妥当でない。
もしかすると作品C'におけるモチーフCのような、もっと古い未知の例があるかもしれない。
しかし、Cが、AとB両者もしくは片方の起源であると決める必要性も無いし、AとBとCが偶然(不干渉に)似たと結論を下しても、議論が続けられない。
「そういうモチーフAをきっかけとしてA'の作者はどういう作品を作ってゆきたいと考えたか?」、として文学的な考察を加えることになる。

パロディにしたい場合もあろうし、よく知られたモチーフやありきたりなモチーフに対する換骨奪胎と昇華とで独特な作風に挑戦したい場合もあろう。
私はA相当の種々の実例について、そう思われるものをいくつも見てきた。
もし読者や評論家がAを「パクり」と呼ぶならば、ほとんど非難めいた目的である。







起草日:2022年4月29日

今月から私は「共通モチーフ」という造語の語句を用いるようになった。
一見すると、奇妙ではあるが、「共通起源があるか一方が他方の起源であると疑われるモチーフ」という意味合いを当初は想定していた。
共通であって同一ではない、とも言いたい。
公開した文としては、動画 https://www.youtube.com/watch?v=DI_kqmfpwSQ の説明文で追記した中に、実例が記されている。

これを英語で表現すると"a common motif", "common motifs"あたりになる。
もし"common motives"とすれば、「放火犯に最も共通する動機6つ」"The 6 Most Common Motives for Arson"などと用いられている。
芸術用語の「モチーフ」は、確かに翻訳して「動機」と呼ぶこともできるが、英語では"motive", "motif"と異なる時代ごとのフランス語系の語彙(フランス語と中期フランス語の motif, 両者ともおおもとはラテン語 motivus)の借用をしていることで、使い分けがされる。
芸術用語および音楽用語として"motif"の意味に"motive"と呼ぶこともできるが、反対に、法律用語としての「動機」"motive"の意味に"motif"と呼ぶことはできない。
2つの英単語"motif", "motive"は比較言語学における「ダブレット (doublet)」であり、かつ、いわば共通モチーフの「派生 (derivation)」の論理が言える。
そもそも、私が専攻分野でいうと仏教学 → 言語学 → 音楽学の順で人文科学をはしごしたから、こういう話ができる。

なお、派生と同じ要素を持つ"derivative"という単語は、「微分」を意味する用法が最も多い。
微積分 (calculus) の歴史で、ライプニッツとニュートンが同様の「基本定理」をほぼ同時期に発表したことも「ニュートンの未発表論文をライプニッツが盗作した」と過去に言われ、イングランドとヨーロッパの科学界で意見が割れていたそうだが、これは後に「それぞれが独立で発表した基本定理である」と結論が下された。
「パクり」でなければ、「偶然」と一蹴するにも容易ではないことである。
「パクり」でも「偶然」でもないならば、やはり、科学界の研究が進んできた当時の傑出した人材2名が、その当時の状況から同様の結果にたどりついたという、ある種の必然性であろう。

私がBACH動機で独創した例 (ポピュラー和声のベースライン、コード進行) bar 102 in Song20210217T1757

音楽用語の「モチーフ」は、BACH motif, BACH動機(BACH主題)のようなものを指す。
ドイツ音名での B-A-C-H, 小学生向けに言えば「シのフラット、ラ、ド、シ」が、順に譜面の上の音符にされる。
このモチーフを、ほかならぬ J.S. Bach (ヨハン・ゼバスティアン・バッハ) 本人が頻繁に使っていたが、そのような音符の並びがドイツ語音名である場合、自身のファミリーネームと同じであると意識していたのかは直接の証拠が無いと思われる。
無論、ドイツ語の文化圏でそういう背景を持つ人物が五線譜などに音符を刻む以上は、ありえなくもない。
また、それ以前の時代にどれくらい定着していたかも私の方では定かでない。
こういう音楽的要素への興味も、当記事の作成経緯にある。
BACH動機をバッハへの尊敬によって用いる例が、多くの作曲家にある。
そのことを学んでから気づくことは、「五感を通して脳神経で良いと思ったものを使いたいという普通の発想」や、天才的なひらめきや、妥協や、インスピレーションなどとは、別の種類の価値観がその用例の原因にあることであろう。
無論、これを「パクリ(不道徳な模倣、侮蔑的)」と言う人はいない。
個別の例を見る場合、尊敬を半分に、妥協を残りの半分にしている可能性もある;脳内の手に取りやすいところに、そのモチーフがあった場合。

文学でも、昔から様々な共通モチーフが見られ、本題の論理式でいったん整理してもらってから、文献学や考古学の観点で研究したり、直接の証拠が得られるかどうかの判断をする必要がある。

・古典的なインド論理学(ニヤーヤ系)および仏教論理学(因明論 hetu-vidyā)で、頻出する「火と煙」の比喩(メタファー)
;同じたとえを用いても、派閥により、真理に関して異なる見解を示すことになる。

・大乗仏教の法華経系経典の "Adhimuktiparivarta"(信解品) における長者窮子の譬喩と、キリスト教の新約聖書「ルカによる福音書」15章における放蕩息子(放浪息子)の寓話
;仏教やキリスト教に数あるたとえ話があるうち、アヴァダーナといわれる人物同士の物語(ストーリー)による譬喩。前者は弟子から師匠に説き、後者は師匠から弟子と敵対者に説く点で、話の経緯(仏教でいう教説の因縁)が違う。内容としても、登場する事物や、時間の長さ、たとえの意味するところが違う。
;エイジズム(年齢差別)、ファミリズム(家族差別)、ファミハラ。キリスト教でも仏教でも他のインド宗教でも、「盲人、生盲」を引き合いに出したエイブリズム(障害者差別)表現による短いたとえ話や故事成語の種類が多くあり、酷似するものも見られる。

A parable of a lost son can also be found in the Mahayana Buddhist Lotus Sutra.[30][31] The two parables are so similar in their outline and many details that several scholars have assumed that one version has influenced the other or that both texts share a common origin.[32] However, an influence of the biblical story on the Lotus sutra is regarded as unlikely given the early dating of the stratum of the sutra containing the Buddhist parable.[32]

—英語版Wikipedia - "Parable of the Prodigal Son", oldid=1087116352.

・「永遠の幼児(=純潔さ)」を意味する、上座部仏教のサナンクマーラ Sanaṅkumāra 関連経典と、ヴェーダ宗教のウパニシャッドやマハーバーラタのサナトクマーラ Sanatkumāra および更に後世プラーナ文献などの同名人物
2018-02-10などの過去記事に頻繁に例示してきた。神智学という近代的な運動におけるサナトクマラ Sanat Kumara (および日本での鞍馬 Kurama 云々) については、宗教学的に無関係。
2022-04-09記事では、名前の意味からラテン語の "puer aertenus", "puella aeterna" に比較している。

これらはストーリーにおける共通モチーフや、人物設定における共通モチーフに関する例であり、後世の数多の文学作品でも「ストーリーや人物設定における共通モチーフ」というものを私は見いだした。
例えば、作品A'の中の任意のモチーフAは、過去の作品Bの中のモチーフBに酷似していた。
中性的には、AはBのパクリと見ずに、反対に、偶然の一致であるという結論にも終えない。
「そういう設定AをきっかけとしてAの作者はどういう作品を作ってゆきたいと考えたか?」、として文学的な考察を加えることになる。
これこそ、モチーフ=動機の、作家やクリエイターの心中における真意である。


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