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2020年11月7日土曜日

マジで記事ネタが無いときの作文(2020年11月7日17時台)

任意の分野の専門家でない人にとって、学問と技術とそれらの産物とが、彼らの手に届く範囲がひろがりつつあり、可能なことが増えました。それでさえ、ローテクもハイテクも、巨視的であれ微視的であれ、その極みは今なお、専門家でない人に真似できないものとして高みにあります。つまり、その技術と時間とです。微視的なものは、専門家でない人の手で握る道具に、実現されない細かさと繊細さとがあります。巨視的なものは、専門家でない人の手で握る道具に、実現されない大きさと危険さとがあります。また、そういった技術の勉学と習得とに時間がかかります。極みは、これらの程度 (value, values) に関して、曲線的変化の弱まるあたりから限界方向を示します。このような高みがローテクにもハイテクにもあるので、専門家でない人には俄かに真似できなくございます。お金で頼むことは小学生の時に私は頻繁に思いつきましたが、それで多少、可能な範囲が増えます。ローテクもハイテクも。ムクリもコクリも。英語圏の人が少しむくりこくり (sukoshi mukuri-kokuri) であると思うに違いない彼らの単語は"skosh", "googly-moogly"です。日本人にとっても"skosh", "googly-moogly"はむくりこくりな英単語 (English words) であると思われます。"Great googly-moogly!" 高句麗蒙古遁げる(こくりもくりにげる, kokuri mokuri nigeru)?"googly-moogly"の起源は定かでありません。日本語と関係が無いともされます。中国語で「縁起 (Ja: engi; Zh: 緣起, 缘起; yuánqǐ, yuanqi)」とは、起源 (an origin) の意味でもあります。同義語または類義語並列の熟語でしょうか?または異なる意味の並列の熟語でしょうか?仏典にある仏教用語での意味は後者のようです;「縁って起こる」という複合動詞の名詞化のような解釈で。しかし、結局は玄奘三蔵以降に主流かした訳語の一つ。近代以降に日本で、パーリ仏典の訳でパティッチャサムッパーダ (paṭiccasamuppāda) とカタカナで記されても長いことから、やはり漢字の熟語で翻訳することは妥当でしょう。一方、江戸時代以降からか、縁起という意味は地理言語学的俗語化で、日本では他の意味が連想されやすいので、読み手が自助努力で仏典での意味を取ることにします。ああ、何という憶測での起源推定よ。「縁起」のおおもとの意味は「おおもと」、と(口で)言えば意味不明にさえ聞こえます。決して意味不明ではありません。そのまま、「『縁起』のおおもとの意味は『おおもと』」と理解していただきます。



はい、以上。
表題にいうようなものは、この通りになる。
後で微修正など、あるかもしれない。
韻を踏んだ、という意味での詩的な内容を期待している人には申し訳の無い文章である。



次のような謎の詩も記事のストックが無い時に作られていたので、ご覧になってほしい。
おおよそABAB押韻であり、音節数なども一定の区切りで整えられる。
日本語の「うた」であるが、和歌というよりは擬古文のポップな歌に向いている。

Nochi-no-oomidzuchi
higashini mizuabare, nishini hinote shigeshi. umino tookiwa kawakihate, tamino nagekiwa chinioteri.

のちのおほみづちNoti-no-ofomiduti
ひがしにみずあばれhigasi ni mizu abare
にしにひのてしげしnisi ni hinote sigesi
うみのとほきはかわきはてumi no tofoki fa kawaki-hate
たみのなげきは地におてりtami no nageki fa ti ni oteri

これは現在におけるとある大陸に見られる現象を歌っているが、じきに他の大陸でも起こるかもしれない。
政治的であろうか?いな、認知的事実の詩であるので、お気になさらず。



2020-11-01 『起床前や夢の時間に脳内で流れた音楽を自作曲にした6作、歌詞も含まれる』 https://www.youtube.com/watch?v=DyvJCNcSR0U


こちらは私が投稿したうちで最新の動画であるが、韻を踏んでいるなどの意思表示から、日本語歌詞にローマ字表記のみをあてている。

2020年3月11日水曜日

楽語共調理論の拡大, 反対の仮想–反例, 自己反証

以下の記事は「楽語共調理論 symphonedy theory」の導入や入門として書かれ、日本語の5母音 (the 5 vowels in modern Japanese) を中心として説明した。
その当時でさえも英語などの西洋言語を比較に用いている。
2019年4月6日投稿『母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門』
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/04/symphonedy-vowel-pitch.html

当記事では、日本語の5母音の見直しを、音声学的に可能な人間の言語のあらゆる母音と比較・対照することで論じる。

まず、先の記事で言うような「二分・三分」の方法によれば:
 口の広狭(舌の低高)"height": あ /a/ = 広母音(低母音)、え・お /e, o/ = 中母音(中央母音)、い・う /i, u/ = 狭母音(高母音)
 舌の位置の前後"backness": え・い /e, i/ = 前舌母音、あ /a/ = 中舌母音、お・う /o, u/ = 後舌母音
 唇の円さ"roundedness": え・い /e, i/ = 円唇母音、あ・お・う /a, o, u/ = 非円唇母音(平唇母音)
となる。

(先の記事所載)言語発音全般の母音の特徴で
日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音を示す図
5母音はその方法の区分から、右の図のように配列される。
これを音楽の歌詞におけるメロディのノートの音高(ピッチ pitch)に対応するものと見る場合、図の中の:上に位置するほど高い音高のノートに当たり、下に位置するほど低い音高のノートに当たるとした。

これらは絶対的なノートの音高の高低よりも、相対的なノートの音高の高低に対して適用されることを主張してもいる。
相対的とは、特に、前のノートの音高に対するものとして考える。



日本語に対する楽語共調理論の拡大案

先の記事で、イ段・い段の発音 /C + u/ を狭母音に区分しながら規範的に対応するノートの音高が低い必要を示したが、これは形式的な一面の説明であった。
い段の発音は、前舌母音・非円唇母音でもあることから、え段 /C + u/ と同様に第二フォルマント F2 の周波数が高い部類にあるばかりか、最も高くもある。
そのため、い段の発音のもう一つの側面として、前のノートの音高よりもノートの音高が高い場合にも用いることができると言える。

当時にも、そのように許容する案が示されていた。
母音の広狭はあくまでもF1に関連するものであり、F2の存在を加味するならば舌の前後についても考慮できる。「い」の音(近似 [i])は既に示されるように、F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) であり、実は高い音に当てることもできる。これは後述の「2017年3月10日>交差点」における「つかり↑、ぱたり↓」という歌詞の「り"ri"」同士の異なりや、「2017年4月24日>曲名未定」の「はれとき↑どき、あめのひ↑には…」という歌詞の「とき"toki", のひ"nohi"」の両者が「お o」モーラから連なる「い i」モーラが突きあがるような音高で発せられることなど…(後略)
※フォルマント値は当該記事に"Catford, J. C. (1988)"の情報、と参照されている。私自身の調査目的では別にサウンドスペクトログラムを用いることもしている。

先の記事で、ウ段・う段の発音 /C + u/ を狭母音や円唇母音に区分しながらも、「実際の現代人発音は/ɯ/平たい唇・/u/円い唇よりも中間的であり、極端な唇の動きとならない」と2018年の記述を引用し、現実的には曖昧な調音方法と聴こえであるとした。
先の記事で、そういった理由から『「う(円唇)・い(非円唇)」は、共に狭母音であるとしても、西洋言語発音にならえば円唇・非円唇の相違性=唇の円さの動きが典型的に現れる音であるため、個性的である』と記し、楽語共調理論に基づく日本語の歌において音価 [u] を仮想することを示している。
これに関して拡大の案がある。
う段の発音は、現代日本語の一般的な発音でされる場合を許すならば、それがい段の発音に近くもある。
そのため、い段の発音に近い分だけ、ノートの音高が前のノートの音高よりも少し高い場合にも用いることができると言える。

この場合にう段の発音もとい音素母音う /u, ɯ/ は、シュワーともいえる曖昧母音として捉えることもできる。
それは、外国語借用語の二重子音・閉音節で /p, b, k, g, f, v/ といった子音がう段 /C + u/ に置換されることの一つの解釈でもある。
※日本語での話。言語ごとに選択性がある。スワヒリ語では /a/ (音声実現としては曖昧系?)  キクユ語では /u/ だったり (cf. thukuru from en: school)、朝鮮語では /eu/ = /ɯ/ だったり (cf. 스트레이트 seuteureiteu from en: straight) することを考慮した方がよい。言語によっては前後の母音から移る例も多く、キクユ語の borithi は英語 police から借用された(語末閉音節が同じ母音で新しい音節を形成した)ものであり、日本語でも一色"isshiki" vs. "isshoku"、テキスト・テクスト"tekisuto" vs. "tekusuto"、マキシ・マックス"makishi" vs. "makkusu" (これのみ原語で異なる語句である点に注意) などに比較される。この注釈事項は2019年8月10日投稿記事『言語における科学性の多面的な説明』にも説明された。日本語の例にトロッコ・トラック"torokko" vs. "torakku"などもある。サンスクリット→パーリの成節子音 ṛ の母音変化例 (mṛta-mata, ṛṣi-isi) も参照。なお、これは音韻論的現象の側面を示すものであり、キリバス語の Kiribati(キリバスィ)が Gilbert(ギルバート 形容詞でGilbertese)に由来すること(同様にキリスィマスィ Kiritimati はクリスマス Christmas)などは原語の語末の閉音節の母音 (ここでaおよびer) と新たに語末に付加される母音 (ここでi) との関係がうまく明示しづらい。場合によってイタリア語男性名詞のsing. -o, plu. -i  などの屈折語における形態の文法的機能を考える必要もあることに注意されたい。注釈対象の本文の話に戻すと、言うまでもなく /t/ た行は /tu/ が相補分布などで本来の破裂音から破擦音となっており [to] を用いるなど行ごとに例外もある。/z, j/ ざ行・じゃ行は英語の有声後部歯茎破擦音 [dʒ] とフランス語の有声後部歯茎摩擦音 [ʒ] に用いられるが、イメージ (image), オマージュ (hommage) といった音写のジ・ジュ "ji" vs."ju"の差があるなど、恣意的な側面にも注意されたい。

こうした拡大案が許容されるならば、う段の音は日本人がう段の音と知覚できる限りは微細な区別を適用できる。
他の発音も同様に、便宜的な変更がありうる。

例えば:
え段 /C + e/ ・お段 /C + o/ の音は、広狭について中央母音 (mid vowels [e̞, o̞]) の他に半広母音・半狭母音 (open-mid vowels [ɛ, ɔ], close-mid vowels [e, o]) にする選択肢を持つ。
あ段 /C + a/ の音は、舌の前後について中舌母音 (central vowel [ä]) の他に前舌母音・後舌母音 (front vowel [a], back vowel [ɒ]) にする選択肢や、広狭について広母音(open vowel [ä]) の他に狭めの広母音 (near-open vowels [æ, ɐ]) にする選択肢を持つ。
い段・う段の音についても、あ段の反対で広めの狭母音 (near-close vowels [ɪ, ʊ]) を用いる選択肢を持つ。

そうすると「日本語の日本語らしさが崩される」と、現代における保守的な立場からは疑問視を受けると思う。
しかし、現代日本語に至る歴史的変遷の観点、または現代日本における方言の発音の差異など様々な事項の考慮によって、歌唱用の発音における便宜的な変更は日本語に悪影響を及ぼさないと思う。
いわば水道水の塩素系消毒剤、街中の排気ガスの蔓延などの現象の言語版があり、それが既に世間の大衆文化に見られる。
文学の修辞や著名人の発言や大衆音楽の歌唱の不自然さ・・・。
それらに比して、私は規範を意識しながら規範以外の方法を用い、必要に応じて規範を明示する用意がある。
教育や倫理の観点も多々考慮しながら、私の創作がされてきている。
話が脱線しそうであるが、楽語共調理論は「学問知識を用いた芸術の技法の一種」であろうが、最終的に大衆文化の再検討と創出とを視野に入れて問題のない作りであると考える。
どちらにしても、外国語発音についての豊富な知識と経験のある者が、理論的に日本語の歌唱の発音を検証しなおして彼自身の納得・自己満足に繋がる必要がある。

あ段 /C + a/ の音は、先に挙げられた「便宜的な変更」の例に加えていない案もある。
「~た(現代語の過去形/完了形の助動詞の終止形。連体形を含む)」「~ら(現代語の動詞の未然形/已然形/仮定形に伴う形態)、~ば(仮定の助詞)」のような歌詞の一区切りの部分で登場するものが、その歌唱の音符–ノートの音高–ピッチが相対的に下がっているものがある。
そのように「相対的に低い/下の音高」でありながら広母音の音素が登場することが避けられない場合、口の広狭(舌の低高)を中性化するなどで負の効果を低減させる方法が提示できる。
この歌唱の際の母音は [ɐ] (near-open central vowel) や [ɜ] (open-mid central unrounded vowel) [ʌ] (open-mid back unrounded vowel) に近似する。
既存の例でさえも、日本のポップスでそのような発音はよく聴かれている。
それらの歌い手または音楽的監督者は、明瞭に「-ア [ä]」を発する場面を制限している、とは踏み込んだ言い方になる。



認知的「ん /N/」と成節子音 [m̩] [n̩] [l̩]

先の記事で、日本語音韻論でいう「撥音」について以下のように記した;
「ん (撥音 moraic N, 成節鼻音 syllabic N/nasal)」については、状況によって音節主音=1音節となりえるし、日本の音楽では「ん~♪(例えば"永遠"という中国語からすると2音節 yǒng yuǎn になる語句を"えーい、えーんー"のように4音節相当でされるような発音)」として長く伸ばす発音も多い。

当時の私にとって、 /n, N/ は閉音節と二重子音の形でのみ歌唱において実現されてほしいということであったし、一般的な母音と比べてフォルマント研究が一般的でないことから、先の記事で考察の対象としなかった。
この「撥音」は、前後の音の如何によって多くの音声実現があり、音声学的子音だけでなく、鼻母音 (nasal vowel/vowels) の多くの種類も含まれていると分析がされる:
@

これらと、成節子音 (syllabic consonant; ~共鳴音、~響音 -sonorant, -sonant) である [r̩] [m̩] [n̩] [l̩] のフォルマントに関しても、何かしら解析される必要があろう。
私の肉声で録音した後に、スペクトログラム画像を載せるなどする。
行っていない段階で、私の感性に依拠して推定すると、:「撥音」のうち成節子音である [n̩] や [l̩] は三角波 (triangle wave) に近似しつつ肉声の実現としては [u] よりも更にF1, F2 の関係が狭まるか低くなるなどする。
それで私は、[u] のためよりも低い音高のノートに使いやすいと思う。






反対の仮想の手段

先の記事で以下のように記した内容は、いくつもの示唆に富んでいる。
原則的な事項がある。
母音の広狭ないし中間(中央)は、そこに絶対的な「こういう印象」が求められるかといえば、スペクトログラムや科学的技術の手段で特徴を明かしてから「広母音は明るい (bright)、狭母音は暗い (dark)」と判断できそうである。
しかし、必ずしもそうでない可能性を知るべきである。
「明るい・あかるい"akarui"、高い・たかい"takai"」の「あか"aka"、たか"taka"」は、「あ・か・た」という広母音モーラの語幹による形容詞であるからといって、本質的に「広母音とそれによるモーラ発音は印象が明るくてピッチが高い」と、確定できるものでない。
日本語話者の間では、彼らの共通主観性のうちに、広母音や狭母音についての認識の傾向を見いだせるかもしれないが、それさえも不確実に思う。
広母音も狭母音も、一者のみを用いる言葉は必ずしも多くない(2モーラ語に限って/a/, /i/ や動詞終止形や動詞連用形由来など以外にも鈴"suzu", 冬"fuyu", 己・斧"ono", 事・琴"koto"など同じ母音で揃うものが多いが、/e/ え段は動詞連用形由来や複合語や畳語以外で語源的に揃わない)。
もし広母音か狭母音か中央母音といった何かしらの母音のモーラのみで1曲の歌詞(最低50モーラ以上)を構成するならば、発音と歌詞の意味とに違和感があろう。

ここから読み取れる話は、楽語共調理論の数学的原理・数理モデルがそのまま現実の人間の認知 (cognition) に比例する結果を持っていないということである。
以上の引用の最後に、「広母音か狭母音か中央母音といった何かしらの母音のモーラのみで1曲の歌詞(最低50モーラ以上)を構成する」という、発音と意味との両方とも違和感の伴う歌詞の仮想が例示される。
そのような作詞は、楽語共調理論の反対の仮想に資すると思うので、是非、試していただきたい。
当記事では一つ、それを作って載せる。

言語発音・高低アクセントの要旨と実験

まず、音楽ではなく言語発音の回顧を試そう。
「あいうえお・かきくけこ a i u e o, ka ki ku ke ko」の時の高低アクセント (pitch accent) を思い出そう。
この高低アクセントは、大概の人にとってそのまま「いえあおう i e a o u」や「かけきこく ka ke ki ko ku」といったアナグラム(音節・モーラ単位)に適用しうるものと思う。
「あいうえお・かきくけこ・いえあおう・かけきこく」はいずれも、私にとって「ウクライナ [ùkúráꜜìnà](中高型。中高は少し揺れもあるがパレスチナも同様)」と同じであるが、「アルバニア・アルメニア・エストニア [èsútóníá]・リトアニア [rìtóáníá]・ポルトガル [pòrútógárú](平板型)」と異なると思う。
もし適用されるならば、現代日本語の高低アクセントの認知が話者の深層に達していることの表象と考えられる。

続いて、中世の日本の和歌の「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月(明恵上人による短歌;和歌の愛好家はスペースで区切ることを好まないのでここでも区切らずにおいた)」を詠んでもらいたい。
「あかあかや」という5拍(5モーラ)一句が先の、日本語アクセント論での平板型「アルバニア・アルメニア・エストニアリトアニアポルトガル」の音高(ピッチ)で詠まれることは、多くの日本人において有り得ず、和歌には和歌のための音高が適用されて短歌5-7-5-7-7や俳句5-7-5といった種々の拍数の和歌が詠まれる。
楽語共調理論と反対に、これは母音が何であるかを問わない自然現象を示している。

こうして、音楽のノートの音高の上下の周波数に、母音の広狭などによるフォルマント値の関係を見出すことは無理であるという「反対の仮想」も可能になる。
その反論としては「言語音声の高低アクセント(日本語など)や声調-トーン(中国語・バントゥー諸語など)やイントネーション(ほぼ全言語)は楽語共調理論の考察対象でない」となる。
そのまた反論としては「楽語共調理論の考察対象のうちにもし人間の認知機能があるならば、その認知において言語音声の高低アクセントやトーンやイントネーションの知識が潜在的に好悪種々の影響を持ちうるので少しは判断材料に加える方がよい」となる。
現状では、たとえ数学的原理に偏るとしても、基盤の研究として数学的原理や自然現象(ここでは人間の可聴の音=音波・音響)の数理モデルが優先されるのだ、と言おう。



全てが広母音の歌詞を示す。
この広母音とは:第一に標準的な日本語の [ä] 音声のみに制限される必要があり、第二に断り付きで聴き心地のよさを目的とする他の音素 /a/ と知覚される母音音声を混ぜること (e.g. 英語 banana, katana /kəˈtɑnə/, Panama /ˈpæn.ə.mɑː/ のようなものをスペース分かち書きごとに適用してみたければどうぞ断り付きでなさるように) が可能である。
記事の目的のために、歌詞の意味や文法へ注釈の必要を感じないが、一点言うと、動詞の活用形は一部の未然形以外が不能であるため、これで他の活用や連用形名詞化・連体形分詞用法などを行うことになる。
既存の歌詞つき楽曲「交差点」の替え歌であり、そのメロディで歌う:

赤坂宝刀 akasaka takara katana,
頭は八幡高菜 atama wa yawata takana,
貴方が語らばまだ花だ anata ga kataraba mada hana da,
夜叉は魔羅から欠かな yasha wa mara kara kakana,

中々長や坂や nakanaka nagaya sakaya,
渡らば川は赤や wataraba kawa wa akaya,
偶々誤りゃ明かさな tamatama ayamarya akasana,
性は幻な間差だ彼場帰処 saga wa maya na masa da aba sarana,

肩下がらば kata sagaraba,
業無や薔薇香有らや waza naya baraka araya,
また利関わや mata kaga kakawaya,
何一切可分 ka sabata wakaya, (これのみ意味を注釈すると便宜的にパーリ語を混ぜた和語かつ全て長短無き広母音ということになる:分別されるべき普遍性は何か?{ का सब्बता √分+fem.ईय })

相良ジャワ鎌 sagara jawa kama,
カナダ七夕名は長かな kanada tanabata na wa naga kana,
綿か藁か束か棚田か wata ka wara ka taba ka tanada ka,
誰が屋墓場 tagaya hakaba,
沙門ならばだ空だ機会時間 samana naraba da kara da samaya kala.

楽語共調理論の立場で、これ(「交差点」の替え歌)を聴くならば、メロディライン・ボーカルフレーズの音高に不調和な歌詞が乗っていることになる。
多くの人にとって「交差点」の歌詞とこの替え歌の歌詞とのどちらがメロディを妨げないものか、考えてもらうことが、楽語共調理論において、一つの社会科学的な見地での検証法である。
非日本語話者の場合(未収得言語での歌詞を聴くこと)はともかく、日本語話者はどうしても言語音声から意味を想起するであろうという、意味の有無に関する問題(cf. 生成文法など言語学で有名な"Colorless green ideas sleep furiously"; 意味が無いまま文法が成り立つモデルとして考案された例)も慎重になるが、今は論じない。

先の和歌「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」ついても、和歌のための音高・ピッチが日本人に定着していることを示すものであって音楽の歌の比較に用いられると思う。
逆に「あかあかや... (月までの計29モーラ)」の音高を平板・平坦にして詠んでみる方法をすれば、これは楽語共調理論の立場での仮想になる。

上記の、「全てが広母音の歌詞」においては子音フォルマントの方も考察してみる価値はある。
「肩 kata」の部分を「束 taba」に置き換えてどちらが任意のメロディの相対的な音高もとい音程に適しているか、と考えるようなことである。
聞く側よりは歌う側の調音部位(主に子音ごとの動作の特徴を持った舌や唇)の運動に関する心地よさに関わる可能性も、仮想の手段になる。
あくまでもその「特殊な歌詞」のためであれば、「子音のフォルマント」は現状で楽語共調理論の説明対象に無い事項である。

ノートの音高側に合わせて認知的「あ /a/」の音声実現を変更することも考察してみる価値はある。
先の記事に以下の説明がある:
種々に検討すると、たとえ日本語では微細な区別なき「あ a」の音(外来語のためのア段カナの原語は多用な異なる発音。アメリカ英語のGA発音だけでもア段カナに対応する4種類の音素 /æ, ʌ, ɑ, ə/ の区別がある)であっても、歌詞発音のためには舌の前後・唇の円さといった区別を駆使する必要があるかもしれない。
すなわち、一般的に非円唇中舌広母音 [ä] である「あ」も、前後のノート音高の相対性により、低音としての「あ」を非円唇後舌広母音 [ɑ] にしたり、高音としての「あ」を非円唇前舌広母音 [a] にするといった、音高に「あ」を相似させるための弁別と発音訓練とである。



音高の上下を母音で認知する際の母語音韻の影響&個人差

日本人は日本語の基本的な5母音が、「手に取る範囲にある」ように、音高の上下の母音に対する認知に用いやすい。
決して英語の音韻論における英語の母音 (e.g. [æ], [ɪ]) を浮かべないであろうが、英語に堪能な人であれば十分にありうる。
私の場合、音声学の知識が深いので、色々な母音の選択肢を持っている。
それは多言語的であるために個別言語の虚無にも類する。
しかし、母語は母語として影響が大きいし、多言語のためには個別言語の「音韻パック(セット)」というものも用意されている。
そこに、「日本語スイッチ」や「英語スイッチ」を設け、出力を切り替え、聴いているメロディフレーズを色々な母音で自然に認知することになる。
自分で作詞する際は、何度も音楽の作詞の型になるボーカル用メロディフレーズを聴き直して広い選択肢から吟味する。


英語版Wikipedia - oldid=925307085, Eine_kleine_Nachtmusik#I._Allegro に載る画像

それにしても日本の子供がモーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart) の Eine kleine Nachtmusik (I. Allegro) を聴いて最初のフレーズを"baka, aho, doji, manuke"と言語音声に変換する現象は、"baka"以外の語の母音の広狭が割と認知的ノート単位の音高・音程に通じている。
考え方の一例に、2音ごとに区切って解析すれば、"ba-ka"/a-a/ノート音高は上–下、"a-ho"/a-o/ノート音高は上–下、"do-ji"/o-i/ノート音高は上–下、こじつけになるかもしれないが"ma-nu-ke"に関しては前の"ji"を合わせて"ji-ma"と"nu-ke"に変えてこれらの音高のノートは下–上、下–上という具合に相対的な上下の解析ができることを、ここで言いたかった。
恣意的な側面もあるが、考え方の一例で示した。
この場合は、「ニノート間解析 (dual note analysis または interbinote analysis)」とでも呼ぶことになり、元の記事に「『母音の広狭と音高の上下』の基本を簡潔に言えば、広母音モーラが相対的に音高・ピッチとして高いノートであり、狭母音モーラが相対的に音高・ピッチとして低いノートである」と記した「相対的な音高」の解析の基本的な手段に当たる。
ついでに言うと、同じ音高の歌詞ノートでは「中」または「平」とする。

この Eine kleine Nachtmusik 以外に知られる、歌詞なしメロディに対する日本語での空耳の例:「らららコッペパン(らき✩すた 劇中BGMに対するもの, ネット上では作品ヒロインがチョココロネを持つシーンの改編でコッペパンを持つ画像が見られ、作中にコッペパンは登場しない)」、「金のごまだれ(小林明子「恋におちて -Fall in love-」のイントロのメロディに対するネット上での空耳の例だと思ったが、TV CMでの替え歌が発祥らしく違う)」、「デデドン!(Nash Music Library の作品の一つに対するもの、子音に関してオケヒの音ではよくダ行音が当てられる)」
音楽以外のメロディ様の音に対する日本語での空耳の例:「カッコー(かっこう、カッコウ、鳥 Cuculus canorus の鳴き声の擬声語)」、「ホーホケキョ(ウグイス、鶯、鳥 Horornis diphone の鳴き声;現代日本語では声門と軟口蓋という調音位置の近い子音を使うが、江戸時代の途中まではホが両唇音であったと思われるが、子音は楽語共調理論と関連しないし音声学を議題にしているのでないために問題視しない;「法華経」に託した名前であると考えられるので、確かに例として引用するには不適切に思われる)」

音楽以外では、救急車に対する「ピーポーピーポー」や「ピーポーパーポー」といった擬音語は、先の高い1つのピッチが「ピー /piː/」や「パー /paː/」などとF1, もしくはF2 のピッチが最も高い母音で表現され、後の低い1つのピッチが「ポー /poː/」とF1, F2のピッチが相対的に低い母音で表現されることに、楽語共調理論の傍証がある。



応用

楽語共調理論を逆手にとって、任意の歌曲のボーカルボーカル用メロディフレーズの言語的母音を無くして好みの母音に統一してみることで、音高や音程(高いか低いかはもちろん、どの程度で音高の隔たりがあるか)が把握しやすくなる。
一般的な歌曲は、相対的にとても高いノートに「う」が来ることや相対的にとても低いノートに「あ」が来ることに関して意識的に除かれることはないので、そのような母音を保つと音高や音程が把握しづらかろう。
これは、いわゆる絶対音感の強くない人が耳コピを体感的に行いたい場合の下準備の方法として想定する。
この場合は声量など強勢アクセントに類する機能も除いて平坦化する方が、もっとよい。





理論への全般的な反証

先に「楽語共調理論は『学問知識を用いた芸術の技法の一種』であろう」と断っているものの、科学的方法論を用いて「反証 falsification」を自ら試みる。
複数の母音フォルマントとノート間の音高の上下に対応するという理論が通じない要因を示して「反証」の可能性を模索しよう。

母音のフォルマントが何らかの楽器に相似する可能性の検証

先に「楽語共調理論の数学的原理・数理モデルがそのまま現実の人間の認知に比例する結果を持っていない」と記したが、「数学的原理」について用い方を上手く広げれば「例外」と思しき事柄も「枝葉の例」にまで理論化できると思う。
イの発音を材料に、知覚の実験をしてみよう。
イの実際の音声 [i] は、非円唇前舌狭母音 close front unrounded vowel は先の記事でもフォルマントの一研究"Catford, J. C. (1988)"に示された標準値が F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) である。
私にとり、これは楽器音声だと任意のシンセサイザーによる鋸歯状波 sawtooth wave(のこぎり波・鋸波)に似ると思う。
「似ると思う」という印象によれば、正弦波 sine wave は円唇後舌狭母音 [u] ... F1 = 250 Hz, F2 = 595 Hz (差異 345 Hz) となる。
言語音声と楽器音声を、音声波形やスペクトログラムで見て、実際に言語音声の母音フォルマントと相応の類似性があると判断できる場合、類似性のあるもの同士は聴覚的に似たものと認知できる可能性がある。

先に「非円唇前舌狭母 [i] は任意のシンセサイザーによる鋸歯状波、円唇後舌狭母音 [u] は任意のシンセサイザーによる正弦波」と趣旨を記したが、私が個人的に言語音声と楽器音声を検分して、言語音声の母音フォルマントは楽器音声と比較するのに向いていないように見えた。
私の地声での母音言語音声の波形は、[i] の時に正弦波にフォルマント差による縮れた形状が乗り(譬えると250 Hzの波に10分の1の周期を持つ2,500 Hzの波が伴う状態)、[u] の時に三角波のような形状が見られ、[o] の時に最も正弦波と似た形状が見られた。
この結果で、言語音声の母音フォルマントと楽器音声に類似性は多少ある可能性が否定しきれずとも、類似性の認知に対する影響は極めて小さいと判断する(認知機能においては比較材料の多寡が類似性の認知を左右する側面もあるためかなり個人差がある点は別に考慮)。
母音フォルマントよりも、発音する人の「声色」という一般的な特徴の方がまだ、楽器音声の音色との類似性の認知に関連しやすいと考えたい。
記事の本題に寄せて言えば、楽語共調理論の反証に、任意の楽器によるボーカルフレーズの再生行為が、「複数の母音フォルマントとノート間の音高の上下に対応するという理論が通じない部分」を暴くことに用いることはできないし、「言語音声の母音フォルマントと楽器音声に類似性は多少ある可能性が否定しきれずとも」。



これらが把握された上で音高の相対的上下について再確認

何らかのメロディアスなフレーズのある楽曲(ボーカルは代用の楽器–インストゥルメントに置換する)を、日本語でも英語でも、即興で母音重視の歌唱をする。
…という方法がある。
これは私が2011年以降に多く行ってきたことであり、楽語共調理論の案に繋がるまでの糧になったことでもある。
私が何かしら、題材になる曲を示した方がよいが、当記事で特別に視聴可能な形で用意するつもりは無い。
例の通り、Sundarknessや活動全体で公開された音楽作品から、気にいるものを見つけて試すとよい。
YouTube - Sundarkness: https://www.youtube.com/user/SundarknessMusics/videos
YouTube - playlist: https://www.youtube.com/playlist?list=PLbz1d6dAQMeV79W5OCLkvtos-Z9EM69CE

あえて1曲を題材に考えよう。
とある他者の曲で個人管理楽曲識別番号: 468 (BPM: 120, 拍子: 4/4)は、曲名が"Happy Sunday"であり、歌い出しが"Happy Sunday"と歌うこともできるフレーズになっている。
楽譜やピアノロールを示さないでノートを近似的に示すと:4分休符、8分音符-F#、8分休符、4分音符-E、4分音符-G、4分音符-F#である。
ニノート間解析で:"hap-py = Ja: hap-pī"/a-i/ノート音高は上–下、"sun-day = Ja: san-dei"/a-e/ノート音高は上–下となる。
ノートの上下感覚とどのように合うか、実際に聴いて歌ってみよう(2020年3月11日時点で未公開)。
日本人作曲で英語タイトルであり、日本語のカタカナ発音「ハッピーサンデー [häpʲːiː sände̞ː]」または「ハッピーサンデイ [häpʲːiː sände̞j] (この場合のイは無母音の硬口蓋接近音 [j] または二重子音 [i̯] で音節理論における前の母音と同じ音節とみなす)」とするか、英語GA/RR発音/ˈhæpiː ˈsʌndeɪ/に近似させるか、考えることも楽しい。
なお、これにも反対の仮想ができる。
英語には強勢アクセント (stress accent) があり、見事に"Happy Sunday"の強勢 ˈ と歌い出しノートの相対的に高い部分に一致している。
作者が強勢アクセントを意図したか深層で意識してノートをアクセントのある音節が高くなるように配置したか、歌い出しの歌詞にできる言葉を選んで曲名にした、という可能性もある。
作者の音楽的心理を詮索する目的でこの文を打っているわけでないが、題材を他者に求めて分析する方法に、この慎重さも必要であることを示した。






起草日: 20191107

2019年11月24日から2020年2月XX日までの時間は、この記事に手の加えられることが全く無かった。
この間では、当ブログのラベル「音楽」の記事として音階理論を説明した記事も書かれている。

表題に言う「拡大」は、端的に「日本語に対する楽語共調理論の拡大案–5母音の音素の音声的実現の範囲の拡大」を指している。
本文中から要約すると:
え段 /C + e/ ・お段 /C + o/ の音は、広狭について中央母音 (mid vowels [e̞], [o̞]) の他に半広母音・半狭母音 (open-mid vowels [ɛ], [ɔ]; close-mid vowels [e], [o]) にする選択肢を持つ。
あ段 /C + a/ の音は、舌の前後について中舌母音 (central vowel [ä]) の他に前舌母音・後舌母音 (front vowel [a], back vowel [ɒ]) にする選択肢や、広狭について広母音(open vowel [ä]) の他に狭めの広母音 (near-open vowels [æ, ɐ]) にする選択肢を持つ。
い段 /C + i/ ・う段 /C + u, ɯ/ の音は、広狭について狭母音 (close vowels [i], [u, ɯ]) の他に広めの狭母音 (near-close vowels [ɪ], [ʊ]) を用いる選択肢を持つ。
相対的に低いノートの音高にあ段 /C + a/ の音の歌詞を当てる場合は、広狭について相対的に狭い母音 ([ɐ], [ɜ], [ʌ]) で中性化する選択肢を持つ。外来語借用語などの語源意識をその単語に適用したい場合に、言語の無母音箇所に挿入された母音(い段・う段・お段)は曖昧母音として捉えて可変性を与える(すなわち音素 /ə/ に置換して「前後の母音に近似する母音」か「中舌中央母音 [ə] に近似する母音」で実現させる)。

これらのために「反対の仮想–反証」なども行って精査していた。


2020年2月29日土曜日

閏年–うるう年、2020年の閏日–うるう日 (leap year 2020)

閏年テスト記事

958F

ワード「閏(うるう)」

漢語(漢字の意味論、中国語)
閏…字形としては「もんがまえ+王(おう)」である。音韻としては:日本語の漢音で「ジュン jun」、呉音で「ニン nin *nyun /njun/」、現代中国語普通話の拼音 Pinyin で"rùn" /ʐwən⁵¹/である。「王」の字形はあるが、韻は「王」と異なる。簡体字の「闰」などUnicodeで符号化された異体字は数種ある (䦞 閠 𥹿 𨳝)。説文解字には「餘分之月、五歳再閏。告朔之禮、天子居宗廟、閏月居門中。从王、在門中。周禮:閏月、王居門中、終月也。如順切。」と解説される。王または天子と呼ばれる人物が門(宮殿というよりは引用された「宗廟」?何か目的がある?)から出ずに「いる(居る/居座る)」期間を指す、と読み取ることになる。しかし、:先にその期間を意味する字「閏」がある後から「うるう=任意の年に天文学的な原因から挿入された時間」の概念のために当てたのか?もしそうであればいつからか?もしそうでなければ字の構成から推定しづらい別の由来(民間語源 folk-etymology の方法で想像しづらいもの cf. 仮借、当て字)があるか? といった特定は、漢籍などから詳細な調査を要する。

なお、現代中国語で、「任意の年に天文学的な原因から時間を挿入する行為=任意の暦においてうるうを置くこと」はそのまま「置閏」と呼んでいる。…と思ったが、百度百科の「闰日」という記事には「别称 置闰」とあり(リダイレクトページ経由では「同义词 置闰一般指闰日」とも表示される)、行為ではなく行為で置かれる側の「うるう日(もちろんグレゴリオ暦–格里高利历によるもの)」を指すとしている。



和語(やまとことば、日本語)
うるう (uruu/urū)=閏…漢字の字形として似る「潤」の訓「うるお-う (uruo-u 潤う)」の転訛。漢語から借用して (loan) 訓 (kun) を当てた例であろう。いつからかは不明(文献的に平安時代か。更に可能な古い時で遣隋使や大化の改新でもありえてそれ以前という人もいるとしても有効な証拠があるかどうか)。「うるう月(閏月)」を伴う暦は、中国からもたらされた伝統的な暦(いわゆる旧暦。種類は多数だが大まかに太陰太陽暦 lunisolar calender を指す)である。現代に、グレゴリオ暦でおよそ4年ごとに加えられる1日を「うるう日(閏日)」と呼ぶ。



英語 (English)
intercalation … ラテン語由来(動詞 intercalare, intercalo; inter- + calo 直訳で:間に+呼び出す。時代用例は未調査)かそのような形態で構成される。これは任意の年に天文学的な原因から時間を挿入する行為を指す。日本人にとって「『うるう』は『うるう日』と『うるう年』に見られる2種の用法がある。多義語か?挿入の手段である時間に対しても、その時間が挿入される期間に対しても、『うるう』で複合語を作るようだ」と考えられるが、英単語"intercalation"は行為を指すと分かる。"intercalation"の訳語は「置閏法(ちじゅんほう)」と考えられる。

いわゆる「うるう日」は"leap day", 「うるう年」は"leap year"(同じく「うるう秒」は"leap second")と呼ぶ。"leaping"や"leaped"のような能動–受動の分詞に語形変化をさせていない。この用語法"leap"を見ると、日本語の「うるう」と同じに見える。日本語に「うるい日」や「うるわれ年」という語形変化が伴わないように。「うるう」については、英語に対して日本語が意味借用 (semantic loan) の一種を持つように見える。

leap … これは「最も多いうるう日=グレゴリオ暦の2月29日」の存在によって曜日の周期性が1日分リープする/飛ぶことに由来する。例えば、クリスマス(聖誕)は12月25日(主にカトリック)に決まっている場合:2014年に木曜日、2015年に金曜日、2016年に日曜日と1年ごとに1日送りであるはずの曜日がうるう日によって2日送りになる。それはOEDなどの辞書にそういう見解が載っているというもので、有効な文献の証拠があるわけでない。
Word Origin
late Middle English: probably derives from the fact that feast days after February in such a year fell two days later than in the previous year, rather than one day later as in other years, and could be said to have “leaped” a day.
— leap year (noun) - Oxford Advanced Learner's Dictionary

cf.,

汉典 (zdic.net, 説文解字注や康煕字典なども掲載) - “閏”字的基本解释.

Unicode.org - Unihan data for U+958F.

百度百科 - 『闰』142993738版『闰日』136716246版, 『置闰法』135863740版.

日本語版Wikipedia『閏』頁oldid=61477635『閏年』頁oldid=75587347.

英語版Wikipedia"Intercalation (timekeeping)"頁oldid=933049803"Leap year"頁oldid=939186126.

英語版Wiktionary - 『閏』頁oldid=54575300"intercalary"頁oldid=55359972"intercalate"頁oldid=55323787"intercalation"頁oldid=54545545"leap day"頁oldid=54446329"leap year"頁oldid=58065549.

OUPblog - What is a leap year? 2012-02-29. https://blog.oup.com/2012/02/what-is-a-leap-year/ .



注意事項がある。
「グレゴリオ暦でおよそ4年ごとに加えられる1日」などのように簡易に記した情報に関しては、用語の歴史経緯と別の話(現代的な運用や計算方法など)なので詳述しない。
上記のリンク先など外部サイトで調べてもらえばよいと思っている。



起草日: 20200205

📅閏年テスト記事である。
当記事の調査–執筆は、和語→英語→漢語の順番であるため、説明に関して全てを読むことで相互に補完されることになる。
掲載順は起草の当初から漢語→和語→英語である。

太陰暦–太陰太陽暦の「閏月」と現代の「うるう秒」についての言及を持つ過去記事が当ブログにある。
2017-07-21記事『時間 "kāla, samaya, 迦羅・三摩耶" と仏教 (仏教の時間論)』
URL: https://lesbophilia.blogspot.com/2017/07/time-kala-samaya.html

2019年2月17日日曜日

現代日本語・口語における述語表現が変容して存在する文法 ~ 感情表現・幼児語の正統性

承前→「現代日本語・口語における述語表現の省略 ~ 経緯・場面 (scene) による相対性

英語(近代英語など)では、既述の通り、主語と述語が原則的に用いられる。
漢語(中古漢語など)も、述語の用法が目的語を伴った際に明瞭な傾向があり、漢文訓読からも理解できる(訓読語・中古日本語)。



現代日本語の「私は○○が好き」とか「私は○○が嫌い」とか「私は○○が怖い」とか「私は○○が欲しい」という表現は、いずれも形式上の述語が無い。
好き嫌い」は「好く・嫌う」の連用形を名詞化した言葉であり、「怖い・欲しい」は形容詞(ク活用・シク活用)である。
前者は名詞が文末に位置する点でいわゆる「体言止め」に当たる。
後者の場合、それぞれの形容詞を動詞に対応させると、自動詞の「怖がる」と他動詞の「欲しがる・欲する(文語: 欲す。求むに類比。欲するという気持ちの動性に約すれば自動詞)」である。
形態論的に、動詞の「怖がる・欲しがる」は、「こわ・ほし」のような語根"root"に「-がる」という接尾辞"suffix"が伴った語形といえる。
「嫌い(きら-)」は「嫌う=嫌ふ」の連用形であるために「嫌いがる・嫌がる(きらいがる・きらがる)」を作らず、「嫌・嫌だ(いや-)」は「嫌がる(いやがる)」を作るという、現代日本語での生産性"productivity"がある。
単に形容詞であるだけならば「川は流れが速い(この川の流れは速い)」や「スープは味が濃い(このスープの味は濃い)」は、その事実を表現した文章(その述語は形容動詞。英語はbe動詞を伴い、ラテン語はestのようなコピュラ動詞を伴うが、梵語は日本語と同じで標準的な動詞の語形を伴わない)であるか、その事実を認識した人による「~と感じる・~という感じがする(英語: I feel like...; It seems to me...)」という述語を秘めた表現である(この場合に主語はゼロ(zero; null)状態だが発言者自身"watashi, I")。それらはそう一括りにできる述語表現を持つ。近代英語の古語"methinks"という縮約形の言葉や、中古日本語の訓読語「=おもうに・おもんみれば・おもんみるに(ゼロ主語)」・「余のおもえらく(私が思うことは~)」といった慣用句・イディオム・副詞句"adverbial clause"・副詞節"adverbial clause"が語頭にあってもよい。

いずれも感情や精神的な現象を表現する際に用いられる言葉であることが興味深い。
「好き・嫌い」に存在動詞「だ=である(に+て+あり、の音変化。敬語: です・であります等)」を付けたり、「怖い・欲しい」に準体助詞と形容動詞を付けたり(i.e. 好き-だ、怖い-ものだ)すると、述語表現を伴った文でもある。
英語の目線では、ゼロコピュラ"Zero copula"の類と見ることができる。
上記文例の「好き・嫌い・怖い・欲しい」は、英語だと"to love or like, to hate, to scare or fear, to want or need"となる。
英文としては"I love it, I like it, I hate it, I scare it, I fear it, I want it, I need it"のようになる。
ただし、"I scare it, I fear it"は"to be afraid"のような存在動詞を伴った文"I am afraid of it"とも表現できる。
漢文としても概ね英文と同様のSVO(subject-verb-object)の構文で表現される(ただし吾也"It's me.", 我是~"I'm a **."のように通念上述語・動詞とされない助字を用いる)。
英文と漢文とには規範的な述語用法があり、英語では主語が徹底して用いられる傾向は既知の通り(元記事)である。



日本語の自動詞・他動詞に関する概説

そもそも、日本語の動詞には、語彙論"lexicology"・形態論"morphology"の観点で3種類が存在すると、私は考える。
それらは、他動詞と自動詞と自動詞の使役形(文法的に他動詞と似て非なるものと区分できるもの)という3種類である。
自動詞は「動く (-u ending)」、自動詞の使役形は「動かす (-asu ending)」がある。
「動く・動かす」は、いずれも英語において語形が同じ"to move (transitive/intransitive)"である。
「私は〇〇を動かす」ならば英語で"I move **."となるが、「私は〇〇を動く」という言い方は直訳できず、「私は○○の場所から動く(離れる)」という意味合いに解して英語で"I move from ** (I leave **)"となるか、「私は○○の上で動く」という意味合いに解して英語で"I move on **"となる。
英語は前置詞で間接目的語や補語を作ることで、"to move"が他動詞であるか自動詞であるか、判断しやすくなっている。
後述のサ行変格活用(サ変)の動詞である「移動する」は、英語の"to move"のように他動詞でも自動詞でも用いることができる。「動く」は、既述の通り自動詞のみしかない。
「-あす語尾 (-asu ending)」は「-す」という古文の助動詞に由来するであろう。古文の助動詞「-す」は動詞・助動詞の未然形に付き、使役の意味を作る助動詞である。古文の尊敬語で「おわす"owasu"(歴史かな: おはす ofasu; opasu)」や「まします"mashimasu"」のように「-あす(-asu ending)」もとい「-す」が見られる。「~せたまふ(してくださるという尊敬語であり使役の意味は無い)」や「~あそばせ(現代の役割語)」にある「せ」は、その活用がなされた形(未然形か連用形)である。

他動詞の例は、自動詞に相対する形で「消す"kesu"(消える、に相対する)」がある。
「消す」に相対する自動詞である「消える"kieru (文語の下二段活用の終止形: 消ゆ"kiyu")"」は「-える語尾 (-eru ending)」であり、これは元々、古文の助動詞である「-ゆ(自発・可能・受け身などの意味 e.g. 見ゆ⇔見える)」に由来すると思われる。
一方で、その「-える語尾」と発音が一緒でも語源が異なるものに、他動詞である「変える"kaeru"(文語の下二段活用の終止形: 変う・変ふ"kau, kafu; kapu")」がある。
これは「変わる"kawaru (歴史かな: 変はる kaf-aru; kaparu)"」という自動詞や、「変えさせる"kae-saseru"(文語の下二段活用の終止形: 変えさす "kae-sasu"または変えせしむ"kae-seshimu")」という自動詞の使役形に相対する。
その英語"to change"は"to move"に同じく、他動詞と自動詞のどちらでも用いられる(私は○○を××に変えるor変えさせる⇔私によって〇〇は××に変わる)。
日本語でいう他動詞も自動詞の使役形も一様に"transitive (他動詞)"として区分されるが、日本語では「変える・変わる・変えさせる」という三種が並立する以上、日本語学の内にこの三種を語形の論理(語彙論・形態論)として立てる必要がある。
「〇〇が××に変えさせられる」や「本が読まれる・〇〇は(彼にとって読まれたくない)本を読まれる(後者は自動詞の受動態="adversative passive")」や「泣ける・泣く・泣かせる(下二段活用: 泣かす)」に対する「泣かれる(自動詞の受動態="adversative passive")」等の受動的な表現(受動態"passive voice")はここで含めない。
自動詞の使役形である「変えさせる」を英語に直訳する場合、同様に自動詞のchangeを用いればよい。「私は彼を変えさせる」ならば「私は彼が変わるようにさせる」と改めて"I make him change."のようにする。この時の"to make"は二重他動詞"ditransitive"用法であり、これは日本語における自動詞の使役形を作る「~あす語尾(-asu ending)」に類する。英語版Wiktionary - makeにも"You're making her cry. (あなたは彼女が泣く-状態-にさせている=あなたは彼女を泣かせている)"と例文を載せている。その役割は、「自動詞の状態にさせる」ということだが、「自動詞の行為の原因を作る」こととも言える。

「泣く」は自動詞なので、本質的に受動態は無い。誰かが泣くことはその人の精神と肉体に終始していて他者が被動者"patient"として行為を及ぼされる道理は無いためだが、現代日本語では「泣かれる」という受動態の述語表現が有る。つまり、誰かが泣くことによって主語・ゼロ主語の人物が被害を受けること"adversative passive (被害受身 negative passive; 間接受身 indirect passiveとも)"であると言える。これは"adversative passive"の文法を持った日本語ならではの受動態である。「○○は雨に降られる」といえば、「雨が降る(雨が意思を伴って自身を降らす・降ろすわけでないが)」という自動詞の現象を見るなど五感で受け、○○=文の主体事物"subject of the sentnce"は何らかの被害(金銭や外見を損なうとしても究極的に精神的な被害)を受ける(他者であればそういう同情をする)ということである。"adversative passive"の受動態動詞は、元が自動詞である場合にこそ、有り得る。そのために「○○のいる時間のその場所で雨が降った」という事実認識の表現とは別に、「○○は雨に降られた」という自動詞の受動態という表現をする。また、被害を受けるという意味合いは基本的なものであり、もしそこで文が終わらずに別の節"clause"に接続されるならば必ずしもその文意に繋がらない。例えば、Alfonso, A. 1966 (Japanese language patterns: A structural approach)にA「綺麗なお嬢さんに泣かれるとちょっと嬉しいものだ"It's kind of nice when a beautiful girl cries because of you."」やB「風に吹かれながらショーウィンドウを覗いて歩く"I walk along in the wind looking at the shop windows."」という例文が挙げられているそうだが、これは「泣かれる"と"」や「吹かれ"ながら"」として接続助詞"conjunctive particle"「と・ながら」が伴って別の節"clause"になっており、被害を受ける表現には繋がっていない。添えてある英文は、そのAlfonsoか誰かによって取られた意味であり、必ずしも正確でない。「綺麗なお嬢さんに泣かれると、それが私or誰かにとっては嬉しい気持ちにさせるものだ」という主観的な意見の提示が主節"main clause"になってしまい、受動態の述語が従属節"subordinate clause"に追いやられている。もしBの文の語彙のまま従属節と主節の立場を変えるならば「私が歩いている"と"風に吹かれる」という文末・主節の自動詞受動態たる"adversative passive"となる。例文A・Bは、文末・主節・独立節"independent clause"の自動詞受動態たる"adversative passive"と明確に異なる。つまり、Alfonso例文Aのように「綺麗なお嬢さんに泣かれると(私は null-subject)嬉しい」と感じる人もいるという意味に限らず、「綺麗なお嬢さんに泣かれると(私は null-subject)困る」という意味にもなりえる。同様に「私の愛人に送る手紙が(を)愛人に読まれると私は嬉しい」とか「私の愛人に送る手紙が(を)その他の者に読まれると私は恥ずかしい」という二者(orそれ以上)が有り得る。要するに"adversative passive"は、文の主体事物(主語かゼロ主語)が、その「される(受動態・所相の述語)」ことによって、究極的に当の主体事物=人物の精神において目的に適えば嬉しく、目的外であれば困る感情表現であるといえる。そのように複数の節を用いることで、「このことが(を)ケンに知られるとユータは喜ぶがケンは悲しむだろう」という二種類を込めた言い方もできる。受動態の用法によって「読む・知る・聞く」も、英語の"to readto knowto hear"のように他動詞のみならず自動詞の用法も有ると分かるし、日本語では助詞と節のありようで"adversative passive"を作ることができる(「泣かれる」が「お泣きになる」という敬語・尊敬語の用法は排除した上での話)。なお、自動詞が自動詞である原理(行為とその対象範囲の同一性の自覚)を応用すれば、一切の他動詞は自動詞の用法を得るが、この話は哲学的なので(cf. ātman 自己 ātmanepada 自動詞or受動態or中動態 インド哲学とサンスクリットの文法理論の相違性や類似性に関する話)さておく。

簡単に好例でまとめてみよう。「立つ」は自動詞であって「う語尾 (-u ending)」である。「立てる」は他動詞であって「える語尾 (-eru ending)」である。「立たすor立たせる」は自動詞の使役形であって「あす語尾 (-asu ending)」もとい使役・尊敬の助動詞「す」に由来する。これらは動詞の3種の区分にあり、私は受動態を省く。「立たれる(文語終止形: 立たる)」は自動詞の受動態(受身の形)であり、「立たせられる」は他動詞の受動態であり、「る語尾 (-ru ending)」もとい受身・尊敬の助動詞「る」に由来する。前者=自動詞の受動態は主に"adversative passive"用法である。「立つ・立てる・立たす・立たれる・立たせられる」といった動詞は、形態論でいえば"to stand"の意味のある「tat語根or語幹 (tat- root or stem, 語根であれば√tatとも)」を共通して有する。

サ行変格活用(サ変)の動詞は、漢語・漢文の原義からすれば、自動詞・他動詞いずれも有り得る。
五段活用(文語: 四段活用)「貸す"kasu"」と、サ変活用「化す・課す"kasu"」とは、動詞の発音が同じでも、後者が漢字の音読みに由来するため、本質的に異なると知った方がよい。
i.e. =呉音・漢音「タイ tai」訓「か-す ka-su」、=呉音「ケ ke」漢音「カ ka」、=呉音・漢音「カ ka」 五段活用(文語: 四段活用)「貸す"kasu"」は終止形と連体形が同じだが、サ変活用「化す・課す"kasu"」は終止形が「-す」で連体形が「-する」と異なっている
「貸す」は「借りる"kariru"(文語: 借る"karu"。文語では四段活用だが後世に下二段活用と混同されて下一段活用になった cf. 飽きる⇔飽く)」という他動詞に相対して自動詞の使役のみであると分かるが、「化す・課す」のうち「化す」は「彼は○○と化す(文語的)・彼は〇〇に化ける=化ける(自動詞の使役形ならば"化かす"がある)」という英語"to change"の自動詞用法に当たる用法も有ることを知るべきである。
「変化する"henka-suru"(文語: 変化す、仏典の語で"変化す henge-su"とも言える)」というサ変動詞は変化させるという他動詞の意味も担うはずが、現代日本語では語源意識が希薄なので、文字通り「変化させる」という自動詞の使役形がある。訓読語であっても「変化せしむ"henka-seshimu"」と言った方が伝わりやすいかもしれないが、それであれば元の漢文に「令〇〇変化(令〇〇變化)」とあったほうがよい(訓読: ○○をして変化せ令む)。

現代日本語の述語はその3種の動詞に加え、4番目の位置づけとして文法的に述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉(動詞連用形由来の名詞・形容詞)が挙げられる。
「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉は感情表現の述語に用いられる。
なぜ「○○は××を好く・嫌う・恐れる(文語終止形: 恐る)・欲する(文語終止形: 欲す)」という他動詞の類で画一的なSOV構文で済むところを、「〇〇は××が好き・嫌い・怖い・欲しい」と言うか?
日本語で古代からどのような文・センテンス(文章的な構造を持った言語表現のことであって必ずしも記述された文章である必要はない)が話されてきたかは知り難い。
私は、これが婉曲的な言い回しであるように感じている。
婉曲的な言い回しとは、例えば、「する」という意思による行動をあたかも自然の成り行きであるかのように「することになった」と言う。謙遜表現・謙譲語で「いたす・いたします」という意思による行動をあたかも相手の了承が得られていることを決めつけるように「させて頂く・させて頂きます」と言う。これは他の現代日本語の特徴に似ている。これはまた、結果であれ過程であれ日本人の、その価値観と関連する(少なくとも「することになった・させて頂く」は他国の言語に見づらい表現)。これはあくまでも筆者の私見であり、筆者による類比である。現代日本人の大半は、どんな表現であれ、意味論的に認識して用いず、専ら役割を持たせた語用論としての形骸化した言い回しで用いることに注意すべきである。



グルジア語との比較・類比

南コーカサス語族(カルトヴェリ語族)に、グルジア語(ジョージア語・カルトゥリ)がある。
グルジア語は能格言語や活格言語のようであり、分裂能格"split ergativity"を持つ。主語・目的語に付随する標識(マーカー"marker")の用法のことである(格接辞や日本語の格助詞に相当)。それにより、自動詞や他動詞やそのほかの動詞に関する文法的な位置づけが明瞭になる。グルジア語の場合は標準的に主語が日本語や英語と同じ主格であるが、他動詞が完了相または完了時制のようないわゆる過去形の時に限って主語に能格"ergative case"の標識が付く。能格性は他のコーカサス諸語(南・北東・北西の各語族)にも顕著(南は分裂能格のみで北東はチェチェン語などが能格言語で北西はアブハズ語などが能格言語)である。また、動詞の活用にはラテン語や梵語や古代ギリシャ語と似た行為者の一人称・二人称・三人称の区分が徹底されるが、被動者(patient)の標識を含めて一つの動詞とする点(筆者は学習不足なので不明)で、抱合語のような特徴にも注意を置くべきである。

英語版Wikipedia - Georgian verb paradigm記事には、"Georgian has four classes of verbs: transitive, intransitive, medial and indirect verbs"とある。
transitive と intransitive と medial と indirect という4種類の動詞を挙げている(Hillery, THE GEORGIAN LANGUAGEのサイトと類似の内容)。
このうち、"indirect verbs (直訳: 間接動詞)"について注目したい。
グルジア語の文法でも、感情表現の述語もとい動詞が普通の他動詞や自動詞とは別物と区分されているようである。
ただし、それは日本語の文法的に述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉と異なり、普通の自動詞や他動詞と同様の活用を持つ。
その記事のClass 4 (indirect or 'inversion' verbs)節から少し、引用する。
Class 4 (indirect or 'inversion' verbs)
  • This class of verb is known as indirect or 'inverted' as it marks the logical subject with the indirect object marker set (m- set) and the direct object with the subject marker set (v- set). Nouns are declined in agreement: the logical subject is in the dative, and object in the nominative (or sometimes genitive, as in gogo-s (dat.) dzaghl-is (gen.) e-shin-i-a - the girl is afraid of the dog).
  • Verbs in this class denote feelings, sensations and endurant states of being (see also stative verbs), including verbs such as q'av - to have (X, animate), kv - to have (X, inanimate) q'var - to love and nd - to want.
  • Class 4 verbs also include 'desideratives' (verbs of desiring), created using the circumfix e- --- -eb (compare tsek'v-av-s 'he dances' and e-tsek'v-eb-a 'he feels like dancing').
The verb paradigm follows. For simplicity, the verb form always assumes a 3rd person singular object: Verb root q'var - to love (筆者注: 前class 1から3では不定詞の形"infinite form"が併記されていたがここにはそれがされていない)

この区分のグルジア語の動詞の文例に"გოგოს ძაღლის ეშინია. The girl is afraid of the dog. (英文の逐語訳: その少女はその犬について恐れている。 意訳: 少女は犬が怖い)"を挙げているし、他の語彙として"to love"や"to want"を挙げている。
"to have"に関しては恐らく「私には○○がある」と言う時の"I have *** (直訳: 私は○○を持つ)"の意味を指すものと思われる(cf. ラテン語: *** mihi est. 文法上の主語である***が3人称の単語であるためその述語の動詞「ある」はestのような3人称の活用となる)。
その区分の動詞の活用を示す際に動詞語根"q'var (グルジア文字: ყვარ)"を例示している。
これは英語で"to love"、「愛する」という意味である。
「愛してるよ」・「君のことが好きだ」という日本語を英語で"I love you."というが、グルジア語では"მიყვარხარ miq'varxar ミクヴァルハール (mi-q'var-xar ミ・クヴァル・ハル)"となる。
q' の字(qにアポストロフィ。別の翻字体系でq̇)で表されたグルジア文字" (ムヘドルリ体)"はq'ariといい、無声口蓋垂放出音(音価のIPA: [q'])である。単語例"მიყვარხარ"に対して慣用的なカタカナ表記を付したが、後でインターネット上の音声を探すと、一例には「ミグヮルハル(migwarhar)」のようにV音が接近音か唇音化 [ʷ] らしく聴こえる(前の音ყ = q'と合わせて有声口蓋垂ふるえ音 [ʀ] にも聴こえる)し、無声口蓋垂放出音は有声軟口蓋破裂音 [ɡ] のように聴こえる。まあ「愛している"a-i-shi-te-i-ru"」を「愛してる"ai-shi-te-ru"」のように発音する現代日本語と同じように口語的な簡略発音(母語話者にとって他に弁別される類似発音の語が無く形式的に聞かれるフレーズを想起しやすいため)は有り得ると思われる。また、その例と他の例はともに代名詞"I, you"に当たる主語と目的語とを先に言って"მე შენ მიყვარხარ (me shen mi-q'var-xar メ・シェン・ミクヴァルハール)"としている点、「僕は君のことが好きなんだ(我、汝を愛す)」くらいに具体性を伴っている。"pronoun drop (pro-drop)"の類である。

これらを便宜的に"Class 4"と位置付けて"Verbs in this class denote feelings, sensations and endurant states of being (see also stative verbs)"という。
また、"Class 4 verbs also include 'desideratives' (verbs of desiring)"といって「~のような感じだ(~のような感じがする feel like ***)」という表現も含まれるという。
このグルジア語の動詞の位置づけの一つは、日本語の述語用法のある「好き・嫌い・怖い・欲しい」のような言葉に近い可能性が有ることを付記する。
関連する言葉は日本語も英語もグルジア語も概して自動詞のようだが語源が他動詞である表現かもしれない。
英語には先例の"to be afraid... (その例文: ワンワン怖いよぉ)"以外にも"to be shamed... (e.g. 人前は恥ずかしいよぉ)"がある。調べてみると、中英語以前(-12世紀)はもう少し、多くの動詞は今ほど他動詞が多かったわけでないという情報もある(cf. 鈴木, 2014とそこに示される中尾, 1972や大沢, 2000)。古英語やゲルマン語の古層に関して、興味が有れば調べてみるとよい。

この英語版Wikipediaの記事は、出典に乏しく、文献の参照の程度が不明瞭であるものの、書いてあることをそのまま信じれば、グルジア語の動詞は4種類あり、現代日本語の4種類の述語表現(他動詞・自動詞・自動詞の使役形・感情系述語表現)と綺麗に対応しそうである。
何らかのグルジア語学習の教材にも、恐らく同様の説明がされていると考えてよい(cf. 横井, 2000 グルジア語概観およびHillery, THE GEORGIAN LANGUAGEおよびAronson, 1990 pp. 332-369 Class 4についてはローマ数字でIVという表記例も多い)。
他の比較対象に、いくつかの西洋言語を取り上げてもよいが、扱いに困る。「私は××が好きだ"I like ***"」という表現は右のようになる、という例示のみをしよう。フランス語"Il me plaît ***", ドイツ語"*** gefällt mir", ロシア語"Мне нравится ***" これらのうち日本語文の「私は」にあたる語は、みな与格"dative case"(fr: me, de: mir, ru: мне)であり、そのような構文で共通している。グルジア語の文例で"გოგოს ძაღლის ეშინია (その少女はその犬について怖がる⇔その少女へその犬が怖がらす?その少女にその犬が怖がらせられる?)"も同様である。これらは与格構文"dative construction"だといわれ、本来は間接目的語に使われるような与格が英語や日本語の文における主語になっている(斜格主語"quirky subject; oblique subject")ために倒置構文ともいわれる。ただし、上掲の例におけるフランス語などの文の人称代名詞の与格用法と、グルジア語の文の名詞の与格用法とがどれほど類似しているか、筆者には判断しづらい。



感情表現・幼児語の正統性

「好き・嫌い・怖い・欲しい」という人間の感情は、あらゆる動詞に同じく、文法の規範によって表現できるものの、人類言語の原初(単一発生の場合も不干渉複数発生の場合もあるがそれはどれでもよい)には文法の規範が確立されていなかったろう。
心の現れとして、感情表現のために言語が用いられた当初、どのように動詞概念が有ったろうか?
自然の事象と、自覚された感情との二者は、どのように類似するものとして理解されたか?
古代の言語について考えなおす判断材料になると思う。
文法の規範や論理性を重んじる人や、英語中心主義の人は、現代日本語・口語の表現が稚拙で乱れたものと考えるであろう。
確かに漢語・印欧語など、文献的には紀元前から発達していた文明(例証として日本語よりも古い時に作られた文献が多い)で用いられる言語は、それだけの言語的な質・量を得ている。
しかし、それ以前の印欧祖語の存在性は不明確であり、印欧祖語以前の同型遺伝子の民族や同時代の他の民族において、どのような言語が用いられたかは、全く確証が無い。

cf. 元記事 述語省略の例文「お姉ちゃん、お菓子(人物への呼びかけ + 何らかの名詞)」
あるいは複合語「お姉ちゃんお菓子」としての解釈
依士釈(タットプルシャ)「お姉ちゃんによって調理されたor創作されたお菓子(お菓子byお姉ちゃん)」 「お姉ちゃんが有するお菓子(お菓子ofお姉ちゃん)」
持業釈(カルマダーラヤ)「お姉ちゃんという名のお菓子(お菓子theお姉ちゃん)」 「お姉ちゃんのような見ためor味or香りのお菓子(お菓子likeお姉ちゃん)」

もし何らかの言語がそれらの先史時代の民族に用いられていてその言語を推定したいならば、古今東西の言語を学び、知悉する必要がある。
英語において、主語・述語・目的語に関する規範的な用法でさえも古英語のころからが有ったか、最低限、残っている文献("Beowulf"など)だけでも読んで理解されるべきことがある。
言語に興味を持つ者にとって、課題がまだ多い。
私がいつもこの意志を保てるわけでないにせよ、かなり課題が残されていると自覚する。






起草日: 20190203

元記事と同様に、絵・音楽・執筆にブランクの傾向がある中、当日(上記日付)、俄かに記事の案が浮かんで必要相当にまとまったため、起草し、6,000文字ほどを打った。
中卒無職(22歳)である私が、向学心によって学問を進めている。
エリート主義・権威主義的には「学問に置けない・不倶戴天の存在」かもしれない。
例えば、野良犬が狂犬病(rabies)などの伝染病(epidemic)を媒介したり、農作物・備蓄の食害を起こすことで、現に人間の生活(住環境や家畜の生育)に害をもたらすようなものである。
これは野良犬についての偏見と人間的な功利性を伴うが、あくまでもそれを認識した上での譬喩である。
「野良犬にも似た私の学問」が、エリート主義・権威主義的には忌避されると思われる。
私は学術用語・概念をどうにか駆使し、「野良犬かつ雑種犬が新しい血統の犬種と認められる」かのような努力を続けられるとよい。

本文中の※印注釈に関連した備考→『受動態(受け身・受身)・被動者の英語はラテン語由来の"passive, patient"である。いずれも語頭pa-であるしラテン語の語源(不定詞: pati 苦しむこと)が共通している。ところが、日本語の漢字名称は語頭の字が受・被で異なっている上に、受身は「うけみ」という訓読みである。"adversative passive (indirect passive)"に至っては「被害受身 (間接受身)"ひがいうけみ (かんせつうけみ)"」などとちぐはぐな読み方・ハイブリッド読み・四字二分重箱読みをしている。中国の言語学もとい語言學(simp. 语言学)では"passive, patient"が「被動語態・被動者」として訳語の語頭の字が「被(bèi ペイ)」で共通する(ピンインb-字の発音はラテン語の無気p-発音と同じ。語頭の子音が合う点も音義借用翻訳のようで好ましい)。またしかし"adversative passive"を「被害受身」とすると日本語における重言のようでもあるし、ここは「損害被動"そんがいひどう"(indirect passiveは間接被動"かんせつひどう)"」でよかろう。する・されるという概念は大乗仏教中国仏教以来、能・所(のうじょ)という対立概念の名にもなっていて言語学の相・アスペクト"aspect"にも能相・所相という名称があるのだから、能動態に対して所動態(しょどうたい)という名でもよい。受動態も中国のように被動態と改めるべきだ。つくづく日本の言語学における訳語には疑問を覚える(cf. 同格"appositon"⇔格"case", 内破音・入破音"implosive consonant"漢語伝統音韻である入声と語頭の字が同じだがに関係ない音。入声は[p̚] [t̚] [k̚]の無開放閉鎖音"unreleased stop"とされていてそれを内破音だと言い出す日本人学者もいるので紛らわしさの極み)。受身(うけみ)という訓読みの語はごく日本語の文脈に限って使うべきで英語概念の訳語には合わない。上代~近世までの仏教国・日本での漢語用法からしても「被動」や「所」でよいし現代中国に譲歩する考えもよい』

今回の記事のパーマリンク"indirect verbs"に関連したラテン語(由来)の文法用語"verba sentiendi"(verba: 名詞・中性・複数・主格 + sentiendi: 分詞・中性・複数・属格、意訳: 情緒動詞・感覚動詞), "verba affectuum"(verba: 前に同じ + affectuum: 名詞・男性・複数・属格、意訳: 感情動詞), "verba habendi"(verba: 前に同じ + habendi: 分詞・中性・複数・属格、意訳: 所有動詞)
軽い造語→"verba irregularia"(verba: 前に同じ + irregularia: 形容詞・中性・複数・主格、意訳: 不規則動詞)

今回、何となく目についたグルジア語(ジョージア語・カルトゥリ)を引き合いに出したが、これは対照言語学的な手法として可であろうと私は考えている。
個人的な学問のための今後の展望として、日本語・漢語・印欧語(地理的にはフィンランド語・ハンガリー語・バスク語を含む)以外にも、グルジア語ないしコーカサス諸語をはじめとした膠着語・抱合語系統に対する学習を進める必要がある。
グルジア語ないしコーカサス諸語を対照言語学の中心にする場合、オーストラリアのアボリジニ系の言語群や、アメリカ大陸のマヤ系だったか西海岸北部とかだったかの言語群も引き合いに出した方がよいと思われる。
ユーラシアを超えた言語学習・研究・考察のための、意思がまだ無い。
どれほど、広い規模の言語が対象となるかと思うと、広いようではあるが、所詮は一球体・グローブ単位のグローバルであり、人類単位のユニバーサルである。
つまり、地球上の現生人類全体かつ単一人類(Homo sapiens sapiens)における共通性や普遍性の探求であることを意識すべきである。

2019年2月3日日曜日

現代日本語・口語における述語表現の省略 ~ 経緯・場面 (scene) による相対性

〇少し前置き

日本語で「何これ・これ何 vs. これは何ですか?」というような述語(動詞が文の必要な構成要素となる在り方)を欠いた表現の許容は、古今東西、見られよう。
梵語(サンスクリット及びパーリ語をはじめとした古インド・アーリア語)では、存在動詞やコピュラ動詞(梵語asti, ラテン語est, 英語isなど ある・いる、である・だ・なり)が額面的に用いられない文が多いことは日本語と似る側面がある(梵語の典籍からは基本的にコピュラ用法が見られない)。
また、梵語では、動詞の派生語で本来は述語たりえない分詞のうち、過去分詞(厳密には過去受動分詞"past passive participle")をそのまま述語のように使うことも多い(英語で過去分詞"past participle"は必ずbe動詞・コピュラ"copulative"・存在動詞を伴う。他の場合は単純過去形"simple past"と語形が同じことが多いのみで過去分詞と単純過去形は別の文法概念)。

今回はそれらのことと比べて、より日本語における「文法的単純さにおける多義性」が窺える例を探ってみる。
「述語表現の省略"omission of predicate"」がされた日本語の表現からは、存在動詞やコピュラ動詞以外の動詞の意味を見出すことができる。



〇表題の通りの話題

現代日本語・口語では述語表現を省いて「〇〇は××」や「〇〇(呼びかけ)、××」という文例が多く見られる。
そのうち、しばしば「ウナギ文」として「ぼくはウナギ(だ)」という文例が挙げられることは、「ぼく」という一人称代名詞=話し手が「ウナギ」を目的語に取り、その目的語「ウナギ」を要求するという文脈で解釈されている(I order unagi; eel as food)。
つまり、飲食店で「ウナギ(うなぎのかば焼き・うな重など)」の料理を注文するという場面で用いられたならば、当然その意味で解釈されることが自然であるという。
そのような場面が想定されるならば、よりシンプルに「ぼくウナギ」とか「ウナギ!」とだけでも通じてしまう(ただし「ウナギ!」だけでは先に他の人から「あなたの注文は何か?」という趣旨の問いが向けられねば発話者自身がそう発話することは一般の言語能力から発生しづらく思う)。
この場合、省かれた述語は「~を要求する・~を求める・~を注文する(~が欲しい)」と想定される。

また、簡潔な自己紹介や他人を紹介するフレーズの場合に「ぼくは××」、「わたし××!」、「あいつ××」など(助詞"は・が"の有無は口語が用いられる場面ごとに分かれるためここでは不問)と表現される。
この場合、省かれた述語は「~だよ(である)=~という状態の人物である(I am... 他)、~という名である(My name is... 他)」と想定される。

それに限らず、現代日本語・口語では述語表現を省いて「〇〇は××」や「〇〇(呼びかけ)、××」という文例が多く見られる。
どのような状況でどのような述語が省かれたか、個別に考察されるべきである。
「〇〇(呼びかけ)、××」とは、「お姉ちゃん、お菓子」とか「父さん、お酒」とかとなる。

「お姉ちゃん、お菓子」とは、肉親としてのお姉ちゃん(血縁関係が有る者)であれ近所のお姉ちゃん(血縁関係が無い者)であれ一般的な年上女性のことであれ、話し手が「お姉ちゃん」と呼ぶ人物にお菓子を求める言葉になると想定される。
しかし、反対に、話し手が「お姉ちゃん」と呼ぶ人物に対してお菓子を捧げる意思表示とも想定される。
前者であれば、省かれた述語は「~を要求する・~を求める・~を注文する(~が欲しい)」となる。
後者であれば、省かれた述語は「~をあげる・~を与える・~を捧げる(推量・希求の形~を与えよう、でも可)」となる。
想像図「前者・後者」
後者は呼びかけの対象とされた人物・事物の名を主語に変えて「〇〇は××を受けよ(受動態命令形"passive, imperative mood")・受くべし・受くべきなり(受け身の推量形または動詞的形容詞ジェランディブ"gerundive")・お受けください・受け取りますように(受動態願望法・希求法"passive, optative mood")」のようにしてもよい。
いずれにせよ、やはり実際に用いられる言葉ならば、当然、その場の経緯が重んじられ、その場限りの意味で取る必要がある。

ここでもし、「お姉ちゃん」と呼ばれる人物が、前者とも後者とも解釈せずに「お姉ちゃん、お菓子」という言葉を、冒頭にも挙げられた「存在動詞やコピュラ動詞(ある・いる、である・だ・なり)」を補って「お姉ちゃんはお菓子(という存在)なんだね」と解釈して「お姉ちゃんはお菓子じゃありません(お菓子という存在ではない)」などと返答したらば、話し手にとって予期しない反応である。

「父さん、お酒」についても、後者の場合とその解釈で省かれた述語は「~をあげる・~を与える・~を捧げる(推量・希求の形~を与えよう、でも可)」となろう。
話し手が「父さん」と呼ぶ人物に対してお酒を与えようとする(容器に注ごうとする)ために言葉を発するならば、その「父さん」が用いる酒の器(お猪口・グラスなど)を差し出すように頼む言語表現ができる。
つまり、「父さん、器(お猪口・グラスなど)」と言えば「父さんたるあなたは器(お猪口・グラスなど)を差し出してください」という意味で解釈される。
ただし、その場の経緯が同じである時、反対に言語表現は前者のパターンに変えることもできる。もし、一連の行為が餅つきのように頻繁に反復されるならば、もっと単純な「とうさけ(略とうさんおさけ)」という記号的表現が可能である。
究極的に、「はい」とか「それ」とかという1・2音節程度の語でも問題が無い。



「〇〇(呼びかけ)、××」の例を二三に挙げたが、この「××」は物品・物体の名詞に限らず、動詞由来の名詞・行為名詞(nomen actionis)にも適用できる。
その場合、想定される場面は「行為の指示・提案」となる。
誰かが「ケン(呼びかけ)、掃除」と言えば「ケンという名のあなたは、掃除をしなさい(サ変動詞の命令形: 掃除せよ)」という指示(命令)を意味する状況が想定される。
誰かが「ユータ(呼びかけ)、バトル」と言えば「ユータという名のあなたは、俺と一緒にバトル(何らかの対戦行為)をしましょう(しようぜ、サ変動詞の命令形: バトルせよ)」という提案を意味する状況が想定される。
※話は逸れるが、この2例は「ケンという名のあなたは、俺と一緒に掃除をしましょう」、「ユータという名のあなたは、誰かへバトルを仕掛けなさい(サ変動詞の命令形: バトルさせよ)」と指示と提案とが逆転した状況が想定されることも有り得る。

なお、先の「お酒」でさえ、単なる物品の名詞であるのみならず、お酒を注ぐ・お酒を飲む(呑む・飲酒する)といった、名詞自体に行為との関連を見出せる単語である。
その傍証として、現代の英語の動詞"to drink (ドリンク)"は酒(an alcoholic beverage)を目的語に取らず自動詞"intransitive"で用いることができることを参照されたい。
「お酒」のみならず、名詞が物品・物体を示す場合、潜在する行為の性質があるとすれば、概して「それを与える"to give it"・それを求める"to want it"・それを用いる"to use it"」ということとなる。
名詞が物品・物体ではなくて場所を示す場合、潜在する行為の性質があるとすれば、概して「そこにorへ訪れる・行く"to visit; go there"」ということとなる。
※当然のことながら、場所と物体との区別は主観的・相対的であり、本質的・絶対的に区分される基準は無い。「店の類(百貨店・飲食店・デパート・レストランなど)」は建物として物体だが、行き先=目的地(destination)などの用法がある以上、「場所」概念"where; place; location"として認識される。インド・ヨーロッパ言語の格変化に処格"locative"があることに同じ。



「〇〇は××」や「〇〇(呼びかけ)、××」という日本語表現について、簡潔に言えば「物品の要求・物品の貸与・行為の指示・行為の提案を意味する述語が省かれた現象」となる。
インド・ヨーロッパ言語のうち、梵語や古典ラテン語よりも主語・述語をきっちりと表現する傾向にある近代英語では、以下のように一般的なフレーズによって表現される。

"Give me *** (ギブミー名詞ナントカ)"
"I give *** (アイギブ名詞ナントカ)"
"Please *** (プリーズ名詞ナントカ)"
"Let us *** / Let's *** (レッツ動詞ナントカ)"
※英文中の"***"および「ナントカ」は、先例の「××」に対応する。

これらフレーズにおいて先の「『お姉ちゃん』、お菓子」とか「『父さん』、お酒」といった例文にあるような、人物の呼びかけ(その文例の場合sister, my fatherなど)を伴うことは必ずしも多くないという側面も注意すべきである。



ここまで「述語表現の省略」とか「述語が省かれた」とかと書いてきた。
言語学的にこの現象が「省略"omission"もとい削除"deletion"(単に省略というと短縮・縮約"abbreviation; contraction"と混同されるため削除に言い換えよう)」か、「ゼロ化(ある語が形式上は無いが意味上は有る)」かといえば、やはり「省略もとい削除」であろうと思う。
当記事で扱われた「述語表現の省略」は、日本語文法で規範的に確立されておらず、口語のうちでも偶発的で気まぐれな表現に過ぎないと判断し得るためである。
一方、「ゼロ化」は、もう少し歴史的蓋然性が有ったり特殊な必要性を伴うと判断されるべき現象である・一言語内で標準的であると、私の脳内にある複数の例(ゼロコピュラ"Zero copula"など。当記事で詳述せず)から考える。

2019年2月26日に当記事のためのイラストを描き、後に掲載した。
そこで「前者・後者」の解釈の記号法が示され、ゼロ記号(ヌル記号。または空集合 empty setに同じ)を用いる。

 その解釈法の記号表記
 ∅S (null-subject) + A (○○) + B (××) + ∅V (null-predicate か null-verb)






起草日: 20190118

絵・音楽・執筆にブランクの傾向がある中、当日(上記日付)、俄かに記事の案が浮かんで必要相当にまとまったため、起草し、4,000文字ほどを打った。
この記事であっても『言語は、用いられた時「限り」の「仮初め(ラテン語ad hoc = for thisが英語でアドホック・「その場限りのもの」となるような意味的共通性がある)」の意味しか無い』という「定性"definity; definiteness"」を示す内容となっている。
それは言葉の真理を志向する者が、当記事ならびに日常生活の言語表現を気を付けているならば、自然と分かるに違いない(私が説き示す定性などのことが真理だという意味でない)。

また、当記事における文例「お姉ちゃん、お菓子」は、当然、読点で区切って呼びかけの表現として「お姉ちゃん」がいるだけであり、「お姉ちゃんお菓子」という名のお菓子(合成語・複合語"compound")として解釈されることが無いように仕向けてある。
「お姉ちゃんお菓子」という名のお菓子については、合成語・複合語"compound"解釈と関連するが、それは複数の2017・18年の記事(1, 2, 3)に詳述されている。
複合語解釈の例として依士釈(タットプルシャ)「お姉ちゃんによって調理されたor創作されたお菓子(お菓子byお姉ちゃん)」や「お姉ちゃんが有するお菓子(お菓子ofお姉ちゃん)」や、持業釈(カルマダーラヤ)「お姉ちゃんという名のお菓子(お菓子theお姉ちゃん)」や、「お姉ちゃんのような見ためor味or香りのお菓子(お菓子likeお姉ちゃん)」などがある。
「お姉ちゃん、お菓子」として読点で区切っている状態であっても、「お姉ちゃん、それと、お菓子(お姉ちゃんandお菓子)」のように何か連想して並列したり、目の前の事物を並列したりする状況も想定されることは有り得る。

「そもそも論」だが、文"sentence"が何であるかの形式的説明は、その最小限の要素について「主語と述語"subject and predicate"の構成だ」、「名詞句と動詞句"NP and VP (noun phrase and verb phrase)"の構成だ」、「内容語と機能語"content word and function word"の構成だ」と一般的に言われている。
当記事の例文は、いわゆる非文・「内容語の羅列」と、その形式・規範の観点でみなされる。
別の観点では文としての機能があること、異なる発話者の言葉が一文を作ること、行動言語を含めて音声言語が一文を作ることなど、巨視的な文の構造を示すことも可能である。

※単に形態論と言語類型論の範疇で考えれば孤立語"isolating languages"・分析的言語"analytic languages"(漢文や現代の英語が典型的)のように語幹の羅列であっても語順"word order"に依存しながら、名詞でも動詞でもその意味を取ることができる。もちろん、それは日本語の文法規範に有り得ず、語順に依存せずに「お菓子、お姉ちゃん」でも、既述の「お姉ちゃん、お菓子」の意味と同様に取ることが可能である。e.g. 「お菓子(B対格)(∅V=一人称動詞:欲しいよ)お姉ちゃん(A呼格)」、「お菓子(B対格)(∅V=一人称動詞:あげるよ)、お姉ちゃん(A与格)」

当記事の例文に「お酒」を持ち出した筆者は今月(起草日の月)で22歳になるが、20歳になってからの2年でお酒の類・アルコール飲料(日本酒・ビール・ワイン・ウイスキーなど母親は飲むようなもの)を一口も飲んでいない(記憶が確かな限りは)。
筆者の近況については、日記メモまとめ記事をご覧になればよい。



2019年2月3日、「現代日本語・口語における述語表現が変容して存在する文法 ~ 感情表現・幼児語の正統性」という関連記事を起草した。
それは随時に投稿される。
Permalink: https://lesbophilia.blogspot.com/2019/02/indirect-verbs-in-japanese.html
語用論"pragmatics"

2018年9月9日日曜日

日本語「いかにいわんや(何況)・ましてや」と梵語・ラテン語・英語の共通点

尊者自説偈(萌集記)の2句目に見られるフレーズ"kaḥ punarvādo"および異版の"kimaṅga punaḥ"と、その訳語「いかにいわんや(何況)」に関する考察を行う記事。

"kaḥ punarvādo (元kaḥ punarvādaḥ)" कः पुनर्वादो は、疑問文であり、主に反語表現として用いられるフレーズである。
このフレーズで一つの副詞句"adverbial phrase"を形成していよう。
尊者自説偈では、このフレーズが、後続の"me muniḥ (我が牟尼である)"に掛かっている。
そこでは「我が聖(牟尼)が~について劣るであろうか?(疑問文・反語表現)」=「いわんや(前句の一切"sarvadharmā"よりも・増して)我が聖(牟尼)の〔前句の不可量"aprameya"〕なることをや」または「言うまでも無く(前句の一切"sarvadharmā"よりも・増して)我が聖(牟尼)は〔前句の不可量"aprameya"〕について尚更である」と意味する。

※語の原形を用いて詳細に説明すると、kas 疑問代名詞・男性単数主格、punar 不変化詞、vādas 名詞・男性単数主格=先行vādasに一致させられている。直訳で「何か・復た・言うこと」。日本語の「…言えば更なり(ただし世間では"言わずもがな"がその用法で定着した)」と似る。ほか、後述の"kimaṅga punaḥ"は、同様にkim 疑問代名詞・中性単数主格、aṅga 名詞中性主格=先行kimに一致させられている、punar 不変化詞。直訳で「何か・支え(一応の意味だが詳細を後述)・復た」。こういった語句の構成で、特定の意味としての用例がある。後述の古代ギリシャ語など西洋言語とも似るので、その詳細を本記事で考える。



尊者自説偈の元の漢文に、当該箇所は「何況我大聖」とある。
これを訓読すると「何に況や我が大聖をや」となるが、更に現代語で直訳すると「どうして(なぜorどのように)言うべきであろうか・我が大聖のことを」となろう。
※「何に→いかにorいかにぞ→どのように→どうして」、「況や→いわんや・言わんや(言おうか)→言う+助動詞「ん・む」推量形≒義務形→言うべきであろうか(言う必要があろうか)」という意味論的"semantic"な解釈がある。稀に「何をか況や」という訓読も見られるが、それは別の慣用句「何をか言わんや(何を言おうか?何を言いたいか?=あなたが言いたいことは何なのか?)」と混同した近現代の誤訓読であり、原文の漢語・梵語の意味に合わない。
※「いわんや」の「や」は疑問の係助詞であるから、「いかに況や~を」で終える方が合理的(形式的理論に則っている)だが、況フレーズ訓読に限って「いかに況や~をや」として疑問の終助詞「や」を付けるという疑問助詞「や」の重複がされる。もし日本語の語順に合わせたならば「いかに~を況や」とされたろう。なお、無関係の慣用句「何をか言わんや」も疑問助詞「か」と「や」との重複がされる。言語を用いる者の語感に任せて重複が好まれたと思われる。

"kaḥ punarvādo (元kaḥ punarvādaḥ)" कः पुनर्वादो は、サンスクリットの仏典に見られる。
それは、漢訳経典で「何況(かきょう、かこう Pinyin: hé kuàng, ZZ式上古音: /*ɡaːl hmaŋs/)」と訳されることが多い。
Saddharmapuṇḍarīka Sūtra と二つある漢訳(1. 竺法護 2. 鳩摩羅什)、法華経譬喩品"Aupamyaparivarta"
Saddhp_3: anenāpi bhagavan paryāyeṇa tasya puruṣasya na mṛṣāvādo bhavet | kaḥ punarvādo yattena puruṣeṇa prabhūtakośakoṣṭhāgāramastīti kṛtvā putrapriyatāmeva manyamānena ślāghamānenaikavarṇānyekayānāni dattāni, yaduta mahāyānāni
1. 隨其所樂許而賜之。適出之後各與大乘。以故長者不爲虚妄。究竟諸子志操所趣。故以方便令免患禍。況復貯畜無量寶藏。以一色類平等大乘賜子不虚。
2. 世尊。若是長者。乃至不與最小一車。猶不虚妄。何以故。是長者先作是意。我以方便令子得出。以是因縁無虚妄也。何況長者。自知財富無量。欲饒益諸子等與大車。

同じく法華経法師品"Dharmabhāṇakaparivarta"
Saddhp_10: bahujanapratikṣipto 'yaṃ bhaiṣajyarāja dharmaparyāyastiṣṭhato 'pi tathāgatasya, kaḥ punarvādaḥ parinirvṛtasya ||
1. 如來現在有聞斯典。多有誹謗。何況如來滅度之後。
2. 而此經者。如來現在。猶多怨嫉。滅度後。
※「猶、況」の虚辞"Syntactic expletive"・相関"correlative"似の構文は、現代中国語でも「尚且、何況(簡体字→何况)」の形で継承される。日本語でも形式的に「~でさえ○○(だから・なのに)、~はなおさらだ」という言い方で用いられる。

Vimalakīrtinirdeśa Sūtra と三つある漢訳(1. 支謙 2. 鳩摩羅什 3. 玄奘)、維摩経見阿閦仏品"Abhiratilokadhātvānayanākṣobhyatathāgatadarśanaparivarta"
Vkn 11.8: teṣam api satvānāṃ sulabdhā lābhā bhaviṣyanti, ya etarhi tathāgatasya tiṣṭhato vā parinirvṛtasya vemaṃ dharmaparyāyam antaśaḥ śroṣyanti | kaḥ punar vādaḥ, ye śrutvādhimokṣyante pratyeṣyanty udgrahīṣyanti dhārayiṣyanti vācayiṣyanti paryavāpsyanty adhimokṣyanti pravartayiṣyanti parebhyaś ca vistareṇa saṃprakāśayiṣyanti bhāvanāyogam anuyuktāś ca bhaviṣyanti |
1. 在在人人聞是法者快得善利。聞是語不好信。 (支謙による古訳なので参照された原典が後世のものとかけ離れた内容だったか彼の訳の特徴が出たかと考慮すべし)
2. 其諸衆生若今現在若佛滅後。聞此經者亦得善利。況復聞已信解受持讀誦解説如法修行。
3. 其諸有情若但聞此殊勝法門。當知猶名善獲勝利。何況聞已信解受持讀誦通利廣爲他説。況復方便精進修行。 (最後の"況復"は"ca"を意訳したものと見られる)

Kāśyapaparivarta (-sūtra) と四つある漢訳(1. 支婁迦讖or支謙 2. 失訳者名 3. 失訳者名 4. 施護)
KPV.125: dharmato 'pi tathāgataṃ na samanupaśyati kaḥ punarvāda rūpakāyena
1. 於佛法亦不著。何況常著色。(訓:仏法に於いて亦た著せず。何に況や常に色に著するをや)
2. 如法者。不見如來有色身。(訓:如法とは如来を見ざるなり。況や色身あるをや)
3. 以正法身尚不見佛。何況形色。(訓:正法身を以て尚お仏を見ず。何に況や形色をや)
4. 於彼法身如來明了通達。無其見取。亦不言論色身離欲。(訓:彼の法身に於いて如来は明了に通達して其の見取無し。亦た色身を言論せず欲を離る)
※漢訳の4(漢文の区切りは大正蔵のままにして掲載・訓読)について2点、気になる。まず、梵文や他の訳3つと意味が異なる。次に、恐らくpuna訳語と思しき箇所が「亦=また・api; ca系」であって「復=また・puna系」でないことである。例のフレーズ訳語は亦不言論に加えて亦不論量亦不議論ともされていて一定でないが、「亦」がpunaに対応した用い方は一貫する。
※チベット語で"ལྟ་ཅི་སྨོས (lta ci smos)"という「何況」は後で説明するが、上掲文のチベット版は"de de bźin gśegs pa la chos ñid du yaṅ mi lta na gzugs kyi skur lta ci smos"とある。



例のフレーズは、ヴェーダ・バラモン系の聖典には見られない。
類義フレーズ"kimaṅga punaḥ" किमङ्ग पुनः の方は、ヴェーダ・バラモン系の聖典にも見られる。
このうちの"kimaṅga"は、サンスクリットの辞書にも紹介される
アプテ説"(aṅga अङ्ग is) used with kim किम् in the sense of 'how much less', or 'how much more;' śaktirasti kasyacidvideharājasya chāyāmapyavaskandituṃ kimaṅga jāmātaram ṃv.3; tṛṇena kāryaṃ bhavataśvirāṇāṃ kimaṅga vāghastavatā nareṇa" モニエル=ウィリアムズ説"aṅga अङ्ग ind. kim aṅga, how much rather!" シャブダサーガラ?説"aṅga अङ्ग (-कत)¦ r. 10th cl. (aṅgayati अङ्गयति)  1. To mark. 2. To count. See aṅka अङ्क"
※以上3説において、IASTとデーヴァナーガリーとを筆者が便宜的に併記した。太字boldも一部に筆者が便宜的に付与した。
※"kimaṅga"における"aṅga"の意味は、いまいち掴めなかったので、中性疑問代名詞"kim"と結びつけられて慣用句・イディオム化したものかと解釈してきた。そこで、より強引に解釈したい。もしaṅgaがaṅka(数"number"など)に関連する単語ならば、kimaṅgaは後述ラテン語"quanto magis" 英語"how much more"のように数・数える行為・多寡・増減・分量・量性"quantity"に関する意味である。ただし、未だにkimaṅgaは2語のサンディ形なのか不変化複合語・隣近釈(avyāyībhāva)なのかも判然としないことや、aṅgaをaṅkaに関連させるならば「aṅkaはパーリ語で数に関する用例が無かろうこと・印欧語の同根語=古代ギリシャ語ὄγκος, ラテン語uncusにも数に関する意味が無かろうこと」から、疑問が残る。加えて、aṅka, ὄγκος, uncusは幾何学的かもしれない曲線"curve", 線"line"の意味を含むとされるが、ユークリッド原論の3言語版(IAST込みラテン文字やギリシャ文字の計1,000,000字以上が対象)にも全く現れない。

"kimaṅga punaḥ"を用いた仏教以外の文献を示す。
ラーマーヤナ 5巻60章3節 (同書は全体でも他に4巻26章13節のみ)
avaśyaṃ kṛtakāryasya vākyaṃ hanumato mayā |
akāryam api kartavyaṃ kim aṅga punar īdṛśam ||
英訳の例: The words, though improper of Hanuma who had accomplished his task, are to be obliged certainly by me. Wherefore then, moreover, on such an occasion? (件の何況や英語"how much more"とはかなり意味が違う)

他に用例だけ確認できるページを示す。
Bhāmatī (P.73, Wikisource) "kimaṅga punaḥ kartumityarthaḥ"
Tantravārtikam (P.233, Wikisource) "kimaṅga punaḥ satyavacāṃ"
※前者はVācaspati Miśraの作で、後者はKumārila Bhaṭṭaの作で、いずれも7世紀以後のヒンドゥー教界隈の作である。後者は特に、仏教に言語・文法的な批判をした人物である(英語版Wikipediaによる)とされるので、この"kimaṅga punaḥ"が何況の意味で用いられているならば仏典から影響を受けて用いたものと考えることができる。

aṅgaやvādaを欠いた文(婆羅門系聖典~仏典などサンスクリット全般)も示す。
pravadyāmanā suvṛtā rathena dasrāv imaṃ śṛṇutaṃ ślokam adreḥ |
kim aṅga vām praty avartiṃ gamiṣṭhāhur viprāso aśvinā purājāḥ || - リグ・ヴェーダ1巻118章3節
英訳の例: With your well-rolling car, descending swiftly, hear this the press-stone's song, ye Wonder-Workers. How then have ancient sages said, O Aśvins, that ye most swiftly come to stay affliction?
※4ヴェーダを全て調べても僅かにkim aṅgaが見られるのみ。古ウパニシャッド類には見当たらない。

svabhāvato vidyamānaṃ kiṃ punaḥ samudeṣyate - 中論24:22偈(頌)A句 (偈・8音節にすべく虚辞的にpunaḥを加えたろうと思ったが三枝訳では「自性(固有の実体)として現に存在しているどのようなものが,さらに再び生起するであろうか」と意味を取る)
若苦有定性 何故從集生 - 鳩摩羅什による漢訳 (この什訳中論に何況という語が4回出るが例の梵語フレーズに基づく訳ではなかった)

sūkṣmo hi cittacaittānāṃ viśeṣaḥ |  sa eva duḥparicchedaḥ pravāheṣv api tāvat kiṃ punaḥ kṣaṇeṣu | - 倶舎論2:24頌に対する注釈の一部分
心法差別最細難可分別。於相續尚難知。何況刹那中。 - 真諦による漢訳
諸心心所異相微細。一一相續分別尚難。一刹那倶時而有。 - 玄奘による漢訳 (梵語にはkiṃ punaḥ, kaḥ punaḥおよび-punar形など複数見られたが、その漢訳は他の疑問詞である場合が多かった)

※チベット語で"kaḥ punarvādaḥ"や"kimaṅga punaḥ"の訳語はལྟ་སྨོས་ཀྱང་ཅི་དགོས (ワイリー式: lta smos kyaṅ ci dgos)だという(何らかのサイト説)。シナ・チベット語族なので中国語の疑問詞「何"ka"」などに類似する発音の語句が有るかと期待したが、無かろう。語順も日本語や漢語とかなり異なる。用例は根本説一切有部毘奈耶雜事"'dul-ba phran-tshegs-kyi-gshi"にある→rnam par shes pa dang bcas pa'i lus la lta smos kyang ci dgos (豈況其餘含識之類) このほかལྟ་ཅི་སྨོས (lta ci smos)という類例もあり、用例は寶篋經"dkon mchog ca ma tog"にある→chos kyi rnam grangs gzing dang ʼdra bar shes pa rnams kyis chos nyid kyang spang bar bya na chos ma yin pa lta ci smos. (世尊説譬喩經言。當除所欲法於非法耶 別の訳:能知我法如筏喩者。法尚應捨況復非法)



サンスクリットの仏典とは、詳細に言って「仏教混交サンスクリット"Buddhist Hybrid Sanskrit, BHS"」を用いた仏典である。
件の"kaḥ punarvādo "は、サンディ(連音)の特定条件で語尾-aḥが-oとなった結果に有り得る形であり、より元の形は"kaḥ punarvādaḥ"となる。
仏教混交サンスクリットでは、多くの場合に-oで現れる。

釈尊在世より何らかのプラークリット(アルダマーガディーのような)で用いられたと思われる。
パーリ語(プラークリットの一種)の仏典には訛り発音で"ko pana vādō"とある(パーリ語にはpanaとpunaとが混在しているが何況フレーズにはpanaのみを用いている。pana, punaは共にサンスクリットpunaḥと同源であると見られる)。
Rūpaṃ, bhikkhave, aniccaṃ atītānāgataṃ; ko pana vādo paccuppannassa. - 相応部22.9経"Kālattayaanicca sutta"
諸比丘、過去・未來色尚無常。況復現在色! - 雑阿含経・第79経

※参考までに漢訳阿含経典を引用する。それらの原典はスリランカ系上座部仏教が伝承するパーリ語仏典ではなく、別の上座部仏教が伝承するガンダーラ語(ガーンダーリー)や他のプラークリットや仏教混交サンスクリットの経典であったと推定されるが、それら非パーリ語仏典に同様のフレーズがあることを漢訳から想像できる。

ye kira, bho, pāpakāni kammāni karonti te diṭṭheva dhamme evarūpā vividhā kammakāraṇā karīyanti, kimaṅgaṃ pana parattha. Handāhaṃ kalyāṇaṃ karomi kāyena vācāya manasā. - 中部130経"Devadūta sutta"
確認可能な漢訳経典の全てに当該フレーズの対応箇所が見当たらなかった。ここで意訳すると「ああ、犯罪者(criminal=罪人sinner)は現世でさえ刑罰を受ける。いかに況や来世をや(況してや来世は尚更だ)?私は三業の善をなそう」(paratthaは「来世に(他の場所に"in another place; elsewhere"・後の時に"hereafter")」という副詞なので「来世においてをや」と訳したほうがよいかも)。

Imehi nāma, bhante, aññatitthiyā ācariyassa ācariyadhanaṃ pariyesissanti, kimaṅgaṃ panāhaṃ āyasmato ānandassa pūjaṃ na karissāmī. - 中部52経"Aṭṭhakanāgara sutta"
尊者阿難。梵志法律中説不善法律尚供養師。況復我不供養大師尊者阿難耶。 - 中阿含経・第217経



「況」を「ましてや・まして」と読むこと・西洋言語について

仏典に見られるこのフレーズ"kaḥ punarvādo"と、その漢訳「何況」の日本語・訓読「何に況や(いかにいわんや 旧仮名:-いはむや -いはんや)」と"kaḥ punarvādo"とは、疑問文・反語表現・動詞「言う(√vadに由来するvāda)」の3点が共通する。

「況(状況を意味する)」単体では、日本語で「況してや(ましてや)」と読まれる場合もある。
管見の限りでは、古代から近代にかけて(19世紀までの1500年以上もの間)、この語は日本でほとんど用いられなかったろう。
「いわんや」の「や」は、元々「何に況や」のように「何に・いかに」と対応した疑問の助詞「や」が連なった形式であるが、疑問文・反語表現でない現代に副詞として用いる「ましてや・況してや」は、疑問の助詞「や」が形骸化していよう。
恐らく、古語には有り得ない形式か用法である。
現代語における普通の肯定文では「adv. ましてや」よりも「adv. まして」とした方が妥当となろう。
文語体では「何に況や」と書いて「いかにましてや」と読めなくもない。

「ましてや・まして~」はサンスクリット"kaḥ punarvādaḥ / kimaṅga punaḥ"と同様に用いられるラテン語"quanto magis; quantus"と「まして(増して・量が増える・多くなる・大きくなること)」という「分量・量性"quantity"」に関する意味合いが共通する。
"magis (後述の英文にある"more"という単語と同じで形容詞の比較級を作るためにも用いる)"に対しては「ますます」という相対性の表現が、より似る。
「ましてや"magis, more"」系は、「いわんや"-vāda √vad"」系と明らかに異なっている。
※なお、「いわんや"-vāda √vad"」系の英語には"to say nothing of" (他にラテン語mens, menito由来の英語イディオム接続詞"not to mention"も同義語)というフレーズがあるが、疑問文・反語表現でない(逆説的であり"apophasis"とされる)。それは否定表現なので日本語「~は言うまでもない」、「~はもちろん=勿論(論ずる勿れ)」が似る。類義語"let alone (~はおろか)"は「いわんや」と「ましてや」のどちらの系統でもない。

そのラテン語のフレーズがウルガータ・聖書類にある場合、元の七十人訳=ギリシャ語(コイネー、古代ギリシア語)は"πόσῳ μᾶλλον (他アリ)"、英訳では"how much more"となる。
※古来、和語(やまとことば)として「まして~」という副詞的な表現が有ったろうか?漢字「況(さんずい+兄)(辞書12 簡体字:况 古くは𡶢?)」の原義は「寒水也(寒水"cold water"、説文解字より)」または「水が流れる様子・水が増えてゆく様子」を示すそうであり(123)、「まして~」の「増す」という意義は漢字・字義の解釈から来ていると考える方が妥当である。その場合は、漢語=梵語からの漢訳「何況」の方に"quanto magis, πόσῳ μᾶλλον, how much more"と共通する意味論的考察を加えたほうがよいかもしれない。余談だが、「」といった字も「況」のように「いわんや」と読み下すそうである(漢籍での用例"在物尚然,矧於臣子。")。
ルカ11:13(la) εἰ οὖν ὑμεῖς πονηροὶ ὑπάρχοντες οἴδατε δόματα ἀγαθὰ διδόναι τοῖς τέκνοις ὑμῶν, πόσῳ μᾶλλον ὁ πατὴρ ὁ ἐξ οὐρανοῦ δώσει πνεῦμα ἅγιον τοῖς αἰτοῦσιν αὐτόν. (マタイ7:11とほぼ同内容)
KJV Luke 11:13 If ye then, being evil, know how to give good gifts unto your children: how much more shall [your heavenly] Father give the Holy Spirit to them that ask him? ( [ ] 内は原語に無い訳補)
※現代中国語の和合本 CUV 路加福音では「你們雖然不好、尚且知道拿好東西給兒女。何况天父、豈不更將聖靈給求他的人麼。」と、同義語反復がされる。新標點和合本 CUVNP 路加福音では「你們的天父豈不更…」と、「CUV: 何况」が省かれる。

ピレモン1:16(la) οὐκέτι ὡς δοῦλον ἀλλὰ ὑπὲρ δοῦλον, ἀδελφὸν ἀγαπητόν, μάλιστα ἐμοί, πόσῳ δὲ μᾶλλον σοὶ καὶ ἐν σαρκὶ καὶ ἐν κυρίῳ. (両語の間にδὲ とある例)
KJV Philemon 1:16 Not now as a servant, but above a servant, a brother beloved, specially to me, but how much more unto thee, both in the flesh, and in the Lord?

申命記31:27(la) כִּ֣י אָנֹכִ֤י יָדַ֙עְתִּי֙ אֶֽת־מֶרְיְךָ֔ וְאֶֽת־עָרְפְּךָ֖ הַקָּשֶׁ֑ה הֵ֣ן בְּעֹודֶנִּי֩ חַ֨י עִמָּכֶ֜ם הַיֹּ֗ום מַמְרִ֤ים הֱיִתֶם֙ עִם־יְהֹוָ֔ה וְאַ֖ף כִּי־אַחֲרֵ֥י מֹותִֽי׃
 (旧約聖書を参照したくてこれを見つけた。当該箇所 וְאַ֖ף כִּי 翻字例wə-’ap̄kî。このほか箴言11-31一サミュエル23-3などに見られたものの、三者みなギリシャ語七十人訳(Δευτερονόμιον, ΠαροιμίαιΒασιλειών Α')では例のフレーズが見られない)
KJV Deuteronomy 31:27 For I know thy rebellion, and thy stiff neck: behold, while I am yet alive with you this day, ye have been rebellious against the LORD; and how much more after my death?

マタイ6:30(la) εἰ δὲ τὸν χόρτον τοῦ ἀγροῦ σήμερον ὄντα καὶ αὔριον εἰς κλίβανον βαλλόμενον ὁ θεὸς οὕτως ἀμφιέννυσιν, οὐ πολλῷ μᾶλλον ὑμᾶς, ὀλιγόπιστοι; (πολλῷはπόσῳと違って"how"の意味を持たないが疑問文・反語表現のままである)
KJV matthew 6:30 Wherefore, if God so clothe the grass of the field, which to day is, and to morrow is cast into the oven, [shall he] not much more [clothe] you, O ye of little faith?

他の参考:複数の日本語訳聖書 (日本語版Wikisource所載。戦前のもの・文語体に「いわんや」形の訳例が少し有り。書・章・節に基づいて比較せよ)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8
英語版Wiktionary - Appendix:Ancient Greek correlatives (古代ギリシャ語の相関代名詞)
https://en.wiktionary.org/w/index.php?oldid=42376143



当然、話題にある言葉(日本語・漢語・英語・ラテン語・ギリシャ語、特に日本語)は慣用句・イディオム化していたり、翻訳・訓読の便宜上に翻訳借用"calque"がされたか、造語がされたものであり、それ以上に歴史を深読みできない。
疑問点を示そう。
「いかにいわんや・まして~」は漢文訓読以前から日本語に似た言い回しが有って翻訳借用がされたか?
上代に漢訳経典の原語・梵語(いかにいわんや 言うこと・vāda一致)や、近代に英語・ラテン語などの西洋言語(「まして~」 ますます・magis一致)を見て日本語で造られたか?(「まして~」は※注釈されたように漢字「況」の原義に由来する可能性もある)

また、以下のように、比較言語学や歴史言語学の観点でより多くの研究が望まれる。
印欧語と異なる中国や日本はもちろんセム系諸語など世界中の言語に固有の表現で同様の言い回しは有るか?
そうでない場合は(特定言語のみに固有だったとして)、いつ翻訳借用や造語がされたか?

日本語における漢文訓読には、どれほど梵語の知見が含まれたか?
そうならば、訓読の決定版成立(早くて10世紀ころ、遅くて江戸時代)までに影響を及ぼしたか?
また、そうならば、梵語の知見は在日中国人・中央アジア人・インド人(例は法道菩提僊那)などによってもたらされたか、最澄・空海・円仁など(彼ら以前の遣隋使や彼ら以後の安然・円覚など)によってもたらされたか?
誰が?いつ?どのように?どのくらい?…。




起草日: 20180708 (原案: 20180625)

当記事の要点については、漢語「況」には恐らく無い意味の「言う・増す」という和語が、「いわんや・ましてや」という形で訓読語・訓読みに現れる点で、訓読を行った古代日本人が梵語"kaḥ punarvādaḥ, kimaṅga punaḥ"の意味を何らかの経緯で知っていたか、偶然に原語の道理を心得たか(その場合はラテン語"quanto magis"を含む)、という仮説である。
ただし、「増す」の意味は調査中に「水が増える様子」という原義を確認できたので、漢語における翻訳行為・旧来の用法の再検証の余地がある。
その上で、より明確に検証されるべく、「印欧語と異なる世界中の言語に固有の表現で同様の言い回しは有るか?そうでない場合は、いつ翻訳借用や造語がされたか?」といった比較言語学や歴史言語学の観点による研究が進められる将来性(今から私たちが実現するもの)を示した。
インターネットには膨大な文献があるので、解読能力や解読意欲のある人は、日本語の比較言語学的な・歴史言語学的な研究のために用いて可である。

※漢語「何況・況復」が二字漢語(シナ・チベット祖語に時期が比較的近い古代漢語にあった2音節語)だと推定する学者もいるようだが、既述の梵語関連の理由で私は否定する。一方で「固有の表現で同様の言い回しは有るか?」という観点で肯定できる。ついでに気になって「何況」が古い漢籍に出るか調べたところ「何況一國之事 (楚辞・九弁、楚辭・九辨)」に見られた。なお、中期朝鮮語・ハングルの古い資料である「諺解」系に、漢語経典の重訳が載っているようである。当方で確認できた例は大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經・卷第四「欲何因縁取夢中物 況復無因本無所有」→능엄경언해 (楞嚴經諺解)4巻 (https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=111304&page=122および123)である。古ハングルは当方で表記困難なので示さないが、似た文字で「하물며 ᄯᅩ (翻字: hamulmyeo sto 前3文字は先に挙げられた聖書の文に対する朝鮮語訳でも使われる)」がある。この楞嚴經諺解による「○復」の解釈について学者某は「それら文献は当の2字漢語を1語化したものとみなさずに逐字的に読んでいる」とする。

もし漢訳仏典の訓読において梵語に基づき作られた語句であると証明できれば、いわば「仏教和語・仏教風日本語"Buddhist Hybrid Japanese"」が存在することになる。
その概念・名称を用いる時に注意すべきことは、一部の仏教徒が仏典の訓読文を知って教団の中で「まさに知るべし!(漢語"当知"に由来)・豈~んや」といったフレーズを用いたりすることについてまで適用すべきでないことである。
ちなみに、私がラテン語で作詞した際、その歌詞の日本語訳に「今昔混交日本語(英語にするとModern-Classic Hybrid Japaneseか)」という名称を用いたことがある。
その文面が難解のようでも、印欧語や訓読語の道理を得ている時に読めば、おそらく原語を想像しやすい一面がある。
ただし、私が作った歌詞の本来のイメージを詳細に伝える目的もあるので、結果的に色々な言語表現が混雑しただけであるともいえる(複数言語や宗教教義を若年にして短期間で学んだ結果)。



当記事の話題の言葉の起源に関して、上記の後書きも加味しながら、結論をまとめよう。

日本語の「いかにいわんや~をや・まして~」は翻訳借用"calque"起源である。
中国語の「何況」は彼らの中で発生した言葉であり、尚且つ翻訳にも用いられた。
梵語(古~中期インド・アーリア語≠サンスクリット)の"kaḥ punarvādo" および"kimaṅga punaḥ"は彼らの中で発生した言葉である。
英語の"how much more"は翻訳借用"calque"起源である。
ラテン語の"quanto magis"は翻訳借用"calque"起源である。
コイネー・ギリシャ語(Koine Greek)の"πόσῳ μᾶλλον"は不明であるが、ヘブライ語からの翻訳に用いられた。
聖書ヘブライ語(Biblical Hebrew) の וְאַ֖ף כִּי は彼らの中で発生した言葉である(もしくはヘブライ語と同じアフロ・アジア語族セム語派のより古い言語から存在する)。
チベット語の"ལྟ་ཅི་སྨོས"は不明であるが、サンスクリットからの翻訳に用いられた。
中期~現代朝鮮語(Modern, Middle Korean; 韓国語) の"하물며"は不明であるが、漢語とキリスト聖書一言語からの翻訳に用いられた。
これらは意味の共通点と相違点とが検証され、類似の派生語と比較・対照され、詳細に区別されよう。



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http://lesbophilia.blogspot.com/2018/06/hakari-hakanai-etymology.html



2018年6月11日月曜日

語源考証の試案「はかない(はかなし)」・梵語(由来の漢語)の日本語への影響

和語「はかない・儚い"hakanai, OJ: *pakanachi"」の語源を考察する
はかない=はかりが無い…これに2つの語義を想定して成立の順序を仮定する
語義①「おろかな(浅はかな?)」 語義②「無常な」



まずは、「はかる」という意味を持つ漢語や、漢訳仏典の元の梵語(サンスクリットなど古代~中期のインド系言語)を確認したい。
漢語・梵語、特に法華経(妙法蓮華経)や維摩経などの漢訳仏典が上代日本語・文化の成長に大きく寄与したという前提(聖徳太子述とされる7世紀前半の法華義疏など)に基づく。
筆者による過去記事を要約する。
度・量・推・測・計(および図・画・劃・謀・慮)  「物をはかる、心をはかる」
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/09/hakaru-mita-pramana.html

現代日本で「」は「ド "do"」の字音で「はかる・はかり」という意味に用いられているが、「忖(そんたく sontaku)」という語が政治の話題などでしばしば聞かれるよう、「はかる・はかり」という意味は本来「タク"taku"」と読む。
同じ読み方の語句「度量(たくりょう)」とは、妙法蓮華経方便品に「尽思共度量 不能仏智」と出ており、梵語原典では"yathāprameyaṃ mama buddhajñānam"とある。
yathāprameyaṃ (ヤタープラメーヤン)の中に"pramā प्रमा = pra- (前に・前方へ) + √ (動詞語根・はかる=推量・予測などの意味合い)"がある。
「度量」の異なる原語→"praṇaṃ, √grah, sumāpita, parigaveṣyamāna"
現代の日本語で「度量」は「どりょう」と読み、「心の大きさ・懐の広さ」みたいな「心のはかり(タク)」という意味で用いているが、本来は「たくりょう」と読むべきことであろう。
先述の通り「度(ド)」という字音は「わたる・わたす」という意味で用いるためである。

※孫子の兵法にも「一に曰く(たく)、二に曰く、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝 (軍形第四)」とあり、もちろん「度(たく)・量(りょう)」とも、何かを「はかる」意味となる。度と量との意味の違いは何か?「度」は先の※注釈や後の※注釈にあるよう「尺度」の意味が強く、「尺(ものさし)」による視覚的な大きさなどを「はかる」という意味か。ここでの「量」は数に通じるものか。世の解釈では、そのように「場(戦場・国土?)の広さ・距離を度る」、「物(武器や兵糧?)の多さを量る」とするらしい。戦闘前の計算・計画段階で、優れている人は初めから勝利が決定していると。この軍形篇の前は「謀攻」という名であり、それも「謀(む・ぼう)、謀る・はかる」という日本語になる。

※「度」の「尺度(測量するもの)」としての漢語使用が維摩経に出ている。支謙・鳩摩羅什の二訳に「非(度の測る所に非ざるなり)」と。梵語では"tulayituṃ"とある部分に「尺度」の意味を持つ動詞語根√tulや名詞tulāが含まれている。なお、以下の話題に関連しそうな「非意所(意の図る所に非ず)」という一節が、「非度所測」の前にある。こちらは"acintya (不可思議)"のような"cintayituṃ"として梵語にある。梵語を引き合いに出すとキリがない。漢語でも、表題に「図(圖・はかる)」の字を加えなかったが、今はこのように雑多な注釈を以て語ってしまう。

先ほどの"pramāna"もとい"pramā = pra-  + √mā"の√māという動詞語根は、主に「」と訳されており、漢訳仏典の漢詩・韻文・偈の便宜上「度量(たくりょう)」などとも訳することが上記の例(尽思共度量 不能仏智)である。
√māを含む梵語・サンスクリット語句ならび漢訳語句を挙げると「anumāṇa・比量」、「apramāṇa・非量・無量」などがある。
いわゆる「四無心」という語句も"apraṇa-citta"と表現され、「4種類の『はかりきれない心』」を意味する(4種類とは慈・悲・喜・捨のことだが無量について解釈を変えると慈・悲・喜・捨の心が瞑想などの修行によって無量といえるほど大きい状態・平等・普遍であることを意味する)。
「無光」という漢語は"amitâbhā (阿弥陀仏amitābhaに用いる)"と"Apraṇâbha (第二禅の光音天に準ずる光天apramāṇābhaに用いる)"とに分かれる。

妙法蓮華経・如来寿量品に「校(ぎょうけ)」という言葉がある
「校」とは会意形成文字であり、「交(爻)」字の影響で「校正・校訂」という場合に「くらべる」という意味があり、「(はかる)」と結び付けられる(よって校量という語もある)。
これは原文だと「諸善男子(kulaputrāḥ)。於意云何(tatkiṃ manyadhve)。是諸世界(te lokadhātavaḥ)。可得(śakyaṃ)思惟(kenaciccintayituṃ vā)校(tulayituṃ vā)知(upalakṣayituṃ vā)其數(先の動詞に反応した目的語の挿入)不(いなや?と疑問形を作る)。※-yituṃは不定詞を表すか?」となろう。
上の漢文引用でカッコに南条ケルン本の梵語ラテン文字を併記したが、他には「校」というよりも「校(upalakṣayituṃもといupalakṣayati)」に「知(けち)其數(tulayituṃもといtolayati)」と考えられる。
どうであれ、寿量品「校計(計)」の語を含む漢文については、元の梵語に√mā (pramā)の語句が確認できなかった。
ちなみに、"tulayituṃ"または"tolayitum"という語句は、先の※注釈にある維摩経(支謙・鳩摩羅什の二訳)にある「非(度の測る所に非ざるなり)」の「度(これもタク発音か)」と同じである。
当記事に関連するGoogle検索で「計度(けたく)」という言葉の存在も知った、これは「計(ケ・はかる)・度(タク・はかる)」の二字が一語を為している。

計算のといえば、「計画する」という熟語にも含まれる。
当記事(元記事)で既に、「支」や「孫子兵法における量」の説明に「計画」という言葉を用いた。
計画」の「画()」とは、「が」や「え(ゑ)」と読む(上古音g→中古音w, ɦ, h置換)字であり、「えがく」という動詞や「えがかれたもの=絵()」の意味を持つ。
計画(かく・くゎく・わく)」という場合は「」の旁である「リ、りっとう」部分を省いた俗字としての「畫(画)」か、混同したものであり、別の字と考える(画が悪=オ・アクや易=イ・エキのような二音二義の字ということも有り得なくはないが)。
その「」もまた「」のように「はかりごと(計策・謀)」の意味合いがあるとするが、部首の「りっとう」が、刃で傷つけて印をつける・分かつとか、筆を用いるさま(えがく行為)に当てられたようである。
計画行為の表現としての字と考えると、「はかる・はかり(推量など心の行為)」に通じよう。
何であれ、「画(畫・劃)」のカク系発音(入声音-k)は「はかる・はかり」に通じる意味と思う。
なお、サ行変格活用の動詞・サ変動詞「画す」といえば「カクす」と読み、「一線を画す」とは「一線を書いて分ける」という意味となろうが、「一線をえがく」の意味では「ガす・エす」と読めなくもない。

英語の"meter (ミター、メーター、メテル、metre, mètre メートル)"とは「計測する・はかる道具や基準」だが、サンスクリット語の"mātra (マートラ)"も「尺度・計量する物」として同義である。
この"mātra"も、文字通り、√māと関連する語である。
"mātra"もまた、日本語の「ただ・・・だけ」という表現のように使われ、華厳経・十地経(十地品)の「唯心」も"citta-mātra (ただ心のみ)"という("te cittamātra ti traidhātukamotaranti api cā bhavāṅga iti dvādaśa ekacitte"、楞伽経大乗荘厳経論などにも確認)、日本語も「○○ばかり」という表現があるよう、「はかり」の意味が「ただ・だけ」という意味と同じように用いられている。
○○ばかり」とは、「はかり得るほどに少ない(数えられるほどに少ない)」ということであり、サンスクリット語でも「√māマーできるほどに少ない」ということとなる。




以下より、当記事の本題に入る。
語義①・②とその成立の順序を仮定する。

「おろかな(愚かな・痴かな・癡かな)」・・・鎌倉時代などは後述②と同じく、この意味での用例が多い。
例: かしこき者(賢者)も、はかなき者(愚者)も… (創価学会・日蓮大聖人御書全集の検索結果も参照)
なぜ賢いことの対義語として「はかなし(はかり無し)」と言われるか?

はかり=思考能力
はかり無し≒無智・思考能力が無い(無いとは少ないの言い換えであり英語でいう接頭辞non-やun-よりも接尾辞-lessのような意味に近い)、浅はかである(はかりが浅い、思慮が浅い、浅慮な)

よって、「はかない」とは、「はかり無し≒思考能力なし(少なし)→おろかなり」、「はかなき者≒思考能力なき者(少なき者)→おろかもの」という終止形・連体形で用いられる言葉である。

※ここでの対義語「賢い・かしこい・さかしい」という言葉の方の意味を示さず、現代的語義や辞書的語義に委ねた。

※「はかない(文語終止形: はかなし)」の派生形で、「はかなむ・儚む」という動詞もある。もし「はかりが無い」に「はかない」の語源を求めると、「無い(文語終止形: 無し)」を「形容詞語幹 + む」という動詞にする例が見られないので「はかりが無い→はかない」という語源説に疑問が付随するであろう。

※「はかない」には「果無い・果敢無い」という当て字もある。語義的には「頼りない(結果を得られる期待がない)、果敢さが無い(勇敢でない)」という点で「おろかな」という語義に通じてはいる。後述の「無常な」とも、私が説明する意味と異なる点で通じる。しかし、音韻的には当て字の域を出ない。(歴史的仮名遣い: くゎ 中古音/kuaX/Xは上声)の字には日本と大陸との漢字音のH/K置換を適用することはできないことと、仮に果の字をH音に置換しても古代日本語におけるハ行=P音(無声両唇破裂音)→F音(無声両唇摩擦音/ɸ/)理論では通用しないこととにより、音韻論の観点では考えづらい。ただし、もし日本の古文献・古文書(奈良~平安時代)に、そういう表記例が有れば、別途考察の余地がある。上代・古代の日本人がア音のみをとって「はか(現代: haka 古代: *paka *ɸaka; phaka; faka)」に「果敢(歴史的仮名遣い: くゎかむ 中古音: kuakam  シノジャパニーズ: kwakam 語尾N音省き)」と当て字することは有り得たかもしれないが、それも現状は推定の域を出ない。音韻論をおおよそ抜きにして語義由来の当て字をすること(母音a連なりなど音韻に理由を託することもできる)は有り得るかもしれないが、私は否定的に見る。漢文の訓読においても「無果」に対して用いられなかろう。漢籍・仏典のいずれも「無果」という表現があっても、文意に当てはまらない(もし無因に対する意味での形容詞や名詞や無果樹のような複合語形態素であれば梵語でaphalaだがそれを訓読して和語「はかない」とはしがたい)。

※「はかばかしい(進捗がよいこと)」という語が源氏物語などに使われ、「はかどる(捗る)」という意味に通じる。これは「計略・計画(=はかり)通り」という点で、「はかる」と同根語に当たる。当て字に「捗々しい・果々しい」がある。後者の「果」による当て字は「結果を得られる見込みがある」という意味に基づこう。当の源氏物語など中世の書には、「はかない」と「はかばかしい」が色々な意味にも用いられるが、それらについては読者が各自に検討すればよい(その多義性は当記事の考証を妨げるものでないと分かる)。

※別の語源説もある。「はか」を複合語の形態素・結合辞・語幹として「墓(はか)、後世にいう『バカ(馬鹿・莫迦、あるいは梵語mogha モーガ音写の謨迦の転訛発音 ボキャ、仏教呉音モッカ、漢音バッカ)』」や「空虚なもの」とする。恐らく彼らは「なし」という部分については否定表現でなく、「少なし(すくな+し)」の「-なし」と同様に捉えているか、「な+し」が別の何かとして捉えていると思う。そういった説は、それ以上に文献学・言語学的な説明がされづらく、別の文学的理解や思想的理解に基づいてされたものであり、それはそれでヒューマニズム的によい。それで彼らが魅力的に思った日本の思想や歴史や情報を思い合わせて古代日本人の思想を詮索するが、言語学における語源考証と関係が無いので語源説としての信頼性が無い。いわゆる通俗語源・民間語源"folk etymology"である。無論、人文科学においても疑似科学じみたものが逆に定説を覆して史実や科学的事実に符合することも否定しないでおくが、当記事の語源考証案より外れるので話を終える。



「無常な(つねない、常なること無し)」・・・仏教漢語である「無常」の通俗的な意味(和歌などに愛好されるような感傷的なもの)に対応する日本語表現として平安時代以降に顕在化したろうか?
例: 桜が散った、誰かが死んだ、はかないことだ。(もみじが散った、草花が枯れたといった表現が和歌に多くあり植物と人の身と我が身との置換・比喩であって類推を促進する)
このことも、なぜ「はかない(はかり無し)」と言われるか?

はかり=量り、思考の対象・物質的思考の通用する範囲(はかるという動詞は元の記事のように梵語で√māとなり派生語にマートラ"mātra (〇〇ばかり…)"がある。印欧祖語*meh₁-の観点では英語に派生語のメーター"meter, metre"やメジャー"measure"などがある)
はかり無し=無量(過去分詞アミタ"amita"、過去分詞アプラミタ"apramita"、動名詞アプラマーナ"apramāṇa")≒不可量(動形容詞アプラメーヤ"aprameya")=不可思議(動形容詞アチンティニーヤ"acintanīya"、アチンティヤ"acintya")=無常(アニティヤ"anitya")
※アミタの単語例は、無量光仏や無量寿仏と呼ばれる阿弥陀仏・阿弥陀如来(あみだ、アミターバーamitābhāまたはアミターユスamitāyus)の名の音写が、著名である。
※和語「はかり」は、量・計・測といった漢字を用いるので具体的な測定基準や道具=meter, measure的なものが存在し、そのことを指すという論者もいるが、そういった測定基準や道具なども人間の思考・精神に基づいて決まったものである。原意としては和語の「はかる」も漢字の量・計・測なども、客観的な基準の無い思考や認識などで判断する行為にも用いられる。
※括弧内に過去分詞や動名詞や動形容詞と注記をしてあるが、慣用的な観点での名称である。いずれも、動詞語根に由来した言葉であって「準動詞・分詞」と呼ばれ、形容詞にも名詞にも用いられるし、その上での格変化などもする。

→儚いこと=思いがけないこと?
思う(これも多義的だが考えることも思うことの内となる)=判断基準がある状態で思考する行為、量り=そうして思う・考える・量ること。
それが無きものとされる=思いがけない=量りが無い。
「はかない・儚い」とは、より詳細に探究すると「思いがけず早く(桜が散った・人が死んだ)」といったような意味合いであろう。
「本来、日本語とは多義性や曖昧さがあってこそ美しい・高尚だ(非論理性や非合理性の一面を称賛する)」と考える文学者などがいるわけであり、それをあえて私は重複表現で明確にしなおし、解明を試みている。
それには、日本人が文献を残す以前より関わってきた漢語や梵語翻訳漢語(仏典を通した漢語)などを見てゆく必要もあろう。

謎の思考回路「はかり無し=無量=アミタ→アプラミタ→アプラマーナ→アプラメーヤ→アチンティニーヤ→アチンティヤ→アニティヤ=無常」
これらの梵語も、元の記事で言及されているので、確認されたい。
梵文法華経や梵文維摩経(ほか梵文阿弥陀経2種も)などに梵語としての原語があることも紹介しているし、私が紹介した部分とは別の箇所より原語を見つけることも可能である。





最後になるが、この検証をする前から「はかない」とは、もともと和語(やまとことば)として存在しなかったのではないか?という疑問があった。
改めて、最古の和歌集である万葉集(8世紀)にはそもそも「はかな…(-し、-き、-む)」という綴りが「見れば悲しも(みれはかなしも)」のような表現にしか確認できず、「はかなし」語句が見られない。
要するに、「②に見られた仏教由来の梵語翻訳漢語の和語バージョンが『はかない』であり、①は派生語でないか?」という結論である。
この考察をする前から、実は、そういった仮説を持っており、一応①の意味を先に紹介したが、やはり万葉集などの古い文献を調べても用例を発見できないことで「はかりが無い→はかない」の語源説について信頼性が生じた。

音韻論的にも「はかり+無し」は、りが省かれる道理がある。
「はかり無し・はかりなし→はかなし」とは、見ての通りに「り」が省かれているが、「り」はラ行もとい流音であって世界言語でr・l音が二重子音によく用いられるような発音のしやすさがあり、日本語では土佐日記(10世紀)の「あらざるなり→あらざんなり→あらざなり(る脱落) 類例: 見えざなるを」に見られるような無音化が生じやすい(土佐日記原本で字が付されなかっただけで発音上は母音を伴わないr音やn音があったかもしれない)。
同じように「はかりなし」も「はかなし」として無音化・脱落(除去・削除"deletion")が生じることは想像しやすい(こちらも最初期には母音を伴わないr音やn音が発音に介在したろうか 9世紀ころを想定して *fakannachi [ɸakan.nat͡ɕi])。
「り」および「な」は、共に歯茎音(舌尖と歯茎とで調音されるもの)であり、歯茎音が連続する点でも、「り」の無音化・脱落が生じやすかろう。
あるいは意図的に「り」を発音しなくなったパターンがあるにしても、様々な観点で「はかりが無い→はかない」の語源説は受け入れられよう。



はかるべからざる「はかなし」!

「はかない」自体、その語源について私自身の"1. 量り 2. 図り 3. 計り 4. 測り"が及ばず、多くの者による"5. 諮り"がされても、知り得ない言葉であるかもしれない。
はかなし、無量、不可量、はかるべからず、というところである。
神さま・上さん(ご先祖)の智慧を、現代人の浅知恵で、はかるべからず(-べからず、とは可能形・推量形・義務形・命令形のいずれの否定形で取ることができるがここでは可能形の否定となる)。
物事・他人・神を自分の知能によって量るならば、自分の知能・肉体・精神と思われるものもまた量られる(他人より・神より・魔より・・・)ということで、仏教徒・キリスト教徒はぜひ自ら誡めて頂こう。

なぜキリスト教徒?
先述の量・量り・量ること√māの梵語と同根語(印欧祖語*meh₁-)の古代ギリシャ語"μέτρον (メトロン metron 英語でいうメジャー measure)"が、キリスト教・新約聖書でも同じ意味に用いられるからである。

マタイによる福音書 7:1 Μὴ κρίνετε, ἵνα μὴ κριθῆτε. 7:2 ἐν ᾧ γὰρ κρίματι κρίνετε κριθήσεσθε, καὶ ἐν ᾧ μέτρῳ μετρεῖτε μετρηθήσεται ὑμῖν.
汝等は他人を裁くな(2人称複数形・能動態=他人などの目的語が潜在・命令法・否定)。汝等が(他人より・神より)裁かれぬためである。汝等が裁くというその裁き(判断行為)によって汝等が裁かれる結果があろう。あなたが量るという量り(判断基準)によって汝等の(量りの)ために(2人称・所有代名詞・為格)それが量られる結果があろう(3人称・受動態・直説法・未来時制)。

※学問の向上を期してコイネー・ギリシャ語に基づく逐語訳+訳補とした。宗教信者に告ぐ!今の私のような姿勢に習っても宗教の功徳を増すことは無かろう。むしろ学問に対する執着・依存によって信仰を離れる恐れの方が強いことに留意されたい。

※ギリシャ語Μή (メー mḗ)とは強意の否定形(禁止)を作る不変化詞であり、梵語にもमा (マー mā)という強意の否定形(禁止)を作る不変化詞があり、同根語(印欧祖語*meh₁-)である。「量る」の動詞語根√māとは似た発音でも関係が無い。強意の否定形(禁止)の言葉は、漢語の「莫(呉音マク ~なかれ)(同系に勿・毋など)」が同じm発音の字で通じる(広東語音や韓国語音や上古音/*maːɡ/なども同じ)。



自分の価値判断基準・現世の心(相対性・世俗の善悪に囚われた罪深いもの)が寛容で平等であり、どのような悪をなした他人に対しても自分が赦すならば、自分もまた神の赦しを得て救われるということである。
この「神」とは、世間一般にいう色んな神(三身でいう応身)や創世記などに見られる人間的な神(三身でいう応身)やモーセらに啓示をした神(三身でいう報身)と、日本語での呼び名が同じでも真実が異なる(もっといえば不一不異だろうが)、仏教でいう「法身・空(=不空・非不空)・真如・寂滅・不可得」の神であることを過去記事に詳述した。
時に神=心(潜在意識よりも深層にあるor非有非無)は、我らの顕在意識を苛むが、それも神=心の慈悲の作用と知って修行すべきであるという示唆がある。
マタイ7:2でその理法は、「他者に対する量り」を信者へ誡めるために説かれたが、ルカ6:38では逆に「他者に対する量り」を善なるものと変じて用いよと勧めており、善悪二面性が見える(マルコ4:24-25にも同様のフレーズが見えてすぐには理解しづらかったが後者の善の一面を示しているように感じた)。
萌えの典籍でいう「謂可愛則謂可愛・若憎彼応被憎害(善因善果・悪因悪果)」の偈のようである。
また、現代語で説かれた観萌行広要(4下)に「真に平等の心で観れば、彼は我を好く、とか、彼は我を嫌う、といった主観的な推量・判断を行わないで済む。平等というか素直な心で観る時、『このキャラは私をリアルで見たらキモイと思うに違いな』」といった妄想・邪推を生じないどころか、観られる萌えキャラ(所観)と観る人の心(能観)の両者が融通して一円を結ぶようでもある」とある。
「量り」に関する教説について修行者が念を持つ(忘れないで心掛ける)ならば、日常生活における他者への詮索を自ら抑えるようになる。
「様々な量り(全ての思考)を奔放に(放逸に)するならば悪業となって地獄に落とされる(=自ら堕ちる)報いがある」、というような感覚となることが必定である。
一瞬一瞬の思考に注意してゆく努力を決意し、仏教の在家修行者や大乗仏教徒や一般キリスト教徒は、みな世俗的な意味で善の「量り=意業」をする必要がある。

この「法身・空(=不空・非不空)・真如・寂滅・不可得」の神の心は平等であり、一部の人々によるキリスト教もとい一神教への「無慈悲な神」という批判も当たらなくなる。
人間が無慈悲の心で神を量れば、神もまた無慈悲で人間を赦さないものとなる。
有名な「主の祈り」には、「私たちが他人の罪を赦すように、あなた(神)も私たちの罪をお赦しください(原典ではマタイ6:12)」とある。
日本語・仏典の漢語・梵語の感覚と同じように、ギリシャ語・英語をも読めるので、向学心のある方々は是非とも、インターネットで新約聖書をご覧になってほしい。



起草日: 20180324

「はかり」復習記事として、この記事を編纂した。

さて、「はかるべからず」という語句・概念が示される尊者自説偈および和讃ヴァージョンの「歌われた音声」を聴いていただきたい。

Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||

「一切不可量 何況我大聖 遍照世無明 是故名無上 (一切は量るべからざるなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く)」

ブログ筆者・横野真史によって唱えられた音声と、ロック自作曲で歌われた音声
偈の唱えられた音声 0:24 http://www.youtube.com/watch?v=EIb2CfiUCPM
偈の歌われた音声 0:42 (和讃は1:08) http://www.youtube.com/watch?v=-NhafvQ8x10
偈の歌われた音声Re 0:03 http://www.youtube.com/watch?v=lIQSNxBe2Co
偈の歌われた音声+ラテン語 0:01 http://www.youtube.com/watch?v=5lhVZ3Ctiro


上の動画: ラテン語で書かれた"Dominus Immensus"もまた不可量の概念を説く。

尊者自説偈は、当記事の学問的・世俗的・物質的で形式的な有為法に対する浅薄な「はかり(量・計)」を前提として「はかるべからず」と表現した偈(詩歌)ではないが、当記事の「はかる」という概念の名称について、より深遠な理解を得る為に聞くことが望ましいと思う。
仏教に造詣の深い人や解脱への志を持つ人は、どのような気持ちで「はかない、無量だ、不可思議だ」という言葉を用いたか、感じ取る能力が得られよう。
以下に尊者自説偈の元ネタの物語(因縁ばなし・ごゆいしょ)より抜粋する。

(前略・ある時に障礙尊者がシュードトピアを離れてイデオフォノトピアで修行していたが、拾主に自身を巨大化させる神通力を見せて体長が千倍ほどにまでなって止まった。その折、いつの間にか輸提尼=イデオフォノトピアの住人が尊者よりも優れた神変をしていたと知る) この時の尊者は、輸提尼の手に対して蚊のような大きさであった。尊者の思惟すらく、「諸法は夢の如くにして、三千大千世界も唯だ一身の毛孔の内に摂まるが如きものなり。而も毛孔の外に復た無辺の土あれば一切は思議すべからざるなり」と。是の如く、禅における慢心を自ら誡めた。拾主や輸提尼の神力は量るべからざるものであるとも知った。