その当時でさえも英語などの西洋言語を比較に用いている。
2019年4月6日投稿『母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門』
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/04/symphonedy-vowel-pitch.html
当記事では、日本語の5母音の見直しを、音声学的に可能な人間の言語のあらゆる母音と比較・対照することで論じる。
まず、先の記事で言うような「二分・三分」の方法によれば:
口の広狭(舌の低高)"height": あ /a/ = 広母音(低母音)、え・お /e, o/ = 中母音(中央母音)、い・う /i, u/ = 狭母音(高母音)
舌の位置の前後"backness": え・い /e, i/ = 前舌母音、あ /a/ = 中舌母音、お・う /o, u/ = 後舌母音
唇の円さ"roundedness": え・い /e, i/ = 円唇母音、あ・お・う /a, o, u/ = 非円唇母音(平唇母音)
となる。
(先の記事所載)言語発音全般の母音の特徴で 日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音を示す図 □ |
これを音楽の歌詞におけるメロディのノートの音高(ピッチ pitch)に対応するものと見る場合、図の中の:上に位置するほど高い音高のノートに当たり、下に位置するほど低い音高のノートに当たるとした。
これらは絶対的なノートの音高の高低よりも、相対的なノートの音高の高低に対して適用されることを主張してもいる。
相対的とは、特に、前のノートの音高に対するものとして考える。
日本語に対する楽語共調理論の拡大案
先の記事で、イ段・い段の発音 /C + u/ を狭母音に区分しながら規範的に対応するノートの音高が低い必要を示したが、これは形式的な一面の説明であった。
い段の発音は、前舌母音・非円唇母音でもあることから、え段 /C + u/ と同様に第二フォルマント F2 の周波数が高い部類にあるばかりか、最も高くもある。
そのため、い段の発音のもう一つの側面として、前のノートの音高よりもノートの音高が高い場合にも用いることができると言える。
当時にも、そのように許容する案が示されていた。
母音の広狭はあくまでもF1に関連するものであり、F2の存在を加味するならば舌の前後についても考慮できる。「い」の音(近似 [i])は既に示されるように、F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) であり、実は高い音に当てることもできる。これは後述の「2017年3月10日>交差点」における「つかり↑、ぱたり↓」という歌詞の「り"ri"」同士の異なりや、「2017年4月24日>曲名未定」の「はれとき↑どき、あめのひ↑には…」という歌詞の「とき"toki", のひ"nohi"」の両者が「お o」モーラから連なる「い i」モーラが突きあがるような音高で発せられることなど…(後略)※フォルマント値は当該記事に"Catford, J. C. (1988)"の情報、と参照されている。私自身の調査目的では別にサウンドスペクトログラムを用いることもしている。
先の記事で、ウ段・う段の発音 /C + u/ を狭母音や円唇母音に区分しながらも、「実際の現代人発音は/ɯ/平たい唇・/u/円い唇よりも中間的であり、極端な唇の動きとならない」と2018年の記述を引用し、現実的には曖昧な調音方法と聴こえであるとした。
先の記事で、そういった理由から『「う(円唇)・い(非円唇)」は、共に狭母音であるとしても、西洋言語発音にならえば円唇・非円唇の相違性=唇の円さの動きが典型的に現れる音であるため、個性的である』と記し、楽語共調理論に基づく日本語の歌において音価 [u] を仮想することを示している。
これに関して拡大の案がある。
う段の発音は、現代日本語の一般的な発音でされる場合を許すならば、それがい段の発音に近くもある。
そのため、い段の発音に近い分だけ、ノートの音高が前のノートの音高よりも少し高い場合にも用いることができると言える。
この場合にう段の発音もとい音素母音う /u, ɯ/ は、シュワーともいえる曖昧母音として捉えることもできる。
それは、外国語借用語の二重子音・閉音節で /p, b, k, g, f, v/ といった子音がう段 /C + u/ に置換されることの一つの解釈でもある。
※日本語での話。言語ごとに選択性がある。スワヒリ語では /a/ (音声実現としては曖昧系?) キクユ語では /u/ だったり (cf. thukuru from en: school)、朝鮮語では /eu/ = /ɯ/ だったり (cf. 스트레이트 seuteureiteu from en: straight) することを考慮した方がよい。言語によっては前後の母音から移る例も多く、キクユ語の borithi は英語 police から借用された(語末閉音節が同じ母音で新しい音節を形成した)ものであり、日本語でも一色"isshiki" vs. "isshoku"、テキスト・テクスト"tekisuto" vs. "tekusuto"、マキシ・マックス"makishi" vs. "makkusu" (これのみ原語で異なる語句である点に注意) などに比較される。この注釈事項は2019年8月10日投稿記事『言語における科学性の多面的な説明』にも説明された。日本語の例にトロッコ・トラック"torokko" vs. "torakku"などもある。サンスクリット→パーリの成節子音 ṛ の母音変化例 (mṛta-mata, ṛṣi-isi) も参照。なお、これは音韻論的現象の側面を示すものであり、キリバス語の Kiribati(キリバスィ)が Gilbert(ギルバート 形容詞でGilbertese)に由来すること(同様にキリスィマスィ Kiritimati はクリスマス Christmas)などは原語の語末の閉音節の母音 (ここでaおよびer) と新たに語末に付加される母音 (ここでi) との関係がうまく明示しづらい。場合によってイタリア語男性名詞のsing. -o, plu. -i などの屈折語における形態の文法的機能を考える必要もあることに注意されたい。注釈対象の本文の話に戻すと、言うまでもなく /t/ た行は /tu/ が相補分布などで本来の破裂音から破擦音となっており [to] を用いるなど行ごとに例外もある。/z, j/ ざ行・じゃ行は英語の有声後部歯茎破擦音 [dʒ] とフランス語の有声後部歯茎摩擦音 [ʒ] に用いられるが、イメージ (image), オマージュ (hommage) といった音写のジ・ジュ "ji" vs."ju"の差があるなど、恣意的な側面にも注意されたい。
こうした拡大案が許容されるならば、う段の音は日本人がう段の音と知覚できる限りは微細な区別を適用できる。
他の発音も同様に、便宜的な変更がありうる。
例えば:
え段 /C + e/ ・お段 /C + o/ の音は、広狭について中央母音 (mid vowels [e̞, o̞]) の他に半広母音・半狭母音 (open-mid vowels [ɛ, ɔ], close-mid vowels [e, o]) にする選択肢を持つ。
あ段 /C + a/ の音は、舌の前後について中舌母音 (central vowel [ä]) の他に前舌母音・後舌母音 (front vowel [a], back vowel [ɒ]) にする選択肢や、広狭について広母音(open vowel [ä]) の他に狭めの広母音 (near-open vowels [æ, ɐ]) にする選択肢を持つ。
い段・う段の音についても、あ段の反対で広めの狭母音 (near-close vowels [ɪ, ʊ]) を用いる選択肢を持つ。
そうすると「日本語の日本語らしさが崩される」と、現代における保守的な立場からは疑問視を受けると思う。
しかし、現代日本語に至る歴史的変遷の観点、または現代日本における方言の発音の差異など様々な事項の考慮によって、歌唱用の発音における便宜的な変更は日本語に悪影響を及ぼさないと思う。
いわば水道水の塩素系消毒剤、街中の排気ガスの蔓延などの現象の言語版があり、それが既に世間の大衆文化に見られる。
文学の修辞や著名人の発言や大衆音楽の歌唱の不自然さ・・・。
それらに比して、私は規範を意識しながら規範以外の方法を用い、必要に応じて規範を明示する用意がある。
教育や倫理の観点も多々考慮しながら、私の創作がされてきている。
話が脱線しそうであるが、楽語共調理論は「学問知識を用いた芸術の技法の一種」であろうが、最終的に大衆文化の再検討と創出とを視野に入れて問題のない作りであると考える。
どちらにしても、外国語発音についての豊富な知識と経験のある者が、理論的に日本語の歌唱の発音を検証しなおして彼自身の納得・自己満足に繋がる必要がある。
あ段 /C + a/ の音は、先に挙げられた「便宜的な変更」の例に加えていない案もある。
「~た(現代語の過去形/完了形の助動詞の終止形。連体形を含む)」「~ら(現代語の動詞の未然形/已然形/仮定形に伴う形態)、~ば(仮定の助詞)」のような歌詞の一区切りの部分で登場するものが、その歌唱の音符–ノートの音高–ピッチが相対的に下がっているものがある。
そのように「相対的に低い/下の音高」でありながら広母音の音素が登場することが避けられない場合、口の広狭(舌の低高)を中性化するなどで負の効果を低減させる方法が提示できる。
この歌唱の際の母音は [ɐ] (near-open central vowel) や [ɜ] (open-mid central unrounded vowel) [ʌ] (open-mid back unrounded vowel) に近似する。
既存の例でさえも、日本のポップスでそのような発音はよく聴かれている。
それらの歌い手または音楽的監督者は、明瞭に「-ア [ä]」を発する場面を制限している、とは踏み込んだ言い方になる。
認知的「ん /N/」と成節子音 [m̩] [n̩] [l̩]
先の記事で、日本語音韻論でいう「撥音」について以下のように記した;
当時の私にとって、 /n, N/ は閉音節と二重子音の形でのみ歌唱において実現されてほしいということであったし、一般的な母音と比べてフォルマント研究が一般的でないことから、先の記事で考察の対象としなかった。
この「撥音」は、前後の音の如何によって多くの音声実現があり、音声学的子音だけでなく、鼻母音 (nasal vowel/vowels) の多くの種類も含まれていると分析がされる:
@
これらと、成節子音 (syllabic consonant; ~共鳴音、~響音 -sonorant, -sonant) である [r̩] [m̩] [n̩] [l̩] のフォルマントに関しても、何かしら解析される必要があろう。
私の肉声で録音した後に、スペクトログラム画像を載せるなどする。
行っていない段階で、私の感性に依拠して推定すると、:「撥音」のうち成節子音である [n̩] や [l̩] は三角波 (triangle wave) に近似しつつ肉声の実現としては [u] よりも更にF1, F2 の関係が狭まるか低くなるなどする。
それで私は、[u] のためよりも低い音高のノートに使いやすいと思う。
反対の仮想の手段
先の記事で以下のように記した内容は、いくつもの示唆に富んでいる。
ここから読み取れる話は、楽語共調理論の数学的原理・数理モデルがそのまま現実の人間の認知 (cognition) に比例する結果を持っていないということである。
以上の引用の最後に、「広母音か狭母音か中央母音といった何かしらの母音のモーラのみで1曲の歌詞(最低50モーラ以上)を構成する」という、発音と意味との両方とも違和感の伴う歌詞の仮想が例示される。
そのような作詞は、楽語共調理論の反対の仮想に資すると思うので、是非、試していただきたい。
当記事では一つ、それを作って載せる。
まず、音楽ではなく言語発音の回顧を試そう。
「あいうえお・かきくけこ a i u e o, ka ki ku ke ko」の時の高低アクセント (pitch accent) を思い出そう。
この高低アクセントは、大概の人にとってそのまま「いえあおう i e a o u」や「かけきこく ka ke ki ko ku」といったアナグラム(音節・モーラ単位)に適用しうるものと思う。
「あいうえお・かきくけこ・いえあおう・かけきこく」はいずれも、私にとって「ウクライナ [ùkúráꜜìnà](中高型。中高は少し揺れもあるがパレスチナも同様)」と同じであるが、「アルバニア・アルメニア・エストニア [èsútóníá]・リトアニア [rìtóáníá]・ポルトガル [pòrútógárú](平板型)」と異なると思う。
もし適用されるならば、現代日本語の高低アクセントの認知が話者の深層に達していることの表象と考えられる。
続いて、中世の日本の和歌の「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月(明恵上人による短歌;和歌の愛好家はスペースで区切ることを好まないのでここでも区切らずにおいた)」を詠んでもらいたい。
「あかあかや」という5拍(5モーラ)一句が先の、日本語アクセント論での平板型「アルバニア・アルメニア・エストニア・リトアニア・ポルトガル」の音高(ピッチ)で詠まれることは、多くの日本人において有り得ず、和歌には和歌のための音高が適用されて短歌5-7-5-7-7や俳句5-7-5といった種々の拍数の和歌が詠まれる。
楽語共調理論と反対に、これは母音が何であるかを問わない自然現象を示している。
こうして、音楽のノートの音高の上下の周波数に、母音の広狭などによるフォルマント値の関係を見出すことは無理であるという「反対の仮想」も可能になる。
その反論としては「言語音声の高低アクセント(日本語など)や声調-トーン(中国語・バントゥー諸語など)やイントネーション(ほぼ全言語)は楽語共調理論の考察対象でない」となる。
そのまた反論としては「楽語共調理論の考察対象のうちにもし人間の認知機能があるならば、その認知において言語音声の高低アクセントやトーンやイントネーションの知識が潜在的に好悪種々の影響を持ちうるので少しは判断材料に加える方がよい」となる。
現状では、たとえ数学的原理に偏るとしても、基盤の研究として数学的原理や自然現象(ここでは人間の可聴の音=音波・音響)の数理モデルが優先されるのだ、と言おう。
全てが広母音の歌詞を示す。
この広母音とは:第一に標準的な日本語の [ä] 音声のみに制限される必要があり、第二に断り付きで聴き心地のよさを目的とする他の音素 /a/ と知覚される母音音声を混ぜること (e.g. 英語 banana, katana /kəˈtɑnə/, Panama /ˈpæn.ə.mɑː/ のようなものをスペース分かち書きごとに適用してみたければどうぞ断り付きでなさるように) が可能である。
記事の目的のために、歌詞の意味や文法へ注釈の必要を感じないが、一点言うと、動詞の活用形は一部の未然形以外が不能であるため、これで他の活用や連用形名詞化・連体形分詞用法などを行うことになる。
既存の歌詞つき楽曲「交差点」の替え歌であり、そのメロディで歌う:
赤坂宝刀 akasaka takara katana,
頭は八幡高菜 atama wa yawata takana,
貴方が語らばまだ花だ anata ga kataraba mada hana da,
夜叉は魔羅から欠かな yasha wa mara kara kakana,
中々長や坂や nakanaka nagaya sakaya,
渡らば川は赤や wataraba kawa wa akaya,
偶々誤りゃ明かさな tamatama ayamarya akasana,
性は幻な間差だ彼場帰処 saga wa maya na masa da aba sarana,
肩下がらば kata sagaraba,
業無や薔薇香有らや waza naya baraka araya,
また利関わや mata kaga kakawaya,
何一切可分 ka sabata wakaya, (これのみ意味を注釈すると便宜的にパーリ語を混ぜた和語かつ全て長短無き広母音ということになる:分別されるべき普遍性は何か?{ का सब्बता √分+fem.ईय })
相良ジャワ鎌 sagara jawa kama,
カナダ七夕名は長かな kanada tanabata na wa naga kana,
綿か藁か束か棚田か wata ka wara ka taba ka tanada ka,
誰が屋墓場 tagaya hakaba,
沙門ならばだ空だ機会時間 samana naraba da kara da samaya kala.
楽語共調理論の立場で、これ(「交差点」の替え歌)を聴くならば、メロディライン・ボーカルフレーズの音高に不調和な歌詞が乗っていることになる。
多くの人にとって「交差点」の歌詞とこの替え歌の歌詞とのどちらがメロディを妨げないものか、考えてもらうことが、楽語共調理論において、一つの社会科学的な見地での検証法である。
非日本語話者の場合(未収得言語での歌詞を聴くこと)はともかく、日本語話者はどうしても言語音声から意味を想起するであろうという、意味の有無に関する問題(cf. 生成文法など言語学で有名な"Colorless green ideas sleep furiously"; 意味が無いまま文法が成り立つモデルとして考案された例)も慎重になるが、今は論じない。
先の和歌「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」ついても、和歌のための音高・ピッチが日本人に定着していることを示すものであって音楽の歌の比較に用いられると思う。
逆に「あかあかや... (月までの計29モーラ)」の音高を平板・平坦にして詠んでみる方法をすれば、これは楽語共調理論の立場での仮想になる。
上記の、「全てが広母音の歌詞」においては子音フォルマントの方も考察してみる価値はある。
「肩 kata」の部分を「束 taba」に置き換えてどちらが任意のメロディの相対的な音高もとい音程に適しているか、と考えるようなことである。
聞く側よりは歌う側の調音部位(主に子音ごとの動作の特徴を持った舌や唇)の運動に関する心地よさに関わる可能性も、仮想の手段になる。
あくまでもその「特殊な歌詞」のためであれば、「子音のフォルマント」は現状で楽語共調理論の説明対象に無い事項である。
ノートの音高側に合わせて認知的「あ /a/」の音声実現を変更することも考察してみる価値はある。
先の記事に以下の説明がある:
音高の上下を母音で認知する際の母語音韻の影響&個人差
日本人は日本語の基本的な5母音が、「手に取る範囲にある」ように、音高の上下の母音に対する認知に用いやすい。
決して英語の音韻論における英語の母音 (e.g. [æ], [ɪ]) を浮かべないであろうが、英語に堪能な人であれば十分にありうる。
私の場合、音声学の知識が深いので、色々な母音の選択肢を持っている。
それは多言語的であるために個別言語の虚無にも類する。
しかし、母語は母語として影響が大きいし、多言語のためには個別言語の「音韻パック(セット)」というものも用意されている。
そこに、「日本語スイッチ」や「英語スイッチ」を設け、出力を切り替え、聴いているメロディフレーズを色々な母音で自然に認知することになる。
自分で作詞する際は、何度も音楽の作詞の型になるボーカル用メロディフレーズを聴き直して広い選択肢から吟味する。
それにしても日本の子供がモーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart) の Eine kleine Nachtmusik (I. Allegro) を聴いて最初のフレーズを"baka, aho, doji, manuke"と言語音声に変換する現象は、"baka"以外の語の母音の広狭が割と認知的ノート単位の音高・音程に通じている。
考え方の一例に、2音ごとに区切って解析すれば、"ba-ka"/a-a/ノート音高は上–下、"a-ho"/a-o/ノート音高は上–下、"do-ji"/o-i/ノート音高は上–下、こじつけになるかもしれないが"ma-nu-ke"に関しては前の"ji"を合わせて"ji-ma"と"nu-ke"に変えてこれらの音高のノートは下–上、下–上という具合に相対的な上下の解析ができることを、ここで言いたかった。
恣意的な側面もあるが、考え方の一例で示した。
この場合は、「ニノート間解析 (dual note analysis または interbinote analysis)」とでも呼ぶことになり、元の記事に「『母音の広狭と音高の上下』の基本を簡潔に言えば、広母音モーラが相対的に音高・ピッチとして高いノートであり、狭母音モーラが相対的に音高・ピッチとして低いノートである」と記した「相対的な音高」の解析の基本的な手段に当たる。
ついでに言うと、同じ音高の歌詞ノートでは「中」または「平」とする。
この Eine kleine Nachtmusik 以外に知られる、歌詞なしメロディに対する日本語での空耳の例:「らららコッペパン(らき✩すた 劇中BGMに対するもの, ネット上では作品ヒロインがチョココロネを持つシーンの改編でコッペパンを持つ画像が見られ、作中にコッペパンは登場しない)」、「金のごまだれ(小林明子「恋におちて -Fall in love-」のイントロのメロディに対するネット上での空耳の例だと思ったが、TV CMでの替え歌が発祥らしく違う)」、「デデドン!(Nash Music Library の作品の一つに対するもの、子音に関してオケヒの音ではよくダ行音が当てられる)」
音楽以外のメロディ様の音に対する日本語での空耳の例:「カッコー(かっこう、カッコウ、鳥 Cuculus canorus の鳴き声の擬声語)」、「ホーホケキョ(ウグイス、鶯、鳥 Horornis diphone の鳴き声;現代日本語では声門と軟口蓋という調音位置の近い子音を使うが、江戸時代の途中まではホが両唇音であったと思われるが、子音は楽語共調理論と関連しないし音声学を議題にしているのでないために問題視しない;「法華経」に託した名前であると考えられるので、確かに例として引用するには不適切に思われる)」
音楽以外では、救急車に対する「ピーポーピーポー」や「ピーポーパーポー」といった擬音語は、先の高い1つのピッチが「ピー /piː/」や「パー /paː/」などとF1, もしくはF2 のピッチが最も高い母音で表現され、後の低い1つのピッチが「ポー /poː/」とF1, F2のピッチが相対的に低い母音で表現されることに、楽語共調理論の傍証がある。
応用
楽語共調理論を逆手にとって、任意の歌曲のボーカルボーカル用メロディフレーズの言語的母音を無くして好みの母音に統一してみることで、音高や音程(高いか低いかはもちろん、どの程度で音高の隔たりがあるか)が把握しやすくなる。
一般的な歌曲は、相対的にとても高いノートに「う」が来ることや相対的にとても低いノートに「あ」が来ることに関して意識的に除かれることはないので、そのような母音を保つと音高や音程が把握しづらかろう。
これは、いわゆる絶対音感の強くない人が耳コピを体感的に行いたい場合の下準備の方法として想定する。
この場合は声量など強勢アクセントに類する機能も除いて平坦化する方が、もっとよい。
理論への全般的な反証
先に「楽語共調理論は『学問知識を用いた芸術の技法の一種』であろう」と断っているものの、科学的方法論を用いて「反証 falsification」を自ら試みる。
複数の母音フォルマントとノート間の音高の上下に対応するという理論が通じない要因を示して「反証」の可能性を模索しよう。
母音のフォルマントが何らかの楽器に相似する可能性の検証
先に「楽語共調理論の数学的原理・数理モデルがそのまま現実の人間の認知に比例する結果を持っていない」と記したが、「数学的原理」について用い方を上手く広げれば「例外」と思しき事柄も「枝葉の例」にまで理論化できると思う。
イの発音を材料に、知覚の実験をしてみよう。
イの実際の音声 [i] は、非円唇前舌狭母音 close front unrounded vowel は先の記事でもフォルマントの一研究"Catford, J. C. (1988)"に示された標準値が F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) である。
私にとり、これは楽器音声だと任意のシンセサイザーによる鋸歯状波 sawtooth wave(のこぎり波・鋸波)に似ると思う。
「似ると思う」という印象によれば、正弦波 sine wave は円唇後舌狭母音 [u] ... F1 = 250 Hz, F2 = 595 Hz (差異 345 Hz) となる。
言語音声と楽器音声を、音声波形やスペクトログラムで見て、実際に言語音声の母音フォルマントと相応の類似性があると判断できる場合、類似性のあるもの同士は聴覚的に似たものと認知できる可能性がある。
先に「非円唇前舌狭母 [i] は任意のシンセサイザーによる鋸歯状波、円唇後舌狭母音 [u] は任意のシンセサイザーによる正弦波」と趣旨を記したが、私が個人的に言語音声と楽器音声を検分して、言語音声の母音フォルマントは楽器音声と比較するのに向いていないように見えた。
私の地声での母音言語音声の波形は、[i] の時に正弦波にフォルマント差による縮れた形状が乗り(譬えると250 Hzの波に10分の1の周期を持つ2,500 Hzの波が伴う状態)、[u] の時に三角波のような形状が見られ、[o] の時に最も正弦波と似た形状が見られた。
この結果で、言語音声の母音フォルマントと楽器音声に類似性は多少ある可能性が否定しきれずとも、類似性の認知に対する影響は極めて小さいと判断する(認知機能においては比較材料の多寡が類似性の認知を左右する側面もあるためかなり個人差がある点は別に考慮)。
母音フォルマントよりも、発音する人の「声色」という一般的な特徴の方がまだ、楽器音声の音色との類似性の認知に関連しやすいと考えたい。
記事の本題に寄せて言えば、楽語共調理論の反証に、任意の楽器によるボーカルフレーズの再生行為が、「複数の母音フォルマントとノート間の音高の上下に対応するという理論が通じない部分」を暴くことに用いることはできないし、「言語音声の母音フォルマントと楽器音声に類似性は多少ある可能性が否定しきれずとも」。
これらが把握された上で音高の相対的上下について再確認
何らかのメロディアスなフレーズのある楽曲(ボーカルは代用の楽器–インストゥルメントに置換する)を、日本語でも英語でも、即興で母音重視の歌唱をする。
…という方法がある。
これは私が2011年以降に多く行ってきたことであり、楽語共調理論の案に繋がるまでの糧になったことでもある。
私が何かしら、題材になる曲を示した方がよいが、当記事で特別に視聴可能な形で用意するつもりは無い。
例の通り、Sundarknessや活動全体で公開された音楽作品から、気にいるものを見つけて試すとよい。
YouTube - Sundarkness: https://www.youtube.com/user/SundarknessMusics/videos
YouTube - playlist: https://www.youtube.com/playlist?list=PLbz1d6dAQMeV79W5OCLkvtos-Z9EM69CE
あえて1曲を題材に考えよう。
とある他者の曲で個人管理楽曲識別番号: 468 (BPM: 120, 拍子: 4/4)は、曲名が"Happy Sunday"であり、歌い出しが"Happy Sunday"と歌うこともできるフレーズになっている。
楽譜やピアノロールを示さないでノートを近似的に示すと:4分休符、8分音符-F#、8分休符、4分音符-E、4分音符-G、4分音符-F#である。
ニノート間解析で:"hap-py = Ja: hap-pī"/a-i/ノート音高は上–下、"sun-day = Ja: san-dei"/a-e/ノート音高は上–下となる。
ノートの上下感覚とどのように合うか、実際に聴いて歌ってみよう(2020年3月11日時点で未公開)。
日本人作曲で英語タイトルであり、日本語のカタカナ発音「ハッピーサンデー [häpʲːiː sände̞ː]」または「ハッピーサンデイ [häpʲːiː sände̞j] (この場合のイは無母音の硬口蓋接近音 [j] または二重子音 [i̯] で音節理論における前の母音と同じ音節とみなす)」とするか、英語GA/RR発音/ˈhæpiː ˈsʌndeɪ/に近似させるか、考えることも楽しい。
なお、これにも反対の仮想ができる。
英語には強勢アクセント (stress accent) があり、見事に"Happy Sunday"の強勢 ˈ と歌い出しノートの相対的に高い部分に一致している。
作者が強勢アクセントを意図したか深層で意識してノートをアクセントのある音節が高くなるように配置したか、歌い出しの歌詞にできる言葉を選んで曲名にした、という可能性もある。
作者の音楽的心理を詮索する目的でこの文を打っているわけでないが、題材を他者に求めて分析する方法に、この慎重さも必要であることを示した。
起草日: 20191107
2019年11月24日から2020年2月XX日までの時間は、この記事に手の加えられることが全く無かった。
この間では、当ブログのラベル「音楽」の記事として音階理論を説明した記事も書かれている。
表題に言う「拡大」は、端的に「日本語に対する楽語共調理論の拡大案–5母音の音素の音声的実現の範囲の拡大」を指している。
本文中から要約すると:
え段 /C + e/ ・お段 /C + o/ の音は、広狭について中央母音 (mid vowels [e̞], [o̞]) の他に半広母音・半狭母音 (open-mid vowels [ɛ], [ɔ]; close-mid vowels [e], [o]) にする選択肢を持つ。
あ段 /C + a/ の音は、舌の前後について中舌母音 (central vowel [ä]) の他に前舌母音・後舌母音 (front vowel [a], back vowel [ɒ]) にする選択肢や、広狭について広母音(open vowel [ä]) の他に狭めの広母音 (near-open vowels [æ, ɐ]) にする選択肢を持つ。
い段 /C + i/ ・う段 /C + u, ɯ/ の音は、広狭について狭母音 (close vowels [i], [u, ɯ]) の他に広めの狭母音 (near-close vowels [ɪ], [ʊ]) を用いる選択肢を持つ。
相対的に低いノートの音高にあ段 /C + a/ の音の歌詞を当てる場合は、広狭について相対的に狭い母音 ([ɐ], [ɜ], [ʌ]) で中性化する選択肢を持つ。外来語借用語などの語源意識をその単語に適用したい場合に、言語の無母音箇所に挿入された母音(い段・う段・お段)は曖昧母音として捉えて可変性を与える(すなわち音素 /ə/ に置換して「前後の母音に近似する母音」か「中舌中央母音 [ə] に近似する母音」で実現させる)。
先の記事で、そういった理由から『「う(円唇)・い(非円唇)」は、共に狭母音であるとしても、西洋言語発音にならえば円唇・非円唇の相違性=唇の円さの動きが典型的に現れる音であるため、個性的である』と記し、楽語共調理論に基づく日本語の歌において音価 [u] を仮想することを示している。
これに関して拡大の案がある。
う段の発音は、現代日本語の一般的な発音でされる場合を許すならば、それがい段の発音に近くもある。
そのため、い段の発音に近い分だけ、ノートの音高が前のノートの音高よりも少し高い場合にも用いることができると言える。
この場合にう段の発音もとい音素母音う /u, ɯ/ は、シュワーともいえる曖昧母音として捉えることもできる。
それは、外国語借用語の二重子音・閉音節で /p, b, k, g, f, v/ といった子音がう段 /C + u/ に置換されることの一つの解釈でもある。
※日本語での話。言語ごとに選択性がある。
こうした拡大案が許容されるならば、う段の音は日本人がう段の音と知覚できる限りは微細な区別を適用できる。
他の発音も同様に、便宜的な変更がありうる。
例えば:
え段 /C + e/ ・お段 /C + o/ の音は、広狭について中央母音 (mid vowels [e̞, o̞]) の他に半広母音・半狭母音 (open-mid vowels [ɛ, ɔ], close-mid vowels [e, o]) にする選択肢を持つ。
あ段 /C + a/ の音は、舌の前後について中舌母音 (central vowel [ä]) の他に前舌母音・後舌母音 (front vowel [a], back vowel [ɒ]) にする選択肢や、広狭について広母音(open vowel [ä]) の他に狭めの広母音 (near-open vowels [æ, ɐ]) にする選択肢を持つ。
い段・う段の音についても、あ段の反対で広めの狭母音 (near-close vowels [ɪ, ʊ]) を用いる選択肢を持つ。
そうすると「日本語の日本語らしさが崩される」と、現代における保守的な立場からは疑問視を受けると思う。
しかし、現代日本語に至る歴史的変遷の観点、または現代日本における方言の発音の差異など様々な事項の考慮によって、歌唱用の発音における便宜的な変更は日本語に悪影響を及ぼさないと思う。
いわば水道水の塩素系消毒剤、街中の排気ガスの蔓延などの現象の言語版があり、それが既に世間の大衆文化に見られる。
文学の修辞や著名人の発言や大衆音楽の歌唱の不自然さ・・・。
それらに比して、私は規範を意識しながら規範以外の方法を用い、必要に応じて規範を明示する用意がある。
教育や倫理の観点も多々考慮しながら、私の創作がされてきている。
話が脱線しそうであるが、楽語共調理論は「学問知識を用いた芸術の技法の一種」であろうが、最終的に大衆文化の再検討と創出とを視野に入れて問題のない作りであると考える。
どちらにしても、外国語発音についての豊富な知識と経験のある者が、理論的に日本語の歌唱の発音を検証しなおして彼自身の納得・自己満足に繋がる必要がある。
あ段 /C + a/ の音は、先に挙げられた「便宜的な変更」の例に加えていない案もある。
「~た(現代語の過去形/完了形の助動詞の終止形。連体形を含む)」「~ら(現代語の動詞の未然形/已然形/仮定形に伴う形態)、~ば(仮定の助詞)」のような歌詞の一区切りの部分で登場するものが、その歌唱の音符–ノートの音高–ピッチが相対的に下がっているものがある。
そのように「相対的に低い/下の音高」でありながら広母音の音素が登場することが避けられない場合、口の広狭(舌の低高)を中性化するなどで負の効果を低減させる方法が提示できる。
この歌唱の際の母音は [ɐ] (near-open central vowel) や [ɜ] (open-mid central unrounded vowel) [ʌ] (open-mid back unrounded vowel) に近似する。
既存の例でさえも、日本のポップスでそのような発音はよく聴かれている。
それらの歌い手または音楽的監督者は、明瞭に「-ア [ä]」を発する場面を制限している、とは踏み込んだ言い方になる。
認知的「ん /N/」と成節子音 [m̩] [n̩] [l̩]
先の記事で、日本語音韻論でいう「撥音」について以下のように記した;
「ん (撥音 moraic N, 成節鼻音 syllabic N/nasal)」については、状況によって音節主音=1音節となりえるし、日本の音楽では「ん~♪(例えば"永遠"という中国語からすると2音節 yǒng yuǎn になる語句を"えーい、えーんー"のように4音節相当でされるような発音)」として長く伸ばす発音も多い。
当時の私にとって、 /n, N/ は閉音節と二重子音の形でのみ歌唱において実現されてほしいということであったし、一般的な母音と比べてフォルマント研究が一般的でないことから、先の記事で考察の対象としなかった。
この「撥音」は、前後の音の如何によって多くの音声実現があり、音声学的子音だけでなく、鼻母音 (nasal vowel/vowels) の多くの種類も含まれていると分析がされる:
@
これらと、成節子音 (syllabic consonant; ~共鳴音、~響音 -sonorant, -sonant) である [r̩] [m̩] [n̩] [l̩] のフォルマントに関しても、何かしら解析される必要があろう。
私の肉声で録音した後に、スペクトログラム画像を載せるなどする。
行っていない段階で、私の感性に依拠して推定すると、:「撥音」のうち成節子音である [n̩] や [l̩] は三角波 (triangle wave) に近似しつつ肉声の実現としては [u] よりも更にF1, F2 の関係が狭まるか低くなるなどする。
それで私は、[u] のためよりも低い音高のノートに使いやすいと思う。
反対の仮想の手段
先の記事で以下のように記した内容は、いくつもの示唆に富んでいる。
原則的な事項がある。
母音の広狭ないし中間(中央)は、そこに絶対的な「こういう印象」が求められるかといえば、スペクトログラムや科学的技術の手段で特徴を明かしてから「広母音は明るい (bright)、狭母音は暗い (dark)」と判断できそうである。
しかし、必ずしもそうでない可能性を知るべきである。
「明るい・あかるい"akarui"、高い・たかい"takai"」の「あか"aka"、たか"taka"」は、「あ・か・た」という広母音モーラの語幹による形容詞であるからといって、本質的に「広母音とそれによるモーラ発音は印象が明るくてピッチが高い」と、確定できるものでない。
日本語話者の間では、彼らの共通主観性のうちに、広母音や狭母音についての認識の傾向を見いだせるかもしれないが、それさえも不確実に思う。
広母音も狭母音も、一者のみを用いる言葉は必ずしも多くない(2モーラ語に限って/a/, /i/ や動詞終止形や動詞連用形由来など以外にも鈴"suzu", 冬"fuyu", 己・斧"ono", 事・琴"koto"など同じ母音で揃うものが多いが、/e/ え段は動詞連用形由来や複合語や畳語以外で語源的に揃わない)。
もし広母音か狭母音か中央母音といった何かしらの母音のモーラのみで1曲の歌詞(最低50モーラ以上)を構成するならば、発音と歌詞の意味とに違和感があろう。
ここから読み取れる話は、楽語共調理論の数学的原理・数理モデルがそのまま現実の人間の認知 (cognition) に比例する結果を持っていないということである。
以上の引用の最後に、「広母音か狭母音か中央母音といった何かしらの母音のモーラのみで1曲の歌詞(最低50モーラ以上)を構成する」という、発音と意味との両方とも違和感の伴う歌詞の仮想が例示される。
そのような作詞は、楽語共調理論の反対の仮想に資すると思うので、是非、試していただきたい。
当記事では一つ、それを作って載せる。
言語発音・高低アクセントの要旨と実験 □ |
まず、音楽ではなく言語発音の回顧を試そう。
「あいうえお・かきくけこ a i u e o, ka ki ku ke ko」の時の高低アクセント (pitch accent) を思い出そう。
この高低アクセントは、大概の人にとってそのまま「いえあおう i e a o u」や「かけきこく ka ke ki ko ku」といったアナグラム(音節・モーラ単位)に適用しうるものと思う。
「あいうえお・かきくけこ・いえあおう・かけきこく」はいずれも、私にとって「ウクライナ [ùkúráꜜìnà](中高型。中高は少し揺れもあるがパレスチナも同様)」と同じであるが、「アルバニア・アルメニア・エストニア [èsútóníá]・リトアニア [rìtóáníá]・ポルトガル [pòrútógárú](平板型)」と異なると思う。
もし適用されるならば、現代日本語の高低アクセントの認知が話者の深層に達していることの表象と考えられる。
続いて、中世の日本の和歌の「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月(明恵上人による短歌;和歌の愛好家はスペースで区切ることを好まないのでここでも区切らずにおいた)」を詠んでもらいたい。
「あかあかや」という5拍(5モーラ)一句が先の、日本語アクセント論での平板型「アルバニア・アルメニア・エストニア・リトアニア・ポルトガル」の音高(ピッチ)で詠まれることは、多くの日本人において有り得ず、和歌には和歌のための音高が適用されて短歌5-7-5-7-7や俳句5-7-5といった種々の拍数の和歌が詠まれる。
楽語共調理論と反対に、これは母音が何であるかを問わない自然現象を示している。
こうして、音楽のノートの音高の上下の周波数に、母音の広狭などによるフォルマント値の関係を見出すことは無理であるという「反対の仮想」も可能になる。
その反論としては「言語音声の高低アクセント(日本語など)や声調-トーン(中国語・バントゥー諸語など)やイントネーション(ほぼ全言語)は楽語共調理論の考察対象でない」となる。
そのまた反論としては「楽語共調理論の考察対象のうちにもし人間の認知機能があるならば、その認知において言語音声の高低アクセントやトーンやイントネーションの知識が潜在的に好悪種々の影響を持ちうるので少しは判断材料に加える方がよい」となる。
現状では、たとえ数学的原理に偏るとしても、基盤の研究として数学的原理や自然現象(ここでは人間の可聴の音=音波・音響)の数理モデルが優先されるのだ、と言おう。
全てが広母音の歌詞を示す。
この広母音とは:第一に標準的な日本語の [ä] 音声のみに制限される必要があり、第二に断り付きで聴き心地のよさを目的とする他の音素 /a/ と知覚される母音音声を混ぜること (e.g. 英語 banana, katana /kəˈtɑnə/, Panama /ˈpæn.ə.mɑː/ のようなものをスペース分かち書きごとに適用してみたければどうぞ断り付きでなさるように) が可能である。
記事の目的のために、歌詞の意味や文法へ注釈の必要を感じないが、一点言うと、動詞の活用形は一部の未然形以外が不能であるため、これで他の活用や連用形名詞化・連体形分詞用法などを行うことになる。
既存の歌詞つき楽曲「交差点」の替え歌であり、そのメロディで歌う:
赤坂宝刀 akasaka takara katana,
頭は八幡高菜 atama wa yawata takana,
貴方が語らばまだ花だ anata ga kataraba mada hana da,
夜叉は魔羅から欠かな yasha wa mara kara kakana,
中々長や坂や nakanaka nagaya sakaya,
渡らば川は赤や wataraba kawa wa akaya,
偶々誤りゃ明かさな tamatama ayamarya akasana,
性は幻な間差だ彼場帰処 saga wa maya na masa da aba sarana,
肩下がらば kata sagaraba,
業無や薔薇香有らや waza naya baraka araya,
また利関わや mata kaga kakawaya,
何一切可分 ka sabata wakaya, (これのみ意味を注釈すると便宜的にパーリ語を混ぜた和語かつ全て長短無き広母音ということになる:分別されるべき普遍性は何か?{ का सब्बता √分+fem.ईय })
相良ジャワ鎌 sagara jawa kama,
カナダ七夕名は長かな kanada tanabata na wa naga kana,
綿か藁か束か棚田か wata ka wara ka taba ka tanada ka,
誰が屋墓場 tagaya hakaba,
沙門ならばだ空だ機会時間 samana naraba da kara da samaya kala.
楽語共調理論の立場で、これ(「交差点」の替え歌)を聴くならば、メロディライン・ボーカルフレーズの音高に不調和な歌詞が乗っていることになる。
多くの人にとって「交差点」の歌詞とこの替え歌の歌詞とのどちらがメロディを妨げないものか、考えてもらうことが、楽語共調理論において、一つの社会科学的な見地での検証法である。
非日本語話者の場合(未収得言語での歌詞を聴くこと)はともかく、日本語話者はどうしても言語音声から意味を想起するであろうという、意味の有無に関する問題(cf. 生成文法など言語学で有名な"Colorless green ideas sleep furiously"; 意味が無いまま文法が成り立つモデルとして考案された例)も慎重になるが、今は論じない。
先の和歌「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月」ついても、和歌のための音高・ピッチが日本人に定着していることを示すものであって音楽の歌の比較に用いられると思う。
逆に「あかあかや... (月までの計29モーラ)」の音高を平板・平坦にして詠んでみる方法をすれば、これは楽語共調理論の立場での仮想になる。
上記の、「全てが広母音の歌詞」においては子音フォルマントの方も考察してみる価値はある。
「肩 kata」の部分を「束 taba」に置き換えてどちらが任意のメロディの相対的な音高もとい音程に適しているか、と考えるようなことである。
聞く側よりは歌う側の調音部位(主に子音ごとの動作の特徴を持った舌や唇)の運動に関する心地よさに関わる可能性も、仮想の手段になる。
あくまでもその「特殊な歌詞」のためであれば、「子音のフォルマント」は現状で楽語共調理論の説明対象に無い事項である。
ノートの音高側に合わせて認知的「あ /a/」の音声実現を変更することも考察してみる価値はある。
先の記事に以下の説明がある:
種々に検討すると、たとえ日本語では微細な区別なき「あ a」の音(外来語のためのア段カナの原語は多用な異なる発音。アメリカ英語のGA発音だけでもア段カナに対応する4種類の音素 /æ, ʌ, ɑ, ə/ の区別がある)であっても、歌詞発音のためには舌の前後・唇の円さといった区別を駆使する必要があるかもしれない。
すなわち、一般的に非円唇中舌広母音 [ä] である「あ」も、前後のノート音高の相対性により、低音としての「あ」を非円唇後舌広母音 [ɑ] にしたり、高音としての「あ」を非円唇前舌広母音 [a] にするといった、音高に「あ」を相似させるための弁別と発音訓練とである。
音高の上下を母音で認知する際の母語音韻の影響&個人差
日本人は日本語の基本的な5母音が、「手に取る範囲にある」ように、音高の上下の母音に対する認知に用いやすい。
決して英語の音韻論における英語の母音 (e.g. [æ], [ɪ]) を浮かべないであろうが、英語に堪能な人であれば十分にありうる。
私の場合、音声学の知識が深いので、色々な母音の選択肢を持っている。
それは多言語的であるために個別言語の虚無にも類する。
しかし、母語は母語として影響が大きいし、多言語のためには個別言語の「音韻パック(セット)」というものも用意されている。
そこに、「日本語スイッチ」や「英語スイッチ」を設け、出力を切り替え、聴いているメロディフレーズを色々な母音で自然に認知することになる。
自分で作詞する際は、何度も音楽の作詞の型になるボーカル用メロディフレーズを聴き直して広い選択肢から吟味する。
英語版Wikipedia - oldid=925307085, Eine_kleine_Nachtmusik#I._Allegro に載る画像 |
それにしても日本の子供がモーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart) の Eine kleine Nachtmusik (I. Allegro) を聴いて最初のフレーズを"baka, aho, doji, manuke"と言語音声に変換する現象は、"baka"以外の語の母音の広狭が割と認知的ノート単位の音高・音程に通じている。
考え方の一例に、2音ごとに区切って解析すれば、"ba-ka"/a-a/ノート音高は上–下、"a-ho"/a-o/ノート音高は上–下、"do-ji"/o-i/ノート音高は上–下、こじつけになるかもしれないが"ma-nu-ke"に関しては前の"ji"を合わせて"ji-ma"と"nu-ke"に変えてこれらの音高のノートは下–上、下–上という具合に相対的な上下の解析ができることを、ここで言いたかった。
恣意的な側面もあるが、考え方の一例で示した。
この場合は、「ニノート間解析 (dual note analysis または interbinote analysis)」とでも呼ぶことになり、元の記事に「『母音の広狭と音高の上下』の基本を簡潔に言えば、広母音モーラが相対的に音高・ピッチとして高いノートであり、狭母音モーラが相対的に音高・ピッチとして低いノートである」と記した「相対的な音高」の解析の基本的な手段に当たる。
ついでに言うと、同じ音高の歌詞ノートでは「中」または「平」とする。
この Eine kleine Nachtmusik 以外に知られる、歌詞なしメロディに対する日本語での空耳の例:「らららコッペパン(らき✩すた 劇中BGMに対するもの, ネット上では作品ヒロインがチョココロネを持つシーンの改編でコッペパンを持つ画像が見られ、作中にコッペパンは登場しない)」、「
音楽以外のメロディ様の音に対する日本語での空耳の例:「カッコー(かっこう、カッコウ、鳥 Cuculus canorus の鳴き声の擬声語)」、「ホーホケキョ(ウグイス、鶯、鳥 Horornis diphone の鳴き声;現代日本語では声門と軟口蓋という調音位置の近い子音を使うが、江戸時代の途中まではホが両唇音であったと思われるが、子音は楽語共調理論と関連しないし音声学を議題にしているのでないために問題視しない;「法華経」に託した名前であると考えられるので、確かに例として引用するには不適切に思われる)」
音楽以外では、救急車に対する「ピーポーピーポー」や「ピーポーパーポー」といった擬音語は、先の高い1つのピッチが「ピー /piː/」や「パー /paː/」などとF1, もしくはF2 のピッチが最も高い母音で表現され、後の低い1つのピッチが「ポー /poː/」とF1, F2のピッチが相対的に低い母音で表現されることに、楽語共調理論の傍証がある。
応用
楽語共調理論を逆手にとって、任意の歌曲のボーカルボーカル用メロディフレーズの言語的母音を無くして好みの母音に統一してみることで、音高や音程(高いか低いかはもちろん、どの程度で音高の隔たりがあるか)が把握しやすくなる。
一般的な歌曲は、相対的にとても高いノートに「う」が来ることや相対的にとても低いノートに「あ」が来ることに関して意識的に除かれることはないので、そのような母音を保つと音高や音程が把握しづらかろう。
これは、いわゆる絶対音感の強くない人が耳コピを体感的に行いたい場合の下準備の方法として想定する。
この場合は声量など強勢アクセントに類する機能も除いて平坦化する方が、もっとよい。
理論への全般的な反証
先に「楽語共調理論は『学問知識を用いた芸術の技法の一種』であろう」と断っているものの、科学的方法論を用いて「反証 falsification」を自ら試みる。
複数の母音フォルマントとノート間の音高の上下に対応するという理論が通じない要因を示して「反証」の可能性を模索しよう。
母音のフォルマントが何らかの楽器に相似する可能性の検証
先に「楽語共調理論の数学的原理・数理モデルがそのまま現実の人間の認知に比例する結果を持っていない」と記したが、「数学的原理」について用い方を上手く広げれば「例外」と思しき事柄も「枝葉の例」にまで理論化できると思う。
イの発音を材料に、知覚の実験をしてみよう。
イの実際の音声 [i] は、非円唇前舌狭母音 close front unrounded vowel は先の記事でもフォルマントの一研究"Catford, J. C. (1988)"に示された標準値が F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) である。
私にとり、これは楽器音声だと任意のシンセサイザーによる鋸歯状波 sawtooth wave(のこぎり波・鋸波)に似ると思う。
「似ると思う」という印象によれば、正弦波 sine wave は円唇後舌狭母音 [u] ... F1 = 250 Hz, F2 = 595 Hz (差異 345 Hz) となる。
言語音声と楽器音声を、音声波形やスペクトログラムで見て、実際に言語音声の母音フォルマントと相応の類似性があると判断できる場合、類似性のあるもの同士は聴覚的に似たものと認知できる可能性がある。
先に「非円唇前舌狭母 [i] は任意のシンセサイザーによる鋸歯状波、円唇後舌狭母音 [u] は任意のシンセサイザーによる正弦波」と趣旨を記したが、私が個人的に言語音声と楽器音声を検分して、言語音声の母音フォルマントは楽器音声と比較するのに向いていないように見えた。
私の地声での母音言語音声の波形は、[i] の時に正弦波にフォルマント差による縮れた形状が乗り(譬えると250 Hzの波に10分の1の周期を持つ2,500 Hzの波が伴う状態)、[u] の時に三角波のような形状が見られ、[o] の時に最も正弦波と似た形状が見られた。
この結果で、言語音声の母音フォルマントと楽器音声に類似性は多少ある可能性が否定しきれずとも、類似性の認知に対する影響は極めて小さいと判断する(認知機能においては比較材料の多寡が類似性の認知を左右する側面もあるためかなり個人差がある点は別に考慮)。
母音フォルマントよりも、発音する人の「声色」という一般的な特徴の方がまだ、楽器音声の音色との類似性の認知に関連しやすいと考えたい。
記事の本題に寄せて言えば、楽語共調理論の反証に、任意の楽器によるボーカルフレーズの再生行為が、「複数の母音フォルマントとノート間の音高の上下に対応するという理論が通じない部分」を暴くことに用いることはできないし、「言語音声の母音フォルマントと楽器音声に類似性は多少ある可能性が否定しきれずとも」。
これらが把握された上で音高の相対的上下について再確認
何らかのメロディアスなフレーズのある楽曲(ボーカルは代用の楽器–インストゥルメントに置換する)を、日本語でも英語でも、即興で母音重視の歌唱をする。
…という方法がある。
これは私が2011年以降に多く行ってきたことであり、楽語共調理論の案に繋がるまでの糧になったことでもある。
私が何かしら、題材になる曲を示した方がよいが、当記事で特別に視聴可能な形で用意するつもりは無い。
例の通り、Sundarknessや活動全体で公開された音楽作品から、気にいるものを見つけて試すとよい。
YouTube - Sundarkness: https://www.youtube.com/user/SundarknessMusics/videos
YouTube - playlist: https://www.youtube.com/playlist?list=PLbz1d6dAQMeV79W5OCLkvtos-Z9EM69CE
あえて1曲を題材に考えよう。
とある他者の曲で個人管理楽曲識別番号: 468 (BPM: 120, 拍子: 4/4)は、曲名が"Happy Sunday"であり、歌い出しが"Happy Sunday"と歌うこともできるフレーズになっている。
楽譜やピアノロールを示さないでノートを近似的に示すと:4分休符、8分音符-F#、8分休符、4分音符-E、4分音符-G、4分音符-F#である。
ニノート間解析で:"hap-py = Ja: hap-pī"/a-i/ノート音高は上–下、"sun-day = Ja: san-dei"/a-e/ノート音高は上–下となる。
ノートの上下感覚とどのように合うか、実際に聴いて歌ってみよう(2020年3月11日時点で未公開)。
日本人作曲で英語タイトルであり、日本語のカタカナ発音「ハッピーサンデー [häpʲːiː sände̞ː]」または「ハッピーサンデイ [häpʲːiː sände̞j] (この場合のイは無母音の硬口蓋接近音 [j] または二重子音 [i̯] で音節理論における前の母音と同じ音節とみなす)」とするか、英語GA/RR発音/ˈhæpiː ˈsʌndeɪ/に近似させるか、考えることも楽しい。
なお、これにも反対の仮想ができる。
英語には強勢アクセント (stress accent) があり、見事に"Happy Sunday"の強勢 ˈ と歌い出しノートの相対的に高い部分に一致している。
作者が強勢アクセントを意図したか深層で意識してノートをアクセントのある音節が高くなるように配置したか、歌い出しの歌詞にできる言葉を選んで曲名にした、という可能性もある。
作者の音楽的心理を詮索する目的でこの文を打っているわけでないが、題材を他者に求めて分析する方法に、この慎重さも必要であることを示した。
起草日: 20191107
2019年11月24日から2020年2月XX日までの時間は、この記事に手の加えられることが全く無かった。
この間では、当ブログのラベル「音楽」の記事として音階理論を説明した記事も書かれている。
表題に言う「拡大」は、端的に「日本語に対する楽語共調理論の拡大案–5母音の音素の音声的実現の範囲の拡大」を指している。
本文中から要約すると:
え段 /C + e/ ・お段 /C + o/ の音は、広狭について中央母音 (mid vowels [e̞], [o̞]) の他に半広母音・半狭母音 (open-mid vowels [ɛ], [ɔ]; close-mid vowels [e], [o]) にする選択肢を持つ。
あ段 /C + a/ の音は、舌の前後について中舌母音 (central vowel [ä]) の他に前舌母音・後舌母音 (front vowel [a], back vowel [ɒ]) にする選択肢や、広狭について広母音(open vowel [ä]) の他に狭めの広母音 (near-open vowels [æ, ɐ]) にする選択肢を持つ。
い段 /C + i/ ・う段 /C + u, ɯ/ の音は、広狭について狭母音 (close vowels [i], [u, ɯ]) の他に広めの狭母音 (near-close vowels [ɪ], [ʊ]) を用いる選択肢を持つ。
相対的に低いノートの音高にあ段 /C + a/ の音の歌詞を当てる場合は、広狭について相対的に狭い母音 ([ɐ], [ɜ], [ʌ]) で中性化する選択肢を持つ。外来語借用語などの語源意識をその単語に適用したい場合に、言語の無母音箇所に挿入された母音(い段・う段・お段)は曖昧母音として捉えて可変性を与える(すなわち音素 /ə/ に置換して「前後の母音に近似する母音」か「中舌中央母音 [ə] に近似する母音」で実現させる)。
これらのために「反対の仮想–反証」なども行って精査していた。
2018年3月13日に私が1日で作曲した曲のメロディに「楽語共調」で乗せられることを意図して、私は2019年10月2日にフランス語で作詞した。
返信削除以下に、それを記すが、後続するIPA音声表記は歌唱用に少しの変更がある点に注意されたい。
なお、当記事投稿日ないし2020年3月24日現在も曲は公開していない。
Rendez-vous sont immortels [rɑ̃.de.vu.sɔ.nti.mɔr.tɛl]
Chocolat de la roche est [ʃɔ.kɔ.la.də.la.rɔ.ʃɛ]