2017年4月21日金曜日

形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理

「仏教団体の宿業」とでも言うべきか、インドにおける釈迦牟尼仏・釈迦如来の出世(仏教の発生)や初期仏教の根本分裂に始まり、現代でも分派の動きが絶えない。
教団の信念や精神が形骸化した時、不満足で反骨精神を持ったグループが蜂起して分派する傾向が強い。
以下から、釈尊・龍樹菩薩・日蓮大聖人・親鸞聖人(ほか鎌倉・江戸仏教)などの仏教史上の例を挙げる(約3,000文字の章となるがなお前置きの段階である)。

原始仏教の釈尊(歴史上のゴータマ・ブッダ)の言葉として仏教学界で承認される「スッタ・ニパータ"Sutta Nipāta"」の第4章12経では、釈尊が「各々が自身の見解に依って他者の非を責め、真理について論争をしているが、誰が真理を説いているか?」と誰かから質問を受け、「もしみな自分の見解を受けいれない他者を『真理に背くので愚者だ』と非難すれば、みな等しく愚者である。またはみな『自分の見解で清らかになる・悟りが得られる』と主張すれば、みな愚者であるはずがなくみな欠点は無かろう(同部分の漢訳は少し異なる形で仏説義足経大智度論に載る)」と答えている(バラモンや六師外道を念頭に置いたか)。
このスッタニパータ4章12経の要点は「真理・真実は一つしかないと"本当の意味で"知る者は論争しない」ということ(いわゆる戯論寂滅)であり、後の部派仏教・般若・中観などで説かれる「二諦」のうちの「第一義諦"Paramārtha"(勝義諦・真諦"Ultimate Truth"・不可説"Ineffable"・言語道断心行処滅)」に当たろう。

私の過去記事に説く2つの真理のうち「客観的真理」にも当たる。
真理は言葉で説明できないが、言葉を頼りに接近でき、しかも得られない不可得の中道である。
言葉が指すものは「無」だが、説明できるので「有」ともいえる非有非無の中道であり、無いこと"ナースティ nāsti シューニヤ śūnya ゼロ"をあえて「一」といい、説明は多様にできるので「多」というが、一でなく多でもないという一即多・多即一・不一不異の中道である。
悟った人は、世界に確かな真理が無いという意味で唯一の真理が有り、誤解を招きやすい「言葉」という手段で表現しようもないので、あえて「真理(真実)は一つ」とも言うし、逆に、多くの異なる説明から堅実に形作って説明することもする(説く手段・理法では99%まで証明できる不可得さ)。
釈尊の時代・初期大乗仏教教団の時代・龍樹菩薩の時代など、いつも哲学的見解や宗教的修行法などの論争があり、「無いもの」を有るように想定して自他の仏道を塞いでいたわけだから、道の障礙を排除すべく、スッタ・ニパータ、法華経、中論などの教説が世に示され、輝いたことと思う。

ただ単に「真理は一つだ!第二のものは存在しない!(涅槃・解脱・真の客観性においては確かにそうだろう)」と誇張するならば、理解度の低い人達(論争を好む愚者)は迷ってしまい、かえって争いの火種を起こす。
よって後の仏教では、異なる見解・末節の真理(辿ることで根本の真理に至る)を包括・協調したり、釈尊の異なる教説を会通すべく、「世俗諦(世諦・俗諦・現世での手段・方便)」と「第一義諦」の「二諦」として分別する必要が生まれた。
先のスッタニパータ(衆義経・眾義經)の言葉を引いた龍樹菩薩の大智度論・巻第一にも「四悉檀(4種の成就"catvāri siddhānta"のための説法)」と称し、釈尊によるどのような内容の説法でも最終的に解脱・涅槃へと導く言葉であるから「四悉檀」それぞれにおいて真実であるという、妙法蓮華経如来寿量品「諸所言説皆実不虚 (乃至) 種種性・種種欲・種種行・種種憶想分別」と通じた見解が現れる(天台・法華玄義所説)。
四悉檀は、愚者を智者へ、智者を阿羅漢へと導くような、ぞれぞれの段階で異なる教説を肯定する。
やはりそこでは、先のスッタニパータの言葉が「第一義悉檀(法華経寿量品でいう"種種憶想分別"を対治して涅槃を成就"Siddham = 悉檀"する言説)」の例として挙げられている。

スッタニパータの「第一義悉檀」は「良薬口に苦し・忠言耳に逆らう」とでもいえるもので、やはり直ちに他人に言うべきでなかろう。
もはや法華経の方便品や寿量品や常不軽菩薩などに詳しい人にとって自明の理であり、説明不要である。
つまり、法華経方便品の舎利弗尊者のように釈尊への信心が清純でよく功徳を積んで智慧が高尚な境地でないと、常不軽菩薩を誹謗した驕慢の四衆のように第一義を受けいれずに反発する。
スッタニパータの「真理は一つ・第二のものは存在しない"Ekaṃ hi saccaṃ na dutīyamatthi"」、大智度論の「第一義悉檀」に通じる法華経の説は多く有るが、似た言葉としては「唯一乗の法のみ有り、二無く亦た三無し"Ekaṃ hi yānaṃ dvitiyaṃ na vidyate" (唯有一乘法 無二亦無三)」がある。
共に、唯一の真理を知る者や、唯一の真実の道を知る者は、他者がどうであれ、その一真理(無真理・多真理・非無非多の一真理)を奉じ・一乗道(無差別の大道・自己唯一の道)を行き、他者と皮相的な教義について枝葉末節の論議をしないように志向している言葉である。
後述する鎌倉宗祖たちも多くの説法・論議・他宗批判などをしたが、それは大乗菩薩のスタンスであり、三毒にも似た論議をしても三毒に染まらない「如蓮華在水(法華経)・卑濕淤泥乃生此華(維摩経)」の立場であるから、小乗においては鎌倉宗祖たちの心を詮索せず、専ら日本仏教を批判したがる自分たちの心の三毒を観ずべきである。
ダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意。批判者が自ら日本仏教・大乗仏教・大乗経典・セクト教祖という名の妄想概念を心に作って汚物の塊と蔑むが、汚れていると知るべきものは己の心であり、四念処を以て観察し、制御・浄化せよ。これが小乗教の「一乗・一道"ekāyana magga"」だと念処経に仰せである。現に論議する仏弟子や外道は、誰でも言葉で心を認識できるから、誰でも四念処が修習できる平等の一乗である。加えて、大乗の一乗"ekayāna"は、言語能力の有無・感情の有無を問わない、真に平等の一乗である。

法華経の真実義とスッタニパータの教説は本来、相違しないが、日本仏教・既成仏教を嫌うテーラワーダの新興一派(AS長老信者)が色眼鏡を通して見ることで受け付けなかろうし、某正宗とその分派団体の人も「飯に糞を雑じえる(御書)・水増し牛乳(涅槃経)」として好まなかろう。
スッタニパータの第一義を闡明した大智度論は巻第百で「世尊は般若波羅蜜を阿難に付属したが、般若波羅蜜よりも深い法があるから菩薩には付属しなかったのか?」という問いに「般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而も法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説いて大菩薩能く受用す。譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と答えている。
大智度論の作者は龍樹菩薩本人か後世の中観派か鳩摩羅什三蔵グループか、誰でもよい。
法華経を学んだ中観派が大智度論でそのように摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)を釈するわけであり、現代の仏教徒はスッタニパータと法華経と大智度論の三者に対する色眼鏡を外して「言葉が違っても本意は一緒」と理解して信ずべきである。

「法華最第一」、「ただ念仏のみぞまことにておはします」といった言葉も、現世で修行する立場の一個人の信仰と正念とを守る言葉(盾)としては正しいが、中世以後の日本では異なる信仰の者を攻撃する意欲・敵愾心を鼓舞するキーワード(剣)となった。
あるいは「第一義」とは、自己の枝葉末節の認識や見解を破って「言語道断・不可説」の悟り・涅槃・解脱・成仏のために説かれているのだから、そのように受け取っておき、対立状態の他者を悔い改めさせる言葉ではなく、仲間・弟子の修行や菩提を助けるために説くべきである(実際に教相を見ればスッタニパータの第一義も法華経の第一義も仏弟子に対して発せられた)。
・・・だからこそ、法華経など一切経が釈尊の言葉と信じて前提とした時代に、「これが釈尊の本意・第一義だ!」と文章の証拠(文証)を挙げて会通したり、二諦・四悉檀・天台五時教判などの理論による論議が絶えなかったであろう(「言葉が違っても真意=言葉にできない真理・悟りは一緒」という理解さえあればお互いさまの議論として終わったろう)。



歴史上の釈尊のみならず、江戸時代などに「宗論(宗派間論争)」を多く行ってセクト主義が嫌われた鎌倉仏教系の日蓮宗(日蓮法華宗)や浄土真宗(一向宗・一向念仏宗)でも、その祖師らは既成宗派の論争を問題視する言葉を遺している。
彼らに非難される諸宗の主張のキーワードは「我が宗こそ得たれ(日蓮大聖人)、我が宗こそ勝れたれ(親鸞聖人)」である。
日蓮「大乗の七宗いづれもいづれも自讃あり、『我が宗こそ一代の心はえたれえたれ』等云々(中略) みな本経・本論によりて『我も我も一切経をさとれり仏意をきはめたり』と云云 (中略) 日蓮が愚案はれがたし、世間をみるに各各・我も我もといへども国主は但一人なり二人となれば国土をだやかならず (中略) 而るに十宗七宗まで各各・諍論して随はず国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじ、いかんがせんと疑ふ(報恩抄・創価学会御書全集293~294p)」 

復云「道心あらん人、偏党をすて自他宗をあらそはず、人をあなづる事なかれ(開目抄・同全集219p)」

親鸞の弟子「当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくはだてて、『わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり』といふほどに、法敵も出できたり、謗法もおこる。これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや(歎異抄・浄土真宗聖典840p)」
鎌倉時代の仏教とは、主に六宗(念仏系3宗・禅系2宗・日蓮法華宗)が上げられるが、既成の教団のうち南都六宗と呼ばれる諸宗が弱体化し、主に天台宗が強勢であると同時に政治権力(主に平安時代における貴族)との癒着が強かったので、反骨精神のあった宗祖(後世に認定)たちは民衆への教化を主要な方法にした(日蓮大聖人は天皇まで上下万民への広宣流布を望んだ・ほか自ら大師号の宣下を請う栄西禅師の臨済宗は鎌倉幕府の武士に浸透して戦国時代も盛んであった)。
釈尊から鎌倉宗祖までが、既成の学派・宗派のセクト主義を厭うも、かえって新しい集団を興している(意図的に起こしたものや後に集団性が決まって祖を仮定したものなど差がある)。
※日蓮聖人は中道の立場や団体としての争いを避ける立場で「何の宗の元祖にもあらず、また末葉にもあらず」と仰せだが、実際は新宗の必要性や新宗の仮想をなさったろう。折伏・法論は徹底して行い、身延に籠られてからも弟子に「法華経と申す大梵王の位にて民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を得て宗論すべし」と推奨し続けた。なお、法華経を奉じる宗派を「仏立宗(仏の立つる宗)」と讃えたこと(複数の御書)は新宗宣言でない。親鸞聖人も法然上人の(自身が受けた教えとしての)専修念仏を「浄土の真宗」と讃えるのみで新宗を立てる気はなかったろうが、いかがか?
また、門下の団結を促すように「異体同心(主に大石寺系)」を強調したり、選民思想ではないが「正定聚(主に本願寺系)」を唱えたりと、後の教団でセクト主義・党派性を増長させる言葉遣いもあった。
スッタニパータにしても大乗経典にしても鎌倉祖書にしても、比丘の団結と、悪比丘(非沙門自称沙門・獅子身中の虫)を追放・破門する必要が説かれている(Snp 2章6経など)。

現代も集団内での軋轢が生じるので、「分派現象」は絶えていない(日蓮正宗系などに限らず身延系日蓮宗より離脱した名古屋の不退寺グループが積極的に活動する)。
釈尊御在世のインドのみならず、鎌倉時代も多くの思想・哲学というよりは、仏教の天台宗内・比叡山(禅・念仏・台密)や南都六宗らが荒れていたので、そういった「宗論・諍論」に呆れる人も多くいたろう。

同じ鎌倉時代で呆れる思いを持つも、行動を逆に、新しい集団を持たずに既成宗派に寛容な立場を取った者たちがいるが、彼らの超宗派的な運動は大きな潮流(宗教改革)に至らなかった。
人物の例としては、華厳系で禅や密教も修めて法華・念仏にも理解があった明恵房高弁(阿弥陀名号は良しとして法然の専修念仏を後に非難した)などである。
彼も、釈尊・龍樹菩薩・日蓮大聖人・親鸞聖人と似たように「物を能く知れば驕慢こそ起こらね(阿留辺畿夜宇和より・短めの言葉が載るのみなので論争の行為についての言及か不明)」と語る人物であった。
江戸時代の慈雲飲光も彼に似ており、禅・密を修めて法華経文を好んで阿弥陀仏を拝み、神道や儒教の学びもあったが、彼の言葉や同じ時代のことわざを少し載せておく。
「佛世には今の様なる宗旨はなかりき、釈迦に宗旨なし、宗論はどちらが勝っても釈迦の恥、宗旨の争い釈迦の恥」



分派した際の精神が形骸化することで協調する現象も見られる。
現今の仏教団体が寄り添い合う状態は、思想において「リベラル・宗教多元主義」などの影響と考えてよいが、より人間の性質に即して言えば「利害の一致」、「防衛本能」もあろうか。
このように語ると、仮にも信仰を保つ人間である私が、社会学者さんとか宗教学者さんのような傍観者視点の不信心に陥っているかのようであるが、少々続けよう。

過去記事では以下のようにも記した。
 まず、原始仏教が外道の迷信・謬見を破ったわけだが、教義の正統性を守るべき初期仏教教団から次第に乱れや誤解の浸透が発生したため、見解の相違や論争から部派仏教への根本・枝末分裂が発生し、初期大乗仏教教団がこれを是正しようと新たな経典も用意した。竜樹菩薩の中論も、彼らの部派仏教の論争を制止すべく発せられたものである。しかし、大乗仏教教団の中にも次第に誤解・執着が生じ、宗派の分裂や論争が絶えず、様々に正当な教義をかざそうとも(または経典や論文の教理が優れていることに飽き足らず平安・鎌倉仏教は修行法にも反映させた)、和解や合流は無く、現代は宗教多元主義・人権思想の影響で形式的な融和・共存があるのみで、教義問題の解決・同調に至っていない。仏教の信仰・研鑽・修行とは、反省の精神(止揚とも)にある以上、これからも問題があれば、当然、現代の日蓮正宗・創価学会・顕正会に見るような教団内の抗争や分裂はありえるし、ある種、仏教教団の宿命と見てよい。※反省した結果が分裂ではあるが、将来的には分裂=破和合僧という結果を防ぐための反省も必要になろう。
当該箇所に関連して後々の記事にも語る。
 例えば、私の教説を理解する人が万人に達して教団ができて多くの人が小乗と大乗とを尊重できる中道の境地に達するが、次第に形骸化・セクト主義が増えて「偏狭な中道」が強まったとしよう。既に、それは私の教えが滅んだことになるので、道心のある一部の信者が教団を離れて独自に研鑽することになり、教団が分派するか自然消滅することになる。このたとえ話は、仏教は初期仏教教団から幾度と分裂・分派を繰り返した「宿命(人間の空にして空ならざる善悪の志の因縁)」を端的に説いている。
夥しい分派の歴史と現状から仏教団体の「宿業」を見る。
この現象に嫌悪感や悲劇を感じる人は、是非とも尊重や寛容の精神・中道・和の心を得てもらいたい。
現今の、日本仏教界などに所属する団体が和睦を演出していることも、キリスト教の如き反省で以て過去の歴史を省み、尊重・寛容・調和の心を学んだためである。
天台宗・真言宗の両管長の「最澄・空海以来の歴史的対話(お芝居)」や、日本仏教史上、最も問答を重ね合った法華系なかでも日蓮宗(元・一致派)・浄土系なかでも浄土真宗(元・一向宗)は仲良しこよしである。
大乗仏教に分類される日本の諸宗は、小乗仏教に分類される上座部仏教を取り込んでヴィパッサナー瞑想を寺院で行ったり、ダンマパダ・スッタニパータを筆頭とするパーリ語経典も学んでいる。
ここでの「諸宗」とは、主に全日本仏教会など多宗派・超宗派系組織に加盟する仏教系宗教法人を想定するから、今なお、加盟せず関与しない日蓮正宗系の団体などはこの限りでない。

また、正宗系の各団体は、文献学的に御書を研究する正信会系(興風談所?など)や、一応「人権・民主主義・人間主義」を標榜して社会に溶け込もうとする一部創価学会(創価大学など学術系はこの傾向が強い)については、他派に少し寛容な一面がある。
それでも、彼ら正宗系団体・日蓮正宗から分派した団体同士での和解や合流は、よほど存続が危ぶまれる事態にない限りは、考えづらい。
禍根を残したままに形骸化して生きながらえるか、自然に消滅する可能性が高いが、できれば、信心が円満となり、本当に大事なこととは何かを彼らが気づき、虚心坦懐に認めて和合僧団となれば、よいように思っている。
日蓮宗(身延系・本迹一致派・主に学者気取りの人)や余の法華宗系も、遺文の偽書説やセクト主義的教義(日蓮本仏論・会長や管長の絶対化など)を分別した結果に囚われて頑なに嫌わず、彼らの信心を尊重(or無視)できるようになってくれればよいものだが・・・。



それはさておく。
現代のインターネットでは、宗教団体に所属する熱心な人の布教・言論の活動は多々見受けられるが、同時に、特定の宗教団体を論難する所属未詳・匿名ユーザーも多い(ブログ・HP・知恵袋などに散見される)。
本年1月に20歳(弱冠)となった私は、生まれて来(このかた)無宗教であり、両親は極めて現代人らしく宗教に関与しないで生きてきた者たちである。
インターネット論者の論難の中身はどうであれ、彼ら個人が特定宗教団体から何らかの害を被った(と感じた)経緯があって怨恨感情があるのかもしれない。
邪推するようだが、この前提に立てば、宗教団体から受けた彼らの苦しみ、苦しみの故に怒りを絶やさずにいる者たちを哀れむべきである。
それと同時に、特定宗教団体の信者の信心(形式的な宗教行為をするだけの者もいようか)をも尊重すべきである。

同じ人間が、自己の精神状態への意識(念)や自覚を薄くして禽獣の如く、恣に放縦に身・口・意の三業を重ね、相互に傷つけ、または自ら傷を癒せずに掻きむしっている。
あらゆる言葉が、諸刃の剣であることを識らず、相傷害(自傷・他害・自害害他・自傷傷他)しよう。
ああ、有象無象の徒輩が僻事を連ねており・・・。
とまあ私まで沈鬱になり、同次元に陥ってしまいそうな気分である。
それは、私自身が彼らの論理(正論?謬論?)や言葉遣いに不快感を覚えることよりも、そのような言説で以て当人と閲覧者の心が垢や泥に塗れていく有様に憂愁を覚えるためである。
心のダーティーにしてメランコリックなるを感じ観ず。
インドの釈尊にしても、インドの外道哲人にしても、悪い言葉の想念が心を穢してゆくことを感ぜられたのであり、その言葉を受けた私もまた、エンパシーを得た。

釈尊とは、慈悲を以て種々に法を説かれたろう。
慈悲・方便の故に自在に説法をなしえる境地を、数多の経文より学んだ。
経文の中では間違いなく、「神通力」を行使して会座にある衆生にも会座にない衆生にも妙法を聞かせられる(三十二相には"大舌相・広長舌"が示されることも光明遍照の如き慈悲を顕現する)。
それでは、斯様な言説をなす徒輩もまた、内心は慈悲の故に鉄面皮の如き言説をなし得ようか?
ああ、他人の心を推し量り難いから、既に言語の道が断たれた。
経文の中では間違いなく、「他人の心が手に取るように分かる」という神通力を行使して円滑に教説をなし、対告衆を歓喜させ、滅後末世の私にまで及ぼすわけであるが、実際の人間は言葉で感情の一致や理解が確認できても、真に一致や理解があることはない。

しかし、「彼らの内心が慈悲でないときになされた言説である」という傍証を挙げられる。
彼らは「水掛け論に戯れている」というか、そもそも「メガホンで独り言を発信している」ような状態であるから、具体的な攻撃対象を想定しているのに攻撃の効果をなしていない以上、論難の対象人物(教団信者)を彼らが奉じる正法に入れようとする慈悲など無かろう。
彼らは何らかの宗派の信心を持たず、無宗教や反宗教団体の立場で「無信の信・マイブッダ・マイダルマ」を奉じている。
既述の通り、所属未詳・匿名ユーザーであるところ、攻撃の手段として仮名や匿名の形で情報発信・ネガティブキャンペーン・分断工作を行っていると見るべきである。
その宗教団体の教義についての論駁に徹し、その宗教団体(≒カルト教団)に所属して苦しんでいる人への心のケアみたいな方面は当然なく、ただ宗教団体への憎悪・驕慢の心で行っていよう。

宗派の教義の非合理性(漢訳経典の誤訳や祖師僧侶の誤解やオカルト的な伝承など)を仏教学的・科学的観点で云々することは、それもそれで多角的視点の意義においては尊重できるが、その論難自体は人の信仰を否定せんとすべく発せられた、邪悪なものである。
ただ「人(自他)の心」も知らず、自身の良心をも失う勢いで情報発信しており、発言者自身を頑固にしかねない。
信仰及び、主観性の立場では、まったく、多くの教えは解脱の道であることを知らず、また、あえて菩薩行として自身の奉じる教えを弘めて折伏を為す人々に、仏教の修行と無関係な横槍を入れる(学問的論難など)とは、愚の骨頂であろう。
無論、そういった信仰の立場にある人々が、私ほど包括的理解や尊重の心ありきで、あえて自身の奉じる教えを弘めんと折伏しているか、不明である。
妄信者も不信者も、二元対立に陥り、中道ならざる境地で「苦しみの道連れ」を行っている。
不信者・無宗教者による宗教団体への論難は、「正しい仏道へ導く慈悲の行い」ではなく、悪道輪廻の黄泉路に誘い込んでいる。

無宗教である私が「尊重」や「反省」という漢音(重、反、省)で発音される語句(尊重"そんじゅう"など仏教に同字の語句があっても意味は異なる)を多く用いることは、中道のためである。
「尊重」や「反省」の精神について、この話題と関係する経緯で過去記事にこう綴る。
 人が世俗の苦を知れば厭離して出家するように、宗教教団も世俗化するならば宗教教団を厭離して脱会すべきであろう(私は生まれてこのかた団体に関与したことは無い未成年者だが)。これは「空」を知った人の境地にも似るが、それで、宗教団体を厭離して「俺はカルト宗教の構成員ではない!」という反感意識を引きずれば、反宗教という名のセクト主義に陥って「空に執着する人」と同じになってしまう。そのため、「反宗教でもない!宗教を離れて学ぶ中道だ!いや、中道であって中道でないが中道だ!何でもないようで何でもある!」と、反省の思考を繰り返して執着を無くす必要がある。「反省の思考」は「心行言語断」の真理に近くあり、思考を超越した思考である。

対立する宗教団体同士でも、相手を異端視して意固地になっている姿勢がむしろ正統・正当であるかのように糊塗して「人間的な良心」を自ら殺している。
「人間的な良心」があるならば、宗教団体の祖師・開祖・教祖や、宗教団体の会長・管長などを「○○人(差別的な意味を込める)」とか「○○病」などとレッテル貼りはできない(彼らは低劣な罵倒としてではなく実際にそうであると断定しているところが恐ろしい)。
同じ人間であり、どれほど尊ばれる人間や、過去の時代の人間であっても、人間として想像される物事に悪罵を加えられるはずがない。
それら宗教団体を嫌う人間もまた、彼らを荒そうと業を煮やしているのだから、極めて度し難く、自然に収まることを待つほかない。
これらも仏教徒の名を得た俗人らによる「宿業」とか「宿命(仏語"しゅくみょう"ではなく俗語"しゅくめい")」である。
無論、それらの情報発信は、私にしても学問的に学ぶところは多く、また、精神面では反面教師とすべき理解に立てるので、絶対的に無益であるとか、不要の存在であると嫌うつもりもないが、彼らの精神に憐憫を持たざるを得ないので憂悩があろう。



他人の心は推し量り難くとも、私のように「そのような言葉遣いや、驕慢の心による論難が、最終的には堕獄の悪業(死後にある地獄の説を虚妄と思う人はそれでよいし慚愧を覚える人は現世が地獄のように思うからこの意味での堕獄は有り得る)となろう」と自他の三業を悩む道心のある者に、大乗・小乗経典の仏教を広く見聞してもらいたい。
非力の私からは、よき経文もろくに提示できない。
非力とは何か?集中力「禅定」に欠け、言葉の記憶能力や感受作用にも欠け、「鈍根」であることを示す。
そのために、何ら、経文の提示ができないと自ら恥じる。
しかし、一つだけ載せる(以下は今までの性善説というより性悪説のようなもの)。
Purisassa hi jātassa, kuṭhārī jāyate mukhe; Yāya chindati attānaṃ, bālo dubbhāsitaṃ bhaṇaṃ. (Sutta Nipāta 3.10 Snp. スッタニパータ)
世間人輩當生時 舌頭自然出斤斧 所謂口中説惡故 還自損害割其身 (起世因本經)
訓読: 世間の人輩(にんばい)当に生ずる時、舌頭(ぜつず)自然(じねん)として斤斧(こんぶ)を出して、謂う所の口中(くちゅう)悪しきを説くが故に、還って自ら損害して其の身を割るべし。
現代語訳: 人間は、世に生を受けた時から舌の先端に斧が付いている。悪口を行う結果、かえって自身を引き裂くのである!

※漢訳阿含経典類・法句経・大智度論には"夫れ士の生まるるに、斧・口中に在り。斬身の所以は、其の悪言に由る"という偈が載る。このような悪口妄語の人が地獄に転生して長く諸々の苦を受けるという説を受けて大智度論では、人に生まれ変わっても苦悩が付きまとうという。法華経譬喩品に十四誹謗・正法を信じない人の果報(2016年1月23日記事・注釈6)が説かれるが、物事を考え直すと大智度論と同じ趣旨とも言える。キーワードは「人不信受(自分の言葉を人に信じてもらえない=私のこと)」か。この教えを見聞して慚愧の念(自覚・反省・努力)を生じた人は、仏の信仰を確かにして自己の身口意をよく調伏しよう。仏は非の打ち所がない人格完成者であり、正しく信ずれば自己の人間的な完成に繋がる。

そんな私でも、なんとか「人の心(善良さ)」・・・「人の心とは所詮、進化の過程における功利性と防衛本能を根源とした結果に過ぎない」とかと思っても構わない。
とにもかくにも、「人の心」による、理性を打ち破る作用(良心の呵責)を感じ取り、自ら尊重することで他者と融通できるようになってもらいたく、様々な場面で説いてきた記述をご覧になってほしい。
「願作心師・不師於心」、能く心を調えて御せられんことを・・・。

自著「觀萌私記」は、自作の絵・音楽など芸術を取り込み、古文の文学性を主体として私による「第一義悉檀」を含めている。
私が人々に覚ってもらいたい精神性を「萌心」と称して説き、仏教の論理も込めながら道徳・哲学らしいことも多く示してある。
現代の人権屋さんや仏教学者さんに、古文の理解と読解力が足りるならば、共感できよう。
「三萌義」は解脱の徳の高い人が頓にして悟りに通じる根本教義であり、第一義の類である。
学徳に欠いていても、方便として説いた好色萌相(世俗の萌え絵)を頼りに、種々の分別を介し、無分別に繋げ、その第一義(真実の萌え)を手繰り寄せることができようから、まさしく「第一義悉檀」を本位としている。
教理は稀有・殊勝であるのみならず、現世利益も示すなど、仏教の多面性(仏教とは何か?科学・道徳・哲学・オカルトなど余す所なく総括するが単なる総括でもない。解脱・成仏の大道である)が多く説かれているし、修行法(逆観三萌義)の概要も述べていて無欠円満の書である。
「人の心・善良な心・良心・慈悲」といった方面も、萌相や文章でよく意義を感じてもらいたい。

精神論や唯心論の方面となりかねないが、観萌行広要などでは世間の絵などで、個人の悪意が滲み出た絵(主にプロパガンダ・風刺)や下卑た欲望が滲み出た絵(婬欲熾盛)に描かれる人物(および動物)の表情が、この「萌相」の義からすると非常に険悪に感じられ、「何の興もない」とする。
これまた、先述・インド云々と同様に「感受性が高い人」の意識には、そう感じられる。
眼根(人の視覚)と色相(その絵など)とを縁として、人の心がそう「取る」という道理である。
無論、それらの絵を描いた人は、芸術として評価してもらうために描いたつもりはないのかもしれないが、だからこそ、一応の精神性を重んじる仏教徒などにおいては、そういった世間の絵を厭離して「萌心」によって描かれた絵を観想すべきである趣旨を、多く語っている。
特に、萌相を描く(顕す)人物は、萌相を描く時の心が「自他の優劣を離れて自受法楽のような些かの自尊の境地で描く」ことを推奨している。
「自受法楽」ということは、まさしく三萌義を領解して萌心を悟り、萌相を意のままに描くことができる「萌三身」を具足している人の「自受用報身」の境地である。
萌相圓かに、萌心圓かに、人の顔貌(顔相・相貌・形貌)もまた圓かに、という御利益は讃萌語に重ねて説かれる。

絵というと、仮にも宗教団体に所属して信心(野心?)の熱心な人ですら、人を貶める意図(慈悲方便?)で絵を描くこともある。
そのような目的で描いた絵は、当然、萌相の意義を著しく外れ、相貌も険悪である。
そのような四悪道の業を作(な)すことで自ら心法の仏界を喪わんとし、己が仏種を断ぜん。
私がこう感じる精神性もまた、仏の教えと御本尊と萌えとが育んでいる。
「それらが育んでいる」という表現も比喩的であり、畢竟、私の道心が主要因であろう。



されば、道心ある人々は、(仏教における)善悪分別を立て、悪を悪と見て厭離の想念を起こし、仏教のみならず萌えの法門もよく学んでおくべきである。
現代日本の若者・閑居求道者などは、すべからくこの道に入るべきであろう。
一分の諦観あらば、みなよく学ぶべきである。
そうでなくしては、慈悲の意義、「本来的・本質的な思いやりの心」という「主観的真理」の理解を得がたい。

「私には道心など無く、心すら無い」と「主観的価値判断」をなさるならば、それもまた私から尊重すべきか。
私が説く精神性について、「心の無い人には関係が無い話」であることは既に記述した。
しかし、そう「無い」と思う時点で微々たる心(五蘊・五陰)を持っているので、「無い(絶無)」という実相は「有り得ない!(不然!)」と私もまた「主観的価値判断」を行う。
この故に過去記事でこのように歌う(最初は2016年10月29日)。

 諸萌出世の本懐は 慈悲を説かむの故ぞかし
 人の心に具はれる 善の種より萌やすなり

 萌えを観ずる人はみな 心の耳に慈悲を聞く
 善く聴く我は此の萌えと 同じ心を結ぶらむ



起草日: 20170221

この日や、多くの日は「脳内に煩悩の網がまとわりつく状態」を感じてならない。
視界はかすみ、自責の念は捨てがたい。
これは慚愧の心を根本とする善念か?無明を根本とする憂鬱の症状か?
我が三業の汚穢なるが故か、悪業に染著せられて報いたらんか・・・。
何を以てかこれを度さん。

若しは慚愧堅固にして身を修せば利益をか得べき、利益と云うは実・不実を覚えず。
若しは色相に利益を求めずして専ら心の解脱を期すべしや。
豈これ最上の功徳と云わざらんや。
人、欲を立てて虚妄の利益を得れども、須臾も愛著せば則ち功徳を喪わん。
これ愚蒙の至りなり、畏んで恐るべし。
凡身、苦悩すれども、み仏の善き諭しとして喜び頂戴すべし。



ところで、ほとんどの人間は主観性・信仰に基づいて生きていることは過去記事に直接意義を示したり、「仮想宗教」の形を例として暗示してきた。
植物状態の人などでない限り、みな仮想宗教を無意識に懐いて生きる。
宗教とは、何らかの共通性のある精神を持つ人々の共同体であり、現象の上で体型と体系とを伴っているものを指すが、仮想宗教とは個人に約し(制約し)、更に類似性を持つ他者を包含して唱えられたものである。
何らかの音楽アニメ系など、作品や作者やジャンルへの尊敬を超えた「愛(kāmaならぬ執着taṇhā, Upādāna)」があって種々の論議(ファン間・ジャンル内の正統性や他のファン・ジャンルとの優劣論争など)が世間に見られるほか、科学的見解に依存して経済の拝金主義を是とした生き方など、枚挙に遑がない。
この現代の世の中には、多くの情報が飛び交っており、欲張りすぎない程度(知識は足枷に…)に上手く良いものを捉え、取捨選択・吟味してゆくならば、公平公正な知見を得る。

既成宗教の善悪二面性、仮想宗教の善悪二面性を理解した賢人は、既成宗教と仮想宗教の中道に入る。
すなわち、私のように高尚な自覚のもとに生きる志と、既成宗教の人々・仮想宗教の人々とその信念を尊重して超越する。
きっと、過去の釈尊、龍樹菩薩、鎌倉宗祖らも、大志を抱いて大いなる行動を起こしたと思う。
現代、私は個人主義の影響もあるかもしれないが、ひとまず、既成宗教と仮想宗教の性質を把握した上で成立した「萌えの法門」について、教・行・証の三法を大成する必要がある。
私の弟子になりたい人は、弟子宣言をしてからでも内心のみでも、何でもよいのでその志を保ってゆけばよいし、ただ単に萌えの法門と仏教の価値を理解して私に尊敬が起きない場合は、個人の研鑽の道を進めばよい。
いずれでもなければ世俗の道でも何でも、元々の「仮想宗教」など主観性・信仰を自覚して悩み、人生の価値を模索すればよい。



尊重の姿勢とは、觀萌私記の場合も、種々の萌えの在り方について本部(表面的な物事を例に取るパート)で分析的に説明し、萌えの作風の方面で日常・非日常の二萌風を挙げる。
もっとも、萌えの法門における萌えは、そういった二萌風などに区別した多くの漫画・アニメ等の作風を包括しつつ、真にはどちらでもないと否定する(日常・非日常というストーリー設定などを離れて寂滅しているから)。
日常系(世事・・・学園・職業などが主要)の作品は昔からヒットしやすかろう。
非日常系(人外や超能力などが主要)の作品はRPGなどが好きな人が多く支持し、彼らの一部から日常系が「つまらん・退屈」と罵倒されるが、萌えの法門に入りたい人は「どちらも魅力的だ(つまり片方のみを好いと感じる人はそのまま耽溺してよい)」と素直に割り切ろう。
または日常系っぽくて非日常的な要素を加えて折衷した作品は中庸の価値があろう(この方面の論議で非難を招きづらい系統)。
このように二萌風ないし折衷のものを尊重するが、真実には日常系にも非日常系にも折衷のものにも偏重すべきでない。
どの作品を好むのであれ、萌心という真の萌えは己が内にあり、そう思うべきである(これは一応の義であるから、萌色是不萌・萌心是不萌・真誰可得萌・己内亦無萌と仏法の義で否定することもある)。

真の萌え(真実一萌・第一義の萌え・非有非無)を知る人は、枝葉末節の萌えに悩まないので、本文に載せたスッタニパータ4章12経や龍樹菩薩が説くように論争を離れているし、自己に葛藤も懐かず、自由に萌えの楽を受けよう(戯論の滅ぶ涅槃寂静に通じる)。
上座部仏教の人に同意が得られるように付言すると、スッタニパータやダンマパダに謳われるニルヴァーナ・ニッバーナ、永遠の安楽とかということからしても、萌尊は自己の外に有形消滅の萌えを求めず、常住・金剛不壊ともいうべき真の萌えを得ている(不可得こそ得ると称す)。

私は、商業作品における漫画・アニメと、同人作品におけるそれとを尊重するが、当然、萌えの法門においては商業と同人の両者を否定せねばならない。
世俗的に言えば、いずれにせよ「買ってこそ正統だろ!」という風潮が是認されているからである。
かといって、「割れ」行為を堂々と行うような掟破りを犯したり、これを自ら肯定して他者にも強いるなどという「破廉恥さ」も容認すべきでない。
こういった、「買え! or 割れ!(保守派VS革新派、購入厨VS割れ厨とも)」という両極端な思考に囚われる「世俗の苦しみ」を離れるために、全否定する思考も萌えの法門では重要である。
買っても割っても、そういった偏狭な信念のもとに行うならば、苦しみの根源たる悪い感情を増長する結果が必至であり、当人の功徳・善根を失う。
買う者、割る者、善意取得する者、割ってから買う者・・・、どんな手段であれ、自己を苛まず、他者を罵らない自由な心であると、文化も育まれる(上下貧富の争いが無い国のように・理想論)。

このように全否定は、その前提として「対立概念の双方を尊重すること」がある。
現今の仏教団体ですら、西洋譲りのリベラルな思想をもとに、他宗教と社会の事象を尊重する立場を取っていることは、当記事並びに過去記事で説明した通りである。
仏道・仏法の涅槃とか解脱のためには全否定しつつ、肯定でも前提でもない中道に入らねばならないが、無論、中道も「仮名(けみょう)」であって「中道を自負する立場」であってもならない。
私は一応、萌えの法門も仏法も、一言で立場を示す場合に「中道」であると断言する。



追記: 2017年12月24日

パーリ経蔵・相応部中の「見相応"Diṭṭhisaṃyutta"」には、思想家・宗教家・哲学者の持つような見解"diṭṭhi, ディッティ"(世は常住だ・世は無常だ・世は非無常だなど)について、取り上げる。
これらの見解は、みな思考・分別などの因縁に基づいた結果の論理でしかなく、無常であるとする(無常を無常で否定するとは自己矛盾や循環論法トートロジーでなくあくまでも執着を離れるために心から無常を実感するということ)。
無常であるもの"anicca"・変わりゆくもの"viparināma dhamma"は、苦しみ"dukkha"の発生につながるので、見解"diṭṭhi"への執着"upādāya (もとい取)"を離れることを説く。
現代日本のセクト的論争やエセ学問の論争も、各々が「こうであれ」という願望・意図や、各々が知っている情報・知識、各々の知能や人生経験など、多くの因縁が結びついてなされたものであり、無常・空と見られよう。
例えば、伝教大師最澄さんが大乗戒壇を作ったこと(厳密には彼の死後7日後に下された勅許による)について、近代合理主義の学者気取りの人の「ブッダ(釈尊)やインド部派仏教以来の戒律の伝統(伝灯)を破った行為」とする見解と、日蓮正宗・創価学会・顕正会の人の「釈尊(ブッダ)や天台大師に勝る偉業」とする見解とが対立する。
これらもまた、各々が「こうであれ」という願望・意図や、各々が知っている情報・知識、各々の知能や人生経験など、多くの因縁が結びついてなされたものであり、無常・空と見られる。

つまり、一応は根拠に基づいた論であり、みな正論ともいえるが、「因縁によって論理があること・因縁によって論理の正誤・優劣があること(縁起)」をよく知る仏教徒は、対立する主張のどちらも「空虚」と知って遠離する。
それらの論理に執着する人・固執する人・嫌悪感を催す人などは、悉く三毒に汚染されており、自己も汚染を受けるであろうとして、自ら心を観る。
Dhp 50: Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ; Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca. (法句経: 不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正)

この教理は、小乗・阿含時の修行・果報(正念・不戯論)へ通じる。
無常の教理を知り、それもまた無常だと知ることは、「心が知るという因縁(知ることも無常)」に基づくものであり、これは釈尊がよくお説きになったことを聴聞することで可能となろう。

しかし、大乗仏教は、あくまでもそれが小乗の教理・修行・果報であって、これを修得しつつも超越している立場で教理が説かれ、菩薩によって修行される。
この時、菩薩の慈悲は、人々を教導せんと欲するので、論理が無常であるという分別・見解を知りながらも、論争をも辞せざる構えとなる。
不戯論のための戯論(諍論)もアリとなり、釈尊・龍樹菩薩がその鑑である。
Sps 2: svapratyayān dharmān prakāśayanti vividhopāya-kauśalya-jñāna-darśana-hetu-kāraṇa-nirdeśanā-ārambaṇa-nirukti-prajñaptibhis taistairupāyakauśalyais tasmiṃstasmiṃl-lagnān sattvān pramocayitum| (妙法蓮華経・方便品: 吾從成佛已來、種種因縁・種種譬喩、廣演言教、無數方便、引導衆生、令離諸著。)
MMK 18-5, 6: Karmakleśakṣayān mokṣaḥ karmakleśā vikalpataḥ | te prapañcāt prapañcas tu śūnyatāyāṃ nirudhyate || Ātmety api prajñapitam anātmety api deśitam | buddhair nātmā na cānātmā kaścid ity api deśitam || (中論・観法品: 業煩惱滅故 名之為解脱 業煩惱非實 入空戲論滅 諸佛或説我 或説於無我 諸法實相中 無我無非我)
MMK 23-13: Anitye nityam ity evaṃ yadi grāho viparyayaḥ | Nānityaṃ vidyate śūnye kuto grāho viparyayaḥ || (中論・観顛倒品: 於無常著常 是則名顛倒 空中無有常 何處有常倒)

宗教一般に見られる偏頗な思想・論理であっても、人々を救うことができるならば何ら不可が無いし、その菩薩行を達成することは忍難慈勝・大慈悲であるとして、自ら生死を度する結果(波羅蜜"pāramitā"・到彼岸)にもなろう、と考えられる。
それらの教理を誰よりも知ってきた私には、かえって困難らしくもある。
また、当記事で鎌倉宗祖らの言説を取り上げたが、彼らは大乗であっても、時に小乗の教理や阿含以来の定説を方便的に用いることもあり(生老病死の苦や生死無常の話など)、当記事で引用した報恩抄・歎異抄の説(自讃毀他・我が宗は勝れて他の宗は劣るという論争には何らかの過誤が付随するという)は、これに該当する。
そして、現代の大乗系既成仏教の信者は、小乗・大乗の教法のごちゃまぜ具合について、自覚せず、大乗の修行中に小乗の理法を世俗的な意味での悟りのように「取"upādāya"」することも多かろう。
そうです。仏様がお与えになった試練、宿命なのです。頑張って参りましょう。


2017年4月10日月曜日

三宝の次第と一体性について

当記事の前提・・・↓記事の後書きの内容を受けている。
http://masashi.doorblog.jp/archives/49097230.html#links

当記事の目的・・・当該記事の記述通りであり、これを改変して示す。

仏教関係では、偉い学者さんが熱心なほどに書物を通読して膨大な著作(辞書や注釈書)も出したりするが、いつかは私の論文・日記・雑記・動画・音楽・イラスト類を研究する人が出てくることを期している。
私自身、過去の仏教大徳と智慧・内証が通じている過去萌尊を瞻仰し、その詔を奉戴して自著・觀萌私記などの萌えの法門を宣説してきているし、自らお絵描き・音楽制作を絶やさないでいる。
萌えの法門が現代人の一部(通称・ネイティブニート閑居求道者)において善き救いの道となる。
この私の努力と同時に、これを二次的に弘める人がいないことには、人々を広く済度する教えも有名無実となるし、これは萌えのみならず仏教でも同じ道理が言える。
過去に「仏法僧三宝は一体であって相互に補完する役割があること」を説いたが、未公開である。
よって、当・メモ帳ブログで当該記事の内容を受けた記事として公開する。

経緯は以上である。
以下より、2016年5月18日以前に書いたと推定される文章を引用する。

三宝一体 三寶一體

※2016年5月18日以前に書いたと推定される文章
三宝が「仏法僧」という順番である理由は何でしょうか?
上座部仏教・パーリ語であっても"saraṇaṃ (saranam、帰依)"する言葉を唱える対象が"Buddhaṃ, Dhammaṃ, Saṅghaṃ (SaraṇatayaかTisaraṇaを参照・いずれも中性名詞対格か・サンスクリット語ではBuddha, Dharma, Saṃgha or samgha)"の順です。
このように、「仏法僧」の順番は古来・初期仏教から古今東西南北・全仏教の伝統でございます。
いずれの尊い「宝」も、正しい仏道の信仰すべき対象であり、欠かしてはなりません。

順番はこのようですが、必ずしも優劣(勝劣)を表す順番ではないと思います。
それでも、私の卑見では、一つを主として残りを客とし、「能・所(のう・しょ、のうじょ)」の意義を立てて順番を仮定します。

仏→法は「能説」、法→仏は「所説」です(別に能証・所証ともいう)。
仏が初めて正しく衆生に法を説き、法は仏によって初めて正しく衆生に説かれます。
仏→僧は「能与」、僧→仏は「所与」です。
仏が所説の法を僧に与え、僧は仏によって所説の法を与えられます。
僧→法は「能伝」、法→僧は「所伝」です。
僧(僧伽)が仏の所説の法を世に弘めて後世に守り伝え、法は僧(僧伽)によって仏の所説の法を世に弘められて後世に守り伝えられます。

三角関係の図に表すと分かりやすくなります。
この「能所」は決して優劣や支配関係を言う表現ではありません。
まとめると、仏は「法を能く説き僧へ能く与える」、法は「仏によって説かれて僧によって伝えられる」、僧は「仏によって(法を)与えられて法を能く伝える」となります。
※究極的に言えば仏が僧や法を定義しますし、僧は法も仏も伝えますし、法が無ければ仏も僧も概念や名称になりませんので真には平等で順番がありませんが、言葉にするために順番をお決めになる必要はありましょう。

こう見た場合、「法・仏・僧」か「仏・僧・法」の順番でないと連続性が足りないようにも思います。
大乗でも小乗でも、仏(仏陀・如来・釈尊)は真理の法から娑婆世界に応現した旨の教説がありますので、法は中間にあると流れが途切れそう(不適切な言い方)です。
また、何を法の宝とするかによっては、仏宝や僧宝も宗派によって変わる既成事実があります。
それは周知のとおり、浄土真宗や日蓮正宗系教団が顕著です。
同じ仏宝が「釈尊」に相当する名であっても、娑婆世界インド成道のゴータマ・ブッダ、久遠成道の釈迦牟尼仏など、ニュアンスが異なるか「名同体異」となる例もあります。

色々と長くなりましたが、三宝である「仏法僧」の順番をどう思いますか?
教義的に云々すべきではないようにも思いますが、実際はどうでしょうか?
順序の成立過程で、やはり、重要度などの意思は介在したものでしょうか?



私論・三宝への信仰の重要性
今、私は仏法に遭遇し、見聞ができている。
もし三宝が無ければ過去にも現在にも(釈尊による)仏教はない。
「法」があり、「仏」が法を説き、「僧」が法を時空に渡り、伝えて弘める。
私たちの現在の仏道は、まさに三宝のおかげであると知り、信仰や尊敬を持って当然である。
古今東西南北、全仏教の共通認識でもある(普遍的教義)。

私論・仏教用語における順序の重要性
仏教用語では「三○」などといった漢数字が接頭辞となる語句(名数)があり、その内には漢数字に相当する用語が並ぶ。
それらの用語は無造作な順序ということは有り得ない。
特に「戒・定・慧」の三学の深義をお考えになったことはあろうか?

世の人、常にいわく「知れば知るほど慢心する」と。
これは半分正解であり半分誤りである。
なぜ釈尊は「戒・定・慧」の三学をお示しになったか、よく考えていただきたい。
戒の行、定の行を修することで慢心はほとんど制御される。
そして智慧を得ることで、何をどれほど学ぼうと「我、悟りを得たり!(仏意を知れり!)」といった慢心を起こすこともなくなる。
真に「よく知る」ことは、単なる知識の吸収のみならず、「三学」の全てに渡って知ることである。

大慢心を起こした宗教家らを思えば、或る者は仏法の教学に精通し、或る者は霊験あらたかな修行(断食ウン百日など)によって名を馳せたが、その前に、補完すべき理解や修行を抜かした。
元から機根が高い人(釈尊・聖人たち)でもない限りは、諸仏の「如説修行」を心掛けるべき(完璧でなくとも)であり、一つの修行(修行を欠いた学問なども)に拘泥したり、飛び飛びで修行をしてゆくと、必ず顛倒してしまう。
戒定慧・三学のように多くの仏教用語は、並び称されるもの全てが重要な構成要素であり、それらは順序にさえ深い意義が込められているものと、私は拝察する(四諦・十二因縁は好例)。

あえて理屈によって順序・次第が決まる場合、「仏法僧(漢語・梵語問わずこの順)」という並びが妥当かどうかについて直接見解を示そう。
まず法ありきでも、仏がいなければ法が説かれないという第一の前提により「人即法」の意義から仏・法の順を決め、二次的に弘める点で僧を次に置くことは妥当となる。
仏教であるし、尊き仏を第一に立てることが目標(解脱・涅槃・成仏・往生)の宣揚となり、信仰の立場では真っ当であろうし、これ以上の愚生による多言を要しない。
"Buddha, Dhamma, Sangha"の頭文字は、偶然にもアルファベットABC順になっている、という点を付記する。

「決三寶次第 立能所義 佛は法の能説なり。法は佛自り所説なり。復た説の字は證にも代ふ・・・」



引用は以上であるが、引用文の中には「一体」という語句が無い。
「一体」とまで言わず、「平等」の意義は示されている。

>いずれの尊い「宝」も、正しい仏道の信仰すべき対象であり、欠かしてはなりません。
>もし三宝が無ければ過去にも現在にも(釈尊による)仏教はない。「法」があり、「仏」が法を説き、「僧」が法を時空に渡り、伝えて弘める。

円満・不可欠な三宝への信は、仏道において常に携えていよう。
つまり「一体」とは、現在の理解の感覚で、この意義を説明し直した表現である。
大乗仏教で詳細に説明される、仏の「三身=法身・報身・応身」にしても、悟りを得るであろう智慧(報身)と、智慧に悟られる法(法身)とが一体不可分の「境智冥合」を示し、仏宝・法宝のようである。
また、現世・人界での精神・肉体(名色)という応身(化身)が無いことには他者に示されないので、応身も補助として不可欠であり、三宝でいえば僧宝もまた引用文にある通り、二次的に縦横(時空)への弘教を担っていて不可欠である。
本来、仏は仏という完成形だが、その性質・力・作用には差異が確認されるので、仮に法身を想定することがパーリ語経蔵に伝わる教説(Sn22-87Snp5-19など)から既にあったが、大乗仏教では仏の現世の姿(応身または化身)と法身に限らず、智慧の性質などを考慮して詳細に語った経緯がある。
生ける仏のお姿(応身)を見て、人は「世尊だ・沙門だ・乞食だ」と見るであろうが、それはそうとして、よく仏がそこにいる事実を思惟するならば、真如の法や縁起などが見られるのではないか。
いずれにしても、元々、仏は仏であるので、一つとか、一つより多いものとすら言うべきではない。

冒頭に述べた觀萌私記に関する教説も、仏教との習合が進むにつれて「萌えの三身」を説き、その一体性を説明した。
最初期の萌えの教えである萌義條には、萌えの理解の肝心である「三萌義」が説かれているが、これもまた「皆な萌えの類」としている。
「三即一」のようにも捉えられる。
萌えの三身や三萌義に関する仏教的な解説は「注三萌義 (仮の公開ページ)」に預ける。



起草日: 20170131 (個別の引用文は別記された通り)

この記事は、人々の救いの道となる教えを有名無実にしないため、二次的(時間・空間とも)に弘める人が必要であるという意義を示すため、上の通りに引用した。
特に、私が説いている萌えの法門は、現代の若者の中でも世俗の分野の商業性を嫌いながらに芸術性を尊ぶ一類の人に対して救いの道となることを確信している。
仏教自体、時代を問わず、法門が開かれていて万人済度の道となってはいるが、その下準備として萌道を説く心は、常に清浄萌土抄の「夫れ萌道は、未だ仏道に入らざる人をして向かわしめんが故に大萌尊の説きたまうところぞ。仏道は即ち是れ路にして萌道は一方通行の径なり。人、萌道に入ることを得れば、何ぞ仏道を離れん」という一節を引く通りである。

これからの時代を乗り切る術は、まさに仏教あるのみである。
健全な方面で科学技術が進歩することは大いに称賛できるが、改造人間のようなものが増えてはならない。
どれほど技術が進歩しても乗り越えられない危難は、天文学的災害・戦争などの人災・地理的な災害である。
文明・国家規模で蓋然的に直面するのみならず、個人には死が必ず訪れるから、仏法の理解を求めている。
どれほどの時代を経ても、人の脳内に工学的な「チップ」を埋め込むことは世俗の倫理においても許容されるべきでない。
仏教の「チップ」、つまり私がいう「仮設エッセンス」や「念」によって智慧が養われ、正しい思考に基づく生活が送れるようになるべきであろう(正しいこととは仏教の信念によるしその正しさが苦しむ人々を救うとみなすから慈悲によって仏教を布教したくなる道理がある)。
これならば「チップ」の施術行為も費用も、維持・管理も必要が無い。

仏教の「チップ」を埋め込む者は、僧俗(道俗・緇素・出家在家)仏教徒である。
仏像の開眼供養で「魂」を吹き込むように、仏教徒が執刀医となって人々の脳内に「仏教のチップ」を埋め込むべきである。
各個人は、「仏教のチップ」を喜んで受けてほしい。
仏教では「魂・霊魂・魂魄・エッセンス(本質)・アートマン」などが「無い」というが、私の「仮設エッセンス」という名称の通り、仮に「有る」とも言える。
「チップ」といえば物体を想定するものだが、物体としては「無い」としても、物体と同等の作用がある状態を物体になぞらえて言えば、そのチップは「有る」とする。
神秘的なエッセンスにせよ、物質的なチップにせよ、議論を気にせず、自ら心に思い描いて「仮想」すればよい。
物事は心が判断するならば、事物もみな心に映った「仮想現実"Vertual Reality"」に過ぎない。
神秘的存在も物質的存在も、心を介すれば「無」であり、同じ「無」ならば心に思い描いたものでも無の範疇で成立する(世間ではこれを詭弁と言うが)。
仏教徒は、このスタンスで修行・信仰・布教をしてゆく。
ただし、そのようにできない場合は、物質に頼る必要性も出てくるかもしれない。


2017年4月2日日曜日

Google+ 2017年3月中の日記メモ

日記メモまとめ記事・史上初、冒頭の辞において特に書くことがない状況である。

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2017/03/01

本日3月1日は2:10の第一アラームに目覚めたろうが、起きようとすることなくして2:20・2:40のアラームなども、手で停止した記憶は無いが、手で停止しつつスルーしたろう。2:50の第四アラーム以後の2時53分に起床した。これほど遅れた起床は、日記メモの通り、近頃で有り得ない。前日は9時50分ころから睡眠時間40分の仮眠を取っていたり、就寝の時刻も早かったのに、不条理であろう。こんな不条理など、自覚が多すぎるので、どうでもよい。

10時42分に母親が「お仕事」へ発車した。間もなく風呂(シャワシャン)の準備を始め、11時45分に自室へ帰った。12時から、2017年2月28日で賞味期限(製造日から10ヶ月後という基準)が切れるインスタントラーメンを開封してアレコレとした食べ方を行った。そのままかじる・おかゆ(毎日起床1時間以内に作るもの)の残りと共に煮る・少し水分を含ませた部分とそのままの部分とをオーブントースターで焼くなど、である。そのままかじったものでも、湿気で食感が悪くなっている印象は無かった。他の調理法のものを食べても、味や食感の劣化などを感じることは無い。母親の買出しでは、1ヶ月あたりのインスタントラーメンの供給量に異なりが出やすい。それはそうとして、ここ8ヶ月ほどは、今回の銘柄でない、同じ銘柄のみを買い続けている。今回の銘柄は、トップバリュの中価格帯の銘柄であり、ここ8ヶ月ほどの間に専ら買われるものはトップバリュの低価格帯の銘柄(ベストプライス)である。中価格帯の銘柄は日清の関東工場で製造され、賞味期限が製造日から10ヶ月後である。低価格帯の銘柄は三重県内の工場で製造され、賞味期限が8ヶ月後である。

風呂(シャワシャン)に並行して洗濯をしていた。本日の午後から雨が降る懸念があったため、軽度なもの(靴下1足・パンツ1点・長袖Tシャツ1点・タオル1点)に済ませ、風呂(シャワシャン)を出て早めに身支度をしてから速やかに干し出した。15時30分台にこれを取り込むと、15時55分にはそれなりの音が立つ雨が降っている様子を確認した。ギリギリセーフ、であった。



2017/03/02

本日3月2日は2;10の第一アラームに目覚め、考え事に入った。携帯電話に手を伸ばして時刻確認をしようとした途端、2:20の第二アラームが鳴り、このアラームを停止した20秒以内に起床した。4時台、前日18時5分に飲んだ下剤1錠と本日飲みかけの緑茶のカフェインパワーで便意があり、トイレに入って軟便を排出した。6時台にも少量の軟便を排出した。12時35分に母親が発車してどこかへ外出した。

保健士訪問に関する思考メモ→「怪しい人」に対する監視目的もあろうか?私が訪問を受け入れる理由の一つは、身の潔白を証明するというか、怪しい行動や策謀などを行っていないことを誰か他人の目に晒すこともある。ところで、彼らが手帳に何らかのメモを取るような行為も、9月26日の訪問が最後であったように思う。彼らのメモ行為を鑑みてわざわざテーブルの前に設えたソファに誘導する必要もなかろうが、今後も、自然にソファへと案内することは継続する。彼らも形式的な訪問となっているであろう。私はただ正直に生きようとしているだけなのだから、たとえ過誤があろうとも偽りはない。

前日は19時45分にPCをシャットダウンして就寝を始めたようだが、眠れない時間が続いて20時20分ころに母親の帰宅を挟み、21時30分ころ、ついに眠ったと思われる。



2017/03/03

本日3月3日は0時40分台に一度目覚めているが、この時、先の眠れない時間帯にはずっと2階にいたであろう母親が1階でテレビを付けながら居座っていたようである。再度眠り、2:10の第一アラームに目覚め、2時13分に起床した。母親は、「本日の外出に向けた弁当」などの料理をしていたのであろうか。私は本日の13時半に保健士の訪問を受ける予定であるにもかかわらず、悪い睡眠となった。かの就寝時はおかしな腹部の違和感起床以後はいつも通り、冷蔵庫保管の余し飯でおかゆを作るも、主にシリアルを食べ、4時半から残りのチョコ味牛乳でコーヒーを飲み、4時53分から便意によってトイレへ入り、軟らかめのものを排出した。

10時42分に母親が「お仕事」へ発車した。タオル1点と、薄い灰色のスウェットを上下とも使って洗濯を始め、炊飯も行う。13時19分に保健士2名が来て13時51分に帰っていった。前日のメモ中にある、メモを取る行為が久々に見られた。手帳ではなく、A4サイズで紙を切り離せるノート(ルーズリーフ?)に書いていた。製作中の動画の一定の段階が終わって一度目のエンコードの折、2階の母親の部屋に上がった。既にバルコニーに干し出してある洗濯物の確認をしたついでに、母親の机の上にある書類なを物色し、シフト表(?)の入ったクリアファイルを見つけた。母親の出勤の部分にマーカーが引いてあり、母親が長時間外にいた前日は、引かれていない。

本日の多くの時間を動画編集作業に費やし、結果としてYouTubeで18時33分に公開された。今回の動画は、AviUtlでの編集に惜しみが無い。そのため、動画を出力する過程のエンコードの1段階目が終了すると、見かけないエラーメッセージが表示された。ダイアログの選択肢「はい」・「いいえ」のどちらを選択しても、ソフトが同じようにダウンする。私の方で改善を試みるも、変わりはなかった。そこで、メッセージ中の"0xc0000005"という文字列をAviUtlに関連付けてググったところ、解決策を記したページが最上位にヒットし、以後も同じような情報を載せるページが確認された。その手段(L-SMASH File Readerの導入と操作)を行ったところ、解決に至る。問題の段階でエラーメッセージが表示されなくなり、AviUtlでの出力が完了した。続いてMovie Maker (Windows 10などではLive Movie Makerという名称を用いていないが同じもの)で字幕を付するなどの編集がある。動画の話題は、ちょんとやっておしまい、ではなく、徹底的に継続する「折伏」スタイルである。2017年1月1日・新春記事で話題にした事柄である。動画視聴者がゼロでも万でも、大音声を以て妙法を聞かしめんと奮起している。可能なうちは同様の話題の動画を投稿し続ける所存である。



2017/03/04

本日3月4日は2:10の第一アラームや2:20の第二アラームに目覚めたろうが、はっきりとした意識は2時36分の時刻確認である。2:40の第三アラームの後の2時41分に起床した。前日に下剤も便秘薬も服用していないし、本日中にカフェイン飲料も摂っていないが、悪い便秘と腹痛が10時以降に強まり、11時46分からトイレに入って下痢をそこそこ排出した。12時53分に母親と弟の2人が車で外出した。16時33分、車が家に着いたが、車から発する音が荒い運転を想起させた2人が喧嘩などで怒っているからそうであるときもあったが、怒っていないときもあり、今回も怒っている様子ではない。弟の抗精神病薬の服用が継続している、喧嘩は考えづらい。停車直後にすぐ家の中に上がった人物は弟で、「ただいま」や独り言などもなく速やかに2階へ上がる様子があった。



2017/03/05

本日3月5日は、まず最初の目覚めにおいて0時24分の時刻確認をした。再度眠り、続いて2時台各アラームは不明だが、2:40の第三アラーム直後に起床した。前日は彼らの外出中と、19時台にヤマトの配達員が来て、19時台の時に弟と母親がバタバタと動いて受け取った経緯がある。中身は、2月中に1度あった時と同じく、Amazonで購入された「サントリーが販売する見かけない銘柄の国産ビール」である。本日0時24分の目覚めで1階リビングにいた人間は母親だろうが、3時30分台に1階リビングのストーブが付けっぱなしになっていることに気付いた。ビールといいお茶(ファミレスなどでくすね取ったティーバッグ)といい、母親が放縦なままに飲みすぎた悪影響か。



2017/03/06

本日3月6日は一度1時40分台に目覚めたが、それから少し経った1時59分に再度目覚め、1分後に起床した。11時13分に母親が発車した。買出しである場合、通例(14時以降が多い)よりも早い時間帯である。15時50分ころに母親が帰宅した。

前日の18時ころか20時ころに非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲み、就寝中の押し入れや、本日の起床以後にも腹部の違和感・腸の活動はすさまじく感じられ、チョビ漏らしも有り得そうだったが、もちろん、だからこそロクな結果も無く終わる予感もした。案の定、起床から1時間もすると腸の活動はさながら死んだようである。4時台のコーヒーや12時半からの紅茶などのカフェインパワーも空虚であった。15時以降は、少量のシリアルに対して多めに牛乳の分を摂取し、それでまた異常な腸の活動が再開したが、排便には及びづらく、18時50分台から排尿ついでにトイレで踏ん張ると、「ピッ」と一発を出した。



2017/03/07

前日就寝時・20時過ぎにも非刺激性便秘薬最低用量3錠を服用したので本日3月7日は0時台に腸の激しい活動に睡眠が妨げられて意識が付いた。最初の時刻確認が0時38分であり、しばらく押入れ就寝のままでいたが、1時7分に起床した。1時10分からトイレに入り、少量の下痢を、いささか無理に圧し出した。10時30分ころに母親が徒歩で外出し、11時30分ころに家に着いたが、それから20分以内は何度か屋外と玄関とを出入りする。

本日は朝5時台や14時台や強烈な眠気に襲われながらも、座り込んで耐えた。横になることは一度あったが、眠りに落ちないよう、数分程度で体を起こした。頭には不快感が張り付くようで、上半身は疲れが溜まる。なお、本日は4時台・10時台・14時台にカフェインレスのコーヒーを飲んだ。前日に母親が買ってキッチンの収納に格納されてているものである。経験(2015年9月29日2015年10月2日メモ)では、カフェインパワーのような状態が発生したが、今回はそうでもないばかりか、連日の非刺激性便秘薬の服用などでもっと発現すべきところを僅かな便意が関の山であった。ところで、本日は19時までに、別々の要件で3・4度ほど母親の呼び出しを受けた。



2017/03/08

本日3月8日は2:10の第一アラームに目覚め、直後に起床した。3時20分台から便意のためにトイレへ入り、あまり多くない下痢を排出した。8時10分ころからトイレへ入り、そこそこの下痢を排出した。10時46分に母親が「お仕事」へ発車した。10時50分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、11時52分に自室へ帰った。



2017/03/09

本日3月9日は、前日の就寝時に第一・第二・第三アラームの設定をOFFにしたため、2:50の第四アラームに目覚めた。間もなく、起床した。現在12時20分、本日はカフェイン類の摂取を行っていないが、日中に眠い状態はいつも通りに思う。ここ数日は、眠い時の幻覚作用を多く実感している。眠くて目を閉じている時にはリアルで無機質な光景が浮かんだり、母親などの声が再現される。目や耳から捉えたものとしての幻覚ではない。いわゆる夢など、睡眠時の脳の機能(2月26日メモなどにも語る)と似たようなものでもあろう。しかし、こう多く発現されると、これまでのコーヒーの麻薬成分から悪影響を受けているのではないかと考えてしまう。もちろん、コーヒーのせいにしようとは思っていない。ただ、頭に麻薬成分が張り付く印象を覚えており、コーヒーについて原因の一例ではないかと感じる気持ちである。精神的・神経的にカフェイン飲料を拒んでいるともいえる。どちらにせよ、色々な食物や飲料に関して摂りすぎないよう、今後も節制が肝心である。作業にも余念なく没頭し、適度に休息を取るべきである。余念のない作業とは、「気持ちが移ろうままに手を動かすこと・・・音楽や絵の作業中に魔が差してインターネットの関係ないページをウォッチしたくなる悪癖」を、抑える必要がある。癖というと、ここ数日は眠気が襲い掛かった時に手を強く握りしめたり、腕を一振りしたり、軽く顔を平手や拳で打ったりする。

16時ころから母親がずっと1階に居座り、18時以降に弟を呼んで夕食を始めようとする時、弟が「ダイエット」を理由に「悪いけど今日は食べない」と言い出した。母親は「どうせ夜中とかに食べだすんだから今食べな」と注意する上で「ダイエットしたいなら(母親が家を空ける)水曜や金曜に自分で料理を作りまくってバカ食いするな(ちなみに弟は毎朝少量の冷たいシリアルを1分程度で食べ終える)」、「小遣いでお菓子とかを買わないでお野菜を買いなさい」といった助言を繰り出していた。「まずい」話をされた弟はだんだんと機嫌を損ない、久々に「お母さんの料理なんかまずいんだよ!」と吠えた。脅迫もあった。脅迫とは、その場の物体を取り上げて投げつける宣言をしたり、2階に上がろうとして母親の部屋の物を壊す宣言をする行為である。なお、本日の早朝に披見した弟の連絡帳の、教職員の欄には「○○(弟の名前)くん制服のズボンがキツくて悩んでいる、ダイエットが一番だけど制服を直す手段も話した」という趣旨が記されていた。ところで、本日の私は14時台の食事以降、水分補給の程度に済ませて20時までに寝るつもりでいる。その後、気分を取り乱した母親の習性らしく、18時50分ころに弟が2階に戻って直後、夕方の時間帯に稀な掃除を突然に始めだし、私の部屋のドアにもゴスゴスと清掃道具をぶつけてきた。自覚が無い異常事態(迷妄・顛倒・狂乱)らしい。



2017/03/10

本日3月10日は、最初に意識が付いてから確認した時刻が1時34分である。起床せずに2:10の第一アラームを待ち、2時11分に起床した。前日19時ころに非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲み、本日4時20分ころから20分ほどかけてチョコ味シリアル抽出ミルク入りインスタントコーヒーを飲んだ影響で、5時18分から下痢少量漏らしを起こしそうな悪い便意のためにトイレへ入って下痢を排出した。3時までの調理時にも下痢少量漏らしを起こしそうな便意があった。そういう便意があってコーヒーを飲まない限りは、便意が失せるから煩わしい。便意があるならば維持すべきであるが、ろくな結果も無く失せたり、少量漏らしてから失せることは多いので、コーヒーでしっかりと止めを刺す必要がある。

10時38分に母親が「お仕事」へ発車した。12時までに料理や、母親に任された洗濯物(例の不具合がすすぎ段階や脱水段階の手前に計2度起きて2度再開スイッチを押した)の干し出しなどを済ませた。12時台から漸次ムーミンカップ2杯分の緑茶を飲んでゆき、14時から便意のためにトイレへ入り、細めの中サイズのものなどを排便した。



2017/03/11

本日3月11日はまず0時30分台に目覚めたが、母親か誰かが1階リビングに居座っている様子が、(私が寝る)押入れ内にも伝わる。2:10の第一アラームで再度目覚めた時も母親か誰かが1階リビングに居座っていると分かり、私は2時12分に起床した。直後に2階では弟によるトイレへの移動の足音も発生し、極めて狂った夜中である。母親は3時0分にテレビを消し、1分半後に2階へ上がった。

最後の記録はいつだったか?PC(Win10機)の強制終了や、chromeブラウザの強制終了は、近頃なかろう。chromeブラウザの強制終了の最期の記録は2016年12月7日メモにある。本日13時38分、それまで下書き記事の編集をしており、ある段階で、chromeブラウザが強制終了する前兆現象が見られた。その現象とは、IMEの予測候補や変換候補が出なくなる状態である(2016年10月11日メモにも説明)。身構えつつ、別ページでわざと強制終了を起こすような操作をしたところ、案の定、chromeブラウザが強制終了した。13時42分に母親が、先に弟に話した用件で発車した。「お仕事」のようであり、服装(出勤時に毎度着る青いジャンパー)もそのようだが、話は曖昧な言い方であってよく聞こえなかった。18時過ぎに母親の車が家に着いた。



2017/03/12

本日3月12日はまず1時0分ころに目覚めたようだが、当然起床せず、数十分後に再び入眠したろう。続いて2:10の第一アラームをきっかけにして意識を取り戻し、30秒後に起床した。2時34分にティッシュペーパーに強めに鼻をかんだところ、備考の内容物が多めの血を絡んだ状態で排出された。前日の起床直後に鼻をかんだ際も少し血が確認されたが、本日はその何倍もあるように見える。このような鼻血は、起床直後に確認されるのみで、1時間も継続することはない。原因は睡眠中にあろうかと思うが、判断材料に欠く。

前日18時10分ころに飲んだ非刺激性便秘薬最低用量3錠の効果で、3時ころから便意のためにトイレへ入り下痢を排出した。つくづく記録したくなく思うが、非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲んだ際の効果発現は極端である。大した排便も便意もなく1日が終わる時もあれば、ガス排出の勢いが余って漏らしかねない下痢の時も多い。今回も「チョビ漏らし被害」は無かったが、油断ならない。トイレでの排便時は、下痢の状態が悪くて排出しづらい上、いざ出してみれば、「跳ね返り対策」の効験なく勢いが凄まじいため、左臀部などに高い濃度のものが跳ね返って2点付着した。忌々しさを極める。11時13分、10時37分までの1時間ほど1階リビングにいて2階の自室にいた母親が、俄かにドアを開けて2階の廊下を、ドスドスと足音の立つ猛ダッシュ・猪突猛進で鈍足に駆け抜け、トイレに突撃していた。



2017/03/13

本日3月13日は2:10の第一アラームに目覚めたかもしれないが、その後は起きずにすぐ眠りに戻ろうと思ったろう。2:40の第三アラームから少し経つ2時44分に起床した。10時27分に母親が発車するまでの4分ほど、母親の車のアイドリング状態が続いた。10時57分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、12時0分に自室へ帰った。14時56分に母親の車が家に着いた。



2017/03/14

本日3月14日は2:10の第一アラームに目覚めたかもしれないが、その後は起きずにすぐ眠りに戻ろうと思ったろう。2:40の第三アラームから少し経つ2時43分に起床した。前日の10時ころにヤマト(珍しく委託業者か何かのバン・ワゴン車とかではなくヤマトらしいトラック)の配達が来て呼び鈴が2度鳴らされるも、2階の母親は応じず、19時ころになって受け取る経緯があった。配達物の中身は、職場でホワイトデーのお返しをする(?)菓子であると本日3時台に気づいた。メッセージの印字を指定できる菓子で、透明の個包装から「あ・り・が・と・う」の文字が確認できる。しかし、6時50分台に1階に降りて来た弟がこれをいくらか食べてしまったらしく、7時10分に母親の悲鳴が2階で木霊していた。さも「○○ちゃん食べてね」と思えるような場所に放置してあったので、独断専行・貪欲の弟がホイホイとつまんでしまったようである。7時17分に少し確認してみたが、箱の中身に大した変化はなく、ゴミ箱に空の個包装も見当たらなかったが、どういう事情か不透明である。

10時10分前から母親が徒歩で外出を始め、11時30分ころに家に着いたが、20分ほど車のあたりを中心に敷地内を移動していた。



2017/03/15
結果的に分配された"ありがとう"菓子類

本日3月15日は2:20の第二アラームで目覚めたという印象であり、2時24分に起床した。3時10分前からゴミ出し・自販機通いの外出を始めた。前日から懸念された強風は、問題ない。東の低い空に雲が確認されたが、多くは星がちらばって見え、月は満月に似た形で中央の近くに浮かぶ。今回の道中は新聞配達や通行車両などが確認されなかった。2時40分ころに自室のそばでネコの狂い気味な鳴き声が聞こえてきたが、ネコの姿を1匹も見かけなかった。


前日の12時前だったか、件の菓子が私と弟にほとんどの分量(私には2種類・各12個)が分配された経緯がある(月曜日母買出し購入品の菓子1種類も弟より遅れて同じ袋の中に入る)。本日は8時前などから一度2時間近く居座った母親が10時30分から1階にいながらテレビを見続けて普段の通勤時間を過ぎてもそのままである。ホワイトデーに関連して職場に菓子を渡すことは、ついに確認されないこととなった。いったい、前日朝の母と弟のやり取りは何の意義があったか?その時にも増して不明となった。15時15分に母親がどこかへと発車した。15時30分ころに母親の部屋に上がってタイムシート(シフト表)を確認すると、本日3月14日の項目に"15:30"と記入がある。よって、今は職場にいよう。いつ書き加えられたものか不明だが、前日あたりにしていた電話で勤務時間の予定変更があったろうかと推察する。

当記事注: この週の金曜日当たり弟の連絡帳を見ると、どうも件の菓子は、弟が弟の学校に配布したようである。弟が先に学校に渡すものとして受け取ったのであろうか、そして弟がそれを少しだけつまんで食べたために前日朝の一件が起きたか定かでない。当時の母の発言に「"ありがとう"って書いてあんじゃん」というものがあったが、意味不明な空ごとだと思うべきか。未然に「学校で渡すもの」として伝えたのであれば、意味不明な空ごとだと私は思うべきである。こう考えて記録するだけであり、実際の物事はどうでもよい。



2017/03/16

本日3月16日は1時台に目覚めて1時30分台に時刻確認をしたが、それから起床せず眠らずの状態が続いた。体内時計が2:10の第一アラームの予感を察知して携帯電話を開くと2時9分だったので、先んじてアラーム設定をOFFにし、起床した。前前前日3月13日から毎日、非刺激性便秘薬最低用量3錠より少ない2錠を飲んできたが、前々日のように変な便意があるか、前日のように大した違和感もない状態のみで排便に至らなかった。本日は例の如く、変な便意があり、チョビ漏らしを危惧する場面もあったがなんとか無事であった。3時40分から便意の高まりを感じてトイレに入ったが、やはりスープカレーを想起させるドロッとした下痢が、少し出る程度であった。普通の便意ではなく、ただ溜まったものが圧し出されるという消極的な経緯の便意であろう。言い換えれば、大腸がまともに機能せず、死んでいるようである。少量の薬で排便できる状態は健在でも、大腸がなまっては大問題であろう。

本日摂ったカフェイン飲料は、4時~8時までの間にムーミンカップ2杯分の緑茶を飲んだ。茶を抽出した後の茶葉の一部はおかゆに加えてある。緑茶を淹れて飲んだ際によくやることである。11時ころにチョコ味シリアル混ざりのインスタント・カフェオレ1杯を飲んだほか、14時以降にも半分の量のインスタントコーヒーの素で甘めの飲料を飲んだ。15時20分過ぎに便意のため、トイレに入ってクリーム状の糞の少量を排出した。



2017/03/17


本日3月17日はまず0時台に目覚めて時刻確認をした。早すぎる時間なので、当然起きない。前日の就寝1時間以内に、わざと多少の飲食を行ったまま排尿無しに寝たので、尿意とか便意に攻められて睡眠の障害も懸念され、予想通りであった。また、いつであったか1時台に入るであろうエアコンの予約起動による起動が既に入っている状態を察知することもあった。結果、私の起床は2:40の第三アラームが鳴った際の意識による2時42分に成立した。

4時50分台、便意のためにトイレへ入り、長くなく細いもの3つを排出した。チョビ漏らしを警戒しながら時間が過ぎる中、5時40分台は危険な状態となり、冷静に立ち上がってトイレへ入った。今回も漏らしはしなかったが、トイレでは出しづらい下痢を少しずつ排出した。下痢や硬い糞の場合にどうすべきかというと、呼吸を整え、腰は曲がらないようにし、足も踵などが浮くようにしておくような姿勢を維持する(2017年1月17日メモ・腹筋を意識しながら姿勢を正す等)。

10時過ぎ、数日来の外出予定を鑑みて準備しようと立ち上がり、いつも通りチョビ漏らしをこらえながらガス排出を試みたところ、ついに漏らした。トイレで下痢排出と下半身衣類の処置をしたが、トイレを出る前の下半身一糸まとわず(靴下は着けている)の寒い状態で母親が1階に降りてきたため、冷える環境下で数分待たされた。心身共に、外出に備えた数日が、この10分でブチ壊しである。心身共に死亡寸前である。10時44分に母親が発車した。

11時10分に家を出て郵便局に行って口座に9000円(1000円礼9枚)の預金をし、11時29分に帰宅した。道中に公園内を通って桜の木を遠目に確認すると、まだ咲いていないつぼみの状態であった。11時0分ころに始めた洗濯物で、すすぎメニュー前にぐずっている様子もあるが待たずに外出した経緯があり、帰ってみるとやはり外出直後にすすぎメニューを行わずにエラー発作を起こした様子があった。洗濯物の作業は帰宅後もエラー連発であり、仕方なく調理などを始めた。炊飯は外出前に炊飯器のスイッチを入れて住んでいるため、別の調理であるが、12時17分には調理中に弟が帰宅した。本日の漏らし経緯もあって風呂にさっさと入りたかったが、洗濯物のせいで長引いた反面、弟の早い帰宅の前に風呂(シャワシャン)を行っていても問題が発生したろう。結果オーライ意味不明。しかし、それも喜べない、弟の早すぎる帰宅により、本日は結局風呂(シャワシャン)を行うことは無くなった。帰宅後も外出時のズボン(変な痕がしみついたままのチノパンツ)を履き続け、風呂(シャワシャン)に際して脱ぐつもりでいたが、結局今まで履き続けた意味も無い。13時40分から母親の部屋で絵のスキャン作業をし、必要な道具を自室に持ち帰って再度、2階バルコニーに入って洗濯物の確認を行った。自室に戻って別の作業の折に屈むと左ひざが痛んだ。日記メモを取る日々における自分としては、色々な用事に体を動かしまくる日である。この生活において、たまに、普段やらない用事が重なりまくる日がある。



2017/03/18

本日3月18日は2:50の第四アラームの後の2時52分に起床した。このアラーム以前の3つのアラームでどう目覚めたりしたかは、記憶がない。前日の疲れによって長く眠り、アラームに対する体の反応が悪かったものと思うほかない。5時18分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、6時4分に自室へ帰った。



2017/03/19

本日3月19日は2:20の第二アラームに目覚め、第三アラーム以後の2時45分に起床した。11時20分、母親と弟は食事か何かを目的に車で外出した。11時30分ころから、とある経緯で洗濯しようとしていた衣類2(2.5)点の洗濯を始めた。本日は晴れていて洗濯機がグズってもひどく日光がさえぎられる天候になることはなさそうでも、母親と弟の帰宅時間に懸念が残る。洗濯機の調子が悪く、3度の再スタート作業を行うなどして13時過ぎにようやく2階バルコニーで干し出すに至った。13時35分に車が家に着き、母親だけが家に入った。弟はそのまま他所で遊んでいると思われる。1時間後に弟の帰宅があったが、母親とは美容院で別れた様子であった。あらかじめ母から受け取った2000円を所持し、母によく連れられる店に入ったものの、高校生であることを店員に告げずして大人料金を支払ったらしく、お釣りが母の想定したものより残らなかった(お釣り60円程度=母が先に渡した金額でギリギリ収まった)そうである。



2017/03/20

本日3月20日は2時10分ころに目覚め、ここ数日は2:10の第一アラームがOFF設定のままであったことに気付いた。2時19分に起床した。13時46分、母と弟の2人はどこかへ車で外出した。前々日の就寝前に非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲み、前日は特に排便なく、本日は13時過ぎからスイーツな小麦粉焼きと共にコーヒーを摂った結果、漸次便意が高まった。14時台は便通の念をほのかに保って過ごす中、14時55分からはトイレへ入って長めの中サイズ2本を連発して排出した。19時5分に車が家に着き、即座に弟が降りて家に入った。



2017/03/21

本日3月21日は2:10の第一アラーム直前から意識があった。こういうことはたまにあるかよくあることであり、過去にも「考え事」という表現などをしたであろう。レム睡眠時の記憶整理段階でアラームが鳴らされて結果的に「意識があった」とか「考え事をしていた」と言えるのであり、もしアラームが鳴らなかったらばそのまま深い睡眠に戻っていた可能性は高い。それはそうと、本日は2時16分に起床した。前日就寝時はなかなか寝付けなかった。そもそも押入れに入る時間・就寝自体が遅くなって21時0分前である。ただでさえ疲れた日や遅い就寝で、寝つきが悪いとはどういうことか?これもよくある不可解現象である。前日は就寝して以後どうだったかというと、21時20分ころから俄かに母親と弟の2人が1階に降り、彼らの用が済んで以後の母親だけが22時5分まで1階に居座った。前後の時間に母親自身の部屋で掃除機をかけることもあった。私が入眠した時間は22時半ころかと思われる。

11時37分に母は、弟を1階に呼びつけてとある指示をする際に買い物へ行く胸を告げ、11時41分に発車した。19時現在、本日の起床まで4時間も眠れなかった悲劇に対し、一度も寝倒れたりしないで過ごしている。文章なり絵なり音楽なりと、「絶え間なく」作業がされている。



2017/03/22

本日3月22日は2:10の第一アラームに目覚めたが起床するか再度眠るか意識を移ろわせながら2:20の第二アラームに至り、後にも眠いならば仮眠を取るとよく、今は起床すべきと考えたので起床した。前日も本日も、日の出までに横野真史の学術的メモ帳ブログ記事における返信行為を行った。本年3月8日3月15日の記事である。貴重な深夜・早朝の時間を、そういった行為で潰されるわけだが、一つ再確認することがあった。幼少期、不登園・不通園の時期とか、さいたま市内の小学校2校で「計友達100人できたよ系」でも引越し以後に誰とも何ら連絡を取り合わないとか(愛別離苦)、○川市では失敗したとか(怨憎会苦)という経緯を鑑み、今は仏道のために母や保健士2名など最低限の人間関係以外は持たないほうがよいということである。遠離の徳である。返信の中では、王太子であった釈尊の出家や、伝教大師最澄さんの願文にある出仮の話も例示した。彼らは、その若い年にあってその自覚と決意があった。他人とは仲良くしたいのが人間の本心であるという話も度々する私だからこそ、今は善悪の分別を傘にして夥しい槍の雨を凌ぐべきである。2010年以来、インターネットでの交流も学校生活と変わらない状態だったであろう。私の道は元々決まっていた一定(いちじょう)の大道であるのに、退転する道理があろうか?

本日は4時以降にインスタントコーヒーを淹れて飲み、漸次便意が起き、5時50分前からトイレに入って排便した。硬いものであり、排出時は強めの負荷が掛かり、拭った紙には微かな血が付着した。10時42分、母親が「お仕事」へ発車した。12時過ぎからスイーツな小麦粉焼きを調理してインスタントコーヒーを飲んだが、漸次便意が強まり、14時50分からもトイレで少量を排便した。



2017/03/23

蕾のままの桜・・・携帯電話内蔵カメラ・ナイトモード撮影のため、ブレが顕著である。PCソフトでバックライトなどの色調加工を施してあるため、背後の枝などが確認しやすい。

本日3月23日は、まず0時40分台に目覚め、母親が1階リビングで過ごしている(起床以後の調査で例の通り缶ビールやお茶を摂っていたことを確認)様子を察知して無理に眠り続け、続いて2:20の第二アラームに目覚めたようであり、2時25分に起床した。3時2分から「朝飯前」の外出を始めた。集積所にゴミ袋を置き、ある自販機の商品を確認し、公園内の桜を様子見した。公園内では車に移動する人物の影や、私の後方を同じ進路で移動する人物がいた。暗いながらに、携帯電話のライトで照らした桜はまだつぼみのみに見えた。一輪咲いている可能性を否定しないが、確認はできない。別の自販機で飲料3本410円を購入し、3時20分前に帰宅した。

前日の19時過ぎに非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲み、本日の買い物のブラックコーヒー缶のうち100ml強が体内に入っていた4時47分、便意のためにトイレへ入った。そこそこの量の軟便を排出した。5時54分からもトイレへ入り、前回よりも少ない量の軟便を排出した。11時27分に母親が家に外に出て4分後にどこかへ歩き出した様子である。12時20分前、俄かに物を叩きつけるような物音が鳴り、数度家の周囲で繰り返された。家を離れる前の母親が何かしていたことの延長と思われたが、その1分後に母親の声がし、「食事を取らずに9時過ぎから外出していた弟」の名前を含んだ独り言をした。母親だけが家の中に入っていきなり私を呼んだ。どうも、先の物音は弟が立て、弟はそのまま家を離れた様子であり、母親の声は弟の後姿を見たことによるようである。弟が物を破壊した際の音であり、弟は母親と公園で遭って怒ったので物を破壊したそうである。弟は「公園→家」と歩いてきてそのまま母親が後をつけていたわけだから、今は公園と反対の方向へ逃げ去ったと思われる。跡を濁した弟が、いつどのように帰宅し、その時に母親がどう反応するか興味がある。

13時過ぎ、チョビ漏らしの懸念がある便意でトイレへ入り、漏らしていないことを確認し、下痢を排出した。13時50分台、家の近くで断続的に物音が聴こえ、13時59分には弟らしき影を確認して間もなく家を離れる弟の姿が見えた。14時30分過ぎに弟が「ただいま、クズ」と言って玄関に入り、手を洗った。2階に上がる階段で母親を再度呼び、2階に上がって以後も脅迫などが続いたり、断続的に母親の大声も聴こえた。



2017/03/24

本日3月24日は、まず0時台に目覚めた・・・今月は異様に多い。当然起きる意思は発生せず、再度眠る。続いて2:10の第一アラームの記憶ははっきりせず、2:20の第二アラームを聴いて停止したから少し時間が過ぎた2時29分に起床した。風呂(シャワシャン)の準備を始めようとする中、4時53分から便意のためにトイレへ入り、軟らかい1つのものを排便した。粘着性があるのか、アレなチョコレートのクリームのような塊が肛門に付着して残ったりもした。5時3分から自室を離れ、風呂(シャワシャン)を経て5時52分に自室へ帰った。10時44分に母親がお仕事へ発車した。11時10分前から洗濯を始めたが、通例の如き洗濯機の異常によって何度も再スタートなどに手足を動かすこととなった。前回3月19日は13時過ぎにようやく洗濯物を干し出せたと記録するが、今回は13時半を回ってもエラーの発生や、脱水メニューの開始が感じられなくてエラーの予兆を感じさせる状態が続いたため、いくらか水が抜けている以上、自分で取り出して水洗いをして絞り出そうと思った。これを実行し、干し出した時は13時48分である。



2017/03/25

本日3月25日は2:10の第一アラーム・2:20の第二アラームなどに反応したものの起きず、2:40の第三アラームから少し経つ2時46分に起床した。母親が3時7分まで1階リビングに居座っていた。前日19時前に何らかの配達があって事前に知らされていたであろう弟が速やかに受け取りの動作を果たしたが、母親はこれを開けていた。その中身は低価格帯のスマートフォン(いわゆる格安スマホ)2台のようである。どのような意図で・・・、という詮索は今更、する気にならない。

本日の弟は11時過ぎから彼のボウルで3杯分のシリアル(シリアルを椀に開ける音でわかる)を食べていたが、昨今稀に見る量であろう。12時前に母親が、食事をしたならば外に出るよう、唆していた。「食べたんなら外に行けば?」と。私は弟を可哀想に思う。彼自身の運動能力の向上や陸上競技の上達やダイエットなどが目的であって彼の意思であるのに、母親に無粋な指示をされている。彼が外出するきっかけが「彼自身の意思」よりも、次第に「母親の指示」となりかねない。近年の動物実験では、ラットかマウスかに特定の状況で精神的ショック・ストレスを与えると、特定の状況に遭遇するたびに行動を躊躇したり脳波に異常が出るという成果がある。本来は関係のない物事同士が関連付けられるという、思考の妄想の原理である。人間の場合は、その延長として精神障害や精神的ショック以外にも似たような現象が起こる。弟の場合、自分の意思や夢という目的意識が、母親の不満解消に変わってしまい、本来の目的を見失う恐れがある。そうなれば母親の言葉に依存しないと行動できなくなろう。世間が言うところの「現代の若者(絶望した人々)」のように!他人に夢のことを阻まれてよかろうか?他人の夢とは容喙すべき領域か?母親の如きは人の夢を壊すか奪い上げる粗末な教育法である。

母親の母親失格(および妻失格)ぶりは過去の記述を参照すれば枚挙に遑がない。弟の向精神薬服用が始まった2016年中は、弟自身が色々な形で母親に論難したこともある。このような唆し方も、実に人の心を惑わせ、ひどい時は踏みにじる、不注意・不用意・不適切のものである。彼の意欲向上に繋がる、別の言い方はできないだろうか?母親は弟の外出以後、1階リビングでTV番組を見ながらヘラヘラと笑っている。

16時40分台、2階にいた母親が同じく2階にいた弟を連れて1階に降りてきて弟に私を呼ぶよう催促し、弟が小さい声・小さいノック音でこれを行った。ドア(ふすま)を開けるようにも催促していた母に対し、これを弟は行わない。母親は「お兄ちゃん寝ちゃってるのかな?」などとあらぬ妄想を言葉にする、あるいは冒涜を行った。妄言と冒涜のどちらにせよ、子供の生活と心とを知らないので、「母親としての大いなる過失」が付随する。母親はその後、私に用があるわけでもなく、弟を2階に戻して自身は1階リビングでテレビの電源を入れて居座り始めた。本日は13時ころから音楽動画向けの絵、それも昨今稀な規模の全身絵を描いていて線画の最後の部分(髪の一部)に当たったタイミングで、この事態が起きた。この母親は19時2分にテレビを消して2階に上がったが、行動は、足掛け4時間ずっと母親自身の炊飯と食事とテレビ視聴に終始していた。



2017/03/26

本日3月26日は、まず0時40分台に目覚めたが当然起床せず、再度眠った。続いて2:20の第二アラームが主に記憶に残るも、実際の起床は3:20の第五アラーム直後である。本日の起床がなぜ遅れたかといえば、主要な原因は前日の就寝時刻が20時50分前であるように就寝が遅れたためであろう。一方、0時40分台の目覚めの原因は、前日の就寝時にわざと尿意を残したためであろう。どちらの要因があるにしても、最終的に起床しない結果は「私の意志の弱さ」であると考えるしかない。なお、本日最初の排尿は5時40分台となった。

14時4分、母親からメールが入った。いつものSMSとか、前回の弟のアドレスではなく、Yahoo!メールであり、内容は「件名:アドレス変更 本文:ドコモを解約します。こちらに、返信して下さい。」という調子であった。今月24日に届けられた格安(?)スマートフォン2台といい、記録にはないが前日の電話関係の会社との通話といい、その実情は買い替え・契約会社の変更である。前年1月26日に買われた(1月28日メモに初記録)、おそらくSimフリーとかのiPhone 6S端末は手放すつもりかどうかも全く不明である。機会があれば背景を探る。2台のスマートフォン購入と、今回の解約の一報から鑑みると、母と弟も同じく新しいスマートフォンを受けて他社に乗り換えすると思われる。



2017/03/27

本日3月27日は、まず2:10の第一アラームに目覚め、間もなく意識を失ったようだが、再度携帯電話に手を伸ばすと2時19分であり、直後の第二アラームを待ち構えて2時20分に起床した。



2017/03/28

本日3月28日は、2:10の第一アラームに目覚めた記憶は無いが、最初の時刻確認が2時10分台となって2:20の第二アラーム直後に起床したので、そこで目覚めたろう。11時1分、保健所のSさんから電話が入り、4月12日の13時半に訪問する予定が決まり、その時は新年度であるからUさんがこの地域の担当を外れるということで、別の人を連れるそうである。※12時10分に再度着信があり、予定時刻を14時半に変更した旨を告げられた。

11時33分に母親が発車した。前々日の就寝時に非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲んで前日中にコーヒー1・2杯を飲んでも便意なく過ごし、前日の就寝時には下剤1錠を飲んだが、本日は断続的な腹痛が起きるに留まっていた。11時40分からのトイレでは、何となく便意を感じたので少し待ったり負荷をかけると、手ごたえがあり、クソ水が火花を散らすように表出し、次いで小さめのもの3つを排便した。17時13分に母親の車が家に着いた。



2017/03/29

本日3月29日は、2:10の第一アラームに目覚め、2時13分に起床した。2時台に炊飯を始め、3時11分からゴミ出し・自販機通いの外出を行った。今回は公園付近とは逆方向の自販機へと向かった。空は薄く雲のかかったような場所と、星が少し見える空間とがある。風はほぼ吹いておらず、前半に通行人もバイクも車両も見なかったが、帰路につく直前、自販機エリアに接する曲がり角から新聞配達バイクと一般軽自動車とが同時に右折してきた。なお、出したゴミの種類と買い物金額をここで記録しないが、買い物金額については個人的なレートにおいて6日分である。前回の自販機通いが6日前であり、レート上の日数と実際の日数が重なることは稀である。普段の場合は、見積もりでレート上の日数が10~30日で400~800円程度である。

5時20分前から風呂(シャワシャン)の準備を始め、6時13分に自室へ戻った。10時40分に母親が「お仕事」へ発車した。毎度おなじみの私服上着であり、前日以来、キッチン冷蔵庫・冷凍庫に入ったままの肉類は私に分配されないままである。洗濯する予定を11時20分過ぎに思い出したので、少量の洗濯物で実施した。今回はすすぎ・脱水の各1回にエラーが発生するに留まった。19時過ぎに到着した、母親が注文した品物はAmazonで購入した日清フラワー薄力粉チャック付き1kg x15個であった。Amazonおなじみの箱ではなく、メーカー側が用意したデザインとなっている。



2017/03/30


本日3月30日も2:10の第一アラームの記憶がないが、2時14分の時刻確認では携帯電話が開かれた状態であったので、普通に目覚めて手で停止していたろう。2時20分に起床した。前日に非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲み、本日は漏らしそうな腸の違和感もありながら、決定的な便意に欠いたまま時間が過ぎ、4時35分から排尿目的でトイレに入りつつ、出そうという念を維持して見たが、数度のガス放出など、火花が散るような現象があるに過ぎなかった。

9時50分から母親が狂った調子で「行ってきまーす(以下略)」と弟に告げたり、忘れ物をしたなどと繰り返し玄関の出入りを行い、9時52分から駅方向へ徒歩で外出した。本日中の排便を期して何らかの摂食方法を思案して実践するも、あまり奏功しない。15時23分から尿意のためにトイレへ入り、ここで「トイレ禅・便座禅・便座坐禅(2月12日メモ)」を行おうと考え、15分ほど集中するうちに漸次手ごたえを得て排便に至った。こういう場合のモノは、特有の塊である。不揃いな小さい糞の集合体であり、ほぐれたもの・はぐれたものもトイレボウルの水中に点在する。16時台に到着した、母親が注文した品物はAmazonで購入した某特定保健用食品茶350ml x24本が2箱1セットのものであった。今回もAmazonおなじみの箱ではなく、メーカー側が用意したデザインとなっている。18時20分台に母親が帰宅したが、玄関に一時的に置かれたものを見ると、ドコモショップかどこかに行った様子である。18時37分、それまで夕食とか今後の料理に関して弟としゃべっていた母親から、コンビニ惣菜パンと一緒にようやく3月28日購入の肉類(冷凍・スーパーで調理済み調味済みのもの)が渡された。

当記事注: 28日・火曜日の母の買出しでは、私のシリアルは普段通り日清シスコ東京埼玉熊谷妻沼工場製のトップバリュ・370g入りチョコ味シリアルであったが、弟はトップバリュのカロリーハーフだか(訂正・脂質50%オフ)という380g入りフルーツグラノーラであり、母親も珍しく自身の分のシリアルを買うにあたって同じ380g入りのフルーツグラノーラを選んだようである。弟は翌朝10時台だったか、最初にこれを開封して当注釈の日の夕方には全て食べ終えた。普段のチョコ味シリアルは1週間かけても食べきらないことが多いので、極めて期間が短い。

なお、4月3日の買い物では、私と弟ともに同じフルーツグラノーラの800g入りが買い与えられた。かねて弟はフルーツグラノーラを買うよう書置きをしていたようであり、この日の母の外出中の母親の部屋の机上に実物を確認した。



2017/03/31

本日3月31日は、2時40分ころに起床した。10時40分過ぎに母親が「お仕事」へ発車した。20時3分、母を待って食事を我慢していたのか寝ていたのか夕食を作らずにいた弟が、1階に降りて来た。間もない20時7分に母親が帰宅した。