2017年2月10日金曜日

大乗仏教・反省の論法「而二不二(二而不二)」 ~ 小乗が小乗である理由

「大乗(大きな乗り物・マハーヤーナ・梵語の語源研究は記事最下部に)」を自負する教団から「小乗(小さな乗り物・ヒーナヤーナ)」と呼ばれる部派仏教・教団・教義が「小乗」と呼ばれる所以には、様々なものがあるが、教理の面でいうと、「不了義(法義が不十分であること)」という点に尽きる。
例えば、小乗と大乗は共に「一切皆苦」や「諸行無常」や「空(シューニヤター=インドでの数字の0と同じ発音、虚無・空虚さ"Emptiness"と訳するが自性・固定的実体の空虚さを言うのであって現象の面には因縁で仮に存在していることを以てこう名付ける)」という教理を含めているが、小乗仏教はそこに終わっているので教理が追及されきっていないということを「不了義=了えざる義」と呼ばれる。
小乗の「不了義」の教え(小法)に気付かずに小乗の悟りに留まることを「小智」ともいう。
大乗仏教は、その「中途半端で一面的な不了義」の先に、反対の一面も唱え、それを包括した。

これが大乗・大般涅槃経(漢訳では曇無讖)の中に尽くされている。
法四依の中の一つ「依了義経不依了義経」はもちろん、いわゆる外道の四顛倒「浄楽常我」を破る仏教の四念処「身=不浄・受=苦・心=無常・法=無我」の観念を変え、いわゆる涅槃の四徳「常楽我浄」として唱えるなど、不二の法門が見える(ただし件の涅槃経に常楽我浄を涅槃の徳目として挙げている箇所がなく涅槃を常楽我浄四徳とする表現は日本の書にしか見当たらない例外)。
賢人は、全ての物事に善悪の二面性とその空虚さ(感情的価値判断で善か悪かの一方を決定されること)という様々な性質を見るわけだが、大乗仏教ではこうした理解で「中道」を目指している。
人々は世俗の在り方を反省して一旦は「諸行無常、諸法無我!その通りだなぁ」と思ってもよいが、その理解で終わると「小乗」であり、小乗の理解を反省して大乗の理解に繋げる。
小乗・空(天台教学でいう"但空"の蔵教)ともすると虚無主義に陥りかねないから、小乗の理解に執着しそうな時、反対の理解「非空」も説くことで双方を包括し、また、「空・非空(二辺)」のどちらも絶対的とは言えない「中道」の理解となるように説き続ける。
行ったり来たり(右顧左眄)と面倒臭く思われ、「二枚舌だ!両舌だ!」と敬遠されそうだが、賢い人は最初こそ厭うとしても速やかに中道の智慧を定めるであろう。

この大乗・大般涅槃経は中期大乗仏教経典という文献学上の学説があるが、学説上それ以前のものとして竜樹菩薩の「中論(梵語に基づく仏教学のリネームで"根本中頌")」は好例である。
「空」の教理を様々な物事から徹底して論証してゆく。
第十八・観法品では、有我も無我も説く仏の説法を示し、真実においては有我・無我ではなく、有我・無我でなくもないと語る(18-6偈: 諸佛或説我 或説於無我 諸法實相中 無我無非我)。
この中論は、先の四顛倒の「常・楽・我・浄」に関しても、第二十三・観顛倒品において論じており、それらを「有り」とすれば顛倒を断つことができず、それらを「無し」とすれば最初から無いものを断つことができないとし、「有無」を二重否定する論理(中道)が展開される(諸行無常・諸法無我ということも有無を否定する・それでこそ顛倒は断つことができ、解脱の道であるとする)。
第二十四・観四諦品では、論敵から「空に執着しているあなた(竜樹菩薩)は仏教の教義を全て否定している」と誤解されたことにつき、「空」が絶対的法則として唱えられるのではなく、あくまでも「仏が仮に名前を付けた法則のようなもの」であって、この空(空性)の理解(空義)こそが諸々の仏教の教義を活かしていると論証している(24-18偈以降)。



さて、「空」については、絶対視・執着をすると「小乗」あるいは「外道」に陥る危険性がある。
先述の通り、仏が仮に名前を付けて説いた「絶対的であって絶対的でない法則」と確かな認識があれば、まさしく大乗の理解であるが、世間には「空」の教理に感心して絶対視する者もいる。
「ヤハウェ(唯一神の名)」を名乗る人物がインターネットにおり、大乗仏教の法華経・無量義経・大般涅槃経を讃嘆しながら「一切法即空」と唱えつつ、キリスト教やイスラム教の神・唯一神の正体も「空」の象徴であって仏教と同根であるかのように語っていた。
それは一理あろう、一理あろう、と思う。
確かな見解により、「我、神なり!我、真理を得たり!」と思い、自らヤハウェを名乗り(ブッダを自称しても同じこと)、諸教同根を謳うことは自由である。
実際のキリスト教徒やイスラム教徒の大多数が空の教理に並ぶ哲学性や死生観を持っているかどうかは、ここで論うべきでない。

問題は、この人物が「空」を唯一神の如く絶対視していて「非空・不空」の義を立てていないため、恐らくは誤解を犯している点である。
大乗仏教の教理は「而二不二(二而不二)」である。
一切の事物や象形は空であると唱えることは自由であるが、それに執着してそれのみを唱えて満足するようだと、いわゆる「法有我」の小乗の境地に留まるし、見ようには、「見ようには」、それを唯一神として崇めるような非仏教にもなる。
「空」の教理は、釈尊や過去の大徳が正しく説明してくださった「法の宝」かもしれないが、「一切法」を「空」だと思うならば、その理解も執着するところではない。
こういった反省のために大乗仏教は教理を追求していき、中論に見る通り、「空性・空義・空用" śūnyatā, śūnyatārtha, śūnyatā-prayojana"」のような空の区別が「仮に」説かれた。
※その「ヤハウェ」さんが奉じる大般涅槃経の「依了義経・不依了義経」の中に「一切皆空などと言うのみでは不了義経であり、法について足るを知ること(知足)が了義である」と説明される。法義・教説の文字上の理解のみならず、法義・教説を智慧によって正しく意義を了知するということ(依智不依識)。それが「如来随宜方便所説に於いて執著を生ぜず」という、知足・了義である。
その教理でさえも、誤解と執着が発生すれば弊害となる一面もある(日本の諸宗や現代の学者が好例)。



私は法華経を奉じ、大乗仏教を信じている立場を自覚している。
小乗が小乗と非難されることは、教理自体が誤りなのではなく、教理が不完全・不十分、「不了義」という点に当たる。
小乗・大乗は共に仏教である。
小乗の階梯があって大乗の正しさが闡明される。
人はみな大乗を理解すべきであるが、大乗を真に理解するためには世俗・外道・小乗を知って反省する前提が必要であろう(信仰心があれば大乗が先でよいが大乗を学ぶうちに小乗の教義を知る必要性と意欲が出る)。
そうして次第に、法華経、天台教学、日蓮大聖人の法門に通じると考えてよい(天台・日蓮・法華系・五重相対以外でも真言宗の十住心論の所説華厳宗の教判でも似たような見解がある)。
仏教学・文献学的な歴史研究の成果(古くは江戸時代の国学者・富永仲基らによる加上説)が、かえってこの「反省」を証明している。
仏教学・文献学では大乗仏教ないし日蓮大聖人の法門までを、歴史的正統性の観点で「荒唐無稽」と嘲っているが、教理においては、反省によって補完されていること(止揚?)が知られよう。

現代的合理思考では、大乗経典などに説かれる様々な如来の姿や逸話について懐疑的に見られるが、如来の方便を理解できない・仏教の智慧が浅いためである。
例えば、釈尊がシッダールタ太子として生まれて直後に七歩進んで言葉を発したこと(例: パーリ経蔵・中部123経"Acchariyaabbhutasutta)などは全仏教で共通して語り継がれるが、先の大般涅槃経においては如来性品第四之四に「如来の方便の示現」と理解されており、まさしく方便の故に信ずべきものと理解すべし。
※既成宗教・伝統宗派・新興宗教などには教祖の神話や伝承などが色々とあるが、それも何らかの方便・譬喩の一種と思えば、非常識な妄信による異常な思考とならず、伝統を否定しないから不信誹謗の罪業も作らない中道となる。仏教の「方便」という理解の仕方は、妄信と不信の中道という「正しい信仰」を生む。徳を生んで毒を除く利益があり、これが「方便」の要点である。安易に私が「全て方便だ!」と言うべきでもないが。

仏教のみならず、あらゆる聖典・経典は、その現代的合理思考・文献学の極致において「後世の創作」の部分が指摘される(過去記事でも記したヴェーダやスッタニパータから新約聖書まで)。
その理解があるならば、この際、単なる文学や哲学として尊ぶか、何も信じないで死ぬ方が楽しいはずであろう。
しかし、そうであってはならない。

仮に現代的合理思考・文献学のお眼鏡に適う聖典・経典が見つかったとしても、所詮は過去の言葉・出来事を記録したものであり、映像の如き幻の一種である。
合理的に理解される仏教では、「五蘊皆空」が人口に膾炙されているにも拘らず、仏や尊い人物の姿を眼で見て、声を耳で聞いて脳内に像を結んでも、何であろうか?
真に合理的思考があれば、それのみを尊ぶことに何の価値があるはずもない。
現代的合理思考・文献学的な価値判断で教説の取捨選択などがされることは惜しい。
合理的な人は、私の説を「詭弁だ!」と押しのけてしまおうか?
聖典や経典を編纂した人々の思いは、いかなるものであったか、深く拝する思いである。
如来は常住し、仏界として人の心にあることは大乗仏教・天台教学の通りであり、人々の如来としての性質が現れた(自覚)時の言葉は、慈悲によって真理を説いており、文章の上で整然とまとまっている。

言葉を信じるならば、真理を知りたいならば、須らく教理の優れた説を用いるべきである。
仏教は、その全てを用いて可である。
八万四千法門の全てを知り尽くす必要は無いので、まず見聞した教説は一応信じることを始める。
一つを信じれば不信でなくなるし、広く信じれば妄信とはならない。
※大乗仏教を「小乗より難しい」とみなす人は、こういった不信と妄信の一方に偏って大乗の正しい理解が得づらいことを鑑みていよう。オカルトと誤解されかねない教理・教説も大事な方便であるのだが、そのために不信に陥る者とそればかりを尊ぶ妄信の者とが多い。仮に大乗を信仰したくない人も、一応の理解と尊重くらいは学者・世俗の立場で行えるようになってほしい。真に理解した人は信心の一つくらい起きると思うが。
また、この「信じること」は大乗の理解に依るものであるから、「悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず」という一節にある「信ずれば・信じること」には該当しない。

「信じること」の範囲が広ければ広いほど、智慧が補完され、堅固になる。
一つの教説に偏らない学習意欲が、むしろ一つの真実を形作ってゆく。
言語道断・心行所滅の一つの真実(真理)は、言葉にされた多くの教説によっておおよそ表すこと(若不依俗諦・不得第一義、一即多・多即一)ができ、後は修行者の智慧によろう。

そうして真実の形が徐々に浮かびあがってくる実感のある私は、諸教の中では仏教、仏教の中では大乗、大乗の中では実大乗たる法華経で明確に説かれていると、確かな結論が出せている。
この境地からすれば、とんでもない世俗・外道の教説も「一理ある」と、すまし顔で言い切れる。
無論、それらの教説をもって万事万物万象を包括した真理そのものとみなすことはない。
仏教の教理・教説ですら、同じことである。
なぜならば、みな如来の慈悲による方便であるから、信じても「一斑全豹」の如くには執着しない。

法華経の信仰の姿勢は、今の私にとってこのように理解できる。
この理解は、方便品・如来寿量品の代表的な教説に随っている。
日蓮系各派の勤行で用いられる方便品長行や如来寿量品偈頌に大乗経典の要点が出ていることは改めて理解できた(そのため経文の引用をあえてしていない・私の言葉が経文に準じるから)。
道心のある人が、最初は理解できずとも必死に学んで読経を続けるならば、遅かれ早かれ仮にも如来の智慧に到ると考えてよい。
私という者は、そうであってそうでもない、未完成の状態ではあるが、こう信じる道ではないか。

大乗の法門・経典の所説が「難信・難解難入」であると、大乗経典に説かれる。
大乗を信ぜずして軽蔑する者や、逆に理解不足のまま大乗を妄信して他者に驕りかねない「二辺」の人々を誡める言葉である。
「如来」の方便であるから、「大乗の自讃」とか「循環論法」云々との見解は、何ら意味をなさない。
「難信・難解難入」とは説くが、正しい信仰を持つならば「易行(行いやすい)」法門となる。
甚深の大乗の法門ですらも、善悪や難易の二面性を持ち合わせている。
だから一括りに、あらゆる物事の善悪や法門の難易を決めることはできない。
物事に「これは善なるものだ!易しいものだ!」と価値判断ができるならば、即ち「これは悪なるものだ!難しいものだ!」とも価値判断ができるので、善が無ければ悪は無く、易しさが無ければ難しさも無いこととなる(物事の価値判断においては善悪など二項の一者によりがちだが物事自体は共に有り真理の中には共に無いと仮に説明した、俗諦・真諦の如し)。

自分のモノとできるかは当事者の精神や性質による。
悪辣に見えるものですら、どう認識してどう扱うかによっては悪を減らせるし、善に変えられるかもしれない(変毒為薬・善悪互具・善悪不二)。
また、自分のモノとできないと自覚して潔く離れることも、一つの徳であろう。
自分のモノとできないために逆恨みすることは非道不徳である。
非道不徳を自覚・反省した時、大乗のありがたさを知って理解に努力するのではないか。
私自身も、様々な大乗への肯定的誤解や、理解不足の信仰を反省して正しい理解と信仰を取り戻したような者である。

※今までに「信仰、シンコー」と強調して唱えたが、仏道には信仰心・信心が大切な一要素であることは否定されない。邪信を嫌うのみである。小乗・大乗とも共通している。現代人は新興宗教の先入観のために誤解を抱いて否定的・懐疑的になっているのであり、私のような理解があれば信仰の価値を実感できる。信仰を強調する言葉にも「善悪の二面性」がある。どのような理解・どうのような魂胆でその言葉が発されたかを見極められる者は、言葉や概念そのものを嫌いはしない。



現代人はともすると、カルト嫌い・反カルトの旗を掲げて宗教全般に懐疑的否定的になったり、辛うじて仏教を哲学として珍重するようなことがあるのみであり、中道となることはない。
新興宗教の信者らも、その立場を奉じて排他的となりがちであり、教義理解を狭めて智慧を得づらいようである。
閑居求道者たる私が過去記事に説いた「脱社会・脱宗教・順社会・順宗教」とは、「非道不徳の人」と同様の自覚・反省・努力の思考によって得られた結論であるし、同記事に世尊・比丘の振る舞いを示した通り、教理の上でも明確に根拠がある。
愚劣なる私もまた如来の一類であろうから、その仏界の自覚に基づいて説いたことは種々ある。
大乗の教理の個人的理解は、觀萌私記・清浄(淸淨)萌土抄に説いてある。

少したとえ話を始める。
私の教説を理解する人が万人に達して教団ができて多くの人が小乗と大乗とを尊重できる中道の境地に達するが、次第に形骸化・セクト主義が増えて「偏狭な中道」が強まったとしよう。
既に、それは私の教えが滅んだことになるので、道心のある一部の信者が教団を離れて独自に研鑽することになり、教団が分派するか自然消滅することになる。
このたとえ話は、仏教は初期仏教教団から幾度と分裂・分派を繰り返した「宿命(人間の空にして空ならざる善悪の志の因縁)」を端的に説いている。

仏教と、仏教を名乗る教団が人間の文明に生き永らえる以上、この「宿命」は繰り返されるということを2017年元日記事に詳述した。
人が世俗の苦を知れば厭離して出家するように、宗教教団も世俗化するならば宗教教団を厭離して脱会すべきであろう(私は生まれてこのかた団体に関与したことは無い未成年者だが)。
これは「空」を知った人の境地にも似るが、それで、宗教団体を厭離して「俺はカルト宗教の構成員ではない!」という反感意識を引きずれば、反宗教という名のセクト主義に陥って「空に執着する人」と同じになってしまう。
そのため、「反宗教でもない!宗教を離れて宗教を学ぶ中道だ!いや、中道であって中道でないが中道だ!何でもないようで何でもある!」と、反省の思考を繰り返して執着を無くす必要がある。
「反省の思考」は「心行言語断」の真理に近くあり、思考を超越した思考である。

また、教団が無ければ僧伽が無く、僧伽が無ければ仏法が途絶えて三宝の名は滅ぶが、教団のセクト主義や派閥意識は弊害を生んでしまい、かえって「獅子身中の虫」となりかねない。
それがカルト教団の犯罪や、新興宗教の不調和という形で世間に知られている。
しかし、宗教団体の悪の側面を取り違えて宗教団体を悪そのものと誤解した現代人は、宗教そのものを厭うようになるわけだから、悪循環である。

先に「脱社会・脱宗教・順社会・順宗教」と列ねてあるよう、「自尊にして他者に同ぜず、他尊にして自身を驕らず」という姿勢であってほしい。
これは私・横野真史の言葉ではなく、私とあなたと全ての人間の中にいらっしゃる仏が説いているものとして受け止めねばならない。
私のような理解にあれば、天台教学の十界論・仏界ということや、仏性・如来蔵思想の精髄も得られると思ってよい。
間断なき実践が合わさった時、速やかに菩提を成就しよう。



起草日: 20161230

表題にある「而二不二」に関しては、まだ理解が少ない時に卑近な例から語った記事がある。
本文で話題にした法四依=「依法不依人・依義不依語・依智不依識・依了義経不依不了義経」に関する話も、まだ理解が少ない時に卑近な例から語った記事がある。

本記事は、上記の当日、思うことがあってザッと5,000文字近くの草案を書いた運びとなる。
当日の執筆中、一段落した時に楽な姿勢を取ったところ、ひどく目が痛み、よほど悲しみや怒りを伴わない限りは流れないであろうほどの涙が流れた。
これほど涙を流すことはそう無いほど、痛みで涙を流した。
意味があるようで意味のない現象だと思っておく。
諸々の現象に意味があるかは、当事者がどう感じ取り、感じたことを現象に関連付けるかによる。

仏教徒の場合は、現象に感じたことが自覚・反省・努力に結びつけばよいと思う。
ひょんなことでも、仏の戒めであると思うようにしつつ、思い込みに至って他人に悪い説を発しないようにすれば「理論上完璧な仏教徒」であろうか。
宗教における「バチ」とは何か?全て自覚で決まる。
その自覚に反省や懺悔の思いが生じ、努力や修行に繋がることは、私が2016年6月以降、説き続けた道理である。
「自覚」を自他不二の理解から他人にも説いて善い道に入れようとする慈悲の教化はよいが、過度になって「お前は仏罰・神罰を受けたんだ!愚か者めが!(断罪してやる!)」と怒りを伴った追及は自制すべきである。

最後の段落に軽く成仏観を示したが、これは觀萌私記・末・讃萌語の所説に共通する。
「萌えの三身・大萌尊」の存在を示しつつ、それは人間の「内蔵(藏)萌心」の悟りと「好色萌相」の実践で自ら成就される境地であると暗示している。
觀萌私記の法門を少しでも聞いたならば、既に心の大萌尊を自覚し、過去に恐らくいらっしゃった大萌尊と自身の大萌尊たる性質を共に仰ぐことができるため、「頂礼(禮)大萌尊・拝仰大萌神・・・」という讃嘆の詩が綴られる。
いわゆる「即身成仏」の教理に則っているのかもしれない(私は半端な萌尊であるが仮にも説くことはできる、刹那でも智慧が発せられるから)。
無論、大乗仏教の成仏とは雲泥の差があり、同一にして異なるものと思ってほしい。
観萌私記の法門や修道ということも、清浄萌土抄に説明する通り、「仏道は大きい道(おおじ)で萌道は仏道の外の人を速やかに仏道へ向かわせる径(こみち)」である。
清浄萌土抄は題名からして浄土思想に関連するが、浄土思想は大乗仏教の方便である通り、清浄萌土の説が「萌道を照らして仏道に案内する灯火=方便」と断っている。



語源の研究
「マハーヤーナ"mahāyāna" (漢訳: 大乗・大乘 音写: 摩訶衍)」という梵語の語源について・・・
マハーヤーナとは、当記事の話題の如く、「大きな乗り物」のみならず「大きな智慧(大智)」をも指していたのではないか?

英語版Wikipedia - Mahayanaには法華経のガンダーラ語本に"mahājāna"という単語が載っていることを示している。
mahājāna = マハージャーナ・・・これはサンスクリット語(もといヴェーダ言語)に比して口語とか俗語とか方言の要素を含めたもの、いわゆるプラークリットのガンダーラ語の発音と見られ、サンスクリット語としては存在しない。
この発音は元々サンスクリット語のmahājñāna = マハージュニャーナ(偉大なる智慧・大智慧)を指し、マハージャーナという発音をされるうちに、ジャ"ja"とヤ"ya"の音が混同されてマハーヤーナに変わったとする(私の読解なので誤りが有るかも)。

子音JとYの互換性は2012・13年以後の私が知っていることであり、2014年以後に言語関連の記事でドイツ語(ヤーパンとジャパンの相違性など)やラテン語(ユダとジュダ・ユリウスとジュリアスなど)やヘブライ語のローマナイゼーションや、漢字の日本漢音(ヘボン式J)→広東語(イェール式J表記でY発音)・朝鮮語(2000年式Y表記かY自体の欠落)発音などを引き合いに出して語っている通り、発音が通じている。
JY互換、J/Y置換は音韻学の観点でも「ヤ」が硬口蓋接近音とされ、「ジャ」が有声歯茎硬口蓋摩擦音とされるように「硬口蓋音」のカテゴリで共通する。

音韻の蘊蓄はともかくとして、私の方でも"mahājāna"という語句が梵語の本に載っているか確認したが、DSBC所載のもの(中でも譬喩品第三に相当する部分)には載っていない。
しかし、マハージュニャーナとマハーヤーナは、共に見られた。
DSBC所載の梵本法華経は、いわゆる提婆達多品に相当する部分が宝塔品に載っていることから、時代が下ってマハージャーナという曖昧な単語が修正された梵語の本と考えてよい。

先述のWikipedia英語版の所説をしっかりと読み直すと、根拠は"Seishi Karashima"という学者のものらしい。
今、この記述を追加している2017年2月12日の2日前にたまたま初めて知った人物である。
浄土経典・浄土思想に関する調査の折、「原風景」という単語を冠した論文を創価大学ドメインのサイトから見ていたが、あらためてマハージャーナ説を調べると、この「辛嶋静志」氏の論文「言葉の向こうに開ける大乗仏教の原風景」がインターネットに見当たった
academia.eduというドメインのサイトにご自身がアップロードして公開している様子である。
同氏の当該論文を披見すると、譬喩品の三車火宅の大白牛車=マハーヤーナ・大乗(古い梵語の本では誤記のマハージャーナ?)を長者が子供たちに与えたことと、マハージュニャーナ・大智慧(口語ではマハージャーナ・マハーギャーナ等と発音する)を仏が弟子たちに与えたことを、掛け合わせたもの(巧みな言葉遊びの一種)であると見解を示している。
そのように大智慧=仏の智慧を求めることを奨励した言葉には"mahājñāna-samatā"(何らかの法華経写本に載るという。漢訳経典では鳩摩羅什訳: 平等大慧、竺法護訳: 慧平等一)がある。
このマハージャーナに関する見解を示した論文の最後には「私の説は日本仏教の伝統の中に受け入れられないかもしれないが、恩師のノーマン博士(イギリス人?K. R. Norman)は賛同してくれただけで満足だ。海外のウィキペディアも私の説を紹介している (趣意)」と記しており、恐らく私が見た英語版Wikipedia記事の存在を認識していらっしゃる様子である。
その記事の脚注・出典に示された同氏の論文"Who composed the Lotus Sutra?"とは、2000年ころの発表らしい。

なお、"jñāna"をジュニャーナではなくギャーナと発音するとする見解を同氏が示していることについても、少し音韻学的に考察したい。
そのような発音に関しては現代にサンスクリット語を口頭で発音する場合もされているようであり、実際の音声は聴いていないが、辞書の文字という理論上の音韻としては、日本人がネットに掲載する辞書に同様の発音が見受けられた。
こちら→http://www.manduuka.net/sanskrit/w/dic.cgi
例として√jñaという接頭語・語根は「ギヤ」と表記され、派生した名詞の語幹であるjñānaが「ギヤーナ」と表記されていた。
また、「ギャーナ」自体を検索に掛けると、ギャーナ・ヨーガという代物が確認され、日本語版Wikipedia「ヴィヴェーカーナンダ」を介して英語版を見ると"Jnana Yoga"の記事に辿り着いた。
現代、話者によろうが、このように"jn-"のローマ字表記を以て"gy- /gj-/"的な発音をする場合もあると見てよい。

※アージュニャー・チャクラとか、プラジュニャーといった単語も「アーギャー」とか「プラギャー」と発音する可能性もある?前者「アーギャー」とは、Google検索・ググッたところ、何らかの作品のセリフに「ジョー・アーギャー」とあるそうだが、ヒンディー語として引かれているデーヴァナーガリー"जो आज्ञा"のローマ字化を図ると、見事に"jo aaj~naa (jo ājñā)"であった。口頭では今も昔(約2,000年前)も「ギャー」発音の可能性が高いか。

この"jn-"の音素の単語は、インド諸語の源流として印欧語根に戻り、西洋に繋げると、英語の"know"に通じる。
√jñaにせよ"know"にせよ、「知る」ということの意味を持つ。
カタカナj系発音がg系発音に通じること自体、現代gで表記される英単語がカタカナj系で表記されることは多い(語頭gはgen類ジェノサイド・ジェンダー、ラテン語から読めばゲノムとなる単語もある。語中gでもageエイジやengineエンジンなどがある。後続が母音であるとき主にカタカナj系 = IPAでのdz発音となる)。
いわゆる"gnosis"、グノーシスも英語の"know"に通じるので、言ってしまうと、"know"はカタカナ表記の際、一般的にノーとかナウとかとするが、より根源的な発音はクノーに似ることとなる。
kとgとは、軟口蓋破裂音の類であり、相違点は「無声音と有声音」という日本語でいう「清音と濁音(カ行とガ行)」である。

こう捉えればサンスクリット語根jña-とは、ジュニャは元より、クナともグナともなるし、jをyに置き換えて無音化する場合にn音という歯茎鼻音を、硬口蓋鼻音nj-にも通じる硬口蓋化破裂音gy- /gj-/に置き換えれば、語根jña-がギャと発音される口語が音韻理論においても適ってくる。
あるいは語根jña-のjをgに置き換えた場合にn音という歯茎鼻音を、過去記事の漢字音韻理論と似たようにn→j(dzなどカタカナ系破擦音としてのjに相当)→y(ドイツ語やラテン語での本来的な硬口蓋接近音jに相当)と変化させれば、同じく語根jña-がギャと発音される口語が音韻理論においても適ってくる。

またしても言語や音韻について、数学的な解釈を垂れることになってしまった。
または、文字を対象にした科学というか、文字を弄んだパズルゲーム同然である。
原因要素となる文字に、私の分析による例外法則を化合して別の文字をはじき出し、現象の再現を図っている。

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あしからず。

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