仏教では「諸行無常・諸法無我」を説き、人の心は"猿が木の枝を飛び回るように"移ろい続けるものとする理解を説いている。
しかし、そう一応の理解があって「戒定慧」の三学の修行をするからこそ、諸々の僧侶・比丘・阿羅漢・菩薩・仏は、心の定まる境地を得ている。
つまり、「諸行無常・諸法無我」の理解に伴う修行によって禅定を得た定心が据わっている。
「心の行いに常であることは無い、事物に固定的な実体(我・アートマン)は無い」と説くにも関わらず、諸々の僧侶・比丘・阿羅漢・菩薩・仏は、心の安らぎが常のようであり、自我を保てているようである。
「単に『念』や『定』が保てているだけであって別に『エッセンス・自我』を想定しているわけではない」と思われるかもしれないが、かすかにでも自我が無いと、「不浄の我が身があり、受ける思いは必ず苦である」といった「身・受・心・法」の四念処が成立しない(自己や他者や一切の事物の"我"が想定されなければ不浄の物事が想定されないし自己の"我"が想定されなければ苦を受ける主体も想定されないから)。
また、仮の自我が無いと、仏も菩薩も比丘も、教化や経典編纂などはなされなかったであろう。
教化や経典編纂をするにも、自分の感情が無くて「『慈悲』という名のプログラム」や受信情報のような原理で行う「ロボット」ではないと考える。
覚者は執着を離れて泰然とした心でいるのであるが、喜び(歓喜)もあれば、感極まって言葉を発したりもする(ウダーナ・無問自説・随自意)、とされる。
覚者による諸々の感情表現もまた、感情が無くして「『慈悲』という名の精巧なプログラム」によって発せられた「方便」と言えようか?
私の不十分な信仰の眼で推し量っているが、この事実の相(経典に登場する人物の活躍)を観て私は「自己を自己たらしめる本質・エッセンスが現世の身において仮に設けられた」と説いている。
仮の自我などの世俗諦(世諦・俗諦)が、修行の意義や一切の仏事の成立を潜在的に支えている。
その高尚な自覚は仏に通じており、また常に仏を連想するので「仮に設けた仏のエッセンス」と呼称する。
仏教用語の「仮我」とは、字面において似ているが、これは諸行無常・空の物事で仮に姿形や精神が実在することについて「五蘊仮和合(五陰和合)」を指してそう称している単語である。
「仮設エッセンス」とは、より一歩進み、諸行無常・諸法無我・空の現世を理解した上で自ら保とうとするか自然と保たれるような、自我意識の高尚な境地を示す。
その境地にある人が、先に列挙される諸々の僧侶・比丘・阿羅漢・菩薩・仏がたであると見る。
加えて、在家居士であっても、そういった人物は稀にいるであろう。
「仮我」ではなく「無我の我(諸法無我の世の中で仮に保たれる我)」とでも呼ぶべきか、その人は「無常の常」とも呼べ、いわゆる四顛倒ならぬ涅槃の四徳と呼ばれる「常楽我浄」に通じる。
大乗の大般涅槃経は、既に、そのスタンスで「常楽我浄(経文中に四徳とは呼称していない)」を説いているものであった。
無論、それもあえて言葉で表現する(仮名する)とそう言えるものであって、実際には中論18-6偈でいう「無我無非我」と言うべきか(中論所説の意味するところは少し異なる)。
私はこれを、現代的に「仮設エッセンス」と呼称しているのである。
この「仮設エッセンス」は人間の思考能力・精神性が無くては成立しない。
逆に、その思考能力・精神性があれば、人生に活かされ、仏教のみならず世間の職業や芸術などでも有用である。
この仏教の理解が、却って世間の活気を生み出すことになる。
私が仏教を学んでもらいたい心、「随喜(ずいき)・歓喜(かんぎ)」は、この理解に依る。
「仮設エッセンス」の理解は「生活と仏道」の記事や「觀萌私記」などを熟読し、人間的な精神で玩味することで体得されるかと思う。
何よりは、私のように経律論(三蔵)・経論釈といった仏典を読む行為を推奨したいが、ひとまずは私の記事から当たると仏門に入る準備運動となろう。
「生活と仏道」では、一般人や閑居求道者(引きこもり仏教徒)など在家の人がすぐに行えるか、自然と成立する事柄を述べており、全て潜在的な「仮設エッセンス」の所行であると読み取れる。
「觀萌私記」は、諸教と万物と仏教との通底により、私が好む「萌え系の絵」に適用して仏教理解を説いており、そういった「觀萌」の結果的見解が「仮設エッセンス」の所産であると読み取れる。
また、「内蔵萌心」の見解を詳述して「主観的真理・客観的真理」と、その2つの真理を理解して主観的真理に基づいた人生の尊さを綴った記事も同時に読めば理解が据わるであろう。
この「仮設エッセンス」は、ご聖教の中に説かれていないとしても、理として有り得る。
いわゆる如来蔵思想・仏性思想や天台教学十界の「仏界」に通じているものであり、現代的に説き直したものである。
様々な例から仮設エッセンスの自覚を促す。
仏の種々ある方便・譬喩に倣い、私は説く。
「水の雑じった乳・糞の雑じった飯・玉石混淆・摧尊入卑」との謗りを顧みずに続けよう。
「仮設エッセンス・精髄大神・私の中の仏様・常住如来」の意のままに。
ところで、近頃の私は、その「仮設エッセンス」の理解に執着しつつあり、まるで「法有我」に執着した部派の見解のようである上、肝心の「禅定」や「忍耐(忍従・忍辱)」の心が薄れているように感じられるため、やはり「仮設エッセンス」も一応の理解に留め、執着してはならない。
「空の法有我」みたいな人々には「仮設エッセンス」という「仮の人有我」をほのかに説いて中道・無執着の境地を得てほしいが、「仮設エッセンス」を強調しすぎて「人有我」の外道にならないよう、制御する精神も重要である。
この理解さえも兼ね備え、今後も「仮設エッセンス」の喜びを説こうかと思う。
起草日: 20170104
去る1月1日付けで本家ブログに投稿した記事にも仮設エッセンスの意義を含めて語った部分がある。
パーマリンク設定にあたって「仮設エッセンス"Kasetsu Essence"」の訳語を考えたが、難しい。
"described essence" "designated ssence" "imaginary essence" "temporary essence"
どれをとってもニュアンスの差異はあり、一語で表現が不十分である。
"provisional establishing of the essence"、これに決めようか。そうしよう。長けれども。
我が人生における有始有終のアイデンティティ"Identity"であるが、大乗仏教の理にならえば、自分の死後の人間も感化できるであろうし、過去の大徳もアイデンティティを得ていたならば、それは無始無終と言い換えられよう。
その量りようもない過去と未来のことは、信じれば真実のようでもあり、信仰の立場では無始無終と言って疑いはない。
ある判断基準で、二つの物事は共に無であり、ある判断基準で、二つの物事は共に有となり、その二面性・多面性は第一義諦・世俗諦のようである。
物事の勝劣も、「片方が勝れてもう片方が劣る」という見解に2つの判断基準があり、「両方は表面的差別があっても真には差別がない」という見解にも判断基準があり、「"差別がない"とか"平等だ"という見解も意に介しない」という見解・・・見解であって見解でないものにも判断基準がある。
いわゆる「四句分別」のようであろう。
「物事の片方が勝れてもう片方が劣る」という「世俗的な二分思考」の見解は、一応の理解として大事だが、差別意識や悪い感情に発展しやすいので執着しない。
「両方は表面的差別があっても真には差別がない」という「世俗に於ける至上の諦」の見解は、その二分思考を超克した高尚な見解だが、慢心の種となりやすいので執着しない。
「"差別がない"とか"平等だ"という見解も意に介しない」という「真如実相の諦」の見解ならざる見解は、現世における有用性が無く、この思考以外の見解を排除しては仏・菩薩・修行者のいずれでもない顛倒の状態(過去記事にいう虚無的な客観的真理の体現者)となるので執着しない。
いずれも状況によって必要な見解であり、仏教徒はいずれの判断基準も持ち合わせておくべきであろうから、一つに固執すべきでもない。
私は複数の判断基準による多角的な思考の中で自然と行われているが、悪い感情の強い時は、どうしても「世俗的な二分思考」の段階で止まってしまう。
悪い感情・四悪道の心のために四悪道の思慮に留まることは当然であろう。
五蓋の煩悩ともいうが、そういった智慧を蔽い隠す煩悩の作用が「正思惟」を阻害する。
故に仏教では悪い感情・四悪道の心を無くそうと努力するのである。
仏道修行の功徳で「心の余裕」があると、冷静に、このような複数の判断基準に則って思考が行えるであろう。
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