2015年12月30日水曜日

類聚(6) ~ 「前の家での生活」篇

*横野要文類聚 第六篇・前節*
うら寂しく、物憂げに独り蹌踉ふ。
めでたきことなしと思へるは、なほ寂し。



横野要文類聚(よこのようもんるいじゅ)

今回のテーマは「前の家での生活」である。
この表題に言う「前の家」とは、2006年7月に一家5人で移住し、2006年8月ころに弟2人が児童相談所一時保護(?)→児童養護施設のため離れ、2007年4月に母が北海道紋別市へ別居のため離れ、2011年4月18日に私が小旅行もとい家出のため離れた、埼玉県○川市に所在する住宅であり、そこに住まった期間の生活記録を聚める。
前の家の構造や周辺の地理などを触れているものも聚めたい。

学校生活(O小・T小・K小・K中など)については、過去に複数の記事で情報の集積を図った。
現状類聚記事にする予定はない。
※2015年6月以降の月別記事数"6"を揃える目的で、かなり低い完成度のまま投稿します、どうか追々内容の充実されんことを。






(前略) 2010年なら前の家であるが、県下最大の神社に初詣しようと家を出るも、家から最寄りの駅前に着くや終電後であてもなく沿線の自転車徘徊をしていた。この2010年大晦日23時以降の参拝未遂の件について過去の記述を探したが、見当たらず。よってここに詳細を書くが、最寄り駅前で2人の若者が狂ったように空き缶を投げつけて奇声を上げたり、別の駅から離れのコンビニには駐車場で若者が職務質問を受ける様子もあった。なお、この外出直前は某掲示板閲覧か某お笑い番組あたりの視聴をしていたのではないかと記憶する。…2015/12/15

当記事注: 同日に別の話題で思考していた。あの頃は家でやることが少なかったこと、金銭を消費してコンビニなどで食品を買いたかったことなどがあり、今と違って自転車もあったわけだから、2010年12月の不登校以後も外に出る頻度は非常に多かった。家でやることについては後掲の11月8日の要文を参照されたい。

なお、他に見た夢の一つは、前の家の付近にある神社が土地ごと抉られ、最大で10メートルほどの深い孔が広がった。底の方には薄く土が被り、地中の排水機構が露出する。更に周囲の地理関係が乱れており、例えば前の家の敷地北側に神社(とスギなどの鎮守林)があるとして、南は民家や狭い田んぼなどがあるものの、ここには街を流れるタイプの河川が横たわっている。前の家かそれに似た場所が舞台となる場合、風景は一定でない。過去メモ文章を示そうと思ったが、記述未見。…2015/12/15

当記事注: 夢に出てくる前の家に在り方を綴った文言がメモ帳の過去記事にある。当該記事の投稿は2014年6月3日だが、後年加筆された記述であろう。

海産物や魚介類といえば、過去記事でも述べるよう前の家では朝食に定番の焼き鮭をはじめとして、かなりの頻度で焼き魚が出ていた(アジ、サバ、サンマ、ホッケ、メカジキ、イワシなどなど)。…2015/12/14

当記事注: 後の12月31日メモにこう書いた。「前の家で家庭内別居となる以前は、平日も休日も朝食は必ず父親が作ったものを共に食べる習慣が当たり前であった。この家にあって乖離した私を蔑視する母であるのに、朝食など(弟に)勝手気ままにさせることはおかしいと思う。草むしり騒動ほか、多くの(弟との)問題は母の遅起きや二人の朝のありかたの別離にある。 (中略) 私の前の家では、それぞれがしっかり早起きして、7時までには父が朝食の準備を済ませる、これが当たり前であった。母の母としての怠慢は (後略)」、食生活は記事後部2014/01/28要文に詳述される。

ペットボトルへの排尿は、夏場の前の家でよくやっていた。夜は部屋の外に出ると虫(ゴキブリ)に遭遇する・部屋に侵入されるリスクがあるなどで、濫りにドアを開けたり部屋を空けたりするわけにはいかず、密室たるトイレで遭遇することは何よりの恐怖であった。そのため、自室にて用を足さざるを得ないことが多々あった。反面、夏の早朝は部屋の外、2階の階段と接続する空間(広い廊下・踊り場というのか)で階段側の窓に向き合い、バルコニー側に背いて座り、涼んでいることも多かった。これで虫に遭遇した経験は無かった。…2015/12/06

ふと前の家で自室ストーブの放熱部分にティッシュペーパーを当ててよく遊んでいたことを思い出す。 (中略) 前の家では発火を恐れ、ティッシュペーパーは「こより」の状態を作って、それを遊びに使っていた(もとい網の奥に入れづらいからこよりにしていたか)。今回の状況として、熱の強いストーブ・トイレの狭い空間(前の家子供部屋3室ともロフト付きで天井が高い)・燃えやすい材質の紙という悪条件のみならず、「こより」という予防策を取らなかったことが大きい要因であった。…2015/12/05



日曜と月曜の間の深夜ほど番組がひどい時は無いと記憶するが、その記憶が依拠するところの過去は前の家2010・11年である。そのテレビ試聴末期は、NHKにしろ民放にしろ独立UHF局にしろ、素朴な番組を好んで試聴する傾向があった。…2015/11/30

当記事注: 11月6日の日記メモに「関東の独立UHF局に興味を持った小6」とある。

あの広い家で独りきりという中で、ある時はネット依存、ある時はネットもゲームも無い(2008年夏に別居母との再開の事前に上の画面に数字キー、別にQWERTY配列キー備わり、後のスマートフォン的なブラウジングが出来たスライド式携帯電話を受け取った経緯があるが、これは2008年10月に破壊し同年12月の姫路遠征時に返還した・・・2006年7月にあの家に越した折、2003年購入のSH252iを一時自室内で紛失しつつ小6か中1の時に再発見した経緯もあるが、これは当然2004年のとある経緯でネット接続不能である)環境下で、トモダチだとかもいなかったわけだから、独りで何をして時間を潰したかと言うと、お絵かき・物色など多種あろうが、独自の遊びを開拓することもあった。独自の遊びと言うと、現在この家や私の所有物にも結局は漫画やゲーム機などが無いわけであるから、このPCにもCPUを荒らすゲームを動かす気にならないため、音楽をいじることが多い。…2015/11/08



前の家付近の貯水池も、かつてはカモやサギ(白・青)などが多く浮かんでいたが、最近のストリートビューを見たら、長いこと水を入れていないのか、高い雑草が群生している(よく分からないが、浅い水に高い雑草が生えているようにも見えて不可解)。…2015/10/30

この母は、なんと風呂掃除をしている。母が風呂掃除などする様子は滅多に無かったし、実際にしている様子は初めて見た。前の家だと、自分や父など各自の判断により浴槽を度々洗っていたものだが、この家では弟も母も洗わないし、私は当地以前より推定4~5年入浴を行っていない。弟も母も、温泉は入っても家での入浴はしていないのではないか、と思うがそれは今朝たまたま、ゴミ容器に捨てられているバブの包装を見たところで一度覆った。あるいはバブをお湯が張られた浴槽に落とす以外の使い方をしているのではないかとも思ったが、母はこのバブなどの入浴剤を使うため、重い腰を上げたと見る。そして、一度バブを使った際は、久々に張ったお湯に髪やアカが浮き、ほかの汚れも混ざる汚さに絶句したから、ようやく掃除しようと発案したものと推量する。…2015/10/21

幕の内弁当なら、ある時からまだ弁当を買う頻度が多かった時期に母がよく私向けに買っていた。前の家でも父親が二人用に買うコンビニ弁当・弁当店の弁当(通称ほか弁)にこの名称の弁当が多かった(スーパーだと惣菜の丼ものも多い)。「ある時」というのは (後略)…2015/10/07

これはシバンムシというそうだ。この家で見たことはほぼないが、前の家ではこれより細長い(全長4mmか)甲虫は度々目撃している(1Fキッチンの引き出しで何か小物が置かれているところに3匹同時に見たことがある)。…2015/10/06



(2007年のネット利用など記述アリ、前略) このようなネット依存ともいえた時間は続き、ついに夏休みに入った。PCの使用自体は夜までにする決まりが自分の中に定まっていたが、その理由は諸説ある。自制心に起因するものもあれば、夜は魔が跋扈する時間(ゴキブリに遭遇することの危惧)で自室の外で過ごすことが恐ろしかったなど。父親からネット中毒の状態に関する指導もほぼなかった(気付けなかった?)ため、夏休みはますますネット利用が盛んになる。私としても父親の前でPCをする様子を見せいたか定かではないが、父親は私の平日のPC使用状況を知っていたはずだし、知らずとも何となく訝しさから普通の親は尋ねるはずだが、それも無かった。…2015/04/27

「バリケード」とは、前の家において2010年12月に始まる不登校の時も、2日目夜に設けたものが強固で、3日目の朝父親が部屋に押し入ろうとしたことを防げた。バリケードの件は過去にブログでも書いたはずだが、膨大な記事の中からその記述が検索技能を駆使しても見当たらない(長文回避で過去記事リンクしたかった)。…2015/04/21

ローソンといえば2011年4月18日に豊橋へ来た日、前の家の最寄店で最後の買い物をしたことと思う。こちらに来たときはポイントカードの有効期限の関係で悩んだが、今より体力が残っていたのだから、遠くとも同ローソンへ足を運べばよかったと思う。…2015/04/02



そんな中、ふと父親の部屋の本棚にあったキチガイ漫画を思い出す。それは、戦前(厳密には直後)世代で過酷な時代を行き抜いたお方の漫画で、戦争を行き抜いた漫画家はしばしば戦争をモチーフに描くこともあり、かの手塚治虫や水木しげるも多く書いていた(グロばっか!)。それらも父親の本棚にて小学生の頃から目にしていたものだ。…2014/06/23

小5で両親離婚(別居)、最初は父親が料理を作ってくれず、朝はコンビニ弁当生活。それからしばらくして、父親が料理を毎朝しっかり作るようになり、朝はご飯、味噌汁、焼き魚、納豆、漬物、緑茶などまさに健康的なものを出し続けていた(この品のいずれかを取るメニューが多い)。 (中略) 2010年1月(?)までにゆっくり鍛え、それからは一日腹筋40x4セット=160回、背筋30x1=セット30回、腕立て伏せ10x4セット=40回を目標に鍛え続け、毎日記録もしていた。結果5月頃にもなると腹筋も割れていた。記憶では、50m走が10.3秒から8.7秒まで飛躍的に上昇したのだ。あの日の「デブ」から手の平を返すように「ガリガリ」と言い出す人もいたけれど。そして同年10月家庭内別居、12月不登校、2011年4月、母親の家へと家出した。 (中略) まあ、前の家で不登校になった2010年12月以降もこちらに家出する2011年4月18日まで、それなりにコンビニ通いやマクド通い(ビッグマックセット♡)していたけれど。…2014/01/28



ついでに、父親の音楽経験は、トランペット、ギターにある。与野時代、ギター(アコギ)は捨てられた。 (中略) トランペットだが、父親がよく吹いていた。2台ほど持っていた。公園で吹くことが多かった。同じ公園でも、人目の付きづらいところで演奏することが多かった。父親はジャズに憧れていて、CDはもちろん、昔集めたカセットのコレクション、そしてレコードまで持っているかなりのジャズオタだった。もちろんレコードは、ただ持ってるわけじゃなく、レコードの再生機器も持っていた。ただ、埼玉に住んで蒲田(隣は川崎)に勤務する忙しい日々のため、ライブに行く姿は見かけない。トランペットの演奏技術だが、2005年と2010年の違いを感じない。…2013/08/14

当記事注: 父親は家でトランペットを吹く際、ミュートをかけるというか、サプレッサー的な消音器のようなものを取り付けていた。こういう回想をしていると、父が部屋の窓を開けてタバコを吸っている光景(奥に杉林)が浮かぶのは何故であろうか。なお、トランペットで共通する趣味を持つ知り合いもいない様子であり、そういった人物との電話でのやり取りも聞いたことは無いし、そもそも仕事が終わると遊ばず呑まずに帰ってくる人間である。

今月で2年以上自転車に乗ってないことになりました。 (中略) 記事トップの写真を撮影した頃の使用状況は、雨などの天候の問題が無い日であれば毎日乗っていて、学校の無い日でも当時の地理感で周囲を遊覧していました。1日の時間がたくさん余った前の家で家庭内別居・不登校期の5ヶ月超の時間を、一人長く外で過ごし続けましたが、主要な行き先として大きい公園、田畑などの行き先なき行き先のほか、コンビニでの消費活動が多く、一時期はファストフード店も通いました。 (中略) 人生の中で長い間自転車に乗ってない時期がかつてもう一回あった。おおよそ2年、小学生のときそんな時期があった。やはり、久しぶりに自転車に乗った時は慣れなくて「事故に遭ったらどうしよう」という恐怖もあったが、その時は問題なく、中学進学後も自転車事故は無く済んだ。(中学はもちろん自転車通学)…2013/04/19




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2015年12月25日金曜日

類聚(5) ~ 「修辞」篇

*横野要文類聚 第五篇・前節*
言(ことば)にあや有り、以て意義量り難し。
若し人、之(これ)を聞きては、或は瞋(いかり)を為し、或は心に渡らす。


横野要文類聚(よこのようもんるいじゅ)

今回のテーマは「修辞」である。
言辞を修飾する、ということであろうか。
修辞技法には多種多様あるが、私の要文がそれをいかに奏効しているかは実際に読んで感じられたい。
過去に「ニシテ表現」なる名称で、修辞技法の一種を提唱した記事があり、こちらも参照されたい。
※2015年6月以降の月別記事数"6"を揃える目的で、かなり低い完成度のまま投稿します、どうか追々内容の充実されんことを。






その言葉は耳朶を打ちつけ、胸中を穿つこと、さながら雷鳴のごとく、強靭な矢に射抜かれるごとくであった。…2015/10/25

寡黙朴訥にして能く指示をこなしていながら、親には何も伝わらないわけです。…2015/10/22

当記事注: 緒言にもリンクした、いわゆる「ニシテ表現」はこれである。



ともあれ、かの時代にあって、かかるアンチクライスト・アイコノクラストの暴言は、聖職者からの罵声を浴び、敬虔な信者からの瓦石を被ること免れ難き所業ではないか…2015/06/21

解説:「かの○○にあって、かかる(斯様な)××は」と似ている表現を続け、更には「○○からの××があり、△△からの□□は免れ難い」といった少し古風な冗長反復表現を使うが、先の「アンチクライスト」という思想は、非物質の「罵声」に通じ、「アイコノクラスト」という行為は、物質的な「瓦石(がしゃく)を被(こうむ)る」ことに通じ合う。「思想・非物質⇔行為・物質」すなわち、思想の因は罵声の果、行為の因は被石の果という、非物質・物質の対極構造をなしている。ところで、なぜ聖職者が罵声のみ浴びせるといえば、聖職者が末端信者のような暴行をすると顔が汚れ手を汚しかねないから自重しているのである。また、敬虔な信者が投げる石は、クラストされたアイコンの破片である。なお、アイコノクラストを語源ギリシャ(ローマ字)でいうと"Eikonoklastes"となる。



「理と事」の例を挙げると、例えば誰かの理に適った思考があるとして、その人がその内容を事細かに言葉で表せないとしても、確信を持っていれば要点だけ「私はしっかり論"理"的に考えた末、"事"実としてはこうなると断言できる」と話せるのだ。その弁が理に適った答えであるかは、実際に起きることを確認すれば明らかとなる。私が理を噛み砕いて説明をする中で、仮に思考が錯乱して言葉が詰まるような状態となったとしても、平静を取り戻して「事実確認」の旨を頼めばよい。事実に符合する理論であるなら、その正当性が事実に反映される。「事実確認」に念を押すことが実は、最も理を噛み砕いた表現になるのだ。「百聞(理)は一見(事)に如かず」という有名なことわざに、「理と事」の差がよく表れる。正しい理論の場合は如実に事実の形として出るが、稀にどんな理を尽くした計算をしても、事実の形が異なる場合があることもある。「理と事」の他の例だが、(後略)…2015/06/03


2015年12月20日日曜日

類聚(4) ~ 「譬喩」篇

*横野要文類聚 第四篇・前節*
世尊は種々の譬喩をして衆に理解を得せしむ。
仏法は難信難解のやうなれども、世事はみな知るところなれば、世事をもて譬喩を説かん。
余もまた是の如く説くことあらん。



横野要文類聚(よこのようもんるいじゅ)

今回のテーマは「譬喩(ひゆ)」、何らかの物事を別の物事で例えた文章であるが、私の学ぶ分野に疎い人には難読単語である。
このつづりは仏教・漢訳仏典ではよく使われるので、「比喩」と一般的なつづりにはしない。
また、前節は「仏法」に念を押して綴ったが、一応は仏法以外の種々ある話題からも「譬喩」にあたる文章を聚めていく。
というより、類聚案は最初からそのつもりでいて、前節を書くにあたって「譬喩といえば仏典ではないか」として、世尊は~と綴ったくらいである(本来の順序)。
※2015年6月以降の月別記事数"6"を揃える目的で、かなり低い完成度のまま投稿します、どうか追々内容の充実されんことを。
ブログ内キーワード「例えば」「平易」「砕いて」「言うと」「ように・ような」






10時40分前から、トイレで健康的山盛りウンコ6本セットを出荷してきた。シリアルという肥料の恵みをありがたく思う次第だが、ウンコ収穫(排便)には結構苦労する。排便はズルズル引っこ抜かれるようだ。…2015/12/17

この夜(に母と弟の2人)は、カキとカレーを食べていたようである。私がキッチンなどにあるゴミ袋を確認して人が何を食べたか知って日記メモに記録することは、ちょうど考古学者が貝塚などの遺跡を発掘調査して古代人の生活を窺い論文で発表するようなものである…2015/12/04


この部屋着にプリントされた亀のデザインについて、「一眼の亀」との折衷を色々と試みたが、やはり原義との定義がズレかねないので断念した。いわく、長久の寿命を持ちながら片目を失い、体が常に灼熱と極寒に苛まれる亀が千年に一度、永遠の安らぎを求めて深海から浮上し、大海の水面のどこかに浮かんでいるとされる聖なる流木「赤栴檀」を探しに出る。こうして私もこの世界で流転輪廻の苦しみを経ながら、人間の生があるうちに、真実の法に値ってこれを受持し、解脱を得て安楽の処を目指すべきである。この亀はその求道心を表すほか、堅固なる道心を胸に持つことも表す、と…2015/11/28 (本家2014/11/13の追記)


今のような、ネットに重点を置いた活動をしていると、ネット上の「横野真史」という人格が本体で、リアルの人格こそが自分にあらぬ存在のように錯綜してしまいかねない。インターネットという媒体が、現象の空間を前提として成立するように、自分もまた、肉体や生命に精神を備えたところから、ネット上の仮名に託しているのである。いわば、ゲーム中毒に陥って、あたかも己は主人公に成りきったように振舞うことが類似する (中略) それはともかく、私の「横野真史」という人格は、その仮名すら実際の自分の本名を踏襲しつつ、更に多くの面で自分を昇華させたものであり、混同などはおろか目標にすべきである…2015/10/30

法師はハッとした。眼前にはただの俗人がいるだけのようだが、その言葉は耳朶を打ちつけ、胸中を穿つこと、さながら雷鳴のごとく、強靭な矢に射抜かれるごとくであった。自分は深く仏法を学んでいるはずだが、未だに人間の存在に囚われていた。作品は素晴らしい、人間は植物の種を蒔き、育てあげるとはいえ、育った植物・採れた果実は結果的に良いもので、誰が育てたと気にするであろうか(現代は少し事情が異なるも割愛)。育ちきらなかったものもまた、そういう結果に過ぎない。人が育てなくとも、立派に果物を実らせる果実もある、歌道なら読み人知らずとも言える。この歌人の作品を、この歌人のものとして尊ぶことはしても、それ以上に歌人の人間的な空間まで思い、執着する必要は無いばかりか、無益なのだ。法師は己を恥じ、俗人からの説法を身に染め、改めて仏法に向き合う心を持った…2015/10/25

当団体の理念や存在意義とは「救済」にありますが、この熟語だけではある種多義的でありますので、う一つ言葉を足すと「落穂拾い」になります。穀物は秋に収穫期を向かえ、世間では成長に伴って学校であるとか社会的な機関が置かれ、現代は誰もが普遍的な手段としてそれらの機関を通りますが、穂が切れるか毀れて落ちるように、そこから漏れてしまう者も少なからずおります。そこで、当団体は智と識を以って心の深奥より救済をすることを重大意義として、この研鑽精神を普く布衍し、漏れた者たちを掬い救わねばなりません。これは未成年~若年層が主なターゲットであり、穂も穀も腐らずある内に拾って参ります。刈穂も落穂も一個体には等しい価値がありましょうに、拾ってくれる者は普通おりません。なるか分からない田畑土壌の肥やしになるのみで終わります。「落穂」としての価値は、早い解脱の性質を内在しておりましょう。当団体の教導を受けられることは僥倖であります…2015/10/17

某スーパー系列の全国一有名な店舗(客が炎上騒動)へ到るつもりが、3階建て公共施設に当たったようだ。T字路までは、建物の規模から何だこれ、といった気持ちでいた。航路に例えれば、アメリカから太平洋を船で横断して日本を目指すも、台湾へと流された気持ちであろう。否、海上を西進してインド目指したヨーロッパ人が、後の西インド諸島や新大陸などを発見したような・・・この施設は新発見でも何でもないけれどね。過去記事・動画にもあるし。…2015/10/06


過去に、「夫婦は家の柱」と言った。子供は世間に言う「子は鎹(かすがい)」であるものの、決裂するような夫婦で、揺れ動いた柱はボロボロならば、鎹も外れてしまう。現に、家庭の家庭らしき様相は、夫婦の不仲によって早く崩れている…2015/09/18


例えば、食べ過ぎたという人に対し、欲張りな性格が原因だとしか思わないことと同じである。単なる結果に対する原因を推量する上で、浅薄な思考によって短絡的に決めてはならない…2015/08/17

多くの人間は、どれほどケースを集めても、判断結果を二分と一元にのみとどめる。私は常に、そういった極度な二分思考に陥らないよう、公平に近づけた判断を行う。その深い思考には言語化の必要性もある。達観した末の思考を恒常的に活用するためにも、記事などにメモすることで叶うはずだ。例えば、土の道路があるが、次第に車の交通量が増えた(思考の頻度が増える)ので綺麗に道路を塗装・整備をして(達観に至る)も、多くの車が走る(雑念が混じる)だとか、時間経過と共に荒廃・風化(失念・忘却)するなどで、必ず補修などする必要があるだろう。道路に例えることに意義を持ち、それは今の私が正しい道を進んでいるとの確信であり、また研鑽の意志とは「道を行じる」というところにある…2015/08/17

赤ちゃんに与える離乳食などは、しっかり冷ましてから与えるイメージが諸君にもあるはずだ。イメージしやすく言うと、母親がスプーンに取ったお粥(リゾット)を「ふーふー」と冷ましてから与えてみるが、赤ちゃんが辛い顔をしたり吐き返せば、「あ、ごめんねぇあちゅかったね~」、「赤様ごめんなさい!」と言う光景があるかもしれない。ここで「お風呂の温度」と関係のある話題となるが、小1の頃の私が適温~ぬるいと思っていた「39度のお風呂」も、赤ちゃんには熱く、落ち着いていられないレベルのものではないかと見られる。毎日のように風呂に入る(張ったお湯に浸かる)生活をたった10年程度でも続けている内に、個人差もあるが多くの子供は40度辺りまで慣れてしまう (中略) 浴槽本体に排出するお湯については、少なくとも4年以上風呂に入っていない(お湯に浸かっていない)私が知っていることや意見できることは何もない…2015/08/12


例えば、3000年前に天才の人が「我々の住む土地は丸い星なんだ!球体なんだ!」といきなり悟った事実を話しても、当時の人類には到底理解できない。現代でこそ星の外から地球を見返すことはできても、当時では実質不可能である。せいぜい、「空に浮かぶ星と我々の住む土地は同じ性質なんだよ」とその事実を理屈として、演繹的に話す手段しかない。航海技術が進んだ500年以上前になってようやく「西洋から西に船を進めて東洋に至る」という仮説を実証できるようになった程度である。航空技術や軍事技術も成長した末に、星の外まで飛べるようになった現代、「この目」で住む土地の丸さを見て、球体であることは反論なく証明された。「百聞(理)は一見(事)に如かず」という有名なことわざに、「理と事」の差がよく表れる…2015/06/03 (メモ帳2015/12/10の加筆込み)


「形骸化した議会」において、議員歴の長い人が議席を多く占めていることは想像できよう。議員歴が浅い人は何らかの志を秘めている。ことに、明確な意志を持って出馬した無所属・無党派の吉田氏の猛威には、彼ら中堅以上の市議にとり安穏ならざるものがある。何せ「ダントツ」の発言回数を以て、矢継ぎ早の弁舌で議会を揺さぶる男は脅威だ。安逸の微温湯に浸っていたかったところに、不遜な冷や水を浴びせられるようなものだ…2015/05/14


「小説を読むことが勉強」とだけ書けば、いかにも滑稽じみているだろう。例えるなら藪医者の治療や民間療法を推すようにアテにならなさそうだ。もちろん漠然と小説を読むこと、文字をただ音に捉え茫洋と浮かべることを、勉強と呼べば「驕り」であると私も頷ける。無為に読むだけなら、ゲームなどの遊戯に耽溺するほうが有意義となる。
しかし、国語や英語の教科書等を思い出して頂きたい。何か文章が書いてあれば、学ぶべき要素がページの隅か、後続のページに載っていたはずである。並びに、教師の存在によって効率よくそれを学べる。私がやってることはこの平凡な授業の形態を、ただ一人、己を師と定め行う必要がある…2015/01/23 (その3週間前らしい)



「楽しみ・幸福感を与え合い、授かり合う。」例えば野良猫に餌やりをする人がいる。 (中略) 野良猫は雑菌まみれだが、彼らは大胆不敵にも撫でる。猫は見てるだけでも気持ちが満たされるが、触れられれば更に上の快楽へ昇華されるだろう。猫に餌を与えることは猫自体の空腹を満たすにとどまらず、与える側はその行為で猫助けした気分になったり、猫の姿で癒されたりと気持ちが満たされるのだ…2014/07/03

当記事注: 相互に刹那的至福を与え合い、授かり合う反面、野良猫の異常繁殖は猫の飢餓と喧嘩を招き、人間生活への衛生問題などを惹起するのだから、長期的には相互に問題を起こす。善悪不二・善悪一元・善悪互具とはこのことであろうか?皮肉で笑えてしまう。

ペットを飼うことが愛する心を育むなどの情操教育として有効とされるが、逆に弟はばあさんを利用してストレス解散の捌け口としているのだろう。ばあさんをペットのように労るなどという考えは皆無であろう。その様はまさに動物虐待と同様…2014/04/21

さあ、例を挙げてみよう。普通は家を建てるに設計図が必要→設計図通りに建てる。我が両親のような者は設計図を作らずに勢いで家を建てた!出来損ないの家が竣工するも、出来損ないを建てた後から直す→手遅れですよと。。。止まらない加齢に焦って、土壇場の高齢出産をしたことが仇となる(知的障害を持つ弟が好例・知的障害でも幸せに育てられる親とはだいぶ事情が異なる・経緯が酷いのだからその後も改善なく苦しんだままの両親)。…2014/01/01



当記事の投稿直後の要文(過去要文の回聚が困難だから仕方が無い)


そもそも、窓枠砂埃は自主的に掃除することがある(最近では10月17日など)。母親こそ、母自身の部屋の窓枠砂埃を除去し続けないでいる。いい加減に自分の非に気付いてから人の非を唱えたら良い。化粧の崩れた婦人が、子供の口についたご飯粒を「みっともない」と激怒するようなものである…2015/12/24

それから間もなく、アメリカの脅威を覚えた日本が真珠湾爆撃をしたごとくに私は、まず空の牛乳パックを地面に叩きつけて牽制し、理性的な鉄槌を加えたところ、母が理性を失った。執拗なまでに襲撃し、攻撃を加え(さながら本土大空襲や原爆投下)てくる…2015/12/22

・・2016年以降も色んな記事で比喩表現を行っているから、よく探してみてね!

―もう一度、前節―
世尊は種々の譬喩をして衆に理解を得せしむ。
仏法は難信難解のやうなれども、世事はみな知るところなれば、世事をもて譬喩を説かん。
余もまた是の如く説くことあらん。



追記: 2017年8月5日
「萌えの典籍」全般に、植物を中心とした譬喩が現れる。
それは梵語でウパマーというが、人物による譬喩・因縁、梵語でアヴァダーナやニダーナというものもある。
特に「萌え話・萌え歌・萌詩"The Moetries"」の記事に載る話には頻出する。
譬喩を中心とした話に「雑萌喩(ぞうみょうゆ・ザフミャウユ)*」がある。


2015年12月15日火曜日

私の音楽活動分野の呼称とは何であろうか? & 活動方針・展望

私自身の音楽活動を主体としたブログである「横野真史音楽ブログ(音楽館)」で、ブログ設立当初に書いた記事では「自称一人バンド」と、そのロック系ジャンル楽曲制作の名義である"Sundarkness"について表現しているが、これには大いに語弊がありそうだ。
バンドとは、楽器を弾いてこそ名乗るものであるが、巷ではチャラチャラしたあるいはイカツげな男らが歌って踊る音楽グループが「バンド」と誤解される傾向がある(○爆、エグ○イルなど)。
私自身もただ、「ロック系を作っているから"一人"でもバンド」としていたようで、楽器を弾いているならばそう名乗るに値するが、実際はDTMにおける「打ち込みの作曲」をしているに過ぎず、楽器を弾いて音を録り、ミックスする行為さえ満足に出来ない。
バンドとは、楽器を弾いてこそ名乗るものであるから、仮に作曲は出来なくても、一般のジャズバンドやマーチングバンドなどは既存の有名な楽曲を演奏し続けるのである。

というわけで、「私自身~」「バンドとは~」を2往復させての考察を4行で書いておき、「一人バンド」とはあくまで「自称」という範疇では妥当としておく。
件の記事でそのように表現した当時の心境として、バンドという存在に仮託した活動を標榜し、あわよくば演奏の協力者を抱えられたら、との淡い期待もあったのであるが、孤陋の身なれるを知らざりしが故に儚いことである。
近頃思うこととして、「自称」のスタンスであっても「バンド」と銘打つことは余りにも滑稽でならないため、今後はそう名乗る気があまりない。
深意をいえば、バンドなるものが私の精神と背くようでもあり、世俗芸能とは別とされる古典音楽においても、現代では演奏家ばかりもてはやされ、相容れないことを思っている。
それでは、私の音楽活動によりよい呼称が他にあることか。

例えば「ライター Writer」というと、ゴーストライターだとかシンガーソングライターといったように、接頭語を伴う呼称がやや存在している。
ライターということは"Write"して然るものであるが、何を"Write"するかといえば、歌詞あるいは楽譜と見られる。
しかし、私といえばDTMでの打ち込みが専らであり、歌詞は今なおも書こうと思わず、楽譜は猿真似が関の山であるから、私に付けては余る表現であろう。

ここに、歌詞を書いてボーカルを募る、楽譜を書いて奏者を募るといったことを求めず、一人耽美的な楽曲のありかたを探求するといった、私らしい姿勢を感じてしまう。
私の諸活動(記録・研鑽・創作)は、この数ヶ月に常々「自己満足」と形容してきているが、端的に言って「自己満足」という言葉に落ち着くのかもしれない。
もちろん、それは腑に落ちない一面もあるのだけれど、一般にはこう捉えられよう。



・「バンド」の単語に関する余談
Yahoo!知恵袋は2015年10月下旬からカテゴリの増設と整理を行ったが、「バンドエイド」という文字列がある既存の質問の多くが「音楽 > バンド」カテゴリに移行されてしまった。
どこぞの指定管理者制度図書館の蔵書分類のように、字面だけで機械的にカテゴリを認識するから、こうも不適切となってしまうが、大手の運営ほどその陥穽の識別ができず自覚も無い。



・どこに載せようか迷ったメモを一応ここに掲載する
「快楽も金銭も結果的に得られる程度で良い。自ら願って求むるところにあらず。芸術は、肉体的ないし即物的な満足よりも、己の心の満足にこそ至福がある。これぞ芸術に望ましい少欲知足の姿勢である。観念的なれども、この美学を奉じている。満足すれば飽きて辞めるのか否、飽くことなし、満足あってなお追究す。耽美主義的精神論、修養足らざる不肖の身にあり」



【活動方針・展望】
某サイト・某ツール作曲の人々は、当該サイト内でこそ好きなように気兼ねなく且つ他ユーザーと懇ろに交流してきたのであるが、一度サイトの外に出ると、サイト旧友との付き合いこそすれ、音楽性や活動の姿勢は見る影も無い。
Twitterほか音楽サイトで遊戯雑談の活動の域を出ず、いやしくも作曲するとて、音楽性に妥協を感じる。
妥協したる音楽性とは如何なるものぞや、既存有名楽曲アレンジほか、オリジナルでは凡庸な陳腐な無難なジャンルが多かったりしたり、ジャンル名ばかり同系列でも腕が落ちていたり、やりたいことをやっていないのではないか、と思えるような楽曲群である。
当該サイト内の熱気・情熱というものを「他所に持ち込む」ことについて、自重する道理はない。

よって、私は技量の許す限り気儘に音楽制作と楽曲投稿を続ける。
今の精神状態・・・道心がある私には、あんまり過激(卑俗)な語彙を用いたり、奇を衒うようなことはしづらくあるが、それも「やりたいこと」でないのだから無理にすることではない。
同サイト内でも、実機端末が動くうちは「身を粉にする」とまで言わずとも時間との折り合いをつけながら随時投稿を続けるが、某サイトとは先述の通り、連帯感であるとかフレンドリーな交流により、彼らの創作機運を相高めている節がある。
某サイト特有のポイントとして、譜面共有の自由度が高い点があり、他のサイトにはないアレンジやコラボレーションなどの投稿量も一考に値する。
今でこそ「街」の名は廃れて「廃村」さながらにあれ、最盛期の賑わいを垣間見る思いで、当時の彼らが互いに励まして成り立つとも私は遠く忍ばせるのみに、別の信念から活動を継続する。

つらつらインターネット上の創作界隈(同人等)を惟みるに、当該サイトの元住民らに限らず、広く創作界隈で2011~13年以降は何かためらい気味のものを感じてならない。
気兼ねなくやっていけばよいところが、どことなく妥協した創作ばかりに思える。
音楽のみならず、絵であるとか、創作界隈の全般を俯瞰した上でそう書く。
「聖人(しょうにん)或いはこの道を去り、或いは退き、已に一人(いちにん)も残らず。求道の者・誰(たれ)かこれを嘆かざらん」

以上の文章は大半が12月9日頃に書かれた。
ところが状況は一変して、12月12日から稀にあるサーバの504エラーが始まった。
これは今年に2度あり、いずれも4日ほどウェブサイトもデータスペースも接続不能に陥った。
当該サイトのサーバ上にデータを保管するところに依存する面が強い点で、実機での制作は厳しい上に、実機で行ってもサイト公開が現状できるはずもない。
また、サーバが消失する(管理者自宅サーバーの放棄か契約解除かデータ紛失かデータ消去)こととなれば、サイト利用自体誰もできなくなることも論を俟たない。
MIDIシーケンサーの制作環境でも構わないが、一つの意志は潰えよう。


2015年12月10日木曜日

思考区分による社会思想の分析 (未完)

2015年10月下旬に執筆した記事であり、当該期間中に大半の記述(8,000文字ほど)を終えた。
むしろ、案ありきで短時間のうちに書ききり、後は手詰まりともいう。
一部分を別途記事として、11月中に分離投稿した。
できれば、全て分割して逐次掲載したいものだけれど。

※当記事と似た趣旨の過去記事例では「(日本潜在・中国現行の)共産主義」を論じている。
※記事投稿後も加筆を継続している。



目次 (Wikipediaライクに、li要素とページ内移動リンク)

一. インターネット新保守思想


1.1 概説

語義の釈、「新」とは「新興」というように、「旧来」との区別を前提としており、ことに近年インターネットを中心に世論を席巻しつつあることは、2011年の高岡さん騒動を嚆矢としている。
というのも、各業界を壟断するマスメディア業界・芸能界が強権発動して、一人の芸能人(タレント・俳優)を業界から追放したのであるし、その原因となった芸能人の発言が平易にして素直な当事者による感想であるため、彼ら「マスコミの偏向報道・朝鮮資本」真実を知った人々からの強い賛同を得て已まないものである。
当時の2ch掲示板といえば、関連スレッドは怒涛の勢いでパート番号が上っていた(おそらくはニュース系で歴代最多の★522、最後は1スレ勢い約100万、当該掲示板「芸スポ速報+」のルールでパートスレに4日間までの存続制限がある)。



個人的な来歴、中2の不登校(2010年12月)に入る前後の頃からネットの保守思想を主体的に学びはじめ、中3の頃をピークとして2012年中に断ち切ったため、1年ばかり浸かっていたということになろう(これは単に今そう回想したことで言うのではなく、2012年中にアップした動画にそう書いてあることも根拠の一端)。
いわゆるネット右翼として、各種ニュースなどに目を光らせ、2chニュース系の掲示板に通っていたわけだが、次第にレスの多くを敬遠するようになったことには多々理由がある。
この思想からも遠ざかる傾向が出始め、2012年以降はこの思想における誤謬性や、人々のあり方に疑問が強まり、自分のあるべき状態ではないことから、離れ始めた。
とはいっても、左派に反転することを意味しない。
政治だとか外交だとか経済だとかといった分野への関心を減らしたに過ぎず、政治思想でいえば保守派、大戦期の歴史問題もほぼ中韓の強弁に正当性が無いものと見る。
同時に、どこかの政党が、といった枠組みにこだわらず、政治家が、といった固執もしない。

新保守いわゆるネトウヨ系に対して反抗が露骨な人々(左派・左翼系あるいは政治思想を問わず敬遠?)も、実は本質的に変わりが無く、同轍である。
双方のあり方が不穏当に異様であるから、私はニューススレのレスは2012年から見なくなり始め、今ではスレタイ・本文を見るとしても、レス内容に一瞥する気すら沸かないし、ニコニコ動画(政治動画は見ていない、動画ジャンル不問)のコメント欄も同じように比例して今では見ていないのも、人種が同じのように思われるところが理由である。
「ネトウヨ」などのような単語を常用して新保守思想のネット住民を罵倒する人らは、その彼らの「ネトウヨ像」に匹敵するかそれ以上に下品なやり口を取る(恣意的な表現や主観的なレッテル貼り・同一視をする)傾向があり、とはいえそれについては詳述すべきではない。
以下から「新保守思想」を持つ人々に関する論考を始めるため、先に断り入れた。



この「新保守思想」にも、近年では分化があり、現政権(安倍氏・麻生氏など)を全面的に支持する派閥や、現政権の構成員に特定宗教の陰謀がある・アメリカの傀儡であると見る派閥など、一様に「愛国」を自負していても、現政権に関する扱いが異なりつつある。
私は、その彼ら現体制の構成議員諸氏に依存するわけでもなければ、陰謀だとか回し者だとか等との邪推もしないし、日本共○党のように法案への恣意的な呼称を以て糾弾することもしない。
良い法案は良いだろうし、悪いと思う部分があれば精査して、賛否を持つか思考放棄してもよい、何せ参政権の無い18歳であり、今から向き合う必要があるということはない。
明治以降に起きた歴史問題についても、正しい・事実は事実であり、捏造は捏造、それ以上の執着は無用であるが、現代の外交にまで持ち込む某大陸や半島は偏執狂である、とだけ思う。

今の私の政治思想を平たく言えば「ストレート中道」であろう。
仏教を学べば、平等知見(びょうどうちけん)をもって質直分別(しちじきふんべつ)できる。
これまた平易に言うと、公平公正で素直に物事を捉える能力が身に付く、ということである。
また、必要以上の執着が無くなるから、浅い歴史や政治の問題など、部外者たる私は重きに置かなくてよいことを割り切れる。
仏様も、経典においては忌憚なく「執着の強い迷える者(我慢偏執・迷妄)」を責めておられる。



1.2 現代的合理主義

ここに論う「合理主義」とは、実に現代日本の気風によるものである。
よく、「都会の人は歩き方が速い」と言うが、これに代表されるよう、現代の日本人は無機質に効率や利益を追及しつつあるが、この合理性を突き進むと中国のような共産主義に至ってしまう。
だが、日本人は文化性などを尊重して、ほど良くニュートラル、中立の状態を保持しているから、マルクス主義的な究極の共産主義、中国でも未だ実現できていない極致へ達することはない(ただし戦前期の一国全体が思想を統制され、一致団結した時代は世界史上に類例無き究極の社会主義に見える)。

およそ「将来の夢」とは、近年世間が憂えるよう、何とも安定した職種を志す子供たちが多くおり、それはこの「現代的合理主義」の気風から、その志が生じていよう。
具体的には、サラリーマン・弁護士・公務員、少し大きいものでは政治家などである。
「広義の公務員」なら、教師や警察官など、まだ子供に適切なものがあろう。
1000年以上前の中国では、官職を志して高位・高座に就かんと憧れもとい野望を懐くことは多かったようだが、それは当時の選択肢もとい視野が狭まっていた時代背景に起因している。
為政や処世を基盤とした教えである儒教などを根本思想として、中華思想など(もちろん左記の思想の一辺倒と言いたい訳ではなく仏教など他所の思想も「自己流」で受容していった)、現代中国は「儒教道教の徳」を忘れた「共産主義の欲(貪欲・強欲)」という点で正反対のようであるが、私見では現状変わらず、思想面の色違い程度でしかなく見えてならない。

一方で、現代日本はスポーツ選手だとかパティシエだとか宇宙飛行士だとかと、「ありがち」ながら子供として「あるべき」夢を持つ選択肢はいくらでも存しているにもかかわらず、今の有様がある。
日本のスポーツは多くの競技で好成績、パティシエという菓子作りも食文化も和洋問わず評価が高く、宇宙へ飛び立った日本人は私の故郷さいたま市(旧・大宮市)輩出の若田さんなど多数おり、いずれも日本のキッズが憧れて然るべき職種であるはずだ。

職業というものは、それを望むにあたり何らかの意志が必要になるが、主にその根源は「欲望(金銭欲など生活安定・名誉・モテたい等)」か「願望(作業意欲)」のどちらかである(「望む」ことが前提であるから無理やり就労させられるケースなどは除く)。
その仕事をさせてもらえる機会が得られるなら、タダ働きさえ買って出る人もいることは、ボランティアなど慈善活動(裏事情はともかく)の人々が好例である。
繁盛しなくても、自分の料理を振舞いたい、食べる人の笑顔に触れたいから、温もりを与えたい温もりに包まれたいなどと、料理店を営み続ける人もいる。
もちろん、そういった人々がなぜ利益を得られずしてそれを続けるか、全くその感情が理解できない人も現代には増えているのではないか(少し前までの自分がそうだが、「理解」はできた今でも真似をしたいとは思わない)。

自己犠牲の姿勢を厭うにしても、身の丈に合わない金銭を得ることに狂奔する、貢献的自己犠牲を厭うのに、金銭を得るための自己犠牲、すなわち触法行為を厭わない輩が蔓延っている。
即物的な利益、給与という形を得られなくてもよい、とまで言わずとも、金欲しさから悪事に手を染める、例えば処方が制限された薬を不正に大量転売する富裕のお医者さんなどは、その職種の人間としてあってはならないであろう。
こういう風に、本来は人助けするであろう立場が必要以上の金銭に目を眩ませてしまうと、その職権を有した者にしか行えない悪事を働いてしまう。

※先述の「願望」からその職を選んだというのに、金が入るようになるとますます金を求める「欲望」が強まる人は多い。本来、収入などとは、その職を続けて得られるオマケ・副産物であるべきなのに、職の継続意欲よりも収入確保が目的意欲となって職を継続してしまえば、本末転倒となる。あるいはそもそも、「医者とか国家資格必要な職種って高収入じゃね?」という不純なる「欲望」の動機からその職業や資格が人気となるなら、もはや「道」を忘れた非道外道の民に満たされている日本という国を憂えるしかない。否、後述する「中学生の頃の自分」こそがその典型例であった。「無職即聖職」と確信す。ただし、古来人間は自分の生活の糧として「生業」を持つものであるから、生活に窮してしまわぬよう最低限の金銭などを要した「欲望」の動機は受容する。問題は、先まで上げた諸々の例のように、身の丈に合わない「欲望」か。

「利益を得るという行為」は、同時に「他へ還元する必要」が、この現代社会に存している。
税制などはそのようで、一定額を超えてから贈与税や所得税などが発生するように、誰かが一方的に莫大な利益を得て、独占することは許されない。
「富の再分配」と言い、税制などが形式的でもそうあるように、日本など先進国は貧しいアフリカやアジアなどの途上国を恒常的に援助していく必要がある。
「恩返し」という、即物的見返りを求めてはならないのであろうが、真っ当な国ならきっと日本の恩に報いてくれよう(国交正常化以来中国への多額投資、民主党の対韓通貨スワップ・・・)。
国内であっても、年金制度や生活保護制度といったものは、現代の民主主義などにおける根底の原理として、先進国的な通念(富の再分配など)がある。

昨今のEUが、中東など紛争地域の難民を積極的に受け入れていることも、嫌々行う場合もあろうが、嫌でもやらねばならない理由、集団の義務がある。
自国の事情を顧みず、難民を受け入れ続けるべき宿命が、EU諸国に付きまとう。
先進国だからと悠然として安逸に浸るのではなく、欧州の威厳を保たねばならないから、例え国内の治安が下がる(直接難民が犯罪をするか、間接要因では国民の反発で国内デモや難民襲撃など)としてもこういった人々を受け入れる先進国の自己犠牲が窺えよう。
もちろん、国際社会の通念上そうした姿勢を保つのみならず、本心から哀れみがあってそのように援助していることもあると、私は信じたく、でなければ間もなく世界が暗転しかねない。

こう語る私は、中学生の頃に「ザ・即物的功利的唯物論者」としての思想が根強くあり、中学1年生の時の開校ウン周年記念冊子で「将来の夢」について書く際、「年収1000万円」と金額を書いて悦に入っていたが、金額を書く真似は不良生徒の「年俸1億」ほどしか見当たらないほどに異端児として不気味な光を発していたことと思う。
どうせ、この年頃に正常・健全な夢を浮かべた学生諸子も、30過ぎてから現実的夢想に耽溺し、「年収800万以上の男性ガー、3高じゃないとヤダー」等とのたまいだすのであろう。
2010年12月の不登校以後も、こうした「カネ、カネ、」という性質が残り続けた。
上の「自己犠牲・富の再分配」ということを知らなければ、納得もできない中学生当時ならなお、「老人に年金出しても税金のムダだ!役立たずを(法整備の下に)殺せ!アフリカなんて未来永劫に発展しねーよ!早々に援助やめろ!」などと強く思っていた(ストレートな表現、御免)。

これは新保守・ネトウヨ時代にも変わらず根深かった。
国益や利潤を追求するのもよいが、行き過ぎると金銭や数字ばかりに囚われる。
そうであったところ、今やそういった差別思想など諸々の謬見を排除して、社会のしがらみさえも断っていることは、それなりの思惟を深めた時間の長さ・功がある。
このような中学時代の思想を忌憚なく検分・披瀝しているのも、ご覧の諸君に同様の考え方があるならば、潔く脱却され、真理の階梯を辿る道に入って頂きたいからである。



1.3 現実「語」主義

続く題名は何とも手作り感の強いもので、一見して何の話か判断しづらい。
要は「現実」という単語をあんまり念を押しすぎる人がネットの政治ファンなどに多いということであり、その「語」を悪しく弄するところで鬱陶しさを個人的に感じている。
「語」主義だから、当人が九官鳥のように唱えるだけで、当人こそ実はオウム返しならぬブーメランの法則で当人の思考状態にも、適用されている。
インターネットの中でも、2ch系や知恵袋・ツイッター等には様々な政治ファンが多いものの、みな下品な言葉が多いだけでなく、こういった語の悪用が目に付くことは甚だ多い。
※2015年11月にも地方新聞社の偉い役職の人(反自民の左翼系)が政治関係の投稿で暴走し、謝罪投稿はするも会社から役職を解任された報道がある。

斯く言う私も、2012年の投稿楽曲に"Loser of the Reality"、つまり「現実の敗北者」を意味するものがあったりと、やはりそちらの思想に染まっている場合こういった傾向が出てしまう。
自分も、「現実『語』主義」思想の影響を真に受けていたようであった。
ましてや、自虐的な意味合いでこの曲名を定めたのであろうか、己よ。

それで、どう「『語』を悪しく弄する」かといえば、キーワードは「見る・直視」である。
見るべき・直視すべき「現実」とは、社会的あるいは即物的なものか。
また、見るべき「現実」を見た上で、捉え方が主観と異なる人を、見ていない・逃げているそのものと判定される。
見るべき「現実」が多様なら捉え方も多様であるのに、当人の一元性より一様に判定することは論理上に危ういところがある。
その一元性から「コレ・アレには『未来』がある・ない」と更に広げられる。





1.4 精神面(民族の理念)での問題

初めに、"Mental"というニュアンスでの「精神」ではないことを留意されたい。
先の「現実『語』主義」と同様、そういった「精神病」云々を取り上げた論理は、インターネット特有の交流の中で毒された思考から普及し、この論理を弄すると詭弁の域を出なくなるため、私は持ち出さないようにしているし、以下の内容は精神病などとは関係が無い。
私が"Psychology"の側面から人を穿って見ることもしない。
ここでいう「精神」とは、もっともストレートに言えば「大和魂」ということになる。
また、価値観や趣味といった言い換えもある。

日本人らしからねど然(さ)ある「現代的合理主義」は、この「精神」にも適用される。
現代日本人は「神を信じない」というより、神が何であるか曖昧であるのかもしれない。
キリスト・イスラム等の絶対神を奉じた一神教の神と、日本の伝統的な神から世界の神々(ギリシャ神話からインドのものなど)といった多神教の神、現代の作品の想像上の神など、「神」といっても種類が多々あり、それらが宗教的に統率されないから異なる神々の情報が混在している現代日本では、「神」像が捉えづらい。
更に、実在した賢者にてあらせられる「仏様」を、この「神」と混同・同一視する者も非常に多いことは、キリスト教的な偶像崇拝と、多神教的に多くの仏・菩薩が崇拝されるからかもしれない。
その「神」の存在は、そういった情報や人生経験から存在の有無を個々人が弾き出し、各々の「神」像が形成されてゆき、日本人同士でそうは一致しづらい。

それでも、「この世を支配したり人を救う」性質のある絶対神的なものは、多くの日本人が懐疑的であり、否定する傾向にあることは違いなかろう。
願い事を叶えてくれず、「どうせ神なんていないよ」、誰しもそう心で思うこともあれば、口に出すこともある。
斯く言う私も、一神教の神を信じないし、一般的日本人と異なり宗教の教義上からその理由を述べられるが、ここでは煩瑣であるから省く。
2014年6月から仏教を学び始める前の自分は「神とは自分の中にいる!最も身近にいる!」等、思考を深めた上で「己心」を結論としていた。

なぜ現代日本人が、自分たちの神を知らないようになってしまったかといえば、日本の宗教史に詳らかである。
各地の集落などで実りをもたらす山の神など、各々が神を奉じていたわけだが、それぞれが似たような「神」像を掲げ、衝突や吸収などでその神という観念が食いつ食われつの様相であった。
優れた神と劣った神、色々混ざり合って、10世紀までには「天照」が最上となる(記紀のどちらかが根拠)ものの、それまでには仏教の伝来などで、既に神と仏への信仰の混在があった。
その「仏」であっても、あらゆる宗派があらゆる仏を等しく崇めるのではなく、「無量光明の阿弥陀仏(念仏・浄土系)」や「遍照金剛の大日如来(密教・真言宗)」などに宗派間で優劣の主張があったり、「仏は娑婆に実在されたお釈迦様と将来仏として下生される弥勒菩薩だけ!」などの主張もある。
平安時代の天皇なら釈尊を中心とした天台宗(比叡山)、平安末期からは加持祈祷好きのために真言宗(高野山)、鎌倉~江戸時代の武士は徳川家の菩提寺があることで有名な浄土宗をはじめとした念仏系の宗旨など、時の為政者らは中心の「仏」が相容れない宗派で定まらなかった。

西洋(欧州や中東)は国家がどう分裂しても闘争しても統合しても、ほとんどキリスト教かイスラム教であり、中国大陸もどんな王朝であれ儒教や道教の思想を根本とした政治が中心であったが、この島国の日本は万世一系の君主・皇統連綿と流れても、信仰は多様化を極めていた。
そのような日本人特有の、時代に対する柔軟な性質が悪く作用し、この現代的合理主義と、「神」という各々が懐く観念の複雑化・抽象化が発生した。
この現象を悪く言ってしまえば、軽佻浮薄で移ろいやすく、無節操ということである。

※いや、日本とは和を重んじる、その和とは、すべての存在を尊重して共存する姿勢である。神などの「宗教」という分け隔てを設けず、あらゆる思想も受け入れる。一方、何でも悪しきものを排除する思想は、西洋に端を発し、これをも受け入れた近代・戦前の日本の過ちであり、今の中国や北朝鮮など独裁的全体主義国家の体制と何ら変わらない、右翼・左翼諸氏は中道・真の「和」を知るべきである。日本宗教史の無節操は和の裏返しか。

※一部の現代日本人は、芸能などカルト的に熱狂することもあり、どこどこのチャートで上位を取りたいグループの方策に乗せられて一人でCDを何千枚も買うことは、即物的利益の信仰ともいえ、事実ライブだか握手会・サイン会だかで会う・触れられるならば有難すぎるのであろう。また、何らかの作品や作者などへのリスペクト意識が高いという人は、金銭拠出・正規購入という形でこそリスペクト意識(敬意)の印になるとの即物的観念論を垂れるが、単なる商業主義・搾取のカモか。

現在、無神論的だった人(皇室不要といった冒涜など含む)がインターネットの影響で忽然と右傾化したり、一方の人は反安保法案・反戦争法案(センソーホーアンハンターイ)といった迷妄の左傾化も甚だしい(自分の母がニワカ共産党支持者である)。
安易に、元々の考えと反転してしまう人が多いということである。
本題の、ネット経由の新保守思想であれば、日本的なセンスと遠い人(欧米化・西洋気取りなど)が突然に嫌韓・愛国宣言などを始めるということである。
私は、それらの風変わりな状態を批判して、「みな一様にこうなれ」と強いるつもりはない。
また私は、和風=愛国、愛国=和風といった、相互の等式を唱えてもいない。
私思うに、新保守思想の様子は、趣味や感性が自由な現代的保守でありながら、政治などの思想がみな似通うというところが特徴なのであろう、とだけ指摘する。

世界的なイベントや表彰において、日本人が優秀な結果を出すことは、私としても喜ばしい面はあるけれど、それ以上の関心をその分野や人物に持とうとはしない。
そのイベントや表彰の分野や人物に関して興味を強く持つこと、今仏法を学び奉る私が、新たにそれらの領域に手を伸ばすことは無い。
勉強と創作関連を続ける意志が強く、そういった人格が長い経験より形成された今、子供のように多様な夢を持つという所には既にいない(小学校中学年の頃はアレコレ夢想していたり、唯物論者の中学以降も変に憧れを広げることがあった)。
だから、その時その時で特定のスポーツ観戦などで盛り上がる大人というのは、学問上で見れば子供と本質的に変わりが無く、子供の方が伸びしろの広さで優れているくらいだと私は見ている。
子供の可能性は無限大・・・とまで言わずとも、子供の夢やその場の精神はいくらでも大目に見ようと思う反面、いい年をした大人が熱狂していると、単純に何ら知性のない人間としか見られず。

私の信念から来る感情が、そう否定的に向かせるのであるが、少し考えを変えれば、やはり業界側としても、こういった好成績による宣伝効果で、新しいファン層や、ずっと先に述べた「日本のキッズが憧れ」ることで担い手も増えることであろう。
特定のスポーツ観戦などであれば、大人は結局、個々人の娯楽としてのみならず、周囲との話題を持つ上で必要とする者もあろうし、私が濫りに批判すべき事象でないかもしれない。



1.5 善悪二分思考

まず、私の政治的な思想は善か悪かといえば、"ネットの"保守派を好きはしないが、それで私が即左派となるわけではないので、私は片方から見た「善」でも「悪」でもないこととなる。
"ネットの"という点では、左派も過激というより狭隘であるし、結局は私が"ネットの"という接頭語を冠して認識した後は、どちらの人にも好かない(特に左派はリアルであっても某党員や反アレのデモ集団など、公正に見えない)。
だがやはり、左右どちらか一方のみが正しいとすれば、正しい方を批判せずとも、そもそも信じない時点で必然的に「悪」になるのかもしれない。
だから、二分法でいえば、ただ一つの善に属さず、中道ぶるまいの私は「悪」となろう。

およそ異常な犯罪は、国内で誰が起こそうとも彼らの攻撃対象である「在日朝鮮人(チョン)・在日支那人(チャン)」といった観念的存在に挿げ替えられる。
これは、ニュース報道などの犯罪・事件のみならず、ほか異常行為や悪い性格、悪い発言などもまたそれらの観念的存在に置き換わるようである。
日本には1億を超す人々がおり、全体的な民度が他国と比較して良いといえば、統計にはそう表れているものの、画一的ということはないから、各々が異なる信条や習慣を持ち、価値観も趣味も当然、日本人がみな一緒ということもない。
それを、日本人は即「善人」とした上で、「悪人」とは総じては外国人、別しては在日朝鮮・支那人として、全くの個人レベルで大小の差異はあれ「悪人」とされる人が即「在日(略)人」とみなす。
とある悪人が生粋の日本人であるとしても、彼らの認識を介した観念的存在においては「在日(略)人」となる(ナチス・ドイツのアーリア人認定とユダヤ人認定並みに暴力的である)。

例:とある教団の老獪教祖

こう書く私の中3ネトウヨ時代はと言うと、苗字や顔立ちなどを材料に、よほどでもない限りは「在日(略)人」という断定を避けるような考えであり、いわゆる「在日認定」ということは短絡的で偏頗だからと自制をする傾向があった。
ここに感情的な要素が加わると、誰でも程度の差はあれ慎重な考えを維持する歯止めが利きづらくなってしまい、その「短絡的」と厭うたはずの状態に自ら陥りやすくなることもあった。

思想の偏向を嫌う現代性においては、日本の政権与党である自民党が「中道右派」を標榜するように、「中道・中庸」が好ましい立ち位置ではなかろうか。
「超党派」という表現も聞かれるが、政党というセクトの壁、派閥の枠を超し、イデオロギーに左右されず正しいことは正しく、また偏った思想を介在させず公平公正に分析したいときにこれを用いる。
国防にしても原発にしても社会保障にしても、右翼は右翼、左翼は左翼で相容れないことのみぶつけ合うのでは喜劇じみているから、正しいことにはそういう政党だとかのしがらみを超して、みんなで支持すべきではなかろうか(その点で某市議の姿勢は賛同できる)。
別の派閥や思想に属する者を全て、絶対的非難対象とし、あらゆる発言などを否定的に取ることは好ましくない(例えば私を憎んで私と同じ年代・出自・地位・血液型の人を憎まず、また元々私と同じ年代・出自・地位・血液型の人を嫌って私を憎むべからず、憎き坊主の袈裟を憎まず)。

続いて、あたかも「中道」であるような名前の「男女平等」が連想されるので、新保守の次は、これについて語る。





二. 中道もどき男女平等主義(フェミニズム)


2.1 概説

世間では、かまびすしく「女性が活躍する~」、「女子の~」といった華やかなフレーズが飛び交っているように見える。
これらは広義の「男女平等」に収まるようだが、実態を闡明しよう。

語義の釈、「男女平等主義」、一見すれば「平和主義」のような良い響きがありそうだが、英語の対訳を探すと、"Feminism"である。
性別区分に"M"と"F"があるが、この"F"は"Female"の略であり、ラテン語の語根でいえば"Fem"として、女性を意味する点が通じる。
要は、女性からの視点で物事を見たとき、女性の立場や地位が不満足である状況分析を前提として、現状の改善として女性の権限の拡張や待遇の向上を狙っていることになる。
その"Feminism"というフェミニン思想を「男女平等」と訳するところに第一の誤謬がある。
女性の視点から唱えた思想という、その前提を自ら打ち消すように、日本のフェミニストがこの訳語を唱えたのであれば、まず第一の問題である。

また、「女性の権限の拡張や待遇の向上」による男女平等の実現は、戦前などの昔なら女性の主権が男性に追いつこうとして平等を得るという点に一理あるも、今日ではほとんど平等か、仕方の無い性差はそれぞれあるのみで、これ以上望んではそれこそ、女性に偏重しかねない。
今の日本に望まれていることは何か。
障がい者などのバリアフリーのようなものであろうか。



所詮、人間が言うところの「平等」は、正しい理念(綺麗な理想)のもとならば実現など不可能である上、彼らフェミニストほか左翼らはそもそも誤った思考によって偽りの平等(後述)を謳っているに過ぎないから、平等の語を易々と使うべきではない。
日本語の「平等(びょうどう)」は、「平(びょう)」という呉音と、それに呼応した「等(どう)」という連濁で読む通り、その音韻が漢訳仏典・仏教(仏教建築の平等院鳳凰堂は有名)に由来する。
法華経の「平等大慧(びょうどうだいえ)」というように、仏様の力用・慈悲など、不可思議なる仏教・仏法のためにのみ用いる。

私はその上で、思想や生まれ育ちなどの隔たりを取り払った尊重主義を持っている。
私ほど酷烈な人生を歩んだ上で根性を曲げずにおり、真理を求める心が起これば、自ずとそういった理解や精神性が養われる。
今の世間上流による人権尊重の在り方は、一種の英知の結集かもしれない。
世間での差別とは、その理解や精神性のない差別者と被差別者がいて成立する。
外見が醜悪である・能力が劣る、そういった価値判断をし、醜悪で劣る者を個性として尊重できずに様々ないじめ(学校・職場)などで迫害し、またその被害者も広い心と理解を持たないため、卑屈になってしまい、悲観的になって自殺も有り得れば、そうでなくとも過激な下剋上を画策する(美容整形などもすさまじい自己否定であって愚昧・無知の所業)。
こう見れば、そういった人々が差別者や被差別者になってしまう事実は、相互の理解不足が一因として大きいし、今の生温い人権教育と、反対に差別を助長する合理的思想(1.2でいう将来の夢)の流布では子供たちの犠牲(自殺)も増え続ける。
現代人とはみな、愚かな集団にいて愚人に囲まれる愚人である。
愚かな子供のうちでは助かりようもないから、くれぐれも人間的な心を失わないで生き続け、その苦悩の中に、いつか私のような理解と精神性をどうにか得られることを願う。



2.2 日本左翼の欺瞞的平等主義

フェミニストに限らず、日本の左翼系で「差別を無くす・無差別・平等・人権」などと謳っている者達の大概が、真に平等や尊重を信念としてはおらず、「特定の層(性別・年代・出自など)が被差別の状態にある」という前提で、その層への差別を無くそうと訴えている。
だから、興味の外に対してはかえって嫌ったり卑屈になる傾向があることは、ネット上の左翼などが対立意見を言う者の論理と無関係な悪い面(事実無根で勝手な憶測のことも)を摘み上げて嘲笑するような、公平でも公正でもない詭弁を弄するところに彼らの差別意識が見え隠れする(無論この心理はネット上の右翼や政治ファンも同様である)。

被差別の原因となる要素を、特殊なものや劣ったものと思うところ(観念)に差別が生じやすいのだから、むしろ卑屈になって隠したり、逆に強く訴えるのではなく、みんなで善悪や優劣の区別(観念)を取り払い、個性として認めて尊重しあえばよい。
端的に言えば、彼らの人権屋の多くは、あらゆる存在の平等や尊重よりも、特定被差別層の擁護を目的としているから、それこそ偏屈な思想・差別意識の根源であると言わざるを得ない。
「これが好き・嫌い」という幼児思考の延長でしかなく、仏道修行者は須らく捨つべき執着でもある。
被差別者への擁護は構わないし、そういった活動も決して私は軽蔑せず、徳ある弱者救済の精神として尊重したいが、実際の彼らはみなどこかで誤りを生んでおり、それが一向に変わらない。

日本の左翼団体は押し並べて何らかの邪心を抱えているから、博愛精神のポーズだけをとって実際には、自分たちの利権を守ろうとするか、貪っているようである。
そのような陰謀の性質が強い左翼団体が、早い時期では戦前から、長年に渡って日本で暗躍してきた。

私は先1.1に「ストレート中道」と僭称した。
仏法を知らねば正しく中道に入ることは無かろう。
その私は右翼も左翼も尊重するし、正しい理念や信念があるならば共に語り合って何らかの命題に突き当たっていくべきであろうが、今のネット右翼たちの盲いる様や、日本の左翼全般のお為ごかしぶりを思えば、とても良い存在として認められ得ない。
このようだから、今のネット右翼の多くは、左翼的思想や反右翼発言が全て反日的思想もとい、全てが在日外国人(特定アジア系)・カルト教団(南北朝鮮系)そのものだと見誤ってしまう。
どちらも「社会をより良くしたい」、具体的に言えば国家や民衆が豊かに栄えるための方法を考えていく上で思想の異なりを二分に呼称した程度の概念であるのに、彼我が全く別離してしまった。

私の中道・尊重という立場の平等性について少し例を挙げる。
例えば、私が中国・韓国の文化などを褒めることがあるとすれば、それは異文化を尊重する延長線上の行為である。
これが主に右翼・極右のセクト主義やナショナリズムなどイデオロギーが強い人々には、聞くに堪えないことと思う。
また、多くの左翼系は特定の存在などを過剰に讃嘆するか擁護する一方で、それが侮蔑を受けるか何らかの侵害に遭えば過剰に反発する、というような極端且つ偏狭なもので、とても平等の語は当てられず、尊重の思想にも遠い。
そのような思想がこの例以外にも漏れなく言えてしまう。

この故に、日本の左翼系団体のいう「平等」という理念は、まったき欺瞞というほかない。
2.1の如く、平等の原意に基づけば、「平等」を人類が成し得ることは不可能である上に、一応それを理念・理想と見るにも、その理念・理想と乖離した偏狭な行為を続けている。

私の中道・尊重という立場は穏健であり、個人の心における平等の実現を支える。
完全な中道や中立性は有り得ないし、それをしようものならば人間の思想・社会的活動が大きく制限されるであろうが、それも程度を見ればよい。
何かの行動や発言の結果に、悪いことが起こるならば結果論であろうし、そうして行動の積極性と消極性とを巧みに操ることができれば、また中道というものである。
これは、結局、その個人の経験量や現在の実践に依存する。






2015年12月5日土曜日

2015年11月の「日記メモ啓発月間」後記

2015年11月中、本家ブログにおいて「日記メモ啓発月間」を敢行し、月間毎日メモの投稿という一大目標を成功裏に収めた。
メモ帳にて当月分のまとめ記事は作らないでおくことは、啓発月間を始めるに当たって悩んだわけだが、その過程で当記事「後記」との代替案が浮上し、これを採用した。



個性的なナンバー一覧

11月3日メモ・・・その日の面白い出来事を、書き下ろしイラストと共に解説している。
11月5日メモ・・・楽器(10月31日メモにある母の購入物)を試しに演奏したことと、その楽曲に関して音階なども書いている。
11月6日メモ・・・故郷埼玉のブランドに関連して、最近の全国事件に対する埼玉らしい立場や、県警の問題性など、自分の経験も開陳して詳しく語っている。
11月1718日両メモ・・・フランス語の音韻について、母への配達物から一考してある(メモ帳にこれをまとめて集成した記事がある)。
11月23日メモ・・・小さく散歩した記録が普段の日記メモのノリで綴られる。
11月30日メモ・・・最後の日、末尾にベタベタとリンクが張られている。

画像つきの日付→01 03 06 10 13 18 19 20 21 23 27 28 30



「メモ記入日の一覧」テンプレート・HTMLタグ

例月のまとめ記事では2015年7月分から「メモ記入日の一覧」を設け、更に同年9月分からは記事内の日付別のリンクを万全に付けるなど、閲覧の利便性を向上させた。
そこまで熱心にご覧の良心ある読者などいるわけはない、と思いつつこれを10月分でも続けた。

<b><span style="font-size: large;">メモ記入日の一覧</span></b><br />
<a href="#1">1</a> <a href="#2">2</a> <a href="#3">3</a> <a href="#4">4</a> <a href="#5">5</a> <a href="#6">6</a> <a href="#7">7</a> <a href="#8">8</a> <a href="#9">9</a> <a href="#10">10</a> <a href="#11">11</a> <a href="#12">12</a> <a href="#13">13</a> <a href="#14">14</a> <a href="#15">15</a> <a href="#16">16</a> <a href="#17">17</a> <a href="#18">18</a> <a href="#19">19</a> <a href="#20">20</a> <a href="#21">21</a> <a href="#22">22</a> <a href="#23">23</a> <a href="#24">24</a> <a href="#25">25</a> <a href="#26">26</a> <a href="#27">27</a> <a href="#28">28</a> <a href="#29">29</a> <a href="#30">30</a> <a href="#31">31</a> <br />

"#1"などは日付の位置に移動させるわけだが、当該記事のパーマリンク(固定URL)をその前に書かないと、Bloggerは勝手に無関係なユーザーページのURLを挿入してしまう。
「ユーザーページのURL」とは、"https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=(特定の数字列)"であるが、そんなことをするブログやHPサービスなどは、Bloggerくらいしか存在しない。
よって、当メモ帳では逐一当該記事のパーマリンク(固定URL)を"#1"などの前に挿入する手間をかけている。

ほか、この「日付の位置」を定義させるため、適切な箇所に1つずつ日付ごとのdiv idタグを貼る。
"1"とある箇所は、2、3、10、22などと日付に応じた名前を記入する。

<div id="1">
</div>